甲信の戦国史  笹本正治  2019.8.29.


2019.8.29. 甲信の戦国史 武田氏と山の民の興亡

著者 笹本正治 1951年山梨県生まれ。74年信州大人文学部卒。名大大学院文学研究科博士課程前期修了。博士(名大:歴史学)。現在長野県立歴史館館長。

発行日             2016.5.30. 初版第1刷発行
発行所             ミネルヴァ書房(地域から見た戦国150 )

甲信地域(山梨県、長野県)といえば富士山やアルプスに代表される山の国である。この地域を舞台として戦国時代の150年間、武田氏、小笠原氏、村上氏、真田氏などの大名が覇を競った背景には何があり、いかなる歴史が展開したのか。本書では、大名たちの興亡や合戦の歴史だけでなく、山国に生きて歴史を支えた木こりや金山衆、猟師などにも目を向け山の信仰、山の産物、物資流通など多面的に地域の戦国時代を明らかにする

写真
仁科信盛などが戦った高遠城跡(伊那市高遠町東高遠)
海津城跡(松代城跡、長野市松代町松代)
松本城(松本市丸の内)
善光寺参詣曼荼羅(小山善光寺蔵)
甲斐善光寺(甲府市善光寺)
恵林寺(甲州市塩山小屋敷)
信濃水内郡彦神別神社之図(長野市立博物館蔵)
桐竹鳳凰文透彫奥社脇立(小菅神社蔵)
取り上げたときの八雲神社絵馬
アルプスの峰々と富士山
春の小菅集落(飯山市)
蕎麦の花(安曇野市)

はしがき――甲斐の杣(そま:木を伐ったり運び出したりする人)
甲斐・信濃の戦国時代を代表する人物は武田信玄。一方、甲斐・信濃の地域的な特質として、自然の豊かさ、とりわけ山や木を挙げてもよいだろう。その両者を結びつける職人に著者の祖先ともいえる杣たちがいた
本書では、甲斐・信濃の戦国時代を、信玄などの戦国大名や近世の視点ともいえる永田耕作に主眼を置いた視点のみではなく、山の産物、そこで働く人々に目を向けながら語ってみたい

第1章           自然の特質と災害
1.      山と盆地
山梨県 全国32位 可住地面積割合44位 人口41位 人口密度31
長野県 全国4位 可住地面積割合39位 人口16位 人口密度38
森林率ともに78
山梨県の山  御坂山地(三つ峠)、富士山、白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)、鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)、赤石山脈(駒ケ岳)、八ヶ岳、金峰山
長野県の山  北信5(妙高、斑尾、黒姫、戸隠、飯繩)、北アルプス、美ヶ原、南アルプス(仙丈ケ岳)、中央アルプス(木曽駒ケ岳)、御嶽山、浅間山
山梨県の川  富士川(3大急流の1:釜無川と笛吹川の合流点より下流)、釜無川(鋸岳を源流、両県の県境を流れる)、笛吹川(東西の沢渓谷が源流)、桂川(山中湖が水源)
長野県の川  信濃川水系(梓川、犀川、千曲川)、木曽川水系(鉢盛山)、天竜川水系(諏訪湖)、姫川水系、矢作川水系、富士川水系、関川水系、利根川水系
山梨県の盆地  甲府盆地(多くの複合扇状地が形成)
長野県の盆地  松本平、伊那谷、佐久平、善光寺平、上田盆地(西は塩田平)、諏訪盆地
山梨県の峠  籠坂峠(鎌倉往還)、安倍峠(身延山)、信州峠(川上村)、雁坂峠(秩父、日本3大峠)、御坂峠(鎌倉往還)、笹子峠(甲州街道最大の難所)、大菩薩峠(青梅街道最大の難所)、右左(うば)口峠(甲斐と駿河)
長野県の峠  神()坂峠(恵那)、安房峠(野麦峠:高山~松本)、入山峠(碓氷峠)、内山峠(佐久~下仁田)、角間峠(上田~嬬恋)、新野(にいの)(伊那谷~遠州灘)、青崩峠/兵越峠(飯田~浜松)、針ノ木峠(北ア横断)、塩尻峠、和田峠、鳥居峠

