自由学園物語 羽仁進 2021.5.21.
2021.5.21. 自由学園物語
著者 羽仁進
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1928年10月10日生まれ。日本の映画監督。父は歴史家で参議院議員を務めた羽仁五郎、母は婦人運動家の羽仁説子。母方の祖父母は自由学園創立者の羽仁吉一と羽仁もと子、父方の祖父は第四十銀行創立者の森宗作。妹に音楽教育家の羽仁協子。
祖母の羽仁もと子が創立した自由学園を1947年に卒業後、1年間の共同通信社記者生活を経て、1949年、岩波映画製作所の設立に加わる。最初は岩波写真文庫の編集などに携わり、1952年に厚生省(現・厚生労働省)がスポンサーとなった『生活と水』で監督デビューする。
1955年に公開された記録映画『教室の子供たち』は、授業中の子どもたちの姿をいきいきと活写し、教育映画祭最高賞など絶賛された。引き続き制作した記録映画『絵を描く子どもたち』は、当時の記録映画としては珍しく1956年に劇場にて娯楽映画と併映された。1958年には法隆寺の姿を収めた『法隆寺』を制作した。
1960年にはドキュメンタリーの手法を多用した長編劇映画の『不良少年』を撮り、新境地を開拓した。プロの俳優は使わず、非行経験のある少年を集めてその経験を即興的に取り入れていきながら撮ったもので、その後のスタイルを決定付けた。この作品はキネマ旬報ベストテンの首位に選ばれた。
その後に独立し、また劇映画に転じ、1965年の『ブワナ・トシの歌』では、渥美清演ずる主人公がアフリカ奥地にプレハブ住宅を造りに行く姿を描いた。また、1968年の寺山修司の脚本を得た『初恋・地獄編』(主演:石井くに子、高橋章夫)も類似の手法でATGから配給された。1970年代半ば以降は、再びドキュメンタリーに戻った。
その後、アフリカ、オーストラリアなどに海外ロケを30年近く続け、野生動物を撮りつづけた。その集大成として『動物に学ぶ-生きる』制作した他、反核ドキュメンタリーも制作した。
独自の教育論で、各地での講演活動や執筆活動を行っている。
元妻は女優の左幸子。1959年に結婚、1977年に離婚した。離婚の原因は、羽仁が左幸子の実妹の額村喜美子と浮気したことである。喜美子は女優として多忙な幸子に代わり、娘の未央が生まれた頃からベビーシッターとして羽仁家に出入りし家事もこなしながら、羽仁のマネージャーを務めていた。羽仁のアフリカ長期撮影旅行に同行する中での出来事であった。羽仁は離婚4か月後に喜美子と再婚した。同じく左幸子の実妹で女優の左時枝と混同されることがあるが、喜美子は四女、時枝は五女であり、別人である。女優、タレント、エッセイストの羽仁未央(1964年 - 2014年)は、左幸子との間の一人娘。
主な受賞歴[編集]
1956年 キネマ旬報短編映画ベストテン1位
1961年 キネマ旬報作品賞・監督賞、マンハイム国際映画祭金賞
1964年 ベルリン国際映画祭特別賞
1965年 モスクワ国際映画祭監督賞
1969年 オーストラリア映画祭南十字星賞
発行日 1984.7.25. 第1刷発行 84.10.15. 第3刷発行
発行所 講談社
第1章
入学、これはこまった
初等部の入学試験は、生まれて初めての社会体験。出された問題は、「2つのキューピー人形の違いとは」「2つのコップの水の違いとは」。何れもまともな答えが出来ずに終了
翌朝、祖母が来て伝えたのは落第で、知恵遅れの市川学園に入れてもらったらということ
祖母の羽仁もと子は、家事にばかり縛られている日本の女性の在り方に強い不満を抱いていた。育児にも関心を持ち、特に女子教育の在り方に矛盾を感じ、1921年自ら学校を作る
創立当初は女学校、雑司が谷の婦人之友社に隣接した校舎はライトの設計で、大谷石を積み上げた神秘的な校舎。食堂があったのがユニークで、授業で昼食を作り提供
日常活動に洋服を導入しながら、自分は一生和服で通す。自分のできない家事を、雑誌でも学校でも実践
一度だけヨーロッパに行く。世界教育会議で自分の理想を講演、演題は「それ自身、1つの社会として、生活し、思想する学校」。学校が自立した社会として活動すれば、子どもたちが自然と日常生活に興味を抱くようになり、学校教育を受けているうちに、社会人としての基礎を確立することができるというもの
理想実現のために、久留米村に土地を買って、1934年共学の小学校を作る
35年、自由学園入園。内田吐夢の息子と同級生
1日の始まりはデンマーク体操。学部ごとに全生徒が集まる
昼は、食堂で生徒のアイディアによって並べられた机に座り、一緒に食べる。賄いは保護者で男子部と女子部の生徒が手伝い、配膳は各テーブルのテーブル・マスターの5,6年生
食事の後半に、ミセス羽仁の講話、「ヨクミル ヨクキク ヨクスル」
第2章
初恋、いつのまにか
動物が好きで、最初は雑木林にいる昆虫類に夢中になって学校をさぼり、次がロバ、1年ほど飼ったが死ぬ。次が父親の友人が送ってきたオオサンショウウオ。これも餌を与え過ぎて死ぬ。常に何か動物を飼っていた
