記者は天国に行けない 清武 英利 2025.2.24.
2025.2.24. 記者は天国に行けない
組織や権力のくびきに無縁で矜持を忘れない記録者の顔
読売巨人軍取締役球団代表、取締役編成本部長・ゼネラルマネージャー、オーナー代行のほか、NPB選手関係委員会委員長を歴任した。
経歴・人物
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読売グループでの経歴
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宮崎県立宮崎南高等学校を経て立命館大学経済学部卒業後、1975年に読売新聞社に入社した。青森支局を振り出しに社会部畑を歩み、警視庁や国税庁を担当。東京本社社会部次長時代に、第一勧業銀行総会屋事件や山一證券の破綻などをスクープ。
2001年、中部本社社会部長。2002年、東京本社編集委員。2004年、東京本社編集局運動部長。
2004年8月、読売巨人軍取締役球団代表(局次長相当)・編成本部長に就任。巨人球団代表として、当時の生え抜き選手の育成が進んでいないことに危機感を抱き広島東洋カープの鈴木清明からのアドバイスをヒントに育成選手制度を創設。それまでの補強に頼るチーム作りからの脱却を図った。実際、この制度で入団した選手らが、後の2007年からのリーグ3連覇(セ・リーグの連覇は1992年・1993年のヤクルト以来)や日本シリーズ制覇に貢献した。さらにイースタン・リーグ チャレンジ・マッチなどの日本プロ野球のシステム創りに奔走した。
巨人球団代表の傍ら、週刊ベースボール(ベースボール・マガジン社)にて隔週でコラム「野球は幸せか!」を連載した。またNPB選手関係委員長として球団側と日本プロ野球選手会との交渉を取り持つパイプ役も担っていた。
球団代表時代は頻繁に球場に訪れており、試合終了後活躍した選手の労をねぎらうシーンがよく見られるなど、選手に対しての敬意を示すことも忘れなかった。また、フリーエージェント制度などでの小手先な補強一辺倒であった球団の方針を、清武は2005年に制度化された育成選手制度を利用して育成選手を鍛え上げて育てる方針に転換し、これも自球団のみならず、他球団を含めたフロント陣や指導者らから高く評価されていた。しかし清武退任後は清武色一掃の観点から元の補強体制に戻している。
ただし報道陣の間では、清武の姿勢に疑問を呈する人間も少なくなかった。批判めいた記事を執筆した人物を呼び出し恫喝、さらにその会社に対して強行的に取材規制などを行った。それゆえ報道陣だけでなく、球団内でも清武の独裁を快く思っていない者もいたという[1]。
清武代表時代に巨人へ移籍し、現役引退を経て内野守備走塁コーチ就任後間もなく急逝した木村拓也は、宮崎南高等学校の後輩でもあった。
渡邉恒雄への告発と解任
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→詳細は「清武の乱」を参照
2011年11月11日、清武は文部科学省において緊急記者会見を開き、読売新聞グループ本社会長兼主筆・読売巨人軍球団会長である渡邉恒雄が、オーナーやGMである自分の頭越しに、予め球団が決定し承認したコーチ人事を覆したことに対して重大なコンプライアンス違反であると告発した[2]。11月18日、こうした動きを受け、球団側が『渡邉恒雄への告発会見などにより、球界を混乱させたこと』を理由として、清武を読売巨人軍の一切の役職から解任した[3]。
著作活動
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球団代表を退職した後は、読売ジャイアンツや読売新聞社に関する著作にとどまらず、ジャーナリスト・ノンフィクション作家として幅広い著作活動を行っている。2014年、記者時代から追いかけ続けた山一證券をテーマとした『しんがり - 山一證券 最後の12人』で第36回講談社ノンフィクション賞を受賞[4]。2018年、『石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの』で第2回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞(大宅賞)読者賞を受賞[5]。他に、元陸軍飛行隊の苗村七郎を取材した『「同期の桜」は唄わせない』、第47回大宅賞候補作となった『切り捨てSONY リストラ部屋は何を奪ったか』がある。
著書
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- 『しんがり 山一證券 最後の12人』(2013年11月、講談社)ISBN
9784062186445。講談社+α文庫→講談社文庫で再刊
- 『「同期の桜」は唄わせない』(2013年12月、ワック)ISBN
9784898314173。新版「特攻を見送った男の契り」ワック・新書判
- 『切り捨てSONY リストラ部屋は何を奪ったか』(2015年4月、講談社)ISBN
9784062194594。講談社+α文庫で再刊
- 『プライベートバンカー』(2016年7月、講談社)ISBN
9784062201995。講談社+α文庫で再刊
- 『石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの』(2017年7月、講談社)ISBN
9784062206877。講談社文庫で再刊
- 外務省機密費流用事件を追ったもの。2017年、WOWOW・連続ドラマW枠で「石つぶて〜外務省機密費を暴いた捜査二課の男たち〜」としてドラマ化[7]
- 『空あかり 山一證券“しんがり”百人の言葉』(2017年11月、講談社)ISBN
9784062208611
- 『トッカイ バブルの怪人を追いつめた男たち』(2019年4月、講談社)ISBN
9784065154281。講談社文庫で「トッカイ 不良債権特別回収部」に改題し再刊
- 2021年、WOWOW・連続ドラマW枠で「トッカイ〜不良債権特別回収部〜」としてドラマ化[8]
- 『サラリーマン球団社長』(2020年8月、文藝春秋)ISBN
9784163912516
- 『どんがら トヨタエンジニアの反骨(トヨタ86 復活物語)』(2023年2月、講談社)ISBN
9784065311578
- 『アトムの心臓「ディア・ファミリー」23年間の記録』(2024年2月、文春文庫)[9]
巨人軍関連
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- 『巨人軍は非情か』(2008年12月、新潮社)- 上記の週刊ベースボール連載コラムをまとめたもの(一部・書き下ろし)
- 『私の愛した巨人』(2011年12月、ワック新書判)ISBN
9784898316542
- 『こんな言葉で叱られたい』(2010年9月、文春新書)
- 『巨人軍改革戦記』(2011年12月、新潮社)
- 『巨魁』(2012年3月、ワック)ISBN
9784898311790
共著
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- 『会長はなぜ自殺したか 金融腐敗=呪縛の検証』(1999年、読売新聞社→新潮文庫→七つ森書館)、読売新聞社会部清武班
- 『メディアの破壊者 読売新聞』(2012年9月、七つ森書館)佐高信共著
- 『Yの悲劇 独裁者が支配する巨大新聞社に未来はあるか』(2012年11月、講談社)魚住昭共著
文藝春秋 連載
2022年2月号 第1回 源流の記者
~ 組織や権力のくびきに無縁で矜持を忘れない記録者の顔
1945年8月30日、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが日本に進駐してきたとき、日本のメディアを代表して神奈川県の厚木基地で取材した記者が4人いた。読売新聞の羽中田誠はその一人。危い社会部記者で、社内では「酔いどれ」の異名
私は、肩書はなんでもいい、ネット記者でもフリーでも、とにかく組織や権力のくびきに無縁で、矜持を忘れない記録者の顔を書こうとした
抵抗の新聞人と言われた元信濃毎日新聞主筆の桐生悠々は、その3年前に憤死していた。彼は「関東防空大演習を嗤ふ」と題する社説を掲載して社を追われ、なおも個人雑誌『他山の石』を発刊したものの、軍部の徹底した追及に遭った。喉頭癌で亡くなる間際、憤怒に溢れた廃刊の辞を書いた。その中にこんな一文がある。
〈喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候〉
2022年3月号 第2回 アパッチ魂
~ いち、にのさん、でドアを開けた瞬間……支局時代に見た記者たちの原点
1975年春、最初の赴任地の青森県警記者クラブ勤めの頃
2年上に日比谷・東大法の中村がいた
記者は出入り禁止とされた現場をどう越えていくか、日々問われていることは確かだ。
2022年4月号 第3回 第一目撃者
~ 「お前は雁首を集めろ!」私は夢中で泥の川をあさった。
ダマスカスの近郊ダラヤという町の図書館には2012年から4年もの間、約1万人もの市民がアサド政権軍に抗して籠城の模様を本にしたのはフランス人の女性ジャーナリスト
現代はインターネット上に存在する画像や映像を駆使する「オープンソース・インベスティゲーション(公開情報調査)」の時代で、現場にいかなくても前述のような記事が書ける
私は、当事者か第一目撃者に近い人々を追え、と教えられてきたのだが、彼女はSNSを駆使する一方で、やはりその原則を貫いて記録したのだと思う
いつの時代も、精一杯に目撃者を追い求めれば——取り憑かれた彼女のように——第一目撃者以上に胸を打つ記事と記録を残すことができる。記者の原点を、この本は静かに教えている。
1985年日航機事故では全乗客509人のうち外国人を除く500人の顔写真を集めて掲載
共同通信社会部記者だった澤康臣(専修大学教授・ジャーナリズム論)は、「匿名社会が市民の共感、そして連帯をも妨げる」と指摘して、著書『英国式事件報道——なぜ実名にこだわるのか』(文藝春秋)にこう記している。
〈マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言ったが、無関心が蔓延しきるところにこそ匿名社会はその完成をみることになるだろう。社会で共に生きるいわば同僚市民への関心や同情も、意見のぶつけ合いや助け合いも育たず、ただ官製の扶助とコントロールに依存する構図が、善意からの「関わらない」デリカシーの果てに暗示されている気がする〉
2022年5月号 第4回 文と度胸
~ 「最初、頭へボンとぶつける」。伝説の名文家が明かした文章の極意
村尾清一は、読売新聞の夕刊コラム「よみうり寸評」を17年3か月も執筆し、日本記者クラブ賞を受けた元論説委員である。ユーモアを好み、ふっくらとした性格で、その文章を、「僭越ながら、たいへん上質である」と、彼の後輩で作家の本田靖春が評した。東大の後輩でもある渡邉との連れションで、渡邉が社長を目指すと言ったことを同期の菊村到(後芥川賞作家):に話したら、「世の中にはいろんなアホがいる」といったという。渡邉は部長になるまでは桁違いに面白い人間だったが、部長になって出世を頭に入れ出してからちょっとおかしくなった
2022年6月号 第5回 悪郎伝 ~ みんなあいつに騙された——原子力船「むつ」特ダネのカラクリ
青森県の副知事だった山内善郎には、「悪郎」というあだ名があった。「人生は運八割」を信条に、難事の荒業、寝技を得意とした
ロッキード事件で東京へ応援に行く。渡邉恒雄が取締役論説委員長に就任して社論を確立し、社報インタビューで、「論説委員長は論説委員会を統裁するものと解釈しているわけです。だからいろんな意見があったときに、多数決で決めるわけではなく、委員長の責任において決断を下す」と述べた。つまり、論説会議の意見が分かれたときは、たとえ少数意見でも渡邉の正しいと信じる意見を採用し、それをはっきりと書く、というのである。
一方、遠い大阪読売では、黒田清がこの年に編集局次長兼社会部長に就き、「情」を打ち出しながら、タブー視されていた部落差別や反戦問題を正面から取り上げ脚光を浴びた。黒田は肥大化する新聞社の中で紙面の画一化に抵抗し、独自の紙面作りを「ミニコミ活動」と称している。それは渡邉を中心にひとつの色に染め上げる新聞とは相反するもので、私は読売のなかに、東京本社と大阪本社の2つの新聞があるような印象を受けた
2022年7月号 第6回 「墓場に持って行かせるな」30年を超えて暴かれた電力業界の闇
~ 事実を申し上げるのが天命と思った——30年を超えて暴かれた電力業界の闇
2014年7月28日。月曜日である。手にした朝日新聞の1面トップにはこうあった。