2.       襲いかかる災害  15世紀は小氷河期で日本の歴史を通じて記録的な寒い時期。戦国時代を通じて次第に暖かくなる
風水害が頻発  信玄堤
1498年明応の大地震(南海トラフ沿いの巨大地震:8.28.4)
1590年代の浅間山の大噴火(豊臣時代は西へ、大坂城落城後は東に靡く)

3.      疫病と餓死
毎年のように疫病が流行り、飢饉で体力がなくなっているところに追い打ちをかけるように襲いかかり多くの人々が亡くなる
自然災害による食糧不足が起こり、慢性的な飢饉状況に陥る

第2章           変化する領主たち
1.      信濃の動乱
戦国時代は、一般には応仁の乱(1467)または明応の政変(1493年、足利将軍廃立事件)から始まるとされるが、信濃ではそれ以前から地域の有力者たちが争い、戦国の様相を呈していた
中世の信濃の行政の中心は信府(現松本市)で、1451年には小笠原持長(13961462)が守護職にあったが、本家の深志小笠原と分家の鈴岡小笠原という同族内での相続争いが絶えず、応仁の乱では東西に分かれて争うが、その後は統一され、将軍義政配下の大名20人の中に加わって宮中参内もしている。他に豪族としては諏訪氏、仁科氏
小笠原氏とともに戦国大名として有名だったのが信玄を2度にわたって破った村上義清で、埴科(はにしな)郡を根拠とし、足利尊氏から、守護とは別に「信濃惣大将軍」として信濃の北部を任され、小笠原氏との間で確執が続いた

2.      甲斐の統一
守護職が弱かった甲斐の国は、武田氏が守護だったが、内外から戦乱が持ち込まれ、北条早雲などがたびたび甲州に侵入。1507年武田家を継いだ信虎になって漸く統一。猿橋(大月市)の北条氏や寄居にいた関東管領の上杉憲房らを攻め勢力を拡大、将軍義晴から上洛を求められるまでに注目される。扇谷上杉氏の娘を長男信玄の嫁に迎え、駿河守護の今川氏とも対峙するがやがて和睦、今川義元は閑院流(藤原北家支流の公家の一門)嫡流の娘を信玄の後妻に斡旋、信虎は信玄の姉を義元の妻として送り込んで同盟関係に

3.      信玄の信濃侵略
1541年信玄が父を今川家に追放して家督を継ぐと諏訪を侵略先と定め、さらに佐久を収め、村上氏と対決するが、上田原(現上田市)で敗退。その後信玄が盛り返し、村上氏は上杉謙信を頼る。信玄は飯田から木曽まで平定
1553年川中島合戦の端緒。信玄は今川・北条と姻戚関係を築いて後顧の憂いをなくす
1558年将軍義輝は、三好・松永に京を追われ、謙信の後ろ盾で失地を回復しようと、謙信に信玄との和睦を促し、信玄は和睦の条件として信濃守護職を要求し補任される
謙信は上洛し、謙信の厄介になっていた上杉憲政から上杉の姓と関東管領の職を譲り受け鎌倉の鶴岡八幡宮で就任報告と襲名式を行う
信玄は謙信の留守の間に北信濃の大半を平定したため、同年秋に両軍が川中島で激突
1572年信玄は謙信の動きを封じるとともに、本願寺や越前の朝倉・浅井らと結んで信長包囲網を固め、諏訪から伊那を通って南下、遠江北部に乱入。天竜川を渡って三方ヶ原で信長の援軍を加えた家康軍を破り、越年して長篠の国に入る。圧倒的に優勢にあったが病魔に侵され帰国の途中、伊那の阿智村で病死。阿智村の長岳寺で火葬され、供養塔として十三重塔を建立

