菊池寛 アンド・カンパニー 鹿島茂 22.1.
2022.1. 菊池寛 アンド・カンパニー
著者 鹿島茂 フランス文学者
月刊 文藝春秋 2022年1月号より連載
第1回
オルタナティヴな雑誌
「若手作家に活躍の場を与えたい」
文藝春秋を作った男の”起業家”ストーリー
会社は個性溢れる個々人の集まりだが、各個の個性を超えたところに、ある種の共通性、類似性、つまり社風というものが存在している
自由意思で入社しているはずだが、一旦入ると摩訶不思議な収斂作用に身を委ねるほかなくなり、気付かぬうちにその人は自己幻想とは別の社風という共同幻想の虜となっている
『文藝春秋』創刊100年記念で、菊池寛の評伝のオファーに応じたのは、彼ほど社風という共同幻想の問題を考える上で最適な人はいないと感じていたから
文春の社風は、創業者菊池寛の独特のパーソナリティに負うところが非常に大きい
他者とは次元の違う社風がある――①平等性、②楽天性、③汎用性(非専門性)、④市民(ブルジョワ)性、⑤個人主義、という特徴に要約できる
平等性については、社員間に区別意識がなく、新人でもベテランと対等に付き合える。非権威主義。ただし男性間のみ。女性は対等の扱いだが除外
楽天性については、半分水の入ったコップを前に、新庁舎社員は「もう半分しかない」と悲観的に捉えるのに対し、文春では「まだ半分ある」と楽天的に考える
汎用性は文春の社是のようなもので、社員は2,3年周期で部署を移動。専門性なきヴァラエティ性が文春最大の特徴。それを支えるのがブルジョワ性で、ハードな学術系セクションと大衆的なセクションの双方を欠いた真中だけの出版社で、それも講談社のような全体を足した総和の平均としての真中ではなく、両極端を控除した後に残る真中性が特徴
ブルジョアとは都市的であることを意味し、階級的要素はなく、創業から変わっていない
個人主義も文春の伝統で、本業に支障のない限り副業を認め、仕事と私生活を分離
表題の「菊池寛 アンド・カンパニー」は、「シェイクスピア・アンド・カンパニー」の顰に倣ったもので、「菊池寛とその文学仲間たち」という意味と、「菊池寛と共同経営者の会社」という両方の意味を兼ねたタイトル
菊池は創刊15周年に、「自分の文学者としての価値は後世の批判を待つが、雑誌経営者としては確かに成功した」と述べ、『文藝春秋』ほかの雑誌こそ自分の最も重要な「作品」であると自負している。これらの「作品」こそ、作者の意図を超えたものを内に含んでいる
「超えたもの」とは、「オルタナティヴ」で、現存の選択肢に代わり得る選択肢ということであり、創刊号でも「依頼原稿ではなく、自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなく言える雑誌を出すのだ」と言っている
販売面でも予約購読制度を始め、一種のクラウドファンディングをやっている
さらに菊池の頭の中には、「思想としてのオルタナティヴ」という重要な役割も考えていた
「創刊当時は、自由主義の立場からプロレタリア文芸と抗争したが、その後も左傾せず右傾せず、常に良識と良心とをもって、編集の方針としている。根本精神は、中正な自由主義の立場にあって、知識階級の良心を代表するつもり」とも語っている
菊池寛が夢見たオルタナティヴ・メディアとしての『文藝春秋』という観点からの評伝としたい。集団の夢としての『文藝春秋』、「菊池寛」を描いてみたい
第2回
月給8円の呪い (2022年2月号)
教科書が買えず、修学旅行にも行けなかった文豪・菊池寛の幼き日々
1888年高松生まれ。代々藩儒の家系。漢詩人・菊池五山(1769~1849)は縁戚
父は没落士族で、維新後は小学校の庶務係として薄給を得ているにすぎず貧しく育つ
月給8円での貧乏生活の屈辱的な思い出のトラウマとして残った
成績がよかったのに、高等小学校を4年まで行ったことこそ最高に屈辱。3男の菊池寛迄授業料が残っていなかったため、4年を終えた後中学に行けば2年で師範学校の受験が出来たからだったが、肝心の受験に失敗
師範学校と並んで没落貧乏士族に開かれた道は陸軍幼年学校で、有償だが様々な減免措置があった――大杉栄、岸田國士、三好達治らは陸幼で、いずれも軍人への道を拒否するが、陸幼で学んだフランス語をメシの種にしている共通点がある
菊池寛も含め、明治後期という時代に特有な集団的無意識のようなものが現れている
第3回
百舌(もず)の博士 (2022年3月号)
高等師範学校を除籍に――挫折と反発の青年時代
1908年、高松中学卒業後、東京高等師範が推薦入学制度を発表、運良くその枠に入ったが、1年余りで放埓不羈を理由に除籍――思い当たるのは授業をさぼったこと
菊池寛の文学熱の始まりは新聞小説、次いで尾崎紅葉らの硯友社の機関誌と化していた博文館の『文藝倶楽部』
菊池寛という複合的なパーソナリティを構成する要因には、硯友社系文学というソースのほかにも、中学から習慣行動となった図書館通いが生み出した新たな精神傾向がある
上京して上野図書館の無尽蔵な蔵書を見て驚きかつ満足したと語っているが、「菊池寛という名の時代精神」ともいえる集団的無意識がはっきりとした形をとって現れている
「菊池寛という名の時代精神」とは、没落士族階級の子弟が、社会的ポジションの閉塞から脱する唯一の抜け道を「タダで万巻の書を読む」ことのできる図書館の中に見出した時に示す特有の精神性であり、他の同世代にも見られて同時代性を帯びている
当時の図書館は、西洋のスタンダードに忠実に、ジャンルに優劣をつけずに集書に励み、利用者のリピート頻度など歯牙にもかけず、ひたすら百科全書的な「普遍性」の理想に向かって走るという精神の原型が示されていた。その結果、短期間に万巻の書を読み尽くした菊池寛や同学年の石原莞爾の頭脳には、文芸雑誌しか読まない文学青年とは異なり、「普遍性」の理想が着床、若くして個々人から「普遍人」へと変化を遂げていた。これこそが人生途中において図書館という「夢実現機」に向かった明治世代の時代精神であり、集団的無意識だった
この普遍性志向こそが、中学教員以外に進路のない高等師範の専門性を拒否する行動に及んだ最大の理由で、この「普遍性」志向は決して菊池寛1人だけのものではなかった
子供の頃から熱中したものに蜻蛉取りや百舌狩りがあったが、何れも目的は獲物ではなく捕獲の方法を極めることで「モノの探究の探究」が真の狙い
高等小学校2年の時、友人から万引きを教わり実行したのが露見して、各学校で一斉に摘発が行われ、処罰の厳しさに恐れおののくと同時に、以後教師たちから差別的な扱いを受けていたのも、教師という職業に嫌気がさした一因
1909年、除籍後は高等学校進学しか残されていなかったはずだが、菊池寛が選んだのは明治大法学科というオプション
第4回
英語天才伝説
「引き返すなら今しかない」。実学を退け文学を志した
縁戚にいた漢詩文の名手・菊池五山を誇りとし、永井荷風が五山のことを書いた文章で盡く「菊地」としたのに腹を立てた菊池寛は、「難しい詩句など引用するのも結構だが、人の名ぐらい正確に書け」と書いたため、菊池寛と『文藝春秋』が永井荷風の不倶戴天の敵となる
除籍された菊池寛は、短時日のうちに身を立てる方法として法律を目指す。普遍性志向を一旦封じ込めて一本立ちをしようとした
そこに養子の話が舞い込み、法律学校の学資を提供してくれることになったが、明治に通ううちに、どうせ遅れているのなら、一番性に合う文学をやろうと決心し、明治を退学して一高を受験。鍵は英語だったが、高松中学の頃から抜群の記憶力を活用して英語力をつけていた。徴兵猶予のため、一旦早稲田大の文科予科に入学。早稲田の同期には広津和郎などがいる。最大の収穫は図書館で西鶴全集を閲覧できたことだが、『男色図鑑』に随喜の涙をこぼし、「同性愛」を告白したことが後に一高入学後の運命攪乱要因となる
第5回
恋する18歳
第一高等学校で得た「親友」と「恋人」
1910年、一高第1部乙類入学。諸事情で合格定員が20人に半減していたが得意の英語力で4番で合格。同期には芥川龍之介や久米正雄(無試験)、松岡善譲(8番、漱石の娘婿)、成瀬正一(寮で同室)、山本有三、土屋文明は留年で同期になり、丙類には倉田百三、秦豊吉、藤森成吉もいて、2年の遅れを一気に取り戻す人脈を得たのは幸運
明治大も法科も止めた菊池寛に対し、養子縁組解消となり、また貧しい実家に頼る
2年からは寮の同室は文科だけとなり、久米、松岡、成瀬、佐野(後の共産党委員長)と享楽主義を実践する一方、創作に精出し切磋琢磨して第3次「新思潮」を立ち上げる
佐野文夫は、父が「公立図書館の父」といわれ、一高は無試験入学。倉田と並び抜群の秀才で、容貌に対する強いコンプレックスを持っていた菊池寛と同性愛関係になる
菊池寛の同性愛はリアルで、中学5年のとき1年生相手に愛の手紙を送っている
第6回
マント事件
友の罪をかぶり、学校をあとにした菊池青年の心のうちは――
1913年4月11日、1年生のマント紛失に関し菊池が生徒監から詰問
佐野に傾倒していた倉田百三が接近するために妹・艶子を紹介、佐野が艶子とのデートに一高生のシンボルであるマントを着ていこうと勝手に持ち出したもので、その挙句質入れまでしていた。菊池は以前から佐野の盗癖に気付き、今回も佐野の犯行と確信したが、本人に確かめるために一旦罪を認めて生徒監から逃れ、佐野を問い詰めると白状したが、累が父親にも及ぶことを恐れて助けを求める佐野を見兼ねて身代わりになり退学したというのが菊池の述懐
一高生の間では菊池の退学原因について様々な憶測があり、友人が後に書いたところでは、菊池が同性愛故にパッシヴの佐野の罪の一切を被ったという。恐らくこの情報の出所は菊池や佐野と寮で同室だった久米正雄で、数年後銀座で3人が出くわした際、菊池は忽ち情緒てんめん(纏綿)に燃え上がったと証言している。久米は『新潮』の「菊池寛氏の印象」と題したコラムにも、「同性恋愛の宣伝者」と思い出を語る
菊地は2人の邂逅を『青木の出京』に描いているが、これらの記録から言えるのは、2人が心理的にサド・マゾの関係にあったが、リアルではなくプラトニックだったと想像
