螢川 宮本輝 2025.8.22.
2025.8.22. 螢川
著者 宮本輝 Wikipedia参照
発行日 『文芸展望』1977年10月号
発行所 筑摩書房
² 雪
昭和37年3月、富山のいたち川のほとりにある竜夫の家
春夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱(よど)ませていた
竜夫は14歳、重竜が52歳のときの子。子が欲しかった重竜が外で産ませて再婚
重竜は、戦後復興期に進駐軍の払い下げの古タイヤを大量販売して大金を掴むと、自動車部品にまで手を広げて北陸有数の商人になったが、1年前倒産。脳溢血で右半身不随に。多額の借財が残る
中2で初めて幼馴染みの英子の裸を思い浮かべて自慰。英子は歯科医の娘、竜夫の級友も英子が好き。中3になって英子が県立高校に進学すると知って俄然勉強しだした級友に刺激されて竜夫も勉強する気に
いたち川のずっと上の広い田んぼの所から、まだずっとむこの誰も人のおらん所で蛍が生まれるが、ものすごい数で、大雪みたいに、右に左に蛍が降る。地の者(もん)でも知らん
4月に大雪が降るほど、冬の長い年でないと、蛍は狂い咲いてくれん
75歳になる建具師の銀蔵からその話を聞いてから5年、ようやく大雪が降って、竜夫を蛍狩りに連れていくと約束
² 桜
春先のいたち川の水量は豊か。竜夫は川の奔流から、今年に限って、何かがかすかにはじけるような特別な音色を聞き取っていた
倒れた父が子供のころからの付き合いのあった友人に無心しようとすると、友人は竜夫に無利子無期限出世払いの金をくれた
父が2度目の発作で失語症も併発、寝たきりに
級友と将来にわたって友情を確認した直後、その友は釣りに行って溺死
² 螢
重竜が死去。先妻が噂を聞いてお詣りに来る。竜夫が送っていくと、先妻は全面的な援助を申し出る。母の兄も心斎橋に第2店目を出すことが決まり、母に前の店を手伝ってもらいたいと大阪に来ることを勧めるが、母は富山から離れたがらない
ついに蛍狩り決行が決まる。英子も誘う。母も加えた4人でいたち川を遡る。あと1500歩行って会えなければ帰ると言ったところで蛍の大群に出会う。滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱(おり)と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞い上がっていった。竜夫と英子は川にそった窪地の底におりていく。一陣の強風が木立を揺り動かし、川辺に沈殿していた蛍たちをまきあげた。光は波しぶきのように2人に振り注いだ。風がやみ、再び静寂の戻った窪地の底に、蛍の綾なす妖光が、人間の形で立っていた
選評
l 丹羽文雄――最後の蛍の群舞のところで、生彩を放っている。それが鮮やかな出来映えなので、びっくりするほどの感銘を受けた。同時受賞作の高城(たき)修三『榧(かや)の木祭り』を推したい
l 大江健三郎――受賞2作については、おおむね批判の言葉を吐いた。『螢川』は、今現に同じ時代のうちに生きている若い作家が、ここにこのように書かねばならぬという、根本の動機が伝わってこない。その文学としての特質に賛同するかどうかとは別に、この作家はこれを今、このように書かねばならぬのだ、と納得する、そのような作家を僕は選びたかった。しかし宮本のイメージ喚起力は豊かであって、真に自身の主題に巡り合えば、その実力は発揮されるだろう
l 中村光夫――ずっと自分に即した作品。初めから一種の抒情性がみなぎっていて、それが結末の川の蛍の描写で頂点に達する。それだけに主人公が、いくら子供でもいい気過ぎて、人間関係の彫りが浅すぎるのが気になるが、これだけの題材をまとめた構成力は立派