4.      諏訪勝頼の武田家相続
武田家の家督を継いだのは、諏訪頼重の娘を母とする信玄の4男で高遠城主の勝頼
長篠の合戦で家康に敗れると態勢の立て直しを図り、北条氏政の妹を娶って相・甲同盟が成立、長篠以来の孤立状態に終止符を打つとともに、諏訪社を造営し、勝頼と特別な関係にあった軍神としても名高い諏訪明神の加護を受けて武運長久と領国の繁栄を祈願
1578年謙信の急逝により、謙信の養子でその姉を母とする長尾景勝と、北条氏康の七男で景勝の姉を妻とする景虎が激しく跡目を争い、景虎の兄北条氏政はその同盟者である勝頼に援軍を求め越後に出兵しようとしたが、沼田辺りで景勝に味方する諸城に反抗に遭って越後へ進めないのを見た景勝は武田勢と講和を結ぼうと画策、勝頼は景虎を見捨てるわけにもいかず、和平を斡旋、一応の成果はあったようだが、結局崩れ勝頼も陣を引き払う
勝頼は、景勝との同盟交渉に際し、妹の景勝との婚約も進め、同盟が確固たるものとなる
次第に景勝が有利となり、79年には景虎の城が攻め落とされ自害
景虎の死により、北条と武田の関係は悪化、氏政が家康と勝頼を挟撃する約束
勝頼は、同盟条件に従って、景勝が上杉家を相続した後、上杉領だった上野と信濃を割譲させ、初めて武田家が信濃全体を領するようになるが、足掛け4年、正味2年余りで終焉

第3章           織豊政権から徳川政権へ
甲斐・信濃では戦国時代の最も戦乱が激しかったのは、武田氏滅亡から豊臣政権樹立の時期、1582年から13年くらいと考える
1.      武田家滅亡と混乱
1581年高天神城(現掛川市)落城は、勝頼にとって遠州拠点の喪失であり痛手、北条氏からも攻め込まれ、信長に講和を持ち掛けるも成功せず、韮崎に新府城を築いて、豊川を窺う信長に対抗。勝頼の異母妹を妻にしていた木曽氏が信忠に通じ謀反、松尾城(現飯田市)の小笠原も離反、穴山梅雪までが寝返って伊豆、駿河が相次いで陥落、最後まで抵抗した高遠城も織田信忠自ら出向いて攻撃に参加。敗戦を覚悟した勝頼は新府城に火を放って要害の岩殿城(現大月市)に籠るが、発見されて戦死
信長は諏訪まで出向き、家康と会見、木曽氏が正式に松本平を支配。旧武田領の知行割を行い、駿河は徳川に、甲斐は河尻秀隆、上野は滝川一益、信濃は郡ごとに分割
信長はその後3月足らずで本能寺に倒れたため、甲斐・信濃は相模の北条氏と家康の、信濃は越後の上杉景勝、北条氏政、家康の草刈り場と化す ⇒ 家康が甲府に着陣し、信濃の統轄者として酒井忠次を諏訪に送り、景勝は川中島まで出兵し北信濃4郡を支配下に置くとともに筑摩郡の木曽氏の領地を奪う。氏政の子の氏直は上野で滝川を破り、小諸に進出し、諏訪氏の要請に従って信濃に手を延ばそうとする家康に対抗するために諏訪に向かう
1587年秀吉の介入で、小笠原や真田昌幸が家康と会見し漸く戦乱状態に終止符が打たれる
90年秀吉の小田原攻めで、北条氏の遺領を家康に与え、諏訪氏ら家康麾下の諸将を関東に移し、仙谷秀康、石川数正などを信濃に封じて、信濃の戦乱時代も閉幕

