津軽の髭殿  岩井三四二   2026.7.13.

 2026.7.13. 津軽の髭殿

 

著者 岩井三四二[イワイミヨジ]
1958年岐阜県生まれ。一橋大学卒業。96年『一所懸命』で第64回小説現代新人賞受賞。「岩井三四二に外れ無し」と言われ、2003年『月ノ浦惣庄公事置書』で第10回松本清張賞、04年『村を助くは誰ぞ』で第28回歴史文学賞、08年『清佑、ただいま在庄』で第14回中山義秀文学賞、14年『異国合戦 蒙古襲来異聞』で第4回本屋が選ぶ時代小説大賞受賞

 

発行日            2023.6.30. 初版第1刷発行

発行所            光文社

 

初出 『小説宝石』202111月号~202212月号『津軽のひげ』を改題

 

第1章        狸の婿入り

17歳の弥四郎は大男・精力漢に見える。津軽を手に入れ、それを足掛かりに奥羽の地を奪い、天下に覇を唱えるとの野望を抱く

津軽は陸奥の国のはずだが、隣の出羽の国の一部だと言う人もいる

「北は津軽、外(そと)ヶ浜、宇曽利郷(うそりごう)まで」というのが日本の北限とされた

元々蝦夷(えみし)の住んでいたところを「津苅(つがる)」「東日流(つがる)」と称したのが始まり。八甲田山より西、白神の山々より北にある平賀など3郡と海岸べりの外ヶ浜などを合わせて津軽というようだが、土地の者は岩木山の見えるところはみな津軽だという

津軽は北の十三湖(津軽半島北部)に向かって流れる岩木川の周辺に肥沃な野が広がり、北奥(ほくおう)では有数の米どころ

弥四郎は、津軽制覇の手始めに大浦城を乗っ取るべく、野伏に城主の次女おうらを襲わせ、助けて恩を売る。弥四郎は大浦城主の親類の後妻の子、母は久慈郡(岩手)の領主久慈備前守の側室だったが、嫡子(弥四郎の異母兄)が久慈家の跡を継いだため疎まれて、久慈家の一族である大浦城主為則を頼って津軽に流れてきた。久慈家は南部一族

為則は病の床にあり、おうらを弥四郎に娶わせ跡継ぎにすることに同意するが、一族内は一枚岩ではない。おうらと弥四郎は幼馴染

南部家は北奧の支配者。その租は甲斐源氏の南部三郎光行で、頼朝の奥州征伐に従軍して戦功を挙げ、糠部5郡を賜っという。南部家は「三日月の丸くなるまで南部領」と言われるほど、半月歩いても抜けられないほど南部領を広げる

弥四郎は、この南部宗家の当主南部大膳大夫(だいぜんのだいぶ)晴政に会って、うらとの結婚に力添えしてくれれば、大浦城を奪いとって宗家に忠誠を尽くすと公言。南部家中は光行の6人の子どもの独立の気風が強く、必ずしも宗家の言いなりにならない。津軽は晴政の弟高信が郡代で、その息子が晴政の長女に婿入りしているが晴政と高信とは必ずしも仲がいいわけではなく、晴政にとっては息のかかったものが津軽に入り込むことは歓迎

弥四郎はまず手始めに、実力派で為則の叔父土堂佐渡守を闇討ちにする

次いで、後ろ盾はないが腕自慢の大河原三郎が、毒矢にやられる

和尚の試験にも合格

為則から、息子の五郎・六郎が成人したら譲るという条件で、城と領地を引き継ぐ

婚礼が終わった後、おうらから弥四郎の蔵入り分は半分の村々で、残りの半分はおうらの化粧料になると聞かされ唖然とする

婚礼の3日後に為則がなくなり、弥四郎は大浦家の城と領地を継いで大浦右京亮(すけ)為信と名乗り、1000人余りの家臣を率いる城主となった

 

