レオナルド・ダ・ヴィンチ  Walter Isaacson  2019.8.13.


2019.8.13. レオナルド・ダ・ヴィンチ 上下
Leonardo da Vinci         2017

著者 Walter Isaacson 1952年生まれ。ハーバード大で歴史と文学の学位を取得。オックスフォード大にて哲学、政治学、経済学の修士号取得。『タイム』誌編集長を経て、01CNNCEO就任。アスペン研究所CEOに転じる一方、作家としてベンジャミン・フランクリンの評伝を出版。04年スティーブ・ジョブズから伝記を書いてくれと直々に依頼され、ジョブズ死の直後の11年刊行の『スティーブ・ジョブズ I II』は世界的なベストセラーに。イノベーティブな天才を描くことに定評があり、アルバート・アインシュタインの評伝も手掛ける。現在トゥレーン大の歴史学教授

訳者 土方奈美 翻訳家。日本経済新聞社を経て、08年より翻訳家として独立。経済、金融分野を主に手掛ける。訳書に『グーグル 完全なる破壊』他

発行日             2019.3.30. 第1刷発行
発行所             文藝春秋

序章 「絵も描けます」
レオナルド・ダ・ヴィンチは30になってミラノ公宛に自分を売り込む手紙を書く。既にフィレンツェで画家として成功を収めてはいたものの、与えられた仕事をやり遂げることが不得手で、新天地を求めていた。手紙の初めの10段では、橋梁、水路、大砲、戦車から公共建築物の設計といった技術者としての力量を誇示したが、画家でもあると述べたのは11段目の終わりで、「どんな絵でも描いて見せます」と
《最後の晩餐》と《モナリザ》という絵画史に残る2つの傑作を描いたのだから言っていることに間違いはないが、本人の意識の上では、科学者、技術者としての自負も同じように強かった。レオナルドは嬉々として、そして憑りつかれた様に、解剖、化石、鳥類、心臓、飛行装置、光学、植物学、地質学、水の流れや兵器といった分野で独創的な研究に打ち込み、「ルネサンス的教養人」の代表格となり、「自然界のありとあらゆる現象」には規則性があり、1つの調和した世界を織りなしていると信じる人々の教祖となった。芸術と科学を結びつける能力は、円と正方形の中で両手両足を広げて完全な調和を体現する男性像《ウィトルウィウス的人体図》に端的に示されている。芸術と科学を結びつけたからこそ、彼は史上もっとも独創的な天才となった
科学を探求することが、彼の芸術を豊かにした。遺体の顔面の皮膚をはいで唇を動かす筋肉を徹底的に調べ上げ、世界が記憶することになるモナ・リザの微笑みを描いた。人間の頭蓋骨を見て、骨や歯を輪切りにしてスケッチし、《荒野の聖ヒエロニムス》では痩せさらばえた肉体の苦しみを表現した。光学を数学的に捉え、光線がどのように角膜に当たるかを研究し、その知識に基づいて《最後の晩餐》では遠近感の変化による錯視的効果を生み出した
光や光学の研究を芸術と結びつけることで、レオナルドは明暗法や遠近法を駆使して二次元に三次元の世界を構築するすべを身に着けた。「平面から立体的に浮かび上がるように人体を描くことが絵を描くことの第1のコツである」と語る。立体性がルネサンス芸術における最大のイノベーションとなったのは、レオナルドの作品によるところが大きい
晩年には、芸術のためというより、世界の深奥なる美しさに迫りたいという純粋な欲求から科学的探究にのめり込む。なぜ空は青いのか研究したのは、単に絵を描くためではなく、まっすぐで前向きな、とどまるところを知らない好奇心に駆られてのこと
レオナルドは自然の完全な調和に畏敬の念を抱き、それを織りなす文様が大小さまざまな現象の中に繰り返し現れることに気付いていた
芸術と科学、人文
学と技術といった異なる領域を結びつける能力こそが、イノベーション、イマジネーション、そして非凡なひらめきのカギとなる。レオナルドは芸術とテクノロジーの両方に美を見出し、2つを結びつける能力によって天才となった。凄まじい創造力と旺盛な好奇心を持ち、いくつもの分野にまたがって創造性を発揮
16世紀の芸術家ヴァザーリはレオナルドの非凡な才能に神の意思を感じさせるといったが、神からの贈り物というより彼自身の意思と野心の産物というべき。学校教育をほとんど受けておらず、ラテン語や複雑な計算はできなかった。彼の才能は常人にも理解し、学び得るもの。創造力を伴わない技術は不毛。レオナルドが史上最高のイノベーターとなったのは、観察と想像を融合させるすべを心得ていたから
本書の出発点は、奇跡的に今日まで残された彼の思考を最もよく表している7200ページに及ぶメモや走り書き。なかでも特に興味をそそられるのは「やることリスト」で、そこにはまばゆいばかりの好奇心が詰まっている。積極的に他の人の知恵を借りようとする
レオナルドについては、彼とほぼ同時代の書き手による主要な評伝が3
1つはジョルジョ・ヴァザーリ。レオナルドが亡くなる8年前の1511年生まれの画家で、1550年史上初の本格的な美術史『画家・彫刻家・建築家列伝』(1568年改訂版)を著す。ルネサンスという言葉を初めて使い、ミケランジェロとともに芸術の「ルネサンス」の立役者としてやや過分に評価
2つ目が1540年代に書かれた筆者不詳の評伝。一時期ガッディ家が所有していたことから『アノニモ・ガッディアーノ』と呼ばれる。フィレンツェの人々の様子が描かれている
3つ目がジャン・パオロ・ロマッツォによる評伝。画家から失明して物書きになり、1584年に長大な芸術論を発表したが、レオナルドを直接知る人々から情報を入手、特に性的指向について詳述
レオナルドの人生の詳細については様々な説があり、出生地や死亡した状況など多くの事実について結論が出ていない。何度も失敗を犯し、迷走した時期もあり、常に「偉人」ではなかった。数学に夢中になって膨大な時間を浪費したり、《東方3博士の礼拝》など多くの絵画を未完のまま放り出したことで知られ、ほぼ本人の作品とされる絵画は15点ほどしか残っていない
周囲には親しみやすく温厚と思われていたが、ふさぎ込んだり思い悩むことも多く、ノートやスケッチからは、情熱的で創造力豊かで、のめり込みやすく歯止めのきかなくなる性質が透けて見える
レオナルド、コロンブス、グーテンベルクの生きた15世紀は、発明、探求、そして新たな技術によって知識が拡散する時代であり、現代にそっくりなので、レオナルドから学ぶべきことは多い ⇒ 社会のはみ出し者であることをまるで意に介さないところもそうだ。非嫡出子で、同性愛者、菜食主義者で左利き、注意散漫でときに異端。15世紀にフィレンツェが栄えたのはそのような人々に寛容だったためで、何よりレオナルドのとどまるところを知らない好奇心や進取の気性は、与えられた知識を受け入れるだけでなく、積極的に疑問を抱くことの重要性を教えてくれる。想像力を働かせること、そしてあらゆる時代のはみ出し者や反逆児がそうであるように、人と違った発想をすること(Think Different)の大切さを

第1章          非嫡出子に生まれた幸運
一族の起源は、レオナルドより5代前のミケーレがフィレンツェの西郊外のヴィンチ村で公証人をしていた1300年代初頭に遡る。ミケーレの孫はフィレンツェの大法官まで務め、その孫ピエロが、フィレンツェで成功しヴィンチ村に帰省した時未婚の娘と関係を持って1452年生まれたのがレオナルド。生誕の地には現在小さなレオナルド美術館がある
当時非嫡出子は珍しいことではなく、レオナルドの洗礼式も大々的に行われているし、ローマ法王ですら非嫡出子を設けている ⇒ 中流階級のほうが苦労して手に入れた社会的地位を守るため、ギルドを結成し道徳的な縛りをかけており、公証人もその中にあった
非嫡出子のもう1つの利点だったのが、ルネサンス初期に専門職や商家の子弟に古典や人文学を教える「ラテン学校」に通わずに済んだこと。「そろばん学校」で算術を多少教わった以外はほぼ独学。正式な教育を受けなかったことで、経験と実践を重んじる生き方を身に着けたという自負があり、自らを「経験の信徒」と称する一方、自分を蔑む「もったいぶった愚か者」に対する激しい非難をぶちまけることもあった
教育で育まれるはずの権威への敬意を持ち合わせていなかったので、与えられた知識に健全な疑いを持ち、経験的な自然研究の手法を生み出すことができた。その上、彼には自然の驚異を観察することへの強い欲求と能力が備わっていた
生まれた年は、グーテンベルクが印刷所を開設した直後で、活版印刷術は瞬く間に広がり、知性溢れる人々は大いに恩恵を受けた。イタリアでは40年にわたって都市国家間の戦争がないという歴史上稀に見る平穏な時期が始まろうとしていた。大地主から都市の商人や銀行家へと権力が移行するのに伴い、識字率、計算能力、所得は劇的に上昇、新たな支配階級は法律、会計、信用、保険の発達によってますます栄えた
オスマントルコによるコンスタンティノープルの陥落で、ユークリッド、プトレマイオス、プラトン、アリストテレスら古代の英知が詰まった大量の文献を抱えた学者が大挙してイタリアに流れ込み、コロンブスとヴェスプッチが生まれ、探検の時代が開幕。フィレンツェではルネサンス美術や人文学が花開く

