宝島  真藤順丈  2019.9.13.


2019.9.13. 宝島

著者 真藤順丈(しんどうじゅんじょう) 1977年東京都生まれ。08年『地図男』で第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞してデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で第15回日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で第15回電撃小説大賞銀賞、『RANK』で第3回ポプラ社小説大賞特別賞受賞

発行日           2018.6.19. 第1刷発行、 18.12.19. 第5刷発行
発行所           講談社

本書は、『小説現代』20186月号に掲載

アメリカと日本があの条約を交わす前の年、戦果アギヤー(基地に忍び込む盗人)の先頭を走っていたオンちゃん(20)と仲間3人の物語
第1部        リュウキュウの青 195254
精霊送り(旧盆の最終日に行われる慰霊の儀式)の夜、彼らは嘉手納の米空軍基地の中にいて、米軍兵士の威嚇射撃に晒されていた
うなぎ上りの戦果アギヤーの被害件数に、業を煮やした米民政府は、見つけ次第射殺を許可。倉庫地帯の警備強化
那覇の闇市で戦果を売り捌き生活の足しにしたので、辛うじて地元の生活が成り立っている
4人のうち女の子は置いていかれ、オンちゃんは行方不明になり、1人は辛うじて逃げきるが2日間寝たきり、もう1人は気絶して命拾い、翌日警察のガサ入れのなか、必死にオンちゃんを探す
他にも密貿易団がいて、戦利品を掠め取ろうとする
仲間の1人レイは刑務所に入れられ3年を過ごす
逃げ切った仲間グスクも、仲間を探すために自首して刑務所送りに
沖縄の米軍は、軍用地確保のために土地接収を強行
島の闘争の旗頭瀬長亀次郎も拘束されて刑務所が騒がしくなる

第2部        悪霊の踊るシマ 195863
沖縄人は、朝貢国として中国の冊封体制下にあった琉球王国の御代からヤマト世、アメリカ世と支配体制が変わる中で、その都度苦難をなんくるないさで凌いできたからこそ、この世の摂理はどんな時でも移り気で、不変のものなどありはしないと知っている。だからちゃぶ台を返すような価値の反転にも高い順応力を示すことができる。盗みを何よりも卑しんだ土地柄がうって変わって戦果アギヤーの台頭を許したように、この島ではわずかなあいだで、ちょっとしたきっかけだけで、道化が英雄になる
グスクは58年に見習い刑事になる
島の女給が米兵の犠牲になる。被害者の名は照屋サキで、グスクが犯人の捜査を担当し、真犯人の目星を付けたところで、米民政府の官僚で米兵犯罪の防止・特命捜査の責任者に目を付けられ、協力を要請される
戦果アギヤーの黄金期は、軍の警備が盤石になり50年代半ばで終わりを告げ、彼らの一部はごろつきとなり徒党を組んで特飲街のミカジメを商売にするようになる
レイもその1人で特飲街の情夫として囲われていたが、無断でシノギに手を付け、親分の喜舎場朝信から制裁を受ける
女の子ヤマコはオンちゃんの恋人だったが、小学校の教師になって戻ってこないオンちゃんをずっと探し続ける
勤務先の小学校に軍用機が墜落し、受け持ちの児童の3人が死亡
ヤマコは、史上最悪となった米軍機墜落事故を契機に、教員たちに沖縄の校長先生と呼ばれる屋良朝苗(教員から政治家に転身、革新陣営のになっていく大物)の主催する勉強会にも通い詰め、沖縄県祖国復帰協議会の創立にも携わり、本土復帰運動の狼煙が上がる ⇒ 最初が国旗掲揚、次いで基地反対
密輸団の双璧、コザと那覇が抗争を繰り返す ⇒ コザ派の最高顧問が喜舎場朝信で、那覇派の首領が又吉世喜
米兵狩りが行き過ぎて、コザグループが中心になって3代目の高等弁務官暗殺計画にまで発展するが、その中心にいるのがオンちゃんだという
一方で、グスクはオンちゃんの消息を米軍内部で探っていたのが、機密情報を狙う革新系のスパイと間違えられて拘束され、拷問に遭う
レイは、密貿易団が荷の積み替えに使っていた離島でオンちゃんの消息を聞き、密貿易団を一掃しようとしてやってきた米軍の襲撃に遭って亡くなり、肌身離さず身につけていた魚の歯の首飾りを見つけて戻ってきて、憧れのヤマコと1夜のみ結ばれる
619月オンちゃんの葬儀が大勢の島民に慕われる中で執り行われた最後のその日高等弁務官の狙撃事件発生するが、未遂に終わって実行犯は全員逮捕され、弁務官はそのままスケジュールをこなしていたが、第2の襲撃があると察知したグスクは琉球警察を率いて暗殺の現場となるハーバービュークラブへ急行し、暗殺団を包囲
ヤマコは葬儀の最後まで顔を出せずに戦果アギヤーが侵入するときに破った基地の金網にもたれて回想

