急に具合が悪くなる  宮野真生子/磯野真穂  2026.7.12.

 2026.7.12.  急に具合が悪くなる

 

著者 

宮野真生子(みやの・まきこ)
福岡大学人文学部准教授。2000年、京都大学文学部文学科卒業。2007年、京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。博士(人間科学)。専門は日本哲学史。偶然性を扱った九鬼周造が専門。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか――「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)、『出逢いのあわい――九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版)、藤田尚志との共編著に『愛・性・家族の哲学』(3巻、ナカニシヤ出版)などがある。2019722日、がん闘病の末に42歳で逝去

磯野真穂(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ新書)などがある。

 

発行日            2019.9.25. 初版                2020.2.257

発行所            晶文社

 

はじめに

生と死を巡るドキュメントと、その中を共に生きる人々との出会いの物語であり、病に面した1哲学者が「魂の人類学者」に寄り添われ、生まれてきた言葉の記録

伴走者の磯野は、哲学者が訳も分からず「急に具合が悪くなっていく」状況に立たされ、巻き込まれていってくれた

病を抱えて生きることの不確実性やリスクの問題を、磯野と専門的に深めようという学問的な野心があった

常に不確実に時間が流れているなかで、誰かと出会ってしまうことの意味、その恐ろしさ、その中で何を得てしまうのか、出会いの縁へと降りながら考えた

 

1便:急に具合が悪くなる

2019.4.27. 医療人類学者磯野→哲学者宮野

自分の主催するイベントの講師を頼んでいた宮野さんが乳癌を患い、医者から「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われていると聞いて驚いた。多発転移が起こっていていい状態ではないと聞いてもぴんと来なかった

「急に具合が悪くなる」とはいったい何を意味しているのか

循環器外来のフィールドワークでの経験。72歳の女性の心房細動でまだ抗血栓療法まではいっていないが、いつ脳梗塞になるかもしれない可能性を秘める。かもしれないリスクのために毎日の生活を変えて、多くのことを諦め養生に専念する

かもしれないという確率は両義的なもの

2019.4.29. 哲学者宮野→医療人類学者磯野

今の人生とはまったく別の一生を思い浮かべる醍醐味を味わうために旅をする

「急に具合が悪くなる」と伝えてから半年たつが、いまも変わらず走り回っている

ハイデガーは、日常生活に追われている人間にとって「死」とは何かを問うて、「死は確かにやってくる。しかし今ではない」

リスクと可能性を巡る感覚でおかしいのは、リスクの語りによって人生がどんどん細分化されていくところにある。安全な道を歩こうと思っても、細分化された分岐ルートはどれも不確実性に満ちていて、また新たな可能性に直面する

確率の言葉から逃れることがとても難しい。こんな社会をどう生きていくことができるのか考えてみたい

 

2便:何がいまを照らすのか

2019.5.3. 同じく左利きの磯野→左利きの哲学者宮野

現代医療の現場は、確率論を装った「弱い」運命論が多い。「死は来るかもしれない」ではなく「死は来る」で、具体例を出してもそれは単一事例で信頼度は低い。患者は「待ち受ける未来はこうだからこちらの道を行く」という運命論的な選択しかできない。そのうえ「かもしれない」という保留がつくので、提示された側は決めた道を慎重にそろそろ進む以外ない

2019.5.4. 京都に帰りたい哲学者宮野→長野生まれの人類学者磯野

主治医からは緩和病棟の話を聞き、実際に見学もしてみたが、死へと向かうプロセスで何が起きるのか思い描けない。一般化可能な3人称的な「正しい情報」で一体何を決めろというのか。結局仕事をしている福岡から自宅のある京都に戻り、無計画にたまたま出会ったある病院に決め、今後のケアの方向性が決められる

そもそも「選ぶ」とは何か。合理的に比較検討することはできるが、本当に合理的に「選ぶ」ことはできるのか。合理的な知性の働きというより快適さや懐かしさといった身体的感覚に近いのでは。である以上自分ではいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか

 

3便:四連敗と代替療法

2019.5.5. 元ミサコボクシングジムの人類学者磯野→京都を愛する哲学者宮野

合理的に「選ぶ」ことができるのかという問いかけは、現代社会に向けた大切な問題提起

私たちは合理的な選択ができることにされている。PDCAサイクルはその典型

がんの代替療法を巡り専門家や識者がエビデンスのある治療を選択することの重要性を訴え、警鐘を耳にするが、科学的根拠も「かもしれない」の積み上げでしかない

医療人類学の祖アーサー・クライマンは、人が心身の不調を抱え、それを乗り越えようとするとき、3つのセクターを巡るという。1つは民間セクターで家族や友人。2つ目が専門職セクター。3つ目が民俗セクターで、薬草とか骨格の歪みを直すとか、権威はないが独特の理論を持ち、展開する医療。3つをまとめてヘルス・ケア・システムと名付け、その中での各セクターとの関りを考えないと、病者の行動を理解することは不可能だという

2019.5.6. できたら夜の街をさまよいたい哲学者宮野→芝生の似合う人類学者磯野

クライマンの言う3つのセクターは、「分断」と「対立」の中にあり、特に代替医療と選択を巡って問題化。民間セクター1つにしても、反応は様々で大混乱

主治医に対して、自分の状態を踏まえて、適切な選択を一緒に考えてもらう。その結果、自由診療できそうなこととそのための医療機関を教えてくれ、その後は紹介された医師と主治医が連絡を取り合いながら治療方針を探ってくれている

意思に基づいた選択を下すことは、治療をする上で重要だが、その意思をどうやって持てばいいのか。意思は可能性とデータを見れば自動的・論理的に生まれてくるとされる

自分1人で正しく選択するのだというプレッシャーをまず解除することで、患者も医療者も楽になるのではないか

 

4便:周造さん

2019.5.8. 現代文の授業で『「いき」の構造』が出てきたのに、寝ていたことしか記憶にない磯野→修行僧のように生きる哲学者宮野

クライマンは3つのセクターを生物医学に対して批判的な文脈で使っている

3セクターをきっちり分離して、専門職セクターに固執する宮野は、まるで合理的の鬼になれる修行僧であり、それが偶然性に着目した九鬼周造の研究者

徹底的に合理的な判断をしようとする中で、九鬼周造はどんな風に宮野さんの人生に立ち現れたのか

2019.5.13. 計画的ペース配分の持久走が得意な哲学者宮野→瞬発力で生きる人類学者磯野

合理性に則った資本主義的な生き方の一番大きな特徴を一言で表すなら、「コントロールの欲求」と言える。できるだけ自分の分からないもの、制御できない事柄を取り去っておきたい。不確定な未来ではなく、予測された先行きが欲しい

と言いながら、先行きも考えずに突発的に動くことがある。恋愛はその代表格

人は合理性に則って生きようとするが、どうしても無理なことがある。その時は「飛んでみろ」というのが九鬼の教えであり、私たちが生きる現実というのは結局のところ必然なんて言えないんじゃないかと考える

恋愛の偶然に身を委ねることと、自分が病になって周りを巻き込むことは結構違う

 

5便:不運と妖術

2019.5.17. 学会うつを食べ物で克服した医療人類学者磯野→周造さんを20年も研究している哲学者宮野

宮野さんの癌を知って以降の私にとって、癌はもっと感情を伴って現れる病気に変わった

宮野さんは今の自分の状況を捉えるのに、自分自身の哲学をどう使っているのか。そこから何か見えたことはあるのか

2019.5.20. 東京に憧れと恐れを抱く哲学者宮野→京都出張を堪能した磯野

確率はあくまでも客観的な可能性の話なのに対し、偶然性はその可能性が「この私」に降りかかってきたという「遭遇・邂逅・出会い」、「今の時」の衝撃を表す概念

自分が初めに乳癌を発症したのが2011年、その後肝臓への転移再発が見つかる。その少し前父の胃癌が発覚、手遅れで14年に亡くなるが、生前父は癌の家系だと言い、私の癌もそのせいで申し訳ないと言う。自分は癌になったことを「不運」とは思うが、「不幸」だと思ったことはない