第2章        端午の絶句

1570年、婚礼から3年後、未だに子ができない。家付き娘は天守に、右京亮は二の丸で

南部大膳晴政から、高信の大仏ヶ鼻城を攻め落とせと言われる。大浦城の南東4里にある

晴政に男児がいなかったため、長女に高信の息子信直を婿にとって跡継ぎの予定だったが、男児ができたため跡目争いに発展

高信勢は大浦の10倍以上、攻めると言ったが重臣の大多数は反対するが、1人を血祭りにあげ決行。大浦城は高信の配下にあたるため、攻撃すれば主筋に対する謀反となる

端午の節句の明け方、油断しているところを火をかけながら大仏ヶ鼻城を落とすが、高信は三戸にいて難を逃れる。配下の4つの城にも攻撃を仕掛ける

 

第3章        みそかの正月

4年後、右京亮は大仏ヶ城に新たに御殿を建て、自分の城として住まい、側室の初音に子供ができる。右京亮は、読み書きを習うためん通った寺の風習に倣って髭を剃るのは49のつく日のみで、あとは無精髭を伸ばしたまま

もう1つの和徳城には、側室のおよしがいて、ここも孕んでいる

残る3つの城との小競り合いが続く。高信の嫡子信直が大軍を率いて大仏ヶ鼻城に迫ると、右京亮の母の縁で、南部一族の九戸家に応援を頼むと、同じように南部宗家の座を狙う九戸家は興味を示し、信直の居城を攻めたため、信直は大仏ヶ鼻城攻めを断念

南部大膳晴政が死去。死因は不明で、幼い実子の彦三郎晴継が継ぐ。右京亮は後ろ盾を失うが、逆に南部家中の混乱で、津軽を平定するには邪魔が入らない利点を逃さず、まずは南部一族が城主になっている大光寺城を落とそうとしたが反撃を受けて引き、再度攻撃し直して敵は降参・開城。右京亮は津軽の過半を配下に収める

 

第4章        化かし合い

1577年、大光寺城を落として1年、南部家からの逆襲もなく、津軽に残るのは南部家に忠誠を守る田舎館城と北畠の末裔が城主の浪岡御所のみとなる

浪岡は蝦夷との交易の要点、南部家と安東家の両者の息がかかっている。安東家は出羽国秋田郡周辺に領地を持つ大名で、北奥羽では南部家と並ぶ大勢力

1578年、まず浪岡を攻める。太平記の名門もほとんど抵抗なく開城

その隙をついて安東家が動き始め、鰺ヶ沢の港に海路押し寄せてきた

年が明けると、大鰐から大光寺の生き残りが南部家の後押しを得て攻め込んできた。囮を使って何とか攻撃をかわして逃げ延びる

 

第5章        膝を屈して髭を生やす

小競り合いがしばらく続く

南部家は、晴政を継いだ晴継も死んで子がいなかったため、信直が家中をまとめつつあるというが、それに不満な九戸家との争いに発展

右京亮は、久慈家の仲立ちで、浪岡城を差し出して南部宗家と和睦。津軽の東側を固めたことで、西の安東と対峙すべく、深浦へと兵を進め、安東軍に釘を刺す

為則の遺児2人が家老によって惨殺。成人した暁には城を明け渡すとの誓詞を書いていたため、右京亮の仕業との噂もたったが、そのうち立ち消え。右京亮には男児が3人できる

 

第6章        都へ

1587年春、右京亮は髭を伸ばし放題にして「髭殿」と親しみを込めて呼ばれるように

津軽の過半を抑え、大浦に入る前にいた堀越の館を堅固な城へと造り替える

秀吉が関白になって九州まで平定したという情報を聞き、今のうちに領土安堵の一筆を貰っておこうと京に上る。周囲も兵を動かせない冬の間を狙って、鰺ヶ沢から船で敦賀に向かうが、時化にあって松前まで流され断念

