キャパへの追走  沢木耕太郎  2025.1.28.

 2025.1.28. キャパへの追走

 

著者 沢木耕太郎 1947年東京都生まれ。横浜国立大学卒業。79『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞。82年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞。13『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞。近著に『波の音が消えるまで』『銀の街から』『銀の森へ』。

 

発行日           2015.5.15. 第1刷発行

発行所           文藝春秋

 

 

表紙袖裏

トロツキー、スペイン戦争、ノルマンディー上陸作戦・・・・

ロバート・キャパが切り取った現代史の重要場面の現場を探し、同じ構図の写真を撮影する。

いつ、どこで、どのようにそれらは撮られたのか?

世界中を巡る「キャパへの旅」から、その人生の「勇気あふれる滅びの道」が見えてきた。

著者の長年にわたるキャパへの憧憬を締めくくる、対策「人物+紀行ノンフィクション」

 

I        旅するキャパ

はじめに

6年前月刊誌『文藝春秋』から、中央に折り込まれているグラビアページを使った連載を持ち掛けられ閃いたのが、キャパが撮った有名な写真の「現場」に行って同じ様な構図で写真を撮って、現場の変わりようをエッセイにすること。2010年から『キャパの世界、世界のキャパ』として40回の連載となったが、真の目的はキャパの有名な写真「崩れ落ちる兵士」の撮影場所を特定し、本当に兵士が撃たれたところを撮ったものか? 本当に兵士は死んでいるのか? を確かめること。一種の直感から、兵士はただ斜面で足を滑らせただけだったのではと、真実味を疑っていた。この疑問の解明は「スピンオフ」の作品として別途『キャパの十字架』という長篇ノンフィクションとなる

キャパの撮影地を訪れていくうちに、単に「崩れ落ちる兵士」の謎を解くための「助走の旅」に留まらず、キャパという「旅する人」の歩みを辿る旅であり、キャパの人生を追っていく旅になっていた

1.  キャパは旅するカメラマン。半世紀前に撮った写真が今なお人を惹きつけるのは、撮った対象が歴史だったから。と同時にキャパの波乱万丈の「物語」があったから。キャパの人生を彩る要素の中で重要なのは「冒険」、戦争も「冒険」の延長で、「冒険」と「旅」は不可分

2.  キャパに関心を持つようになったのは、彼の伝記の翻訳がきっかけ。ブタペストに生まれたキャパは、中流家庭で不自由なく育つ

3.  反ユダヤ主義拡散に恐れを抱きドイツに亡命、さらにパリに向かう。ベルリンでカメラマン助手の職を手に入れたのはシンデレラ・ストーリー。パリでは、モンパルナスのカフェ「ル・ドーム」で、第2次大戦後共に写真家集団「マグナム」を組成する仲間たちと知り合う

4.  パリでは、生涯のパートナー、ゲルダ・タローと同棲。『毎日新聞』の支局で定職に就く。36年頃から独自の写真を発表し始めるが、写真週刊誌の取材で内戦のスペインに行った1年後にはゲルダが戦車に轢かれて死ぬ。失意のキャパは戦争を逃れるようにアメリカに渡る

5.  短期ビザで『ライフ』の仕事をし、ビザ取得のためメキシコに取材旅行。戦争開始と共に生きるために戦場に赴くが、ハンガリーが枢軸に参加したため敵性外国人となり、イギリス人女性と知り合って漸く特派員として認められる。Dデイや、連合国のパリ一番乗りに「勝利」したが、ドイツ降伏の瞬間を撮り逃がし、キャパの第2次大戦は終わる

6.  大戦後の10年は、戦中の傑作群によってフォト・ジャーナリストの頂点に立つが、戦後の自分の進路を見失っていく悲劇的な日々でもあった。カメラマン自身による写真通信社組織「マグナム」を創設するが、夢のロシア行きを実現させたジョン・スタインベックとの作品『ロシアの日々』の評価が不芳、共同で作ったテレビ番組制作会社の仕事にも失敗して人生下降局面に入る。戦時下の写真は、戦場でなくても緊張感が漲っていたが、平時の写真は歴史に残り得るかどうかは疑問で、旅行雑誌に片寄っていくように、金のための仕事をしている気配が濃厚。アメリカの「赤狩り」にも巻き込まれ、体調を崩す

54年、毎日新聞から日本に招待され、再生の契機を模索する間に、『ライフ』からヴェトナム戦取材の誘いが迷い込む。本来の輝きを取り戻したが、死への旅となった

 

II     キャパを求めて

l  路上の写真屋(東京)

40歳の時毎日新聞から、雑誌『カメラ毎日』の創刊に当たり、日本を撮影してほしいとの依頼

欧米では既に虚名化していたが、日本での人気は絶大。だが、なぜか戦争中の写真と比べても、また他の国で撮られた戦争以外の写真と比べても、どこか力がないように感じられる

東京駅の東海道線の14番ホームに佇む少年の写真

 

l  そこに革命家がいた(コペンハーゲン/デンマーク)

キャパの初めての旅はハンガリーからドイツに向かう旅。ベルリンではドイツ政治高等専門学校のジャーナリズム学部。言葉の喋れない者がジャーナリズムに近づく最も手っ取り早い方法として写真家になることを決心。暗室助手の職を得て、あるカメラマンの写真に魅入られたのが認められ、そのカメラマンの助手となる。最初の写真が19歳の時、コペンハーゲンで講演中のレオン・トロツキーを撮ったもので、写真週刊誌に発表され実質的なデビュー作となる

 

l  旗の消えた街(ザールブリュッケン/ドイツ)