唯々諾々と不運を受け容れて、「腑に落とす」必要はない。わかんない、理不尽だと怒ればいい。そんなものは受け入れたくないともがけばいい

 

6便:転換とか、飛躍とか

2019.5.25. 試行錯誤の人類学者磯野→モルヒネ(チュールらしき形)の使いこなしをマスターされた哲学者宮野

「不幸」と「不運」を混同していたことに気づく

2019.5.30. 「ほどほど」が苦手な哲学者宮野→試行錯誤の人類学者磯野

モルヒネを使った緩和ケアを始める

 

7便:「お大事に」が使えない

2019.6.2. 宮野のカバンに翻弄され続けた東京のいち人類学者磯野→東京に飛来した哲学者宮野

宮野さんの癌は、脳から骨にまで転移

2人の間の会話で、使えない言葉が多く、言葉に詰まる

2019.6.9. ちょっとパラマウントベッドが欲しくなってきた宮野→カレーは辛めが好きな文化人類学者磯野

病を持つ人とそれ以外の人の関係というのは、ある程度の困惑さともどかしさを共有して、「今どうしよう」とその都度問いかけるのがちょうどいい。予防的に何かを準備するのはどうしても「患者モード」の定型に沿ってお互い関わることになる。いざと

なったら対応できるように準備しておくのは大切だが、それはあくまで準備で、その場その場で何がしたいか何が必要かを互いにすり合わせてゆく、その時に残る、2人が「今向き合った」という感覚が病を持つ者の自信につながる

「急に具合が悪くなる」についての感覚が変わってきた。最初に言われたときは、論理的に理解した程度だったが、今は具体的に症状として出てきているのがわかる

未完結なまま残ったものは、その人が生きていた/生きようとしていた痕跡でもあるので、あまり身ぎれいに「終活」して自分の人生に責任を取ってしまうのも、残された者にとっては寂しい

「約束」を「信頼」という観点から論じたのが和辻哲郎。 九鬼と同級生で、九鬼が今この瞬間の偶然性を重視したのに対し、安定した日常の連続性を他者との倫理的関係の基本と考えた。生きていくうえで最も重要な倫理的な基礎は「信頼」にあるといい、日常的な、私たちの社会を支える根本にある。信頼とは、「分からないはずの未来に対してあらかじめ決定的な態度をとること」

でも、どんな人なら「約束する能力」を持っていると言えるのかと疑問に思う。いつか必ず死が訪れ、未完結に終わる人間が未来に対してあらかじめ決定的な態度をとることなどできないが、本来とれるはずのない「決定的態度」を「それでも」とろうとすることが「約束」

 

8便:エースの仕事

2019.6.12. 磯野→宮野

私たちは出会ってまだ1年に満たないにも拘らず、このような書簡を成り行きで交わし始め、それが書籍になることがほぼ決定した。この現象を身体性を伴った形で、感傷的にならない形で分析し、世界に展開できるのは宮野さんだけ。宮野さんはこのチームのエース

2019.6.18. 宮野→磯野

重要なのは、がんに「なること」も「ならないこと」もありえた「にもかかわらず」がんになってしまった、ということ。「にもかかわらず」の反転、逆説こそが、私ががんになってしまったというときに偶然として感じる事柄の実体。「にもかかわらず」を人間がどんなふうに生きているのか、それを問い続けたのが九鬼であり、私もその問題を考えてきた

「ないこともありえたものがある」という反転の力の表れが「現実」なので、偶然性を「実在の生産原理」「生産点」という。偶然の病が取り出した、自分が失われてしまうかもしれない恐怖を前にして、私は「にもかかわらずこのようにある」欠落した乳房の身体に必死で立ち止まり、それを言葉で捉えようとすることで、なんとか自分を保って存在させ、日々の生活を取り戻した。生きるための術、偶然の現実を生きる私の「生産原理」

大量のモルヒネを摂取している。痛むことで私は自分の身体を思い出し、自分を強く感じる。そこで感じる自分とは、偶然の病がもたらした死の恐怖の淵に立っている存在であり、「ないこともありえた」などではない、無へと引きずり込まれそうになる

私の中に蠢く生への執着、それこそが、生きようとする力の始まり、偶然性を生きるということなのだと、この病の中で知った

 

9便:世界を抜けてラインを描け!

