軽自動車を作った男  永井隆  2025.8.25.

 2025.8.25. 軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修

 

著者 永井隆 1958年群馬県桐生市生まれ。ジャーナリスト。明治大学卒業。日刊紙「東京タイムズ」記者を経て、92年に独立。ビールや自動車などの企業活動をはじめ、組織と人との関係、人事制度、外国人労働者などをテーマに、新聞・雑誌・WEBメディアにおいて幅広く執筆活動を行っている。中でもビール産業については、東京タイムズ記者時代を含め、30年以上取材を続けている。主な著書に、『サントリー対キリン』『アサヒビール30年目の逆襲』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『EVウォーズ』(以上、日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる キリンビール「異端児」たちの挑戦』(新潮社)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『ドキュメント 敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『キリンを作った男』(プレジデント社・新潮文庫)など多数。

 

発行日           2025.7.15. 第1刷発行

発行所           プレジデント社

 

 

第1章 長い旅の途中で

l  「さてと、着替えるか」

2001年早朝、仙台に出張する新幹線車内で着替え

l  元特攻隊だったカリスマ

1930年下呂の生まれ。農家の四男坊。海軍飛行予科練習生(予科練)に志願、甲種合格し、宝塚海軍航空隊に入隊。終戦直前、淡路島の要塞の補強工事のために島に向かう途中、僚友船が撃沈され、九死に一生を得る

l  スズキと資本関係がない業販店という仕組み

業販店は各地域に点在する自動車整備業者や販売業者で、スズキとの資本関係はない

‘73'06年、軽業界トップを支えていたのは業販店。全国に4万店あり、依存度は8(現在は6)。うち3000店強が「副代理店」と呼ばれる販売実績があり核となる業販店

販売店網を作ったのは鈴木修

修は中央大法卒後、銀行員を経て'58年スズキに入社。直前に2代目社長鈴木俊三の娘婿となり、松田から鈴木姓に

l  カルロス・ゴーンの驚き

スズキが日産に新型軽自動車「MRワゴン」を月間3000台程度、'02年からOEM供給する形の提携発表。記者会見で初対面のゴーンが鈴木修の若さに驚く

l  「そりゃスズキの方が得したよ」

1車種のみの提供で、他方工場の稼働率アップにより、スズキが恩恵を受ける

結果は、日産の'02年度の軽販売実績は47356台で、月3000台をやや上回るが、業販店からの不満はない。スズキは、副代理店の子息を510年受け入れる研修制度によって販売網との結びつきを深めている。工場の人手不足の際は、副代理店から人手を派遣

l  「会社のカネには一切手をつけない」

鈴木は、自分で判断し行動できる、日本では希有な経営者。セールスマンとしても一流。「ハート・ツー・ハート」の人間関係を何より重視する。現場主義者のカリスマ。口うるさくて厳しいが、面倒見の良いオヤジさん、義理深い。公私を峻別し、信頼を勝ち取る

l  「トップダウン・イズ・コストダウン」

'97年、鈴木修はGM会長スミスに、「Bottom up is cost up. Top down is cost down. Suzuki is top down. It’s so fast.」と叱責。当時、スズキのハンガリー工場とGMポーランド工場の双方で生産する共同開発計画が浮上したが、GMの決断が遅いので督促

スズキとGMの提携は’81年で、'89年からはカナダの合弁工場で小型車の生産を開始

スミスも、'00年後を引き継いだワゴナー会長も、カナダの合弁担当の実績あり

‘00年、GMはスズキへの出資比率を10%から20%に引き上げ、スズキはGM傘下に入るが、スズキはあくまで自主独立を強調。黒字でありさえすれば独立は守れるという

l  インドと戦い、ワーゲンと戦い・・・・

この頃、軽市場でスズキはトヨタ・ダイハツ連合と熾烈な販売競争を展開。トヨタは、軽自動車の税優遇撤廃に動く。軽の存続にかかわる動きであり、日産との協調は得策

GMとの資本提携は、GMの経営破綻により’08年解消、合弁からも撤退

‘97年、インド政府とマルチの社長人事を巡り対立、国際司法裁判所まで行ったが、翌年新政権発足により和解。フォルクスワーゲンとの提携解消を巡っても法廷闘争を広げるなど、筋を通すことに関してはどんな相手に対しても一歩も引かない

l  「日本の自動車業界、最後の宝」

軽自動車のような価格の安い商品は、営業マンを抱えるディーラーが売っても儲けは出しにくい。スズキと業販店は運命共同体で、資本関係はないが、資本の論理を超えた鉄の結束がある。この2者を結ぶのが「人間」鈴木修。ライバルのホンダ川本社長も鈴木を「日本の自動車業界にとって最後の宝」だという

l  ハート・ツー・ハート

「人間はみな同じ。接する相手を差別しない。世界中どこでも、心で通じることはできる。

ただし、自分の仕事を一生懸命やらなければいけない。目標を持って人よりも行動することが大切。5分で言い。客先に足を運び、顔と顔を合わせただけで誠意は伝わる」

 

第2章 終戦と鈴木道雄の教え

l  戦争を知る最後の経営者

戦争の悲惨さを体験したせいなのか、人へのやさしさが根っこにあると言われる

死ぬはずだったのに生き残ったという意識があり、そのせいで、戦争では米英に負けたが、経済では米英を負かしてやる、という気持ちが強い

l  創業者・鈴木道雄の教え

鈴木道雄は、1887年浜松の農家の生まれ、起用で手工に興味を抱き、大工職人の修行を始めるが、日露戦争で建築需要がなくなり、独立して足踏織機を自作、’09年鈴木織機製作所創業。白生地用織機の豊田自動織機などに対し、先染糸を対象に多色織りが出来る特色があり、特許も取って経営は安定。「常にお客様の側に立って発想する。お客様が欲しがっているものなら、どんなことをしてでも応えろ。頑張ればできるもんだ」が創業者の信念

l  「やらまいか」の精神

遠州弁の「やらまいか」こそ挑戦や実行を尊ぶ起業家精神に通じる発想で、地域全体に定着した気風であり、やらなければならないという強い意志、決意が込められている

l  織機から自動車へ

道雄は全国に織機を卸すが、織機は耐久性が高く更新需要が見込めないところから、新しい事業への転換が求められる

'36年、自動車への進出を決断、次女の婿のエンジニア鈴木三郎に英国製オースチンを分解し試作エンジンを作らせるが、翌年には日中戦争で頓挫。軍需工場に変容

 

第3章 倒産の危機

l  もともとは小学校の先生

終戦を姫路の特攻隊基地で迎えた鈴木修は、下呂に戻って益田農林に復学、師範学校に学び、世田谷小学校の教師となる。その時の教え子に山東昭子(‘42)がいる

l  インドマネサール工場事件

‘12年、インドのマネサール第2工場で暴動発生。小さな喧嘩が大勢の死傷者を出す事件に発展したが、鈴木修は自ら乗り込んでいって仲直りさせる

l  中央相互銀行からスズキへ

中央大法学部を苦学して卒業、’53年地元の中央相互銀行(現あいち銀行)に就職。2代目社長の鈴木俊三に見込まれ婿養子となり、スズキ入社

l  倒産の危機を救ったトヨタの石田退三

'49年ドッジライン導入によるデフレで繊維業界は深刻な不況に陥り、鈴木織機も大量解雇に対し激しい労働争議が起こり、トヨタの大番頭石田退三に支援を要請。起業家としての鈴木を評価した石田は、人・金・業務などの支援を行い、朝鮮特需もあって業績回復

l  日本初の軽自動車「スズライト」

‘52年、36ccの自転車用補助エンジン「パワーフリー」を、翌年には60cc2段変速「ダイヤモンドフリー」を発売し、織機専業メーカーから脱皮

'54年からは軽自動車の研究開始、社名も鈴木自動車工業と改称

2輪車も発売した後の'55年、軽自動車の先鞭となる「スズライト」発売。360cc2サイクルえんじん。セダンが42万円、ライトバンが39万円、ピックアップが37万円。クラウンが95.5万円、ダットサンが67.5万円だったのでかなり安価。大卒初任給1.1万円

軽自動車の規格制定は1949年。'54年の改正で軽自動車は、2サイクル、4サイクルとも排気量360㏄を上限とするものに限定。通産省の「国民車育成要綱案(通称・国民車構想)」の要件に合致したスバル360の発売は’58年。地方税である軽自動車税は’58年。自動車税が都道府県税であるのに対し、軽自動車税は市町村税

l  創業者はなぜ家具屋になったのか

'57年、古希を迎えて退任した鈴木道雄は、長女の婿の俊三に社長を譲り引退。2代目は浜松高工から鐘紡入社、道雄に出会って養子となり、「フリーパワー」を開発。次女の婿は鈴ライトの開発責任者となった鈴木三郎常務、3女の婿が修の前任で逓信官僚だった3代目社長の鈴木實治郎。3人とも浜松高工機械科卒のエンジニア