第3部        センカアギヤーの帰還 196572
沖縄の信仰には2つの神の国があり、それぞれ垂直方向と水平方向に表象される。雲の上にあるというオボツカグラが琉球王朝の権威付けに喧伝されたのに対して、海の彼方にあるというニライカナイは広く庶民の信心を集めてきた。生者の魂はニライカナイより来りて母胎に宿り、死んでまたニライカナイに還る。豊饒と命の根源にして、祖霊たちが守護神へと生まれ変わるところへ――
島の夕暮れの砂浜であてどもなく海を眺めるおじいやおばあ、何をするでもなく黄昏れている島民たちはみんな、全ての魂が還っていく彼の地に思いをはせている
65年嘉手納の米空軍が北ベトナムを空爆。沖縄返還を掲げて総理になった佐藤栄作が島に来て、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本にとっての戦後は終わらない」と宣言
66年には沖縄への核持ち込みが噂され、本土復帰・反戦・反基地の沖縄のアイデンティティを巡るシュプレヒコールが全土に広がる
グスクの家に突然「島に帰り着いたが、わけあって隠れている。命拾いの宴会の準備をしろ」との差出人不明の手紙が入る
クリスマスにヤマコ宛に、「ただいま、これは生還の前祝いさ」と1行だけあってアメリカ製の品々で統一された贈物が届くとともに、年末にはコザのあちこちに匿名の贈り物が、まるで戦果のように届けられた
年が明けて、教公2法案反対のデモが空前の規模で行われ、グスクがデモ荒らしを捕らえて、オンちゃんが行方不明となった基地襲撃事件で戦果アギヤー狩りをしていたことを白状させるが、同時にオンちゃんが黒幕となってデモ荒らしに麻薬の密売をさせているらしいということも判明
本土でも沖縄返還が錦の御旗になってきて、政府はアメリカと施設権の落としどころを探っているという。遠くない将来待ち望まれた日がやってくる
グスクがマーシャル機関で築いた情報網のお陰で、基地内でベトナム戦用に貯蔵された兵器格納庫でガス漏れが起こっているという情報を入手。それもVXガスの類で、ちょうど匿名で届けられた贈物の中に、ガスマスクが入ってきたのと軌を一にしている
グスクが米軍の脅しを振り切り、琉警の仕事も棒に振って新聞社に垂れ込もうとした矢先に、被害米兵の家族が『ウォール・ストリート・ジャーナル』にタレこみ、その号外を島の新聞が「米軍、沖縄に毒ガス部隊配置」と後追いで報じる。数日後には、日本政府も知っていたとの報道があり、いつもながらの本土の裏切りに呆れるばかり
2年後の72年の沖縄の施政権返還で基本合意。基地および軍事施設の即時無条件返還はなし ⇒ 核抜き・本土並みの願いは届かず、基地からは数千人単位の解雇が発表
失職したグスクはコザに探偵事務所を構える
米兵による轢殺事件を機に最大の暴動に発展、レイが武装集団を率いて基地に侵入、止めようとしたグスクもレイを追って基地内へ。たちまち米軍に見つかって囲まれたのを救ったのは又吉
オンちゃんが行方不明になった日、偶々基地内に迷い込んで身籠った子供を産んだところをオンちゃんが見つけ、生まれた子を抱えて逃げたが、米民政府が要人の不始末を抹殺するために新生児を追いかけ、オンちゃんはその子を守るために密貿易団の助けを借りて悪石島まで逃げるが、とうとう米軍に見つかり海に逃げようとしたところをロケット弾を撃ち込まれ、辛うじて島々を渡って逃げ、最終的に故郷の島に帰って来たものの、受けた傷が元で身動きできず洞窟(ガマ)の中で死去
空前の規模に発展したコザ騒動も、翌朝には催涙ガス弾が投入され鎮圧されたが、暴動は終始不思議な秩序に貫かれていて、黄ナンバーの車は沿道の家やビルに延焼しないよう車道の中央で燃やされ、島民同士が争うこともなく、混乱につきものの火事場泥棒も現れず、コザの人々は憤りの矛先をまっすぐアメリカへと、キャンプ・カデナへと向けていた
基地の使用を認めた形での返還はまやかしではないかと、戦後初の国政選挙で晴れて国会議員になった瀬長亀次郎も佐藤首相を真っ向から追及したが、徒労に終わる
又吉は、本土(ヤマトゥ)勢力に抗う沖縄ヤクザ大連合の領袖となったが、数年後に鉄砲玉に襲われ死亡
グスクの探偵社は、返還前後は返還周りのトラブル・人探し・事件捜査で超多忙
ヤマコは、復帰協の仕事は辞めて、教職と施設関連のボランティアに集中
レイは返還のついでに生まれ変わると言っていたが、
変わらなかったのは本土返還の後の沖縄(ウチナー) ⇒ 琉球警察は沖縄警察に看板が変わり、通貨も円となり、本土に渡るのにパスポートは不要となったが、アメリカ世からヤマト世になったところで巨大な基地のある暮らしは何も変わらないのに、ありったけの情熱をたぎらせた民族闘争の隆盛は遠ざかっていった
われら沖縄人(ウチナンチュ)は、故郷がなくした魂を探し続けてきて、それを望ましい形でつかめなかったことを悔やんでいた