〈関電、歴代首相に年2000万円〉。袖見出しには〈計7人 72年から18年献金〉〈内藤元副社長が証言〉とある。
関西電力で政界工作を長年担った元副社長の内藤千百里が朝日新聞の取材に応じ、少なくとも1972年から18年間、在任中の歴代首相7人に「盆暮れに1000万円ずつ献金してきた」と証言したというのだ。暴露された電力業界の政界献金問題は、記者時代の1984年に私が追跡したものだった。今回の朝日の記事は同社の女性の2世記者が書いたスクープ
2022年8月号 第7回 執着の先のバトン 孤独な調査報道を結実させた記者たち
~ 「あきらめなければ、壁は破れる」。孤独な調査報道を結実させた記者たち
2019年9月26日夜のことである。 共同通信の長谷川は、のちに関電高浜原発に関する「関西電力役員の金品受領問題」と呼ばれる事件を追跡、
2022年9月号 第8回 母は無罪だった 警察発表は疑いながら聞くものだ——オンライン記者が嚙み締めた教訓
敏腕で厳格な警察記者で通っていた元上司の言葉、「特ダネを取るには、好かれるだけではだめなんだ。たった1人であっても、その人に心から信頼され、何でも教えてもらえる、そんな記者が人生一度の記事を書ける」
元日本経済新聞記者の菊地悠祐2014年慶応卒で入社、日経からKADOKAWAの文芸編集者を経て、昨年、文春オンライン記者に転職
「ある事件記事の間違い」と題する朝日の名物編集委員疋田のレポートを繰り返し読んでいた。
事件の端緒は、1975年5月8日夜、三井銀行本店企画室次長(42)が知的障害のある幼女を餓死させたとして、殺人容疑で逮捕されたことである。銀行員は東大法学部を卒業した出世頭で、府中支店長として栄転することが決まっていた
2022年10月号 第9回 畳の上で死ねなかった人々
~ 「悲劇の死を書き続ける」。記者たちはそれぞれに誓った
刑事の飼い犬がいなくなった。子供のいない刑事夫婦が、我が子のように可愛がっている老犬だった。私の担当する警視庁捜査二課の主任である。
捜査二課は汚職や詐欺、横領、選挙違反などの知能犯罪を追及する部署だが、そのなかでも彼は、「ナンバー」と呼ばれる汚職摘発専門、名うての捜査員
捜査二課担当を命じられて間もない私がここはひとつ、先に見つけ出して恩を着せてやれ、と計算して会社を休み、その犬探しも2日目に入っていた
2022年11月号第10回 赤旗事件記者 ~ マスクを取ると、利権を追う。事件記者の顔が現れた
2010年3月24日朝、その塀の中から「平成の政商」と呼ばれた男が仮釈放されて出てきた。
三重県桑名市に本社を置く中堅ゼネコン「水谷建設」の元会長・水谷功である。65歳になっている。約11億4000万円を脱税したとして法人税法違反の罪に問われ、懲役2年の刑が確定して、服役していた。小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」 の収支報告書虚偽記入事件に絡む。待ち構えていた記者たちは、政界への裏金疑惑を取材
刑務所の塀の向こうに落ちようとする者にも彼らなりの訴えや、事件調書に記載されなかった事実があり、それを聞き取って書くのが大きな仕事だ。赤旗日曜版編集長の山本豊彦も受刑者や元被告と呼ばれる人々のところに通い、執拗にスクープを追い求める
次期輸送機エンジン納入を巡る事件では、渦中の宮崎が東京・赤坂のすっぽん屋に守屋と防衛庁長官の久間章生を招いた事実を赤旗日曜版の一面トップですっぱ抜いた。接待を受けていたのはやはり、事務次官だけではなかったのだ。
2022年12月号 第11回 「たたずまい」の現在地
~ マル暴刑事の家族と食卓を囲む私と、本当の家族との暮らしをつかみ取った彼
1987年、稲川会トップの誕生会パーティを写したもので、タキシード姿の稲川会会長・石井進や後に三代目会長となる稲川土肥に囲まれた尾崎将司の姿があり、尾崎はすぐに認めた
警部らにとっての重要事は、暴力団の抗争や事件、それに大きな犯罪につながる拳銃の不法所持や検挙件数
ずいぶん後になって、読売社会部の後輩(93年入社)であるジェイク・エーデルスタインが東京の暴力団社会を舞台にした『トウキョウ・バイス――アメリカ人記者の警察回り体験記』を書き、今春、米国や日本のWOWOWでテレビドラマ化されて評判になった
渡邉が君臨する社内の雰囲気を、読売の論説委員を務めた前澤猛は、『表現の自由が呼吸していた時代――1970年代 読売新聞の論説』(コスモヒルズ)でこう表現している。
〈いまの同社の社説とその形成過程は、日本の新聞界では異色である。「社論は主筆に属する」という社則が文字通りに解釈され、たまたま主筆の任にある一個人が社論を決定し、それに反する者は論説委員会から排除されることはもちろん、「社を去れ」とすら公言される。それでは、20人を超す論説委員は一主筆の単なる代筆者に過ぎなくなる〉
記者の美しい「たたずまい」とは、取材先で家族のように食卓を囲むことであった。それが私達の時代だ。いまは相本家のようなところで息をしている。本当の家族と暮らす、「たたずまい」の現在地のことである。
2023年1月号 第12回 くちなしの人々 ~ 物分かりのいい記者になるな——「国税庁」二重の守秘義務の欺瞞
国税調査官たちは、国家公務員法第100条(秘密を守る義務)で漏洩が禁じられ、国税通則法第127条によって更なる守秘義務で縛られ、罰則が設けられていたが、あれは魔除け、記者除けの言葉みたいなものです。公益のためであれば事案の公表だってできる
私の前任者は、桝井成夫という司法クラブ出身の4年先輩である。日米貿易摩擦の最大の焦点だった「日米税金戦争」の決着を報じた辣腕の国税記者だった。彼が87年11月27日の朝刊で書いたスクープは、〈日米貿易摩擦の焦点の日本車の対米輸出問題にからみ、国税庁はトヨタ自動車、日産自動車両社から国内ですでに納付された税金のうち計800億円を両社に戻す(還付)異例の決定(減額更正)をした〉
私にはもう一つの仕事があった。当局と記者クラブとの談合制度をなくすこと
2023年2月号 第13回 密やかな正義
~ 水底の石垣のように生きる――外務省機密費流用事件の扉を開いた男
国際航業疑惑にからんで、中曽根や元自民党幹事長の三塚博ら大物政治家の名前を書きたてていた。その一方で、東京地検特捜部は、国際航業の乗っ取り劇に便乗した元役員ら4人を90年6月、所得税法違反容疑で逮捕し、さらに国際航業株売買で大儲けした自民党代議士で元環境庁長官・稲村利幸に迫っていた
2023年3月号 第14回 メディア渡世人 ~ 「少年A」両親の心を開いた女性記者の夢と欲
警視庁詰めの新聞記者で、知能犯と暴力団担当記者の仕切り(チーフ)なのだという。いまや女性が警視庁キャップを務めることも珍しくない
「週刊朝日」編集長を務めた森下香枝(かえ)の癖の強い、山猫のような顔を思い浮かべていた。森下は、私とその若い女性記者のほぼ真ん中の世代だ。1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」を取材した週刊文春記者として知られている。
2023年4月号 第15回 パブリック・エネミーズ
~ どこを向いて何を書くか──二人の農業記者は自由な狩場を求めた
「日本農業新聞」は、日本唯一の日刊農業専門紙で、JA(農協)グループの機関紙として30万部近い部数を誇る。中堅記者が10年ほど前、相次いで会社を辞めた。それが1980年生まれの千本木啓文(ひろぶみ)であり、2つ年上の窪田新之助だった。いずれも2004年春に日本農業新聞に入社した同期。農業をめぐる疑惑や腐敗を追及し続けている。描かれたタブーと腐敗の深刻さに、私はぶん殴られたような思いがした
産地偽装疑惑の「公共の敵」とは果たして誰なのだろうか
「弱いものいじめジャーナリズム」と呼んだが、いつの時代にも、記者は強いものに対して批判の自由を保留しているだけでなく、社内の権力に対しても批判の自由と抵抗を放棄する傾向にある。 私のいた読売新聞の場合は、「中興の祖」と呼ばれた正力松太郎がトップの時代にその傾向がひどかったと言われた。社会部記者だった本田靖春は社内の「物言わぬのを良しとする精神的土壌」に嫌気がさして、退社の道を選んでいる。 読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄自身も2002年7月、社内権力の内幕を明かしている。全国の販売店主を集めた販売合同総会で、彼は正力社長時代を次のように激しく批判したことがある。「戦後の正力さんは、政界への野心をあらわにし、衆院選に出馬し、2度にわたって国務大臣に就任するに当たり、読売新聞をかなり利用されたことは、当時駆け出し記者であった私や水上(健也)会長はよく知っています。たくさんの社員が、正力さんの選挙の運動員として使われ、違反で逮捕された人々もいました」
2023年5月号 第16回 朝駆けをやめたあとで
~ ぞっとするような夏だった──。“証券業界の闇”をひとり暴き続ける
2021年の9月に、東京新聞の社会部長だった杉谷剛(ごう)が、部下なしの編集委員を命じられた。今では珍しい突撃型の特ダネ記者で、識者然としたメガネと円満そうな風貌に反して、上司、先輩、取材先とあたり構わず喧嘩してきたので、「ファイター」の異名、もともと産経新聞の司法記者。今年3月彼がしばしば取り上げてきた「医師会とカネ」を巡るスクープを出す
最近では、社会部長時代に調査報道キャンペーン「税を追う」で、仲間たちと日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞を受賞
私の記事は、翌91年6月20日、〈野村証券 法人損失160億円穴埋め 債券 高値買い戻し 証取法違反の疑い〉という見出しで、読売朝刊一面のトップに掲載された。株式や債券の急落などで大損をした大口の法人投資家などに対し、野村が急落した債券類を高値で買い戻すなどの手法で、約160億円に上る損失補填をしていた、という内容
2023年6月号 第17回 わたしは告発する
~ 孤独な声を手繰り寄せられるか─「一億総発信」時代の戦い方
共同通信編集委員の田村文(あや)は今年3月末、11年に及ぶ連載を終えて、本にまとめた。河出書房新社から刊行されたそれは、『いつか君に出会ってほしい本』というタイトルで、「何度でも読み返したい158冊」という副題の中学生向けの名作紹介本。文芸記者の矜持と喜びのようなものが、ぐっと胸に迫ってくる
東京新聞経済部の女性記者が書いたものだった。記者歴22年、44歳の押川恵理子(おしかわえりこ)という署名が付いていた。農業協同組合(JA)の共済(保険)事業に関わる自爆営業問題を追いかけた記事である。
東京新聞が導入した情報収集の手法は、2014年に週刊文春が確立して広めた。それまでの文春は、編集部に「タレコミ電話」がかかってくる程度で、告発情報を集約できていなかったという。ところが、編集長だった新谷学が、当時話題になっていた内部告発サイト「ウィキリークス」をもじって「文春リークス」と名付け、インターネット上に専用のフォームを作って投稿を募集し始めると、情報が飛躍的に集まるようになった。
当初、編集者や記者は「文春リークス始めました!」という名刺大のカードを持たされ、外で配るように求められた。認知度を上げようとしたのだ。今では1日平均で100件以上の投稿があり、文春オンライン編集部のデスクもリークスの投稿を見られるようになったため、週刊文春編集部と、どちらが先に情報源に連絡を取るか、早い者勝ちの状態になっているという。
文春リークスがスタートして驚いたことは多いが、中でも印象的なのは、法相・河井克行夫妻の参院選買収事件(2019年)と、菅義偉前首相の長男が高級官僚を違法接待した事件(2021年)だ。
2023年7月号 第18回 弱い人を台なしにしやがるのは人間どもだ
~ 小さな声をすくい上げた執拗な取材の記録
都内を巡る「はとバス」(本社・東京都大田区)の観光バスが追突し、乗り上げた。そのとき、りつ子の次男昭夫(52)が停めたハイヤーの後ろに立っており、バスに押しつぶされて死亡した。検察は不起訴処分。1人息子を殺され、ホームに入らざるを得なくなった母親の不起訴を不当とする訴えを取材
2003年に、滋賀県の湖東記念病院で植物状態の男性患者(72)が死亡し、翌年、看護助手の西山美香(当時24)が「人工呼吸器のチューブを外した」として、殺人容疑で逮捕された。裁判で西山は「取り調べで虚偽の自白をしてしまった」と無実を訴えたが、最高裁で懲役12年の有罪判決が確定したが、冤罪の可能性があった
2023年8月号 第19回 「捜査の職人」の遺言 ~ 「渡邉さんはOKか」──会社に絶望し、辞めようと思った
昔担当した捜査2課長の林則清が死去。刑事警察の頂点にいたが、権力を嫌い、09年退官後は世捨て人の生活を送り、訃報は新聞記事にならなかった
