赤富士と応為  Katherine Govier  2025.7.30.

 2025.7.30. 赤富士と応為 そしてボストンの男たち

 

著者 Katherine Govier カナダの作家。世界各地で出版や講演を行っている。40年に渡る作家活動において、11冊の小説、3冊の短編集、2冊の紀行文アンソロジーを上梓。カナダのエンゲル/フィンドレー賞とトロント市図書賞を受賞。アルバータ大学の〈特出した卒業生〉およびヨーク大学の〈フェイマス・フィフティ〉の一人であり、カナダ自由人権協会から芸術における卓越性を認められている。移民女性のための全国的な執筆およびパフォーマンス組織であるThe Shoe Projectの創設者。“鳥の芸術家”ジョン・ジェームズ・オーデュボンを描いた小説『Creation』はニューヨーク・タイムズ紙の年間注目図書に選ばれた

 

訳者 モーゲンスタン陽子 作家・翻訳家・ジャーナリスト。東京都出身。カナダ在住時に執筆活動を始め、主に北米の文芸誌などに作品を発表。2021年にはニューヨークの人権団体International Human Rights Art Festival[Movement]発行のWomen Power. Vol.2に参加。2022年カナダのGuernica Editionsより短編集A Perfect Day to Dieを出版。筑波大学にて政治学学士、カナダのシェリダン・カレッジにてジャーナリズムのディプロマ、ドイツのバンベルク大学にて英米文化研究修士を取得。現ドイツ在住、母校バンベルク大学にて英語を教えている。日本ペンクラブ、欧州著作家連盟(Die Kogge)公式会員

 

発行日           2025.4.25. 初版第1刷発行

発行所           彩流社

 

 

第1部         

1. 1881年 神奈川の無縁仏

私が見つけた天竺のカイガラムシと自分で調合して作った薬草を組み合わせた赤い顔料

北斎と恋仲で昔は遊女だった尼さんの志乃が、応為に、死んだときに全身に塗ってくれと頼まれ、その通りに顔料を塗って葬ってくれた

埋葬から13年後に世の中に呼び戻される。死後に浮世絵の動きを見守る形で記述が進む

2. 波止場での出来事

横浜港 1882年 フェノロサとモースは横浜でボストンから来たビゲローを出迎える

3. 横浜グランドホテル

モースの妻はセイラムに残り、ビゲローは独り者、フェノロサは同郷の妻リジーを同伴

4. 1882年 蛮人たちの家

3人のアメリカ人に通詞の岡倉が加わってパリでの北斎の人気を語り合う。ミケランジェロやデューラーに準え、ゴッホ、ピサロ、ピカソ、みな北斎に夢中だという

5. 1883年 美術品を追い求めて

フェノロサとビゲローがお上の信頼を得て、日本人が売ったり捨てたりした貴重な美術品を回収して整理し始める。手始めの大阪では、骨董王の山中吉兵衛に出会う

フェノロサは、江戸時代のものなど下賤だとして浮世絵も含め目もくれないが、ビゲローは何でも興味を示す。応為の《鳳凰屏風図》が出てきて、北斎の娘が皇后陛下にご覧いただくために描いて皇室へ献上されたものだという。絵の素晴らしさ故に署名がない。北斎は必ず署名したので、北斎のものではないことはすぐにわかるが、応為は知られていない

ビゲローは買うといったが、先約ありとして拒否される。吉兵衛は銭には興味なく、真の鑑賞力を誇る鑑定家

6. 狂ったように

男たちは、ボストンの美術館のために美術品を金に糸目をつけず購入

《鳳凰屏風図》も吉兵衛の息子定次郎が密かにビゲローの下に持ち込む

7. リジーの役割

欧米では女にもちゃんと居場所がある

8. 僧の拒絶

大量の購入競争が始まる

仏教が攻撃され古い寺は貧しく、御物を次々に手放し、それを骨董商や収集家が買い漁る

奈良の法隆寺では、200年もの間人目に触れてこなかった像のお披露目を僧たちが拒む

フェノロサは、政府の許可を盾に蔵に入って写真を撮り、目録にしていく

7世紀ごろの楠の木像

次の目標は高野山

9. 高野山

高野山では、フェノロサたちの到来を予告されて、宝蔵物一切を隠蔽。同時に寺の1つが燃える。使節たちは、何も収穫なしに山を下る

10. 火事の後

使節団は、芸術作品を記録し、政府が建設した倉庫に保管することになっている

11. 幽霊の末路

もう1人の男ウェルドもやってくる

12. そして、4

ウェルドはボストンの外科医で船乗り。中国貿易で儲けた一族の御曹司

フェノロサはフランス人向けに評論を書く。「北斎の野蛮な運筆法ほど下品で粗野で醜いものはない。北斎が日本で見下されているのは、生まれが低く低俗な題材を描いたからではなく、彼の筆が田舎者のそれと同じように未熟だから」