l 安岡章太郎――1つの章が2本立てになるのは、甲乙つけがたい場合と、1本ではその賞に物足りないときで、だいたい後者の場合が多いが、今度もそうだった。『螢川」は最も難点がなく、文章にも一種独特の雰囲気があり、描写力にも見るべきものがあったが、その反面、何処といって新しさがあるわけでもなく、感受性の若々しさが感じられるのでもない。せいぜい色の褪せた古い写真をカラー・フィルムでどり直したといった面白さがあるだけなので、これ1本を当選作とするのは、何としてもタメラわれた
l 吉行淳之介――前作『泥の河』の後半がよい意味での抽象的なものに達していた趣は、この作品にはなかった。しかし、全体としての完成度は、前作よりも高い。抒情が浮き上がらずに、物自体に沁み込んでいるところがよい
l 瀧井孝作――父親の亡くなった後の少年と母親とその周囲との物語。越中弁で描いてあっても分かりやすい作で、しまいの蛍の光景は、この世のものとも思えないほど、美しい感じがした
l 井上靖――一番は中野孝次『鳥屋の日々』、次いで『螢川』。『螢川』は、久しぶりの抒情小説といった感じで、実にうまい読み物。読みものであっても、これだけ達者に書いてあれば、芥川賞作品として採りたくなる。却って新鮮なものを感ずる
l 遠藤周作――受賞作が決まった翌日、銓衡会は芥川賞の最近の「暴走」を避けるため、わざと地味な作品を選んだという記事が載ったが、幾度も率直な意見がかわされた後に、受賞2作品の他に中野孝次が残ったので、記事のような事実はない
受賞の言葉 宮本輝
この時代、人間にとって最も必要なもの、ある意味で新しいものを、私は『螢川』で書こうと試みた。前作の『泥の河』同様、『螢川』もまた地味で古風であると評される結果になり、私は稚拙な己の人生観と文学観の2つのレンズで、再び「新しさ」ということを見つめ直す羽目になった。一体新しさとは何なのか、文学の世界に限らず、現代に生きる人々が今後直面していくあらゆる事柄にとって、これは重要なテーマかと思う。芥川賞を頂戴し、もう一度『螢川』を読み返してみて、これはこれでなかなか新しい小説ではないかと臆面もなく自惚れてしまった。まったく困ったことだが、若気の至りとお許しいただくほかない。芥川賞を受賞することが私の夢。作家になろうと心期した何年か前の初心に立ち戻り、また1つひとつ自分の壁を破っていこうと決意している
宮本輝「螢川」(第78回 1977年下期)
田中 慎弥 作家 第146回 2011年下期「共喰い」で受賞
2025/08/07 文藝春秋 9月号
大変申し訳ないのだが、私は宮本輝さんの熱心な読者ではない。だが作家としての自分のこれまでを考える時、「螢川」はどうしても外せない小説ということになる。
2007年に初めて芥川賞の最終候補になって以降、4回の落選を経験し、果たして次があるのかどうかも分らないが、学歴も才能もない作家が食いつないでゆくには芥川賞を奪取するしかないと自分で自分を唆し、過去の受賞作の中で真似出来そうなものはないか、盗めそうなものはないか、マトとして射貫けるものはないかと舌なめずりした挙句、「螢川」に狙いをつけた。北陸、富山の川沿いの町を舞台に、恋とも呼べないような淡い感情と、主人公の父親の死、友人の死が描かれる。ここには巨大な思想や政治性、小難しい高尚な議論などはない。地方の生活と、10代の人間の甘くも苦くもある日々が抑えた文体で書いてある。これならイケそうだ。それに当時、宮本さんは芥川賞の選考委員であり、選評で自分の小説を一度も誉めてくれたことがなかった。その宮本さんの作品を密かに盗み、今度こそまいったと言わせてみせる。芥川賞を必ず捥ぎ取る。
このように意気込んで、しかし「螢川」みたいな折目正しい話ではなく野蛮で血腥い小説にしてやろうと企んだ。そうやって書いた「共喰い」が、「昭和六十三年の七月、」と始まるのは、「螢川」の冒頭から少し入ったところに、「昭和三十七年三月の末である。」とあるのを真似たものだ。
「共喰い」は芥川賞に届いた。だが選評で宮本さんは、やっぱり私の小説を評価してはくれなかった。受賞はしたが、完敗だった。
