奇才・勝田重太朗の生涯 千野境子 2025.8.23.
2025.8.23. 奇才・勝田重太朗の生涯 近代日本のメディアを駆け抜けた男
著者 千野境子 横浜市出身。早稲田大学第一文学部ロシア文学専修卒業。1967年、産経新聞東京本社編集局に入社し、夕刊フジ報道部、本紙外信部などを経て1987~88年にマニラ特派員、1990.7.~93.2.までニューヨーク支局長。帰国後は95年7月まで全国紙初の女性外信部長を務め、96.2.~98.7.までシンガポール支局長兼論説委員。その後は論説委員専任を経て2005.4.~08.6.まで全国紙初の女性論説委員長兼特別記者。この間、取締役(正論・論説担当)も務めた。またインドネシアを中心とする東南アジア報道により、1997年度ボーン上田記念国際記者賞受賞した。 現在の肩書は客員論説委員、フリーランスジャーナリスト。主な著書に『アメリカ犯罪風土記』(現代教養文庫)『ペルー遙かな道』(中公文庫)『明石康 国連に生きる』(新潮社)『インドネシア9.30クーデターの謎を解く』(草思社)『日本はASEANとどう付き合うか』(同)『戦後国際秩序の終わり』(連合出版)『独裁はなぜなくならないか』(国土社)などがある。また近著に『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(同 第68 回「青少年読書感想文全国コンクール」課題図書)がある。
発行日 2025.7.20. 初版第1刷印刷 7.30. 発行
発行所 論創社
はじめに
3年前に勝田の資料を手にして、自分の入社した新聞社の社長だったことに興味を持ったが、同僚・先輩に聞いても誰1人勝田の名前を聞いたことがなかった
社長就任の昭和30年は、西独のNATO加盟を機に、ソ連と東欧7か国がワルシャワ条約機構に調印、一気に米ソ対立が激化。国内では自民党による55年体制スタート
産経新聞にとっても、東西両本社制となり、大手町に産経会館竣工。大阪で誕生した『産経新聞』の創業者・前田久吉は東京進出が夢で、'50年東京で印刷開始。経営危機に陥った福沢諭吉が創刊した『時事新報』を吸収し、『産経時事』と題号を改称
第一章
始まりは朝鮮『京城日報』受付係
l 満蒙熱に浮かされ故郷長野を出奔
勝田は、1887年長野県吉田村(現長野市吉田)の生まれ。長男で妹が1人。父は、『信濃毎日』の社長や衆議院議員だった地元の豪農・小坂善之助一家(孫の徳三郎が信越化学社長)と親しく、ことあるごとに小坂一家を支え、後に信濃毎日に就職、東京支社長に
1903年、重太朗吉田村を出て、近衛騎兵上等兵から日大へ、’13年卒業と同時に朝鮮へ
日露戦争勝利に湧く日本で起きた満蒙熱に浮かされ、蒙古王を目指す。家から大金を持ち出し、京城へ。そこで目にしたのが『京城日報』の社員募集広告。同紙は、初代韓国統監伊藤博文が創刊した朝鮮総督府の機関紙で、新聞の経営を委嘱されたのは『國民新聞』の徳富蘇峰。社長に直接会って蒙古行きの支援を頼もうとしたが、父親と面識ある専務理事に無謀を諭され、逆に入社を勧められる
徳富も勝田を気に入ったようで、勝田が産経新聞社長になった際に著した回想録『新聞に生きる 落第記者から社長まで』に寄せた序文では、「現代新聞界の奇才なり。40年前余によりて新聞人たる洗礼を授けられたるもの」と書いた
l 桜島噴火で『京城日報』受付係を卒業
'13年、京城日報に入社、受付係となる
‘14年、桜島の大噴火(溶岩の流出で大隅半島と陸続きに)で義援金を受け付けるが、地元の有力者を回って多額の寄付を集めた功績から、重役秘書に抜擢
編集局長は高山(のち大山に改姓)覚威。『中央公論』の名編集者から『國民新聞』に入る
l 徳富蘇峰に直訴し釜山支局長に
蘇峰への直訴が功を奏し、目をかけられ、釜山へ赴任
