皇后は闘うことにした  林真理子  2025.8.28.

 2025.8.28.  皇后は闘うことにした

 

著者 林真理子 1954年山梨県生まれ。日本大学芸術学部を卒業後、コピーライターとして活躍。82年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーとなる。86年「最終便に間に合えば」「京都まで」で第九四回直木賞を受賞。95年『白蓮れんれん』で第八回柴田錬三郎賞、98年『みんなの秘密』で第三二回吉川英治文学賞、2013年『アスクレピオスの愛人』で第20回島清恋愛文学賞を受賞。18年紫綬褒章受章。20年には週刊文春での連載エッセイが、「同一雑誌におけるエッセーの最多掲載回数」としてギネス世界記録に認定。同年菊池寛賞受賞

 

発行日           2024.12.10. 第1刷発行

発行所           文藝春秋

 初出

綸言汗の如し                 『オール讀物』 2021910月合併号

徳川慶喜家の嫁              『オール讀物』 202212月号

兄弟の花嫁たち              『オール讀物』 20242月号

皇后は闘うことにした     『オール讀物』 20246月号

母より                         『オール讀物』 2024910月特大号

 

目次

²  綸言汗の如し

久邇宮邦彦(くによし)、妻:俔子(ちかこ)、第1王子:朝融(あさあきら)、妻:知子(ともこ)、第1王女:良子(香淳皇后)、第2王女:信子

1922年、宮代町の久邇家は、良子の皇太子妃決定に沸く。4年前に内定の御沙汰が下りる。最終的に決めたのは皇后。朝融が色覚障碍。三男にも色覚障碍が見つかり、島津久光の孫俔子に由来することが元老の山縣に伝わる。山縣は、天皇を祭り上げることには賛成しても、やたらと増え続ける宮家に対しては懐疑的。最後は総理大臣野原敬が乗り出し、宮内大臣の辞任で収まる

朝融は、妹信子の学友の酒井菊子(旧姫路藩主伯爵の娘)を見初め、勅許を得て婚約したが、すぐに疎くなり、良子のご成婚を待って婚約解消

菊子はやむなく近衛文麿の紹介で前年妻を亡くした加賀百万石の前田家当主利為(としなり)侯爵に嫁ぎ、幸せになるが、邦彦・朝融父子は悪逆非道と世間の非難を浴びる

朝融は、不祥事の解決に入った邦彦王の従兄弟伏見宮博恭王が不憫に思って自分の娘知子との結婚を申し出る。無事結婚して3人の子どもを設けるが、女中を孕ませてしまい、生れた男の子を農家の養子に出す

戦後、朝融は、久邇香水を販売、西落合に住む。知子は9人目を腹に宿したまま死去

前田菊子は、利為が戦死したあとも、マナーを教えてテレビにも出演

 

²  徳川慶喜家の嫁

徳川慶喜の嫡子(七男):慶久、妻:実枝子(有栖川宮威仁娘)、娘:喜久子は高松宮宣仁(のぶひと)妃、嫡男:慶光、妻:和子(松平容保の孫)

慶久死後、実枝子は御後室(ごこうしつ)様と呼ばれる。まだ40未満

有栖川家は、霊元天皇から伝わる有栖川流の書道を継ぐが、実枝子の兄にあたる嫡男が亡くなり、有栖川家が途絶えることから、娘喜久子に手ほどきをしていた

慶光を生んだ後、実枝子は結核と診断され、転地療養している間に、実家の侍女を慶久に差し出したところ、2人も女の子を作ってしまう。健康を回復して慶久の元に戻ると、夫婦喧嘩が絶えず、’22年慶久が急逝

