遥かなる山に向かって Daniel James Brown 2026.7.8.
2026.7.8. 遥かなる山に向かって 日系アメリカ人2世たちの第2次世界大戦
FACING
THE MOUNTAIN:A true
Story of Japanese American Heroes in World War II 2021
著者 Daniel
James Brown アメリカのノンフィクション作家。サンフランシスコ湾岸地域で育ち、ディアブロ・ヴァレー・カレッジ、カリフォルニア大学バークレー校、同ロサンゼルス校に学ぶ。サンノゼ州立大学、スタンフォード大学でライティングを教えたのち、テクニカルライター&エディターをへて、専業のノンフィクション作家となる。前著『ヒトラーのオリンピックに挑め(The Boys in the Boat)』(Viking, 2013. 邦訳早川書房)は発行部数300万部超のミリオンセラーとなり、22か国以上で刊行され、2023年にジョージ・クルーニー監督によって映画化された(「ボーイズ・イン・ザ・ボート──若者たちが託した夢」)。本書(Viking, 2021)も《ニューヨーク・タイムズ》ベストセラーリスト入りし、人間精神の最高の価値を肯定するメディアにおくられる「クリストファー賞」を2022年に受賞している。ほかの著書にThe Indifferent Stars Above(2009)、Under a Flaming Sky(2006)がある。シアトル郊外在住。
訳者 森内薫
もりうち・かおる
翻訳家。上智大学外国語学部フランス語学科卒業。訳書にブラウン『ヒトラーのオリンピックに挑め』(早川書房、2014/文庫2016)、ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(2014/文庫2016)、『空腹ねずみと満腹ねずみ』(2020)、ムーティエ『ドイツ国防軍兵士たちの100通の手紙』(2016)、ヘス『レストラン「ドイツ亭」』(2021。以上、河出書房新社)、ポムゼルほか『ゲッベルスと私』(石田勇治監修、共訳。紀伊國屋書店、2018)、ガロー『格差の起源』(柴田裕之監訳、NHK出版、2022)ほか。
発行日 2025.2.10. 第1刷発行
発行所 みすず書房
序文 トム・イケダ(シアトル本拠の非営利団体「デンショウ」の事務局長。同団体は日系アメリカ人の歴史の収集と保存及び共有に努め、社会正義や公正の促進を行う)
1995年、「伝承(Densho)」スタート。第2次大戦中に強制収容されていた日系アメリカ人の祖先に聞き取りを行い、それぞれの個人的な物語をデジタルで保存し、共有するボランティアグループ。父は、地域の人間はすでに戦争のことやあの時の苦痛をもう忘れたがっているといったが、12万人もの日系アメリカ人が強制収容されていた事実を耳にすることすらしたことがない人があまりにも多いのを知って、生き延びた人々は今死に絶えつつあるため、彼らの物語を聞き、記録する必要があると考えた
20年後、デンショウの功績が認められシアトル市長芸術賞を受賞。隣にいたのが本書の著者で、ワシントン大学のボートクルーを題材にした作品『The Boys in the Boat(邦題:ヒトラーのオリンピックに挑め)』で表彰されていた。同時期にマイクロソフトに勤め、志の追求のために離職していたことを知ってすぐに打ち解け、彼が第2次大戦中の日系アメリカ人の経験にずっと関心を持っていること、次の本のテーマにしようと考えていることを知って、連絡を取り続けることになった。それから5年、いま本書のために序文を書いている
デンショウを立ち上げた時、私は自分たちの集めた物語が他者に、人間らしくあるすべや不正義に立ち向かうすべを教えるのを夢見ていた。本書は深刻な不安の時代に―未来の選択を導く上で、他者への共感が強く必要とされる時代に―私たちのもとに届けられた。この本は人々の心をきっと開いてくれる
著者からの言葉
ジョージ・オーウェルは、「政治的な言語は、嘘を真実らしく、殺人を尊敬すべきものに見せかけるように作られている」と書く
本書の中心にある出来事は、この点を豊かに物語る。アメリカのリーダーは、数万人の日系アメリカ人を自宅から追い、遠く人里離れた収容施設に閉じ込めた時、「退避」と呼び、これらの市民の親を、すでに米国に暮らして数十年になるにも拘らず「敵性外国人」と呼び、鉄条網で囲われた用地を「集合(Assembly)センター」、その恒久施設を「転住(Relocation)センター」と呼び、人々は砂漠の荒れ地に作られた粗末なバラックに押し込まれ、戦争を生き延びた
真実を物語るためには、正しい言語を用いなければならない
会話の再現を正確かつ正直に行うことにも心を砕いた。ハワイ諸島内では「ピジン語」として知られるハワイのクレオール語で話されているが、その会話も忠実に再現することに努めた
プロローグ
日本が真珠湾を攻撃してから数時間ですべてが変わった
日系アメリカ人は本質的にはアメリカ人だった。にも拘らず12月の出来事は人々がずっと知っていた何かを浮き彫りにした。アメリカ社会における立場がいまだに脆弱だという事実だ。強烈な反アジアのレトリックは際限のない敵意をもたらす
だが2世のほとんどは、人生の終わりまでにはアメリカの英雄として認められることになった
