ベルリン Sinclair McKay 2026.7.2.
2026.7.2. ベルリン 20世紀を象徴する都市の物語
Berlin Life and Loss in the City That Shaped the
Century 2022
著者 Sinclair
McKay 『テレグラフ』、『スペクテイター』に寄稿するイギリスの文芸評論家。ヨーロッパ現代史をテーマとする優れた歴史ノンフィクションを多数刊行。『ドレスデン爆撃1945:空襲の廃墟から都市の再生まで』(白水社)など、第二次世界大戦を日常史的視点から描く著作が高く評価されている
監訳
清水雅大 帝京大学経済学部准教授。専門は国際関係史、日独関係史。
主要業績:『文化の枢軸』(単著、九州大学出版会、2018年)、『極東ナチス人物列伝』(共著、作品社、2021年)。
翻訳:D・ヘディンガー『枢軸』(監訳、人文書院、2025年)、F・テイラー『一九三九年』(単訳、白水社、2022年)。
訳者
鈴木健雄 東京科学大学リベラルアーツ研究教育院講師。専門はドイツ現代史。
主要業績:『歴史のなかのラディカリズム』(共編著、彩流社、2021年)。
翻訳:T・キューネ/B・ツィーマン『軍事史とは何か』(共訳、原書房、2017年)
小野竜史 慶應義塾大学法学部専任講師。専門はドイツ現代史。
主要業績:“Wandel
der Haltung vom Bund der Deutschen Katholischen Jugend zur Bundeswehr,
Wehrpflicht und Militärseelsorgen in den 1950er- und 1960er Jahren“,
Militärseelsorge (61), 2024.
翻訳:R・フォンドラン『日独友好の橋を架けたドイツ人たち』(共訳、ユニオンプレス、2022年)
発行日 2026.4.10. 印刷 5.5. 発行
発行所 白水社
序 「すべての都市には歴史がある――しかしベルリンは多すぎる!」
ベルリンという都市の本質は、時に世界を魅了し、時に悪夢のようにつきまとう、その際立った二重性にある
権力者の治世は詳細に記録されるのが常だが、その一方で、彼らの行動やイデオロギーによって日常生活が揺さぶられ、ひっくり返された普通の人びとの経験には独特の厚みや深みがあり、道徳や人生の選択といったものについて、より多くのことを私たちに教えてくれる。こうした点は特にベルリンにおいて当てはまるだろう。市民が悪と隣り合わせで生きていたからこそ、その人生はひときわ特別な関心を引くものとなった。なぜこの地では、冷徹な残忍さを備えたファシズムと全体主義的な抑圧を伴う共産主義のイデオロギーが、これほどまでに開花したのだろうか。そして、1989年秋のあの特別な夜、全体主義的抑圧の最後の象徴だった壁崩壊に至るまでの間、それらはヨーロッパや西側世界の全体に対してどのような影響を及ぼし続けたのだろうか
このような意味において、ベルリンを理解せずして20世紀を理解することはできない。根本的なところでは、’45年の戦争終結間際に訪れたこの都市の崩壊に、あらゆる虚無的な恐怖―想像を絶する規模での無意味な大量死―が凝縮されている。だが、そのような瘴気に覆われていても、動き続けずにはいられないこの都市の精神を垣間見ることができる
1945年という暗黒時代の極点が我々に示すのは、たとえ厚い影に覆われていたとしても、この都市の真の魂を伝えてくれるベルリン市民の生と愛と夢は、なおも消え去ってはいなかった
第I部 崩壊
第1章
暗闇の生活
‘45年4月、ベルリン市民の多くは地下室やコンクリートの建物の奥深くで暮らしていた
市区全体が解体され、見知らぬ場所になっていた
電気と水は断続的にしか供給されなかったが、郊外にはいくつかの工場が動いていた
