祖父 大平正芳  渡邊満子  2023.7.12.

 2023.7.12. 祖父 大平正芳

 

著者 渡邊満子 メディアプロデューサー。1962年東京生まれ。慶應大幼稚舎から文学部仏文科卒後、日本テレビ入社、《キューピー3分クッキング》のディレクター、プロデューサーを20年余り担当。日テレ開局55年記念特番《女たちの中国》《天皇皇后両陛下ご成婚50年記念特番》など特別番組をプロデュース。09年退社。メディア・プロデューサーとしてホテルオークラ東京《名家の逸品》展をプロデュースするなど多方面で活躍中。著書『皇后陛下美智子さま 心のかけ橋』。河野太郎は中学の同級生

 

発行日           2016.2.10. 初版発行

発行所           中央公論新社

 

 

韜晦の政治家――『祖父 大平正芳』に寄せて           讀賣新聞特別編集委員 橋本五郎

安倍政権になって自民党は大きく右に傾いた。こういう時こそ宏池会の伝統であるリベラルな対抗軸を示して、日本を誤りのない方向に持って行かなければならない。中心は2つあるべきという大平の「楕円の思想」の重要性が語られる

何時の時代でも政治や政治家に求められる普遍的なものを大平の中に見る。今政治に欠けているものを大平は体現していた

その第1は、政治には限界があることへの深い洞察があった。権力は抑制的でなければならない(新権力論)。権力者は慎み深く、韜晦の気持ちがなくてはならない。政治とは鎮魂であり、人々の魂を鎮めるのが政治

2は、政治を常に公的なものとして考えていた。福田に辞めろと言われ、憤然として席を立ったが、自分が辞めた後日本のために総理にすべきは福田だと言い、恩讐を越えて国家全体を考えていた

大平は礼節の人。中学・商大の郷土の先輩の神崎製紙創立者加藤藤太郎への接し方にもよく現れていて、決して車を乗り付けるようなことはなかった

身内が書いた指導者論は少なくないが、この書ほど多角的でバランスのとれたものは珍しい。それにしても大平家の「通夜の客」は秘密に満ちている

 

 

エピグラフ

両親 森田一と芳子へ

あなたたちの娘として生を受け、私は幸せです

2人の力添えで完成することができました

末永い健康を祈ってこの本を捧げます

 

姪の瑛(よう)子へ

大平家の、強く、しなやかな女性の系譜を引継ぐ者として歩んでください

いつも見守っています・・・・

 

森田光一、美古、基寛へ・・・・

そして、渡辺弘へ・・・・感謝を込めて

 

はじめに

私の母方の祖父・大平正芳は多感な青春時代にキリスト教の信仰の道に入り、伝道師として生きていこうと決意をしたが、運命のいたずらで政治家となり、現職の総理大臣としてその職に殉じた

2009年、日本テレビを離れ、民主党から出馬した遠縁にあたる新人候補・玉木雄一郎の応援のために香川に入り、政治家の船出を目の当たりにして、新たな政治体験を通じ、祖父・大平正芳について思いを深めていく

執筆を始めた頃、尊敬する元官房長官の仙谷由人から、「大平正芳先生の「寛く深い思考と心」と「我慢強さ」が何に基づくものなのかを、描き切ってください」と言われた

祖父が亡くなった時私は17歳。高校生の私が、15歳年上の大平番の新聞記者に恋をした時も、頭ごなしに否定することなく、一笑に付すこともせず、寛容な心で接してくれた

 

1.     最後の晩餐

1980年、野党による内閣不信任案の提出後、自民党内からの造反により不信任が可決し、衆院解散、初の衆参同日選挙となり、出陣式の後、最初の街頭演説地の新宿で第一声

首席秘書官の父・森田一は妻芳子とともに大平の代理で香川にいた

第一声のとき最初の心臓発作が起き、5カ所の街頭演説を終えて帰宅したときには心筋梗塞の疑いで絶対安静となり、総理番の記者が帰るのを待って虎の門病院に

 

2.     虎の門病院の12日間

入院の翌朝森田が記者会見を行い、過労としたが、報道合戦は過熱。一旦は病床で、わずか2分だったが、記者団との会見まで開かれたが、12日目に容態急変

香川2区には、森田一が大蔵省を辞めて代わりに立候補

 

3.     「おなごは早く嫁に行け」1人娘・芳子の結婚

1961年、森田一・大平芳子結婚。主賓は池田首相、仲人は森田の郷里の坂出出身の大蔵官僚津島壽一夫妻。芳子は青学大2年生

後援会の幹部が、地元出身で大蔵省入省の森田を大平に紹介、慎重な大平が1人娘の縁談に、本人の意向も確かめずに2つ返事だったのは、よほど気に入ったのだろう

芳子が雑誌に寄稿、「大学に行きたいと言ったら父から、おなごは大学など行くものではない、さっさとお嫁に行くことを考えろと言われた」とあるのを市川房枝が見つけて国会で総理の大平の婦人観を追及。大平は「父親として娘の女の幸せを追求してもらいたいとの気持ちから出たもの。子どもを設けるという人生経験は男にはできない。女性を尊敬している」と答え国会は大爆笑に。本会議の壇上から首相が娘を語る、前代未聞のこと

 

4.     52歳の外務大臣

1962年、池田勇人が自民党総裁に再選され、官房長官の大平が組閣案を作成、田中角栄政調会長を蔵相に、自らは外相となるべく、田中邸に森田を連れ、500万円をもって乗り込む。大野伴睦が反対したが何とか発足。森田は大蔵省からの出向で外相秘書官となる

若い大平を、外務次官の武内龍次が肩を叩いて喜んでくれた

 

5.     慟哭――長男・正樹の死

1964年、長男正樹がベーチェット病で死去、享年26。正樹を悼む大平の文章は心に響く

眼科医の森田夫人(筆者の祖母)が正樹の眼球に原因不明の出血を発見したのがベーチェット氏病に繋がる。葬式は盟友田中角栄が仕切る

 

6.     田中角栄の涙

1984年、正樹の20年祭では田中角栄が涙ながらに心情溢れるスピーチをして、参会者の涙を誘った。角栄もまた長男を5歳で失くしている

正樹が大平の秘書になる前に世界一周旅行に出た時は、田中真紀子も前半の米欧までは他の友人たちとともに同行したが、そのあとのアフリカ行きは角栄が止めたにもかかわらず行ってしまい、帰国直後に発症したという