そのうち、安東家では宿敵戸沢氏と角館で対戦中に当主が病死

2年後、秀吉は関東と奥羽に「惣無事(そうぶじ)の儀」を出し、勝手な戦を禁じ、揉め事は秀吉自ら裁くとしたが、右京亮は直接聞く前だったので、無視して浪岡城を攻め、津軽のほぼ全域を支配下に収める。そこへ、去年山形と庄内の境目争いを兵を使わずに調停した秀吉が、来春にも出羽と奥羽に出馬して、惣無事の儀を無視した秋田と津軽を成敗するとの噂を耳にする。南部が前田に密告し、関白まで上がったようだ。右京亮は、水軍を持たないため、京の噂が入ってこない

右京亮は安東家と共に船で敦賀経由、琵琶湖から大津に渡り逢坂山を歩いて越え京に入る

近江の伝手を頼って治部少輔に直接話をする機会を得、実態を知ってもらい、奥羽名物の鷹を関白に贈り、関白から受け取った旨の一筆を貰う

3月に北条攻めのため関白が出陣すると、奥羽の大名衆は参陣せよとの命が下り、慌てて関白一行を追いかけ、沼津でお目通りが叶う。南部宗家より早かったことから、右京亮の言い分を関白に聞き取ってもらうことに成功

関白は、北条攻めの後奥羽に向かい、宇都宮に北関東と奥羽の諸大名を集め、伊達、最上、佐竹、南部などの諸家に所領安堵を申し渡すが、そこに右京亮の名はない

関白はさらに会津黒川に至り、再度奥羽大名衆の所領安堵を発表。そこに初めて右京亮の名があり、津軽は安堵された

秀吉は全国を「仕置き」する。大きな柱は、検知、刀狩り、城破(しろわり)、京枡(きょうます)4つ。さらに領主とその足弱衆(あしよわしゅう、大名の女子供)の上洛も求められた

戦はなくなったが、自分の領地を他人が検地するのに拒むことはできない

 

第7章        西へ東へ

1590年、所領安堵から1年後、右京亮は津軽南方の関門の碇ヶ関に正装で出向き、仕置きのために派遣された1万余りの軍勢を迎える

検地は申告制だが、土地の言葉が通じないため非効率で進まず。刀狩りは農民の武器を取り上げるだけなのですんなり進む。城破は、領主以外の城の破却だが堀や土塁を埋める程度。京枡も、従来の枡より少し大きくなるが、押し付けるしかない

検地の結果は、右京亮の見込みの半分以下の4.5万石となりホッとしたが、1/3は蔵入地(秀吉の取り分)と聞かされ驚愕。さらに右京亮は足弱衆を連れて上洛せよとのこと

上洛を機に、南部家との縁を切り、名前も津軽右京亮為信と名乗る。勝手に先祖は都から落ちてきた近衛家の娘御を妻としたと言って近衛家に取り入り、金品を贈る代わりに家紋の使用まで許可をもらい近衛家の牡丹の紋に改める

奥州の不満分子による一揆の頻発に手を焼いた秀吉が、再び奥州仕置きのために大規模な出兵を実行、右京亮も、南部家内の諍いを収めるために出兵を強いられ、不本意ながら宗家三戸家とともに、これまで義理のあった九戸家を攻める。大軍で隙間なく囲み、逃げ場を失った九戸軍は3日で降伏、城主もろとも皆殺しとなり、右京亮はその残忍さに愕然

 

第8章        南へ北へ

1592年、朝鮮征伐に参加して出兵。去年居城を大浦から堀越に移す

朝鮮が落ち着いて津軽に戻ると、ほどなく伏見城の普請を手伝えとの命が来たので、次男三男の2人を連れて上洛。2人は徳川の小姓として仕えさせる

1597年、次男の総五郎が23歳で死去。長男平太郎は病弱、三男平蔵はまだ12歳。右京亮は跡継ぎに不安を覚え、側室を増やそうとする

太閤が死んでまた戦乱の世に

 

第9章        関が原へ

1600年、徳川に天下の形勢が傾く中、治部少輔が毛利、宇喜多などを糾合して徳川糾弾の兵を挙げる。右京亮は徳川につく腹を決め、津軽から700の兵を呼び寄せ徳川殿の旗本勢3万のしんがりについて東海道を下る

