大関和物語  田中ひかる  2026.7.20.

 2026.7.20. 明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語

 

著者 田中ひかる  1970年東京都生まれ。学習院大法卒、専修大大学院文学研究科修士課程にて歴史学を、横国大大学院環境情報学府博士課程にて社会学を専攻。博士(学術)。女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行う。著書『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』など

 

発行日            2023.5.10. 初版発行

発行所            中央公論新社

 

プロローグ

看護師も、かつては「金のために汚い仕事も厭わず、時には命まで差し出す賤業」とみなされていた

これは、近代日本において、看護婦という職業の礎を築いた2人のシングルマザーの物語

 

第一章     故郷黒羽

l  家老の娘

大関和は、黒羽(くろばね)藩の国家老の次女に生まれる。藩主大関増裕(ますひろ)とも縁戚。増裕は蘭学を学び、洋式兵術にも精通、初代陸・海軍奉行、幕府終焉の年には29歳で若年寄。外様の小藩主としては異例。部下で親交のあった勝海舟は「幕末の偉人」と評す

妻にも学問をさせ、江戸でも夫婦そろって馬に乗り狂歌になった

黒羽は火山灰地で温泉に恵まれたため、硫黄鉱山を開発、幕府の炮薬(ほうやく)製造所に売り、その金で軍備を増強、北関東随一の軍事力を保有

増裕は王政復古の前日、藩としては朝廷側につくが、会津とは兄弟にも等しい交誼があり鉾を向けるに忍びないとして、自らの身を供して臣節を全うしようと言って自害

国家老だった和の父弾右衛門は、家屋敷を返上し上京、商売に手を出すが失敗

和は弟妹達とともに学問に励む

 

l  「嫁田」の友

1876年、弾右衛門は和の縁談をまとめると間もなく流行り病で急逝

縁談の相手は、故郷の士族柴田豊之進福綱。戊辰戦争での功績により陸軍少尉となり退官。大地主として成功。再婚だが子はなく複数の妾がいたため、妾を清算するとの条件で結婚

だが、結婚後も福之進は妾親子と暮らし、義母は地主の嫁として米作りを命じられる

和に与えられた5反の痩せ地は近所の小作から「嫁田」と呼ばれる

 

l  田打桜(たうちざくら)

和に長男誕生。豊之進にとっては6番目の男児なので六郎と名付ける

1年してようやく田植えができるように田圃が整備され、小娘2人が手伝ってくれる

辛夷(こぶし)のことを「田打桜」といい甘い香りが漂う

田植えをしてからも3年目に漸く収穫の見通しが立ったころ、2人の小娘は相次いで東京へ売られていく

 

l  物言う嫁

和は小娘が売られていったことに対し義母に抗議したが、「物言う嫁」には冷淡

収穫前に和が2人目を妊娠、2度と田圃には戻らないと決め、実家での出産を言い出すと、義母も折れて六郎を連れて里帰りするように言われる

1880年、和は実家で長女心を出産。柴田家に離縁を伝えるが、離婚は成立したものの、六郎の取り合いが始まり、手元に落ち着くまで1年を要する

 

第二章     鹿鳴館

l  パン・ペルデュ

神田五軒町に住んだ和は職を探す

隣が先祖代々幕府の中国語の通訳「唐通事」として重用されてきた鄭家で、その女中応募を聞いて屋敷を訪ね、次男夫婦の世話役として採用される

鄭永寧は、維新後新政府の外交官として日清修好条約の締結にも関り、息子3人も外交官を目指すが、次男永慶は留学先で病気となり帰国、大蔵省に就職

永慶が和に教えてくれたのがパン・ぺルデュというパンケーキの作り方

和が外国語に興味を持っていることを知った永慶が、植村正度の英語塾を紹介

 

l  牧師植村正久

和は、英語塾の近くにあった鹿鳴館を眺めながら英語の通訳になりたいと考える

塾生は男ばかり、大半がクリスチャン。キリスト教にも興味を持った和に正度が兄の牧師正久を紹介。下谷御徒町の教会に通う。仏頂面に驚かされたが、正久は和と同じ歳。旗本の家に生まれたが、アメリカ人宣教師の塾に通い、牧師になることを決断

正久の母貞子から「一夫一婦制」を聞き、キリスト教こそが自分や女性を救う宗教だと確信し、正久が麹町に設立したばかりの一番町教会で洗礼を受ける

 

l  鉄道馬車に乗って

和は初めて家族とともに外出。鉄道馬車に乗って新橋で降り、竣工したばかりの鹿鳴館を見る。帰りも鉄道馬車で上野に行き、動物園で過ごす

鹿鳴館はその4か月後に開館式の舞踏会が、その翌月には大山巌・捨松の結婚披露宴開催

塾でも大山夫妻の披露宴の話でもちきり。会津藩の捨松が仇敵薩摩家に嫁すことの可否を真剣に論じたが、塾長に「愚か者の無駄口は、今にも滅びを来らせる」と聖書の言葉で一喝