本質的には本書はこれら若者の物語。その彼らが、アメリカ人であるとは正確にいかなることかを行動を通してどのように世界に示したかにまつわる物語。同時に彼らの移民の両親の物語でもある。彼らがアメリカ社会の中で自身の居場所を勝ち取るためにどんな努力を重ねたかが描かれている。また、極限的状況下で家族を1つに結びつけた妻や母親や姉妹たちの物語でもある。そしてまた1838年のチェロキー族以来、自宅からの大規模な強制退去や生活手段の剥奪、そして大掛かりな強制収容に直面させられた最初のアメリカ人の物語でもある
究極的には勝者の物語
第一部 衝撃
第1章
その朝6時過ぎ、はしけが潜水艦を発見、駆逐艦に通報して撃沈。当直将校からの連絡は1時間後に太平洋艦隊司令長官キンメルのもとに届くが、最終確認まで待機
同じころ陸軍のレーダー基地でも異常な光点を視認したが、予定されていた味方の編隊と判断し放置
7:48am、日本軍の攻撃が始まったが、人々はそれが何かを理解できなかった
民間人も49人の命が奪われた。当時ハワイの住民の1/3は日系の人びと
第2章
マウイ島のミホ・ホテルは、人気のホテル
島の大半は、ボールドウィンとアレクサンダーの両家に支配され、根深い人種的・経済的不平等があった。プランテーションを経営するには先住民では足りず、アジアから多くの労働者が挑発された
第3章
ラジオが人気で、スポケーンの日系人シオサキ経営のヒルヤード・ランドリーでも大統領の開戦発表を聞いていた。みな「ジャップ」を連発、公式に発せられた言葉だった
人々が事態を理解した瞬間から、長い間アメリカ、特に西部でくすぶり続けてきたアジア人種に対する憎悪は一挙に表面化
ハワイ大学の予備役将校訓練課程の仲間―ほぼ全員が日系人―は、ハワイ準州警備隊に編入され、オアフの主要インフラ警備に就く
その後の数週にわたり、自宅から多くの日本人が連行され、逮捕・投獄。多くは1世で、数十年にわたりアメリカの法を順守して暮らしてきたが国籍取得は認められていなかった
アメリカ政府は、有事の際の適性外国人の扱いを検討。1798年制定の外国人・治安諸法を典拠に、日独伊住民のリストを作成。疑わしい人物を3段階に分け、有事の際は一網打尽にしようと準備していた。特にハワイでは、寄港する日本商船とコンタクトのある日系人に注意が集中。開戦後は一斉に逮捕が始まる。大半は日系人
第4章
スポケーンのランドリーでは、すぐに重要顧客から断りの通告がある。それまでも事業は順調だったが、公共の場には入れなかったり、自治体の条例で家を買うことも出来ず、「ジャップ」と呼ばれた経験もあったものの、子どもたちの教育機会はなんとか確保
開戦後も子供たちは学校に通えたが、友人はいなくなった
悪い知らせが続々と入るにつれ、米国内の怒れる声は人種差別的なレトリックを縦横に駆使してエスカレート。19世紀アジア系移民に対する黄禍論の再来
年が改まると、軍隊に入ろうとする多勢の若いアメリカ人男性が徴兵事務所に押し寄せ、アメリカ各都市では突然陸海軍の制服を着た男が溢れたが、制服をまとった時に誰よりも誇らしく感じたのは、ハワイ準州警備隊の隊員だった。3/4以上は日系アメリカ人。開戦直後からこの戦争で自分たちが特異な重荷を背負うことになると彼等にはわかっていた
'42年2月、突然州警備隊全員に除隊命令が下る
第二部 追放
第5章
サリナス渓谷は、3年前の『怒りの葡萄』によってスタインベックの国
農園で働いていたトキワ一家の末っ子のルディは、開戦直前まで日本で教育を受けて帰国したばかり。開戦をある程度は予想していたが、開戦と同時にFBIに踏み込まれ、家宅捜索
‘42年2月、大統領が陸軍長官や軍司令官に「すべての人間を排除できる」地域の指定を許可する命令に署名。いかなる人種集団への言及もなく、具体的な処置も明示されていない。すべては軍当局に委ねられていたが、狙いが日本であることは明らか
陸軍が指定したのは、ワシントン州西部、オレゴン州西部、カリフォルニア州、アリゾナ州南部。ハワイは、島の経済に与える壊滅的な影響を危惧して除外し、FBIにリストされたもののみが本土の連邦抑留センターに強制収容されることになる
戦時転住局が新設され、本土における排除地域から人々をシステマティックに強制移送することを目的にし、日系アメリカ人の自由な移動は禁じられた
一時的に家を追われた人々は「集合センター」に収容され、さらなる恒久施設「転住センター」へと移送されることとなり、3月には最初の「退避」命令が発出される。準備期間は6日間
第6章
カツイチ・ミホはオクラホマの捕虜収容所に、165人の日系1世とともに送られる。故郷に帰りたいと渇望していた1人は気が違って、フェンスを乗り越えようとしたところを射殺される
第7章
ワシントン大学シアトル校の学生だったゴードン・ヒラバヤシは、夜間外出禁止令を無視して勉強した結果拘束され、連邦刑務所入りすることに。クエーカー教で働き、シアトルから収容される日系人全てを送り出した後、憲法に基づく権利を主張してFBIに出頭。日系アメリカ人としての登録を拒否したが、退避命令違反と夜間外出令違反を理由に拘束・起訴される
シオサキ・ランドリーは排除地域の外だったため強制収用は逃れ、戦時景気で家業は多忙
第8章
ほとんどのアメリカ人は決意をもって強く団結。自分たちが道徳的な高みに立っているという信念であり、自分たちのよりどころである価値観が脅威に晒されているという思いに裏打ちされていた
トキワ一家はアリゾナ州ポストンの転住センターに移送。塵旋風が砂漠の床を横切って踊る灼熱の先住民の土地に彼等の反対を押し切って急造されたキャンプだった
ゴードンの裁判が始まり、戦時中の便宜は憲法上の権利に勝るとして有罪判決が下る
第三部 コトンクスとブッダヘッズ
第9章
'43年2月大統領は、「すべての忠実なアメリカ人には、この国に奉仕する機会が与えられてしかるべき」との陸軍長官宛の文書に署名