競合紙の『釜山日報』社の火災にあたり、活字などの資材を提供し、信頼を得る
l 中野正剛に一喝され、記者失格
大臣のインタビューに単身乗り込んだが、新米として相手にされなかったのを、敏腕の中野正剛に助けられ、彼のインタビュー記事の骨子をもらって署名記事にして事なきを得たが、中野から「記者失格」と言われ、社内で広告部門へ異動
l 「元祖」記事広告の生みの親
広告取りの営業に転じ、会社の記事広告を思いつく。鉱山売却の広告を依頼され、現場の視察記を書いて記事広告を記載、売却に成功して、例月の広告収入の2.5倍のお礼を上乗せされた広告料を獲得。奉天の満洲総局設立にあたり、初代総局長に抜擢されたが、父に呼び戻され、『新愛知新聞』(現中日新聞)の東京支社長となる
第二章
帰国後、いきなり『新愛知』東京支社長に
l 父親のコネで新愛知新聞社に入社('16年)
1888年、大島宇吉が廃刊になっていた新聞『無題号』を復刊したもの。大島は、名古屋出身の自由民権運動家で、『新愛知新聞』を全国有数の地方紙へと発展させ、戦時下ではライバルの『名古屋新聞』と合併し、『中部日本新聞』(現中日新聞)となる
勝田の入社の2年前に主筆となったのが桐生悠々(本名政次)、爾来薫陶を受ける
桐生は、『信濃毎日』の主筆そして知られたが、乃木の殉職批判と、シーメンス事件での山本権兵衛政友会内閣総辞職批判で、特に後者は『信濃毎日』の小坂社長が政友会だったため、取締役社長と袂を分かって辞職、『新愛知』に入社
l 大島宇吉の野望と重太朗に与えた4つの使命
入社当日、勝田が大島から云われたのは、いずれ中央紙とするための礎作りとして、①通信網の拡充、②新聞界の情報収集、③広告収入の増大、④新聞製作のための資材調達
先ず、新聞社の経営の重点だった広告に注力
l 大手広告主からボイコットに遭う
'19年当時の新聞広告の最大手は丸見屋のミツワ石鹸と伊東胡蝶園(後のパピリオ化粧品)
戦後の好景気に沸き、広告料の値上げ交渉が始まるが、勝田は先陣を切って丸見屋に申し入れをしたため、逆に切られてしまい、他社にも波及。大ピンチに立たされたが、1カ月後には漸く値上げ要求が受け入れられ、以前以上の実績を上げる
広告収入と新聞のページ数の増大が比例して、新聞業界が活況を呈す
l ラジオの研究と実験放送を援護射撃
新媒体と電波媒体との協働の気配すらなかった時代に、勝田は『新愛知』で、ラジオ放送事業の幕開けに関わる。1889年長野生まれの苫米地貢(みつぎ)が、無線電話放送に興味を持ち、逓信省に働きかけて、「無線電話研究所」を設立、勝田が管理していたビルの店子で入って来たのが縁で、勝田は積極的に支援。’22年ラジオが完成すると、『新愛知』に公開実験放送実施の依頼が来て、桐生の口添えで実験を行うことになる
'26年、日本放送協会NHKの設立で実を結び、苫米地も'46年まで幹部として在籍
l ジャーナリスト、桐生悠々の薫陶と親交
'24年、桐生が『新愛知』を辞めて『信濃毎日』に戻るまで2人の交遊は続く
第三章 関東大震災で焼け落ちる帝都の新聞各社
l 猛火にも超然の電通創業者、光永星郎
関東大震災の余震に脅える中で、父が宮城前に避難しろとアドバイス。3時ごろから黒煙が上がり始め、窮地を脱する。電通本社も猛火に包まれ、社長の光永が見守る
光永は、’06年日本電報通信社(後の電通)を創業
震災後は、尋ね人から業務移転、再開などの広告が殺到、非常時こそ新聞や通信社が率先して使命を果たさなければならないと、光永から教えられる
l メディアの命運も勝ち組と負け組
在京新聞各社の受けたダメージは計り知れず、第1次大戦後の好況に沸いた新聞社の状況は一変。18社中15社が本社屋を喪失、残り3社も送電ストップなどで印刷不能に