'40年秋のイギリス軍爆撃機による最初のベルリン空襲を機に、「帝国首都のためのブンカー(防空施設)建設計画」が始まるが、大部分はすでに破壊されていた
‘45年のベルリンは寒さが厳しく、霜で覆われた通りはまるで金属でできているように見えた。赤軍から逃れて西に向かう田舎からの避難民がごった返していた
死の収容所の詳細が報道され、ソ連人捕虜が野外で野ざらしにされ、凍てつく空の下概算で300万が故意に餓死させられていたことも判明
復讐の連鎖は凄まじい勢いで進んだ。それは1つには、4月初めに、連合国の間に緊張状態が生じていたからで、西側から来た英米軍は、最後のベルリン侵攻を目前にしていた
チャーチルは、ベルリンを占領すればナチの支配を終わらせることができると確信していたが、アメリカは長期にわたるヨーロッパへの介入を懸念し、この競争はソ連に譲るべきと主張し、競争から降りていた
ベルリンの3つあった高射砲塔は、1943年に強制労働によって建てられ、ユダヤ人から盗まれた大量の美術品や骨董品が隠されていた
4月にはヒトラーも地下12mの総統地下壕に移り住む
第2章
子どもたちの犠牲
ヒトラー・ユーゲントの歌や行進はすべて若者の殉教という建国神話が土台になっている
国民突撃隊は、1944年秋創設。当初は16歳から60歳のすべての民間人男性1200万の登録を目指したが、’45年4月には13歳から70歳に拡大
第3章
革命闘争
公共の場で裸体になる裸体主義がベルリン市民に広まったのは第1次大戦前
第1次大戦終結後、根無し草となった大量のユダヤ避難民が東ヨーロッパから流入
ベルリンには適切な難民庇護制度はなく、伝統的なユダヤ・コミュニティがあってベルリンの精神を形作る重要な要素だったが、声高に叫ばずとも反ユダヤ主義は確かに存在していたこともあり、難民の大量流入には戸惑い。さらに数か月後にはポーランドやガリツィアからの難民が流れ込み「風変わりでもの悲しいゲットー」を作って独自の社会を形成
白系ロシア人もレーニンの革命から逃れて流入。詩人で後に小説家となるナボコフもその中にいた
ベルリンは開放的でよそ者にも好意的な町。第1次大戦後早々に他国からの移住者を受け容れたことは、それ自体がこの都市の近代化の証
都市景観における大きな地殻変動は芸術家たちによってもたらされた。第1次大戦前から建築の美学を熱心に唱え、都市景観についてのあらゆる既成観念を覆そうとしていた
1909年ベーレンス設計のAEGタービン工場のように、そこで働く労働者の住宅よりも美しいものがいくつもあった。第1次大戦後は、建築が急速に文化闘争の舞台の1つとなり、ヒトラーも死ぬまでこれに憑りつかれた
ベルリンの人びとにとって、建築とはこの都市の精神を表現するものであり、公衆の焦りから来る絶え間ない神経の高ぶりを象徴
工業建築の枠を超えたのは、舞台演出家ラインハルトの構想でベルツィヒ設計の大劇場
最初に登場したのがミース・ファン・デア・ローエ。巨大なガラス張りの超高層タワーを提案して市民を魅了。市当局に却下されたが、100年後にはアメリカで花開く
ローエは清潔で明るい労働者用集合住宅をもたらし、「リング」と名乗る建築家グループを創設、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)という美的運動の一翼を担う
バウハウスの創設者であるグロピウスも魅力的なモダニズム様式を提案。芸術、デザイン、建築、工芸を革新的な総合美へと昇華させることを謳うが、政治的反応は冷ややかで、ナチスの台頭とともに弾圧が始まり、グロピウスもローエもアメリカに亡命
ナチスの首都改造に協力したのは、病的にナショナリスティックだったテッセノウで、「様式は民族から生まれる」との主張は、その後ナチスにより飽きずに繰り返される