道雄は、前夫人がなくなった後、若い後添えをもらい嫡流の男子が出来たこともあって、家具屋を始め、スズキ自動車の後継者を巡る内紛を避けたが、嫡男もスズキに入社している。修は、鈴木家の人間であっても出来不出来で峻別していた

 

第4章 失意のアメリカと復活のジムニー

l  「悪いことはすべてオサムに教わった」

2000年、修が古希退任の内規により社長を譲った戸田昌男は入社同期だが、修は6歳も上で、既婚、社会人経験もあって、「悪い遊びはすべて修から教わった」と言う

修は入社後企画室に入り、工事現場との遊離を社長に直訴、二輪の工程管理課に異動

「会社は公器だから、一族が支配するのはおかしい」という風潮が強くちやほやとは無縁

l  豊川工場は「一夜城」だった

3年目に、軽トラック「(初代)キャリイ」生産のための豊川工場建設の責任者に。9カ月の突貫工事だったが、若手ばかりの手で工期通り竣工させたうえ、予算も10%下回る

この時の経験が修の原点。社長就任後の’89年から実施している工場監査も、この時の実務経験から、生産現場の無駄をなくすためのチェック活動として考案され、1日かけて社長が工場の隅々まで回り、無駄を見つけて改善を促すもので、海外合弁にも及ぶ

'62年、生産本部長就任。世界一周の旅に出ると、イギリス・マン島でのツーリスト・トロフィーTT50cc初優勝の現場に立ち会う。ホンダに勝った成功体験が、その後の危機の萌芽となる。時代遅れの2ストロークエンジンが24年振りに勝ったことで、4ストロークへの転換が進まない結果を招き、’70年代の存亡の危機に直面

最終のアルゼンチンでも、修が監督代行を務めて優勝

l  スズキにとっての「藤沢武夫」

'63年購買部長、取締役。翌年営業本部長になると、手形1本で卸していたため回収に窮する場面も少なくなかったところから、売掛金に担保や保証金を取る形に変更。代理店からの反発を買いながらも、担保の設定ができない代理店の営業権を買收、メーカー直営に変えていく。現在では大半が直営の販社になり、資本が入らないのは秋田など3社のみ

l  「俺は社長には、なれんかもしれない」

'66年、急進的な改革に煙たがられ、体よくアメリカ駐在に厄介払い

USスズキはオートバイ直販の目的で'63年アナハイムに設立。250ccの販売は好調だったが、1年もすると現地での荒っぽい運転のために歯車の欠損が激増、無償修理のため赤字が急激に積み上がり、さらにアメリカ市場の主流である4ストローク搭載の要望に対し、現場を知らない本社は2ストローク500㏄のバイクを売るようにと押しつけて来た

l  赤字の責任を取るために辞表提出

2年間の在任中の累積赤字は10億円を超え、’68年帰国の辞令を受けると辞表を提出

替わりに東京駐在に左遷されるが、その時に出会ったのが軽三輪車で名を馳せたホープ自動車の小野定良。同社もエンジンの不具合から、自動車から遊園地用のおもちゃの電気自動車メーカーに転身していた

l  名車「ジムニー」誕生秘話

小野は、受注生産による自動車再参入を企図、戦前に軍用車両として試作された小型四輪駆動乗用車「ホヤ」をベースに農林用の平和な軽四輪ジープ「ホープスターON4WD」を開発

三菱自動車の軽自動車「ミニカ」の360ccエンジンの供与を受け、'67年型式認定取得

l  「うちならハンコは3つあれば十分です」

殿様商売の三菱に嫌気がさした小野に、修がエンジン供給を申し出、併せて製造権買取を提案。当時スズキは「フロンテ」のヒットなどで余裕があり、量産体制が整備されていた

‘70年、スズキは初代ジムニーを発売。定価47.8万円。大ヒットし看板商品となる

小野は受注生産を断念、子供向けの遊具メーカーへと事業転換するが、最終的には倒産

 

第5章 成功の復讐

l  排ガス規制の対応の遅れ

鈴木修は、企業危機の25年周期説を説く

戦後最初の危機は、’50年の労働争議

l  「隣のクルマが小さくみえまーす」

‘70’75年の5年で軽自動車の販売は1/2以下に落ち込む一方、登録車の販売は2倍近く伸びる。オイルショックの不景気にも拘らず、”1つ上のクルマを求める。その象徴が’702代目サニーのカローラを意識したコマーシャル「隣の…」だった

日本企業が人件費を固定費として考えるようになると、労使関係はがらりと変わって、安定した雇用環境が確保されたことが、モータリゼーションでも反映された

'70年のマスキー法を機に環境問題が自動車産業を一変させる。’75年型車から排ガス中のCOHC(炭化水素)NOX(窒素酸化物)の濃度を1/10に低減

‘72年末、最後発のホンダがCVCCエンジンで規制をクリア。1年後にはシビックを投入、軽自動車から登録車へ、国内から世界市場へと舵を切り、結果的にスズキが軽のトップに

l  日本版マスキー法の衝撃

‘73年にはマツダもロータリーエンジンで規制をクリア

最初にCOHCの削減が始まり、HC排出量の多い2ストロークエンジンのスズキは窮地に

l  各社社長が答弁する中、修だけが専務

‘74年、国会の聴聞会では自動車9社の社長が参考人で呼ばれたが、スズキのみ修専務

l  「健康がすべて、ほかはどうでもいい」

秋田スズキの社長が息子を連れて研修制度入社の挨拶に行った時の修の言葉

l  ついに倒産の危機が・・・・

排ガスを再燃焼させる仕組みを考えたが、マフラーが異常発熱する問題をクリアできないまま燃焼技術者を、材料技術に投入して触媒による酸化還元反応を利用して排ガスを無害化する方式を研究する

アメリカでは、’74年実質的に廃案となり、日本でもスズキ以外はロビー活動によりNOXの削減目標をなし崩し的に緩和させていく

 

第6章 やる気

l  霞が関への陳情

環境・通産・運輸各省庁へ日参して陳情

l  「田中先生、中小企業をお助けください」

ついに田中角栄に面会、9500人の中小企業の救済を訴え、緩和措置を勝ち取り、’76年暫定規制値対応車「フロンテ7-S」の型式認定取得

運輸省は車両法を改正し、排ガス対策による出力ダウンへの対応、浄化装置取り付けスペースの確保から、軽自動車の排気量を360ccから550ccに引き上げ、‘76年から実施

l  「スズキ、トヨタの系列入り」との誤報が

排ガス規制の対応に困った鈴木は、トヨタに、系列ダイハツの4サイクルエンジンの購入と特許使用についての協力を要請。’77年から何とか規制値対応車の販売を開始

l  「ダイハツのエンジンを積んだクルマを1台も売らなかった」

他社エンジンを積んだクルマで、しかも規制値適合エンジンはパワー不足だったため、北海道では1台も売らなかったという話もある。替わりに売ったのが商用のジムニーで、逍遥の規制は緩く、簡単な改良でクリアできたため、ジムニーが救世主となった

l  「何かあったらトヨタさんに頼みなさい」

鈴木修は2度もトヨタに助けられ、トヨタ及び豊田家への恩義は忘れなかったが、奥田の社長就任で様相は一変。奥田が軽自動車税を撤廃させ、軽自体をなくそうと動いた

そんな中でも豊田家と鈴木家の関係は良好を保ち、豊田章男が社長に就任すると関係は改善され、'19年には資本提携に進む

「何かあったら・・・・」は鈴木俊三の口癖

‘77年、スズキは新型触媒開発に成功、翌年には排ガス規制をクリアする浄化技術を完成

危機を乗り切った鈴木修は、「大切なのはやる気だ。やる気とファイトで活路は開ける」と確信し、以後一筆求められると「やる気」と書く

 

第7章 軽自動車を作った男

l  社長就任

'784代目社長就任。前任が病気で倒れたための緊急登板。前年には岳父も死去

l  43年前のインド進出

最初の4年間で経営においての重要な決断・決定を行い、5年目以降で実行していく

最初が「アルト」の商品化(発売は’79)と大ヒット。消えかかっていた軽の市場を復活

GMとの提携は'81年。小型車生産のパートナーとなり、世界に知られる存在に

インドの政府系自動車メーカーと、インドでの四輪車共同生産に基本合意したのが'82

他にも、4サイクルエンジンの設備導入、小型車「カルタス」の開発(生産開始は'83)など

l  47万円の「アルト」が大ヒット

‘78年発売予定の「アルト」は、従来の軽と代り映えがしなかったが、商用車/乗用と商用の兼用車への追い風を利用して商用とし、デザインは角張った「ジムニー」を継承、その後の「ワゴンR(‘93)の大ヒットへと繋げる。修のマーケッターとしての才能が生かされた