再建に奔走するが、メディアの勢力図は激変。大阪資本をバックとする『東京日日』(後の『毎日』)や『東京朝日』が業績を伸ばす
電話網は途絶したが、情報の拡散に貢献したのは電信。新設の福島県磐城無線局から世界に情報がもたらされ、異例ともいえる多大な救援物資や巨額の義援金のきっかけとなる
l 世界行脚を目指し『新愛知』を退社
'25年、東京支社長で10年経ったのを機に退社して、外国の新聞広告ビジネスの実態を知るために世界行脚を発起するが、胃潰瘍が発覚、外遊は朝鮮半島に変更
l 広告業界へ転身、弘報堂常務となる
広告代理店業の草分けで三菱財閥系の弘報堂(現日本廣告社)からの誘いで常務に就任。同社常務の盟友浮田永太郎の誘いだったが、その死に遭って退職
l 請われて再び『新愛知』へUターン
'27年、大島から東京進出の決意を固めたのでその経営を任せると言われ、復社を決断
l 新聞社の買収に東奔西走する
最初が『萬朝報』の買収工作。三面記事という語の生みの親の大衆人気紙だが、日露開戦を巡って社内が分断され、大震災で存亡の危機を迎え、救済話が大島に持ち込まれたが、すでに死に体に近く、買収は断念
『東京毎日』の買収も、金銭面で折り合わず断念
l 編集体制強化のための記者引き抜きにも邁進
買収工作以外にも、名古屋本社編集局の陣容強化に奔走したり、政友会所属だった大島の命令で、政界にも接近。特に田中義一内閣の対中強硬外交を実質的に仕切っていた外務政務次官の森恪に接近、その手足となって働いた
l 満蒙ブームに乗って満蒙軍事博覧会を企画
‘32年勝田は、『新愛知』主催で満蒙軍事博覧会を企画。もともと乃村工藝社の考案、名古屋第三師団内で開催。勝田が後援各社を糾合。因みに、名古屋の前に開催された大阪での博覧会を主催したのは後に『産経新聞』を創刊する前田久吉の『夕刊大阪新聞』
l 地方紙を糾合し『日本新聞聯盟(4社連合)』を設立
'30年、不況脱出策として勝田は、北海道・東北・中京・九州各地域を代表する4社(『北海タイムス』、一力の『河北新報』、『新愛知』、『福岡日日』)の業務提携として連合設立を呼びかけ。他にも同様な動きがあり、資本力のある『朝日』『毎日』が勢力を拡大する中、地方紙が生き残りをかけて、勝田の顔の広さと人柄が協調性のない新聞社をまとめあげた
第四章 徳富蘇峰の『國民新聞』を買収、初めての社長業
l 根津嘉一郎と初会談するも決裂
'32年、友人を通じて紹介された根津から『國民新聞』の経営引き受けを打診されるが、勝田は2君に見えずといって辞退
l 根津自ら電話を寄越し、話し合いを再開
'26年に経営支援に入った根津と徳富が対立、’29年に徳富が去り、根津が持てあましていた。1年にわたる交渉の結果、’33年『新愛知』による買収成立。勝田が社長に就任
l 『國民新聞』の刷新に乗り出す
新出発に際し、軍事国防と大陸進出に重点を置き、編集局を再編。退職した中には、『國民新聞』で名社会部長と謳われた、後の日本野球連盟会長となる鈴木龍二がいる
編集方針を軍事国防に重点を置いた結果、軍部との往来が増え、陸軍少将が取締役に迎えられた。軍の御用新聞になるつもりはなかったが、結果として国家100年の計を誤らせたという悔恨の情に堪えない、とは勝田の正直な気持ちだろう
l 短かった代表取締役の椅子
『國民新聞』の凋落と、併せて関連組織の使い込みが発覚して責任を取る形で勝田が身を引く。在任は2年余りで終わる。後任は陸軍中将の壱岐守治
第五章 化粧品や出版と企業の助っ人にも引っ張りだこ
l 実業家、小林一三にアイディアを提供
知人の松根宗一の依頼で化粧品会社レートの相談相手に。松根は電力連盟書記で、勝田より10歳した。妻と同じ宇和島藩出身の関係。日劇の経営を引き受けた小林一三がビルの一部をレートに賃貸したが、立地を生かし切れていないので、勝田のアイディアに期待しての依頼だった
