天路の旅人  沢木耕太郎  2023.6.20.

 2023.6.20. 天路の旅人

 

著者 沢木耕太郎 1947年東京生れ。横浜国立大学卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。1979年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、1982年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。その後も『深夜特急』『檀』など今も読み継がれる名作を発表し、2006年『凍』で講談社ノンフィクション賞、2013年『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞を受賞する。長編小説『波の音が消えるまで』『春に散る』、国内旅エッセイ集『旅のつばくろ』『飛び立つ季節 旅のつばくろ』など著書多数

 

発行日           202289月号

発行所           新潮社『新潮』

 

2022.10.27. 新潮社より単行本化

 

 

2次大戦末期、敵国・中国への密偵として内蒙古からチベットまで歩き、終戦後インドまで足掛け8年旅した男・西川一三。ヒマラヤを7回越えた稀代の旅人の生と魂を描く

 

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第二次大戦末期、敵国の中国大陸の奥深くまで「密偵」として潜入した若者・西川一三。敗戦後もラマ僧に扮したまま、幾度も死線をさまよいながらも、未知なる世界への歩みを止められなかった。その果てしない旅と人生を、彼の著作と一年間の徹底的なインタビューをもとに描き出す。著者史上最長にして、新たな「旅文学」の金字塔。第5 旅の良書賞、第74 読売文学賞 随筆・紀行賞受賞

 

 

序章 雪の中から

著者は四半世紀前、盛岡に西川を訪ねインタビュー

25歳でチベット仏教(ラマ教)の蒙古人巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古を出発、当時の中華民国が支配する寧夏省から広大な青海省に進入、中国大陸の奥深く潜入

2次大戦終結後も、蒙古人ラマ僧になりすましたまま旅を続け、チベットからインド亜大陸にまで足を延ばし、’50年インドで逮捕され日本に送還されるまで、足掛け8年に及び蒙古人「ロブサン・サンボー」として生き続ける

その壮大な旅の一部始終は、帰国後自ら執筆した『秘境西域8年の潜行』に詳しい

TBSの番組「新世界紀行」で西川が取り上げられているのを見て初めてその名を耳にし、岩手の一関に仕事で行った時、地元の新聞の「戦後史を考える」という連載記事の中にあった西川の化粧品店「姫髪」の名が記憶に残ったので、しばらくして目的もないまま面談を申し入れる。その後も西川の旅について聞くために会うことを約束してもらう

 

第1章        現れたもの

その後、毎月123日で盛岡に行き西川の話を聞く

インタビューしながら、どう西川を描こうか書き方が発見できないままインタビューを打ち切って考えているうちに西川死去の報を聞く

未亡人と1人娘に会って、西川の話を補足。西川夫妻は、『秘境』の原稿をペン書きにするのを手伝ったのが縁で結ばれたという

『秘境』の生原稿が、文庫化した時の中央公論の編集者の手元に保管されていた

生原稿とインタビューした際のテープの言葉を突き合わせることにより、西川の8年の旅を辿り返して、あるがままに叙することで、稀有な旅人について述べることにした

 

第2章        密偵志願

西川は、山口の農村の農家で3人兄弟の真ん中に生まれ、父が村の収入役も務めた裕福な家庭。長男が早大から日立に入ったため、一三は中学までとなり修猷館に。'36年満鉄入社。弟も津和野中学を出て満鉄に入る

日本軍部は、内蒙古を満州国の安定のための緩衝地帯と見做し、蒙古人でチンギス・ハーンの血筋を引く徳王を首班とする自治政府の樹立に手を貸す

西川は、北京と内蒙古の包頭(パオトウ)を結ぶ京包線に勤務、包頭は茫漠たる蒙古の黄土高原の入り口で地の果て。学閥人事に嫌気して’41年退社し、内蒙古の興亜義塾に入る

'33年蒙古との友好を図るための組織として()善隣協会設立、'39年興亜義塾創設

子どもの頃から中国大陸の奥地に憧れのようなものを抱いていた西川は、第3期生として入塾。天津で徴兵検査を受けた際、身長は180㎝を超えたが、目が悪くて乙種合格となり、軍隊以外で国の役に立つことを考えたのも興亜を選んだ理由の1

