なぜ鏡は左右だけ反転させるのか  加地大介  205.2.16.

 2025.2.16. なぜ鏡は左右だけ反転させるのか 空間と時間から考える哲学

 

著者 加地大介 1960年、愛知県生。1983年、東京大学教養学部(科学史科学哲学分科)卒業。1989年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(哲学専攻)単位取得退学。博士(文学)。2007−8年、ニューヨーク大学・ダラム大学(いずれも哲学科)客員研究員。現在、埼玉大学学術院(大学院人文社会科学研究科・教養学部担当)教授。専門は形而上学および論理哲学。主な著書に、『もの:現代的実体主義の存在論』(春秋社、2018年)、『論理学の驚き:哲学的論理学入門』(教育評論社、2020年)、『穴と境界:存在論的探究 [増補版]』(春秋社、2023年)など。

 

発行日           2024.5.21. 初版第1刷発行            8.20. 初版第2刷発行

発行所           教育評論社

 

 

まえがき

本書は2003年哲学書房(2015年廃業)から出版された拙著『なぜ私たちは過去へ行けないのか――ほんとうの哲学入門』を増補・改訂・改題したもの。旧版を20年間大学での哲学の教科書として使い続けた中で得られた知見を反映

各章の「エピローグ2」は、哲学的な議論としての難易度が高いので、最後に読む方がよい

 

旧版のまえがき

哲学が変わった学問というのは、ふだんはあまり考えないようなことを考えるから

哲学が難しいというのは、ふだんはあまり使わない脳みその部分を使うから

いろいろな「思考の技」が要求される

本書では、鏡像反転の謎やタイムトラベル映画の謎について考えながら「右と左」「過去と未来」という私たちの基本概念を分析し、空間と時間にまつわるいくつかの哲学的問題に答えていくことを試みる

 

 

 

第1章     なぜ鏡は左右だけ反転させるのか

1.     鏡像反転の謎――鏡は上下は反転させず左右だけ反転させるのはなぜか

反転しないのは上下方向ではなく、天地方向=垂直方向=頭足方向

 

2.     鏡は上下も左右も反転させない

マーティン・ガードナー著『自然界における左と右』によれば、「数学的に厳密な言い方をすれば、左右逆転ではなく、前後を逆転している」――北面の壁の鏡に対し、垂直な軸である南北軸について見ると、鏡に面して立つ自分は北を向くが、鏡像は南を向いて立つので逆転が起こる。「頭足方向」や「左右方向」という相対的な方向同士の間では、反転に関して違いが生じているが、「上下(天地)方向」や「東西方向」という絶対的な方向の間では、違いが生じない

鏡の「前後」という、鏡に垂直な方向は、鏡に平行な各方向とはもともと異質な方向なのだから、前後方向だけ反転しても、物理現象として何ら問題ない

3次元空間である「デカルト座標」という、x軸、y軸、z軸が垂直に交わる空間では、ある点の座標が(a,b,c)で表されるとすれば、その鏡像の座標は(-a,b,c)とあらわすことができる。鏡に垂直なx座標の値だけが符号を逆転する

左右が逆転すると考えてしまうのは、人間の体の特徴に起因する。人間も含め、たいていの動物には対称面が1つしかない。頭の上から足の先まで、身体の中心を通ってそれを左右2つの鏡像に分けるよう平面で、左右対称に作られている。身体の前後や上下にはそのような関係はない。その事実と、引力がすべて下方に引きつけるということのために、私たちの作る多数のものも左右対称。これらの要因によって、鏡を見たとき、自分がその中に入った状態を想像して実物と鏡像とを比較し、その相異を区別するために、左右が入れ替わったという。その言い方が最も便利だから習慣的にそういう言葉の使い方をするに過ぎない。数学的には、鏡はその鏡面に直角な軸に沿って色々な図形の各点の位置を逆転しているというべき

