ゲーテはすべてを言った  鈴木結生  2025.2.23.

 2025.2.23. ゲーテはすべてを言()った

 

著者  鈴木結生(ゆうい) 2001年、福島県郡山市出身。福岡市在住で、西南学院大大学院に在学中。24年に「人にはどれほどの本がいるか」で林芙美子文学賞佳作。初めての候補だった。

 

 

発行日           小説『トリッパー』2024年秋季号

発行所           朝日新聞出版

 

 

日本におけるゲーテ研究の第一人者の博把統一は、ドイツ文学会の依頼を受け、娘婿とともに取材旅行で、バイエルン州のオーバーアマガウ村の宗教劇を視察

オーバーアマガウは、ドイツバイエルン州ガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡にある村。10年に一度村人総出の受難劇が催される処として有名である。また、NATO(北大西洋条約機構)のNATO訓練校(en:NATO School)もある。

受難劇(passion play)とは、イエス・キリスト十字架刑で殺され「受難」を受ける過程に関するで、特に聖週に世界各地で催されるが、10年に一度村人総出で行われるオーバーアマガウの受難劇がつとに有名である。

17世紀ペストが大流行していた1633年、村民たちはペストの退散を神に祈り「もし祈りが聞き届けられペストの蔓延が収まったならば、感謝のしるしとして10年に一度受難劇を上演する」という誓いを立てたところ、その後この村からペストの死者は出なかった。これをきっかけとして、翌年の1634年に最初の上演がおこなわれた。ナポレオン戦争終結記念やアドルフ・ヒトラーの肝煎りで実施された300周年(1934年)など、例外での上演歴もある。2000年の上演に際しては、原典にあるユダヤ人差別的な内容をめぐってその内容の修正が議論され、その模様はNHKスペシャルにも取り上げられた。

野外劇場で上演され、2,000人以上が出演する。キリストの生涯をたどる劇の主要部分に、それらの場面と対応する旧約聖書のエピソードが活人画として対置される。観客席は5000席。開催される年には、5月から9月にかけて100回以上上演され、上演時間は、途中休憩をはさみながら朝から夕方までになる。2010年の次は2020年の予定であったが、新型コロナウイルスの感染拡大により2022年に延期する旨が2020319日に発表された。2022514日に、2年遅れでの上演がスタートした。開幕の時点で秋の終演までのチケット45万枚のうち、75%が販売済と報じられた。予定通り102日まで上演が実施され、最終的にチケットは91%が売れて約412000人が観劇した。次回は、当初の前回開催年から10年後の2030の予定である。

「ゲーテはすべてを言った」という言葉が統一の人生の示導動機Leitmotivで、ジョークではなく一種の天啓と思っていると語る統一のオーラルヒストリー。詳細は下記参照

https://www.hakugei.site/backnumber/123/『博藝』(作者のブログ?)

『未発表のゲーテ書簡について』

1 ゲーテのものとされる名言

「愛はすべてを混淆せず、渾然となす(Love does not confuse everything, but mixes)」――この言葉と出会ったのは202312月のことだ。それは米国のティー・ブランドCloudの「Count Sheep」というティー・バッグのタグに、ゲーテの名言として刻まれていた(「図1」参照)。

図1 ティー・バッグのタグ 写真(筆者撮影)

およそ世にある名言の御多分に洩れず、ここにもその原典は併記されておらず、私はこれが真にゲーテの言葉か否か判別しかねた。
そもそも、ゲーテというのは名言が多い人だ。「人間は努力するかぎり迷うものだ」とか、「花を与えるのは自然、花輪を編んで贈るのは芸術」とか。特に私が好きなのは、「外国語を知らない者は、自国語についても何も知らない」というもの(近頃、文学の講義より、語学の講義を受け持つことが多くなってきた身からすると、兎に角使い勝手がいい)。
西洋の文学作品なんかを読んでいると、これでもかとゲーテの言葉が引かれているのに気付く。彼自身、警句を作るのがよほど好きだったらしく、著書に『格言と反省』という名言集もある。しかし、ここで問題になってくるのは、ゲーテが余りに何でも言っているものだから(私のドイツ人の友人など、「ゲーテはすべてを言った」とジョークにしていたほどだ)、「ゲーテ曰く」と前置きしさえすれば、あとは何でもありに思えてくるということで、それもあって私は誰かがそのフレーズを口にするたび、殆ど反射的に敬遠の構えをとってしまっていることも事実なのである。
とはいえ、この「愛はすべてを混淆せず、渾然となす(Love does not confuse everything, but mixes)」という言葉に限っていえば、なるほどこれはいかにもゲーテが言いそうだと自分なりに得心するところがあった。それで結構真剣に、ゲーテ辞典及び全集を当たってみたり、同僚や友人たちに心当たりがないか尋ねてみたりした。ある人からは、ゲーテの名言として「Love does not dominate; it cultivates(愛は支配せず、育てるものだ)」という、構文的に似たものがあることを教えられた。また同僚の一人は、ユゴーが「混同することなく混合する」というフレーズを使っている例を示してくれた。とはいえ、こうした類似はやはり単なる偶然の域を出ない。最終的に、ティー・バッグの販売元であるCloud社に問い合わせてみてようやく、それがインターネット上の引用(クォーテーション)サイトから採られたものであることが判明した。
MandaraX」という――紹介文によると、カート・ヴォネガットの小説からとられたのらしい――名のサイトからは、思いの外、丁寧な応答があった(原文は英語、以下拙訳にて)。

お問い合わせ、ありがとうございます。ご返信が遅くなったこと申し訳ありません。当サイトは、有志の名言蒐集家たちの手作業によって成り立っておりますので、お尋ねの名言について、登録した者に確認するのに時間がかかりましたが、以下の記事を参照したとのことでした。今後とも、MadaraXをよろしくお願いします。

「以下の記事」として示されていたのは、「Weber’s Garden」というブログ・サイトの、2019109日の記事。管理者の逝去に伴い、現在はサイト自体が削除されてしまっているが、そこには確かにゲーテの言葉として「神の愛はすべてを混淆せず、混然となす(Die Liebe Gottes vermischt alles, ohne verwirrung)」という句が引かれていた。

2 未発見のゲーテ書簡?