第2章          師に就き、師を超える
幼少期を再婚した母の家と祖父母の家で過ごした後、12歳でまだほかに子供のいなかったフィレンツェの父のもとに引き取られるが、父はなぜか嫡出と認める法的手続きを取らなかった ⇒ 絵を描くことや彫刻が好きで、公証人には向いていなかった
1400年代のフィレンツェほどクリエイティビティを刺激する環境は他になく、かつてはしがない毛織物の町だったのが、芸術、技術、照合の融合によって大いに発展
金融の中心。複式簿記の採用により商業も栄える。住民の識字率は3割超(ヨーロッパで最高)、新たな思想の発信地
完璧な都市の7つの基礎条件をすべて備える ⇒ 完全な自由、人口が多く豊かで美しく着飾る、水量の豊かな川があり市壁内に水車が多い、統治体制が確立、大学があってギリシャ語と会計を教える、あらゆる芸術分野で卓越、世界中に銀行と貿易の出先機関がある
人口約4万 ⇒ 1300年には10万だったが黒死病と度重なるペストの流行で激減
1430年代には建築家フィリッポ・ブルネレスキの手で芸術と技術の結晶である当時世界最大のドームが大聖堂に据えられた
他の都市国家と違い、フィレンツェには支配者である王家が存在せず、有力な商人や組合のリーダーによる共和制が成立、代議員による議会が開催されたが、実は見掛け倒しで、メディチ家が特定の役職や爵位には就かずに背後から政治と文化を支配
1430年コジモが当主になると、メディチ家はヨーロッパ最大の金融機関として最も裕福な一族で、市の実質的支配者となり、その庇護の下でルネサンス芸術と人文主義が花開く
1464年息子が跡を継ぎ、5年後には孫にあたるロレンツォが当主になると、芸術の庇護と専制支配は加速。贅を尽くしたきらびやかで壮大な娯楽の支度はそこに携わる芸術家の創造力を大いに刺激、レオナルドもその1人。さらに議論好きもあって異分野の知識の融合を促す環境があり、幅広い分野に精通しそれらを融合させる能力を何よりも重んじる文化があった
レオナルドに決定的な影響を与えた人物が2人 ⇒ ブルネレスキ(13771446)とレオン・バツティスタ・アルベルティ(140472)。前者は400万個の煉瓦でできた自立式ドームの設計者で、今でも世界最大の石積み建築ドーム。後者は透視図法でブルネレスキの弟子となった芸術家で、遠近法に関する研究を深化させ『絵画論』をブルネレスキに献呈、レオナルドと多くの共通点を持つ。「あらゆる発言も身のこなしも品格に溢れていた」と言われるアルベルティをレオナルドは意識的に真似ようとした
アルベルティは芸術に数学を応用することで画家の社会的地位を高め、視覚芸術も人文学の他の分野と同等の地位を与えられるべきと主張、後にレオナルドも同じ主張を展開
唯一教育を受けたのが「そろばん学校」で、主に商売に必要な算術を教えていたが、実用的な事例の学習に注力し、事例同士の類似点を見つける能力が重視され、これはレオナルドが科学研究で実践する方法となる
左利きだったので文字は右から左に書く。全て鏡文字で、鏡なしには読めない
左利きは大きなハンディキャップではなかったが、やや風変りと見られ、レオナルドが自他ともに「異質」と認める根拠の1つだった
14歳でフィレンツェでも指折りの存在だった父親の友人で取引先でもあるアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし絵を学ぶ。ヴェロッキオはレオナルドの才能に驚愕したといわれ、科学、幾何学の学習に打ち込む
ヴェロッキオの彫刻のなかでも傑作は、高さ120㎝程のブロンズのダビデ像だが、そのモデルは驚くほど美しい14歳くらいの少年とされているが、レオナルドが工房入りした時と像の制作に取り掛かった時期が一致しており、それまでのモデルと顔かたちが異なっておりレオナルドがモデルとなった可能性が大。若きレオナルドの美しさは、どの評伝でも一様に指摘されている
彫刻で細やかな動きを表現する能力は、ヴェロッキオの才能のなかでも過小評価されているものの1つで、レオナルドはそれを受け継ぎ、絵画において師を遥かに凌ぐ見事な動きを表現
幾何学を学び、調和的美との融合を目の当たりにする ⇒ レオナルドが入った直後に工房がコジモの墓のデザインを任され、幾何学模様で描かれた石板に影響され、更にブルネレスキの大聖堂のドームの天辺に重さ2tの石の球体を載せる技術的に極めて難しい作業を工房が任されたが、それは芸術と技術の粋を集めた偉業
凹面鏡を使って太陽光を集め表面の銅板を接合する技術は幾何学の知識が不可欠
フィレンツェにおけるヴェロッキオの最大の商売敵だったアントニオ・デル・ポッライオーロにも影響を受ける ⇒ 「近代的手法で筋肉を研究し、裸身を理解しようと多くの人体を解剖した最初の画家」と言われ、ヴェロッキオ以上に体の動きや捻りの表現に熱心で、人体の表面切開によって解剖学の知識を貪欲に学び、戦士たちの肉体の動きを力強くリアルに描く
木の楯の絵付けで、口から炎と毒を吹き出す龍のような空想の怪物をデザインしたもので、リアリティを持たせるために蛇やトカゲを集めて写生したが、最終的にミラノ公の買い上げとなり、レオナルドの最初の作品となる
ひだの研究を通じて、二次元の平面に三次元の質感を表現するための光と影の使い方の技術(キアロスクーロ)を身に着ける ⇒ 「画家にとってまず重要なのは、平面に浮かび上がるように物体を写実的に描くこと。誰よりもその技術に長けているものが名声を手にする。これこそ絵画技術の要諦であり、光と影、すなわちキアロスクーロによって生じる効果だ」というのがレオナルドの芸術論の核心
輪郭や縁をぼかすスフマートという新しい技術も生み出す ⇒ 代表的な発明の1
147220歳になって年季明け後も工房に住み込みで働き続け、市の画家の団体「コンパーニャ・ディ・サンルカ」にも加入
1473年最初のスケッチは故郷のヴィンチ村近くのアルノ川渓谷の風景で、科学的観察と芸術的感性を組み合わせたスタイルの始まりで、現実と空想の入り混じったもの ⇒ 背景に風景を描く画家はいたが、自然そのものを描き、ヨーロッパ初の風景画といわれる。地質学的リアリズムは際立ち、生涯興味を持ち続けたテーマである地層が正確に描かれている。線遠近法と合わせて空気遠近法と名付けた地平線と空の溶け合う部分も精緻に描かれている。「動き」の表現力は素晴らしく、動きを観察する卓越した技術が窺われる
工房では2つの絵の一部を担当。《トビアスと天使》と《キリストの洗礼》で、師から学び、超えていった様子がはっきりとわかる
《トビアスと天使》はボッライオーロの同名の作品と構成要素は全く同じでそれを意識していたことが窺えるが、動きがまるで違い、ヴェロッキオは彫刻家として身体を捻ったり伸ばしたりすることで躍動感を伝える技術を身に着けていた。レオナルドは既に卓越した自然観察力を身につけており、光の魔術を表現する技も完成の域に近づき、それに加えて優れた彫刻家だった師から、動きや物語を伝える面白さも学んでいた
《キリストの洗礼》は1470年完成、レオナルドが師を手伝って生み出した最高傑作。傍らで肩越しに振り返る光輝くような天使を見てヴェロッキオは驚愕し、「二度と絵筆は持たないと決意した」と、少なくともヴァザーリは書いたし、実際その後ヴェロッキオが単独で絵画を制作したことは一度もない
同時期単独で4つの作品を仕上げている
《受胎告知》(ウフィツィ美術館所蔵)は単独作か否か不明 ⇒ アナモルフォーシス(歪像)の技法に挑戦、正面から見ると作品の一部が歪んで見えるのに、別の角度からだと自然に見える
《ブノアの聖母》(エルミタージュ美術館所蔵)と《カーネーションを持つ聖母》(ミュンヘン絵画館所蔵) ⇒ 身をくねらせるぽっちゃりした赤ん坊のイエスを、光と影の表現を駆使して肉がひだの様に重なる赤ん坊の身体を写実的に表現。キアロスクーロの技法を使った初期の例。黒の顔料を使って色の濃淡や明暗を変化させることで、光と影のコントラストを効果的に伝える。キアロスクーロによって絵画に彫刻に匹敵するほどの立体感を生み出した初めての作品。動き回る赤ん坊をやさしく押さえる聖母の姿は、その後レオナルドの作品の重要なテーマとなる
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》⇒ レオナルドが描いた宗教が以外の最初の作品で、フィレンツェの貴族の女性の肖像画。モナリザへの片鱗が見られる。ベンチ家はメディチ家に次ぐ財力を持ち、父の有力な取引先。ジネーヴラと堂々プラトニックな恋を貫いた駐フィレンツェのヴェネツィア大使の依頼で描かれたもの。描かれた人物の心に潜む感情を映す、心理的肖像画と言える。レオナルドの芸術的イノベーションの中でもとりわけ重要なもので、30年後の史上最高の心理的肖像画《モナリザ》に結実

第3章          才能あふれる画家として
1476年男娼と関係を持ったとして告発されるが、匿名の投書で証人がいなかったために棄却 ⇒ ミケランジェロと違い、同性愛者であることを気に病んでいなかった
女性の恋人がいた形跡はない
男色は犯罪、教会も罪と見做す
道徳的配慮から、レオナルドの尽きない創造力の源泉は禁欲主義にあったというはとんでもない見当違いで、自らの性的欲求を全く恥じていないことは記録からも明らか
同性愛者であることは、レオナルドの心の深い部分に影響を与える。彼に人とは違う、社会に居場所のないアウトサイダーという意識を植え付けた ⇒ 社会的に成功した父とは好対照。特に父に嫡出子が出来て非嫡出子の事実を改めて思い知らされるが、はみ出し者というレッテルは、芸術家としては強味だった
77年独立して工房を持つが、事業としては失敗に終わるも、2件の未完の絵画だけでもレオナルドの名声を揺ぎ無いものとし、芸術のあり方を変える力があった ⇒ 《東方三博士の礼拝》は未完の絵画で美術史上これほど大きな影響力を持つものはないと言われ、革命的で驚異的な閃きを掴んだ途端に捨ててしまうレオナルドという厄介な天才の象徴ともいえる作品。父の斡旋で地元の修道院の依頼。題材はルネサンス期のフィレンツェでもとりわけ人気のあった場面。レオナルドより7歳年長のボッティチェリが深くメディチ家に食い込み何枚も同じ題材で描いているのを批判しつつもじっくり研究し、いくつかアイディアを拝借しているが、描き始めた作品はボッティチェリとはまるで違い、エネルギー、感情、興奮、喧騒が伝わる。下絵が何枚もあり、精緻に描かれた構図は目を見張る
膝に幼子イエスを載せた聖母マリアを中心に、時計回りに渦を描いて物語が始まる。赤子のイエスを含め絵に描かれたほぼすべての人物には感情と呼応した体の動きがある
空を描き、それから核となる人物や廃墟の一部を描いたところで筆をおいてしまう。完璧主義者ゆえにとても手に負えないと感じてしまったのか、光学への拘りから光の表現に限界を感じたのか、元々計画する方が実行するよりも好きだったからか、画面右端に描いたそっぽを向いた自画像の表情からも見てとれる。7か月後に制作を中止
《荒野の聖ヒエロニムス》も同時期に着手して未完に終わっている。聖書をラテン語に翻訳した4世紀の神学者聖ヒエロニムスが砂漠で修行する様子を描くが、人物の心理を反映させ、感情を表現しようという意欲が強烈に出ている。アルベルティの「画家は身体の内側から外側へと描いていくべき」との指示を実践、初めて解剖学の知識を活かした作品
レオナルドは、完璧に仕上げるために、多くの作品をいつまでも手元に置いて、手を加えていたことがわかる。完成しても依頼主に引き渡していない作品もある
新しいスタイルの絵画を生み出そうとしていた ⇒ 根底にあるのは物語絵画のみならず肖像画も、人間心理を描く手段であるという考え
レオナルドが感情表現にのめり込んだ一因は、彼自身が情緒不安定に悩まされていたことにあり、前記2作品を完成できなかった原因は鬱症状にあり、完成できなかったことで症状がさらに悪化した可能性もある

第4章          レオナルド、ミラノへ贈与される
1482年ミラノに向かい、17年を過ごす
ミラノは君主制下にあり、ヴィスコンティ家からスフォルツァ家に引き継がれ、レオナルドが行った時には「イル・モーロ(ムーア人)」と呼ばれたルドヴィーコ・スフォルツァが権力を持ち、ロレンツォ・メディチから外交上の贈り物のヴァイオリンに似た腕用のリラの奏者として派遣された ⇒ ミラノ到着後書いたのが自らを売り込んだ序章の手紙
レオナルドがミラノ公に提案した武器である独創的な巨大な石弓や亀のような大鎌を持った戦車は、空想から発明を生み出す才能の現れだが、想像を現実に変えるまでには至らず
理想都市のデザインは、ルネサンス期の画家や建築家のお気に入りのテーマだったが、レオナルドの提案は時代の遥か先を行っていたこともあってルドヴィーコは興味を示さず

第5章          生涯を通じて、記録魔だった
事細かに記録を残そうとする習性があり、ミラノ到着後まもなく1480年初頭から生涯にわたって続く。特に注目したのは人間とその感情
現存する7200ページ以上のノートは、おそらくレオナルドが実際に書いたものの1/4程度とされ、自身で日付を書き込むことは滅多になく、順序はわからないまま、死後バラバラにされ、興味深い部分だけ売られたりして散逸していった

第6章          宮廷付きの演劇プロデューサーに
最初にルドヴィーコ家から声が掛かったのは余興のプロデューサーとしてで、記録としてはほとんど残っておらず、束の間の娯楽に時間と創造力を費やしたのは無駄だったが、1490年スフォルツァ家当主とナポリ王女の結婚式の出し物のショーの成功で一定の評価を得、更に翌年ルドヴィーコ自身の結婚式でもパレードの演出を、96年には喜劇のプロデュースを任され、各種の舞台装置が科学的研究にのめり込むきっかけとなった
作曲した記録はないが、新しい楽器を考案
レオナルドがスフォルツァ宮の娯楽用に制作した作品群に、ペンとインクで描いたおかしな顔の風刺画がある。本人が《怪物の顔》と名付け、今日《グロテスク》として知られ、観察力が創造力の糧となっていることがわかる
顔探しとその産物であるスケッチは、人の表情と内なる感情をどう結び付けるかという探求を後押しした
スフォルツァ宮のために文芸作品も制作。ノートには300編以上が残されており、予言(謎かけ)や寓話などが人気
ファンタジー小説の草稿もある ⇒ 100年以上前のボッカッチョの『デカメロン』のスタイルを真似た作品

第7章          同性愛者であり、その人生を楽しむ
才能のみならず、美しい容姿、筋骨たくましい体格、穏やかな性格も評判
動物好きが高じて、人生のほとんどを菜食主義者として過ごす
レオナルドに寄り添った若者の中でもとりわけ重要なのは「サライ(小悪魔の意)」と呼ばれた性悪男、ジャン・ジャコモ・カプロッティ。149010歳で一緒に暮らし始め、助手兼話し相手兼記録係兼恋人。悪童だがお気に入りで生涯を通じて繰り返し愛情を込めて描き続けた。老人と若者を並べた多くの作品は、快楽と苦痛を表す2人の人物を描いた印象的な寓意画に通じるところがある

第8章          ウィトルウィウス的人体図
1487年ミラノ政府が大聖堂の天辺に「ティブリオ」と呼ばれる円蓋を建設するためのコンペを実施。大聖堂が建設されてから1世紀経て伝統的な「ティブリオ」はまだなかった
レオナルドも参加したが、共同作業した仲間との交友が契機となって、古代ローマの建築家の書物を参考に、人間のプロポーションと教会のそれを調和させるような素描を何点か制作、この試みがやがて人間と宇宙の調和を象徴するレオナルドの伝説的作品に結実
1480年代後半にはレオナルドは8歳上のブラマンテと協力してスフォルツァ宮の演芸部隊の幻想的舞台を制作。ブラマンテは画家兼技師兼建築家としてスフォルツァ宮の廷臣となり、レオナルドのロールモデル
ルドヴィーコがブラメンテに命じたサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の修道院の食堂増築工事に伴い、その壁画としてレオナルドが《最後の晩餐》を描く。教会のデザインはシンメトリーが好ましいとの考えで2人は一致、集中形式と呼ばれる正方形や円形など規則的な幾何学図形が重なるデザインを選ぶ
ブラマンテのティブリオの提案書にはレオナルドも協力して報酬をもらっている。ティブリオの設置場所の周辺を安定化させるための補助梁システムを考案したのもその1
ティブリオのデザインを決定するためにシエナからフランチェスコ・ディ・ジョルジョが呼ばれた。レオナルドより13歳上、画家に始まって建築や地下の導水管設計など多才な人で、芸術だけでなく数学に立脚したデザインに優れ、最終的にミラノ風を重視したゴシック様式に落ち着いたため、フィレンツェ流のデザインと大きく異なったためレオナルドはプロジェクトから手を引く
同時期ミラノ郊外のパヴィアの大聖堂建設では、フランチェスコとレオナルドがコンサルタントとして派遣され協力して仕事をしているが、パヴィアではレオナルド好みのシンプルで幾何学的な美しさを求めたデザインが採用されている
パヴィア城内のヴィスコンティ図書館にはウィトウィウスの『建築論』の筆写本があり、フランチェスコはラテン語からイタリア語に翻訳
マルクス・ウィトウィウス・ポツオリは紀元前80年ごろ生まれ、シーザーの下でローマ軍に仕え、大砲の設計や製作で活躍。その後建築家に、最重要の功績が『建築論』(『建築十書』とも呼ばれ、現存する唯一の古代ローマ時代の建築書)
レオナルドとフランチェスコがウィトウィウスの著書に惹かれたのは、プラトンなど古代の思想家にまで起源を遡る、人間という小宇宙と地球という大宇宙の関係性について明確に説明しているためで、それはルネサンス人文主義の象徴ともいえるアナロジーであり、あらゆる芸術と万物の法則性は、均整の取れた人体から導き出すことができるとし、このアナロジーを自らの芸術と科学の基礎に据えていた
顎から頭頂までの長さは身長の1/10、足の爪先から踵までの長さは1/6、臂から手首までは1/4、胸幅も1/4。体の他の部分にも同じようなシンメトリーがあり、それを活かすことで古代の著名な画家や彫刻家は不朽の名声を手に入れた
1489年に始めた解剖学の研究の一環として、同じような測定結果をまとめる ⇒ 臍を中心に円を描くと、両手両足を延ばしたところにぶつかる
ミラノ宮廷に集められた建築家の1員だったジャコモ・アンドレアも人体図を試作しているが、レオナルドの人体図は細部まで精緻で、科学的正確さと芸術性において群を抜く

