怖い熊  山と渓谷社編   2026.7.7.

 2026.7.7. 怖い熊 傑作アンソロジー

 

編者 山と渓谷社

 

発行日            2026.6.5. 初版第1刷発行

発行所            山と渓谷社

 

²  「手負い熊/風雪」今野保 『羆吼ゆる山』(ヤマケイ文庫)

今野保 19172000。北海道早来町生まれ。奥地での製炭業を経て、’37年から26年間炭鉱に勤務。室蘭にて土木会社を設立。’84年事故で右手を負傷するが、左手で執筆活動に

 

手負い熊

幌毛に1人暮らしの大友老人は、村田銃28番を背に山歩きするのが唯一の愉しみ

「熊撃ちの名人」ともてはやされ、毎年2,3頭の羆を撃ち取って換金していた

大豆畑が荒らされると聞いていってみると鹿の足跡。暗くなって出てきた鹿を撃つが、深手を負ったまま逃げる。翌朝血痕を追って山に入ると、深手を負った鹿に熊が嚙みついている。熊を撃つが致命傷にはならず、銃が損壊したので、鉈を振るって指を切り落とすと熊は山に逃げ帰る

銃を直してから、再度熊の後を追うが、熊に後ろから襲われ、撃ち殺したがその下敷きになって、一旦は息を吹き返したが、ろっ骨が折れて内蔵に突き刺さり、翌日には死亡

「確実に斃(たお)せる距離でなければ絶対に発砲するな」と固く戒められた

 

風雪

現在の静内川は日高山脈中央部の山懐に切れ込む見事な清流

アイヌの毛皮猟師が広大な山岳地帯の原生林に6つの小屋を持って猟に出ていた

冬眠のための脂肪がついた後の毛皮でないと売買の対象にならないとされ、冬場が猟の季節。巨羆(おおくま)に冬眠の巣を奪われた銀毛の熊が、新たな巣を探して9月ごろに姿を見せる。目的はテンの毛皮。餌となるヤマウサギを罠にかけて生け捕りし、テン用の罠を仕掛ける。崖地で熊が冬眠の巣を作るはずはないと油断

羆は冬眠するといっても、ぐっすりと深い眠りに入るのではなく、うつらうつらと転(うたた)寝をしている程度のもので、何かの異状や物音がすれば、すぐ目を覚まして対応する

テンを捉えた直後に突然熊に襲われ、熊の腹に抱きついて頭を熊の顎につけ、背中の毛を掴み、持っていた刺刀で心臓を突く。荒れ狂った熊に振り落とされたが、熊も瀕死の状態で暴れまわり遂に斃れる。銀毛が斃れたのを見ながら、元々の銀毛の巣を奪った熊のことを考える。銀毛の巣の近くまで言って様子を見ると、物音に気付いた赤毛の羆が飛び出してきたがアイヌによって仕留められた。撃ち取った熊の内でも最大のものだった

 

²  「耕平」吉村昭 『羆撃ち』(ちくま文庫)

吉村昭 19272006。東京都生まれ。学習院大文政学部中退。'66年『星への旅』で第2回太宰治賞。『羆嵐』『羆(ひぐま)』『熊撃ち』など人間と熊との実話をもとにした作品でも知られる

 

熊撃ちには豊かな知識と経験が必要で、先輩猟師から仕留め方を教わらないとなかなか難しい

22歳で山に入った耕平は、いつも一人で、4年目に偶然出くわした羆を仕留める

15年経って、だいぶ多くの羆を仕留めるようになったが、彼のやり方は羆の通るルートを覚えて只管(ひたすら)待つこと

42で結婚した若い妻が7年目に急性肺炎で死去。1年は喪に服して銃をとらないと決めたが、村の住民の息子が羆に襲われて死んだ敵を討ってくれと懇願されて山に入る

息子の敵を討つといった父親だけは連れて耕平は熊の足跡を追う。熊を追い詰めて、風下で戻ってくるのを待つ。父親はライフルの使い方に慣れているというが、熊は10mに近づいたところで耕平が撃つから父親は後ろで待てと念を押す

