木地師 光と影  日本木地師学会編  2023.7.6.

 2023.7.6. 木地師 光と影 ―もう1つの森の文化―

 

編者 日本木地師学会

 

発行日           1997.8.5. 印刷       8.10. 発行

発行所           牧野出版

 

森の文化が見直されて久しい。森と共に暮らし、何世代にもわたって木の文化を作り上げてきた集団があった。それが山の民・木地師である。彼等の持つ歴史・技術・文化を軸に、現代の視点から多角的に照明を当てた貴重な研究レポート

 

 

木の文化と一口に言うが、その範囲は極めて広く、内容も多岐にわたるが、そうした木の文化の底辺を支えた人々の中に、木地師がいる

木地師は主として山中の樹木トチ・ブナ等から、椀・盆・シャモジ等の木地(原形)を作る人々をいい、その山の必要な木を切り尽くすと、次の山へ移っていく非定着の山の民であり、それが近世末まで続いた

そうした長い期間にわたって、光と影を背負いつつ生きた木地師も、明治を迎え近代工業の発達とともに、その荒波に呑み込まれたかに見えたが、どっこい生きている

その存在を主張し続ける木地師と、研究者の集まりが「日本木地師学会」で、木の文化の一翼を担う誇りと、その重荷に耐え、うめき声を出し合ってきたのが、学会誌『木地師研究』

学会誌発刊10年・114号を迎え、木地師の心根を行間より汲み取ってもらいたいと、学会誌の中から「地域からの発信」を柱に諸論考をまとめて世に訴えることにした

 

序章  成田壽一郎

l  木地師の歴史

1     木地師とはなにか

木地とは、漆塗物の下地/素地の意味が強く、挽物/轆轤挽き加工に限らない

「挽く」は、石臼などで穀物を粉にする意味。Millであり、轆轤で粉を作る作業を指し、その結果生まれたものが「挽物」といわれるようになった

2     挽物技法の起こりと流れ

旋削技法は、弥生時代に轆轤を利用して加工した高杯(たかつき)の出土で確認できる

近江の轆轤工と言えば、滋賀県永源寺町小椋の里が有名

3     宮廷工芸と木工

古墳時代~飛鳥時代にかけて、品部という物作りの組織があった

4     奈良時代の挽物

平城京内の諸寺に収められた各寺10万基の木製の三重の小塔である百万塔が轆轤加工だが、それを担ったのは官営組織の近江轆轤工

5     奈良朝崩壊後の秦一族と轆轤工集団

秦一族は京都の遷都に当たっても貢献したはずで、太秦は朝廷から秦一族に与えられた地

6     近江轆轤工のその後

まとまった朝廷の仕事がなくなった轆轤工は自活しながら次の山を求めて移住したが、次第に中央政府の管理が厳格化

7     惟喬(これたか)親王(小野宮とも、844897)

風雅の途に長じ、弟の後の清和天皇との立太子争いに敗れ28歳で比叡山麓の小野に隠棲

8     惟喬親王の担ぎ上げ

近江の人々に轆轤挽物の技法を教えたのが惟喬親王との伝説があるが、山中深く住み着いた轆轤工集団が権威にすがりたくて親王を担ぎ出したものだろう

 

日本木地師学会について

l  木地師学会創立の辞  杉本壽

1985年、木曽漆畑の南木曽轆轤工芸協同組合の小椋組合長を中心に、木地師制度の科学的分析推進のために学会を作ろうということになった

会員の専攻は種々、法学・経済学・文学・国史学・神道学・工学・理学・医学にわたる

 

l  木地師学会の事業計画及び今後の活動宣言

木地師の歴史、社会、民俗、工芸技術、木工史などの基礎的資料の発掘、調査、研究を行う。全国の轆轤(挽物)細工の技術保存と、素材となる広葉樹の植林にも注力

 