13. 暗い出来事

日本のエリートは自国を評価するために西洋美術を学ばなければならないと天皇を説得し、フェノロサと岡倉は日本を近代化するという任務でヨーロッパに派遣されるが、その留守中にフェノロサの息子が病死。悲しみを紛らすかのように能に没頭

14. 任務終了

フェノロサと岡倉の帝国図画調査会の仕事は終了。収集した美術品はすべて国宝となり、販売や移動は禁止される

フェノロサとリジーはコレクションの大半をウェルドに売却し、一部を帰国の際持ち帰る。ウェルドは大半をボストン美術館に寄贈。多くの北斎も含まれていた

フェノロサは、美術館のコレクションのマネージャーとして招聘

ボストン人の中でビゲローだけが日本に残り、精神的な本物の仏教徒になった。三井寺の園城寺に入って阿闍梨の看病に立ち会う

岡倉は、東京の新しい美術学校の校長に任命

 

第2部         

15. 1831年 江戸

北斎が久しぶりに海から戻り、31歳の応為が出迎え。応為は離縁され実家に戻り、父親と2人暮らしで、もっぱら父と一緒にひたすら絵を描きつづける

北斎は中風にやられて、注文された絵は応為が描く。父はまた名を為一と変える

北斎は、男を喜ばせる術もない出戻り女に何が描けるって、鼻で笑ったが、何でも描いた

為一時代の北斎の画は大半が応為の作で、仲間以外にはそれは秘密。女がするのは普通じゃないが、版元や彫師、客にも会う

北斎は、旅に出られるまで回復し、絵も描き始める

北斎の絵を買いたがっていたシーボルトにあったのも応為。外国人のために絵を描くことは禁じられていたし、作品を国外に持ち出すことも禁じられていたが、銭が必要だった

医師にもらったオランダ紙に、北斎が見守る中で応為は書き始める。得意の《年始回りの遊女図》は、夕暮れ時の見世物の道中を描いたもの

先生は密告されてお縄となり、船は長崎港を発つ前に将軍により押さえられ、密偵の烙印を押されて国外追放となる(1828)

《冨嶽三十六景》の注文が個人から入り、一部手伝おうとするが北斎は許さず。北斎の北星工房からはたくさんの絵師が去っていったが、それは北斎が弟子の成長を許さなかったからで、娘は別格、逃げようがなかった。北斎は元気になり傲慢さと自分勝手を取り戻す

16. 数十日後

富士の眺めの錦絵の揃物はすでに宣伝され、作業が遅れ出来上がりが危うい。広重のような若いやり手が締め切り通りにもっと安く喜んで仕上げてくれるだろうが、北斎は手っ取り早くて簡単なものには興味がなかった

17. 1835年 4年後の江戸

《冨嶽三十六景》はよく売れたが、版が終了。稼ぎは前の仕事と同じ程度

2年飢饉が続き、絵を売ろうとしても何か新しいことをしないと死んでしまう。そこに、『百人一首』の挿絵の注文、それも応為宛の。力に押さえつけられても、頑なまでに強い、私の女たちの、生身の姿を描きたかった。詩(うた)の中にいる庶民を、働き苦しむ百姓や庶民を描きたかったが、北斎が自分でやると言って取り上げる

それを見た版元が、今や四十六景になった三十六景の版木を持ち出し、2枚目の赤富士を応為独特の赤にすることを考える。元の明るい富士の桃色は暗い赤茶とし、空も深い青にして、稜線の赤から緑への移り変わりを単調にして、真っ直ぐな線にする

18. 1868年 北曜

山形の裕福な商家・本間一族の分家の次男で放蕩息子・北曜が、なぜか北星工房に現れる

昼は工房で応為の手伝いをし、夜はどんちゃん騒ぎ

小布施の裕福な米商人・高井鴻山から、町の祭りの山車の天井板に描く仕事の発注がある

1848年、父は病がぶり返し本当の老人に

19. 最期

突然出ていった北曜が5年ぶりに戻ってくる。北斎が亡くなる前に、北斎の絵を酒田の蔵に預ける。鴻山からは続いて菩提寺の岩松院という小さな寺の天井画に4400枚の金箔を使って塗る話が舞い込み、北斎の代わりに応為が仕上げる