混乱のほとんどが、一般の言語では左右反転を我々の「生物学的な」左右対称をもとに定義することから起こっている。3次元空間の座標幾何学の正確な言葉を使えば、各座標軸がおのおのx、y、zと呼ばれる以外は何も他の区別がないから、この混乱は消滅する

 

3.     ノボル君の悩み

左右対称でないものも左右が逆転するが、我々の周囲では圧倒的多数の対象が左右対称なので、習慣によって左右を反転させてしまう

右手を振れば鏡像は左手を振る、というのは、私がどの位置に立っていようと変らない

 

4.     鏡は上下も左右も反転させる

ネッド・ブロックは鏡像反転について、「鏡は、実は上下も左右も反転させないか、上下・左右とも反転させるかのどちらかである」という。鏡面反転の謎が、「天地」と「左右」という方向付けの面での非対称性の問題であるならば、「天地」は対象に依存しない絶対的な方向付けであるのに対し、「左右」は身体に依存する相対的な方向付けだから、そもそも異質な方向付けを組み合わせることに問題がある。解剖学的な方向付けでみれば、自分も鏡像も心臓は体の中心線から左側にあり、左右反転していない。この意味で上下・左右とも鏡像に関しては対称的であり、物理学的現象としての不思議はない

解剖学的特徴に言及しない場合では、物体から鏡面に向かう矢印と、鏡像から鏡面に向かう矢印を一致させようとした場合、左右の中心軸で180度回転させても一致するし、上下の中心軸で180度回転させても一致するところから、上下左右とも非対称性は消失

にも拘らず私たちが鏡は左右を反転させるが上下を反転させないとみてしまうのは、「天地・左右」という異なるカテゴリーの方向概念を組み合わせるという誤りを犯している

物体を回転させてその鏡像と比較するとき、回転の軸となった方向は反転せず、それに垂直な方向が反転するということ

 

5.     ふたたびノボル君の悩み

物体や身体を見る時、幾何学的に一般化して解釈(デカルト座標軸による見方)するのではなく、直ちに日常的な意味づけをして解釈(具体的な「もの」として見る)している

身体的構造に言及した方向付けでは、背と腹を入れた「頭足左右背腹」という方向付けとなるが、「腹背」方向は「頭足」と同様反転しているとは見做さない

いっぽう、身体的構造に言及しない方向付けには、一般的な意味/積極的な意味があるはず

 

6.     鏡の中の世界は二次元? 三次元?

鏡像は3次元だが、2次元と思い込んでいる人が多い

鏡像には奥行きがあるので、近眼の人が目を近づけても、写真ならはっきり見える距離があるが、鏡像はどこまで近づいてもクリアには見えない

鏡像が実像か虚像かとの議論もある→眼鏡や望遠鏡で物を見る場合に近い

 

7.     デカルト座標と回転座標

鏡が反転させるという時には、回転軸こそが、方向付けの中心的概念といえる

1本の回転軸から垂直に出る矢印を想定。軸を回転させると矢印が平面を描くように回転する。回転軸を用いて鏡像反転を説明すると、ある物体を貫通する回転軸を回転させると、物体が左回りであれば鏡像は右回りとなる。これを幾何学的に考えると、回転軸をz軸、矢印を0軸とする回転座標を用いて説明できる

鏡面を中心とした、鏡、物体、鏡像の位置関係を固定した上で、鏡像反転を考えたのが、前後反転に基づく分析であり、鏡に対する物体と鏡像の実際の位置関係は無視して、物体と鏡像の向きを一致させたうえで両者を比較するのが回転軸に基づく鏡像反転の分析。つまり鏡を中心とした見方と、物体を中心とした見方の違いといえる

どちらの味方に対しても、デカルト座標、回転座標による幾何学的一般化が可能なので、幾何学的厳密さという点では両者の間に差はない

私たちは幾何学的に空間を考えるというとき、それはデカルト座標に即した形で空間を分析することだと考えがちで、その方が有利な面を持っているのは否定できない。ただ、私たちは決して鏡像を「デカルト座標的に」あるいは「物理学的に」「宇宙論的に」見ていない。「回転座標的に」あるいは「生物学的に」「環境論的に」見ている