宮本輝氏は1977年に「泥の河」で太宰治賞を受賞しデビュー。「泥の河」、「螢川」、「道頓堀川」は川三部作と呼ばれる。芥川賞受賞作は新潮文庫、ちくま文庫、角川文庫に収められている。
Wikipedia
『螢川』(ほたるがわ)は、宮本輝の小説であり、1978年1月18日に第78回芥川賞を受賞した作品である[1]。『文芸展望』1977年10月号初出、『泥の河』を併録して1978年に筑摩書房より刊行された。
『泥の河』、『道頓堀川』とともに、宮本の「川三部作」をなす作品である。富山県を舞台にしており、本作における螢川はいたち川を指す[1]。1987年に映画化された。
父と友の死に遭い、恋を経験する思春期の少年の姿と、彼の目に映る大人の世界を、詩情豊かに描く。
映画
1987年2月21日に公開。蛍の飛び交う場面を大規模な特殊撮影で表現し、それまでの抑制のきいた演出から一転、大量の螢が舞うクライマックスシーンを描き高い評価を受けた。ちなみにそのクライマックスシーンで特殊効果を担当したのが、円谷英二の最後の弟子で光学合成の匠、川北紘一である。文部省選定作品。
スタッフ
キャスト
- 水島重竜:三國連太郎
- 水島千代:十朱幸代
- 水島竜夫:坂詰貴之
- 辻沢英子:沢田玉恵
- 関根:川谷拓三
- 春枝:奈良岡朋子
- 大森亀太郎:大滝秀治
- 辰己喜三郎:河原崎長一郎
- 松崎先生:寺泉憲
- 銀蔵:殿山泰司
- 利根川龍二、早川勝也、粟津號、江幡高志、小林トシ江、斉藤林子、岩倉高子、伊藤敏博、飯島大介、勇静華 ほか
脚注
2021.04.02 「未草(ひつじぐさ)」 ひつじ書房ウェブマガジン
芥川賞作品を読む|第20回 宮本輝『螢川』(第七十八回 1977年・下半期)|重里徹也・助川幸逸郎
『流転の海』の作家
助川幸逸郎 宮本輝というと、どうしても『流転の海』シリーズ(全九部)のイメージがあります。『螢川』で描かれているエピソードも、『流転の海』の中でもう一回出てくるものがほとんどなわけです。ただ、作品としては大長編と短編というだけではなくて、随分違いがあります。
具体的に言うと、文章です。宮本輝は『流転の海』を書いている段階では、例えば女の子が出てきたらどういう顔をした女の子かって書かないで、最終的な印象だけ書かないと駄目なんだ、要するに目が大きいとか、小さいとか、書いては駄目なんだと言っています。ところが、この『螢川』ではかなり人物のルックスなんかも具体的に書いています。そして、文章も後年の宮本輝が長編を書く時というのは、物語の乗り物として最適化された文章っていう感じがするわけですけれども、『螢川』ではやっぱり文章そのものがものすごく凝っている。文章の絶妙の表現から立ち上るポエジーみたいなものをかなり重視しているところがあると思います。その辺のところで同じ宮本輝の作品といっても、若い時から段々その時その時で書いているものとか、あるいは創作に対する姿勢みたいなものが違ってきたんだなっていうのを同じ題材を書いているだけにすごく感じるところがありました。
重里徹也 『螢川』において、言葉そのもの、文体そのもの、文章そのものから詩情が発散されているのは私も感じます。物語性だけではなく、文章力も非常に優れた作家なのだと考えます。自分の文体を持っている作家ともいえる。それは、デビュー作の『泥の河』でも、この『螢川』でも感じました。そして、その詩魂とも呼ぶべき文体の核にあるものは、やはり、九冊に及ぶ『流転の海』シリーズでも、そうなのではないかと思います。「物語の乗り物としての文章」という表現には違和感があります。不適切な感じがします。そうではなくて、『流転の海』においては、詩魂がうまくコーティングされているのではないかと感じます。
助川 「物語の乗り物としての文章」という言いまわしで、文章そのものには魅力がない、ということを言いたいわけではないのです。『螢川』の文章は、読む方のペース配分をあまり考えず、全力投球している文章です。一方、『流転の海』は、読者が長い作品を一定のペースで読めるように配慮されています。『螢川』が一イニングだけ投げればいいクローザーの投球のような文章で書かれているとすれば、『流転の海』の文章は先発完投型投手の投球のような文章ではないでしょうか。