ハワイと収容所とでは大きく反応が異なった。ハワイでは入隊希望が殺到したのに対し、鉄条網の内側の多くの人たちにとっては魅力的には映らず、馬鹿にした話だとも感じていた
強制周恩来した国家のためになぜ自分の命を危険にさらさねばならないのか、家族は解放され市民権を与えられ、公民権を回復してくれるのか、黒人で構成された第92歩兵師団と同じように日系アメリカ人だけの戦闘部隊が作られるというがなぜ分離されなければいけないのか、さらには志願するしないに関わらず、2世とその家族は特別な忠誠登録に署名しなければいけないのはなぜか、まるで筋の通らない話
忠誠登録では、米軍兵士としての戦闘任務と、合衆国への無条件の忠誠、天皇への忠誠の拒否の項目に抵抗があったものの大半が署名。いずれかにノーと回答した人たちは別の収容所に移され、その場所で戦争を生き抜くことになる
ゴードンは、アメリカ自由人権協会とフレンズ奉仕団の弁護士の働きかけで、最高裁判決まで保釈されスポケーンに住むことが認められ、シアトルでフレンズ奉仕団を作って収容された日系アメリカ人のための支援活動を始める
4月、ハワイではイオラニ宮殿の庭を埋め尽くした出征兵士の壮行会が開かれる。ミシシッピ州の基地で訓練を受け、日系アメリカ人だけの「第442連隊戦闘団」を結成。ミシシッピ州と聞いて不安が巻き起こる。その州について唯一知っていることは、白人が組織的に「有色の」人々を虐待したり、ひどければ殺したりさえしていることだった
“Go for Broke”が部隊の合言葉に(当たって砕けろ、ギャンブル用語で「全額を賭けること」)
フレッド・シオサキは、禁令の直前に滑り込みで入隊し第324歩兵連隊にいた兄を追って、親に内緒で徴兵を申し込み、親の猛反対を押し切って入隊。ほどなくランドリーの正面には2つの青い星のついたサービス・フラッグ(現役で軍務に服している家族がいることを示す誇りと祈りの象徴で、戦時下の地域社会全体で軍人を支える重要な役割を果たす)が飾られた
第10章
ルディ・トキワは、一定期間日本で暮らした経験があったために、ミネソタ州にあったMISというアメリカ陸軍情報部に配属されたが、仲間と一緒に銃をもって前線で戦いたかったルディは、日本語の試験を無回答で提出し、ミシシッピのキャンプに行かされる
キャンプには、442部隊の来る前から、本土の日系人兵士からなる部隊がいて、下士官のポジションをほぼ独占。442部隊の新兵は本土の日系人兵士から命令を受けることになったため、同じ日系人同士で諍いが与えなかった。特にハワイのピジン語は本土出身者には理解できなかった。ハワイ出身者は本土出身者を「コトンクス」と呼び始めた。ココナッツの実を叩いた時のうつろな音のことで、本土の人間の頭を叩けばカラッポな音がするという意。逆に本土出身者はハワイ出身者を「ブッダヘッズ」と呼ぶ。ピジン語の「豚の頭」と「仏陀頭」の混交語だが、どちらの側でも誰もどういう意味なのか正確には知らない
本土出身者は、愛国的なアメリカ人であることを証明するという不屈の、高潔な決意に動かされ、怒りに燃えて入隊してきているので、志も高かったが、ハワイ出身者はざっくばらんで楽天的で、あらゆる種類の権威には絶えず反抗すべきものとみなす傾向があった
カッツ・ミホは、適正テストの結果がよかったことに基づき、第442連隊の専属砲兵部隊の第522野戦砲兵大隊に配属され、砲兵としての基礎を学ぶ
ゴードン・ヒラバヤシの最高裁の判決は、肝心の強制収容の問題を脇に置き、夜間外出禁止令のみに言及し、戦時下の状況は人種差別を正当化するという政府の主張を支持
442連隊の若者に外出許可が出るようになったが、たちまちあちこちで悶着が起こる
第11章
厳しい自然環境の中での機動演習が続く。ワニや蛇、マダニからツツガムシにまでやられる
442連隊の将校はみな白人だが、いずれも自ら志願してきた人々で、徐々に2世兵士との間の蟠りが取れていく。連隊長のペンス大佐は、新兵の母親1人1人に手紙を書き、一緒になって戦場で戦うことを伝える
8月には、442連隊より先に出来ていた日系アメリカ人の第100歩兵連隊が基地から北アフリカやイタリアなどの戦地に旅立っていった。442部隊も十分実力をつけていた
第12章
一向に止まないコトンクスとブッダヘッズの諍い解決のためもあって日系アメリカ人従軍牧師が2人基地に到着。諍いの原因が、本土から来た青年らを蝕んでいる不安にあることを確信。ハワイ出身者は戦争が終わったら故郷で歓迎されるのに対し、本土出身の兵士の大半は帰る家すらないかもしれず、楽しみなど何もなかった。そのため、ハワイ出身者に転住センターの実情を見せようとツアーを計画。悲惨な収容所の実態を目の当たりにしたブッダヘッズは、兵舎に戻ってそれを仲間たちに話し、仲間たちはそれを見にツアーをする
‘44年2月、第100歩兵大隊の補充として数百人が突然選ばれ、一晩で姿を消す
陸軍参謀総長マーシャル大将が基地を訪れ、第442部隊を閲兵する。みな家族への手紙を書き始め、死への恐怖が垣間見えるようになる
4月22日、出動命令が下る。ヴァージニアの集結基地で地元の米軍慰問協会が442連隊を見送るためにダンスパーティーを企画したが、白人女性と踊っているのを見た陸軍の白人飛行士数人がカチンと来て割り込んできて、殴り合いの大騒動に発展。数十人の白人兵士を撃退するなかで、442連隊の中の絆が固まる
5月、4100人の442連隊はヴァージニアからナポリ、アンツィオへと抜錨