慶喜の母は、有栖川家の出身。実枝子の伯父熾仁(たるひと)親王は皇女和宮の婚約者だったが、維新後慶喜の妹を妃にする。実枝子の縁談を勧めたのも熾仁親王

明治政府は、僧侶となっていた皇族たちを還俗させ、彼等が町の女たちに次々に子供を生ませ、宮家は11家にもなったため、嫡男以外の宮家継承や養子を禁止

喜久子を高松宮妃として、由緒ある有栖川家の祭祀を引き継ぐのがよかろうと言ったのは大正天皇妃。高松宮は有栖川宮の旧名。子が出来れば有栖川宮という名門は甦ると期待したが、子は出来ないまま

実枝子は、喜久子の嫁いだ後、次女の生んだ2人の娘と共に寂しく生きる

 

²  兄弟の花嫁たち

伏見宮邦家の息子(四男)が久邇宮朝彦、その長男が邦彦、弟の第8王子:鳩彦(やすひこ)、妻:允子(のぶこ、明治天皇第8皇女)、第9皇子:稔彦(なるひこ)、妻:聡子(としこ、明治天皇第9皇女)、明治天皇第6皇女:昌子、夫:北白川宮恒久(竹田宮家創設)、明治天皇第7皇女:房子、夫: 成久(北白川家当主)

久邇宮朝彦親王は、破天荒な人物で、寺に出されたが幕末に孝明天皇の信頼を受け還俗、公武合体派の立役者となるが、結婚せず、何人かの側室に次々に子を産ませる

江戸時代の宮家は、伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮の4家。格は5摂家の下公家の筆頭

鳩彦、稔彦の2人は、朝彦親王死後、長兄邦彦王に引き取られ、従兄の北白川宮成久王と一緒に陸軍幼年学校に入学、3人のために皇族舎が建てられた。そのまま陸軍士官学校へ

明治天皇は、側室園祥子(さちこ)に産ませた4人の内親王の嫁ぎ先として、いずれも明治20年生まれの皇族を考え、最初が北白川家の当主成久王で、2番目の房子内親王。次いで北白川恒久王と昌子内親王が婚約、竹田宮家創設が決まる。同日、鳩彦王と允子内親王の婚約、朝香宮家創設も発表。最後が少し遅れて稔彦親王と聡子内親王、東久邇宮家創設

稔彦は、結婚して5年経ち、フランスの陸軍大学校に入り、結局7年滞在。追うようにパリに来た北白川宮成久王は自動車事故で死去、同乗の鳩彦王も大怪我

稔彦は、大正天皇崩御でようやく帰国するが、夫婦仲は天皇も案じるほどだった

朝香宮允子妃が腎臓病で死の床についたのは昭和8年。宮妃はまだ42歳。鳩彦王の大怪我で允子妃がパリで献身的に看病、快癒して帰国した後、アールデコの虜になった允子妃が帰国後豪華な洋館を建てる

帝の娘という、日本で一番誇り高い女たちの夫として、自分たちはどうすればよかったのか。器量が悪い娘たちを押し付けられ、外に女を作るわけにもいかなくなり、ふうふなかもけっしてよくなかったが、逃げるしかなかったのかもしれない

 

²  皇后は闘うことにした

九条道孝の四女節子(さだこ、貞明皇后)が明治天皇の第3皇子嘉仁(嘉仁、大正天皇)と結婚。第1皇子:裕仁。第2皇子:秩父宮雍仁、妻:勢津子(鍋島侯爵の娘伊都子の妹信子の夫松平恒雄の娘)。第3皇子:高松宮宣仁。第4皇子:三笠宮崇仁(たかひと)

明治33年、節子は皇太子妃になるが、その時の新聞には、宮廷で厳然たる地位を持っていた下田歌子が、「是れと取り立てて申すべき花々しき御事などはなかりしが、未来の国母(こくも)として、些少だも欠点を有し賜ざる御方」と書いたのは異例の無礼だが、満20歳というのに華奢で体が弱く溌溂さのない皇太子の体調が宮中を一喜一憂させていたため

