徳山道助の帰郷 柏原兵三 2025.8.21.
2025.8.21. 徳山道助の帰郷
著者 柏原兵三 Wikipedia参照
発行日 1968.1. 発行
発行所 新潮社
第58回 昭和42年下半期 芥川賞受賞作品
第1章
徳山道助(どうすけ)の故郷は、大分市からローカル線で3駅の山の麓。先祖代々が切り拓き殖やしていった山あいの狭隘な田畑を耕作し、養蚕を営んできた貧しい自作農。白壁の土蔵が目印。二宮金次郎を彷彿とさせる、いずれ陸軍大将かといわれた地元の誉れ
次男が家を継ぎ、道助は軍人となるが、支那事変勃発直後に中将どまりで予備役に編入
昭和30年、次男から亡母の33回忌で帰京を待つとの連絡
日露戦で乃木将軍麾下の砲兵少尉として、初めて戦争に参戦したのを誇りとする。金鵄勲章と年金300円をもらう。その後、郷里の殿様の媒酌で、男爵陸軍少将の娘と結婚、長女を生んだ後は、驕慢で我儘、ヒステリーの発作をしばしば起こし、この結婚を生涯悔いて止まなかった。陸大では、戦術の教官と衝突し、卒業は6番で不本意
野戦重砲第一旅団長少将から陸軍士官学校長。徳山式高射砲術を編み出し砲学の権威
砲兵監中将。南大将の大分閥と見られたが、派閥には批判的。第3師団長に親補され、ハルピンで討匪に従事した後故郷に凱旋したときの感激は忘れられない
教育総監に擬せられるところまで行ったが、突然予備役に。二・二六で橋本欣五郎大佐の処分を強硬に主張した仕返しだった。すぐに第101師団長に親補され支那に派遣されたが、最も死傷率の高い師団で、彼自身も重傷を負い帰国。退役して年金暮らし
今74歳になってどこといってさしたる故障はなく、3年前に夫が急逝して未亡人となっている一人娘の家の離れに、気の通わない妻とともに世話になっていた
戦後3度家を手放した。最初の家は生涯で初めて自分で買った家で、戦傷が癒えた昭和14年に旧部下の斡旋で世田谷の郊外に買った敷地700坪と90坪の宏壮な邸宅。持ち主の華族の夫人が自殺したため安く売りに出ていた。軍人恩給停止で売り食いの生活が始まり、昭和23年会社の寮に売却。替わりに買ったのが300坪の敷地の他に3000坪の栗林のついた家。自家菜園で自給生活が出来た。都心にいた娘の頼みを聞き入れて近くに売りに出た90坪の土地と家を買うことにしたのが3軒目。前の家は同期の未亡人に買った時の値段のままで譲る。転居後2年目に娘婿が急逝したこともあって娘の家の離れに移り住む。妻が井戸に入水自殺をする偽計を実行したので家は売却
第2章
漸く母の法事に出席する決心をして1人大分に向かう
大阪で大会社の副社長にまで出世した末弟と会い1番一緒に過ごす。親子ほども歳が違い、道助が引き取って私大に進学させたこともあって、末弟は未だに道助に頭が上がらない
久しぶりの故郷で、後継ぎの次弟が迎えてくれたが、大分老け込んでいるのに驚く
予め、自分の墓を祖父母・父母の墓の隣に建ててもらっていたので、お詣り
夜は、兄弟姉妹が揃って賑やかに過ごす
第3章
東京に戻ると、しばらく、何か大きな事業を無事成し遂げた様な自足感を味わうが、やがて再び退屈に苦しめられるようになる
世田谷の家に移った際、孫たちが楽しめるようにと柿の木を植えたが、それを転居のたびに移植し、現在も自宅の庭にあり、毎年たくさん実がなる。熟す前に孫が勝手に取ってしまうので、自分で先に取ってしまおうと梯子をかけるが、危うく落ちそうになる
戦前の軍人時代の思い出が彼を苦しめる
次弟から、会葬御礼に加えて、彼の人生に対する感慨のようなものが滲み出た手紙が来る
何か人のために役に立ちたいと思っていたが、村会議員になって村のために簡易水道を引くことを思いつき、近頃完成し、冥土への土産話が出来たと思って喜んでいるという