本来、サド=アクティヴだが、当時の西南日本的風土では、年長者=パッシヴはタブーであり、菊池=年長者=マゾ=パッシヴという構図はリアルでは成り立たない
佐野の罪を被って6年も人生の回り道をした菊池だが、仲間との結束はより強まった
第7回
空白の4日間 (2022年7月号)
“悪友”に仕立て上げられた菊池の大学進学やいかに
マント事件で翌日退学を決意したがそのあと成瀬にその旨を告げるまでの4日間が空白
菊地は、将来に傷がつかないように、自ら退学届けを出し寮を出る
菊地は、寮で一緒になったこともある一高無試験入学首席の長崎太郎に、内密を前提に事件の顛末を明かすと、長崎は佐野に事実を糺すが、佐野が認めなかったために、自ら新渡戸校長に菊池の無罪を訴え出る。新渡戸が善処を約束したが、直後に徳富蘆花の「謀叛論」の演説の罪を負って退任したため、立ち消えに
退学に同情した成瀬が、十五銀行頭取の父親に頼んで、菊池を白金三光町邸内の書生部屋に住まわせ、学資も成瀬家で出してくれることになり、帝大文科大の選科に入って、9月の検定試験を経て本科に行く目途がつく
成瀬家に世話になるまでは、二六新聞の新刊批評に応募して賞金稼ぎをやっていた
成瀬家に寄寓する際、成瀬の母から3つの条件を出される――「菊池寛不潔/無頓着伝説」の通りだったのを心配して、「万年床をしない、毎日顔を洗う、毎日風呂に入る」としたが、ひとたび菊池を成瀬家に預かると、夫人はその才知と人格に感心し、家族同然に扱う
校長交代でマント事件が闇に葬られるのを恐れた長崎が義侠心から後任の瀬戸虎記校長に直訴したため、一高は再調査に乗り出す。菊池が真実を話せば佐野共々学校に残る手配が出来ていたのに、菊池は前言を翻さず、性格的に弱い佐野が召喚され全面自供となったため、佐野は謹慎、父親も呼び出され一緒に帰京という処置がとられた
菊地は選科入学を志願したが、上田万年校長が却下、やむなく京都帝大の選科に変更
上田は佐野の父と東大同期で、佐野の保証人でもあり、佐野を窮地に陥れた”悪友”の入学を認めるわけにはいかなかった。菊池は長崎に激烈な怒りの手紙を書くが後の祭り
第8回
京都の孤独な夜 (2022年8月号)
“東京組”の友情が彼を文壇に押し上げた
1913年、京都大学英文科選科に入学するが、文学を語る友のいない孤独と焦燥が、作家・菊池寛を生む酵母となる――1918年『中央公論』に発表して文壇的地位を確立した『無名作家の日記』に詳述
『万朝報』に菊池春之助のペンネームで投稿した『禁断の木の実』が当選、懸賞金で糊口を繋ぐ。そのほかにも新聞・雑誌への投稿を再開、健筆振りを披露するとともに、京都での文芸復興運動を起こそうとして動き回るが、その背景には以下3つの出来事があった
①
英文科教授だった上田敏に勧められてアイルランド文芸復興運動のシングやイエーツを読んだこと――東大の外文系研究室は保守的で、研究対象は死後50年経った作家に限定され、現代文学やアイルランド文学などは対象外
②
宮武外骨が創刊した大阪の新聞『不二』の文芸欄担当石丸桔平(梅外)が大阪での文芸復興を訴え、菊池寛の投稿を積極的に掲載したこと――石丸は、今宮中学の教諭時代折口信夫の同僚で、『不二』から京都の『中外日報』へ移籍後も菊池を常連寄稿家として登用したが、せっかくできかかった仲間との準備会が茶屋での遊びに堕ちるのを見て失望
③
上田敏の無関心――上田を頼って京都に行き、才能を認めてもらって文壇へのデビューをしようとしたにも拘らず、同人誌創刊に興味も示さなかった
1914年3月復刊の『新思潮』の同人に加わる――『新思潮』は1907年小山内薫が創刊した文芸雑誌。'10年に東大生だった谷崎や和辻、芦田均らが小山内の許可を得て第2次『新思潮』として復刊し、谷崎の『刺青』などが永井荷風や上田敏に絶賛され一躍文壇の寵児となって文壇の注目を集めた。その神話を引継いで’14年に復刊されたのが第3次『新思潮』。中核メンバーは山本有三ら'09年一高入学グループで、これに久米、松岡、成瀬、佐野の南寮グループや芥川が参加、菊池も誘われた
京都の仲間と京都に嫌気がさした菊池は、『新思潮』参加もあって1年も経たないうちに東京の成瀬邸に戻る
成瀬は、第3次『新思潮』の同人形成に際しても、異なるグループを糾合する接着剤的な役割を果たすとともに菊池も誘い、’16年には芥川、久米、松岡と第4次『新思潮』の創刊を企図するが、その際も菊池の参加を強く主張。第4次『新思潮』を母体とした「菊池寛 アンド・カンパニー」の生みの親ともいえる存在であり、大正文学の隠れたキーパーソンの1人
第9回
「無名作家」の見た曙光 (2022年9月号)
発表の場を失い、同人に否定されても書き続けた
成瀬は芥川と菊池をより強く結びつける働きもした――成瀬が菊池を連れて芥川邸を訪ね、
上京時に高校卒業検定試験に合格し、京大文学部本科に移籍し学位取得も視野に入る
日本と酷似したアイルランドに魅せられ、アイルランド戯曲の集中的読書により、自身の創作の不十分性を認識し、創作活動から手を引く
エマニュエル・トッドの家族人類学的な観点に立つと、アイルランドと日本は、ユーラシアの辺境ということで起源的な核家族の基層が強く残り、その上に、土地の狭隘さから発生する直系家族が乗った複合型の家族類型ということになるが、菊池はその類似を100年も前に発見していたことになる
‘14年9月をもって『新思潮』が休刊となって創作発表の場がなくなったこともあり、再度上田敏に頼って文壇復帰を狙うが無反応で挫折
‘15年末、第4次『新思潮』の復刊に誘われ、久米、芥川、松岡、成瀬と共に創刊準備に入り、結果的に菊池寛アンド・カンパニーの誕生を意味する
菊池は15枚ほどの短い戯曲『藤十郎の恋』を書くが、芥川から糟粕を嘗めただけの悪作だと全否定される。批判を受け容れつつも、周囲の近代的なリアリズムに対し、インナーリアリズムを提唱、芝居という本質的に「嘘」という旧ジャンルに属する中で「真実」を追求
アイルランドのシングに心酔し、彼の唱える自然主義とロマンチシズムが共存する新しい芸術を目指す――『藤十郎の恋』も後年短篇として書き直し、脚色して鴈治郎が演じる
‘16年2月創刊の『新思潮』は、夏目漱石が芥川の『鼻』を激賛して注目が集まったが、菊池の書き直した戯曲『暴徒の子』は無視。その後も書き続け、毎号上田に贈るも無反応だったが、シングのエッセンスを自家薬籠中のものとし、芥川にも久米にもないものを自分は書いているのだという自覚を持つようになり、次第に芥川と久米もそれを認め始める
京大の卒論は『英国及び愛蘭(アイルランド)の近代劇』
第10回
砂を噛む日々 (2022年10月号)
就職、結婚――くすぶる作家の魂を救ったものとは
菊池は自ら京大の3年間を「砂を噛むような無味な、不快な3年」と総括
状況の際上田敏の逝去を知らされるが、香奠の5円がなく、葬式には行かず
東京では成瀬の家に厄介になる。成瀬はアメリカに留学
成瀬の父の紹介で最大の出版社・博文館に行くが不採用、成瀬の弟の世話で時事新報に入社するが社会部で、2年半の間記者としての才能のなさを実感
記者時代の最大の出来事は'16年漱石が死去した夜の取材――『新思潮』同人仲間は漱石に私淑し、木曜会で漱石から各自の作品の批評を聞いていたが、戯曲を好まなかった漱石は久米や菊池の戯曲を全否定、それを仲間が外で言いふらしたため、菊池は木曜会をボイコット。そんな時に漱石死去の知らせで、弔問に生きながら記者としての職業意識が出て、弔問客から談話を採ろうとしたのでつまみ出された
記者時代も作品をコンスタントに発表していたようだが、記者という職業へのコンプレックスと、書いても書いても認められないことへの失望から創作に陰りが出始め、他方『新思潮』は、芥川や久米など、稿料の出る文芸誌から注文を多く受けていたため、同人誌の存続理由がなくなり、'17年漱石追慕号を区切りに休刊となり、菊池は書く媒体を失う
月給がなくなって困った菊池が考えたのがバアナード・ショオのように財力ある夫人との結婚で、実家にその旨伝えた途端に良縁がいくつも来て、旧高松藩士で地元の資産家の娘・奥村包(かね)子と’17年結婚。包子は変人で奥村家でも一種の厄介払いだったらしい
包子は時代に逆行する社会的保守派、人間嫌いで人前に顔を出さなず、親友の芥川や直木ですら顔を見たことがないが、菊池は深く愛しすぐに娘ができる
‘63年の映画《末は博士か大臣か》は、菊池と、高松中・京大で親友だった綾部健太郎との話
経済的にも安定した菊池の自信を回復させたのが『帝国文学』の編集者・江口渙。菊池の戯曲が過小評価されているのを不満に思っていたところに『恩を返す話』を読んで激賞し、菊池に手紙を書き、菊池を見事蘇生させる
第11回
旭日昇天の新進作家 (2022年11月号)
亡き恩人への思いを胸に、怒涛の進撃が始まる
'17年秋から各誌に作品を発表し始め、初めての原稿料を手にすると同時に、初めて書評家として褒めてくれたのが『早稲田文学』で文芸時評を担当していた本間久雄。芥川が『ゼラール中尉』を賞賛してくれたのは最大の励ましとなる。娘の誕生も責任を感じて生活に緊張が出たと述懐していたが、大恩人の成瀬峰子が急逝してショックを受ける
その様子は『大島が出来る話』に詳しいが、形見分けで大島紬の羽織と着物を贈られ、妻が仕立て直しして念願の大島の着物が出来たものの夫は複雑な感情に襲われるという筋立
ほどなく文芸雑誌の雄『中央公論』からの執筆依頼がきて、名伯楽の主幹・瀧田樗蔭にも認められ、中堅作家として文壇で名声を確立
『新潮』は、「'18年の文壇は、佐藤春夫・菊池寛の2才人を高座にのぼせた年として記憶さるべき」と書いたが、その上り調子の頂点が『恩讐の彼方に』(‘19年1月『中央公論』)
優れたタイトルは優れた作品のメタファー(隠喩)であり、タイトルとしてのメタファーが凝縮しているのは主題(テーマ)だとされる典型的な作品
‘19年3月には時事新報を退社して大阪毎日新聞に入社――芥川の入社申し出に対し、主幹の薄田泣菫が、菊池と2人のセット入社を条件にしたもの。給料が倍増して安定