上方勢は秀頼を奉戴して勢いを増し大垣城に陣取り、徳川勢は大垣を迂回して治部少輔の佐和山城を攻めながら大坂城に向かい、右京亮は大垣城攻めに参加する。大坂に向かった徳川本体が関ヶ原に上方勢を破り、大垣城も落城。右京亮も本隊のいる大坂城に入る

秀頼の近習だった長男の平太郎も無事だったが、治部少輔の嫡男を津軽に落とすよう計らったという。勝手なことをしたと一旦は平太郎を叱り飛ばしたが、惣無事の儀を破ったかどで太閤の怒りに触れた時に世話になった治部少輔は今の津軽家にとっての大恩ある相手であり、少しでも恩返しができたと思い直す

 

第10章    末期の難関

右京亮が出陣している間に津軽では一部の反乱分子が謀反の兵を挙げ、堀越城は焼け落ちていたが、徳川大勝の報が届いたのを機に謀反側は降伏

右京亮帰還により領内平定が始まる。周辺の南部も秋田も一揆などで騒然

徳川から大垣城攻めの功を認められて2000石の加増、上野国に領地を賜る

右京亮は、長い間の殺生を鎮めるための法会を大々的に行うが、次々に不幸な事態が出来

堀越城は水が出ると城下町が水没することがわかり、鷹岡(弘前)に本城移転を決める(実際に移転したのは1611

長男平太郎信建が病没

右京亮もまた病に罹り京に向かう。慶長12(1607)3男の信枚を跡目に定めて永眠、享年59

1619年、越後への国替えの話が持ち上がったが、幕府への働きかけが聞いて取りやめに

信枚は、秀吉の妻おねねの養女で治部少輔の娘辰姫を正室としていたが、家康の養女満天姫(まてひめ)を娶らないかという話が来る。徳川につくか豊臣家を尊重するのかを試されているともとれる話だったが、辰姫を側室にすることで難題を乗り越える

以後、津軽家は代々津軽の地で大名として続き、明治維新を迎える

 

 

 

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豊かで美しい本州最北の地・津軽に生まれ、母に「大将軍になりなされ」と吹き込まれて育った餓鬼大将・弥四郎(後の津軽為信こと右京亮)。津軽を足がかりにしてのし上がり、天下に覇を唱えんと、仲間と共にあらゆる手管を用い彼は版図を広げていく。しかし その頃中央では、豊臣秀吉が圧倒的な力で各地の大名をねじ伏せ始めていた……
北東北の勢力地図を一代で塗り替え、地元で今も「髭殿」と愛される津軽為信。彼の痛快な人生を魅力的に描いた傑作誕生!

 

 

 

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岩井三四二『津軽の髭殿』 乱世を生きぬいた知将の策と慈愛

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津軽という宝を子々孫々まで伝えたい

戦国時代の末期、都から遠く離れた青森の地で津軽地方の統一に向けて戦いを続ける武将がいた。弘前(津軽)藩藩祖の津軽為信である。本書は謀略を繰り返しながらも津軽統一を果たし、織田、豊臣、徳川と中央の覇者が代わる難しい時代を知力と勘で乗り越えていく為信の気迫に満ちた半生を描いた歴史小説だ。

為信が最終的な本拠地と定め、2代藩主信枚が築城した弘前城の跡を訪ねた。弘前公園として整備されている。古木や大木が多く、緑がまぶしい。本丸の天守は石垣修理のため位置を少し移動しており、内部に入れないが、江戸時代までにつくられた天守として東北地方で唯一現存する姿はしぶく輝いて見える。遠くに見える岩木山も美しい。

「為信と同時代の資料は少ないが、弘前に築城を決めたのは、戦の時代が終わり、これからの平和で安定した時代には、城を中心とした大きな城下町をつくる必要があると考えたからだろう」。弘前公園内にある弘前市立博物館の鶴巻秀樹館長はこう語る。

