大楽必易 片山杜秀 2025.2.1.
2025.2.1. 大楽必易(たいがくひつい)―わたくしの伊福部昭伝―
著者 片山杜秀 1963年仙台市生。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学法学部政治学科卒業、同大大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。大学院時代からライター生活に入り、『週刊SPA!』で1994~2003年続いたコラム「ヤブを睨む」は『ゴジラと日の丸――片山杜秀の「ヤブを睨む」コラム大全』(文藝春秋)として単行本化。主な著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(アルテスパブリッシング 吉田秀和賞・サントリー学芸賞)、『未完のファシズム――「持たざる国」日本の運命』(新潮社 司馬遼太郎賞)、『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)、『見果てぬ日本――司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』(新潮社)、『鬼子の歌――偏愛音楽的日本近現代史』(講談社)、『尊皇攘夷――水戸学の四百年』(新潮選書)など。
発行日 2024.1.30. 発行
発行所 新潮社
第1章
見捨てられた様な薄汚いものから
尾山台から商店街を抜けて環八を越えた下り坂の途中に伊福部の家がある
今でこそ、伊福部には、日本のクラシック音楽の畑を代表し、極めて日本的・アジア的な主張を押し出したことで存在感を放ち続ける大作曲家であり、戦後長く映画音楽の分野でも活動し、特に1954年の『ゴジラ』をはじめとする一連のSF怪獣映画のための仕事は最もよく人口に膾炙していると言われるが、1960~70年代前半にかけては状況がだいぶ違う。伊福部はオールド・タイプの民族主義者で、クラシック音楽の分野でのアクチュアルな仕事は、30代半ばまでの戦後初期でほぼ終わっており、戦後に重要なことがあるとすれば、教育者として芥川也寸志や黛敏郎、松村禎三を育て作風に対しても影響を及ぼしたこと、それから作曲を学ぶ者の避けて通れぬ理論書『管弦楽法』を執筆したことの2点に尽き、生活のために携わった映画音楽はどれも同じようなもので取り立てて称揚すべき要素はないと言われていた
文学・思想・美術でも、真に大切な人を居ないことにすると、他の皆が最大多数の最大幸福を得られるということが、どの時代どの国にもあるが、伊福部もそれに該当し、無視される孤独に耐えることが、伊福部の人生のかなりを占めていた
子供心にもはっきりと聞き分けられる特徴のある音楽なのに、映画音楽のレコードはない
1985年、大学のクラシック音楽愛好サークルで、芥川也寸志と新交響楽団による伊福部のオーケストラ作品のコンサートをやる際、プログラムに伊福部の談話を載せるために自宅を訪ねたのがきっかけとなり、当時から自伝執筆を考えていた伊福部の聞き書き役のお鉢が回ってきたのが、以後作曲家の逝去までの付合いの発端
なぜに伊福部の音楽は幼児の耳も捉えて離さない原初的な単純さを有しているのか
西洋近代崇拝と自文化蔑視を軌道修正し、西洋近代の模倣ではなく、あくまで日本の伝統に根差した現代のヴァイタルな文化を創造しようという風潮があらゆる分野で澎湃として起って来たのが満洲事変から第2次大戦にかけてで、伊福部の新しい民族主義的音楽もその系譜にあるといえる。伊福部の音楽は土俗的だが、素材は見捨てられた様な、一見何の魅力もない薄汚いものから隠れた美しさを見出す。自分を育んだ郷土に限りない執着心を持つ
民族主義を標榜しながら、民謡をそのまま旋律に取り入れることには批判的。「原民謡」的旋律断片などに注目。ユングの「集合的無意識」という概念に惹かれ、何かと霊感を享(う)けていた。人間の意識の下にある無意識がある集団に集合的に存在すると考え、それを音にする
伊福部は、司馬遷の『楽書(がくしょ)』の言葉「大楽必易」を己のモットーとしていた。「偉大な音楽は平明なもの」というくらいの意。民謡未満の単純な音型(必易)から大きなシンフォニーやコンチェルト(大楽)を紡ぎ上げる、伊福部の方法を指しているかのように思われる
第2章
スサノオと明笛
1914年、道東の釧路・幣舞(ぬさまい)の生まれ。警察官吏の父の転勤に伴い、道内を転々とする。早生まれとして届けられ、学歴も北大林学実科で就学期間が短く、卒業後すぐに道庁の官吏となり、厚岸で道有林の管理に就く。本科に行けなかった憂さを好きな音楽で晴らす
日本近代のピアノ音楽に圧倒的異彩を放つ『ピアノ組曲』と、同じく日本近代のオーケストラ音楽の白眉と呼べる『日本狂詩曲』を、アマチュアの音楽家で作曲も楽器も独学の帝大生が、成人前後に立て続けに作っているのは驚異
伊福部は7人兄弟の末っ子で3男、兄2人はいずれも北海道帝大の工学部(予科がない)で、いずれもクラシック音楽愛好家。伊福部は割を食った格好で、何重にも反骨精神・抵抗精神で固まった生涯の基礎となったことは否めず、自らをスサノオに見立てていたのかもしれない
伊福部家は、因幡の古代豪族。初代は大国主神(おおくにぬしのかみ)で、父が66代目
小学校時代に聴いた明清楽(みんしんがく)、特に明笛(みんてき、横笛)という楽器と、バラライカとロシア民謡に魅入られる。
第3章
赤いサラファン
伊福部のロシア好きは、作曲家伊福部の発展がロシアの近代音楽と不可分だったから。ストラヴィンスキーの3大バレエ音楽『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』に傾倒、作曲にのめり込み、ショスタコーヴィチの交響曲の長い楽章の執拗で茫洋とした「灰汁の強い」時間的感覚に影響された。プロコフィエフに似ているとされ、戦後日本のオーケストラが海外楽旅の際演奏曲目に内定していたのを土壇場で外されたことさえあった
伊福部のロシアの作曲家に通じる音感の由来は、中学まで住んだ北海道の原野での体験
小樽で育った音楽評論家の吉田秀和は、北海道にいると東京の感覚で書かれた日本の自然主義的文学を読む気が全く起きなかったというが、ロシア文学にも伊福部の音楽にも冷淡
札幌時代、白系ロシア人のやっているミルクホールでロシア民謡をよく聴き、なかでも『赤いサラファン』が気に入っていた。歌いだしの「レーシシラソファミレ」ハ、レシで上がって順次下がっていくだけで、この動きが全曲に働き、音階を順次下がる動きが執拗に現れる
伊福部ははじく絃楽器を好んだ。特にリュートを愛したが、バラライカと似ている
第4章
アイヌと変拍子
伊福部といえばアイヌ。交響楽の代表作『シンフォニア・タプカーラ』(1955)のタプカーラとはアイヌの舞踊の一形式。アイヌとの接触の初めは、1923年十勝の音更(おとふけ)村に転居してから。アイヌは、北海道旧土人保護法(1899年)によって保護の対象となっていたが、まだ日本人とは別々の暮らしをしていて、村長だった伊福部の父は、アイヌ・コタンの人々に好意的・協力的だったという。その中で伊福部は特にアイヌの音楽に興味を持つ。アイヌの歌は即興で、その日の心情を托して言葉を連ね、手拍子に合わせて歌っていく。ストラヴィンスキーの『春の祭典』にも変拍子が多い。だが、伊福部はアイヌに単純に共感・傾倒していたわけではなく、すぐ隣に言語も世界観も違う民族が厳然と暮らしていて、分かり合えることも多いが様々なハードルがあることも知った。伊福部の民族主義とは、普通に予想される自民族中心主義とはかなり違って、他者を畏れながら抱き込もうとする、無限の運動だった
第5章
蛙と無為
伊福部は、中学2年で初めて本土に行き、田圃の蛙の声に驚いたように、民族主義を標榜しながら、所謂日本的なるものの比重は軽い
伊福部は、これ見よがしに形の決まったものには敵意を示した。日本の正統を担うのは己であるという音楽家としての自負を持ち、微動だにしない人
伊福部家は元因幡の神主だったが、維新で追われ北海道に移住。父から家の学問である『老子道徳経』を手ほどきされ、それを自らの人生の哲学とし、終生の指針とした
生涯の座右の銘は「無為」。出典は『老子』で、「聖人は無為の事に処(お)り、不言の教えを行う」「不言の教え、無為の益は、天下、これに及ぶもの希なり」とあるように、「無為」とか「不言」とは、見え透いた意思や理屈にとらわれない態度を示唆するのだろう。音楽の理想も、自意識の為すわざとらしさを排することにあった。そんな作曲家の態度は、1943年初演の『交響譚詩』に付された「作者の言葉」によく表されている。曰く、「作者は芸術の原形質と云われる譚詩(バラード)を近代管絃楽によって表現しようと考えた。譚詩こそは毒され易い文化の中にあって真の民族性と健康な審美と、未だ破壊されない詩を有すると考えられたからである」
伊福部の弟子・黛敏郎が「題名のない音楽会」で伊福部の『交響譚詩』の最初のパッセージが流れた時涙を流し、「あの音楽の持つ、人間存在の根源から揺さぶり起すような、不思議な力とエネルギーに、眠っていた魂が呼び覚まされた」と吐露したように、伊福部の音楽はこうした心的作用をもたらせる力を持った音楽で、形になる前の民族的な旋律の断片のようなものをちりばめ、それらを繰り返し畳みかけてゆくことで、聴く者の心に幼年期か何かの忘れていたものを噴出させ、理屈を超えて無性に泣けてくる、その時涙を流させるものこそ無為のための力ということなのだろう
第6章
キネマとヴァイオリン
1997年、映画音楽の作曲をしてから50周年で、谷口千吉監督、三船敏郎主演の『銀嶺の果て』の音楽を担当
幼少からヴァイオリンを独学。1931年には札幌に演奏に来たハイフェッツを聴いている
第7章
冗談としての『日本狂詩曲』
1932年、北大に入学し文武会管絃楽部に入り、コンサート・マスターに抜擢
日本のクラシック演奏を支えたのは学生のオーケストラで、1901年の慶應義塾を嚆矢として、次々に各大学に一流の指揮者を招いて本格的なオーケストラが誕生するが、北大のオーケストラも1921年農学部主体に誕生。伊福部が入会したのは医学部主体の別団体
プロの誕生は1926年の新交響楽団(現N響)が最初
オーケストラのレベルが低かったので、別に絃楽四重奏団を結成してかなりの人気を博す
何とかコンチェルトをやりたくて、3,40人ほどのオーケストラに打楽器でリズムだけ刻ませ、それをバックにヴァイオリンを弾くことを考え作曲したのが3楽章の未完の協奏曲となった『日本狂詩曲』。ボストンの指揮者セヴィツキーとの文通で送ったところ、チェレプニン賞の募集が出て、審査員にラヴェルもいて、規定の15分以内にカットして応募したら1位入賞
コンサートマスターの経験からオーケストラの楽器のバランスを理解、コール・アングレ(オーボエに似た木管楽器、イングリッシュホルン)という楽器は知らないがドヴォルザークのレコードと譜面から大体の音色と音量と他の楽器との混じり具合を類推して、全体を組み立てた
第8章
ファリャに憧れ適当に
山田耕筰(1886~1965)は、作曲を志す日本の青少年のアイドル。伊福部もオペラ『黒船』は見たが、題材は日本的でも、音楽はドイツのロマン派のようなもので、自分の行きたい曲の方向とはだいぶ違うと感じていた。人種で音楽は違うという意識を持ち、西洋音楽もそれなりの技術や解釈で演奏は出来るが、創作となると内側から本物を産めるのだという確信がなければ作品は書けないという。民族の感性で行くと、音楽についてはドイツは最も遠く、余りの高みを崇めてしまった所に日本の無理がある。そこを弁えないといけない。中途半端なことは実行に移すべきではないと、無駄な動きやいらないものを排除して最終的に納得のできる音を出して見ると、みな似た様なものになるのは当然
バルトークはバルカンの民族音楽をよく使うが、自意識が強すぎ、論理的に知的に操作しようとする野心が作品に満々としていて、民族的な素材に頼っても、素朴さや素直さを音楽から消そうとする気持ちがいつも表に出ているので苦手
戦後すぐ発表した歌曲集『ギリヤーク族の古き吟誦歌』が何度も演奏され、それを聴いた山田から会いたいと言われ初めて面談したというが、実は1943年に日本ビクター主催のオーケストラ作品コンクールで『交響譚詩』が入賞した際、山田は審査員で、その後山田はマニラでそれを演奏しているが、面談時に話題にはならなかった
伊福部の学生時代の行動の特徴は、欧米の有名音楽家への文通攻勢。相手はスペインのハルフテル、ピアニストのコープランド、アメリカに亡命した指揮者セヴィツキーから、作品を送れとの返事をもらう。セヴィツキーに送った『日本狂詩曲』だけが唯一演奏(1936)された
ハルフテルはファリャの愛弟子。伊福部のスペイン音楽への憧れは、音感が日本と繋がっていて、その感覚を上質に伝えるのがファリャ。フランスに憧れながら、骨組みがフランスになってはスペインが外形しか残らなくなるので、上手にフランスを真似るやり方が凄いという