菊池の合理主義については、小島政二郎が、「傍若無人というか、勝手放題というか、それでいて自分の正直と誠実とを他人の腹中に置いているといった態度は、男らしく頼もしかった。体裁をつくろうことなど微塵もなく、損だからいやだと思えばはっきりそう言い切った。相手の思惑や気兼ねなどなく、羨ましいくらいに率直。こんな強い性格の人間に逢ったことはない」と述懐
第12回
『真珠夫人』創作秘話 (2022年12月号)
性愛においてもウルトラ自由主義者だった
1919年、大阪毎日新聞に入社した菊池が連載した第1回作品は『藤十郎の恋』で、第4次『新思潮』創刊号のために書きながら芥川や久米らの反対で没にされた戯曲を中編小説に仕立て直したもの。歌舞伎役者が芸を磨くために好きでもない女性を誘惑するというテーマは、「道徳と芸術/芸の相克」という自信のヒューマン・インタレストの中核をなすもので、小説という形で蘇らせようとした
名優・鴈治郎主演で劇化され、大阪・京都・東京でロングランとなり、大きな追い風となる
ただし、全集などに収録されているのは、菊池自身が小説をもとに戯曲化したもの
劇作家・菊池寛が誕生、処女作品集『心の王国』の収録戯曲が次々に舞台化。決定版は’20年猿之助の劇団春秋座の旗揚げ公演となった『父帰る』で、初日の幕が下りた際には、菊池自身が泣いたのみならず、芥川も久米も小島政二郎も皆招待席で目に涙していた
作家が後世に残るためには作品に依るほかないが、全体として素質が秀れていても、人口に膾炙する作品が1つもない人は結局大衆からは忘れられてしまうと、自身でも述懐しており、『父帰る』こそ菊池寛の後世に残した1篇と自己認識していた
元々小説を書くことは生活のため、生活の安定だけは得たいと思っていたので、純文学で終始しようという気などなく、文壇に出て数年にならないのにもう通俗小説を書き始める
転換点となった作品が、1920年6~12月『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載され、菊池を流行作家に押し上げた『真珠夫人』――療養している妻を見舞う途上、事故死した青年から、今わの際に時計を女性に返してくれと頼まれ、青年の葬儀でその女性を見つける。女性は絶世の美女で、父親の借財のために大富豪に金で娶られるが、富豪が死んだあと富豪への復讐から、言い寄る男たちを翻弄しながら女王蜘蛛のような生活を送り、自分も妻のことなど忘れてたちまちその魅力の虜となる
小説家らしい想像と構想力に加え、欧米文学から得た連続小説のストーリー・テリングの技法(続きものとして、含みを後続に残す書き方)を完全に自家薬籠中の物にしている
面白くてしかも本当らしい小説を書くと言って理想的モデルを見出したのは、バルザックの『人間喜劇』で、冒頭の事故と遺言はバルザックの短編『ことづけ』の枠組みを借りたもの。結婚を機に容貌コンプレックスのミソジニー(女性嫌い)からフェミニストに鞍替えし、バルザックの女性研究に範を求めた成果を凝縮したのが現代版カルメンが言い寄る無数のドン・ホセを撃退する「女の闘い」の物語
『真珠夫人』人気沸騰のもう1つの理由が大正年間におけるジャーナリズムの脅威的拡大で、ジャーナリズム興隆の中心となった大阪での高学歴女性層にターゲットを絞って拡販競争を展開したのが『大阪毎日新聞』と『大阪朝日新聞』
連載が終わらないうちに、小説の前半部分が舞台化され、浪花座にかけられたのも、さらに人気を煽り、菊池は文壇の枠を超えて文芸世界全体の覇権を握ったばかりか、女心を理解する唯一の男として日本中の女性の「心の友」となり、バルザックのような地位を獲得
第13回
『ついに創刊』(2023年1月号)
その伏線となる2つの事件があった
1つは1919年『大阪毎日新聞』に中編『友と友の間』を連載したことで、この作品が第4次『新思潮』の1つの総括となっている――久米正雄と松岡謙という同人同士の恋の鞘当てを客観的な観察者として描いた作品で、第4次『新思潮』解体の課程が記されているもう1つは1920年暮、川端康成が菊池寛邸を訪れ、『新思潮』継承刊の許可を得ようとしたこと――『新思潮』は東大文科在学生が主体となって出す同人誌で、名称の継承には前の同人の許可が必要だが、川端は第5次同人だけでなく第4次同人の許可も必要と判断したためで、「菊池寛アンド・カンパニー」は第4次同人の実質的解体を経て第6次同人主体のグループに変容し、「拡大版菊池寛アンド・カンパニー」ともいうべきものが誕生し、これが1922年末の『文藝春秋』の創刊へと繋がる
1つめは、後の久米の小説『破船』に因んで「破船」事件と呼ばれるが、発端は1916年夏目漱石の死後、久米と松岡が葬儀の実働部隊として働き、未亡人の鏡子と娘の筆子と親しくなったこと。2人は一高の寮の同室で無二の親友。最初に筆子に惚れたのは久米だったが、筆子は松岡に好意を寄せ、久米は松岡から何とも思っていないとの言質を取って、鏡子の承諾を得、筆子も黙諾。夏目家の跡を世話してくれる相手を優先、寺の息子の松岡のことは諦めた。漱石門下生は小宮豊隆を筆頭に久米などよくいって通俗作家にしかならないと猛反対、久米を中傷する山本有三の怪文書騒ぎに発展
松岡は、父との関係がこじれ、筆子の家庭教師を頼まれ、筆子も直接告白したため、鏡子も久米に引導を渡す。傷心の久米を救ったのは菊池の口利きで手にした原稿料。人生の大部分は金で解決できるという考え方(=菊池式損得哲学)は既にこの頃から育成されていた
松岡と筆子は'18年結婚。久米は事件を題材にした小説を『破船』まで書き続け、2人の仲は決定的に亀裂、晩年に至るまで修復されなかった。松岡は臨時当主の座に収まるが実質的に筆を折り、’27年『憂鬱な愛人』発表まで事件について沈黙を守る
もう1つの川端の菊池邸訪問は、東大英文科の同級生2人と一緒で、自分たちだけに許された特権として第6次『新思潮』の創刊を考えた。先輩同人への了解を取る際に登場したのが一高の寮に入り浸っていた不良偽学生の今東光。顔だけは広く、芥川邸で菊池も顔見知りで、今東光が川端らを紹介したしたことから菊池邸訪問が実現
今東光が菊池五山のことを口にしたことで末裔の菊池は今を評価、同じように才能を認められたのが横光利一で、菊池が川端と引き合わせたことが新感覚派成立に繋がる
1920~22年にかけて、菊池の周りには、才能に恵まれながら作品発表の媒体を持たない「飢える自由」(吉本隆明)を選んだ文学青年たちが次第に集まり始めていた。菊池は生活費の面倒などを見ながら、彼らに発表の場を与えることを考え始め、その構想を『新思潮』や『蜘蛛』の同人たちに伝える
1923年1月1日、四六判でわずか28ページ、定価10銭の創刊号発刊
第14回
『文藝春秋』創刊秘話(2023年2月号)
物が云いたくて、ウヅウヅしてゐる、すべての人に――
創刊号3000部は3日で売り切れ。『中央公論』1円、『新潮』80銭
菊池が才能を発掘した佐々木味津三に書名を相談、彼の提案で書名が決まる
国家社会主義の雑誌『局外』の体裁を借りて、目次を兼ねた表紙、5号男活字と6号活字の4段組み(巻頭エッセイ)を採用、制作費200円は菊池が全額負担した純然たる個人雑誌
創刊の動機は、「自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云ってみたい、若い人たちには物が云いたくてウヅウヅしている人が多い」といているが、もう1つ、前年秋に2年間の洋行を『大阪毎日』に要請したが却下されたことがある
自費洋行を考え『婦女界』に『新珠(にいたま)』の連載を始めると、相当の印税がもたらされ、新聞小説の舞台化・映画化など月収は1万円を超えるとまで噂され、やっかみやスキャンダルを暴こうとする動きが活発化。そこで自らの雑誌で非難攻撃に対応しようとした
元々、菊池は悪口や非難には敏感に対応、腹を立てると誰彼構わず速達で抗議したので、その抗議文を「菊池寛の速達」と呼んだ。抗議文を一纏めにするのが新雑誌の目的の1つ
号を追う毎に発行部数を増やし、関東大震災で幻となった9月号は1.5万部という大飛躍になったのは、菊池の自己防衛のためというより、無名作家の発表の場提供の意味合い
ただ、内容は小説誌というよりエッセイ誌、それもレベルは相当低いにもかかわらず大ヒットしたのは、どれも凡庸だがその凡庸さがある共通な方向性を示していたからこそ、同じような傾向の広範な読者がついたと言える。その共通の方向性とは簡略な表現媒体で鬱憤を晴らす孤独な若者のつぶやきであり、「大正版SNS/BBS(電子掲示板)」ともいえるもの
つぶやきながらそれをパブリックに聞いてほしいという「ドーダ!」願望が全国的な規模で蔓延していた――出生数の急激な増加という波の山に浮かび上がるドーダ人間を同人としてリクルートすることにより、第5波という明治以来最大の人口増加の波の上に『文藝春秋』を乗せることに成功
つぶやきの内容は大別して3つ――①私怨を晴らす(文壇ゴシップが多く、標的は永井荷風、倉田百三など)、②オタク的なモノローグ、③プロレタリア文学者への反発・揶揄
①
は今も巻末の「社中日記」として残る社内の仲間いじりの伝統となった
文学史的に見て重要なのは③で、プロレタリア文学側から『文藝春秋』はブルジョワ文学者の牙城だと反発が炸裂、さらにプロレタリア文学側の作家の寄稿が物議を醸し、菊池寛は「妥協こそ現代における生活の要諦だ」と主張するとともに、編集の原則確立の必要を感じて、「いずれのサイドでも、文藝を愛する人々には誰にでも書いてもらう積り」と宣言するが、これこそ現在も脈々と受け継がれている「開かれた」編集姿勢。大正11,2年という左右対立が最も激化した時代に生まれたものだけに、今日においてもなお有効に機能し続けているもの。観念的な制度設計においても菊池寛は偉大だったというほかない
第15回
『ブルジョワ経営者』(2023年3月号)
関東大震災で『文藝春秋』9月号は灰と化したが・・・・
『文藝春秋』は順調に部数を伸ばし、4月号では黒字化。8月号の編輯後記で損得勘定を公開、決算を公明正大に行うことで投資家の信頼を得るという欧米型の経営スタイルをよく理解していたためで、菊池寛の経営者としての近代性を見ることが出来る
原稿料をきちんと払うという、資本主義社会の真っ当な倫理に則って行動し、等価交換を道徳とする正しい意味での「ブルジョワ経営者」だった。この意味は決して小さくない