4年で初恋に落ちるが、どもりで声が掛けられないまま、卒業を迎えた
動物の本もよく読んだが、初等部3年では『夏目漱石全集』、終わると森鷗外、その影響でヨーロッパ文学も
本に夢中になり過ぎて、家では本を読むなと言われ、友達に借りて読むようになる
父が警察に目を付けられ、ある日特高が逮捕しに乗り込んできたときは、自分なりに父を守ろうとした
第3章
進学、やってみなけりゃ
初等部を卒業すると、男子部か女子部に行くが、何れも4年の普通科と、高等科が3年で、文部省令には拠らない自由な教育を目指していたので、学歴はつかない
坊主頭と半ズボンに反発したが、他の選択肢はなく、そのまま男子部に入り、1年間は全寮制、学内の寄宿舎・東天寮に入り集団生活による社会性養成が始まる
寮生活は、全学年150名あまり。管理人も用務員もなく、すべてが生徒の自主運営で自給自足。豚も飼っていた。自分で使う机と椅子も自前で作る
那須に購入した土地の開墾に参加。嫌々でも交代で参加しているうちに農場ができ、晴耕雨読が始まると夢中になった
第4章
旅立ち、ありがとう
戦争が始まると、軍部の圧力に妥協して国旗掲揚だけはしたが、御真影や教育勅語奉読は拒否、学校の名前も守り通す
1939年から始まった徴用では、大人が対象にも拘らず、男子部は目の敵にされたのか、開戦直後から始まるが、ミセス羽仁とミスター羽仁は徴用先を田無の中島飛行機とさせ、人数も少しづつ減らして2部交代制を認めさせた。さらには中島飛行機の作業を学内で自主的グループを作って請け負うようになり、徴用の中身を骨抜きにしていった
初等部時代、仲間が少年航空兵に憧れて陸軍飛行学校に志願するというので、なんとなく戦争が良くないことだと感じていた何人かで止めさせようとしたが徒労に終わった
鉄道の切符も制限されたが、行楽旅行が対象だったので、那須に行く生徒の分をまとめて買いに行ったが拒否。自由学園ということで目の敵にされていた。自分では那須での重労働が嫌で行きたくもなかったが、切符購入の担当になった以上責務を果たさざるを得ず、上野駅長に直談判して漸く入手
そんな苦労をしている間に、どもりを克服、十分喋れるようになり、喋るのが嫌いでなくなった。学内の活動のほか、学問的な自由研究も奨励、必ず報告や発表がついて回るので、全生徒の前で喋らざるを得ない
その時の地方新聞の研究をしたのがきっかけで、卒業後新聞社に就職
戦後の世の中の改革運動の余波で男子部にも改革思想が蔓延、何を改革するかもわからずに改革を唱える。6年生で副委員長に推されて圧倒的な支持を得るが、委員長から、ミセス羽仁とミスター羽仁にものが言えるのはお前だけだと言われ、翌年委員長として改革をやってくれと頼まれ、仕方なく学園改革のための研究グループを作る
男女合同授業、制服廃止、特別講座の拡大、特にマルクス主義の講座開設などの要望
合同礼拝から行動開始。ミセス羽仁の講話がわかりにくく、その上夢中になると東北弁が出てきて余計混乱。その後が委員長の順番なので、6年3学期に委員長になった僕が、建学の精神に戻れ、自由の再発見をしようと改革宣言をする
女子部の改革派の先頭に立っていたのは岸田國士の娘・今日子で、「漫然と授業を聞いている私たちの目は、魚の目のように生気がない」と壁新聞に投稿、「魚の目」の渾名がつく
後任の委員長になると、改革派内の不一致や一部自由推進派の生活の乱れなどから、改革そのものへの支持が薄れ急速に萎む
改革運動が挫折に終わった虚脱感のようなもので、7年生になるとサボってばかり。授業を放っておいて街に出る
3年生ぐらいの生徒が学園長夫妻に頻繁に呼ばれていると思ったら、ある日退学することになり、夫妻から「私たちに君を教える力はないので退学せよ」と言われたという。彼は今、京都の大学の神学部で教授だが、10何年かのちミスター羽仁の追悼会に来て、自由学園で学んだものの大きさを語っていた
7年生にとっては就職が深刻な問題。当初ミスター羽仁はあらゆる伝を捜して苦労したようだ。当初は報道関係が圧倒的に多い。先輩たちの活躍のお陰で、就職先も多様化
祖父母や父は、学校に残って学者の道を歩んでほしかったようだが、あまり強制はせず、もっと世の中のことを勉強したいと、共同通信に入社、新聞記者となる
自由学園の先輩のいない会社で、同期は旧制大学卒ばかり、当初は子ども扱いされていたが、入社直前に起こった帝銀事件では平沢の弁護士のかばん持ちで現場を経験、さらにその年の暮れ東条の処刑の後、教誨師の花山信勝の家に潜り込んで、夫人から断片的に聞いた東条の最後の様子を纏めて記事に書いたのがスクープとなって編集局長賞を貰う
1年後、岩波が映画部門を新設することになり、誘われて岩波映画製作所創立に参加
本書を書く直前、昔の仲間が集まって、自由学園時代の思い出に浸ったが、誰からともなく、「当時はいろいろあったが、思い返してみると、自由学園で学んだことが、どんなに役に立ったかしれない。ミセス羽仁、ミスター羽仁、それから自由学園に対して感謝の念でいっぱいだ」と言いだし、みんなで頷き合った