その流れを継いだのがシュペーア。’30年代初めにはナチ党員になっていて、地区本部の改装を手掛け、バウハウスのモダンな原色を用いた壁紙などがゲッペルスの目に留まり、ヒトラーの親密なサークルに引き込まれる。理想都市ゲルマニア構想は2人だけのもの
かつてベルリンはまばゆいばかりの夜光を放つ都市で、夜の光とその巧みな操作は、ベルリンの魅力の不可欠な要素で、’19年のドイツ革命の直後から、ベルリンは豊かな光の都市として世界的な注目を集める。’22年には3原色のネオンが初めて登場。百貨店のショーウィンドウや、建物のライトアップも始まり、’30年代半ば、ドイツ空軍の拡張とそれに伴う防衛施設の増強により、対空サーチライトでベリルンの夜はさらなる光がもたらされる
第4章
流血と陶酔
「物事のいかがわしい面を判別する能力と辛辣なジョークは、常にベルリンの市民生活を特徴づける重要な要素だった」が、「だからこそ、ナチズムがベルリンでどうやって広まったのか、いまだに理解できない」
第1次大戦後、憎悪という感情が次第にベルリン市民の特性の1つになっていく。暴力が単なる縄張り争い以上に特別な何かを含んでいた。テロから政治的な暴力へ。共産主義とナチという、相互に妥協し得ない党派のせい
第5章
闇へと続く道
ナチスの目的はベルリンを「ユーデンフライ(ユダヤ人なし)」の都市にすることで、徐々に彼らの首を絞めていく
20世紀初頭にはユダヤ人人口が18万にまで増加したが、ベルリン社会の別の層には依然として根深い両義的な感覚が存在、その根底には非ユダヤ人の側から投げられた「帰属」-ユダヤ人は本当にこの社会の一員なのかーを巡る問いが常に横たわっていた。「同化」という概念は、ベルリンの歴史において繰り返し問題とされてきた。第1次大戦期に漸くユダヤ人の入隊が認められたが、塹壕戦で血を流した後でさえ、同化の問題が解消されることはないばかりか、ユダヤ人が兵士として戦ったことを否定する動きもあった
20世紀初頭においてもはや文化的要素は主要な指標ではなく、優生学への熱狂がヨーロッパ全体に広がり、「人種」こそが人間を特徴づける新たな指標とされた
'45年春にもまだわずかながらユダヤ人が残っていて、市民の中にも好意的な姿勢も存在
ハンナ・アーレントは、「ユダヤ知識人の自己欺瞞は、自分たちには「祖国」がないと思い込んでいたことである。実際には彼らの祖国はヨーロッパだったのに」と記す。彼女はハイデッガーの「人間は単なる主観的な観察者ではなく、自分を取り巻く世界から全く切り離せない存在である」という、実存主義と強烈なロマン主義が混在した思想に惹かれて恋に落ち、関係を持つがすぐに終わり、'33年にハイデッガーがヒトラー支持を表明したにもかかわらず、彼女は彼が自身に与えた思想的影響を否定することはなかった
アーレントは秘かに国家的反ユダヤ主義の実態を調査していたのを密告され、8日間身柄を拘束され尋問を受け、ナチズムの暴力を身をもって知り、釈放後すぐにフランスに亡命
1938年の水晶の夜を経て、1941年大量強制移送が始まる
ナチのユダヤ人に対する憎悪の核心部分には燃え盛るサディズムがはっきりと存在、それはユダヤ共同体に課された最も小さな制裁の中にさえ見て取ることができる。その1つがユダヤ人の映画館への出入り禁止。抑圧が厳しさを増す中で映画がいかに人々の心の慰めになるのかをナチ当局ははっきりと理解。さらには、かつて映画という新しいメディアをリードし、世界を魅了したのは、新興のハリウッドよりもむしろベルリンで、ユダヤ人がその芸術的構想に大きな役割を果たしてきたこと、この都市では映画というものが現実を形作り、歴史の流れを方向付ける力があることを彼らは理解していた
第6章
夢の投影
映画はその初期において、ベルリンという近代都市を特徴づけるメディアだった