さらに成熟しつつある大正末期の大衆社会が求めるものを正確に読み取っていた
①
5月号を臨時創刊号とし、プロレタリア作家も含めなの売れた作家12名の短篇を載せ、初めて小説や戯曲を掲載。横光利一の『蠅』は後に代表作となり、菊池寛の鑑識眼の確かさを証明。ページ数を倍増したが紙質を落として価格は据え置き
②
6月号から、「地方講演部」設立。作家のランクと講演料を明示して地方の読者に選ばせる。作家の糊口の資にすると同時に、作家の生の声を聞きたい地方読者を繋ぐ
菊池の転居遍歴――川端康成が住所の移り変わりをこまめに記録し、『菊池寛氏の家と文藝春秋者の10年間』というエッセイにした。関東大震災の後は、郷里に逃げ帰った室生犀星の空き家に移り、1926年有島武郎邸に本社を移した時から公私分離
大震災では、1.5万部刷った9月号が灰と化し、芳町の芸者との間の隠し子を探し当てて母、祖母まで駒込の自宅に連れ帰り、包(かね)子夫人との同居生活が始まるが、11月号に掲載した『災後雑感』に「生々しい実感は、容易に芸術化を許さない」と心情を吐露し、作家活動や出版活動に対する強い疑問を感じていた。もっと正しい生活をして、どんな時代が来ても俯仰天地に恥じない生活をしたいと思い、最初は武者小路氏のような自給自足の生活を考え、次いで関西に拠点を移そうと真剣に考えたが、何れも未遂に終わる
『文藝春秋』が10月末には復刊できる態勢が整い、同人や友人全員の無事が確認されたこと、さらには読者の復刊を望む声が届いていたことから、東京に留まって『文藝春秋』を続ける決心をした。さらに菊池寛や芥川世代に始まった人口増加の「膨張力」が、菊池寛に「無限の可能性」を感知させ、復刊に向かって翻意を求めたのだろう
第16回
『菊池寛帝国が崩壊』(2023年4月号)
衆目を集めた今東光との「全面戦争」
『文藝春秋』は急速に立ち直り、1924年4月号では2万部に達し未払いの原稿料も寄稿家に分配。新企画「文藝講座」という有料のカルチャー・スクールで復興景気に沸く新中間層の勉強熱と同調し大当たり、昭和の「講座」ブームの先駆けとなる
最大の危機が「文藝春秋清規」にある「いかなる大家の原稿と雖も9枚以上絶対お断り」で、長編発表の座を求めた川端や横光を惹きつけたのが1924年6月創刊のプロレタリア文芸雑誌『文藝戦線』で、その編集同人が今東光。川端らは、早速同人誌『文藝時代』を企画、世間は『文藝春秋』分裂かと色めき立ったが、川端は成長して恩返しすると独立宣言
そんな中で『文藝春秋』に掲載された直木三十三の『文壇諸家価値調査票』なる戯文で、作家を様々な項目で採点したものだが、それに今東光と横光が激怒、2人そろって反駁文を書き、『新潮』と読売新聞に投稿したが、横光は川端に恩知らずと諭され原稿を撤回したため、今東光だけが菊池寛と喧嘩をする羽目に。菊池寛に一蹴された今東光は「反菊池寛」陣営の構築に向け情熱を燃やすが、『文藝時代』の同人からも追い出され次第に孤立、1930年出家得度、以後天台宗内で栄達。1953年短篇『役僧』で『文藝春秋』に復帰、’57年には『お吟さま』で直木賞受賞、宿敵が直木のために制定した文学賞を反逆児が受賞したとしてマスコミは大騒ぎ。2人の確執は恩讐の彼方に
第17回
『総合雑誌へ大転換』(2023年5月号)
「文藝を基調として、あらゆる方面に、ひろがって行かう」
1925,6年は菊池寛のジャーナリストとしての天才が、対社会的に一々手応えを感じた、最初の開花期で、大発展を遂げる――発行部数は11万部へ
成功の要因の1つは、新聞への全3段広告掲載――渾身のスローガンとなる名文句を考案
なかでも、「六分の慰楽四分の学芸」は2段階のコンセプト転換を見事に言い表していた
第1段階は、執筆者の枠を既成文壇人にも広げ、「文壇オールスター雑誌化」――文壇人のほぼすべてが顔を揃えていたが、永井荷風だけは、先祖の「菊池五山」を「菊地」と誤記したのを指摘したため、「菊地は性質野卑奸獝、交を訂すべき人物にあらず」として何度原稿依頼しても拒否されていた
第2段階は、「総合雑誌化」――文芸愛好者の上限とされた3万部を超えるための手段で、ベテラン知識人を執筆者として取り込み、次第に執筆の比重が増していく。特に菊池寛が少年時代から憧れていた徳富蘇峰が読者だったことを知ったときは狂喜、路線変更を決断
明治の新聞条例では、政治経済を扱う「大新聞」と文化芸能のみの「小新聞」という法的区別があり、「大新聞」は政府に保証金を納めなければならなず、雑誌にも適用されたため、菊池寛は1926年路線転換を決断、『徳富蘇峰座談会』を皮切りに新たな鉱脈を発掘
「座談会」形式も、当初は単なる「座談の会」だったが、徐々に談論風発、現代的な意味に近づき、菊池寛のヒット発明となって、発行部数の飛躍的拡大に寄与
「文藝家協会」発足に尽力――1926年山本有三中心のギルド的団体の「劇作家協会」と、「小説家協会」を合併、ともに作家の権利擁護と相互扶助を目的とした。戦後は「日本文藝家協会」と改組し、著作権の管理業務を行う。1936年の著作権法改正にも尽力
1926年『演劇新潮』復刊創刊――販売不振のまま1年余りで廃刊
同年『映画時代』創刊――好調に推移したが、’30年には独立経営に移行。東大初代綜理の孫だった古川ロッパが映画狂で、個人雑誌『映画世界』を発行していたのが菊池寛の目に留まり、文藝春秋に入社、編集の一員となるが、廃刊が決まって個人で引き受けたものの1年で挫折。菊池寛に身の振り方を相談に行ったところ、役者になったらと勧められた
第18回
『芥川の死』(2023年6月号)
「弔辞を読み上げながら、嗚咽でしばし絶句した」
1926年、本社を雑司ヶ谷金山町の菊池寛邸から麹町の旧有島武郎邸に移転
金山時代(1923.12.~'26.5.)は、一種の梁山泊で、すべて菊池寛の胸三寸で決定
原稿料も、菊池寛が袂から紙屑のように丸めた紙幣を無造作に掴み出して渡していた
麹町時代(‘26.6.~27.9.)には、雑誌の復刊と創刊に加え劇団の経営も始まって人も増え、会社としての体を成すが、経営を引き受けた劇団は失敗、円本ブームに乗って企画した『小学生全集』も競争相手に企画を盗まれたと訴えられ、予約購読者の獲得に失敗
1927年、芥川が服毒自殺。3カ月も前に遺書を書いているが、多忙を極めていた菊池は芥川の異常な精神状態に気付かず。友人代表としての弔辞では涙に詰まる
第19回
『株式会社化』(2023年7月号)
新人発掘、女性活用・・・・部数激減から再び上昇気流に
1924年菊池は太り過ぎもあって狭心症発作を起こし、芥川に『文藝春秋』を託そうと遺書を書いていただけに芥川の自殺に衝撃を受ける
'27年に日比谷ダイビルに本社移転、渡辺節設計、外装デザインを村野藤吾が担当し、外壁に異様な怪物を意匠、地下のレインボーグリルというダイニングサロンが分子の溜まり場となって、昭和の日本文学史上に名を遺す
菊池寛は午前中自宅で執筆、午後3時頃に出社するが、地下のサロンで談笑に費やす
社員が皆同じような状況なのに、仕事だけは進むが、財務状況だけは着実に悪化
'28年菊池は衆議院初の普通選挙に東京1区で立候補。無産政党の社会民衆党から立候補したのは党首の安部磯雄の要請と、現代の大義名分という錦の御旗に屈したから。恒産なき民衆が歴史の主体となるのは歴史の必然だと考えるリベラル派の面目躍如
「検閲制度の廃止」を謳い、『文藝春秋』の寄稿者たちの応援演説もあったが次々点で敗退
社主の立候補で『文藝春秋』もプロレタリア色が強まり、読者を減らし、選挙費用とダブルパンチで財政を圧迫
選挙直後に株式会社化――新株主となった都河龍(つがわしげみ)は婦女界社社主(菊池寛と専属契約を結んで『婦人之友』などを発展させた辣腕出版人)、小林一三は菊池が信頼する経営手腕の持ち主、三島章道(本名通陽)は鬼県令通庸の孫、渋沢秀雄は栄一の四男で菊池の一高同級生。監査役の2人・城戸四郎(松竹社長)と根岸耕一(日活支配人)は菊池の小説の映画化の際知己になったもの
菊池寛が本気で編集に復帰すると部数は持ち直し。注力したのが①大衆文藝路線、②新人発掘、③女性読者獲得、④実話路線――①は時代小説で岡本綺堂、直木三十五など、②は懸賞小説の発表で山本周五郎や小林多喜二を発掘、③は『婦人サロン』(編集長・永井龍男)発刊で、二十代の独身女性をターゲットとし女性誌には年代を細分化したマーケット戦略が必須であることを見抜いていた、④はアメリカの流行を導入したもので、『文藝春秋』に「実話欄」を設け、実話作家も育ったが、新たな危機をもたらす
第20回
『社内粛清』(2023年8月号)
鷹揚な社長の陰で”汚れ役”に徹した男がいた
1929年7月を分岐に発禁本の性質ががらりと変わり、それまでの社会主義、マルクス主義関連からエロス関係が急増するが、それが文藝春秋社の大転換をもたらす
'29年10月号に掲載した懸賞実話2編が風紀紊乱とされ発禁処分に遭う。菊池寛は大損害を被ったと息巻いたが、前年の衆議院選挙で菊池が「検閲制度の改正」をスローガンに選挙運動を戦った意趣返しと取れないこともない。編集部員の不手際に対し菊池は部員の責任を追及したため、編集幹部5人が自主退社。それを機に総編集長格で入社した佐々木茂索を中心に徹底した社内改革が行われ業績は急回復し、半額カットされた社員の給与は3カ月後には元に戻る。発禁の影響もほとんどなく、部数を順調に伸ばす
'30年『文藝春秋』の「特別読み物」欄の好評に目をつけてスピンアウトした臨時増刊『オール讀物号』が大好評、月刊化を考え翌年実現、現在に至るまで看板雑誌となっている
その成功の背景には、エロス系の弾圧に対し時代小説が抜け道になっていたことと、「娯楽としての読みもの」を求める知的大衆が大量に出現したという社会状況がある――大衆の無意識の欲望を捉える天才ジャーナリストの「大いなる賭け」だったが、続いて創刊した『モダン日本』は低空飛行が続き、子飼いの編集者だった韓国人を独立させて移管
第21回
『芥川・直木賞宣言』(2023年9月号)
「審査は絶対公平」。本音丸出しの選考会が始まる