あとがき
1人の人間の辿ってきた日々の中にも、教えるものと教えられるもの、人間が学んでいくということのドラマの一端を見ていただければ幸せ
ホームページより
自由学園は1921年(大正10年)に、ジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻により創立されました。キリスト教を土台とし、「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」、「よく教育するとはよく生活させること」という理念のもと、人間教育を実践している学校です。24時間の生活すべてを学びの場と考えています。
私たち一人一人は、「いのち」と「意志の自由」を与えられた、この世界にたった一人しかいないかけがえのない存在です。自由学園では毎日の生活を通じ、このいのちと自由を使って、どのように自分らしく、主体的に生きていくかを学びます。
これを自分のためだけに使えば利己的な生き方になり、人間中心に使えば自然や他の生命を傷つけてしまうかもしれません。よい生き方を選択するためには、何が「よい」ことであるかを自ら問い、与えられた自由をどのように使えばよいのか、自ら考え、判断し、行動する力が必要なのです。
自由学園の校名は、新約聖書の一節「真理はあなたたちを自由にする」に由来しています。どのような時代にあっても変わることのない「真理」を求め、よく生きる人を、自由学園では「真の自由人」と呼んでいます。
「真の自由人」を育てるために、学園が大切にしている3つの考えをご紹介します。
1. 3歳から社会人
自由学園は、仲間と協力してよい社会をつくる力を養う教育を大切にしています。
子どもたちが生きる未来の社会は、今よりも更に多様化が進み、さまざまな考えを持った人々が共に生きることが求められる社会です。
「社会に出る」と言うと、通常は学校卒業後のことと思われていますが、自由学園では学校そのものを一つの「小さな社会」と捉えています。ですから、3歳の子どもたちも、幼稚園という集団のなかで力を合わせて生活する立派な「社会人」です。
幼いときから自分の属する小さな集団と関わり、必要とされる役割・責任を果たしていくことで、力を合わせることの楽しさと難しさを学び、社会を作る一員としての自覚と誇りが育まれます。
そして次第に、社会や世界で起こっている事柄に対して「どのような社会がよい社会なのか。今、自分に何ができるのか」と考え、行動できるようになります。東日本大震災が起こった際は、学生たちがいち早く支援チームを立ち上げ、現地に出かけて行きました。
こうした感覚を養う上で一貫教育であることは大いに役立っています。
2. 自主独創
学校の役割は、単に知識や経験を与えることではありません。
子ども自身の自ら生きる力を信じ、自ら主体的に学び、自分の頭で考え、自分の足で歩むことのできる人として導くことにあります。世の中の価値基準は変化しますが、自分の中にしっかり育てたモノサシがあれば、流されることはありません。
このような力を育てるために、自由学園では生徒を主体とする自治的な生活づくり・学校づくりが行われています。学校や寮でどのようなルール作りをするのか、意見が対立した際どう対応するのか、ひいては世の中の出来事に対してどうアクションを起こすのかなど、さまざまな場面で生徒の間に議論が生まれ、「自分はどうする?」と一人ひとりの主体性が問われるのです。教師はサポート役として、生徒の自治を支えます。
こうした経験を重ねる中で、分かれ道に立ったときに、心から納得できる道を自分自身で選び取り、責任を持ってその結果を引き受けていく力が養われるのです。自分の心の声に忠実な生き方は、それぞれがその人ならではの独創的な生き方ということができます。
自由学園は小さな学校ですが、多くの卒業生が自主独創の精神を持って自分の道を切り拓き、様々な分野の最前線で活躍しています。
3. 大きな家族
「みんな」の中で一人ひとりが大切にされる、温かい「大きな家族」のような学校―。
ご家庭との協力のもと、自由学園はこのような学校づくりに取り組んでいます。
一日の始まりの礼拝では聖書を通じ、自分自身が神様に愛されているかけがえのない存在であることを学びます。また一学年一クラスを基本とする少人数による手作りの教育環境が、子どもたち一人ひとりへの細やかな関わりを可能にしています。
自分が大切にされていると日々感じつつ安心感の中で育った子どもたちは、自己肯定感を育み、温かい心と自分の力を周囲の仲間のために差し出すことのできる人に育っていきます。
学校は未来の社会のモデルです。学校が子どもたちを数値によって序列化する競争社会であるならば、子どもたちはそこで競争社会での勝ち抜き方を身につけ、無意識のうちに競争原理に基づく社会を再生産することになるでしょう。
自由学園では競争原理ではなく協力原理による、共に生きる社会の実現を目指しています。