第9章          未完の騎馬像
1489年「ルドヴィーコの父親とスフォルツァ家の不朽の栄光と名誉を称える」記念碑のデザインを任され、巨大なブロンズ製の騎馬像を製作 ⇒ 正式な廷臣に任じられ、宮廷に4人しかいない主席技術者の1人となって給料と邸宅が付与された。この時軍事費に上昇に悩む宮廷の資金不足から、給料代わりに与えられたブドウ園は終生所有
騎馬像作製のため馬の解剖にのめり込み、比較解剖学に発展
巨大な銅像はいくつかの部分に分けて作るのが普通だが、レオナルドは1つの鋳型で作ろうと決めるが、フランス王シャルル8世のイタリア全土侵攻によりプロジェクトは中止、騎馬像のブロンズで大砲が作られたが役立たず、フランス軍は1499年ミラノを征服

第10章       科学者レオナルド
自分は正式な教育を受けていないから、自らの経験から学ぶしかない、とよく口にしたが、生涯を通じて、与えられた知識より経験を重んじる姿勢を貫く ⇒ 古代ギリシャ・ローマ時代の学問を再発見・再評価した典型的なルネサンス人との明らかな違い
ミラノという新しい学びの環境で、過去から受け継がれてきた知識を見下すような態度は次第に軟化。転換点は1490年代初頭ラテン語の独習に乗り出したとき
1452年のグーテンベルクの活版印刷技術が瞬く間にイタリアにも拡散、レオナルドはヨーロッパの思想家としては初めてラテン語やギリシャ語を学ばなくても膨大な科学的知識を身につけることができた
他社の頭脳を借りることにも貪欲で、自らの経験と並んで確立した知識も尊重するようになったが、それ以上に重要なのは、科学の進歩は両者の対話から生まれると知ったことで、それが知識は実験と理論の対話から生まれることもあるという気づきに繋がる
実験への拘りは、本質的な信念と呼べるもので、理論からの演繹ではなく、実験から帰納的に考える方を好む
中世のスコラ派神学者がアリストテレスの科学をキリスト教信仰と融合させ、公式な教義を確立して以降、懐疑的探究や実験の余地はほぼなくなり、ルネサンス初期の人文学者ですら、古典文献に書かれた知識を検証するより、そのまま引用する傾向があったため、この因習を打破したレオナルドの経験主義的アプローチは時代の先を行っていた
経験と実験が相互補完的なアプローチであることに気付いたことは、ミラノ大聖堂のティブリオの提案にはっきりとその進化が見られる
ガリレオが登場する100年以上も前のことで、実験と理論の対話を追求する西欧世界の思想家の流れがその後の科学革命に繋がる
後世の科学者が抽象的な数学的思考能力を駆使して自然界の法則を導き出したのに対し、レオナルドには自然界のパターンを見抜く才能があり、アナロジーによって理論を構築
異なる領域に共通するパターンを見抜く才能にもあふれる
病的な好奇心と、薄気味悪いほど鋭い観察力も科学的探究に役立つ強み
動きを観察する能力は、筆の動きを通じて絵画の中に表現され、また、スフォルツァ宮で働くうちに、動きへの関心は科学的、技術的研究に繋がる。その最たる例が鳥の飛翔の研究で、人間が空を飛ぶための装置を作る試み

第11章       人間が鳥のように空を飛ぶ方法
1490年頃から20年以上にわたり、珍しく地道にかつ持続的に、鳥の飛翔と人間のための飛行装置の研究に打ち込む ⇒ 自然への好奇心、観察力、技術者としてのセンスが融合
アナロジーを使って自然のパターンを発見するという研究方法の典型であり、流体力学や運動法則といった純粋理論の領域まで踏み込んでいるのが大きな特徴
もともとは舞台芸術への関りから始まる

第12章       機械工学の研究者
機械への関心は、動きへの拘りと密接に結びつく ⇒ 人体の解剖図と同様機械の解剖図を描き、個々の構成要素の役割や効果を論じ、11つの部品の動きを伝達する仕組みを解明しようとした。デッサンは思考のツールであり、紙の上で実験を行い、様々な概念を視覚化して評価
物体に力が加わると勢いがつくことを理解し、「はずみ」と呼んで、ニュートンの提唱する運動の第1法則である慣性の法則を予示 ⇒ 水力を使った永久機関を構想
摩擦が永久運動を妨げることを通じてすばらしい洞察がいくつか生まれた ⇒ 摩擦は、物体の重さ、傾斜の表面の柔らかさ(粗さ)、傾斜の傾きという3要素に因ることを発見、物体と傾斜面積の接触面の大きさとは無関係であることを発見 ⇒ 摩擦計の原型を発明
摩擦を抑えられる合金を作るための、金属の最適な組み合わせを記録したのもレオナルドが初めて
ヨーロッパに新たな科学の時代をもたらし、占星術師や錬金術師など物事の因果を非機械論的に説明しようとする人々を嘲笑し、宗教上の奇跡は聖職者の管轄として距離を置く

第13章       すべては数学であらわせる
観察結果を理論化するうえでのカギとなるのは数学だという確信を深めていく ⇒ 「数学を応用できない科学に確実性はない」とまで言い切る
幾何学が得意な一方、代数や数字は苦手で、自然界で見つけたパターンを数式で表現することはできなかった
ミラノ宮廷での親しい友人に数学者のルカ・パチョーリがいる。複式簿記を初めて本格的に広めた人物。レオナルドは幾何学的図形への関心を共有、数学のゲームを通じてユークリッド幾何学の難解さと美しさを習う。パチョーリもレオナルドの挿絵に賛辞を贈る
黄金比を初めて一般に広めたのもパチョーリ
レオナルドが絵を描くうえで意識的に精緻な数学的比率を使ったとする根拠はない
幾何学的図形が別の図形に変化するときの体積保存を理論的に研究し始まる ⇒ 図形や物体の性質を変えずにどのように変形し得るのかを研究する学問である位相幾何学(トポロジー)の先駆者。生涯を通じて形の変化に魅了され続ける

第14章       解剖学に熱中する
レオナルドの解剖学の研究は、主に作品の質を高めるためのもの
画家兼技術者としての先達だったレオン・バッティスタ・アルベルティは、画家にとって解剖学の研究は不可欠と指摘し、人間や動物を正確に描くには、その内側を理解するところから始める必要があると説く ⇒ レオナルドはこのアドバイスを徹底的に実践
基本は筋肉の理解で、フィレンツェの芸術家たちは時代の先端を行っていたが、ミラノでは解剖学の研究で中心的役割を果たしたのは医学者。ミラノでは芸術より知性が重んじられ、パヴィア大が医学研究の中心で、レオナルドも著名な解剖学者から教えを受ける
「魂は意識の中にあり、その意識はあらゆる知覚が出会う部分にあるとみられ、これをセンソ・コムーネと呼ぶ」と書く ⇒ 感情がどのように体の動きに変わるかを示す

第15章       岩窟の聖母
ミラノに移って最初の数年、「無原罪の御宿り信心会」から活動の場であるフランシスコ教会の祭壇画の依頼が舞い込み、2枚描いたうちの1つが《岩窟の聖母》で、1480年頃の作、第3者に売却され現在ルーブルにある。もう1つが1508年頃完成のもので、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵。聖母マリアが一切原罪を犯すことなく懐胎したとする教会の教義と矛盾するために描き直したとされる
《岩窟の聖母》の下絵から《少女の頭部の習作》が現れ、ハッチング(たいていの画家は右上がりに描くが、レオナルドは左利きなので右下から左上がりに描く)を使って影や質感を出すという彼流の技法が見事に表れ、卓越したデッサン力を端的に示している

第16章       白貂を抱く貴婦人
レオナルドが我々を魅了してやまない理由の1つは、その作品の多くが謎に包まれているためで、例えば1480年半ばに描かれた《音楽家の肖像》は、レオナルドの手による唯一の男性の肖像画だが、それが描かれたという記録もなければ、文献での言及もない
未完、依頼人もモデルも不詳、1人で描いたかどうかも不明、全て謎のまま
チェチリア・ガッレラーニはミラノの知的な中産階級生まれの美貌の持ち主で、ルドヴィーコに見初められ身籠るが、すでに決まっていた名家令嬢と結婚し、チェチリアは富裕な伯爵と結婚し、優れた文芸のパトロンとして新たな人生を送る ⇒ チェチリアと最高の月日を送っていた89年にルドヴィーコが初めてレオナルドに依頼した肖像画が《白貂を抱く貴婦人》。極めて革新的で、感情豊かで生き生きとしており、肖像画のあり方を一変させた。「肖像画の姿勢や仕草によって描かれた人物の思考を表現するという概念をもたらした」と評価
白貂はルドヴィーコの象徴でもあり、ナポリ王から「白貂勲章」を受勲、宮廷詩人が「イタリアのムーア人、白き貂」と抒情詩に歌ったこともある。また白貂は清廉の象徴で、レオナルドは自作の動物寓話の中で「白貂は土にまみれるくらいなら、自ら命を絶った」「自らを律し、11度しか食事をとらなかった」と書いていたり、言葉遊びを好み絵画にも使っているが、白貂(ギリシャ語で「ガリー」)はガッレラーニの名を暗示。《ジネーヴラの肖像》でもモデルの名前とかけてセイヨウネズ(ジネブロ)を描いている
「コントラポスト」と呼ばれる頭と胴を捻ったポーズは、《岩窟の聖母》の天使にも見られるように、既にレオナルドの生き生きとした作風の特色
レオナルドの才能が最もよく表れているのは、白貂の頭とその後ろにチェチリアの胸の柔らかな肌が描かれた部分。柔らかな曲線を描く頭蓋を細かな毛が多い、その11本を照らす光が立体感を出す。チェチリアの肌は青白さと赤みが入り混じり、その柔らかな質感は所々光を浴びて輝くビーズの硬さとコントラストをなす
同時期スフォルツァ宮の女性を描いた《ミラノの貴婦人の肖像》でも、光と影を使った実験的な作風が見られる。モデルはチェチリアの後のルドヴィーコの公娼となったルクレツィア・クリヴェッリの可能性が高い
1998年初頭クリスティーズのオークションでイタリア・ルネサンス画風を模した19世紀初頭のドイツ人画家の絵として《美しき姫君》が落札されたが、美術収集家のシルバーマンはルネサンス期の作品と確信、9年後に漸く手に入れたが、レオナルドの作品だと証明しようとした収集家の物語は有名。当時の画家は署名もせず記録にも残していないため、レオナルドの真正性を立証する作業は、この天才と向き合う醍醐味の1つで、芸術と科学を織り交ぜた学際的探究はレオナルドに相応しい
《ミラノの貴婦人の肖像》の写しがレオナルドの作品か否かをめぐる裁判では、鑑定家の判断が正しかったが、美術鑑定はエリート主義の秘密結社が牛耳る世界だとポピュリストの批判の的となる
鑑定家に頼ることの問題は、判断の難しいケースでは常に支持と不支持が拮抗すること
デジタルスキャンに進み、画面に残された指紋を法医学的鑑定にもかけ一致が確認できたとして2009年には世界的な大ニュースとなったが、鑑定家の資質に疑問が投げかけられ、更に詩集の口絵だったという説も浮上、依然として決定的なことは何もわかっていないが、この論争は我々がレオナルドの芸術について何を知っていて、何を知らないかを改めて浮き彫りにした。真のレオナルド作品の要件とは何かについて我々の理解を深めてくれた