商用は物品税の対象外、スズキが得意の2サイクルエンジンを搭載でき、排ガス規制も緩やかで高出力エンジンの搭載が可能。さらに徹底したコストカットにより、軽の相場60万を大幅に下回る47万円での販売が可能になり、当初の月間販売目標5000台を、2カ月目には1万台を売り大ヒットとなる。3年間で50万台を売る

l  「軽自動車を作った男」

全国統一価格は、業界初の試み。デラックス、スタンダードの区別もなく単一価格

軽市場は100万台を回復、以後順調に伸び、'24年は156万台

高齢化とともに、地方では11台となり、「生活者の足」と化しインフラになっていくが、その原点に「アルト」があった。鈴木修こそ「軽自動車を作った男」

l  あるときはこんなことを、またあるときはあんなこと

「アルト」の販売店向け発表会の直前、外注企業の社長夫人が愚痴を言いに来たのを聞き留めて、「アルト」のイタリア語の意味(秀でた)を説明するより、「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、あるときは買い物に使える、あると便利な車。それがアルト」とのキャッチコピーが浮かんだ

アルトのヒットによる利益で、自動車の主流である4サイクルエンジンの生産設備を逐次導入。1000ccクラスの小型車開発も進める

l  GMが鯨ならスズキは蚊」

‘71年からGMと提携関係にあったいすゞの社長から、小型車を欲しがっているGMとの提携話が持ち込まれ、'813社により小型四輪車分野での協力体制のための提携に合意

自己流で自動車を作ってきたスズキにとっては、自動車生産を基礎から学ぶ絶好の機会に

GMがスズキの株式5.3%を取得、いすゞとスズキが1000万株の持ち合い

鈴木修がGMに呑み込まれるのではと迫る記者に対し曰く、「スズキはメダカではなく蚊。メダカなら鯨に呑み込まれるが、蚊なら飛んでいける」

GMとの共同開発車「スズキ・カルタス」1000ccは、’83年国内販売開始。軽専業から脱皮

l  GMとの強固な人脈を作る

‘84年、GMに対しカルタスの輸出開始

'81年から対米輸出自主規制開始。年間168万台。3年後撤廃の予定だったが、’94年まで続く。スズキへの割り当ては17000台で、GMの要求する10万台に届かず、現地生産に踏み切り、カナダに合弁CAMI設立、カルタスを生産しGMに供給

 

第8章 インド進出とHY戦争

l  自動車メーカーのない国に出れば、1番になれる

‘75年、ジムニーの組み立てをパキスタンで開始。'82年からは政府との合弁とし四輪の生産を開始していたが、偶然インドが国民車構想のパートナーを探していることを耳にする

‘82年、インドから視察団来日。パートナー募集は締め切られていたが補欠で割り込む

l  「ただし、田舎には金がない」

鈴木修自ら交渉の矢面に立ち信頼を得る。インドの出資要請80億円を半額に値切って26%の出資とし、翌月には基本合意に

スズキは、インドの労働文化を変えた。コストや品質、生産性への意識を根付かせた

l  HY戦争

HY戦争は50ccバイクを巡るホンダとヤマハ発動機のシェア争い。'79年頃から激化

国内二輪車市場は年間110120万台。ホンダが50%超、ヤマハ20%台後半、スズキ10%台、川崎重工の順だが、ヤマハが仕掛けたHY戦争で販売が急増。82年には327万台となり、50ccバイクを指す原付1種の割合は84%超

l  「生産ラインを止めろ!

競争激化で供給過剰となり、ミカンや古紙の倉庫がバイクで溢れていると聞き、HY戦争に巻き込まれたことを知った鈴木修はすぐに生産ラインを止めて、在庫処理に当たる

l  「撤退戦」の原体験

‘83年、HY戦争は終結。ホンダの勝利に終わり、ヤマハは赤字転落で社長が引責辞任するが、ホンダも疲弊、人心を未来技術の開発へと向けていく

二輪市場は、2023年には40.5万台に縮小。'25年の排ガス規制への対応が困難なことから、ホンダ・スズキも50ccの生産を終了。電動モペッドだけが残る

l  軽市場に再参入したホンダ

‘85年、ホンダが「トゥデイ」を投入して一般ユーザー向けの軽市場に復帰。販売チャンネルとしてホンダプリモ立ち上げ

l  50代でガン罹患

50代で前立腺ガンに罹患し、放射線治療で完治

'87年、鈴木修は東京モーターショーの会場で、’77年に軽市場から完全撤退していたマツダに軽自動車の供給を持ち掛け、「アルト」をベースにした「キャロル」で初のOEMを獲得

バブル崩壊で、自動車各社も経営危機を迎えるが、スズキの経営が比較的安定していたのは軽トップに君臨できていたから。安価な軽の販売台数は落ち込まなかった

l  あるダイハツの技術者が考えた鈴木修

世界放浪の末にインドで仏像を彫っていた田中裕久は、スズキの軽トラックを見て鈴木修の下で働きたいと思ったが、求人はなく、代わりにダイハツに入社

 

第9章 ワゴンR

l  「ボンクラ会」

鈴木修は、代理店の2世が優秀な経営者になることを目指して研修会を立ち上げ、「普通の会社なら係長くらいの実力の者が、将来社長をやれというのだから土台無理な話。先代は身体を張って生き抜いてきた。君らのようなボンクラには荷が重すぎる。せめて勉強しなさい」といい、「24時間経営のことを考え、先代の苦労とは別の苦労をしたらどうだ」という。メンバーの間では、この勉強会を「ボンクラ会」と呼ぶようになる

5年間研修に単身参加し、苦労すれば、うまくいけば女子社員と結婚し、次の次まで跡取りを授かるかもしれない

l  アメーバ経営を凌ぐ「ポケット経営」

稲盛の「アメーバ経営」に対し、鈴木修は「ポケット経営」を教える。10万円仕入れたら、右ポケットに売り上げが10万円になるまで入れて他には使わない。10万円を超えたら左ポケットに入れ、好き勝手に使ってよい。売り上げと利益を混同してはいけないとの教え

l  「やる気」を見ている

「修から問い詰められた時、決して怯んではいけない。強気にぶつかっていく。理屈よりも本人のやる気を見ている」とは、有力代理店の社長の言

l  三洋電機の教訓

創業家の長期政権で裸の王様にトップがなることの危うさを鈴木修は最初から分かっていたが、それでいて、孤高の独裁者だけが持つ、真実がわからなくなる不安と、いつも闘っていた。東京三洋の井植薫が相次ぐ石油ファンヒーターによる一酸化炭素中毒の死亡事故を聞かされずに引責辞任、会社までが三洋と合併、その後消滅した教訓を忘れない

l  軽自動車の運命を変えた「ワゴンR

‘93年発売の「ワゴンR」は、スズキのトップを盤石にさせる

「エブリイ」という商用のワンボックスカーがあったが、’90年から排気量が660㏄に引き上げるのに伴い、三菱の相川哲郎(後の社長)が開発した乗用のワンボックスカー「ミニカトッポ」の人気に対抗して「エイブリ」を乗用にした「ワゴンR」を開発。市場を席巻

l  最初の名前は「ジップ」だった!?

最初の名前は「ジップ」だったが、しっくりこないので、「スズキにはセダンもあるけどワゴンもある"」からヒントを得て「ワゴンR」と命名。大ヒットとなり、シェアが'85年以来の30%の大台に乗る。軽自動車市場も順調に拡大し、お母さんが使うセカンドカーから、お父さんも乗るファーストカーに押し上げる

l  三河屋のサブちゃんがいなくなった

‘91年の大店法改正により、大型店が続々と郊外に誕生。車で乗り付けてまとめ買いをするようにライフスタイルが変わる。スーパーの中心商材のビールは、'93年から大型店にも酒販免許が付与されるようになり、『サザエさん』に登場するビールを軽トラックで配達する「三河屋のサブちゃん」がいなくなった

ワゴンRに続いて‘94年発売の登録車「ホンダ・オデッセイ」もヒットするが、いずれも荷台が広く、大型スーパーでのまとめ買いに適した車と言えよう

l  スズキの宴会がすべて「スーパードライ」になった理由

ビール戦争の最中にアサヒの社長瀬戸雄三が鈴木修を訪ねる。両者は同年生まれ、社会人になったのも同じ年。瀬戸は叩き上げの社長で、営業マン同士気が合い、ワゴンRで乗り付けたのを見て、鈴木修は以後ビールをすべて「スーパードライ」に替えたという

l  バブル崩壊と就職氷河期

バブル崩壊で、’92年の就職戦線から「就職氷河期」が始まり、’97年には金融危機。戦後初めて地価が下がり、土地本位主義による経営は崩壊したが、’97年になぜか販売台数を増やした自動車会社があった。ホンダ