先発完投型の投手だって、いざとなればクローザーに負けない速球を投げます。ただし、全部のボールをクローザー並みに全力投球していたら、勝ち投手の権利が生じる五回までだって持ちません。それから、先発完投型投手は、一試合の中でおなじ打者と三回、四回と対戦しますから、配球パターンも試合の途中で変えなければならない。『螢川』が、後先考えずとにかくベストの表現を探る筆致で書かれているのに対し、流転の海は緩急自在でメリハリをつけた文体が採用されている印象を受けます。
重里 『泥の河』や『螢川』の文章が非常に優れたものだと私も思います。そして『流転の海』シリーズの文章にも、やはりそれに連なるものがある、同じ血が流れていると私は考えています。一見、非常に読みやすいのだけれど、言葉の一つ一つは詩情を漂わせている。それがキャラクターを描くときに強い力を発揮する。輪郭を濃く彩る。そんな風に私は思っています。
あまりにも生々しい螢
助川 宮本輝はイメージがすごくきれいですよね。螢のイメージも見事です。有名なシーンですが。空間で何かを起こす時にイメージを作ることに秀でた作家です。最後の一行なんかすごいじゃないですか。
重里 この螢が乱舞し、螢の光が散乱するシーンは見事ですね。何が見事かというと、きわめて生々しいわけです。むせかえるようなニオイがするほど、生々しい光なわけですね。そこのところは圧巻でした。選考委員が称賛していますけれど、なるほどと納得しますね。
助川 螢のイメージが想像していたものと全然違っていたんだというところが出てきますけれども、その生々しさがすごいですよね。
重里 螢といってイメージするものと、現実の螢は違っていたというのは抜群に面白いところですね。それは、何を意味しているのか。ここは、宮本輝の急所ですよね。ここです。宮本作品の神髄です。
助川 たぶん、宮本は言葉というもの、イメージというものをこれだけ上手に使いこなしていながら、根本で言葉のイメージを疑っているんだと思いますね。
重里 あるいは言葉のイメージを裏切りたいという欲望を強く持っているのだと思うのですよ、宮本輝は。それがときどき突き破るように物語に露出するのだと思います。そこが宮本輝の真骨頂なのじゃないのかなと思うのですよね。宮本輝って、きれいな景色を整った文章で書く作家みたいなイメージがあるかもしれないですけども、全然そうじゃない。そんな先入観は間違っている。むしろ逆で、きれいなイメージや美しい情景を食い破るような描写に、宮本文学の芯があるのだと思います。
助川 だから井上靖を宮本輝が好きだったってすごくよくわかる。井上靖も新聞記事っぽい文章を書く作家だって一部で言われています。分かりやすいけれど俗っぽいって。でも、井上靖自身がそういうわかりやすいものの限界みたいなものを見ちゃって、わかりやすいものを突き抜けるものみたいなものをすごくよく知っていると思うのです。だからある意味ではもうわかりやすくできるところはわかりやすくしちゃえって、すごく割り切ってしまうところもある。
全部言葉できっちり説明できないと思う人間ほど、言葉できちんと説明しようとします。説明できないことがわかっているからこそ、説明できるものはわかりやすく説明してしまおうと。言葉が通じない世界があるんだ、ということを肌で知っていて、だから言葉を信じていないというのは、これは同じカードの裏表だと思うんです。井上靖はそういう作家だし、宮本輝もちょっと形は違うかもしれないけれども、言葉で説明できないことを知っている、あるいは一般的にイメージされるものを信じていない作家です。だからこそ美しい物語だとか、きれいなイメージとかも、わかりやすく作ろうと思えば作れてしまう。でも、それを一番宮本輝が信じていない、みたいな、そういうところがあるんじゃないか。