第17章       芸術と科学を結びつける
1498年スフォルツァ城での討論会で、幾何学、彫刻、音楽、絵画、詩歌のどれに相対的優位があるか、というテーマ。レオナルドは科学的及び審美的観点から絵画を徹底的に擁護
レオナルドの論旨には幾何学の優位性を主張するために呼ばれたパチョーリが褒めちぎっている
絵画を光学という科学的探究や遠近法という数学的概念と結びつけ、画家という仕事やその社会的地位への評価を高めようとしていた
主張の前提は、5感の中で視覚が最も優れているという考え
創造的営みは古来より、技術と高尚な芸術の2つに分類され、絵画は手を動かす作業ゆえに技術の1分野と見做されていることに反発、絵画は芸術であるだけでなく科学だとした
観察力と創造力を組み合わせ、「自然の創造物のみならず、自然が生み出すことのできなかった全てを描き出す」能力こそが、レオナルドを特徴づける才能
レオナルドは、討論会での論旨を『絵画と人間の動作について』として刊行しようとしたが、完璧を期す性格から論文が日の目を見ることはなかった
レオナルドの死後、愛弟子であり相続人となったフランチェスコ・メルツィが1540年代にレオナルドの『絵画論』として発表
レオナルドの観察力がとりわけ際立っていたのは、光と影の相互作用を見るときで、その知識を活かして絵の中の物体に立体感を持たせた
観察と理論を対比させることが彼の科学的研究の特徴
ほとんどの物体の形を輪郭線ではなく影で表現するという手法は、観察と数学から導き出した大胆な洞察に基づく や 自然界の物体には、はっきりと目に見える輪郭や境界が存在しない ⇒ 自然界においても芸術作品においても、あらゆる境界はぼやけているはずだと考えるレオナルドは、スフマート技法の先駆者で、《モナリザ》などに特徴的に使われている。レオナルドの人生を貫く中核的主題のアナロジーともいえるのがスフマート
光学の研究も、境界が存在しないという結論を助ける
眼球を通過した後、画像の上下左右がどうのように修正されるのかという疑問から、眼球から脳までの視覚プロセスの経路を図解するという探求が始まる
絵画の土台となる遠近法の研究から、遠近法とは目の働きを完璧に理解していることに他ならないと結論付ける ⇒ 遠近法研究におけるレオナルドの最大の功績は、対象を幾何学に基づいて前方と後方にある物体の相対的大きさを調整する線遠近法のみならず、色彩や明瞭さに変化をつけることで奥行きを表現する方法にまで広げたこと
単に絵を描くためという目的を遥かに超えて科学的探究にのめり込むことで、頭でっかちになってしまう危険もあったが、《ジネーヴラ》と《モナリザ》を比べてみれば、レオナルドが光と影を直感的に、そして科学的に深く理解したことで後者は歴史に残る傑作となったし、遠近法の法則を曲げなければならないような複雑な状況に直面した時には、臨機応変に対応する能力があったことは《最後の晩餐》を見れば一目瞭然

第18章       最後の晩餐
1494年初頭正式にミラノ公となったルドヴィーコは、芸術の庇護や大掛かりな作品の発注といった伝統的なやり方で社会的立場を強化しようとし、また自らの一族のために霊廟を設けることとし、選んだのがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で、ブラマンテに修復を命じるとともに、レオナルドに新たに建設した修道院の食堂の北側の壁に、宗教美術の中でも最も人気の高い場面の1つである《最後の晩餐》を描くように命じた
レオナルドの筆の遅さには、ルドヴィーコも含め周囲が焦燥を感じたが、出来上がりは待っただけの甲斐のあるもの
見る者を魅了してやまないこの史上最高の物語絵画には、レオナルドの才能の様々な要素が凝縮 ⇒ 独創的は構成からは、自然な遠近法と人工的遠近法の複雑な法則に精通していただけでなく、必要とあらばそうした法則を捨て去る柔軟性が読み取れる。弟子たちの仕草からは動きを表現する才能、そして心の動き(感情)を体の動きで表現せよというアルベルティの教えを忠実に実践する優れた能力が窺えるし、スフマート技法によって物体の輪郭線をぼかしたのと同じように、遠近感や時間の流れもぼかしている
動きや感情がさざ波のように広がっていく様子を伝えることで、一瞬を切り取るだけでなく、まるで舞台を演出する様にドラマチックな状況を描き出している。《最後の晩餐》の不自然な人物配置、大袈裟な動き、遠近法の効果、芝居がかった手の仕草などには、宮廷の舞台演出家、プロデューサーとして活動した経験が反映されている
静止画的な印象を受けるという不満があるが、時間をかけてみると、自然の中にはっきりとした境界がないように、独立した自己完結的な時間というものもない。凍てついた輪郭のはっきりした瞬間というものは存在しないというレオナルドの考えがここには表れている。時間の流れにおいても、11つの瞬間は過去と未来の一部なのだ。どの場面も独立した瞬間ではなく、物語の一部をなしている。《最後の晩餐》のドラマは、イエスが言葉を発した直後に始まっている。言葉の波紋はイエスから画面の端へと広がり、物語を生み出している
ある瞬間の身体の動きを表現するだけでなく、心の動きを伝えることにもたけていた
「人物はその体勢によって、見る者が容易に意図を察せられるように描かなければならない」という自身の主張を、《最後の晩餐》ほど見事にやってのけた例はない
人物の意図を表現する手段として最も重視したのがしぐさ
ゆっくりと幾重にも層を重ねていく手法は、壁画の主流だったフレスコ画には使えず、代わりに乾いた漆喰の壁に直接絵の具で描く。白鉛の下塗り剤を塗り、顔料と水と卵黄に溶かしたテンペラ絵具と、顔料をくるみ油や亜麻仁油と混ぜた油絵の具を使う
98年初頭に完成、ミラノ公は教会に近いブドウ園を与え、レオナルドは終生所有
20年後には絵の具が剥げ落ち始め、レオナルドの実験的手法の失敗が露見。1550年にヴァザーリは「見る影もない」と書き、1650年には絵の下の部分を出入り口のために穴をあけてしまい、キリストの足の部分は失われた。1726年以降少なくとも6回にわたって修復が試みられた。最後の修復は1978年から21年間続き、全体として可能な限り元の姿に忠実に復元されたという評価が多いが、謎の部分も多く、レオナルドの人生や作品と同じように、この作品の真の姿もうっすらとした謎のベールで覆われている

第19章       母の死、そして苦難
1493年未亡人となっていた母がミラノに到着、レオナルドと一緒に暮らすことを望んだようだが、翌年死去。母の助けを借りてシンプルな家系図を描いている
95年頃がキャリアの全盛期。90年代後半《最後の晩餐》完成後は、大型プロジェクトの依頼も途絶え、城内の内装デザインが中心、報酬や仕事ぶりを巡るトラブルが増える
1499年フランス王ルイ12世がミラノを征服、レオナルドの工房は被害を免れ、仏軍も好意的。ルイ12世は《最後の晩餐》を持ち帰ろうとしたが、お抱えの技術者が難しいと答え助かる。レオナルドはルイ12世に作品を描くことを約束するなど仏軍に協力した後、18年生活したミラノを出立フィレンツェに戻る

第20章       フィレンツェへ舞い戻る
1500年ミラノを発って、マントヴァ経由ヴェネツィアに向かい、トルコ軍の侵入を防ぐための軍事的アドバイスをする ⇒ 川に閘門を作って谷間を水没させるアイディアや潜水装備の数々を提案したが、実現したものはない
フィレンツェに戻ったのは3か月後で、サヴォナローラによる反動期が収束したころ
以後の6年間は、レオナルドの人生において最も生産的な時期 ⇒ 《モナリザ》《聖アンナと聖母子》《レダと白鳥》を描き、技術者として建物に関するコンサルティングも引き受け、チェーザレ・ボルジアの軍事顧問としても活動
伊達男として振る舞い、人目を引くことを厭わなくなり、仮面舞踏会のような衣装で街を歩く
マントヴァ侯妃である熱心で我儘な美術収集家のイザベラ・デステ(ルドヴィーコの亡き妻ベアトリーチェの姉)からの肖像画の依頼に対し、ルーブルに残されたデッサンを見る限り、レオナルドには描く気配が全く感じられず、業を煮やしたイザベラがフィレンツェにまで乗り込んできても、単に金を出すという相手の言いなりになることはなかった
ルイ12世の秘書官との約束で描いた《糸車の聖母》は、現存する同タイトルの作品が少なくとも40点もあり、どれが秘書官に届けられたものかを巡り論争がある ⇒ 工房のチームワークとして評価すべき。ラファエロなどレオナルドの信奉者を皮切りに、ヨーロッパ中の画家が退屈な聖母子像を描くのをやめ、感情的ドラマに満ちた物語を表現するようになった
加えて《糸車の聖母》は、レオナルドの傑作の中でもとりわけ贅沢に絵の具の層を重ねた別の作品の土台となった。同じ様に幼子イエスが自らの運命を悟った瞬間に始まる感情の渦を描いているが、次の作品では聖母マリアの母、聖アンナもそのドラマに加わっている

第21章       聖アンナと聖母子
最高傑作の1つ《聖アンナと聖母子》には、レオナルドの非凡な才能を示す要素が数多く含まれる ⇒ 1つの瞬間を物語に転換する能力、心の動きと一致する身体的動き、光の効果の卓越した表現、繊細なスフマート技法、地質学と色彩遠近法の知識に基づく背景の描き方など
依頼者はレオナルドが住まいとしていたサンティッシマ・アヌンツィアータ教会で、既に地元の画家でレオナルドが未完のまま放棄した《東方三博士の礼拝》を仕上げたリッピに祭壇画を依頼していたが、レオナルドが描く用意があるといったので身を引いたという
レオナルドが拘り続けていたのが「なぜ空は青く見えるのか」という問いで、ちょうどこの頃、それは空中の水蒸気のためであるという正確な結論に辿り着いたため、それまで誰も描いたことのないような空の輝きと靄のかかったようなグラデーションが表現されている
この作品で最も重要な点は、レオナルドの芸術を貫く主要テーマである、地球と人間との精神的繫がりと類似性が表現されていること ⇒ 地球という大宇宙の遥かな地平線から曲がりくねった川が流れ出て、聖家族の血管に流れ込み、最終的に受難の象徴である子羊に行き着く。川の流れは、登場人物の流れるような構図と繋がる
最終的に依頼者の教会には引き渡さず、生涯手元に置いて修正を加え続けた
レオナルドの板絵の中でもっとも複雑かつ重層的なもので、《モナリザ》に匹敵する、あるいはそれを超える傑作と評価する声もある ⇒ 構成や動きが遥かに複雑
「未完の完璧さ」 ⇒ レオナルドは未完の達人。アペレスの再来ともいわれた

第22章       失われた作品、発見された作品
作品の真贋や制作時期に謎が多いことがレオナルドという芸術家が靄がかかったように捉えにくい一因。署名も残さず。食費などつまらない事柄には夥しい量の記録を残しているのに対し自身の作品については行き先も含め全く書き残していない
l 失われた作品の中で魅惑的なのが《レダと白鳥》で、多くの模写の存在から、自らも完成させた可能性が高い
ギリシャ神話の一節、ゼウスが白鳥に姿を変え、人間の姫であるレダを誘惑した物語
レオナルドの描写は、性よりも受胎に照準を合わせ、他の画家が誘惑の場面を描いたのに対し、命の誕生の瞬間を選ぶ ⇒ 世俗的で素朴な性的表現こそ、この絵の際立った特徴であり、非宗教的な物語絵画でレオナルドが明らかに性的あるいはエロチックな場面を描いたのはこの作品だけ
l 《サルバトール・ムンディ(救世主)》⇒ 2011年に新たに発見、美術界を驚愕させた。それまで未発見でレオナルドの作品と認められたのは、1909年発見のモスクワのエルミタージュ所蔵の油彩画《ブノアの聖母》と、100年後のチョークの素描《美しき姫君》のみ
何度か取引されたが、鑑定の結果、本物のレオナルド作品となり、美術商らのコンソーシアムは13年にスイスの美術商に80百万ドルで売却、さらに127百万ドルで肥料で財を成したロシアの富豪に転売

第23章       殺戮王チェーザレ・ボルジアに仕える
ルネサンス期の不品行な法王の中でも1,2を争うアレクサンデル6世は、チェーザレ・ボルジアら10人の非嫡出子を認知した初めての法王。チェーザレを枢機卿にしたが、支配者になることを望んだ本人が返上、法王軍の最高司令官になるために、弟を刺客で殺害
チェーザレはルイ12世と同盟を結んでミラノに入城、到着の翌日《最後の晩餐》を観に行き、レオナルドと初めて会う
チェーザレのフィレンツェ攻撃に対し立ち向かったのが外交官のマキャベリで、チェーザレは攻撃に代えてレオナルドを召し抱える ⇒ 交付されたパスポートには軍事技術者であり、イノベーターと書かれており、レオナルドが夢見てきた役割
8か月にわたって仕えチェーザレ軍と行動を共にし、港湾の改修や要塞のスケッチを残す
戦争を巡る科学と芸術の両面におけるレオナルドの最大の功績は地図を製作したことであり、それも都市を真上から見た眺めを地図にしたもので、端には近隣の都市までの距離が書き込まれ、軍事作戦に於いては有益な情報となった
1503年チェーザレのもとを去る ⇒ 不和や戦闘はごめんこうむる。これほど野蛮な狂気の沙汰はないとしたが、権力に惹かれるところもあったようで、フロイトの格好のテーマ