20. 1853年 浦賀湾 黒船

応為は浦賀の黒船を描こうと港へ行くと、そこでまた5年ぶりに北曜に出会う

北斎が亡くなって、北星工房は閉鎖。その代償として弟子たちが北斎の作品を要求。応為も横浜で西洋人に作品を売って食つなぎ、横浜に行って輸出用の絵を描こうと決意

 

第3部         

21. 1892年 ボストン

博物館ではフェノロサが責任者となり、10万点近くの日本の美術品を保管、国内を巡ってそれを伝える吟遊詩人となる。モースは陶芸部門の責任者。ビゲローも仏教の死とともに帰国、親の遺産を継いで仏教とダーウィンを結び付ける講義をした

フェノロサは、ニューオーリンズに講演に行って、在日経験もある日本の好きな未亡人メアリーに会い、アシスタントとして採用。カタログ作りを始める

6年前は芸術性を否定していた北斎の展覧会を企画

日本の骨董王は、日本美術に対する大衆の絶大な需要を満たすためにニューヨークとボストンに直営店を開き、息子の定次郎を派遣

《鳳凰屏風図》を見て、定次郎は署名がないので「北斎派」の作だと言い、フェノロサは娘の作だと反論、メアリーも署名は無意味だという

22. 失墜

メアリーとの関係が露見して、フェノロサはビゲローからも詰め寄られ、美術館から無期限定職を命じられ、リジーと娘を残して家を出る。ボストンの社会は1人目のフェノロサ夫人がこれ以上の屈辱を受けないよう、辛うじて離婚を容認したが、再婚は忌み嫌った

リジーは、養育費の他に絵の所有権を主張。美術品の価値を見出したのは自分だと自負するフェノロサにとって衝撃。さらに親愛なる古い友人で美術館の事実上の所有者となっていたビゲローもフェノロサのスキャンダルを許さず、残酷にもアメリカでは二度と影響力のある地位に就くことはできないだろうと通告

新しい展覧会が、ニューヨーク・ラインアートビルで開催。フェノロサが持ち帰った絵を展示し、展覧会は成功、何枚か売ったが、リジーとの係争で金は手に入らず

フェノロサは講演に、メアリーは執筆に注力

23. さらなる失墜

フェノロサとメアリーは欧州経由日本に戻る。パリでは浮世絵の版元の小林文七(元林忠正の使用人)とも仕事をする。日本では、近代化が外国人の関与なしに進んでいて、フェノロサの戻る余地はなかった。岡倉を訪ねたが、彼も上司の男爵の夫人との情事が原因で政府の職を失っていた

24. 闘鶏

小林文七から闘鶏への招待状がフェノロサに届く。闘鶏は、中国渡来で、家族や士族の趣味になっていた。その肖像の掛物が高値で売買されている

小林がフェノロサに、東京でも北斎の展覧会をしようと誘う

25. 本間耕曹

日本には北斎はほとんど残っていないと思っていたが、酒田の古い商家の出で若い頃北星工房に弟子入りしていた本間耕曹が、王政復古の藩の争いで戦い、財産を相続、そのお陰で警視庁の大警部に出世、その財産の中に北斎の絵があった。直接会って絵の所在を確認しようとしたが、本間はあったとしても売らないという

飢饉のとき餓えた北斎父娘に菓子を恵み代わりに北斎が絵を置いて行ったという戸崎という菓子屋のことも話題に上る

26. 1867年 江戸 応為

14年前、浦賀に黒船が来た時、応為はその絵を描きに来て北曜に出会い、作品を預かってもらって、応為は筆1本でやっていくと決心

戸崎の菓子屋の包み紙の絵を描いていると、10年以上も経って北曜が現れる。北曜は薩摩藩で教鞭をとった後、士族を回って貿易会社のための共同出資を募っているという。故郷の酒田に戻って従兄弟の耕曹の家に落ち着き、応為の絵も送り返すと言ってきた

27. 蛮人戻る 1899年 東京

1893年ボストンで、フェノロサはビゲローによって集められた人物や動物、花の色彩画の習作10点余りを応為の作品だといって見せる

28. 目録(1898年の東京での北斎展用)