重里 井上靖の文章を俗っぽいとは私は全然思わないですけれどね。「俗っぽい」という言葉から定義しないといけませんね。あるものをさして、「俗っぽい」というほど、俗っぽいことはないですね。井上靖の文章はきわめて詩的なものだと思います。
助川 でも、井上靖の文章はクリシェ(常套句的)だという批判はありますね。それが本当に俗っぽいかどうかっていうのは別として、あれだけ平明だと、そういうことを口にする人たちが出てくるのはある意味、わかるわけです。私も個人的には、井上靖の文章が俗っぽいとは思いません。けれど、俗っぽいって評する人が、一定の比率でいることは事実です。そこまで平明に書けてしまう井上靖っていうのが、それは単に平明に書ける能力があったというだけではない、ということを問題にしたいわけです。
重里 平明に書かないことが嫌だったのでしょう、それは。性に合わなかったのでしょう。平明に書かないことが空しかったのだと思います。「美しい」文章を書くことが、井上靖の美意識に合わなかったのでしょう。「美しい文章を書くこと」は恥ずかしいことだと思ったのでしょう。
助川 その井上靖の美意識ってなんだったのか、ということを私は考えたいんですね。かっこつきの「美しい」文章を書く人っていうのは、何かを信じているからそう書くわけですよね。言葉を信じ、イメージを信じているから、美しいイメージを言葉で語ろうとするわけです。難解で、高尚そうなイメージを作るっていうことは、その高尚そうなものに対する信仰があるわけですよ。伝わらなくったって、誰も分かんなくたって、これは素晴らしいんだって。そう思ってるところがあるから、高尚そうな分かるやつだけが分かる「美しい」イメージって作れるんですよ。でもそういうものを信じられない人間は、高級そうなものをボンと提示して、誰にもつたわらなくても恥じないっていうことに、耐えられないんですよ。
重里 それはよくわかります。そういうことです。
井上靖、叙情を食い破るリアル
助川 この作品の最後の螢の描写は美しいものと言われているけれども、本当は不気味なものです。
重里 リアルで生々しくて、エネルギーに満ちていて、むせかえるようなものです。おそらく若い時の宮本輝は、井上靖のそういうところ、美しいものは実は不気味なものなのだ、というところに反応したのだと思います。ただ、私が『流転の海』を読んでいて驚いたのは、題材が井上靖に寄っていくわけですね。最初の四国の闘牛もそうだし、それから猟銃というものがとても重要な意味を持ってくるのもそうだし。主人公が金沢に行くと、金沢大学の柔道部員が出てくるし。琵琶湖が出てくる場面があって、ひょっとしたら、主人公たちは仏像めぐりでもするのか、とドキドキしました。井上靖に『星と祭』という長編小説があるのですね。『流転の海』を読んでいて、井上の小説を追体験しているような感じさえしました。重なるところが多いのが面白くて印象的だったのです。これは何なのだろうとも思いました。
助川 逆に宮本輝にしてみると、井上靖の小説が自分の体験を意味づけてくれるような気分で読んでいたかもしれないですよね。
重里 そういうことですね。『流転の海』は小説ですから、どこまで事実に即していて、どこからが虚構なのか、わからないですけれども、かなりの部分に共通した題材があるとしたら、面白い偶然ですね。
助川 作家と作家が出会う時ってそういうところがありますよね。批評家や作家にとって、生涯で一番大事な作家というのは、自分の人生の予告編が全部書かれていたとか、あるいは自分の人生の過去が全部この人は見通しているとか、みたいなことってありうると思うんです。それぐらいのレベルで精神の構造だとか価値観だとかがシンクロするとそういう風に思えるような瞬間っていうのがあるんじゃないかなって気がしますね。