回教班と蒙古斑に分かれ、蒙古語・中国語・ロシア語を叩きこまれた後、西川の蒙古斑は蒙古高原の廟(ラマ僧の宿舎)や包(パオ)1人ずつ預けられ1年間放置される

興亜は、諜報員養成機関のように言われるが、単なる教育機関に過ぎない

卒業を目前にして、学生が引き起こした騒擾の責任を取らされる形で退塾処分となり、さらに蒙疆の地からも追放される

北京に戻されそうになったが、脱け出して西北に潜入して身を隠そうと、包頭から北東に向かう石炭列車の大青山線に乗り、五当召(ごとうしょ)のバタゲル廟を目指す。吉田松陰が志とした孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり」を自らも胸に刻む

ラマ僧の転生者(生まれ変わり)のデンクリ活仏に匿ってもらが、ある日八路軍に襲われ、活仏の頼みで日本の特務機関に支援を求めたため、隠れていたことが明るみに出て、北京に追放される。内蒙古に進出した日本人にとって最大の街だった張家口にいた同期生から救いの手が伸べられ、その仲立ちで興亜の卒業証書を入手

善隣協会が医療支援のために診療所を開設している最果ての地トクミン廟まで行く許可をもらい、陰山山脈を越えて百霊廟に向かい、そこからは馬の旅

西北は独特の魔力を持つ言葉。陝西省、甘粛省、寧夏省、青海省、新疆省の5つの省を意味する。漢民族とは異なる蒙古人やウィグル人などが自由に遊牧を営みながら暮らす高原や砂漠というイメージが強く、ロマンティックな憧憬を生み、夢の土地とされたが、そこに行くためには日本の勢力圏の内蒙古の綏(すい)遠省から中華民国が支配する寧夏省を突破しなければならず、突破するには巡礼に扮するしかない

ラマ僧の巡礼の目的はチベットのラサに行って、ツオグラカン仏殿に祀られている釈迦牟尼仏(むにぶつ)に詣でたいというもの。せめて内蒙古から青海にかけてのラマ教圏

最大の青海省西寧近くのタール寺に参詣できればというラマ僧も少なくなかった

西川は、タール寺に行くラマ僧を探せば西寧までは行けると考え、西北域潜入の資金調達のため計画書を善隣協会経由日本政府と軍部に提出するが資金援助は見送られ、代わって張家口大使館の嘱託の斡旋で、大使館の調査員の辞令と6000円の準備金をもらう

同時期、同じように西北に憧れたのが興亜の1年先輩の木村肥佐生(ひさお)。内蒙古の善隣協会の実験牧場に勤務、正規ルートで張家口大使館で派遣が検討され、正式に調査員として特務機関の先遣隊と行動を共にするべく派遣されたため、戦後日本に帰還した際も、上陸の日をもって依願退職とするという外務大臣の辞令を受け、退職金も払われた

『秘境』では東条総理の辞令をもらったと書かれているが、生原稿のタイトルは「捨身」とあるだけなので、出版に際して作られた話だったのだろう

 

第3章        ゴビの砂漠へ

'4310月、初雪の中を出発。5人で7頭の駱駝に食料と身の回り品を積み、ラマ僧の巡礼の格好をする。興亜時代、廟に滞在した時に貰った蒙古名「ロブサン・サンボー」になる

日本の勢力圏内では、内蒙古の自治政府が日本との連携にまだ希望を抱いていので、西川の所持する特務機関発行の証明書が役立つ

日中戦争の煽りで、国境付近の中国側の監視が厳しくなっている

監視の目を逃れながら、ようやくゴビ砂漠に入り一息つく

 

第4章        最初の別れ

砂漠のオアシスの定遠営を迂回して賀蘭山山麓のバロン廟に同行のラマ僧の知己がいて、そこでの生活を許可してくれたので、しばらくラマ僧として過ごす

天然痘が流行し、同行していた漢人少年を亡くす

定遠営の城壁内で阿片と駱駝を売って大金を手にしたが、長旅を考えて紙幣にしておいたために、その後紙屑同然に

ここでラマ僧3人と別れ、以後は西川単独で廟に留まり、タール寺を目指すことにする

 

第5章        駝夫として

青海省西寧に荷物を運ぶ商人から、駱駝を扱う仕事の依頼が来て一緒に西寧に向かう

一行は女子供も入れて総勢15名、駱駝50頭。西川は8頭の駱駝を引く

最初の難所がテングリ砂漠、次が大運河で、最後がテングリ峠の危険な狭い道の山峡地帯

テングリ砂漠を越え、甘粛省の農耕地帯を過ぎると、西北公路に出る。これが日本軍が「援蒋ルート/赤色ルート」と呼ぶ、陝西省西安からソヴィエトまで延びる軍需物資の補給路