‘20~’30年代初頭にかけて、ベルリンの街角とそこを行き交う人々の日常を捉えた社会リアリズムの記録映画が大流行
第1次大戦中にプロパガンダ映像を作るために多額の資金が流れ込んでいたが、戦後はこの投資が国際舞台におけるドイツの名誉回復の一助になることが期待された産業へと回される。'20年代末にウィーンから移り住んだ若いユダヤ系の脚本家ザムエル・ヴィルダー(後にアメリカに亡命してビリー・ワイルダーとして活躍)が手掛けた最初期の作品は、サイレント映画の最後の作品群。'45年には米軍大佐として母と祖母を殺されたベルリンに向かい、ドイツの観衆をもう一度惹きつけるために廃墟の街で何を撮るべきか考えていた
第7章
ウラン協会
第1次大戦直後に提唱された一般相対性理論により、ベルリンは一時期科学界の中心
'45年4月、かつてアインシュタインに触発された数人の科学者が、自分たちの研究の遺物を凝視し、驚くべき研究成果に目を通していた。グスタフ・ヘルツ博士もその1人。電子の研究でノーベル賞を受賞したが、祖父がユダヤ人だったため、研究所長を解任され、ジーメンスの研究所で原子爆弾の実現について考えていた。このような重要な科学的進歩の一端がアインシュタインの想像力と哲学から生まれたという事実を、ナチは決して認めようとはせず、'42年には原爆開発計画は完全に挫折
アインシュタインは、'33年ナチによる国会議事堂炎上事件を機にベルギーに向け出航し、「すべての市民が自由と寛容、法の下の平等を享受できる国でのみ生きたい」という
アインシュタインの公式に基づいて、連合国側よりも早く核分裂に行き着いたオーストリアのリーゼ・マイトナーとオットー・ハーンも、'38年の併合を受けてオランダに出国
マンハッタン計画のようなプロジェクトが進行中であることを直感的に察知していたドイツの物理学者たちは、自分たちの都市がいつか復讐に燃える連合国によって、地上から消し去られるかもしれないということを知っていた
原爆の代わりにナチスが開発したのはV2ロケット。開発した若き天才ヴェルナー・フォン・ブラウンは、戦争末期ナチ政権の崩壊を予期し、アメリカに投降。過去12年間の経歴と強制労働を通じた大量虐殺との直接的な結びつきは都合よく隠蔽され、’69年に人類を月面に着陸させることに成功したNASAのロケット研究のパイオニアとして世界的な名声を博する。一方、アルデンヌ等4人の科学者は、アメリカと同様ソ連も核兵器開発に取り組んでいるはずだと考え、誰かが赤軍に拘束された場合は一緒に投降しようと考えていた
第8章
肉体の予言
ベルリンの若者たちは、ナチのジャズ禁止令に逆らって、戦時中であっても麻薬中毒のようにジャズを渇望。ナチは音楽の持つ力を本能的には理解していたが、その力をどのように利用すれば自分たちに有利に働くかについては、あまり確信を持っていなかった
20世紀最大の風刺画家といわれるジョージ・グロスは、ベルリンが持つ計り知れないほど大きな退廃への欲求、異常なまでの性的エネルギーを理解、この都市の無意識の奥底に潜む、より倒錯的で暴力的な一面にも魅せられ、ヴァイマル期の芸術は「許しがたい逸脱」として、ナチからも「文化ボルシェヴィスト第1号」と呼ばれ嫌悪の対象だった。’33年ニューヨークに亡命。ドイツ国内各地の強制収容所で起きていることを芸術で表現した最初の人物。彼の芸術的出発点は、第1次大戦従軍でのPTSDと性への激しい執着。戦後もベルリンに戻って瓦礫の山の中でスケッチを描くことになる。ナチズムの最初期に見られた組織内部におけるホモ・エロティシズムや超男性主義の文化にも着目
第9章
宮殿の跡
最後の皇帝ヴィルヘルム2世は、第1次大戦の終結とともに所領のあったオランダに亡命
皇太子ウィルヘルム妻のツェツィーリエはポツダムなどで時代錯誤の生活を続ける