重里 宮本の方から井上に近づいていったということもあるでしょうね。例えば、『流転の海』で息子(伸仁)が大学に入ってから旅行しますね。非常にハードな旅行をする。どこへ行くのかなと思ったら、伊豆へ行くわけですよ。これは、明らかに井上靖の小説に惹かれて伊豆を選んだように思える。そんなこと書いていないですよ。ただ『流転の海』に井上靖の『しろばんば』という作品名は出てきますね。井上の自伝的な長編小説ですね。宮本が井上に近づいていったという面もあれば、元々宿命のように重なる部分もあったのでしょう。私はそう思いますね。
助川 『螢川』のラストは、井上でも書いていないほどのすごい場面だと思います。人間にとって見てはいけない禁断の何かに触れた瞬間なのだと思うんですね。
重里 いたち川という名前がとても印象的ですね。富山の街から北アルプスが見えるのですよね。北アルプスと一緒に暮らす街なわけです。その北アルプスから流れてくる川の一番果てに、ああいう小さな川があるわけですよね。そこが面白いところだなと思いました。ただ、『螢川』で気になるのは、主人公を地元の少年にしたことですね。現実には大阪から転校していった子ですよね、宮本自身は。ところが地元の人間にしている。母親も地の人間にしている。これはどうしてでしょうか。
助川 主題を集約させたかったんでしょう。富山に生まれ育った人間が富山から引きはがされる瞬間に、一生に一度しか見られない、禁断の美しいものを見たという話にしたかったんじゃないですか。
重里 ストーリーをシンプルにして、テーマを絞りたかった。
助川 まさに故郷から根こぎにされて、故郷を失ってしまう人間にだけ、あの螢が見えるんです。女の子に螢がよりついて、中で光り輝く。あれは源氏物語の玉鬘の巻ですよね。根こぎにされる瞬間に、その根っこの部分から螢がわいてきたというイメージですね。
重里 日本文学における螢というと、和泉式部の歌がありますね。
助川 もの思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る。人間の魂ですよね、和泉式部の螢は。
螢を描いた二人の作家
重里 宮本輝と同世代の村上春樹も螢を書いています。『ノルウェイの森』で重要な場面ですね。最初に『螢』という短編で書いて、その後、この長編にも使っている。村上春樹はとても叙情的に螢を描いています。宮本輝は叙情性を装って、それを突き破っている。面白い対照ですね。
助川 宮本輝的な螢にこそ、文学の真実がある。それを叙情にしてしまっている春樹は、ちょっと踏み込み甘いんじゃないかって、かつては思っていました。
重里 いい意味でも甘いんです。東京の都心で、近くのホテルから流れてくる一匹だけの螢を屋上で見て、叙情的に描き出している。
助川 宮本輝も村上春樹も同じ螢を見ているはずです。両方の主人公とも、自分が一番大事なものから切り離されている消失と引き換えに、自分の根っこに眠っていたものを見ているんです。でもそのおぞましさと、おぞましさと裏表の魅力みたいなものに呆然とする宮本輝と、それをエモーショナルに書いてしまう村上春樹という対照ですね。同じ螢を見ても、宮本輝の方が真実を見ているような気がします。
重里 私も、螢に関しては宮本の視線の方が遠くまで届いているように思います。文学的に深い感じがしますね。『流転の海』全九部を読んで、つくづく思ったのは、中上健次ともある共通性があるのかなと思ったのです。つまり思いっきりざっくばらんに言うと、背景に物語を持っている作家なのだということなんです、宮本輝は。それを強く感じましたね。つまりその物語は何かって言うと、父親の物語ですけれどね。
助川 村上春樹は父親の物語をきちんと『ねじまき鳥クロニクル』で抱えたわけですよ。それまではお父さんを嫌っていて、父親とは違うところに物語を作ろうとしていた。『ねじまき鳥』で日本の近代史の暗部とまともに向き合って、お父さんの抱えている物語ににじり寄っていったんです。それで私は作家としての格が上がったと思っています。