弘前公園近くの弘前文化センター前に津軽為信像が設置されている。立派な髭(ひげ)のせいか、少し怖そうに見えた。

為信が大規模に改修し居城とした堀越城の跡に向かった。弘前公園の南東にあり、城の建物は残っていない。攻めにくい升形の虎口を設けるなど最新の技術を用いた城だったが、川の氾濫に悩まされた。弘前城周辺は元々高岡と呼ばれた台地で洪水の心配がなく、土地も広がっていた。弘前の発展をみると為信の本拠移転の判断は的確だった。

為信が津軽を統一し、豊臣秀吉や徳川家康に領土を安堵される大名にまで出世したのはなぜか。「為信の強みは情報力。日本海ルートで様々な情報が入ってきたと思われる。秀吉が好きな鷹(たか)を献上して権力に近づくなど、新しい世には武力だけでなく、情報力が必要なことを理解していた」(鶴巻館長)

為信の知略は鋭さを増していく。公家の近衛家を援助し猶子となって家格を上げ、関ケ原の戦いでは自身と三男信枚は東軍につき、長男信建は大坂城に置くという真田家のような生き残り策で危機を乗り越えた。一方、戦いに敗れた石田三成の子を津軽でかくまう温情的な人柄も見せた。

為信の霊屋がある革秀寺に立ち寄った。晩年の為信は藤代御前と呼ばれる女性に恋心を抱いたが、失恋したため攻め滅ぼし、恨みを抱く御前の霊に悩まされたという伝承がある。しかし、彩色豊かな霊屋は威厳に満ち、静かな空気に包まれていた。為信が津軽の人々に敬われ、大切にされてきたのは確かだと思った。

記事 兼吉毅

 

 

Wikipedia

津軽 為信(つがる ためのぶ)大浦為信(おおうらためのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名陸奥国弘前藩初代藩主。官位従四位下右京大夫

生涯

出自

津軽為信の出自には様々な説や伝承があり、南部氏支族で下久慈城主であった久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われる。為信の経歴は津軽氏側に残される資料と、南部氏側の資料との間で記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が多い。

為信が南部氏の一族であったという見方は、南部氏側の資料に存在する。この見方を補強する資料が津軽家文書の中にもある。その文書は豊臣秀吉から送られたもので、宛名は「南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)」とある。この書状は為信に宛てられたものであると推定されていることから、大浦氏が三戸南部氏、八戸の根城南部氏等と同様に南部氏の一族であったことを示す証拠の一つと推定されている。

為信の実家と言われる久慈氏の出自は、南部氏始祖である南部光行建久2年(1191地頭職として陸奥糠部郡に入部して以降、その四男・七戸三郎朝清の庶子の家系が久慈に入部して久慈氏を称したとされ、室町期には南部嫡流の時政の子・信実久慈修理助治政の養子となっている。

永禄10年(1567)(永禄11年(1568)説もある[2])、大浦為則の養子となり、大浦氏を継いで大浦城主になる。

謀反

弘前藩の官撰史書である『津軽一統志』によると、元亀2年(157155日、自分の支城の堀越城から出撃、2キロメートルほど離れている石川城を工事を装いながら、突如攻略し、南部宗家である三戸南部家当主・南部晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込んだ(生き延びたとする説[注釈 1]もある)。南部晴政は、この頃には石川高信の実子でかつ晴政の長女の婿となり養嗣子であった石川信直と争っており、三戸南部家と石川家の内部抗争をいいことに為信は周りの豪族を次々に攻め始める。晴政が対立する石川家を弱体化させるため石川家の津軽地方を掠め取るよう、為信を密に唆したとの説もある。 天正3年(1575大光寺城の城代滝本重行を攻め、敗退するも、翌年(1576)攻め落とす(『永禄日記』)。 天正6年(15787月、予め無頼の徒輩を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ浪岡御所・北畠顕村北畠親房の後裔)を自害させる。しかし奥州の貴種であった浪岡北畠氏を滅ぼした影響で安東氏との関係も悪化。安東・南部・浪岡氏勢力との戦いである六羽川合戦が起きる。