第24章       水力工学
ミラノ時代運河システムを熱心に研究し、水力制御の仕組みを詳細に記録
アルプス山脈の雪解け水を源流とするいくつもの川の流れは古代から入念に管理され、農業用水のほか、物流のための巨大運河も3世紀前には造られ、ミラノ公国は歳入の大部分を水の利用権を売ることで稼いでいた
一方フィレンツェには水利設備がなく、ミラノで学んだことを実践しようと考える
フィレンツェの唯一の海への出口だったピサが1494年独立するとともに、コロンブスを皮切りに大航海時代が始まるが、力の弱いフィレンツェ軍はピサを奪回できなかったため、一計を案じたのがアルノ川の流れを変えて地中海に出るための治水工事で、1504年に開始されたが、別の水道技師が水路を浅くしたため水が通らず事業は失敗。運河によってバイパスを作る案に変更して進めようとしたが財政的に持たずに挫折
そのほかにも湿地帯の水はけ対策や円形の要塞などいくつかの試みもあったが、いずれも実現しなかった ⇒ 現実と空想の境界を行き来するかのようなアイディアが多く、空想を現実に落とし込む能力の欠如がレオナルドの弱点とされるが、ビジョナリーには欠かせない資質でもある

第25章       ミケランジェロとの対決
1503年フィレンツェのシニョーリア宮殿(現在のヴェッキオ宮)の大会議室に幅10数メートルの壮大な戦争画を描くという注文を受けて描いたとされるのが《アンギアーリの戦い》で、ルーベンスの模写で偲ぶことができる
同時に個人的にも芸術家としてもライバルだったミケランジェロも反対側の壁に巨大な壁画を描く注文を受けていたために、このプロジェクトの重要性をことさら高めている
結局どちらも未完に終わり、下絵や模写を通じてしか知ることはできないが、この絵を巡る物語は、対照的なスタイルを持つ2人が、それぞれ芸術の歴史をどのように変えたかを伝える
注文はフィレンツェがミラノに勝利した場面だったが、レオナルドが目指したのはもっと深みのある作品で、戦闘の山場である軍旗争奪の場面。戦争には否定的だったが、武術には魅了されて、激情のぶつかり合いとおぞましい残虐性の両面を表現しようとしていた
ミケランジェロは下級貴族の生まれ。レオナルドが不在の間にフィレンツェで頭角を現し、メディチ家の手厚い庇護の下1496年にはローマに出向いて《ピエタ》像を制作。気難しい彫刻家で、敬虔なクリスチャンで同性愛に苦しむ。ヴァザーリによればレオナルドを「心底軽蔑していた」
1504年ミケランジェロは《ダビデ》の大理石像を完成させるが、設置場所を巡る議論で、レオナルドは回廊の目立たない場所とする意見を支持したのみならず、裸体の一部を見苦しくない飾りをつけるべきと仄めかしたが、最終的にはミケランジェロの希望が通りシニョーリア宮殿の入り口に設置されたものの、レオナルドの主張も認められ、像の性器部分は銅製の葉で覆われた
シニョーリア宮殿の壁画は、両巨頭の競作として進められる ⇒ ミケランジェロが依頼されたのは1364年にピサを打ち負かしたカッシーノの戦いだったが、戦闘とはほとんど関係ない場面を選び、川岸で慌てて水から上がる兵士の裸体を描いたもので、戦争に行ったこともなく男性の裸体に魅力を感じていたミケランジェロらしい選択
滅多に他の画家の批判をすることのなかったレオナルドだが、ミケランジェロの絵を見て、「まるで人間ではなくクルミの大袋、人体の筋肉ではなく束になった大根でも見ているようだ」と批判。レオナルドの本質的な批判は、彫刻よりも絵画の方が高次元の芸術であるという考えに基づき、ミケランジェロの絵画も彫刻的と批判している
2人の異なる作風はフィレンツェの美術界の2大潮流を体現 ⇒ レオナルドやラファエロに代表されるスフマートやキアロスクーロの技法を重視する一派と、ミケランジェロなど「ディゼーニョ」と呼ばれるくっきりとした輪郭線を好む伝統的作風の一派
2人の作品は未完に終わったが、最終的に葬ったのは2人を英雄扱いした評伝作家で画家のヴァザーリ ⇒ 1560年代に大会議室の修復を依頼され、自ら6枚の戦争画を描いたが、近年ハイテクを使った美術品診断チームがその下にレオナルドの未完の作品が残っている可能性を示唆する証拠を発見。ただし、当局が更なる調査には難色を示している
レオナルドが未完のまま捨て置いたのは、画材のトラブルと推測されるが真相は謎
絵画史上、すでに失われた作品でこの2枚の戦争画ほど影響力の大きかったものはなく、両者がルネサンスの転換点となり、盛期ルネサンスを形作ったともいえる ⇒ 2枚の下絵が置かれていたメディチ宮殿と「法王の間」は、世界最高の学び舎であり続け、その絵は16世紀の芸術家の想像力を刺激する要素が溢れていた

第26章       またもや、ミラノへ
1504年父の死に動揺を見せ、死亡日時や享年の記述に齟齬が見られる
1506年再びミラノに向かい、以後フィレンツェには時折戻るだけとなる
ミラノへ行く口実となったのは、《岩窟の聖母》の報酬の残金未払を解決するためで、裁判所の判決は作品が未完だとしたことから作品を仕上げるために行ったとされるが、腹違いの弟たちと同じ町に暮らすことに疲れたとも思われ、ミラノを支配しチェーザレから町を守ってくれる立場のルイ12世がレオナルドに心酔してミラノに戻してほしいとの要望があったこともあり、町の政府も3か月を限って出国を認め、戻らなかった際は罰金迄科すとしたが、レオナルドは戻るつもりはなかった
ルイ12世はレオナルドを「王室付き画家兼技術者」に任命し、翌年のミラノへの凱旋の際はレオナルドが饗宴の企画に加わっている ⇒ レオナルド自身もまだ華やかさの残っていたミラノを愛した
1507年ミラノ軍の将校にして高名な貴族の子で画家志望のフランチェスコ・メルツィという14歳の少年と出会い手元に置いて手ほどきをし、10年後の遺言には養子にした旨が明記されている ⇒ メルツィはレオナルドの助手兼筆記者として美しいイタリックの筆跡がレオナルドのノートのそこかしこに残っている
2人の関係の全貌はベールに包まれているが、家族の様なものであったことは間違いなく、サライより高給を得ていたことは判明しており、レオナルドが2人の確執に苦労したことを示す痕跡も残っている
1507年フィレンツェに戻ったのは、レオナルドの後ろ盾だった叔父の相続で異母兄弟と揉めたからで、子供のない叔父は遺産をレオナルドに残す遺言を書いたことに異母兄弟が異を唱え訴訟になったが、ルイ12世までが早期解決に圧力をかけたこともあって無事有利に解決しミラノに戻る

第27章       解剖学への情熱、ふたたび
1508100歳の男性の遺体の解剖を機に、13年にかけて解剖学研究の第2幕が始まる
その時の解剖図はまさに科学と芸術の両面における偉業といえるほど精緻なもの。特に類稀なるデッサン力を生かした動脈硬化のプロセスの記録は、2歳児の血管との比較を通じ、血流が弱まると様々な悪影響があることを解き明かし、加齢による動脈硬化発生のメカニズムを始めて明らかにした
キツツキの舌やワニの顎の動きを描写したのも、他の筋肉の動きと異なるものをそこに見出したからで、レオナルド独特の好奇心と動体視力の賜物
印刷技術の普及もレオナルドが研究に没頭したことを後押し ⇒ 多くの参考文献が手元にあり研究の基礎となった
レオナルドが特に興味を持ったのは、人間の脳と神経系がどのように感情を体の動きへと変えるかで、「四肢の随意運動を引き起こす神経は脊髄から出ている」と説明。あらゆる神経とそれに連なる筋肉の中で、レオナルドにとって最も重要だったのが唇を制御するもの
心臓の研究では、解剖学最大の業績ともいえる大動脈弁の仕組みを解明するが、その意義が本当に理解されたのは最近になってから
胎児の研究も解剖学の締めくくりとして向き合う
発表より追求に熱心なあまり、功績として残らず ⇒ 原動力は純粋な好奇心
現代解剖学の歩みはレオナルドの死から25年後、ヴェサリウスが画期的で美しい著書『人体の構造』を発表したことで始まっており、レオナルドが科学史に残すはずだった足跡は幻となった

第28章       地球と人体を満たすもの、その名は水
自然界に繰り返し登場するパターンを見つけるのに長けていて、その芸術と科学に見られるアナロジーの中でも、もっともスケールが大きく広がりがあるのが人体と地球の比較で、「人体と世界はそっくり」と書いている
小宇宙(=人間/人体)と大宇宙(=地球)の関係は古代から研究されてきたテーマで、レオナルドがこのアナロジーについて初めてノートで触れたのは1490年代初頭
地球と人体におけるもっとも重要な要素と見ていたのは、水の動き ⇒ レオナルドの初期の作品の1つは、流れ落ちるアルノ川によって浸食された岸壁の風景
1490年代には水力学の論文に取り掛かり、水深の変化による流れの速さの変化や渦の発生や反応の考察など極めようとしたが、いずれも完成することはなく、1508年再び同じテーマに取り組む
偉大な知性の特徴の1つは、変化を厭わないこと ⇒ 理論と経験を対話させ、矛盾が生じたときには、進んで受け入れて新たな理論の構築を試みる。先入観をあっさりと捨て去る姿勢は創造性のカギとなる要素。地球の水が山頂から湧き出すことを見て、海が地球の下を貫通していたり山の底から頂上まで貫通しているという従来の考えを捨て、地表上の蒸発、雲の形成、その後の降雨によって地球上で水の循環が起こることを発見
ノートの隅に「太陽は動かない」と書いたのも、コペルニクスやガリレオより数十年早く太陽が地球の周囲を回っているのではないことを発見したことを示すのか、単なる思い付きか、詳しい説明がないのでわからないが、この1文を書いた1510年頃には、地質学の研究から発展し、宇宙における地球の位置を始め、天文学の不思議を探求するようになっていた
アリストテレスに始まりニュートン、アインシュタインといった天才の中の天才が向き合ってきた「空はなぜ青いのか」との素朴な疑問に対しても、自らの観察の結果を発展させ、「空気が見せる淡青色は、空気そのものの色ではない。温かな湿った空気が極めて微細な目に見えない原子となって蒸発し、それに太陽光線がぶつかり、様々な色合いの光を発するためだ」。もっと簡潔には、「湿気の微粒子が輝く太陽光線を捉え、それを通じて空気は青色になる」と正しい結論に至る
虹の発生原因に答えることはできなかったが、それには光の波長という考え方が必要でニュートンを待たねばならなかった

第29章       法王の弟に呼ばれ、新天地ローマへ
フランスとイタリアの各都市国家間の関係は絶え間なく変わっていったが、レオナルドはその政治的混乱をうまく切り抜ける能力があった
1512年フランスによるミラノ支配が弱まり、ルドヴィーコの息子が再びミラノを奪い返し、3年間統治。その間レオナルドはメルツィ家で家族のように心地よく過ごす
レオナルドの肖像画とされるものの中で最も見事で有名なのは、自身が特徴的な左手のハッチングを用いて赤いチョークで描いた作品。現在の所在地から《トリノの肖像画》と呼ばれるが、本当に自画像か否か定かではないが、あまりにも頻繁に使用されるためにレオナルドのイメージとして定着
レオナルドは常に有力なパトロンを探していたが、1513年ローマに新たなパトロン候補が登場 ⇒ かつてのフィレンツェの支配者ロレンツォの息子ジョヴァンニ・デ・メディチがローマ法王レオ10(聖職者以外が法王となった最後)となり、太っ腹の芸術のパトロンとして大盤振る舞いをしたが、それを支えたのが弟のジュリアーノでフィレンツェからローマに移り知的サロンを立ち上げ、そこにレオナルドが呼び寄せられ定額の報酬を約束
法王の夏の離宮であるベルベデーレ宮殿に住まいを与えられる
絵画より科学と工芸に興味を示し、鏡の技術開発にのめり込む ⇒ 火を熾す凹球面の製法では数式よりも視覚化によって理解を深めた
1515年ジュリアーノが結婚でローマを離れると、新たなパトロンが必要となり、ローマ法王のフィレンツェ凱旋に随行した際、ボローニャでスフォルツァ家からミラノを奪い返していた新フランス王フランソワ1世に会ったのが契機となる

第30章       人間の姿をした天使の秘密
150616年ミラノからローマへと流離った10年間に3枚の絵を描く ⇒ うち2枚は官能的な洗礼者聖ヨハネを描き、そのうち1枚は後年、別の画家によって酒神バッカスに描き直され、残る1枚は受胎告知の天使の絵ですでに失われている。3枚とも中性的な若者がモデルで、宇宙における人間という存在の奥深い神秘を一段と意識するようになっていたことがわかる

