コ・イ・ヌール 美しきダイヤモンドの血塗られた歴史  William Dalrymple/Anita Anand  2019.8.8.


2019.8.8. コ・イ・ヌール 美しきダイヤモンドの血塗られた歴史
Koh-I-Noor ~ The History of the World’s Most Infamous Diamond 2017

著者 
William Dalrymple 1965年スコットランド生まれ。ケンブリッジ大在学中に発表した、マルコ・ポーロについての評伝『In Xanadu』がベストセラーに。以後多くの作品を刊行。サンデータイムズ若手作家年間最優秀賞やヘミングウェイ賞など受賞。現在は妻と3人の子どもとインドのデリー市外の農園に暮らす
Anita Anand 1972年ロンドン生まれ。キングス・カレッジ・ロンドンで学ぶ。20年以上にわたり、BBCなどテレビやラジオでジャーナリストとして活躍。2015年初の著書刊行。現在は夫と2人の子どもとロンドンに暮らす

訳者 杉田七重 東京都生まれ。東京学芸大卒。英米文学翻訳家

発行日           2019.5.31. 初版
発行所           東京創元社


コ・イ・ヌール――“光の山という意味の巨大なダイヤモンド。現在は英国王室の王冠で輝くそれが世界的に著名であるのは、ただ美しいからではない。エリザベス女王が身につけるのを控えるほどの、凄絶な来歴を有しているからである。権力の象徴として、ムガル帝国の皇帝やシク王国のマハーラージャなど、数々の統治者の手を経てきたコ・イ・ヌール。しかし同時に、呪われているとしか思えないような多くの悲劇や凄惨な出来事を巻き起こして生きたのだ。豊富な資料を駆使して、ひとつのダイヤモンドを巡る歴史を鮮やかに描く、渾身のノンフィクション!

はじめに
1849年ラホール城で東インド会社に対する降伏文書にサインしたのはランジート・シングの息子でパンジャブ・シク王国の10歳の王ドゥリープ・シング。広大で豊饒な土地に加えてインド亜大陸において最も貴重は品をヴィクトリア女王に献上したが、それこそコ・イ・ヌールの別名で呼ばれたダイヤモンド
インド総督はそれを聞いて、「コ・イ・ヌールは長い時を経て、インド征服の歴史的象徴となった。それがいましかるべき休息場所を見つけた」と、鼻高々で自賛
1839年ランジート・シングの逝去でパンジャブ地方が無政府状態になったのにつけ込んで、英軍は2度にわたって侵攻し、シク教徒の王国を崩壊させることに成功
ムガルの巨大ダイヤモンドの数々は忘れられていき、コ・イ・ヌールだけが世界最大のダイヤモンドとして君臨。イギリスに到着した時、コ・イ・ヌールはわずか190.3カラットで、その姉妹と言えるダイヤモンドが少なくとも2つは存在  光の海と呼ばれるダルヤーイェ・ヌール(175195カラット)と、グレート・ムガル・ダイヤモンド(189.9カラット)。前者はテヘランにあり、後者はクレムリン宮殿にあるエカチェリーナ2世の笏(しゃく)1部を構成するオルロフ・ダイヤモンドと考えられている
コ・イ・ヌールが他の追随を許さぬ高い名声を勝ち得るようになったのは、19世紀初頭パンジャブのランジート・シングの手に渡ってから
ムガル人が愛したのはバダクシャンの赤い尖晶石や時代が下がればミヤンマーのルビーだったが、コ・イ・ヌールの地位が上がってきたのは、19世紀初頭から半ばにかけてダイヤモンドの価格が急騰したことも大きい。加えて、多数の切り子面を持つ、均整の取れたブリリアントカットが発明され、どんなダイヤモンドでも本来備わっているキラキラした輝きを引き出すことができるようになった
英王室は1851年の万国博にコ・イ・ヌールを貸与し大きな反響を呼ぶとともに、ヴィクトリア朝時代の人気小説に、インドの巨大な、しばしば呪われたダイヤモンドが頻繁に登場するようになる
現在ロンドン塔に飾られているコ・イ・ヌールは、世界19位の大きさでしかないが、その地位と名声を保持し続け、ここに至って国際紛争の中心に置かれている  インド政府始め、パキスタン、イラン、アフガニスタン、タリバン迄が返還を求める
故事来歴について、1849年の引き渡しの際、東インド会社が調べた記録があるが、その内容についての検証がなされないまま今日に至っている
1740年代に書かれた初めてコ・イ・ヌールに言及した書物によると、ムガルの皇帝シャー・ジャハーンの孔雀の玉座の屋根にはめ込まれていた
170年前に東インド会社のテオ・メトカルフェが様々な逸話を触れ回って以来、コ・イ・ヌールにまとわりついていた神話を取り払う初めての試みに挑戦したのが本書
1部はDalrympleがコ・イ・ヌールの初期の歴史を綴る。ダイヤモンドに関するインドの思想を古代の文献から探った後、舞台をムガル帝国に移し、中世と近世のダイヤモンド観を詳らかにする。続いてナーディル・シャーの手に渡ったことで歴史に姿を現し、イラン、アフガニスタンを経由してパンジャブに移動したのち、ランジート・シングの崩御によって一時姿を消した後を追う。この頃ダイヤモンドは欲望の対象ではなく、支配権力の強力な象徴となっていた
2部はAnandが、これまで数多くの議論に晒されてきた問題について解明を試みる。植民地化によって王国を失った少年からコ・イ・ヌールが奪われ、イギリスの王冠に収まってロンドン塔に収蔵されるまでの経緯を追う。そこには、人里離れたアフガニスタンの砦で独房の壁の割れ目に身を潜めていた数か月や、誰にもその価値を認められないままイスラム法学者の机上でありがたい説教文の文鎮代わりに使われて過ごした不遇の数年があったという物語も含まれている