同じ頃、100大隊はイタリアのアンツィオ近くのティレニア海に面したカッシーノに接近。ドイツ軍が難攻不落の要塞を築いていた。激戦の犠牲者は多く、1300名いたのが521まで激減し、アンツィオの英米軍に合流
第四部 千人針
第13章
ゴードン・ヒラバヤシはアリゾナ労働刑務所出の刑期を終えてスポケーンに帰り地方検事のもとに出頭すると、「日本に祖先をもつアメリカ市民の申告書」への署名を求められる。忠誠にまつわる2つの質問も含まれており、ゴードンは表題そのものが人種差別的だとして署名せず住所だけ記載して返却
日系アメリカ人の徴兵が再開され、徴兵拒否は10年の収監に繋がるが、依然として忠誠への宣誓の問題は残り、入隊後も日系2世だけの別の部隊であり、海軍は入隊禁止などの差別は残り、残された家族も収容所に拘束されたままだが、徴兵拒否者は刑務所に連行
船上の兵士が大切にしていたものの1つが、収容所にいる母親から贈られた「千人針」
収容所の2世の女性たちが軍隊で働き出す。大半は事務職だったが、日本語に長けた一部は情報局の語学学校に入れられ、海外派遣看護婦の補充要員として看護学校に通う女性もいた
野戦砲兵隊はプリンディジに、歩兵部隊はナポリに上陸し北に向かって行軍
アンツィオに上陸した442部隊の一部は先着の100歩兵大隊に合流し、ローマに向けて進軍
ローマが解放され、続いてノルマンディの成功も伝えられたが、ドイツ軍は退却しながらも遠距離砲で応酬。北に向い前線が近づくに連れ兵士らの生活環境はどんどん厳しくなっていく
南からの大隊が合流、100大隊も傘下に入って正式に日系アメリカ人による442部隊が発足、第5軍第34師団に配属され北に向かう
第14章
6月26日朝トスカーナ西部で、522野戦砲兵大隊による最初の砲弾が3.2㎞先のドイツ軍の車列目がけて発射され、いよいよ442連隊が戦争に突入
撤退しながら抵抗するドイツ軍を追って激戦が展開される中の進軍
第15章
7月4日、ローマでは米軍ラッパ隊によって「星条旗」が演奏され、米国旗が掲げられた
トゥーリーレイク収容所は、忠誠を拒否した2世が送られたが、収容所内の対立や食糧不足、厳しい生活環境に直面し大規模な抗議活動やストライキが勃発するなか、ゲートの通行を巡って白人の歩哨が2世を射殺する事件が出来。古刹罪で起訴されたが8人の将校からなる軍法会議では無罪
連合軍のヨーロッパ進攻を支えた大規模な兵站作戦の長所の1つは、V郵便と呼ばれる、故郷の家族とのスピーディかつ確実な連絡手段の確保。標準化された小さな青いシートに書かれた戦地からのメッセージを軍部が検閲し、写真に撮り、その映像を本国に送って印刷・配達することによって、手紙を運ぶのに必要な貨物スペースを節約し、1,2週間で手紙が届いた
次の目標はイタリア第3の重要な港湾都市リヴォルノ。次々にドイツ軍の要塞を撃破し、町に入城、アルノ川南岸で初の休息をとる。双眼鏡で北を見るとピサの斜塔が見える
第16章
ゴードン・ヒラバヤシは、尊敬する師の娘と結婚。異人種間との結婚には世間からの軽蔑や嘲笑が予想され、将来の子供をも巻き込むことになるが、それでも2人は決断。AP通信は好意的に取り上げ、国中や世界中に広まったが、すぐに裏切り者との憎悪の手紙と電話が殺到
ドイツ軍とアメリカ軍は、アルノ川をはさんで対峙。敵軍の様子を視察にルディ・トキワを始め12人が敵陣に近づき、パルチザンから情報を得て戻る
442部隊の活躍は目覚ましく、ドイツ軍は「小さな鉄人」と呼び続け、一目置くと同時に恐れるようになった。アメリカの新聞や、映画館のニュースでも報道される
9月にはフランスにいる第7軍に編入されマルセイユに移動。本国から補充部隊672名が合流。ベルリンがクリスマスの前に陥落するとの見方も出てきたが、それほど簡単なことではなかった
第五部 地獄への門
第17章
マルセイユは1か月前に自由フランス軍に率いられた連合軍が町を解放した
ブラッドリーやモンゴメリーの率いる連合軍は、ドイツの最後にして最高の防衛線で「西の壁」と呼ばれた、オランダからスイスとの国境まで400マイル近いジークフリート線を強襲する準備をしていた。第7軍はその戦線の南端近く、ストラスブールの南西にあるドイツの領土に向かう。442部隊も貨車でローヌ渓谷経由そこに向かって移動
ディジョンでカッツ・ミホは、連隊中に勇気と名声の広がっていたダニエル・イノウエに紹介され、意気投合して生涯続く友情を育む。それはその後ハワイの運命を形成する一助にもなる
10月には442連隊が1つにまとまり、正式に第7軍第36歩兵師団(別名テキサス・アーミー)に加入。ヴォージュ山脈を隔ててドイツ軍と対峙、数週間後には「バジルの戦い」と呼ばれる巨大な衝突に備える
第18章
ダールキスト少将は師団長で442部隊の指揮を執るが、明らかに実戦の経験不足。テキサス大隊を敵の罠と知らずに前進させ、立ち往生させると、442部隊に自殺行為にも等しい救出の強行を命じるが、200人余りの救出のために790名の死傷者を出す。ダールキストはその後も指揮系統を飛び越して砲撃のための座標を指示したが、それはまさにテキサス大隊のいる場所で、砲兵隊は慌てて座標を修正。テキサス大隊はその後「失われた大隊」と呼ばれる
第19章
アリゾナでは、442連隊で負傷して退院した2世が収容所の友人を訪ねて地元の理髪店に寄ったが、442連隊の徽章に加え戦闘歩兵章、名誉戦傷章を含むいくつかの米軍リボンをつけていたが、店から放り出された。店主はとにかく日本人とは関わりたくないと言った
ヴォージュの森の出来事は、「442連隊、“失われた大隊”を救出」として報道される