祁連(きれん)山脈の山峡を通過した後の難所が幅200mを超す大通河。駱駝は船に乗るのを怖がって拒否するが、たまたま氷結していたので無事渡河。その先が3番目の難所のテングリ峠。甘粛省と青海省の省境で、海抜3000m以上、7合目から上は冠雪、狭い道で片側は断崖。駱駝が落ちかけたが、何とか引き上げて無事峠を越えると温暖の地に

なると同時に、省都間を結ぶ交易路が開けていて大勢の人が行き交う

無事に西寧に到着、さらに32㎞離れたタール寺へと向かい、しばらく寄寓して、大勢の巡礼者とともに第10代パンチェンラマに拝謁。まだ6歳で、第9代の生まれ変わり

門前町では、興亜時代に滞在した廟で会ったラマ僧とすれ違い、身分の露見を恐れる

ここまで同行した荷主や運搬主、ラマ僧などと別れ1人になった西川は、奥地での情報収集を期してタール寺での居場所を探し、多くの巡礼者と同じラマ僧として過ごす

強大な蒙古を弱体化させたラマ教に対し否定的だったが、一緒に過ごしているうちに敵地二度目の正月を迎える

1年前には木村肥佐生が、蒙古人のガイドを探しにこの地に来ていた。西川とほぼ同時に西寧に向かったが、西川がアラシャンで長期滞在している間に木村は西寧に直行。さらに新疆に向かおうとしてガイドを物色していたという

西川は、蒙古のラマ僧にとって究極の土地であるチベットのラサに行くことにしたが、その前に百霊廟の日本政府の出先から帰還命令が出ていることを聞かされるも、あえて命令に背いて初志を貫徹。興亜の仲間にもその旨宣言した手紙を知己のラマ僧に託している

 

第6章        さらに深く

チベットは鎖国を続け、日本人で入国した人は1901年の黄檗宗の河口慧海などごく少数

19452月、タール寺からチベットに向かう公路の1/10ほどにある町まで行くチベットのラマ僧たちの隊商の駝夫として潜り込む。総勢5人と乗用の馬5頭、駱駝は40

「西北」という名の中国の奥地への憧れを抱いていた日本の若者たちにとって、どこよりも足を踏み入れたいと望む象徴的な土地が青海湖、海抜3000m以上。真っ青に澄むが塩湖

目的地のシャンに無事到着、しばらくその家の下男として逗留。地元の蒙古人の話では、1年前から木村が来て軟禁されているらしい

雨期になるとラサに向かう巡礼達が集まってきて、タングート人の商人の大集団の隊商に潜り込む。3カ月は無人地帯を行くので、ヤクに食糧を積んでの行進が始まる

 

第7章        無人地帯

内蒙古のトクミン廟から寧夏省のパロン廟まで1カ月、バロン廟から青海省のタール寺まで半月、タール寺からシャンまで半月だったので、ラサまでの3カ月は想像を絶する長さ

現在、西寧からラサまでの国道109号は1907㎞なので、シャンからは1400㎞。109号の平均高度は4500m。西川は費用節約のため、乗用のヤクを買わずに歩く

タングート人のお陰で、匪賊の襲撃にも遭わず、崑崙(こんろん)山脈を右に見ながら砂漠地帯を行くと最大の難所揚子江の源流のリチュ河に差し掛かる。勝手に渡河したヤクを戻すために泳いで川を渡って連れ戻した勇気が評判となり、その勇名がチベットまで及んで、無一文になった西川の身を助けることになる

最後の難所がタンラの峠越え。標高5200mが山酔いをもたらす。峠の南麓がチベット領

チベット人の部族による窃盗と、チベット政府の役人の貪欲さに閉口。ようやく旅行証明書を入手してラサに向かう。日中戦争終結の噂を耳にする

108日目にようやくラサに到着

 

第8章        白い嶺の向こうに

ラサの第一印象は白い街で、建物の壁を1年毎に白い石灰で塗り直すため。巡礼者を中心とした旅人でごった返す

ポタラ宮は、戦国時代を経てチベットを統一したダライ・ラマ5世が17世紀に造営し、政治と宗教の中心となる。周囲を全長6マイルの環状道路が走り、全員が時計回りに五体投地(尺取り虫のように全身を投げ出しては起き上がって前に進む)をしながら回っている