第1部        玉座の宝石
第1章        インドのコ・イ・ヌール
1725年ブラジルで鉱床が発見されるまで、世界に存在するあらゆるダイヤモンドは全てインド産。唯一の例外がボルネオ山中で見つかった黒ダイヤ鉱脈
古代インドのダイヤモンドは堆積土中にあり、採掘ではなく古代の川床の柔らかい砂や砂利をふるいにかけて抽出。元々は古代の火山爆発によって、母岩から吐き出されたキンバーライトやランプロアイトを水が抱き込み、川によって運ばれた
堆積土中のダイヤモンドはほとんどが小さく自然な八面体の結晶だが、非常に稀に雌鶏の卵大のものが見つかるが、コ・イ・ヌールもその1
紀元前2000年には古代エジプトでものを磨く道具、紀元前500年の中東や中国でも研磨剤だったが、その後唐の宮廷に始まってヘレニズムのアフガニスタン、アウグストス時代のローマまで指輪の材料として垂涎の的になったが、故郷のインドでは極めて縁起の良いものとされ、星の力を集めることができるとして半神にも近い位置付けで、ヒンドゥーの経典ガルーダ・プラーナにも宝石の持つ力を表す文章がある
強欲、盗難、流血という神話の流れは、コ・イ・ヌールが実際に辿った血塗られた歴史そのもので、19世紀には多くの敬虔なヒンドゥー教徒が神話を信奉
インドの宮廷生活において宝石が中心的な役割を果たしていたことは、初期のインド彫刻にもよく現れているし、つける宝石が本人の社会的な階層を一目瞭然にしていた
近代以前のインドで身につけられていた宝石の質と途方もない数量については、インドを訪れた人間が漏れなく触れており、それを奪うことが侵略者たちの野望となる
ヨーロッパ人による記録で最古のものは、ポルトガルの著名な医師であり自然科学者でもあるガルシア・ダ・オルタが1563年ポルトガルの新しい植民地ゴアで出版され、インドで3番目に活字印刷された本『インド薬草・薬物対話集』。ユダヤ人で、キリスト教への改宗を迫られてゴアに移住、現地王室の侍医となる。自分が目にした最大のダイヤモンドは140カラットだが、話では250カラット迄あると言い、巨大なダイヤモンドはデリーに流れる前、ヴィジャヤナガルの王の謁見室を美しく飾っていたというが、立証は不可能

第2章        ムガル帝国のコ・イ・ヌール
1526年トルコ系モンゴル人の王子バーブルがデリー朝最後の王朝ロディー朝をパニーパットの戦いで破り、北インドを330年にわたって支配するムガル帝国を築くが、偉大な支配者が記した中でも世界屈指の魅惑の日記『バーブル・ナーマ』を残す
類稀な美しいダイヤモンドにも触れられているが、1530年バーブルが亡くなると息子は国を追われペルシャに逃亡
スンニ派の王に対して、シーア派の支援でインドに戻り王位を奪回した際、ダイヤモンドは消息不明となる
ムガル人は宝石に関して、インドとは全く異なるペルシャ世界の哲学、美学、文学から派生した一連の概念を中央アジアから持ち込む。彼らが最高の位に置くのはダイヤモンドではなく"光の赤い石で、形而上学における神性、あるいは芸術の持つ崇高美の極致に達したものの象徴とされた
イスラム王朝のなかでも、ムガル帝国においては、支配者は芸術を愛好し、何事においても美を重視すべきという考えが強く、建築、美術、詩、史料編纂などと同様に、宝石や宝石で飾った品々を意識的に使うことで、帝国支配の理想を具現化し、神の光にも等しい威光をまとおうとした。アクバルの統治時代が最高潮を迎えるころには、美の追求心を支える巨額の財源を有し、唯一のライバルであるオスマン帝国の5倍にあたる数億人を養い、17世紀初頭には現在のインド、パキスタン、バングラデッシュ、東アフガニスタンの全土を支配するようになる
ムガル人は富と権力の生きた象徴であり、以来その印象は「ムガル=権力者」という言葉自体に吹き込まれ今も生き続けている
1628年シャー・ジャハーンが孔雀の玉座を作らせ宝石への熱狂がクライマックスを迎えるが、58年にはシャー・ジャハーン卒中の発作から死が間近と思った王子4人の争いとなり、あっけなく帝国が崩壊してコ・イ・ヌールはインドを去る
グレート・ムガル・ダイヤモンドとしてヨーロッパにも噂は伝えられたが、現代の学者の多くは実際にはオルロフ・ダイヤモンドだと考えている
コ・イ・ヌールとバーブルのダイヤモンドは、重量が大体同じで、同一とみるのが正しいようだが、バーブルのダイヤモンドについては詳しい説明が見つからず、ムガルの宝庫に収まった経緯が不明のままで、コ・イ・ヌールの起源について確かなことはわからない。ムガル人の手に渡ったのは明らかだが、具体的な確実な情報は皆無で、確実に分かっているのはそれが如何様にしてそこを去ったのかだけ