第9章
チェレプニン来たる
独学で学生時代に作曲した『ピアノ組曲(日本組曲)』(1933)という4つの独奏曲のセットと、大管絃楽のための『日本狂詩曲』(1935)を発表。すぐに2作とも海外で賞を獲得、国際現代音楽祭の演奏曲目に入選したり、楽譜も欧米で出版される。『日本狂詩曲』の世界初演は1936年ボストンで、『ピアノ組曲』の4曲完全初演は1938年ヴェネツィアに於いて
1936年、伊福部は来日したチェレプニンに会ってごく短期間だがレッスンを受ける。チェレプニン(1899~1977)は、作曲家で優れたピアニストで9音音階の創案者。父は作曲家で指揮者、リムスキー=コルサコフの高弟の1人でプロコフィエフの師。革命を逃れて一家でグルジアに亡命。種々雑多な民族文化の坩堝の中で、チェレプニンの西洋のクラシック音楽の素養の上にアジア的なロシアが開花。父の弟弟子のハルトマンと神秘思想家グルジェフと出会って個性ある音楽を確立していく。さらに1921年にはパリに移住して本格的にピアノを学ぶ。作曲ではグルジアで集めた諸民族の旋律から2種類の6音音階(「ド・ド#・ミ・ファ・ソ#・ラ」と「ド・レ・ミ・ソ・ソ#・シ」)を作り、それを織り交ぜると多文化体験が1つの作品の中に煎じ詰められ、他民族混交音楽が現出。さらに2種類を統合して9音音階が生まれた
1934年、チェレプニンは中国と日本を訪れ、汎アジア的音楽の試みを進め、34年には中国の民族的感性を示すピアノ曲に限定したチェレプニン賞コンクールを、翌年には日本で同様のコンクールを開催。伊福部は審査員に憧れのラヴェルの名を見つけて応募を決心
第10章
律動がさき、旋律はあと
名のある日本の作曲家を尻目に、審査員の全員一致で1位を獲得した『日本狂詩曲』が、ティンパニーとは別に9人の打楽器奏者がかなりの時間を叩き続ける曲想に対し、審査員の1人だったアルベール・ルーセルが、「打楽器がさすがに厚すぎる」との疑問が呈され、チェレプニンからも楽器編成のアイディアは何処から来たのかと聞かれ、伊福部は「この曲は打楽器が主で管絃が従のつもりで構想し実現した」と答えると、チェレプニンは「西洋では普通、旋律楽器が主であって、リズム楽器は伴奏役でしかなく、どうしてもというときに使うのが常識だが、東洋人の普通の発想はおのずと違っているものなのか」と言ったという
第11章
セヴィツキーとアメリカ
伊福部とピアソラに重なる所がある。ピアソラ(1921~92)も幼少期にアルゼンチンを離れニューヨークで暮らし、タンゴとジャズを自然と混ぜ合わされる感性を磨き、更にクラシック音楽の20世紀のモダニズムの潮流とを結合させようとする。両者が音楽家として飛躍するチャンスを与えたのが指揮者のセヴィツキー。セルゲイ・クーセヴィツキーの甥。アメリカで活躍する叔父を追って渡米、作曲家の発掘と新作の世界初演に目がなかった
伊福部は、雑誌の新譜批評欄を見てセヴィツキーにファンレターを出したのがきっかけ
その直後にチェレプニン賞を受賞し、管絃楽の総譜とパート譜が欧米の一流出版社から発刊され、チェレプニンと親交のあったセヴィツキーが1936年ボストン・ピープルズ・シンフォニーを率いて世界初演。伊福部は1935年師走にチェレプニンのレッスンを受け、日本作曲界の尖端に立ったが、本職の音楽家の能力を思い知り、職業作曲家は断念
セヴィツキーは、1953年アルゼンチンに客演した際、チェレプニン賞に倣って、アルゼンチン作曲家の未発表の管絃楽作品を募集。第1位になって世界初演されたのがピアソラの『ブエノスアイレス交響曲』で、ピアソラのクラシック音楽世界のデビューとなる
1954年、伊福部は3楽章仕立ての交響曲『シインフォニア・タプカーラ』を完成。セヴィツキーの求めで翌年インディアナポリス交響楽団により世界初演するが、いかにもアメリカ的な上っ面で画一化する演奏に伊福部は不満で、アメリカ的文化には親しみを持てなかった
9.11の感想を聞くと、「アメリカのような国のありようは、いつまでも続かないのではないかと思っていたが、これからは大変な時代が長いこと続くのではないか」と予言していた
第12章
チェレプニンとティンパニ
伊福部がチェレプニンと対面を果たしたのは1936年7月。3度目の来日で、チェレプニンが伊福部に作曲のレッスンをつけたいと歌舞伎座に呼び出され、一緒に文楽を見た後目黒の雅叙園で酒を酌み交わし、そのまま横浜に行って滞在先のホテルでレッスンをつけてもらう
一番重要だったのは、音楽を理屈で考えるのではなく、運動の中の一瞬として捉えないといけないということ。オーケストラ曲のお手本はリムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』
チェレプニンが指摘したのが『日本狂詩曲』の中でのティンパニの使い方。ティンパニは、正確な音程を低音楽器として叩き分けられる特別な楽器なので、西洋音楽ではバスを定める音として重視されているが、伊福部は2つの音程しか叩かせていない
バスを定めてハーモニーを組み立て、曲の骨格とするという西洋音楽の基本が伊福部の音楽には完全に欠落、というか超越している。伊福部の音楽は本源的には、リズムが先で、メロディが後、そのリズムの拍動はコードやハーモニーの感覚と本質的に無縁な太鼓や手拍子のノイズと一体のもの。ドシラと下がっていくのが基本で、どこまで下がるかで発想するので、ドレミと上がっていく発想が基本ならバスは上がる起点だから最初に定まるが、下がる発想が基本ならバスは先々の落着所であって、最初から定まって鳴っていてはおかしいともいえる
第13章
モンタージュと雑種性
思いついた時に日常的・備忘録的に作譜しておき、必要に応じて取り出して作曲するのをモンタージュ理論という
横浜でのレッスンへの感謝を込め、チェレプニンの言いつけを深く心に込めて新境地を見出そうとし、師に献呈した作品が『土俗的三連画』(1937)
第14章
『土俗的三連画』と厚岸
チェレプニンは、『土俗的三連画』を高く評価、自らのコレクションにも加えた
『日本狂詩曲』が三管、四管編成(木管楽器のそれぞれの人数)という大編成を前提としていたため、欧米でも演奏されにくいことから、もっと小ぶりのチェンバー・オーケストラを前提に書いたほうがいいとのアドバイスをいれて書かれた。演奏のための指示も丁寧に配慮しないとプロの楽譜にはならないという
伊福部の生涯にのしかかり、不断に意識され続けた、チェレプニンの最大の教えは、単純さへの志向だが、『土俗的三連画』を書かせるよう仕向けたチェレプニンは、日本という観念ではなく、北日本の風土のありのままの現実に、伊福部の耳と目をリセットする
第15章
血液と昆虫
ストラヴィンスキーが好きなのは、彼のメロディやリズムに、北アジアの感性をもった北海道の人間としての私に、本能的に訴えるものがあったからで、伊福部の根本感性は人間を血で捉える。ロシア人に残る「タタールのくびき」が、ロシア人の血にアジア性を持たせている
日中戦争が始まってからも伊福部は厚岸の林務官に4年留まった後、札幌に出て北大の農学部の嘱託となり、演習林を管理。趣味の昆虫採集は林務官の頃から継続
第16章
飛行船と放射能
1941年、舞踊家の勇崎愛子と結婚
前年の皇紀2600年には『交響舞曲”越天楽”』を作る。全部既にある音楽の編曲みたいなもの
次いで『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』(1942)。次の『交響譚詩』(1943)は伊福部に大きな成功をもたらし(ビクターのコンクールで入賞、レコード化)、引く手あまたの人気作曲家となる。新京音楽院からも招聘
終戦直前、宮内省帝室林野局の技官として採用。レーダーに引っかからない木製の航空機製作の研究に従事する戦時科学研究員として強化木の開発に放射線を使っていたのが原因で被曝者となり、終戦後は1年間寝たきりの療養生活を送る
第17章
敗戦と休暇
卒論のテーマが趣味のヴァイリンに関わる木材の振動だったことが戦時科学研究員への道に繋がる。敗戦直後に喉から吐血、病院では病因の特定が出来なかったが自ら放射線障碍と確信して大事を取り続ける。戦後の伊福部らしさは、戦争がらみの被曝者体験が起点
次兄の勲も日本夜光塗料の技術者で、42年突然死するが、仕事で大量のラジウムを浴びたのが原因と推測される
戦争に負け、自分も倒れたけれども、この先、もしもまだ生きられるとしたら、もう媚びたり迷ったりしたくない、自らの実感に忠実でありたい。大地を踏みしめて踊る、そこを忘れてしまうと、この人間の世の中もついに終わるのではないかと思えた
『ゴジラ』に親近感があるとすれば、近代文明へのアンチテーゼとしてのゴジラであり、もともとオーケストラを力強く鳴らすことに曲書きとしての興味が深かった
療養生活が終わる頃、東宝で映画音楽の仕事をしていた友人から誘われ、人生を変えるつもりで引き受ける
第18章
革命・ユートピア・地獄
『銀嶺の果て』が、伊福部が初めて音楽を手掛けた映画。封切りは1947年。そこから映画音楽の地獄に堕ちる。監督の谷口にとっても最初の作品で、黒澤明が助監督。若者2人が滑る場面の音楽で監督と衝突。コールアレグレの独奏で山奥のスキー場の雰囲気を出したい伊福部と、若者2人が楽しく滑る雰囲気を出したい監督がぶつかり、黒澤のとりなしで、伊福部の主張が通る。監督絶対の映画界で、監督と喧嘩する作曲家が現れたと大評判に
東宝争議で映画の仕事が始まる前に、上野の東京音楽学校(現藝大)から管絃楽法の講師の声が掛かる。その時の弟子が芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄
第19章
フォトジェニーとフォノジェニー
1974年、東京音楽大学の作曲科教授に招聘。76~87年学長。その後は伊福部の主導で70年代に作られた付属の民族音楽研究所所長
フォトジェニックといえば、写真写りが良いこと、光り輝いていることを意味するが、映画音楽の原則としてフォトジェニックな映像と音楽の呼応が重要だという
フォノジェニーは、『トオキイ音楽の理論と実際』のキーワードで、音がはっきりと立ち上がってよく聴こえて良く伝わること。複雑なハーモニーは避けるが複雑なリズムは良い
第20章
縄文・東北・直線憧憬
伊福部がバレエやモダン・ダンスの世界と深く関ったのは戦後初期~1960年頃まで。代表作は『日本の太鼓”鹿(しし)踊り”』(1951)、『日本二十六聖人』(1972)
第21章
無心・童心・大楽必易
20世紀のクラシック音楽、その作曲の展開は「最も普通な意味に於ける音楽性を失った」と伊福部は言う。「近代の音楽観は大別して2つの主流に分けられる。1つは、音楽の構造的均衡を破ってまでも、雰囲気と、色彩と、情緒を、強調しようとする傾向であり、もう1つは、音楽は音の運動と継続の芸術であるという見地から、あらゆる情緒的なもの、感動的なものを否定し、聴覚的に均衡の取れた音響の構造物を作ろうとする傾向」と言う。いわば両極端が主流になって常識や伝統が解体されるのは、近代的自我の横暴であり、鼻持ちならない自意識
伊福部の著『流哇砕零(りゅうあいさいれい)』(1948)。流哇とは「不要なことに饒舌に亘る」の意、砕零とは「必要なことを簡略にしか述べない、或は全然触れない」の意。逆説的な題名で、伊福部の肝心要をひたすら披歴
音楽的志向、音楽的嗜好は、環境、言語、風土から、民族的形姿、声帯の持ちよう、発生のしよう、身の丈と関わりのある踊りよう、衣服などに規定される舞いよう、仕草にまつわる文化と結びつく体の動かしよう、幼時に接触機会の多い子守歌や踊り歌の具体的響き、言語とどこまでもつながって身につくリズム感、生活空間の大小から気象条件までの組み合わせの中で醸成されるどういうテンポを自然と受容できるか等々と、関わりながら、1人1人の内なる心と外なる肉体との相互作用として出来上がってくる。1人1人違うのは勿論だが、その違いにはおのずと限界がある。幼時からの環境、その時の記憶、そこに作り上げられた価値と離れてしまっては、その人が心底感動し、共鳴し、生きていて良かったと思える音楽はありえない。問題は、多くの人間の生育環境を、ある程度の共通項として規定する民族と風土の次元へと帰結する。伊福部が民族主義者を自任するのはこの意味に於いてである
「大楽必易」と「無為」を追求した伊福部はたくさんのことを我慢していた。ひたすらマンネリズムに身を浸し、それが1つの風格となり、無心になって、風土の根源についに触る。その先に個我を超えた広く深い世界が広がり、そこに身を任せて、伊福部その人が消滅する。作家の理想であったろう。近代人の教養としての音楽からは一番遠い所に行った、後近代人の脱教養と自意識殺しと童心回復のための音楽。無心に至らせようとする産婆術の試み。それが伊福部である。いや、伊福部であって伊福部を超えた何かであろう
新潮社 ホームページ
大楽必易―わたくしの伊福部昭伝― 片山杜秀/著
『ゴジラ』で音楽革命を起こした作曲家の生涯を直話で辿る決定版評伝!