林はかねがねこう言っていた、「官僚組織の劣化は安倍政権下で急速に進んだ。日本は比較的優秀な官僚組織に支えられ、愚かな政治家を仰いでも何とかやってきたが、それは、政治家が官僚の人事には介入しないという暗黙の了解があったからだ。ところが、安倍政権下で官邸が内閣人事局を通じて、高級官僚の人事を握ってしまったために、官邸に忖度するヒラメ官僚が増殖することになった。それは政治と一線を画すべき警察庁も例外ではない」
そして林は、それを象徴する人事として、菅義偉官房長官の秘書官として重用された中村格(いたる)の警察庁長官人事を挙げていた。週刊新潮誌上で再三、〈「伊藤詩織さん準強姦逮捕状」握り潰し男〉と書かれ、叩かれた警察官僚
1992年の渡辺秀央郵政相の「受験生入学あっせん疑惑」だった。郵政相の元秘書が「大学や高校の入学にからんで便宜を図るよう口利きする謝礼として、十数年で1億円近くの現金を受け取った」と事務所の帳簿をもとに証言。出稿したが上から止められ他社に抜かれる。国会質問でも関連部分が削除され、何もできない自分が歯痒く、会社を辞めようかと考えた
2023年9月号 第20回 時代の“斥候”
~ 日債銀の債権飛ばしと河井夫妻事件。組織的取材で厚い壁を破る
1992年、国税庁から入手したリストは表題に〈「日債銀」事案リスト(法人リスト)〉とあり、計64社の企業名。その一部は不良債権の受け皿会社。92年12月1日の読売新聞朝刊一面トップに、〈日債銀“不良債権飛ばし”200億円 受け皿会社、転々と 大蔵の開示方針に逆行〉という見出しで、債権隠しの一端を示す記事を掲載。やがて金融界を破綻のどん底に追い込む不良債権隠しを追及する第1弾だったが、続報は上からストップがかかる
6年後に破綻。住宅金融債権管理機構の初代社長に担ぎ上げられ、不良債権回収の陣頭指揮に立った人物がいる。元日本弁護士連合会会長の中坊公平は私に、「ジャーナリストならば、見て見ぬふりはしてはいけない。ジャーナリズムの最も重要な役割は、高いところに登って、社会の全員に危機を教える『斥候』のような役割ではないですか」といった
デスクの私の仕事は、常設の調査報道班を指揮して、泥沼の退却戦と敗戦処理の人間模様を描き、最後に本にまとめて記録することであった」
組織取材を考えさせる例がある。河井夫妻事件を掘り起こした週刊文春の突撃取材である
2023年10月号 第21回 ローリングストーン
~ 執筆の機会が減り、会議ばかりの日々。シンガポールで私は息を吹き返した
〈卑屈に頭を下げることなく、会社勤めを終わることができた〉
定年を迎えて、読売新聞の社内報にそう書いた先輩がいた。出世には無縁な人だった。私も社会部記者としてそのように生きたいと思っていたので、社会部のデスクに就いた後も、上司や先輩と喧嘩を繰り返していた。
政治家の不祥事や不良債権処理を巡って、自分たちのつかんだ情報を記事にするために、そうせざるを得なかったのである。私たちは「ヒラメ上司に情報を上げるな」と教えられ、「ゴマスリ部長には嘘をつけ」と育てられた最後の世代だ。
そのころの社会部には、社内の忖度族とぶつかる記者が、まだ何人か残っていた。読売社長だった渡邉恒雄と親しい政治家の不祥事を報じる場合は、いつも理不尽な騒ぎが起きていた。
社会部ではお盆のころになると、部員の夏休み対策を兼ねて、大きなスペースを割き、7回前後の連載を掲載する。2000年夏、碌な企画が上がってこなかったので、自分でやるとタンカを切った。シンガポールから帰国して間もない建設コンサルタント元営業部長である。高橋輝彦(「炎熱商人」の一人)の話に強く惹かれるものを感じ、アジア最大の日本人ムラのあるその国へ取材に出かける。「海から吹く風 アジア人間交差点」というタイトルで書いた連載は計11回。建設コンサルタントの高橋輝彦の話が異国でしぶとく生きる日本人の連載につながり、そこから元残留日本人軍属に、さらに宮古島の新聞社に、そして取材の“ローリングストーン”は名古屋に転がろうとしていた。中部本社の社会部長を命じられ、死に体の部員のなかに活気が生まれた。少し頑張れば全国に向けた本ぐらいは出せることがわかった
ノーベル賞受賞後野依教授には「serendipity」という言葉も教えてもらった。科学の画期的な飛躍のためには、セレンディピティが必要だという。中部本社に入社して4年目だった岩永直子もいた。後の医療サイト「ヨミドクター」編集長からバズフィードへ
喜怒哀楽という4文字があるのに、新聞のほとんどは「怒」と「哀」のニュースで作られ、暗いニュースばかりだ。いつか「喜」と「楽」のニュースでいっぱいの紙面を作ろう、と決意、「幸せの新聞」と名付けて実現。挫折から再起の物語を伝える
2023年11月号 第22回 座を立て、死角を埋めよ
~ 編集委員になっても特ダネを書きたい。封印されていた“脱出日本人妻”
トヨタの特集を組んで辛口の連載にした時、トヨタの全社員のパソコンには情報漏洩への警告画面が表示され、処罰までちらつかせて社員に勝手にしゃべらせまい、という企業の露骨な防衛策がとられた。「トヨタ本」と呼ばれるものは多かったが、工場労働者や技術系社員の視点から、特異な会社の内情や労働の苦楽について描かれた本はほとんどなかった。唯一の例外が上坂冬子で、1950年のトヨタ争議のとき、人事部労働調査課に勤めていた。労働組合と会社寄りの「再建同志会」に分裂した苦しい大争議のなかで、『職場の群像』を書き、「負け犬に味方する」彼女の葛藤と職場の人間模様を描いた。養成工第一期生で作るOB会「一養会」の名簿から70歳を超える人を取材すると、皆一様に「養成工がトヨタを作ったんだという自負がある」と語る。無名の人たちの下積みが今のトヨタを、日本を作った
北朝鮮に渡った日本人妻たちの「脱出」問題。北朝鮮の食糧難と経済危機が深刻化した94年ごろに極秘帰国していた日本人妻と家族たちの消息を掴む。記者クラブを拠点にした取材には大きな盲点がある
2023年12月号 第23回 「やるがん」の現場へ
~ 「夜にちょっと来てくれ」 。球界再編の渦中に渡邉恒雄から呼び出された
「成功する為には、一心不乱で事になりきり、やり遂げること、結果にとらわれずやること、仕事にも勝負にも大局に立ち、私情を入れぬことだ」と書いた川上哲治の手紙は、中西からもらった「三原ノート」のコピーと共に私の宝物。2004年から畑違いの運動部長。長野五輪で朝日に完敗したため、アテネ五輪のために送り込まれた。清水の金メダルのトップ記事を書いた朝日の西村は、亡くなった時の弔辞で清水に、「人生を変えた」とまで言わせ、記者なりの哲学を「フィルター」にして、アスリートの人生を凝縮しようという工夫に賛辞
運動部には改革への覇気がなく、内容もスポーツ新聞に後れを取っていた。やるがん記事とは業界用語で、「やるぞ、がんばるぞ」という選手やチームの意気込みを伝える記事のことで運動面には多くの「今度はやるぞ、がんばるぞ」という記事が求められるが、単なる前触れや煽り記事にとどめてはならない、という不文律があり、「やるがん」を大きな扱いの記事に仕立てて、面白く読ませる工夫が求められている。そのためには選手たちとの親密な関係構築が不可欠。ヒントの一つは1980年、『スポーツグラフィック ナンバー』の創刊号に掲載された山際淳司の「江夏の21球」
紙面改革は、渡邉が主導して水面下で始まっていた球界再編の動きが浮上して吹っ飛ぶ
「たかが選手」の発言の後、渡邉から球界の再建策を聞きたいと呼び出し。その直後、アテネ五輪の直前に巨人軍代表の辞令
2024年1月号 第24回 情けをかけてはいけません
~ 「僕が巨人に裏切られた日です」 。清原の一言に鼻面を叩かれた
辞令を聞いて、記者という肩書が実は会社から与えられていたものであることを認めた。それは会社の都合で取り上げられる、つまり、自分で勝ち取ったものではないことに気づいた。
明治大学の投手を新人ドラフトの自由獲得枠で獲得しようとして、約200万円の「栄養費」を渡していたのが右翼や週刊誌などに洩れ、その後処理と突然の球団再建が私に託された
就任に際して古参職員から云われたのは、選手の前では、間違っても草野球やゴルフの腕前を話題にしないことと、選手に情けをかけてはいけないこと。解雇通告の役割を担う
サラリーマン野崎の凄いところは、阪神電鉄会長兼タイガースオーナーの久万(くま)俊二郎の意に反して、セ・リーグの各球団を説得に歩き、巨人を除く5球団を2リーグ制維持でまとめようとしたことである。久万は「東のナベツネ、西のクマ」と呼ばれた絶対的権力者の一人で、野崎はその久万から何度も𠮟責されたが、節を曲げなかった
清原を出すと決め、仰木がDHのパなら使えると言ってきたので、本人と交渉しようとしたら、清原は交渉日を指定してきて、その日は「僕が巨人に裏切られた日です」と言い、どうしても出すなら弁護士を立てるとまで言ってきた。結局翌シーズン後にオリックスに移るが、清原から得た教訓は、GMたる球団代表は選手と対立するとき、堂々たる「悪者」でなければいけないということだ。彼らの不満を正面から受け止め、その選手の将来を真剣に見据えて非情に振る舞う。そうでなければ選手は耳を貸さない
2024年2月号 第25回 辞表を出すな
~ 巨人の裏方は見ていた。「あなたがしっかりしてくれれば」
読売新聞グループのドンの非を記者会見で訴えて、新聞社や巨人の同僚らと決別せざるを得なくなったあと、元ジャイアンツ寮長松尾とは迷惑がかかると思って交際を絶っていたが、23年その死を知る。私に独自の脇役育成論を熱く訴えた一刻者
本社出向で素人の球団代表には分からないという玄人意識と、どうせ最後はナベツネが決めるという諦観が巨人を支える編成の現場に同居している。彼等の失敗の記録がないことに驚く。分析の資料もなければ、数年先を見通した球団の編成計画もない。二軍選手の育成の仕組みも懸案
野依教授の言葉、「大学や企業はもっと奇人、変人を収容しないといけない」
2024年3月号 第26回 奇道を往く
~ 「どうしてもいま、上がりたい」。シャイな青年が内に秘めた執念を燃やす
紹介する二人は記者と投手で、道が交わることもなく、いずれも特別な人ではない。共通しているのは、いつも他人と違う道を選んでしまうことである。それは奇道と呼ばれたり、修羅道だったりもするのだが、たぶん一生を振り返るときに、自分が本当に生きた日が他の人よりも多いことに気づくだろう。人生に対するあきらめが悪く、不安の中でも自分を安売りしないからだ。鈴木悟は毎日新聞社の運動部記者、2度も転職して、デコボコ道を歩いてきた野次馬記者。もう1人が19年前会った山口鉄也という、奇道を歩くヒョロヒョロとした左腕投手
実質的な選手枠の拡大にあたる育成選手制度の新設で復活した選手。育成として初の新人王
2024年4月号 第27回 スカウトは獲ってなんぼや
~ 「失敗を恐れるな」と“鬼瓦部長”は言った
巨人の球団史上初となる2年連続のBクラスという不振に渡邉が切れた
渡邉はこうした無批判な記者のチャンシー根性(仲間同士の馴れ合い)を逆手に取り、スポーツ記事という拡声器を使って意思を拡散してきた
この渡邉の腕力や資金力に頼り、合理的な分析や革新を怠ったことが、巨人の迷走や人気低落につながった、と私は思う。渡邉オーナー時代の戦略は、ドラフトで欠けたピースをFA移籍の大物選手で補うというもので、他チームの四番やエース級投手をかき集めていた。 ところが、私が球団代表に就いたとき、実はその戦略は破綻しかけていた。FA権を得たスター選手が巨人を越えて、憧れのメジャー球団へと次々と向かっていたからだ。巨人の至宝であった松井がヤンキースにFA移籍をしたのがその象徴で、そのときに潮目が変わったことを強く認識すべきであった。
過去の巨人のスカウト活動には致命的な欠陥があることだった。ドラフト4巡目指名以下のいわゆる「下位指名選手」が巨人では芽を出さなかった
2024年5月号 第28回 それが見える人
~ なぜ坂本勇人だったのか。苦汁を嘗めたスカウトの目に映ったもの
2006年ドラフト会議。籤運の弱い巨人は外れ1位に坂本を推したが、当日朝になって原監督が他の選手を候補に挙げる。スカウトの意見が通った結果、坂本は後に大成し、本命だった堂上は守備の人で終わる
2024年6月号 第29回 誰も書かないのなら
~ 選手の涙や怒声、叱咤の声を記者時代に戻って一心不乱に書いた
巨人の2008年宮崎キャンプに現れたのは、「トヨタ自動車BR(ビジネス・リフォーム)中長期計画室」主査の肩書を持つ沖田大介という、熱烈なジャイアンツファン。自己研鑽休暇を使って車づくりのヒントを得たいと視察に来た。そのレポートの中で主査が警鐘を鳴らしたのは、プロ野球の発展やファン拡大に必要な中長期的な戦略が、野球界や巨人軍には存在していないこと。球界や巨人はこれからどんな存在を目指し、いつまでに、誰が、どう取り組むのか見えないとも指摘