 

第10章 ホンダの「ゲット80」とB登録

l  オデッセイ現象

'90年代初頭のホンダは、「セダンこそが車」という思想に固執するあまり、ヒット作は生れず、三菱への吸収説まで囁かれたが、’94年発売のオデッセイで息を吹き返す

`98年軽の規格改定が決まり、各社が新型車開発に集中し手同年の新車投入をしなかった間隙を縫ってホンダのみが新車「ライフ」を投入、軽市場で躍進するとともに、四輪市場(登録者+軽)で不動の日産を抜いて2位に躍進。消費増税(3%5%)による不景気を尻目にホンダのみ目標の80万台を達成、輸出の20万台を併せ、国内100万台生産体制を築く

l  「キープ80(はちまる)」の裏にあったB登録という手法

ホンダの目標達成の裏にあったのが「自社登録(別名B登録)」という試乗車などで使われる手法。登録後は新古車として販売。ディーラーが販売台数を増やして仕入れ値を下げるために多用する。特に軽は市町村への届け出だけなので手続きも簡単

l  終わらないホンダ神話

ホンダは「目標に向かうのを得意とする」企業体質があり、「国内販売80/国内生産100万」は同社が追求するあるべき姿だったのだろう

B登録はやがて、スズキやダイハツにも伝搬、この後から始まる軽を巡る「仁義なき戦い」を、より荒々しくさせてしまう

l  「ここにインドの方はいらっしゃらないでしょうね?

その頃鈴木修はインドで、マルチ社の工場拡張を巡ってインド政府と対立。インド政府が一方的にマルチの社長を指名したことに鈴木修が反発、国際司法裁判所への提訴に発展

翌年の政権交代で和解し、'02年にはスズキが子会社化、'07年第2工場新設と同時にマルチ・スズキに社名変更。インド政府と対立中のモータショーの自社ブースでの記者会見で、鈴木修は「ここにインドの方はいらっしゃらないでしょうね?」といって爆笑を取る

 

第11章 トヨタ・ダイハツとの仁義なき戦い

l  「今年はお手柔らかにお願いします」

'98年の日本自動車工業会の賀会で、鈴木修はトヨタ社長の奥田に仁義を切る

鈴木修は、豊田家の恩を忘れず、新年には豊田家のトップへの挨拶を欠かさなかったが、この年以降の生え抜き社長への挨拶はしていない

‘98年規格改定を機に、軽の販売競争は激化。その上、登録車販売が押されるのが規格改定以降顕著になったこともあり、軽自動車という規格そのものをなくそうとの動きが表面化

l  奥田トヨタ社長との密談

軽の規格改定にあたり、鈴木修は豊田達郎と軽の優遇税制の維持で合意していたが、奥田は無視。排気量拡大と税優遇とを天秤にかけてきたため、両者の密談により、税制優遇の存続の代わりに排気量は800ccへの引き上げを660㏄に留める。鈴木修は密談を否定

l  ダイハツとの熾烈なシェア争い

規格改定の直前、ダイハツはトヨタの子会社になる

‘99年上半期にダイハツの販売が急伸、15道県でスズキを制してトップに。シェアでもスズキの30.8(前年同期31.9)に対し、ダイハツは27.9(27.2)と猛追

B登録が多用され新古車が増える

トヨタは同年、リッターカー「ヴィッツ」を投入。価格は軽と変らず、燃費性能は軽より高いので軽の存在意義がなくなると豪語したが、税優遇の壁は越えられず

l  修社長の自宅を直撃

鈴木修は、ライバルが何をやろうと泰然自若、わが道を行く

規格改定で勃発した軽自動車戦争は、正面から見るとスズキの牙城を崩そうとするトヨタ・ダイハツ連合で、連合は上質な絹織物の軍旗を掲げていたが、見方を変えると、巨人トヨタから軽を死守するスズキ・業販店連合の構図が浮かぶ。連合は「襤褸(ボロ)の旗」

 

第12章 人たらしの交渉力

l  秋田スズキの3代目

創業者の孫の3代目は、まだ学生の頃から祖父について販売店会議に参加し、鈴木修と握手し仲間に入れられた。スズキと資本関係を持たない販売店にとって大きな課題は事業承継。子息が継ぐのが一番据わりがよいと訴えるが、なかなかうまくはいかない

l  業販店はなぜスズキを選ぶのか?

鈴木修の人の繋がりを大切にする人間力が、業販店をスズキに繋ぎ止める

l  「小さいクルマ、あれの税制をいじっちゃならん」

鈴木修には2つの顔がある。1つは大将/親分/ドンとしての顔、もう1つは強大な権力者の懐に飛び込める「たらし」の顔

特攻隊員、教師。浜松弁を話さず下呂のアイデンティティを持ち続けるどこか醒めた冷静な性格。合理性を重んじるのに情は深い

排ガス規制への対応で、霞が関と永田町にパイプを築く。金丸信を動かしたのも「人たらし」「じじい殺し」の本領発揮の結果であり、税優遇で最も頼りにしたのは自民党税調の最高顧問山中貞則

l  税の神様を動かせる男

田中内閣で中小自営業者の優遇税制「みなし法人課税制度」導入に党税調を活用したときから、政府税調と党税調の力関係が逆転。'79年党税調会長に就任した山中の君臨が始まる

沖縄・台湾を専門領域とする山中に、'82年台湾と二輪の合弁生産をスタートさせた鈴木修が挨拶に行ったのが2人の交流の始まり

l  自民党税制調査会

軽自動車税はいつも増税の危機に晒されていた

'01年、相沢会長の下で、発泡酒税率引き上げであれば、軽自動車税も同じ理屈で引き上げるとの議論がでるが、日産がOEMで軽への参入を決めたことから見送り

l  軽の優遇税制を巡る暗闘

'02年、自動車工業会会長の奥田が軽の優遇税制廃止を主張したが、発泡酒増税が見送り

軽自動車税は、'84年に6500円から7200円に増税、次は’1510800円に

発泡酒は、'26年から税優遇廃止が決まり、ビールと同一に

 

第13章 終わりなき旅

l  「修会長がいらっしゃる」

'89年導入の工場監査は、販売店にも波及

「工場にはカネが落ちている」、「重力と光はタダだ」(電気やガスの節減)、「健康のために歩いているのか」(時間削減)、「1部品、1グラム、1円低減」(サイズが大きくなった新規格への対応)、「小・少・軽・短・美」(コスト削減と燃費向上)

社長視察の3カ月前から連日対策会議。工場内・販売店内の結束は社長訪問のお陰

l  「あの噴水を止めてください」

鈴木修は、資本関係のない副代理店にまで訪問。超大手上場の部品会社にも行く

ホンダは多少高くてもいいから新技術を入れてくれと言うが、スズキは新技術は要らないから安くしてくれと言う。自分のところの部品を作る時は噴水を止めてその分安くと言う

l  「軽自動車を減産します」

鈴木修は、経営という名の長い旅を続けているので、「私の履歴書」には出ない。かねがね、「昔の自慢が出来るほど、経営は甘くはない」

'06年、鈴木修は3年後の世界生産量の拡大計画を発表。3割増の年間300万台を目標に、相良工場内に小型車組み立て工場を建設、一方で軽自動車減産。欧州で小型車の人気が高まったことへの対応として、2年後の新工場完成までの繋ぎとして、既存工場で輸出向けの小型車を生産するため、軽を2年間各3万台減産

l  34年ぶりのトップ奪取

'06年は軽が初めて200万台を突破、スズキがトップを死守し、首位記録を34年としたが、暦年ではダイハツが僅差で34年ぶりのトップに立つ

'07年ダイハツは創業100周年、さらに拍車がかかりトップを維持、スズキが奪還するのは'23年。ダイハツの認証検査不正による出荷停止、敵失による逆転だった

l  業界に秋葉原を作ってしまった

トヨタ看板方式の生みの親大野耐一は、「徹底してメーカーが安く作った者は、きちんと売らなければだめ」との戒めを残す。電機産業は、秋葉原があるからダメになった。流通に問題があるため、新技術を集積させた開発商品でもすぐ値崩れが起こる

鈴木修は、「減産発表で自社登録(通常78)という行儀の悪い売り方は減る」と言う

l  修ファンのダイハツ技術者の天才的発明

'06年ダイハツは7代目「ミラ」を発表。ガソリン車としては業界トップの27/lを実現

'02年ダイハツが8万㎞走行しても排ガスを浄化する性能が劣化しない「インテリジェント触媒」を開発、環境技術で大きなブレイクスルーを果たす、立役者は田中裕久(8)

 

第14章 最後の北牌

l  「これでデミング賞だと。ふざけるな!