《ドシラ ドシラ
ドシラソラシドシラ》というテーマ曲で怪獣に生命を与えた伊福部昭。原点はアイヌとの深い交流だった。北海道のアマチュア作曲家がチェレプニン賞第1位となり活躍した戦前・戦中から放射線被曝による雌伏を経て、映画で復活。91年の生涯を世界音楽史の中で捉え直し、なぜ幼児の心すら攫うのか、その秘密を探る。
発刊記念対談:ゼロ地点の音楽
片山杜秀、岡田暁生 『波』(2024年2月号)単行本刊行時掲載
《ゴジラ GODZILLA》のテーマで怪獣に命を与えた大作曲家。全世界の子供すら魅了してきた不思議な音楽の魅力を、『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)の名コンビが解き明かす!
反近代主義のルーツ
岡田 本の中で自身もおっしゃっていますが、片山さんは作曲家・伊福部昭の長年の「信者」です(笑)。
片山 はい。マイノリティの極みで。
岡田 われわれの近刊『ごまかさないクラシック音楽』は、いわば「主流音楽史」への批判だった。だからというべきか、既成音楽史では「傍流」にいる伊福部はまったく議論にのぼらなかった。仮想敵は、例えば小林秀雄のモーツァルト論や丸山眞男のベートーヴェン像に代表される教養主義的クラシック受容でした。つまり伊福部を傍流へ追いやってきた「主流」が標的だった。
片山 うーん、そうですね。
岡田 それに対して「今回こそ片山音楽史の総本山である伊福部を主人公にしよう」という企画がこれです(笑)。この圧倒的な本を読ませていただいて何より印象に残ったのは、明治以来の教養主義的洋楽崇拝への伊福部の沸々たる怨念です。当然ながら著者の片山さんもそれは共有しているでしょうし、実は私も深く共感するところです。ただ正直いえば私はこれまで、伊福部の音楽は避けてきました。その理由がこの本を読んでわかった気がした。つまり私と片山さん(あるいは伊福部)では、舶来教養崇拝に反感をもつに至るルートがかなり違っているのではないかということです。端的にいって伊福部=片山の「反近代」は北方から来ている。片山さんの生まれは仙台、伊福部の故郷は北海道。しかし私は徹頭徹尾「西」の人間なんです。
片山 父方は紀州なのですが、どうも母方の血が強いようで。祖父母は岩手出身。祖父は一関で、祖母は津波で流された大槌。祖父は逓信省の電気関係の役人で東京住まいでしたが、戦後の電力分割で東北電力へ行き、仙台で白洲次郎の鞄持ちになりまして。
岡田 『大楽必易―わたくしの伊福部昭伝―』には蝦夷の匂いが充満していますね。そして片山さんが住んでおられるのは茨城だけど、水戸はもともと常陸だから、源氏の武士の「東国」。
片山 書庫の都合で他に行きようがなく。常陸とはもともと、縁はないんですよ。
岡田 この本の舞台になる伊福部の音楽の故郷は、私のような「西」の人間にとって、もっとも縁遠い世界です。私の父は伊丹の出身なんですが、ここはもともと近衛家領。ほとんど天皇領みたいなものでしょう。伊福部は古代の因幡に遡る自分のルーツに強い自尊心をもっていたということですが、それでいえば伊丹は、伊福部の先祖を滅ぼし、あるいは北海道に落ち延びさせた仇敵の領地みたいなものです。しかも父の実家は造り酒屋だったから、どうしても私は江戸町人文化的なものと相性がいい。伊福部はスサノオノミコトを自分の先祖とすら考えていたようですが、そういう猛々しい古日本みたいなものに反射的に恐怖を覚える(笑)。ついでに言えば、私の母方は長州のこれまた造り酒屋でした。幕末の動乱で会津をはじめ東北の人々をひどい目にあわせ、北方へ追いやり、「近代以前」を徹底的に踏みつけて明治維新を敢行したのが長州。私の出自がことごとく伊福部のルーツと否定的に交差している。どうりで片山さんにいくら言われても、なぜか伊福部だけは聴いてみようとまったく思わなかったわけだ。きっと怖かったんでしょう(笑)。
片山 伊福部の敵が勢揃いしたようなご出自ですね(笑)。
l 「雑居(ハイブリッド)」としての日本
岡田 これは音楽ファンだけでなく、何より、近代日本思想に興味のある人が手に取るべき本です。戦前の北一輝や石原莞爾から戦後の丸山眞男まで、彼らが生涯をかけて格闘した「日本にとって近代とは何だったのか?」というアポリア(行き詰まり)。音楽を通して、それに答えを出そうとしたのが伊福部だった。
片山 今日も畳に炬燵で対談していますが、伊福部という人は、日本人はいくら西洋化しても家に入れば靴を脱ぐではないかと言う。岡潔の台詞を借りて、民族の美意識は千年単位でないと変わらぬと言う。でも、やっているのはあくまで西洋音楽。『管絃楽法』という本を書き、オーケストラに執着する。日本の伝統に根ざしていると主張するのだけれども、北海道を媒介にして本土よりも北アジアとつながってしまう。
岡田 偏狭な日本主義ではなく、いわばユーラシア主義としての日本主義ですね。
片山 田んぼの芸能とは違うんですね。日本的淡白さとは縁遠い。灰汁が強い。ロシアのオーケストラは馬力があっていい、というのが口癖で。肉が大好きだし。表では日本だ、日本だと言いますが、裏では、青少年時代の僕はヴァイオリンでベートーヴェンを一番練習したと言う。日本人が西洋音楽をやる矛盾に正面からぶつかっていた人です。
岡田 伊福部の「日本」は、反動右翼が口にする抽象化された「純粋な日本」ではない。そこには様々な歴史の古層がある。スサノオノミコトの日本、物部氏の日本まで透けて見えてくる。隣接諸国からもロシアや中国やギリヤークといった様々な文化が入り込んでいる。北海道にはアイヌもいる。そんな古代以来の人々の往来を通して形成された文化の古地図を見るような本です。
片山 伊福部らしさとは、北の「雑居(ハイブリッド)」なんですよね。
l 「体液」から世界を見る人
岡田 ところで伊福部は昆虫採集が趣味だったそうですね。
片山 岡田さんと同好の士ですね。
岡田 ところがびっくりなのが、昆虫の中でも「アオムシ」の標本を作るのが趣味だったということ。ふつう昆虫採集といえばチョウとかクワガタです。ところがアオムシ、つまりチョウや蛾の幼虫の標本を作る、と。これは相当珍しいですよ。幼虫は薄皮一枚剥がせば体液で、特別な刃物を使ってお尻を切り、中身を出して藁を突っ込み、口でフウッと吹いて膨らませて標本にしていたそうですね。ぞっとするような気持ちの悪い作業です。
片山 やっぱり、そうですか(笑)。
岡田 しかもこのエピソードは本書の核にかかわる気がしてなりません。文化にも体液がある。体液とはそもそも生々しく気持ちの悪いものかもしれない。こういうものを近代日本の清潔主義は隠そうとしてきた。しかし体液とはすごく儚いものでもある。すぐ乾いてしまう。伊福部が若い頃に経験したというアイヌの村祭りなども、まさに文化の体液だったでしょう。しかし伊福部は決してアイヌの伝統芸能保存といった方向へは行かない。作曲家として楽譜を書く商売になる。「五線譜」って西洋近代合理主義システムの極致ですよね。それに則って曲を作る。僕にはこのことが、アオムシの体液を絞り取って標本にする感覚と重なって仕方がないんです。
片山 いつも「血」の話をする人でしたね。風土や文化でなく、体液で語らないと気が済まない。ロシア音楽に親近感を持つ理由も、モンゴルがキエフ大公国を征服して、ロシア人は相当程度モンゴロイドと混血しているから一緒になれる。いつもそういう言い方をするのです。幾分なりとも同じ血液がないと分かり合えないと。
岡田 それにしても「血」と「土」とは思想的にちょっとヤバくないですか?
片山 そこは音楽家だから微妙にすり抜けられるわけで。政治思想家だったら大変ですよ。
岡田 他方で、伊福部はプロコフィエフに代表される未来派的というかマシーン的なものに激しく反応しますね。ますますヤバい(笑)。「血と土と鉄」とくれば、当初ナチス・シンパだった小説家エルンスト・ユンガーの『鋼鉄の嵐の中で』や『火と血』がいやでも思い出される。あ、そういえばユンガーも昆虫採集が趣味でしたが。それはともかく、こういう文脈の中での伊福部の歴史観ってどういうものだったんでしょうか?