 

l  「看病婦」と「看護婦」

1年後、鹿鳴館での井上外務卿主催のバザー「婦人慈善市」へ手伝いに誘われる。収益は有志共立東京病院(現慈恵医大、海軍軍医長高木兼寛が設立した日本初の民間施療(無償診療)病院)付属の看護学校設立資金に使われる

高木が学んだイギリスのセント・トーマス病院にはナイチンゲール看護学校が併設されていたところから、日本でも看護学校を作ろうとし、留学中に看護学校にも通っていた捨松が資金集めに協力

日本では、戊辰戦争当時から「看病婦」と呼ばれる負傷兵の世話をする女性がいて、金のために汚い仕事も厭わず行い、時には命まで差し出す卑しい職業として蔑まれていた

 

l  婦人慈善市

バザーは大盛況のうちに終わる。和は覚えたての英語を使って外国人客の応対にあたる

 

l  大山捨松からの誘い

捨松から鹿鳴館での通訳の誘いが来る。実際は婦人慈善会の会員に英語を教える

仕事は高給でよかったが、鹿鳴館に来る外国人から聞こえてくるのは、日本人の猿真似を馬鹿にする声ばかりで、通訳の仕事に嫌気がさす

 

l  リディア・バラの決意

女子教育者桜井チカの設立した桜井女学校に付属の看護学校設立の動きがあり、植村牧師から応募を勧められる。キリシタン禁制が解かれた1873年に来日した宣教師のリディア・バラの始めた貧民救済活動の一環として構想されたもの、その遺志を継いで、和の通う教会の宣教師マリア・トゥルーが動く

 

l  マリア・トゥルー

桜井チカが函館に赴任して廃校の危機にあった桜井女学校(現女子学院)を立て直したのがマリア・トゥルー。日本は看護婦を必要とするまでの文明の域に達していないと反対するヘボン等男性宣教師たちの反対を押し切って、同校内に小規模の看護学校を開設

和は、看護婦の何たるかを理解せず逡巡すると、植村から、「神の思し召し」だと言われる

 

l  横浜の貧民窟

マリアは和を横浜の貧民救済活動に誘い、実際の活動を通じて看護婦になることを決断

 

l  鄭永慶の最期

永慶は、妻と後妻に来た妹が相次いで亡くなり、屋敷が焼失した後に日本最初の喫茶店を開業するが、短命に終わる。その後相場に手を出して零落、渡米するも37歳で客死

 

第三章     桜井看護学校

l  「東の慈恵」「西の同志社」

1887年、和は桜井看護学校入学。生徒は8人。全寮制で2年間

校長の矢島楫子(かじこ)は、東京キリスト教婦人矯風会の会長

東では捨松らの共有東京病院看護婦教育所の母体の病院が皇后から「慈恵」の名を賜り、西では新島襄が妹の八重の協力を得て同志社に病院と京都看病婦学校が設立され、奇しくも鶴ヶ城で大勢の死傷者の姿を目の当たりにした2人の女性が看護学校の創設に関わった

看護学校が相次いで設立された背景には、伝染病の流行がある。前年には全国的なコレラの大流行に対し、東京府は「伝染病予防法」に基づき、本所、駒込、大久保、広尾にコレラ患者を隔離する「避病院」を設置したが、専門的訓練を受けた「看護婦」が必要とされた

 

l  校長矢嶋楫子

矢嶋は婚家で夫の暴力に遭い、逃げ出して東京で大惨事(副知事)だった兄の屋敷で手伝いをしながら教育伝習所に学び、ミッションスクールの教員・校長となり、桜井女学校に

 

l  断髪の新入生

当時は珍しい断髪、長身の同級生が1歳上の鈴木雅で、寮の同室となる。静岡出身で横浜フェリスに通い、卒業後は結婚するが、夫が西南の役の傷がもとで死去。看護できなかったことを悔やんで、看護婦になることを決断し、子どもを残して上京

授業はナイチンゲールの著書の翻訳から始まる

 

l  広瀬梅の苦学

同級生の1人広瀬梅は18歳。津山から学問したさに、家出同然に状況。教会の信者に矢島と引き合わされ桜井女学校に入る

 

l  『看護覚え書』

ナイチンゲールの著作『Notes on Nursing』を皆で翻訳。題名は『看護覚え書』

同書の「おわりに」は、「女性の仕事についてのたわ言には耳を貸さず、誠心誠意、神に与えられた仕事を全うしてほしい」とあり、女が働くことが特別視されていた時代、看護婦という新しい職業に就こうとしている学生たちに、どれほど勇気を与えたかしれない