1933年、ナチスの台頭で危険を感じハンガリーに戻るが、すぐにパリへ向かい、セーヌ左岸の小さなホテルに居を構える。34年写真週刊誌の仕事で仏統治下のザール地方に取材に向かう。同地は、帰属を決める国民投票を翌年に控え、ほとんどナチス化している中心都市ザールブリュッケンを撮る

 

l  高架橋のある風景(パリ)

1936年のパリ祭は、初の左翼政権となった「人民戦線派」のブルム内閣の下で迎えるが、左派陣営はシンボルとしてのゴーリキーの直前の死を悼み、その肖像画を掲げて行進する。それを撮ったのが「革命記念日の行進」

 

l  丘の上の十字架群(ヴェルダン/フランス)

1936年、第1次大戦の最激戦地ヴェルダンで開催された「平和集会」取材時の写真

直後にスペインの内戦勃発、集会の祈りも空しかった

 

l  中央駅から(バルセロナ/スペイン)

19367月スペイン内戦勃発。年初成立した左派人民戦線政府に反対したフランコら軍部の将軍たちの反乱。カトリック教会、民族資本家、地主などの右派が合流し内戦に発展

キャパの自伝ではCivil Warとなっているが、「市民」が立ち上がったものではない

仏写真週刊誌『ヴュ』がジャーナリストの一団をバルセロナに運び特別号の取材を計画、それにゲルダと共に参加。出征兵士を乗せた汽車の出発風景を撮る

 

l  カサ・デ・カンポ(マドリード/スペイン)

2にんはバルセロナから山岳地帯のアラゴン戦線、マドリードからトレド、アンダルシアのコルドバ戦線へと足を延ばすが、本格的な戦闘には遭遇できなかったが、コルドバ戦線で、フォト・ジャーナリズムの全歴史を通じて最も有名な戦場写真「崩れ落ちる兵士」を撮る

そのほかの戦場の写真も入れて一旦帰国、『ヴュ』はセンセーショナルなタイトルとキャプションを付けて売り出すが、発行人は共和国側に立つという政治的立場を鮮明にしたため、フランスにおける左派の台頭を懸念した広告主の多くが離反して経営難に。新しい経営者は右寄りで、キャパは再度単身で戦場に向かう

反乱軍の攻勢に対し、マドリード市民はカサ・デ・カンポ公園にバリケードを築いて抵抗、国際義勇軍が参加して市民を助ける。戦場は公園に限られた

 

l  地下鉄の構内で(マドリード/スペイン)

内戦中のキャパは、義勇軍との同一行動が多い。義勇軍は共和国から正式に認知され国際旅団を結成。この時初めてキャパは本格的な戦闘に遭遇して失禁したことが、名作「崩れ落ちる兵士」が真の戦場写真ではなかったことの証明になる

 

l  瓦礫の中の子供たち(マドリード/スペイン)

反乱軍の空爆の中でとりわけ有名なのがゲルニカへの爆撃

キャパの爆心地の写真には、尖鋭な構図意識が存在

 

l  ゲルダの死(アンダルシア/スペイン)

ゲルダはキャパから写真を学び、独り立ちしていく。美人ゆえにスペイン内戦で多くの崇拝者を集めるが、退却の戦車に轢かれて死去

 

l  奇妙な友情(テルエル/スペイン)

ゲルダは、塹壕で崇拝者だった義勇兵のカナダ人医師と一緒で事故に遭い、カナダ人だけが生き残る。キャパはカナダ人と友情を育み、一緒に仕事をしていく

 

l  橋を撮る(テルエル/スペイン)

テルエルでは、キャパはダイナマイト部隊と行動を共にする

爆破現場に銃を持った兵士がいることで緊迫した戦場写真となり、これからの戦況を見据えた緊張した一瞬が捉えられている。石造りの橋は今も残る

 

l  満月に照らされて(テルエル/スペイン)

これより以前、キャパはヘミングウェイと知り合う。戦地でのヘミングウェイの気取った行為は一緒にいたジャーナリストたちにとって、昼間目撃したものとあまりにも対照的で醜悪なものだったが、キャパはそれを撮って投稿。ヘミングウェイに関する記事は常に金になった

テルエルでは長期間にわたって激戦が続く

 

l  走る女、走らない女(バルセロナ/スペイン)

1938年冬、反乱軍がテルエルの戦闘を制し、共和国は首都をバルセロナに移すとともに、バルセロナへの空爆が始まり、敗北が不可避となる

キャパは、空爆下の広場を走る女を撮ったが、今や走る女はいない

 

l  黒い瞳の少女(バルセロナ/スペイン)

キャパのスペイン内戦時の写真については、戦争よりも銃後の人々の姿を多く捉えたことを積極的に評価する意見があるが、それは、前線で戦いそのものを撮ることが極めて難しいことの裏返しでもある。実際、戦闘シーンの写真は極めて少ない

 

l  澄み切った絶望(タラゴナ/スペイン)

193810月、国際義勇軍の解散式。反乱軍との和平交渉の一環として、外国軍の排除を念頭に、共和国側は国際旅団を解体、反乱軍側は独伊軍の撤収を挙げたが、反乱軍側は無視

 

l  あなたたちを忘れない(バルセロナ/スペイン)

タラゴナの後バルセロナでも義勇軍と市民との最後の「別れの儀式」挙行。「民主主義の連帯性と普遍性の英雄的模範」と称えられた

 

l  その姿勢の中に(漢口/中国)

スペイン内戦の途中、日中戦争をテーマにした記録映画製作への協力を打診され、映画製作に関与したいという永年の夢を満足させるため同行を応諾。蒋介石政府の臨時首都の漢口に向かう。キャパが狙った毛沢東のいる延安一番乗りは果たせず、日本軍による漢口空襲現場の作品群くらいしか見るべきものはない。映画は『四億』というタイトルで公開