2019.6.15. 珍しく抽象的だった文化人類学者磯野→約束を生きる哲学者宮野

私たちはいつかどこかのタイミングで必ずモノという点になる。テンとテンを結ぶのがライン。ラインはテンとテンとの関係性。関係性を作り上げるとは、単に握手する関係ではなく、運動のラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく、そういう知覚の伴った運動なので、適切に連結されるだけの点としては生きていたくない。自分にラインを描く力が残っている限り、世界を知覚し、それと密接に関りながらラインを描き、その中で出会うラインと新しいラインを紡ぐことのできる存在でありたい

2019.6.24. ラインの踏み跡となって、新しい始まりに辿り着きたい哲学者宮野→ラインを描く文化人類学者磯野

真の関係性を作り上げるラインを描くことの大切さを見失うのはなぜか。何を忘れているのか。それは時間が持つ「厚み」であり、その厚みがもたらす世界の「立体性」、新しいことが始まる力を秘めた世界の「豊かさ」なのではないか

そもそも、「生きる」って何なんでしょうね

自分の意思で生まれていないし、寿命が尽きれば一方的に終りが与えられ死んでゆくしかない。なんとか自分の存在を守りたいと思う。そうした時にあらわれるのが、消えゆく時間への焦りと、流れる時間を管理したいという欲望

世界に参加し、他者とともに世界を生きることの本質は、打算ではなく、想像力と期待の中にある

 

10便:ほんとうに、急に具合が悪くなる

2019.6.27. かけがえのない出会いとたまらなくスリリングでわくわくする時間をくれた哲学者に言葉にならない感謝を込めて磯野→誇り高き哲学者宮野

時間は単なる物理的経過ではない。ひと1人にとっての時間とは、物理的な時間と、その人が残した踏み跡の深さを掛け合わせたもの

私が文化人類学に出会ったのも、宮野さんと出会ったのも、偶然だが、そこには意味がある。ただその後の展開については、文化人類学者としての仕事を得ることができたのは必然だが、宮野とのその後の展開からはそうなる必然性が全く見つからない

互いに20年の研究実績を持つ者同士、単純に言葉をやり取りすることがめちゃくちゃ面白かったことが、2人の関係性を深めた

アメリカの文化人類学者ギアツの言葉、「人は自らが紡ぎ出した意味の網の目(webs of

significance)の中で生きる動物である」が大好き

宮野にしか紡げない言葉を記し、それが世界にどう届いたかを見届けるまで、絶対に死ぬんじゃねーぞ!

2019.7.1. 哲学者宮野→魂の人類学者磯野

半ば確信犯的に磯野さんを自分の世界に巻き込んだ。自己と他者の出会いから、それぞれがどんな物語をどう立ち上げていくのか、そこからどんなふうに各自がラインを引いてゆくのか、それが大事であり、そうやって引かれたラインに繋がると感じられるとき、私たちは生きていく力を受け取ることができると感じられる

私たちが生きる世界は、根源的な出会いに充ちている。でも、そのためには、ラインを引く覚悟や、出会う人々と誠実に向き合い共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気が必要。その勇気を持ち、偶然を引き出すことができれば、こんな出会いに充ちた世界に自分が紡ぎ出した意味の網の目を織り込んでゆける

偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに満ちた世界を愛する。これが、いま私が辿り着いた結論

 