 

l  火屋(ほや)磨き

生理学や解剖学の専門書に加えて看護用具も取り寄せられ、使い方を習得していく

西南の役の傷病者救済のために元老院議官佐野常民が興した博愛社が、ジュネーブ条約加盟とともに日本赤十字社となり、渋谷に新病院建設着手。看護婦の養成も始まる

和と雅は、火屋磨きをしながら身の上話を語り合い、親しさを増す

 

l  「不義の子」

矢嶋は、不義の子を密かに出産し、後に養子として引き取っていた。和は洗礼まで受けた矢嶋の不義を知って矢嶋の生き方に疑問を抱くが、聖書の「姦淫の女」の話を聞かされる

看護学校にスコットランドからアグネス・ヴェッチが赴任。帝大医科大学付属第一病院がトレインド・ナースの養成を決定、アグネスを看護教師として招聘。彼女が兼務することとなり、桜井看護学校の生徒も第一病院での実習が出来るようになる

 

l  病院実習

それまでの第一病院の看病婦は、吉原の遣手婆さんを連れてきて看護に充てていた

 

l  「器械出し」の名人

和は手術室で見た年配看病婦の見事な「器械出し」の手さばきに感銘を受け、教えを乞う

 

l  花魁心中騒動

根津遊郭の花魁が心中未遂で担ぎ込まれる

和の同級生はみな矢嶋梶子率いる婦人矯風会に入会しており、一夫一婦制の請願運動に注力し、公娼制度の廃止を唱える。6人のうち半分は看護婦にならずに廃娼運動に加わる

 

l  「泣キチン蛙」

唐突に教会に来てはよく泣いた和を、植村牧師は揶揄するように「ナイチンゲールではなく「泣キチン蛙」だ」と言った

 

l  トレインド・ナースの誕生

1888年、和たちの実習が終わり、修了試験にも合格。日本におけるトレインド・ナースの誕生。雅は第一病院内科看病婦取締(現在の看護師長)に、和は同外科の看病婦取締に就く

 

第四章     医科大学付属第一病院

l  「白衣の天使」

雅と和は、慈恵医院の看護婦取締の松浦里子に教えを乞う。松浦は本多銓子(静六の妻)とともに高木が海軍医学校生徒とともに医学を勉強させ、看護婦となった人

 

l  松浦里子と本多銓子

和が、「看護婦以前に、クリスチャンとして患者に貢献したい」と言ったのに対し、雅は、「看護婦はあくまで技術をもって評価されるべきで、評価が報酬に繋がる。精神性を言い出したら切りがない」というが、雅の「献身をお金に換算する」言い方には納得がいかない

松浦は結核のため30歳で早世。高木兼寛は青山墓地に手厚く葬る

本田銓子は、医業開業試験に合格。4人目の公許女医となる。幕臣だった本田家を継ぐために養子を迎え自宅で開業。同時に、竹橋女学校時代の友人岡見京が米国医師免許を取って帰国、5人目の公許女医として慈恵医院婦人科主任となり、請われてその手伝いもするが、子育てとの両立は厳しく、泣く泣く仕事をやめ、再び医業に携わることなく58で死去

松浦も本田も、高木の女子への医学教育の実験台となったが、男子学生からの嫌がらせや暴行事件が後を絶たず、学校は女子学生の強制退校などの挙に出る

 

l  「我朝のナイチンゲールとならん」

第一病院の和のところに、17歳の相馬愛蔵(後に新宿中村屋創業)が疥癬で入院。不愉快な臭気の薬の塗布を進んで実行、早期退院を果たし感謝される

アグネスのいなくなった後中断していた第一病院の看護教育を復活することになり、看病婦取締が実習指導などの看護講習を担当。続々と受講希望者が出てきた

 

l  医師との軋轢

1年も経つと、医療界で和の名前を知らぬ者はないというほどその奮闘が知れ渡り、有力者の手術の際に声がかかるようになる。器械出しはもとより、術後の管理こそトレインドナースの腕の見せ所だった

和の活躍を妬んだり非難する医師もいてやりにくい

 

l  「求めよ、さらば与えられん」

看護現場の待遇改善に向け、外科の医局に訴えたが黙殺されたため、直接監督教授に建議書を提出したため、医局が反発し、教授も医師たちと反りの合わない和を看病婦取締に就けておくわけにいかず解任

フリーになった和に、マリアから女子学院の高田分校の舎監の仕事が来る

 