貴族の多くは脆弱な立場に置かれ、多くはナチ政権の大物に取り入ろうと努め貴族の子弟の多くは軍務に服し、ヒトラー暗殺計画も貴族の多くが知っていたという
シュタウフェンベルクも含め貴族たちは、ユダヤ人に対して矛盾した偏見を抱いていた
ナチと名門貴族の関係には、双方の側に常に両義的な側面があった。名門貴族の特質の1つである、国境を越えて移動する「根無し草のコスモポリタン」は、反ユダヤ主義の主な要素でもあり、ヴァイマル憲法の創設原理の1つがすべての世襲称号の廃止だった
階級間の緊張関係は、常にベルリンのライトモチーフ。’20~’30年代初頭にかけての階級格差から来る目に見える不平等は、戦争によって一時的に薄れはしたが、忘れ去られたわけではなく、’45年になっても旧来の華やかな生活の名残をとどめていた
ホーエンツォレルン家でも、’41年前皇帝が死去して、家督を継いだ皇太子はまだ復位を夢に見ていた。皇太子は’23年亡命先から帰国し、'26年にはヒトラーを保守主義者と勘違いして接近、ヒトラーの政権掌握時にはハーケンクロイツの腕章までつけて君主制復活に淡い期待を抱いたが、「パレード用の馬」以上の存在にはなり得なかった
長男のヴィルヘルム王子が’40年フランス戦線で戦死、一族の壮大な財産を収蔵していたモンビジュー宮殿も連合国の爆撃で廃墟、最後に残った居城のオールス城にも赤軍が迫る
最後の首相パーペンも貴族で、冷徹な軍国主義者。世界恐慌による経済危機から政権が崩壊すると、保守派の結集で乗り切ろうとヒトラーに毒杯を渡したつもりでいたが、ヒトラーの暴力的な粛清の標的となって丸裸にされ、駐墺大使となって独墺併合の条件作りに奔走
その後トルコ大使になって、アメリカ側に戦後構想を持ち掛けたこともあったが、最後はベルリンに戻ってドイツ西端の自家領に隠居することを許された
第II部 ネクロポリス(死者の町)
第10章
明けない夜
‘45年4月、ベルリンの住民たちはただ生きることを目標に日々を送っていたが、まだUバーンは走り、地下鉄も軍事目的専用だったが運行。均衡にはまだ空襲で灰燼に帰していない映画館で上映は続いていた。東部からの避難民の流入は途切れることなく続いた
ベートーヴェン・ホールのコンサート会場からは、軍需相シュペーアがナチ指導部のために依頼した演奏会のためのリハーサルが行われていた。演奏家はバイロイトに移る機会を与えられていたがベルリンに留まることを選んでいた。シュペーアの選曲は《神々の黄昏》と存命中のドイツ人作曲家の中で最も偉大なリヒャルト・シュトラウスの《死と変容》
演奏会の途中でヒトラーユーゲントの少年たちが青酸カリのカプセルの籠をもって聴衆の間を歩いたという。その夜、シュペーアが総統地下室に戻ると、総統が多幸感で満たされているのを見た。勝利を確実にする奇跡を手に入れた。ルーズベルトの死だった
第11章
叫び声を上げる空
ベルリン防衛軍として結成されたヴァイクセル軍集団は、各地の戦場で戦ってきた軍隊が集まって構成され、稀代のリアリスト、ハインリツィ将軍が率いる。赤軍の侵攻を食い止める為に市内のすべての橋を爆破するという案には反対、少しでも無傷で残して民間人が逃げ出すチャンスを増やしたいと思っていた
赤軍側にも22日のレーニンの誕生日までに首都を落とすとのプレッシャーがかかる
国防軍と親衛隊は敵軍が押し寄せるのを阻止する役目を負いながら、それに失敗、男たちに裏切られたベルリンの女たちは自ら武装して身を守ることを始める
職場ではすでに'30年代から女性の存在感が絶えず増大し続け、’40年代にはベルリンの多くの女性が、工場の集中生産ラインで高度な機械の動きを管理していた
ベルリンの門を挟んだ赤軍と国防軍の戦いは、緒戦こそ湿地と泥沼の地形の利を得た国防軍が押し返したが、ハインリツィ将軍もそれ以上は難しいことを悟っていた
第12章
すべての母たちの涙