片山 日本、モンゴル、ロシアの血のベルトを考えているわけでしょう。モンゴルを軸に、ウラル・アルタイ語族がユーラシア大陸でベルトになっているという司馬遼太郎と似ているかもしれない。
岡田 それにしても、先祖についての伊福部自身の語りもすごい。自分は天皇より前の日本人の末裔なのだ、ってことですよね。「ウルトラセブン」の「ノンマルトの使者」の回みたいな話です。今の日本人は実は原日本人を滅ぼした侵略者だった、みたいな。
片山 北海道育ちだから水田で蛙が鳴いている日本的原風景に馴染めないと言いながら、伊福部家は天皇より前に日本に住んでいる古代豪族であったとの自負が強い。祖父は、代々務めていた因幡国の一宮・宇倍神社の神主の座を、神社の人事に介入してくる明治国家の政策のせいで追われ、神奈川に一家で逃げた。父は警官になり、神奈川県から北海道に移って、あちこち転勤した末に、十勝の音更村の村長になってアイヌ行政に携わる。その音更に三男の昭少年も札幌から連れて行かれて、アイヌコタンに出入りを許される特別な大和民族になる。ユーラシア的な根を音楽で主張してやまない伊福部昭は画に描いたような貴種流離譚の人なんです。
l 合わせ鏡としての吉田秀和
岡田 これまで伊福部をなんとはなしに忌避してきた私ですが、今回はさすがにいろいろな録音を聴いてみました。今の日本の中堅指揮者たちの動画もいろいろ見ましたが、正直彼らはオーケストラをがんがん鳴らしすぎる。民俗音楽をそのままオーケストラで模倣したようにしか響かない。そのなかでちょっと別格の印象を受けたのが山田一雄さんの録音です。熱烈な音楽ファンというのは教祖=大作曲家の教えを使徒=演奏家が正しく伝道しているかどうかにとてもこだわるものですが(笑)、伊福部の「信者」としての片山さんの意見はどうです?
片山 仰せの通りです。山田一雄の伊福部は、フルトヴェングラーのベートーヴェンのようなもので。
岡田 山田は伊福部の音楽の「体液」を共有できる世代だったんでしょうね。ただし伊福部の音楽は「体液」に依存する部分がすごく大きくて、それを共有できる音楽家でなければ正しく再現できない脆さも感じたな。これを「普遍性の欠落」などというと言い過ぎでしょうが……。
片山 そこは言い方次第でしょうか。シベリウス、ブルックナー、ムソルグスキーのようなタイプの音楽なんです。「体液」がないと駄目でしょう。
岡田 近代日本が洋楽導入の手本にしたドイツ音楽を、伊福部は「日本人は自分たちから最も遠いものを手本にしてしまった」と喝破します。バッハのフーガやベートーヴェンのソナタ形式のことですよね。実はそれは日本人の「体液」に最も異質なものなのだと。日本人が行けるのはせいぜいシベリア経由でロシア=ストラヴィンスキーまで、イスラム圏経由でせいぜいスペイン=ファリャまで。意地悪く言えば、民族主義モダニズムという超近代にいきなり接続してしまう方が、バッハやベートーヴェン経由で近代を段階的に克服していくより簡単だ、と聞こえないことはありませんか……?
片山 伊福部が価値観を形成したのは、世界大恐慌後の「西洋の没落」が前提になった時代であり、恩師アレクサンドル・チェレプニンと同じく、近代はもう見限って、前近代から超近代へ行っていい、というノリはありますね。同時代の「近代の超克」と同じ思考パターンと言えるでしょう。
岡田 伊福部は何年生まれですか?
片山 1914年です。
岡田 1913年生まれの吉田秀和とほとんど同い年か……。しかも吉田も10代のころ北海道(小樽)で過ごしているから、伊福部と結構ルーツも似ている。でも、吉田さんはそんなことつゆほどにも見せなかったなあ(笑)。
片山 吉田さんは、伊福部昭の名前を口にしようとしませんでした。ほら、片山さんが好きなあの人、とか(笑)。
岡田 よく覚えてる。話題になっても名前を口にしないんですよね。黙殺(笑)。
片山 吉田さんは東京生まれですけど、関東大震災で焼け出されて北海道に移り、東京に戻り成城高校に行った。
岡田 東京私鉄沿線大正教養主義の牙城(笑)。
片山 伊福部と同じように吉田さんも本当にはどこにも根差せていなかったのではないか。伊福部はそこで先祖の国津神系古代豪族へと血を辿ってワープしておのれを安定させるけれども、吉田さんはまさかそんな荒技は使えない。そこで日本古代でなく、西洋近代へ同化しようと、ドイツ語もフランス語も懸命に勉強する。トルストイの『戦争と平和』は北海道で読むとよく分かるとは仰るけれど、ロシア音楽には行かなかった。
岡田 国民楽派に対する吉田さんの蔑視はすごかった(笑)。「体液」の臭いがするものは忌避していたんでしょう。
l 「憧れ」は何も生まない
岡田 伊福部はショートカットでいきなりドイツ(あるいはフランス)の文化を直輸入するというより、ユーラシアの地べたを歩きながらヨーロッパに接近しようとした人ですよね。樺太からシベリア、モンゴル、カザフスタンを横切って……。
片山 シルクロード経由でイスラムを通ってスペインのファリャまで行き、ロシア経由でストラヴィンスキーへ。
岡田 ファリャが好きだった理由がふるっている。ファリャはあれだけフランス音楽が好きだったのに、真似しようとしなかったのが偉大だ、と。
片山 遠いものへの「憧れ」は何も生まない、といつも戒められました。「憧れ」を過剰に意識するのはデラシネの問題があるからです。開拓地の役人の子で高等教育を受けた経歴を持つ伊福部昭ほど故郷(ハイマート)に阻害されている荒野の流れ者はいませんから。
岡田 洋楽に憧れる都会のぼんぼんインテリと対極にいた人ですね。彼が森林官をやっていた厚岸って、最近もヒグマが次々牛を襲う事件があったあたりだ(笑)。そんなところで山奥の小屋で寝泊まりする暮らしをしていた人が作曲家になった……。
片山 実際、厚岸の山小屋で熊に襲われそうになったことがあるそうです。ところで伊福部は北海道帝国大学でも農学部の林学実科の出であって、本科ではない。西田幾多郎が東京帝国大学の文科大学の本科でなく選科であったことを思い出してよいでしょう。当時としては選良に違いないけれど、はみだしている。そこにもうひとつ屈折があり疎外感があって、西田哲学か伊福部音楽か、構造と言うか結構と言うか、フォルムがおかしくなるわけです。きちんとした近代から遠く離れてしまう。
岡田 明治以来の東京的近代に対しても違和感がないはずはないですよね。急ごしらえで薄っぺらな舶来近代への反感。この薄っぺら感は残念ながら百年の間にますます加速され、そして黄昏を迎えているようにも見えますが、どうでしょう、そんな時代の日本にあって伊福部の音楽が何か指針を与えてくれるとすれば何でしょうか?
片山 司馬遷の「大楽必易」。伊福部の好んだ言葉です。本物の音楽はシンプルだということです。それからゲーテの「真の教養とは取り戻された純真さに他ならない」。これが伊福部の殺し文句でして。近代の教養を「真の教養」で撃つ。近代の教養の真打とは西洋近代音楽で言えばやはり対位法と和声学でしょう。それが「真の教養」への回帰を阻害する。
岡田 そういえば確かガルシア・ロルカがロマのことを「血の中に教養をもつ人」といっていた記憶がありますが、その意味での教養ですね。
片山 そして「真の教養」すなわち本当の音楽とは、純真さ、童心、単純さであって、それはたとえば「ゴジラ」のドシラみたいなものだ。展開なき反復だ。西田哲学の純粋経験も童心ではないですか。対位法や和声学をよく勉強して忘れられなくなり、ついにはシェーンベルクのように単純な反復を稚拙で恥ずかしいと感じるようになると、もう童心には帰れない。では誰が帰れるのか。北海道で独学で「近代の教養」をすっ飛ばした伊福部がそこに浮上するわけです。その意味で、もし近代が破綻してゼロ地点に還れば、どうしても伊福部が還ってきてしまう。今がそのとき。そんな気がしてならないのですが。
(おかだ・あけお 音楽学者)
(かたやま・もりひで 政治思想史研究者、音楽評論家)
好書好日
「大楽必易」書評 西洋的手法用いる創作者は必読
評者: 望月京
/ 朝⽇新聞掲載:2024年04月13日
「耳について離れなくなる音楽」。幼児期に映画館で見た「ゴジラ」シリーズ以来、著者の最も好きな作曲家だという伊福部昭(1914~2006)。半世紀以上もの筋金入りのファンである著者と作曲家の20年以上にわたる対話の記録が本書のベースである。
「伊福部信者」を自認する著者の思い入れあふれる筆致は、ときに批評精神を欠き、作品や作曲家に関する話がどこまで本人から聞いたものか、あるいは著者の想像か、想像ならそれがどの程度妥当なのかを曖昧にする。
伊福部の音楽論の、感情や感覚に基づく独断的な部分にも、疑問や異論を挟むことなく「名言」と断定するなど、特に序盤の無邪気な心酔ぶりには戸惑いすら覚える。
しかし、博覧強記と愛着ゆえの過剰推理にも思える虚構的ロマンが、いつしか独特の魅力を伴う壮大な物語として胸に迫ってくるのも事実だ。
伊福部家の系図から三男昭をスサノオに見立てた日本神話的読み換え。北海道に生まれ育ち、ロシアと中国の楽器や音楽、アイヌの異文化に日常的に接した環境が〝大陸的作風〟に与えた影響。日本の楽壇には「長く無視」されながらも、外国の要人音楽家たちに早くから認められ、農学部卒業後、林務官を務めながら作曲家としてのキャリアを築くことができた巡り合わせと不屈の精神。
本書が作曲家の評伝にとどまらず、歴史的、地理的、文化的、人生論的側面からさまざまな読み方ができるのは、著者と伊福部に共通する、複数の専門分野や文化に通じる複眼的視野の広がりや、置かれた環境から「当たって砕けろ」で好きなものへの道を自ら拓いてきた資質ゆえだろう。
一般にわかりやすくするための方便か(これも2人の共通点)、前半は首肯し難い言説が際立つ伊福部の音楽論も、後半には座右の銘の「大楽必易(だいがくひつい)」含め、西洋的表現技法を学び用いる音楽創作者にとって必読の示唆に富む話が満載だ。
◇
かたやま・もりひで 1963年生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶応大教授。著書に『音盤博物誌』など。
望月京(もちづきみさと)作曲家
1969年東京生まれ。東京芸術大学大学院およびパリ国立高等音楽院修了。作品はザルツブルク音楽祭、リンカーンセンター・フェスティバルなど、世界各地で上演されている。代表作にオペラ「パン屋大襲撃」、管弦楽曲「むすび」など。2024年4月より朝日新聞書評委員。
讀賣新聞 OnLine
『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』片山杜秀著
2024/03/29
15:20
評・苅部 直(政治学者・東京大教授)
◇かたやま・もりひで=1963年生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶応大教授。著書に『音盤考現学』など。
「世界音楽史」という言葉が、この本にはちらりと出てくる。片山杜秀がここで語る伊福部昭の姿は、誰もが知る『ゴジラ』のテーマ曲の作曲者や、西洋近代に対抗する「民族主義」の作風で昭和の楽壇を揺るがした現代音楽家という、一般に流布した像には尽きない。日本という閉域を突き抜ける「世界音楽」の試み。その歩みを片山は、本人の生前に行っていた聴き取りの膨大な記録に基づいて明らかにする。
伊福部家の先祖は、天照大神ではなく素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祖とする古代豪族。生まれ育ったのが北海道で、亡命ロシア人の歌声や中国由来の笛の音楽、さらにアイヌの歌のリズムに身近にふれていた。そこから、日本のいわゆる本土の伝統ではなく、北方少数民族、スラブをへてユーラシア大陸に至る、広大な世界を自分の基盤としたのである。本人の言葉を借りれば「世界が無理なく開ける」境地。
しかしその姿勢は、近代西洋の音楽のように、長調・短調の音階や和声の規則、固定したリズムといった、かっちりと整理された法則によって普遍性を手に入れるというものではない。伊福部は、そうした近代音楽の手法を「適当に」利用しながら、非西洋の音楽が伝える音階や変拍子のリズム、同じ音型の繰り返しといった特徴をとりいれ、そこに新たな生命を与えようと試みていた。
それが、さまざまな伝統音楽の単なる寄せ集めに終わらなかったところがおもしろい。本の題名になっている『大楽必易』は、儒学の古典『礼記』の楽記篇に見える音楽論に由来する語句で、『老子』の「無為」とともに、伊福部が愛誦した言葉。無心になって、自分の足元にまっすぐ錘(おもり)を降ろしていけば、そこに「易(やさ)」しい、すなわちすんなりと身に即したリズムとメロディが生まれてくる。そういう具合に、自身の音楽の創作方法と結びつけていたのだろう。
諸民族の音楽をさまざまに交差させた果てにたどり着いた、素朴にして底の深い境地。そこから生まれた作品を豊かに味わうための、最良の案内書である。(新潮社 2970円)
日経ビジネス
松浦 晋也の「チガサキから世間を眺めて」 2024.2.14
汎用AIの時代に読む『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』の面白さ
この記事の3つのポイント
l 片山杜秀氏『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』で興奮
l 伊福部氏の音楽が既存の曲に似て、かつ個性的な理由
l AIの時代になっても、個性の価値は残っていくのか?