第五章     越後高田「知命堂病院」

l  高田女学校

1890年、高田女学校に赴任。学校は、地元の藩医だった大森隆碩ら教育熱心な名士たちがマリアに協力を要請し設立したもの

 

l  廃娼演説会

大森が支援する廃娼演説会に和も参加

和の提案で歌われた讃美歌が参加者の評判を呼び、参加者全員で《廃娼唱歌》を歌うことが廃娼演説会の恒例となり、女性の参加者も徐々に増えだす

 

l  木下尚江との出会い

第一病院で和の世話になった相馬愛蔵は、その後洗礼を受け、大学卒業後は安曇野で養蚕の研究をしながら伝道活動を行っていたが、改めて礼を言いに高田に和を訪ねてくる

その直後、相馬に紹介されたと言って、木下尚江が廃娼演説会の弁士として高田に来て、和に挨拶する。愛蔵の松本中学の先輩で、廃娼運動などを推進する社会活動家として活躍

雅は、看護学校設立の募金活動のため母国に戻るマリアに同行して留学することに

 

l  瀬尾(せのお)原始との再会

1年後、第一病院で一緒に仕事をした瀬尾医師が高田に来る。地元の知命堂病院の跡取りで、病院は新築落成。瀬尾は和を新病院の看護婦長で招聘。マリアは和の将来を考え、快く送り出してくれる

 

l  心の夢

1891年、知命堂病院開院式。各診療科の医師たちとともに看護婦長の和も並んで紹介

娘の心が、自分も看護婦になりたいと夢を告白

 

l  鈴木雅、天然痘と闘う

海外留学の前日、雅は横浜駅前で人力車に撥ねられ、脳震盪を起こして、乗っていたアメリカ人医師に介抱されるが、去り際に天然痘が発生して現場に急いでいたことを聞き、自分も手伝うために後を追う。貧民窟の患者の隔離とともに、住民への種痘の接種を急ぐ

雅は、留学を断念。懸命の対応にもかかわらず、117人もの死者を出す

 

l  日本初の派出看護婦会

留学を断念した雅は、第一病院の看護講習を受けた若い看護婦たちと共に、看護婦が主体的に働ける職場として、派遣看護婦の会「慈善看護婦会」を立ち上げる。資金は雅の夫の遺産、看護婦はすべて第二医院の看護婦たちの実質手弁当。富裕者は有料だが、貧しい人の看護は無償。明治天皇の侍医田沢敬與(けいよ)の患者宅からの派出依頼での評判がよかったことが看護婦の職分が認められ看護婦会も認められその後の飛躍に繋がる

 

l  婦人矯風会の授産施設

会長の矢嶋楫子と、和の同級生3人が協力して、廃娼運動に伴って廃業した娼妓たちの収容施設作りが始まっていて、雅や和も寄付活動に協力

 

l  赤痢の村へ

知命堂病院は順調にスタート。近隣の村で発生した赤痢が広がって手に負えなくなったところに県からの支援要請がきて、和は医師と2人の看護婦を連れて応援に向かう

当時の赤痢は農民病と呼ばれ、農村で流行が始まることが多く、罹患者は避病院とは名ばかりの隔離小屋で糞尿にまみれて死んでいくだけ

村で医師が患者の診察をしている間に、和たち看護婦は避病院の環境改善に向かう

ナイチンゲールが手洗いの重要性を説いたのはかなり先進的だったが、その最初はオーストリアのウィーン総合病院の医師センメルヴェイス・イグナーツで、産褥熱の原因が医師の不潔な手にあると考え、手洗いを励行すると産褥熱による死亡率が急激に減少したが、科学的な根拠に乏しく、逆に医師たちの反発を買って精神病院に隔離され、衛兵からの暴力により47歳で死去。パスツールが細菌と病気の関係を突き止め、センメルヴェイスの主張に科学的根拠を与えたのは没後20年を経た1880年代半ば

 

l  村人たちの抵抗

村では、避病院への隔離を恐れて診察を受けようとしない。和は村人の協力を得て避病院の患者のための炊き出しと厠作りから始める

 

l  避病院の改良

小屋内の消毒と風通しを改善し、食物を与える。別途、県には重症患者と軽症の分離のため小屋の増設を働きかける

 

l  国恩と信仰

避病院の入院後の死者数が激減、和の仕事は衛生環境の整備の重要性を世間に知らしめる

和は伝染病の蔓延を「国難」と捉え、看護婦としてその対策にあたることが「国恩」に報いることであり、同時に信仰の証であると考えていた

 

l  日清戦争と看護婦

1893年、知命堂病院は貧困者への無償診療を始め、翌年には県内初の看護婦・産婆の養成所を開設、和も協力

日清戦争の際に日赤から陸軍病院に派遣された篤志看護婦の活躍により、看護婦に対する賤業視が一気に払拭され、一転して憧れの職業となると同時に、戦場から持ち込まれた伝染病が国内に蔓延したことから、看護婦の需要が高まり、全国で派出看護婦会設立が進む 

1895年、コレラと腸チフスの死者は4.8万人に達し、日清戦争の戦死者1.35万を上回る。しかも、戦死者の9割は赤痢や脚気などの病死だった

 

l  「衛星園」にかけた夢

マリアは、看護学校の存続と附属病院建設に奔走、親日家の大富豪モリス夫妻の援助を取り付ける。モリス夫妻は敬虔なクリスチャンで、新渡戸稲造や岡見京ら、多くの日本人留学生を自宅に寄宿させ援助してきた