'07年インドを訪問し、インドでの100万台生産体制を3年後に実現するとぶち上げる

デミング賞受賞と誇るシートメーカーにも容赦なく改善の檄と指示が飛ぶ

l  インドで成功できた理由を聞くと

競合相手がいなかったこともあるが、運がよかったからで、特に現地の人に恵まれたが、他社が参入してきたこれからは厳しい

l  ハート・ツー・ハートは死なず

「誠意を持って数字を示して、心で訴える」のが鈴木修のやり方

l  後継者の死

'07年、鈴木修の娘婿で経産省から転じた小野浩孝専務が急逝。享年52

'08年、リーマンショックを先取り、いち早くアメリカの在庫を減らして損失を抑える

国内でも徹底したコストカットにより、売り上げは落ちたが軽3社はそろって黒字を維持

l  「スイフト・レンジエクステンダー」

レンジエクステンダーは、発電装置の付いたEV

スズキの「スイフト・レンジエクステンダー」は、電池の残量が少なくなるとガソリンエンジンが作動して発電するが、外部充電も可能。'10年型式指定取得。世界初

スズキは'70年の大阪万博で鉛電池搭載のキャリイEVを走らせ、EVの先鞭をつけるが、成長が急過ぎて、その後は開発に手が回らず完全に出遅れたため、考えたのが既存の軽のエンジンを発電に使う「スイフト・レンジエクステンダー」

l  VWは厳格なオジサン

'06年、GMが経営不振からスズキの株17%を放出、'08年には残りの3%も手放し、提携関係は解消。大きな投資を必要とする環境技術を独力で対応するのは難しく、代わって目をつけたのがVW'09年両社は包括提携に合意

VWがスズキに約2200億円出して19.9%出資、スズキはVW1.5%出資。イコール・パートナーが基本理念だが、スズキはVWにハイブリッドやクリーンディーゼルなどの環境技術を求めるも、VWとの思惑の相違からスズキは提携解消に動く

VWがスズキによる株式買戻しに応じず、’11年スズキは国際仲裁裁判所に提訴

安全牌だと思って最後の北牌を捨てたら、役満の放銃に繋がった

 

第15章 長男の社長就任とトヨタとの提携

l  東日本大震災で4.2億円の被災

‘11年、秋田スズキが仙台港に積み上げていた四輪在庫452台が津波で被災。鈴木修はメーカーの返品処理にすると即断。他の被災した代理店も同様の扱い。修は一言「お互い様だ」

'10年、トヨタはダイハツから軽自動車のOEM供給を受けることで合意。スバルも’08年軽の開発から撤退、ダイハツからのOEMに切り替え。軽生産は三菱を加え4社のみ

トヨタの参入で、軽廃止論はなくなった

l  成田発、バンコク行き便での出来事

鈴木修は、飛行機で乗り合わせた20代の女性の看護師が、数か月間1人旅をすると聞いて驚く。自分の息子は海外留学させているが、女の子はそうはいかないという

l  中小企業の気のいい紳士

タイでは最後発の工場進出。インドに続く2番目の柱としてインドネシア工場があるが、それだけではリスクが大きいとして、乗用車だけはタイでも生産することに(10年以上生産の後、'25年末までの撤退を決める)

l  笑わない眼

ジョークで人を笑わせるが、現場を見る目は笑わない

l  あまり話さない「人材論」

「経営者は、限られた時間で情報を入手し、自分で考えて自分で判断するしかない」という

「ツキのない奴はダメ。明るい性格の奴が求められる」

l  まさかの軽自動車税増税

'13年、増税は総務省の悲願。都道府県税である自動車取得税(年間1900億円)の廃止の見返りとして軽自動車税増税に。増税で販売は16.5%減と大きく落ち込み

l  逆風の中、「ハスラー」がヒット

‘14年、消費増税(5%→8)で消費落ち込みが予想される中、軽のSUV「ハスラー」が快走

従来にないジャンルが好評

l  「情の人」「理の人」

鈴木修は情の人、国内営業担当副社長の田村実は理の人

鈴木修が量を追求したのに対し、田村は「量から質への転換」をテーマとする。'15年退任

l  長男の社長就任とトヨタとの提携

'15年、長男俊宏に社長を譲る。直後にVWとの業務提携解消決着

'16年、燃費試験用データの計測に法令違反が発覚、鈴木修はCEOを退任

'19年、トヨタと3年越しの資本提携交渉決着。トヨタはスズキの株4.9%を960億円で、スズキはトヨタ株0.2%を480億円で購入

'21年、鈴木修は相談役に退き、代表権を返上

'24年、悪性リンパ腫で逝去

l  「軽」こそ最もEVにふさわしい

ベンチャー企業のテラモーターズは、'14年に参入したインドのEV三輪車(Eリキシャ)市場で上位5社の先頭集団にいる。エネルギー効率において、EVはガソリン車を圧倒する

EVは究極のエコカー。特に軽EVなら小さな電池で済むし、使う分だけ充電すればいい

電源は、地域のソーラーや小型水力という再エネを活用すればいい。リチウムイオン電池は系統の綺麗な電気を使わなくても周波数のバラついた電気でも充電出来るのが大きな特徴。1100㎞未満の走行なら、電池の搭載量を減らせるので、高額にはならない

 

最終章 下呂にて

l  なぜ故郷を飛び出したのか

鈴木修は下呂出身である自分のアイデンティティーを、最後まで貫いたと言われる

l  温泉街に現れた生家跡

生家は更地で、近くに墓所がある

生家を継いだ修の父は農業を嫌って下呂役場に勤務、兼業農家となり、子どもたちには大都会で働くことを勧める。長男は国鉄、次男は日本発送電(中部電力)、三男は名古屋で特定郵便局に勤務。長男の子、孫はスズキに入社

l  下呂の松田修というアイデンティティー

下呂の出身者で有名人は、「ブラジルのシュバイツァー」と呼ばれた細江静男(190175)がいる。野口英世に並び称され、アマゾン地域医療に貢献

l  スズキは独立しているか

アイデンティティーは、①自己の斉一性、一貫性、②自己の本質的部分が他者・共同体に共有されること、の2項目によって定義される、という

鈴木修にとってのアイデンティティーの問いの立て方は、「スズキは独立しているか」

経営者としての鈴木修は、起業家であり、実務家であり、管理者であり、統合者、という4つの全てのタイプを兼ね備えたと言える

 

あとがき

鈴木修の最大の特徴は、その変幻自在ぶり

 

 

 

 

President社 ホームページ

軽自動車を作った男
知られざる評伝鈴木修

「自動車メーカーのない国に出れば、間違いなく一番になれる」

(人口世界No1)インドに自動車産業を興した「小さな巨人」

売上高5兆円の半分をインドで稼ぐスズキのカリスマ、鈴木修は2024年末鬼籍に入る。その壮絶なる94年のビジネス人生を追う。2度の倒産の危機、ガン罹患、GM,VWとの提携、そしてホンダ、トヨタ×ダイハツとの暗闘など知られざる歴史がいま明らかになる。

 

 

「俺は社長になれないかもしれない」軽自動車を作った男・鈴木修が提出した辞表と、たった一度こぼした弱音将来の社長候補への風当たりは強かった

昨年末、94歳で亡くなったスズキの鈴木修元相談役は、40年以上にわたってカリスマ経営者であり続けた。だが、先代の娘婿としてスズキに入社し、大きな逆境を経験したことはあまり知られていない――

本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

配属1週間で異動

入社すると3カ月間の工場研修を経て、鈴木修は企画室に配属される。しかし、大卒者ばかりが働く企画室が、工場現場と遊離しているため、岳父であり社長の俊三に「企画室が社長にあげる報告はでたらめばかり。現場はうまく回っていない」と直訴。一週間で二輪の工程管理課に異動する。

俺は、中小企業のおやじ』(鈴木修著)には次のようにある。

「社長の婿養子として入社したのなら、まわりからちやほやされただろうと思われるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。当時は敗戦から間もないこともあり、『会社は公器だから、一族が支配するのはおかしい』といった風潮が強かったのです」

鈴木修の経営の原点となった工場建設

企画室と対立したまま入社3年目、鈴木修は新工場を建設するプロジェクトの責任者になる。建設予定地は愛知県豊川。本社から離れた土地に工場を建設するのは、スズキとしては初めてだった。19611月にプロジェクトが立ち上がり、9月には軽トラック「(初代)キャリイ」の生産を始める計画だった。つまりは、常識外れの突貫工事が要求された。