『文藝春秋』は、衆院選立候補後一時大幅に落ち込んだが、その後は順調に推移、広告部の不正発覚、発禁処分などにも拘らず、1932年以後は文藝春秋社も再上昇軌道に乗る
新雑誌は大方失敗したが、その赤字を補って余りあるほどに『文藝春秋』はよく売れた。それを支えたのは菊池寛の雑誌造り名人としての嗅覚であり、次々に打ち出した新規企画が当たる――①「社中日記」(社内のトンマな日常を戯文体で暴露で、同人制時代の内輪イジリが受ける)、②「目・耳・口」(古川ロッパの発案。見開きの中に映画・音楽から食い物に至るまで芥子のきいた寸評集を詰め込む)、③「鉄道時刻表」(実質主義者菊池寛の真骨頂、巻末附録)、④「話の屑籠」(『オール讀物』から「楽屋落ち」路線復活を期して移した菊池寛の時事エッセイで編集後記の代わりで、菊池寛の思想の変化と『文藝春秋』の推移がわかる)
1932年にソヴィエト・ロシア政府から視察旅行の誘いがあり、本人は行きたがったが、諸般の事情で断念。実現していればロシア政府がお膳立てした理想郷の背後の現実を菊池が正しく見抜いて、ジッドの『ソヴィエト旅行記』を超えるルポになっただろう
翌年、『婦人サロン』に代わる新雑誌『話』創刊――知識と話題を集めた興味と実益との雑誌ですぐに黒字化。当時入社したのちの社長の池島信平は、硬派の記事でも柔らかく扱い、タイトルや見出しで「わかりやすく、面白くする」編集の極意を菊池から受け継ぐ
1934年、相次いで若い俊秀たちに先立たれる――池谷信三郎は『望郷』でベルリン留学を書いて菊池寛の審査する懸賞小説に当選、『文藝春秋』に小説やエッセイを寄稿し将来を嘱望されていた(享年34)。『文藝春秋』創刊時の同人の1人で『文藝春秋』の名付け親でもある佐々木味津三は大衆文芸に転じ『右門捕物帖』などで人気作家となるがオーバーワークが祟って急逝(享年37)。直木三十五は『文藝春秋』創刊以来の常連執筆者で匿名で書いた文壇ゴシップが多くの文士を激怒させたが菊池は守り切った(享年43)
碁仇でもあった直木を紀念するために大衆文芸の新進作家を対象に直木賞を創設、併せて純文芸の新進作家を対象に芥川賞も作る。直木賞は『オール讀物』に、芥川賞は『文藝春秋』(純文学系の『文學界』でないのは、同誌が文藝春秋者の参加に入ったのは1936年のこと)に掲載。掲載は消費の落ち込む2月8月(ニッパチ)に落ち着く
第1回の受賞者は、芥川賞が石川達三の『蒼氓』、直木賞が川口松太郎の『鶴八鶴次郎』等の明治物と決定。1955年下半期の石原慎太郎までは文壇内部の賞と受け取られマスコミは冷淡。芥川に憧れて作家になった太宰治は何としてでも第1回の受賞者になりたく佐藤春夫らの審査員にアタックをかけてことは有名。文壇史的には、審査員の川端康成が太宰の作品を酷評したことで両者の論争に発展。川口についても審査員の吉川英治が「人間的修養に薄っぺらささえ感じる」とその人格を批判、本音丸出しの激烈な討論が行われた
第22回
『満州事変と言論弾圧』(2023年10月号)
「大新聞紙の論説までが、自由独立の風が失くなっているのは、困ったものである」
1931年1月号の雑記で菊池寛は、「皆が社会不安を感じ、階級闘争が盛んになると我々自由主義的な立場の者は中間的な孤立を強いられる」と述べているが、『文藝春秋』誌上ではまだまだ格差社会における成功者の享楽ライフを後追いした記事が目立つ
さすがに同年の柳条湖事件を契機にリベラル路線にも影響が出始めるが、特集の座談会でも左右両派を同席させるなど『文藝春秋』らしい「幅広イズム」は失われず、むしろ扇情ジャーナリズムと化したのは新聞各社で、新聞が強硬論一色に染まるなか、日本の孤立と対英米戦争に警鐘を鳴らすなど菊池寛と『文藝春秋』はリベラルというポジションを堅持
前年、満鉄の招待で直木らと朝鮮・満洲を視察し、満蒙問題の本質を見抜いていたからこその冷静な対応ともいえ、菊池自ら「『文藝春秋』は左傾でも右傾でもなく、自由な智識階級的な立場を続ける」と言明。テロの頻発についても政友会が繰り出した悪宣伝が原因と指摘、言論の自由が脅かされてきた現状に、「争臣なくんば國亡ぶ」と強く警鐘を鳴らす
新聞雑誌の一言半句、誤字誤植をゆすりのネタとする「便乗商法」まで現れ、文藝春秋社も被害にあうが、菊池寛の中に潜む「荒魂(あらたま)」が急場を救う
菊池は『文藝春秋』に寄せられる膨大な投書に目を通し、テロの蔓延や政治不信の原因を生活難・失業苦から来る社会不安にありと、的確に見抜いていた。その一例が、女性の身の上相談を疫学的に分析して、「恋愛の予備知識のない日本の子女を恋愛の災禍や不幸から救うためには、恋愛についての心得や道徳がもっと公然と説かれていいと思う」と結論
第23回
『創刊15周年』(2023年11月号)
「治にいて乱を忘れず。栄華の日に衰亡の端が始まる」
昭和10年前後には満洲開発への財政投入もあって景気は回復し、都市型ライフ・スタイルが定着し、都市の民衆はそれなりに消費生活を楽しんでいた――『文藝春秋』の目次にも表れ、趣味や軟派系のテーマも頻繁に登場。「生活第一、芸術第二」をモットーとする菊池寛の生活の反映でもあり、競馬では自ら馬主にもなる。読者サービスの一環で劇場を借り切って文士劇を上演、大喝采を博し、戦後も52年には再開され77年まで続く
文芸講演会も好評で、『文藝春秋』の主たる購読者である知的大衆を惹きつける
二・二六では反乱軍の襲撃目標リストに載ったとの噂が伝わり、当日媒酌を務める予定だったのを代わってもらい家に閉じ籠る。『話の屑籠』における菊池寛の二・二六事件評は、リベラルな姿勢に変わりがないことがよく分かる好社説だった。曰く「左翼思想は弾圧されたが、その思想の温床であった社会機構の不合理・不公平などは少しも改造されていない。為政家が真剣にこうした不公平・不合理を抜本芟除(さんじょ)することが何より急務だ」
事件直後の政界の内幕を明らかにするような好企画を連発。なかでも事件後に大命降下を辞退した近衛を招いた『近衛文麿公閑談会』(36年7月号)は高く評価。首相への色気が十分にありながら、火中の栗を拾おうとしない人間であることを浮き彫りにしている
12月号では、10月号掲載の『軍に直言する座談会』に関し内務省警保局から1/3の削除命令が下ったことに対し、「言いたいことの半分もかけなくなった。明治大正は文士にとっては自由な朗らかな時代だった気がする」
37年1月号では創刊「15周年に際して」と寄稿、雑誌経営者として成功したと自負しつつ、冒頭の一文を記した名文だった
菊池寛生誕50周年と『文藝春秋』創刊15周年を記念して関口観魚(佐藤春夫)の作詩で社歌を作り、社員の団結に貢献。『文學界』を引き受け、文學界賞に代わって夭折した作家を惜しんだ池谷信三郎賞創設(42年で修了)
37年、近衛内閣スタート。近衛贔屓だった菊池寛は「最初のインテリ内閣」と、天を覆っていた暗雲一掃を期待して書いたが、組閣1カ月後には盧溝橋で空しく潰え去った
第24回
『昭和12年の「空気」』(2023年12月号)
『文藝春秋』が左翼バネを失い、大きな右旋回が始まる――
北支事変に対し『文藝春秋』は素早く反応、8月号には特集記事を掲載。論調は冷静さを保ち全面戦争は得策でないとしたが、読者の反応は「暴戻支那を膺懲(ようちょう)す」が「一般意志」。菊池寛は翌月の「話の屑籠」で、「日本利長ローマとカルタゴのような仇敵関係になっては将来の負担・脅威となるので、軍事的勝利の後日支国交の根本的調整に対し深甚な考慮を払ってもらいたい」と、いかにも彼らしい見解を述べる
軍人で同じ考えをしたのが石原莞爾(当時参謀本部作戦部長)。歴史を知る小説家と、戦史家で独特の世界観を持つ軍人が、同じ様に泥沼の長期戦入りを憂慮したことは注目に値し、石原は早期収拾を図ろうとしたが、田中新一、武藤章等の戦線拡大派に押し切られた
菊池寛の論調に強く表れていたのは戦死者と遺族への哀切の感情であり、社員を送り出す時も「生きて還って来い」と激励。社としても臨時増刊を定例化し、その売上金から国防恤兵(じゅっぺい)金を拠出したり、将兵慰問の読者寄贈になる文庫「前線文庫」事業を開始
12年中は、議会が民主主義を放棄し、無条件に政府に全権を与えたと分析・批判する記事や、満州事変当時との国民の反応の違いの分析、さらには『日本の評判』と題して世界から日本がどう見られているか的な記事まで掲載
それが12月号の「話の屑籠」では、冷静な大局観が失われ、「膺懲支那」に急激に傾倒
9月には言論統制の一元化を目的とした内閣情報部設置、11月には大本営内に陸・海軍情報部がそれぞれ設置され、言論統制から言論指導への転換がなされた
新聞と総合雑誌は「懇話会」という形で権力に取り込まれ、1938年になると剥き出しの圧力がかかり、社会民主主義や自由主義にまで及んで逮捕者が続出、彼等の原稿掲載が禁止され、『文藝春秋』の労農派左翼パネルは取り去られ、大きな右旋回が始まる
第25回
『恐ろしい時代の予感』(2024年1月号)
「主義や主張などのない真の愛国運動を、やってみたい」
ポイント・オブ・ノーリターンとなったのは1938年の2つの事件――1月の近衛内閣の「爾後国民政府を対手とせず」の声明と、2月の教授・評論家13名が逮捕された教授グループ事件。とりわけ後者のショックは大きい
教授グループ事件以後、急速にジャーナリズムは変貌。新時代便乗のポーズをとる人が急速に増え、同僚や社の内部に精神的な断層が起こる
編輯後記を担当した菊池武憲は、菊池寛の長兄の子だが、完全に時局便乗で、執筆者や座談会参加者の顔触れも一変するなか、菊池寛の心中を明言したのが’40年4月号の『話の屑籠』で、「どんな下策でもいいから、国民が一致団結することが国力を発揮する所以」とし、改めて国論の統一を訴える
その第1弾が、'38年4月号から『文藝春秋』に英文の記事ダイジェスト『Japan To-day』を付録として付けること。日本文化を海外に紹介し、国際宣伝戦に微力を尽くす
第2弾が、文士を特派員として戦場に派遣、そのルポを『文藝春秋』などに掲載。文藝家協会会長の菊池寛は率先して2度にわたって中国各地に赴き、軍人譚は映画化されヒット
'38年、日本文学振興会設立、直木賞・芥川賞に加えて菊池寛賞を創設、文藝春秋から移管