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学校法人自由学園は、東京都東久留米市学園町に本部を置く学校法人である。
教育事業を基盤とし、飲食、出版、ブライダル、イベント、インテリア販売等の事業もしている。
l 概要[編集]
クリスチャンだった女性思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によって1921年4月15日、キリスト教精神(プロテスタント)に基づいた理想教育を実践しようと東京府北豊島郡高田町(現・豊島区)に設立された。1934年に校舎を東京府北多摩郡久留米町(現・東久留米市)に移転し、現在にいたる。
学校名は、新約聖書『ヨハネによる福音書』8章32節「真理はあなたたちを自由にする」からとられている。
学生の多くが学園内の寮で生活し、キャンパスの維持管理はとくに危険な仕事を除きすべて生徒の手によって行われている。これは毎日の生活を生徒自身が責任を持って行う自労自治の精神に基づく。文部科学省の学習指導要領にとらわれない独自の教育方法で知られ、たとえば学生による稲作(田植え・収穫)、女子部生徒が学園内農場で野菜を育てる農芸、男子部生徒による酪農(豚・牛を育てる)などである。
l 所在地・交通[編集]
南沢キャンパス(10万㎡)(メイン) 東京都東久留米市学園町1-8-15 最寄り駅 西武池袋線ひばりヶ丘駅南口徒歩10分
目白キャンパス(明日館) 東京都豊島区西池袋2-31-3 最寄り駅 JR池袋駅メトロポリタン口徒歩5分
黒羽学校林(11万㎡) 栃木県大田原市
l 設置学校[編集]
自由学園幼児生活団幼稚園(幼稚園)[編集]
自由学園幼児生活団幼稚園は、4歳から22歳までの一貫教育を行なう自由学園の最初の段階。1939年(昭和14年)の創設から2006年度(平成18年度)まで68年間[関係者 1][注 1]、週に1度通う集合日を中心とした教育を行なってきたが、現在は週に5日、毎日子供たちが集まる。幼児期の3年間を4才組、5才組、6才組(それぞれ年少組、年中組、年長組に相当)に分け、教育する。
自由学園幼児生活団幼稚園の4、5才組の教育を基とした「幼児生活団通信グループ」(通信教育)[関係者 2]は、2週間に1度(年24回)教材が届き家庭教育を行うもので、海外にも教材発送を行っている。通信グループの子ども(希望者)が自由学園幼児生活団に集まる日もある[関係者 3]。
全国友の会でも幼児生活団の教育を実践しており、「友の会幼児生活団」を全国12ヶ所で、「4才児グループ」(3〜4歳児(年少組)1年間のみ)を全国8ヶ所で開設し、週に1回(+月に1回)の集合日に集まって教育を行っている[関係者 4]。
自由学園初等部(小学校)[編集]
自由学園初等部は、共学校で初等教育をしており、一貫教育の初段階を担っている。 教育目標は「よくみる、よくきく、よくする」 校外学習や特別授業などでは、本物や体験を通して学ぶことが重視されている。通常の授業では学習指導要領に準拠して行われており、基礎基本の学習もまた大切にされている。 各学年1クラス、30名程度(定員40名) 全学年一同に食堂で昼食をとる縦割りの教育活動が特徴。 放課後学童保育(アフタースクール)も実施している。
自由学園男子部・女子部(中学校・高等学校)[編集]
自由学園中等科・高等科(じゆうがくえんちゅうとうか・こうとうか)は、男子部と女子部に分かれている。法制度上は、自由学園男子部中等科及び自由学園女子部中等科並びに自由学園高等科である[一次資料 1][一次資料 2]一方、学校法人自由学園の公式サイトでは、自由学園男子部中等科・高等科及び自由学園女子部中等科・高等科となっている。女子部、男子部には各付属の寮が存在し、男子部では入学1年目は全員入寮が義務付けられている。
また、時期は未定ながら共生共学という言葉をもとに、共学制への移行を検討する旨が発表された。[1]
自由学園最高学部(大学部)[編集]
自由学園最高学部(じゆうがくえんさいこうがくぶ)は、大学に相当する4年制課程及び短期大学に相当する2年制課程(女性のみ)から構成されている。学習内容はリベラル・アーツを扱う。
自由学園最高学部は、文部科学省の一条校認可を受けていないので、学校教育法第135条により各種学校であるが、概ね大学・短期大学相当の扱いを受けており、2年生課程を修了した者の中には大学に編入、4年制課程を修了した者の中には大学院に進学する者もいる。自由学園高等科からの進学のみで外部生は受け入れない。男性は4年制課程のみ、女性は4年制課程と2年制課程の選択ができるようになっている。
自由学園リビングアカデミー(大学講座)[編集]
自由学園リビングアカデミーは45歳以上を対象に開校された大学講座である。
沿革[編集]
1921年(大正10年) - 東京府北豊島郡高田町雑司が谷(現・東京都豊島区西池袋2丁目)に高等女学校令によらない学校として創立(女子部)。