第3章        ナーディル・シャー イランのコ・イ・ヌール
1739年ムガル帝国は衰退期にはあったものの、依然としてアジアで最も裕福な国で、孔雀の玉座から統治され、そこにはコ・イ・ヌール輝いていた
デリーは200万の人口を抱え、ロンドン・パリを合わせた以上で、それを治めるのはランギーラと呼ばれた皇帝ムハンマド・シャー(170248)が快楽に耽るなか、下賤の出身ながら地方長官に上り詰めたナーディル・シャーが1732年ペルシャの王位を奪い、サファビー朝を滅ぼす。39年にはアフガニスタンに侵攻、カンダハールを陥落させた後、ムガルの宝物に攻撃を仕掛け、デリーは陥落、ペルシャ軍はムガルの財宝の数々に目を見張る
孔雀の玉座も含め戦利品をペルシャに持ち帰るが、2年後には息子の陰謀で狙撃され正気を失っていく
47年部下の謀反にあって殺害され、更にアフガニスタンとウズベクの騎兵によってむほん者は蹴散らされ、皇帝の正室はコ・イ・ヌールを進呈して労に報いる ⇒ ナーディルがムハンマドから奪った2つのダイヤモンドの1(もう1つはダイヤーイェ・ヌール)で、比類なきルビー(ナーディルがアイン・アル・フーリ(フーリの瞳)と呼んでいたティーム―ル・ルビー)とともにハーレムに保管されていた
ナーディルは玉座からコ・イ・ヌールとティモール・ルビーを剥ぎ取りに身につけており、玉座は解体。ダイヤーイェ・ヌールはペルシャに留まり、カージャール朝、パフラビー朝の王冠を飾り、今でもテヘランの国立銀行に収蔵
グレート・ムガル・ダイヤモンドはトルキスタンの一般市場に出て、最終的にアルメニアの貿易商に買われ、世界のダイヤモンドが集まるアムステルダムの新興市場でエカチェリーナ2世の愛人オルロフ伯爵が購入するが、エカチェリーナにはライバルのポチョムキンがいて、留守中に彼の一族は宮廷での地位を失っていたため、エカチェリーナの名の日に宝石がプレゼントされ、彼女の笏に埋め込まれた。宝石を買うために巨額の借金をした伯爵はやがて破滅、宝石は現在ロシアの他の戴冠用宝玉と一緒にクレムリン宮殿に展示
コ・イ・ヌールと妹分のティムール・ルビーは、ともにアフガン騎兵の隊長アフマド・カーン・アブダーリが身に着け、カンダハールでアフガニスタンの王位に就き、以後70年にわたってコ・イ・ヌールの故郷となる

第4章        ドゥッラーニ帝国 アフガニスタンのコ・イ・ヌール
1747年アフマド・カーン・アブダーリはペルシャの追っ手を逃れてカンダハールに帰還し、アブダーリ族のみならずアフガニスタン全族の首長に選任 ⇒ 高名なスーフィ族の聖人によってパドシャであり、ドゥッリイドゥラーンだと宣言され皇帝位に就任、アフマド・シャー・ドゥッラーニとして知られるようになる
ナーディル・シャーの完全な模倣で、デリーを攻撃して略奪、ペルシャ軍以上にひどい被害を出す。1761年パニーパットの戦いではマラータ同盟を壊滅させ、インドは権力不在に陥るとともに、ドゥッラーニ帝国はオスマン帝国以来最大のムスリム帝国となる
軍隊の増強と領土は拡張したが、顔の壊疽に侵され死亡、代わって息子のティムール・シャーが統治するが93年に毒殺、シャー・ザマーンが跡を継ぐが、彼の治世で帝国は崩壊
この頃にはインドは東インド会社の支配を受けるようになり、沿海部から内陸部にまで浸透、ペルシャ軍を唆してシャー・ザマーンの無防備な背後を攻撃させると、ザマーンはラホールから撤退、代わって部下のシク教徒ラージャ・ランジート・シングが徐々に帝国東部からパンジャブ、ペシャワールからシンドの境界に至る全土を支配
アフガニスタンは部族間の抗争が再発し、かつては学問と芸術の都としてインドよりずっと文化的な土地と見做されていたが、戦争で荒廃して近代のほとんどを文化から切り離されたまま過ごすことになる
ザマーンの支配は1800年に終わるが、コ・イ・ヌールとティムール・ルビーは隠匿
ザマーンはシンワリ族によって目をくり抜かれるが、弟シャー・シュージャは難を逃れ、3年後の宗教がらみの暴動を機に権力を奪回、2つの宝石を徹底的に探させたところ、コ・イ・ヌールはイスラム法学者が文鎮代わりに使い、ティームール・ルビーは学生が小川で見つけた
1809年シャー・シュージャ一族は権力の座から追われ放浪生活中にランジート・シングの魔の手が伸びる。客人として招き入れ、1813年最終的にコ・イ・ヌールをを奪い取り、以来36年間コ・イ・ヌールはシク教徒の所有物となり、様々な面で権威の象徴となる