442部隊はさらに1週間ヴォージュの森での戦いを命じられ、休息に戻ってきたときには、K歩兵中隊は180名が17名のみ、I中隊も同様の人数がいたが、戦える兵士は4名のみ。ダールキストが式典のため閲兵。兵士のあまりの少なさに、連隊の中佐に、「全兵士を集めろと言ったはずだ」と怒鳴るが、中佐は「これが全員だ」と声を震わせたという
12月、ローズヴェルトの再選が決まると、エレノアや内務長官の進言で、忠誠を拒否している一部を除き、強制収容の終了が発表される。西海岸の複数の新聞には、帰還許可に反対する辛辣で人種差別的な社説が繰り返し登場し、帰還しようとする人々を不安にする
11月、442連隊は南に向かい、フランスとイタリアにまたがる西アルプス山脈の一部にある防衛陣地の確保に向かう。万一ドイツ軍が逆襲してきた場合の備えで、現実には戦闘の可能性は低く、休息に近かった。2世兵士の精神の正常を保つギリギリのタイミングだった
自由時間にはカンヌなどリヴィエラ海岸で過ごし、豪華ホテルにも泊まる
町で会うフランスの市民は申し分ない身なりをしていたが、すぐに彼らの現実の生活が、表面から示唆されるものよりも遥かに厳しいことを知る。ヴィシー政権の搾取社と協力者、次いでイタリアの黒シャツ隊、最後はドイツ軍によって占領されてきたリヴィエラ地方は、多くの資源をしゃぶりつくされていた。フランス人の家庭は熱心に米兵を食事に招いたが、いつもあるだけの食糧を持ってきてもらえないかと米兵に頼んだし、市民は毎日のように米軍の休憩所の食堂用のテント近辺に長い列を作り、身なりの良いフランス人がブリキのバケツを持ち、米兵が食べ残した食糧をすくいとってバケツに入れてくれるのをじっと待っていた
アルプスの基地では、地元の人びととのクリスマスが盛大に行われた
解放された人々は、アメリカ軍が来たのに、日本人を見て複雑な表情を浮かべる
第20章
リトアニアでのナチによる大量虐殺の1つが'44年3月の「キンダーアクツィオーン」で、1200人の子どもがナチの親衛隊によって組織的に殺された。7月に赤軍がゲットーに近づくと、親衛隊はゲットーを「一掃」し、残っている人間を強制収容所へ移送。隠れていたユダヤ人はゲットーに火がつけられたことで焼死。辛うじて生き延びた父子は、クリスマスまで生き続ける
ゴードン・ヒラバヤシは、他の徴兵拒否者とともに連邦に収監され、禁固3年の判決を受ける
カリフォルニア州ユーレカの裁判では、「アメリカ市民が不忠実を理由に監禁され、その後の拘束下の生活を強制されているにも拘らず、軍務を強制されたり、それを拒否したために起訴されるのは良心に対する衝撃」として無罪を言い渡すが、収容所に戻る選択しかなかった
12月までには、いくつかの収容所の閉鎖が近づくが、オレゴン始め一部の在郷軍人会が帰還に反対を宣言、そのニュースは全米に広まり、怒りの反発を引き起こす
442部隊では、時折ドイツ軍の偵察隊と鉢合わせする機会もあり、小競り合いは続いていた
3月、第522野砲大隊は、再び第7軍と合流してドイツの中心部強襲に駆り出されるが、奇妙なことに所属部隊を示すマークをすべて制服から外すよう指示された
第21章
ゴードン・ヒラバヤシは、今度は白人以外のバラックに行けと言われ、人種差別に抗議すると、終に潮目が変わり、徐々に白人専用だったバラックがほかのバラックと統合され始める
522野戦砲兵大隊はジークフリート線沿いの目標に向けて砲撃を開始
残りの442部隊は、イタリア半島にいた第5軍のクラーク将軍が彼らの働きぶりに感銘を受け、麾下に引き入れようとロビー活動した結果、またリヴォルノに戻ってきた。ドイツ軍がピサからイタリア半島を東西に横切るゴシック線に要塞を築き、なかなか超えられなかった
急斜面の山岳地帯で敵の後ろに回り込むなど、不可能に近い命令にも関わらず、442連隊は期待に違わない活躍を見せ、ゴシック線に亀裂を入れ、海岸沿いにジェノヴァまでの兵站路を確保することに成功し、イタリアにおけるドイツ軍の負けは今や決まったも同然となる
この戦闘の中で、ルディ・トキワは十字砲火の中で動けなくなり、いくつも下半身に破片が刺さり、致命的ではなかったものの、当座はルディにとっての戦争は終わった
第22章
大規模な連合軍の侵攻に直面してドイツの防備は崩壊し始めていた。 第522大隊もラインを渡河し170マイル踏破してドイツに入る。毎日のように異なる師団の支援として砲撃を行う
442部隊はイタリアを北上し始めたが、この時のドイツ兵の反撃でダニエル・イノウエは右ひじに銃弾を受け腕を切断し意識を失う
イタリアのドイツ軍は装備を放棄して無秩序に後退し始め、北へ向かって移動との情報が入る
第23章
4月25日、第522大隊はドナウ川を渡河し、田園地帯を南に向かって疾走。のちにその道を「死の回廊」と呼ぶが、そこにはダッハウなど死の危機に瀕した収容者が6.7万人もいる強制労働収容所の巨大なネットワークがあり、リトアニアの父子(第20章)もダッハウに向けて歩いていたが、最後には522大隊によって救出
442部隊もリグーリア海岸沿いにジェノヴァに向かって進軍。妨害するものはほとんどなくなり、行く先々で市民に歓迎される
4月29日、ダッハウ収容所に到着した米軍は3万人の被収容者の悲惨な状況を目にして怒りに燃える。522大隊もダッハウに到着。何人かの2世兵士もダッハウ収容所に入って衝撃を受ける。5月1日になっても、被収容者たちが他の収容所に移るために行進させられていた
行進中に行き倒れた囚人の死骸を何人も見たという
第六部 帰郷
第24章
5月2日、イタリア国内のドイツ軍は無条件降伏。100万人のドイツ軍が戦地から撤退
ソ連軍はベルリン陥落を発表するが、戦争はドイツが降伏するまでは完全には終わらない
