すごい言い訳!  中川越  2019.9.5.


2019.9.5.  すごい言い訳! 二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石

著者 中川越 1954年東京都生まれ。中央大文卒。雑誌・書籍編集者を経て執筆活動に入る。手紙に関する著作が多く、古今東西、有名無名を問わず、様々な人物のものを広く閲覧し、そのあり方を探求し続けている。著書に『文豪たちの手紙の奥義 ラブレターから借金依頼まで』『夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫』『文豪に学ぶ手紙の言葉の選び方』『漱石からの手紙 人生に折り合いをつけるには』

発行日                2019.3.15.  
発行所                新潮社

いいわけ(言い訳) 
   物事を筋道立てて説明すること
   自分の過失や失敗について、そうせざるをえなかった理由や事情を説明して、本当は悪くないと思わせること
   言葉の使い分け

はじめに
そもそも言い訳とは、言い逃れであり、釈明です。よろしくない事態や非難さるべき原因を作った張本人の立場から逃れるための説明が言い訳です。自分をよく見せようとする本能を起点にしているので、いじましい行為と思われ、大方軽蔑の対象になる
しかし、言い訳は言い方次第で、味わい深いものに変化するのも事実で、その実例を文豪たちに求める
夏目漱石は、37歳の頃、しきりに葉書に絵を描いて友人に出しまくっていた頃のこと、以下のような葉書を友人に送る
「昨日君のところへ絵葉書を出した処 小童誤って切手を貼せず 定めし御迷惑の事と存候 然し御覧の通りの名画故切手位の事は御勘弁ありたし 十銭で名画を得たり時鳥」
子供のせいにしたのは平凡だが、感謝を強要する言い方は斬新で、相手は意表を突かれ苦笑したに違いなく、しかも漱石の絵は質朴で、画才を衒う名画には程遠かったので、友人の苦笑はすぐに破顔大笑に変わったはず
ちょっと恐縮して相手を油断させておいてから、急に襲い掛かるように恩を着せ、ユーモア―のプレゼントで免罪を獲得する、漱石ならではの珠玉の言い訳
言い訳は、苦境で発する言葉。切羽詰まると人は、思わず素の姿を現す。裸の文豪が、言い訳の中には潜んでいる

第1章        男と女の恋の言い訳
Ø  フィアンセに二股をかけられ命がけで否定した芥川龍之介
「夏目さんの方は向うでこっちを何とも思っていない如く こちらも向うを何とも思っていません」
1916年漱石が亡くなり、その翌年頃から長女筆子18歳の縁談が噂されるようになり、門下生の中で花婿No.1と目された龍之介だったが、既に親友山本喜誉司の姪塚本文というフィアンセがいた。文は龍之介と筆子の噂を聞きつけ不安になって龍之介に手紙を書いたが、その時の龍之介の言い訳
上記に加えて、さらに神に誓って文を愛していると宣言

Ø  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋
「ゆめの中のその人の事をその人に大切になさいというだけのほんのゆめのようなゆめの一言であるから」
順風漫歩に創作活動を続けた白秋が191227歳の時大きな挫折 ⇒ 隣家の有夫の女性と恋仲になり、姦通罪で訴えられ未決囚として収監。2週間後示談金の支払いなどにより無罪放免となるが、白秋の恋情は鎮火しないどころか一層燃え盛り、南低吉などの偽名で未練たっぷりの手紙を女性に送り続ける。一計を案じて思いついた奇想天外な言い訳が、ただ美しい夢の中の話と断り自らの未練を込めた詩集『桐の花』を添えて言ったのが上記の言葉

Ø  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠樋口一葉
「貧者余裕なくして閑雅の天地に自然の趣をさぐるによしなく」
一葉は、清楚で純真無垢なイメージとは異なり、名うての詐欺師も舌を巻くほどの、非常にしたたかな一面も持ち合わせていた。189422歳の時詐欺師の久佐賀義孝に目を付け、自らの家族の苦境を訴え、自らの身を生贄にして相場をすべく始めるための金を無心したところ、さっそくデートの誘いが来た時の一葉の返事が上記で始まる婉曲な断りの内容
その後、今の貨幣価値で数千万円を求めたことがあったようだが、その金を手にした記録はないものの、生活費程度の額が何回か渡された形跡は残る
言い訳を趣深く伝えると、大きな説得力が生まれるということだけは確か

Ø  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な小林多喜二
闇があるから光がある そして闇から出てきた人こそ一番ほんとうに光の有難さが分かるんだ」
人は対立する概念や感覚を体験することで、初めて一方の価値や程度を理解したり実感できたりするという指摘は正鵠を射ているし、現実的なアドバイス
北拓銀行小樽支店の為替係として安定した生活を送っていた21歳の多喜二が美人の呼び声高い女給のいるそば屋(銘酒屋)で、16歳の身売りされた女給タキこと田口瀧子と出会い、その身の上に同情して書いた手紙の冒頭
恋人トキを理不尽な状況から救い出す実効性は全くなく、気休めの一種で、どちらかといえば無力な多喜二が自分に向けた言い訳に過ぎず、諦めるしかなかった
多喜二はそもそも、闇の中にいる人に我慢を求めるタイプではなく、世の中の闇を一掃して、虐げられた人々を明るみに呼び戻すことを強く願っていた

Ø  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った織田作之助
「失恋以来、もはや破れかぶれ、遂に大デブと結婚というはしたなきことになりました」
32歳の時、自らの結婚を親友に通知した際の言い訳。有名な映画女優文谷千代子に失恋の後、戦中戦後の日本を代表するプリマドンナのソプラノ歌手笹田和子と結婚
念入りに、迂闊、不幸、悲惨を際立たせ、有頂天になっていない自分を証明、好感度抜群、自らの『夫婦善哉」の文体に似て、軽快なスピード感と清潔なユーモアを備えている文壇史上随一と思われる魅力的な結婚通知