第1部        木地師の里を訪ねて

l  伊勢木地師について  小倉裕

私の住む注連(しめ)小路木屋では、正月近くになると門松にするシキミを探す。高さ2m以上のものを31組にして左右1対立て、その間にしめ縄を張る

『木地師制度の研究』が見つかる

木地師が製作していたものは、しゃくし、えひら(鍬の金の刃先のないものが「ひら」でそれに柄をつけたもの)、おこ(朸=天秤棒)、ぼち(大きな盥のようなもので中に石臼を置いて挽いた)等で、轆轤は使っていない

 

l  五箇山地方の木地師  高田善太郎

1585年加賀藩領となり、前田利長の統治当初70を超える村落があった

各地に木地屋の屋号は残るが、伝承など残っていない

藩林政の厳格化により、木地屋の特権を無視され、氏子狩(集められること)も許されず、木地師達は一般農民の村組織へ吸収され生計を立てる

 

l  鉱山師と菊花紋章考  川見時造

兵庫県朝来郡生野町の「但馬の木地屋」にある菊花紋のある墓

木地師が優秀鉱脈を発見し資産と地位を築き、大坂城の外濠埋め立てに輩下の水抜き工人を引き連れ成功し、加奉行になった

鋳物師も、木地師と全く同じ十六弁菊花紋章を使用していたのも、「禁裏御用」によるものか?

 

l  小椋武松木地師文書について――現当主小椋真直家  杉本壽

信州・木曽福島町中畑の木地職・小椋武松家文書によれば、伊那から来て木地職の棟梁(世話係)をしていた

 

l  中田切木地師の里 長野県駒ケ根市赤穂木地屋平探索  北沢雄喜

中田切木地屋平の位置が、荒井沢(あれえざわ)の南側に確認された

椀作りは「小椋」姓が、盆作りは「大蔵」姓が行なったが、明治の徴兵制度以降、木地師社会は対応できずに急速に崩壊

木地師の故里は、滋賀県永源寺町で鈴鹿山脈の最も深い秘境にある

蛭谷(ひるだに)に筒井神社があり、祭神は宇佐八幡と惟喬親王。さらに4㎞奥が君ヶ畑で、曹洞宗の金竜寺があり、大皇器地祖(おおきみきじそ)神社で惟喬親王は轆轤祖神とされる

愛知川の九居瀬から君ヶ畑までが「小椋の庄」と呼ばれ、木地師の故里でもあり、東北の人形師、こけしの工人にも「小椋姓」があり、先祖の出身地とされ、こけしの故里でもある

元禄の頃、全国木地師の支配を考え、小椋谷を根元としそこに祀る職の祖神の氏子だとして、各地を回って人別を改め、冥加金を徴収、お墨付きと称する偽()文書の綸旨(りんじ)、免状などを与え、特権を保障しようとしたのが氏子狩制度で、16471893まで行われ、全国で9734人の木地師が登録された

 

第2部        技術・製品・伝承

l  美作木地師小椋家の系譜と千軒刻研出漆塗について  小椋芳之

岡山県奥津町羽出千軒は、3人の木地師兄弟が住み着いたのが起源とされ、木地師集落として知られる。10世帯前後が変わらず続き血縁で繋がり、共同体意識に支えられる

私は10歳から木地挽きを始め、木地師7代目を名乗る。4尺盆まで挽くことができる

千軒刻研出漆塗は代々改良されて完成された漆塗りで、津山市の当家だけが製造販売

伯父の和田真一は、‘65年木地師として県無形文化財に指定、人間国宝指定調査中に死去

 

l  西中国山地の木地師のこと  金谷匡人

西中国山地は木地材料となるトチ、ブナなどの樹木に富み、近世から木地師の多い地域

特に島根県六日市町金山谷、山口県錦町川津の集落に多く、墓には十六弁菊花紋がある

 

l  西川開村小史と段戸山名論  斎藤和彦

愛知県設楽町の栗島川上流に連なる三河随一の名山・段戸の山々には中世末頃より良木を求めて全国を巡る木地師たちが足跡を遺す。段戸御林は元々天領で記録が残っていない

1893年入山と記された段戸造林事業者記念の碑が立つ――原木の枯渇対策として木地師が奮闘、生活物資を搬入するための道路と通信事務の確保に難渋しながら段戸山中腹の荒漠の地を切り拓くが、時代とともに廃れ、製板業から製炭業に代わり、それも廃れて離村が相次ぐ。大規模農地化構想もあったが、現在は払い下げを受け、静寂を取り戻す