5月7日、ヨードル大将が無条件降伏を表明、正式な降伏文書に署名
442連隊はドイツ降伏の知らせをポー渓谷南のはずれで従軍牧師のヒグチから知らされる
1分間の黙祷ののち、大部分の兵士は自分の任務に戻る
モントレー=サリーナス地区では、’45年2月に太平洋沿岸への日系人の帰還を阻止する目的で「モントレ湾岸日本問題協議会」ができ、4月に最初の数家族が帰還を始めると脅迫的な声明が地元紙に載り、地域社会のリーダーたちやスタインベックなどの知識人は事態を憂慮
ヨーロッパ戦線からの帰還は、兵役期間や扶養家族の数、戦闘での功績に対する栄誉などに基づくポイント制によって順番が決められた
442連隊は、イタリア各地でのドイツ人捕虜の尋問・調査の任務に就く
522大隊はミュンヘン近郊で難民の群れの中からナチの親衛隊員を見つけ出す任務にあたる
カッツの姉、フミエ・ミホは、姉夫婦とともに東京大空襲を生き延び、広島の中心から24㎞離れた生家に疎開。8月6日の朝、市内の仕事に向かう列車が雑踏で乗り遅れ、次の列車を探している時に閃光を見る。かつて見たこともないような美しい景色を見たように思ったが、慌てて村に戻る。翌日からは避難してくる被災者の救助と職場の仲間探しに奔走
8月9日、442連隊最初の帰還士卒241名がホノルルに到着
ルディ・トキワは、怪我の影響でまだ足を引き摺りながら除隊したが、ポストンの収容所が閉鎖されたことをそこで知り、父が最終的に落ち着きたいと言っていたサンノゼに両親を捜しに向かう。収容所からの帰還者が集まっている地区に行って漸く両親に巡り合える
彼の胸には青銅星章が。イタリアを去る前の大々的な式典で授与され、連隊の全員から敬礼
522大隊の大半がホノルルに帰還したのは翌年1月
エピローグ
北イタリアのポー渓谷付近の激戦地では、いまも地元の青年が当時の442連隊の功績を専門に再現し、2世の親族たちを案内している
この戦場での彼等の困難な行動を可能にしたのは、彼らの根本的な人間性だ。戦時中のアメリカ人を団結させてきた精神を体現し、アメリカと西洋民主主義が掲げる高い理想のために闘った。彼らはアメリカ人でありながら、いろいろな意味で日本人としての誇りも持っていた。両親がら教えられた「武士道」「義理」「人情」「我慢」などの価値観を携えていた
最終的に彼らは、開戦前よりも遥かに良い世界を、我々のために勝ち取ることに貢献。彼等が勝ち取ったものを大切に守り、彼らが守り抜いた理念に身を捧げ、現在の山ほどの困難を乗り越え、共有する運命の長い坂を共に登り続けることは、我々の責務である
442連隊は、規模と兵役期間からすれば米国史上最も多くの勲章を授与された部隊だが、戦後まもなく名誉勲章を与えられたのはゴシック線強襲の際爆死した1人だけ。次にダニエル・イノウエ等20名に名誉勲章が授与されたのは半世紀以上の歳月と連邦議会での継続的な働きかけを経た2000年のこと
第2次大戦従軍の1600万人のアメリカ人の中で名誉勲章を授与されたのは473人、うち21人が442連隊で、同連隊所属は最終的に1.8万人
'63年、テキサス州知事コナリーは、442連隊全員を州名誉市民とした
多くの勲章はどれも、2世兵士が帰郷した際に経験した厳しい現実にはさほど影響を及ぼさなかった。彼等はジャップのままで、正当な立場を完全に獲得するには数10年がかかる
トルーマン大統領は、日系アメリカ人の財産と公民権回復に向けて根気強く努力。日系人退去補償請求法を制定したが実効性に乏しかった。’46年にはホワイトハウス前の広場で442連隊を閲兵。「敵と戦ったのみならず、偏見とも闘い勝利した。これからも闘い続けてくれれば、我々は勝利するだろう」といったが、人種差別は根強くはびこり、日系アメリカ人の前途は厳しかった。’47年、徴兵拒否者全員を赦免したが、日系アメリカ人の多数派から理解を得るまでには長い年月がかかる
‘52年、日系1世の市民権申請が認められる
‘88年、強制抑留者に2万ドルの賠償を支払う法案に当初反対していたレーガン大統領が「1988年市民の自由法」に署名。日系アメリカ人の強制収容は「相当な理由もなく、人種的偏見、戦時下の異常な興奮状態、政治的統率力の機能不全によるものだった」ことを明言したが、当時の受給資格者8.2万人余りが小切手を受け取るまでにはなお3~5年を要した
カッツ・ミホは大学に戻り、地域の権力構造の根本的変革に取り組む。ダニエル・イノウエやスパーク・マツナガ、ジョン・ウシジマらと、ジョージ・ワシントン大学のロースクールで一緒になり、弁護士として名声を挙げながら、'57年の住民投票で州昇格を勝ち取り(連邦議会承認は2年後)
訳者あとがき(抄)
真珠湾攻撃が彼らの運命を変えた
日米開戦後の日系アメリカ人の苦闘を描く大河ノンフィクション[2月10日刊] D・J・ブラウン『遥かなる山に向かって』訳者あとがき(抄)
2025年2月7日
森内薫
本書はダニエル・ジェイムズ・ブラウンのFacing the Mountain: A True Story of Japanese American Heroes in
World War II(Viking, 2021)の翻訳です。ブラウンは、1936年のベルリン・オリンピックにボート競技で出場した若者らを描いたThe Boys in