最近出版された『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』(片山杜秀著 新潮社)を読んで興奮している。長年ひっかかっていた伊福部音楽に関する謎のいくつかが、長時間にわたる伊福部氏本人への聞き取りに基づいてきれいに解明されていた。
作曲家の伊福部昭(1914~2006)というと、多くの人が思い出すのは映画「ゴジラ」(1954)の音楽だろう。その浸透ぶりは「ゴジラの伊福部」と書くことがなんとはなしに恥ずかしくなるほどだ。
多分私は、伊福部の音楽と、少々他の人とは異なる遭遇をしている。最初は高校1年の時。神奈川県藤沢市、通学路の途中にある有隣堂書店楽器部の楽譜の棚に彼の「ピアノと管弦楽のためのリトミカ・オスティナータ」(1961/1971改訂)のオーケストラスコア(総譜)が入荷していたのを、たまたま手に取ったのだった。
5拍子と7拍子が交錯する複雑なリズムで、16分音符が縦にも横にもびっしりと詰まった譜面に、度肝を抜かれた。しかもそこに「力いっぱい鳴らせ」とばかりにffとかfffの強弱記号が付いている。
これはいったいどんな音楽なのか、聴いてみたい。幸い、その機会は比較的早く訪れた。NHK-FMがリトミカ・オスティナータの録音を放送してくれたのである。ピアノが小林仁、指揮が若杉弘、読売日本交響楽団という、今でも名盤とされる演奏である。
クラシック、それも邦人作曲家の曲がラジオのヘビーローテーションに乗ることは皆無だったので、狙った曲が聴きたければFM雑誌(FM放送の週間番組表を掲載した週刊誌があったのである)の番組表をチェックして、その時間にFMラジオ放送をカセットテープに録音するしかなかった。すなわちエアチェックである。
リトミカ・オスティナータをエアチェックしたカセットテープを何度も再生し、飽かず聴いた。驀進(ばくしん)するかような圧倒的な迫力に驚く一方で、楽譜の複雑さとは異なり、どこにも曖昧なところがない、大変見通しの良い音楽なのが印象的だった。
l この音楽は聴いたことがある……
そのうちに、疑念がもたげてくる――どうも自分はこの人の音楽を以前に聴いたことがあるのではないか。学校の図書館で調べると「ゴジラ」の作曲者と出てくる。「キングコング対ゴジラ」(1962、これも音楽は伊福部昭)は小学生の時に映画館で観た記憶があるが(1970年の東宝チャンピオンまつりで短縮版を上映)……いや、そうじゃない。あれかっ。
自分は幼稚園の時分に、最初の「ゴジラ」のテレビ放映を見たことがあった。すっかり忘れていたが、確かに見たぞ。
芋づる式に白黒のゴジラの映像と共に音楽が記憶の底からよみがえってきた。
ネットはまったくもって便利なもので、今になって調べると幼稚園児の自分が見た放送が、NHK総合の1967年2月26日午後4時~午後5時半であったことがすぐに分かる。当時5歳になったばかりの幼稚園児が1回テレビを見ただけで、音楽が記憶の底に残る――伊福部の音楽は尋常ならざるほどに強靱なものであった。
そうして私は伊福部昭の音楽を追いかけ、高校から大学にかけて「土俗的三連画」「交響譚詩」「シンフォニア・タプカーラ(タプカーラ交響曲)」と彼の代表作を聴いていったのだが、同じ時期、同じ大学に在籍していた片山杜秀氏は、他ならぬ伊福部昭本人のお宅にお邪魔して、長時間にわたって話を聴いていたのである。片山氏はその後10年以上伊福部からの聞き取りを続け、それが今回出版された『大楽必易』の基礎になっている。うらやましい限りだ。
伊福部昭の音楽を聴き込んでいくと、ひとつの謎に突き当たる。誰の音楽にも似ていない独自の音楽だというのに、メロディーの音の並びが先行する諸作品とそっくり、場合によってはリズムすら一致するということがあるのだ。
このことはやはり気にする人が多いらしく、ネットを検索するとけっこう言及しているページが出てくるのだが――ゴジラのメインテーマは、モーリス・ラヴェル(1875~1937)の「ピアノ協奏曲ト長調」(1931)第3楽章に全く同じ音の並びが同じリズムで、しかも大変印象的な形で登場する。代表作と言える「タプカーラ交響曲」(1954/1979改訂)はチェロが演奏する冒頭でぽんと5度音程で跳躍する印象的なメロディーで始まるが、これはセルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)のバレー音楽「キージェ中尉」(1934)の中の一曲、「ロマンス」の冒頭と同じ音の並びだ。同じく代表作の「交響譚詩」(1943)冒頭のメロディーは、これもプロコフィエフの「ピアノ協奏曲3番」(1921)の冒頭とそっくりである。
以下映画音楽なので、曲名を通称で書くと、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(1966)で新兵器メーサー殺獣光線車のシーンに使われる「メーサー・マーチ」は、オーストリアの作曲家ロベルト・シュトルツ(1880~1975)による「サロメ」(1920)冒頭とそっくり。「怪獣大戦争」(1965)の「怪獣大戦争マーチ」の音の並びは、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)の小品「パストラーレ」(1907)に似ている。
l 大家に遠慮なく突っ込む著者
しかし、盗作と断ずるには腑に落ちない。音の並びが同じでも、与える印象が全く異なる。音の並びやリズムが同じでも、一度伊福部の手にかかると「これは伊福部昭の音楽だ」としか言いようのない響きになっている。
『大楽必易』では、若き日の片山氏が、そこらへんを老大家となった伊福部に臆することなく突っ込んで質問している。
「そっくりと言われてもね。音の組み合わせは限られていますから」。伊福部はその話を思い出すとき、いつもややくやしそうな顔をした。
(『大楽必易』第3章 赤いサラファン より)
片山氏は、それを受けて、似てしまうのはそもそも伊福部の感性がプロコフィエフやストラヴィンスキーと似ているからだろうと書き、伊福部の生育過程にいかにロシアの音楽感性が影響を与えたかを本人から聞き出していく。伊福部の育った大正の北海道には、ロシア革命を逃れたロシア人が住んでいて、伊福部には彼らの歌を聴いて育ったという経緯があった。
さらに本の後半では、伊福部がメロディーや音律といったものを、どこまで深く思考していたかを分析していく。
伊福部は司馬遷の著した「礼記(らいき)」にある「大楽必易 大礼必簡(たいがくひつい たいれいひっかん:すぐれた礼節は簡素なもので、すぐれた音楽はわかりやすいものだ)」を生涯座右の銘とした。そう、本のタイトルは伊福部の座右の銘から採ったものである。
彼は、自分の個性をことさらに押し出すのではなく、そこから離れて、民族の、そして民族を形成する風土の、その奥底にある音の世界へと降りていこうとした。音楽の本質は民族性とか風土とかに根ざすもので、しかもそれはわかりやすいもの、簡素なものであると考えたのである。
簡素が最上である以上、彼は技巧的で装飾的な音の動きを嫌った。根本には幼時に父親からたたき込まれた老子の思想、つまり「無為」の教えがあった。
その上で彼は、具体的な音の選び方を考えていく。メロディーの最初の音を置く。ではその次、2番目の音はどの音であるべきか、2番目の音が決まれば3番目の音はいかに――そのレベルにまで突き詰めて考え抜く。
片山氏は伊福部の思考を追跡する中で、彼のフリギア調(長調でも短調でもない、ミの音から始まる旋法)へのこだわりが論理的に導き出される過程を解明していて、それは大変興味深い。
感性のルーツを探り、簡素な音楽を求めていくと、必然的に音の並びは単純なパターンに行き着く。それが、他の作曲家の選んだ音と似てしまうのは必然と言ってもいいだろう。
が、そうやって行き着いた音の動き、メロディーの流れが、逆にルーツから個人へと上昇し、伊福部の書く楽譜に定着されると、個性から離れていったはずのものが「これぞ伊福部昭」という唯一無二の個性的な音楽になる。
「伊福部のそっくり」とはそういう意味だった。
いやもう、私にとっては大変刺激的な読書だった。
l 「実行可能領域」での定石探し
しかし、創作全般における個性とは何なのだろうか。
創作は音楽であれ彫刻であれ絵画であれ写真であれ映画であれ、煎じ詰めれば人間の感覚器を刺激する情報の塊だ。
個性とは、情報の塊の中にあるその人でしか押し出すことができない独自性ということだろう。それは創作者の精神のありようとか身体的な能力といったものから立ち現れるもので、どんなにまねしようと思ってもまねしきれないものだ。
創作における個性の発露は、最終的に鑑賞する人々の心の中にすとんと落ちて、感興を呼び起こすことで完結する。
人の心の中で“腑に落ちる”ということは、人の心の中に収まりどころがあらかじめ存在するということを意味する。その意味では、芸術表現における個性とは、チェスや囲碁・将棋における「新しい定石」に非常に近い。チェスも囲碁も将棋も限られた盤面の中で、勝負の展開のありさまは有限だ。有限であるがあまりに可能性が莫大なので、ゲームのルールが成立してから何世紀も人間はその可能性の中から勝利につながる定石を探し続けてきた。
数学的には、莫大ではあるが有限な可能性のことを「探索空間」とか「実行可能領域」と呼ぶ。
芸術の表現もおそらく同じだ。多分その探索空間はチェスや囲碁・将棋の探索空間よりはるかに広いのではないかと思うが、その中で芸術家は新たな定石に相当する「人の心の腑に落ちる、新しい表現」を求めてきた。
入野義朗(1921~1980)という、伊福部よりやや年下の作曲家がいた。アルノルト・シェーンベルクが創始した十二音技法という20世紀の新しい音楽技法を日本に最初期に持ち込んだ作曲家だった。入野は亡くなる直前に発表した文章で、「"新しさ"さえもないような作品が創作の名に値するはずがないのである」(入野義朗「創作オペラの可能性について」音楽芸術1980年6月号)という言葉を残した。
ちょっと目には、「大楽必易」を掲げて自らのルーツへと降下していく伊福部とは正反対の態度に思える。
しかし、音楽芸術における未知の定石の探索、すなわち実行可能領域の探索と考えると、探索の方向性が違うだけであって、伊福部と入野の態度は一致する。2人とも「今まで誰も知らない、しかし目の前に提示されれば、ああなるほど、と、すとんと心に落ちる表現」を指向していたということになる。
もちろん人の感性は色々であり、同時に基本的に保守的な性向が強いから、新しい表現ほど最初は「なんだこれは」「醜悪だ」「無意味だ」と批判されることがままある。ストラヴィンスキーの革新的なバレエ音楽「春の祭典」は、1913年5月29日のパリ・シャンゼリゼ劇場における初演で、観客が賛成と反対に分かれてやじを飛ばし合う大騒ぎになった。後に名作とされるようになった作品でもこういうことはある。
「春の祭典」とは逆に、「マノン・レスコー」(1893年初演)、「ラ・ボエーム」(同1896年)、「トスカ」(同1900年)と、オペラでコンスタントにヒットを飛ばした作曲家ジャコモ・プッチーニ(1858~1924)は、「私は聴衆に一歩先んじても数歩は先んじない」と語った。探索空間の未知の遠方へはあまり手を伸ばさない、ということだろう。
もっともそのプッチーニも、当時の欧州の人々には未知の地であった日本を舞台にした「蝶々夫人」(1904年初演)は初演で不評を食らって大失敗した。といっても「蝶々夫人」の音楽そのものはまさしく「一歩先んじても数歩は先んじない」プッチーニ・クオリティーだったので、再演は大成功。今では世界中で上演されるようになっている。「一歩先んじても数歩は先んじない」というポジションを見極めて陣取るにも、相応の才能と努力が必要だ。
面倒なことに表現では「メタな表現」というのがあり得る。チェス・囲碁・将棋などでは「メタな定石」はあり得ない。が、芸術の場合は「みんながこう考えている」という認知の枠組みに馬乗りして「と、みんな思っているけれど、実はねー」みたいなことが可能になる。
その典型が「引用」とか「オマージュ」といわれる手法だ。「過去の有名どころの引用」は、芸術の有力な表現手法となって現在に至っている。表現を「あ、あれ知っている」の「あるある」に引き込めるので、割と簡単に人々の耳目を引きつけるからだろう。パロディーという形でサブカルチャーも、積極的に「引用」を利用している。
では「引用」における個性はといえば、それは「『引用』という手法をどのようにして使うか」という、もう一段メタな話になる。それは一歩間違えば盗用・パクりにもつながりかねない危うさをはらんでいる。
l 「ボレロ」でコンテを切った黒澤監督
音楽の場合、「そっくりだけれどぎりぎり違う曲」というのを意図して作ることが可能だ。特に映画音楽では、監督が作曲家に「どれそれ風の曲が欲しい」と要求することがあって、その気になれば「アレ風だがちょっと違う」をいくつも見つけることができる。
「羅生門」(黒澤明監督 1950)で、黒澤監督がラヴェルの名曲「ボレロ」に合わせてコンテを切り、撮影してしまったので、作曲家の早坂文雄は苦心惨たんして和風のボレロを書かなくてはならなかった。現在、「真砂の証言の場面のボレロ」というタイトルで演奏されることがある音楽だ。
黒澤監督には他にもこういう話があって、「乱」(1985)では、音楽を担当した武満徹がおよそ武満らしくないグスタフ・マーラーみたいな音楽を書いている。この映画の制作過程で、黒澤と武満はかなり激しく対立したとのことで、その後の黒澤映画、「夢」(1990)、「八月の狂詩曲」(1991)、「まあだだよ」(1993)の音楽は、武満ではなく「影武者」で音楽を担当した池辺晋一郎が登板することになった。その池辺は若き日に音楽を担当したテレビアニメ「未来少年コナン」(宮崎駿監督 1978)では、器用に軍艦マーチそっくりの音楽を書いていたりする。
つまり資本主義の現代社会において、芸術は個性とも表現とも無関係のところであっても経済的価値を生む。この資本主義社会では、著作権が発生し、現状で死後70年は保護され、絵画や彫刻は画商・美術商・骨董商などを介して取引されるし、音楽ならば著作権管理団体を通じて作者に報酬をもたらす。
さて――そういう分野に今、汎用人工知能(AGI:Artificial General Intelligence、特定の分野に特化せず、さまざまな用途に使えるAI)の大嵐が吹き込んで来ている。
私の見るところ、AGIのやっていることは、チェスや囲碁・将棋と同じ、探索空間のしらみつぶし、総当たりの調査だ。が、芸術における探索空間はボードゲームよりもはるかに広いので、今のところ今までに人間が作り上げてきた表現の模倣にとどまっている。過去に人間が開拓してきた探索空間の内側にいるわけだ。
l 人工知能は個性を無用にするか?