l 本邦初の婦人倶楽部を作る
勝田のアイディは、美容院に婦人倶楽部というサロンを併設し、雑誌『近代女性』を発刊するというもので、予てより婦人のための倶楽部の構想を持っていた小林一三が興味を示し、支援を約束。'38年、本邦初の婦人倶楽部「東京婦人会館」誕生。小林が顧問、常務理事は村岡花子。大東亜戦争勃発により閉鎖。戦後の'55年、産経新聞創業者前田久吉の東京産経会館で再出発し、カルチャー・スクールの草分けである産経学園へと発展
l レート化粧品、理研コンツェルンと次々助っ人に
勝田はレートの化粧品事業にも関与、特に文豪などに依頼して記事広告を載せる
l 出版社の立て直しも
経営難に陥っていた科学主義工業社の立て直しにも取り組む。理研コンツェルンの1つで、総帥である大河内正敏からの依頼
'40年、大島逝去に伴い、後継社長の孫から懇請され『新愛知』に復帰
l 新聞統制時代下、『新愛知』に3度目の復帰
新聞統制が既に始まり、当局は用紙制限などの制限に加え、地方紙の整理統合に乗り出す
最初は販売の統制。'37年、『報知新聞』社長の三木武吉が共同販売を提唱、共販の組織が作られ、新聞統制の基礎となる。開戦により言論統制開始。日本新聞会が統制
’42年、1県1紙が決まり、名古屋では『新愛知』と『名古屋新聞』が合併
l 名古屋新聞との合併に汗、中部日本新聞を生む
全国地方紙の1位(新愛知)と3位(名古屋)の合併は、全国の新聞統合でも最も難題とされ、県警察部長の調停でようやく合併に合意。日英同盟廃棄をスクープした伊藤正徳が社外重役の1人に就任し、勝田とも縁を持ち、戦後は時事新報社長や産経新聞主幹を務める
その後伊藤は、編集局長から専務・主筆となるが、終戦の2カ月後退社
新会社の発足を見届けると、勝田は辞職して東京に戻る
l さらなる合併『東京新聞』の誕生
勝田は、『國民新聞』と『都新聞』の合併にも取り組む。政治・論説中心で経営難にある『國民新聞』と、社会・文化に特色を持ち経営も安定していた『都新聞』では、交渉も難航
日本新聞会の調停で、新たに『東京新聞』として再出発
‘44年、大島社長の懇請により、四たび『新愛知』に復社。印刷機の疎開を担当
l 終戦、辞表を提出
戦時中の重役は、一先ず退任すべきと進言し、率先して辞表を提出。東京に戻るが、家は空襲で焼失。防空壕から勝田の戦後が始まる
第六章 戦後の夕刊紙ブームに『名古屋タイムズ』を創刊
l 新役員体制の下で相談役に就任
終戦で役員人事が一新され、勝田は慰留されて相談役に就任
l 碁を打ちながら夕刊紙創刊のアイディア
戦時下で新聞社は55社に激減、減頁を余儀なくされ、終戦時はわずか2頁がやっと。人々は活字に飢えていた。GHQにより用紙割当制度が一新され、内閣府の委員会が配分を決めるが、『名古屋タイムズ』を創刊した勝田も新興紙の代表として委員を委嘱され3年在任
用紙の目途が立ったことで、各社とも新たな新聞発行を大義名分に、用紙確保に奔走
新刊の場合は全国一律とされたため、全国で申請が50社に上る
勝田は、まだ夕刊紙が名古屋になかったことから、新たな夕刊紙の発行を提案
既刊の『東京タイムズ』の岡村二一(同盟通信で活躍、勝田と同郷の後輩で信州人繋がり)の勧めもあって、『名古屋タイムズ』の創刊が決まり、勝田が社長に。社団法人とし、7万部の割り当てを受け、地元に根差した大衆紙を目指す。(平成まで存続)
l 名古屋の街に『名古屋タイムズ』
‘46年創刊。夕刊紙に懐疑的で敬遠した販売店を経由せず、街頭販売でスタートしたが、評判は上々。即売夕刊紙は、新聞と読者の距離が宅配新聞より近いのが成功の原因
l 夕刊旋風、続々発刊