マリアは新宿角筈に2500坪の土地を手に入れ、女性専用の病院「衛星園」を建設。病気の予防を重視した先進的な病院で、その運営を旧知で慈恵医院を退職していた岡見京に託す

 

l  岡見京との邂逅

病院の許可が下りないまま、京は余命宣告を受けたマリアの看病を続ける

和はマリアを見舞いに行って、初めて京と対面

 

l  梅と「ルツ子」

衛星園をウィリス・ホイットニー設立の赤坂病院の分院とすることで都の許可を取り、マリアの願いを叶えようと画策。許可取得後には看護婦養成所を併設して、桜井看護学校の再興も果たす

桜井看護学校1期生の広瀬梅は、マリアの死後2か月の三陸沖地震の救護に駆け付け、引き取り手のなかった赤子を引き取り、旧約聖書に因んで「ルツ子」と名付けて育てる。クリスチャン夫妻に養女として託す。結婚後に在米日系移民の悲惨な生活を知って渡米。看護婦・助産婦として彼らを支援、夫妻で日本人学校を経営しながら6人の子を産み育てる

 

l  車上の花見

和は雅とともに、矢嶋楫子の矯風会が経営する廃業娼妓の更生施設慈愛館を訪問

途中の車の中で、雅は和を自らの派出看護婦会に誘う

 

l  慈愛館の昼餉

50人ほどの女性が社会復帰に向け生活をしている

 

第六章     東京看護婦会

l  派出看護婦会の乱立

1896年、和は知命堂病院を退職し東京看護婦会の雅を助ける

和の最初の患者は、心臓病を患った元国務大臣の後藤象二郎。死までの1年、和の当意即妙の受け答えが気に入り、病床での和との会話を楽しんだという

派出看護で名を挙げるとともに、各地での赤痢の集団感染には、看護婦たちを率いて対策に向かい、奇蹟と呼べる「異常な成果」を上げる

派出看護婦会の乱立による看護業務の劣化とともに、女が組織を作り経営することへの反発からの批判・攻撃もあり、雅と和は自己防衛のためにも国による認可制度を考える

和は、児玉源太郎夫人の看護をした際、内務省衛生局の後藤新平局長を紹介されたのを思い出し直訴することに

 

l  後藤新平との約束

後藤は、すでに和の活躍を耳にしており、和の提案する看護婦の資格制度導入検討を約束

導入実現は4年後となるが、雅と和は自らできることから始めようと、看護婦養成に着手

雅の「婦人衛星会」立ち上げの経験を活かし、「大日本看護婦人矯風会」を立ち上げ、和が会長となって、個別に派出看護婦会を説得して会員を増やしていく

 

l  監獄署に通う

和は、相馬愛蔵から結婚の知らせがあり、木下尚江が収監されたことを知る

普通選挙期成同盟会で活動していた木下が、松本の県会議員が選挙の際に買収したことを知り追及すると、議員は見逃してくれれば同盟会に寄付すると約束したが、それが恐喝取財と見做され逮捕された。鍛冶橋監獄署に収監された木下を、和は頻繁に訪問する

 

l  木下尚江からの求婚

木下は無罪で出獄し、和に求婚。結婚後は木下のために仕事を辞めざるを得なくなるのではと心配する和に、木下は「日本のナイチンゲール、大関和」を好きになったので辞めなくていいという

雅は和の結婚には批判的

 

l  相馬愛蔵の誠意

木下から結婚の報告を受けた相馬は、弁護士としても実績の少ない木下が、社会的地位のある年上の女性と結婚することに加え、木下の女性遍歴に失望して反対する

後輩に反対された木下は結婚を諦める。和は木下と相馬から同時に手紙を受け取り、相馬の誠実な言葉に比べ、木下の言葉の薄っぺらさに愕然とする

 

l  遊郭から逃げた少女

木下が遊郭から身請けした女性は、岩本善治の自宅で子守をしていたことがわかる

和も雅も、教会で岩本と顔を合わせていて、和はその女性に看護婦となって独立することを勧める

木下はその後結婚、吉原から逃げてきた13歳の少女を保護し、身柄を婦人矯風会に託す

 

l  『派出看護婦心得』

1899年、和は『看護婦派出心得』を出版。版を重ね、その後改題

和は東京看護婦会の講習所で、『心得』の内容に沿った指導を行い、後進を育てながら、指名を受けて上流階級の派出看護を行う。さらに月数回は雅と一緒に看護婦たちを連れて市内の貧民窟を訪れ、衛生指導に注力

 

l  心の死

1900年、心が20歳で早世。病院での実習中に風邪の症状を訴えて受診、結核と診断されてからわずか4か月後の死。和は、ほとんど離れて暮らして親らしいことをしてやれなかったことを悔やみきれず、母哲も孫の死を機に一気に記憶が飛び、パン・ペルデュが何か分からなくなった