それだけでも、経済的にも文化的にも大きな意味がある。誰かの画風の模倣でも、人件費を支払わずに絵画が生成できるなら、経済活動はそちらに流れる。そのようなAGIは、データ化した既存の絵画を大量に学習させなければ作ることはできない。だから今、AGIに学習させるデータの著作権をどう扱うべきかが大きな問題になっている。AIが著作権無視で無制限に学習できるならば、それは現状ではアーティストにとっては情報的搾取に他ならない。
しかし、チェスや囲碁・将棋と同じように事態が推移するなら、そのうちに違うフェーズが始まる。囲碁・将棋では相互に超高速で対戦する複数のAGIが、それまでの定石からは理解できないような手を打つようになった。つまり囲碁や将棋の探索空間には、過去何世紀にも渡る人間の探索の手が届いていなかった領域が存在し、AGIはその未踏の領域に踏み込んで、新しい定石を発見するようになった。だから、今やトップレベルの棋士ほどAIを使って研究するようになっている。
おそらく芸術の生成AIも、そのうちに似たような状況になるのではなかろうか。AGIがAGIの生成した情報を鑑賞し、学習することで、今まで誰も思いつかなかった「人間の心の中で腑に落ちる新しい表現」を発見するようになるのだ。「ピカソがいなかった世界で、AGIが中期以降のピカソの画風を発見する」といえば分かりやすいだろうか。
他方で、人間社会の側には、そのようなAGIがもたらす新しい表現を追求するダイナミズムを、どうやって資本主義社会に接続するか、という課題が投げ返されてくることになる。すでにAGIの生成したデータの著作権はどこに帰属するのかという問題が発生している。長い時間を費やし、幾多の妥協を重ねながら、問題を解決していくことになるだろう。
そうなれば、トップレベルのアーティストほど今の棋士のように、AIを使って新たな表現領域へ踏み出すことになるだろう。広大な芸術の探索空間に、どんな表現が埋もれているかはまだ分からない。あるいは広くても一面の荒野だったという可能性もある。
とはいえ、これは良いとか悪いとか、ユートピアかディストピアかという話ではない。いや応なしにそういう状況がやってきて、私たちはこの社会の仕組みをどうするかであたふたすることになるのだろう。
さてそんな状況になっても、個性というものには、意味があるのか。伊福部昭のように「大楽必易」を掲げることに意味はあるのか。入野義朗のように「"新しさ"さえもないような作品が創作の名に値するはずがない」と突き進むことは有意義であり続けるのか。
人間の個性というのはこういうものだ
『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』があまりに面白かったので、その勢いのまま私は伊福部の歌曲集のCDを購入し、本稿を執筆しながら聴いている。「古代からの声 伊福部昭の歌曲作品」(CAMERATA)というCDだ。片山夫人でもある歌手の藍川由美が伊福部の歌曲を歌っている。
同CDには、2007年になって楽譜が発見された「平安朝の秋に寄する三つの詩」(1933)が収録されている。伊福部18歳から19歳にかけての最初期作品だ。驚いたことにこれが見事に伊福部調なのである。簡素な音の並びからは、「ゴジラ」のメインテーマにもつながる音の連なりが聞こえてくる。藍川の手による伊福部作品の中の「ゴジラ」音型を徹底解説した付属小冊子が、理解を助けてくれる。
CDには、伊福部86歳の作品「蒼鷺」(2000)も収録されている。いてつく氷原に片足で立つ蒼鷺を「凍つた青い影となり 動かぬ」と詠む更科源蔵の詩に付く音楽は、簡素で厳しい。が、決して老境の枯淡の境地ではない。「平安朝の秋に寄する三つの詩」からずどんと一貫していて、そのまま深化している。
人間はここまで見事に首尾一貫できるものなのか。
AGIが新しい表現をもたらす時代になっても、個性というものには、意味があるのか――伊福部昭という存在そのものが、この問いへの答えなのである。
私は生前の伊福部昭氏にお会いしたことはない。が、『大楽必易』のかなりの部分が、伊福部との会話体で書かれているので、なんとはなしに、伊福部の声が聞こえるような気分になってしまった。
私の中の幻の伊福部昭は「またずいぶんと、小さな、つまらぬことを書いておられるのですな」と言っているような気がする。
はあ、と、頭を垂れるのみだ。
Wikipedia
伊福部昭(1914年〈大正3年〉5月31日[注釈 1] - 2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。位階は従四位。
ほぼ独学で作曲家となった。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。北海道出身。
来歴
1914年(大正3年)、北海道釧路郡釧路町(現・釧路市)幣舞にて、警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。また、このころから父親に『老子』の素読をさせられる。
1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)に入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成。地元で展覧会も開いたという。その後音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で始める。さらに三浦に「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた。
1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科学校(森林科学科)に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった。ギター曲『JIN』作曲[注釈 2]。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』を作曲[注釈 2][注釈 3]。このころ後の作曲家早坂文雄と出会う。
1933年(昭和8年)、19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』を作曲[注釈 2]。さらに、三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランド(英語版)のために『ピアノ組曲』を書き上げる。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。
1934年(昭和9年)、20歳。次兄の勲、三浦、早坂、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた。同年9月、「国際現代音楽祭」を開催[17]。イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウス・ミヨー、マヌエル・デ・ファリャ、エルヴィン・シュルホフ、エリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏・紹介した。また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を日本初演している。楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスのデュラン社・イギリスのチェスター社から購入していた。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの『六重奏曲』の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った。
「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであったが、20年後の1954年に当時北大生であった谷本一之(のち北海道教育大学学長)らのグループ「ノイエ・ムジーク」が、同大学の中央講堂で「新音楽連盟」の演奏会を継承するとして「現代音楽の夕」を開催している。谷本は事前に先輩の伊福部らに許可を求める手紙を送ったが、伊福部からは「御役に立つなら第二回でも第三回でもご使用ください。 〜(中略)〜 選曲や、演奏の上で多少、不適当なものがあったとしても、その支障を超える気力が重要です」と激励の返信があったという。
l デビュー作・日本狂詩曲
1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。アメリカの指揮者ファビエン・セヴィツキー(セルゲイ・クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。
同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった[注釈 4]。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、
1. 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
2. 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
3. 北海道の厚岸町から応募してきたこと
との理由から、相当の驚きと困惑があったという。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。
結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。賞金は300円であった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平と伊福部はともに新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、そのカットした部分の楽譜は現存しないため、永遠に幻となった。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。
これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。チェレプニンは伊福部にニコライ・リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』のスコアを渡し、筆写して学ぶことを勧めた。
なお、『日本狂詩曲』は、1936年に龍吟社からチェレプニン・コレクションとして楽譜が出版されている。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた。この楽譜は、日本国内では僅か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという。
l 戦前・戦中
1937年、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』を作曲し、チェレプニンに献呈する。
1938年、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選。
この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。
1940年、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。
1941年、27歳。札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。これが後に舞踊作品の音楽を手掛けるきっかけとなる。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。
1942年、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。
1943年、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』を作曲。
1944年、30歳。管弦楽曲『兵士の序楽』を作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』[注釈 5]を作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』を作曲。
1945年、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた。研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している[注釈 6]。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという。航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった。
l 戦後
1946年、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育てた。
またこのころ、『管弦楽法』の執筆に取り掛かっていたが、トランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために『管弦楽法』をまとめるのに5年はロスしたという。
1947年、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている。
この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。
バレエ曲『エゴザイダー』作曲。
同年、『交響譚詩』などの業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞。
1948年、34歳。世田谷区玉川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』初演[注釈 7]。バレエ音楽『さ迷える群像』を作曲。バレエ音楽『サロメ』を作曲[注釈 8]。
1949年、35歳。父・利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』[注釈 9]を作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』を作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』を作曲。
1951年、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)を刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』を作曲[注釈 10]。
1952年、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』がジェノヴァ国際作曲コンクール入選。
1953年、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』を作曲[注釈 11]。『管絃楽法』(音楽之友社)を刊行[注釈 12]。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。
1954年、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当[出典 9]。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。
管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』を作曲[注釈 13]、三浦淳史に献呈。
1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。
1956年、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』を作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』を作曲。
1958年、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』を作曲[注釈 14]。
1960年、46歳。北海道大学合唱団委託作品、独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』を作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』を作曲。
1961年、47歳。合唱曲『北海道賛歌』を作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』を作曲。