角栄と大平の出会いは1947年、角栄が衆院に初当選、祖父は経済安定本部の公共事業課長に出向、2人は共にGHQの圧力を感じながら戦災からの復興に努めていた

1952年政治家に転身した大平が初当選し、政治家としての二人三脚が始まる。選挙に弱い祖父を選挙のたびに応援に駆けつけてくれたという

死の床にあって、最後に祖父が会いたかったのは角栄。出会った時からお互いに、「この男は天下を取る」と思い、相手の持つ自分にはない個性に惹かれ合い「ウマが合う」2人だった

 

7.     日中国交正常化

1972年、田中内閣の外相だった祖父は、日中国交回復を模索。党内右派勢力方の激しい抵抗の中、総理、二階堂官房長官、大平が揃って訪中。大平は戦前張家口に1年半単身赴任、日本軍部の横暴を目にして贖罪意識が芽生えた大平にとって政治家になった時からの悲願

北京での交渉終了後、周恩来の要請で3人は周総理の飛行機に同乗している

この時の友好のシンボルとなったパンダがブームになった時から、私は何かしら日中の架け橋となる仕事がしたいと漠然と思うようになり、08年の北京オリンピックに合わせて日テレ内で中国関連の特別番組の企画募集があり、日中の歴史に翻弄された女性たちをドキュメントする企画《女たちの中国》を制作し、開局55周年特別番組として放映されたが、その中でインタビューした山口淑子が「歴史の岐路で過ちを犯さないために、人間も国家もアイデンティティがしっかりしていなくては」と言っていたのが印象的

 

8.     日韓関係は「業」である

大平外交は、対韓国について戦後賠償問題で手腕を発揮し両国の歴史にその名を刻む

1962年、外相当時の「大平・金メモ」が土台となって、65年正式に国交正常化実現

大平は、近くにいながらお互いの国民同士が友好な関係を持ちにくい状況を「業=因果応報」と表現。直後に起こった金大中事件の政治的決着を見たときには祖父の髪は真っ白

 

9.     ケネディ大統領とライシャワー大使

1962年、日米貿易経済合同委員会で田中蔵相、大平外相は夫婦揃ってホワイトハウスを訪ずれ、ケネディ大統領と面談

ケネディは日本との「対話」を取り戻すために、知日派の代表格ハーバード大教授のライシャワーを駐日大使に任命。大使は祖父と同年の生まれ、「会った時からお互いに親近感、信頼感を抱き、敬愛の念すら抱いた」と、『「センパイ」大平さん』の中で書いている

大使から「イントロダクション=核持ち込み」の話を聞かされた外相の大平は、非核3原則に含まれるとして政権を攻撃する野党を抑え込んだが、国民にきちんと説明すべきだと考えて悩み続け、この十字架を背負ったまま天に召された

 

10. キリスト者として

祖父のキリスト教との出逢いは18歳の時、高松を訪れたキリスト教布教活動で知られる東北大教授・佐藤定吉の講演を聞いたことがきっかけで、間もなく佐藤に共鳴した学生たちの結社である「イエスの僕会」の軽井沢千ヶ滝の集会に参加。腸チフスや湿性肋膜炎などに罹患、海軍兵学校に不合格、父急逝と続いたころで、翌年休学し観音寺に帰って受洗

454月除籍、戦争末期に自ら願い出た教会との訣別、その深層を知る術はもうない

67年、『キリスト新聞』のインタビューで、「聖書から離れて生きることはできない、祈りの中に神さまとの対話も続けている」と答えている

 

11. 終戦の頃 恩人津島壽一とともに

1945年、終戦を挟んで祖父は津島蔵相の秘書官。5月の空襲で津島邸も自宅も焼失

敗戦後の東久邇内閣でも蔵相になった津島は、マッカーサーとの直接交渉で食糧問題の打開策を探る。私の両親の仲人は津島夫妻だが、結婚に際し、子どものいない津島家の後継に父を迎えたいという話があった。断ったのは祖母で、厳格な津島家の嫁にはうちのじゃじゃ馬娘には務まらないというのがその理由

 

12. リベラルな師 吉田茂と松本重治

祖父は吉田総理を心から尊敬し、機会あるごとに大磯を訪問。名誉欲がなかったところに惹かれた。欲のない人ほど強く、始末に困る人はいない。潔く政権を去った吉田総理に深い感慨を覚えたと同時に、周囲の非情に一体日本の政界はこれでよいのかと嘆息している

もう1人外交面の師・松本重治は松方正義の娘の子。同盟通信の上海特派員の1936年「西安事件」をスクープした国際ジャーナリスト。戦後吉田の支援も受け、異なる立場の相手を思いやる態度を日本人と日本人社会に根付かせることの重要性を痛感して構想したのが国際文化会館。「リベラル=偏見のない」政治のあり方について感化を受けたと推察する

新渡戸稲造や朝河貫一から直接薫陶を受けた松本は、非戦の姿勢を貫くが、新渡戸の教えの根本は”sense of promotion(平衡感覚)””grasp of things(核心を掴む)”

その松本は、「今の日本の自由、民主主義が、米国との戦争で負け取ったものという歴史的事実を、多くの日本人が忘れ始めているのではないか」と心配していた

 

13. 読書を愛す

2015年、観音寺市の大平正芳記念館閉鎖。8千冊の蔵書は国会図書館と県立図書館へ

「読書は魂の糧で、特に俗事に取り紛れがちの政治家にとっては、精神の浄化、発想の鮮度と時世への嗅覚の涵養に、欠かすことの出来ないもの」との信念から本屋の店頭に向かう

好きな現代作家は司馬遼太郎。人間中心の史眼、発想の原点、柔軟鮮烈な把握力に敬服

 

14. 家の履歴書

千駄木3丁目の大給(おぎゅう)坂の途中の大銀杏のある家を子爵の大給松平家から買ったのが三木証券の創業者鈴木三樹之助。母方の曽祖父。私たち一家も66年まで同居。森村市左衛門の終の棲家(敷地880坪、建物108)を譲り受けて瀬田に転居。74年精神不安定なお手伝いの放火により全焼。新居は吉田五十八の愛弟子・今里隆の設計

 

15. 権力の夏休み――軽井沢物語

2014年の誕生日を軽井沢で高松松平家当主頼武と一緒に祝う

1951年、サンフランシスコ講和会議直前国会において「軽井沢国際親善観光文化都市建設法」制定

初期の避暑客であった人々によって掲げられた軽井沢のスローガンは、「娯楽を人に求めずして自然に求めよ」というもの

 