フェノロサ夫妻に新しい友人が出来た。ラフカディオ・ハーン。民俗学者で、応為の霊が出ることに興味を持つ

目録を書き進める中で、フェノロサは北斎が途中で完全に作風を変えたと言ったが、それは応為の筆になったことを知らないからで、小林も女の絵師などいないと断言している

一方で、無署名の絵が何枚かあり、彼女の署名作品に非常に近いとされている

栄女(応為)の作とされる無署名の連作を、ヨーロッパの批評家は最も秀逸と称賛したのに対し、日本人の保守派がとりわけこれらを非難したのは特筆に値する

フェノロサは、かつては見えなかったが、今では疑問の余地のない、父の作品と娘の作品との明らかな違いを理解し、署名のない作品や印章だけの作品について、彼女が作者であることを認め始める

出展された絵の一部が本間耕曹から貸し出されていた。耕曹がどこで手に入れたかは不明だが、彼が所有していた点こそ、栄女の作品のもう1つの特徴

小林は、北斎とその門下による300点の絵のうち50に挿絵をつけて目録を出版。作品は主に小林、フェノロサ、本間耕曹の個人祥三品格から集められ、展覧会は成功し、展示作品のほとんどが売却

29. 1899年 東京 ダンス

小林の扱う作品を贋作呼ばわりしたのはイギリスの美術品蒐集家

小林は林忠正の下で修業してパリにでる

30. 1900年 パリ

林と小林はパリのコレクター・アンリ・ヴェヴェルに応為作の《北斎の自画像》を、証明書をつけて売り、ヴェヴェルはその作品をルーヴル美術館に寄贈

31. 1900年 東京 能

フェノロサは、再び能を学び始める。ボストンからの嫌がらせは続いており、それから逃れるためにも能の稽古に没頭

32. 戸崎の菓子 1868年 応為

耕曹は北曜を幽閉、応為の掛け軸の在りかを訪ね、武器購入のための資金にしようと企む

 

第4部         

33. 1904年、ボストン

岡倉はボストンのアジア美術部門長に就任。美術品を保管する小さな絹の袋を作る裁縫サークルに集う上流階級の夫人たちに囲まれ、日本美術について講演をする

ビゲローは今や別人で、ボストン市民の社交や芸術に係ることの決定者

作者名のあるものは北斎とされ、無署名のものは北斎派とされた

34. 1904年 デトロイト

小林文七は本間耕曹とともにデトロイトの蒐集家チャールズ・フリーアに会いに来た。日露開戦で本間には資金が必要となり、所蔵していた掛け軸を売りに来た。フリーアから出所来歴を求められたが、もともと販売用ではなく保管してきたという

35. ウィノナ湖、インディアナ

フェノロサ夫妻は、インディアナの保養地で、知識に餓えたアメリカ中流の人々に、秘境日本の寺院を旅した記録を幻灯機で見せる

フェノロサは、自分の国で、美術教育に身を捧げることが自分の使命だと認識

東洋美術への熱狂がニューヨークを席巻していた。フリーアからも北斎作品購入に関し助言を求めて来た

36. デトロイト

フリーアは最初の1時間で購入を決定していたが、何事もなかったかのように本間や小林たちと言葉を交わす。フェノロサから返事が届き、絵は期待ほどよくなく、自信もないという。フリーアは本間と小林の説明を信じて89点を購入

37. 1908年 ロンドン 最初の旅立ち

フェノロサ夫妻はロンドンに行き、過労で倒れ、病身をおして祖国の先達ベラスケスを見に行ったのを最後に心臓発作で逝去。遺体は一旦ロンドンで埋葬されたが、三井寺に移す

ニュースが広まると、彼を拒絶した友人たちや、和解の済んでいない元妻が、彼の擁護を始める。彼は世界にかなりの善行を施す。彼が在日した12年に主張した策のほとんどが日本政府に正式に採用され、彼は許されたが、メアリーに哀悼の辞を書いた者はいない

38. ニューヨーク あの本

フェノロサの遺体を三井寺に永久に安置したのはメアリーの功績の手始め。モースから送られた陶器の壺に遺灰を納め日本に持ち帰った

メアリーは、フェノロサの膨大な手書きのメモをまとめて『ザ・エポックス』を出版

フェノロサは、メキシコを征服したコルテスの副官アルバラード家の出身

メアリーは、本来の仕事に戻り小説を書く。今のお気に入りはヨーロッパに住む20歳は年下の若きアメリカの詩人エズラ・パウンド

39. 1913年 コベント・ガーデン ロンドン

メアリーはロンドンに行って山中商店を訪れ、定次郎の弟六三郎から新たに発掘されたという北斎の掛け軸を見せられる

応為は、世間に認められず、正当な人生を送れなかったのを晴らすために、メアリーにこそ真実を語ってほしかった。西洋の生活では、ヒンドゥー教で寡婦が夫の死に伴って焼身自殺するサティという習慣はここではない。生を終えるのではなく、男たちを追い越して生きるのだ。そして女に注目を集める。その想いをメアリーに託す