文藝春秋20197月号 『ベストセラーで読む日本の近現代史』
評者 佐藤優 作家、元外務省主任分析官
戦争に敗北してから本土復帰までの沖縄を外部からの観察者である日本人作家が沖縄人の魂になりきることを装って描いた意欲的作品
著者は文献の精査と聞き取り取材によって、沖縄人の無意識を言語化することに挑戦
ウチナァヤマトゥグチ(琉球語の語彙を部分的に取り入れ、アクセントとイントネーションが標準語と異なる日本語の方言)を多用しているところにその成果が現れている。語り部にあるコメントを挟むと言う構成を取り小説の外部から作品を批評することにも成功
本土復帰前の沖縄での歴史的事件である1955年遺体が発見された米軍曹に6歳女児が暴行殺害された由美子ちゃん事件(嘉手納幼女殺人事件)59年の宮森小学校米軍機墜落事故、70年のコザ騒動を食品の部材としている。米軍基地から物資を盗み出す戦果アギヤーと周辺の人々を中心に、生き残るために必死だった沖縄人たちを描く
コザ(現沖縄市)1番の戦果アギヤーは3人の戦災孤児で、嘉手納基地に侵入。捕まった仲間の1人を探す過程で沖縄の闇が浮き彫りになる。戦災孤児たちは誰もが熾烈な体験をしている
ただ沖縄の叙事詩は暴力的な爆発のみで示されるのではなく、文学やスポーツなど文化の力によっても示される
特に67年の沖縄出身作家として初の芥川賞を大城立裕が受賞した事と68年夏の甲子園で興南高校が準決勝に進出したことが沖縄人を、日本人と対等に競争することができると勇気づけた
沖縄と日本の関係についてもやくざになったやつと小学校教員になり復帰運動に取り組む奴とのやり取りで示される。やくざからすればこれまでに自分たちが日本人だったことがあるのかその覚えはなく本土に帰ろうと言われてもまるでピンとこず本土の方でも相変わらずの無関心で同じ国民の問題として沖縄と連帯する動きはない。沖縄人から見ればホントの目の敵はアメリカよりも日本人なんじゃないか
本書を通じて沖縄人が日本人に対して覚える複雑な感情についての理解が深まるならばいいが、暴力的な爆発の可能性を孕む理解不能な人々と言う沖縄人に対する偏見を拡大する危険もある


文藝春秋 20197月号 『沖縄はすべての基地に反対ではない』
著者 玉城デニー(康裕) 1959年沖縄生まれ。父米海兵隊員、母伊江島出身の日本人。09年衆議院議員。189月より知事。辺野古の新たな基地建設反対、普天間飛行場の運用停止が公約
沖縄県は日本の国土の0.6%なのに、日本の米軍専用施設の70.3%が存在、2位青森の9%8
沖縄の米軍基地を巡る3つの「誤解」:
    米軍基地の抑止力 ⇒ 最も広い面積を占める海兵隊は規模2,200人だが、海兵隊を輸送する強襲揚陸艦隊の母港は長崎であり、海兵隊が沖縄にいることで抑止力が保てるはずはないし、まとまっているよりは地域分散した方が抑止力としての効果は高い
    日米地位協定は沖縄だけの問題 ⇒ 米軍施設は13都道府県にあり、国内法に優先されるのは不平等条約そのもの。他の米国の同盟国でも類を見ない
    沖縄に基地が集中するに至った経緯に本土は無関係 ⇒ 占領時代に沖縄の集落が接収されただけでなく、朝鮮戦争やその後の冷戦激化の中で本土各地で米軍基地に対する反対運動が高まり、まだ米軍施政権下にあった沖縄に基地が集中したもの
直木賞受賞の『宝島』は、沖縄に住む若者に焦点を当てて、1952年から約20年の歳月の流れを描いた作品だが、まさにゴザ騒動の場面も克明に描く。自らの体験とオーバーラップして、架空の物語には思えない印象を受けた
192月県民投票の結果、基地反対が投票者総数の70%を超えた
にも拘らず、安倍政権は対話すら拒否。県が公有水面埋立法に基づき辺野古の埋め立て承認を撤回したにも拘らず、防衛省は本来一般国民と行政官庁との間で、国民を救済する制度である「行政不服審査法」を使って国土交通省に撤回の効力停止を申し立てたのは、どう考えてもまともな法治国家とは言えない
沖縄の基地問題が問うているのは、果たして日本は主権国家なのか、民主主義国家なのかということ