1927年(昭和2年) - 初等部を開設。
1934年(昭和9年) - 校舎を東京府北多摩郡久留米町(現・東久留米市)に完全移転。旧校舎は「自由学園明日館」として今も残る。
1935年(昭和10年) - 男子部を開設。
1938年(昭和13年) - 北京生活学校開設
1939年(昭和14年) - 幼児生活団を開設。
1945年(昭和20年) - 北京生活学校閉鎖
1949年(昭和24年) - 最高学部を開設。
2007年(平成19年) - 幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園。
歴代学園長・理事長[編集]
学園長[編集]
初代 羽仁もと子
2代目 羽仁恵子 1957年 -
4代目 十文字輝雄 2004年 -
5代目 矢野恭弘 2008年 -
6代目 高橋和也 2016年
-
理事長[編集]
初代 羽仁吉一 (当時は理事長ではなく、学園主という役職である。)
5代目 猪狩朝彦 1997年 -
6代目 永田晨 2001年 -
8代目 村山順吉 2017年-
自由学園関連施設・事業・団体[編集]
自由学園那須農場(栃木県那須塩原市)
自由学園明日(みょうにち)館:(東京都豊島区西池袋)。フランク・ロイド・ライトと遠藤新の共同設計。1997年に国の重要文化財に指定された。現在は動態保存として、一般の見学や結婚式などに有料で開放・利用されている[関係者 5]。
自由学園生活工芸研究所(東京都豊島区西池袋)
JMショップ(東京都豊島区西池袋)
自由学園食事研究グループ(東京都東久留米市学園町)(洋菓子の製造)
自由学園しののめ茶寮(東京都東久留米市学園町)
株式会社自由学園サービス
校歌 校訓 寮歌[編集]
校歌[編集]
『自由を目指して』 作詞:女子部生徒 作曲:近衛秀麿
『かかげよ旗を』 讃美歌380番より編曲 作詞:羽仁吉一
『男子部賛歌』
校訓[編集]
自由学園全体としては「生活即教育」を基本理念とし、それに基づいた標語を各部定めている。
最高学部 「真の自由人(いのちのよき経営者となる)」
女子部 「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」 (Thinking, Living and Praying)
男子部 「思想 技術 信仰」 (Thought Technique Faith)
初等部 「よくみる よくきく よくする」
生活団 「よく教育することは、よく生活させること」
寮歌[編集]
『東天寮歌』 作詞:廣瀬淡窓
行事[編集]
自由学園での行事活動は全員参加を基本としている。
入学式・入寮式[編集]
中等科入学、編入。高等科入学生への入学式が開催される。また入学式終了後女子部、男子部付属寮での入寮式が行われる。
遠足(登山)[編集]
女子部、男子部で5月頃に中等科、高等科に分かれ遠足(登山)が行われる。登る山は女子部中等科2000m程度、男子部中等科、女子部高等科2500m程度、男子部高等科3000m程度。
デンマーク体操を中心とした全校生徒による発表会が、毎年体育の日前々日の土曜日に開かれる。
学業報告会[編集]
音楽会、美術工芸発表会が無い年に開催され、1年間勉強してきたことを発表する。
美術工芸展[編集]
全校生徒の創作物(絵画、工芸品等)を展示する会である。4年に1度開催される。
音楽会[編集]
東京芸術劇場、練馬文化センター等の大規模な会場を使い、生徒による合唱やオーケストラ演奏を行う。4年に1度開催される。
午餐会[編集]
中等科生以上の全校生徒、教職員、学校関係者を招き、一堂で食事を会する。
卒業式[編集]
最高学部卒業式。高等科、中等科卒業式は開催されない。
平和週間
2020年度から女子部、男子部共同で一週間かけて平和について学ぶ週間である。
男子部、女子部の中から有志が立候補し、平和週間係となり平和週間に向け準備を行う。
制服[編集]
男子部中等科は1980年代半ば頃まで、中等教育課程では珍しく半ズボンを制服に採用していた。
女子部は、制服ではなく式服という形のものがある。しかし、規定服としてスカートとブラウスというものがある。
式服は白の角襟ブラウス、紺色のスカート(ボックスタイプ、プリーツタイプがある)白靴下、冬はその上にブレザーを着用。白靴下以外は指定。
初等部は、女子部と同様である。
男子部には、制服がある。
部活動[編集]
運動部[編集]
バスケットボール部 (大学部・女子部・男子部)
硬式テニス部 (大学部・女子部・男子部)
転回部 (大学部・女子部・男子部)
サッカー部 (大学部・男子部)
剣道部 (大学部・女子部・男子部)
バドミントン部 (女子部・男子部)
ダンス部 (女子部)
フェンシング部 (女子部)
グリークラブ(男声合唱)
コアグループ(女声合唱)
文化部[編集]
弦楽オーケストラ (大学部・女子部・男子部)
ウインドオーケストラ (大学部・女子部・男子部)