明治天皇には正妻に子供がおらず、側室に15人産ませたが、成長した男子は皇太子1人のみ。大事に育てられ、最初のお妃候補は伏見宮禎子女王だったが、器量はよいがか細く子供は産めないとベルツが言ったことから破談となり、健康第一に選考が行われ、「黒姫様」と呼ばれていた節子に白羽の矢が立つ

新婚直後、皇太子が鍋島侯爵の娘伊都子に一目惚れになったが、すでに婚約が内定していたにもかかわらず、のぼせ上ってちょっかいを出す

ほぼ1年後に無事男児出産。節子は、この日のために自分は選ばれたのだと確信し、次々に男児を生む。夫から愛されず、周囲も誰も認めてくれない、子どもを産んでもすぐに他家に預けられ、家族の団欒はない。鉄道と旅が趣味の皇太子はいつも1人で出かける

ついに節子は精神衰弱にかかる

下田歌子に、美子皇后が将来を節子に託したと聞かされ、以前よりも遥かに強靭な心を持つようになる。長男を除いては、息子たちの后を次々にすべて1人で決めた。もう誰にも口を挟ませなかった

 

²  母より

皇太后の秘蔵っ子と言われた秩父宮、皇太后の可愛がり方は格別。二・二六で青年将校たちが秩父宮を担いだのも、皇太后の希望だというのがその理由になったほど

療養先の御殿場は乙女峠を越えた箱根に出る途中で、井上準之助の別荘だったところ。500坪の農園で、本格的な農業に励み、一時小康状態を保つ

戦後、進駐軍からストレプトマイシンも届けられたが、秩父宮の身体は受け付けなかった

勢津子を指名したのは皇太后。平民の娘、会津藩主家の嫡男だった父松平恒雄は朝敵が華族に連なることはできないと、弟に爵位を譲っていた。勢津子は、父が駐米大使のときワシントンで、大正天皇崩御でオックスフォードから帰国する秩父宮に1回会っただけで、その10カ月後結婚を申し込まれる。会津魂を籠めて名を節子から勢津子に変える

良子女王で懲りた皇太后が、次からは自分で決めると言って選んだのが勢津子

だが子供は出来ず、秩父宮も死去。その直前皇太后も狭心症で急逝

 

あとがき

34年前に初めて歴史小説『ミカドの淑女(おんな)』を書く。明治天皇と皇后に仕える下田歌子の半生を描いたもの。その時読んだ資料が面白く、爾来皇族や華族に関する本を集め、貪るように読んだ

特に貞明皇后の魅力、勢津子妃の素晴らしさについて伝えられたら幸い

 

 

 

 

 

文藝春秋 BOOKS

今も昔も、結婚は「始まり」に過ぎない――

あらすじ

「好きでもない女と結婚するのは絶対に嫌だ」「自分たちは宮家に生まれて、あれこれ苦労した」「あの女王さまでは、子どもをお産みになることは出来ないでしょう」――
 
 さまざまな立場に葛藤する皇族を描いた5つの短編には、読む者を圧倒する心の内が綴られる。これまで描かれたことのない、衝撃の短編集。

 妹の友人に恋焦がれ、ようやく結婚目前まで漕ぎつけた久邇宮朝融王は、彼女にまつわるある噂を耳にし、強引に婚約を破談にした。その後、別の宮家の子女と結婚したものの……(「綸言汗の如し」)

 徳川家の若き未亡人・実枝子は、喧嘩の絶えなかった夫・慶久が妾との間に遺した子に愛情を注げず苦悶していた。思い起こせば、あの頃は本当に幸せだったのに。(「徳川慶喜家の嫁」)

 まもなく結婚の沙汰が下るのではないかというある日、久邇宮家の息子たちは声を潜めて話していた。「内親王はご免こうむりたい」——(「兄弟の花嫁たち」)

 九条家の子女・節子は15歳の時に嫁いだ。のちの大正天皇の后(貞明皇后)である。夫は妻を顧みないにもかかわらず子ばかりが生まれ、節子は悲しみに歯を食いしばる。(「皇后は闘うことにした」)