 

8.     鏡はやっぱり左右だけ反転させる

鏡像反転という現象には次の2つの味方がある

(1) 回転軸を基準とした反転関係にあるものとして、物体とその鏡像を捉える見方

(2) 平面を基準とした面対称の関係にあるものとして、物体とその鏡像を捉える見方

鏡像反転とは、平面鏡に当たる光の入射角と反射角の大きさが同じだという性質によってもたらされる現象

(1a) 鏡像反転とは、光の入射角と反射角が等しいということによってもたらされる、回転を反転させる現象である。即ち、右回りを左回りへ、左回りを右回りへと反転させるという幾何学的に厳密な意味で、鏡は実際に左右を反転させる

(1b) ただし、鏡像反転は、ある面を基準としてその前後を対称的に入れ替える現象として見ることもできる。その場合は、回転に由来する本来の意味での左右の概念は鏡像反転に関与しない

(2a) また、対象、鏡、鏡像の位置関係を考慮に入れる場合は、その際の回転における回転軸と回転角度の基準としての0軸とは鏡面内になければならないが、回転軸の鏡面内での方向と位置は任意である。即ち、鏡に平行な各方向によって異質の現象が生ずるという物理現象としての非対称性はない。また、位置関係を考慮しない場合は、回転軸と0軸の方向だけでなく位置も任意である

(2b) 対象、鏡、鏡像の位置関係を考慮に入れた面対称性による鏡像反転の捉え方をする場合は、基準となる対称面は鏡面の上になければならない。位置関係を考慮しない場合は、対称面の方向だけでなく位置も任意である

 

9.     回転軸の謎

(1)  なぜ鏡像を見るとき回転軸を想定し、回転を媒介として物体と鏡像を比較するのか?

鏡像反転の2次元版で、透明な紙に書かれた字の場合は、裏側から見た図形が鏡像になる。印鑑の彫り模様とその陰影との関係ともいえる。つまり、回転ではなく「裏から見る」「裏返す」という作業によって物体と鏡像とを関係付けることが出来るが、3次元では説明がつかない

3次元の場合は、物体として見られた鏡像をくるりと回転させて実物とならべて比較するという作業が想像上で行われ、その回転の方向つまり回転軸に垂直な方向(回転軸が垂直なら水平の方向)に沿った表面配置が反転していることに気づかされる

鏡では表面だけしか見えないが、通常物体を見るときは厚みを持った物体であることを疑わず、裏側を補ってみているが、鏡像を見るときも結局、それと同じ見方を自然に採用している

その結果、想像上で物体を回転させて向きを一致させるという作業を媒介させて鏡像を捉えることになる

(2)  その回転軸を想定するとき、なぜ「頭足」方向だけを特権視してしまうのか?

物体の向きを反転させようとするとき、圧倒的多くの場合、垂直方向ではなく水平方向に回転させる。その最大の理由は、垂直回転に比べて重力に抵抗する度合いが遥かに少ないから

 

鏡像反転の謎の中に見えてきたのは、静止した光源点の集積をあえて運動の可能性を持った物体として捉え、そのような物体から成る環境世界の中で、重力に逆らいつつ直立歩行し、辺りを見回し、習慣に従って様々な解釈を行いながら「前向きに」「生きて」いる、私たち人間の姿だったということになる。いわば鏡はその謎によって、きわめて「地上的な」私たち人間の「存在のかたち」を照らし出してくれていた(後述「鏡像反転論の全体図」参照)

私たちが重力の中で生きているという、あまりにも当たり前すぎて意識さえしない事実が、鏡を見るというごく些細な日常的認識までをも強く支配していることを示すことによって、むしろ意識されないものの中にこそ大きな力があることを、鏡は教えてくれたとも言える

そしておそらく、意識されないほど絶対的な前提となってしまっているようなものに意図的に目を注ぐことが、人間には時に必要。ひょっとしたら、地球温暖化、自然破壊などの環境問題は、空気や自然という生のための絶対条件を人間が疎かにしてしまったことの帰結かもしれない。「親孝行したいときには親はなし」という格言もそれに近い教訓を含んでいる

 

エピローグ1 カントの空間論

空間とは何か? 何も物体がなくても空間は存在するのか?