熊が近づいたところで、激しい恐怖にかられた人間の絶叫が聞こえ、父親が逃げ出した

熊が人間の存在に気づき襲ってきたのを、耕平は絶叫で一瞬気が緩みながらも必死で引き金を引く。熊が蔽いかぶさってきたので死を覚悟したが暫くすると蔽いかぶさってきた熊はすでに死んでいた

仲間を捨てて逃げた男は、猟師の世界で生存することは許されない。耕平は肝だけ抉り出し、これを売って酒でも飲もうと思って歩き出すと、林のはずれにライフルを下げた父親が放心したように立っていた

 

²  「初マタギ」甲斐崎圭 『第十四世マタギ 松橋時幸一代記』(ヤマケイ文庫)

甲斐崎圭 19492025。島根県生まれ。近大法卒。学生時代に文芸誌の新人賞に入選。主に自然を相手に生きる人々のルポを手掛ける

 

中学を出たばかりの松橋時幸は14代目のマタギ。父親から熊を追い出す勢子をやれと言われる。猟犬の代わりの役。初マタギから4年経ったところで師匠格の先輩が死去

初猟には何人かの同年配が参加したが、時幸は手負いの熊に遭遇、木の上に逃れて辛うじて助かったものの、危機を体験して骨の芯まで熊との闘いがいかに危険で命がかかるものかを痛感

時幸を襲った熊は手負いで、最も危険な状態なので仕留めるまで追う。大勢の勢子に追い込まれて見事仕留められた

マタギの使命を畏れる時幸に、師匠格の先輩は、自然を虔(おそ)れながらも山人(やまびと)として失ってはならない勇気、それがマタギの根性だということを教えようとした

 

²  「復讐するクマ」工藤隆雄 『マタギ奇談』(ヤマケイ文庫)

工藤隆雄 1953~。青森市生まれ。出版社勤務を経て執筆活動に。毎日児童小説優秀作品賞、盲導犬サーブ記念文学賞大賞等受賞

 

熊は花はいいが目はあまりよくないというが、撃ったマタギの顔を覚えているといい、しつこく嫌がらせをするという

工藤与一(1933年生)は山形県の大鳥マタギ。猟友と一緒に山に入り熊を獲っては、肉を集落の人に配り喜ばれていた

ある日の猟で、熊の肩を撃ち抜いたが仕留めることはできないまま家に戻ると、夜になって家の周りをうろつく気配がする。外に出てみると血痕とともに熊の足跡があった。それも周囲の家にはその気配はなかったが、近くに嫁いでいた娘の家から電話が来て熊がうろついているという。明け方再びやってきたところを仕留めたが、可愛い孫の家を嗅ぎつけていたのには驚く

 

²  「羆対羆の死闘」西村武重 『山の風物詩』(河出書房新社)

西村武重 18921983。香川県生まれ。4歳で北海道に移住。’16年養老牛温泉踏破。永年ヒグマ撃ちを経験。'72年勲六等単光旭日章

 

北海道の羆は真夏の頃が人畜に一番危険な時。根室、北見の国境摩周山麓から知床半島、釧路、根室の国境ペロニタイの大国有林などから出没し農村の牛馬や緬羊を狙う

北海道の密林を横行する熊は、同類間でも死闘があり、特に子連れの母羆は雄羆の襲来に警戒の目を見張る。狙われる子羆は早春3月穴居から出たばかりの2,300グラムくらいの小さいまだ乳の匂いのする赤ちゃんの頃が最も危険。人夏過ぎればもう成獣