「急に具合が悪く」の舞台裏  磯野真穂

   2人の関係はそれほど深刻なものではなく、時には他者も介在する笑いに満ちたもので、宮野さんの具合が悪くなってからも同様。「宮野妹疑惑」と名付けて周囲にも語っていた。実際のやり取りは、ここに出ているよりずっと多面的

   宮野さんが病気のことを詳しく話してくれた理由は、うまく受け止めてくれそうだという勘。「最近具合どうなの?」という何気ない問いかけがきっかけだというから恐ろしい

   磯野が逃げなかったのは、宮野さんの描く世界に対する私の興味関心。6月にモルヒネの大量服用が始まった時は書簡の往復もやめようとしたが、「なめんなよ磯野」の一声で切り捨てられた

   77日、宮野さんは感染症のため救急搬送。今は一般病棟にいるが、予断は許さず

   宮野と出会ってから今日で297日目。この後のラインを私1人に預けたいと願うなら、その覚悟はできているが、まだ宮野が私たちの言葉がどう世界に届くのか見届けたと願うなら、全力であなたを死の世界から引き戻します

 

付記

79日、自分の目で読むことすらも難しくなっていた中、「おわりに」と「謝辞」を読み切ってくれ、親指を立て、「これがwebs of significance。こんなんじゃ負けねーよ」と言った

721日、彼女と最後に話す

722日、母上からmacを託され、開けてみると救急搬送の前日、開かれっ放しの書簡のフォルダーとファイルだった

翌日、校正合宿をする約束をしていた実家和歌山の彼女の部屋に。1人でやることになるとは思ってもいなかった

 

 

晶文社 ホームページ

もし明日、急に重い病気になったら――
見えない未来に立ち向かうすべての人に。

濱口竜介監督最新作
映画『急に具合が悪くなる』
2026
619日全国公開

79回カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞!

哲学者と人類学者の間で交わされる「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。

もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命と言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか? もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?

がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。

 

 

 

 

映画

世界三大映画祭すべての主要賞を獲得、『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞®国際長編映画賞に輝き、世界中の映画ファンが待望していた濱口竜介監督の最新作が完成した。着想から5年の月日をかけた、日本、フランス、ベルギー、ドイツによる国際共同製作で、濱口にとって初の海外ロケ作品。大半をフランスの俳優、フランス語のダイアローグで撮りあげた『急に具合が悪くなる』。本作で3度目のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出された。練り上げられた会話の応酬、複雑でいて説得力ある人間関係、映画内演劇、息を呑む美しい構図……濱口監督ならではの、緻密なダイアローグ構成と演出なしには成立しえない物語が織りなされる。

パリ郊外の介護施設「由の庭」の施設長であるマリー=ルー・フォンテーヌは居者を間らしくケアすることを理想としつつ、人手不足やスタッフの無理解などに悩まされている。そんな中、マリー=ルーは森崎真理という日本人の演出家に出会う。がん闘病中の真理が演出するのは、自閉スペクトラム症の孫・智樹と行動を共にする俳優・清宮吾朗の一人芝居。真理の描く演劇に勇気をもらったマリー=ルー。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて、二人の交流が始まる。しかし、あるとき真理は「急に具合が悪くなる」。真理の病の進行とともに、二人の関係は劇的に深まり、互いの魂を通わせ合うようになる……

 

 

Wikipedia

急に具合が悪くなる』(きゅうにぐあいがわるくなる、All of a Sudden)(Soudain)は、2026619劇場公開(日本)の国際共同製作映画。79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品され、2026515ワールドプレミア上映された[1][2]

原作は哲学者宮野真生子文化人類学者磯野真穂の往復書簡『急に具合が悪くなる』[3][4]。原作は日本人どうしの往復書簡であるが、映画化にあたって舞台をパリに移し、日本人の舞台演出家フランス人の介護施設長の交流という設定に変更した[5][6]

主演俳優の岡本多緒とヴィルジニー・エフィラの二人がカンヌ国際映画祭女優賞を共同受賞した[7][8]