翌年3月に、私はドイツ旅行の折、Weber’s Gardenの管理人であるマルゴー・ウェーバー氏の自宅に伺うことができた。氏は、人懐こい笑顔で日本からの来客を歓迎してくれ、快く先のゲーテの言葉について語って下さった。それは彼女が父親から受け継いだという、古い手紙の中に書かれていた文句だった。以下、全文拙訳になる。

この間は素敵な花をどうも有難う。変わった形をしているのに、香りは確かに薔薇と似ていて、何とも不思議ですね。友人に見せたら、こんなものでも花なのか、と驚いていました。しかし、実に神の愛は一つの花からすべての花を萌え出でさせました。それを知れば、我々人類もいずれは混乱せず混合できるものと信じることができます。                   ゲーテ

書き振りからして、明らかに公的な文書ではない。いっそ走り書きといってしまった方がいいようなもので、おかげで年代は特定できないし、前後の文脈も判然としない。しかしながら、最後の「ゲーテ」という署名は、私の見る限り、筆忠実(まめ)だったゲーテその人の真跡のように思えた。
内容については、当然ながら憶測の域を出ないが、少なくとも、手紙の差出人(彼がゲーテかどうかは兎も角)が受取人から花を貰ったらしいこと、その花は見るものが「こんなものでも花なのか」と驚くくらい奇妙な形をしているが、香りは薔薇に近かったということ、こうした珍妙な花を通し、差出人は神の愛が一つの花からすべての花を創ったことを知ったこと、そこから、人類もやがては混乱せず混合できると信じることができるだろう、と思ったこと、などが読み取れる。特にはゲーテがリンネ(1707-1778)の植物学に対して、主張した形態学の関係から見ると面白い。
ゲーテにとってリンネの植物学は、文学におけるシェイクスピア、哲学におけるスピノザに並ぶほど、大きな存在であった。それは分類を通して、自然界の多様性を体系化する試みである。リンネは自然を鉱物・植物・動物という三つの界に分類し、特に植物界を「種」という概念を元に組織化したが、それはやがてディドロ&ダランベールの『百科全書』に至る大きな時代精神の露払だったと言えよう。

図2 リンネ「性分類体系の鍵」

図3 ディドロ&ダランベール「人間の知識の系統図」

ゲーテはやや遅れてきた青年として、先行世代の絶大な影響を被りつつも、自らの詩的(私的?)な世界理解に基づいてこれを再構成しようと試みた。それが彼の形態学――即ち、メタモルフォーゼによる全体把握に結実した。
ゲーテの理解によれば、植物の本質は葉にある。これがメタモルフォーゼをすることで、多様な植物界全体が存在するという。「植物のメタモルフォーゼ」という詩においては、庭に咲き乱れる多くの花にはそれぞれ異なる名称があり、それらが似通いながら一つとして同じ形がないことに戸惑う「お前」(妻クリスティアーネのこと)に対し、それらは実は一つの統一性の中にあることを語っている。それは神の愛の為せる業であり、久遠の連鎖の中で、全体は個と共に生き続けるのである、と。
今一度、ウェーバー氏の手紙に戻ると、それはまさしくゲーテの理解に基づく言葉であるということが判るだろう。しかし、だからこそ、些か出来過ぎな感も否めない。
ウェーバー氏が父親から説明されたことによれば、その手紙は、彼女の高祖母に当たる女性がゲーテから直接受け取ったものらしい。父親曰く、「自分のひいひいばあちゃんはゲーテの恋人だった」とのことだ。当然、真偽は不明だし、ウェーバー氏自身これにはかなり懐疑的で、私も件の手紙からは、恋文といった印象は受けなかった。これが本当にゲーテの手紙だと仮定するなら、むしろ園芸家や学者との知的なやり取りという感じがする。
私はつい「専門的な機関での調査は受けたのか?」という質問をしかけて、それを飲み込んだ。代わりに、というわけでもあるまいが、私ははたと気になって、「しかし、この手紙の文章を何故、『神の愛はすべてを混淆せず、混然となす』と省略したのでしょうか?」と尋ねてみた。
ウェーバー氏の答えはシンプルだった。「だって、その方が分かり易いでしょう?」そして、「この言葉は大変素敵だ。『人間の混乱と神の摂理』という言葉を思い出す」と仰った。最後の言葉は、ゲーテの手紙云々よりも深く、私の記憶に刻まれた。