 

l  新天地を目指して(ニューヨーク/アメリカ)

19394月、スペイン内戦終結。独ソ不可侵条約により、第2次大戦開戦とともに、フランス政府はドイツ寄りの立場を取り始めた共産党に強い警戒感を抱いて機関誌の休刊や共産主義者の検挙を始めたため、共産主義者のシンパサイザーでもあったキャパは身の危険を感じ、10月にニューヨークに移住していた母や弟に会いに行く。再会後は『ライフ』の仕事をこなす

この頃アメリカで撮った写真の中の傑作は、ボクシング・ジムでのボクサー親子の写真

 

l  最後の1(メキシコ・シティ/メキシコ)

40年、『ライフ』の仕事のため正式な移民許可書を取るべくメキシコに向かう

メキシコの政治的混迷を鮮やかに切り取る写真を何枚も撮るが、その中の傑作は大統領選挙当日、反対派に射殺された若者を撮った1

 

l  屋根のない教会(ロンドン/イギリス)

アメリカの永住権を取るためアメリカ国籍の女性と偽装結婚、ヴィザの取得も成功

41年、独軍の空爆に苦しむロンドンの対独戦争の現況取材の話が舞い込む

キャパの印象的な写真は、屋根の吹っ飛んだ教会で牧師がミサを執り行っているもの

 

l  静かで、確かな生活(ロンドン/イギリス)

ロンドンに長期滞在して、作家との共著『ウォータールー・ロードの戦い』のための写真を撮る

空襲に耐えるごく普通のロンドン市民を描こうとしたものだが、写真に映る彼らの静かで、確かな生活は、キャパにとってついに縁のないものだった

アマチュア・カメラマンに向けたキャパの忠告は、「人を好きなること、そしてそのことを相手に知らせること」

 

l  パパ・ヘミングウェイ(サン・ヴァリー/アメリカ)

ヘミングウェイをアイダホに訪ねる。キャパは、ヘミングウェイを、「パパ」と呼ぶまでに親しくなっていき、その後も何度か活動を共にする

キャパの目的は、『誰がために鐘は鳴る』の映画化で念願の出演の後押しをしてもらうためだったが、最終的には機会を逃す

 

l  あしながおじさん(ロンドン/イギリス)

42年再びイギリスへ向かうが、戦闘は北アフリカに移り、戦場にはなかなか行けない

そんな中でのロンドンでの仕事のうちの印象的な写真は、戦災孤児と米兵を撮った「兵士と少女」。何人かの少女とあしながおじさん風の米兵とが河畔を笑いながら歩く

 

l  雨のパレルモ(パレルモ/イタリア)

ようやく北アフリカ戦線に取材に行くことになり、シシリー島のパレルモでの独軍降伏と市民の米軍に対する熱烈な歓呼のシーンの撮影に成功

 

l  血と虹と(ノルマンディー/フランス)

ノルマンディーのDデイでは、「血みどろのオマハ海岸」となった上陸軍と行動を共にする。ネガの乾燥ミスで大部分が損なわれたが、10枚前後が残り、上陸作戦の最初期の攻撃を捉えた唯一の映像として、その後の映画やテレビの唯一の「参考書」となる

 

l  聖母子像(シャルトル/フランス)

次いでパリ解放のため進軍する連合国軍と行動を共にし、途上でシャルトルに立ち寄り、生涯における傑作のうちの1枚を撮る。対独協力者だった女が丸坊主にされ、ドイツ兵との間に設けたらしい子供を抱き、人々の嘲笑と罵声を浴びながら通りを歩く写真「ドイツ協力者」

この写真は、映されている人々が2つの立場に鋭く引き裂かれているという、重いものを孕んでいた。この地点から、戦争を報じるフォト・ジャーナリストの戦後が始まったと思われる。第2次大戦以降、政治的に対立するもののどちらに「義」があるのかということが不分明になった。「悪」が明確ならどの視点から撮るべきかがはっきりするが、どちらの側に立って写真を撮ったらいいのかが分かりにくくなり、ノルマンディの時のキャパのように、「義」があると信じられる側に身を置き、その11歩が希望への1歩となるという様な「至福の戦争」には、もう再び巡り合うことはなかった

 

l  ふたたびのパリ(パリ/フランス)

パリ解放の一番乗りを目指すべく、同僚とジープを調達してルクレール将軍の戦車を追い、歓喜に満ちた人々の顔を撮ることに成功

 

l  広場の銃声(パリ/フランス)

代表作「パリ解放」は、「パリ入城」の1日目ではない。共産党主導のレジスタンスの闘士たちから政治の正統性を奪還しようと企んだド・ゴールが、翌日シャンゼリゼ通りをシテ島に向かう「勝利のパレード」を挙行したときの写真で、同時に、抵抗するドイツ軍からの反撃にパニックに陥った人々の様子も撮ったのが「広場の銃声」

 

l  虚しい死(ライプツィヒ/ドイツ)

その後はドイツ降伏の瞬間を捉えようと、様々な戦場へ取材に向かう。その1つが454月のライプツィヒに向かう米軍に同行したもの。ベランダに重機関銃を据え付けた米軍兵士が独軍のスナイパーによって狙撃され倒れた瞬間を撮った「死にゆく兵士」は、戦争の虚しさを象徴する優れた1枚。僅か20日後にドイツは降伏、戦争の本質が英雄的な死にあるのではなく、虚しい死に、無益な死にこそあるということを声低く語りかける

 

l  墓地に降る雪(ロサンゼルス/アメリカ)

キャパは、第2次大戦における自らの「活躍ぶり」を喜劇的なタッチで描いた『ちょっとピンぼけ』を出版。456月パリでイングリッド・バーグマンに出会い恋に落ちる。ハリウッドに潜り込み、撮影風景を撮る