芥川賞に上田岳弘氏・町屋良平氏、直木賞に真藤順丈氏 
2019/1/16 18:42 (2019/1/16 23:11更新) 朝日
160回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞は上田岳弘氏(39)の「ニムロッド」(「群像」12月号)と町屋良平氏(35)の「1R134秒」(「新潮」11月号)に、直木賞は真藤順丈氏(41)の「宝島」(講談社)に決まった。
芥川賞に決まった上田岳弘氏(右)、町屋良平氏(中央)と、直木賞の真藤順丈氏(16日、東京都千代田区)=笹津敏暉撮影
2月下旬に都内で贈呈式が開かれ、受賞者には正賞の時計と副賞100万円が贈られる。
上田氏は兵庫県生まれ。受賞作はIT(情報技術)企業に勤める主人公が業務命令で仮想通貨の「発掘」に携わる物語だ。
町屋氏は東京生まれ。受賞作は、勝てないボクサーが先輩をトレーナーに迎え、試合に臨むまでの心の動きを追う。
上田氏は会見で「作品を広く読んでもらいたいので、受賞が決まって良かった」と笑顔を見せた。町屋氏は「受賞はうれしいが、緊張して訳がわからない」と話した。選考委員の奥泉光氏は「上田氏は大きな世界と日常をつなげる手際が良く、町屋氏は筆に迫力があった」と講評した。
真藤氏は東京生まれ。受賞作は米軍統治下の沖縄の基地から物資を盗み出す少年たちの姿を、米軍の事故や反米暴動など史実と絡めつつ描いた。
真藤氏は「編集者の期待に応えられて、ほっとした」と喜びを語った。選考委員の林真理子氏は「非常な熱量で沖縄の人の明るさを描いている」と評した。

直木賞で「沖縄問題考える一助になれば」 真藤順丈さん
20191162328分 朝日
直木賞を受賞した真藤順丈さん
 Q 第一声を。
 真藤 候補発表から長いドラムロールを聞かせられていた感じです。とにかくほっとしました。編集者の皆さんの期待に応えられたというのが大きいです。
 Q 山田風太郎賞とのW受賞の感想は。「宝島」という作品はどういう作品になったか。
 真藤 山田風太郎賞を昨年頂いて、直木賞のノミネートも聞いて、「どっちでも良い、俺には風太郎がいる」と思っていました。「宝島」は多くの人に読んで欲しい作品なので、受賞でその機会が増えるのは、うれしいです。
 Q 選評では、突き抜けた明るさがあり、単に重く暗くなっていないとあった。意識したのか。
 真藤 この作品は語りが重要で、神の視点でもなく、土地の声みたいな感じになっています。「イ~ヤ~サッサ」みたいな語りに、自分も助けてもらった実感もある。そういう文体を獲得出来ていなかったら、これだけ読んでもらえる作品にならなかったかも。
 Q 構想7年。苦労もあったと思う。
 真藤 7年前くらいに構想があって、執筆に3~4年かけていますので、まあ辛かったです。途中で書けなくなったりとか、メンタル的によろしくない時期もありました。書いて良かったなと思います。
 Q テーマが沖縄。沖縄に注目が集まっている中での受賞だが。
 真藤 今は辺野古の土砂投入のことがあると思うが、書き始めた頃は基地の県外移設が議論されていた。沖縄に関しては旬というのはなく、我々日本人が考えないといけないテーマ。
 Q 沖縄を東京出身者が描くことをためらうこともあったと思うが。
 真藤 沖縄の人間ではない僕が書くことに、何度も葛藤した。沖縄の問題を、腫れものに触るように扱うことは、潜在的な差別感情があるのと同じ。とにかく、世界に没入して、全身全霊で小説を面白いものとして届けようとした。ニュースやルポでは伝わりきらない、読者の心に残るものを書ければ、ルーツのない自分が書いても普遍性を抽出できるのではと思った。沖縄の人から違和感があるという意見が出てきたら、僕が議論の場に出ていくという覚悟を決めるまでに逡巡(しゅんじゅん)がありました。
 Q なぜ沖縄を描こうと思ったのか。
 真藤 当時の沖縄の物語を書くことで、現代の問題を照射出来るのではないかと思った。総合小説を書きたいとなった時に、沖縄という器には今の日本のどこにもないものがたくさんあると思ったので、器を借りて表現出来ればと思った。
 Q 芥川賞の選評会見で選考委員の奥泉光さんが「宝島」を絶賛する場面があった。文学のジャンルへの思いは。
 真藤 自分はエンターテインメント作家だと思っているんですけれど、ジャンル一つにとどまらずに、青春ものや冒険、ミステリーとしても読める小説を書きたい。
 Q 最後に一言。
 真藤 本土というのもあれですけれど、この作品が我々日本人が沖縄の問題を考える時の一助になれば良い。