それを読んで、道助は涙を流しながら、それに匹敵する冥土の土産は、自分にはないとさえ思う
勲章などを片付けると、身辺から支那事変を思い出させるものを整理したせいか、あまり支那事変の苦しい思い出に耽らないで済むようになる
愚痴が増え、ボケが進んで、髭が重たく感じられて剃り落とすと、くしゃみが止まらなくなり、診察してもらうと脈が乱れ高熱を発し、3日目には危篤の宣言。その4日後に死去
新聞も老軍人の死を報じ、復員局に届け出ると、陛下からの御下賜金として、祭粢(さいし)料2000円が手渡されたが、道助が一時期願っていた勅使の訪れはなかった
遺骨は遺言通り、半分は次弟が「故郷の家」に持って帰ったが、末弟が世話になった道助兄の骨のために1等の切符を買い、次弟は「兄貴のお陰で生まれて初めて1等に乗った」と言った。孫は、これがお祖父さんの本当の帰郷だったのかも知れない、と思った
選評
l 三島由紀夫――手の込んだ作品。鷗外まがいの文体を用い、あたかも外国人に読ませて、「日本人として振舞うにはいかに振舞うべきか」という教範に使えるような叙述を展開する。あくまで典型的な日本人の心理を一歩も逸脱せぬ物語の、実に平板な進行に、何のことかわからず読んでいるうち、第3章の柿の木に至って、忽ち真のテーマがあらわれ、鴉、犬、勲章、姑娘という具合に、目にもとまらぬ早さで、作者の言わんとするところが象徴的に結晶する。しかも、それが全体のスタイルの落着きから踏み外さず、日本人の典型的心理の中であくまで処理されて、観念的飛躍に陥らぬところに、この小説の奇妙な安定感がある。しかし、瑕瑾もあって、最後のところで、「無神論者」という重要な問題が出て来るのに、何らこの伏線も展開もないこと、また、はじめの2章が、いくら何でも長すぎて、緊張の持続を失っていること、等が技術的に問題であるのみか、文体も、自然の流露感や内的必然性がなく、若隠居みたいな気取りの見えるのが残念。それがまた長所となって、教養主義の臭味をみじんも感じさせないところは腕前である
l 石川達三――柏原君を積極的に推す気はなかった。しかし当選することに反対はしない。欠点はいろいろあるが、努力賞に該当してもいいと思っていた
l 大岡昇平――最初のあら選りで満票、順当の結果。実際の陸軍中将の生活と意見が、明治末から戦後まで、世相の変遷とともに、丹念に描かれている。十分に作者の力量を窺わせる作品。ただ太平洋戦争が負けると判断して、何もしなかった旧軍人を想像することは私には難しい。それでいて戦後軍人恩給停止にあい「陛下に捨てられた」というのは変である。あの民族の激動期を抜いて、軍人の人間性が仮構されている点に不満。丸谷才一『秘密』は後半が少しぞんざい。佐木隆三の『奇蹟の市』は特に欠点はなく、私は推したが、題材が書き古された
l 舟橋聖一 ――丸谷才一を推すつもりだった。柏原の『兎の結末』には〇をつけた。今回の候補作は、ごく平凡な職業軍人のステロタイプを描いたもので、反戦も軍閥批判もない。その栄達心、功名心もありふれた世俗的なものだ。また戦後、職業軍人に加えられた侮辱も書いてなければ、従って怒りもない。それどころか、この長い一生に於て、つまらぬ女に引っ掛かったというような小さなミスさえない小心翼々の保守派である。もっとも、晩年柿の木に登って、そこで手が動かなくなる辺りから俄かに精彩を増し、大往生を遂げる経過はよく書けている。中村委員は「人間の生涯のむなしさについて書いている」と評したが、そのむなしさは、私の読後感をもむなしくするのみ。過去半世紀にのさばった旧軍人の伝記を、無条件肯定の観点から書かれては困ると思う
l 瀧井孝作――陸軍中将の生い立ちから戦後の老人の余生まで詳しく描いた力作で、一応は読ませる筆だが、新味にとぼしい感じ