段戸山と鷹ノ巣山のどちらが正しいかとの論争が起こり、段戸山は一帯の山塊、数十の峯の総称との統一見解が示された

 

l  讃岐木地師の源流・泉丸佐与太  寒川広嗣

泉丸は1893年讃岐の生まれ。香川県には古くから独特の漆器産業きんま塗と後藤塗がある。前者は天保年間に球楮象谷(たまかじぞうこく)の確立した技法で色漆を象眼していく彫刻技術に重点を置いたもので、象谷はさぬき彫も創案。彫刻を主体とした技法は後藤塗にも取り入れられ、1枚板を刳貫いて作る「くりぬき盆」は生活用品の中にも定着

讃岐の木工芸では轆轤よりも手間暇のかかる手彫り技術に重きが置かれた

水車の動力を利用した轆轤技術が普及、泉丸も20歳から轆轤を挽き始め26歳で独立、自分の工房を持つ。終戦直後に高松工芸校で教職生活を送るなど、各所に種を蒔き続けた

 

l  富山県庄川挽物をめぐる諸問題  楯英雄

庄川町から高岡市にかけての25町に「庄川挽物」の業者が集中――1978年通産省から「伝統工芸品」(工芸材料)に指定。2年後には南木曽など12村の「南木曽轆轤細工」(製品)も指定され、轆轤を中心に日々使う器の指定ではこの2産地のみ

庄川挽物は、慶應年間に越後屋清次が創始、大正以降隆盛を迎え、最盛期177人の木地師がいて、小椋、大蔵などの姓は1人もいない。他に高岡漆器を支えた木地師も存在

 

l  木地の古里・横川――宮城県刈田郡七ケ宿町横川  髙橋國雄

七ケ宿町は宮城県の最西南端にあり、山中七ケ宿街道の要衝で殷賑を極めた地

横川を4㎞遡った集落は近江から来た木地挽きを生業とした木地師の集落で、丸物木地を主体に、「山取り、木地挽き、塗り」を一貫して行い、製品販売も独自に行う

 

l  平家伝説から見た木地師の世界――伝承について史実との接点を探る  大沢利之

木地師に関わる伝承が消えつつある中、平家伝説を運んだ人々に木地師が関与していた可能性と、近代に入り山中漂白から平地定住に至る過程で、先住者からの差別や圧迫を避けるため己の出自や家系を平家落人に結び付けていった可能性が考えられる

平家伝説地は全国に約1100カ所、木地師の分布状況と近似――平家伝説は3種類の伝承と同居するケースが多い。マタギ(狩猟)、木地師、山岳修験の3種で、木地師については福島県昭和村の畑小屋などいくつか存在する

 

第3部        木地師――その仕事と心

l  木地師茗荷定治(みょうがさだじ)――人と芸術  今村実(時代小説作家)

鳥取市若桜町は木地師の里。昔から交通の要衝で、産業の中心は林業。木地挽き業者は数十人に達するも、明治以後瀬戸物普及に押され衰退したが、伝統工芸として残る

茗荷は1919年生まれ、高等小学校卒後木地挽き職人に弟子入りするが、師匠が夭折したため、以後は独学。陸軍に入隊、除隊後は徴用で旋盤工に。戦後挽き物工場に勤務後、「盆屋」の屋号で独立、柳宗悦に傾倒した新作民芸運動の吉田璋也の指導を受ける