 

l  ピカソのいた浜辺(ゴルフ・ジュアン/フランス)

戦後のキャパは、カメラマンによるカメラマンのためのエージェント「マグナム」を創設

戦場の写真を凌駕するものが撮れなかったなか、48年ピカソを撮る。画学生のフランソワーズ・ジローとの間にクロードを設け3人で幸せに暮らしていたころで、最も印象的なのは、砂浜を歩くジローをピカソがパラソルを持って追いかけていく写真。2人は、スペイン戦争に関する最も偉大なイコンを生み出した者として並び称される(「ゲルニカ」と「崩れ落ちる兵士」)

 

l  マティスの棒(ニース/フランス)

49年にもピカソを訪ねるが、その年の傑作はマティス。79歳で聖ドミニコ会から依頼されたヴァンスのロザリオ礼拝堂の設計に熱中している写真で、最も有名なのは長い棒の先に木炭のようなものをつけて壁に立てかけられた巨大な白い画材紙に向って修道士の立像を描いている姿。長い棒は、巨大な絵を遠くから見ながら描くために考えついたものだった

 

l  学校としてのカフェ(パリ/フランス)

キャパにとって戦場は一つの「学校」で、写真の技術的なことを学ぶと同時に、多くの級友を作った。戦後はその旧友との仕事が多い。作家ではヘミングウェイのほか、スタインベックとはロシアへの旅行を共にし、アーウィン・ショーとはイスラエル取材を敢行

「戦争写真家」として失業したキャパは精彩を失い、ギャンブルに溺れ、娼婦相手に一種病的な女漁りに耽る

カフェも「学校」となり、多くの友人と交流。「カフェ・ドゥ・フロール」を撮った写真

 

l  夜の街で(熱海/日本)

1954年、毎日新聞社の招きで訪日。各地を訪れるが、熱海だけは遊興が目的。その中で印象深い1枚は、歓楽街の脇で女性に掴まってかき口説かれている写真。場所は娼家のひしめく熱海銀座の「糸川べり」

 

l  2枚のポートレート(静岡/日本)

アマチュア・カメラマンが静岡に来たキャパを撮った写真が残る。求めに応じてキャパが「間違いなく自分だ」とサインしている。伝説の報道写真家としての耀きが感じられない

静岡へは、直前のビキニ環礁の水爆実験で脚光を浴びた焼津に向かう途中で立ち寄り

 

l  白い顔の少女(大阪/日本)

大阪四天王寺の「太子殿」の竣工式で古式豊かな服装の行列の中の少女を撮った写真が残るが、実は聖徳太子の命日の聖霊会(しょうりょうえ)で奉納される舞楽の舞い手の男の子

 

l  舞子ではなかったけれど(京都/日本)

京都では歌舞練場で「都をどり」に出る舞妓を撮っているが、あまり興味を持っているようには見えない

 

l  嘆きの女、それから(ナンディン/ヴェトナム)

日本からインドシナに向かう。『ライフ』の取材依頼を受けたもので、ヴェトミンによるフランスからの独立戦争が佳境に入り、生き生きとした写真を撮り始める。最大の傑作が、ナンディンの軍人墓地で幼子を抱えながら十字架の前で泣き崩れる女性を撮った「嘆きの女」

 

l  死への旅(アマウォーク/アメリカ)

直前に母親に書いた手紙では、ほんの2,3週間で東京に戻り、その後の予定にあったジョン・ヒューストンの《白鯨》を撮る約束も書かれているので、極めて危険な任務との理解は薄かったように思われる。フランス軍に同行し、田園地帯の要塞からの撤退作戦を取材した際地雷を踏む。2カ月後にはフランスとヴェトナムが休戦協定締結

米陸軍からアーリントン墓地を提供されたが、母親は断ってニューヨーク郊外の普通の墓地に埋葬

 

III   ささやかな巡礼

キャパの撮影場所を訪ねる旅は、日本を皮切りに足掛け4年に及ぶ

キャパの肉声を録音したテープが出てきた。1947年ニューヨークのWNBCというラジオ局のトーク番組に出演したキャパが、「崩れ落ちる兵士」について語ったもの。彼が語るその日その場で戦闘は行われておらず、兵士は誰1人として撃たれていない。偶然足を滑らせたところを撮られただけだったが、キャパは1つの話を「作って」しまっていた

ニューヨーク郊外のアマウォークにあるキャパの墓を訪ね、キャパを追いかける旅の締めくくりとする

 

 

 

(天声人語)キャパ没後70年

2024525 500

 石畳の道を行く、大勢の人たちがいる。彼らの視線が一斉に向く先には、赤ん坊を抱き、頭を丸刈りにした若い女性――。誰でも一度ぐらいは見たことがあるかもしれない。第2次大戦の末期、ドイツ軍が撤退した直後にフランスの街で撮られた写真である▼女性はナチスの協力者とされ、町中を引き回され、あざ笑われている。憎しみからか、愉悦か。嘲笑とはかくも如実に、人間の暗い心を映し出すものなのか。撮影者は20世紀で最も名の知られた報道写真家、ロバート・キャパだ▼ノルマンディー上陸作戦など、緊迫した戦場の実相をカメラに収めたキャパだが、銃後の市民たちの姿も数多く写した。戦争の醜悪さ、不条理さをじわりと伝える作品も少なくない。丸刈りの女性の写真はその一つだろう▼「いったい正義はどちらにあるのかという、鋭い問題がこの一枚の中には込められている」。作家の沢木耕太郎氏は『キャパへの追走』に書く。「『義』があるのは町の住人なのか、それとも引き回される母子の側なのか」▼悲しいことに、いまもこの世界では非道な殺戮(さつりく)が絶えない。どうして人間は戦争を止められないのだろう。ガザで、ウクライナで、スーダンで……。それぞれが掲げる正義の下、多くの血が流れ続けている▼キャパは40歳のとき、インドシナでの従軍取材中、地雷を踏んで亡くなった。ちょうど70年前のきょうのことである。有名な言葉が残っている。「戦場カメラマンの一番の願いは、失業することだ」