第5章        ランジート・シング ラホールのコ・イ・ヌール
ランジート・シングほどコ・イ・ヌールを珍重した者はなく、しかも単体で身につけるようになったのは彼が初めてであり、コ・イ・ヌールの象徴性が強調された
シングの王国は最盛期にはパンジャブを中心にカシミール、ペシャワールを征服、13百万の人口を擁し、王個人の人柄も民衆から大変な人気を集める
イギリス人の多くは彼と良好な関係を築いたが、戦闘に備え1830年代には東インド会社はパンジャブの国境沿いにベンガル軍のほぼ半数にあたる39千以上の騎兵を配置
1835年脳卒中の最初の発作、4年後の臨終の床で、所属するバラモンの長を祀った寺に寄進するべきという一派とシク王国のものとして後継者に渡すべきとする一派の意見がまとまらずに行方も不明のまま ⇒ それが不和の種となりシク王国は分裂、全面的な内乱に発展、それのある所必ずや不和が巻き起こるという摩訶不思議な力を、その先も及ぼし続ける

第2部        王冠の宝石
第6章        灰の町
1839年ランジート・シングの火葬に続いて、あとを継いだ長子も無能故に毒殺され、期待されたその息子も状況不明の事故によりあっさり他界、2年のうちに3度の葬儀が行われ、コ・イ・ヌールを巡る陰惨な歴史に、コ・イ・ヌールこそ伝説に謳われる神々の宝石スヤマンタカという思い込みが合わさって、インド人は常にコ・イ・ヌールを邪悪な力と結びつけて考えてきた
古代ヒンドゥー教の経典によれば、賞賛に値しない人間が保持すれば、その宝石は不運をもたらすという

第7章        少年王
ランジート・シングの次男シェール・シングは1807年生まれ
ランジートの孫が死んで、直系が死に絶えたところで、嫡出かどうかさえ危ぶまれて永遠に王となることの適わない身分にされた次男に機会が巡ってきた ⇒ 41年パンジャブの王として即位、コ・イ・ヌールを腕につけたが、43年には従兄弟によって謀殺され、ランジート・シングの17番目の妻との間に生まれた僅か5歳の息子ドゥリープ・シング(1838)が即位、その母ラニ・ジンダンが自分が息子の名においてパンジャブを統治すると宣言し宮廷をあっと言わせ、実兄を新宰相に据える
身内のごたごたが続く中、1846年イギリスが行動に出る ⇒ 領土侵犯を口実に、英軍がシク王国に対し宣戦布告、激しい戦闘が繰り広げられる(1次シク戦争)
ラホール条約によって英軍はドゥリープ・シングが16歳まで駐留することを約束
48年イギリスが新総督としてダルハウジー卿を派遣したことで、王と王国全体の運命が決まる ⇒ 英軍の進駐に怒った民衆の蜂起が英軍に新たな開戦理由を与え、パンジャブの完全な併合とコ・イ・ヌールの喪失につながる最終決戦の火蓋が切られた(2次シク戦争)
49年降伏文書調印 ⇒ 10歳のドゥリープ・シングはイギリスの言われるままに退位させられ、パンジャブは英領となり、コ・イ・ヌールはイギリス女王に譲渡

第8章        イギリスへの道のり
コ・イ・ヌールは陸路ムンバイに運ばれ、英国軍艦でイギリスに向かうが、同時にコレラも運び、50年プリマス入港
上陸直後、ヴィクトリア女王襲撃事件が発生、コ・イ・ヌールが邪悪な力を持つという噂がますます煽り立てられる結果に
女王のかけがえのない腹心の友であり前首相だったサー・ロバート・ピールの国喪の日にコ・イ・ヌールを贈呈されたが、女王の日記には傑出した臣民を失った悲しみばかりが綴られ、コ・イ・ヌールについては僅かに触れられた程度で、女王の目を輝かせるには至らなかった