菊池寛賞は、寡作の老大家に対する保証金的色彩
思想・言論の自由に対するジャーナリズムの抵抗ラインの最後の抵抗が'39年1月の平賀粛学に対する『文藝春秋』の反応で、自由に物を言った最後となり、4月号からは「菊池寛編輯」の文字が表紙から消え、他の総合雑誌と同様時局迎合一辺倒に堕してしまう
事変中は国家の依頼は何でもやる積りとして、6月には海軍省からの慫慂により新雑誌『大洋』を創刊、翌年は新国民政府樹立祝典に言論界を代表し国民使節として南京に飛ぶ
帰国後は「文藝銃後運動」に邁進、文学者が全国を巡回して教宣活動に参加、『話の屑籠』にも「主義や主張などのない真の愛国運動をしたい」と抱負を披露、費用はすべて持ち出し。大政翼賛運動と連動したことで大いに盛り上がるが、菊池寛は各人の創作活動を通じて、大成翼賛の実を上げるほかはないと考えたのに対し、軍部・官僚は統制強化へ進む
第26回
『『文藝春秋』休刊』(2024年2月号)
ひたすら戦争遂行に協力し、手にした報酬は・・・・・
1940年、近衛新体制(新党)運動に全面的に賛成、戦争の早期終結を期待したが、逆に近衛内閣は松岡外相に引きずられる形で、南進論に舵を切り三国同盟へと発展、米国による対日制裁発動を誘引
『文藝春秋』は、紙の減配で紙数を2割削減、6誌から5誌へと縮小
新たに発足した「(内閣)情報局」が「思想・言論戦の参謀本部」となって言論統制が強化
翌年には、『文藝春秋』はさらに紙数を2/3に減らされ、書籍出版に進出して急場を凌ぐ
菊池寛は、緒戦の戦果を歓喜の言葉で綴るが、42年のミッドウェー敗北については一言も触れず、43年のガダルカナルからの「転進」については「英霊の冥福を祈る」とし、雑誌の経営に運転資金は不要として陸海軍に飛行機を献納している。『文藝春秋』はさらに1/2以下に紙数を減らし、社内政治も佐々木茂索に代わって革新派の齋藤龍太郎が実権を握り、リベラル派の永井龍男や池島信平は満洲へと「島流し」される
経営から離れていた菊池寛は、国策協力のため、43年から永田雅一に担がれる形で大映の社長を引き受け、自らも総監督として映画製作に本格的に取り組む
44年には、『文藝春秋』と『大洋』の2誌となり、それも3月号を最後に「文芸雑誌」として存続することとなり、「総合雑誌」として残った『中央公論』『改造』も7月には休刊
戦争に協力してきた代償がこの始末で、さらに20年3月号をもって「文芸誌」も休刊
第27回
『菊池寛なき文藝春秋』(2024年3月号)
菊池の解散通告に、社員は闘争本部を設け「大衆団交」を迫った
『文藝春秋』は45年10月号から復刊。菊池寛は『其心記』で戦争を総括し、国民の良識と理性を代表する文化人や知識階級が政治に無関心だったことを反省している
政党を結成して政治に乗り出そうとしたが、肝心の『文藝春秋』が、新たに出版界を牛耳った共産党系の日本出版協会による紙の統制により、戦前最後の32ページのまま据え置かれる。さらに翌年には出版「人民裁判」でA級戦犯7社、B級11社が挙げられ世間の批判が集中すると同時に、金融封鎖・新円発行で、ヤミ紙が暴騰、菊池寛も会社解散を表明
池島らの社員が反発、佐々木を担ぎ出して雑誌発行の継続を訴え、菊池も新会社設立を条件に誌名を譲り、文藝春秋新社として再スタートを切る
第28回
(最終回)『菊池寛、逝く』(2024年4月号)
その日、菊池はひとりダンスのステップを踏んでいた
1946年、池島信平らは元専務の佐々木茂索を社長として文藝春秋新社を発足させるが、前日佐々木が帰京する車中で出会った大倉喜七郎に会って資金援助の申し出を受けてようやく資金調達の目処が立ったという薄氷を踏む様なスタート。一方で、新生社の青山虎之助からも社員丸ごと買いたいというオファーがあったが、古いノレンを守ることが使命だったので取り合わず。青山は終戦翌月会社を起こし、評論家の室伏高信を起用して戦後初の総合雑誌『新生』を発刊。戦前から出版界にいて華々しく打って出たが、出版ブームが去ると資金繰りに窮して49年には倒産
6月号が復刊第1号。表紙は梅原龍三郎の富士山の水彩。共同印刷が空襲で全焼したため、紙の提供に加え資金も後払いという凸版印刷の好意に甘えた。新社成功の要因の1つは全社員の精神団結。月給も全員同額、創刊時の平等主義的な雰囲気が出来上がる
本社のあった大阪ビルが進駐軍に接収されたときは、小林一三に助けられる。雑誌は飛ぶように売れたが、紙が猛烈に値上がりヤミ紙を求めて歩き回る。次が公職追放。開戦時に部長以上だった者を一律に対象としたため、佐々木が仮指定となり、個人の資格で関与
菊池は、追放を覚悟して大映の社長を永田雅一に譲るが、無聊に苦しみ、友達と話す機会が減ったことを悲しむ。常にカンパニーを欲していた。47年末には年下の友人として最も信頼した横光利一が死去、弔辞を「わが後事を託すべかりし君を失ふ」と結ぶ
ダンスや将棋なども興味が薄らぎ、唯一残されたのは競馬。追放の不条理に不満を漏らす
48年下痢の快気祝いに菊池邸を訪れた池島は、菊池がひとりダンスのステップを踏んでいたのを目撃したが、突然ただならぬ音がして駆けつけると菊池が心臓発作で絶命していた
本葬は音羽護国寺で、葬儀委員長は一高以来の盟友・久米正雄、焼香者は7000人を超え戦後最大の葬儀に。翌日遺書が発見される。妻子への遺書もあり、長女宛には「職業教育を受け独立できるように」、次女宛には「学問し何か文学的なことをやりてもよし」と、女性向けベストセラーを連発した菊池寛にとって娘たちの行く末は何よりも気にかかっていた
翌年、『文藝春秋』が1周年追悼号を企画したとき、GHQに呼び出され中止の勧告で企画は挫折したが、集まった原稿は各誌に分散して全部掲載
「其心記」に記された菊池寛による『文藝春秋』の自己採点: 本誌の廉価が影響して円本流行の契機となった。編輯技巧としての対談会、座談会の開始、芥川賞・直木賞創設。傾向としては常に文藝中心の自由主義に終始し、誌上に明朗新鮮な空気を湛えていた。殊に昭和12年正月号においてはっきり「右傾せず左傾せず中正なる自由主義」を取ることを声明
菊池寛の手を離れた後も、カンパニー(仲間・会社)である『文藝春秋』は常にこのモットーに忠実であらんとしている
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菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名は菊池 寛(きくち ひろし)。実業家としても文藝春秋社を興し、芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わった。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
香川県香川郡高松市七番丁で7人兄弟の四男として生まれる。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた[1]。高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等3年の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。このころ、「文藝倶楽部」を愛読し、幸田露伴、尾崎紅葉、泉鏡花の作品に親しむ[2]。
学生時代[編集]
1903年(明治36年)高松中学校に入学。寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、興味のあるものはすべて借りたという。
中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で東京高等師範学校へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた[4]。地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学するも3か月で退学。徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置く。文学の道を志し第一高等学校受験の準備をする。これが養父にばれ、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける。
1910年(明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介、久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れするマント事件が原因となり退学。その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた。翌年旧制高等学校の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。芥川、久米らと第三次「新思潮」を創刊。菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。1916年(大正5年)、第四次「新思潮」では菊池寛の名で「屋上の狂人」を発表。東京帝国大学に進み友人たちと合流するつもりだったが、上田萬年の拒絶と京都を去りがたい事情故に、留まることを選んだ。京大では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。
l 人気作家への道[編集]
1916年(大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と夏目漱石の木曜会に出席する[8]。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また「新思潮」に「父帰る」を発表。寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。1917年(大正6年)、高松藩の旧・藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。1919年(大正8年)、「中央公論」に「恩讐の彼方に」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した「真珠夫人」が大評判となり、人気作家となった[9]。