 

 

 

2015.06.07

伝説の戦場写真家の足跡をたどる

文:「週刊文春」編集部

『キャパへの追走』 (沢木耕太郎 著)

スペイン戦争やノルマンディー上陸作戦など、様々な歴史的瞬間をフィルムに納めた戦場カメラマン、ロバート・キャパ。スペインを中心に欧米、アジアと彼の足跡をたどり、同じ現場に立つと「勇気あふれる滅びの道」が見えてきた。「崩れ落ちる兵士」の謎に迫り、司馬遼太郎賞を受賞した『キャパの十字架』の姉妹編。 文藝春秋 1500円+税

 

「キャパはきっと天上で僕の文章を読んで、苦笑しながら喜んでいるだろうね」

 20世紀を代表するカメラマン、ロバート・キャパ。沢木耕太郎さんは『キャパへの追走』で、キャパが祖国のハンガリーを出て、インドシナ戦争の取材中に地雷を踏んで死ぬまでの旅路をたどっている。

沢木さんがキャパに深い関心を寄せるようになったのは、30年ほど前。きっかけは、リチャード・ウィーランが書いたキャパの伝記の翻訳の依頼だった。

「編集者がすごく厚い原書を持ってきたんです。その人は、僕が英語をすらすら読めるとひどい勘違いをしていた(笑)。調べながら読んでいくうちに、キャパは『ちょっとピンぼけ』に書いているだけではない、複雑な性格を持っていることがわかってきたんです」

沢木さんは、キャパがスペイン戦争で撮影した有名な写真「崩れ落ちる兵士」を翻訳中に何度も見るうちに、疑念を抱いた。

「この写真は兵士が銃で撃たれたのではなく、足をすべらせたところを撮ったものだろうと思っていました。兵士は本当に撃たれたのか。それを確かめるために、いつか『幻の丘』へ行きたかったけれど、なかなかチャンスがなかった。雑誌の連載の話があったとき、キャパが撮影した現場へ赴き、僕も同じ構図で撮って比べてみたいと提案しました」

沢木さんの旅は東京駅からスタート。スペインを中心に世界各地を巡った。

「旅の神様は僕によくプレゼントしてくれるんです」

ピカソ風老人をはじめさまざまな人に遭遇したり、わからなかった撮影場所を次々と探しだした。

「取材を終えて、あたたかい日差しのなか、誰もいない無人駅のベンチで、いつ来るかわからない次の電車を待っているとき、幸せだなぁと感じました」

沢木さんは「崩れ落ちる兵士」の撮影現場を特定し、撃たれた瞬間を撮ったものではないことを明らかにした。その詳細は先に出した『キャパの十字架』で描いた。

キャパの人生をたどった本書の刊行で、沢木さんの旅は完結したことになる。4年におよぶ旅を終えた沢木さんは振り返る。

「彼が『崩れ落ちる兵士』について語らず、誤解に任せて名誉だけを受け入れたのは、正しい行為ではなかったと僕は思う。しかし、キャパは虚名に実体を一致させるために旅を続け、雄々しい人間として人生を完結した。今回の旅を通して、彼がすごい苦闘をしていった跡が見つかったのです」

 

 

産経新聞

『キャパへの追走』 沢木耕太郎著

2015/5/24 09:30

 カメラマンのロバート・キャパ(191354年)が数々の写真を撮った現場をめぐる紀行ノンフィクション。スペイン内戦、第二次大戦、日本そして。写真や資料を手掛かりに撮影地を探すのだが、正確な場所(同じアングル)を特定するのはかなり難しい。迷ったり、あきらめたり、逆に幸運に恵まれたり。探索行は起伏に富む。「戦争の時代」を駆け抜けたキャパの人生を追いながら、写真に記録された有名無名の人々の状況やその後にも思いが飛ぶのが著者らしさ。各章の文末に、キャパの写真と、半世紀余を経た「その後の現場」が並ぶのが味わい深い。(文芸春秋・1500円+税)

 

 

Hatena Blog

琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

 2019-06-09

【読書感想】キャパへの追走 ☆☆☆☆

発売日: 2017/10/06

トロツキー、スペイン戦争、ノルマンディー上陸作戦ロバート・キャパが切り取った現代史の重要場面の現場を探し、同じ構図の写真を撮影する。いつ、どこで、どのようにそれらは撮られたのか?世界中を巡る「キャパへの旅」から、その人生の「勇気あふれる滅びの道」が見えてきた。著者の永年にわたるキャパへの憧憬をしめくくる、大作「人物+紀行ノンフィクション」。

 沢木耕太郎さんが、伝説の戦場カメラマン、ロバート・キャパの足跡を、彼が写真を撮ったのと同じ場所、同じ構図で「いま」撮影しながら辿るという作品です。

 僕はそんなにロバート・キャパという人物に詳しくはないのだけれど、その伝記だけではなく、「撮った写真」に沿って概観していくと、なんだかとても、キャパという人に近づけたような気がしたのです。
 その一方で、沢木さんはキャパへの思い入れが強くて、あまりにキャパの内面を自分側に引き寄せて決めつけすぎているのではないか、とも感じたんですよね。