第9章        万国博覧会
1851年ロンドンで万博開催、ヴィクトリア女王にとっても一世一代の大イベント
ハイドパークに万博のために鉄骨でガラス張りのクリスタルパレスが建設され、世界中から集められた13千点の物品や骨董が展示、その中に万博一番の呼び物としてコ・イ・ヌールがあったが、見栄えがせず、観客の評判は不芳、それはアルバート殿下の輝かしい瞬間を曇らせかねず、輝かしく見せるための工夫が施され人口の光を当てることで、ようやく有名な宝石としての魅力と魅惑を取り戻す
閉め切った警戒厳重な展示室のなかは蒸し風呂さながらで、観客の興味もすぐに蒸発、新聞各紙もコ・イ・ヌールは扱いにくいと失望を交えて非難

第10章     最初のカット
最初のお披露目に失敗したのは稚拙なカットのせいだということになる
ブリリアントカットではなく、ローズカットだった
現代実験光学の父と言われる万華鏡の発明者でもある物理学者ブルースターが呼ばれ診断の結果、中心部の平面に広がる斑点が原因と判明、下手にカットすれば台無しになる危険性が高く、その欠陥を手当てするには今のサイズを大きく減じることになると言われる
オランダの職人が呼ばれ、科学者の結論が裏付けられたが、職人はダイヤモンドの大きさを損なわずにカットできると請け負い、ロンドンで技術の粋を結集してカットが始まる
最初のカットは、インドで軍歴を始め、そこで軍功を挙げて後年ナポレオンとの戦いで前線に立つことができたウェリントン公アーサー・ウェルズリーが83歳の老体にも拘らず、インドへの拘りとコ・イ・ヌールへの特別な思い入れから自ら買って出た
カットはウェリントンの死の数日後に完成、職人が請け負ったにも拘らず、元の大きさを維持できず、190.3カラットが93カラット迄縮小、手のひらにちんまりと乗る大きさになった ⇒ 卵型から平べったい、宝飾職人がオーバル・ステラ・ブリリアントと呼ぶカットが施された。テーブルと呼ばれる上部の平面に33の切り子面を持ち、その下の斜面にあたるパビリオンにも通常の25ではなく33の切り子面を持つ完全なシンメトリーに加工、イギリスの薄ぼんやりした光の下でも輝くようになった
様相を一変させ、幸福を呼ぶ宝石というイメージが定着。小説や馬名にも登場
ドゥリープはインドでスコットランド人医師の養父母の下でイギリス人として育ち、キリスト教に改宗、5315歳になって女王陛下に会いにロンドンに向かう

第11章     ヴィクトリア女王の「忠実なる臣民」
ヴィクトリアもドゥリープに関心を示し、マハーラージャ()の成長を心待ちにしていたが、直接会って気に入り、上級貴族の地位を授け、家族の一員として処遇
54年ドゥリープの最大の関心はコ・イ・ヌールにあることがわかるが、自らの意思と手で女王に渡すべきという言葉を信じてコ・イ・ヌールを見せたところ、ずいぶん違った形と大きさに戸惑いながら、女王の手に宝石を置き、「忠実なる臣民として、我が君主にコ・イ・ヌールを渡すことはこの上ない幸せ」と女王に贈呈。以後、彼もその係累も二度とこのダイヤモンドに近づくことはなかった

第12章     宝石と王冠
贈呈後、女王はコ・イ・ヌールを頻繁に、公然とつけるようになる ⇒ 最も注目されるお披露目が1年後の55年フランスへの公式訪問 ⇒ 英国王がフランスを訪問するのは400年ぶりであり、クリミア戦争において歴史的同盟を結ぶ貴重な機会
ナポレオン3世は英国崇拝者、ヴィクトリアを招いてヴェルサイユ宮殿で盛大な舞踏会を開催。ヴィクトリアの衣服の選択はたいてい、抜群に洗練されたパリの人間を感心させなかったが、大舞踏会の夜だけは別で、誰よりも輝いていたが、その中でも人目を惹いたのがダイアデム(王冠)”、その中でも正面にある末広がり十字に置かれたコ・イ・ヌール
2203個のブリリアントカットと、662個のローズカットが引き立て役として使用
61年アルバート公逝去(享年42、腸チフス)で女王の人生はすっかり色褪せてしまったようだ。質素な黒のドレスと頭の後家帽を死ぬまで変えず、豪華な宝飾類は片づけられた
66年漸く公務に復帰、全身黒の喪の装いの中イギリス君主の権力と勢力範囲を無言のうちに物語るコ・イ・ヌールだけを身に着けていた
ドゥリープはイギリスにわたって7年、実の母が恋しくなり、イギリス側の護衛の下、幽閉され視力を失った母親ジンダンに会いに行くと、母親は王国とコ・イ・ヌールのみならず宗教までも奪われた息子を詰ったが、落ち着くともう2度と息子と別れないと宣言し、息子とともにイギリスにわたる
母の感化で、ドゥリープは英王宮に公然と反抗し始め、昔サインさせられた和平条約にも疑問を持つ中、63年母は穏やかに死去(享年46)、女王の薦めを断って別の女性と結婚。従順を装いながら意趣返し的な行動をとるようになり、放蕩三昧をいさめられると、自らの莫大な資産を返せと言い始め、英国政府のインド局との間の緊張関係が着実に危険度を増していく
贅を尽くしたロンドンの自宅を処分して家族でパンジャブに戻れば、我が臣民が決起、手ぐすね引いて待つロシアがアフガンから雪崩れ込むと計算して、家族の船旅のチケットを手配したが、86年スエズ運河の手前で逮捕され、最終的に釈放されたものの、大きな野望に心身ともに消耗して家庭は崩壊し、自身の健康も害して93年ペルシャで一人無一文で亡くなる(享年53)。死とともに家名も絶える。現在のパンジャブでもこの悲劇に胸を痛める人は多い