Ø  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり直木三十五
「おりえとハ別れる手紙を出しておいた。映画の仕事も一切手を断った。・・・・・十幾年貧乏と奮闘してくると相当疲れる」
豪胆にして滑稽味のある痛快無比な女好きで、192231歳で出会ったいい女の1人が芸妓香西織恵で、妻子がありながら終生二重生活が続く
その後連合映画芸術協会を設立、横光利一のデビュー作『日輪』を映画化するなど活躍したが失敗、本妻寿満への送金の困難を知らせたのが上記
身勝手な自己弁護も堂々と交えながら、本妻の抱く不安材料を取り除く決意を伝える
1960年、彼の没後、「芸術は短く、貧乏は長し」との直木の言葉を刻んだ記念碑の建碑式で本妻と織恵が仲良く並んで微笑む写真が残されているのは、直木が2人の胸中の片隅で、二心を詰られながらも、常に許されて在り続けたように思える

Ø  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した寺山修司
「僕はタッソオのように「恋に用いられぬ時間こそ徒らに費やされる時間なり」などとは思わないし、そんな余裕はない」
テレビドラマの脚本家山田太一と友達で、早大在学中に出会い、終生親交が続く
大学時代同じ女性を好きになり、まず寺山が好きになりフラれ、女性が山田を好きになり、山田も愛したが、そのとき山田が寺山に許しを得ようとした際寺山が出した返事で、強がっていることをアピールするための言い訳

Ø  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った萩原朔太郎
「この頃、歌は作って居られますか。いろいろ御話したく思いますので」
1935年森の来訪を受けたが不在で会えなかった48歳の朔太郎から24歳年下の歌人森房子宛に書かれたもの。不在の詫び状の後に本音が出て、逢瀬を願う手紙に変わる

Ø  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア谷崎潤一郎
「東京者はああいうところが剛情でいけない・・・・ 今度からは泣けと仰っいましたら泣きます」
有夫の女性根津松子と恋をして、ゲームのような痴話喧嘩を繰り返す中で出した詫び状
松子の絶対的優位を認め気持ちを宥め、その上で、言い訳がましく詫びている
実際は谷崎が松子を怒らせ叱られることを愉しんでいたことを考えると、敢えて見え透いた言い訳をまぶし、誤魔化しがばれることによりさらに相手の怒りの再生産を試みたと見る方が妥当

Ø  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった八木重吉
「ね、早く写真をうつして送っておくれ、今のは姉様のもついておるので」
「こころよ では いっておいで」のように、自らの心に命じ、躊躇いなく自身を解き放った23歳の重吉は、1921年家庭教師をしていた16歳の教え子島田とみへと向かい翌年結婚。その間毎日熱い手紙を書く

Ø  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子
「帰ったら、どのようにしてりょくを愛撫してやろうかと空想している」
パリで恋人にフラれながらも落胆の気配なく、あっけらかんと夫の手塚緑敏(まさはる:愛称がりょく)に送った手紙。表向きとは裏腹に、自らの後ろめたさを隠すための言い訳
私生児として生まれ、尾道の高女卒後恋人を追って上京するも婚約を破棄され、傷心を癒やすべく日記をつけたのが後の『放浪記』の原形。その後職業を転々としながら詩人との同棲を経て温順な画学生手塚と22歳で結婚、24歳で『放浪記』がベストセラーに。27歳で創作意欲の刺激を求めるという理由で単身パリに旅立つ。恋人の画家外山五郎の後を追ったという説が有力だがフラれる。潔白を証明するための言い訳が空しく徒労に帰するとしても、言い訳する努力を惜しまないことが重要なメッセージとなる

第2章        お金にまつわる苦しい言い訳
Ø  借金を申し込むときもわがままだった武者小路実篤
「実は相変らず貧乏神がとついているので僕が大事にしていたロダンのスフィンクスを手ばなそうと思うのだが」
武者小路こそは、プラス思考の先頭に立つ1人。実篤ぐらい能天気なプラス思考に徹することは、一貫した哲学のない中途半端な人間には真似できない。『私はのんきに』の詩が能天気の代表作。こんな人が借金という苦境に立たされた193145歳の時の言い訳で、7,800円で売りたいところ、前の借金を差し引いて500円で買ってくれないかという申し出であり、これほど厚かましい借金の依頼状はない
《小さなスフィンクス》は現在東京都現代美術館の旧実篤コレクションに収蔵されているところから、人手に渡らないですんだ模様だが、それでも「私の愛する者たちより」ちゃっかり200円の送金を受けていた

Ø  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な佐藤春夫
「その作家は第二流の人であり、3年も前と今日とでは稿料は――特に新聞紙の稿料は約5割も上がっています」
太宰治に師と仰がれた詩人・小説家の佐藤春夫もギャラで苦労。192937歳の時福岡日日新聞での小説の連載の仕事が舞い込んだ際、低いギャラの提示に不満で倍増を要求したが、その時の根拠として持ち出した言い訳だが、自身の一流の看板を汚されたことへの憤りが露になる結果となった
連載は『更生記』のタイトルで開始されたが、ギャラが幾らになったかは不明

Ø  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな若山牧水
「小生只今このままにて学業を止めてしまえば、今までの勉強が何の益にも立たず」
190318歳の時詩才を中学の英語の先生に認められ早大英文科への入学を目指し、義兄に学費の援助を求めるための依頼状だが、一家の命運をすっかり義兄に預けた相手の良心に対する明らかな脅し