l 『文藝春秋』創刊[編集]
1923年(大正12年)1月、人気作家となった寛は若い作家のために雑誌『文藝春秋』を創刊する。発行編集兼印刷人は菊池寛、発売元は春陽堂、定価は10銭で、『中央公論』が特価1円、『新潮』が80銭の時代に破格の安さだった。巻頭を飾ったのは芥川龍之介の『侏儒の言葉』[10]。創刊号3000部はまたたくまに売り切れ、次号も売り上げを伸ばし、「特別創作号」を銘打った5号は1万1千部の売り上げとなった[11]。1926年(大正15年、昭和元年)から春陽堂を離れて「文藝春秋社」として独立し『文藝春秋』は総合雑誌となる[12]。また大衆作家として、婦人雑誌や新聞に多くの小説を発表していたが、1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺。寛は号泣し、葬儀では弔辞読む半ばから涙が止まらなかった[13]。1935年(昭和10年)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を設立する。1926年(大正15年)日本文藝家協会を設立。
1925年(大正14年)、文化学院文学部長就任。1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。しかし1937年(昭和12年)には、東京市会議員に当選した。
l 文士部隊[編集]
1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察[14]。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った[15]。1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任[16]、国策映画作りにも奮迅する[17]。
l 公職追放、急死[編集]
終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[18]。その年の暮れには横光利一が死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった[19][20][21]。その際、夫人の手を握りしめていたという[22]。
告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。
私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。
— 吉月吉日 菊池寛
l 栄典[編集]
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[23]
l 家族[編集]
両親・兄弟[編集]
父親・武脩(たけなが)
母親・カツ
長姉・アイ
長兄・武吉
次姉・ナミ
次兄・良平
三兄・三八
妹・久仁
l 妻子[編集]
妻・包子(かねこ)
長女・瑠美子
長男・英樹
次女・ナナ子
l 主要作品[編集]
高松市菊池寛記念館から『菊池寛全集』(全24巻、1993年-1995年)が、また、武蔵野書房から『菊池寛全集補巻』(全5巻、1999年-2003年)が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。文春文庫と岩波文庫で諸作品が刊行されている。また、未知谷から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。
l 大衆小説・戯曲[編集]
屋上の狂人
無名作家の日記
藤十郎の恋
葬式に行かぬ訳
下足番
入れ札
第二の接吻
火華
袈裟の良人
映画『地獄門』の原作。
l 伝記[編集]
忠直卿行状記
蘭学事始
菊池千本槍シドニー特別攻撃隊
昭和の軍神 西住戦車長伝
l 少女小説[編集]
※「少女倶楽部」連載の長編小説について扱う。
心の王冠(1938年1月-1939年12月)
珠を争う(1940年1月-12月)
輝ける道(1941年1月-1942年3月)
l その他[編集]
フランダースの犬(翻訳)
l 人物[編集]
作風[編集]
人生経験や人生観を創作に生かすことを重視していた。「小説家たらんとする青年に与う」という文章の中で、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」と述べている。
『餓鬼』のモデルは芥川龍之介、『友と友の間』『神の如く弱し』は久米正雄がモデル。
l 名について[編集]
「寛」は旧字では「寬」と最後に点を打つが、寛はこの点を省いていた。菊池の墓碑銘を揮毫した川端康成も新字の「寛」を用いた。
名の「寛」は「ひろし」と読めば本名、「カン」と読めば筆名だったが、本人はどちらで呼ばれても特に気にせずに返答していた。ただし「菊池」を誤って「菊地」と書かれるとすこぶる機嫌を損ねたという。
大映社長就任時の宴席で、稲垣浩は菊池から開口一番「君の名はコウかね、ヒロシかね」と訊かれ、「ヒロシ」だと答えたところ、「ぼくもホントはヒロシなんだけどネ、いつの間にかカンになってしまった。面白いものだね。カンと呼ばれているうちに自分でもカンの方がいいと思うようになったよ」と話し、その屈託ない話しぶりに稲垣も「とても話しやすかった」と述懐している[24]。
「くちきかん」[編集]
「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。
菊池が麻雀で負けると、ムッとして黙り込んでしまい、対戦者が「くちきかん」と陰口を言ったという。
木津川計によれば、菊池没時、大阪では巷で「ああ、ついにクチキカン」と不謹慎な哀悼を捧げたという[25]。
矢崎泰久の評伝に『口きかん わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)がある。
タレントのタモリが第62回菊池寛賞を受賞した際、授賞式の席上で、出演するテレビ番組のゲストについて「年間で一番無口だった人に“くちきかん賞”をあげようとしたこともあった」と語った[26]。
l パトロンとして[編集]
馬海松を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。
文藝春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。この青年は後に喜劇俳優・古川ロッパとして成功した[27]。
長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で長谷川の姉の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、長谷川の妹(当時東京女子大学在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。のちに妹は文藝春秋に入社するものの、肋膜炎を患い退社した。
1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。
このような菊池の言動を永井荷風は嫌悪し、日記『断腸亭日乗』の中で散々にこきおろしている。
l 大映社長として[編集]
大映社長就任の挨拶で菊池は「ぼくは社長としての値打ちは何もないが、製作する全作品のシナリオを読んでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだと思ったから社長を引き受けた」と話し、稲垣浩らはその淡々とした話しぶりや飾らない様子に、大きな拍手を送ったという[24]。
なお、その際、卓上にハンカチを忘れ、一同の眼が集まったが、その白いハンカチは生き物のように菊池の後を追って動き、壇上から滑り落ちた。事務の者が慌てて走り寄って拾い上げようとすると、菊池はそれに気づき、服から垂れた糸を引っ張って手品のようにハンカチを手元に引き上げた。短時間だがそのユーモラスな光景に対し、会場の聴衆はどっと好感の笑いを巻き起こしたが、菊池はニタリともせずに無造作にハンカチをポケットにねじ込み静かに席に戻って行った。これは、菊池がよくハンカチを落としたり忘れたりし、戦時下で衣料品が切符制だった事情から新調が困難だったので、夫人が紐を付けてポケットに縫い付けたものであった[24]。
稲垣が『お馬三十三万石』というシナリオを書いたとき、競馬愛好家だった(後述)菊池は「馬の話だ」ということでとくに念入りに読んで、いろいろと意見を出し、「君これは鍋島藩になってるけどネ、佐賀は馬産地ではないから駄目だね、福島か南部に改めてはどうだ」と言った。稲垣が「阿蘭陀人が出ますからどうしても九州でないと困るのですが」と答えると、「それなら島津がいいだろう」、「でも(鍋島の)三十三万石という題名がいいと思うのですが」とさらに答えると菊池は「なに、島津なら七十七万石だから、そのほうがずっと大きくていいよキミ」と返した。稲垣は「やはり役者が何枚かうわてだった」と語っている[24]。
l 趣味[編集]
麻雀は大正時代の中期から始めたとされる。のちに日本麻雀聯盟初代総裁を務めた。菊池は愛好家団体に対し、「麻雀讃」と題する以下のような書状を送っている。
とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。
しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。
最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。— 菊池寛、『麻雀讃』
競馬については、入門本『日本競馬読本』を上梓したほか、戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有した[28]