16. 運命の人――「密約」をめぐって

2010年、衆議院外務委員会で民主党政権が4つの「密約」について追及。うち祖父と父が関与したのは2つで、1つはイントロダクション(9章参照)、もう1つが1972年沖縄返還時の補償費の肩代わりに関する「密約」で、後に外務省機密漏洩事件に転じていく

1972年、沖縄返還に伴う原状復旧費400万ドルを、米側は議会の承認が得られないとして支払いに難色を示し、沖縄返還を急ぐ日本政府が肩代わりする「密約」を結ぶ。密約に先立ち父は大蔵省の課長補佐として金額の査定に沖縄に渡航、それを嗅ぎつけた岳父お気に入りで大平家に出入りしていた毎日の西山記者から問い詰められ白を切る。西山は別途入手した外務省の機密文書を社会党の横道孝弘に渡し予算委員会での質問に持ち込んだため、機密漏洩が露見して大騒ぎになったが、時の権力は男女間のスキャンダルにすり替える

山崎豊子は『運命の人』で西山を主人公とするフィクションを書くが、西山のみならず、大平家にとっても納得のいかない記述が散見される。西山夫人の弟と大平の姪が結婚したので両家は縁戚関係になったが、この事件以降疎遠で、外務委員会の証言で父と西山氏は40年ぶりに同席。西山に対し良心の呵責に苛まれていた両親はようやく解放された

密約の調査を断行した民主党の岡田克也外相は、最高裁で国家公務員法違反で有罪が確定した西山に対し、国家の密約の犠牲になったことを謝罪

 

17. 東京サミット秘話

1979年、東京サミットの折、総理として議長を務めた祖父へのお土産にジスカールデスタン仏大統領がサインしてくれたのがリモージュのお皿

赤坂迎賓館・遊心亭での午餐を仕切ったのは馴染みの吉兆の湯木貞一。祖父は山積していた課題と議長国としてのプレッシャーからか神経性の腹痛に見舞われ料理に手を付けない。それを見たジスカールデスタンが、「議題は午後ゆっくり考えることにして、今は料理を楽しもう」と気遣ったことで各国首脳が、「大平をこれ以上追い詰めてはいけない」と感じ合意に歩み寄る流れができたという。日本酒を「国酒」として正式な晩餐会での乾杯の時に使うことを発案したのは祖父で、ヒントは日中国交正常化の際の乾杯がホスト国の「白酒」

祖父は英語が好きで、正式な場所では通訳を付けたが、通訳なしで会話は出来た

 

18. ゴルフを愛す

年間300ラウンドするほどゴルフ好き。1952年初当選の年、箱根カントリーの開場杯で優勝。今は母芳子が会員権を引継ぎ、コース委員も務める

軽井沢72では、白洲次郎が1番ホールのティーグラウンドの横に陣取り、マナーをチェック。角栄が持ち出し禁止のタオルを勝手に使っていたのを見咎めて注意したら、角栄も素直に頭を下げたという。その率直さを気に入って白洲は角栄を可愛がったという

祖父が一番好きだったのは茅ケ崎のスリーハンドレッドで、五島昇は大平回想録で、「精神的に解放される場にあって初めて人間の本質的なものが現れるとしたら、大平が極めて豊かな人間的魅力を備えていたことを、私ならずともクラブのキャディなら誰でもがよく知っていた」と書いている

 

19. じゃじゃ馬3人娘――女たちの吉田学校

池田政権の頃から、母芳子(‘42年生)と池田家の次女紀子('39年生)、田中家の長女真紀子(‘44年生)3人を「政界のじゃじゃ馬3人娘」と言ったのは角栄命名による

田中家の長男正法(‘42年生)4歳で夭折したため、角栄の愛情は真紀子に一心に注がれる。16歳で両親の反対を押し切って渡米、26歳で日本鋼管にいた直紀を養子に迎え、「政治家1代限り」を方針とした父を押し切って直紀を政治家へ、その後は自らも同じ道へ

池田家は3姉妹で、二女紀子が家のすべての切り盛りを任されていた。1961年の池田総理渡米の際は3姉妹揃ってワシントンで両親を出迎えたが、総理夫人の外国公式訪問はこの時が最初。吉田元首相の鶴の一声で決まったとされるが、実は同伴を強く勧めたのは祖父だったと、滿枝夫人が大平の創意工夫に感心したと回想録に寄稿している

池田内閣の官房長官だった祖父が、待合通いとゴルフを禁止したため、人々は信濃町の池田邸に押し掛けることとなり、滿枝夫人と紀子さんは大車輪で応接したという

大平家は長男の正樹が26で亡くなったため、芳子は森田と結婚後23脚で、主に選挙を取り仕切り、「地盤」と「看板」を守ることに人生の大半を費やした

池田家の2代目は行彦。同じ広島、大蔵省の出身だが早世。3代目は長女の娘慶子の夫で財務省出身の寺田稔

 

20. 父の選挙と母のカミサマ

政治家の妻ほどQOLの低い立場はない

私は現在民主党の玉木雄一郎の応援をしている。大平家は後継者を出さなかったので、実質的な大平政治の継承を彼に委ねた

祖母はクリスチャンだったが、母は神仏に頼り、誰かに紹介された吉野の天河神社から始まり、様々なカミサマを信奉してきた。最後の選挙戦の前日、「菱形のカミサマ」のご神体がお疲れになっているとの連絡があったことを報告した母に、祖父は「神さまも仏さまも、もういいよ・・・」と言ったのが、父と娘の最後の会話。入院した虎の門病院は自宅から「暗剣殺」という最凶方位と言われ、この年「庚申(かのえさる)」は、中国道教では金気が天地に充満して人の心に冷酷さが増し、政治的な大変革が起こると言われてきた

弔い合戦に担がれた父も最高得票で当選し、その後連続8回当選、運輸大臣にもなり、25年の勤続表彰を受け、05年引退したが、27年間の議員生活のほぼ半分は鬱病との闘い。「大平の名を傷つけてはならない」一心でプレッシャーと闘っていた

 

21. ぼくのマドンナ

1978年、大平は『ぼくのマドンナ』と題した妻についての文章を日本経済新聞に寄稿。祖父はかねてより、国民11人が実は政治家であり、家庭こそが日本のかけがえのない政治の構成要素だと主張、この考え方が基になって「家庭基盤の充実」という大平内閣の政策も掲げられた。寄稿では、「妻の役割は、諸々の機縁の結び目を大切に保守すること。渇いた世の中に潤いを、騒々しい世の中に平穏をもたらすのが、天が女に期待している大切な役割のように思われてならない」と述懐