カントは、右手と左手が存在するということに基づいて、物体に先立って空間が存在することを証明できると考えた

1.  右手と左手の間には、真の「実在的・客観的」相違がある。両方の手は重なり合わないから

2.  その相異の存在を証明するためには物体に先立つ「空間」(「絶対空間」と呼ぶ)の存在が必要。その理由は次の通り

(a)  その相異を、手の各部分どうしの関係の相違によって説明することが出来ない

(b) その相異を、他の物体との関係によって説明することも出来ない。この世に存在するものが1本の手だけだったとしてもそれは左手か右手かのどちらかであるはずだから

(c)  a)(b)以外に絶対空間を用いない説明の方法はない

3.  従って、絶対空間は実在する

これに対する反論は、「左右」をどのような概念と考えるかによって3種類に大別できる

1.  内在主義による反論

2.(a)が間違い。鏡像関係にある右手と左手は、対応する各部分の大きさや角度は一致しているので、それらの内在的性質だけからは、右手と左手の区別は出来ない。しかし右手や左手は、それらの性質以外に「右性」「左性」と名付け得るような、方向性を表す内在的性質を持っている。その相異が右手と左手の区別をもたらすと考えられるので、右手と左手の区別は、それら自身が持つ内在的性質によって行える

2.  外在主義による反論

2.(b)が間違い。もしもこの世に1本の手しか存在しなかったとしたら、その手は右手でも左手でもない。ある手以外にそれと鏡像関係にある別の手が存在したときに、両者の相違によって初めて右手と左手の区別が生まれると考えるべき。つまり、ある物体がそれ以外の物体に対して持つ外在的関係によって規定されるのが左右の概念だと言える

3.  空間主義による反論

1.が間違い。平面に描かれた右手の絵は、平面内では左手とは一致しないが、3次元空間で裏返せば、左手と一致させられる。同様に、3次元空間では一致しない右手と左手が、4次元的な空間へと抜け出ることが出来たりするかもしれない。右手と左手が重なり合うかどうかは、空間がどのような性質を持っているかに依存することになるので、一概に重なり合わないとはいえない

 

エピローグ2 カントの空間論をもう少し

「可感的かつ可知的世界の形式と原理についての論考」

 

鏡像反転論の全体図――鏡像反転に関する議論の概要のまとめ

《誰もが認めなければならないこと》

1.  実物と鏡像は形が異なる。∵幾何学

2.  鏡像は3次元である(奥行きがある)。∵①幾何光学+②生物学+③窓越しの風景・眼鏡・望遠鏡等とのアナロジー、近視の人にとっての見え方、移動しながらの見え方etc.

3次元図形として、実物と鏡像はどう異なるのか?

l  ガードナー型の回答

数学的――デカルト座標値の1つの符号を逆転する。面対称による変換

直観的――鏡面の前後方向を逆転する。裏返された半ぬいぐるみとして捉えられた鏡像を実物の(鏡に向かった)表面と見比べる

相違点――疑似2次元的。静的。3方向が平等→物理的・宇宙論的。回転を媒介としない→左右に関係なし→鏡像反転の謎に答えるのではなく謎を回避している

l  ブロック型の回答

数学的――回転座標値の回転度数の符号を逆転する。逆回転による変換

直観的――物体の回転軸のまわりの回転方向を反転させる(右回りを左回りに、左回りを右回りに反転させる)。物体として捉えられた鏡像を(想像上で)回転させて実物と見比べる