戦後の新聞界は、ある意味で「夕刊紙の時代」。名古屋はとりわけ顕著で、朝日・毎日も復帰。全国紙も一斉に夕刊を発行、本格的な夕刊競争に発展、統廃合も進む
'49年、軌道に乗ったところで勝田は退任
l 駐留米軍も出動した東宝争議にもお呼びが
東宝は、’32年小林一三が設立した東京宝塚劇場がルーツ。戦後は進駐軍のアーニー・パイル劇場と改名。砧撮影所が共産党の活動拠点として目を付けられ、組織を拡大し、'46年の賃上げ闘争では勝利。さらには労働協約の存否を巡り対立が激化
l 新東宝ヒット作《三百六十五夜》を製作
以後2年にわたり第3次争議まで続く。人員整理に反発した労組によるストライキ・撮影所占拠、会社側は閉鎖で応じる。会社側の資産保全の仮処分執行には進駐軍戦車まで動員
第3次早々に、勝田は松根宗一から撮影所所長に懇請され、製作部門の社長を引き受ける
‘48年、共産党員の自主退社と会社側の解雇撤回をバーターに労使交渉妥結。勝田も退任
在任中、友人の小島政二郎原作《三百六十五夜》を、東宝から離脱した有志が立ち上げた新東宝で映画化(監督市川崑、主演上原謙・高峰秀子)。大ヒットとなる。松竹が高額の原作料を嫌って断念したものを、小島が勝田の社長就任祝いとして映画化権を無料でくれた
第七章 『信濃毎日新聞』副社長から信越放送を創業
l 故郷・信州に帰る
'49年、長野に戻った勝田は小坂順造(1881~1960、善之助の長男)と出会う。隣村同士
l 信濃毎日新聞社と小坂家
『信濃毎日』は、1873年創刊の週刊新聞だった『信濃新報』が起源。’80年日刊紙に
民権運動の活発化と共に新聞競争も激化、発行休止を繰り返したが、穏健派の『信濃日報』を小坂家が引き継いで出資を募り共同経営に変え、『信濃毎日』として’81年再スタート
以後現在に至るまで、小坂家が代々社長を独占。オーナー色の強い朝日と業務提携
l 小坂順造に『信濃毎日』の立て直しを請われる
『信濃毎日』の左傾化に手を焼いていた小坂が勝田に懸念を伝えると、勝田もGHQが目を付けているとの話を伝える。小坂は朝日新聞の町田梓楼と勝田に、日本の3大赤新聞と言われるほど非道い偏向を示した『信濃毎日』の立て直しを要請
l 副社長として『アカハタ』の目の敵に
‘50年、役員が総退陣し、町田社長兼主筆、勝田副社長体制がスタート
松本で夕刊を印刷し南信対策とし、上越の頸城3郡への拡販を進める
新聞などの民主化推進のため、容共政策を取っていたGHQが右へと急旋回。人員整理には労働協約がネックとなったが、地労委の和解勧告もあって妥協
l 信越放送設立に情熱を傾ける
'50年、電波3法施行に伴い民間放送に道が開かれ、全国の有力紙がこぞって申請を急ぐ。電通の吉田秀雄に発破をかけられ、その助言を得てすぐに動き、県を挙げての協力体制を敷き、翌年には勝田を社長として信濃放送を設立、最初の20波に参入を果たす
l 信毎副社長を辞任、退路を断ち放送事業に専念
'52年、日本で8番目の民間放送として本放送開始。民間トップは前年の中部日本放送と新日本放送(現毎日放送)、次いでラジオ東京(現TBS)
放送開始直後に電波が新潟県まで届いていることもあって、社名を信越放送に改称(コールサインJOSR、略称SBC)
朝日新聞が、自社ニュースの提供を条件に、信濃毎日と対等の支援をすると約束
'54年までに松本、岡谷、飯田と中継放送局を新設、広範な山岳地帯に放送網を張り巡らす
第八章 福澤諭吉の『時事新報』再建に白羽の矢が立つ
l テレビ放送に先見の明を示す
放送開始目前の正月、勝田は「近い将来テレビ放送を開始し、本社で経営する」と宣言
勝田は、昭和初期犬養内閣の書記官長森恪に、NHKでの広告放送を持ち掛け、元逓信次官と大喧嘩したことがあり、電波広告実現のために奔走
‘53年には、NHKがテレビ放送開始。信越放送の免許申請はその4カ月後
