身辺雑記  瀧田資也  2023.7.3.

 2023.7.3. 身辺雑記 医療法人瀧田医院35周年を記念して

 

著者 瀧田資也 医療法人瀧田医院理事長

 

発行日           2023.5.1. 初版第1

発行所           医療法人瀧田医院

 

 

はじめに

瀧田医院は第2次大戦直後に父福三が開設。'87年福三亡き後資也が引き継ぎ翌年法人化

'23年理事長を息子好一郎に引き継ぎ、名称を資恩会に改称

 

 

花火を語る  瀧田好一郎

 仕事を円滑に進めていくうえで必要と思われる趣味について

病児保育のあれこれ  瀧田恭代

 小児科医の立場からも必要と思われる事柄

傘寿を迎えて  瀧田資也

 

l  瀧田家の過去――廻船問屋から木綿問屋へ

瀧田家は江戸後期より明治初期に大型木造帆船の千石船と呼ばれる弁財船を最多4隻保有、尾州を廻船する常滑船を所有する廻船問屋で、常滑で壺や瓶等の陶器、桑名・四日市で米等を仕入れ、10日ほどかけて年45回江戸を中心に航海し、商品を売り、江戸で仕入れた干鰯(ほしか)等を地元に持ち帰って売る

18364代目が廻船業を始めるが、1849年大火事で家屋敷が類焼、翌年には廻船業を再開。18564代目没。継ぐ者がいなかったので、常滑焼窯元渡辺家から養子を迎える

5代目高祖父金左衛門(181791)は、明治になって洋船化と陸運の発達で1885年を最後に廻船業を解散し、知多木綿問屋の免許を取得、1872年木綿問屋創業

6代目曾祖父幸治郎(18501919)は、木綿業で成功し、常滑町の長者番付1位に

7代目祖父貞一(18791934)も、長者番付1位を維持

8代目英二(190498)は東京帝大国文卒、新劇にも手を出し女優の花柳はるみと結婚、息子(文彦、後に東大教授、66歳で没)(あゆち、193305、本家9代目当主、後に日航初の女性管理職、未婚、子どもなく本家断絶)を設けたが、貞一は認知せず、両親の死後瀧田家に戻って家督を継ぐが、1965年上京し朽ちた屋敷を常滑市に寄贈

1937年織布工場を知多郡樽水に建設、織布業にも進出。「常盤晒」の商品名で売り出す

母方の祖父大島理三郎(18901973)は、刈谷在住で豊田佐吉と自動織機を、喜一郎とは自動車を共に右腕として、今日のトヨタの礎を築く。のちアイシン、愛知製鋼社長

2000年、常滑市は「廻船問屋瀧田家」を有形文化財に指定、09年より「常滑やきもの散歩道」の一角の観光施設として一般公開

瀧田商店は、1944年株式会社瀧田繊維工業となり英二が代表に。戦後も織布業を継続。「ガチャ万景気」で一時潤ったが、後継者がなかったことから、常滑在住だった父福三が社長を引き受け、国に織機を買い上げてもらい不動産賃貸業に代わって現在に至る

父福三(190387)は、県立愛知医科大(名大医学部の前身)卒後、同大講師、陸軍軍医('4145)、戦後は瀧田医院開院、'58年常滑市民病院長('61)、喫煙が祟って肺性心で死去

母照子(191804)は、好一郎の藤田保健衛生大(現藤田医科大)入学祝で一家でハワイ旅行から帰国した翌日脳卒中で倒れ、04年心室細動で死去

 

l  町立常滑小学校入学

19428月生まれの1人っ子。息子、嫁、孫もみな1人っ子

愛知学芸大附中に合格し、知人宅に下宿。中3で建築を志望、東大建築科を目指し日比谷に入るために麹町中に寄留。父は当初医者を継がせたくて反対したが容認

東京の生活にストレスを感じて鬱状態になった際、担任から似たような環境にあった早川礼之助に引き合わされる。中学の成績は学級1位、実力テスト全学267人中1位か2

早川の父は物理学者だったが、東京大空襲で両親共々爆死、母は1人っ子の礼之助を連れて実家に戻り家業のエトワール海渡で働きながら育て、後社長、会長。エトワールの社長は礼之助の長男

2の担任の英語の高田久寿先生に相談して、進路を医学部に変更。補習科から慶應医学部へ。日比谷からは1人だけ

慶應でのインターンと報告医の1年を経て、当時名大1内教授から同病院長になっていた父の陸軍病院時代の同僚日比野先生の紹介で、運よく欠員の出た名大病院の血液内科に入り、4年在籍の後1内の血内に異動。学園紛争の煽りで1内をまとめていたのは祖父江逸郎助教授、戦艦大和搭乗の海軍軍医出身で神経内科の専門だが、のちに1内教授、臨床医としての姿勢を指導していただく

1内での研究テーマは「白血球の中の顆粒球の成り立ち」。6年後常滑市民病院内科部長。’86年瀧田医院を継ぐ。翌年父死去。2000年タキタデイプラザ開所

日比谷入学の前後心身症に罹患した際、英二から東大国文同期の成瀬正勝を紹介され、直接面談し礼儀正しい応対を見て、「礼儀」が人間関係の潤滑油として重要であることを学ぶ

早川は1997年小脳出血発症、その後回復したが19年心臓発作で死去

2002年公開講演会開始。初回は「走る大脳学者」で生理学の第1人者久保田競教授の「発達する脳 老化する脳」。08年の講師は嶌信彦、09年は新井賢一でヒトゲノムの話

生活習慣病、メタボリックシンドロームの糖尿病、高血圧症、変形性腰椎症、腰椎脊柱管狭窄症による腰部から臀部の痛みと、運動不足と老化による移動機能低下によるロコモティブシンドローム、筋力低下のサルコペニアや身体が脆くて弱い状態のフレイルなどにより、日常生活動作Activities of Daily Livingが落ちてきている。新しい記憶を司る大脳中央部の海馬が委縮してきたために短期記憶が、大脳の前の前頭前野の「46野」の萎縮から何かをするときに一時的に記憶する「ワーキングメモリー」が落ち、前頭前野の一番前にある「10野」が司る主課題をしている途中でそこから分岐した副課題も一緒に行う「ブランチング課題」の処理能力が落ち、さらに感情の制御や行動の抑制等の高度な精神活動が衰え、生活の質Quality of Lifeも落ちている。これらは老後になれば多かれ少なかれ生じること

 

 

 

 

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