Ø  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な菊池寛
「洋行したら、・・・・思想家としても偉くなって来たいと思うのです。その上で社へ恩返しをすることも出来ると思います」
小さな嘘よりも大ウソの方がばれにくいのは、人は信じることより呆れることの方が好きだから。その心理をうまく利用したのが菊池寛。文藝春秋創業の2年前の192132歳で流行作家としての地位を確かなものとし、大阪毎日新聞の客員として厚遇を受けていながら、さらにムシのいい提案をする
菊池は『宣伝』と題する小文の中で、「いつでもできるだけ背伸びをして大声に自分を主張することが大切」といっていたが、残念ながらこの時の洋行は果たされなかった

Ø  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき石川啄木
「かくの如くして違算又違算、・・・・・完たく絶体絶命の場合と相成り申候」
困ると人は嘘をつくので、借金の言い訳は嘘ばかりで、困窮の理由も返済の見込みもほぼ嘘とみて間違いない
190418歳の啄木が4歳上の親友金田一京助に無心している
「啄木くらい嘘をつく人もなかった」と言ったのは白秋だが、どこか憎めない、なんとはない明るさ、吞気、滑稽が滲む手紙
啄木を心底敬愛し、裕福な自分を卑下していた金田一は、啄木の求めに容易く応じる
借金をしてまで遊興を重ねたくせに、「はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る」と清貧と社会矛盾を謳い、またある時は「何となく、自分を嘘のかたまりの如く思ひて、目をばつぶれる」と懺悔した啄木の虚実の振れ幅は呆れるほど大きく、金田一を驚かせただけでなく、後世まで翻弄し魅了し続ける
金田一も拠り所としていた性善説を巧みに利用

Ø  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ太宰治
「これ1回だけのお願いで、・・・・絶対にこんな厚かましいことは御願い致しませぬゆえ」
1946年末疎開先の青森から三鷹に戻った太宰が前田出版に送った印税の前払いを頼んだ恥をしのぐ勇気を出して書いた依頼状
ゼロ戦のエンジンを作っていた中島飛行機の工場爆撃の余波で被害を受けた三鷹の家の手入れも含め、越年資金を無心。「これ1回だけ」と、相手の不安を見越した一言を付け加えて厚かましさを帳消しにしている
この手紙を送った同時期の作『たづねびと』は、戦時中の苦難の最中にあって人に施しを受けることの喜びと屈辱と憎しみが、上品にそして恐ろしく描かれる。困り果てた人がお金のことで言い訳するときの心中は、想像以上に複雑に痛んでいる。恐縮とともに憎悪が含まれるという重要な知見を作品から得ることができる

Ø  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊宮沢賢治
「授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に1人で習うので決して廉くはありませんでしたし」
192630歳セロ、タイプ、オルガン、エスペラント語のレッスンのために東京にいた賢治が、岩手花巻で大成功を収めた商家の実家に学費の支援を頼む。したい放題買いたい放題の生活をぬけぬけと口実にして満額支援を得ようとする姿のどこに「雨ニモマケズ」の賢治がいるのか疑問

第3章        手紙の無作法を詫びる言い訳
Ø  それほど失礼ではない手紙を丁寧に詫びた律儀な吉川英治
「自分事を先へ申すようですが」
吉川英治は大の競馬好きで、優駿エンメイのオーナーだったが、1956年の日本ダービーで転倒し骨折、殺処分となったのを気遣った友人からの手紙に対する返事の冒頭で、「冠省」の次に上記が来るが、いずれも一種の釈明であり、二重の言い訳になっているばかりか、最後には「つまらないことを書きましたが、どうか御放念の上、新緑の健康な土の香に、都塵をお忘れくださるように」と締めくくりまで詫び続けている
吉川の謙虚な釈明は、この手紙に限らず各所で散見

Ø  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした中原中也
「僕には君の今の気持ちに手紙で返事したくなかったのです」
昼夜の数少ない親友で夭折した詩人安原善弘に宛てた手紙で、すぐに会って話がしたいと続く

Ø  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した太宰治
「これで失礼申し上げます。コンヂションがわるくて、幾十度でも、おわび申し上げます」
三鷹の玉川女水で女性と入水情死した太宰は、女性の求めるまま情に流され一命を落としたという説があるが、図抜けた懐疑主義者でニヒリスト、冷静なリアリストでエゴイストということを勘案すると、同説には納得しがたい
言い訳の英訳excusecuseには罪、exには免れる、という意味がある。自分のために自分を可愛がり、自分に罪はないと正当化するための感情を表す語や美徳を表す語は、どうやら言い訳の仲間と言えるし、太宰自身も『もの思ふ葦』に「自らの欲念をカムフラージュするための言葉だ」と言っている
27歳の時先輩作家宛に手紙を書き、寡作を嘆き、自惚れを反省し、通俗小説を批判し、人気作家丹羽文雄を軽蔑しながら羨み、相手の先輩作家の文章を読んでいると伝え、最近の自作『もの思ふ葦』を卑下しているが、何を伝えたかったのか支離滅裂、意味不明で、最後に上記の言い訳で締め括る。謝罪理由も投げやり。太宰の「コンヂションがわるくて」は、誠実な様子を示しながらも、どことなく人を小馬鹿にした印象が否めず、人を食った太宰の文学に一脈通じるものを感じる