グリークラブ (男子部) ※部活動ではなく授業の延長線上の集まり
競技かるた部(女子部)
美術部(女子部)
天文部(女子部)
また、生徒自ら部活動を立ち上げることもでき、その認可前の組織は同好会と呼ばれ非公式に存在する。
プログラミング同好会
文化財[編集]
重要文化財[編集]
自由学園明日館(豊島区) 中央棟、東教室棟、西教室棟、講堂
東京都選定歴史的建造物[編集]
自由学園南沢キャンパス(東久留米市) 初等部食堂、女子部食堂、女子部講堂、女子部体操館、男子部体操館
主な出身者[編集]
あ行[編集]
秋田浩之(日本経済新聞論説委員兼編集委員、ボーン・上田記念国際記者賞)
安家美津志(実業家、ポポラーレ(現・ポポラマーマ)創業者兼社長)
蟻川謙太郎(生物学者、総合研究大学院大学教授)
伊藤毅(THE
STREET BEATS、JUN SKY WALKER(S)、音楽プロデューサー、作曲家)
梅浦洋一(テレビプロデューサー、映画プロデューサー)
應蘭芳(女優)
オノ・ヨーコ(芸術家、幼児生活団卒)
か行[編集]
柿崎譲志(音楽プロデューサー)
神沢礼江(作詞家、イラストレーター)
公文健太郎(写真家)
さ~な行[編集]
坂本龍一(作曲家、東京友の会 世田谷幼児生活団)
新海百合子(女優)
続木創(企業家、進々堂社長)
中林三平(実業家、データサイエンティスト、金融エンジニアリング・グループ創業者)
西田明男(企業家、ゴールドウィン社長)
蜷川実花(写真家、映画監督、自由学園幼児生活団)
野依良治(化学者、ノーベル化学賞受賞、神戸友の会幼児生活団)
は行[編集]
萩元晴彦(テレビ制作者、音楽プロデューサー)
花田啓一(企業家、元ユニアデックス顧問)
羽仁協子(音楽評論家)※羽仁もと子の孫
羽仁進(映画監督)※羽仁もと子の孫
文仁親王妃紀子(幼児生活団通信グループ)
ま行[編集]
松森正憲(企業家、元日本ユニシス顧問)
三上正洋(登山家、フィールドプロ創業者)
三木晴雄(実業家)
宮田和弥(JUN SKY WALKER(S)、ジェット機
(バンド))
三善晃(作曲家、幼児生活団)
森純太(JUN SKY WALKER(S)、作曲家)
や行[編集]
山本明(高エネルギー加速器研究機構教授)
山本ふみこ(作家、エッセイスト)
関係団体[編集]
羽仁夫妻が設立または、卒業生、関係者が設立し現在も協力関係にある団体
全国友の会
共働学舎
困っている人の支えに 中高生、志願のおにぎり
瀬戸口翼
2021年5月15日 16時30分 朝日新聞
コロナ禍で失業者や生活困窮者の増加が懸念される中、東京都東久留米市の私立校「自由学園」の生徒たちが、手作りのおにぎりで路上生活者を支援する活動に取り組んでいる。
メンバーは中学1年から高校3年の生徒たち。放課後や休日に集まり、保護者など賛同者から寄せられたお米でおにぎりを100個以上作っている。
生徒らは東京・池袋を中心に生活困窮者らを支援しているNPO法人「TENOHASI」と「世界の医療団」の活動に参加。池袋駅周辺を見回り、路上生活者の相談を聞き取る「夜回り」に同行し、支援物資と一緒におにぎりを添えて手渡す。昨年7月から始め、2カ月に1度の頻度で取り組んできた。
活動のきっかけは休校中の昨年春。発起人の高校3年生の中村侑人さん(17)が、手作りマスクを医療従事者や自治体に寄付する同年代の活動の記事を目にし、「僕たちに出来るアクションはないか」と思い立った。仲間や教師らの協力を得て、今では毎回20人ほどが参加している。中村さんは「一部には、知的障害を抱えている方もいて、放ってはおけない問題」と話す。
しかし、1月の2度目の緊急事態宣言では活動自粛となった。最も冷え込む時期だけに「困っている人を支えることもできなくなるのが悲しかった」と中村さんは振り返る。
「支援は続けることが大事」。3度目の宣言では、参加メンバーらと学校側に掛け合い、宣言中も校内の調理室が使えることになった。「夜回り」同行は見送ったが、おにぎり作りを継続できることに胸をなで下ろした。中村さんは「宣言が出ても、助けを必要としている人々がいる。おにぎりを作ることだけでも、僕たちに出来ることを続けたい」。(瀬戸口翼)
羽仁 もと子(はに もとこ、1873年9月8日 - 1957年4月7日)は、日本で女性初のジャーナリスト。また、自由学園の創立者。また家計簿の考案者としても知られている。
1873年(明治6年) 本名羽仁もと子(旧姓松岡)とし、青森県八戸市に生まれる。
1889年(明治22年) 上京し、東京府立第一高等女学校2年生に編入。
1890年(明治23年) 東京女子高等師範学校を目指すも不合格となる。この年洗礼を受け、生涯にわたってキリスト教を信仰したが、教会に属さない無教会の立場であった。
1891年(明治24年) 「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学。明治女学校在学時には「女学雑誌」の校正を手伝い雑誌作りの基礎を学ぶ。