重里 初期の村上春樹は一つの物語を書いているわけです。それは何かというと、「直子」の自殺です。「直子」の自殺を延々と繰り返し書いているわけです。
助川 村上春樹って、お父さんの過去の中国大陸での体験を書かなかったら、いわゆるいい家庭のお坊ちゃま君なわけですよ。社会でサラリーマンとして働いた経験があるわけでもない。個人史としては、自分の恋愛話以上に大事なことってない人なんです。そこだけを「書くフィールド」にしてしまうと、螢も詩人的な感性で叙情的に書くしかない。中上健次や宮本輝みたいに広がりのある世界は書けないんです。
お父さんの中国大陸での体験みたいなものを背負い込むことによって、春樹は恵まれた家の息子として生きて自分の恋愛話が一番大事な側面と、でもその自分の生活を作ってくれた、あるいはそういう生活を自分に強いた父親が抱えているダークサイドみたいなものの両面を書けるようになったのでしょう。
重里 ただね、村上春樹もね、初期から自分は中国を書かなきゃいけないという気持ちはあったのですよね。
助川 『中国行きのスロウ・ボート』。
重里 意識的か無意識的かわからないですが、初めての短編で『中国行きのスロウ・ボート』を書いた。中国人が三人出てきます。日本人と中国人の関係がひっかかっていたのだと思う。けれども、どう書いたらいいかわからない。だけど、短編で書いてみた。それからもう一人の中国人は、ジェイです。初期の作品のいくつかに出てくる中国人です。こういうところに、無意識のレベルかもしれないのだけれど、村上春樹は中国との接点を求めていたのだと思います。
物語の鉱脈に到達する速度
助川 村上春樹は自分で言っている通りです。村上龍のような天才はあっという間に物語を奥深くめぐって、すぐに物語の鉱脈に出会える。自分みたいな人間はしこしこ努力して掘っていってやっと物語の鉱脈にとどく。そんなことを言っています。村上春樹というのは時間をかけて問題を自覚して、大きな花をやっと咲かせた作家ですね。大器晩成型のタイプだったのではないでしょうか。
宮本輝や村上龍は、若い時から自分の大事な問題と出会っている。中上健次もそうです。でも春樹は表面的にはすごく安穏とした芦屋のお坊ちゃま君ですから。自分の中に父親の問題を抱え込むことによって、やっと一人前になった。それで、優れた作家になったというタイプだと思います。
重里 宮本輝は『流転の海』を三十七年がかりで完成させたのだけれど、全巻読了すると、宮本がいかに自身の背景に大きな深い物語を持っていたのかをまざまざと実感しました。これは形容するのが難しいぐらい偉大な作品です。比肩するものとして挙げられるのは、北杜夫の『楡家の人びと』、もう一つは井上靖の自伝三部作ですね。戦後の日本でこの三つは突出しているように思います。なかでも、『流転の海』の達成はすごく大きい感じがしますね。
助川 私は文学史の中で、島崎藤村の『夜明け前』と比較されるぐらいの作品として、残すべきだと思っています。『夜明け前』は明治維新に乗れなかったお父さんの話を書いているわけです。『流転の海』も結局、能力もあり理想もありながら、戦後の日本に乗れなかったお父さんの話です。
重里 明治維新と敗戦。この数百年を振り返って、日本人にとっての二つの大きな体験ですね。
助川 藤村は明治維新のダークサイドを書いた。明治維新を否定するだけではなくて、肯定否定の両面からダークサイドを書いた。『流転の海』も敗戦の明暗を戦後に乗れなかった人間の視点で書いている。その意味ではこの二つの作品は並べて論じていいのかなって感じがします。
重里 ここまで論じて、村上春樹と対を成す作家は、村上龍ではなくて、宮本輝なのじゃないかと思えてきます。
助川 本当にそうだと思います。
宮本 輝(みやもと てる、1947年(昭和22年)3月6日 - )は、日本の小説家。本名:宮本 正仁。
人物
兵庫県神戸市に生まれる。後、愛媛県、大阪府、富山県に転居。関西大倉中学校・高等学校、追手門学院大学文学部卒業。