滝壺の上の岸壁で植物採取をしていた時に、2匹の子羆を連れた母羆に出遭ったが、後から雄羆が追いかけてきて子羆の奪い合いとなる。一瞬の隙を突いて子羆を齧り獲り逃げ出そうとするところを母羆が追う。子を守る母羆に同情して雄羆をアイデアルで狙いをつけ、一発で射止めようと月の輪(ママ)を狙い仕留めるが、母羆と無事だった子羆は銃声に驚いて逃げるが、雄に加えられた子羆は足か腰をやられていて追いつけない。可哀そうになって生け捕りにして家に帰って手当てをし、3年ほどそのまま家で飼う

別な機会にヤマベの釣果を挙げて戻る途中、寝ていた熊に気づかずに通りすがり熊に横顔を殴られた。死んだふりをしている私の傷口を熊が舐めていたが、持っていた山刀で乾坤一擲の一撃を頭に打ち込み、熊が逃げ出し九死に一生を得る。後日羆狩りで射止めた大羆を見ると刀の大傷があり、自分が命をかけて切りつけた傷だったことがわかる

 

²  「タキ」今野保 『アラシ』(ヤマケイ文庫)

アイヌの娘を守っていた大型犬のタキが、いつの間にか自然に帰り子どもをたくさん作って、ヤマベを釣りに行って羆に遭遇した時には追い払ってくれた

娘が舞茸刈りに山に入った時に羆に襲われ、現場に来合わせたタキの通報で一旦は家に戻ったがその夜死去。羆はタキたち仲間の襲撃で退散したようだった

娘の父親は、襲撃された辺りで罠を仕掛け待っていると、羆がタキとその一群に取り巻かれるようにして現れ、犬たちの襲撃に堪えられずに斃れる。今でもタキたちは山で生きている

 

²  「熊を殺すと雨が降る」遠藤ケイ 『熊を殺すと雨が降る』(山と溪谷社)

遠藤ケイ 1944年新潟県生まれ。 人と自然の関りを見つめながら作品を発表。新潟の雪深い山中に手作りの小屋を建て、より過酷な自然環境の中での暮らしを実践

「熊を殺すと雨が降る」という言い伝えが、現在でもマタギの間に生きている。山の神の血洗いと古老は言う。殺された熊の血を洗い流して清めるという

仕留めた熊はできるだけ早く麓に運び降ろす。その場で皮を剝ぎ、胆の中身が内臓や肉に回る前に、胆を抜いたが、現在はほとんどがまるのまま山肉商に渡される。貴重で高価な熊の胆()を確実に入手するための業者側の防御策。大熊130万円の値が付いた場合、皮と肉が10万で胆嚢が15万。熊の肉が100g200円前後だが、胆は15万円

 

²  「牧場荒しの大羆を倒す」西村武重 『北海の狩猟者』(ヤマケイ文庫)

鮭で有名な根室の西別川のほとりの虹別という小さな集落がある。摩周湖に隣接する酪農郷が、冷害・凶作に苦しむ中、羆の被害が広がる

様子を見に出て襲われた桑野は、大怪我を負いながらなんとか一命をとりとめる

私は兵隊検査が済むと直ぐに狩猟免許を受け、3,40年道内や秋田のバンドリ(ムササビなど)射ち、四国のイノシシ狩りなど駆け回ったが、北海道での冬の羆対策は欠かせない

羆狩りにはいつでも決死的な心構えで臨む

被害の1か月後、また人里の牧場まで出てきて牛を襲う。羆を追っていくと、手負いの羆が驀進してくる。瞬く間に迫ってくる羆に対し、23度と弾丸を命中させ倒す

450㎏もある14,5歳の雄。こんな超巨大なのは全く初めて

 

²  「羆風」戸川幸夫 『戸川幸夫動物文学選集4 高安犬物語』(主婦と生活社)

戸川幸夫 19122004。佐賀県鍋島村生まれ。新聞社を経て作家へ。動物文学のジャンルで活躍。'55年『高安犬物語』で第32回直木賞。『子どものための動物物語』で第15回産経児童出版文化賞