 

l  箱根への隠遁

心の死の直後、和が後藤に直訴した看護婦の条件や資格試験の内容について定めた「看護婦規則」を東京府が公布。20歳以上を受験資格とし、すでに2年以上の経験者は試験不要

公式には府内に58の派出看護婦会が存在、会員は908人、うち試験不要者は577

公私立大病院の看護婦は対象外で、警視庁衛生部が試験を管轄

看護婦人矯風会内部での対立は、和が掲げる「技能を大前提としながら、精神性をも重視する看護」を支持する派と、あくまで技能を重視する者たちとの対立が起こる

和が心の死を機に退職して箱根に隠遁すると、対立は激化

 

l  鈴木雅の引退

隠遁から半年後、雅が引退を決意。体調を崩した息子の世話をするためで、後事を和に託す。和も、一旦は看護婦自体を辞めようと考えていたが、雅のために翻意

雅の真意は、病院で養成した看護婦は相応の修業を積み、適当の技能を有するが、私設せるものは一般に速成を主とし、極めて不完全なる養成をなす上、倫理的にも逸脱する者が多いという侮蔑的な言辞と偏見に反発、さらには看護婦の業務が警察の取り締まりの対象になったことに絶望して引退を決断したという

 

l  「貴官の剣を貸し給え」

1901年、和は東京看護婦会の会長に就任。婦人矯風会の衛生課長に抜擢。さらに慈愛館の運営委員にもなる。派出看護婦会同士の互助組織の大日本看護婦協会の幹部にも選任

看護の仕事から遠ざかっていた和が現場に復帰するのは、日比谷公園で開催された日露戦争の祝捷会の救護班として。提灯行列の暴走で死者25人を出す大惨事になったが、その現場に駆け付け救護にあたる。警官の必死の働きも効なしと見るや、和は「貴官の剣を貸し給え」と絶叫したという

 

l  《婦人従軍歌》

雅は、若い看護婦たちが、いつの日か戦場に送られることに危惧を抱く

和は、命を懸けて患者を救うのが看護婦の使命で、戦場でも銃後でも変わらないと主張

昭和の戦争では、従軍看護婦も叙勲と靖国合祀の対象となり、愛国心の強い女性ほど憧れを抱くが、戦後の恩給制度による補償が認められたのは、戦後30年も経ってから

 

l  六郎の結婚

和は信仰に戻るが、代わりに雅は植村の戦争協力に嫌気して教会から去る

和の息子六郎が東京看護婦会の有能な看護婦だった澤本操と結婚。和にとって操は心の身代り的存在となる

 

l  慰問袋運動

日露戦争中、和が最も力を入れたのが慰問袋運動。米西戦争時にアメリカで行われた運動が起源。矯風会が中心となって呼びかけ、大量の慰問袋を戦地に送る

帰還兵の出迎えも始める

日露戦争では、8.4万人の戦死者を出すが、うち1/3が赤痢やコレラなど戦病死

 

第七章     大関看護婦会

l  復彦との再会

角筈の衛星園が閉園。病後の保養に金を使おうという人は少なく、理想が先走り過ぎていたのが原因

1907年、和は関節リウマチの合併症である心臓弁膜症を発し、九死に一生を得る

那須湯本で療養中に、『実地看護法』を執筆、家庭医学書として広く普及

東京看護婦会の貧民救済活動で操が栄養状態の悪い男児に食糧を与えたのがきっかけで、偶然にも和のすぐ下の弟復彦と出会う。すでに重い結核に侵され、すぐに日赤病院に入院させたが不遇のまま亡くなる

 

l  炊き出しでの出会い

復彦との再会を機に、和はますます貧民救済活動に力を入れる

 

l  「生まれては苦界、死しては浄閑寺」

1908年、公許女医第1号の荻野吟子が、本所に小さな産院を開業。かつて湯島に産婦人科医を開業し、娼妓たちの診察をしていた。結婚して夫から淋病をうつされ、男性医師らによる治療が苦痛でならなかったことから医者になって、同じような女性を助けようとしたことから、雅は和も遊郭での慈善事業を考え、荻野医院を訪問

吉原の近くの浄閑寺、通称「投込寺」には、クリスチャンの和も手を合わせた

 

l  大関看護婦会

派出看護婦への需要増大とともに、東京府の規則にもかかわらず無資格の看護婦派遣や、大病院は規則不適用のため、大々的に募集してほとんど教育せずに働かせるケースもあり、和は婦人矯風会衛生課長として看護婦界の刷新を訴える