1965年、51歳。母・キワ死去。
1967年、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』を作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)。
1968年、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)の上巻増補改訂版と下巻を刊行。
1969年、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』を作曲[注釈 15]。
1970年、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』を作曲[注釈 16]。
1972年、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』を作曲[注釈 17]。バレエ音楽『日本二十六聖人』を作曲。
1973年、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』を作曲。
1976年、62歳。同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』を作曲。
1979年、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』を作曲。二十絃箏曲『物伝舞』を作曲。
1980年、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』を作曲[注釈 18]。紫綬褒章受章。芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催される。
1982年、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』を作曲
1983年、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー』を作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。また、音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム『ゴジラ伝説』全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった。
1985年、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。
1990年、76歳。管絃司判『鞆の音』を作曲。
1991年、77歳。『ゴジラVSキングギドラ』で13年ぶりに映画音楽を担当[注釈 19]。以後、『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)を除き、『ゴジラvsデストロイア』(1995年)までのゴジラシリーズ(平成VSシリーズ)の音楽を手掛けた。
1992年、78歳。独唱曲『摩周湖』を作曲。
1993年、79歳。交響的音画『釧路湿原』を作曲。
1994年、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』を作曲。
1996年、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。
1997年、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』を作曲。「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団、札幌コンサートホールKitara。北海道文化放送・北海道新聞社主催)開催。『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される。
1999年、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』を作曲。
2000年、86歳。独唱曲『蒼鷺』を作曲。独唱曲『聖なる泉』を作曲。妻・アイ死去。
2002年、88歳。「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団、紀尾井ホール)。
2003年、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』を作曲。文化功労者顕彰。
2004年、90歳。「文化功労者顕彰お祝いコンサート」開催(第一生命ホール)。「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団、サントリーホール)
2005年、91歳。11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される。
l 晩年
晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏など箏の改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年にそれまで戦時中に失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。
2006年、前年ごろから体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも、2月8日夜に多臓器不全のため死去。91歳没。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。従四位に叙された]。
遺作は結果として、2004年初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、ならびに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語で十勝平野の意)は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったという。
伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられた。
l 没後
2007年、サントリーホールにて「第1回伊福部昭音楽祭」が開かれた。
2008年、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。杉並公会堂にて「第2回伊福部昭音楽祭」開催。コンサートの他、シンポジウム「伊福部昭が残したもの - 未公開映像に見る伊福部昭の素顔」が開かれた。
2013年、5月2日、杉並公会堂にて「伊福部昭生誕99年 白寿コンサート」(伊福部昭生誕99・100年音楽祭実行委員会〈現・伊福部昭百年紀実行委員会〉主催)が開かれた。6月1日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「伊福部昭 生誕100年記念プレコンサート」が開催。舞踊音楽『プロメテの火』が50年ぶりに再演された。
2014年。生誕100周年を迎えるこの年は、数多くの記念コンサート・イベントが行われた。またメモリアルイヤーを記念し、多くのCDがリリースされた。コンサート・イベントについて、主要なものを以下に述べる。
演奏会
新交響楽団は、1月19日に東京芸術劇場コンサートホールにて、「第224回演奏会〜伊福部昭生誕100年〜」(指揮・湯浅卓雄、マリンバ・安倍圭子)を開催した。
「伊福部昭百年紀実行委員会」(実行委員長・今井重幸、副委員長・永冨正之、眞鍋理一郎)は、2月1日、7月21日、11月24日と3回にわたり、メモリアルコンサート「伊福部昭百年紀」を開催。
日本フィルハーモニー交響楽団は、2月27日に横浜みなとみらいホールで、「グレート・アーティスト・シリーズVol.2〜楽壇を育てた日本の巨匠たち〜伊福部昭 生誕100年メモリアル・コンサート」(指揮・井上道義[注釈 20]、マリンバ・安倍圭子)を開催した。
伊福部の母校である北海道大学では、北大合唱団の創立100周年記念も併せ、5月11日に札幌コンサートホールKitaraでの北大合唱団OB会第10回演奏会において、石川健次の指揮により、バリトン独唱用の歌曲《シレトコ半島の漁夫の歌》(合唱版、堀井友徳編曲)が上演された。
札幌交響楽団は、5月30日と伊福部の生誕日である5月31日の2日間にわたって、札幌コンサートホールKitaraで、「第569回定期演奏会〜伊福部昭生誕100年記念〜」(指揮・高関健、ヴァイオリン・加藤知子)を開催した。
伊福部の出身地の北海道釧路市の「まなぼっと幣舞」大ホールでも、5月31日に「伊福部昭 幣舞生誕百年記念コンサート」が開催された。同市在住で伊福部の教え子である石丸基司の企画によるもので、東京や道内の音楽家の他、釧路市民吹奏楽団など地域の音楽団体を中心に約100人の市民が出演した。なお、会場となる「まなぼっと幣舞」周辺は、釧路警察署近くにあった伊福部の生家に程近い場所であるという。
東京交響楽団は、5月31日にミューザ川崎シンフォニーホールで、「伊福部昭 生誕100年記念コンサート」(指揮・大植英次)を開催した。
イベント
7月19日から9月28日にかけて、伊福部の郷里・北海道で開催された『札幌国際芸術祭』(ゲストディレクター・坂本龍一)では、メインイベントの一つとして、北海道庁赤れんが庁舎において、「伊福部昭展」が開催された。また、9月23日には、伊福部の長女で陶芸家の伊福部玲を招いたトークショーと、貴重な音源を集めたレコードコンサートで構成された「トーク&レクチャー 伊福部昭レコードナイト」が開催された。
9月19日から29日にかけて、パルコギャラリーXにおいて、「ゴジラ伝説と伊福部昭の世界展?GODZILLA GENERATION?」が開催された。
2019年、アメリカ映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』において、伊福部の作曲した「ゴジラのテーマ」が海を越えてアレンジ版となって使用された。
2021年、伊福部昭の作品資料1,243点&愛用ピアノが、遺族から東京音楽大学に寄贈された
l 栄典
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2006年 第48回日本レコード大賞特別功労賞
2007年 第30回日本アカデミー賞会長特別賞
l 人物
幼少期に西洋音楽に触れず、アジアの田舎の感性で育ったと述べている。動物とも近い距離感で生活していたことから動物を愛好しており、幼少期にはヘビや鳥などを多く飼っていた。『ゴジラ』の映像を最初に観たときも、怖さよりも魅力的に感じたという。
終戦時にGHQによる戦時科学研究の検査で、使用した資材の量をトン単位で聞かれたことで桁が違うことを痛感し、日本の敗戦はテクノロジーの差であったという印象が強くなったという。そのため『ゴジラ』では、現実的な人間のテクノロジーがゴジラに通用しない様が痛快であったといい、アンチ文明の思想に人並み以上の共感を覚えたと述べている。
「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた。また、伊福部家の家学は老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた。自宅の書斎には「無為」という諸橋轍次の書があり、いつもこの書を見てから仕事を始めた[57]。
政治的スタンスについては自ら明言することはなかった。2005年には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している。
自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』など)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。
タバコ[注釈 21]をこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道の森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。
「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして……」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部の作品に対する評価は手厳しいものであったと述懐している。
門下生である広上淳一が日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した4枚組みCD『伊福部昭の芸術』は、日本の現代音楽作品としては異例の売り上げを記録した。伊福部はこのことについて、「戦後日本は憧れであちこちから音楽を集めてきたが、全て切り花、根無し草で終わった。それで前から根の生えていたものを探したら、我々がいたということではないか」と述べている。また、1935年に発表した『日本狂詩曲』が、45年経った1980年にようやく日本で初演され、以後度々演奏されるようになったことについては、「それだけ長い期間、演奏機会に恵まれなかったのは、やはり私の音楽が、あまり日本のクラシック音楽界から好まれていなかったことの証明だろうと思っています。近年の傾向は、ロック・ミュージックの影響で、私のリズムを強調する音楽に違和感を覚えぬ方が増えたとか、日本人の耳が私の音楽を受け入れる方向に変わってきたせいではないでしょうか?」とコメントしている。
音楽評論家の片山杜秀は、「伊福部先生の音楽は、日本的なイメージにとどまらない大陸的でスケールの大きなものだった。北海道で生まれ育ったことも大きく影響している。北方的な自然の感性をうまく音楽にしていた」と評している。
同じ北海道出身の作曲家・佐藤勝は、直接の師弟関係はなかったものの、北方的な力強さを持った伊福部作品に大きな憧憬を寄せ、影響を受けた。1993年11月には、伊丹市立文化会館で佐藤の企画・指揮により、伊福部の特撮映画音楽を演奏する「ゴジラ生誕四十周年記念コンサート」が開催されている。
前述の通り、音楽評論家の三浦淳史は旧制札幌二中時代からの親友で、伊福部が作曲家になるきっかけを作った人物でもある。1997年に三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若いころの音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた。
伊福部は同じ道東出身で、北海道の自然と風土を力強く詠った詩人・更科源蔵の作品に魅せられ、彼の第二詩集『凍原の歌』に収録された作品を基に、「オホーツクの海」(1958年)、「知床半島の漁夫の歌」(1960年)、「摩周湖」(1993年)、「蒼鷺(あおさぎ)」(2000年)の4作の歌曲を発表している。林務官時代に道東を回ることが多かった伊福部にとって、知床半島は特に印象の深い地であったという。「摩周湖」と「蒼鷺」は、伊福部の作品に取り組んでいるソプラノ歌手・藍川由美のために書き下ろされた。
平成ゴジラシリーズの音楽プロデューサーを務めた岩瀬政雄によれば、伊福部は徹夜で編集作業や打ち合わせを行うこともあり、スタッフが疲れてくるとジョークを言って和ませるなどしていた。
l 語録
「作曲家は氏・素性を音楽で語らねば駄目だ」
「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」
「17歳から22歳までに得たものは一生離れない」
「楽譜をきれいに書けない者は良い音楽が書けない」
「自然無為が大切だ」
「香水は物凄く臭いものから作られる」
l 家族・親族
伊福部家は因幡国の古代豪族・伊福部氏を先祖とする。本籍地は鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。祖父・信世の代に明治維新となり、神官の世襲が廃止されたことにより父・利三は北海道に転居し、警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた。
長兄の伊福部宗夫は北海学園大学建設工学科教授、次兄の伊福部勲は技術者として日本夜光塗料研究所に勤務していたが30歳で早世した(昭の「交響譚詩」第2楽章は亡き勲への追悼曲)。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)、放送作家の伊福部崇は従孫である。なお、伊福部家の人物としては宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦も知られている。
l 作品の特徴
シンプルなモティーフの反復・展開
これはアイヌなどの先住民族の音楽に影響されたもの。旋律はメリスマ(日本音楽でいう「こぶし」)と呼ばれる豊かな装飾を受ける。