'45.4.20.ヒトラーの誕生日に赤軍は北部郊外から雪崩を打って首都に突入
ナチが掠奪した1350点もの貴重な美術品はゲーリングが同地の狩猟小屋に隠匿し、秘かに運び出され、狩猟小屋は梱包の間に合わなかった美術品とともに爆破された
追撃砲の射程圏外にいたベルリンの西部と南西部の市民たちは、総統の誕生日を記念して、その週の配給が少し増量され、地下室から灰色の世界に出てきた疲れ果てた母親たちは配給の列に並ぶ
新聞はまだ発行を続けていた新聞の内容を信じていたからというわけではなく、当局の不気味な沈黙に比べれば、何らかのニュースがあるだけマシだった
破滅の危機を前にただ手をこまねいていることに耐えられず、もっと積極的な役割を果たそうとする女性たちもいた。簡単な射撃テストのあと国防軍に入隊が認められた
第13章
血に染まる街
市内に侵入してきたソ連兵は、数年前には考えもしなかったような獲物を目前にして、アドレナリンと歓喜の感情が急速に血管を駆け巡るのを感じていた
インフラの途絶した市内では、情報もなく理性的な判断をすることは困難
4月25日にはエルベ川で米軍とソ連軍が合流
150万を越える赤軍は、容赦なく町を破壊
ソ連の目的は、ベルリンの南西部の邸宅の一角にある核兵器の基本構成物となるウラン酸化物の押収だった。核物理学の実験拠点とその設備の大部分は既に移送を終えていたが、ウラン酸化物3トンと250㎏の金属ウランと20リットルの重水がナチ政権が軽率にも見逃したため残存していた。何人かの優秀な科学者も残っていた
アルデンヌ等4人の科学者(第7章参照)はソ連の核開発に協力したのち、いずれもドイツに戻り、彼らの活躍は核物理学から癌治療にまで広がる
ソ連兵が町に侵入すると、ドイツ軍の残存兵によるゲリラ攻撃が展開され、市民はソ連兵による家宅捜索に晒される
レイプは荒廃した都市における経済構造の一部となり、消費財を手に入れる手段の1つにもなっていた。市内には約140万の女性がいたがうちレイプは50万に上ると推定。市内の中絶数は戦後数週間で数千件を超え、中絶を禁止する法律は一時的に停止。暴力や恐怖以上に、女性たちの置かれた厳しい経済状況も中絶の理由として上げられたが、さらに人種差別の深い爪痕も残されていた。強姦した男はモンゴル系かアジア系だと証言
第14章
破滅
青酸カリの入ったカプセルを持ち歩く人々もいた。致死量の毒物も売られていたし、ゲッペルスはラジオ放送でも盛んに「自己犠牲」という言葉を口にしていた
自殺と自己犠牲というのは、18世紀後半ゲーテが自殺を理性を超えた苦しみの結果として描いたのが幕開けに繋がったドイツ・ロマン主義的なモチーフの再来でもあった
ただ、青酸カリも激しい窒息と呼吸困難を引き起こし、体は激しく痙攣し、意識を保ったまま呼吸を求めてもがき苦しむ、肺と心臓が締め付けられ、耐え難い心停止を引き起こし、拷問のような激痛の中で2~5分もの間苦しむことになるので、安楽な死とはいかない
4月30日前後で自殺が相次いだ背景には、ゲッペルスの言葉のほかにもレイプや赤軍に捕まる恐怖があり、自殺の方法はまちまち
赤軍が国会議事堂北方のモルトケ橋を渡り始め、逃げ場を失った国防軍との間で激しい攻防戦が展開される
‘33年に国会でナチに抗議する最後の演説をした共産党官僚ウルブリヒトも赤軍の中にいて最後の瞬間を待ちわびていた。亡命しドイツ国籍を剥奪され、ヨーロッパ各地を転々とした後モスクワに落ち着き、スターリンの粛清を奇跡的に生き延びる。ドイツ兵捕虜を赤化しようとしたが嘲笑され、戦争終結が近づくにつれ権力を掌握してモスクワの指導部の下に維持しようと考え、ドイツへの帰還準備を進める。ウルブリヒトがまだ生き残っている社会民主党員も巻き込んだ指導部を作ろうとしたのに対し、ソ連軍司令官ベルザーリン将軍は文化と文明を柱として市の再建を急ぐべくインフラの復旧を指示