遠い過去と現在の距離 戦後日本 不安の諸相 回顧2018 小説
文芸評論家 清水良典
2018/12/30付 朝日
真藤順丈の『宝島』は戦後の沖縄の苦難の歴史を、あたかも語り部による叙事詩のように雄渾(ゆうこん)に物語ってみせた。史料の再現にとどまらないエネルギッシュな人物造形と描写力が圧倒的である。


論座
深まる辺野古新基地の「闇」、沖縄の今を見る
柴山哲也 ジャーナリスト
柴山哲也(しばやま・てつや) ジャーナリスト
同志社大新聞学科大学院を中退後、1970年に朝日新聞記者となり94年に退社。ハワイ大学、シンクタンク東西センター客員研究員等をへて京都女子大教授、立命館大学客員教授。現在はフリーランサー。著書に『日本型メディアシステムの興亡』(ミネルヴァ書房)、『公共放送BBCの研究』(同、編著)、『戦争報道とアメリカ』(PHP新書)、『真珠湾の真実』(平凡社新書)等。

20190520
埋め立て工事が進む辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸=2019513日、沖縄県名護市、朝日新聞社機から
選挙結果を認めない政権、辺野古は「工事続行」でいいのか
 平成最後の国政選挙となった衆院補欠選挙で、沖縄ではオール沖縄が推薦する屋良朝博氏が自公推薦候補を破って当選した。昨秋の沖縄知事選でも野党が推す自由党の玉城デニー氏が圧勝したのは記憶に新しい。屋良氏も玉城氏も辺野古新基地建設反対、工事の中止を公約に掲げて当選した。
 立て続けに行われた選挙の結果、沖縄民意は辺野古建設にノーを突き付けた。補選前の新基地建設の可否を問う県民投票でもノーの結果が出ている。
 喫緊の3つの投票結果で沖縄県民の意思は歴然としている。しかし安倍政権はこの結果を認めようとはしない。安全保障や外国との約束は中央政府と国の専権事項で、沖縄県民には決定権がないというのだ。それはおかしな話ではないか。
 沖縄が日本国に属し、その日本が民主主義を標榜する国ならば、沖縄の基地問題の行方の決定権は主権者である沖縄県民にあるはずだ。
 玉城知事は選挙結果を受けてたびたび、官邸を訪ねて安倍首相や菅官房長官に面会し工事の中止を要望したが、沖縄側は実りある回答を得てはいない。首相は「沖縄民意に寄り添って解決する」と口ではいうが、その舌の根も乾かないうちに、工事再開を繰り返しており、聞く耳を持たないという態度に見える。
 沖縄県民が諦めるのを待っているのだろうか。