 

22. 新橋のこと

祖父の新橋通いは、池田総理の秘書官時代、池田が贔屓にしていた同じ郷里の女将和田栄子の「栄家」旅館から始まる

 

23. 消費税という十字架

2010年、大平正芳生誕100年記念の会開催。大平の深い理解者だった辻井喬が伝記小説『茜色の空』を書く。「日本の財政の健全化だけは生命を賭けてもやりたい」と書かれているが、三木内閣で蔵相だった大平は、石油危機後の歳入欠陥を赤字国債で賄ったことに対する罪障を払わねばならないとして、党内の反対を押し切って一般消費税の導入に向かう

祖父の念頭にあったのは、「共に歩む国民への信頼感」であり、祖父の考え方の根本である「楕円の哲学」でいう、政府と国民が一緒に苦労してこそ、次の時代は作れるとの信念

 

24. 心の故郷――田園都市国家構想

故郷の農家の苦労、特に水の苦労を知り尽くした祖父が政治家となった時に一番尽力したのは、香川用水開発。河川に恵まれず、雨量が少ないため保水の条件が悪かった香川のため徳島と高知から水を引こうというもので、今もこの用水が香川県の水を支えている

祖父の故郷を愛する気持ちは、やがて大平内閣の掲げた「田園都市国家構想」へと繋がる

1978年総裁予備選出馬に際し、秘書官の父は大蔵省の後輩・長富祐一郎に声をかけ、「内閣に適当なブレーンがいない」との指摘を受け、内閣発足の際総理の私的諮問機関が誕生

さらに各界各層の叡智に頼ろうと9つの研究グループを立ち上げる

l  文化の時代研究グループ                   議長   山本七平

l  田園都市国家構想研究グループ           議長   梅棹忠夫

l  家庭基盤の充実研究グループ              議長   伊藤善市

l  環太平洋連帯研究グループ                議長   大来佐武郎

l  総合安全保障グループ                      議長   猪木正道

l  対外経済政策研究グループ                議長   内田忠夫

l  文化の時代の経済運営研究グループ     議長   舘龍一郎

l  科学技術の史的展開研究グループ        議長   佐々学

l  多元化社会の生活関心研究グループ     議長   林知己夫

そして大平の「地方の時代」「文化の時代」「地球社会の時代」の到来という政治理念に基づいて活発な議論が行われたが、なかでも特筆すべきは「地方の時代」という考え方で、「国民は、物質的豊かさを無限に追求するより精神的にゆとりのある安定した生活を望むので、4つの島に自然と調和したバランスのとれた人間社会を作り出さなければならない」とし、「都市に田園の潤いを、田園に都市の活力を」のスローガンのもと田園都市国家を構想

 

25. 「楕円の哲学」と「永遠の今」

祖父の考え方の基本となった「楕円の哲学」では、真理には必ずどこかに2つの焦点があり、その両者が緊張した均衡関係にある場合に、初めて物事が円滑に進行すると考えた

大平の政治哲学の中での楕円の2つの中心は、東洋の政治哲学の粋である「治水の原理」と、西洋の政治哲学の粋である「保守主義の哲学」

1966年の小文には、「高い理想は簡素な生活と同居する。我々の目的は、高い理想を追い求め、人格陶冶に精進すること。そのことのみが本当の人生の悦びというもの」とある

哲学者田辺元による「永遠の今」という考えを大切にし、その言葉の中に「いま」を生き抜く覚悟と意志を見出した。自らの政治信条である保守主義の「保守」とは、過去からの継続性に対するリスペクトであり、制度や体制は常に不完全であるからこそ、謙虚な努力を続けていくという姿勢であり、それこそが「永遠の今」を生きるということ

 

おわりに

2015年は、戦後70年の節目の年であり、様々な角度からの報道にも接し、この国の来し方、行く末について考える機会の多い年だった。祖父の没後35年にあたり、この本を書いて、改めて祖父に出逢いなおすことができたと思う

大学のゼミで祖父はトマス・アクィナスと運命的な出会いをしてのめり込んでいく

穏健な保守政治を目指した祖父は、政治はむしろ市井の人々の日常や家庭にあると感じており、日々謙虚に努力を積み重ねことを自らに課した

祖父の愛した聖書の1節、「1粒の麦、地に落ちて死なずば、唯1つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」

 

 

 

Wikipedia

大平 正芳(おおひら まさよし、1910明治43年〉312 - 1980昭和55年〉612)は、日本大蔵官僚政治家位階正二位勲等大勲位菊花大綬章

池田勇人秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。四十日抗争ハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」の異名がある。

衆議院議員11期)、内閣官房長官(第2122代)、外務大臣(第85869596代)、通商産業大臣31)、大蔵大臣(第7980代)、内閣総理大臣(第6869代)を歴任。首相就任までに椎名裁定三木おろし大福密約といった苦難があり、田園都市構想一般消費税構想は実現しなかった。読書家、クリスチャン聖公会)として知られ、「戦後政界指折りの知性派」との評もある。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

香川県三豊郡和田村(後の同郡豊浜町、現:観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半ですでに亡くなっていた。父の利吉は学歴こそなかったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていた。

学生時代[編集]

和田村立大正尋常高等小学校(現:観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現:香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した。

1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4か月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現:香川大学経済学部)に進学。

高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。

卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。就職するにせよ昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わる。

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現:坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現:一橋大学)に進学した。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した。一橋大学時代米谷隆三博士に私淑したという。卒業論文は「職分社会と同業組合」。大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した。

また、大学在学中、吉永榮助(のちに一橋大学名誉教授)や富樫総一(のちに労働事務次官)、武野義治(のちに初代駐イスラエル特命全権大使)、小島太作(のちに駐インド特命全権大使)らと、憲法田上穣治講師や国際法大平善梧教授が中心となっていた研究会で勉強し、高等試験の勉強を行った。

大蔵省時代[編集]

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された。1936年入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