それに対し南部氏側史料[4]によると、石川高信が津軽に入ったのを元亀3年(1572)として、天正9年(1581)に(為信に攻め殺されておらず)病死としている[注釈 2]。為信は、高信から津軽郡代を継いだ次男(石川信直の弟)の石川政信に重臣として仕え、主君に取りいるために自分の実妹・久を政信の愛妾に差し出していた。天正10年(1582)、同役の浅瀬石隠岐が死ぬや政信に、もう一人の同役の大光寺光愛を讒言し出羽国に追放させた。そして天正18年(15903[注釈 3]、政信と於久をともども宴席に招待し油断させて毒殺し、その居城だった浪岡城を急襲占拠して津軽地方押領したとある。しかし、これに関しては南部氏側の作意を示す証拠[要出典]が存在する。民間記録『永禄日記』を初め[注釈 4]、『南部晴政書状』[注釈 5]や『南慶儀書状』も元亀2年の為信の石川城攻略を物語っている[注釈 6]。そして天正年間には既に津軽地方は為信が完全に掌握[要出典]しており[注釈 7]、石川政信が津軽に入れる状況ではなかった[注釈 8]。さらに南部氏側の主張が事実なら天正18年に挙兵した為信は、同年の小田原征伐での豊臣秀吉の元へ参陣していないことになる[注釈 9]。現在では南部家は豪族の連合体の域を脱しておらず、「郡代」を置けるほど三戸南部氏の勢力や統制は強固なものではなかったと考えられている(そもそも主従関係ではなかった)。

ちなみに津軽氏側資料では、石川政信はその父・高信が死んだ翌元亀3年に為信に討たれているが毒殺との記載はなく、また津軽氏系譜に為信の妹は載っていない。

独立

天正13年(15853油川城を攻略し外が浜一帯を制圧[注釈 10]した後、さらに田舎館城を落す。この頃、為信の正室・阿保良の弟2人(大浦為則の五男、六男)が川遊び中に溺死しているが、これは為信が後の跡目争いを避けるため義弟たちを暗殺させたと言われている。同年4月には盟友である千徳政氏浅瀬石城を守備して南部勢3,000を奮戦によって撃退する(宇杭野の合戦)が、為信はこれに援軍を送らなかったとされ、後々盟友関係に亀裂が入るきっかけとなる。またこれ以前に天正9年(1581年)頃、北方交易の権益拡大を目論む為信は津軽アイヌと抗争状態となり、鼻和郡でアイヌ民族の掃討戦を実行した[5]

最上氏から得た情報により中央の豊臣政権に対する工作が必要と考え、天正13年初めて自ら上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆したが、暴風に巻き込まれ松前沖まで流されてしまう。それでも上洛を果たそうと、天正14年(1586)は矢立峠を越えるルートを試みるが比内浅利氏の妨害で、天正15年(1587)に兵2,000と共に南部領を突き切ろうとするが南部氏に妨げられて、天正16年(1588)には秋田口から進んだが秋田氏に阻まれて、いずれも失敗し引き返している。

本領安堵

天正17(1589秋田実季と和睦し、自らではなかったが家臣・八木橋備中を上洛させることに成功した。豊臣氏家臣の石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡平賀郡鼻和郡田舎郡)ならびに合浦一円の所領を安堵された。しかし後の奥州総検地ではこの所領高45,000石のうち3万石が津軽領地高で、残り15,000石は太閤蔵入地とされた。 秀吉の小田原征伐の際には、家臣18騎を連れて為信自身が、天正18年(15903駿河国三枚橋城へ参向し、小田原へ東下する秀吉に謁見した。

一方、南部家では前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴え、一度は為信は征伐の対象にされかけた。 だが早くから豊臣政権に恭順の意を示す政治的工作を行っており、天正184月小田原へ兵1,000を連れて参陣した南部信直に先駆け、その前月に小田原への途上の沼津で秀吉に謁見を果たしていた為信は、石田三成、羽柴秀次織田信雄を介しての釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した[6]。これには、秀吉、秀次、織田信雄の三名とも鷹狩りを好んだことを聞きつけた為信が、津軽特産の鷹を贈って友誼を結んだ[注釈 11]ことも本領安堵に繋がったと見られている[7]