鈴木修は、工期通りに竣工させる。しかも、3億円の予算に対し27000万円しか使わなかった。このとき、35歳以下の若手ばかり9人を選び、中心メンバーとして、ケチケチ作戦で成し遂げる。余った3000万円は企画室に乗り込んで、「お返しします」と精算書をたたきつけてやった、という武勇伝が残っている。

これは、社長の娘婿だからできた所業だったろう。何より、計画通りにやり遂げたことは大きかった。

戸田は言った。「豊川工場の建設がうまくいったことで、鈴木修は自信をつけました。修にとっての経営の原点は、豊川工場の建設プロジェクトにあったと、私は思う」、と。ちなみに豊川には鈴木修が関わったこの工場とバイク工場があり、バイク工場跡地は「イオンモール豊川」になっている。

2013829日、11代目となる軽トラック「キャリイ」の新商品発表会が、都内で開かれた。CM出演した菅原文太も出席した会の冒頭、鈴木修は次のように言った。

「建設責任者になったとき、私は30歳。自動車については本当に素人でございまして、東も西もわからなかった。モノづくりということは、こんなに大変かと(工場建設を通して)痛感しました。一方で、モノづくりを行うメーカーというものは、現場からやらないとダメだということをつくづく感じました。いま、工場監査をやりましても、プレス、溶接、塗装、完検(完成検査)におきましても、このとき(工場建設)の経験がプラスになっているのであります」

工場監査とは社長就任後に、鈴木修が1989年から実施している、生産現場の無駄をなくすためのチェック活動。一日かけて社長の鈴木修が工場の隅々まで回り、無駄な部分を見つけ出し改善を促す。国内外のスズキの工場に限らず、国内外のサプライヤー(部品会社)の工場にも及ぶ。さらには、インドなど海外を含めたディーラーの店舗や修理工場にもやって来る。

世界一周の旅へ

19621月に生産本部長になると、工場建設の論功行賞的な意味合いから、鈴木修は世界一周の旅に出る。6月に出発。まずは、二輪車レースの最高峰といわれたイギリス・マン島のツーリスト・トロフィー(TT)レースに立ち会う。参戦していたスズキは、50㏄クラスのレースで何と初優勝を遂げたのだ。

レース結果からも、鈴木修は「(運を)持っている」と言わざるを得ないだろう。

ちなみに、同じレースにホンダも参戦していて、日本勢は3位までを独占したそうだ。何より、スズキはホンダに勝ったのである。

もっとも、このときの成功体験は、やがて訪れる危機の萌芽となっていく。スズキは2ストロークエンジンを採用していて、「もはや時代遅れ」と言われた2ストロークが勝ったのは24年ぶりとのこと。「2ストロークでもやれる」という自信につながった一方で、4ストロークへの転換が進まない結果を招く。特に四輪で、スズキ存亡の危機が、後に詳述する1970年代に訪れることになる。

しかし、このときには、チームも鈴木修も初勝利に酔いしれていた。

なお、エンジンの一連の動作をサイクルと呼ぶ。このため、2ストロークならば「2ストローク1サイクルエンジン」と呼ぶのが正しいだろう。だが、一般には2ストロークエンジンは2サイクルエンジンと同義に使われる。なぜか、二輪ではストローク、四輪ではサイクルと呼ぶ。

マン島TTレースの後も、鈴木修はチームに随行。オランダや西ドイツ、ベルギーなどを転戦し、最終のアルゼンチンでは鈴木修が監督代行を務めて優勝した。こうして欧州各地から南米を回る、世界一周を経験する。

転戦後の10月、フロリダ州に立ち寄ったとき、キューバ危機が発生するという緊迫の場面にも遭遇する。この旅が、鈴木修にとっては世界との最初の接点だった。

30代の娘婿の改革に販売代理店は反発

631月に購買部長、そして同年11月には取締役に就任する。このとき33歳。「将来の社長候補」として順調に出世の階段を上っていく。

第一回の東京オリンピックがあった1964年、鈴木修は取締役営業本部長になる。

すると、販売代理店との取引を安全かつ円滑に行うため、「商品の売掛金にはきちんと担保や保証金を販売店から取る」形に切り替える。それまでは、手形一枚で車やオートバイを卸して、スズキが回収に窮する場面も少なくなかったのだ。

変更に対し、多くの代理店は反発した。「催促なしの、あるとき払い」のような緩い取引が消えてしまったからだ。

会社が倒産する理由を熟知していた

代理店の中には、鈴木修を飛び越えて、俊三社長や鈴木實治郎専務に直訴する向きもあった。

「娘婿はひどい。何とかしてください」と。

俊三社長は技術者出身であり、代金回収や手形には疎かったとされる。

ホンダを創業した天才技術者の本田宗一郎も同じで、商品は売れているのに、会社の金庫には金がない状態に創業期は頻繁に陥っていた(ホンダの場合、もう一人の創業者である藤沢武夫が経営を担うようになって、正常な取引が実行されていく)。

この点、銀行員だった鈴木修は違った。売掛金の未回収が重なってキャッシュが枯渇すると、会社がどうなってしまうのかを、イヤというほど知っていた。会社が倒産するのは、借金が膨らむからではない。資金がショートして、支払いが不能になるからである。

担保を設定できない代理店は多く、そうした会社に対しては鈴木修は営業権を買い取っていった。メーカーであるスズキ直営に変えていったのである。代理店の資産を精査し買収金額を決め、さらには経営者の退職金まで用意したそうだ。

全国を飛び回って築いた販売体制

スズキの直営代理店はそれまでは一軒もなかったのだが、現在では47都道府県のほとんどがメーカー直営の販社(代理店)になっている。スズキの資本が入らないプロパーなのは、秋田スズキなど3社となった。

代理店は、業販店に車両を卸す。業販店はスズキ以外の車も、販売するケースは多い。販売台数の多い業販店は、副代理店と呼ばれる。副代理店の中でもさらに販売台数が多いと、「アリーナ店」に昇格し商品を安く仕入れられる。

買収した販売代理店には、30歳前後の若いスズキ社員を経営者として、鈴木修は送り込んだ。ちなみに、プロパーも含め代理店はみなアリーナ店であり、卸だけではなくショールームを設けて車を一般客に販売している。「同じお客さんを、アリーナ店と業販店が競合した場合は、業販店が優先されます」(スズキ関係者)。前述したが、スズキの場合は業販店の売上比率が、いまでも6割と高い。

鈴木修は、営業権を買い取る交渉のために全国を飛び回っていた。並行してその地域の業販店も訪れて、人間関係と販売体制とを強化していった。

将来の社長候補のはずが、“厄介払い”される

「出る杭は打たれる」のは、どこの組織でもよくあること。社長の娘婿、将来の社長候補であっても、例外ではなかった。

急進的な改革を断行する鈴木修は、「社内のさまざまな人たちに煙たがられて、体よくアメリカ駐在に厄介払いされる」(鈴木修著『俺は、中小企業のおやじ』)。

マン島TTレースで優勝した翌年の1963年、米市場でオートバイを販売する目的でUSスズキが、ロサンゼルス近郊のアナハイムに設立される。鈴木修自身が発した「海外ビジネスを、商社に頼らず、自前でやるべき」とする意見も設立のきっかけとなった。しかし、英語が不如意の自身が駐在するとは、夢想だにしていなかったようだ。

19661月、取締役輸出部長に就任した鈴木修は、USスズキ社長としてアナハイムに単身赴任する。

ここで、塗炭の苦しみを味わう。250㏄のオートバイ「X6」を輸出して販売したところ、最初はよく売れた。ところが、1年ほど経過すると、販売したバイクの大半が故障してしまい、クレームと返品が押し寄せてしまう。アメリカ人はギアチェンジのやり方が乱暴なため、想定以上の負荷が歯車にかかり、やがては歯が欠けていったのだ。無償で修理するのだが、コストはひたすら嵩み、USスズキは赤字が膨らんでいった。

さらに、「アメリカ市場の主流である4ストロークエンジン搭載のバイクを作ってほしい」、と鈴木修が本社に訴えても聞いてはもらえなかった。そればかりか、2ストロークの500㏄のオートバイを売るようにと、本社は押しつけてきたのだ。

マン島レース優勝という成功体験から、会社は抜けられないでいた。変わることができずにいた、と表現した方が正確だろう。

「本社が現場を知らないと、うまくはいかない」と現場にいた鈴木修はつくづく思ったが、どうすることもできなかった。一方で、経営者になってからの、彼の現場主義は、こうした苦い経験から育まれていった。