l 丹羽文雄――阿部昭『東京の春』に心ひかれた。『徳山道助』は後半がよい
l 石川淳――該当なしが妥当
l 井上靖―― 一見古い書き方で老軍人の生涯を丹念に綴っている。文章も書き方も新しいとは言えないが、作者は意識してこうした手法を用いており、書かねばならぬことは全部拾い上げてしまっていて見事。受賞作にふさわしい貫禄を持った作品で、久しぶりに本格派の新作家の登場といった感じ
l 永井龍男――経歴ある一軍人の一生をあたたかみのある筆致で描いた。大砲の夢を見る辺りでは興ざめしたが、全篇を通じた寛闊な雰囲気に、ある感動を与えられた。そのあたたかみに反撥をおぼえるとなれば、話は別
l 中村光夫――鈍い鑿を使って彫り上げたような小説で、はじめはその鈍さが気になったが、終りに近づくにつれ、ひとりの職業軍人とその親族の生態がくっきり浮かび上がってきて、鈍さが凡庸の同義語でないことがわかる。主人公の生涯が、結局時勢にもてあそばれる玩具に過ぎなければ、他の人間はどうなのか、我々自身は、と作者は静かに問う。小説として欠点はあるが、在来のリアリズムの常識を破った作者の静かな姿勢は、強い個性の現れとみてよい。近頃の教養派は、教養を隠すのを粋と心得るようになったとある選者が言ったが、ここに表されたものより、作者の精神がずっと複雑であろうと感じさせるところにこの小説の長所と欠点がある
l 川端康成――勝目梓『マイ・カアニヴァル』と阿部昭『東京の春』に興味を寄せた。結局『徳山道助』に入れたのは、この作品が質量ともに受賞作として無難と思えたから。しかし、「帰郷」を書いた部分、殊に結尾のすぐれているのにくらべて、徳山中将の経歴を書いた冒頭は全く劣っている。「帰郷」だけを扱った作品と見て、これを取った
受賞の言葉 柏原兵三
受賞の知らせを受けた時は嬉しかった。しかし同時にこれからの道の険しさを想い、身の引き締まるのを覚えた。ひたすら精進を重ね、いい作品を書いて行かなければならない、と心に誓った
私は比較的早くから、中学2年の時から、小説を書き始めた。それから今日まで、私の小説を読んで下さり、私の中にある可能性の芽を認め、その芽が育つように、熱心な批評をしてくださった方々に対して、今あらためて心からの感謝を感じないではいられない
私がドイツ文学を研究の対象に選んだのは、ドイツ文学の底流にある教養小説(ビルドングスロマン自己形成小説)的発想の伝統に惹かれたからであったが、この発想をこれからも小説を書く上で大切にして行きたいと思っている。そして人間存在の重さ、生の重さを伝える小説を、じっくりと書き進めて行きたい、と思う
新潮社 ホームページ
徳山道助の帰郷
柏原兵三/著
3,080円(税込)
発売日:2001/12/07
明治生まれの気骨ある主人公が戦後の退廃を嘆き、軍人としての矜持を持ったまま、余生を生き抜く姿を丹念に描く。ほか4編収録。
大分市の外れに生まれた徳山道助は、立派な軍人となって故郷の誇りであった。彼の母の33回忌を機に、齢74にして久々に帰郷を決心した。だが、精神のバランスを崩した妻との生活は渇いており、経済的にも辛い。落ちぶれた姿を見られたくない道助は、帰郷を渋るが……。明治生まれの気骨ある主人公が戦後の退廃を嘆き、軍人としての矜持を持ったまま、余生を生き抜く姿を丹念に描いた芥川賞受賞作。ほか「殉愛」「クラクフまで」「朗読会」「ピクニック」を収録。
柏原兵三「徳山道助の帰郷」(第58回 1967年下期)
南木 佳士 作家・医師 第100回 1988年下期「ダイヤモンドダスト」で芥川賞受賞
2025/08/07 文藝春秋 9月号