元皇太子ヴィルヘルムと妻のツェツイーリエはバイエルンのホーエンツォレルン城で再会
第15章
「心に落ちた影」
党の大物たちが次々に市内から脱出を図る
ゲッペルスは、総統の遺言によって首相に任命されていたが、マクダは子供たちとともに死を選び、共に自殺
ヒトラーの自決は、「自己犠牲」として市民に伝えられる
5月2日、防衛軍司令官ヴァイトリングは、降伏文書を起草し署名したが、海軍元帥のデーニッツが突然権力掌握を宣言
ベルリンは容赦なく数世紀前の世界に引き戻されたが、驚くべきことに、当時の記録の多くはこうした凄惨な光景に対して沈黙したままであるか、または無批判に受け入れていた
だが、それに伴って、その後長きにわたってこの時の経験がトラウマ化した
ソ連側には、ベルリン市民に対して新たな言語を押し付けて、それによって疎外感を感じさせる意図はなかったし、共産主義に対する抵抗感をむやみに高めずに、ベルリン市民を彼らが掲げる思想へと誘い込もうとしていた
ベルリン市民にとっても、言語を巡る政治的な駆け引きは目新しいものではなく、’33年以降、共産主義者と同様の厳しさで公的な言論を取り締まる体制の下で暮らしてきた
死と自殺が蔓延する状況の中で、日々飢えに苦しみ、ますます混迷していた市民を前に、ソ連の文化委員会はすでに行動を開始、ドイツの教化を目的としたロシア映画上映の準備が進められ、ナチの反ユダヤ主義を正面から描いた《マムロック教授》を上映。さらに、数日後にはベルリンに戻ったフルトヴェングラーがメンデルスゾーンの演奏を指揮した
第III部 占領
第16章
共犯者
1918年の敗戦後、戦勝国の人々はドイツ国民全体が単独で戦争責任を負っているかのように、彼らを冷淡に突き放したが、今やベルリン市民はその怒りの波が再び自分たちに襲いかかってくるだろう予期。亡命していたトーマス・マンはラジオで反ヒトラーの熱弁を振るっていたが、アメリカの議会図書館でナチ犯罪とドイツの内に宿る邪悪さをテーマとする講演を行い、邪悪の根源はルターにまで遡り、ゲーテはドイツ・ロマン主義が孕む不吉な可能性を感じ取っていたと論じた。「悪しきドイツと善きドイツの2つのドイツがあるのではなく、ただ1つのドイツがあるにすぎず、ドイツは悪魔の如き狡知をもって自らの内に宿る最善のものを邪悪へと変じさせてしまった」と言い放つ
ベルリン市民も、誰1人マンの講演を聞いていなかったが、自分たちは告発を受けるだろうと予期。非難と侮蔑が混ざり合った一連のサイクルが再び始まるだろうと感じていた
たとえ自分が個人としては何の罪もないと思っていたとしても、彼らはナチスに加担した共犯者で、'38年の「帝国水晶の夜」のユダヤ人に向けられた激しい敵意を知らなかったなどと主張できるベルリン市民は1人もいなかった
後にハンナ・アーレントは、誰も個人として罪を引き受ける必要がないことを「集団的罪」、ドイツ社会が全体として彼らの名において犯された所業を自らのものと認めなければならないことを「集団的責任」として区別することを提示したが、当時は現実味がなかった
第1次大戦後と異なり、今回は占領軍がいて、怖れと同時に安定をもたらしていた
‘45年初夏のベルリンにはまだ英米仏軍の姿はなく、ソ連の手中にあり、富の略奪が貪欲に進められると同時に、ナチ党員狩りも厳しく、残酷に行われた
ナチによって閉鎖されるまでベルリンの工業専門学校を運営していたヴェエルナーが市長に任命され、都市の再建に取り掛かる
ウルブリヒトは、反ファシズムの民主制の確立こそドイツにとって急務だとし、抵抗を抑え込めるだけの力を備えた新たな権力の枠組みを構築しつつあった
ソ連軍政部の当局者たちは、交通事故死したベルザーリンのあとも市民生活のエンジンの再始動に骨を折っていたが、差し迫る飢餓の大惨事は接収した食糧だけでは不十分