第13章     「我々はコ・イ・ヌールを取りもどさねばならない」
1901年ヴィクトリア女王の死により、コ・イ・ヌールは跡を継いでインド皇帝になった息子のエドワード7世ではなく、その妻アレクサンドラ王妃に受け継がれた ⇒ 男性が受け継ぐとことごとく破滅するという伝説に配慮
王妃は無類の宝石好き、02年の戴冠式には2000個のダイヤを身に着けたが、最も注目されたのは彼女のためにデザインされた王冠で、55年にベルサイユで被った王冠を改造したもの。正面中央にはコ・イ・ヌールが燦然と輝く
続くジョージ5世妃メアリーの時も、王冠がシンプルになったが、コ・イ・ヌールは正面中央で変わらず、その息子ジョージ6世も偶々兄がシンプソンとの恋で王位を放棄したため巡ってきた戴冠式で、王妃エリザベスも王冠を改造し正面にコ・イ・ヌールをもってきたが、その娘の現在の君主エリザベス2世の53年の戴冠式にもこの王冠を身に着けた
コ・イ・ヌールの呪いは男性君主のみと信じられていたが、エリザベス2世は大事を取って、この宝石を身に着けることを控え、現在ロンドン塔の英王室宝器保存室に収まっているが、引退後もコ・イ・ヌールに安穏はもたらされなかった
1947年独立後のインド政府が返還を要求、オリッサの聖職者会議もランジート・シングが死の床でジャガンナートの寺に遺贈した話を持ち出して同じ要求を出したが、英政府はいずれも却下し、以後も「交渉不可能」と付け加える
76年イギリスは記録史上最も暑い夏を経験、テントウムシが大発生し大凶作、ビッグベンが初めてにして唯一の大きな故障を起こして3週間鐘が沈黙する中、パキスタンの独立記念式典前夜、同国ブット首相からコ・イ・ヌール返還要求が出される ⇒ 1年後の軍事クーデターの2年後絞首刑に
90年ロンドン駐在のインド高等弁務官がコ・イ・ヌールがイギリスに渡った経緯は国家支援の下に行われた窃盗だと訴え、唯一無二の所有者はインドだと強調
00年にはタリバン=アフガニスタン政府からも返還要求が来る
どれだけ時間が経過しても、コ・イ・ヌールを取り戻したいというインド、パキスタンの人々の情熱は冷めることがない ⇒ 15年は返還要求がとりわけ活発になった。慣習法に基づく返還訴訟が提起され、ゴア人を両親に持つイギリス下院議員が本気で支援したが、同年のモディ新首相訪英では言及を避けた。同年末にはラホールの高等裁判所にパキスタン市民が返還請求を起こす
16年インド文化省は、友好的な形でコ・イ・ヌール奪回のための努力を惜しまないと声明を発表、コ・イ・ヌールは「我が国の歴史に深く根差す価値ある美術品」とし、宣誓供述書を裁判所に提出し、「法的根拠はないと思えるが、友好的な方法で返還を求める」と書かれていた
コ・イ・ヌールの重量は世界で89位に落ちたが、名声においては他の追随を許さない。他の何よりもこの事実ゆえに、植民地主義による搾取の賠償において、最近コ・イ・ヌールの返還を求める声がひときわ高く、自分たちの元へ取り戻そうとする試みが様々な方面で始まったということ
コ・イ・ヌールの物語は、植民地主義に対する様々な態度における避雷針であり、歴史的に重要な問題を提起するのみならず、現代の問題をも浮かび上がらせる。植民地主義による略奪には、どういう対応をするのが正しいのか? 歴史の浮沈の1つだとして軽く受け流すのか、それとも過去の間違いを今こそ正すべきなのか?