 そういうところもまた、沢木さんの作品の魅力なのだろうとは思うけれども。

 あと、ヨーロッパというのは、キャパが撮影してから半世紀以上経っているにもかかわらず、同じ建物や街並みがけっこう残っているということに驚かされました。

 日本の場合、空襲で焼かれてしまったところが多々あるとはいえ、同じような企画とやろうとしても、「もうどこだかわからなくなっている」場所がほとんどになってしまいそうです。

 キャパの写真がいまもなお力を持ち続けているのはなぜなのか。

 ひとつのは、彼の撮った対象が「歴史」だったからということがある。たとえば、その対象がスペインの内戦や第二次世界大戦といった戦争であれ、レオン・トロツキーパブロ・ピカソというような人物であれ、それ自体が二十世紀の「歴史」と言い得るものだった。と同時に、キャパという人物が歴史的な存在となったため、彼の撮った写真は、彼が撮ったというまさにそのことによって「歴史」になってしまったという側面があるのだ。

 しかし、ただそれだけなら、すでに死後半世紀以上も経ったいまもなお、これほどの人気を保っているということもなかったはずだ。キャパの人気には、やはり独特な何かがある。カメラマンとして、キャパは例外的な、あえていえば特別な存在だった。他のカメラマンにはない、人々を惹きつける大きな魅力を持っていた。

 たぶん、それは「物語」だったと私は思う。キャパには「キャパ」という波瀾万丈の「物語」が存在した。キャパが生きた「キャパという物語」に照らされて、キャパの撮った写真そのものの輝きがさらに増すという構造があるように思えるのだ。ある意味で、キャパの写真はキャパという人生と不可分のものだと言える。

 この作品のなかでは、キャパのさまざまなエピソードが紹介されていきます。

 冒険好き、女好き、ギャンブル好きだった、ロバート・キャパ

 そして彼は、他人に愛される才能を持った人、でもありました。

 キャパが到着すると、ザルカは第十二国際旅団の「政治委員」を務めていたグスタフ・レーグラーに、中間地帯の偵察に連れていってやれと命じる。

 このグスタフ・レーグラーもドイツの作家であり、のちに『ミネルヴァの梟』という回想録の中で、若いキャパについてこう書くことになる。

《その若者は、遠くで爆発しているにもかかわらず、頭上をビュンビュン飛んでいく砲弾の音を怖がった。あとで、ズボンを替えに行ってもいいかと訊ねてきた。彼は、これが自分にとって最初の戦闘であり、大きいヤツを漏らしてしまったのだ、とユーモアを交えて言った》

 この一節は、キャパがこのときまで、「本物の戦闘」に遭遇したことがなかったということを明らかにしていて重要である。つまり、それは、その二ヵ月前に撮ったとされる「崩れ落ちる兵士」の写真が、真の「戦場写真」ではないということを別の角度から証明するものになっているのだ。

しかし。このことは、そうした否定的な側面を物語るだけではなく、キャパがどんな人とでもすぐに友好的な雰囲気を生み出す能力を持っていることも伝えている。

 実際、キャパの対人関係の築き方、とりわけ撮影対象との関係の築き方には独特のものがあったらしい。

 それはまず、彼らと親しくなるところから出発するというものだった。共に話し、遊び、喫い、飲む。それから撮りはじめる。

 アマチュアのカメラマンに対して述べたというキャパの忠告が残されているが、それは「人を好きになること、そしてそのことを相手に知らせること」というものだった。

 その忠告は、ひとりアマチュアのカメラマンに対するものとしてだけではなく、あらゆる「取材者」に適用可能なすばらしい「方法論」となっている。

 人を好きになり、人から好きになられることの「天才」だったようにもみえる、ロバート・キャパ

 沢木さんは、この『キャパへの追走』の取材をしながら、キャパが一躍世に出ることになった、スペイン内乱の戦場で撮られたとされる写真『崩れ落ちる兵士』についての真実を追求していくのです。

 そちらのほうは『キャパの十字架』という別の本に詳しく書かれています

 沢木さんによる検証をみると、キャパは、サービス精神からなのか、それとも自分を売り込むための手段としてなのか、あるいは、虚言癖があったのか、自分に起こったことをかなりフィクション混じりに語っていたようです。

 「まあ、そのくらい良いんじゃない?」って、つい思ってしまうのも、キャパの魅力なのかもしれませんが。

 そして、この本のなかでは、戦場を忌み嫌いながらも、戦場でこそカメラマンとして良い作品が撮れた男の苦悩も描かれています。

 沢木さんは、「キャパをはじめとして、カメラマンたちが、まがりなりにも戦争の一方の当事者を『正義』だと信じられたのは、第二次世界大戦が最後だったのではないか」と仰っています。

 それにしても、戦場あるいはその周辺で撮られたとされる写真の多くは、それが実際に撮影されたシチュエーションとは別の「解釈」をされて、さまざまな目的(戦意高揚とか愛国心を奮い立たせるとか反戦とか)に利用されているものなんですね……

 ちなみに、この本には、キャパが撮影した写真がたくさん掲載され、沢木さんの写真と並べられています。

 キャパの写真を借りたのは、『キャパの十字架』のときと同じく「マグナム」(マグナム・フォト(Magnum Photos):世界を代表する国際的な写真家のグループ)である。そして、今回も、私の「崩れ落ちる兵士」に関する見解には同意していない旨を付記してくれという。私はまた、「喜んで」と応えた。「崩れ落ちる兵士」がどのような写真だったかは、誰が撮ったのかということを除けば、すでにほぼ明らかになっていると思うからだ。

 キャパの代表作に対する沢木さんの考えには不同意だけれど、それを明記してくれれば、写真は使っていいよ、という「マグナム」の対応は、なんだかすごく誠実だよなあ、と、僕は感心しました。
 「じゃあ、キャパの写真は貸さないよ」なんて言う人(組織)って、いそうじゃないですか。