2024年7月号 第30回 OSが違っていても
~ 若者の立場まで下りる──伝説の「三原ノート」に見た指導者の極意
東京・音羽の講談社は大学生に人気の高い出版社だが、「週刊現代」に代表される出版報道、つまりジャーナリズム系の志望者は、いまや絶滅寸前の状態。最近は、初発の入社動機として雑誌ジャーナリズムはありえないという。1978年生まれの川治は当世風の編集者だが、彼をしても新入社員と自分たちとでは、価値観のOS(頭脳や仕組み)が完全に違うと感じる
侍ジャパンの栗山英樹監督が、恩師の中西太から教えを受けたという報道である。そして、2023年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を前に、栗山が中西から渡された「三原ノート」に心酔し、キャンプ地や宿舎で読みふけっていたことを伝える記事。19歳の若者を緊張させない雰囲気を、56歳も年上の中西が持っていた。その中西が「三原ノート」(6冊の大学ノートとA4判7ページの要約版メモ)を持って来てくれた。三原も読売新聞の運動部記者から巨人の監督に。2023年WBCの2カ月後の中西の葬儀では栗山が弔辞を読み、『三原ノートのお陰』だと言った。私が羨ましく思うのは、今に続く彼らの濃密な師弟関係
2024年8月号 第31回 志操を貫く
~ 「山一證券のしんがり」と「読売新聞の権力者」
山一證券清算業務センター長だった菊野晋次(しんじ)の訃報。年の離れたわれら夫婦の心友
山一證券が経営破綻して27年になる。彼らは突然失職した自分たち元山一社員のことを、悔しさを込めて「モトヤマ」と呼ぶのだが、菊野は十数人のモトヤマの再就職を斡旋し、晩年も彼らを旅行や居酒屋、カラオケ店に誘って世話を焼いた。おまけに、取材で知り合った苦しい時代の私たち夫婦まで薩摩弁で励ましてくれた。
4つ年下の盟友である嘉本は有志を募って、会社が崩壊した真相究明を無給で買って出た。彼らは社員たちからヒアリングし、社内の極秘資料をかき集め、破綻から5か月後に企業社会の歴史に残る「社内調査報告書」をまとめ、記者発表する。嘉本は常務でもあり、詳細な報告書をまとめることで自分も株主代表訴訟の被告として追及されることがわかっていて、サラリーマンの矜持と正義感から仲間を率いていく。
私や巨人球団社長の桃井恒和は、渡邉恒雄から読売本社の主筆室やホテルの料理屋でしばしば、幹部としての心得を説教された。「君、上に立つ者は部下に慕われ、かつ恐れられなければならんよ。二つのうち、どちらかしかできないときは、部下に恐れられることだ」
私が飛び込んだ野球界は涙の多い情理の世界である。そこに住むのは、腕に覚えのある個人事業者としてのスポーツマンだ。彼らを「たかが選手が」と言ってしまうところに、渡邉の大きな誤解があった
ファイターズがその2006年の日本シリーズで中日ドラゴンズを倒して44年ぶり2度目の日本一に輝くと、「勝利を支えたBOS」「優勝の陰に吉村浩GM補佐あり」という記事。BOSを最初に開発したのはデトロイトで修業した吉村がいたころの阪神だったという
2024年9月号 第32回 曲がり角の決断
~ 「ここで禄を食んでいたくない」──なぜ読売新聞と決別したのか
イラク戦争報道で、アメリカに否定的な情報を意図的に小さく扱おうとする“報道統制”に怒って、読売から朝日に転職したのが当時39歳の社会部記者の市田隆。読売は情報統制の厳しい会社だった。個人の見解であっても、SNSなどでそれを表明することは許されない。その新聞社の上司の指示を、ヤケ酒や愚痴で終わらせない彼の逞しさに、私は心底驚いた。さらに還暦を過ぎた今も朝日新聞の一面で特ダネを書き続けていることを最も評価する
私も渡邉の独裁に抗い、やがて市田と同じように読売グループと決別する端緒は2009年ころ。育成制度が効果を発揮し始め、日本一を奪還。さらなる前進のためにYankeesの研修を受けBaseball
Operating System導入を目指す
2024年10月号 第33回 告発前夜
~ カネで優勝を買うのか。阪神の岡田彰布が突きつけた一言
2010年、BOS完成。関西や広島の球場に遠征するたびに、「強奪球団!」とヤジを飛ばされることもなくなるのだ。問題は、すべてがぶっつけ本番であったことだ。ネックは巨人の二軍投手コーチ、小谷正勝
巨人と原辰徳監督の補強思想を手厳しく批判したのが岡田彰布。彼の言葉は私を強く刺した。2008年シーズンに阪神に最大13ゲームも引き離されながら、巨人が逆転優勝した4か月後のこと。岡田は敗戦の責任を取って突然辞任し、評論家として翌春、巨人のキャンプにきた
「カネで優勝が買える時代になっているのかもしれない。だがそんなやり方が、プロ野球の魅力を半減させているのではないか」と岡田は言う
2010年の補強では早速BOSを使って、沢村を1位指名としたが、直前になって原監督が人気1番の斎藤佑樹が巨人志望なのでとろうと言い出し、さらに早稲田の抑えの大石がいいと言い出す。渡邉が主導した補強優先の巨人を、育成と補強のバランスを取ったチームに変える責務があった。2008年には若手の育成のために育成ディレクター職を置き、翌09年以降も「育成部」や三軍制度を創設して、「育成の巨人」を掲げている
渡邉さんが『ヤンキースの(GM補佐だった)ジーン・アフターマンのところには、選手などの情報を網羅した膨大なファイルがある。巨人軍はどうなっているのか』と言ったが、とうの昔に説明済みなのに聞く耳を持たず、補強至上主義は変わらない
2024年11月号 第34回 独裁者の貌
~ 「俺は最後の独裁者なんだ!」。猛烈な勢いでまくしたててきた
当時の日本メディアの報道は福島原発事故について抑制的、いつの間にか、「原発安全神話」を受け入れ、福島原発事故のそのときも、政府発表やそれに基づく日本メディアの報道をうのみにしていた。おのれの不明を強く恥じた。直後の巨人の激励会である燦燦会で司会者が、復興支援を兼ねているのでサインや写真撮影等は控えるように言ったところ、渡邉が怒って、何でも禁止すればいいというものではないと言い、以後は渡邉の独壇場に。彼が癇癪玉を破裂させたために、読売グループの絶対的支配の様相と、それに付き従わざるを得ない私たちの屈辱的な姿があらわになった。しかもその動機が販売部数1000万部死守にあったと知った時には愕然
その年3位が確定した後、渡邉に翌年のコーチ人事を相談に行き了解を取り付けたが、クライマックスシリーズで負けると、渡邉がコーチ人事は俺がやると言い出し、反論しようとしたら「俺は最後の独裁者だ」と息巻く
2024年12月号 第35回 悪名は無名に勝るのか
~ 「文句を言うのなら、飛ばすぞ」。主筆室での面談は1時間半に及んだ
2011年のオフ、高橋由伸の契約更改だけが残ったが、減額制限以上の更改を自ら申し出てくれて決着。コーチ陣は岡崎郁をヘッドで留任のほか、データ重視の野村野球を取り入れ、巨人野球とコーチ室の雰囲気を変えようと野村克也の門下生3人をコーチに据える人事も含まれ、それが一軍戦略コーチに就く橋上秀樹。12年のシーズンではスランプから劇的な立ち直りの原動力となり、V3と日本一を巨人軍に残しさったが、2025年に復帰するという
渡邉の「独裁者」発言に、社長の桃井は、体調不良もあって辞意。渡邉は江川をヘッドコーチにと言い出す。江川は悪名だが、無名に勝るという。私には定年延長で説得に来た
2025年1月号 第36回 「おかしいじゃないですか」
~ 身を投げ出さなければ何も変わらない―その日、私はカメラの前に立っていた
社会部のスター記者だった本田靖春が正力松太郎社主時代の読売を飛び出したのは1971年、37歳の時
2011年、61歳の私は「最後の独裁者」を自称する渡邉に反旗を翻す
かつては読売本社でも渡邉の意向に沿わない部門があった。論説委員だった前澤猛によると、それは論説委員会。前澤は本田の2年上の元社会部員で、司法担当から論説委員や新聞監査委員会幹事を務めた知的な硬骨漢。江川事件では、全社で江川獲得キャンペーンを展開するなか、論説委員会は「フェアプレー精神を尊重すべし」として江川獲得を支持するような社説は載せないことにしたが、半年後に論説委員長ポストに就いた渡邉は次々に委員を放逐、それまでの会議重視から独裁に転換し、”渡邉社論”へと急転回
巨人軍でも、2011年氏家亡き後は渡邉にものの言える人がいなくなる
2011年のシーズン中から、来期は桃井がオーナー、私が球団代表兼GMの新体制が決まる。球団代表は計画的な補強方針を持ち、育成に責任を持つが、力のある監督は「全権監督」を目指し編成本部を動かして采配を振るおうとするので、両者に軋轢が生じるのは普通のこと
シーズン終了後、渡邉が原監督の意向で江川をヘッドコーチにすると言い出し、オーナーや球団代表を飛び越え、原と江川の直接交渉を指示。直前に私は、来季も育成を一緒に始めた岡崎郁で行くことで原の了解を取っていた
正力を巡る本田のエピソード。1955年当時、社内で筆名の高かったのは朝刊コラム「編集手帳」執筆の高木健夫で正力とは昵懇。正力の動静やニュースを連日のように扱うコラム「正力コーナー」は、社主の紙面私物化を象徴する存在で、重荷になっていたことを本田が高木にぶつけたところ、「社会部長が立て続けに3人も辞めればいい」といわれたという
私は、独自の判断で文科省で記者会見をして、渡邉の横槍を訴えることにした。直前に渡邉から電話が入り、「将来がチャラになるぞ」と脅される。住友グループには「逆名利君
謂之忠」(ぎゃくめいりくん、これをちゅうぎという、主君の命でも、主家のためにならなければ敢えて逆らうことあるべし)という言葉があり、初代総理事・広瀬宰平の座右の銘。自分もその積りだった
会見から4日後、岡崎に続投の要請があり、2日後に解任
読売の人脈が突然断たれた中で、心打たれる出会いがあったのは、元共同通信検察担当記者の魚住昭で、「清武の乱」を「単なるコーチ人事を巡るコップの中の嵐」と冷ややかに見做した世論に対し、「本当に問われるべきは、渡邉氏の独裁下で言論の自由が逼塞した巨大情報コンツェルンのあり方」だと喝破。もう1人は読売新聞初の外国人記者だったジェイク・アデルスタイン。元部下で、今は米国の老舗雑誌記者。渡邉と桃井を痛烈に批判する記事を書いて私を驚かせた
読売側の紙面や社員を動員した攻撃は苛烈。球団の秘密情報漏洩が取締役の忠実義務違反だとして巨人と読売グループ本社から1億円の損害賠償を求められ、160万円で敗訴
これからの私に何ができるのか、また考えた。手の中に残るものは、書くことだけだった
2025年2月号 第37回 「再起への泥濘(ぬかるみ)」
~ けられたり、踏みつけにされたりしても、これが俺なのだ、というテーマを見つけたい
友人の江上剛の助言で、1日8時間は書けても書けなくても机に座って原稿のこと考える
読売で記者課業を30年、2度目は巨人軍で球団代表を7年、解任後は物書き課業
上手くいくかどうかは、才能よりはむしろ自分の熱と辛抱にかかっていることは知っている
巨人時代創設に苦労した野球界の育成選手制度は、埋もれた選手の隠れた能力を掘り出す仕組み。今度は自分の能力を辛抱して掘り出す番
解任に伴い、読売の社友資格を取り消され、読売グループから訴訟
2012年の解任の翌年から、旧山一の元社員(モトヤマ)たちを訪ねる。破綻の2年後に『会社がなぜ消滅したか――山一證券役員たちの背信』を上梓して以来13年ぶりの再取材
次いで「辞めソニー」を探して訪問
自分のノンフィクションの流儀とスタイル:
①
取材源は秘匿するが、原則として無名の人々を実名で書き残す。それは匿名社会への抵抗であり、事実を追求するための担保であり、虚構に出したり安易な表現に流れがちだったりする自分への戒め
②
登場人物の会話の復元を徹底する。日常は人と人との会話によって成り立っているから
③
登場する無名人の個性を詳細に取材し、キャラクターを書き分ける
④
関係者やプロが驚くような事実を新たに掴み、物語に溶け込ませる。特ダネこそノンフィクションの神髄
山一の物語は『しんがり―山一證券 最後の12人』として2013年上梓。無名人の矜持や義侠心を描いて、会話や事実の近似値に迫った自信作。22万部を売り、講談社ノンフィクション賞受賞。選評では立花隆をして、「ノンフィクションの真の醍醐味は真相解明に尽きる。構造解析を伴う真相解明で、「そうだったのか」と思わせる力だ」と言わしめた
2025年3月号 最終回(第38回) 「なんとかなる」
渡邉恒雄が亡くなったその日12月19日付の読売新聞社報は、白抜きの太い見出しで「渡辺主筆
死去」と伝え、冒頭に「長年、第一線で新聞界を牽引しつつ、自らを「終生一記者」と任じた「戦後最大のジャーナリスト」が人生の幕を閉じた」と記してある。「終生一記者」は本人の言葉だからいいとして、「戦後最大のジャーナリスト」には苦笑せざるを得ない