高校3年の夏休み明け、級友たちと「文藝春秋」に掲載されたばかりの芥川賞受賞作について語り合った。庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」に魅せられたとする意見ばかりだった。このとき、笑って話をあわせていたが、同時受賞作である田久保英夫の「深い河」のほうが粘り強い文体で若者の置かれた過酷な状況を精緻に描写しており、文学作品としての純度が高い、と確信していた。
それから10年後、他者の死を見る勤務医生活の日々強まる窒息感から逃れるべく小説を書き始めたころ、編集者に、こんな小説を目指すべし、と教えられたのが柏原兵三の「徳山道助の帰郷」。大分県の山村の農家に生まれた徳山道助が陸軍士官学校を出て日露戦争に従軍し、その後、陸軍中将にまで出世する過程を紹介する前半は淡々と華麗なる軍歴の記述が続き、やや退屈ではある。しかし、だからこそ、後半、太平洋戦争敗戦後、広い邸宅を売り払い、娘の家の離れに気位が高いだけの妻と住む徳山道助の複雑な老境を描き切る繊細な筆力が際立ってくる。
立身出世して何度も故郷に錦を飾ったつもりでいたが、それは多くの部下の犠牲があったからであり、面倒をみてきたつもりの兄弟たちにもそれぞれの屈折した想いがあった。
作者の母方の祖父をモデルに書かれたらしいこの小説には、時代の波に翻弄された徳山道助への敬意と哀感がバランスよく込められている。登場人物へのこの細やかな目配りの会得こそ、小説修業の必修項目なのだと身にしみた。芥川賞受賞の4年後、柏原兵三は脳出血で急逝(享年38)。井上陽水の主題歌で知られる映画「少年時代」の原作「長い道」の作者でもある。
文章表現の最前線に立つにはこの水準の作品が書けなければ、と若造の姿勢を正してくれた秀作だ。
柏原兵三は同じドイツ文学者である柴田翔の芥川賞受賞に刺激を受け小説執筆を始めた。受賞作は電子書籍(新潮社)で読める。受賞作と「殉愛」、「坐棺」を収めた講談社文芸文庫も古書で入手可能。
Wikipedia
柏原 兵三(かしわばら ひょうぞう、1933年11月10日 - 1972年2月13日)は、日本の作家、ドイツ文学者。
経歴
千葉県千葉市出身。父は運輸通信省自動車局長や大日本産業報国会理事長を務めた柏原兵太郎。母は陸軍中将・第101師団長伊東政喜の娘。
東京市渋谷区立千駄谷小学校在学中、1944年4月、父の郷里の富山県下新川郡入善町吉原に縁故疎開し、入善町立上原小学校(後に廃校)に転入。敗戦に伴って1945年9月に帰京するまでを同校で過ごし、よそ者として過酷ないじめを受け、この時の体験を中学時代から『長い道』として小説に書き始めた。旧上原小学校の跡地には柏原の記念文学碑がある。
東京都港区立新星中学校(現・港区立青山中学校)から東京都立日比谷高等学校を経て、1953年、千葉大学医学部に入学するも中退し、1954年東京大学教養学部文科II類入学。1958年に東京大学文学部独文科を卒業し、一浪して東京大学大学院人文科学研究科修士課程(独語独文学専攻)に進む。大学院在学中から同人誌"Neue Stimme"を刊行。1962年同博士課程中退、千葉大学留学生課程講師。
1963年政府交換留学生としてベルリンに留学。1965年に帰国し、やはり独文学者であった柴田翔(『されどわれらが日々――』)の芥川賞受賞に刺激を受けて小説を執筆。ドイツ文学者としてはヨーゼフ・ロートやフランツ・カフカなどの翻訳を行っている。1967年明治学院大学助教授。
1968年『徳山道助の帰郷』で第58回芥川賞を受賞。1970年東京藝術大学助教授。1972年2月13日未明、東京都文京区西片の自宅にて脳溢血で急逝。享年40(満38歳)。戒名は文昌院釈兵道[1]。高血圧を患っており、1971年末頃から症状の悪化を来していたが、死の直前まで多くの仕事を抱えており、多くの関係者を驚かせた急逝だった。死の前日のポストに投函したトルストイ論「蝋燭の光の下で」が絶筆となった。