3 名言の解釈

私は長年、ゲーテを通して、多様性と統一性の問題について考えてきた。当然、彼の著作の連なりから、更には彼の生きた生から。即ち、「世界文学」の提唱者であると同時に、生涯極めて地方的だった彼の世界に対する、生に対する態度は、いわゆる「黄金の均衡」を求めるものだったのか? それとも、ディドロの言うところの「折衷主義」的な自家製の世界の創造であったか?
こうした問いは、今となっては呆気なく認めることができるのだが、40年前に学生だった自分自身の問題意識を反映したものだった。私は自分自身の感じていた問題を語るために、ゲーテを選んだのだ。そして、ゲーテは「ジャム的世界」と「サラダ的世界」という二つの世界観を有し、その揺れの中で生きた、ということを考えた。それは結局、自分自身がその二者択一を選びかね、それまでずっと考え続けていたからだと思う。
「ジャム的世界」とは、個別性がジャムのようにドロドロに溶け合った世界のことである。
些か脱線するが、私は60年代ロックのファンであり、80年代のポップスをリアル・タイムで浴びてきた世代として、それらの音楽にはまさしく「ジャム的世界観」が現れていたことを思う。サイケ時代のビートルズから、ソロ時代のジョン・レノンのスローガン的歌詞とその表現空間(具体的には《Sgt. Pepper’s》のジャケット、「Our World」における〈All You Need Is Love〉から、〈White Album〉のジャケット、ベッド・インによる〈Give Peace A Chance〉、〈Imagine〉の白い部屋)は、カラフルな混沌を真っ白な純一性に帰納する行為であった。前者はやがて〈We Are The World〉というカラフルな純一性(勿論、あの我の強いオール・スター・キャストを束ね上げるまでの混沌には目を見張るものがあるのだけれど)というもう一つの出口を見出すに至るが、いずれにせよ、それらの歌詞は明らかに、「ジャム的」なもので、人類の、世界のOne性を訴えていた。
しかし、それも90年代には過去のものとなった。そういう中で私はゲーテに「サラダ的世界」を見出そうとしたのだろう。それは個々の差異が確かに保持されながらも、サラダ・ボウルのように同じ器に盛られている世界のことだ。例えば、ゲーテは先に少し言及した「世界文学」の構想に関して、『芸術と古代』という中で、次のようなことを述べている。

ただし繰り返しておく必要があるのは、諸国民の考えが一致すべきであるなどということは言えないのであって、互いに相手の立場を認め合い、理解し合うべきで、互いに愛し合えないとすれば、せめて忍耐し合うことを学ぶべきだ、ということである。

欧州連合が「多様の中の統一(In varietate unitas)」を公式の標語(モットー)に掲げたのは2000年のことだった。ゲーテの信条は、二つの世界大戦というジャム的欲望の結果を経て、ようやく多くの人に受け入れられた、ということになろうか。尤も、標語は標語に過ぎない。それは決して座りのいい答えではなく、挑戦と苦闘の宣言であった。
以降、国内外のポップスを聴いていても、全体のOne性より、個々のOne性を主張するものが増えていったことを思う。しかし、いざ世の中が「サラダ的」に舵を取ると、それが如何に難しいものであるか、ということが分かってくるのだ。
ウェーバー氏が口にされた「『人間の混乱と神の摂理』」という言い回しを、私は彼女の家を訪れて、数年経った後、積読していた本の中に発見した。それはどうやら、プロテスタント神学者カール・バルト(1886-1968)が好んで引用した諺だそうだ1
ゲーテにおける「神」理解はここで手早に論ずるには余りに込み入っている(気になる方は是非、拙著『ゲーテの夢――ジャムか? サラダか?』「第六章 愛の神」を読んで下さい)が、少なくとも、超越的な世界の創造原理が存在していることをゲーテは確信していた。そして、その愛が一種の動的な秩序を形成し維持する、ということも。「人間の混乱と神の摂理」とゲーテは言った。私は今、戯れにそんなことも考えることができる。そう考えることで、この時代を覗いてみたい、という気がする。

4 付録「名言は繰り返す」

「歴史は繰り返す」と言われる。私は長らくこの言葉を、ヘーゲルに由来するものと信じて疑わなかった。というのも、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』において、次のように述べているからである。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。2

平凡社ライブラリー版の訳注によると、これはマルクスとエンゲルスの間で取り交わされた手紙では定番のものだったらしい。兎にも角にも、二人ともその言葉がヘーゲルの歴史観に基づくもの、と考えていたことは確からしい(「ヘーゲルはどこかで……」)。しかし、よくよく考えれば、そこには出来事と人物は「二度現れる」とは書いてあっても、「歴史は繰り返す」という端的な言い切りはないことに思い当たる。
あるいは、私は娘が小学生の頃、マーク・トウェインの名言に「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」とあると教えてもらったことを覚えている。大部の名言集を繰って、それについて書かれている頁を見つけた。

この言葉はアメリカ人作家マーク・トウェインの言葉とされることが多い。確かに『憤るマーク・トウェイン――人間と出来事に関する未刊行の原稿』(1924年に刊行された回想録の原稿)には似た言葉が記されており、チャールズ・ダドリー・ウォーナーとの共著である小説『金メッキ時代』にも、そうした考えが鮮明に書かれている。「歴史は繰り返さないが、万華鏡のように組み合わせた現在の姿は、昔の伝統の欠片でできているように見えることが多い」。3

その頁の先には、「過去を記憶できない者は、過去を繰り返す運命にある」というジョージ・サンタヤーナの名言が引かれており、「ただし、これはエドマンド・バークの言葉とされることも多い」4としている。
しかし、こんなところで満足してしまうほど私はもはや迂闊ではない。愛用する引用サイトに検索をかけると、以下がヒットした。