相違点――3次元的。動的。3方向が不平等→生物的・環境論的。回転を媒介とする→左右に関係あり→鏡像反転の謎に正面から回答

l  共通点

数学的――3つの座標値のうちの1つの符号を逆転する

直観的――何らかの意味で「反転」させる

《ブロック型のみに基づく、鏡像反転の謎への回答》

想像上で物体(鏡像)を回転させる際の回転軸方向は反転しないで、それに垂直な方向(回転軸の周りの配置)が反転するということに過ぎず、また、その回転軸の方向は任意であるにもかかわらず、私たちは(二重の意味で)無自覚のうちにそれを上下(頭足)方向に設定しているので、上下方向は反転せず、水平方向のみが反転するという不思議な非対称性を鏡が生じさせているかのように思ってしまう

《残る謎:回転軸の謎》

(1)  なぜ私たちは通常、ガードナー型ではなく、ブロック型で(すなわち、回転軸を設定して)鏡像を捉えるのか?

(2)  なぜ私たちは回転軸を頭足方向に設定してしまうのか?

《回答》

(1)  通常の物体を見るときと同じ捉え方をしているから

(2)  重力の影響が大きい+習慣、二足歩行、生環境など

《哲学的?教訓》

l 私たちの「地上的な」存在のかたち

l 「当たり前」の事柄の支配力

 

第2章     なぜ私たちは過去へ行けないのか

1.     『ターミネーター2

2.     限りなくおいしいワイン

3.     『ターミネーター2』の謎

《謎1》 過去は変えられるのか?

《謎2》 未来は変えられるのか? → 変えるのではなくむしろ「引き起こす」「創り出す」という方が正確な言い方。「並行多世界説」と呼ばれる考え方で、複数の未来の世界があるとする

《謎3》 過去(の出来事)を引き起こすことはできるのか? → 結果が先に来て原因が後に来る「逆向き因果」は可能か? 現在起きている様々な出来事のうちいくつかが、未来の出来事が原因となって引き起こされていると想像することはできる

《謎4》 「時間の輪」の謎 → 過去へのタイムトラベルが可能だとすると、因果、情報、物体に関して一種の悪循環が生じるが、これを総称して「時間の輪」の謎と呼ぶ

《謎5》 未来は決定しているのか? 

《謎6》 そもそも過去へ行けるのか? → 過去へのタイムトラベルは「あり得ない」ことだとして、「あり得ない」とはどういう意味でなのか? 同じ「あり得ない」話でもその意味は異なる

  タイムトラベルは理論的に可能だと主張する物理学者や数学者は多勢いる。そのように考えることは、時間とは何か、過去と未来はどう違うのか、逆向きの因果は可能か、自由とは何か、といった重要な哲学的問題について考察するために有効な手段となる(思考実験)

 

4.     過去は引き起こせる……ロンドンの宿命論と踊る酋長

マイケル・ダメット(英、19252011)は、「ロンドンの宿命論」で、逆向き因果は理論的には可能と主張――思考実験で、ある部族の成人式で、男は2日間のライオン狩りに出る、前後2日間は旅に費やす。部族の酋長はこの6日間、男がライオン狩りで勇敢さを示すことを祈り続ける。この場合、最初4日間の祈りは意味があるが、狩りを終わった後の祈りは意味がないはずだが、酋長は経験知から、最後の2日間に祈ることが出来なかった場合、男は不名誉な振る舞いをしていたという。経験による実証に基づいて合理的に祈りの意味があると信じていた

「ロンドンの宿命論」では、爆弾で殺された場合は予防策は無意味だったが、爆弾で殺されない場合は予防策は無駄ではなかった可能性がある。酋長の場合は、男が勇敢でなかった場合は酋長の祈りは無効だったが、勇敢だった場合は残る2日も祈り続けたからだともいえる

両者は、相反することを認めざるを得ないことになり、一種のジレンマに陥る

これに対応する方法としては、常識には反するが宿命論者になるか、酋長が言うように逆向きの因果の可能性を承認するか、あるいは両者とも否定して常識を保持するか

 