 貞明皇后の秘蔵っ子・秩父宮に嫁いだ勢津子もまた、皇后によって選び抜かれた秘蔵の嫁だった。だが、2人の間に子はできず、秩父宮も病を得てしまう。(「母より」)

 

 

 

産経新聞

「作家の特権」で皇族の物語に血を通わせる 林真理子さん新刊「皇后は闘うことにした」

2025/1/8 07:30 村嶋 和樹

「ノンフィクションだと思われるのは困りますが、歴史的な事実をきちんと調べた後は、密室の中のこと、心の中のことは作家が自由に書く特権があると思って書いています」。作家の林真理子さん(70)の新刊『皇后は闘うことにした』(文芸春秋)は、近代の皇族たちを主人公に据えた短編小説集だ。幼少期から家族と分離され、男女を問わず縁談に人生を左右される「特殊な世界」を、練達の筆致で血の通った物語に仕上げた。

〝皇族フェチ〟を自称する林さんの原点は「ミッチー・ブーム」だ。保育園時代に目にした、上皇后さまのご成婚パレードに夢中になったのがきっかけだったという。

「幼心に、こんなに美しい方がいらっしゃるというのにショックを受けて。保育園の庭で車のおもちゃに友達を乗せて、美智子さまごっこをやっていました」

今作では、皇室に大きな変革が起きた明治維新後の皇族たちの姿を描く。

江戸時代までは伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の4つの宮家のみが継承されていたが、皇族確保の観点から伏見宮系の宮家が相次いで創設。一方で、伊藤博文や山縣有朋といった維新の元勲たちは皇族の数の急増に懸念を抱いており、新たな宮家は政治的な緊張関係の落とし子でもあった。

「現代でも旧宮家の皇籍復帰の議論が起きていますが、まずそもそもの経緯を知らない人が多いのでは。国民の皇室に対する好感度は高い一方で、そこがいびつな状況を生んでいると思います」

若き皇族たちが縁談に翻弄される人生を受け入れて生きていく中で、表題作「皇后は闘うことにした」の主人公である大正天皇の后、貞明皇后(九条節子)はひときわ大きな輝きを放つ人物として描かれる。

節子は五摂家の一つ、九条家に生まれながら農家に里子に出され、健康的に日焼けした「黒姫さま」と呼ばれていた。昭和天皇をはじめ4人の皇子をもうけるが子供たちと引き離され、自身を「貴い黄金色の玉子を産むニワトリ」と感じ精神に変調をきたす。しかし、明治天皇の后、美子皇后から自身にかけられていた期待の大きさを知り、わが子の妃選びに口を挟ませない強い心を持つ人物へと変貌する。

「私にとっては、貞明皇后は明治維新の安定の象徴。政権が代わって混沌としていた明治が、4人の皇子が生まれ大正に入ってようやく安定する。調べれば調べるほど、貞明皇后のお力は大きいなと」

大正期に花開いた文化についても、「わりと言いたいことが言える、良い意味で女性的な文化だった」と感じるという林さん。「大正生まれの私の母親も、『一番楽しかったのは大正の終わりから昭和の初期だ』と言っていました。子供のための本や歌がいっぱい作られて、中産階級が成熟した時期でもあった」とみている。

現代の皇室でも、女性皇族が果たしている役割の大きさを痛感している。「戦後は美智子さまがスーパースターで、今は愛子さまの人気がすごい。皇室の人気を左右するのは、女性の方々ではないでしょうか」

林さん自身も令和4年に母校の日本大の理事長に就任し、「大学の顔」として記者会見などに臨む機会が増えた。

「私の場合はたいそうなものではないんですが、やはり責任ある立場は大変だなと。現代の皇族方も、本当に国民のために、たとえつらいことや理不尽なことがおありでも、ちゃんと責任を全うしようという方々だと思います」(村嶋和樹)

 

 

 

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