「俺は社長には、なれんかもしれない」

窮地に立たされた鈴木修のもとを、秋田スズキ創業者の石黒佐喜男をはじめ東北地方の副代理店経営者が、総勢10人ほどで訪れる。

「困っている修さんの慰問に行った、と父は話してました」(佐喜男の長男である石黒寿佐夫・秋田スズキ会長)。

アナハイムのUSスズキから50kmも離れたロスのレストランまで移動して、みんなで食事やワインを楽しんだ。その宴席の場で、鈴木修は石黒佐喜男にボソッと話す。

「俺は社長には、なれんかもしれない」、と。

石黒佐喜男と鈴木修は、ともに宝塚の海軍航空隊にいた。面識はなかったが、絆も関係も深かった。佐喜男がスズキの秋田県総代理店になり「スズライト」の販売を始めたのは1959年。以来、「秋田の田舎者」、「岐阜の山猿」などと言い合える仲になっていった。

しかもこのときには、太平洋を渡り、遙々カリフォルニアまで来てくれたのだ。1960年代後半は、いまのように簡単に渡航できる時代でもなかったのに。そんな佐喜男に対して、鈴木修は本音を吐露したのだった。

38歳で提出した辞表

鈴木修はUSスズキの責任者を2年間務めたが、同社は10億円を超える赤字に陥った。

「赤字は悪」とは、販売店に対して鈴木修がよく口にしていた言葉だが、USスズキでの経験が原体験となっていたのかもしれない。

67年末には常務になったものの、683月に帰国の辞令を受ける。浜松に帰ると、赤字の責任を取るため鈴木實治郎専務に辞表を提出した。「社長になれないかも……」どころではない、スズキを去ろうとしたのだ。このとき鈴木修は38歳。

最終的に、辞表は「預かり」となり、退職には至らなかった。が、東京駐在を命じられる。明らかな左遷だった。仕事をさせてもらえない暇な状況となった。当時の東京支店は新宿区大京町にあったが、鈴木修は逆境の中で時にパチンコに興じながらも、新たな人脈づくりに動き出していく。持ち前のユーモアと明るさを持って。

 

 

 

Wikipedia

鈴木 (すずき おさむ、1930昭和5年〉130 - 2024令和6年〉1225[1])は、日本実業家

中央相互銀行での勤務を経て、鈴木自動車工業株式会社代表取締役社長(第4代)、スズキ株式会社社長(初・第4代)、スズキ株式会社最高経営責任者(初代)、財団法人スズキ教育文化財団理事長(初代)、スズキ株式会社最高執行責任者(第3代)、スズキ株式会社相談役公益財団法人スズキ財団理事長、同顧問などを歴任[2]198711藍綬褒章受章、20004勲二等旭日重光章受章。20251パドマ・ヴィブーシャン勲章英語版)受章[3]

来歴

生い立ち

岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市)生まれ。旧姓は松田。益田農林学校(現益田清風高校)卒業[4]。戦後、東京都世田谷区の小学校で教員として働きながら中央大学に学び、「戦後の混乱期で大人たちはみんなストライキばかり。子供たちを前に身につまされる思いをした」という経験をしている。なお、当時の教え子の一人には後に参議院議長になる山東昭子がいた[5]

19533中央大学法学部法律学科卒業。中央相互銀行(現在のあいち銀行)入行。1958にスズキの2代目社長の鈴木俊三の娘婿となる。同年4月にスズキ入社。

実業家として

196311月に同社取締役就任。196712月に同社常務取締役197311月に同社専務取締役19786月に同社代表取締役社長に就任。20006月から代表取締役会長(CEO)を務める。200812月から代表取締役会長兼社長(CEO&COO)を務める。20156月から代表取締役会長(CEO)を務める。20166月にCEO職を辞任、代表取締役会長のみを務める。

1975年の自動車排出ガス規制に対応が遅れたスズキを立て直し、社長就任直後に軽自動車アルト1979年発売)を主導。その後もワゴンR1993年発売)の発売など軽自動車の商品力を高めた。

海外進出を積極的に行い、インドでのマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ・インディア)社への積極的支援等を通し、アジア成長国での販売を伸ばした。一方、1981年には巨大自動車メーカーであるゼネラルモーターズGM)との業務提携を進め、さらに1990年代初めには欧州戦略拠点としてハンガリーへの工場進出も実施するなど様々に改革をした結果、社長就任時には1700億円であった売上高を、20073月期では31636億円になるまでスズキを成長させ、世界的メーカーとして認知される基礎を築いた。

197112日本自動車工業会理事、19813中部瓦斯取締役、1991年中部実業団陸上競技連盟会長、19996静岡エフエム放送会長(20056月から相談役)、2006年中部実業団陸上競技連盟会長に就任。公益財団法人日印協会理事・副会長を務める[6][7]

後継者と目され2001年に経済産業省の経済産業政策局企業行動課長を辞めてスズキに入社していた娘婿で取締役だった小野浩孝の健康問題(その後、200712月に逝去)に加え、前社長の津田紘が体調不良を理由に勇退したため、20081211日付でスズキの代表取締役会長兼社長(CEO&COO)となり、兼務ではあるが8年ぶりに社長職に復帰した。社長復帰後はGMとの提携解消に加え、新たにフォルクスワーゲンとの包括的提携を結ぶなど、スズキの新たな社外アライアンスの構築に進めたが2011912日にフォルクスワーゲンとの提携解消を発表し、記者会見の場で他社との提携について「今回で懲りた」と発言している[8]

20156月には、長男の鈴木俊宏に社長兼COOを禅譲し、会長兼CEOには留まることになった。鈴木家からの社長は2代目以降、修本人を含めて婿養子の就任が続いていたため、俊宏が創業者以来の鈴木家直系出身の社長となった。

2021625日の株主総会で会長を退任、相談役に就いた[9][10][11]

202412251553分、悪性リンパ腫のため、静岡県浜松市の病院で死去した[1][12]94歳没。叙正四位[13]

人物

社長就任後に初めて発売した「アルト」について

鈴木は、忘れられない車として1979に発売した「アルト(SS30V)」を挙げている。これは鈴木が1978に社長に就任してから初めて発売した車であるが、排ガス規制対応の新型エンジンの開発に失敗してスズキ全体が打ちひしがれているなか、発売を1年間延期して開発したものだった。工場の従業員が軽トラックで出勤していることからヒントを得、「乗用車」ではなく、荷室を広くした「商用車」として開発。商用車には乗用車にかかる物品税がゼロというメリットもあった。

1台あたりの製造コストを35万円にして儲けの出る車を作る、という目標のもと、技術陣の徹底したコストカットを経て誕生。「安くするために軽くする」というスズキのクルマ作りの原点が体現された車だった。また、同じ自動車でも格上のグレードを見るのは、下位グレードに乗っている人間にとっては不愉快という人間心理にも着目。アルトにはグレードを設けず1グレードとし、50点にも及ぶ豊富な販売店装着オプションを揃えた。売りである価格を際立たせるため、業界で初めてとなる全国統一価格47万円を設定。これにより従来は地域ごとにしていた販促を、全国統一のコマーシャルとして展開。

キャッチフレーズにも鈴木のひらめきがあった。営業企画の資料ではアルトの名前の由来は、イタリア語で才能などに「秀でた」という意味と説明されたが、鈴木はピンと来ていなかった。京都での発表会の前日、たまたま浜松の実家に訪れた外注先の社長の奥さんから聞いた亭主の愚痴「うちの主人があるとき~、またあるときは~」からひらめき、『あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利な車、それがアルトです。』というキャッチフレーズをひねりだし、発表会の会場が大いに沸いたという。こうして誕生したアルトは、その後売れ続け、スズキの屋台骨を支える自動車として成長していった[14]

インド進出について

スズキはインド市場で大きなシェアを獲得しているが、鈴木修が社長に就任して4年目にインド進出を決めたのは半ば偶然のようなものだった。鈴木は、経営者として「どんなちいさな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい。」という気持ちを持っていたと言う。そんなとき、パキスタン出張中の社員が、帰りの飛行機の中で読んだ現地の新聞で、インドが国民車構想のパートナーを募集しているという記事を読み、鈴木のところに持ってきた。パートナーの募集は締め切れられており、申し込みは当初断られたが、あきらめずに掛け合い、3回目の申し込みで補欠として認められた。

19823月、インド政府の調査団が来日するという連絡が突然鈴木の元に寄せられた。このとき運悪く、鈴木には前年に提携したGMとの話し合いのためアメリカへ出張する予定が入っていた。時間はなかったが、羽田空港に向かう際の時間をやりくりし、先方の宿泊していた帝国ホテルを表敬訪問した。30分程度の会談を予定していたが、話しは自動車造りのための工場についてなど詳細な部分までに及び、3時間ぐらいになったという。

インドの調査団は、当初鈴木がアメリカから帰国する前にインドに帰る予定だったが、帰国の予定を引き延ばして鈴木の帰りを待っていた。調査団は、スズキ以外の日本のメーカーとも話し合っていたが、「我々と直接向かいあって真剣に話を聞いてくれたのはミスター・スズキだけだった。」と話した。結果としてアメリカへ行く前に帝国ホテルを訪ねたのが運命の分かれ目で、鈴木は、いざというとき、本気度を伝えるためにトップが出ていくことに大きな効果があると思う、と話している[15]