5.     未来は決定している……オズモの物語

リチャード・テイラー(米、1962)は、「オズモの物語」を創作して、宿命論を理論的に証明

物語は、オズモという26歳の高校教師が自らの生涯を書いた本に出会う。過去については正確に記され、3年後にF空港の滑走路に激突して死ぬとある。3年後オズモの乗った飛行機が予定変更でF空港に向かうことになったため、オズモはパニックになり、機内で起こした騒動が原因でF空港での着陸時に墜落事故を起こし死ぬ

(1)  オズモは、正しい記述の集合を目の当たりにしたという経験だけに基づいて宿命論者になった

(2)  オズモが信じた宿命論とは、本に書かれていることはすべて不可避であるということを認めた。ただし、出来事間の因果関係までも否定する不合理な信念ではない

(3)  オズモの信じた宿命論は、書かれた通りとなった事実から、正しいと認めざるを得ない主張だったのか

 

6.     過去と未来の相違

答えはおおよそ3種類

(a)  過去と未来の相違を何か他の客観的相異の一例だと考える――時間的な意味での前後関係、因果関係のある2つの出来事のうち原因である方が過去で結果が未来

(b)  過去と未来の相違を人間の認識や行為との関係でとらえる――経験したことがあるかないか、未来は変えられるが過去は変えられない

(c)  過去と未来はその存在性格自体に関して根本的に異なると考えるタイプ――まだ起きていないことともう起きてしまったという違い

赤字の2つの例を引き合いに出して質疑をすると、排中律に疑問が集中――「ロンドンの宿命論」は議論の最初におかれた排中律(爆弾で殺されるか殺されないかの2者択一の前提)の段階ですでに未来の確定性を前提としている

排中律とは、通常の論理の根本原理の一つ。XはAか非Aかのどちらかであって、Aでも非Aでもないことはあり得ないという原理。

 

7.     可能性としての未来と必然性としての過去

真理値は「真」「偽」の2つしかなく、また命題が真理値を持つならば、そのどちらか一方となるが、ときに命題は真理値を欠く場合がある。未来命題は真理値を持たない場合もある

 

8.     私たちが過去へ行けない理由……その1

具体的対象全般のことを哲学では「実体substance」と呼ぶ

過去は実在するが、未来は実在しない――過去と未来の非対称性

 

9.     私たちが過去へ行けない理由……その2

過去へ向かうことは現在に逆らうことであり、未来へ向かうことは現在に従うこと

 

エピローグ1 運命は自分で創る

 

エピローグ2 ダメットの逆向き因果論をもう少し

 

 

 

 

 

 

 

 

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なぜ鏡は左右だけ反転させるのか空間と時間から考える哲学

鏡像反転、タイムトラベル映画に潜む哲学的な問いかけ

 

「右と左」「過去と未来」という基本概念を分析し、空間と時間にまつわるいくつかの哲学的問題に答えていくことを試みる!

 

哲学するためには必ずしも身構えたり深刻になったりする必要はありません。鏡のような身の回りの道具のなかにも哲学する種はいっぱい詰まっていますし、娯楽映画を存分に楽しんだその延長上で哲学することができます。この本では、鏡像反転の謎やタイムトラベル映画の謎について考えながら「右と左」「過去と未来」という私たちの基本概念を分析し、空間と時間にまつわるいくつかの哲学的問題に答えていくことを試みます。「まえがき」より。

 

空間論と時間論という2大テーマを、著者の思考過程とともに平易に論じていく。

「なぜ鏡は左右だけ反転させるのか」 身近で古典的な謎に挑む楽しさ 朝日新聞書評から 

評者: 野矢茂樹 新聞掲載:20240803

 加地さん、ごぶさたしています。2003年に『なぜ私たちは過去へ行けないのか』という著書をいただいたのですが、そのとき私は、だって過去なんだもの行けるわけないじゃんと、読まないままにしていました。すいません。愚かでした。今回、かつて後半にあった鏡の謎を前半にもってきて、過去の謎を後半へと入れ替え、増補・改訂版として出されたので、ようやく読ませてもらいました。
 まず、なぜ鏡は左右だけ反転させるのかという問題に、マーティン・ガードナーの説明が紹介され、私は加地さんとともになるほどーと思い、でも、と加地さんが考え直してまだこれじゃだめでしょと論じるところでそうだよなーと思い、続いてネッド・ブロックの議論が紹介され、私は加地さんとともになるほどーと思い、でも、と加地さんが考え直してまだだめでしょと論じるところでそうだよなーと思い直すという、いわば脳みそがマッサージされているような感じになりました。