人々は人殺しの熊を””人喰い羆と呼ぶが、元々は羆の生息地に人間が入ってきた

大正4年北海道天塩国で3人の農婦が襲われたあと、同じ地域で世界の熊害(ゆうがい)史上最大の事件(三毛別ヒグマ事件)発生。身長2.7m、体重350㎏、首筋から肩、背にかけて金色の豊かな剛毛を持つ8歳の黒褐色の雄羆で袈裟掛け羆と呼ばれる獰猛なもの

原始林が次々に開発されていく中、餌がどんどん減っていき、人間の住む地域にまで餌を求めて進出。狙われたのが三毛別(さんもうべつ)御料農地のある六線沢。1年前に開墾されたばかりで、15戸の開拓農家が入植してきたところ

羆が人里に降りていたのを見て、マタギに応援を頼む。現れたところで猟銃を撃つが、一旦手負いとなって逃げた熊は習性を一変させる

農家の女と子供が羆に惨殺され、女は引き摺られていった。第1次捜索隊が編成されたが、巨羆を発見したものの取り逃がす。第2次捜索隊が女の惨殺された遺骸を発見

肉を奪われた巨羆はさらに怒りを増幅させ、村で葬儀に集まった男衆を襲う

さらに、夜になると女子供が避難して集まってきたところを襲う。救援隊も、中に生存者がいる可能性があれば撃つこともできない。この晩、4人が殺され、4人が重傷、2人が奇跡的に無傷で見つかる。老幼婦女子を危険地帯から離れたところに避難させる

事件は北海道全土を驚愕させる。大救援隊が派遣されるが、巨羆は恐れることなく餌を求めて徘徊したため、終に仕留められる

巨羆が倒された後に終日暴風雪が吹き荒れるのを羆風(ひぐまかぜ)という

北越雪譜にも、「山家(やまが)の人の話では、年歴()たる熊一疋殺すもその山必ず荒るることあり、山家の人これを熊荒れという。熊に霊ありしこと古書にも見えたり」とある

(取材ノート) 普通の羆は自分の方から人を襲って殺すということはない。羆を極悪な猛獣としてやたらに追い詰めると却って危険だと思う

この事故は、野生動物研究家の木村盛武が丹念な調査・取材を行い、『獣害史上最大の惨劇苫前羆事件』という報告書をまとめ、それをベースに『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い羆』(1994)を刊行。吉村昭もこの事件をモデルに『羆嵐』(1977)を書き、テレビやラジオでドラマ化された

 

²  「襲撃された牛舎」久保俊治 『羆撃ち』(小学館文庫)

久保俊治 19472024。小樽市生まれ。日曜ハンターの父に連れられ村田銃で狩猟を学び、アメリカのハンティング学校に留学、プロハンティングガイドに。標津町で牧場を経営しながら単独で山に入りハンティングを行う

標津(根室の北)をホームグラウンドに持つプロの羆猟師。春には羆猟(ひぐまりょう)が解禁され、6か月間のベースキャンプを設営

雪上に残された足跡を追って沢に入り仕留める。皮を剥いで解体し、140㎏程度に分け、6,7回往復してベースキャンプまで運ぶ

1頭を完全に片づけてから、次に撃ったのは2頭の子羆連れの母羆

初夏になってタンポポが白い綿毛に変わって飛び去る頃には、羆は冬毛が抜け落ちてやせ細った惨めな姿になり、毛皮の価値もないので撃つ気はない

9月後半、標津町で牛が羆に襲われる。羆が自分のものと思い込んだ時、それに執着する恐ろしさは他に類例がないほどで、手に入れるために羆は何も恐れない

地元の人たちで巻狩(まきがり)して、なんとか仕留める

羆騒動の後、また1人で山に入り羆を仕留め、本当の意味で獲ったという思いがした。羆との命のやり取りが始めるのだと感じる。猟犬を育てるという以前からの夢を実行に移す

特に羆猟犬は、猟人の一生のうちに一度恵まれるかどうかといわれる。犬はそれを使う者の技量以上には決して育たない。今こそ、羆猟に対する自分の技と精神、考え方のすべてを一頭の犬に注ぎ込んでみたい