死後、一般的には忘れられた作家となっていたが、1978年に富山県の出身で疎開経験のある藤子不二雄Ⓐが『長い道』を漫画化して反響を呼ぶ(『少年時代』)。さらに1990年に『少年時代』が映画化され日本アカデミー賞を受賞するに及んで、再びその名や作品が広く知られるようになった。
息子の柏原光太郎は文藝春秋社文春文庫部統括次長[2]。林真理子の担当であり、その随筆に登場している[要出典]。
伊東 政喜(いとう まさよし、1881年〈明治14年〉9月7日[1][2] - 1959年〈昭和34年〉12月13日[1][2])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍軍人としては主に砲兵畑を歩む。大分県日田市長を務めた。
経歴
大分県出身[1][3]。伊東寿太郎の二男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)卒業[1][4]。翌年6月、砲兵少尉に任官し、野戦砲兵第17連隊付となる[1][4]。陸軍砲工学校高等科を卒業し、1912年11月、陸軍大学校(24期)卒業[1][3]。
野戦砲兵第17連隊中隊長、陸軍省兵器局課員、陸軍野戦砲兵射撃学校教官、兵器局課員、第16師団参謀、陸軍野戦砲兵学校教官、軍務局砲兵課長、同兵務課長、近衛野砲兵連隊長、砲兵監部員などを歴任し、1930年8月、陸軍少将に進級[1][3]。野戦重砲兵第1旅団長、野戦砲兵学校教育部長、同校長などを経て、1934年8月、陸軍中将となった[1][3]。砲兵監、第3師団長を勤め、1937年8月、予備役に編入されたが、上海事変の勃発により翌月に召集され、第101師団長となり出征[1][2][3]。翌年9月に戦傷を受け帰国[1]。参謀本部付を経て、1939年4月、召集解除となった[1][2][3]。
戦後、公職追放となる[5]。その後は日本傷痍軍人会副会長を務めた。
栄典
位階
勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
親族
小説
- 柏原兵三『徳山道助の帰郷』新潮社、1967年。
柏原 兵太郎(かしわばら ひょうたろう、1896年3月18日 - 1952年12月8日)は、日本の鉄道官僚。
経歴
富山県出身。農業・柏原大次郎の長男として生れる。高等小学校中退、専検合格、第四高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部を卒業した。
1923年12月、高等文官試験行政科試験に合格。翌年3月、鉄道省に入り、成東駅長、名古屋鉄道局運輸課貨物掛長などを経て、1933年9月から1935年7月まで在外研究員として欧米各国に出張した。大阪鉄道局運輸部貨物課長、鉄道省陸運監理官、鉄道調査部書記官、関東軍司令部事務嘱託(奉天在勤)、鉄道省運輸局配車課長、企画院第2部長、鉄道監、運輸通信省自動車局長などを歴任し、1944年9月、依願免官。
以後、大日本産業報国会理事長(1944年9月 - 1945年9月)、鉄道総局嘱託(1944年12月 - 1948年3月)を勤めた。公職追放となったが、1951年8月に解除された。
家族親族
著書
- 『時局と貨物輸送』鉄道時報局、1940年。
- 『統制経済下の貨物運送』交通研究所、1940年。
- 『生産決戦への活路』柏葉書院、1944年。
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