また、大浦政信近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから廷臣の近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張していた。近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子とした。このときから為信は本姓藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。これにより形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。

その後は九戸政実の乱の討伐[注釈 12]文禄・慶長の役伏見城普請などに功績を挙げた。

文禄3年(1594)には大浦城から堀越城へ居城を移した。

慶長2年(1597)為信は千徳政氏の子・政康が居る浅瀬石城を攻めて、かつて盟友関係にあった千徳氏を滅ぼした[注釈 13]

関ヶ原の戦いと晩年

慶長5年(1600127日、右京大夫に任官される(藤原姓)[8]。同年の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男・信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男・信建豊臣秀頼小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子・重成らを連れて帰国している。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野国大舘2,000石の加増に留まった(上野領については満天姫大舘御前の項目参照)。

関ヶ原出陣中に家臣が反乱するのを恐れ、出陣前に一族である重臣の森岡信元を暗殺させるが、結局、合戦中に国許で反乱が起こって居城の堀越城を占拠された。しかし西軍敗戦の報が伝わると、反乱方は戦意喪失の上で追討されている。

尾崎城」も参照

その後も家中騒動にて堀越城は簡単に占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603)には岩木川土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工した(のちに同地は弘前と改名され、城は弘前城となる)。ただし城の建設はあまり進まず、次代の信枚に引き継がれた。

慶長12年(16071013日、嫡男・信建が京都で死去した[9]

同年(慶長12年)125日、死去[10]58[10]

大正4年(19151024日、従三位を贈られた[11]

為信の名代を務めるなど、次代として確実視されていた嫡男の信建と為信自身が相次いで死去したため、家督は三男の信枚(次男の信堅も既に死亡していた)が継いだものの、翌年、信建の嫡男熊千代(大熊)が金信則津軽建広ら信建派の家臣に推されて、正嫡を主張し幕府に裁定を求めるお家騒動が勃発した(津軽騒動)。幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放されお家騒動は収まった。

墓所

弘前市藤代にある革秀寺にあり、霊屋の建物は国の重要文化財に指定されている。また、弘前市西茂森長勝寺に木像が安置されている。明治時代に入って第4代藩主で為信の曾孫にあたる信政を祀る高照神社に合祀されている。

人物・逸話

  • 弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前には、津軽為信の銅像がある。戦前までは弘前城本丸にあった銅像は、戦時中の金属供出により撤去され、銅像出陣といわれている。2004、新たな銅像が今の位置に設置された。
  • 嫡男・信建が京に在番中に病に倒れた際、津軽にいた為信は、自身も病に陥っていたにもかかわらず、信枚を伴って京まで見舞いに訪れ、そのまま同地で没している。親子兄弟の最期の別れがしたかったから、という見解もあるが、信建が診察を受けていた名医に自分も診てもらいたかったからという説もある。いずれにせよ、その年の10月に信建は在京のまま死去し、その2ヵ月後に為信も京で死去した。
  • 大浦(津軽)氏を1代で大名に引き上げた為信は、当時からその実力を高く評価されており、「天運時至り。武将其の器に中らせ給う」(『津軽一統志』)とある。
  • 岩手県久慈市では地元出身の偉人とされており、久慈秋祭りには津軽為信を題材とする山車が出る[12][13]
  • 為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが、実はその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく、「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は、幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのである。
  • 肖像画や銅像などから見て取れるように、立派な髭や兜の前立ての錫杖がトレードマークである。
  • 豊臣秀吉から太刀友成」を拝領した。この太刀は歴代藩主に受け継がれた後に、最後の藩主津軽承昭高照神社に寄進[14]2020現在、神社横に建設された高岡の森弘前藩歴史館に収蔵されている。

系譜

家臣

小笠原・兼平・森岡の3名は「大浦三老」と呼ばれる。

フィクションにおける津軽為信

小説

 

 

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