(書評)『コ・イ・ヌール』『ダイヤモンドの語られざる歴史』
2019760500分 朝日
 王の権威、美の競演彩る透明な光
 天然で最も硬く、光の屈折率が高くて美しく輝くダイヤモンドは、古来多くの人を魅了してきた。そのダイヤモンドに関わる興味深い本が相次いで出版された。
 1冊目は『コ・イ・ヌール』である。光の山という意味のインド原産の巨大なダイヤモンドの来歴を語る物語だ。ムガル帝国の栄光を象徴する孔雀(くじゃく)の玉座にはめ込まれていたコ・イ・ヌールは、デリーを占領したペルシャの将軍ナーディル・シャーの腕章につけられる。ナーディルが暗殺された後、この腕章はアフガニスタンの皇帝のものとなる。その次にこの腕章を身につけたのはシク教徒であるパンジャブの王ランジート・シングだった。彼はコ・イ・ヌールを権威の象徴、独立の象徴とみなして珍重したので、コ・イ・ヌールは有名になった。その後、息子3人が王位に就くが暗殺や事故が相次ぎ、ランジートの死の10年後には、王国が英国の東インド会社に接収される。コ・イ・ヌールは10歳の少年王ドゥリーブ・シングからヴィクトリア女王に献上された。やがて、少年王はロンドンでヴィクトリア女王の庇護(ひご)を受けることになる。女王が半分以下にカットされたコ・イ・ヌールをドゥリーブに見せるシーンは劇的だ。ドゥリーブは宝石を手に取り、ため息をつくと「忠実なる臣民」として宝石を女王に贈呈できるのは「この上ない幸せです」と言って戻すのである。コ・イ・ヌールは英王冠の中央にはめられ今もロンドン塔に鎮座している。本書はランジート・シング一族の物語でもあって、とりわけ末裔(まつえい)のドゥリーブの波乱に満ちた生涯は心に残る。
 『ダイヤモンドの語られざる歴史』はダイヤモンドの百科事典のような一冊だ。インドの特産品と考えられてきたダイヤモンドが南アフリカで発見される。地主のデ・ビア氏の名前からデビアス社が生まれ、英国から移住したセシル・ローズがダイヤモンドの支配者になっていく。
 女性として初めてダイヤモンドを身につけたのはフランス王シャルル7世の愛妾(あいしょう)アニエス・ソレルで、ブリリアントカットを発明したベルケムと彼を見いだした大商人ジャック・クールの3人が、将来のダイヤモンドブームの生みの親となった。ティファニーやハリー・ウィンストンの創業の物語も面白いが、王妃やハリウッドのスターたちのエピソードは秀逸だ。エリザベス・テイラーがリチャード・バートンとローマのブルガリの店を訪れたシーンは、そのまま映画の1シーンになりそうだ。
 究極の愛情表現でありながら、醜悪な物質主義の象徴でもあるダイヤモンド。どちらの本もたくさんの口絵が載せられており、読んでいて楽しくなる。
 評・出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)
    *
 『コ・イ・ヌール 美しきダイヤモンドの血塗られた歴史』 ウィリアム・ダルリンプル、アニタ・アナンド〈著〉 杉田七重訳 東京創元社 2916円
 『ダイヤモンドの語られざる歴史 輝きときらめきの魅惑』 ラシェル・ベルグスタイン〈著〉 下隆全訳 国書刊行会 4104円


コ・イ・ヌール ウィリアム・ダルリンプル、アニタ・アナンド著 ダイヤが招いた流血の
2019/7/13付 日本経済新聞
なんと凄惨なノンフィクションであろうか。
たとえば、インド大陸を制覇したムガル帝国の「元宦官(かんがん)」が、敵兵の目玉をかごに入れて持ってこいと命じ、部下が持参した目玉を2万まで数えたが、多すぎてやめにしたという話。あるいは、捕虜の髪を剃りあげて、粘土製の冠の枠を造り、そこに鉛の熱湯を注いだという話。権力をめぐる王族の争いのただ中で、銃殺や刺殺はおろか、毒殺、撲殺、焼殺などありとあらゆる殺害が繰り広げられる。
原題=KOH-I-NOOR
(杉田七重訳、東京創元社・2700円)
▼ダルリンプル氏はインド在住、アナンド氏はロンドン在住の作家。
※書籍の価格は税抜きで表記しています
ダルリンプル氏はインド在住、アナンド氏はロンドン在住の作家。
そこにはつねに世界最大級のダイヤモンドがあった。「コ・イ・ヌール」――、ペルシャ語で「光の山」を意味する、世にも稀(まれ)な宝石である。古今東西"呪いの宝石"は神話やファンタジーによく登場するが、本書は、それが実在し、持ち主が変わっても必ずやその人生を破滅させてしまうという史実の物語なのだ。
主な舞台は、現在のインドからパキスタン、アフガニスタン、さらにはイギリスのロンドンにまで至る。私には馴染(なじ)み深い地名が頻出し、そのたびに記憶が蘇(よみがえ)った。
かつてアレキサンダー大王が越えたハイバル峠には、パキスタン軍警とともに向かったのだが、草木も生えぬ岩山が続き、月世界のように見えたものだ。インド北部のシク教徒の聖地"黄金寺院"には、ターバン姿の屈強な衛兵が陣取り、いまだに湾曲したサーベルを腰に下げていた。そして、インド北西部のジョドプル一帯を支配した藩王「マハーラージャ」の現当主に30年程前、長時間インタビューしたことも思い出した。
しかし本書に描かれるのは、こうした人々の数世代前の祖先たちが実際に関わった血みどろの歴史なのである。王は次々に取って代わられても、かのダイヤモンドだけは変わらない。人々の愚かな戦いを、光り輝くダイヤモンドが冷たく見つめているかのようだ。
本書が記す時代は、16世紀前半のムガル帝国勃興期から、19世紀後半のイギリス・ヴィクトリア時代にかけて。ちょうど江戸時代がすっぽり収まるが、改めて260年続いた太平の世の貴重さを思い知らされる。現在ロンドン塔にある、かのダイヤモンド付きの王冠を、エリザベス女王は決してかぶろうとしないという。
《評》ノンフィクションライター 野村 進