。1940年(昭和15年)の春の帝室御賞典を所有馬・トキノチカラで制し、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年(昭和19年)の東京優駿も、所有馬・トキノチカヒを出走させた。
将棋については、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。
大映社内において、将棋好きの社長・菊池の影響で将棋が流行し始め、重役連も急に将棋の勉強を始めなければならなくなった。稲垣浩は「ヘボ以下」を自認していたが、重役連とはいい勝負だった。菊池はそんなヘボ将棋でも熱心にのぞき込んで観戦し、「シロウト将棋はあとさきも考えないから、見ていてとても面白いネ」と言ってタバコの灰をポロポロ膝に落とし、愉快そうに目を細めていたという[24]。
l その他[編集]
喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼け焦げだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
長谷川町子は菊池の書生だった自身の妹から菊池は「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという[29]。
両性愛者の傾向があったとされる。
旧制中学時代から大学時代にかけ、4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。
また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
元・文藝春秋社編集者で、出版社・ジュリアンの代表取締役である菊池夏樹は、菊池寛の孫に当たる。2009年(平成21年)4月に『菊池寛急逝の夜』(白水社)を刊行。
l 菊池寛の登場する作品[編集]
こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生(2002年 - 2003年)
菊池寛と周囲の人々の人間模様を描く猪瀬直樹の小説。
若き日の菊池寛を親友の綾部健太郎(後に衆議院議員)との友情を軸に描いた作品。フランキー堺が菊池を演じた。
上記『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』の映画化。西田敏行が菊池を演じた。
北原白秋と山田耕筰の人生を描いた作品。津田寛治が菊池を演じた。
テレビドラマ
フランキー堺が菊池を演じた。
戦後初期のエピソードに、菊池自身が登場するものがある。
高松市にある市内道路のひとつ。菊池の生家跡(ここには2006年(平成18年)まで第一法規四国支社があった)はこの道路の沿線にある。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、1988年(昭和63年)に香川県庁舎に面する県道173号線を「県庁前通り」としたことに伴い改称された。
l 関連文献[編集]
評伝・随想[編集]
『新潮日本文学アルバム 菊池寛』(1994年、新潮社)
松本清張『形影 菊池寛と佐佐木茂索』(1982年、文藝春秋)
菊池夏樹『菊池寛急逝の夜』(2009年、白水社)、2012年8月、中公文庫で再刊
『逸話に生きる菊池寛 生誕百年記念』(1987年、文藝春秋、非売品)
『天才・菊池寛ー逸話でつづる作家の素顔ー』(2013年10月、文藝春秋)
矢崎泰久『口きかん わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)
菊池夏樹『菊池寛と大映』(2011年2月、白水社)
研究[編集]
片山宏行『菊池寛の航跡 初期文学精神の展開』(1997年9月、和泉書院) ISBN 4-87088-873-4 C3395
片山宏行『菊池寛のうしろ影』(2000年11月、未知谷)ISBN 4-89642-022-5 C0095
菊池寛研究会『真珠夫人 本文編/注解・考説編』(2003年8月、翰林書房)ISBN 4-87737-172-9 C0093
小林和子『菊池寛 人と文学 (日本の作家100人) 』(2007年11月、勉誠出版)
志村三代子『映画人・菊池寛』(2013年8月)藤原書店
片山宏行・山口政幸・若松伸哉・掛野剛史『菊池寛現代通俗小説事典』(2016年7月、八木書店)ISBN 978-4840697613 C0593
片山宏行『菊池寛随想』(2017年8月、未知谷)ISBN 978-4-89642-534-5 C0095
小説[編集]
佐藤碧子『人間・菊池寛 その女秘書が綴る実録小説』(1961年、新潮社、2003年、新風舎)
杉森久英『小説 菊池寛』(1987年、中央公論社)
猪瀬直樹『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』(2004年、文藝春秋)
脚注[編集]
6.
^ 関口安義「反骨の教育家 評伝 長崎太郎 II」『都留文科大学研究紀要 第64集』2006年
7.
^ 東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」、『図書館という軌跡[1]』ポット出版、2009年、pp.335 - 354(初出は『香川県図書館学会会報』)
8.
^ 「漱石先生と我等」(「新思潮」漱石先生追慕号、大正6年3月)でその時の様子を好意的に記している。そこで彼も漱石門下と見られることもあるが、「半自叙伝(続)」では「私は昔から激石の作品は嫌いではないまでも、尊敬は出来なかった。同僚の芥川や久米が崇拝するのが、不思議でならなかった。芥川などは、本気であんなに認めていたのか訊いて見たかったくらいである」と述べており、師事していたとは言い難い。
20. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁
21. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)114頁
22. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p.700
23. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
24. ^ a b c d e 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
25. ^ 木津川計『上方の笑い』 講談社現代新書、1984年 p.24
26. ^ タモリ「まさか本物を…」いいとも“くちきかん賞”は幻に Sponichi Annex、2014年12月6日
27. ^ 『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』清流出版、2009年(平成21年)。
28. ^ “【あの人も愛した 京ぎをん浜作】菊池寛、志賀直哉らと同じく…谷崎潤一郎も「浜作文人」の1人だった”. zakzak (2020年4月28日). 2021年5月30日閲覧。
29. ^ 『サザエさんうちあけ話』
単行本化
鹿島茂『菊池寛アンド・カンパニー』(文藝春秋)3630円(税込)
楠木 建 一橋ビジネススクール特任教授
2025/08/07 文藝春秋 9月号
日本の社会起業家の嚆矢
私見では、菊池寛ほど面白い人はめったにいない。著者は当代きっての評伝の名手。面白くないわけがない。
「文学者としての価値は後世の批判を待つほかない。しかし雑誌経営者としては確かに成功したと自信している」――菊池寛にとっては文藝春秋という雑誌こそが自分の最も重要な作品だった。
会社設立から雑誌創刊に至る動機がイイ。「頼まれてものをいうことに飽きた。自分で考えていることを読者、編集者に気兼ねなしに、自由な心持ちで言ってみたい。(略)一には自分のため、一には他のためこの雑誌を出すことにした」――「自分のため」がそのまま「他のため」になる。
友人の小説家、久米正雄が失恋したときのエピソードがイイ。失恋なんか一時の感情。この際いちばん必要なのは原稿料だ――菊池は時事新報に話をつけて、久米に小説を書かせる。こうして始まった新聞小説「螢草」は世間の注目を集め、思惑通りに久米に大きな収入をもたらした。久米が失恋から立ち直ったのはいうまでもない。このエピソードに菊池寛の美点が凝縮している。第一に現実主義。第二に、功利を実現するため自ら動く。第三に、具体的な解決策を提供するところまでやりきる。
文壇で成功した菊池の周囲には、才能に恵まれているが作品を発表する媒体を持たない文学青年たちが集まった。彼らに食事を奢り、生活費を与える。そうした中で生まれたアイデアが雑誌の創刊だった。文藝春秋は制作費を菊池のポケットマネーで全額負担した個人雑誌としてスタートする。自分が考えていることを一切の制約なしに言えるメディアを作る。自分の周りに居る若い人たちの発言メディアを確保する。無名作家時代が長かった菊池は、媒体を求める文学志願者の思いを痛いほど理解していた。
1923年1月の創刊号は3000部、4月号でついに1万部に達し、黒字化を達成。誰にも頼まれていないのに、8月号で創刊号から4月号までの損益決算を発表しているのが面白い。「文藝春秋の経営の実態がよくわかっただろう」――情報公開によってステイクホルダーの信頼を得る。広告を打ったときと打たなかった月を比較して、効果を確かめながら部数を調整する。自らコピーを考え、どんな言葉がターゲットに刺さるかチェックする。経営者としての近代性を感じさせる。こうした中で、菊池一流の名文句が生まれる。「慰楽のみに心を惰せしむる事勿れ 学芸のみに心を倦ましむる事勿れ 六分の慰楽四分の学芸 これ本誌独特の新天地也」
菊池寛こそが日本の社会起業家の嚆矢。その思考と行動は現代でも色褪せない示唆と教訓を含んでいる。
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