1892年(明治25年) 帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後大阪に嫁ぐが、まもなく離婚。
1897年(明治30年) 再度上京し、吉岡弥生の家に女中として入るが、満足に務まらずにクビとなり、報知社(現・報知新聞社)に入社。報知新聞の校正係の職を得て、機会あるごとに自主的に書いた原稿で実力を認められて記者に登用され、日本で初めての女性ジャーナリストとなった。家庭生活の合理化を唱え、思想家としても著名である。
1901年(明治34年) 職場で知り合った5歳下の羽仁吉一と再婚、その後まもなく独立して雑誌の仕事をしようと報知新聞を退職するが、吉一も将来を嘱望されながらもと子の志に従い退社し、高田新聞社に勤務、新潟へ。
1903年(明治36年) 女性雑誌「家庭之友」を創刊。インタビューの手法を開発。家計簿を紹介・提唱
1908年(明治41年) 羽仁夫妻が独自に出版していた雑誌「家庭女学講義」を「婦人之友」へと改題した。同時に婦人之友社設立。
1914年(大正3年) 婦人之友の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版。しかし、国家総動員法のもとで日本出版会による統制によって、「婦人之友」を残して「子供之友」は廃刊となった。戦後に福音館書店から刊行されるようになった「こどものとも」は、この誌名を譲渡されたものである。
1921年(大正10年) 読者の子への家庭的な教育を目指して、当初は女学校として東京・旧目白(西池袋)に自由学園を創立した。その名称は新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書 8:32)」に由来している。創立当時、来日していたフランク・ロイド・ライトはファミリースクールへの共感から積極的に校舎の設計を引き受け、後に自由学園明日館として国の重要文化財の指定を受けて一般に公開されている。
1925年(大正14年) 学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に購入した学校建設予定地周辺の土地を関係者などに分譲し、その資金で新しい学校施設を建設して移転。
1930年(昭和5年) 全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立。
1957年(昭和32年) 脳血栓の後、心臓衰弱のため死去。墓は雑司ヶ谷霊園にある。
親族[編集]
夫 羽仁吉一 - 報知新聞編集長、その後高田新聞社編集長などを経て婦人之友社設立。自由学園では学園主を務める。
妹 千葉くら
- 青森八戸の千葉学園創立者
弟 松岡正男 - 京城日報社社長 毎日申報社社長 時事新報社社長。その娘に評論家の松岡洋子。
長女 羽仁説子 - その婿は歴史学者であり参議院議員として国立国会図書館の設置に携わった羽仁五郎(旧姓森)、
次女 羽仁凉子 - 幼くして病死、
三女 羽仁惠子
- 生涯独身であった。羽仁夫妻死後は自由学園にて2代目学園長を務める。
孫 羽仁立子(幼少期に病死)、続いて生まれた羽仁進、羽仁協子、羽仁結子の3人が孫として成長する。
ジャーナリストの羽仁未央、環境活動家の羽仁カンタは曾孫にあたる。
羽仁 吉一(はに よしかず、1880年5月1日 - 1955年10月26日)は、日本のジャーナリストで、教育者。妻の羽仁もと子とともに自由学園を創立した。
華浦尋常小学校に入学。卒業後、漢学塾周陽学舎に学ぶ。
上京し矢野龍渓の書生になる。1900年に報知社(後の報知新聞社)に入社。翌年一月には報知新聞編集長となるが、同年十二月に同じ報知新聞記者の松岡もと子(羽仁)と結婚し退社。新潟の高田新聞社の主筆支局長となる。
1902年 再び東京に戻り、1903年に家庭之友後の婦人之友を創刊。
1955年 心筋梗塞により死去。当時の男子部委員長(学生)で学校法人自由学園の理事長を務めた市岡楊一郎がお別れの言葉をいう。
羽仁 説子(はに せつこ、1903年4月2日 - 1987年7月10日)は、日本の教育評論家。息子は映画監督の羽仁進、娘は羽仁協子。
来歴[編集]
羽仁吉一、羽仁もと子の娘として東京に生まれる。自由学園を卒業、『婦人之友』記者、自由学園教授などを務める。森五郎(羽仁五郎)と結婚。1946年婦人民主クラブの創設に参加する。1952年日本子どもを守る会の発足に参加。中産階級的リベラリズムの立場にたち、女性運動、児童福祉、性教育などに活動、発言した。『羽仁説子の本』全5冊がある。1960年に行われた参議院千葉県補欠選挙に無所属で立候補するが落選している。