Wikipedia
コ・イ・ヌール(ヒンディー語कोहि नूर Kōhi NūraKoh-i-noor, Kohinoor, Koh-i-Nur)は、インドで発見されたダイヤモンドである。コーヒ・ヌールと表記されることもある。もともとはペルシア語で「光の山」を意味する「کوه نور」(クーヘ・ヌール)に由来している。
かつては世界最大のダイヤモンドと呼ばれ、その歴史において周辺国の幾人もの王侯がその所有を争った。最終的にインド女帝となったイギリスヴィクトリア女王のものとなり、現在はロンドン塔で展示されている。大きさは105カラット(21.6g)

歴史[編集]

多くの伝説や神話、逸話に彩られており、初期の来歴ははっきりとしていない。ただし、19世紀まではインド亜大陸が世界で唯一のダイヤモンド産出国であったことから、インド原産であることは確実である。伝説ではガンジス川の支流ヤムナー川河畔に捨てられていた子供の額からこの石が発見されたことになっており、王宮にもたらされた後、ヒンドゥー教シヴァ神像の第三の眼に相当する位置に嵌め込まれたと云う。しかし現実には、アーンドラ・プラデーシュ州のビジャープル鉱山で発見された可能性が高い。
1526バーブルによって書かれた『バーブル・ナーマ』のなかで、コ・イ・ヌールという名称が確認できる。その記述によれば、1294マールワーのとあるラージャーが所有していたと言う。その後、ムガル帝国シャー・ジャハーンアフシャール朝ナーディル・シャードゥッラーニー朝アフガニスタンアフマド・シャー・アブダーリーパンジャーブマハーラージャランジート・シングらの手を経る。184932にパンジャーブがインド帝国の支配下に入り、その女帝であるヴィクトリア女王に献上された。
1851に開催されたロンドン万国博覧会では、この石は出品物の目玉として会場となった水晶宮に展示されたが、この石に施されたインド式のムガルカットではその輝きを十分に引き出すことができず、これを入手した女王本人を含め、きらびやかな輝きを期待してはるばる訪れた見物客をもがっかりさせた。そこで、国民及び女王の意を汲んだ夫で王配のアルバート公アムステルダムから職人を呼び寄せ、この石の再カットを命じ、現在見られるブリリアントカットへと収まった[1]。インドは独立以降、返還を求めているが、イギリスは現在のところ拒否している。

所有者リスト[編集]

3.    1316シハーブッディーン・ウマル(ハルジー朝)
6.    1325 - 1351ムハンマド・ビン・トゥグルク(トゥグルク朝)
7.    1351 - 1388フィールーズ・シャー・トゥグルク(トゥグルク朝)
8.    1388 - 1389ギヤースッディーン・トゥグルク2(トゥグルク朝)
9.    1389 - 1390アブー・バクル・シャー(トゥグルク朝)
15. 1421 - 1434ムバーラク・シャー(サイイド朝)
16. 1434 - 1445ムハンマド・シャー(サイイド朝)
19. 1489 - 1517シカンダル・ローディー(ローディー朝)
20. 1517 - 1526イブラーヒーム・ローディー(ローディー朝)
22. 1530 - 1540フマーユーン(ムガル帝国)
24. 1545 - 1554イスラーム・シャー(スール朝)
25. 1554フィールーズ・シャー(スール朝)
28. 1555シカンダル・シャー(スール朝)
29. 1556アーディル・シャー(スール朝)
30. 1556 - 1605アクバル(ムガル帝国)
31. 1605 - 1627ジャハーンギール(ムガル帝国)
32. 1628 - 1658シャー・ジャハーン(ムガル帝国)
33. 1658 - 1707アウラングゼーブ(ムガル帝国)
34. 1707 - 1712バハードゥル・シャー1(ムガル帝国)
35. 1712 - 1713ジャハーンダール・シャー(ムガル帝国)
36. 1713 - 1719ファッルフシヤル(ムガル帝国)
38. 1719ラフィー・ウッダウラ(ムガル帝国)
39. 1719 - 1739ムハンマド・シャー(ムガル帝国)
43. 1793 - 1801ザマーン・シャー・ドゥッラーニー(ドゥッラーニー朝)
45. 1803 - 1830シュジャー・シャー(ドゥッラーニー朝)
47. 1839カラク・シング(シク王国)
49. 1840 - 1841チャーンド・カウル(シク王国)
50. 1841 - 1843シェール・シング(シク王国)
51. 1843 - 1849ドゥリープ・シング(シク王国)



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