評価は様々にあっていいが、「オレは最後の独裁者だ」と怒鳴る素顔を知っていたし、死の直後読売本社社長だった中村のブログ(後記)や御厨貴の厳しい評価(後記)も読んでいたので、「戦後最大のジャーナリスト」には違和感を持った
中村は渡邉の傍らで読売を支え続けた1人だが、ナベツネは「一記者」を相当はみ出した異形の記者で、戦後の混乱期とそれに続く戦後社会が生んだ人物であり、現代の政治記者はそれとは別の生き方をしなければならないと指摘し、パソコン・スマホを毛嫌いしたナベツネが紙媒体の深刻な危機に気づくのが遅れたのではないかと疑問を呈していた
中村の記述には、渡邉礼賛の評伝が溢れかえっている時だからこそ、目撃者としてきちんと残しておきたい、という記者魂を感じる
中村が立て直して中央公論新社が2001年マキャベリの『君主論』を新書版で復刊、それを見た渡邉が、「君主たるもの、愛されるより恐れられる方がはるかに安全だ」と皆の前で読み上げた。渡邉は恐怖を内外に誇示する権力者であった
消費税導入が浮上した際、社内で主税局長を招いた勉強会で、歳出の合理化が先ではないかと問い質したら、渡邉が「細民を僭称するのか」と激怒したり、『中央公論』に護憲派の擁護論を載せたら、「中央公論など潰してもいい」と言い放ったり、権力を志向し個人の自論一色に染め上げる渡邉の新聞経営、球団経営には、私は強く異議を唱えて来た
紙の信奉者だった渡邉は現代のメディアに何を残したのか
2012年頃、既にカネをぶち込んでも販売部数は上がらなくなっていた。「押し紙」(販売店に買取を強制したもの)や「積み紙」(販売店が折込広告の受注を増やすために自ら買い取る配達予定のない新聞)が相当部数に上っていた
販売部数のピークは渡邉が社長・主筆時代の1994年の1000万部越え
御厨も、この四半世紀の渡邉の取材を「お座敷取材」と批判(後記)
メディアの大きな役割は公権力を監視することにある、そのために記者は様々な取材の恩恵を受けて来たが、渡邉の記者活動はその権力監視から外れることが多かった
渡邉のメディア王としての権力構造の秘密は何か。オーナーでも大株主でもない彼がなぜ独裁を維持できるのか。周囲は、「言ってもどうせ変わらない」という諦観
vol.91
2025/02/15 電子版ORIGINAL
「自分のことを書くのは本当に恥ずかしい!」
度々そう口にしていたのはノンフィクション作家の清武英利さん。3年以上にわたり連載していた「記者は天国に行けない」が遂に最終回を迎えました。
清武氏 ©文藝春秋
読売新聞に入社し青森支局に配属された新人時代まで遡り、四大証券会社の損失補填を暴いた国税庁担当時代、育成選手制度の創設に情熱を注いだ巨人軍代表時代、そして「読売のドン」こと渡邉恒雄との熾烈な戦いを繰り広げた結果、読売新聞を追われ、裸一貫でノンフィクション作家として独立するまでの約50年にわたる清武さんの波乱万丈の記者人生を一気通貫に振り返っています。
渡邉恒雄主筆の訃報を伝える読売新聞社報
一方で、電力業界の闇を暴いた朝日新聞記者、農協職員の自爆営業を告発する農業ジャーナリスト、相撲担当から総理番を務めることになった毎日新聞記者……などなど、異色の経歴を持つ記者たちの生き様や矜持を紹介している点も本連載の特徴でした。
清武さんは打ち合わせのたびに「古臭い話にならないように」「説教臭くならないように」「雑誌ならではの読み切りの面白さを」と呟き、その点に心を砕いているようでした。連載の回を重ねるごとに読者投票のランキングは上がり続け、「記者は天国に行けない」というタイトルも、いつの間にか「記者天」という愛称で親しまれるようになるなど、確実に読者を広げていったと思います。
清武さんが苦労して執筆されている一方で、私は担当編集者でありながら、正直、ほとんど大した働きはしていませんでした。毎回、原稿が届くたびに、ひたすら夢中で読んでいたというのが実情です。
「抜群に面白い! 臨場感のある筆致がすごい!」。それが毎回の率直な感想でした。私は一読者として“清武節”とでも呼べる、独特の文体に酔いしれていたのだと思います。
例えば、次のような一節です。
〈「選手のみなさんはファンの希望であり、私たちの財産です。頑張ってください。皆さんが試合に専念できるように私たちも頑張ります」。そのときの挨拶は場違いの、砂糖菓子のように甘っちょろいもので、私たちの後ろにある調理室のカウンターから、選手が食べるカレーやうどん出汁の匂いがして、それが白けた雰囲気を包んでいた。チーム成績が今一つだったこともあるだろうが、選手たちの目は重く光り、誰もが押し黙っていた〉
これは連載第24回で、球団代表に就任したばかりの清武さんが、巨人軍の選手たちを前に挨拶する場面。何だか五感までもが刺激されるようなこってりした場面描写で、それと同時に微妙な感情の揺れ動きも巧みに表現されています。
清武さんはこの文章術をどのように獲得したのか。実は連載第4回で、青森支局時代に上司から原稿をズタズタに直されたというエピソードとともに、その上司の教えとして文章術の極意“4か条”を開陳しています。
その上司は、「インタビューに行った場合は相手の鼻毛の伸び具合まで観察してメモして来い」と命じたとか。つまり、「細部にこだわれ」ということです。これが一つ目だとすると、二つ目は「かみさんに読んで聞かせるように原稿を書け」、三つ目は「書き出しで読者の心をつかめ」、そして、四つ目が「自分だけが書ける特ダネを取り、わかりやすい文章を書くことができれば、その書き手はきっと必要とされる」とのこと。
――しかし、そうは言っても、なかなか難しいよなぁ、というのが、この第4回の原稿を読んだ時の私の感想だったことを、今、改めて思い出します。
「記者は天国に行けない」は、書籍化される予定ですので、是非、楽しみにしていてください。
(編集部・祖父江)
中村仁 ブログ
自己紹介
中村仁。全国紙で長く経済記者として、財務省、経産省、日銀などを担当、ワシントン特派員も経験。2013年の退職を契機にブログ活動を開始、経済、政治、社会問題に対する考え方を、メディア論を交えて発言する。
1999年中央公論新社社長(経営再建)
恐れられる君主になれと
2024年12月20日
読売新聞主筆の渡辺恒雄氏が98歳で死去しました。すでに人物の大きさ、政界に対する影響力の大きさ、ジャーナリストとしての評価の仕方など、評伝が溢れかえっています。読売新聞社でナベツネさんに直接、接する時期がありました。ナベツネさんは活動領域が広く、その全容を追うことは私はできません。印象に残ったごくわずかエピソードをお伝えすることも、なんらかのお役に立てると思い、書くことにしました。
読書家だった同氏は書店にいくと、関心のあるコーナーに行き、しばらく本のタイトルを眺めています。選んだ1、2冊を買うのではなく、店員さんを呼んで「両腕を広げ、ここからここまで買いたい」と告げ、用意された台車の手押し車に何十冊も乗せ、地下の駐車場まで運び、トランクに積むのです。
店員さんも手慣れた様子です。「ナベツネさんは、何冊とかではなく、本棚の横の長さで本を買う。その長さは例えば1㍍に及ぶ」と言われていたそうです。本好きの同氏は、1999年、経営が行き詰まった中央公論を支援することになり、営業譲渡を受け、中央公論新社として、再出発しました。事実上の倒産で、再建のために読売本社から私を含め何人かが派遣されました。
本社における編集会議に毎月、私も出席し、出版状況、経営状態を報告していました。再建が軌道に乗り始め、かつて連続出版していた古典の名著シリーズを「中公クラシックス」として復刊しました。ある月、マキャベリの「君主論」を出版し、編集会議で紹介すると、同氏はページをめくり、「君主たる者は、恐れられるのと愛されるのがよいか」の章を選び、「二つあわせもつもは、いたって難しい。どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である」と、読み上げました。
同氏は社内でも、社外でも「恐れられる」ことを心掛けていたと思います。編集では、自ら指揮を執る社説を大事にしていました。ある日、外交専門家(岡崎久彦、外務省OB)が主筆の部屋を訪れ、社説にクレームをつけにきました。烈火の如く怒り、「社説に文句をつけることは断じて許さない」と、罵倒しました。「恐れられる」を実践したのでしょう。この話を会議で後に聞かされました。
また、ある日の編集会議で、「夏休みに入るので、どの本を持参するか考えている」といい、結局、なんとヒトラーの「我が闘争」にしたというのです。見せてくれた「我が闘争」はボロボロになりかけ、セロテープを張りつけ、かろうじて本の体裁を保っていました。
わたしはまだ中央公論新社にいましたので、直ぐピンときて、帰りに丸の内の書店により、「我が闘争」を探しました。見つけたのは文庫のコーナーで、角川書店が上下2冊で出版していました。それを買い求め翌月の会議の際、同氏に差し上げました。「これは助かる」と喜んでくれました。
「我が闘争」は、20世紀最大の独裁者ヒトラーによるナチスの聖書と言われます。自らの政治手法、政権掌握の手法、群衆心理についての考察、プロパガンダのノウハウなど、独裁者が語るべき政治哲学を書いています。側近ゲッペルス宣伝相の「嘘も100回つけば真実になる」などの著作も読んでいたに違いない。
ヒトラーはホロコースト(ユダヤ人大虐殺)、反ユダヤ主義の信奉者ですから、ナベツネさんがそこにひかれることはあり得ない。「独裁者ならどのような政治手法で権力を強化、維持していくか」は参考になると考えたに違いない。目標1000万部を達成するには、大衆に対する宣伝活動に類する手法が必要だと思っていたのでしょう。政界に影響力を持ち、キングメーカー的な活動をするにも、ヒトラーの権力手法は参考になると考えたとしても、おかしくはないのです。
ジャーナリストを目指すなら、権力とどのように対峙するかが主題で、社内で権力を握ろうと思って、入社してくる人はまずいないでしょう。それに対し、多くのインテリが共産党にひかれたように、ナベツネさんもある時期に党員となり、共産党風の権力闘争、権力の掌握手法を学んだに違いない。しかも、政治記者の道を歩んだから、政治権力への接近、影響力の行使の手法を研究したのでしょう。
それも戦後の混乱期で、政界に人材が乏しく、政治家も記者との接点を求めた時代でした。そうした時代はナベツネさんのような政治記者が多かったに違いない。有力政治家の主筆室への訪問も喜んでいました。それを錯覚して、政治家と記者の一体化というナベツネ型をマネをする記者が絶えません。
盟友でもあった中曽根元首相は、将来、使って欲しいという思いで、「終生一記者を貫く 渡辺恒雄の碑 中曽根康弘」の墓碑を贈っています。「終生一記者」というには、ナベツネさんの正確な表現ではない。「一記者」を相当はみ出した異形の記者でした。それも戦後の混乱期、それに続く戦後社会が生んだ人物でした。現代の政治記者はそれとは、別の生き方をしなければならないと思います。
社内では異論を封じる
2024年12月21日
98歳で死去した読売新聞主筆の渡辺恒雄さんは、マキュアベリの君主論を愛読していたということを第一回目で書きました。君主論の「君主は愛されるより恐れられるほうがよい」の箇所を、社内にいる記者たちは何度も聞かされました。私も主筆に怒鳴りつけられた経験が何度かあります。
中曽根氏が固執した大型間接税(売上税)の導入構想(82年)が持ち上がって、大蔵省(現財務省)の主税局長を講師に招いて勉強会が開かれました。ナベツネさんはもちろん、政治、経済部などから記者が参加しました。ナベツネさんは「独裁者」でありながら、憲法問題にせよ、税制の問題にせよ、多くの場合、この種の勉強会を招集し、専門家の意見を聞いて結論を出すというプロセスを踏みました。
「独裁者」であっても、「独断」で方針を決めるとういうことはなく、勉強会(研究会)で専門家の意見を聞いたうえで、方針を決めていました。私は経済部記者で、大蔵省も担当していましたから、この間接税の勉強会に参加しました。主税局長の説明が終わり、質疑に移りました。間接税は税収が景気動向によってあまり左右されない安定財源である、欧州では導入されていないのに日本は小型の物品税しかない、大型の間接税を入れる時期にきたというような主旨だったと思います。
私は局長に「公費天国という批判もある中で、新税を導入するというのはどうか。歳出を合理化、無駄使いをなくした上で、税の増収を図るというのが筋ではないか」と質問しました。するとナベツネさんの怒号のような声が聞こえてきました。大型間接税は、主筆の盟友である中曽根氏と熟議していたようです。それに異をとなることは、許さないということだったのでしょう。
当時、公費天国とか、官官接待とかの問題、不祥事があり、特に朝日新聞は追及のキャンペーンを張っていたように思います。大型間接税、売上税導入のハードルが高ったのです。