辺野古の今を確かめる
 昨秋、玉城知事が当選した直後、辺野古の今を自分の目で確かめるほかないと考えて、沖縄へ出かけた。
 私は新聞記者時代に何度か沖縄を取材してきた。最初の沖縄取材は1975年、沖縄が米国統治から本土復帰した直後だった。
 沖縄の県民感情には復帰の希望と同時に本土(ヤマトンチュ)に対する反感が渦巻いていた。昨年の直木賞に選ばれた真藤順丈氏の『宝島』に描かれた混沌、混迷が沖縄を覆っていたと思う。本土が独立してなおアメリカの植民地として据え置かれた恨みの反米感情には、ヤマトンチュに対する歴史的な怨念が積み重なっていた。
 「30年目の戦後」という朝日新聞のシリーズで私は沖縄を担当したが、何をどう書こうか途方に暮れたことを思い出す。
「反復帰論」を唱えていた新川氏
 沖縄タイムスの編集委員の新川明氏に会い、話を聞いた。当時の新川氏は「反復帰論」を唱えていた。米軍統治時代が良かったわけではない。しかしヤマトへの復帰は沖縄人の魂が許さない。その理由は沖縄と本土の歪んだ歴史的関係にある。本土はその歪みを糾(ただ)さないし、糾そうともしない。
 沖縄はもともと琉球王国だった。その平和な王国が江戸時代に薩摩藩によって侵略され琉球人は薩摩の奴隷のように扱われ収奪された。明治維新に琉球処分が行われ王朝は潰されて「沖縄県」になった。さらに太平洋戦争で沖縄は本土の盾に使われ、日本軍は逃亡し、住民を巻き込む地上戦が行われ、4人に1人が戦死した。そのあとアメリカ軍が全島を占領し、普天間に前線司令部を作り、沖縄人の土地を奪い、全島に軍事基地を置いた。
 「沖縄が本土から支配され犠牲になった歴史もそうだが、本土と琉球は違う国。琉球王国の時代から台湾や東南アジア諸国と近く、民族的、地勢文化的風土やものの考え方、宗教観、死生観も違う。アメリカ世が終わるならば、明治維新に琉球処分をしたヤマトの国に戻るのでなく、琉球独立や反復帰論へ行き着かざるをえない」という趣旨のことを新川氏は語った。革新政党も含め、本土政治の目先の政治力学や政治的な計算で沖縄の本土復帰を考えるべきではない、それでは沖縄の未来が見えない。新川氏は当時の沖縄人が本土復帰に抱く幻想を強く戒めていた。本土に再び裏切られるのではないか。
 今、辺野古基地建設の民意を問う選挙で何度もノーの結果が示されながら、本土政府は話し合いもせずに強引に工事を続行している。復帰後の沖縄は再び本土から裏切られている。
 平成天皇は1975年、沖縄初訪問の「ひめゆりの塔」慰霊時の火炎瓶事件を受けて、こんな琉歌を詠んだ。
花よおしやげゆん(花を捧げます)
人知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦ないらぬ世よ(戦争のない世を)
肝に願て(心から願って)
ブログ「生きる」918から引用)
 またハンセン病療養所「沖縄愛楽園」訪問時の思い出を、琉歌(りゅうか)に詠み、皇后が作曲した「歌声の響き」がある。この歌は平成天皇在位30周年式典で披露された。沖縄愛楽園は名護市にあり、辺野古基地やキャンプシュワブにも近い場所にある。
 平成天皇は琉球王国時代に編纂された歌謡集『おもろさうし(オモロソウシ)』から琉歌を写し取って作法を学んだというが、琉歌を作るのは極めて難しいとオモロソウシ研究家も語っている。
 「沖縄に寄り添う」と安倍首相はしばしば口にするが、沖縄人の辛い思いに最も寄り添った本土の人は平成天皇だったのではないか。天皇在任中の11回にわたる沖縄各地への戦没者慰霊の旅の積み重ねを見てもそれがわかる。
ぶれないジャーナリスト魂を見た
 ところで、その後、新川氏は沖縄タイムス編集局長を経て社長、会長の管理職になった。現在はすでに役職を退任していたが、再び新川氏の話を聞きたいと思い連絡すると、快く応じていただいた。
 約40年ぶりの再会だったが、新川氏の考えは復帰の当時と変わっていなかった。高齢になってはおられたが、ぶれないジャーナリスト魂を見た思いがした。
 新川氏は「若いころは労働組合運動で八重山支局に飛ばされていた」と笑っていたが、その飛ばされていた時期に南西の離島の島々を回って蓄積した沖縄の文化風土に詳しく、独自の「ニライカナイ」の世界観、死生観の哲学的考察も著書に著している。ウチナーンチュュとヤマトゥンチュの交わることのない文化的基層認識の乖離は、本土の人間の理解を超えて深い。
 「沖縄人がみずからを表現するとき『ウチナーンチュ』といい、沖縄人以外の日本人を呼ぶのに『ヤマトゥンチュ』または『ヤマトゥー』と規定する。・・その出身地や社会的身分、職業や性別などにかかわりなく日本本土の人間はおしなべて『ヤマトゥンチュ』であり、その人々が住む国土は『ヤマトゥ』である」。このような沖縄人の基本認識は「沖縄人は日本人であり、まぎれもない日本国民であるということを、いかに学理的に立証し、政治的に主張しても決して消し去ることはできない」。(「幻想としての『大和』」参照)。
 「でも、私は思うのですが、沖縄には本土といろんな関わりの歴史があるが、やはり太平洋戦争の地上戦ね、あれを沖縄の人たちはまだ忘れていないのです」と取材を終えて、別れ際に新川氏はいった。本土の日本人が沖縄は日本と思っていても、沖縄人はそうは思っていないということだ。
 その乖離は沖縄地上戦の惨劇で一層深まり、戦後70余年経っても埋まってはいない。