鎖国を続けているが、ラマ教圏の国の人々や、近隣の国の人々の居住や往来は認めている

町で日本敗戦の噂を耳にし、確かめるためにインドに向かう。木村らの一行も直前にラサに到着し、同じ動機からインドに向けて発ったところ

同行のラマ僧とともに托鉢をしながらヒマラヤを越えてインドに向かう

 

第9章        ヒマラヤの怒り

初めてのインドの町標高2000mのカリンポンで木村と出会い、日本の敗戦を確認

木村はこの町で仕事を見つけて定住。西川はさらなる情報を求めてカルカッタに向かう

カルカッタでは日本人を探したが、開戦から間もなく全員引き揚げてしまい、1人の日本人もいないことを知るとともに、日本が負けて占領下にあることも確信し、ラマ僧として生きることを決断。少ない所持金を使い煙草の行商で当面の糊口を凌ぐ。何度かヒマラヤ越えをしながら行商しているうちに吹雪に出会って凍傷になり歩行困難になり、カリンポンで物乞いをして過ごす

 

第10章     聖と卑と

1946年春、西川はラマ教の修行を決断しラサに戻り、前回来た時に誘われたデプン寺で1万人近いラマ僧に交じって、13年かかるコースの1年目の修行を始め、チベット語も習う

聖と言い、卑と言う。だが、聖の中にも卑はあり、卑の中にも聖は存在する

ラサに来ていた木村に会うと、チベットを配下に収めようと狙う中国共産党の状況を探るため英国諜報部の仕事を引き受けたといい、東チベットに潜入するのを手伝ってくれないかと助けを求めてきたため、修行を中断して同行する

木村は西川より年下だが、興亜では1年上。体も小さく、大柄な西川とは対照的。軍の正式な諜報員として動いていたため態度は尊大だが現地人としての経験は薄く、単独で苦労しながらインドまで到達した西川とでは雲泥の差。旅の間も軽率な行動を取って窮地に陥ったり、身ぐるみ剥がされるきっかけを作ったり、拘束されて無駄に日時を過ごしたりと2人の行動の妨げとなる。一緒に旅をすることになったのも、英国からの前金を使い込んだ後になって任務の厳しさを知って途方に暮れて西川に助けを求めながら、西川が巡礼がてらと言ったのを逆手にとって、西川を連れて行ってやるという態度に出たため、2人の間は喧嘩が絶えなかったという

 

第11章     死の旅

ラサから東チベットの首都ダルツェンドまでは往復2250マイル。内蒙古からインドまで行ったことに比べればたいした距離ではなかったが、遥か手前の町まで7カ月かかり、しかも生きているのが不思議というほどの困難な旅となる

中国王朝政権が四川省の成都からラサに向かうために拓いたジャサク公路を東に辿るが、小柄で体力の劣る木村のせいで遅々として進まない。ヒマラヤに匹敵する褶曲(しゅうきょく)山脈の山塊を越えるために4500m級の峠をいくつも登り下りする

2カ月後ようやくチベットが支配する東端のラマ廟のあるチャムドに到着、まだ出発してから700マイルだが、目的を達したので引き返そうという木村に対し、西川は当初の目的に固執。せめて中国がチベットに侵攻する際の拠点となる中国領の青海省玉樹まで行くことになり北上。玉樹では紹介されたラマ僧を尋ね暫く逗留して情報を探り、ラサに戻る

匪賊にあって身ぐるみ剥がされた上に鍋まで盗まれながら、飢えと闘いつつ進む

 

第12章     ここではなく

ラサに無事帰還した西川は、どんな環境でも生きる自信がついて、また新たな旅をしてみたいという思いを強くし、木村についてヒマラヤを越え、カリンポンで木村の紹介で蒙古人の有力者のチベット新聞社長に世話になる

木村は英国から報酬を得てチベット向けの石油の行商に転じるが、西川は世話になった取締役社長への恩返しもあって暫く新聞社で働く。社長はラダック人、インドでもチベット系の民族で、キリスト教に改宗し宣教師となって布教する傍ら、チベット人のために新聞を発行しつつ、チベット人全体の民度を高めるという強い信念を持っていた