広告代理店勤務を経て戦後の大阪の貧しい庶民の生活を描いた『泥の河』(1977年)でデビュー。『螢川』(1977年)で芥川賞、『優駿』(1986年)で吉川英治文学賞を受けた。プロならおもしろい小説を書くべきだといい、叙情性豊かに宿命、生と死を描き、長年幅広い読者層を獲得している。『流転の海』(1984年)からの自伝的大河小説の連作もある。
経歴
1947年(昭和22年)、自動車部品を扱う事業を手掛けていた宮本熊市の長男として生まれる。1952年(昭和27年)に大阪のキリスト教系の幼稚園に入園するが、半年ほどで退園。その後、大阪市立曽根崎小学校に入学。1956年(昭和31年)に、父の事業のため富山市豊川町に転居し、富山市立八人町小学校に転入。1957年(昭和32年)に、父の事業が失敗したため兵庫県尼崎市に転居、尼崎市立難波小学校に転入。1959年(昭和34年)に私立関西大倉中学校に入学。1962年(昭和37年)に私立関西大倉中学校を卒業、同高校普通科に入学。1965年(昭和40年)に私立関西大倉高校普通科卒業。1浪のあと、1966年(昭和41年)に新設された追手門学院大学文学部に1期生として入学。1970年(昭和45年)に同大学を卒業。
サンケイ広告社でコピーライターとして働いたが、20代半ば頃から当時の呼称で「不安神経症」、現在のパニック障害に苦しんでおり、サラリーマン生活に強い不安を感じていた。ある雨の降る会社帰り、雨宿りに立ち寄った書店で某有名作家の短編小説を読んだところ、書かれていた日本語が『目を白黒させるほど』あまりにひどく、とても最後までは読み通せなかった。かつて文学作品を大量に読んだことがある自分ならば、もっと面白いものが書けると思い、退社を決め、小説を書き始める。それでも数年は芽が出ず、生活も苦しくなる。其の折、知人を通じて作家・編集者で「宮本輝」の名付け親でもある池上義一に出会い、作家としての指導を受ける。同時に池上の会社に雇って貰う。
1977年(昭和52年)に自身の幼少期をモチーフにした『泥の河』で、第13回太宰治賞を受賞してデビュー。翌1978年(昭和53年)には『螢川』(「文芸展望」第19号、1977年10月)で第78回芥川賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
一時は結核療養のため休筆。1987年(昭和62年)に『優駿』で吉川英治文学賞(歴代最年少40歳)および初代JRA賞馬事文化賞、2003年(平成15年)『約束の冬』で芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)、2009年(平成21年)『骸骨ビルの庭』で第12回司馬遼太郎賞、2010年(平成22年)秋紫綬褒章受章。この間、芥川賞選考委員を第114回(1996年)から162回(2020年)まで務める。
代表作に「川三部作」と呼ばれる『泥の河』『螢川』『道頓堀川』や、書簡体文学の『錦繍』、出身校の追手門学院大学を舞台に大学生の青春を描きドラマ化もされた『青が散る』、自伝的大河作品の連作などで映画化やラジオドラマ化などもされている『流転の海』、『ドナウの旅人』、『彗星物語』など。
受賞・栄典
- 1977年(昭和52年) - 『泥の河』で第13回太宰治賞
- 1978年(昭和53年) - 『螢川』で第78回芥川賞
- 1987年(昭和62年) - 『優駿』で第21回吉川英治文学賞
- 2004年(平成16年) - 『約束の冬』で第54回芸術選奨文部科学大臣賞文学部門
- 2010年(平成22年) - 『骸骨ビルの庭』で第13回司馬遼太郎賞
- 2010年(平成22年) - 紫綬褒章[1]
- 2019年(平成31年) - 「流転の海」で毎日芸術賞
- 2020年(令和2年)
- 旭日小綬章[2]
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