l またまた助っ人に白羽の矢が
'55年、勝田に次の話が持ち込まれ、急遽会長に祭り上げられる
l 吉田茂と小坂順造に見込まれる
勝田に、経営危機に直面していた『時事新報』の再建の話が持ち込まれる
吉田と小坂は、浜口内閣の外務事務次官と拓務政務次官の間柄で親交があり、『時事新報』再建を頼まれた吉田が小坂に相談、小坂の推挙で勝田にお鉢が回ってきた。大阪から東京に進出し、東京での印刷開始からまだ5年という産経新聞の前田久吉が会長に退き、後を勝田に任せることに
l 時事再建の経験者、前田久吉はどう対処したのか
苦境にあった時事に対し、東京進出の機を窺っていた中日から合同の話が持ち掛けられたが、時事は前田に合同を持ち掛ける
時事新報のファンだった吉田首相が、'53年には参院選で初当選を果たした前田を通産大臣に起用しようとしたが、前田は新聞で大成したいと言って断ったという
l 『時事新報』浮沈の歩み
『時事新報』救済には、政財学界のあらゆる人が動く。’82年福澤が「独立不羈」を編集方針に創刊。東京の5大紙の一角を占めたが、福澤の死後'05年大阪進出に失敗し経営の重荷を背負う。そこに関東大震災が追い打ちをかけ、経営難に陥る
‘32年、鐘紡から衆院議員になり引退した武藤山治が再建に乗り出し、政官財癒着追放キャンペーンで人気を回復したが、'35年狙撃され死去するとまた不振に
『大阪毎日』の主筆高石真五郎に再建が持ち込まれたが、高石が前田を推薦。前田は慶應どころか小学校卒、'33年に『日本工業新聞(産経の前身)』を創刊したばかりだったが、再建に奮闘し立ち直りかけたが、1年後の増資提案に株主総会の慶應義塾関係者が反対し、新聞は解散。結局『毎日』が引き受けることになり、前田の役割は終わる
l 『時事新報』復刊へ前田の再挑戦
'46年、福澤の直弟子で『時事新報』の元主筆だった慶應大教授板倉卓造が中心となって、前田の支援もあって復刊を果たしたが、前田はすぐに公職追放に
'50年、追放解除により、前田は『大阪新聞』と『産業経済新聞』の社長に復帰
'55年の『時事新報』再建は、前田にとって2度目の挑戦
第九章 産経新聞東京本社社長として
l 新入社員の入社式に姿を見せない社長
欠席の理由は不詳
l 『産経時事』の誕生
'55年、『産経』が『時事』を吸収する形で合体、『産経時事』として生まれ変わる
吉田は喜んだが、『産経』の地元大阪では不評で『産業経済新聞』に変更、‘58年に『産経新聞』で東西統一。題号からも『時事』は消えたが、会社としては2024年まで存続
l その時、旧時事新報社員たちは
旧社員は、板倉会長の取締役主筆と伊藤正徳社長の取締役主幹はそのままだが、他は一旦退職して産経に再雇用され、2階級降格
『時事』の看板企画だった吉田茂の回想録『思い出すまゝ』を吉田が突然「当分休む」と言い出して出来た穴を埋めたのが伊藤の『連合艦隊の最後』で、合併後も存続
前田を合体へと突き動かした最終的な要因は何か。表向きは、板倉・伊藤といった学識の高い人を経済的苦労から解放してやりたいと言ったが、本音は一旦「解散」させてしまったことへの悔悟や拘りではなかったか。全国紙の経営者として評価されたことは間違いない
l 東京産経社長・勝田を巡る評判
勝田の産経での役割は、前田が手を焼いた労働争議への対応と広告面の強化
勝田と前田は長年の友人だったが、勝田が中日新聞出身で大島とも近かったこともあり、前田は手の内を明かさず、必ずしもうまくいっているわけではなかった
l 『憲政秘録』を級友山田米吉の計らいで出版
‘56年、合併を終えた勝田は信越放送の社長に復帰