 そして加地さんの解決案に深くなるほどーと頷いたのです。なぜ鏡は左右だけを反転させるのか。われわれが経験している空間は、3本の座標軸からなるデカルト座標(学校の物理なんかでふつうに見るあれ)で捉えられているのではなく、加地さんが「回転座標」と呼ぶ捉え方をしているからだ。加地さんのこの答え、イケてると思います。
 次は、なぜ過去へ行けないのか。映画「ターミネーター2」の謎から始めて、検討されるのが、「過去は変えられないが未来は変えられる」とどうして言えるのか。実に興味深いことに、マイケル・ダメットは、過去も未来も変えられると考えることは可能だと論じ、リチャード・テイラーは過去も未来も変えられないと論じるのですね。いや、どちらもまるで常識に反するけれど、手強い。じゃあ、過去と未来の違いは何なんだ。加地さんはそうして独自の答えを模索します。

 いとも気さくな語り口で、そのくせかなりハードにこっちの脳みそを掴んでわしわしわし。「これが哲学?」なんて戸惑う読者もいるのかもしれないけれど、時間と空間の非対称性という、身近で古典的な謎に挑戦する正真正銘の哲学です。しかも、有名どころの説を紹介しながらも、それはあくまでも踏み台で、とにかく自分で考えていこうとする。そしてその楽しさがこちらにも伝わってくる。その意味で「哲学する」ことを伝える本になっています。

 この内容で哲学の授業をなさっていたとのこと。私が学生だったら、きっとはまっていたでしょうね。

かち・だいすけ 1960年生まれ。埼玉大学教授。専門は形而上学、論理哲学。著書に『もの 現代的実体主義の存在論』『論理学の驚き 哲学的論理学入門』『穴と境界 存在論的探究(増補版)』など。

野矢茂樹(のやしげき)立正大学教授、東京大学名誉教授(哲学)

1954年生まれ。著書に『論理トレーニング』『心という難問』『哲学探究という戦い』『言語哲学がはじまる』など。2024年4月より朝日新聞書評委員。

 

 

 

心理学ワールド第36号掲載 (2007115日刊行)

心理学ってなんだろう

鏡に映ると左右が反対に見えるのはなぜ?

よく「鏡の中では左右が反対になって見える」といいます。でも,上下が逆さになって見えることはありません。上下は反対にならないのに,左右だけが反対になるのはなぜなのでしょうか。「鏡の中では左右が反対になって見える」なんて,誰もが知っていることなのに,なぜそうなるのかについては定説がない,と聞きました。それは本当なのでしょうか。

A.高野陽太郎

はい,本当です。「鏡の中では左右が反対に見える」ことを「鏡映反転」といいます。この鏡映反転の理由については,プラトン以来,二千数百年にわたって議論が続いてきたのですが,いまだに定説はありません。

 

なかなか答えが定まらなかった理由は,誰もが「鏡映反転は1つの現象だ」という思い込みをもっていたことでした。実は,鏡映反転は1つの現象ではなく,3つの別々の現象の集まりなのです。

まず,鏡に映った自分自身の左右が反対に見える理由と,鏡に映った文字の左右が反対に見える理由とは,全然違っています。

左手に腕時計をして,鏡に向かってみましょう。自分自身の視点から見れば,鏡の中の自分がしている腕時計も「左」のほうにあります。実物の腕時計も「左」にあるのですから,左右は反対になっていません。