the Boat(Viking, 2013。邦訳は『ヒトラーのオリンピックに挑んだ若者たち』森内薫訳、早川書房、2014年。文庫版[2016年]は『ヒトラーのオリンピックに挑め』に改題)で一躍名を馳せた作家です。累計300万部を超えるベストセラーになり、映画化もされた同作の次に書かれたのが、第二次世界大戦中の在米日系人をテーマにした本書Facing the Mountainです。2021年5月にアメリカで発売されると、翌週には《ニューヨーク・タイムズ》のベストセラーリストにランク入りし、「人間の精神の最高の価値を肯定する」書籍や映像作品に与えられるクリストファー賞を受賞するなど高い評価を得、映像化の話も出ています。
ブラウンがこの本を書くきっかけになったのは、本書の「序文」にあるように、あるレセプションの席で「デンショウ(Densho)」の当時の事務局長トム・イケダと知り合ったことでしたが、それ以前から彼がこのテーマに興味をもつ土壌は存在していました。ブラウンは、父親が花屋業界で働いていたサンフランシスコのベイエリアで育ちましたが、当時の思い出を次のように語っています(ディスカバー・ニッケイの記事[Esther Newman “Telling the Story to Understand the History”, 2022
April 26, URL:
https://discovernikkei.org/en/journal/2022/4/26/daniel-james-brown/]より引用。翻訳は森内)
取引先の多くは日系アメリカ人の花屋や苗木職人だったので、若いころ私には、日系アメリカ人の友人や仲間がたくさんいた。だが、肝心なのは次の点だ。私の父は、とても穏やかで温厚な人物だった。父が怒りをあらわにするところを、ほとんど見たことがない。数少ない例外が、戦時中や戦後に日系人の取引先に何が起きたかを話すときだった。収容所から戻ってきた日系人の多くは、温室が叩き壊され、自分たちが耕作してきた土地が奪われ、事業が破壊されたのを目の当たりにした。それについて語るとき、父ははっきりと怒りに震えていた。それが普段の穏やかさとはあまりにかけ離れていたので、まだ幼かった私にも強い印象を残した
そして、トム・イケダとの出会いから「デンショウ」の膨大な記録を前にしたブラウンは、いよいよ本書の執筆計画を立てます。その時の思いは次のように語られます。
私はすぐに理解した。デンショウのアーカイブと、これまでに集められた他のすばらしい資料のあいだには、とんでもない量の情報がある。そして私が書きたいのは、日系アメリカ人の経験の包括的な歴史ではなかった。一つの理由は、日系アメリカ人でもなければ、厳密な意味では歴史家としての訓練を受けてもいない私のような人間がそんな本を書くのは、かなりおこがましく思えたからだ。だがそれ以上に、それは私の仕事ではなかった。私が試みていたのは、歴史のある局面を生き抜いた個人の深い物語を書くことであり、彼らの物語を通じて歴史に光を当てることだった
歴史の教科書で1941年12月の真珠湾攻撃について学んではいても、ではそのときハワイにどんな人々が住んでいたかについて、私は考えを巡らせたことがありませんでした。当時ハワイの人口の3分の1は日系人で占められており、本書の第一章にあるように真珠湾攻撃の当日、日本兵の操縦する軍用機に日系人が攻撃されるという事態も起きていました。米本土の西海岸に住んでいた日系人はそうした攻撃こそ受けませんでしたが、米国の市民権を持つ日系二世も含めて「敵性外国人」とされ、多数が自宅を追われ、収容所に入れられ、戦況が進めば徴兵され、徴兵を拒むと刑務所に送られました。米国内でもあまり知られていないこうした事実を著者のブラウンは研究書のように概説するのではなく、開戦当時20歳前後だった4人の若者に焦点を当て、それぞれの視点に寄り添いながら、戦争によって引き起こされた彼らの──そして家族や友人の──運命の変転を語っていきます。氏の前作にも共通する、膨大な調査やインタビューにもとづく語りの再生のおかげで読者は、主人公それぞれの体験を追いかけながら、個人の人生が戦争によってどのように捻じ曲げられてしまうのか、戦争が終わった後までどのような影響が生じるかを、自分のことのように追体験できるでしょう。そうした「没入的」体験をもたらしてくれるのが読書の醍醐味であり、SNSにあふれる短文が私を含めた多くの人々にとってデフォルトになりつつある今もなお、決して手放してはいけないものではないかと思います。
いろいろな事情があり、本訳書の完成には思いのほか長い時間がかかりましたが、翻訳に着手した数日後に、ロシアによるウクライナ侵攻が起きたのを記憶しています。テレビに映る信じられないような光景を見て、プーチン大統領による「特別軍事作戦」という言葉を聞きながら私は、当時訳したばかりの「政治的な言語は(……)噓を真実らしく見せるように、そして殺人を尊敬すべきものに見せかけるようにつくられている」という本書の「著者からの言葉」に登場するオーウェルの言葉を思い出していました。そして、本が完成するころにはきっとこの戦争は過去のものになっているだろうと思っていました。しかし本が完成した今、ウクライナ戦争は終わっておらず、加えてイスラエルのガザ侵攻という事態まで起きており、本書の今日的意義は残念ながらと言うべきか、いっこうに薄れていないように感じます。少なくとも私たちの国では戦争を直接に知る人がますます少なくなる今、戦争を語り継ぐ意味は確実に高まっており、本書もその一助になることを願ってやみません。
みすず書房 ホームページ
1941年12月7日(現地時間)、ハワイ・オアフ島の真珠湾を日本海軍の機動部隊が襲い、日米が開戦。日系アメリカ人の日常は一変した。