Ø  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた室生犀星
「大変中学生めいた手紙を書きました」
先輩作家志賀直哉から著書『邦子』を送られた礼状の末尾に書いた言い訳
自殺した妻の夫が懺悔に始まって罪の呵責と自己弁護との間で苦悶する内容に対し、軽く受け止めた犀星は、敢えていつも通りに自分らしい自然体の文章を書いて、誤解があるといけないので釈明を付け加えたもの
『我が愛する詩人の伝記』でも、高度に小難しく書くと説得力が増すと思うのは大きな間違いだという戒めを、遠慮深く上品に説き、「がらでもない」と謙遜

Ø  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した横光利一
「昔から私は自分より年の多い人を尊敬する癖がついているのです。「年齢」ということにはかなり神秘な感じがあります」
25歳の時、卑弥呼を巡る愛憎劇『日輪』で文壇にデビューしたが、先輩作家から『日輪』を読みたいとの葉書をもらい、封書で感謝を伝えたところ、後日先輩作家に会ったとき葉書対封書のアンバランスを指摘されたので、大仰な封書が先輩への好批評の請求と誤解されたのではと心配になり、改めて封書にした言い訳を書いたのが上記
更にそのあと「あまりこだわり過ぎて不愉快ですが」と、相手と自分の内心をまさぐるような推測を伝えたが、これもまた一種の言い訳で、この執拗な様子は、横光の『機械』の精密な心理劇を彷彿とさせる ⇒ 言い訳を言った途端にその言い訳が誤解されないような言い訳を言いたくなり、言い訳が限りなく増殖していく勢いを止められなくなる

Ø  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた福沢諭吉
「面白くも何とも有之間敷候得共(これあるまじくそうらえども)
福沢は実直な愛妻家で、45女をもうけ溺愛する典型的な親バカで、自覚していたために親バカを実践する際は、周囲に対して十分注意を払い、非難を避ける努力に余念がなかった
1882年以降、47歳を超える時期に、自らが創刊した『時事新報』の編集部員に出した娘のホームコンサートへの招待状

Ø  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い芥川龍之介
「原稿用紙にて失礼いたし候」
作家はしばしば手元にある原稿用紙を便せん代わりにしたが、龍之介は都度言い訳を書く
「乱筆」、「乱筆不尽(=草々)」、「妄言多罪」などを多用
『侏儒の言葉』で、「人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ。あらゆる瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならない」と言っている

第4章        依頼を断るときの上手い言い訳
Ø  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派坂口安吾
「私は法律の制裁よりも市井の徳義を選びそれに従うことに致します。右、当日欠席の御返事まで」
1950年伊藤整のチャタレイ裁判では、坂口も含め多くの作家や評論家が伊藤と小山書店を支援したが、東京地裁から証人召喚状を受けた安吾は、急迫する原稿の〆切を盾に拒絶
公権力を笠に着て脅迫する裁判所に対し、思い切り不快感を表現、傲慢な公権力を愚弄しようとした
随筆『風と光と20の私と』で、「私は生来放縦で、人の命令に服すということが性格的にできない」と書いているが、幼児の頃からサボり魔だった

Ø  序文を頼まれその必要性を否定した高村光太郎
「一体序文などいるでしょうか。なんだか蛇足のように思えます」
せっかくの作品がタイトルによって台無しになるくらいならタイトルなどない方がいい
そんな考えを言い訳として利用したのが光太郎で、1947年詩人菊池正から詩集の序を頼まれた時の言い訳
本は本編に語らせればよいという立場で、自身も『道程』を始め序をつけず、人からももらっていない
ただし、1944年に「菊池正詩集『北方詩集』序」を書き、「同君たる道に徹して、行きて窮まるところなきことを切に希う」と締め括り、『道程』の冒頭の「僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる」を彷彿とさせる。その他にもいくつも序を書いているので、それほど序に拒絶反応を持っていたわけではないようだ

Ø  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄谷崎潤一郎
「目下の私は何らの意見をも吐く資格がない。私は自分自身の結婚についてすら、目下後悔しているのだから」
1916年文学を志した弟精二からの相談に対し、前年石川千代子と結婚しながらその妹との関係を深めていた兄潤一郎が返信遅延の言い訳としたのが上記
兄らしい苦言も付け加え、「無意義な放蕩を慎むべし。あんなものは芸術のために三文の利益をも与えはしない。つくづく自分を後悔している」と懺悔している

Ø  もてはやされることを遠慮した慎重居士藤沢周平
「私自身作家面するつもりは毛頭ありません。本業のほかに、多少文学に関わりを持ったということに過ぎないのです」
談話を雑誌社がまとめる形の企画に対し、高名な女性作家曰く、「談話をまとめていただくのは遠慮する。作家の端くれである以上、伝えることがあれば自分で書かせてもらう」
藤沢が山形師範の同窓で、在学当時同人誌『砕氷船』の仲間だった松坂俊夫からきた、山形新聞の連載コラム『やまがた文学への招待』に藤沢を紹介するための許可願いに対し、1971年当時『溟(くら)い海』で『オール讀物』新人賞を受賞したばかりの周平が「時期尚早」を理由に固辞する返事で、本業の『日本加工食品新聞』を辞して作家専業となったのはこの手紙の3年後
43歳という年齢ゆえの分別のなせる業でもあったが、そもそも藤沢は冷静、恬淡を好み、興奮、熱狂を忌避する性質の持ち主で、自らも公言している

Ø  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った島崎藤村
「小生は黙していたいのです。その沈黙を、故人を忍ぶ心にかえたいのです」
1928年徳富蘆花を偲んで『蘆花全集』を出す際、寄稿を断った藤村の言い訳
『藤村全集』にあるこの手紙の注には、「全集発刊に際し行き違いがあったもの」とあり、あと付けで言い訳を拵えたようだが、「今の世はあまりに言葉が多過ぎるとは思いませんか」と言い訳を補強しているのは、正論ではあるが、全集の企画自体の否定に繋がり兼ねず、やりすぎの感が否めない