第31章       モナリザ、解けない微笑の謎
制作に着手したのはチェーザレに仕えた後、フィレンツェに戻った1503年で、17年にもわずかに手を加えたり薄い層を重ねたりして、亡くなった時にまだ工房にあった
ポプラ材の画板に長年にわたって油性絵の具を幾重にも重ねた作品には、レオナルドという天才の様々な面が表れている。絹商人の若き妻の肖像を描くという目的は、やがて印象的な謎めいた微笑に象徴される、人間の感情の複雑さを表現する試み、さらには人間の本質を宇宙のそれと結び付ける試みへと変わり、ここでは女性の心象風景と自然の風景が重なり合っている
40年前の作品《ジネーヴラ》と表面的には類似点がある。ともにフィレンツェの繊維商人の新妻がモデルで、斜め向きの角度で川を背景に描かれているが、相違点の方が目立ち、画家として、それ以上に科学者、哲学者、人文主義者としての成長が読み取れる ⇒ 《ジネーヴラ》は驚くべき観察力を持つ若き画家による作品だが、《モナリザ》はその観察力を活かし、生涯をかけて知的好奇心の探求に没頭した人間の産物。曲面に当たる光線、人間の顔の解剖、一定の面積・体積を持つ幾何学図形の変形、激しい水の流れ、地球と人体のアナロジーなど、ノート数千ページ分の探求を通じて、レオナルドは動きや感情の細やかな表現を学んでいった
フランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で、その妻モナ・リザの肖像画を描く。モデルは1479年名門の傍系の没落地主の家に生まれ、絹取引で財を成しメディチ家御用達の絹商人として成功した家柄としてはさほど良くないジョコンド家に嫁ぐ
レオナルドがイザベラ・デステの依頼を断りながら依頼を引き受けた理由の1つは、ジョコンド家と家族ぐるみの付き合いがあり同じ教会に通っていた公証人の父親が取り次いだ仕事だからで、有力なパトロンに阿る必要のないのが魅力的だった可能性が強い
リザと同年生まれで親族関係も繫がりのあったジュリアーノが肖像画の依頼や、未完で残された作品の完成を要請した可能性もあり、レオナルドが結局依頼主に引き渡さなかった理由かも知れない
《モナリザ》という名前にしても、サライの遺産目録には《ラ・ジョコンダ》と記載されているので混乱 ⇒ 2005年新たな証拠が発見され、同一の作品だと確認された
少なくとも制作を始めた数年後には、自らのため、永遠に残すための普遍的作品として描いてきたのは間違いない。新し洞察、新しい理解、新しい閃きを得るたびに、筆を重ね、自身人生の旅路を重ねて深みを増していく中で、絵も深みを増していく
鉛を使った下塗り剤を厚く塗ることで、光の反射を強くし、反射した光が透明感の高い油絵の具を薄く重ねた層を通過することで、絵の深み、輝き、質感が増している
光が絵の具の薄膜を通過し、その一部が白い下塗り剤に届き、再び薄膜を通して跳ね返ってくる。我々は表面の絵具に跳ね返されてくる光線とさらに深いところから跳ね返ってくるものが交錯する様子を目にすることになる。これによって我々の目に映る像は微妙に、捉え難く変化。モナリザの頬や微笑の輪郭は、色調を徐々に変化させることで描かれている。絵の具の層を重ねることでベールが掛かっているように見え、しかも室内の明かりや鑑賞者の見る角度に応じて変化し、まるで絵が生きているよう
15世紀のオランダの画家のように、油にごくわずかな色素を混ぜた絵の具を使った。リザの顔の陰影には、鉄とマンガンの混合物を使い、油をよく吸収する焦げ茶色の絵の具を使った。それを非常に繊細な筆使いで時間をかけて目に見えないほどの薄い層を30層以上も重ねた。2010X線蛍光分光法を使った分析では「モナリザの頬のピンク色のベースに重ねられた茶色の油絵の具の厚みは、25マイクロメートルから最も濃い部分では30マイクロメートル近くまで、スムーズに変化している」ことが判明。肌の質感を生身の人間に近づけるため、絵の具は意識的に不規則な筆使いで塗られていることが分かった
ノートには光がモデルの顔に当たる様子をそのまま描いたような分析がある。「肖像画を描くのは、曇った日あるいは夕暮れ時にすること。夕暮れ時に、あるいは曇り空の日に街を歩いてみて、男女の顔がどんな具合に柔らかく優美に見えるか観察してみよう」
光学の研究で目の瞳孔に光が当たった時、収縮するのにどれくらい時間がかかるかを調べている。《モナリザ》では右眼の瞳孔の方がやや大きい。しかし光は右側から当たっているので、光源に直接面しているのは右目の方で、本来小さくなるはず。単純なミスでなければ、何を意図したものか。何かに喜んでいるときにも瞳孔が広がるので、片方の目がもう一方より早く広がる様子を描くことで、モデルが我々を見つけた喜びを表現したのか
眉がないことも不可解だが、2007年高解像度スキャンによって当初存在していた眉毛の小さい痕跡が発見され、レオナルドが時間をかけすぎたために土台部分の油絵の具の層が完全に乾いてしまっていたと推定された
貴族の地位を示すような装飾をほとんど身に着けていないが、衣装については細部まで美しく描かれている。高解像度の赤外線写真によって、驚異的かつレオナルドらしい事実が明らかにされたのは、身ごろの刺繍模様を、あとから別の衣服で覆ってしまう部分にまで描いている
髪は貞淑さを示す透明なベールで覆われているが、ベールがあまりにも薄いので、額上部の線がなければわからないほどで、右耳辺りで優美なひだを描いている部分をよく見て欲しい
リザの背後の風景描写にも目の錯覚を利用したトリックが使われている ⇒ 俯瞰的に描かれた風景は科学と空想が入り混じっていて、荒涼とした山並みは何億年も前の先史時代を彷彿とさせるが、リザの左肩のすぐ上の川に架かる薄っすらとしたアーチ型の橋によって現在と結び付けられている
右側の地平線は左側よりも高く遠くに見え、この分断が作品に迫力を与えている。リザの上体と同じように地球もねじれて見え、左の地平線から右の地平線へ視線を移すと、李座がわずかに首をかしげるように見える
自然の一体感のみならず、時間的一体感も伝える。風景には、地球とその山河が水の流れによって形作られ、削られ、満たされてきた様子が表現され、リザは永遠の象徴となっている。「彼女の頭は、全ての「世の終わりにある者」の頭・・・・数多の経験を1つに集める永遠の命」
鑑賞者が動くと絵の中の人物の視線も動くように見える肖像画はたくさんあるが、その効果はレオナルドと関連付けられることが多く、「モナリザ効果」とも呼ばれる
リザの微笑が揺れ動くこともこの絵が謎めく一因。レオナルドの芸術の根本を成す動きと感情という2つの要素がこれほど密接に結びついている作品はない。遺体を解剖して微笑がどのように形作られるかに興味を持ち、顔の筋肉をコントロールする神経がどこから出ているか徹底的に調べていた時期と一致。意図的にどこまでも捉え難いようにできている。レオナルドは、内なる感情が外面に表れた瞬間をとらえることに長けていて、人間の本質について、彼の辿り着いた結論が現れているが、《モナリザ》ではもっと深い認識を示し、外面からは決して真の感情を理解することはできないし、他者の感情には常にスフマート的な要素があり、ベールが掛かっている
レオナルドの信奉者や弟子たちによる模写が多く存在 ⇒ 最も美しいのはプラド美術館所蔵のもので、2012年に洗浄と修復が完了
セミ・ヌード版の《モナ・ヴァンナ》というバリエーションも興味深い
2次大戦中、イギリス軍は味方である仏レジスタンスと連絡を取る際、「モナリザは微笑み続ける」との暗号文を使っていた
《モナリザ》が世界で最も有名な絵画となったのは、見る者が彼女と感情的に繫がりを感じるからで、モナリザは見る者に複雑な心理的反応を引き起こし、自らも同じように複雑な感情を見せる。何より不思議なのは、我々鑑賞者と自分自身を意識しているように見えることで、どの肖像画よりも生き生きとして見えるのはそのためであり、人類史上最高の創造物である理由もそこにある

第32章       最期の地、フランスへ
実の父が稀にしか示さなかった父親らしい愛情や支援や寛大さを無条件に与えてくれる相手を求めてレオナルドは人生の大半を費やす
最後に会ったのが1515年新たなフランス王になったフランソワ1世で、義父のルイ12世から王位を継承したばかりで、その誘いに応じて1516年最後の地アンボワーズ城へ
描き続けていた3点の絵も同道 ⇒ 《聖アンナと聖母子》《洗礼者聖ヨハネ》《モナリザ》
フランソワ1世は教養と良識を持つ理想的なパトロンで、イタリアで広がっていたルネサンスをフランスでも起こそうと決意し達成
レオナルドは「国王付き主席画家、技術者兼建築家」の肩書を与えられ、国王はレオナルドに心酔し作品より知識を求めた
フランソワの求めに応じてフランス中部のソルドル川沿いのロモランタンに新たな都市と王宮を計画、牧歌的な宮殿をデザインしたが、レオナルドの死去で計画は中止され、より湿地の少なく運河の必要性もないロモランタンとアンボワーズの中間のロワール渓谷の町シャンボールに新たな城が建設された
芸術と科学の両面における動きの研究、とりわけ水や風の流れや渦に対するレオナルドの関心の集大成といえるのが、フランスで最晩年に描いた一連の荒々しい素描。16点が現存、うち11枚はシリーズ。黒いチョークと、ときに仕上げにインクを使い、現在はウィンザー城のコレクションの一部。レオナルドの生涯を貫く様々なテーマが強烈かつ陰鬱に表れている。芸術と科学の融合、経験と空想の境界の曖昧さ、そして自然の恐ろしい力
レオナルドは言葉と絵を使って自らのアイディアを表現することを好んだ。大洪水についてはそれが特に顕著で、空想描写の中でも最も陰鬱なものになっていく
最後に書いたと見られるノートには、底辺の長さが異なる直角三角形が4つ並んでいる。そのすべての内側にぴったり収まる長方形を描き、三角形の残った部分に影をつけている。ページの中央には、4つの長方形を示すアルファベットを書き込んだ表があり、表の下に意図を説明する文章がある。長年ひたすら続けてきたように、この日も視覚的に幾何学図形の変化を理解しようとしていたのだ。最後に鏡文字で筆を置く理由が、「スープが冷めるから」と書いてある
ミケランジェロと違い、レオナルドは生涯を通じて、宗教に関わるのを意識的に避けてきた。「人間の知性では理解できないこと、そして自然の事柄によって証明できない事柄について書いたり、知識を広めるつもりはない」と書いている
サライが所持していたレオナルドのオリジナル作品は全てフランスに戻され、最終的にルーブルに飾られることになった
許しの秘跡を授けた司祭が去ろうとしたとき、フランソワ1世が寝室を訪れ、立ち上がってレオナルドの頭を抱き、最後まで親愛の情を示そうとした。この場面はレオナルドを崇拝する多くの画家が描いている。最も有名なのがジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルの作品

第33章       ダ・ヴィンチとは何者だったのか
レオナルドガ超人ではなく、普通の人間であった何よりの証拠は、未完に終わった数々の作品。作品を仕上げることより、ゼロから1を生み出す挑戦の方を好んだ
完成を拒んだのは、世界を流動的なものと見ていたから。どの瞬間も直前と直後の瞬間と結びついているように、自らの芸術、技術、論文についても変化するプロセスの一部とみており、新たな洞察に基づいて洗練させていく余地は常にあると考えていた
レオナルドの天才の理由は創造力で、想像力を知性に応用する能力
レオナルドの才能の際立った特徴は、その普遍性。彼ほど多くの分野で創造性を発揮した者はいない。万物を理解し、そこにおける人間の意義を確かめようとした、普遍的知性の体現者
レオナルドに学ぶこと
     飽くなき好奇心を持つ ⇒ 身の回りのあらゆることにとことん興味を持つ努力
     学ぶこと自体を目的とする ⇒ 幅広い領域に知識を広げ、その間の結びつきを発見
     子供のように不思議に思う気持ちを保つ ⇒ 生まれ落ちた偉大なる神秘の世界と向き合うことをやめてはならない。子供のように驚く気持ち、子供たちのそうした感性を大切に育む
     観察する ⇒ 観察力が好奇心を刺激し、好奇心が更なる観察を促す
     細部から始める ⇒ 入念に観察するためのコツで、段階的に進める
     見えないものを見る ⇒ 融合的創造力で現実と空想を混ぜ合わせる
     熱に浮かされる ⇒ 熱中する楽しさが深い探求へと駆り立てる
     脱線する ⇒ 脱線が更なる知性の豊かさを生む
     事実を重んじる ⇒ 観測的実験と批判的志向を先取り。アイディアを検証するための実験を重んじるとともに、新たな情報に基づいて自らの考えを変えることを恐れてはならない
     先延ばしする ⇒ あらゆる事実やアイディアを集め、それが熟成するまで、閃きが形になるまで待つ
     「完璧は善の敵」で結構 ⇒ 満足できない作品を仕上げるより、作品そのものを放棄するように、完璧になるまで手放さない姿勢を貫くべき時もある
     視覚的に考える ⇒ 数式で解けないときは仕組みを視覚化で理解する
     タコツボ化を避ける ⇒ 芸術は科学であり、科学は芸術である。両者の区別は不要
     届かないものに手を伸ばす ⇒ 想像豊かに、世界には決して解けない問題がありその理由を考えてみよう
     空想を楽しむ ⇒ 現実と空想の境界をぼかすことにより、空想を広げる
     パトロンのためだけでなく、自らのために創作する ⇒ 自らのために動く
     他者と協力する ⇒ 傑出した作品は個人の才能から生まれる。そこには唯一無二のビジョンが必要だが、その実現には他者との協力が必要となることが多い
     リストを作る ⇒ 突飛な事項も載せておく。純粋な好奇心の記録となる
     紙にメモを取る ⇒ 書いて残せば、孫の世代も驚きと刺激を受けるはず
     謎のまま受け入れる ⇒ あらゆるものにはっきりとした輪郭は必要ない

結び キツツキの舌を描写せよ
キツツキの舌は嘴の3倍以上の長さに伸びる。使わないときは頭蓋に引っ込む。その軟骨のような組織は、顎を抜けて頭部をぐるりと回り、曲がって鼻孔に下りてくる。長い舌は木から地虫を掘り出すだけでなく、脳を保護する役割も担う。キツツキが嘴で木の樹皮をつつく時、脳には人間が死亡する強度の10倍の力が加わる、だが奇妙な舌とその支持組織がクッションの役割を果たすので、脳は衝撃から守られる