1937年(昭和12年) - 横浜税務署長。当時東京税務監督局直税部長だったのが池田勇人で、以後しばしば部下として会う。

1938年(昭和13年) - 仙台税務監督局間税部長。どぶろく退治に尽力。

1939年(昭和14年)興亜院にて大陸経営にかかわり、1939-1940年に張家口蒙疆連絡部で勤務したほか、帰国後も頻繁に大陸に出張。

1942年(昭和17年) - 本省主計局主査(文部省南洋庁担当)大日本育英会(後の日本育英会、現:独立行政法人日本学生支援機構)の設立について査定。

1943年(昭和18年) - 東京財務局関税部長。国民酒場を創設。

1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官

1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長

1948年(昭和23年)経済安定本部建設局公共事業課長

1949年(昭和24年)池田勇人蔵相秘書官。以後1952まで務める。

1950年(昭和25年)国税庁関税部消費税課長兼任

政治家としての活動[編集]

池田側近として[編集]

1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、95日に大蔵省を退職。101日に行われた25回衆議院議員総選挙旧香川2から自由党公認で立候補し初当選。以後、連続当選11回。

1957年(昭和32年)、池田勇人が宏池会を発足させると、当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる。1960(昭和35年)に1次池田内閣内閣官房長官に就任。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された。2次池田内閣2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く2次池田内閣第2次改造内閣外務大臣に就任した。戦前は中国勤務を経験し占領時代はアメリカを旅行した経験から外交を身近に感じていた大平は外相就任を望んでいた。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」19621112日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である。一方で日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した。LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した。

原子力・核問題への対応[編集]

また、主として外相時代に日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。外相時代にはキューバ危機の煽りで在日米軍・自衛隊が臨戦態勢を取っており、核・原子力関連の問題が多かった。1963年(昭和38年)1月にはエドウィン・ライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった。この件については18か月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認されたが、大平の秘書官を務めた森田一によれば、実際には1963年(昭和38年)4月にライシャワーから密約の存在を伝えられ苦悩していたと言う。

なお、核密約の方は大平もまた、公にその存在を公表することはなかったが、自民党の機関誌『政策月報』にて核・原子力関係の問題について語っている。その中で社会党が取っていた原子力技術全般への反対姿勢に関し核アレルギーを感情的に煽っていると批判している他、原子力に対しての認識として次のように述べている。

大平 (注:寄港申し出が)非常にショッキングなできごとのように取り上げられたので、わたし自身も多少驚いたのでございます。しかし、民主主義の政治においては、われわれ政治をやる者がこう思うからというだけではいけないので、やはり国民全体が理解し、それに協力するという雰囲気ができ、それで政策が実行に移されることが望ましいし、またそうすべきでございます。(中略)その論議は事実を踏まえた上で公正に行われるべきだと思います。
大平 核兵器とか言いますと、一般の受ける印象は非常に悪魔のようにつよい。(中略)核兵器と言う、みんなが悪魔みたいにみているものの持っている戦争抑止力というものに依存しておるということだから、これを一がいに平和の敵であるというような考え方は、非常に危険な考え方になるのではないだろうか。
大平 日本は一番、パブリックリレーション(広報・相互理解)の面で弱いですね。
大平 今日、原子力潜水艦の安全性というようなことから、今度は議論の焦点が最近はサブロックに移ってきたようだけれども[注釈 1](中略)事態が進みまして、こういったものの寄港問題が新しく出てくれば、それは事前協議の新しい問題として出てくるわけでございまして、いまの問題に関する限りは全然関係のない論議じゃないか。こういう論議に反対論の論調が集中してきたということは、逆に見れば本体のほうにあまり問題がなくなっているのではないかという感じがするのですね[注釈 2]大平正芳 西脇安[注釈 3]「原子力潜水艦寄港問題を語る 対談」『政策月報』19649

寄港承認直後にも、サブロック問題に絡んで当時取り交わし済みだった核密約の再確認を行ったことが、21世紀に入ってから報じられている。小泉純也防衛庁長官ら新任閣僚が同ミサイルの配備を事前協議の対象となると指摘したため、米側が危機感を募らせていたからだった。

宏池会会長[編集]

次の佐藤政権では政調会長2次佐藤内閣の2度目の改造内閣通商産業大臣を歴任したが、佐藤は大平を好いておらず、78ヶ月に及ぶ政権においては三角大福の中でも不遇だった。通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた。このことも大平の佐藤への不信感を増幅させた(結局宮澤も繊維交渉は解決できず、田中角栄通産相の裁量によって妥結を見る)。大平は佐藤の外交手法に批判的で、沖縄返還を巡る「核抜き本土並み」の方針について「猫が鯨に噛み付くようなものだ」と冷評していたという。

大平の属する派閥宏池会は池田の死後前尾繁三郎が会長となり、世話人を前尾系の政治家で固めていたが、大平は派内の若手議員を集めて派中派の「木曜会」を作り、独自に政治資金の世話などをするようになった。1970年の総裁選で、佐藤は「前尾が出馬しなければ内閣改造をして宏池会を優遇する」と約束するが、これが反故となったことで前尾は求心力を失う。翌1971年(昭和46年)、田中六助ら木曜会に担がれる形の「大平クーデター」で前尾にかわって大平が宏池会会長に就任、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年(昭和55年)の死去まで派閥の領袖の座にあった。

三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)総裁選では、立候補宣言した後に藤山愛一郎中垣國男灘尾弘ら有力者を訪ね支援を求めた。選挙では3位につけて存在感をアピール、その後も田中角栄と盟友関係を続ける。

12次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣大蔵大臣を務め、内政外政にかかわる要職を歴任していった。

田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。日中国交正常化における大平の役割について、倪志敏著『田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1-その4)』が最も詳しい。

その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。

1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した[注釈 4]保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャル連合)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める。

総理大臣就任[編集]

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に、福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する。 事前の世論調査では福田が有利だったが、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票[注釈 5]を獲得。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、10年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し、1978127に第68代内閣総理大臣に就任した。就任直後の18日夕、首相官邸玄関で登山ナイフを持った右翼の男による襲撃事件(未遂)が発生した。

総理在任中の政策[編集]

大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想総合安全保障構想などを提唱した。大平政権期の世界は、1978年(昭和53年)に発生したイラン革命第二次石油危機の余波、1979(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定、福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権だった。

また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりし、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。また、歴史的、地政学の観点から、中国を重視する姿勢を打ち出し、中国の近代化に積極的協力する国策を打ち出した。同年12月に中国を訪問し、政府借款の供与、「日中文化交流協定」に調印等、後の1980年代における日中緊密化の道へと導いた。