主筆の怒号のような言葉は覚えています。確か「貴様は、さいみんをせんしょう、するのか」だったと思います。聞きなれない用語です。共産党の用語のようでもありました。主筆は学生時代に共産党員だったこともあり、そういう言葉を使ったのでしょう。私は一瞬、何を言われた分かりませんでした。意味が分からなくても、怒りを買ったことは間違いないと思いました。
会合の終了後、辞書を引きながら、「さいみん」「せんしょう」の意味をさぐりました。「さいみん」は「細民」(下層階級の人々、貧しい人々)、「せんしょう」は「僭称」(勝手に身分を名乗る)か「賤称」かでしょうか。要するに、「君は貧乏人のふりをして、増税に反対するのか」の意味だったのでしょう。隣席にいた経済部長は私を擁護しようとして「いやあ」とか、言葉を発しました。その後の言葉が続きませんでした。大型間接税(消費税)が導入されたのは、かなり後の竹下内閣の時(1988年)でした。
罵倒されたのは、中央公論新社に出向した直後にもありました。中央公論の編集者は読売の傘下に入ることによって、編集方針が保守化するのではないかと警戒していました。月刊「中央公論」の編集者にはそれが強かったように思います。ある号で、護憲派の学者が憲法改正を警戒するような論文を書きました。意図してタイミングを図ったのでしょう。出向したばかりの私は経営再建の注力していましたので、月刊誌のゲラ刷りの段階から、原稿をチェックするような余裕はありませんでした。
主筆は憲法改正論者でしたから、この論文がひどく気に障ったのでしょう。ある時、「なんだこの論文は。こんなのを掲載するなら中央公論なんかいらん。潰してもいいぞ」と、どなられました。中央公論新社の経営再建は順調にいき、2年ほどすると、黒字転換できました。中公を傘下に入れる一方で、本社の出版局は解体し、論壇誌の月刊「this is 読売」を休刊にしました。この選択が誤っていなかったことについては、相当に喜んでいたはずです。
歴代大蔵次官との懇談の場も
2024年12月22日
98歳で死去した読売新聞主筆のナベツネさんは、政界、官界、政治部を中心とする記者仲間、野球界、相撲界と人脈は幅広く、私が見聞したのはそのごく一部にすぎません。単に交友関係というより、戦略的に人脈を広げていく姿を垣間見ることができました。
ナベツネさんが重視していたことの一つは、大蔵省官僚に対する人脈作りだったに違いない。歴代事務次官複数との定期的な会食の場を設けていたはずです。私は財政研究会(大蔵省記者クラブ)に何度か在籍したことがあり、親しかった元事務次官もおり、時々、その様子を聞くことができました。
次官側が1人、2人というのではなく、かなりまとまった人数のようで、ナベツネさんの政治情報の広さを知れば、大蔵省側もそれに応じるだだけ価値があると考えていたのでしょう。
私の想像を交えていえば、ナベツネさんは戦後まもなく、政治部記者となり、政治家との交流を広げていきました。ナベツネさんは「政治家の弱点は、財政問題にうとい」ことに気が付きます。政治家にとっては、国家予算をいかにたくさんとり、選挙区の地元や選挙地盤の業界に流せるかが勝負です。その政治家は財務省、予算の仕組みに詳しいとは言えない。
そこでナベツネさんは、「財政、予算の仕組みを勉強すれば、政治家より詳しくなり、教えることができ、ありがたがられる。そういう人間関係を作れば、政治家緊密な関係を築ける」と考えた。歴代事務次官が何人、参加していたかは正確には知りません。気にいらない一部は除外されていたはずです。硬骨漢で「大蔵省のドン」といわれていた人物は「私は参加していない」といっていましたから、外されていたのでしょう。
とにかく、大蔵省事務次官OBとの交流を深め、政治家との関係強化につなげる。そういう計算だったと想像します。論説委員長、主筆になると、大蔵省の財政審議会の委員になることを希望し、実現しました。政治記者でありながら、猛烈に財政を勉強したことは確かで、政治記者としての武器にしたとみます。官僚も政治情報を知りたがる。ギブアンドテークの関係です。社長、会長になれば、加速度的に人脈を広げることができる。
省庁再編が政治課題(橋本内閣、96年)になった時は、本社の調査研究本部で読売私案を作成し、公表することになりました。ある時、通産次官が急に来社し、主筆に「これからは情報系が重視されるので、私案に落とし込んで下さい」と陳情にきたほどです。ほとんど私案は完成しており、「困ったな」と言いながら、それに応じる。
これに限らず、読売新聞は多数の政策提言を発表しています。そのたびに、政治家、官僚らが陳情に来社し、人脈は重層的に広がっていくのです。
主筆死去の新聞報道で、ライバル紙であった朝日、毎日新聞を含め、OBになっている元政治部記者らが競って追悼文、評伝を書いていました。「取材対象の政治家と一体化していたのは、ジャーナリストそして、一線を超えていた。政界フィクサーになっていた」などと批判しながらも、桁外れの存在感があったなどと、賞賛に近い感想を述べていました。もっと厳しい論調の追悼文かと想像していたところ、違いました。
ライバル紙が何ページも紙面を割き、追悼記事を掲載するなどとは異例です。想像するに、古い政治記者ほどナベツネさんに接触、同席する機会が多かった。その一つが「山里会」とかいい、古参の政治記者と首相を始めとする有力政治家が懇談する場があったはずです。中心人物はナベツネさんです。ある程度、人選もしていたかもしれない。本音を聞ける場に同席できることは、政治記者にとって願ってもないチャンスでしたでしょう。
そこで双方が丁々発止の激論を交わす。得難い取材の場です。当然、オフレコだった。そういう場を通じて、他社の政治記者はナベツネさんに、互いが競争相手のライバル紙という関係を超えた連帯感を持つようになったに違いない。朝日、毎日などが文章の半分以上が賞賛に近いナベツネ論で、それを掲載していたことは印象的でした。
中には、プロ野球のセリーグ会長、横綱審議会の会長に就いた人もいました。その人選でナベツネさんが影響力を行使していたと想像します。不遇だったNHK会長も、かつての盟友ということから、何かと面倒をみてもらったという話も聞いたことがあります。
面倒見という点では、印象深い記憶があります。朝日新聞の論説主幹だった若宮啓文氏には親近感を持っていたようです。若宮氏の父親が鳩山一郎首相の秘書官を務めていたため、ナベツネさんは政治記者として鳩山邸宅に出入りしていた。その縁で息子の啓文氏とも親しくなったようです。
若宮啓文氏とは、靖国参拝問題でインタビューに応じ、見解が一致し、朝日の論座に掲載されました。ライバル紙の朝日の月刊誌に、読売の主筆のインタビュー記事が載る。めったにない珍しいことです。その若宮氏は退職後、国際会議のための中国出張中、ホテルで急死(2016年)しました。
驚いたのは、朝日新聞の朝刊をみると、記憶に間違いがなければ、なんと渡辺主筆が追悼文を寄稿しているではありませんか。こんなことは前代未聞でしょう。追悼文を送るほう、追悼文分を載せるほうといい、まずあることではありません。今回のナベツネさんの死去では、朝日、毎日の記者OBが「毀誉褒貶があった」などと指摘しながらも、かなり親近感をもった追悼文を掲載する。政界記者の世界は不思議な場です。
「紙媒体の帝王」の読売主筆の亡き後の負の遺産は部数激減(終)
新聞の浮沈を握ったネット情報
2024年12月26日
30年間もトップの座にあった読売新聞主筆のナベツネさんに対し、毀誉褒貶、記者と政治家の一体化などの批判がある一方で、言論界、政界、スポーツ界などに残した足跡の大きさを、ライバル紙までが大々的に報道するという異例の波が起きました。
ほとんどのナベツネ論に欠落しているのは、紙媒体がネット媒体に主役を譲っていく歴史の流れの中で、新聞経営者としてどう対応しようとしてきたのか、どう対応していこうとしていたのかという視点です。このままでは、新聞はやせ細り、命運が尽きる新聞社が地方紙から増えてくるかもしれない。全国紙の中には、地方紙の部数にレベルに落ち込んでいく社もあるでしょう。「紙媒体の帝王」はどうしようとしていたのか。
「紙の新聞の社会的使命(取材・事実の発掘、ニュースの総覧性、それらの検証・解説など)があるから新聞社はなくならない。それらを代替できる組織・機関はない。紙はなくならない」という主張が聞かれます。「社会的使命がある」ことと「経営的に存続できるか」ということは別問題です。紙には多様な用途があり、便利な紙は今後もなくならないでしょう。それと「紙の新聞はなくならない」は別問題です。
ナベツネさんは「紙媒体の帝王」であり、紙新聞が情報媒体の主役であった時代が生んだ存在だと思います。ナベツネさんの全盛期は紙の新聞の全盛期でもありました。30年間も読売新聞のトップに座り、特に1000万部という巨大な部数を武器にして、政界に対しても大きな影響力を握り、また世論形成にも寄与する媒体でした。
社長車のナンバープレートも1000万部を模して「1000」にするなどしました。傘下の収めた中央公論社が優れた著作に与える「吉野作造賞」も「読売吉野作造賞」と改称したりしました。なんでもできた新聞の全盛期という成功体験、紙媒体であることによる自信から、ネット時代、デジタル時代への対応に気持ちが向かなかった。私の現役時代、紙への自信からかナベツネさんはパソコン、スマホを毛嫌いしていました。
1000万部という巨大部数は24年10月には575万部(前年比36万部減、ABC部数)まで激減しています。100万部の大台で比べると、半減です。もっとも朝日新聞はこの間、全盛期の800万部台が330万部、毎日、産経、地方紙も同様ですから、読売だけが急落したのではありません。ですからナベツネさんが手を打たなかったから読売の部数は落ちたということにはなりません。いろいろな要因があったでしょう。
ネットによる紙の新聞の浸食、特に若い世代の新聞離れ、景品(ビール券、洗剤など)をつける販売手法の限界、急増するマンションなどへの入館が難しくなった訪問販売などが背景にあるでしょう。編集面からみても、取材される側の取材規制が強化され、スクープが難しくなり、新聞の魅力が落ちました。そうした社会的な構造変化が新聞の存在感を衰えさせていったのです。剛腕のナベツネさんにとっても不可抗力の歴史の変化があったことは確かでしょう。
読売が1000万部を突破したのは1994年で、憲法改革試案を発表するなど、読売新聞の全盛期を迎えました。ナベツネさんは91年に社長・主筆に就任し、2004年会長・主筆になり、今年の12月に死去するまでの約30年間、読売のトップを続け、社論形成や主要人事の全権を握っていました。
ですから紙媒体が情報化社会の中で、部数やアクセス件数が示す情報の伝達力、経営に直結する広告収入力、世論や社会的コンセンサス形成の面で主役の座から降りていく流れに対し、何をしようとしていたのかをもっと発言してもよかったと思うのです。どうも晩年に紙媒体の深刻な危機に深く気がついたようです。
主筆が死去して間もない12月21日、読売新聞の朝刊に恒例の日米共同世論調査の特集記事が掲載されました。主筆がいつも強調していたのは「社会的に信頼される機関、組織で、新聞はトップクラスに入る」という部分でした。今回の調査をみると、日本の場合「①自衛隊、病院74%②裁判所、学校58%③地方自治体53④警察・検察52%」が上位で、新聞は7位の49%まで低下しています。
新聞の質の低下ばかりでなく、購読者がネット媒体にシフトし、新聞を読む層が減れば、順位も必然的に下がってくる。そういう面があるにしても、新聞の社会的プレゼンスの低下は日米ともに共通しています。
新聞各紙はこうした危機をどう乗り越えていくのでしょうか。新聞は言論の多様性が持ち味ですから、例えば読売と朝日、毎日と産経が合併すること水と油であり得ない。最近、発表されたホンダ・日産の合併のようにはいかない。かつてのルノーと日産のように、海外企業との統合もありえない。朝日とニューヨーク・タイムズが統合することも考えられない。株式も上場していないから、統合、再編の障害になる。
トヨタとソニーのような異業種間の業務提携もメディアでは考えられない。ネット企業にとっては、新聞のニュース取材、解説力は欲しくても、新聞社の販売店網、印刷工場はネットで代替できるからいらない。新聞社側は困る。編集、印刷、販売の垂直統合が強みだった新聞社にとって、それらが経営合理化、経営再編のじゃまになるのです。
ニューヨークタイムズ・デジタル版は契約者数が1000万人を超え、売上は11億㌦(1600億円)です。こうした選択ができるのは、日経新聞でしょう。日経は紙の新聞の販売を他紙の販売店に委託するケースが多かったのと、経済・金融情報はデジタル化に向いています。読売、朝日などは不動産収入で新聞部門の赤字を補填できるにしても、いつか限界がくるでしょう。