密偵の必要がなくなった今、西川は自分の知らない土地を巡る自由を得て、全仏教徒にとっての聖地であるブッダガヤ(悟りを開いた地)、クシナガラ(入滅の地)、ルンビニ(仏陀生誕の地)3大聖地への巡礼をするべく、1年後新聞社を辞める。まず手始めに托鉢に代わって御詠歌を歌って喜捨を得るためにカリンポン郊外の老修道僧のもとで3か月間修行した後、3人のラマ僧とともにカルカッタに向け出発。鉄道に無賃乗車を繰り返しながらブッダガヤへ。荒廃した聖地に驚きながら、他の聖地を回りながら、次のクシナガラへ向かう

3大聖地の巡礼を終えた後、同行者と別れ、1人でさらに西へと旅を続ける

 

第13章     仏に会う

次の目的地は祇園精舎。托鉢、御詠歌、無賃乗車を繰り返し、祇園精舎のあるバルランプルに辿り着く。祇園精舎は、仏陀が悟りを開いてから入滅するまでの45年のうち、説法のために最も長く滞在した僧舎だが、ほとんど廃墟と化していた

無我無欲の境地で御詠歌を歌いながら旅をしていると、人々の好意が自然に集まってくる

さらにデリーやカシミールへ行きたいという気持ちが逸り、先に進む

アグラではタージマハル宮殿を見物。巡礼者に対して誰もが極めて親切

デリーについて、ガンジーの碑があるラージ・ガートに行って墓参

インドの1,2を争う大富豪のビルラが建立したビルラ寺では、蒙古から6年かけてきたと言ったら、ビルラ自身に面談が叶い大金の喜捨を受ける

デリーからはアムリトサル経由カシミールに行き、パキスタンを抜けてアフガニスタンに潜入したくなるが、カシミールでインドとパキスタンの戦闘が始まり、アムリトサルから先へは進めなくなったため断念。パキスタンのスパイの嫌疑で拘留。釈放されると代わりにネパールを目指し、カトマンズに向かうための表玄関にあたるラクソールへ鉄道の旅

旅の途中で会った地元の人々の温かい思い遣りに仏の姿を見る

 

第14章     波濤の彼方

ビルマに行くためにチベット語と英語の蔵英辞典を買うために鉄道敷設の苦力で日銭を稼ぐが、苦力仲間のビルマ人たちに一緒にビルマに行こうと誘われる

ラサから中国人が追放されるとの噂を耳にし、その中に木村が入っているらしかった

突然木村から手紙が来て、台湾かインドに行くことになると言われ、以後も連絡を取り合うことを約して別れるが、直後にインドの警察官が来て日本に送還するという。木村がすべてを自白したらしい。木村はカルカッタに日本船が入港することを知って日本人に会いに行き日本に連れ帰ってくれと頼んだが、代わりに自首すればインド政府が送還してくれると言われ、その足で警察に飛び込み、自分1人で帰ったら西川の両親に何と申し訳をすればいいかわからないと言って西川の名前も出したという

帰還船が来るまで未決囚として刑務所に暮らす

19505月、日本に向けて出港。単なる民間の引揚者と同じ扱いになる

翌月神戸着、足掛け8年に及ぶ長い旅が終わる

 

第15章     ふたたびの祖国

山口の故郷の村に戻ると両親は健在、家は弟が継いでいた。弟は満洲で召集されたが、終戦直前部隊が広島に引き揚げたために被爆、3年前に退院して帰郷していた

GHQから突然呼び出しが来て出頭する前に外務省に行く。張家口の日本公館からの任務で中国奥地に入っているし、そこから両親のもとに給料が送られ続けていたが、辞令も退職金もなしに追い払われる。木村もすぐに外務省に行き、報告書を出そうといったが、不要だと言われ、神戸上陸の日をもって依願退職とし、退職金13千円を払われ追い返される

GHQは西川の情報が目的で、朝鮮戦争勃発直後の米軍があらゆる情報を集めていた

興亜義塾の後輩たちが集まってきて西川と木村の帰還祝いをしてくれ、6期生の西村の戸山ハイツの家に行く。当時はまだ木造平屋建ての「バラック」だった

西川にとって、戦後日本の状況を素直に受け入れられず、帰ってきた日本は異国のように思われ、これまで生きてきた後進国や地域の「後進社会」の方が遥かに人間的だと思えた

帰国から1年経ってGHQ10カ月に及ぶ聞き取りも終わり、そのまま東京で自分の歩いてきた道について書き残し始め、3年かけて「日本版『西遊記』」(最終題名『秘境西域8年の潜行』)を書き上げるが、3200枚の原稿に出版するところはなかなか現れず