 

 

Wikipedia

ロバート・キャパ(Robert Capa [ˈɹɔbətˈkæpə | ˈɹɑ(ː)bɚtˈkæpə], 19131022 - 1954525)は、ハンガリー生まれの写真家

本名はフリードマン・エンドレ(Friedmann Endre [ˈfriːdmɒn ˈɛndrɛ])。フランス語読みのアンドレ・フリードマン(André Friedmann [ɑ̃dʁe.fʁidman])と表記されることもある。同じく写真家で、1974ICP国際写真センター)を創設したコーネル・キャパは弟。

スペイン内戦日中戦争第二次世界大戦ヨーロッパ戦線第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争5つの戦争を取材した20世紀を代表する戦場カメラマン報道写真家として有名である。「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、実際には、親しくしていたゲルダ・タローとの共同作業によるものである。スペイン内戦で親交を持ったヘミングウェイアルジェで知り合ったスタインベックピカソら多方面の作家芸術家たちとの幅広い交際も有名である。

生涯

フリードマンは19131022日、洋服店を営んでいたユダヤ系アシュケナジム)の父フリードマン・デジェー(Friedmann Dezső[ˈfriːdmɒnˈdɛʒøː])と母ベルコヴィッチ・ユリアンナ・ヘンリエッタ(Berkovits Julianna Henrietta[ˈberkovit͡ʃˈjuliɒnːnɒˈhenriettɒ])の次男として、ハンガリーブダペストに生まれる。

1919福音派の学校に入学、1923マダーチ・イムレギムナジウムに入学。1931共産党の左翼運動に加担した容疑で逮捕される。釈放後はドイツのベルリンにわたり、ドイツ政治高等専門学校ジャーナリズム科に入学。1932に大恐慌が発生、両親からの仕送りが期待できなくなったため、写真通信社「デフォト」の暗室係として働き始める[1]。同時期に彼にとってデビュー作品となるデンマークの首都・コペンハーゲンで講演するレフ・トロツキーの写真を撮影している[1]1933にはユダヤ人排斥が激しくなり母と弟はアメリカへ亡命した(父デジェーはブダペストに残ったが、その後の消息については分かっていない)。フリードマンもベルリンを脱出し一時ウィーンに身を寄せ、その後ブダペストに帰省しヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。翌年にフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる。

19339月、フランスパリに拠点を構えたものの、フリードマンの写真はほとんど買ってもらえず、わずかに売れた場合でもひどく安値で、まともに生活できるほどの生活費が得られない状態だった。あまりに困窮したため、同時期にパリに在住していた川添浩史アパルトマンに入り込むこともあったという。1934年、ドイツから逃れてきた同じユダヤ人仲間の写真家ゲルダ・タローと仕事を通して出会う。ゲルダは既に偉大な業績があるアメリカ人カメラマン「ロバート・キャパ(Robert Capa)」なる人物を創り出し、フリードマンはその人物になりすまして、写真を持ち込み売り込んでいたとされる。そのころフリードマンはゲルダと同棲するようになっていた。

フランスの写真週刊誌『ヴュ』の1936923日発刊の号に彼らの写真が採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付され、さらに翌年その写真が、大きな発行部数を誇り影響力の大きかったアメリカのグラフ誌『LIFE』の1937712日の号に転載された際に撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍知られることとなった。この写真が、いわゆる「崩れ落ちる兵士」と呼ばれている写真である。この写真を公表したころから、ゲルダの企みがばれてしまい、フリードマンは自らを「ロバート・キャパ」と名乗るようになった[注釈 1]。この写真は、これらの雑誌に掲載された時に写真の下に付記されていたタイトルや解説などが信じられることによって「19367月のスペイン内戦が勃発した時期にゲルダと従軍し、9月、コルドバ戦線で頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮ったものだ」と世界の人々から見なされた。しかし近年の研究で、この写真は演習中を撮影したものであり、さらに被写体の兵士は死んでおらず、また撮影者もキャパではなくゲルダであると指摘されている。

ゲルダ1937726日、スペイン内戦の取材を行っていた際に、事故に巻き込まれ死亡した。1938アンドレ・ケルテス監修のもと、キャパはゲルダとの共著として初の写真集「生み出される死(Death In The Making)」を発表。同年に映画監督のヨリス・イヴェンスとともに日中戦争を取材、漢口で撮影した初のカラーフィルムが雑誌『LIFE』に掲載される]1939アメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。1940メキシコに数ヶ月滞在し大統領選を取材。1941から翌年にかけて、『コリアーズ英語版)』の特派員として大西洋護送船団に乗り込み、ロンドンへ渡り取材している[6]1941年にはアイダホ州サンバレーへ渡り、盟友のヘミングウェイのもとを訪れて彼を撮影している19433月から5月にかけて北アフリカ戦線7月にイタリア戦線を取材。その間に『コリアーズ』の契約を解除されてしまうが、知己のあった『ライフ』と契約した。

1944にはノルマンディー上陸作戦を取材。1歩兵師団16歩兵連隊第2大隊E中隊に従軍した。最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影した。しかし現像の際に興奮した暗室助手のデニス・バンクスが乾燥の際にフィルムを加熱しすぎてしまったために感光乳剤が溶け、まともな写真として残っているものは11枚しかなかった(8枚という説もある)。これが後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルに反映されたという。8月にはパリ解放を撮影。同年12月のバルジの戦いを経て、1945の終戦まで取材した。