歴史は繰り返す。不明・複数
出典 主にクルチュウス・ルーフス説、トゥキュディデス説があり、前者は『大辞林 第三版』(三省堂)や『大辞泉 第二版』(小学館)後者は『広辞苑 第六版』(岩波書店)など。
参照 「『歴史は繰り返す』と、国語辞典」(https://ameblo.jp/saglasie/entry-12278119169.html
関連項目 歴史・「歴史は繰り返す」構文

関連項目の「歴史は繰り返す」構文をクリックすると、前述のマーク・トウェインやジョージ・サンタヤーナ、それにやはりマルクスの名言に誘われる。さあ分からなくなってきた。
ここで私は「歴史は繰り返す」という言葉の起源に迫ろうというのではない。その反対に、「歴史は繰り返す」という言葉が誰が言ったかも分からぬまま(日本を代表する三つの国語辞典すら覚束ないほど)、繰り返されてきたことに代表される通り、絶えざる歴史の反復の中で言葉もまた繰り返されていくのだ、ということを書いておきたかった。その中で、自分が少なからずの言葉を受け継ぎ、後に引き渡す者であるなら、やはり生には何らかの意味があると言えるだろう。私はゲーテから受け継いだものを、「人間の混乱と神の摂理」という――そもそも明らかにゲーテのものではないと分かっている――言葉に代表させ、引き渡そうと思う。

弁明

ここ一週間ほど、ベッドに入ってから寝入るまでの時間を使って、『ダッハウ収容所のゲーテ』を再読していた。著者のニコ・ロスト(1896-1967)は、オランダのドイツ文学者で、研究と並行して反ナチの言論活動を展開したために、1942年、ブリュッセルにて逮捕された。44年からダッハウ収容所に送られ、そこで「無数の、その場その場で入手した、さまざまな紙や紙切れ」5に日々の記録を綴ったのが、本書となる。
ロストの「頭脳図書館」(Kopfbibliothek)の蔵書は、質量共に見事なもので、ゲーテを始めとするドイツ文学からの引用が次々と繰り出され、書き付けられていく。パトモス島のヨハネからジョン・バニヤン、マルキ・ド・サド、オスカー・ワイルド、エズラ・パウンド、グギ・ワ・ジオンゴなどと連なる獄中文学の伝統に、本書を並べてみるとき、改めて記憶というのは紙の上に落ち着きたがるものだ、と考えると共に、同時期のアムステルダムでも一人の少女が(ゲーテを引用して!)ノートにこう書き付けていたのを思い出した。

ゲーテの言葉に「天にも届けと喜び叫ぶか、身も世もなく嘆き悲しむか」というのがありますけど、それがここではまさにぴったりです。(中略)ほんとうはこんなことを書くべきじゃないでしょう。感謝の気持ちを知らないように思われるでしょうから。でもわたしは、こういったことを自分の胸のうちだけにおさめておくことができないんです。ですから、この日記の最初に書いたこと、それをもう一度くりかえしましょう――「紙は辛抱づよい」と。6

手作業の喜びはテクストに染み込んでいる。その手触りに触発されるように、気付けば私は一つの文章を書き出していた。それを娘――本ページの管理人である――に読ませたところ、自分のホーム・ページに載せてもいいか、というので強いて断らなかった(流石に、世に出せる程度には書き直したが)。ついては、本稿はいかなる意味でもゲーテに関する批評的・学術的文章にはあらず、私の個人的記憶の覚書に過ぎない。ゲーテ書簡に関する詳細な情報は、石原あえか「日本に現存するゲーテ書簡 調査報告と再発見」(https://doi.org/10.15083/0002006008)に詳しいので、そちらを一読されたい。

2027年1月、仙台にて


カール・バルト『教義学要綱』(天野有・宮田光雄訳、新教出版社、2020p.189
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(植村邦彦訳、平凡社ライブラリー、2008p.15
ロバート・アープ編『世界の名言名句1001』(大野晶子・高橋知子・寺尾まち子訳、三省堂、2018p.321
同上p.325
ニコ・ロスト『ダッハウ収容所のゲーテ』(林功三訳、未來社、1991p.8
アンネ・フランク『アンネの日記 増補新訂版』(深町眞理子訳、文春文庫、2003pp.264-265

2010年、石原あえか著『科学する詩人 ゲーテ』が第32 サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。

ポエジーと科学の交感

18世紀の詩人ゲーテは、ヴァイマル公国の高級官吏であり、同時に熱心な自然研究者であった。膨大な自然科学コレクションを収集・分析し、自然科学分野に関する論文も執筆したゲーテは、一方で、新しく獲得した科学の知識を積極的に彼の文学作品に応用した。ゲーテの文学作品の本当の面白さ、そして味わい深さは、「詩人にして官僚、並びに自然研究者」という職業コンビネーションから生み出されたものだと言える。

 逆にこのことは、ゲーテが活動した時代の自然科学の知識や背景、また政治状況を把握しないとわからない内容も多々あることを意味する。

▼本書ではある時は公務ゆえ、またある時は好奇心に目を輝かせて、当時の最先端の科学に積極的に関与しながらも、決して等身大の人間の視点を失うことなく、終生、誠実に自然と対話し続けたゲーテの詩と科学の交感を描く

 

 

この物語の主題と構造を見失わないよう書き付けておいたゲーテの2つの言葉:

   われわれには、感じたこと、観察したこと、考えたこと、経験したこと、空想したこと、理性的なものと、できる限り直接に一致した言葉を見出そうとする、避けがたい日々新たな、根本的に真面目な努力がある (『箴言と省察』388)

   自然界においては、色彩の全体性を具現しているような普遍的現象は、決して見ることはできない。完璧な美しさに満ちたこのような現象を見せてくれるのは実験である。しかし、この完全な色彩現象が円環をなしていると理解するためには、自分で紙に顔料を塗ってみるのが一番良い (『色彩論』教示編815)

 

人文主義の時代、それは同時に名言採録帳(コモンプレイス・ブック)の時代でもあって、当時は一種の言霊信仰っていうか、兎に角、名言を言うとその言葉の力を身につけることが出来る、と考えられていた。だから、人々は名言をお土産のマグカップに焼き付け、文房具に刷り込み、壁に落書きする。ふとした会話に織り交ぜれば教養人の振りも出来る

 

「ゲーテはすべてを言った」の出所を探したが、結局わからず仕舞い。ヴァイマルのジョークというあたりが真相

 

 

 

172回令和6年下期芥川賞 

選評

l  松浦寿輝 心理小説と寓話小説

雑学小説とでもいうべきか。全編に染み通った教養主義が愚直なものかパロディ化させたものか、最後まで尻尾を掴ませない手際が巧ともいえる。映画『教授と美女』に言及している箇所があり、それでいうならこれはつまり教養主義の「ハワード・ホークス化」なのだろうか。受賞作には、乗代『二十四五』と永方『地滑り』を推す

l  島田雅彦 それぞれの言語モデル

全編ゲーテを巡る書誌学的ペダントリーで押し、その過剰さで読者を捩じ伏せる。3世代にわたる文学研究への取組みを外枠に置き、書物の森に分け入り、ゲーテが残したコトバの謎解きや真偽の判定に血道をあげる。アカデミズムの世界を諷刺的に描いた筒井康隆の『文学部唯野教授』を思い出させもするが、皮肉は抑制されている。それより文学研究がミステリーや冒険活劇に転化し得ることを実証しており、新手のメタノベルの出現と受け止めた

ヒトはコトバを無意識から立ち上げ、感情や身体の揺らぎを反映させるが、AIは無意識も感情も身体も持たず、コトバ同士の無難な接合を探し、通りのいい文章を紡いでゆくだけだ。それゆえAI文士の登場はまだずっと先で、逆にパターン化、マニュアル化した行動や表現しかできないAI化した人間が増え、そちらの方が先に用済みになりそうだ

l  小川洋子 遺跡に埋もれる小説

登場人物たちは皆、落ち着き払っている。主役は一度書かれて標本にされた言葉だからなのだろう。どこまでも言葉を追い掛けてゆき、それが見つかったからといって何がどうなるわけでもなく、平凡な一家の生活は続いてゆく。言葉の先にある空白に落下したような、特別な読後感を味わった

l  奥泉光 選評

選ぶならこの2作と思ったが、両作とも手放しで、というわけではなかった。ゲーテを軸に据え、ペダントリーを駆使した1篇で、知的な遊戯性にも溢れ、こうした方向は自分の好みであり、日本語の小説世界に豊かさをもたらすものとして大いに評価した。しかしやや物足りなさを覚えたのも事実で、それは登場する学者一家の人々が陰翳を欠く点で、しかし本作は、主人公である初老学者の娘婿である男が書いた小説という、メタフィクショナルな構成を取っているので、主人公の弟子筋にも当たる「作者」が義父の一家に対して「忖度」した結果、こうなったと読める。その辺りは巧みなところだが、であればこそ、直接には書かれぬ皮肉な気分や、そこはかとない悪意の笑いが全体から漂って欲しいと思ったのは、ないものねだりなのだろうか。亦文学研究というものが、ばかばかしくも熟誠を孕み、世界に豊かさをもたらすものであるとのメッセージはうまく伝わらず、しかしこれは作者の狙いではないのかもしれない。どちらにしても自作を期待して待つ!

l  山田詠美 「選評」

文学的おしゃまさん!(ミルトンにもプラトンにも最先(さっき)の前菜のポタージュに浮んでいたクルトンほどに)って…駄洒落か…でも、いちいちディテイルが愉快なんだな。これから、私も、スマホは「済補」と表記しよ。過剰にブッキッシュな意匠を凝らした稀な成功作

l  吉田修一 選評

小説から書物の匂いがした。久しく嗅ぐことのない匂いだった。この匂いはさらに様々な記憶を蘇らせた。「僕の青春は悲惨な嵐に終始した、時たま明るい日ざしも見たが」勿論意味など分からない。まだ20歳そこそこの若い作者が書いたこの古色蒼然とした小説に、なぜかとても好感を持った。その理由は、ここには喜びが書かれているからだと気づく。何かを知ること、知りたいと欲すること、人間が持つそんな根源的な喜びがこの小説には満ちている。そしてこの若い作者が持つもう1つの美点は、その鷹揚さにあると思われる。小説が窮屈でない。「自分自身がゲーテになっているところを夢見た」のくだりでは、夢の話ではあるが、まさにこの小説の世界観そのもので、選考会で出た無自覚なコンサバティブという鋭い指摘には肯首しつつも、まだ若い作家にはしばらくの間はこのまま自分の文学世界を広げて欲しいと願う。遅かれ早かれファムファタール(《サロメ》運命の女)は現われ、賢くない友に悩まされるときは来るのだから