よく「ナベツネさん亡きあとの読売新聞はどうなる」という問いが聞かれます。この問題は読売に限ったことではありません。多くの新聞社のとっての問いでしょう。また、新聞社によっては、主筆制(社論、編集方針決定の組織的な一元化)を続けるでしょう。主筆が存在しても、もう「紙媒体の帝王」のような人物が現れることはないと思います。
朝日新聞
昭和の猛烈記者から権謀術数の政治側へ 御厨貴・東大名誉教授が語る渡辺恒雄氏
2024年12月21日
御厨貴・東大名誉教授は、19日に亡くなった読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏に長時間インタビューし、「渡邉恒雄回顧録」を監修した。渡辺氏の記者人生や政界との関わりについて聞いた。
◇
渡辺さんは昭和の男なんですよ。高度成長期の猛烈サラリーマン。「書かない記者」を非常に嫌い、あるべき記者像を追い求めた。
渡辺さんは社内でも猛烈に頑張って、大新聞記者になるぞと思った。だんだん読売新聞と一体化していって、2000年ごろには「我こそ読売新聞なり」となっていった。
政治記者としては、自民党副総裁や衆院議長を務めた大野伴睦や中曽根康弘元首相らに食い込んだ。大野はまさに、昔風の党人派。渡辺さんがずうずうしく近づくと、歓迎されて、派閥の運営も任される。大野の回想録も「全部自分が書いた」と言っていた。
中曽根さんと渡辺さんとの関係は読書会から始まった。書生たちが勉強会をしている感じだった。「中曽根さんを総理にしたい」と思っていた。後年、NHKのインタビューで「中曽根を総理にしてやった」と言っていたが、あれは後知恵だ。「後から考えると俺しかいなかった」と。渡辺さんも認めているんですよ。「総理になってあれだけの仕事をした。中曽根の方が俺よりも一枚上だ」と。
渡辺さんの原点は、戦時中の特高嫌い。軍国主義の教育に反発して、軍隊に行ってもひどい目に遭う。第2次世界大戦は日本の過ちだったとずっと思っていた。渡辺さんは「右」のイメージがあるが右派的イデオロギーが嫌いだった。
読売新聞は1994年、2000年、04年の3回にわたり、憲法改正試案を発表した。彼には「盟友の中曽根ができなかったことを正面から取りあげたい」との思いがあった。それに90年代は湾岸戦争も起き、日本は世界にどう貢献するかが問題になった。読売新聞として旗幟(きし)鮮明にした方がいいと思って改正試案を発表した。「他の新聞社にはできないだろう。特に憲法にしがみつく朝日新聞にはできないだろう」という彼なりのブンヤ魂だった。
盟友の中曽根さんが総理を終えた後に、禁欲さがなくなった。読売の社長の地位をいかに維持するかということに変わった。
昭和が終わったぐらいの時期からお座敷取材を始める。政治家と会うことを、純粋にネタを取って記事を書くというよりも、読売内の権力を維持し、他の新聞社を脅すことに使った。平成の首相は全然駄目という感じがあったんでしょう。「俺が出ていった方がうまくいく」との思いもあった。極めつきは福田政権の時の福田自民と小沢民主の大連立構想。やっぱり、首相官邸の福田康夫首相のところに自ら乗り込んでいく渡辺さんって何だ?ってことですよ。
昭和の猛烈記者、生涯一記者はほめないといけないが、平成になって権謀術数の政治をつくっていく側に変わった。社長や会長の座に固執しなければ、その評価も大きく違ったのかもしれない。(聞き手・池田伸壹)
朝日新聞
(天声人語)渡辺恒雄氏と朝日新聞
2024年12月20日 5時00分
これほど熱心に、朝日新聞を読み込んでくれた人は珍しいかもしれない。「ぼくは新聞人生の半分以上を朝日への対抗意識で過ごしてきた」。そんな言葉が残っている。読売新聞のトップを長く務めた渡辺恒雄氏が、亡くなった▼「朝日とぼくはどうにも妥協できない点がある」。主張はことごとく、対立した。憲法は改正すべし。核抑止は是とすべし。原発は存続すべし……。でも、だからといって、朝日がなくなればいいとは思わない、とも明言していた▼「戦時中のように軍国万歳、陸軍礼賛の記事を朝日も読売も毎日も書いたというのはよくない」。違いを大いに論じ合い、読者が判断するのが一番いい、というのが持論だった▼違和感を覚えるのは、権力との一体化をよしとするかのような振る舞いである。政局の舞台裏で、プレーヤーの役割を自ら進んで担った。友人から陳情を頼まれ、首相に予算措置を求めることもあった。もはやジャーナリズムとは言えまい。しかも、それを自慢話のように公言した▼自省を込めて言えば、記者と政治家の関係は悩ましい。遠くにあれば情報に疎く、近くにあれば権力監視はままならない。いかに自らを律し、一線を画すか。日々、葛藤を続ける記者がいることなど、お構いなしだったか▼独特の存在感と凄(すご)みから、メディア界のドンとも呼ばれた。「朝日新聞は、一言でいうと嫌いだが、毎日最初に読まざるを得ない」。そんな言葉を、そのままお返ししたくなる人だった。享年98。
渡辺恒雄氏、死去 98歳、読売新聞主筆
2024年12月20日 5時00分 朝日新聞
渡辺恒雄(わたなべ・つねお)・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が19日、肺炎で死去した。98歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く。▼4面=評伝、15面=スポーツ界悼む、26面=球界再編で波紋
プロ野球読売巨人軍取締役最高顧問も務め、歯に衣(きぬ)着せぬ発言で存在感を放った。「ナベツネ」の通称で知られ、政局や政策決定に大きな影響力を持った。
1926年、東京生まれ。東京帝大(現東京大)文学部在学中に終戦を経験した。日本共産党に入党したが離党し、50年に読売新聞社へ入社。政治記者として歩んだ。
政界の舞台裏を取材する立場でありながら「プレーヤー」も自認し、重鎮議員からの信頼を得て、政治家を閣僚ポストへ推薦することもあった。中曽根康弘氏(故人)、安倍晋三氏(故人)、岸田文雄氏ら歴代首相とも近く、権力との距離感については批判も常にあった。
同社の政治部長などを経て、85年から40年近くの間、社論を率いる主筆を務め、消費税の導入なども主張した。91年、社長に就任。94年には、「憲法改正読売試案」を紙上で発表。後に「自衛のための軍隊を持つ」ことを盛り込んだ。99~2003年には日本新聞協会会長を務めた。
影響力は、プロ野球界にも及んだ。96年から巨人のオーナーに。豊富な資金力を背景に、スター選手を集めた。
04年に球界再編が持ち上がった際は、古田敦也選手会長(当時)がオーナー側との会談を望んでいるとの質問に「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」などと発言。世論は反発し、1リーグ構想が頓挫するきっかけとなった。
<評伝>こだわった権力、政界動かす 渡辺恒雄氏死去
渡辺恒雄氏に初めて会ったのは2005年秋、朝日新聞の論壇誌「論座」の企画で、若宮啓文論説主幹(当時)と対談していただいた時だった。読売新聞の社説が小泉純一郎首相(同)の靖国神社参拝に対してそれまでの支持から一変して批判に転じた真意などを述べていただいた。2度目も「論座」のインタビューで、読売新聞が展開していた「検証戦争責任」シリーズの意図などを伺った。
若い頃、共産党に入党したが、「この党は全体主義だ」と飛び出した経験を持つ。戦争を美化するタカ派の主張を「あの戦争が自存自衛の戦争だなんて思っていたら世界から相手にされない」と一刀両断に切り捨てる。そして首相の靖国参拝を「戦争礼賛に利用される」と批判する。憲法改正を掲げる保守のイデオローグという渡辺氏に対する私の先入観は間違っており、強靱(きょうじん)な反戦のリベラリストだった。
読売新聞の主筆にこだわり続け、亡くなるまで40年近く手放さなかった。広い会長室に入ると、いたるところに資料や本が積み上げられていた。それぞれに数多くの付箋(ふせん)が張りつけられ、ラインマーカーで線が引かれていた。知に対する貪欲さに驚かされた。
渡辺氏からは「事実」という言葉が繰り返し出てきた。事実を集め、思考を重ね、論理を構築し、主張する。ジャーナリストのあるべき手法を最期まで実践していた。
さらに新聞の役割は権力批判という伝統的な発想を超えて、憲法改正や安全保障、社会福祉問題など重い課題について紙面で「提言報道」を展開した。誰も明快な解を見いだせない混迷の時代に新聞はどうあるべきか、次なる役割を提起し続けた。
政治部の第一線で取材していたころの渡辺氏は、大野伴睦元自民党副総裁や中曽根康弘元首相ら大物政治家の懐に入り込んで情報を得るタイプの記者だった。読売新聞の幹部になってもそのスタイルは変わらず、やがて歴代首相に対するご意見番を自負するようになった。取材する側を脱し、政界再編を仕掛けるなどプレーヤーとして振る舞うことが増えた。
社内に向けては社論を担うことへの誇りを持ち、「社論に反対する者はだめだ。それは統制します。そうしないと新聞は成り立たない」とリベラリストらしからぬ姿勢を見せた。
プロ野球界をはじめ多様な分野で数多くの業績を残したが、もっともこだわったのは新聞という言論空間だ。権力に向き合うジャーナリズム、多様性と議論に重きを置くリベラリズム、そして、首相をも動かす最大部数を誇る新聞社の主筆という権力。一人の人間にアンビバレントな要素が同居していたメディア界の巨人であった。(東洋大学教授・元朝日新聞政治部長
薬師寺克行)
■改憲試案、安倍氏と蜜月
渡辺恒雄氏は、政界に大きな影響を与えてきた。ときの首相や有力政治家との太いパイプを生かし、憲法改正や軽減税率、大連立構想を提言。その実現のために実際に政治家同士の仲を取り持つこともあった。とりわけ中曽根康弘元首相との親交が深かった。
1994年に自衛力の保持を明記した憲法改正試案を発表するなど、改憲に向けた社論をリードし、安倍晋三首相(当時)とは蜜月の関係だった。両氏が会食した直後の2017年5月、安倍首相は自衛隊を書き加える改憲案を提唱。「考え方は相当詳しく読売新聞に書いてある。ぜひ熟読して頂いてもいい」と発言した。
07年にねじれ国会への対応に苦慮した福田康夫首相(同)に対しては、小沢一郎代表(同)率いる民主党との大連立構想を持ち掛け、実現に向け動いた。
政界に影響力を持つきっかけは、1955年の保守合同前の自由党の大野伴睦総務会長の番記者になったことだった。その後、中曽根元首相の担当となってブレーン役となった。
新聞社のトップが政治に直接介入することへの批判も常にあった。
■小沢氏「大連立、鋭い政治感覚」
「自民党の福田(康夫)首相から連立の話を持ちかけられ、その仲介役みたいなことをしてくれたのが渡辺さんだった」。立憲民主党の小沢一郎氏は19日、2007年の大連立構想に触れ、記者団を前にこう回想した。「(ねじれ国会の政治状況を)打開するには大連立以外ないと感覚的に彼(渡辺氏)は判断したのだろう。たまたま私もそういう判断だった。非常に鋭い政治感覚の持ち主だった」と語った。
福田康夫元首相は19日、コメントを発表。福田氏の父で元首相の赳夫氏が自民幹事長だった60年ほど前、赳夫氏と渡辺氏がひざ詰めで会話をしているのを目撃し、「遠目で見ながら、すごい記者がいるものだと思った」とのエピソードを紹介。「その後、私自身もさまざまな場面で、渡辺さんの御指南を賜りました。その中には今もって明らかにできない密議もあります。渡辺さんは間違いなく、日本政治の中心におられた方でした」とその死を悼んだ。
岸田文雄前首相は首相在任中も自ら読売新聞本社に出向いて面会を重ねた。19日、記者団の取材に応じた岸田氏は、「言論人、マスコミ人として、大きな影響を日本の戦後の歴史に残された方だった。一つの時代が終わった」と語った。(森岡航平)
耳目集めた発言 「たかが選手」波紋 渡辺恒雄氏死去
2024年12月20日 5時00分 朝日新聞
19日に肺炎で亡くなった読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏は、絶大な影響力を持つメディア人だった。「政界のフィクサー」でもあり、プロ野球読売巨人軍のオーナーとして、球界も牛耳った。▼1面参照
渡辺氏の存在がひときわクローズアップされたのが、近鉄とオリックスの合併に端を発した2004年の球界再編騒動だった。
それ以前から1リーグ制移行が頭にあった渡辺氏は、近鉄とオリックスのほか、実現しなかったがダイエー(現ソフトバンク)を軸としたもうひとつの合併話が持ち上がったのを機に、大きく再編へのかじを切ろうとした。一方で、労組日本プロ野球選手会やファンの抵抗があった中、口をついたのが「たかが選手」発言だった。