沖縄が本土から切り離された場所であることを象徴する辺野古新基地建設
 沖縄が本土から切り離された場所であることを象徴するのは沖縄全土に拡大している米軍基地であり、辺野古新基地建設なのだ。
 新川氏に会った翌日、私は辺野古基地を取材に行った。
 亡くなった翁長雄志知事の遺言を引き継いだ玉城新知事が就任したばかりだったが、中断していた工事が早くも再開、という情報が流れていた。新知事へのあてつけのようにも思われた。
 那覇から辺野古までの交通の便は悪く、レンタカーを借りるか、一日に23度しか出ていない乗り合いバスに乗り、片道2時間ほどの時間をかけて行くしかない。タクシーだと往復3万円かかるという。
 住民たちが辺野古まで共同運航するバスが県庁前から出ているという話を聞いて、住民の方に頼み込みバスに乗せてもらうことができた。
 島の西側にある辺野古の海は東海岸の海のような輝きを放ってはなかった。かつての美しく澄んだ海の面影はもうなく、埋め立て工事の影響で大量の泥が混じり、くすんだ色の海があった。天然記念物のジュゴンの姿はもう見られないということだった。
 バスがキャンプシュワブの米軍基地ゲート前に到着すると米軍側と基地を守る日本の警察の警戒が強まっていて、工事再開に抗議する地元住民の間では緊張感が漂っていた。
 工事車両が来るということで、テントの中にいた住民たちはゲート前に移動して集会とデモを始めた。このテント内の座り込み風景は本土のテレビでも度々報道されてきたから映像では見ていたが、実際に現地へ行くと、復帰して半世紀近い沖縄は依然、アメリカの植民地であるばかりでなく、本土の植民地でもあると思う。
 本土にも米軍基地はあるが現地まで行かない限り、日常生活の中では見えにくい。しかし沖縄ではどこに行こうと米軍基地は見える。那覇空港からモノレールで市内まで行く途中、窓外に基地は見える。那覇から車で走る広大な嘉手納基地の真ん中を幹線道路が走っている。「普天間」だけでなく、沖縄では住民の日常生活の中に米軍基地は可視化されている。
 反対住民の前に2台の巨大な軍用トラックが立ちはだかり、長時間停車していた。運転台には年若い端正な顔立ちのアジア系と思われる女性兵士が乗っており、抗議する住民の側を一瞥することもなく、ひたすら前方を見つめていた。彼女は何を考えていたのだろうか。その心の中は見えない。
 テント裏の山林の入り口には鉄条網があり、「ここは海兵隊太平洋基地である。立ち入り禁止。立ち入ったり破損したりの行為は日本の警察に通告され罰せられる」と書いた立て札があった。この山林の奥地には実弾射撃場があるという。
辺野古に集まる普通の市民
 辺野古に集まる住民の多くは本土の右翼の人がいうようなプロの運動家ではなく、普通の市民たちだ。私が行ったとき、本土から来た活動家には会わなかった。沖縄在住の主婦であり定年で仕事を引退した高齢者であり、沖縄の置かれた理不尽に目覚めた若者や女性たちだということがわかる。自前で手弁当の普通の市民たちだ。
 ランチタイムの人々は孫や子供の話や日常生活の世間話が弾んでおり、特に政治的な話をしているわけではない。普通の日常の中に辺野古新基地への抗議運動があることがわかる。政治の理不尽にたいする怒りがある。
 キャンプシュワブのゲート裏海岸へ回ってみたら、海岸入り口には鉄条網が張りめぐらされ、にょきにょきしたクレーンが海上に伸びており、工事船らしき船の動きが確認できた。工事はやはり再開されていた。
 ゲート前にはトイレもなく水を飲める場所もない。数キロ離れたコンビニまで行ってトイレを借り、昼飯のパンやおにぎりなどの食べ物を買いに行くが、歩いて行ける距離ではない。
 テントの近くに軽自動車が2台待機しており、コンビニにまで運んでくれた。軽自動車は住民の方々が交代でボランティア運行しているということで、ガソリン代は車の提供者の個人持ちということだった。
 高江から来たという主婦と軽自動車に乗り合わせたが、子供を学校に送り出したあと工事再開のニュースを見てかけつけてきたという。辺野古から少し先に高江があり、高江にはやんばるの森という太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍に見捨てられて敗走した沖縄住民たちが米軍の攻撃から逃げ込んだ場所だという。この地には米軍のヘリパッドが建設されており、毎日、騒音に悩まされているそうだ。「3カ月に一度ほど辺野古へきています」と彼女は話していた。静かな口調ではあるがふつふつとした怒りが胸の奥にたぎっているようだった。
 日米同盟を基軸とした安全保障面の基地負担を沖縄に押し付け、沖縄の反対には耳を貸さないという本土の政策に、沖縄県民の不満は高まり、本土から差別されているという被差別感は、政治的主張とは関係なく、助長され続けてきた。その人間としての思いには、保守も革新もなく、党派性もない。
 沖縄人に共通するこの思いは危険な普天間飛行場の移転、辺野古新基地建設反対を掲げて本土政府と闘い、故人となった翁長前沖縄知事が繰り返し述べていたことだ。
県外移設案を撤回して「辺野古移設」へ戻してしまった鳩山氏
 普天間移設と辺野古新基地建設に関しては、2009年の鳩山政権誕生時、鳩山首相が公約に掲げていた「普天間を県外に移す案」があった。しかし鳩山氏はこの県外移転案実現に失敗して世論の反発にあい首相の座を追われた。