40. 出版人ハイネマンとのディナー

『エポックス』の原稿を持ち込んだ出版人ハイネマンと出会う

同時にエズラともで会い、彼が興味を示したフェノロサの能に関するメモ書きを手渡し、彼は自分こそフェノロサが望んだ文学の後継者だと言い、詩や能の演目を出版。その言葉はメアリーを壮大な過去へと導く

41. ロスト・ボーイズ

若き日に日本で日本美術を漁ったボストンの男たちを「失われた男たちlost boys」と呼んだが、メアリーは彼らのその後を記録していた

ウェルドは、フェノロサが蒐集したコレクションの日本からの持ち出しが禁止された時、買い取ってボストンに寄贈したが、彼は絵画には興味がなく、もっぱら刀、鍔、剣、その他の武器。離婚したフェノロサを非難したが、やがて仲直り、191154歳で死去

次に逝ったのは日本の裏切者岡倉。ボストンで成功した後帰国して美術学校を建てる

モースも、離婚をきっかけにフェノロサを見捨てた。回想録『Japan Day by Day』を出版。1925年死去。応為の絵も1枚持っていたが、その後の行方は不明

小林文七の悪評は生涯つきまとう。複製を作りまくり、複製した印章を使う。1923年没。

60歳。直後に関東大震災で、小林のコレクション・工房はすべて焼け落ちる

小林の死の2か月後、フリーアの建てたギャラリーがオープン。小林から買った89点が展示。1人生き残ったビゲローの古い友人の息子ロッジが館長に。ロッジが北斎の作品と認めたのは、25年前の展覧会にフェノロサが書いた目録の170番だけ

42. 臨終の訪問

ビゲローは他の誰よりも長生きしたが、人生は孤独。メアリーは夫の仕事を奪い、彼ら2人を社会から除け者にしたビゲロー(通称サムライ・ビル)に対し苦々しい思いを抱いていた。ビゲローの所有する島は海に侵食され始め、社会での影響力も失う。コレクション全体を美術館に寄贈する書類に署名。1926年没。髪の毛と爪の一部が山中定次郎によって日本に持ち帰られ、三井寺のフェノロサの隣に埋められた

山中商店を大美術商に育て上げた山中が失意に暮れたのも1926年。震災でコレクションを失い、米国の税金と戦争で痛手を受ける。'36年病没。その後在庫はオークションにかけられ、そして開戦

43. モビールのメアリー

終戦で日本は壊滅。メアリーは生活のために夫の遺した版画約600点を売る。故郷アラバマに戻っていたが、日本に行って応為を再発見しようと考える

44. 東京――小布施

1948年、メアリーは日本に行って三井寺に参る。岩松院が1848年再建された際の天井画は北斎作とされるが、北曜の日記によれば、その当時北斎は江戸にいたという。絵具の製法を応為が書き、自分で調合したことも知られている

45. 小布施――東京 菓子

北斎の書いた手紙によると、版元は北星部屋に発注する際、父か娘のどちらかを選べることを十分に認識、中には特に応為に発注した者もいたが、最終製品には必然的に市場でより売れるブランド名として北斎が入れられた。署名がないこともあれば、署名が消されたり改竄されたりすることもあった

46. 再び東京で

メアリーは、応為が北斎にその名を奪われたことに不平を漏らしている

応為は、親父に作品をあげたと言い、それによって親父の名前で生き続けることができる、それが唯一の頼みの綱だったと言う。名を奪われたことに抗ったが叶わなかった

応為は為一の名で多くの作品を残したが、地震が私らを飲み込み、元の男の世界に戻った

47. 東京 能楽

メアリーは、赤富士の版画を見る。タイトルと応為の署名のようなものが記されている

日本の北斎の研究者と一緒に古文書を読み解く。北曜の書いた謡曲で自らの一代記を応為に見せたもの。耕曹が応為の掛け軸を大量に持って美術商になった経緯が判明

48. 東京郊外、応為1

浦賀湾の、山がはっきりと見えるこの場所に戻って来た。陽が昇る東の海の水面に最初の光が差すと、富士の姿がゆっくりと変っていく

 

 