帰国の翌年真生活協同組合の桜沢に出会う。健康食品を売るマクロビオティックの普及に努め、世界連邦運動に精力を傾けていた桜沢が、機関誌に西川の旅行記の短縮版を載せたのが契機。組合の診療所に通う石川ふさ子と知り合い、原稿の清書を頼むようになり、同じ診療所に通っていた岩手の商事会社社長が西川に惚れ込んで自分のところで働かないかと誘った際、ふさ子に一緒に水沢に行こうと誘い、'58年水沢で所帯を持つ

'58年、木村の『チベット潜行10年』が出版され、1カ月もたたないうちに8回も増刷

'63年、毎日新聞が『ヒマラヤ・日本人の記録』の連載記事で、木村を主材した際西川のことがでて、1行だけ「アジア5大川の源流を渡った唯一の日本人」として西川の名前が出たのを講談社の名編集者だった顧問が見つけて興味を抱き西川の原稿を手にするが、社内では放置、顧問の伝で元陸軍主計少佐だった芙蓉書房の社長が出版を約束、半分弱への大幅なカットを経て、’67年上下2巻にして出版、熱烈な賛辞が寄せられ、チベットの部分を別巻として追加発行。それがきっかけで12チャンネル(現テレビ東京)の《私の昭和史》やNHKにも呼ばれる。それを機に商事会社から独立、理美容品の卸会社「姫髪」を立ち上げ

'88年、東京放送の看板番組《新世界紀行》で西川の旅を取上げ、「遥かなる秘境 西域6000キロ大探検」と題し4回にわたって放送。'90年中公文庫から文庫化

木村の方は、GHQの聴取後CIA傘下の外国語放送情報サービスでモンゴル語放送を聞いて英語に訳す仕事に就き26年間働き、その後は亜細亜大学でモンゴル語の教授に

木村は'58年に本を出したが、西川がそれを読んだ形跡はない。読んでいれば自分の単純な勘違いを正していたはず。一方の木村は西川の本を読んで自分への中傷や個人攻撃があったと怒りを覚えるが、客観的に読めばそのような個所はない。強いて言えばインド警察への密告に関する記述くらいで、それぞれの思いが食い違っての結果だろう

木村は、日本政府の依頼でモンゴル人民共和国との国交樹立のための準備作業に手を貸したり、インドに亡命政府を樹立したダライ・ラマの長兄が来日した時の世話係を引き受けるなど、蒙古との関わりを持ち続け、'89年死去

西川の木村評は、ただ一言「彼は1人では旅の出来ない人だった」で、本質的な批判だった

晩年の西川は、興亜義塾の同期会には出席するようになり、01年の「日本人チベット行100年記念フォーラム」では御詠歌も歌ったが、03年副鼻腔のがんの手術を受けた頃から認知症の徴候が出て徘徊が始まり、07年容体悪化で入院、翌年肺炎で死去、享年89

 

終章 雪の中へ

'17年、妻ふさ子死去

 

 

 

 

Wikipedia

西川 一三(にしかわ かずみ、1918917[1] - 200827[1])は、日本の情報部員

日中戦争下に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行。戦後インドを経て帰国。

経歴[編集]

山口県阿武郡地福村(現山口市)に生まれる。1936年、福岡県中学修猷館を卒業後、南満州鉄道(満鉄)大連本社に入社するが、「西北」への憧れから1941年に満鉄を退社し、駐蒙古大使館が主宰する情報部員養成機関である興亜義塾に入塾する。

1943年、同塾を卒業後、駐蒙古大使館調査部情報部員となるや、東條英機首相より「西北支那(中国)に潜入し、支那辺境民族の友となり、永住せよ」との特命を受ける。背景には、満州モンゴルトルキスタンチベットと手を結び、中国を背後から包囲する「ツラン民族圏」構想があったとされる。そのためにチベットに潜入を計るが、当時チベットは外国人の入国を禁じていたため、チベットに巡礼に行くモンゴル僧「ロブサン・サンボー」(チベット語で「美しい心」の意、誠意を忘れぬよう自戒の念を込め西川自らが命名した)と身を偽って内蒙古を発ち、寧夏甘粛青海を巡って、110ヶ月に及ぶ単独行の後、1945年にチベットの都ラサに潜入することに成功する。この潜行の間、外務省への報告は、当初現地の協力者に靴に縫い込むなどして運ばせていたが、現地人に迷惑を掛けたくないとの思いからこの方法を途中で止め、その後は、日本に帰国するまでの膨大な地理情報・見聞・行動記録を、全て自分の頭に記憶していった。