進歩的文化人として活躍した羽仁だったが、戦時中は「女性にとって協同生活への関心は天性のものである。扶けることの喜びを無上の幸福とする心、それはわが子、わが夫のために犠牲となることの出来る心である」(昭和十九年三月『教育』誌掲載)、「赫々たる皇軍の戦果が伝えられるたびに私ども女性は深く思いをめぐらして祖国の明日のために、大いなる国力を貯えねばならないという責任をひしひしと感じます。それが戦いの庭にたたぬものの使命であると信じます」(昭和十七年四月『愛情』誌掲載「大東亜戦争下に於ける婦人の使命」)という発言をしていた。羽仁に対し、『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』はつぎの副題を付けている。
羽仁 五郎(はに ごろう、男性、1901年(明治34年)3月29日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の歴史家(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
旧姓は森。群馬県桐生市出身。生家は地元の有力な織物仲買商であり、父の森宗作は第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取などを務めた。1913年(大正2年)、桐生北尋常小学校卒業。同年東京に上京して、東京府立第四中学校に入学。厳しい規則と詰め込み主義の学校を批判し、停学処分を受けるなどした。1918年(大正7年)旧制第一高等学校独法科入学、さらに1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部に入学。数ヶ月後に休学し、同年9月、ドイツで歴史哲学を学ぶため出国。1922年(大正11年)4月、ハイデルベルク大学哲学科でリッケルトに歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、イタリア旅行中に生家を訪れるも扉を叩かず。しかし、生涯在野の哲学者であったクローチェの影響を色濃く受けた。1924年(大正13年)、帰国し、東京帝国大学文学部史学科に入る。
1926年(大正15年)4月8日、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業[1]。同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年10月三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。1933年(昭和8年)9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。1945年(昭和20年)3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選[2]し、1956年(昭和31年)まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力する。日本学術会議議員を歴任。
マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去[3]。
息子は、ドキュメンタリー映画監督の羽仁進、孫が羽仁未央。甥はしいたけの人工栽培を発明した農学者の森喜作。
晩年には家元制度打倒を唱える花柳幻舟と交際があり、羽仁は花柳を「ぼくのガールフレンド」と呼んでいた[4]。
エピソード[編集]
国立国会図書館法前文の「真理がわれらを自由にする」という文言は、羽仁がドイツ留学中に見た大学の銘文を基に入れたもので、新約聖書のヨハネによる福音書に由来する[5]。
1967年4月20日、午後1時に大講堂で日本大学経済学部の新入生歓迎会をしている最中に、講師に招かれた羽仁の講演を体育会学生と応援団が乗り込み妨害した。執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制した。羽仁に対して、ヤジや罵声は収まるどころか、いっそう増し、「アカ」、「ジジイ引っ込メ」などの罵声を受けた。羽仁は演壇上に立ち往生し、身の危険を感じて退避したが、歓迎大会は完全に破壊された[6]。
三里塚闘争への支援も行い、現地を2回程訪問し、三里塚芝山連合空港反対同盟へメッセージを送って激励している。遺言では「灰を三里塚にまけ」といったとされ、日比谷公会堂で行われた追悼集会で反対同盟の北原鉱治が別れの言葉を述べている[7]。
1972年に発生したあさま山荘事件について、志水速雄との対談において羽仁は「権力を持っているものが人民を隅に追い込んでいった結果であり、そこに発生したことがらの全責任は権力を握っている側にあるんですよ」、「正義は虐げられている側、抑圧されている側、つねに少数の側にある」と連合赤軍を擁護した。志水が「知識人が学生を甘やかしたからあんなことになったのではないか」と追及すると「言論の責任を取ることになってくれば、言論の自由なんていうものは保証できないんですよ」と主張した[8]。
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