ある小説家の応為研究――あとがきにかえて             2024.11. キャサリン・ゴヴィエ

2006年、私はワシントンDCにあるフリーア美術館の北斎展を訪れる。《神奈川沖浪裏》が存在感を放つ。最後に《雪中虎図》があり、「彼の最後の年、齢89での作品」とあったが、紛れもなく、愛情の込められた偉大な巨匠の旅立ちの姿で、応為の描いたもの

以後、応為の研究に没頭。2010年には応為の人生を描いた小説『The Ghost Blush(カナダ)/The Printmaker's Daughter(英米)/北斎と応為()』を出版。さらに応為が所在不明の墓から蘇り、彼女の作品がその後どうなったのか、なぜ彼女は父親とともに有名にならなかったのかを探る第2作目へと進む

北斎の研究を進めると、多くのことが変わる。応為の役割についてより活発に議論がなされ、応為の作品が発見される。世界中の美術館で失われた女性アーティストの再発見が進むが、応為の名は未だ上がっていない。それでも彼女の作品と人生は、生前ある程度の名声を得た、特筆に値する女性アーティストたちの消滅を探るケーススタディであり、その文化的忘却の原因が何なのか。

北斎の贋作のいくつかは娘の応為によるものとの仮説があるが、確固とした証拠がない以上、それは小説家や劇作家の世界だという

飯島虚心による回想録集『葛飾北斎伝』は、日本で1893年、小林文七によって出版。それによれば、2人目の妻の長女である栄女は、「かなり男性的で、支配的な性格、絵は描けたが、裁縫は出来なかった。北斎の弟子と結婚したが、母の死を機に父の元に戻る。離婚の理由は夫の作品をからかったためと伝えられている」、「為一の画号で署名された北斎中期の肉筆画の多くを手掛けた」

歴史に埋もれた偉大な女性芸術家たちを探し求める時、特に彼女たちの生きた時代やそれに続く時代が彼女たちを消し去ろうとしている時、集団記憶や歴史の断片から得られた物語が単なる物語に過ぎないことは分かっているが、真実を見つけるために語り続けなければならないかもしれない

 

 

 

 

 

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出版社内容情報

「不思議に魅力的な本である」と故・立花隆氏に絶賛された前作『北斎と応為 上・下』(2014年、彩流社刊)に続く第2作!幕末から明治初期、日本の混乱期に多くの文化財が流出している。世界に名を馳せた葛飾北斎の作品も高値で取引されていた。北斎の娘・応為は、父に劣らず健筆を振るっていたわけだが、女性絵師は、女性であるだけで存在を消されることとなり、決して正当には認められることの無い時代であった。当時、来日したアーネスト・フェネロサやエドワード・モース、ウィリアム・ビゲローの3人が買い集めた作品群の中にも応為の作品は含まれていた………。

一方、フェノロサの2人目の妻となったメアリーもまた、自身も成功した作家でありながら、女性であるがために正当な評価を得られずもがき苦しんでいる1人だった。亡霊となって復活し、父と自身の作品の行方を追う使命を担った応為は、次第にそんなメアリーに自分を重ねるようになる。自らの功績と歴史との折り合いをつけるため、応為が最終的に下した結論とは………。

本書は、亡霊となることで明治の時代を死後に眺め続ける応為と三人のボストン人との関わりを描き、忍びながら華やいだ絵筆の後の浮世絵流出の姿と女性絵師の密やかでありながら光を燈し続けた復活を描く物語である。

 

 

Wikipedia

葛飾 応為[注釈 1](かつしか おうい、生没年不詳1800?)は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎の三女。応為は(画号)で、名は(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。

概要

葛飾応為『月下砧打美人図』

北斎には2人の息子と3人の娘(一説に4人)がいた。三女だった応為は、3代目堤等琳門人南沢等明に嫁したが、針仕事をほとんどせず、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の稚拙さを笑ったため、離縁されてしまう[1]。出戻った応為は、北斎の制作助手も務めたとされている[2]。顎が出ていたため、北斎は「アゴ」と呼んでいたという[3]80歳後半の北斎自筆の書簡でも応為を「腮の四角ナ女」と評し、自身の横顔と尖った顎の応為の似顔絵が添えられている[注釈 2]。なお、北斎の門人の露木為一による『北斎仮宅写生図』にも、北斎と応為の肖像が描かれている(「北斎仮宅之図 紙本墨画 国立国会図書館所蔵)。

初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られる[要出典]。同じく北斎の娘と言われる画人の葛飾辰女は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である[注釈 3]