民族的旋法の使用
作品の多くには日本の五音音階やフリギア旋法、エオリア旋法に近い旋法が用いられている。
三和音の否定
これは西洋的な響きを嫌ったためで、2度、4度、5度、8度を積極的に用いている。結果、機能和声からは自由で独特な和声進行を持ち、またドローン(持続低音)的な要素が存在することが多い。
リズムの重視
西洋音楽はリズムを無視した結果袋小路に陥った、としてリズムの復権を主張した(変拍子の多用はそのあらわれか)。そこから、次のオスティナートの使用へと繋がっていく。
オスティナートの重視
師匠のチェレプニンからは、「現代音楽のアキレス・ポイント」であるから避けるように、と指示されたが、オスティナートこそアジアの音楽で重要な書法だ、と位置づけて創作に取り入れた。
アイヌ音楽について解説した文の中で、「反復すること其れ自体に重要な意味がある」と述べている。
映画音楽でも多用しており、メロディアスで観客が覚えやすい曲となっている。
ソナタ形式の否定
これは、日本的美意識に照らし、機械的な主題再現を嫌ったためで、主題が再現されるときでもソナタ形式での狭義の再現部は見られない。また曲には主題提示→展開→発展的終結、という構成を持つものが多い。
『日本狂詩曲』以降晩年まで変わることのなかったオーケストレーション技法は著書『管絃楽法』に凝縮されている。
マイナーな楽器・奏法の多用
伊福部は様々な楽器の音を把握していたとされ、王道な演奏にとらわれず各楽器の特性を最大限に利用した楽器編成を行っていた。
弟子の1人である三木稔は、「(伊福部)先生は他の作曲家があまり使っていないところを使って音作りをしてしまう。管弦楽法の内容の全て裏をいっているのに、ひどくおいしいところを使って音作りをしているように感じる」と語っている。
l 映画音楽でのエピソード
映画音楽は300本以上の作品を手掛け、日本を代表する映画音楽の作曲家の1人である
映画音楽の作曲にあたっては、
インタープンクトとカウンタープンクト
時空間の設定
ドラマ・シークエンスの確率
画そのものが発する音楽的喚起
からなる映画音楽効用四原則を理念としていた。
映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことをとがめられた。しかし小杉が離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。
1948年、映画の仕事で京都に滞在していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介[注釈 22]とこたつで酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。「またもらい酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた。この男こそ特技監督の円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身であった。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場で再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという。
円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが、特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた[注釈 23]。これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている。また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井啓も、「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している。
『座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ[注釈 24]でなければならない、と言うことで伊福部に音楽を依頼したという。
伊福部は、映画音楽では録音テストの際、必ず自ら指揮棒を振った。伊福部と映画作品でのコンビの長かった指揮者の森田吾一によると、その際、普通の倍の長さの指揮棒を使うのが常だった。また、このテストの際の指揮のテンポが次第に遅くなって、スクリーンに映写した画面といつも合わなくなるのだが、それは伊福部が音楽の響きをチェックしていたためだという。
これも森田によると、伊福部のスコアは作曲時間の短さにかかわらず、非常に細かくしっかりと書き込まれており、曲の途中に複雑な変拍子が入るのも特徴で、この変拍子を振るのはコツがいるものだった。
怪獣映画においては、楽曲のみならず怪獣の鳴き声や足音なども伊福部が手掛けている。『ゴジラ』では、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのスル・ポンティチェロというきしんだ奏法の音を使用することを発案したり[注釈 25]、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、弦楽器がグリッサンドしながら高音のきしんだトレモロを奏でた後、ピアノの低音部でトーン・クラスターを奏するなど、映画の公開された1954年にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、世界的に見ても特筆に価するものだった。さらに『空の大怪獣 ラドン』では、ピアノ内のピアノ線を直接ゴムのバチで叩いたり、『キングコングの逆襲』のメインタイトル曲では、同じくグランドピアノ内の弦を100円玉でしごくという奏法を使用している。怪獣の効果音で最も苦労したものとして、『キングコング対ゴジラ』の大ダコを挙げている。
映画監督の本多猪四郎によれば、伊福部は打ち合わせの際に映画内でどのような擬音(効果音)を用いるのか細かに尋ね、効果音と同質の音楽で相殺しないよう相反する性質の音をつけていったという。平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部について演出家の意図を尊重していたといい、たとえ楽曲を用意していたシーンでも不要と判断すれば曲を外すことに異論は出さなかったという。
怪獣映画においては、怪獣ごとにライト・モティーフを設け、対決シーンではそれらを紡ぎあげてバトル音楽とする手法をとることが多い。また、怪獣との戦いの合間に人物の会話が行われるような場合でも、カットごとに音楽を区切ることはせず、1つのシーンとして楽曲を長くつけるのも特徴である。
「◯◯マーチ」と通称される曲も多いようにマーチ調の楽曲も得意としているが、伊福部はマーチを書く際は軍隊行進曲にならないことを最も注意していたという[注釈 26]。
『フランケンシュタイン対地底怪獣』では、伊福部はフランケンシュタインのテーマ曲のためにバス・フルートという通常のフルートより低音の楽器を日本の映画界で初使用している。この楽器は当時日本には1本しかなかった非常に珍しいもので、音量の低さからオーケストラ演奏では稀にしか用いられないものだが、伊福部は「映画音楽しかできませんね」と、マイクロフォンを用いることで効果的な旋律を実現している。
伊福部による怪獣映画の楽曲では、管楽器の低音を用いることが多いため、昭和期の気の知れた演奏家たちからは「チューバやトロンボーンのギャランティは倍にしてくれ」と言われたこともあったという。ゴジラシリーズの楽曲については、きれいな音ではないほうが良いこともあると語っている。
『ゴジラ』での「平和の祈り」など、人間の本質を表現するために合唱曲を用いることも多い。一方で、本多によれば、映画『モスラ』で伊福部は「わたくしはああいう歌はダメです」といって音楽担当を辞退したという。『ゴジラvsモスラ』で「モスラの歌」(古関裕而作曲)をアレンジした際は、宗教的なバックハーモニーを取り入れている。
伊福部は東宝作品の音楽を数多く手がけたが、黒澤明作品は、『静かなる決闘』1作のみである。映像と音楽の弁証法的な融合を目指した黒澤にとって、伊福部の訴求力・完結性の高い音楽は相容れないものであったと考えられる。伊福部自身も、黒澤作品における音楽の付けにくさについては後に証言している。だが、音楽にも造詣の深い黒澤は、作曲家としての伊福部の能力を非常に高く評価しており、『静かなる決闘』における土俗的な音楽についても一定の評価をしていた。また、伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』(谷口千吉監督)は、黒澤が脚本を手がけ、製作にも関わっていたが、あるシーンに入れる音楽のことで伊福部と監督の谷口が対立した際、黒澤は全面的に伊福部を支持している。この時は結局伊福部の主張が通った形となったが、出来上がった音楽は谷口をも十分納得させるものであった。
書籍『東宝特撮映画全史』での寄稿「特撮映画の音楽」で、特撮映画の音楽について感ずることとして、
一般映画においては納得しがたい観念的な芸術論に悩まされることが多いが、特撮映画ではこれはほぼ皆無である
ドラマツルギーに支配されすぎると、音楽は自律性を失いスポイルされるものだが、特撮映画にはその危険性はなく伸び伸びと作曲ができる
音楽は本来、音楽以外表現できないものだが、スクリーンの映像と結合すると「効用音楽」として不思議な効果を生む
と述べ、「音楽としての自立性を失わずに、こういった効果を万全に利用できるのが特撮映画音楽の特質の一つである」と結論付けている。同時に「今日、テクノロジイが発達しすぎたためか、映像も音楽も無機質に流れ人間性から離れる傾向があり、今一度本来の人間性にたちかえった特撮映画の復活を望む」と締めくくっている。その後のインタビューでは、作り物である特撮が生きているような感じを与えることが自身が特撮を作曲する際の心構えであるといい、普通の楽曲では作り物に見えてしまうと語っている。
伊福部の特撮映画の作品別全長版サウンド・トラックのレコードは1980年代まで長らく発売されなかったが、これも「映画音楽は、映像と合わさって効果を生むものなので、一般音楽とは違うもの」との考えから許可を出さなかったものと述べている。
自身が担当していなかった時期のゴジラシリーズについては、作品がコミック的になっていったため自身の作風ではイメージを表現しづらいとの考えから引き受けなかったと述べている。また、『ゴジラvsキングギドラ』以前に2度ゴジラ映画のオファーがあったが、体調不良を理由に断っている。
平成に入ってからの映画音楽では、船や汽車での別れのシーンで静かな音楽をつけていたものが、速い鉄道や飛行場ではあわず、自動車ではカーラジオの音楽を流すのが主流になるなど、時代の変化とともに映画音楽の扱いも変わってきたと述べている。一方で、平成ゴジラシリーズでは観客の世代が異なっていても子供の反応は変わらず、親世代は懐かしがるため、世代間のギャップは少なく、作曲にあたって新しい手法は取り入れなかったと述べている。『vsキングギドラ』では、未来人の音楽に電子音を用いることも検討したが、最終的にはアコースティックな楽曲とした。同シリーズでは完全な新曲は少ない。『ゴジラvsモスラ』では、伊福部はゴジラに新曲をつけることを提案したが、従来の曲を使用することを要望されたと述懐している。
l 誕生日とラヴェルの逸話
誕生日は5月31日であるが、戸籍上は3月5日となっている。これは、父親が、少しでも早く学校に入れたいということで、3月5日の早生まれとして届けたからと伝えられている
それとは別に3月7日が誕生日という説も広まっているが、これは冗談が定着してしまったものである。アメリカ・ボストンで『日本狂想曲』の初演をする時、主催者に生年月日を提出することになった。その時、友人の三浦淳史が「3月5日だって作った誕生日なのだから、いっそラヴェルと同じ3月7日と書いてしまえ」と勧め、モーリス・ラヴェルのファンであった伊福部はその通りに書いて提出したというものである。
そのためか「ゴジラのテーマ」は、ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』第3楽章にある部分のメロディと似ているとの指摘がある。もともとゴジラのテーマは『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』の管弦楽トゥッティ部分からの転用であり、この曲におけるリズム細胞の構築の仕方がラヴェルのピアノ協奏曲に良く似ている。「ゴジラのテーマ」の旋律はゴジラ第1作(1954年)より前に、映画の『社長と女店員』(1948年)や『蜘蛛の街』(1950年)でも使用されている。
伊福部とラヴェルの出会いは、学生時代にある邸宅で催されたレコード・コンサートを三浦淳史と共に聞きに行ったことに始まる。伊福部は最後の演目にあったベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』を楽しみにしていたが、その直前にラヴェルの『ボレロ』が予定されていた。ボレロの初演からわずか数年後のことであり、もちろんモノラルのSPレコードである。作曲者の名前すら知らなかった伊福部はその演目表を見て訝しんでいたが、実際に聴いてみてその執拗な反復が持つあまりの迫力に圧倒され、ベートーヴェンは聞かずに会場を出た、と後に語っている。
l 門下生
古弟子会
新弟子会
l 注釈
1. 戸籍上は3月5日。
3. 資料によっては1933年に作曲と記述している。
4. 審査員は以下の作曲家を含む。アルベール・ルーセル、ジャック・イベール、アンリ・ジル=マルシェックス、アレクサンデル・タンスマン、アンリ・プリュニエール、ピエール=オクターヴ・フェルー、ティボール・ハルシャニー(『伊福部昭の宇宙』32、54ページ)
5. 後に『フィリピンに贈る祝典序曲』に改題。
6. この「謎の病」を放射線障害と記述している成書もあるが、木材振動実験に伴う振動障害と過度の喫煙が原因と考えられる。
7. 後に『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』と改題。また1951年の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年、1971年。
8. 1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年に二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』、2004年に二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ』へと編曲される。
9. 現在は土蛮は先住民と表記。
10. 1984年に演奏会用に『日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ』に編曲される。
11. 1989年に演奏会用に編曲。
12. 後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分。
13. 1979年に改訂。
14. 1988年に独唱用に編曲。
15. 1989年にハープ独奏曲、1997年に二十五絃箏曲に編曲。
16. 1991年に二十五絃箏曲に編曲。
17. 1983年に管弦楽曲『倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク』に編曲。
18. 1993年に二十五絃箏曲『幻哥」へ編曲。
19. 同年には、記録映画『土俗の乱声』の音楽も手掛けた。
20. 井上道義は伊福部作品を「血湧き肉躍る想像力の大伽藍」と評している(「“「熱狂」は響き続ける”」朝日新聞、2014年7月9日)
21. 銘柄はダンヒル・インターナショナル。
22. 東映映画『俺は用心棒』で知り合いになったという。
23. 書籍『東宝特撮映画全史』では、『ゴジラ』では特撮を抜いたフィルムを見せられ、何の手がかりもないまま作曲せざるを得なかった旨を語っている。
24. 座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している。
25. 最終的に音響技師の三縄一郎と録音技師の下永尚が、テープを逆回転させるなどし、完成させる。
26. そのため、映画音楽評論家の西脇博光は、一般的にはマーチとして扱われているが、正確にはアレグロと呼ぶべきものだとしている
27. 楽譜は長らく中国当局の管理下にあって幻の作品とされていたが、作曲者の没後、遺品の中から楽譜が発見され、2010年に蘇演された。
28. ゴジラのテーマの原曲と言われる。
29. 予告編のみ、本編は石井歓が担当
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