 

²  「まさかの出来事――熊に襲われる」山野井泰史 『アルピニズムと死』(ヤマケイ文庫)

山野井泰史 1965年東京都生まれ。ヒマラヤなどの難ルートに挑戦する世界的クライマー。'13年プスカントゥルパ東峰南東壁を初登攀。’21年ピオレドール生涯功労賞

奥多摩湖を見下ろす急斜面の遊歩道でランニングしている時に子連れの母熊に遭遇。右腕に噛みつかれ、体を倒され、顔面に噛みついてきた。必死に抵抗して体を離し、家に駆け戻る。顔に70針、腕に20針。以前より鼻筋がなくなり鼻での呼吸がほとんどできなくなったが、徐々に回復。3か月後にはオーストラリアへクライミングに行く

 

²  「日高・カムイエクウチカシ山のヒグマ襲撃事故」羽根田治 『人を襲うクマ』(ヤマケイ文庫)

羽根田治 1961年さいたま市生まれ。山岳遭難や登山技術に関する記事を発表。沖縄、自然、人物などをテーマに執筆

1970年、福岡大ワンゲル部の日高山脈での夏季合宿中に羆に遭遇。テントに近づき食料に手を出し始めたのを見て一行5人も危機感を覚える。明け方出発の支度している最中にまた現れテントに手をかける。4,50mほど逃げたところで、2人を応援を求めに営林署に行かせる。2人は途中で同じように熊に襲われて下山中の他の大学パーティーに出会い、応援を頼んで仲間のところに引き返す。仲間と合流した後、テントを撤収して移動するが、執拗に熊に追われ続ける。捜索隊が山に入るが、天候の悪化でヘリも使えず、漸く熊に襲われた3人の遺体を発見

熊に襲われながら、最終目的の山に登るために山行きを強行したことが遭難に繋がった可能性が大きい。日高では過去に熊が人を襲った事例がなく、出会った際の熊の行動が伝聞していた通りだったことが、その後の行動判断に隙をもたらした

普通、熊は特別のことがない限り熊の方から人を襲うことはなく、大きな音を立て火を焚けば逃げるとされているが、登山者の増大に伴う人間との接触によって熊の習性が変わってきた可能性がある

 

²  「北千島の人食いグマ事件と私」木村盛武 『ヒグマ そこが知りたい』(共同文化社)

木村盛武 19202019。札幌市生まれ。林務官となり道内の営林局などに勤務。三毛別事件の取材を始め、退官後執筆活動に

クマに関心を寄せ、研究心をもたせてくれたのが、1938年小樽水産学校の学生実習で赴いた北千島幌筵(ぱらむしろ)島で出くわしたクマ事件

幌筵島村上湾は漁業基地で、後背地は千島特有のハイマツ林に覆われ羆の巣窟であり、しばしば人も襲われていた

付近の川にサケ・マスの遡上を見に行く(川のぞき)。遡上の大群を見ながら手製のヤスで突き上げながら川を遡ると羆の足跡を発見、後頭部のあたりが食害されているだけの70㎝を超す大物の残骸が点々とする。羆の恐ろしさは念頭にないまま遡上していくと、羆に食い荒らされた人の遺骸に遭遇。慌てて逃げ帰る。先発隊のうち1人が逃げ帰って救援隊の出動となる。占守島の海軍基地に停泊中の駆逐艦の将兵まで応援に出たが、羆は発見できなかった

羆は、ばったり出会うととっさに襲うことがある、満腹の時でも人畜を襲い食害することがある、食い残しがあると人間が近づいても遠くまで逃げないなど、多くの教訓を得る

 