2.      築城の時代
佐久郡に仙谷秀康、安曇・筑摩郡に石川数正、伊那郡に羽柴(毛利)秀頼、諏訪郡に日根野高吉、木曽は秀吉の蔵入地
甲斐には秀吉の甥で養子となった羽柴秀勝が入国したが、翌年には美濃に国替えとなり、近江・佐和山城番だった秀吉麾下の加藤光泰が入り、甲府城を築城して、関東八州を与えられた家康と境を接する
光泰の後に甲斐を領したのは浅野長政・幸長(よしなが)父子で、信長の弓衆の叔父の婿養子になって家督を継ぐが、同じく養子のねね(後の北政所、高台院)が藤吉郎に嫁いだことから秀吉に最も近い姻戚となり、秀吉政権の中枢を担当した5奉行となる。関ヶ原の後は和歌山に移封
1990年甲府城の発掘調査で城内の各曲輪から織豊期に築城された城の特徴である金箔や朱を施された瓦が見つかる。鯱瓦は複数個体分発掘されたが、鰭(ひれ)や胴部で金箔が確認、目・口・耳・腹には赤々とした朱が残る。高さおよそ68㎝で櫓や門などの屋根に用いられたと推測 ⇒ 鯱瓦は上田城でも出土、金箔瓦は松本城、小諸城、沼田城などにもあり、家康を囲むような分布になっている。秀吉が信頼する配下の武将を家康の周囲に配置して城を修改築させ、自分の権力を示すために金箔瓦を使わせたことによる
関ヶ原の後甲斐を領したのは家康。その後徳川義直が封じられ、1616年には秀忠の次男忠長が入る
国宝中最古の松本城の前身深志城は、信玄の時代も、そのあとの小笠原貞慶もこの地方支配の拠点としていたが、貞慶の時代に修築と城下町の整備が行われ、名も松本城と変更
小田原落城後は石川数正の居城となり、1593年天守閣が構築
小諸城の前身は鍋蓋城で、1487年地域の豪族大井光忠が築城、1554年信玄が占拠し小諸城に改築。現在の構えは仙谷秀康が1614年までに大改修したもので、三重天守も建設
飯山城の築城時期は不明だが、謙信が信玄への対抗拠点として修築。後に景勝から勝頼に割譲され、武田氏によっても修築

3.      文禄・慶長の役と甲斐・信濃
秀吉は、日明貿易復活のため中間に位置する朝鮮を味方につけようとしたが拒絶されたため朝鮮出兵。甲斐の加藤光泰は出兵を求められなかったが自ら志願して1592年文禄の役に出陣するも挑戦で病死。代わって甲斐215千石の領主になったのが浅野長政・幸長父子で、幸長は1595年秀吉の甥の関白秀次の失脚に連座して能登へ配流されたが、前田利家や家康のとりなしもあって間もなく復帰。慶長の役では1597年朝鮮に出兵。甲斐の杣を連れて清正が縄張りをした蔚山倭城の築城に携わる。1598年秀吉の死により撤退。関が原では東軍に属し、岐阜城攻略の功により和歌山376千石に封ぜられた
文禄の役には、信濃からも上杉景勝、真田昌幸父子、石川康長(名護屋城滞陣中に病死した数正の子)、仙谷忠政なども出陣。家康配下の木曽、小笠原なども出陣したが、慶長の役には信濃衆は出陣していない

4.      徳川家康の覇権
秀吉が死に99年利家が死ぬと家康は秀頼警護の名目で大坂城に入り、大名への加増や転封を実施。1600年上洛の求めに応じなかった景勝征伐に出陣するため大坂城を出た家康の隙を突いて三成が毛利輝元を総大将に西軍を組織。信濃上田城主の真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌だけが西軍につく
関が原での東軍勝利の後真田昌幸は、嫡男信幸(後に信之)が家康に忠節を尽くしたことから赦免されて信繁とともに九度山に配流
1615年大坂夏の陣では松本城主小笠原秀政も参陣、本田忠勝の次男を救援、戦傷が元で死去するが、後に改易危機に際して「父祖の勲功」として救われる一因を成した