特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれている[4]。また、北斎の春画においても、彩色を担当したとされる。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている[5]。同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉も、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評している。またこの記述から、天保初め頃には応為は出戻っており、北斎晩年の20年近く同居していたと推察できる。

晩年は仏門に帰依し、安政2年から3年(1855 - 1856年)頃、加賀前田家に扶持されて[要出典]金沢にて67歳で没したとも、晩年北斎が招かれた小布施で亡くなったともされる[6]。一方で虚心は、『浮世絵師便覧』(明治26年)で、慶応年間まで生きていた可能性を示唆している。

人物

「応為」の画号は、北斎が娘を「オーイ」と呼んだので、それをそのまま号としたとも、逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と大津絵節から取って呼んだからという説[2]や、あるいは北斎の号の一つ「為一」にあやかり、「為一に応ずる」の意を込めて「応為」と号したとする説もある[要出典]

応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、やや慎みを欠いており、男のような気質で任侠風を好んだという。衣食の貧しさを苦にすることはなかった。絵の他にも、占いに凝ってみたり、茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという[7]。北斎の弟子、露木為一の証言では、応為は北斎に似ていたが、北斎と違って煙草と酒を嗜んだという。ある日、北斎の描いていた絵の上に吸っていた煙管から煙草の火種を落としたことがあり[8]、これを大変後悔して一旦禁煙したもの、しばらくしてまた元に戻ってしまったという[9]

また応為にも弟子がおり、たいてい商家や武家の娘で、いわば家庭教師として訪問して絵を教えていたようである[3]。露木が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという[10]

斎藤月岑の日記によれば、お栄は料理の支度をしたことがなく、また食事が終わると食器を片付けることなく放ったらかしにしている。この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、という。

作品

葛飾応為『吉原格子先之図 葛飾応為『三曲合奏図』

現存する作品は十数点と非常に少ない。誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。木版画で応為作と認められているのは、弘化4年(1847)刊行の絵本『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と嘉永元年(1848)刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみである。70歳近くまで生きたとされる彼女の作品数が少なすぎることから、「北斎作」とされる作品の中には実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられている。特に北斎80歳以降の落款をもつ肉筆画には、彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆とする意見もある[11]。また、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もある[注釈 4]

作品一覧

月下砧打美人図[注釈 5]げっか きぬたうち びじんず)

満月に照らされ女性がを打つ場面。月夜に砧を打つ図は白居易の詩「聞夜砧」に由来し、夫を思いながら砧を打つ妻の情愛を象徴的に表す。後述の作品と比べて色彩が抑制的で癖が少ないことから、比較的早期の作品か。なお、本図の落款部分は後人が一度削り取ろうとして途中でやめたような痕跡があり、ある時所蔵していた人物が新たに北斎の落款を入れて売ろうと企図していたと想像される[注釈 8]

吉原格子先之図(よしわら こうしさきのず)

吉原遊廓の妓楼・和泉屋で、往来に面して花魁たちが室内に居並ぶ「張見世」の様子を描く。店や客が持った複数の提灯から生まれる幻想的な光と影が、観者に強い印象を与える。紙の寸法や日本人の生活に取材した画題が、カピタンの依頼により北斎工房が手がけた水彩画ライデン国立民族学博物館およびパリ国立図書館蔵)と一致することから、本作もオランダ人からの依頼によって描かれたが、何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる[注釈 9]

春夜美人図(しゅんや びじんず)または夜桜美人図(よざくら びじんず)

無款だが、北斎派風の女性描写や、明暗の付け方、灯籠などの細部の描写が他の応為作品と共通することから、応為筆だとほぼ認められている作品。元禄時代に活躍した女流歌人・秋色女を描いた作品だと考えられる[注釈 11]

竹林の富士図(ちくりん のふじ ず)

元々知られていた伝北斎・伝応為の「竹林の富士図」双幅[注釈 12]とは別作品。図柄は殆ど同じで落款がなければ区別できないが、本図の款記の文字はしっかりしているのに対し、双幅の方は書体が雑で、富士山形の印も似せているが別印である