l  平野啓一郎 抜きん出ていた2

僅差で本作を第1に推した。ペダントリーもここまで徹底されれば立派なものであり、若い作者の博覧強記と一種の老成に、大きい才能の出現を感じた。本作には苦悩がなく、それは、新人作家の出発点としては、物足りなくも感じられそうだが、全篇に横溢する『ゲーテとの対話』的な明朗さは、寧ろ心地よかった。アナクロニックな設定のようでありながら、多様性と情報の真贋という今日的な問題に独自にアプローチしており、それが深まることはなかった。が、しかし、「世界文学」の巨大な書庫と現代社会との間の窓が開け放たれ、その風通しを良くしたことは、本作の手柄であろう。前途が楽しみ

l  川上弘美 情熱と過剰さ

「ゲーテはすべてを言った」の、統一さんが、いい人すぎて、この小説自体には好感が持ててしかたないのですが、いい人は、少し苦手です。

l  川上未映子 前途に

人間と書物と記憶を端的に切り結ぶ状態そのものである「名言」を巡る、研究者とその一族、関係者たちのある季節の顛末を明朗な衒学的筆致でまとめあげた出色の作。アカデミズムならびに文学のありかたと延命、それらの真摯さ滑稽さを、慈しみ告発し批評する設定も構成も細部も見事であり、受賞作にと即決した。また、聖書へ遡る/辿り着く物語の道筋には、はじめにあってしまった「言葉」というものをどうすることもできないまま現在に至る歴史の普遍性を照らす稀有な明るさがあり、後記3の最後の一文にまでその光が満ちていることに胸をおさえ、文字通り〈勇気付け〉られもし、この若い書き手のこれからの仕事、前途にもその光があることを願ってやまない。

 

 

 

芥川賞「最も過剰な2作」、直木賞は田舎町舞台 選考委員の評価は

2025115 2016分 朝日新聞

 第172回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が15日、東京都内で開かれ、芥川賞は安堂ホセさん(30)の「DTOPIA(デートピア)」(文芸秋号)と鈴木結生(ゆうい)さん(23)の「ゲーテはすべてを言った」(小説トリッパー秋号)に、直木賞は伊与原新(しん)さん(52)の「藍を継ぐ海」(新潮社)に決まった。賞金は各100万円。贈呈式は2月下旬に都内で開かれる。

 安堂さんは1994年、東京都生まれ。2022年「ジャクソンひとり」で文芸賞を受賞しデビュー。2作目の「迷彩色の男」も含め、3作続けて芥川賞の候補になっていた。

 受賞作は、南の島を舞台に世界各国の美男美女が参加する恋愛リアリティーショーが題材。人種や性的指向が多様な登場人物たちの過去が、グロテスクな皮肉とともに描かれる。

 安堂さんは受賞会見で「小説を壊そうと思って書いただけあって、今までより小説の世界が広がったと思います」と語った。

 鈴木さんは01年、福島県郡山市出身。福岡市在住で、西南学院大大学院に在学中。24年に「人にはどれほどの本がいるか」で林芙美子文学賞佳作。初めての候補だった。

 受賞作は、ゲーテ研究の権威が自分の知らないゲーテの「名言」に出くわし、出典探しに奔走する。ティーバッグのタグに書かれた言葉を起点に、創作の奥深さや学問の本質、独創性の真価についてユーモラスな語り口で問いを深めてゆく。

 鈴木さんは「何度か芥川賞を受賞して記者会見するシミュレーションをしたことがありますが、想像をはるかに超えて華々しい。2日前までインフルエンザで倒れていて、変な夢を見て、その続きかと。良い夢なので続いてほしい」と喜びを語った。

 選考委員を代表して島田雅彦さんは「候補5作のなかで最も過剰な2作。過剰さは異なるが、勢いのある2人の受賞となった」と話した。「DTOPIA」は「カラード、セクシュアルマイノリティーへの差別や偏見というテーマが逐一のエピソードに落とし込まれている」、「ゲーテ~」には、「過剰なまでのペダントリーだが、ここまでたたみかけるとたいしたもの」と述べた。

 直木賞に決まった伊与原さんは72年、大阪府吹田市生まれ。東京大大学院で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。10年に「お台場アイランドベイビー」で横溝正史ミステリ大賞を受賞し、富山大助教から作家に転じた。18年の「月まで三キロ」で新田次郎文学賞。直木賞は2度目の候補だった。

 受賞作は、日本各地の田舎町を舞台にした5編が並ぶ。徳島の海辺の町でウミガメの卵を孵化(ふか)させて育てようとする少女が主人公の表題作など、大切なものを守り続けている人々の姿を描いた。

 選考委員の角田光代さんは「日常のなかに入ってくる科学が人間にどういう世界を見せるかをていねいに描いている」と評した。

 伊与原さんは「くすぶっていた研究者だった自分が、ひょんなことから小説を書き始めて、気がつけばこんなところまで来てしまった。不思議な気持ちです」と喜んだ。

 

 

 

鈴木結生さん芥川賞 出身の郡山でも喜びの声 幼少から本に親しむ

斎藤徹2025117 朝日新聞

 小説「ゲーテはすべてを言った」(朝日新聞出版)で第172回芥川賞を受賞した鈴木結生(ゆうい)さん(23)は福島県郡山市出身で、小学5年まで過ごした。郡山ゆかりの芥川賞作家の誕生に、市内では喜びの声が上がった。