第4章           山国の物資の流れ
山国ゆえに自給しえない物資は運び込まねばならず、そのためには産物を持ち出して換金する必要があった
1.      物資流通
日本だけでなく世界各地から多くの物資が運び込まれていたことが出土品からも判明
157392年頃の古文書では、備前焼(岡山)と甲信ではできない蜜柑を持ってきて欲しいとの記述が見える
1606年甲州の大商人だった末木新左衛門尉は、棗や天目、中次(薄茶器の一種)1つの茶弁当に入っているとあり、天目は書きぶりからして輸入品である可能性が高い
信玄と謙信の戦っている最中、遠州から塩の輸送が途絶えた松本地方の人々に塩を送ったとの話があり、史料からは確認できないものの、必需品の塩が供給されていたことを示す
鮮魚の輸送が難しいところから、塩で処理した相物(四十物、鮮魚と干魚の中間)を送った記述もみられる

2.      市場と町
戦国時代の人々は神仏の存在を信じ、それを前提にして行動。物資を入手する場である市や町においても同様 ⇒ 宗教行為の節目となる日に市が開かれたのは、そのような発想が古くからあったから。落慶供養にも大きな市が開かれ、京都からも商人が来た
諏訪社前宮の前にも大町が出来ていたことが記録に残る
甲府で最も有名な市場は甲府の八日市場だが、各城の周りにも町ができた
戦国時代の甲斐を代表する町として、宗教都市の吉田(現富士吉田市) ⇒ 城下町
身延山久遠寺の門前町も、日蓮宗の聖地として繁栄

3.      共通する文化
甲信で最も有名な武士の館は、1940年国の史跡に指定された甲府市在の武田氏館跡(所在地の名を取って躑躅(つつじ)ヶ崎の館とも)
山梨県の中世居館跡を代表するもう1つが勝沼氏館跡 ⇒ 1973年発掘調査で確認され、国の史跡に指定。勝沼氏とは信虎の弟
長野県の戦国時代を代表する居館跡は中野市在の高梨氏館跡 ⇒ 1969年県史跡指定。86年発掘調査の結果国指定の史跡となる。信玄に追いやられて謙信の家臣として大きな地位を占め、また中野に戻る
出土品などから、京の文化が入ってきていたことがわかる ⇒ 茶の湯、能と漢詩や和歌

4.      旅人の目

第5章           信仰の山
1.      富士山と御師(おんし)
戦国時代の富士参詣 ⇒ 山岳信仰の典型。富士山を囲むように多くの浅間神社があるが、山梨県側で最も有名なものは北口本宮冨士浅間神社
信玄が富士権現を造営したのは1561

2.      諏訪社と守屋山
信濃の一之宮が諏訪大社 ⇒ 上社と下社に分かれ、別々の神を祀る。伊那市高遠町との間にある守屋山が山岳信仰の中心だが、浅間山との関係も深く、火口が八龍頭と理解され、浅間大明神と龍体である諏訪大明神の同一性を示す資料も残る