'60年、国会開設70周年を記念して産経新聞出版局から『憲政秘録』を出版。国会図書館憲政資料室が編纂、編纂委員長は初代館長の金森徳次郎。山田集美堂社長の山田米吉が企画・発行人。山田と同郷だった勝田が社長時代に産経での出版を申し入れ実現。信州人の結束の固さがここでも健在。両者の親密な協働関係は本書の出版以外にも多数見られる
l “広告の鬼”吉田秀雄との座談会
勝田の産経時代の活動として、吉田と朝日新聞出身の新田宇一郎との鼎談「廣告進化論」があり、勝田自らの広告観を語っている貴重な記録
その中で吉田は、「広告宣伝活動というものは広告効果や宣伝効果という抽象的なものを対象として行われる活動なので、理想を持たなければならないと同時に、お互いの思考なり行動に1つの基準を持たないと、商業道徳的な意味における間違いが起こりやすい。共通の理想を持たないと行動が堕落しやすい。広告を論ずる場合の最大のポイント」と語る
l 産経社長を去る
前田も、’58年産経社長を国策パルプの水野成夫に譲り、’59年には会長も辞任して参院議員になるが、前年に関西テレビ、大阪放送を設立して社長となり、東京タワーも開業
勝田は、社長退任後も’60年までは取締役や監査役で残る。監査役では、徳富の推挙で『國民新聞』から『信濃毎日』の主筆に転じた山路愛山の息子久三郎と肩を並べる
第十章 帰りなんいざ、信越放送社長に復帰し軌道に乗せる
l テレビ放送開設を誓う
'56年、信越放送社長に復帰。テレビ放送開設に向け奔走。前任の野澤隆一が水野成夫の要請で、聖パウロ修道会をルーツとして発足したばかりの文化放送に転じた後釜
初めて訪米し、テレビ・ラジオ放送事業をつぶさに視察
l 美ヶ原高原(王ケ頭:おうがとう)に送信所を作る
'57年、郵政省から美ヶ原山頂に親局11チャンネルの割り当てを受け、翌年放送開始
半年前にNHK長野放送局がテレビ放送を開始
美ヶ原は、その後テレビ塔が並ぶ電波銀座に
l テレビ放送始まる
‘58年、全国では11番目の開局
l 創立10周年と小坂順造の死
「業界の渡り鳥」にとっての「最後の職場」
'60年の信越放送創立10周年記念事業のトップは、長野県学校科学教育奨励基金
『10周年史』の「信越放送前史」は、あたかも個人史のように放送を巡る勝田の物語に終始
‘60年、小坂順造死去、享年79。民間放送の生みの親
l 私人としての勝田重太朗
娘2人。1人は夭折。もう1人も癌で'61年死去、享年46
'61年、藍綬褒章
饒舌の人ではなかったが、頼まれたら嫌とは言わず、引き受けてやり遂げるのが流儀
l 勝田の勇退、石原俊輝へのバトンタッチ、そして・・・・・
'64年、信越放送の新社長に勝田の推薦で石原就任。石原は朝日新聞経済部で一緒だった小坂徳三郎に誘われて、’51年『信濃毎日』に入社。’61年常務を退任後日本科学技術振興財団に転じ、東京12チャンネルの開局準備にあたり、民放連の副会長も務めていた
‘65年、勝田は信越放送を退任。勲二等瑞宝章
l 老後なき人生、メディアを駆け抜けた
文化人でもあり、俳句や義太夫、囲碁
親戚から嗣子を迎える
‘67年、心不全で死去、享年81。退任からわずか2年半。密葬にはマスコミ界の主だった顔触れが勢揃い
あとがき
勝田の仕事と人生の軌跡を通して感じるのは、揺るぎないまでの強靭な楽観性。とにかくやるんだ。ダメならやり直せばよい
生成AIなどの進展で紙媒体の退潮は逆流させようもない流れと化し地方紙や全国紙で夕刊を止めるとか雑誌の休刊のニュースにも接したが、このままでは「瀕死の白鳥」たちが次々と「白鳥の歌」を歌う日が来ないとも限らないが、勝田がいれば、「白鳥の歌」はまだまだだ、と一蹴されそうな気がする
論創社 ホームページ
新聞・ラジオ・テレビ・広告・出版・映画製作まで、大正・昭和のメディア界を渡り歩き、去っていった勝田重太朗とは何者か。「現代新聞界ノ奇才ナリ」と徳富蘇峰に言わしめた、知られざる先人の仕事と生涯。