三曲合奏図[注釈 13]さんきょくがっそう

中央の遊女が、右側の芸者が三味線、左側の町娘が胡弓をひく。「三曲合奏」とは、「琴・三味線・胡弓(または尺八)のこと、またその合奏」の意味だが、浮世絵ではもっぱら尺八ではなく胡弓で描かれ、複数の絵師が同画題を手がけている。身分が異なる女性が一度に合奏するという現実ではなかったであろう場面だが、これは中国の伝統的な画題である「三酸図[注釈 14]」にならったとも考えられる。見事な彩色もさることながら、横長の絹本に、3人の女性に楽器を持たせ、破錠無く画面全体を作り上げており、応為の高い画力を見て取ることが出来る。なお、イタリアキヨッソーネ東洋美術館にも伝応為の同名作品(英語題名 "Trio of women playing the shaminen,kokyu andkoto")が所蔵されているが、全体に雑で、女性の帯や衣などが異なり、琴の弦の数が12本多い(ボストン本は13弦)ことから、本図の模倣品とする説がある[12]

関羽割臂図[13](かんう かっぴ

現在知られる応為落款の作品中、最も大きい作品。右腕に毒矢を受けた関羽を、名医・華陀が小刀で骨に付いた毒を削り取って治療する場面。池田東籬亭作、二代目葛飾戴斗画、天保10年(18393月序『通俗絵本三国志』58巻の挿絵を典拠としており、制作はそれ以降と見なせる。応為の落款がなければ女性が描いたとは思えないほど力強く、周囲の男たちの苦悶する表情や滴り落ちる血の描写は生々しさに満ちている。なお、捺されている「葛しか」白文方印は、北斎が使用していた印である。「葛しか」印は3種類確認されており、本作品のものは北斎81歳から88歳まで使用した印である。当時、応為と北斎は同居していたから北斎使用印を用いているのも不自然ではないが、ここでわざわざ用いているのは北斎の指導下で制作されたのを暗示しているとも考えられる。元々は松代藩にあった作品とされるが、昭和初期には東京にもたらされていたようだ。その後、金子孚水ら複数人の手を経て麻生美術工芸館の所蔵となるが、同館は閉館し平成10年(1998年)10ニューヨークオークションにかけられる。この時の予想落札価格は46万ドルだったが、実際には167500ドルで落札された。現在はクリーブランド美術館に収まっている

 

応為が登場する作品

注釈

1.   ^ 「応」は正字「應」が用いられたと考えられるが、基本的に省略する。

2.   ^ 島根県立美術館編集・発行 永田生慈 北斎コレクション一〇〇選』 201928日、第99図。

3.   ^ 久保田(1995など。美術史家小林忠もこれを支持している(『江戸の浮世絵』 藝華書院、2009年、p.362ISBN 978-4-9904055-1-9)。

4.   ^ この本は序一丁・付文二丁を付した大錦横版121帖の組物。このうち、炬燵の中で戯れる男女図に描かれた書物の表紙に、『陰陽和合玉門榮(改行)紫色雁高作・女性陰水書』とある。「紫色雁高」はかつて北斎が名乗った隠号で、この本の作者である渓斎英泉が譲り受けた号。「女性陰水書」の書は画の誤記あるいは誤刻だと考えられ、画工が女性であることを意味し、「陰陽和合」は作者の男性と画者の女性の合著であり、「玉門榮」はお栄こと応為を指すと解釈できる(林美一 「春画を描いた女浮世絵師 葛飾應為と「陰陽和合玉門榮」」『プリンツ21199310月号)。

5.   ^ C0034762 月下砧打ち美人図 - 東京国立博物館 画像検索

6.   ^ 日本画用語 しほん。書画を描くための地の素材としてを使っているものを言う。

7.   ^ 日本画用語] ちゃくしょく。「着色」と同義。現代風に「着色」と記されることも多いが、本来、「着」と「」は新字体正字体の関係。

8.   ^ 東京国立博物館編集・発行 『特別展観「東京国立博物館所蔵 肉筆浮世絵」』 1993427日、p.122

9.   ^ 『葛飾応為 鑑賞ガイドブック』p.8

10.  ^ [日本画用語] けんぽん。書画を描くための地の素材としてを使っているもの。そのうちの、生糸(きいと)で平織りされている通常のものを言う。上質で光沢のあるものは「本(こうほん)」。

11.  ^ 秋田達也 「応為筆「春夜美人図」をめぐって」『フィロカリア』21号、大阪大学大学院文学研究科芸術学・芸術史講座、20043月、pp.69-89

12.  ^ 金子孚水監修 『肉筆 葛飾北斎』 毎日新聞社、197511月。

13.  ^ Three Women Playing Musical Instruments _ Museum of Fine Arts, Boston

14.  ^ 同じ瓶に入った酢を舐め、孔子は酸っぱし、老子は甘し、釈迦は苦しと言った場面を描いた画題。儒教道教仏教の言説は異なるが、帰するところは一つという寓意

 

 

 

 

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