3.      転々とする善光寺
善光寺信仰の背景にも山の信仰がある ⇒ 最上部に戸隠、その前に飯縄(飯綱)、妙高は須弥山の別名であり仏教の世界観では世界の中心となる、黒姫も重要
都の人々が善光寺参りするときには、北陸道を通って越後から信濃に入る道を通る者が多かった
創立の時から御杖代(みつえしろ)として女性が仕え、善光寺大本願では尼公上人が代々善光寺如来に奉仕してきた。善光寺縁起では地獄に堕ちた皇極天皇(35代の女帝)を善光寺如来が救ったとされ、女性を救う特別な存在として知られたため多くの女性が参詣
特定の宗派の寺ではなかったので、中世の有名な教祖のほとんどが善光寺に関わり、宗派を超えて誰でも参詣できることも魅力の1
善光寺仏(阿弥陀如来像)は日本に最初にやってきた仏像だと喧伝され歴史に裏打ちされた寺としても多くの人を引き付けた
川中島の戦いで様相が一変。1552年寺が全焼
謙信の本拠地の春日山城近くの海辺は善光寺浜と呼ばれ、昔この地に善光寺があったことを物語る
謙信が善光寺から仏像を運んだことが前例になり、信玄も甲府に運び、以後本尊が各地を転々とする
謙信が善光寺如来を越後に移すと、越後に善光寺門前町ができ、景勝に従って会津へ移り、さらに米沢に転居
謙信より前、1558年に信玄が善光寺仏を甲府に移す
善光寺は三国一の霊場として全国から参拝者が訪れていたので、配下に置くことで自らの影響力を持とうとした ⇒ 善光寺は頼朝が再建し、北条氏も庇護したことから、信玄も善光寺の保護者こそ武家政権を握るべきと訴え、領国を全国に広げていく際の正統性の宣伝材料として利用したが、武田氏滅亡後も同様の信念から、善光寺の本尊が信長、その子信雄(のぶかつ)、家康、秀吉と、天下に関わった者たちの間で転々とした
1598年秀吉が善光寺の本尊を信濃に返した際は、善光寺の門前は町としての体を成していなかったが、家康が寺領を寄進したこともあって、如来帰還後13年で急速に門前町としての様相を整える

4.      小菅山元隆寺
長野県最北の市が飯山市、その東部が小菅で、2014年「小菅の文化的景観」として国の重要文化的景観に指定されたが、地域信仰の根拠地
小菅山は役行者(えんのぎょうじゃ)が草創した八所権現の霊験の地。小菅神社奥社本殿は重要文化財
信濃と越後の中間に位置する交通上の要衝として、商業活動が活発に行われた

5.      山岳信仰
金櫻(かなざくら)神社は、甲府市の北の山間部に鎮座し、金峰山を山宮とするのに対しての里宮として創建され、金峰山信仰(御岳信仰)の中心
金峰山 ⇒ 標高2595m。秩父山系の盟主。山頂の巨大な五丈岩が金櫻神社の御神体。山梨県側では「きんぷさん」、長野県側では「きんぽうさん」
山梨岡神社(現笛吹市)と御()室山、光昌寺(現南アルプス市)と遠光山、小野神社(現塩尻市)・矢彦神社(現辰野町)と霧訪山

第6章           山の民たち
甲信の地形的特質として山間部が多く、林産資源など山の産物が豊富
1.      林業と材木
戦国時代から近世初めにかけては、領主の居館や城、城下町などが各地に造られ、木材の需要が極めて大きい時代だった
林業に従事する人々の自由通行を認めた文書が残る
甲斐で最も多くの材木を生産したのは、富士川流域が作り出した河内で、駿河に供給
信濃では木曽で、その林産物は全国的に知られた ⇒ 1341年白河山(現木曽郡王滝村)が伊勢大神宮外宮造営の杣山に指定
伊那谷の現泰阜(やすおか)村一帯は南山郷では、米の代わりに材木で年貢を納め、総石高は585石。屋根板に用いるサワラが中心

2.      林産資源と木工
木工に関わる職人 ⇒ 轆轤(ろくろ:食器は木材を轆轤で回し削って作る)師、御器(ごき:食器)師、木地(きじ)師など
漆職人 ⇒ 木製品のうちでも使用頻度の高いものや高価なものは塗師(ぬし)が渋や漆を塗って加工。木曽漆器は塩尻周辺で生産され、1975年通産省から伝統的工芸品に指定
燃料や紙の素材としても利用

3.      猟師の世界
河内には犬を使って狩りをする猟師の存在が確認されている
伊那谷の猟師 ⇒ 猟師は記録を残さないので、記録は珍しいが、辰野町には文書が残る
木曽谷の猟師 ⇒ 霞網猟と鳥屋場で有名
狩猟と諏訪信仰 ⇒ 殺生は罪悪とされ狩猟迄忌まれた中世においても、諏訪社の神符を授かったものは鹿肉などを食べることを許され