産経新聞
<書評>評・佐藤卓己(上智大教授)
2025/8/10
『奇才・勝田重太朗の生涯』千野境子著(論創社・3080円)
読み応えある「メディア通史」である。近代日本で新聞・出版・映画・ラジオ・テレビがたどった軌跡と、「業界の渡り鳥」勝田重太朗(1887~1967年)の人生は見事に重なる。周知のごとくメディアはミディウム(媒体)の集合名詞だ。本書は単なる新聞人やテレビ経営者の評伝でも、新聞史やテレビ史など個別媒体の通史でもない。領域を横断するメディアの興亡史として貴重である。
勝田青年は大陸雄飛の志を胸に故郷の長野を出奔し、大正2年に「京城日報」に飛び込んだ。同紙を監督していた徳富蘇峰はこの青年の「奇才」を見抜き、釜山支局長に抜擢した。その才能とは新聞界で通常の取材力や表現力ではない。広告取りの交渉力や組織運営での人心掌握力である。
大正5年に帰国すると「新愛知」東京支社長、弘報堂(現・日本廣告社)常務、「国民新聞」社長、レート化粧品宣伝部長、科学主義工業社社長などを歴任した。
戦時体制下では「新愛知」と「名古屋新聞」を「中部日本新聞」(現・中日新聞)に統合し、「国民新聞」と「都新聞」を合併して「東京新聞」を誕生させている。
こうした業界調整役としての力量が発揮されたのは、むしろ昭和20年の敗戦後である。翌年に夕刊「名古屋タイムズ」をGHQ占領下で創刊し、東宝争議では取締役として人員整理を断行した。さらに郷里・長野に戻って「信濃毎日新聞」副社長となり、信濃放送(現・信越放送)を設立して民放ラジオに参入した。
昭和30年に「産経新聞」社長として「時事新報」を吸収合併した後、信越放送の社長に復帰してテレビ放送を実現している。
信濃毎日
〈信州×本〉「奇才・勝田重太朗の生涯」(千野境子著)
2025/07/26
07:00
長野市吉田に生まれた信越放送初代社長、勝田重太朗(1887~1967年)の一代記だ。京城日報、新愛知、弘報堂、國民新聞、科学主義工業社、中部日本新聞、名古屋タイムズ、信濃毎日新聞、信越放送、産経新聞、時事新報、産経時事。所属した社名を挙げるだけでも「近代日本のメディアを駆け抜けた男」という副題にうなずける。
頼まれれば断らない、一貫した姿勢は潔い。新聞、ラジオ、テレビ、広告、出版、夕刊紙を渡り歩いた。受付係に始まり、記者、広告担当、経営者など立場は変わるが、情熱は変えない。大正、昭和のメディアの興亡を身をもって経験している。
「新聞の使命である批判と指導とは幾百年後までも変(かわ)るべき理由は発見されない」。信濃毎日新聞社が1951(昭和26)年、紙齢2万5千号発行記念で長野市城山公園に設置したタイムカプセル「信毎ペンの庫(くら)」に、当時副社長だった勝田はそう残した。今、インターネットやSNSの隆盛でメディアは転換点に立つ。勝田ならどう振る舞うだろうか。
(論創社・3080円)
Wikipedia
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。
来歴・人物
長野県長野市出身[1]。1913年に日本大学法学部を卒業[1]。
京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任[1]。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任[1]。
1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章[1]。
1967年11月16日、心不全のために死去[2]。80歳没。
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