Ø  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物森鷗外
「小生大の悪筆にてかようのものに一字たりとも筆を染めしことなく」
189129歳で鷗外の名声と人気にあやかろうと詩集『片われ月』を送って漢詩の揮毫を求めた新進の歌人金子薫園に対し断りの言い訳
書は鷗外の弱点だったが、他人に対しては悪筆を言い訳にすることを許さなかった

第5章        やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
Ø  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者山田風太郎
「不遜よ。すまなかった。風太郎一言もない。一番落ち着いていた筈なんだが、やっぱり泡をくっていた」
歴史学者奈良本辰也が1930年代旧制中学で山田を教え、同僚教師に山田のことを「頭はいいが職員室では最も評判が悪いので、注意した方がいい」と警告
1940年中学卒業間際に悪童の1人が本の窃盗で警察に呼ばれ白状、山田も共犯として尋問。窃盗は328冊に及ぶ。既に海兵に入隊していた友達を庇ったのはいいが、注意喚起の手紙を出したために海兵で不審がられた友人(綽名が「不遜」)に山田が書いた詫び状が上記
普段は肝のすわっている風太郎の狼狽ぶりが目に浮かび、率直で嘘がない爽快で温か、滑稽味さえある言い訳にほおが緩む

Ø  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ阿川弘之
「さぞかし御不快であったことと存じます・・・・・此の頃何でも「チェッ」というよくない癖が出来て困っております」
師と仰ぐ志賀直哉の家に阿川の妻が210か月の長男尚之を連れて挨拶に出かけた際、尚之が志賀夫人に粗相をしたことの謝罪の手紙
自らも被害者であるように言うのは、両者の信頼関係を前提にすれば納得できる

Ø  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた新見南吉
「僕らは悪い時代に育ちました。・・・・宇野(浩二)や井伏や牧野(信一)にひかれたのは僕らの中に芽生えた虚無的なもので、彼らにおける、最もつまらないもの(あなたのお考えでは)をまねするようになってしまったのです」
193118歳の時、《たき火》の作詞者で8歳年長の巽聖歌の知遇を得て、児童雑誌『赤い鳥』に『ごんぎつね』を発表。両者の親交は南吉が結核で29歳で夭折するまで続く
1942年初の童話集『おじいさんのランプ』のあとがきの感想を聖歌に聞くが、反応は最悪で、新人としての第一声が諧謔過ぎて人を小馬鹿にしていると苦言を呈せられ、慌てて謝罪したが、時代のせいだと言い訳したうえ、( )内に余計なことを付け加え、自分はそうは思わないともとれる

Ø  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した北原白秋
「実は貴兄との間にどういうことがあったか、全く覚えていないのです」
白秋は、友達に失礼なことを言ってしまったとき、この「記憶にない」を利用
元々は道徳的で潔癖だったが、23,4の頃友人(啄木らしい)に連れられて吉原に行って以来すっかり道楽者になって、前後不覚になるまで泥酔したり、電車の線路に寝転ぶといった蛮行を演じたりするようになった
191126歳で出した詩集『思ひ出』では、「酒倉に入るなかれ。恐ろしき酒の精のひそめば」と歌うが、自らへの警告だったのか。その警告も空しく、友人服部嘉香に書いた詫び状が上記

Ø  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた有島武郎
「然しそれがいい意志から出たことであるのを思って我慢して下さい」
『生まれ出づる悩み』のモデルの若い画家木田金次郎の絵を、本人に無断で二科会に応募して落選したために、無断応募の許しを請う手紙
有島は一時札幌の東北帝大農科大学(現北大)の教職にあり、美術サークル「黒百合会」を作って印象派風の油彩画を発表していたが、東京の中学に通っていた木田が北海道岩内の実家の傾きかけたニシン漁を手伝うため故郷に帰る途中「黒百合展」に立ち寄って有島の絵を見て感銘を受け、自らの絵を持って有島の家を訪ねる。生活と芸術の間で悩む木田に対し、有島は、どちらを選択するかを木田に委ねた形になっているが、有島の思惑は明らか
恩着せがましい自己弁護だが、「いい意志から出たことであるのを思って」として強要を避けているし、「許して」ではなく「我慢して」という表現も微妙に与える印象を和らげている
木田は有島に励まされ、その後北海道を代表する画家の1人になった

Ø  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた中原中也
1人でカーニバルをやってた男」
中原は酒を飲んで暴れたため、酔余の狼藉の果てに周囲に詫びる機会が多々訪れた
193124歳の時、親友安原喜弘に書いた詫び状。署名代わりに上記の修飾語を用いたのは秀逸で、カーニバルの中にいる人は無礼講に決まっていて、その人にとやかく言うのは無粋だとするトリックで書かれては許すしかない

Ø  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者若山牧水
「何も書きたくも無い・・・・そんな時に強いて書いた手紙などは到底ろくな手紙じゃあるまいよ」
詩人とは、言葉のアルケミスト(錬金術師)? いえ、怠け者
そんな怠け者の1人牧水は、小文『なまけ者と雨』で、何もしないでぶらぶらしていることへの憧れを綴る

Ø  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた石川啄木
「何も書かずにいて君へ手紙かくのは苦痛だよ」
妻節子の妹の夫で歌人の宮崎郁雨には物心両面で支援を受けながら、意味不明に堂々としていて、無沙汰の言い訳さえも、全く卑屈にならずにふてぶてしく言いのけた
啄木の手紙は10代の頃からのものが残されているが、それを見るだけでも天才であることがすぐにわかる。語彙といい表現といい、圧倒的で、啄木にとっての問題は筆を執るタイミングだけ
上記の言い訳に加えて文末では、「これまで手紙を書くのが苦痛だったが、苦痛が軽くなって今書いているのだから心配には及ばない」と、自分本位の勝手な理屈が続く
啄木の近くにいてその抜群な才気を強く感じていた郁雨は、啄木が創作できない苦痛を誰よりも正しく想像できたに違いない