あらすじ

パリの老人介護施設でフランス発祥のある介護手法を普及させようと苦闘しているディレクターのマリーは、偶然出会った日本人を通じて俳優・吾郎と演出家・真理に出会い、ある医療ケア問題をテーマとしたテアトル13での彼らの舞台を観劇する。その舞台後のディスカッションで真理は余命があと半年であると日本語でマリーに告げ、彼らの交流がはじまる。

登場人物

マリー=ルー・フォンテーヌ ヴィルジニー・エフィラフランス語版(Virginie Efira)

森崎真理  岡本多緒

清宮吾朗  長塚京三

窪寺智樹  黒崎煌代

 

 

岡本多緒さんカンヌ女優賞 日本人初

2026525 500分 朝日新聞

 第79回カンヌ国際映画祭は23日夜(日本時間24日未明)、濱口竜介監督(47)の日仏など合作の「急に具合が悪くなる」に主演したビルジニー・エフィラさん(49)と岡本多緒(たお)さん(41)を女優賞に選び、閉幕した。24面=役柄に命

 日本人が女優賞を受けるのは初めて。男優賞では、2004年の「誰も知らない」(是枝裕和監督)の柳楽(やぎら)優弥さんと、23年の「PERFECT DAYS」(ビム・ベンダース監督)の役所広司さんが受賞している。

 「急に具合が悪くなる」はパリが舞台。現地にある介護施設の運営に苦心する施設長(エフィラさん)と、末期のがんを患った日本人の舞台演出家(岡本さん)が偶然出会い、対話を通して深まっていく交流を描く。往復書簡からなる同名の原作をもとに、濱口監督がフランス語と日本語を交えた3時間16分の対話劇に仕立てた。(カンヌ=小峰健二)

 

 

 

「急に具合が悪くなる」は足裏映画? 識者が語る3時間超の没入体験

202673 800分 朝日新聞

 5月のカンヌ国際映画祭で、主演のビルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんに女優賞をもたらした濱口竜介監督の「急に具合が悪くなる」が公開中だ。パリを舞台に、現地にある高齢者施設の施設長と、がん患者で日本人の舞台演出家の対話による交流が描かれている。介護やケアも大きなテーマとなっている長尺作品の魅力を読み解く。

「原作の言葉を受肉」 白石正明さん(ケアに関する本をてがける編集者)

 哲学者の宮野真生子(まきこ)さんと、人類学者の磯野真穂さんの往復書簡による原作は、生と死をめぐって11で言葉のやりとりをしていきます。これをどう映画化するのか気になっていましたが、高齢者施設を舞台にしている点にまず驚きました。

 高齢者施設では、体がこわばればもんでほぐすこともあるし、失禁すれば洗うために局部に触れることもある身体接触の場。そうした場所を舞台にすることで、原作で交わされた言葉を「受肉」させているように感じました。

 また、その施設でフランスで生まれた「ユマニチュード」というケア技法が使われることにも驚きました。私は医学書院で「ユマニチュード入門」という本を編集しましたが、この技法は見る・話す・触れる・立つの四つを柱に、ケアする相手をより人間的に扱う介護の方法です。映画の中では入室時のノックの作法や、何をしているのかを伝えながら体に触れる方法が丁寧に可視化されています。

 こうした丁寧なケアをしたいというのは現場にいる方は当然考えるのですが、予算や時間の制約もあるし、責任をどうするかという問題も生じます。高齢者施設はある意味で最もその矛盾が先鋭化しているところ。立って暴れてけがをしたら自分たちの責任になるから、ベッドに縛りつけたように寝かせておこうとなりかねません。

 映画でも、施設の介護方法を変えていきたい主人公の施設長と、それに抵抗する看護師との対立があります。ただこの映画のすばらしさは、それを善悪の構図で描いていないところ。強い責任感をもった看護師が魅力的に見えるのはそのためです。