日本国憲法・現皇室典範(何も1947〈昭和22年〉53施行)の下、法的根拠が消失していた日本の元号を、当時の元号使用の世論に鑑みて、法律に基づいて改元出来るようにした「元号法」が1979年(昭和54年)612に施行された。これに基づいて、当時法的根拠が消失していた「昭和」が法的根拠として認められ、以後の元号である「平成」「令和」もこの政令で定められた法的根拠のある元号とある。

四十日抗争と衆参同日選挙[編集]

詳細は「四十日抗争」および「ハプニング解散」を参照

政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」「自分が辞めたら誰が総裁になるのか?」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。大平は、両派の妥協案として浮上した「総総分離」案[注釈 6]も拒否し、強気の姿勢をとり続ける。

選挙後国会首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派三木派中曽根派・中川グループが推す福田の一騎討ちとなった結果、138票対121[注釈 7]で大平が福田を下して[115][注釈 8]、第2次大平内閣が発足した[116][113][81]

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)516日に社会党内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ[117][81]。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため[81]、可決には当の野党も驚いた[118]。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散[119]、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした[120]。こうして12回参院選530日に、36回衆院選62日に公示された。両選挙の投票日は622日と決まった[118]

急死[編集]

1980年(昭和55年)530日、参議院議員選挙が公示される。大平は新宿での街頭演説で第一声を上げ、午前中の遊説を終えると、昼食のために党本部に戻った。食事は4階の総裁応接室に取り寄せていた。党幹事長の櫻内義雄や随行の議員らと蕎麦を食べる姿をマスコミ各社は夕刊用に撮影。午後の遊説に大平が出かけた直後、幹事長室に田村元が飛び込み、「おい!あの大平の顔は何だ。死に顔じゃないか!」と叫んだ。

午後、参議院神奈川県選挙区秦野章の応援のため横浜市内4か所で街頭演説を行った。午後6時半過ぎ自宅に帰ったが、家族に「体がだるい」と訴え横になった。往診に来た二人の主治医のすすめに従って、翌31日午前030分過ぎ、虎の門病院に緊急入院した。大平は年明け以降、休日が322日と翌23日の私邸での休養だけで、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務、70歳という高齢、心臓の不安が重なり、肉体は限界に来ていた。以前にもニトログリセリンを服用することがあったが、公表はされていなかった。

大平の入院に対し、反主流派の中川一郎は、健康問題をかかえた大平では622日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも、国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に退陣を要求、反主流派の一部から大平おろしの声が上がりはじめた。また69日には大平派の鈴木善幸が、大平の後は話し合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語り、大平派からも大平退陣について発言する動きが上がった。大平本人は近日中に退院してサミットに出席するつもりで、興亜院時代からの盟友で官房長官を務めていた伊東正義らにもそれを明言している。

一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの612日午前5時過ぎ容態が急変した。ただし、大平の秘書官を務めていた福川伸次は、午前0時半くらいの電話で容体急変と伝えられ、あわてて病院に駆けつけると首相はもう意識はなかった、いったん官邸に戻り、内閣総理大臣臨時代理の書類を作って病院に戻ったが鼓動は戻らなかったと述懐している。妻・志げ子以下家族、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら、554分死去した。703か月、突然の死だった。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。

この突然の大平の死により、官邸の方は伊東正義官房長官が総理臨時代理として内政を監督し、党の方は西村英一副総裁が総裁代行として選挙戦の采配にあたり、サミットの方は大来佐武郎外務大臣が大平の代理として首脳会議に出席する[注釈 9]という、異例の総理総裁権限の分散によりこの危機を乗り切ることになった。

48年ぶりの現職総理の死去[注釈 10]という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。有権者の多くも自民党候補に票を投じた。「香典票」と呼ばれた同情票も自民党有利に働いたとされることもある[注釈 11]。結局、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した[注釈 12]。大平の選挙区だった香川2区へは娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。

葬儀は79日に内閣と自民党の合同で行われた。党内からは現職首相の死亡なので国葬という意見もあったが、控えめのほうが大平にふさわしいという伊東の主張により内閣・自民党合同葬となった。葬儀では一般市民も4000人近くが長い列を作った。墓所は東京の多磨霊園と郷里豊浜の豊浜町墓地公園にある。豊浜の墓碑銘には正面に「大平正芳之墓」、左面に盟友の筆による「君は永遠の今に生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず 斃れて後已ざりき 伊東正義 謹書」、右面に戒名「興國院殿寛道浄基正芳大居士位」が刻まれている。「永遠の今」は大平が生前よく揮毫した一句である。

郷里の観音寺にあった選挙事務所は没後に大平正芳記念館となったが、建物の老朽化にともない2015(平成27年)3月末で閉館した 閉館後、文書類は国立国会図書館に寄託、元首相の蔵書は香川県立図書館に寄贈されることになり、20162月に県立図書館内の「大平正芳文庫」としてオープンした。遺品については地元の観音寺市に寄贈される。その後、地元の有志が復活に向けて動き、2016115日に同じ観音寺市内にある世界のコイン博物館2階に新たな記念館がオープンした。

評価[編集]

鈴木善幸 「大平君は個人の政治家としてはたいへん立派な業績を残されたけれども、大平政権としてはそういう党内抗争の渦の中に埋没してしまって、内閣としての十分な成果を収めることができなかった。ですからああいうように哲学者といわれ、思想家といわれた大平氏が残した著書、文献はですね、非常に深い思索、思想を持った政治家、宰相とみられておるんだけれども、実際にやった仕事というのは、そういう政界のドロ沼の中に埋没してしまったと、こういうことですね」

田中角栄 「大平君は政治家というよりは宗教家だねえ、哲学者だねえ」

森田一 「浴衣姿におなか丸出しで出てきた。ちょっと頭の悪そうな人だな、よく大蔵省に入れたと思った。鈍牛と呼ばれるに相当する振る舞いだったが、第一印象はすぐかき消された。読書量による知性、国際的な視野の広さに圧倒された。人格も別格だった。人間的には神様に近いという感じだ。生涯、人を怒鳴りつけたりしたことはなかった」

財政家として[編集]

大蔵省の出身で、蔵相時代の赤字国債発行や財政再建への強いこだわりがあり、財政家としての側面は広く知られている。「棒樫財政論」や「安くつく政府」に代表される小さな政府志向であった[144]

大平自身は三木内閣の蔵相時代に赤字国債の恒常的な発行に踏み切った責任を強く感じ、「子孫に赤字国債のツケを回すようなことがあってはならない」との思いから、内閣総理大臣に就任した際に税制改革を断行しようと考えて一般消費税導入を提唱した。しかし自由民主党内からの反発や野党・世論の反対を受け、また1979年衆院選での自由民主党大敗もあって挫折に追い込まれた[145]