Ø  礼状が催促のサインと思われないか心配した尾崎紅葉
「これは決してあとのねだりの寓意あるにあらず」
知人から朝鮮飴を贈られた礼状に、礼意と同時に、催促の意味ではないことを伝えた

Ø  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な太宰治
「私も、思いちがいしていたところあったように思われます」
25歳の時同人誌で知り合った山岸外史と、しばしば喧嘩をして、仲直りのための手紙を書いた
「思いちがい」には、「誰にでもよくある事故の一種」というある種の不可抗力によって起きた偶然の事故で、自分に犯意や悪意があったわけではないことを、それとはなしに印象付ける言葉で、太宰の苦心の言葉使いが功を奏したのか、両者は終生親密な関係を保つ

Ø  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した寺田寅彦
「とんだ不平を聞かせてすみません。此れも矢張自分勝手な手紙だが返事を要求せぬだけがいくらか恕すべきものかと思います」
「天災は忘れた頃に来る」と言った物理学者で随筆家の寺田は、敬愛してやまない恩師漱石から、ゆったりとした余裕ある姿勢と暮らしの大切さを教えられ、その精神を正しく受け継いだ1人だが、193455歳の時、東京帝大理科大学教授、理化学研究所研究員、東京帝大地震研究所所員などを兼務し、日常は慌ただしさを増すばかりで、知人に手紙でこぼしたが、自らの論理矛盾に気付いて最後に付け加えた言い訳が上記
この手紙によって、「不平・批判はブーメラン。言い訳の備えあれば憂い少なし」との教訓を残す

第6章        「文豪あるある」の言い訳
Ø  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた川端康成
「始終心には致して居りながら、怠け癖の上に目前の金に追われて」
親交のあった中央公論社の編集者から催促の手紙をもらった時の言い訳
「頬に風があたったような気持がした」とふいに冷気に襲われたように冷りとしたと恐縮の様子を物語り、仕事の機会を与えてくれた「御好意」を無にしたことを詫びてから、最後に付け加えたのが上記
勤勉と清廉を旨とした実りある仕事を続けてきたという自負があったが、自らを殊更貶めることにより相手の不満を少しでも和らげ併せて自らの大罪を小さな罪にすり替えようとしたのだろう

Ø  原稿を催促され美文で説き伏せた泉鏡花
「涼風たたば14,5回もさきを進めて其のうちに1日も早く御おおせのをと存じ いろいろ都合あい試み候えども・・・・」
原稿を催促してきた編集者に宛てた美しい情調が感じられ、心安らぐ言い訳の手紙
単に暑くて仕事が捗らないでは無粋極まりない

Ø  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所志賀直哉
「どうしてもペンを握る気分にならず」
196481歳で岡倉天心について書けという原稿依頼を断る直哉の名文で、「どうしても」には「絶対に」の他に、「君のために最大限努力したけど絶対ダメ」という意味がある
191431歳の時、漱石から朝日への連載小説を一旦引き受けておきながら間際に断った時にも「どうしても」という言葉を言い訳にしており、漱石も道徳上は不都合だが芸術上からは至極尤もと同情的

Ø  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した三島由紀夫
「あまり過分な序文をいただいて妙なことながら、直接御礼申上げるのも面映ゆく・・・・」
194823歳の三島が入省したての大蔵省を辞め『盗賊』を仕上げ、序文を川端に依頼。川端も、素晴らしい才能の輝きを絶賛するとともに、危うい苦悩を抱える三島が自らの作品によって救われ、人生を安定感のある確かなものにすることを願う、とても温かなエールを贈る。三島はお礼に川端邸に出向いたようだが、会わずに帰ってしまい失礼しましたと詫びる言い訳が上記
「面映ゆく」という表現が、ピュア―で無邪気、親愛のこもった印象を与えて微笑ましい

Ø  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生江戸川乱歩
「貴兄は探小論好きにてお暇さえあれば、あながち迷惑のみでもないと考え、余計ふきかける訳ですが」
戦前「非常識なほど長い手紙」で探偵小説本質論などをやり取りしていた井上良夫の霊前に自著の評論集『幻影城』を捧げているが、井上との論争を挑んだ際の乱歩の挑発が上記
最低限の礼節は保ちながら、相手のモチベーションを高めるための工夫をしている
「探小論」とは探偵小説論議

Ø  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した正岡子規
「小生が心中は狂乱せり筆頭は混雑せり貴兄は気を落ちつけて読んでくれたまえ」
188922歳で血を吐き、以来自らを口の中が赤いホトトギスの別名である子規と号し、不治の病に立ち向かうが、病は容赦なく勢いを増し脊椎カリエスを併発するなどして悪化
余命を悟った子規は1895年後継者選びを急ぎ、河東碧梧桐か高浜虚子か迷う。子規は別の門下生への手紙で、「碧梧の力量に物足りなさを感じ以前から捨てたと言いながら、虚子も後継を喜んで引き受けたがその後進歩が見えず」と2人への深い愛と失望を含んで心が千々に乱れる様子を吐露、その言い訳として加えたのが上記
重大な後継者問題に軽みを与え、読み手の心に過度な負担をかけまいとした心憎い配慮と見ることができるのみならず、「心落ち着ける」べきは子規本人であることが自明で、子規の困惑への同情心すら湧き上がる