4.      金を求めて
黒川金山(現甲州市)は、1997年中山金山(湯之奥金山、現身延町)と共に「甲斐金山遺跡」として国の史跡に指定
金山衆は戦にも駆り出され、城攻めの際の水の手を切ったり櫓などの建物を崩したりするに際し重要な役割を担う
信濃では、信玄が開発した金鶏金山(現茅野市)、長尾金山(川上村) ⇒ 豊臣政権時代全国21金山があり、運上金2397(1枚が10)と記載され、信濃の金山は11

5.      大鋸と番匠
大鋸と杣は同じ職種で、杣は斧を用いて粗い角材に仕上げる職人、大鋸は当時貴重だった製材用の縦挽鋸(大鋸)を使用して製材する者の呼称
番匠とは大工のことで、職人の一番上位に属し、城や家の建築には必須。後に棟梁とも

6.      山城と山小屋
中世の城は山城が多く、一度築かれるとそこに次々に手が加えられ、古い段階の山城が現存する例はほとんどない
人為的に大地を削って平らにした場所を郭(くるわ)と称し、山城には郭がいくつも設けられるのが一般的。最後の砦が主郭といい周囲を土塁で囲む
一般人が戦乱を避けるために山籠もりした際に利用したのが山小屋

第7章           食糧を求めて
戦国動乱の大きな要因が気候異常による食糧難
1.      戦国時代の食事
庶民の食糧とされた蕎麦は本山宿(現塩尻市)の蕎麦切りが最初、甲斐の天目山(現甲州市)も同様
飢饉に際して人々は蕨の根から澱粉を取って命を繋ぐ。澱粉はカタクリやクズからも採れ、山中ではドングリやトチの実、ブナの実なども食べた
信州は昆虫食が有名
諏訪湖の漁業も盛ん

2.      農業
日本農業の中心は水稲耕作で甲信地域でも同様だがだが、富士山北麓の野菜造りが盛んで、芋・菜・鶯菜・夕顔・茄子など

第8章           食糧増産と転回する生産
食糧増産のための新田開発と、国産木綿による衣類革命に注目
1.       治水と新田開発
信玄の施策で最も有名なのが釜無川沿岸(現甲斐市)の信玄堤の築堤 ⇒ 1542年急流だった御勅使(みだい)川との合流で大雨のたびに甲府盆地西部に水害をもたらした釜無川の治水工事に着手。石積出(いしつみだし)という石堤を築いて御勅使川を二分して水流を減殺
信玄堤よりも以前から治水工事は施されており、不連続の堤防を作って、一旦溢れた水が出水が治まると再び水が川に戻るように設計されているのは、洪水の水は早く引くが、特に甲府盆地は南部で低くなって、川の流れが最終的に富士川に流れ込む地形のため流出した水が本流に還るという自然条件を治水施工者が熟知していた
甲斐以外でも信玄の治水を伝える史料が残存する ⇒ 下伊那郡など信玄領以外でも治水工事が広く行われた
荒野を開発した場合にはその地を与えるという指令が出たこともある
1610年八ヶ岳山麓の中新田(現諏訪郡原村)が青柳金山廃坑後に坑夫が移って開発したとされる
甲信地域で新田開発が盛んだったのは、気候異常による食糧難に対応するための手段

2.       木綿の生産
戦国時代まで最も一般的な布は麻 ⇒ 信濃の名産として白苧(しろそ)と木曽の麻衣があるが、木曽は昔から麻衣織が盛んで、特に開田村は大雪の上に晒して凍らせることにより白さが一層増し良い麻になった
甲斐の名産とされる柳下(やなぎした)木綿の起源は戦国時代 ⇒ それまで朝鮮からの輸入で高価なものだった木綿の国産化が始まる
特に気候の寒かったこの時代、麻より遥かに保温性の高い木綿が多くの人々の身体を温めたことだろう







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