ハワイに生まれ、日本軍の空襲を目の当たりにしたカッツ・ミホ。一家で農地を追われ、砂漠地のポストン収容所に強制収容されたルディ・トキワ。家業のクリーニング店の客足が途絶えたフレッド・シオサキ。3人は、差別や葛藤をへて米陸軍の日系人部隊・第442連隊戦闘団に入隊し、欧州の激戦地へと送られる。対照的に、シアトルに住むゴードン・ヒラバヤシは当局の指示に背いて収監され、日系人に対する措置の違憲性をめぐって法廷闘争を決意する。
広島や鹿児島、静岡など日本各地出身の両親のもとに生まれ、アメリカ市民として育った4人の二世を主人公に、不条理と闘った日系人たちの群像を精緻に描く。『ヒトラーのオリンピックに挑め』の著者がおくる新たなノンフィクションの名編であり、戦後80年をへて価値を増す生きた証言録。写真51点を収録。序文トム・イケダ(Densho元事務局長)。
遥かなる山に向かって ダニエル・ジェイムズ・ブラウン著
米兵となった日系人の戦争
2025年3月29日 2:00 [会員限定記事] 日経新聞
〝イジメられっ子〟のアメリカ人少年が、日系の老人に空手を教わり、幾多の試練を乗り越えて、たくましく成長していく――。
ひと昔前、世界中で大ヒットした映画「ベスト・キッド」には、見逃せないワンシーンがあった。
ある晩、珍しく泥酔した老師が、独りごとをつぶやく。第2次大戦中、日系人の強制収容所で妻子は病死したが、そのとき自分は米兵として最前線で戦っていたのだ、と。老師の私物にあった「第442連隊」の勲章に、少年は初めて気づく……。
まさにその日系人のみの戦闘部隊に加わった青年や、人種差別に抗議して徴兵拒否を貫いた青年ら、若い日系人にとっての戦争を、本書は生々しく描く。現代史ノンフィクションの大作である。
第442連隊に関する著作は多い。両親の祖国愛を知りながらも、アメリカへの忠誠心を証明すべく、ヨーロッパ戦線で勇敢に戦い、米軍史上最多の勲章に輝いた部隊といったイメージが、アメリカでは強いのではなかろうか。
ところが、本書に美談や武勇伝のにおいは一切しない。徹底した事実の集積から浮かび上がってくるのは、戦争の冷酷な現実に翻弄される若者たちの群像である。
私自身、何度か無知を思い知らされた。たとえば、日本軍による真珠湾攻撃で、ハワイの日系人にも多数の犠牲者が出ていようとは思わなかった。同じ日系人でも、ハワイ出身者と本土出身者とが激しく対立し、米軍基地内でしじゅう殴り合いが起きていたことも初耳だった。ドイツ軍に包囲された白人部隊を救出するために、無謀な白人指揮官のもと、大勢の日系人が次々に戦死していった惨状も初めて知った。
著者の筆致は、あたかも戦場の兵士がじりじりと匍匐(ほふく)前進していくかのようだ。戦争の、いったん始まったらなかなか終わらない執拗さを伝えるには、この表現法しかないと思い定めたからにちがいない。私は読書中、重苦しい没入感にとらわれつづけた。
ある日系人の従軍牧師は、手紙にこう記す。
「おびただしい命が失われた戦争は、より良い世界を戦後築かない限り、無に帰してしまう」と。
まさしく、われわれの現在をも鋭く問うているのではないか。
《評》ノンフィクションライター 野村 進
原題=FACING
THE MOUNTAIN(森内薫訳、みすず書房・5280円)
▼著者は米ノンフィクション作家。著書に『ヒトラーのオリンピックに挑め』など。
「遥かなる山に向かって」書評 迫害の実態 口述資料で詳細に
評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2025年05月17日
1941年12月の日本海軍による真珠湾奇襲攻撃以降、アメリカ国内の日系アメリカ人はどのような状況に置かれたか。これまで、収容所送り、敵国人扱い、日系2世部隊の戦闘など、いくつかの実相は語られてきた。
本書が特筆されるのは、4人の日系2世の口述歴史資料をもとに、各人の個人的体験を通していかに自己の尊厳を守ろうとしたかを、非日系のノンフィクション作家が著した点にある。
真珠湾攻撃時、ハワイの人口の約3分の1は日系アメリカ人であった。1世の辛苦が実り、社会に定着し始めていた。それが全て崩壊し、仕事は傾き、学生は学校にも行けず、数千人が逮捕される。枢軸側のドイツ、イタリアなどにはそういう処置はとられなかった。
ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナの各州に急ごしらえの収容所が作られ、手荷物だけを持ち一家全員が収容される。財産なども失った。迫害の実態が詳細に書かれ、類書とは異なる内実や、日本憎しの感情が凄まじかったことを改めて確認できる。
信仰上の信念やアメリカ憲法の精神をもとに抵抗する日系2世、ゴードン・ヒラバヤシの生き方を追いかける。むしろ真のアメリカ人とは彼のような不屈の精神の持ち主を指すのではないかと思える。こういう抵抗型がもっといると思っていたとのゴードンの驚きには考えさせられる。
やがて編成される442部隊に、日系2世は積極的に参加する。アメリカ人としての誇りを果たそうとしつつ、1世の父親との確執も語られている。ハワイ出身と本土出身の2世の対立が激しく喧嘩も日常茶飯事だった。差別がここにも現れるということであろう。
この部隊はヨーロッパ戦線で勇敢に戦い、犠牲者も増える。その規模と兵役期間からすると最も多く勲章を授与された部隊として名を残す。
本書には「戦争」の本質を問う重大な視点が込められている。
◇
Daniel James Brown 米国のノンフィクション作家。著書『ヒトラーのオリンピックに挑め』は映画化された。
Wikipedia
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