Ø  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった太宰治
「あなたと私の心の交流があんまり優しく感傷的でさえある結果と思って下さい」
極端に人を信じる力と極端に人を疑う力の両方を兼ね備えて苦しんだ太宰は、1946年執筆活動を再開、中央公論から依頼されていた原稿『冬の花火』を仕上げ懇意の担当編集者梅田晴夫に送ろうとしたが、病気と知ってお見舞いとともに送付を躊躇う気持ちを表したのが上記
原稿を送って梅田に無理をさせてもいけないし、だからといって代理編集者は心許ないし、他社に出すのも躊躇われるという心中を伝え梅田を心配させる迷惑を詫びている
言い訳という自己弁護の中に、2人の過去、現在、未来の友情の確認を畳み込み説得力を高めた手際は鮮やか

Ø  不十分な原稿と認めながらも1ミリも悪びれない徳富蘆花
「実は小説をと存候得共 如何程しぼりても空肚は矢張空肚にて致方御さなく 御酌量奉願候」
恐縮する気配もなく堂々としているせいで余り言い訳がましく感じられなず、何か大きな圧力で押してくる感じのする文章。その印象は『不如帰』の自叙にも現れている
第百版の記念出版に際し、「自分の不才」「自分は電話の線に過ぎない」と謙遜の限りを尽くした叙を加えた。空前の大ヒットは絶後の不評の攻撃も受けており、それを踏まえた内容
謙虚というのはある時、傲慢の異称かもしれない。傲慢はしばしば謙虚を隠れ蓑にして人の心に忍び込む

Ø  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた北杜夫
「半年くらいあずけ放しにしていいですか。編集者というのはほとんど目がなく、誰かがほめでもしないと・・・・」
『夜と霧の隅で』により芥川賞を受賞した人気作家は、戦中戦後に旧制松本高校で過ごし、終生の友となる辻邦生と出会う。1960年フランス留学中に書いた原稿の出版社への持ち込みを依頼された北は、既に同年芥川賞を取っていたが、作品に概ね満足したものの出版社の反応は保証せず、『文学界』を念頭に上記の言い訳を加える
北の予言が的中し、辻の短編が世に出たのはその1年後『近代文学』の619月号

Ø  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した志賀直哉
「可哀想に思い推センするような事を云ったのですが それ程馬鹿な奴とは思わなかったから」
志賀の話は、よくある日常的な体験談であっても、人を引き寄せる不思議な力があり、日常に潜む物語を誰よりも手際よく簡潔に鋭く掬い取り、読み手の興味を巧妙に繋いでいく天才で、小説の神様と称される所以
194764歳の時、志賀がある人を出版社に推薦して失敗したときに、迷惑を被った関係者に書いた手紙の言い訳で、最後には「歯牙にもかける価値のない人間」と切り捨てている

Ø  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な小林秀雄
「音楽を聞く毎に感ずる実に苦しい陶酔という様なものが自分の頭からなくなったら直ぐ自殺したってなんとも思いません」
批評の神様小林が27歳の時、22歳から親交のあった19歳年長の作家を題材に『志賀直哉』を発表し、その1行目に「この小論を書かせるものはこの作者に対する私の敬愛だ」と書いたが、創作家から批評家への転身の過渡期に志賀に創作の小説を贈って批評を求めた際に、自らの資質について説明したのが上記で、小説家的興味が薄いことを嘆く文章が続き、最後はお目にかかりたいとの言葉で終わり、会って相談したいとの意味だった

Ø  謝りたいけれど謝る理由を忘れたと書いたシュールな中勘助
「私はあなたに陳謝または釈明しなければならないことがあるのではないかと思い、その内容も想像はしているのですが」
漱石が朝日に中勘助の『銀の匙』を推薦して、無名の新人の一風変わった小説のデビューとなり、灘高の伝説の国語教師が教科書代わりにしたことでも知られる作品
193348歳の勘助が、友人和辻や志賀直哉も含め色々な人に送りまくった手紙が上記
私たちの心の深層に潜む他者への後ろめたさや罪悪感から発信された、誠実なメッセージ

第7章        エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
Ø  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした夏目漱石
「教師として十分正直に所得税を払ったから 当分所得税の休養を仕るか・・・・繁劇なる払い方を遠慮する積りでありました」
190740歳で大学教師から朝日に鞍替え、日露戦後の販売部数伸び悩みに直面した新聞社のスカウトによるもので、入社後の安全を担保するために各種条件を綿密にすり合わせ、かなり高額所得者となるが、主筆よりも高い俸給に魔が差した漱石は、節税の工夫を同僚の渋川玄耳に相談して叱られたため手紙で詫びたのが上記
嫌な感じのしないスマートな表現に長けていた
優れた文章というのは、読み手から嫌われないようにするための自己弁護、言い訳が、表現の随所に、あるいは行間に、直接、間接に施されていることが分かる
著名だが嫌いだった政治家福地源一郎が死んだ際、ある手紙に「死んでも惜しくない人」と悪口を書く。

Ø  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者夏目漱石
4人の女子が次へ次へと嫁入ることを考えるとゾーッとするね。・・・・君に返す金は矢張り10円宛(ずつ)にして居る」
190639歳の漱石は、先輩菅虎雄に100円くらいの負債があったが、前年暮に4人目の女児が生まれ、さらに300円ほどの出費を何とか著作の印税で賄ったと近況報告した上で、勝手に返済額を決めている