和は雅と話し合い、東京看護婦会から大関看護婦会に看板をかけ替え、新たにキリスト教精神に基づく看護婦会とし、所属看護婦もクリスチャンに限定

 

l  六郎の客死

心の死から10年、六郎が突然ジャワに伝道に行くと言って単身旅立ち、すぐにマラリアに感染、死去する。母哲も2年後に死去。和は代わりに六郎の遺児一郎を溺愛

新宿中村屋の相馬一家とは生涯家族ぐるみの付き合いをするが、相馬の長女俊子が若い画家から求婚されたときは和が自宅に匿って諦めさせた。和は後にボースと結婚

 

l  内務省「看護婦規則」

1915年、内務省が全国を対象に「看護婦規則」を発布。東京府の規則よりも厳格だったため、和は管轄の警視庁衛生部長に直談判

大正時代には、看護婦が女性の職業として定着する。明治の20年をかけて1.3万人に達した看護婦は、大正末には5.1万人に増加。短期間のうちに、天職意識から生活手段としての職業へと転換し、女性の職業として一般化

 

l  大山捨松、スペイン風邪に倒れる

1次大戦中に一郎が8歳でコレラに罹患、看病していた操が看病疲れから高熱を発し、呆気なく他界。身内の相次ぐ死から立ち直れずにいた和の心に追い打ちをかける

1918年から始まったスペイン風邪の猛威に、全人口55百万のうち24百万が感染、死者は38万とも45万ともいう。大山捨松も1919年に58歳で死去。曽孫の久野明子は、捨松が極度のアレルギー体質だったことから、死因はワクチン注射のショックだという

和も看病に奔走、自身も感染して寝込む

 

l  鈴木雅との別れ

1922年、雅は息子とともに京都稲荷山の実家に帰り、和とは今生の別れとなる

 

l  関東大震災

和は雅との別れを機に、看護婦を完全引退。関節リウマチと闘いながら大関看護婦会の経営は続ける

関東大震災では、和は大関看護婦会にいて無事。午後出勤で出てきた3人の看護婦とともにすぐに救助活動に奔走。吉原に駆け付けて娼妓たちの救護が看護婦大関和の最後の仕事となる

 

エピローグ

1929年、和は脳出血に倒れ、2年半病臥した後、74歳で死去

病床に最も頻繁に来たのは相馬愛蔵。その都度現在の10万円相当の金を枕の下に置く

死後残されたのは、現在の100万円ほどにあたる借金で、香典で返済された

ナイチンゲール生誕100年記念で赤十字国際委員会が「ナイチンゲール記章」の受賞者に和を推薦する話が上がったが、和は取り合おうとしなかった

和の性格は掴み所がなかったが、「士族意識から来るものか、終生エリートとしての誇りがあり、威張っているわけではないが、気位の高さは一貫してあった」

当時は、出自に誇りを持つことは自然であり、国に報いたいという思いも、出自によるものだろう。和にとって、報国とキリスト教の信仰は矛盾しておらず、どちらへも貢献できるのが看護婦の仕事であり、その自覚があればこそ、短期間で看護婦の評価を高め、職業としての礎を築くことができたのだろう

雅は、京都から娘のいる沼津に移り、息子や娘母子と共に過ごし、194082歳で死去

宗教上の激しい論争も厭わず、一般的には強面、短期、頑固として知られる植村正久が、和の涙にうろたえる様子は意外。2人の関係は友情に近かったと思われる

矢嶋楫子は、92歳で死去するが、姪が楫子の告白文を死後公表したが、兄が頼みとしていた書生と愛に陥って1人娘を出産。書生は家族持ち。娘はその後牧師と結婚するが子を産んだ後死去。矯風会は、強きが故に設立したのではなく、弱気が故に人間の行路を少しでも誘惑を減じ、人生を歩みやすくするために建てたものと語っている

弱さを自覚し、葛藤を抱えながらも精力的に生きた楫子と、楫子を見出したマリア・トゥルーの精神は、今も女子学院の教育の中に息づいている

看護婦の呼称は、1915年の内務省規則により正式名称となり、1968年に男性にも門戸を開放して、男性は「看護士」と区別され、2001年保健師助産師看護師法の改正により、「看護師」に統一される

看護師は、現在約130万人。専門職でありながら賃金は低く据え置かれている。誕生当初から、彼女たち自身が「献身」「慈善」「無賞」を是としていたことも関係しているのだろうが、医療の特に深刻な場面で、看護師たちの献身や無償の優しさに救われていることも事実

 

 

 

 

 

中央公論新社 ホームページ

明治時代、「カネのために命まで差し出す賤業」とされていた看護婦。生涯をかけて看護婦の制度化と技術の向上に努めた大関和を描く。

 今や看護師は、社会に欠かせない職業である。所定の学校で専門知識や技能を身につけ、国家試験に受かってはじめて就くことのできる専門職であり、人の健康や命を守る尊い職業として、広く認知されている。しかしかつては、「カネのために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業」と見なされていた。 家老の娘に生まれながら、この「賤業」につき、生涯をかけて「看護婦」の制度化と技能の向上に努めたのが、大関和(ちか)である。和は離婚して二人の子を育てる母親でもあった。和とともに看護婦となり、彼女を支え続けた鈴木雅もまた、二人の子を持つ「寡婦」であった。 これは近代日本において、看護婦という職業の礎を築いた二人のシングルマザーの物語である。