芸術家といわれるのを好まず、「生涯一木地挽き職人」で通した。自分の作品の上に装飾を施されるのを拒否し、木そのものが備えている美しさを大切にしようとする

 

l  木地師大蔵忠治郎の生涯  楯英雄

新東宝の《日露戦争と明治天皇》の制作者・大蔵貢・近江俊郎兄弟の父は、南木曽の木地師。1896年最初に南沢に入り、伊那に移る。いい木地を挽いたが大酒呑みで喧嘩っ早い

 

l  木地師小椋覚次郎とその末裔  蓮沼州子

小椋覚次郎は、1858年の生まれ、嫡男として先祖伝来の家業木地師を継いだ

明治になって戸籍や納税義務が導入され、定住地を持たない木地師は定住せざるを得なくなる。覚次郎一族も美濃と信濃と飛騨の境辺りの岐阜県に住むが、大正初め岐阜駅前に定住し、電動轆轤を導入、商売も繁盛、子・孫と木地師の後継者に恵まれ、83歳の天寿を全うしたが、戦争ですべてが焼失。孫も県庁に就職し、木地師は廃業

 

l  木目にかける木地師・大蔵光一  

岐阜県の濃・信・飛3国の境にある加子母村(覚次郎の住んだ村の隣、恵那郡)唯一の木地師で伝統に生きるのが大蔵。戦前は軍隊の食器や飛行機の部品まで作り、戦後は生活様式の変化で生活は楽とはいえなかったが父子で仕事を守り続けてきた

昔はケヤキ材で椀を作るのが中心だったが、材不足と良材の伐採制限でトチの木を使用するようになり、それも現在は奥飛騨から移入。燻煙乾燥1520日の後轆轤で刳(えぐ)

 

l  伝統技術に新しい息吹を  

国立富山県高岡短期大学における挽物授業について  林哲三

1986年開学。産業工芸及び産業情報の人材育成が目的。産業工芸学科は富山県の地域産業に関連した内容で、金属工芸、木材工芸、漆工芸、産業デザインの4専攻。木材工芸に指物、挽物が含まれ、挽物では庄川挽物の技術を教える

 

 

補遺  池田勇次

1. 木地師という呼称について

1807年幕府の裁許状にあり、寺社奉行が公認した呼称

「木地屋」では蔑称のきらい

2. 発刊までの経緯

1985年、日本木地師学会が設立され、その機関誌として『木地師研究』発刊

1996年、過去の機関誌の原稿を整理・編集して本書発刊が決まる

3. 課題と今後の展望

「木地師の子孫」であることへの偏見、木地師たち自身が根深い所で生きていることとその事実を敢えて隠そうとするところに、その陰湿さが窺える

「きたりゅうど(来流人)」という差別が現存するように、山から山への生活を離れ、定着して農民となった元木地師たちの座る場所は、それほど快適ではなかったと想像される

職人や、特に工人に対する蔑視があったことは否定できない

貴種意識と偏見の狭間にあって、木地家業を貫くためには、工人としての誇りと世俗的に生きていくための妥協も必要

同じ木地師でも轆轤を回さない人もいる。ヒノキ等を薄く剝ぎ、曲()げ物を作る人、屋根板を剝ぐ人、しゃもじを作る人などで、こけしを作る人も木地師

木地師から鉱山師になった例もあり、自分の道具は自製したため鍛冶屋でもあったし、同じ山地民として修験者との関わりも考えられる。幅広く仕事ができる工人だった

木地師が菊花紋を使用した例は多いが、皇室儀制令にいう紋とはどこ間違っている一種の類似紋で、惟喬親王に繋がる伝承から貴種を誇示し、平地農民と一線を画そうとしたもの

 

 

 

 

Wikipedia

木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ、轆轤鉋)を用いて等の木工品(挽物)を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。

概要[編集]

9世紀近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が、手遊びに綱引轆轤(紐錐轆轤)を考案し、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。異説として、親王の子とされる兼覧王ゆかりの所領であったために、後に親王に由緒を遡らせた創作が作られたとする説もある[1]。蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』(後述)などの資料から木地師の調査、研究が進んだ。