訳者あとがき
本書は、レオナルドの芸術論にとどまらず、ダ・ヴィンチが生涯を通じて没頭した多種多様な探求をつぶさに追いかけ、レオナルドの才能の広がりやスケールの大きさを立体的に描き出したのが本書の最大の特徴
もう1つの特徴は、出発点を自身が克明に書き残したノートに置いたこと
レオナルドの飽くなき好奇心の原動力に、様々な分野を探求する様子が描かれているが、圧巻は解剖学
本書は、レオナルド・ディカプリオ主演で映画化が決まっている。母親がウフィツィ美術館でダ・ヴィンチの絵を鑑賞しているときに赤ん坊がお腹を蹴ったところから名付けられたというディカプリオが演じるのだから気合が入ることだろう


書評)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(上・下) ウォルター・アイザックソン〈著〉
20195180500分 朝日
 自筆ノートでたどる天才の挑戦
 北斎の富嶽三十六景の一図「神奈川沖浪裏」を「世界で2番目に有名な絵」と評する記事を読んだ。なぜかというと「世界で一番有名な絵」は「モナリザ」だから。ボコバ前ユネスコ事務局長が語ったという。本書はモナリザを描いた不世出の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの評伝である。
 レオナルドの生涯は多くの人にインスピレーションを与え続けてきた。評伝も多いが、それらはヴァザーリをはじめとする芸術の専門家の手によるものである。本書が一味違うのは、著者がベンジャミン・フランクリンやアインシュタイン、スティーブ・ジョブズの伝記を執筆した、芸術とは一歩距離を置いたプロの伝記作家という点にある。著者は出発点を作品ではなく残された7200ページに及ぶ自筆のノートに置いた。
 レオナルドは非嫡出子として生まれた。それは幸運なことだった。嫡出なら父親と同じ公証人の道を歩んだことだろう。当時のフィレンツェの支配者、メディチ家のロレンツォとは相性が良くなかったようだ。レオナルドはイタリア都市国家間の外交戦略の一環として、ミラノに「贈与」された。祝祭プロデューサーとしてミラノ公に仕えたレオナルドは好奇心の赴くまま解剖や飛翔など様々な観察に熱中する。そして記録をとる。この時代に傑作「最後の晩餐」が生まれた。その後、フランス軍がミラノに侵攻し、レオナルドはフィレンツェ、ミラノ、ローマを転々とする。モナリザを携えた安住の地はフランスだった。
 レオナルドの作品の多くは未完に終わった。これは弱点と見なされてきた。しかし著者は「真のビジョナリー(先見性のある人物)には、無理を承知で挑戦し、ときに失敗することもいとわない姿勢が欠かせない」「レオナルドが思い描いたものの多くは(中略)結局実現した」「レオナルドの才能の際立った特徴は、その普遍性だ」と指摘する。なるほど腹に落ちた。
 評・出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)
    *
 『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(上・下) ウォルター・アイザックソン〈著〉 土方奈美訳 文芸春秋 各2376円

レオナルド・ダ・ヴィンチ(上・下) ウォルター・アイザックソン著 綿密な謎解きで天才に迫る 
2019/6/1付 日本経済新聞
ベンジャミン・フランクリンやアインシュタイン、スティーブ・ジョブズの伝記で知られる手練(てだ)れの伝記作家によるレオナルド・ダ・ヴィンチ伝。科学と人文・芸術、テクノロジーを自由に往来してイノベーションを生みだす天才たちの創造を追ってきた著者にとって総仕上げの仕事だろう。
著者は52年生まれ。元米CNNテレビCEO
レオナルドは、同性愛者でベジタリアン、ピンクの衣装に身をくるんだ美丈夫で、絵画・彫刻にとどまらず、祝祭イベントのプロデュース、建築や都市計画、さらには軍事のコンサルにまで手を広げようとする野心家でもある。権謀術数渦巻くルネサンスのイタリアで、メジチ家やローマ法王、殺戮王ボルジアやマキャベリ、フランス国王、若きライバル、ミケランジェロなど、彼の人生は歴史上の人物と交差して興味はつきない。
しかし本書の真骨頂は、「メモ魔」だったレオナルドが生涯にわたって残した自筆ノート7200ページを綿密に読み込み、天才の創造の秘密に迫ろうという謎解き作業の方にある。
「ウィトルウィウス的人体図」は、いかに人体の小宇宙と地球の大宇宙をアナロジーの関係で結んだか。「岩窟の聖母」や「白貂(しろてん)を抱く貴婦人」のポーズや表情、まなざしはいかに解剖学の知識に裏打ちされているのか。「最後の晩餐」が静止画なのに止まって見えないのはなぜか。「聖アンナと聖母子」に記入された地質学の知識とは何か。自然界のパターンを見抜き、アナロジーで理論を構築していくレオナルドの方法が、図版を手がかりに解説されていく。
「モナリザ」の微笑にせまるためには、顔の皮膚をはぎ、唇の細かな神経組織をさぐり、表情をつくる筋と腱の仕組みを確かめる必要がある。見つめられた気分になり微笑が揺れ動く絵の原理をとらえるには、網膜の仕組みと周縁視覚の原理を知っていなければならない。それらは今日の科学がようやく明らかにしつつある生理と認知のメカニズムでもある。レオナルドにとって絵画とは探究だった。
レオナルドの天才とは、どこまでも純粋な好奇心に支えられた観察と想像の力なのだと著者はいう。私たち現代人がアートとサイエンスを横断して創造性を生むためのヒントが、このルネサンス・マンの伝記には見つかるはずだ。
《評》記号学者 石田 英敬


トレンドアートで磨け 論理×感性 ビジネス向け講座が人気
新規事業や起業に生かす 
2019/7/22付 日本経済新聞
ダ・ヴィンチに学べ――。アートを学んで、ビジネスセンスを磨こうという講座が人気となっている。画家の視線やものの見方を知ることで、ビジネスでの創造力に生かそうとする動きだ。研修に取り入れる企業や、デッサン教室に通う個人も増えている。「論理」と「感性」の融合で、ビジネスの限界突破に挑んでいる。
描写する対象をよく観察する力を養うデッサン講座も人気(6月、東京都渋谷区の「アート・アンド・ロジック」)
週末に開くビジネスパーソン向けデッサン講座に、大手企業の社員やベンチャー企業経営者らが通っている。東京都渋谷区にある「アート・アンド・ロジック」。主催するのは「ビジネスの限界はアートで超えろ!」の著者、増村岳史さん。
6月のある週末に受講したのは、IT(情報技術)コンサルタントの男性経営者と商社勤務の女性。女性は新入社員の研修計画作りに携わっており、新たなアイデアを求めて参加した。「感性と論理を組み合わせる新たな思考は役立ちそう」と話す。
講座では卵や他の受講生をモチーフに、2日間、計14時間ひたすらデッサンに取り組む。
「ものは形と影で成り立っています。モチーフをよく見て、暗い部分と明るい部分の境目をきちんと見極めると描きやすくなります」。講師は東京芸術大学大学院で美術学修士号を取得した現役アーティスト。教え方は意外にも感性重視ではない。目の前のモチーフをよく観察することと、画用紙の上に正確に再現する方法を論理的に丁寧に教えてくれる。
受講料は2日で税別85000円と高額だが、2018年度の受講者数は約150人と前年度から倍増した。企業研修向けの引き合いも多く、6月末までで40件が決定と増えている。
増村さんは「絵を描くには感性をつかさどる右脳と、論理をつかさどる左脳を統合したハイブリッド型の調和のとれた力が必要だ」と話す。
三菱総合研究所は、アートとロジックを組み合わせた新サービスの提供を検討している。「取引先から新規事業の開発支援や創造的な考え方を求められる機会が増えた」(同社コンサルティング部門の橋本由紀研究員)ためだ。
現在、社員が複数のアート講座を受講しながら、サービスの内容を詰めている。7月初旬には「はたらける美術館」(東京・渋谷)の講座を受けた。コンサルタント9人が参加し、現代アート作品を鑑賞した。
「この川はどの方向から流れていますか?」「流れの速さは?」……。講師が作品について質問を投げかける。「小川のようにさらさらと割と速い流れ。季節は春の印象」。男性社員が答えると、別の女性社員は逆に「水がよどんだ沼のような感じ。季節は夏。むっとした臭いがしそう」
全く異なる答えが自由に飛び交うが、はたらける美術館の東里雅海代表は「アートに正解はありません。感じたままが正解です」と語りかけていた。
作品を見て感じたことを話す「対話型」の美術鑑賞プログラムで学ぶビジネスパーソンも増えている。
芸術的価値の高い作品を間近で鑑賞しながらビジネスセンスを鍛える(6月、東京国立近代美術館)
東京国立近代美術館(東京・千代田)も6月、新たなアート鑑賞教室に乗り出した。対象は「アート鑑賞を自身のビジネスに生かしたい人」。芸術的価値が認められた同館所蔵の本物の作品を間近で見ながら、自由な発想でディスカッションするユニークさが評判だ。
受講費は3時間で2万円。希望者が殺到し1日で定員の30人に達した。参加したのは3040代を中心に、メーカー、IT、不動産、金融など幅広い業種の人々が集まった。「反響は予想以上。2回目も開催する予定」(同館)
アートの感性をビジネスに取り入れる動きは欧米が先行しているが、ビジネスパーソン向けデッサン講座は見当たらないと、米国で始めようという人もいる。
外科医でかつて米バイオベンチャーの最高経営責任者(CEO)を務め、アントレドクター(医師起業家)で投資家でもある清泉貴志氏だ。米国の起業家を対象に今秋にも米国で開催したい考えだ。
「コーチャブル(教えがいのある)な起業家が最後は伸びる」。清泉氏は多くの起業家などと関わった経験からアート感覚の重要性を強調する。「VUCA(不安定、不確実、複雑、曖昧)の時代といわれる現在、論理的思考だけでなく感性も併せ持つことが求められている」と指摘する。
「芸術の科学と、科学の芸術を研究せよ」――。今年、没後500年となる万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが残したメッセージだ。芸術的な感性と科学的な思考をバランスよく磨いたからこそ、絵画から飛行機設計や解剖学まで幅広い分野でイノベーションを起こせた。ビジネスで勝ち残るためにも、アートから学べるヒントは多い。
(鎌田倫子)