しかし,鏡像(鏡に映った自分)の視点から見るとどうでしょう? 鏡の中で腕時計をしているのは,鏡像の「右手」です。実物の腕時計は「左手」にしているのですから,確かに左右が反対になっています。つまり,自分自身の場合は,鏡映反転を認識するためには,鏡像の視点をとることが不可欠なのです。

文字の場合は,そうではありません。たとえば,「C」という文字を紙に書いて,鏡に映してみましょう。開いている口は「左」に見えます。私たちが憶えている「C」の場合は,口が「右」にあります。確かに,左右が反対になっています。しかし,このとき,私たちは鏡に映った「C」の視点から左右を考えたりはしていません。あくまでも,自分自身の視点から左右を判断しているのです。

鏡像の視点をとるかどうかは,自由にコントロールができます。もし鏡像の視点をとらなければ,左右が反対になっているとは思わないはずです。以前には知られていなかったことですが,私の研究では,だいたい3割から4割ぐらいの人が自分自身の鏡映反転を認識しないことがわかりました。

しかし,そういう人たちも,文字の鏡映反転は必ず認識するのです。鏡に映った文字を知覚したり,憶えている文字を想起したりするプロセスは,コントロールのきかない,自動的に起こってしまうプロセスだからです。

ほかにも,別の種類の鏡映反転がありますし,この問題は,見かけよりずっと奥の深い問題なのです。興味をおもちの方は,いずれ刊行する予定の拙著をご覧ください。

たかの ようたろう 東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は,認知心理学。主な著作は,Takano, Y. & Tanaka, A. "Mirror reversal: Empirical tests of competing accounts." Quarterly Journal of Experimental Psychology (in press)など。

 

 

 

2020.11.23

鏡はなぜ左右だけ逆に映るか?-解答編-

藤の木校 

皆さんこんにちは。Wam藤の木校の車です。

今回は先週投稿した鏡はなぜ左右だけ逆に映るか?の記事の解説をします。

結論から言いますと、「実は左右も上下も逆にはなっていない」が正解です。

だって逆になっているじゃないか!と思われる方が多いと思うので、順を追って説明します。

たとえば下図のように、鏡に向かって右手を上げて立つとします。

すると、鏡にはどのような姿が映るでしょうか?

ご覧の通り、左右も上下も逆にはなっていない姿が映ります。

しかし、これが左右逆に見えるかと言われると、多くの人が「見える」と答えると思います。

なぜなら、鏡に映っている姿は右手ではなく左手を上げているようにしか見えないからです。

その様に見えるのは、人間の認識の仕方に原因があります。

 

実は逆になっているのは、左右でも上下でもなく「前後」なのです。

自分は鏡に向かっているのに、鏡の中の人物はこちらを向いています。

この像を見たときに、人間は「もし自分が向こうからこちらを見るとしたら」という想像をします。

その際、前後を逆向きにするために、頭の中で自分を回転移動させます。

このように水平方向に回転移動した姿を想像するため、「鏡に映った自分と本来の自分が左右反対になっている」という認識をします。

つまり、左右が逆になっているのは鏡の中の像ではなく、頭の中で回転移動した自分の方なのです。

先述の「なぜ上下は逆にならないのか」という疑問に対しては、下図のように垂直方向に回転移動する自分を想像すれば上下が逆に見える、というのが解答です。

しかし、現実に鏡を見たときに「上下が逆になっている」と思う人はまずいません。なぜでしょうか?

ここからの説明は感覚的な部分を含むので難しいのですが、重力が下方向に働いている以上、垂直方向に回転するのは水平方向に回転するのと比べてあまりにもハードルが高いから、というのが答えになると思います。

別の言い方をすると、我々は上下方向を先に定義してから左右を定義するから、とも言えるでしょう。

あれっ右ってどっちだっけ?と咄嗟に判断できなくなってしまうことってありませんか?(私はあります)

この症状を左右盲と呼びますが、上と下がどちらかわからなくなってしまうことはまずないでしょう。

それこそが、上下と左右の認識優先順位の絶対的な差なのです。

とても長い説明になってしまいましたが、以上が解答となります。

 

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