風、薫る』(かぜ、かおる)は、2026年(令和8年)度前期のNHK連続テレビ小説」第114作で、2026330から放送されている日本テレビドラマ。脚本は吉澤智子が担当し、田中ひかるの『明治のナイチンゲール 大関和物語』を原案とするが原作はなく、フィクションとして制作される。実在の人物である大関和鈴木雅をモチーフにした二人のナースを主人公とする

 

 

Wikipedia

大関 (おおぜき ちか、1858523安政54111932昭和7年〉522)は、日本看護師である[3][4]

経歴・人物

出生から看護学校入学前まで

下野黒羽藩国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる[4]明治維新後、父は辞職し帰農を試みるがかなわず、一家あげて東京へ移り住み、そこで和は成長する[5]年頃を迎えると国元から縁談話が舞い込むようになり、1876年(明治9年)、和が19歳のとき、黒羽藩の次席家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進(豊綱[6])と結婚し、やがて一男一女をもうけた[4][7]。しかし、福之進との関係が清算されなかったこと[注釈 1]から離婚にいたって東京の実家へ戻る(上京は1881年〈明治14年〉のこと[6])。鹿鳴館文化が華やかな当時、上流家庭との交際や外国人と知り合う機会もあり、英語習得のため植村正久の弟正度(まさのり)が経営する正美英学塾に通うようになり[8][注釈 2]、正久とも親しくなってやがて師事した[7][9]。植村によって和の優れた資質を見出され、教育訓練を経た正規の看護婦となることを勧められたが、当初は武士階級出の自尊心に囚われて和は乗り気でなかった。度重なる植村からの説得を受けるうちに、苦しむ人を救う看護の道はキリスト教の博愛精神にかなうことを理解し、志望してその道に進む[1]

看護婦を志してから

1886年(明治19年)春[10]桜井女学校に開設されたばかりの付属看護婦養成所に1期生として入学[1][4]。同期には一歳年長の鈴木雅がいた。学課1年・実習1年の通算2か年の教育課程で学ぶが、養成所には自前の実習施設がなかったため、1期生は帝国大学医科大学附属第一病院(現在の東京大学医学部附属病院)に実習生として派遣されることとなり[1]、そこで当時来日し赴任していたアグネス・ヴェッチから看護学の指導を受ける[11]。その間、1887年(明治20年)には、植村の一番町教会(のちの富士見町教会)において植村によりキリスト教に受洗している[1][9]。卒業後の1888年(明治21年)に日本初の近代教育を受講した看護婦の資格を取得する[7][9]

後に帝国大学医科大学附属第一医院における外科の看護婦取締役(看護婦長)や[4][9]1890年(明治23年)には新潟県の高田女学校(1888-1897)の伝道師及び舎監、1891年(明治24年)からは高田にある知命堂病院初代看護婦長等を務め[4]、後に上京し1896年(明治29年)には神田に桜井女学校時代の同期の鈴木が設立した東京看護婦会の教師や[3]、後に鈴木の後継者として会頭となり[4]日本キリスト教婦人矯風会の理事を務めるなど[11]、多くの役職を歴任した。また、1909年(明治42年)11月には神田猿楽町に大関看護婦会を開き[注釈 3]、みずから優良な看護婦の養成と派出看護業務の開始に乗り出した[12]。このほか、女性の地位向上のため、娼婦廃止の訴えかけ[13]や、禁酒、婦人参政権運動などの面にわたって活動した実績を残している[11]

1932年(昭和7年)5222320分、かねてから脳溢血のため病臥中[注釈 4]のところ病状悪化により、東京府東京市本郷区本郷弓町の大関看護婦会において死去。満73歳没 [10]

主な著作物

  • 『派出看護婦心得』- 初版、1899年(明治32年)刊行[11]
    • 『派出看護婦心得』(6版)看護婦会、19211115
  • 『実地看護法』- 初版、1908(明治41年)刊行[11]
    • 『実地看護法』(5版)新友館、1926112

関連項目

注釈

    1.  和との結婚前から福之進には側女とその子どもがいたが、旧縁を清算することが結婚話に応じるうえでの条件であった[5]
    2.  また、このころ、植村の母から一夫一婦を説くキリスト教の教えをきき、かつて妻妾同居の経験を味わった身から感化されて、大きくキリスト教の影響を受けている[8]
    3.  その後、大関看護婦会は神田錦町飯田町五丁目などに転々と移動[12]
    4.  1930年(昭和5年)ごろに脳溢血で倒れて、軽い不随のまま臥床にあった

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯  Frank Brady  2013.8.2.

お言葉ですが… 第1巻  高島俊男  07.01.

語られなかった皇族たちの真実  竹田恒泰  2013.10.16.