²  「受け継がれる人喰い熊の「DNA」~北見連続人喰い熊事件」中山茂大 『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)

中山茂大 1969年北海道深川市生まれ。上智大探検部に属し世界各地を放浪。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人力社代表

大正期に大発展を遂げたのが道東、とりわけ北見地方。鉄道の延伸と第1次大戦後の未曾有の好景気により、開拓民が大量に移入した結果、羆との強い緊張関係を生む

出現確率が16002500頭に1頭に過ぎない人喰い熊が、同地方に集中した事実から、羆に受け継がれる「人喰い」の系譜について考察

国有未開地を払い下げ、開墾地は無償で付与されたため、農業が新たな基幹産業となる

北見の交通不便なことは言語に絶し、すべての物資は小樽から稚内経由で回漕。囚人が作った旭川と網走を結ぶ「北見道路」は、泥濘で使いものにならず

大正元年、十勝、北見、網走間の鉄道開通が土地に繁栄をもたらす

明治期の北見地方における殺傷事件は2,3件だったが、大正10年ごろから人が喰われる事件が急増

同じ地域で長期にわたって人喰い熊事件が散発したことから、母熊が人間を襲って喰うことを通じ、子熊に人間が「喰い物」であることを教えた可能性を否定できない

 

²  「星野道夫の死」スティーヴン・ヘレロ 『ベア・アタックス2』(北海道大学出版会)

スティーヴン・ヘレロ 1939年サンフランシスコ生まれ。UCバークレー校で動物行動学の博士号取得。'68年よりカルガリー大環境計画学部教授、同大名誉教授。専門は野生動物生態学、保全生物学

1996年、カムチャッカ半島南端のクリル湖で、世界的な写真家星野道夫はヒグマに襲われて死ぬ。襲った雄熊は、彼が愛してやまなかった野生の動物ではなく、地元のロシア人テレビ局経営者によって意図的に餌付けされていたらしい

星野の悲惨な死は避けることのできた死だった。食物や生ごみをいい加減に保管した結果どんな事態が起こりうるかを示す教訓

私にとって星野は尊敬する師の1人。野生動物の生き方により深く目を向けるようになって新しい側面を発見することができたのは星野の写真を通してだった

星野は、TBSテレビ《どうぶつ奇想天外》の撮影に参加。クリル湖のキャビンは直前に熊に荒らされていた。その翌朝未明、熊が来たので大きな音を出し、スプレーを噴射して追い返すが、この熊は異常な習性があって、人間の臭いや声や動きには反応しなかった

2日後、ロシア人経営者が自家用ヘリで熊の撮影にやってきて、フライパンのようなもので餌をやり撮影した映像がその後ロシアのテレビで放映される。その時、ヘリに放置された食料を熊が見つけ、ヘリの窓が破られた。熊はその後も周辺をうろつく

1週間後、未明に熊は星野のテントを襲い、星野を引き摺って400500m先の林に入る。すでに身体の一部を食べ始めており、それ以上の追及は断念。救援隊が駆け付け、ヘリで追い込んで射殺

同地域では、今回のガイドも何回か日中クマに襲われているが、偶然遭遇したため熊の方が脅威を感じて防衛しようとした結果の襲撃だった

北米で起きたグリズリーによる致命的な襲撃事故のいくつかとの類似性に驚く。襲撃したのは、人慣れし、人間の食物に餌づいた熊で、人間の食物がわずかな労力で得られる濃縮したカロリー源であることを学習していた。地面に残ったクマ除けのペッパースプレーの溶液がグルスリーを惹きつける強力な誘因物になったことも見逃せない

 

²  巻末随筆 澤村伊智(ホラー小説家)

収録作全てで書かれているのは人間ごときでは制御のできない大自然の厳しさであり、ちょっとした油断や選択ミスで熊に殺された人々の姿。理不尽で無慈悲な熊たちの暴虐が記述されている

熊の怖さの核は、その単純な力強さや俊敏さではなく、人間が太刀打ちできない自然の象徴だからで、熊は、そして自然は、人間がいかにちっぽけで非力な存在なのかを思い知らされるから怖い。だが人間は、その恐怖と立ち向かってきた。その積み重ねの成果が今ここの人間社会であり、本書に書かれているのはその成果のごく一部。先人たちの感じた恐怖を追体験し、恐怖を克服しようとする先人たちの意志や行動に心を動かされてくれれば嬉しい

 

 

 

 

山と渓谷社 ホームページ

すべて実話。戦慄!