エピソード

  • 徹底した現場主義、現実主義者として知られる。その経営手腕、歯に衣着せぬ言動などからマスコミの注目度も高く、『日本経済新聞』『日経ビジネス』などの新聞・雑誌のほか、『日経スペシャル カンブリア宮殿』『ガイアの夜明け』など経済番組にも頻繁に登場している。また、全国各地に点在するディーラー小売店の整備工場へは自らの足で出向くほどフットワークが良いことで知られ、現場スタッフやユーザーの声を直に訊いたりするなど顧客の動向や問題点の洗い出し、販売戦略、製品改良等の探求(追求)に余念がない[16][17]
  • 浜松市の市政にも深く関わり、元市長の北脇保之1999 - 2007年)、前市長の鈴木康友2007 - 2023年)はいずれも衆議院議員選挙立候補時から強力に支援している。その一方で浜松市の行財政改革推進審議会の会長(第2期)として市財政について将来の発展を見据えた厳しい指摘を行っている。
  • 軽自動車の増税には否定派である。かつては「軽の税金を上げるだけでなく、リッターカー(具体的には軽自動車を除く総排気量が1,000cc以下の小型登録車)の税金を下げるという話ならいくらでも協力するのに」と発言した[18] ほか、軽の品質向上で登録車と差が無くなった事による不平には「軽自動車は寸法も排気量も厳しく制限されている。そのなかで素晴らしい4人乗りのクルマができているのは、軽メーカー各社の努力のたまもので、いわば芸術品のようなものだ。その努力を見ないで普通のクルマと同じようなものと言うのはいかがなものか」と反論[19]。また12代目キャリイ発表時には「軽自動車は比較的低所得の人が生活・仕事に使っている」として「(軽自動車の増税は)弱いものいじめと感じる」「こういう考え方がまかり通るということになると、残念というより、悲しいという表現が合っている」と発言。また、下請けの仕事量、ひいては雇用にも影響があるとの考えを示した[20]2013111日の中間決算の発表記者会見で、総務省の有識者検討会により、軽自動車の増税が自動車取得税の廃止の代替策として提案されたことにも「考え方が貧弱で、地方税が足りないからこっちで埋めるという泥縄式だ。どう考えても弱い者いじめだ」「今まで安かったから増税するというのは、国際基準からみておかしい」と批判を行った[21][22]
  • 20004月に勲二等旭日重光章198711月に藍綬褒章を受勲している。
  • 海外ではハンガリー名誉総領事を務めあげている。
  • 20073月には「自動車産業を通じてインドの発展に寄与した」としてパドマ・ブーシャン勲章Padma Bhushan)を授与されている。
  • 同じく婿養子経営者であった河合楽器製作所社長であった河合滋と親しかった。
  • 2009年静岡県知事選挙にて初当選した静岡県知事川勝平太を長年にわたって支援している[23]
  • かつて中日ドラゴンズを応援していたが、広報を通して「私はビジネスマンは良き社会人でなければならないと考えますが、落合博満さんは違うようです」と発言[24]河合楽器製作所野球部出身の山井大介を応援するなど郷土への強い愛着で知られるが、落合が財界や有力者への挨拶を嫌い、周囲の反発を招いたことを批判している[24]。地方球団のあり方についての考えは落合と鈴木とで異なるが、「ジジ転がし」の達人とされた星野仙一と対照的な落合の姿勢はこの鈴木発言により、減収が止まらないドラゴンズ営業部から落合への批判が公然となるきっかけとなった[24]

語録

  • 「ゼネラル・モーターズがで、うちがメダカ?いやうちはメダカじゃなくてですよ。だってメダカは鯨にのみ込まれてしまうが、蚊であれば空高く舞い上がることができるのでのみ込まれない。」[25]
  • 「かつては十年ひと昔といったが、今は一年ひと昔。十年先のことを考えるなんて昔で言えば百年先を考えるようなもの。会社のあるべき姿を描くと現実から大きくかい離する。最小限、何を今なすべきかを考えていくことだ。」[26]
  • 「現場の班長と一緒に1万円のコストを浮かした苦労話を聞く。そうしたら無駄遣いなんてとてもできない。」[26]
  • 「土曜休んで日曜も休む奴は要らない。今の日本の悪い所はアメリカ的時間の切り売りが横行している事だ。8時間働けばそれでいいなど通用しない、成果で報酬がでるんだ」[27]
  • 「軽は貧乏人の車だ。スポーツカーは要らない。」[28][29]
  • 「トップダウン・コストダウン、ボトムアップコストアップ」「トップダウンはトップの号令で動くこと(=上意下達)ではなく、トップが現場に下りること」「組織はもろい。トップダウンでやるから組織が強くなる」「金は現場に落ちている」[30]

家族・親族

鈴木家はスズキの創業家として知られており、多くの実業家を輩出している。鈴木修の義祖父である鈴木道雄は鈴木式織機製作所を創業し、のちに鈴木式織機を経て、鈴木自動車工業を設立した実業家である。修の岳父の鈴木俊三は、道雄の長女と結婚して鈴木家の婿養子となり、鈴木自動車工業の第2代社長を務めた。修の長男である鈴木俊宏は、スズキの社長を務めた。また、修の長女と結婚した小野浩孝は、通商産業省からスズキに転じたものの夭折した。そのほか、鈴木自動車工業の第3代社長を務めた鈴木實治郎は道雄の三女と結婚しているため、修の義叔母の夫に該当するなど、著名な係累縁者が多数存在するため、下記の一覧では修の親族に該当する者のみ記載した。

テレビ出演

  • 日経スペシャル カンブリア宮殿テレビ東京
    • 「黒字を搾り出せ! 79歳が明かす"戦時"の経営術~」(200932日)[32]
    • 「大ヒット車を作れ! ~カリスマ鈴木修の経営哲学~」(200946日)[33]
    • 「カンブリア宮殿 2009 激動消費×未来経営 消費者追従を超えて...デフレ国の未来とは?20091221日)[34]
    • 緊急企画!アベノミクスの近未来 為替は、金利は、そして給料はどうなる?201366日)[35]

著書

 


書評『軽自動車を作った男』永井隆著

スズキを育てた「勘所の良さ」

2025920日 日本経済新聞

本書は、昨年12月に94歳で亡くなったスズキ自動車の鈴木修氏の評伝である。長年鈴木氏を取材してきた著者の永井隆氏しか知らないスズキに関する話も面白いのだが、永井氏は長年ビール業界の取材をしてきた経験があり、本書の中でも度々ビールにまつわるエピソードが出てくる。特に印象的だったのが、スズキの宴会がすべて「スーパードライ」になった理由という件で、アサヒビールの社長がスズキの軽自動車でスズキ本社を訪ねたのをこっそり観察した鈴木氏が、全社に指示を出したという。鈴木氏の行動力と気配りが窺(うかが)えるワンシーンだ。

スズキという企業も鈴木修という経営者もコストに厳しいというイメージがあったが、本書を読み進めると鈴木氏がいかにものづくりを大切にしていたかがわかる。「このシートカバーはいらない。すぐに外そう」。インドでの鈴木氏の発言である。一見単なるコストカットのようだが、「いやいや、標準の方がいいんだよ」と言う。標準のカバーが良いものであれば、オプションはいらないはずだということだ。ものづくり経営の第一人者、早稲田大学の藤本隆宏教授はムダとは価値を生み出さないプロセスだという。価値を生み出さないプロセスをカットすることはむしろ顧客価値の向上につながる。スズキのコストカットは顧客価値の棄損ではなく、顧客価値を高めるもの以外をいかになくすかという徹底したものづくり魂ともいえる。

また、ヒット商品の誕生を主導したのも鈴木氏だという。「アルト」や「ジムニー」、「ワゴンR」などスズキを代表する軽自動車の商品化を牽引(けんいん)した。世の中の車が大型化する中で、日本の田舎には小さい車が必要と考え軽自動車に注力していき、同じ軽自動車でも軽四駆や軽ワゴンという新しいジャンルを生み出す。余談だが「ワゴンR」という名称自体「スズキにはワゴンもある」という鈴木氏の駄洒落(だじゃれ)から決まったという。

新しい商品の開発には技術も必要だが、優れた商品開発には技術的に優れているだけでは不十分だ。単なる技術屋でもなく、コストカッターでもない、鈴木氏のものづくりの勘所の良さが、スズキを浜松の地方企業から、日本の軽自動車を代表し、急成長するインドでナンバーワンの企業に育て上げたのだろう。

《評》早稲田大学教授 長内 厚


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