行きつけのホテルで食事を済ませ、ほろ酔い加減のところを報道陣に囲まれた渡辺氏は、古田敦也選手会長(当時)がオーナーらとの会談を希望しているとの質問に「無礼なことを言うな。わきまえないといかんよ。たかが選手が」と言い捨てた。すぐに「立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をする(野球)協約上の根拠は一つもない」と付け加えたが、時すでに遅し。渡辺氏は以後ずっと「はめられた取材」だと弁明したが、この「たかが選手」発言は世論の大きな反発を招き、1リーグ構想は頓挫。選手会が実施したプロ野球初のストライキも野球ファンに支持された。
騒動の中、「議論が足りないのではないか」という弊社記者からの質問に「100年、議論しろというのか。朝日新聞の論調に引きずられる必要は全くない」と怒りを含んだ口調で答えたこともあった。同時期に、巨人が獲得を目指した大学生選手に対する金銭授受が発覚してオーナーを辞任したが、その後も長らくプロ野球界に影響を与え続けた。
資格を満たした選手が移籍先を選べるフリーエージェント(FA)制度とドラフト(新人選手選択)会議の逆指名制度(現在は廃止)の実現にも陰で渡辺氏の力があった。リーダーシップをとったと言えば聞こえはいいが、思うようにことが運ばないと「リーグ脱退」を口にし、他球団のオーナーが恐怖心にあおられ、従っていくという構図があったのも否めない。
渡辺氏は大相撲界でも存在感を示した。91年から05年まで横綱審議委員としても活動。委員長も務め、「もの言う委員」としてここでも世間の注目を集める発言が多かった。
球界再編騒動から20年。17日に日本プロ野球選手会が開いたイベントで、古田氏らが「たかが選手」発言に言及したばかり。良くも悪くも渡辺氏の影響力の大きさを物語っていた。(堀川貴弘)
■影響力「稀有なメディア人」 従軍経験、戦前政治を強く批判
読売新聞社の政治部記者として頭角を現した渡辺氏は、政治部長、論説委員長などを経て1991年、社長に就任した。「販売第一主義」を掲げ、在任中に発行部数1千万部を初めて突破した。
国内最大部数の新聞メディアのトップでありながら、政財界の大物と深く交流し、政治の中枢に影響を及ぼした。時に「政変のプレーヤー」も演じ、2007年の大連立構想では、福田康夫首相(当時)と小沢一郎民主党代表(同)の間を取り持った。11年の朝日新聞の取材で政界との距離の近さを問われ、「読売新聞の社論を実行できる内閣になるなら悪いことではない。そういう内閣に知恵を授けて具現化するのは僕には正義だし、合理的なことだ」と述べている。
85年に社説の「最終決定者」である主筆になると、生涯その座を譲らなかった。94年に憲法改正の試案を紙面で発表して以降、安全保障や行政改革などの分野で「提言報道」を積極的に行った。近年も安倍晋三氏(故人)や岸田文雄氏ら歴代首相への助言を重ねた。
親交のあったジャーナリストの田原総一朗さんは「政界にも社内にも絶大な影響力を持ち、日本最大の新聞部数を背景に首相すら説得する稀有(けう)なメディア人だった。強くなりすぎて、社内は言うことを聞く人間ばかりになった」と話す。
一方で、自らの従軍経験から旧日本軍や戦前戦中の政治を強く批判した。05年に自ら提唱して「戦争責任検証委員会」を設置。軍部や政治家の責任を紙面で追及し、「国際感覚を失って責任政治を忘れたリーダーの手で始まり、そして終わった」と結論づけた。
■「新聞界に尽力」 新聞協会・中村会長
渡辺恒雄氏の死去を受け、日本新聞協会会長の中村史郎・朝日新聞社会長は「謹んで哀悼の意を表します」とコメント。その上で渡辺氏について「日本新聞協会の会長、理事として、新聞界の発展に尽力されました。新聞経営の根幹に関わる著作物再販制度の維持に全力を挙げられるなど、活字文化の振興に積極的に取り組まれました」とする談話を発表した。
誰よりも巨人に情熱 王氏・長嶋氏悼む 渡辺恒雄氏死去
2024年12月20日 5時00分 朝日新聞
読売新聞グループ本社代表取締役主筆で、元プロ野球巨人取締役最高顧問の渡辺恒雄氏が亡くなった。プロ野球界だけでなく、他競技の関係者からも惜別の声が相次いだ。▼1面参照
渡辺氏のオーナー時代にチームを指揮した長嶋茂雄・終身名誉監督は球団を通じコメントを発表。「何が起こったのか、頭は白紙の状態でした」。そして「たくさんの思い出があります。今、何を話せばよいのか、巨人が勝った時の渡辺さんの笑顔しか浮かんできません」と惜しんだ。
また、巨人の選手、監督時代にかかわりの深いソフトバンクの王貞治会長は「ホークスの監督になった後も野球界やジャイアンツに対する話を聞かせて欲しいと求められましたし、誰よりもジャイアンツに強い情熱を持っておられた方でした」と悼んだ。
■川淵氏「Jの恩人」
Jリーグ初代チェアマンだった川淵三郎氏は、相談役を務める日本サッカー協会を通じてメッセージを発表。「目標を失った思い」と悼んだ。
1993年のJリーグ開幕当初から渡辺氏と対立した。各クラブに企業名を入れず、ホームタウン名と愛称で統一。対して初代王者ヴ川崎(現東京ヴ)の当時の親会社・読売新聞の社長だった渡辺氏は猛反発した。互いを「独裁者」と呼ぶなど、舌戦を繰り広げた。
野球界とサッカー界の対立の構図が、世間の関心を呼んだ面もあった。のちに和解した川淵氏は「渡辺さんとの論争が世間の耳目を集め、多くの人々にJリーグの理念を知らしめることになりました」と振り返る。
「恐れ多くも不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だと思っていた相手が、実は最も大切な存在だった。まさに渡辺さんはJリーグの恩人。心から感謝しています」
■大相撲に深い愛 八角理事長
渡辺氏は日本相撲協会の横綱審議委員会の委員を計13年半務めた。委員長だった2002年には右ひざの故障で7場所連続全休中の横綱貴乃花に出場するよう勧告を決めた。八角理事長は「大相撲に対し、深いご理解と愛情を示され、相撲文化の振興に努められた」とコメントを出した。
(論壇時評)権力を支えるもの 構造変えねば、次の「独裁者」が 政治学者・宇野重規
2025年2月27日 5時00分 朝日
「独裁者」の時代が終わりつつあるのか、あるいは新たな始まりか。日々、世を騒がす出来事を見ていると、そのいずれなのかわからなくなる。
読売新聞の代表取締役主筆であった渡辺恒雄氏が昨年末に亡くなった。「ナベツネ」と呼ばれ、長く読売新聞に君臨した渡辺氏は、自らを「最後の独裁者」と呼んでいたという。かつて読売新聞の記者であり、プロ野球巨人の球団代表時代に渡辺氏と対立した清武英利は、氏を「矛盾の塊のような人」という(〈1〉)。対談相手のジャーナリストの魚住昭もまた、権力を監視するはずのジャーナリズムが、情報を得るために権力に接近し、やがてその一部となっていったことを、「民友社」の徳富蘇峰と比較しつつ批判する。
メディア文化史の山本昭宏は、学生時代に共産党に所属した渡辺氏が、組織内で権力を掌握する術(すべ)を学び、やがて統治者の側に立つ「権力の思想」の持ち主となる一方、自らの戦争・軍隊体験に基づいて戦争に反対し、靖国神社を批判した両面性を指摘する(〈2〉)。独特な「独裁者」を生んだのは、戦中派世代の時代経験であった。
元タレントの中居正広氏が起こした女性とのトラブルをきっかけに、フジテレビは社としてのあり方を問われている。フジサンケイグループ代表の日枝久氏もまた、人事権をてこに長らく同グループを支配したとされる。この問題を以前から報じてきたジャーナリストの中川一徳は、創業家をクーデターによって追放して以来、33年にわたる長期政権が自由にものを言えない空気を蔓延(まんえん)させ、情実人事が基本的な経営能力の欠如をもたらしたとする(〈3〉)。ただし、新聞社とテレビ局が“身内”であるがゆえの癒着は構造的で、同グループだけの問題ではない。
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何か問題が起きると隠すことを試み、それが不可能になると関係者を処罰する。そして問題を生んだ組織の風土はそのまま温存される。あまりに見慣れた風景だが、そこで救済されないのは個人の「尊厳」である。被害に遭い、仮に補償を受けたとしても、人を傷つけ、排除する土台が変わらない限り、被害に遭う恐怖や不安はなくならない。フェミニズム理論の岡野八代は、存在を認められ、他者から大切にされてようやく人は自らの尊厳を感じられると説く(〈4〉)。
こうしてみると、「独裁者」をめぐる問題は、特定の個人だけでなく、それを可能にする構造にあることがわかる。なぜ個人の「尊厳」を損なう状態が、そのままになっているのか。それを許したのは誰か。このことを問わない限り、「独裁者」の時代は終わらない。
米国のトランプ大統領はどうだろうか。国際関係史のマーガレット・マクミランは、ヒトラーらを素材に、強力な指導者を生むのは強烈な個性か、あるいは時代環境かを論じる(〈5〉)。トランプ氏が訴求力を持つのも、既存の連邦政府への幻滅の広がりと、人々の懸念や怒りを代弁することに長(た)けた彼の才能の結びつきによる。しかし、国際ルールを破っても何の責任も問われないなら、それに続くものが出る。何十年も続いた現在の国際秩序のルールが崩れるのは一瞬かもしれない。
ユーラシア・グループのイアン・ブレマーは、「トランプはGゼロ世界の最大の受益者」であるという(〈6〉)。グローバル・リーダーシップが不在なら弱肉強食の世界となり、世界の頂点に立つ捕食者のやりたい放題となる。相手国が民主主義か権威主義かを問わず、必要に応じて一対一で取引する米国第一主義は、Gゼロ世界と深く一致する。単独行動主義をとる米国に、周りの国は歩調を合わせるしかないのだろうか。トランプ大統領を「独裁者」にしてしまうか否かは、他の国々にかかっている。
民主化以来、安定した民主主義を実現してきたはずの韓国にも変調が生じている。昨年12月に突如「非常戒厳」を宣言した尹錫悦(ユンソンニョル)大統領が内乱の容疑で逮捕拘束されたものの、依然として激しい対立が続いている。朝鮮半島地域研究の木村幹は、互いに任期の異なる大統領と国会が分裂しやすい制度的問題に加え、かつての地域割拠的なボス政治から、進歩・保守のイデオロギーをアイデンティティーとする二大政党制への再編により、政治的妥協が難しくなったことを理由として指摘する(〈7〉)。ここでは大統領の強大な権限が、むしろ対立と混乱の要因となっている。
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かつて「一強」が言われた安倍晋三政権であるが、官邸主導を支えた首相秘書官であった今井尚哉と政治学の牧原出の対談が興味深い(〈8〉)。経済産業省出身の今井は政権内でむしろアンチ財務省の勢力と対抗し、第2次政権初日の靖国参拝に職をかけて反対したという。政権は決して一枚岩ではなかったが、長期化の要因としてスケジュール管理があげられている。強力に見えた政権内部のメカニズムについては、さらなる検証が必要だろう。
「独裁者」を生むのはやはり、外部の時代環境と内部の政治状況である。分断と不信こそが「独裁者」を創り出す。法哲学の安藤馨が、自分に好都合なら暴力の発動を歓迎する手続き軽視が法の支配と民主政を毀損(きそん)すると強調していることを忘れてはならない(〈9〉)。
一人の「独裁者」が退場しても、支えた構造がそのままなら次が現れる。温床となる分断を克服し、個人の「尊厳」を損なう恐怖や不安を除去するしか、未来への道は開かれない。「独裁者」の命運はわたしたち次第である。
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〈1〉魚住昭×清武英利「“最後の独裁者”の素顔」(世界3月号)
〈2〉山本昭宏「渡邉恒雄論」(世界3月号)
〈3〉中川一徳「日枝久フジサンケイグループ代表への引退勧告」(文芸春秋3月号)
〈4〉岡野八代「個人の尊厳をひらく」(世界3月号)
〈5〉マーガレット・マクミラン「歴史のなかのトランプ」(フォーリン・アフェアーズ・リポート2月号)
〈6〉イアン・ブレマー「トランプはGゼロ世界の最大の受益者」(Voice3月号)
〈7〉木村幹「制度疲労に直面する韓国の民主政治」(Voice3月号)
〈8〉今井尚哉×牧原出「『強い官邸』の作り方と財務省へのエール」(中央公論3月号)
〈9〉安藤馨「手続き軽視の暴力、日本に分断の兆し」(2月13日付朝日新聞)
=敬称略
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うの・しげき 1967年生まれ。東京大学社会科学研究所教授。専門は政治思想史・政治哲学。著書に「実験の民主主義」、共編著に「〈やわらかい近代〉の日本」「政治哲学者は何を考えているのか?」など。
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