緊張、衝突、激闘、悲劇――生と死が隣り合わせる古今の熊と人の歴史を記録したノンフィクション、および実話をもとにした小説、全15作品を収録。

巻末随筆:澤村伊智(『ぼぎわんが、来る』著者)

 

 

 

Wikipedia

星野 道夫(ほしの みちお、1952昭和27年)927[2] - 1996平成8年)88[3])は、日本写真家探検家詩人千葉県市川市南八幡出身[4]ヒグマ食害に遭い死去した。

アラスカの動物、自然、人々を撮影した。厳しい自然の中で動物が生きる姿、人間の生活、命の尊さを綴ったエッセイも執筆。著書に『アラスカ 光と風』(1986年)、『旅をする木』(1994年)など。

生涯

市川市に生まれ、少年時代を同市で過ごす。通い始めた学習塾を1日で辞めたこともあった。実家には今も、通っていた市川市立平田小学校から児童がインタビューのために訪れることがある。

慶應義塾高校在学中に北米大陸への旅行を計画し、地下鉄工事等さまざまなアルバイトをして旅費を貯め、父の理解と援助を得て、196816歳のとき、約2ヶ月間の冒険の旅に出た。その時の様子はエッセイ16歳の時」にまとめられている[要文献特定詳細情報]。同高卒業後、慶應義塾大学経済学部へ進学。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。19歳のとき、神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て、同書に掲載されていたシシュマレフを訪問したいと村長に手紙を送ってみたところ、半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきた。そこで翌年の夏、日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフに渡航する。現地でホームステイをしながらクジラ漁についていき、写真を撮ったり漁などの手伝いをしたりしながら3ヶ月間を過ごす。帰国してから指導教官にアラスカでのレポートを提出し、なんとか卒業単位を取ることができたという。

慶大卒業後、動物写真家である田中光常の助手として写真の技術を学ぶはずだったが、助手としてはカメラの設置や掃除・事務所の留守番などの雑用ばかりで、2年間で職を辞した。

1978アラスカ大学フェアバンクス校の入試を受けた。入試では、英語(英会話)の合格点には30点足りなかったが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学した。その後、アラスカを中心にカリブーグリズリーなど野生の動植物や、そこで生活する人々の魅力的な写真を撮影した。しかしアラスカ大学の方は結局中退してしまう。1989には『Alaska 極北・生命の地図』で第15木村伊兵衛写真賞を受賞する。1993、萩谷直子と結婚。翌1994、長男・翔馬が誕生。

199688日の午前4時頃、TBSテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』取材のため滞在していたロシア連邦カムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントヒグマに襲われて死亡した。43歳没。この事故については、星野の友人たちやクマを専門とする研究者によって行われた検証によって、地元テレビ局のオーナーに餌付けされたことで人間への警戒心が薄くなっていた個体であったことが指摘された[5]。なお、昼間にテントの入り口から入ろうとするヒグマの写真が星野道夫が最期に撮影したものとして出回っているが、襲撃は深夜のことであり偽物である。

ヒグマ襲撃事件

以下の事件の経緯はTBSが作成した「遭難報告書」によるものである[6]

1996725日、TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外!』の撮影の為、カムチャツカ半島を訪れた。今回は星野の持ち込み企画で、「ヒグマと鮭(サケ)」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数メートル (m) 程離れた所にテントを張り、1人で泊まることにした。その時小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。