外政家として[編集]

大平自身の取り組みで後世への遺産となったものには、むしろ外交など対外関係にまつわるものが多く、戦後日本を代表する外政家といえる。

外務大臣としては、池田内閣時代における日韓交渉、田中内閣における日中国交正常化交渉で、いずれも重要な役割を果たした。総理大臣時代に提案した「環太平洋連帯構想」は今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。また、特筆すべきものとして、鄧小平との交流とその影響がある。2人は1978年以降の短期間に合計4度も会談しているが、この中で大平は、占領期の傾斜生産方式や自身が深く携わった「所得倍増計画」を始めとした戦後日本の経済発展について詳細に説明、それがGNP「四倍増計画」その他、鄧小平による改革開放の着想と策定に与えた大きな影響について、日中双方の専門家から指摘されている。なお、専任の外務大臣としての在職日数は4年(1472日)に及び、これは2017年に岸田文雄が超えるまで戦後最長であった[注釈 13]

評価と再評価[編集]

このような朴訥で謙虚な人柄だったが、「戦後政界指折りの知性派」との評が一般的で、学問や人間の知的活動への畏敬の念を、政治の場にあっても終生失わなかったという。

「総合安全保障」の提唱、1960年代の外相時代から、自衛隊も含めた積極的な国際貢献を唱えたことなど、その政治思想や経済観の先見性は今日顧みられることが少なくない[要出典]2008年頃から評伝、回想録や研究所、大平自身の著作集などが相次いで刊行されている。

栄典[編集]

1980年(昭和55年)612 - 大勲位菊花大綬章

人物・逸話[編集]

アーウー[編集]

演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをすることからアーウー宰相の異名を取った。また、その風貌から讃岐の鈍牛とも呼ばれた。このため鈍重な印象が強かったが、実際は頭の回転が早く、ユーモアのセンスもあった。発言も論理的で、早口であり、「あーうー」を除けば全く乱れがなかった。田中角栄は「アーウーを省けばみごとな文語文になっているんだぜ。君ら(=記者)の話を文章にしてみろ。話があちこち飛んで火星人のように何をしゃべっているのか分からんぞ」と、大平を擁護した

自身は「大平さんはあーうーである、あーうーの大平さんということで、この頃、声帯模写でも随分有名になっておるようです」「私は長い間戦後で一番長い外務大臣をやらせて頂きました。私に質問が集中致します。その人に答えなければなりませんが、外務大臣の答弁というのは、ワシントンもすぐキャッチしております。モスコーも耳を傾けております。北京も注意しておるわけでございまするから、下手に言えないのであります。そこで、『あー』と言いながら考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それで言う癖がついたものですから、とうとうそういうことになったのでございますが、私は悔いはございません」と発言している[要出典]

この「あーうー」は当時流行語にもなり、物まねする子供も多かった[要出典]

人物像[編集]

敬虔なクリスチャン聖公会)で、しばしば聖書を好んで引用した。葬儀も立教学院諸聖徒礼拝堂で行われている。一方、妻は静岡の新興宗教に帰依しており、顧問の伊藤昌哉金光教信徒)からは金光教の観点からの政局への処し方を度々訊いている。

池田、前尾、宮澤と酒豪の多い宏池会にあって、大平だけはまったく酒が飲めなかった。猪口1杯で気分を悪くしてしまうほどで、同時に甘党ということもあり、酒の席ではキリンレモン饅頭をつまむのが恒例だったという。田中角栄や福田赳夫は自派閥のメンバーから「オヤジ」と呼ばれたが、大平は「おとうちゃん」と呼ばれていた[要出典][注釈 14]

読書家として知られ、郷里の記念館には約8千冊に及ぶ蔵書が収められていた(前記の通り、旧記念館閉館後は香川県立図書館に移管された)。また、文章を能くし、『財政つれづれ草』、『春風秋雨』、『旦暮芥考』、『風塵雑租』などといった政治経済論と随想を合わせた本を折に触れて出版した。なお、大平の著作のすべてと、研究者・政界関係者による大平についての論稿『大平正芳 人と思想』、『大平正芳 政治的遺産』、『在素知贅 大平正芳発言集』、『去華就實  聞き書き大平正芳』などが大平正芳記念財団でまとめられたが、下記外部リンクの大平財団ホームページにてPDFファイルの形で読むことができる。

逸話・発言[編集]

戦時下の逸話としては、

大戦末期1945223日に、空襲により東京財務局が火災に見舞われた際、地下室の消火に尽力し、局長だった池田勇人から表彰状を受けた。

同年の525日には、当時の牛込区若宮町にあった自宅が、空襲により全焼した。これに伴い、自身は世田谷区烏山の借家へ移ると同時に、妻子達を岩手県東磐井郡川崎村へ疎開させた。

その茫洋とした顔つきからは想像し難いが、女性問題で苦労しただけに、女性鑑識眼は大したもの、それに無責任なことは言わないからこういう問題にはうってつけと、仲の良い永野重雄が赤坂の美人ホステスにモーションをかけられ、女のアパートに行ったが、美人局かもしれないと遊び友達の大平に女の鑑定を頼んだ。二人でキャバレーに行き意見を聞いたら「あれは危ないからやめときなさい、何となく勘でわかる」と言うからそうしたら、数日後永野の自宅に知らない男が電話してきて「女房が大変お世話になってるそうだな」と凄まれた。「家には行ったが何もしてない」とつっぱねたが危ないところだったという。

以下のような大平の発言が知られている。

「東京の人間は郵便番号も書かない馬鹿だ」や「東京に三代住むと白痴になる」などと発言し物議を醸した[要出典]

訪米の折、当時日米間の懸案となっていた捕鯨問題に関して記者から質問された際、「鯨は大きすぎて、私の手には負えません」と答えて記者たちを大笑いさせ、その質問は立ち消えとなり、また国会での野党の質問に答える際、「私はあーうーですから」といってその場を和ませてから答弁をすることもあり、ユーモアを交えながら場の雰囲気を掴んで和らげる手腕に長けていた[要出典]

長女(森田一代議士夫人)に対して口癖のように「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」と語っていたといい、こうした言動が『婦人公論』誌で長女により明かされたところ、参議院市川房枝により女性蔑視として追及された[157]。これに対して、大平は顔をくしゃくしゃにしながら苦笑しつつユーモアたっぷりに答弁し[注釈 15]、議場は大爆笑に包まれた。