戦後の1946にアメリカ市民権を獲得し、イングリッド・バーグマンやピカソら著名人を撮影した。特にバーグマンとは恋仲になったものの、結婚するまでに至ることはなく別れている。1947アンリ・カルティエ=ブレッソンデヴィッド・シーモアジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。同年にジョン・スタインベックらと共にソビエト連邦へ旅行に向かう。1948にはイスラエルの建国を契機に、第一次中東戦争などを3回にわたって取材した。

19544月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。525日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省ドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後230分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後255分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。

ロバート・キャパ賞

キャパにちなんで、報道写真を対象としたロバート・キャパ賞(Robert Capa Award)が、Overseas Press ClubによるOverseas Press Club Awards1部門として設けられている。

日本人では1970年に沢田教一カンボジア内戦を取材中に銃撃で没した後に受賞している。

2000年から2001年にかけ「20世紀と人間 ロバート・キャパ賞展」が日本国内各所で開催された。

日本との関わり

1935年に南仏カンヌで、川添浩史と井上清一らと知り会い、一時期彼らのアパートに居候するほど親しく交流し、彼らに金を借りてライカを買ったという。川添や井上の友人である原智恵子丸山熊雄きだみのる坂倉準三毎日新聞パリ支局長の城戸又一夫妻など、パリ在住の日本人らと交流し、城戸からは月20ドルのアルバイトを得ていた。キャパの恋人であるゲルダが使ったペンネーム「ゲルダ・タロー」は当時パリに在住していた岡本太郎にちなんだものとされる。1954年には、毎日新聞の招待で来日しており、東京のほか、熱海、焼津を経て、京都、奈良、大阪などを訪れており、皇居での昭和天皇や、メーデー大阪城四天王寺清水寺にむかう参道や東大寺の大仏、天理教教会本部などを収めた写真が残されている。

著書(訳書)

『ちょっとピンぼけ Slightly out of Focus 川添浩史・井上清一訳、ダヴィッド社1956年、新版1980年。筑摩書房<ちくま少年文庫> 1978年。文春文庫、初版1979

『戦争 そのイメージ IMAGES OF WAR 』井上清一訳、ダヴィッド社、初版1974年、新版1989年ほか

『ロバート・キャパ ちょっとピンぼけ文豪にもなったキャパ』 クレオ、2002

マグナム・フォト東京支社監修で、手書き原稿や未公開作品を含んだ写文集

日本語文献

版元品切も含む。なお2004はキャパ没後50年で多くの出版があった。

『ロバート・キャパ写真集』 岩波文庫2017年。キャパ・アーカイブ編

『ロバート・キャパ』 桐谷武訳、創元社〈ポケットフォト〉、2011年。小冊子・作品70点・解説、年譜、参考文献を収録。

CAPAS EYE-ロバート・キャパの眼が見た世界とニッポン』 CAPA編集部編、学研2004

以下は写真集・大判

『ロバート・キャパ写真集 フォトグラフス』 沢木耕太郎訳・解説、文藝春秋、1988

『ロバート・キャパ写真集 戦争・平和・子どもたち』 河津一哉訳、宝島社1991

解説・リチャード・ウェーラン、コーネル・キャパ。新装普及版、1992年。宝島社文庫2001年で再刊

『ロバート・キャパ 決定版』 ファイドン、2004年。リチャード・ウェーラン編

『ロバート・キャパ 時代の目撃者』 リチャード・ウェーラン編・解説、原信田実訳、岩波書店1997

『ロバート・キャパ スペイン内戦 高田ゆみ子訳、岩波書店、2000

レイナ・ソフィア国立美術館収蔵の内戦取材写真の初集大成、リチャード・ウェーランらが解説

回想・評伝

リチャード・ウェーラン Richard Whelan、沢木耕太郎訳、文藝春秋1988

『キャパ その青春』 ISBN 4163424105

『キャパ その死』 ISBN 4163425608

文春文庫3分冊)、2004

『キャパ その青春』 ISBN 4167651394

『キャパ その戦い』 ISBN 4167651408

『キャパ その死』 ISBN 4167651416

アレックス・カーショウ 『血とシャンパン ロバート・キャパ-その生涯と時代』 野中邦子訳、角川書店2004

加藤哲郎 『戦争写真家ロバート・キャパ』 筑摩書房<ちくま新書>2004

横木安良夫 『ロバート・キャパ 最期の日』 東京書籍2004年、ISBN 4487800110

沢木耕太郎 『キャパの十字架』 文藝春秋、2013年/文春文庫、2015年。文藝春秋掲載(初出:20131月号)を改稿。

沢木耕太郎 『キャパへの追走』 文藝春秋、2015年/文春文庫、2017年。続編

ベルナール・ルブラン/ミシェル・ルフェーブル 『ロバート・キャパ』太田佐絵子訳、原書房2012

吉岡栄二郎 『ロバート・キャパの謎 「崩れ落ちる兵士」の真実を追う』 青弓社〈写真叢書〉、2014年、ISBN 9784787273567

マーク・アロンソン/マリナ・ブドーズ『キャパとゲルダ ふたりの戦場カメラマン』原田勝訳、あすなろ書房、2019年、ISBN 9784751529416

ミュージカル

宝塚歌劇団宙組公演 バウ・ミュージカル『ロバート・キャパ 魂の記録』(2012127 - 27日:宝塚バウホール[注釈 2]2012215 - 220日:日本青年館大ホール、201424 - 228[注釈 3]中日劇場

脚注

1.     ^ このあたりのいきさつが不明だった段階では「英語圏で読みやすい名前に変えた」などという推測だけが語られることも多かった。

2.     ^ 当時宝塚歌劇団宙組トップスターの凰稀かなめのバウホール主演作である。

3.     ^ 併演作はロマンチック・レビューの『シトラスの風II』だった。

 

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