727日、現地を訪れた別のアメリカ人写真家が星野のテント近くにテントを張ったが、その夜金属音で目を覚ました。外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。ヒグマは体長2 m超・体重250 kgはある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くと、ヒグマは地面に降り、今度は星野のテント後方に周った。その最中、テントから顔を出した星野に写真家は「あなたのテントから3 mにヒグマがいる」と警告し、小屋のドアを叩いてヒグマが出たとガイドに告げた。小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、78 mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった。その後もガイドが悪戦苦闘しつつスプレーを噴射し続けると、ヒグマはテントから離れていった。なお、同地は自然保護区のための所持・使用は禁止されている。

事後、ガイドたちは星野に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方でアメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。

81日、環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴を持ち去ったり、写真家が不在だった鮭観察タワーに一晩中よじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。

86日夜、再度星野のテント近くに現れたヒグマをガイドがスプレーで追い払った。ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。

88日の深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガンと叩いたが、ヒグマは一度頭を上げただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていて支柱は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドの救助無線を受け、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを発見し、射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。

死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。

死後

1997龍村仁監督による映画『地球交響曲3番』の第1部に「星野道夫編」として取り上げられた(第2部はフリーマン・ダイソン編、第3部はナイノア・トンプソン編)。なお星野は元々出演予定だったが、事故を踏まえ星野の追悼を主題とし、その足跡を辿りながら星野と交流のあった人を紹介している。

2003三省堂出版の高等学校向け文部科学省検定済教科書CROWN ENGLISH SERIES I』にエッセイ「16歳の時(英題:When I was sixteen)」が掲載される。また2006には、桐原書店出版の高校向け文部科学省検定済教科書『PRO-VISION ENGLISH COURSE 』に偉人の一人として掲載される。

2006724NHKにて『ハイビジョン特集 アラスカ 星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜』が放映された。

20168月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した写真展が開催された。この巡回展は2018年夏頃まで、全国を巡回して行われた。写真展示のほか、星野道夫が使用していたカメラやカヌーなどの愛用品の展示も行われた[7]

2018111NHK BS1の『BS1スペシャル』にて『父と子のアラスカ〜星野道夫 生命(いのち)の旅〜』が放映された[8]

作品

随筆のみの著書が多数出版されている。代表的な写真作品の一部は、富士フイルムのウェブ写真美術館に展示され鑑賞することができる[要出典]

写真集

随筆

  • アラスカ 光と風(六興出版 1986年)
  • イニュニック[生命](新潮社 1993年)
  • 旅をする木(文藝春秋 1994年)
  • 森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて(世界文化社 1996年/文春文庫 2017年)
  • ノーザンライツ(新潮社 1997年)
  • アフリカ旅日記 ゴンベの森へ(メディアファクトリー 1999年/ちくま文庫 2025年)
  • 長い旅の途上 [遺稿集](文藝春秋 1999年/文春文庫 2002年)

写真絵本

  • アラスカたんけん記(福音館書店 1990年)
  • ナヌークの贈りもの(小学館 1996年)
  • 森へ(福音館書店 1996年)小学校の教科書にも載っている作品
  • クマよ(福音館書店 1999年)

その他

  • 表現者 (星野道夫、松家仁之、大谷映芳、他  スイッチ・パブリッシング 1998年)
  • 魔法のことば [講演集](スイッチ・パブリッシング 2003年)
  • 星野道夫著作集 15(新潮社 2003年)
  • 星野道夫と見た風景(星野道夫・星野直子 新潮社 2005年)
  • 終わりのない旅 星野道夫インタヴュー(湯川豊  スイッチ・パブリッシング 2006年)

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯  Frank Brady  2013.8.2.

お言葉ですが… 第1巻  高島俊男  07.01.

語られなかった皇族たちの真実  竹田恒泰  2013.10.16.