木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった(「朱雀天皇の綸旨」をはじめとする由緒書の多くは、江戸時代の筒井神社の宮司大岩助左衛門重綱の偽作と考えられている[2])。実際にはこの綸旨は文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった[3]。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた[3]

木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。

江戸時代に入ると、惟喬親王の霊社を祀った神祗官白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)と、同じく神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)が、それぞれ自分たちを木地師の氏神と喧伝し、自社の氏子に登録していった(氏子狩)。幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて2030年単位で山中を移住していたという。

木地師の伝承[編集]

石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)地区[4]は惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わり、時代を経て何通かの御綸旨で森林の伐採を許された主に木地師達の小村落であったり、山中漆器の源とされる。朝倉氏の庇護もあったが天正元年の一乗谷城の戦い以降は庇護も無くなり一部の木地師達は新天地を求めて加賀から飛騨東北地方に散って行ったとされる[5]

会津には元々少数ながら木地師がいたが、蒲生氏郷保科氏転封になった時に近江や信濃から木地師を連れて行った。それらの人々は従来の木地師から「渡り木地」と呼ばれた[6]

木地師が描かれた作品[編集]

小説『脊梁山脈』乙川優三郎新潮社2013

アニメーション映画かぐや姫の物語 高畑勲監督、スタジオジブリ2013

脚注[編集]

1.     ^ 「筒井神社」『日本歴史地名大系 25 滋賀県の地名』 平凡社、1991年。ISBN 4582490255, pp. 681-682.

2.     ^ 間瀬久美子『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年。ISBN 978-4-642-04348-9, pp. 353–354.

3.     a b 宮本 2011, pp. 80–99.

4.     ^ 安珍清姫鐘巻由来、紀伊国真砂(まなご)も同じく「まなご」と言い、木地師の伝承があるとされる。熊野国造の「真砂の長者」も参照。

5.     ^ 大聖寺川上流域の歴史編纂委員会 編『大聖寺川上流域の歴史』(初版)ホクトインサツ、小松市日の出町(原著200945日)、136頁。

6.     ^ 宮本 2011, pp. 98–99.

参考文献[編集]

宮本常一『山に生きる人びと』河出書房新社、2011年。ISBN 9784309411156

 

 

氏子狩(うじこがり、氏子駈とも)とは、強制的に自社の氏子に登録させること。特に滋賀県愛知郡小椋庄(現:東近江市)の木地師に関する物が有名であり、本項ではそれについて解説する。

なお、ここでいう「狩り」とは、織田信長の「茶器名物狩り」のような「集める」という意味合いであって、捕まえる、殺すという意味ではない。

概要[編集]

木地師」も参照

滋賀県愛知郡小椋庄は、木地師発祥の地とされていた。近世後期、神祗官白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)と、同じく神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)は、木地師の祖とされる惟喬親王の霊社を祀り、これを木地師の氏神と喧伝した。

当時、木地師は全国各地に散っており、時に朝廷幕府の許可を受けて、生業を続けていた。もし、これら木地師達を氏子として自社の影響下に置くことができれば、大きな収入を得ることに繋がる。

そこで白川・吉田両家は、自らを正当な惟喬親王の霊社としつつ、各地に散った木地師達を探し出し、自社の氏子に強制的に登録していった。両社は時に偽造文書も発行し、自社の配下に収めるために争った。

結果として木地師はどちらかの神社に登録されることとなり、金を納めて一定の義務を背負った。また、両社はその権威を振りかざして木地屋の営業認可まで行なった。実際に惟喬親王が祖だったかは不明であるが、一連の出来事によって木地師達は惟喬親王が業祖であることを信じていた。

この氏子狩りの大きさは、文化13年(1816)の筒井八幡立替の際には、36ヶ国約3600名余りの木地師が氏子として費用を献じたことからもわかる。

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.