その後、日本の敗戦を知るも、地誌と地図を作成する任務を放棄せず、外務省からは送金も援助も無い孤立無援のまま続行。モンゴル僧としてデプン寺に入り、1年間にわたって本格的な仏教修行と、猛烈な語学の学習を行い、蒙古人ラマとしての信頼を獲得し、ようやく平穏な時を持つ。しかし、興亜義塾の先輩である情報部員木村肥佐生と、秘境西康省踏査(イギリス情報部がチベット新聞社の社長・タルチンを通して当時チベット新聞社で働いていた木村に依頼)の協力を約し、ラサを発ち、再び修行僧や商人と身を偽って西康を踏破。その後、木村と入れ替わりにチベット新聞社で印刷職工、新聞記事の中蔵翻訳などをしながら過ごし1年後に退社。チベット仏教シーチェバ派の師に付き修行後、免許皆伝。修行僧となり托鉢をしながらブータンシッキムインドネパール各地を潜行する。その後、ビルマに潜入する計画であったが、1949年インドの鉄道建設隊で苦力頭として働いていたところ、先に官憲に出頭して逮捕されていた木村肥佐生の供述により逮捕収監され、翌年帰国。その頃、西川は潜行を始めた1943年の時点で、行方不明者として戸籍から抹消されていたため、生家では既に死んだものと諦めていたという。

帰国して1ヶ月も経たない頃、西川はGHQから不意の出頭命令を受ける。しかし、東京に到着した西川は、GHQに向かわず、先に外務省を訪れた。各地域の調査報告を求められたら協力するつもりであったからである。ところが、外務省は情報の宝庫のような西川に無関心で相手にしなかった。それに対し、GHQは西川からの情報収集のために一部屋をあてがい、1年間にわたって、西川から西域潜行での情報を詳細に聴取している。その聴取は日曜以外毎日午前9時から午後4時まで、日系通訳と部屋にこもり、質疑応答が繰り返され記録されていった。昼食も部屋で食べ、用便以外はここから出ることも、通訳とむだ口を交わすこともなかった。この見返りとして、GHQは当時の金額で一日当り千円を支払っている(この年の大卒初任給は5千円程である)。

また、登山家の西堀栄三は、1952年に初めてネパールに入国するにあたり、数度に渡って西川を自宅に招き、チベットやネパールなどの現地情報を収集している。その後、盛岡市で理美容材卸業を営み、亡くなるまで元旦以外は休まず働き続けたという。

200827日、肺炎のため盛岡市内の病院において死去。享年89。この日はチベット暦の元日となる日であった。

文献[編集]

西川一三『秘境西域八年の潜行』 芙蓉書房(上・下・別巻)[2]1972年、新版1978

中公文庫(上中下、決定版)、1990-91年/中公文庫BIBLIO(抄版)、2001年/中公文庫 Kindle版(全6巻)、2014

8年間にわたる詳細な西域・チベット・インド潜行記録。

江本嘉伸『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』 山と溪谷社(上・下)、1993-94 ISBN 4635280233ISBN 4635280241

『新編 西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』山と溪谷社〈ヤマケイ文庫〉、2017 ISBN 4635047997

『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』 新宿書房、2003

200112月、西川自身や、研究者の山口瑞鳳金子民雄らを招き行われた「日本人チベット行百年記念フォーラム」全記録、解説・論考を収録。

沢木耕太郎『天路の旅人』 新潮社2022 - 長編評伝(第74読売文学賞随筆・紀行賞)

映像資料[編集]

上記『秘境西域八年の潜行』をもとに、198811月にTBS4回に亘りドキュメンタリー番組『日曜特集・新世界紀行 スゴイ日本人がいた! 遥かなる秘境西域6000キロ大探険』が放映された。

関連項目[編集]

茶馬古道

河口慧海

脚注[編集]

1.    a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus西川一三コトバンク

2.    ^ 初刊版(芙蓉書房、1967-68年)は別題で、『七度ヒマラヤを越えた日本人ラマ僧の手記』、『わが青春を捧げた神秘のチベット』、『秘境チベットを歩く』

 

 

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