靖国神社にはA級戦犯が合祀される前に参拝したことがある。靖国神社参拝に関して野党から国会で質問されると「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものに対する審判は歴史がいたすであろうというように私は考えております」と答弁した

「政治とは?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。

対談でポルノ規制について訊かれた際、国民の権利を損ねる可能性もあるとして「下手に政治が手を付けるべき問題ではない」と述べ、国民レベルでの自主規制をすべきだとコメントした。

官僚としての輝かしい経歴を持ちながらも阿波戦争が起こって10回参議院議員通常選挙に敗れてただの人となってしまった後藤田正晴に「後藤田君。必ずこんどは東京に攻めのぼってこいよ。応援するからな」と励ました。当時多くの者が自分のもとを離れていき苦杯をなめていた後藤田にとって、このことは終生の記憶となった。落選後も地元の行脚を続けた後藤田は、34回衆議院議員総選挙で選挙区で三木と対決し、得票こそ現職の総理大臣である三木に劣るものの、ロッキード事件に絡めたネガティブ・キャンペーンを退けて、第二位で当選した。後藤田は1978年の自民党総裁選挙で辣腕をふるい、大平の勝利に貢献することとなる。

1979年(昭和54年)の四十日抗争で大平続投か福田返り咲きかで自民党分裂直前までいった党内抗争が起こったが、当時首相官邸での食事中に側近だった加藤紘一内閣官房副長官に「福田は俺にやめろと言った。しかし、後を誰にやらせるか考えると、俺にはやめる自由がない。しかし、万が一俺が今ここで死んだら、誰を日本の総理にすべきか」と話しかけ、加藤が返答に窮していると、大平が口を開き「いいか、(もし俺が死んだら)日本のために総理をさせなきゃならぬのは福田赳夫だ」と続けたため、加藤は驚いたという。政敵の福田とは凄まじい党内抗争を繰り広げていたが、そうした中にあっても福田の見識を高く評価していたことが窺われる逸話である。

家族・親族[編集]

従兄秀雄陸軍少将陸軍士官学校33太平洋戦争開戦を告げる大本営発表を行ったことで有名[要出典]

妻・志げ子三木証券創設者鈴木三樹之助の二女、1916 - 1990年) - 終戦後、大平一家が身を寄せた志げ子の父・三樹之助の千駄木の家は、1966年に世田谷区玉川瀬田町に転居する際に文京区に寄付した(現・千駄木第二児童遊園)。

長男・正樹神崎製紙社員) - 大平は自身の後継者として長男の正樹を考えていた。慶應義塾大学法学部卒業後3年ばかり神崎製紙に勤めた。これは大平が敬愛していた郷土の先輩の加藤藤太郎相談役を務めていた関係からである。その後ヨーロッパ遊学で見聞を拡げている最中にベーチェット病にかかり、1964年(昭和39年)に26歳で死去した。大平は長男について『私の履歴書』で「私にとっては全部に近い存在であった」と語っている。

二男・(大平正芳記念財団常務理事、社団法人日中協会理事)、慶應義塾大学法学部卒業

三男・大正富山医薬品(株)取締役相談役)、慶應義塾大学経済学部卒業

長女・芳子大蔵官僚・政治家森田一の妻)、青山学院大学文学部卒業

孫・大平知範(大平正芳記念財団評議員)

孫・渡辺満子(フリープロデューサー、元日本テレビチーフプロデューサー玉木雄一郎衆議院議員公設秘書、日本テレビ専務渡辺弘の妻)、慶應義塾大学文学部卒業

姪・カズコ・ホーキ(在英ミュージシャン、フランク・チキンズメンバー)、東京大学文学部卒業

国民民主党の代表で衆議院議員の玉木雄一郎は遠戚である。

注釈[編集]

1.     ^ サブロックは潜水艦用の核弾頭付ミサイルである。対談でも触れられているが、当時サブロックはまだ開発中であった。

2.     ^ なお、サブロックに関する発言での小見出しは「核兵器と潜水艦とは別の問題」である。

3.     ^ 当時東京工業大学理学博士。専門は放射線防御工学。

4.     ^ ただし、福田は著書『私の履歴書』で「大福密約」は存在しなかったとしている。

5.     ^ 福田472499票に対し大平550889票。

6.     ^ 内閣総理大臣と自民党総裁に別人が就くこと。ここでは大平総理、福田総裁の案が示された。それに対して大平は「福田総裁代行」案を提示したが、反主流派の容れるところとはならなかった。

7.     ^ 新自由クラブを除く野党は欠席した。

8.     ^ この138票というのが首班に指名された者が獲得した最も少ない票の記録となっている。

9.     ^ 外相会議と全体会議には急遽同行させた佐々木義武通商産業大臣を大来の代理として出席させた。なお、大平の急死を受けて首脳会議はまず大平に対する黙祷から始められている。

10. ^ 1932515日に五・一五事件犬養毅が官邸で青年将校に暗殺されて以来、また病死としては1926122日に加藤高明が心臓麻痺で急死して以来。

11. ^ 大平を伝記で好意的に評価している福永文夫などもこの観点で記述し、野党の一つ、社民連もその党史にて自民党が弔い合戦に努めたことを敗因に挙げている。'80参議院選挙~ダブル選挙 『社民連十年史』

12. ^ この選挙については上記のような「同情票」といった見方が少なくないが、今日の政治学では1977年参院選から始まった自民党の党勢回復の一環であったと位置づけるものが多い[136][137]

13. ^ 総理大臣との兼任を含めると吉田茂が1位。

14. ^ 伊藤昌哉『自民党戦国史』では、料亭の女将が伊藤との会話で大平を指して「おとうちゃん」と言及する記述がある。

15. ^ 大平はこう述べた。「私が娘に対しまして、早く嫁に行けということを申し上げたのは事実でございます。私は、娘を持つ父親といたしまして、できるだけ早く良縁を得て、身を固めてもらいたいという念願を持っておりましたので、「女に学問は要らない、早く嫁に行け」という言葉は、熟しない御批判をいただく余地が十分あると思いますけれども、父親といたしまして、早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたいという父親の気持ちはおくみ取りいただけるのではないかと思います。婦人に対しましてどう考えておるかということでございますが、私は、婦人は――ここに男性の方が多いようでございますけれども――男性よりは物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。とりわけ、子供をもうけるなどという手ごたえのある人生経験は、男にはできないことでございます。私は女性を尊敬いたしております」

 

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