フィレンツェに降臨 動き出すダ・ヴィンチとモナリザ
日経ナショナル ジオグラフィック社  2019.7.14. 日本経済新聞
フィレンツェの狭い裏通りを歩くバルテー・コンティさん。1990年からレオナルド・ダ・ヴィンチの再現役者をやっている。言葉を発することなく匿名で演じられる再現役者が、自分には合っていると語る(PHOTOGRAPH BY PAOLO WOODS AND GABRIELE GALIMBERTI
古いものと新しいものが混在するイタリアの古都フィレンツェ。数百年前の石畳の通りを電気自動車が走り抜け、街で一番古いヴェッキオ橋では、陶磁器を売る屋台の横で売り子がスマホでメールを打つ。それでも、突然目の前でレオナルド・ダ・ヴィンチの像がスマホを確認したり、モナ・リザが額縁から乗り出してジュースを飲み出したりすれば、誰でもギョッとするだろう。そう、フィレンツェには今もダ・ヴィンチがいるのだ。
ダ・ヴィンチとモナ・リザの正体は、ルネサンスの再現役者バルテー・コンティさん(58歳)と、その娘のエレナ・ピノリさん(47歳)だ。2人は、イタリアが誇る偉大な画家と、その最も有名な絵のモデルに扮装して、フィレンツェの街角に立っている。
いわゆる「彫像芸」、2人はスタチュー・パフォーマーだ。コンティさんは、週に3日以上、レオナルド像になりきる。そのため、2時間かけて準備する。フィレンツェにあるウフィツィ美術館の前に立つ銅像をモデルにして、白いローブにベレー帽を着け、まぶたや唇まで分厚くおしろいを塗る。肩にかかる髪と波打つ髭は綿で作られ、アクリル絵の具で白く色づけした。ちなみに、親子なのに、年の差わずか11歳なのは直接的な血のつながりがないからだ。ピノリさんは、コンティさんの結婚相手の連れ子だ。
「ラ・ジョコンダ」に扮装するピノリさんも、コンティさんと同じくらいの時間をかける(「ラ・ジョコンダ」は、モナ・リザの別名。イタリア語でフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻という意味がある。この女性が、モナ・リザのモデルになったと広く考えられているためだ)。レオナルドの芸術性を再現するには特別な能力と忍耐力がなければならないと、ピノリさんは言う。彼の絵画は、輪郭をぼかしたスフマートと呼ばれる特殊な技法で描かれているが、それによって生み出されるこの世のものとは思えない美しさは、実際の顔でまねようとしても簡単にできるものではない。
コンティさんはひとりで仕事をすることが多いが、ピノリさんが加わったほうが面白くなるという。あまりにも本物の銅像らしい2人が一緒にフィレンツェの街角に立つと、ドッキリ効果も倍増する。ある日、コンティさんが姿勢を直そうと体を動かすと、そばにいたフランス人観光客は驚いて後ずさりし、つまずいて転んでしまった。心配して駆け寄ったコンティさんだったが、それが事態を一層悪くした。観光客の女性は、恐ろしさのあまりほとんど口をきくこともできなかったという。「2019年にレオナルドがタイムトリップした? 天才とは聞いていたが、まさかそこまでだったとは」と思ったのだろうか。
コンティさんとピノリさんの仕事はじっと動かないことだ。相当な持久力が求められる。衣装とメークアップをつけて68時間静止したままの姿勢はかなりつらい。夏の暑い日には、息苦しさを覚えることもある。唇には分厚いおしろいが塗られているので話がしにくいし、話せばそのたびに崩れたメークを直さなければならない。ピノリさんは、常にリラックスした状態で、謎の微笑みとさまよう視線を顔に貼り付け、そのほかの感情を決して見せてはならない。「これがとても難しいんです」とピノリさんは話す。
その甲斐あって、2人は人気だ。ニューヨークや東京など、世界中から訪れた観光客は、2人の姿を見ると足を止めて写真を撮りたがる。するとコンティさんは、衣装の一部になっている本に隠し持っていたチラシを渡す。そこには「絵画とは、見ることはできるが聞くことのできない詩である。そして詩とは、感じることはできるが見ることはできない絵画である」というダ・ヴィンチの言葉と、コンティさん自身の金銭に関する謎めいた持論が書かれている。彼にとって、金銭とは「経済のダ・ヴィンチ・コード」なのだそうだ。
コンティさんの娘のエレナ・ピノリさんは、レオナルドの代表的な絵画「モナ・リザ」に扮装するために、メークをマスターした。イタリアでは、モナ・リザは「ラ・ジョコンダ」と呼ばれている(PHOTOGRAPH BY PAOLO WOODS
一方、ピノリさんのモナ・リザは、本物を見ることがかなわない人でも間近で鑑賞できる芸術作品だ。1500年代初期に描かれた本物は、縦77センチ、横53センチのごく小さな絵画で、パリのルーブル美術館で分厚い防弾ガラスの向こう側に厳重に保管されている。もみ合うように絵を鑑賞する観光客は、柵にさえぎられてそれ以上近寄ることはできない。ナショナル ジオグラフィックの写真家のパオロ・ウッズとガブリエル・ガリンベルティは、そのモナ・リザの近くで数時間、写真を撮る許可を得た。もちろん、そばでは警備員が目を光らせている。防弾ガラスに近寄りすぎれば、途端に警報ベルが鳴り、警備員に取り押さえられる。
訪問者のほとんどは、モナ・リザの微笑みをちらりと目にするだけで、自撮り写真もそこそこに、さっさと離れるよう後ろの客から小突かれる。運よく撮影に成功したあるブラジル人女性は、ローマ法王に会ったようだと感想を漏らした。
そのモナ・リザに扮するピノリさんは、くすんだ瞳や、ひたいにかかった薄いベールなど、見る人を魅了する細かい部分に気を配っているという。生気のないフィレンツェの美術館や教会を回る観光客は、思いがけず目にした2人の姿に笑顔を見せる。人々が好意的な反応を見せる瞬間が一番うれしいと、ピノリさんは言う。
どんな仕事にも言えることだが、ルネサンスの再現役者にも落ち込むときはある。道行く人が心無いジョークを浴びせることがあっても、じっと耐えなければならない。また、2人の仕事は人々のおひねり(投げ銭)に頼っているため、収入は安定しない。雨が降れば、観光客もまばらになる。特に、5月は雨が多かった。普段は150150ユーロ(610018000円)の収入があるというが、時には30ユーロ(3700円)に満たない日もある。
2019年は、レオナルド・ファンにとっては例外的に良い年になりそうだ。フィレンツェを訪れる観光客はかつてないほど増えている。統計によれば、17年にこの街を訪れた観光客の数は、人口の25倍以上に当たる1000万人だった。レオナルドの没後500年となる2019年、彼が芸術家としてのスタートを切ったフィレンツェは、これまでにない魅力的な旅行先になるだろう。
コンティさんとピノリさんにとっては望ましい状況だ。ウフィツィ美術館の外でパフォーマンスをする2人の背後には、美術館の2階に新しくオープンしたレオナルド・ルームを宣伝する巨大な広告幕が掲げられている。レオナルドとモナ・リザに扮した再現役者。その後ろにはレオナルドの絵画「東方三博士の礼拝」の巨大な写真。その前をランニングシューズでぶらぶらと歩く観光客。彼らは美術館に足を踏み入れてレオナルドの原画を見るのか見ないのか。なんとも非現実的な光景だ。
ある土曜日の午後、コンティさんとピノリさんは休憩をとって木の大扉の前に座り、仕事について語り合っていた。2人とも、自分たちはルネサンスの時代にも21世紀の現代にも合わないと話す。コンティさんは、自分は未来の人間だといい、自称ヒッピーのピノリさんは「フラワー・パワー」の時代に生きてみたかったという。
レオナルドとモナ・リザに扮することは、独特の充足感を与えてくれる。コンティさんは学生時代、音楽を学んでいたが、公共の場で演奏するのは「ワイルドすぎる」と語った。何も言葉を発することなく匿名のままでいられる再現役者のほうが性に合っているという。ピサに住むピノリさんは、モデルや女優の仕事をしたこともある。芸術が好きで、歴史上の人物に扮して彼らの物語を想像することにやりがいを感じるという。「色々な人生を経験し、色々な人間になれる、美しい仕事です」
ピノリさんもコンティさんも、進化し続けたいと話す。ピノリさんは、モナ・リザ以外にもボッティチェッリの絵画「プリマヴェーラ」に描かれているビーナスや、メソポタミア神話の愛と戦いの女神イシュタルに扮することがある。コンティさんは現在、ガリレオ・ガリレイの衣装を製作中で、来年南半球の一部で見られる皆既日食に合わせて発表する予定だ。
レオナルドはしばしば、スケッチのなかで未来へ思いを馳せていた。レオナルドの死から数十年後の1564年に誕生したガリレオは、望遠鏡を空へと向けた。現代のコンティさんとピノリさんは、反対に私たちを過去へと誘い、偉大な先人たちの生き生きとした姿を見せてくれるのだ。
フィレンツェのカフェ・リヴォワールで、エスプレッソを飲みながら足を休めるコンティさん。身に着けている衣装は、ウフィツィ美術館の前に立つ19世紀のダ・ヴィンチ像を再現している(PHOTOGRAPH BY PAOLO WOODS AND GABRIELE GALIMBERTI
裏通りの倉庫で、蛍光灯の明かりのなか、顔を白く塗るコンティさん。レオナルドに扮装するのに、2時間かかるという(PHOTOGRAPH BY PAOLO WOODS
コンティさんは時々、ルネサンスの世界を抜け出して携帯電話の留守電を確認する。写真奥は、アルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋(PHOTOGRAPH BY PAOLO WOODS
ウフィツィ美術館の外で、観光客との写真撮影に応じるコンティさんとピノリさん。ふたりの足元とピノリさんの額縁には募金箱が据えられている(PHOTOGRAPH BY PAOLO WOODS
(文 CLAUDIA KALB、写真 PAOLO WOODS AND GABRIELE GALIMBERTI、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)

春秋 
2019/7/11付  日本経済新聞
ルネサンスの巨匠、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチはともにデッサンを重視した。前者は弟子にこう書いている。素描しなさい。素描しなさい、時間を無駄にしないで――。繰り返し説く様子を、三菱一号館美術館で一昨年あった展覧会の図録は紹介する。
形や陰影、質感などを注意深く見て、再現するための情報量をふくらませる。自然科学にも関心を向けたレオナルドは人体の解剖までして精密な素描を残した。科学的な視点がふんだんな彼に対し、ミケランジェロは人間の動きの力強さをとらえた。違いはあるが、鋭い視線を土台に理想の美を追求した点は共通している。
そうした人の観察力が、これからも敬意を払われ続けるだろうか。企業の採用面接では人工知能(AI)が応募者の表情をもとに性格を見極め始めた。脳波と心拍からAIで感情を読むシステムなど、人の観察眼に取って代わる新技術は毎日のように報じられている。芸術分野に入り込んでいくのも荒唐無稽ではあるまい。
観察力が衰えないかという危機感からだろうか。東大は6月から専門家を講師にドローイング(デッサン)の授業を始めた。文系、理系を問わず、学生に新しいものの見方を発見してもらうという。デッサンについてレオナルドは、仲間と一緒に描いて比較すると刺激になる、と語っている。助言を授業で実践できそうだ。


あくなき自然観察者、レオナルド・ダ・ヴィンチ 
没後500年機にイタリア各地で展覧会
2019/7/6 6:00 日本経済新聞
今年はレオナルド・ダ・ヴィンチ(14521519年)の没後500年。画家にして科学者、建築家、発明家、演出家でもあった万能の才人を回顧する多彩な展覧会が生地イタリアの諸都市で開かれている。現地を訪ね、最新の話題に触れつつ考えた。レオナルドよ、あなたはいったい何をなそうとしていたのですか。
レオナルド・ダ・ヴィンチの知られざる壁画をミラノで見た。木炭で描かれた木の根や風景で、筆触もあらわだ。
修復された「アッセの間」下絵の一部(スフォルツェスコ城博物館提供)
壮麗なスフォルツェスコ城にあるアッセの間。桑の枝葉で天井を覆うレオナルドの未完の装飾で有名だが、2013年に始まった修復で下の壁に残る下絵までよみがえったのである。5月初めに始まった特別公開(来年1月まで)により、初めて全面公開された。
今回の特別公開では、天井画に光をあてて往時をしのぶ。最新のレーザー技術で修復された下絵と併せて鑑賞すると、何が見えてくるのか。
新出の下絵は、岩にからむ木の根や都市を望む田園風景だ。スフォルツェスコ城博物館の保存担当フランチェスカ・タッソ氏によると、アッセの間は壮大なパーゴラ(つるなどをはわせる棚)。完成すれば、パーゴラの下で森の神秘を味わう、劇場型アートになっていたかもしれない。
天井画の細部を拡大して見入ると、枝が絡み合い、ひもで結ばれている。思い起こされるのは、レオナルドが理想のアカデミー(学校)を構想した際の紋章だ。1本の線が無限に織り込まれる組みひも模様である。
桑の枝葉が覆う「アッセの間」の天井画(DANIELE MASCOLO撮影、スフォルツェスコ城博物館提供)
2006年の初夏、レオナルドがその名とした生地ヴィンチ村を取材したときのことだ。フィレンツェから車で1時間半、少年時のレオナルドが虫や鳥を観察した地は豊かな自然の中。地元の著名な研究者アレッサンドロ・ヴェッツォシ氏はこんな見方を示した。組みひも模様はヴィンチの柳の枝のイメージで、東洋の曼荼羅(まんだら)に近い……
アッセの間で桑が描かれたのは、パトロンのルドヴィーコ・スフォルツア公のシンボルだったから。柳と桑の違いはあるにせよ、模様には相通じる感覚がある。循環し、生々流転する自然を観じる――そんなまなざしが強烈に感じられるのだ。
そうした自然観の源にあったのは、徹底した観察である。「レオナルドの独創はやり方にある。観察を形にした」。ミラノのレオナルド記念国立科学技術博物館で、学芸員のイダ・モロセッティ氏はそう説き、回転しながら落下する葉の動画をスマホで示した。模型で展示される飛行装置のアイデアは、その観察から生まれたという。
あくなき観察の対象は森羅万象に及んだが、印象的な例に衣服のひだがある。ヴィンチ村を後にしたレオナルドは、ルネサンス文化の花咲くフィレンツェでヴェロッキオ親方の工房に入る。そこで、くりかえし衣服のひだを描いた。光のあたり方をとらえる修業だったとみられる。
それらひだのデッサンの検証から、なんと新説まで飛び出した。没後500年の記念展の中でも大がかりなヴェロッキオ展(14日まで、フィレンツェ・ストロッツィ宮)でのことだ。テラコッタの「聖母子像」をレオナルドの彫刻作品として打ち出したのである。
ヴェロッキオ展でレオナルド作とされた彫刻「聖母子像」(ストロッツィ宮提供)
高さ50センチほどの彫刻は英ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館所蔵で、ロッセリーノという彫刻家の作とされてきた。展覧会企画者で美術史研究者のフランチェスカ・カニョーティ氏は「今のところ自分だけの説」と断りつつ「レオナルドが彫刻家でもあった証し」と熱弁をふるう。
同氏によると、彫刻の下半身のひだとデッサンのそれは明暗の完璧さがそっくり、聖母の表情は「モナリザ」に通じる。同氏はさらに幼子の表情、聖母の横顔、装飾、手の形などを詳細に検証し、有力史料のヴァザーリ著「ルネサンス画人伝」に記録されるレオナルド彫刻のひとつとした。
レオナルド作品をめぐっては、近年も行方不明だった「サルバトール・ムンディ」が、史上最高額で落札された話題が記憶に新しい。「聖母子像」の新説について、ウフィツィ美術館のアイク・シュミット館長に聞くと「有力な問題提起」ということで、これも今後の論争が注目されそうだ。
なぜ、かくもレオナルドは人をひきつけるのか。ウォルター・アイザックソンの近刊「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(土方奈美訳、文芸春秋)は自筆ノートを調べ上げた優れた評伝だが、そこにレオナルドのこんな言葉が引かれている。「教えてくれ、教えてくれ。私に一つでもなしえたことがあるなら……完成したものがあるなら」
アイザックソンはレオナルドの魅力を「未完の完璧さ」と評する。完璧な「部分」は、ありえたかもしれない「全体」を夢想させる。謎は増殖し続けるのである。
(編集委員 内田洋一)


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.