 鈴木さんは市内のキリスト教会の家に育ち、小さい頃から聖書や外国文学に親しんだ。同市立大成小に入学後は図書室で多くの本に出会った。

 5年生の担任だった横田安弘さん(現・市立小山田小校長)は「本を読むのが本当に好きで、知識や語彙も豊富。ユーモアも持ち合わせていた」と振り返る。

 鈴木さんは、父親の転勤で郡山を離れる際、5年生の1年間の様々なエピソードを創作を交えた物語としてまとめ、製本してお世話になった人や親しい友人に贈った。

 「結生くんの心の動きも丁寧に描写されていて、あの頃から物語を作る才能にあふれていた」と横田さん。「受賞は心からうれしく、誇らしい。自分が書きたいものを、自信を持って、伸び伸びと表現してほしい。これからもずっと応援していきたい」

 鈴木さんが小学生の時によく訪れていた市内の「岩瀬書店富久山店プラスゲオ」では、受賞が決まった15日夜に特設コーナーを設けた。

 受賞作とともに「思い出の本屋です」と書かれた鈴木さんの直筆の色紙が飾ってある。16日は午前中から、平積みの本を買い求める人でにぎわった。

 

 

 

好書好日  2025.01.30

鴻巣友季子の文学潮流(第22回) 文学的仕掛けに満ちた芥川賞「ゲーテはすべてを言った」を掘り下げる

 今回の芥川賞は、安堂ホセ「DTOPIA」(文藝初出、河出書房新社)と、鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(小説トリッパー初出、朝日新聞出版)に決まった。

 鈴木結生は大学院修士課程在学中の23歳。本人に聞いたところ、牧師の子どもとして教会で育ち、いちばんの愛読書は聖書だったとのこと。「人にはどれほどの本がいるか」で第10回林芙美子文学賞の佳作に選ばれ、第2作目の「ゲーテはすべてを言った」で芥川賞初ノミネート、それが受賞につながった。

 芥川賞の島田雅彦選考委員によれば、選考会において鈴木の作は一度目の投票でトップとなり、二度目の投票で安藤ホセとの同時受賞が決まったとのこと。抜きんでた評価だったのだろう。

 それにしても、近年の林芙美子文学賞(北九州市主催)の勢いに目をみはっている。前回の芥川賞を受賞した朝比奈秋も「塩の道」で同賞の大賞に輝いてデビューしたし、「無敵の犬の夜」で芥川賞候補となった小泉綾子は佳作、また、創元SF短編賞でデビューした高山羽根子も「太陽の側の島」で林芙美子賞の大賞に選ばれ、その後、芥川賞を受賞している。これからも注目したい賞だ。

英米ではジャンルとして定着したアカデミックロマンス

 『ゲーテはすべてを言った』は、アカデミックロマンスというのか、キャンパスノベルというのか、英米では一つのジャンルになっているぐらいだが、日本文学ではそんなに書かれないタイプの作かもしれない。主人公は日本でゲーテの一人者となった63歳のドイツ文学教授であり、語り手は彼の「娘婿」にあたる小説家。ほかにこの教授の娘と妻、恩師、後輩研究者などが出てくる。

 とはいえ、イギリスでアカデミックロマンスの元祖的なキングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』とか、この元旦に他界したデイヴィッド・ロッジの『小さな世界』(白水社)とか、日本で言ったら筒井康隆の『文学部唯野教授』(岩波現代文庫)や、奥泉光の「桑潟幸一准教授」シリーズ(文春文庫)のような、大学内でのせせこましいいざこざや足の引っ張り合いを書く風刺コメディというわけではない。

 かといって、フィリップ・ロスの『欲望学教授』(集英社)や、JM・クッツェーの『恥辱』(ハヤカワepi文庫)のような、男性教授が性欲のおもむくままに女子学生を……といった話でも全然ない。あるいは、ドロシー・L・セイヤーズ、ドナ・タート、レベッカ・マカーイのある種の作品のような、学内で殺人や犯罪が起きるミステリーでもない。

 ない、ない、ない、ばかり言っているが、そんなある意味なにも事件の起きないこの小説が抜群におもしろいのだ!

実在の作家や書物と虚構が絶妙に混在

 言ってみれば、ウンベルト・エーコ、イタロ・カルヴィーノ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスらを想起させる文学的仕掛けが満載だが、読み心地は重たくない。この軽やかさは登場人物たちの造形からも来ているのだろう。みんな、どこかとぼけていて愛嬌があるのだ。

 語り手がこの小説執筆のいきさつを語る端書き(ここからして曲者)が冒頭にあるが、物語本編はドイツ文学者の博把統一(ひろば・とういち)が夫婦の銀婚式記念日に、文学科生である娘の徳歌(のりか)にイタリア料理店に連れられていくところから始まる。

 ここで統一はある名言と出会うことになる。ちなみに登場人物の名前はみんなかなり独特で、「ひろばとういち」という音は、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一を思わせないでもない。

 さて、3人が食後に飲んだ紅茶のティーバッグのタグには、それぞれ哲人や作家の名言が書かれていた。徳歌にはジョン・ミルトン、妻義子(あきこ)にはプラトンの名言。ここで、義子は「ミルトンにもプラトンにも最先の前妻のポタージュに浮かんでいたクルトンほどに何の思い入れも持たない」などのダジャレが入るのもご愛敬。そして統一のタグには――運命というべきか――ゲーテの名言が書かれていた! このように英訳されて。
 Love does not confuse everything, but mixes.