 「普天間飛行場移設は最低でも県外」と公約したのに、なぜそれが不可能になったのか。鳩山氏は結局、移設案を撤回して「辺野古移設」へと戻してしまったのである。これがブレる鳩山氏というイメージを作ってしまった。
 しかし鳩山氏が辺野古へ戻す決断に至った「コトの真相」はそう簡単なものではなかった。
 「普天間飛行場の最低でも県外移設を実現しようとしていた問題が暗礁に乗り上げた際に、抑止力のために辺野古に移設することを認めざるを得ないとの発言をして物議をかもしましたが、安易に抑止力という概念を用いるべきではなかったと反省しています」と鳩山氏は述べている(『脱大日本日本主義』平凡社新書)。
 いったい何が起こったのか。
 「辺野古基地反対」のホワイトハウスへの署名活動が目標の10万人署名に到達した201812月、アメリカの元米軍最高幹部が、「(辺野古新基地は)莫大な経費の無駄使いで、馬鹿げている」という発言をし、米軍の沖縄駐留の強化は「中国側の脅威の増大になるから中国の軍拡につながり得策ではない。しかし日本が手厚い経費負担をするから財政難の米軍は沖縄に駐留し続けている」と語ったことが、ツイッター等で話題になった。
 要するに軍事的には中国や北朝鮮ミサイルの射程に入る辺野古は基地としての安全性は低いが、基地予算が日本から支給されるから米軍は離れがたい、という理由なのだ。米軍側幹部から辺野古移転の本音が明かされたわけだ。
鳩山首相辞任のきっかけとなった?「偽の外交機密文書」
 ここに「極秘」のスタンプが捺してある文書のコピーがある。「普天間移設に関する米側からの説明」というタイトル。平成27419日の日付があり、10月9日、在京米大(米大使館)で行われた普天間移設の関する説明で、米側出席者は、「ウィルツィー在日米軍J5部長、日本側出席者は須川内閣官房専門調査員、船越外務省日米安保条約課長」らの名前がある。
 文書の中身を要約すると、米軍のマニュアルには、「回転翼航空部隊(ヘリ)の拠点と同部隊が(陸上部隊と)恒常的に訓練を行うための拠点との間の距離は『65海里』(約120km)以内という基準が明記されている。「この基準を超える例は全世界的にもない」というもの。このほかヘリの移動のさいの移動時間と給油地の問題が細かく記されている。
 鳩山氏が考えていた「『鹿児島県・徳之島』移設案は約104海里離れているので、米軍の訓練マニュアルから逸脱している」と書かれた極秘文書だ。
 鳩山氏は20104月に官邸を訪れた外務省、防衛省幹部から「徳之島では訓練不能」の説明文書を示されたという。鳩山氏は「徳之島」案を断念せざるを得なかった。
 この文書は「極秘扱い」だったため、県外移設断念の理由説明に、当該文書を口外できなかった。
 しかしこの米軍の説明文書は偽物だった。それが判明したのは、極秘指定が解除されてからの話だった。
 安倍政権が海兵隊のオスプレイの一部を佐賀県に配備する話が出て、「佐賀県はいいのに、なぜ鹿児島県ではダメなのか」という疑問が持ち上がったのだ。
 この疑問のきっかけは上杉隆氏の「ニューズ・オプエド」の番組に、鳩山氏と川内博史・衆議院議員が出演したとき、「65海里問題は本当に存在するのか」という疑問が提起されたことだった。
 そこで外務省北米2課の米側ルートの情報を川内議員が確認し、上杉氏は米軍側の情報ルートへ問い合わせしたら、いずれも「ノー」の返事があった。つまり、『65海里ルール』などなかったのだ。」(上杉隆『オプエド』)
 鳩山氏はこの文書を自分で保管していた。鳩山氏は外務省官房長を事務所に呼びつけて、これを糾したところ、官房長は「確認するまで待ってください」といった。鳩山氏は「待てない」と返事をし、ニューズ・オプエドに出演して、「これは機密文書なのに確認できないから、ニセ文書です」と話したという。
 私自身も直接、鳩山氏に会い、外務省等の担当官からこの文書を見せられ説明を受けた詳しい経緯と顛末を聞いており、「不存在のニセ文書であること」を確認している。
 要するに、鳩山首相が辞任を迫られるきっかけになったのは、「偽の外交機密文書」だったのだ。しかもその文書は発信元と見られる外務省や防衛省には残っていないという。すでに廃棄されているのか。
 一国の首相が偽文書がもとで辞任を余儀なくされる国は、近代民主主義国でも文明国でもない。それは独裁政権下のクーデターに近い。
 鳩山政権時代の総務相だった原口一博・衆院議員は19182月の衆院予算委員会と同安全保障委員会で、この偽文書に関する質疑を政府に対して行っている。
 海兵隊の訓練遠隔地の拠点をつないで行うことは妥当かどうかの議論はあるが、示された文書が偽文書かどうかの回答はない。原口氏は「いろんな政策を後から検証しなければいけない。何は本当で何が嘘だったのか、あるいは事実関係がどうなのか」と国会追及も行った。
 しかし、「普天間の辺野古移設」に執着する日米安保利権勢力が鳩山政権を潰すために偽文書を掴ませた、というインサイドストーリーは出回っているものの、その公式な確認はまだ取れていない。
 辺野古新基地建設工事は今も続いている。しかし「辺野古新基地の闇」は深まるばかりである。



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