 映画では、ユマニチュードの四つの柱のなかでも、「触れる」が最も特徴的です。終盤、施設の入所者や職員がくんずほぐれつ互いの体に触れ合い、まるで松の盆栽のような形になってうごめく演劇のワークショップの場面がありますが、まさに「身体性」があふれ出ています。

 また、足裏をもみほぐす場面もありますが、それもユニークだと感じました。ユマニチュードの「立つ」に、私は西洋近代的なにおいを少し感じ、実はどうなのかという違和感もありました。しかし、この映画を見て分かったのは、ポイントはむしろ「足裏」なんだということ。足裏を地面につけて芝生の上を歩いてチクチクする感触を知ったり、互いに触り合ったりする。ときに飛翔(ひしょう)しがちな言葉による「魂のやりとり」を着地させたという意味でも、「これは足裏の映画なんだ!」という発見がありました。

 主人公の2人が足の裏をもみ合う場面もあります。まるで性的な関係性も漂わせますが、この2人だけの親密さが、終盤では、集団で足裏をもみ合う形へと変わっていく。11の関係性が集団に開いていくファクターは原作にない部分で、映画でしかなしえないものだと感じました。

 潜在的に触れることの気持ちよさのようなものを知っている人なら触発されるものがある映画です。もちろんケアなどの仕事をしている人は、効率を求める資本主義に影響を受けた矛盾のただ中にいるから、その意味でも真に迫ってくるはずです。

 上映時間は3時間16分ありますが、時間そのものがテーマの作品だとも言えます。ケアの現場は徐々に付き合って、気づけば変わっていたということの連続です。長い時間をかけてこの映画を「体験」すると、見終わった時には別の世界に開かれているかもしれません。

「『フランス映画』として機能」 佐藤久理子さん(パリ在住の批評家・ジャーナリスト)

 女優賞を受賞したカンヌ国際映画祭の間も多くの批評が出ていました。もろ手を挙げてというほどではないけれど絶賛が多かった。「ヒューマニズムに満ちた傑作」「感動的で軽妙さを持った哲学的な物語」といった文言が見られました。カンヌで会った海外の批評家の中では、「ちょっと長いよね」という意見もいくつかあったのは確か。高齢者施設での議論の場面が何度か出てくるので、繰り返しが気になったようです。

 私自身は長さは気にならず、主人公の2人とともに時間を過ごし、2人の対話を聞く没入体験でした。この映画で感心したのは、フォルム(形式)の大胆さと、実験的な部分です。「映画とはこういうものだ」という暗黙の思い込みがなく、自由に作っている感じがします。通常より長尺であることも、身体的なワークショップを取り込むところも、囚(とら)われているところがない。濱口監督の確固とした信念と自信ゆえに結果的に見たこともないような映画ができたと思います。

 また、日本やフランスなどの国際共同製作ではありますが、撮影地も製作陣もほとんどがフランスという作品。濱口監督がフランス語の話者でなく、言葉の壁がある中で撮ったことが信じられないほど、「フランス映画」としてうまく機能しています。

 施設長を演じたエフィラさんはフランス語圏では誰もが知る売れっ子で、お茶の間人気も高い俳優。23年先までプロジェクトが決まっていると言われているほどです。クランクインまでほぼ3カ月という準備期間で、日本語のセリフを含め、よくぞあれだけの演技を見せてくれました。受賞歴は多くない俳優なので、自身にとってもカンヌ映画祭の女優賞は大きなものだったと思います。

 濱口監督は、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」があるのでフランスでも映画好きのなかでは有名ですし、評価が高い。そのため、カンヌ映画祭で向けられる視線には熱いものがありました。

 一般の方の間では是枝裕和監督の方が知名度があるかもしれませんが、今回はエフィラさんの名前と、介護問題という身近なテーマで、一気に是枝さんクラスの有名監督になるのではないでしょうか。

 村上春樹原作であることやオスカー効果もあって「ドライブ・マイ・カー」は成功したと思いますが、やや難解な部分もある。「急に具合が悪くなる」の方がハードルが低く、語り口もわかりやすいので、より没入して物語に入り込めると思います。

 

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