Ø  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の夏目漱石
「病人だから勝手な事をいうが」
漱石は人の心をざらつかせないものの言い方に長けていた
43歳の時、胃潰瘍から大喀血して入院、病床から書いた手紙が上記
医者への礼や病院の費用の事で不得要領の話を夫人から聞かされ不愉快になった漱石が、不愉快の原因をつけ添えた最後に言った言い訳が上記で、相手の神経をトゲトゲさせてしまった詫びにバランスを取るために言い訳を追加

Ø  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた夏目漱石
「御目にかかる価値のない男です」
漱石の早稲田南町の自宅兼書斎には、しばしば未知の来訪者が突然現れたりした
191447歳当時、読者と称する女性が留守中に訪れ住所を残していったのに対し、晩年の絶頂期にあって忙しくないはずはないのに手紙を書き、「作家など作品は面白くても会ってみると存外嫌なものなので御止めなさい」と、予め保険をかけた表現で拒絶にはなっていない

Ø  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン夏目漱石
「たまには此位な事があってもよろしいと思う」
漱石29歳で五高に赴任した際、19歳の寺田が学生で、漱石から俳句を学ぶことから親交が始まり、寅彦にとって漱石はかけがえのない存在となる。1904年頃文壇デビューの直前、寅彦は漱石家に自由に出入りした仲で漱石も一目置く存在で、勝手にやってくる寅彦に気を遣う必要もなかったはずだが、相手ができなかったときの言い訳で、「どうせ勉強が嫌になったときに来ただけなのだろうから」と言って上記に繋がる

Ø  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい夏目漱石
「君の名を忘れたのではない。かき違えたのだ失敬」
漱石が盛んに絵を描き気分転換を図った時期が190437歳の頃。19002年半の英国留学に行き神経衰弱に悩まされて帰国、慰めにはがきに水彩画を描き親しい人に送りつけて楽しんだが、ある時田口俊一の宛名を田中俊一と間違え、軽い抗議が届いたのに対する漱石の言い訳。大きな失礼を小さな失礼で覆い隠そうとする手法

Ø  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した夏目漱石
「気をつけるなら泥棒氏の方で気を付けるより仕方がない」
東大教師の漱石を慕う学生は多く、中川芳太郎もその1人で、友人鈴木三重吉が書いた漱石を熱愛する手紙を託され、漱石の元に届ける。漱石は手紙を絶賛し返事を書くがその後紛失。泥棒の仕業と分かったがどうしようもなかった

Ø  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい夏目漱石
「俳神に見離され候せいか 一向作句無之」
1903年所属していた句会「白扇会」の句集に投稿し、主宰者に見てもらう時の言い訳で、まだ作家専門ではなかったときのこと、「蕪句(粗雑な俳句のこと)数首御笑覧」と言って送り、さらに蕪句すらできないときには上記の言い訳を添えた

Ø  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ夏目漱石
「小宮は馬鹿ですからどうぞ取り合わないように願います」
1914年『こころ』の連載を終え、文豪の地位をさらに確かなものとした漱石に食って掛かってきたのが新進作家30歳の田村俊子。浅草生まれの江戸っ子、幸田露伴門下で作家修行したり女優を経験したりと自由奔放に活動、191127歳で大阪朝日新聞の懸賞小説で1等になって作家生活に入り、朝日の編集業務をしていた漱石との関わりを持つ。漱石は田村の担当に同年の小宮豊隆を付けたが、田村からヒステリックな苦情が持ち込まれた際の漱石の言い逃れの手紙が上記
そのあとに、いつでも会ったときに詳しく説明するとし、幾分腹立たしく思ったのか最後を「草々」で終える ⇒ 漱石はふつう親しい友達にもおざなりな「草々」はあまり使わず、粗雑な内容になってしまった場合でも、「草々敬具」、「草々頓首」などの結語を用い敬意を忘れない。言い訳の質を色々と調節することにより、微妙な真意を分かりにくく盛り込むことができるというお手本



2019.5.15. 好書好日 
文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」
 言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。
 例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
 ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
 文豪たちの言い訳の魅力は何か。
 「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
 最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
 10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
 土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019511日掲載





連載:天声人語
(天声人語)森友問題の捜査終結
20198110500
 苦しい言い訳でも、文豪の手にかかると美しさを帯びるから不思議である。原稿の催促を受け流した泉鏡花の手紙。「涼風たたば十四五回もさきを進めて其(そ)のうちに一日も早く御おおせのをと存じいろいろ都合あい試み候えども……涼風が吹くようなら他の原稿を14~15回分も書いてしまい、ご依頼の件に着手しようと考えていたのですが……。要するに「暑くて仕事がはかどらなかった」という開き直りだが、美文に幻惑されてしまう(中川越〈えつ〉著『すごい言い訳!』)美しくもない言い訳を何度も聞かされた気がするのが、森友問題である。「刑事訴追の恐れがある」「捜査の対象になっている」。財務省局長だった佐川宣寿(のぶひさ)氏が国会での証言を拒んだのは昨年のことだ捜査が一昨日、不起訴のまま終結した。財務省が改ざんを認めているのに、有印公文書変造の罪にあたらないとの検察の判断は、法律の素人には理解に苦しむ。残念な結論の中に希望を探すなら、佐川氏が言い訳できなくなったことか首相夫人らの名前を消すに至った経緯を、その口から語ってほしい。あるいは言い訳に困って、こうおっしゃるか。「下手なことをしゃべると、務省から再就職先を世話してもらえなくなるので……徳冨(とくとみ)蘆花(ろか)は不出来な原稿の釈明に、考えを絞り出そうとしても心の中にもう何もないと書いた。「如何程(いかほど)しぼりても空肚(すきばら)は矢張空肚にて致方御(いたしかたご)さなく……」。森友のキーマンの腹からは、まだ何も絞り出せてはいない。


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