 ゲーテの大家である統一をしてもこの言葉には覚えがない。とはいえ、この文言は統一の若かりし頃の初著書でありその名を世に知らしめた『ゲーテの夢――ジャムか? サラダか?』(百学館、一九九九年初版)のキーアイデアと絶妙に重なるところがあり、彼はこの一文を「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」と和訳する。

 著書のタイトルからしてニューアカの残り香というか、いかにも当時ありそうなノリである。まあ、翻訳という仕掛けが二重にからんできているこの時点で、カルヴィーノ的な、ボルヘス的な、あるいはナボコフ的な香りも漂ってくるのだが、実在の作家や書物と虚構のそれが絶妙に混在する点では、ローラン・ビネの『言語の七番目の機能』(東京創元社)などをお好みの向きにもうけるかもしれない。

 世界の統一性と多様性をめぐる『ゲーテの夢』は、以下のようなゲーテの二つの警句が重要なキーワードとして登場するという。

 「世界は粥やジャムでできているのではない。固い食物を噛まねばならない」(「格言風に」より)
 「世界はいわばアンチョビ・サラダ。何もかも一緒くたに平らげねばならない」(「比喩的およびエピグラム風に」より)

 だんだん人を食った感じになってきて楽しい。ゲーテは確かに「世界は粥やジャムからできてはいない」「固い食物も咬まねばならぬ」とは言ったようだ。しかしアンチョビ・サラダのほうはよくわからない。ドイツで生鮮野菜のサラダ文化が発達するのは19世紀後半以降(ゲーテは1832年没)だという説もあるが、そんなことは、まあいい。

 統一は世界の複雑性を二通りに分けて解説するのに、ジャム的(すべてが一緒くたに融けあった状態)、サラダ的(事物が個別の事象性を保ったまま一つの有機体をなしている状態)という造語を使った。これがうけて、サントリー学芸賞なども獲得し、ゲーテの『ファウスト』の翻訳ではバベル翻訳大賞を受賞、一時は「サラダおじさん」と世に呼ばれるようになった統一である。鈴木がまだ生まれていない頃の文学・学術界のありようをリアルにつかんでいて感心する。

 ここに、統一の後輩研究者の然紀典(しかり・のりふみ)(ゲーテの著書『親和力』をもじった『神話力』という著書が代表作)や、然のゼミ生で統一も指導している紙屋綴喜(かみや・つづき)(オカルティズム全般に関心がある)や、統一の恩師にして岳父の芸亭學(うんてい・まなぶ)(げーてがくとも読める、芸亭は奈良時代末期に建てられた日本初の公共図書館のこと)といった、一癖も二癖もありそうな面々が関係してくる。

一見オーソドックスな端書きが奏功

 こうして統一は名言の出典を探す冒険に乗りだしていく。とはいえ、上述のように本作においては、あらゆる言葉や引用が胡乱(うろん)なのである。なにが出典なのか、真の典拠はあるのか、本当に書かれたものなのか、本当に翻訳されたものなのか、等々。

 そもそも本作の「ゲーテはすべてを言った」というタイトルは、ドイツ人はなにかと言うと「ゲーテいわく……」と始めて、あらゆる言葉をこの文豪からの引用にしてしまう、というところから来ているのだ。

 然は名言のタイプを「要約型・伝承型・仮託型」に分けて解説し、多くは元々の言葉からは大きく変更された形で引用されてるのだと言う。原文を自分なりにまとめてしまうもの、言い伝えられているうちに変形するもの、なにかのメッセージの運び手となるもの。

 『ゲーテはすべてを言った』は真贋とオーサーシップとオリジナリティをめぐる刺戟的でキュートな知の冒険譚と言えるだろう。その冒険は私たちの生を形作る言葉の根源へと降りていく。「ゲーテはすべてを言った」とは、ボルヘス的に言えば、「すべての本はすでに書かれている」ということと通じあうかもしれない。

 本作が多分にブッキッシュな点は、作者自身が愛してやまないという大江健三郎譲りなのかもしれない。大江が引用について話したことを、ここで引用しておこう(この引用は本物です!)。

「引用の問題はいままでの小説――少なくとも『懐かしい年への手紙』以降の自分の小説――の課題として、私の小説作法の最大のものでした。まず引用する文章と地の文との間になめらかさも大事ですが、なによりズレがなきゃいけない。そのズレを保ちつつ、その上で精妙なつながり方をさせていく」(『大江健三郎 作家自身を語る』、新潮文庫)

 書かれたものと読まれたものの間にあるユレ、ブレ、ズレ。物語やフィクションなるものを何千年と持続させ繫栄させてきたものは、そうした人間ならではの有機的な思考にほかならないだろう。

 また本作は19世紀あたりのイギリス小説を思わせる、一見オーソドックスな端書きの存在も功を奏している。書くということは過去時制で書いても現在時制で書いても、「遡る」行為なのだ。ある意味、人間に未来を書くことはできない。未来のモードで書くことはできても。

 鈴木は端書きを使って語り手という存在の「釈明」を行うことで、書くという行為の本質である時間的遡及性をうまく扱い、語り手のもつ現在性を極力消しながら、過去時制で語られる物語を「いま」のものとして鮮やかに描きだした。今後の活躍に期待したい。

 

コメント

このブログの人気の投稿

東京アンダーワールド  Robert Whiting  2013.7.11.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

安曇野  2011.11.8.  臼井吉見