6月初旬には水道が復旧
「瓦礫の女たち」は、バケツを手に瓦礫の山に並び立つ女性で、低賃金で駆り出された
「菜園コミュニティ」は、郊外の市民菜園に移り住む人々で、貧民街のミニチュア版
ウルブリヒトは、自分たちが過去からのごく自然な連続性の上に立っていることをアピール。スパルタクス団員として1919年の蜂起に参加し、ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトに感化され、ベルリンの事情に精通
7月中旬、連合国の3人の指導者による最後の会談がポツダムの大公妃の居館だったツェツィーリエンホーフで行われる。アメリカはルーズベルトに変わってトルーマンが、イギリスも会談の最中にチャーチル内閣の副首相で労働党のアトリーに交替、スターリンだけが連続性を体現していた
会談によって、ナチが併合した国や支配地域に移住していたドイツ人は追放されることになり、規律正しい手続きの下に行われるという期待とは裏腹に、無数の民間人にとって死刑宣告も同然だったことが後に判明。一方で、ナチの邪悪な所業に裁きを下さなければならないという決意は共通で、戦後の訴追のための枠組みが設定される
原爆投下の準備が整ったとの知らせが届いたのもこの会談の最中だが、スターリンはさして興味ない様子だったといい、どの国の代表団も原爆による攻撃が対日戦で起こり得る可能性に対し道徳的かどうかという点について、良心の迷いはほとんどなかったようだ
第17章
「故郷とはどこのことだったでしょうか?」
4か国に分割占領されたベルリンの生活が始まる
アメリカ占領区は市の南西部。情け容赦なく残った住宅を当局者用に接収。酒場も営業を開始したが、アメリカ軍専用だった
イギリス占領区は市の西部の郊外。ナチを炙り出すために市民を丹念にふるいにかけた
懺悔のように自分の罪を告白させるために、アンケート調査が行われた。新しく登場したパンチカード式コンピューターの技術を使って収集データから過去の履歴を辿ろうとしたが、処理すべき情報が膨大で演算装置がパンク
フランス占領区は市北西部の廃れた地区。年配の市民は仏軍の軍服を見て、’18年の屈辱が蘇る
アメリカ軍心理戦部門の大佐だったビリー・ワイルダーは、ハリウッドでのスピード出世と成功を一時中断し、自らの才能が培われた都市へと戻ってきた。ドイツに残った母と祖母の消息不明のまま、ベルリンの人びとに目を向け、彼らに人間性を取り戻させるにはどのような方法が一番相応しいかを考えた。かつて住んでいたベルリンに戻るべきかどうかという問いは、文字通り心を引き裂いた。亡命者たちの誰もが、自分の居場所が全く分からなくなっていた。「私たちは故郷に帰るべきなのか? その故郷とはどこのことか?」
ドイツ人を残虐行為に徹底的に向き合わせようとする方法は、心理学的に見れば逆効果になると考えたワイルダーは、恐ろしい話は必要最低限にして、ナチの所業と道徳的にどう向き合うかという指針を考えさせた
表面的にはある種の日常が戻ってきたように感じられる一方、それと並行して市内の到るところであからさまに闇市が開かれていた。少年犯罪も横行
冷戦という国際政治上の新たな対立構造が生まれつつある。最初の対立は、米ソが相互に抱く根本的な偏見、そして相手の意図を巡る双方の側での思い込みや憶測があった
ソ連がベルリンの政治のあり方をスターリニズムの型にはめようと試みたことで、警戒感が広がり始めていた。ソ連は社会民主党と共産党との合同を強制し、合同に反対する社会民主党員の多くが密かに連行された
特に重要だったのは、西側の占領者たちが、まばゆく刺激的で中毒性のある新しい大衆文化の波をもたらしたこと。ソ連側も低俗な文化に機敏に対応し、ベルリン市民のかつてのより真摯で品位ある文化的営みを取り戻させようとした
アメリカ当局は、想像を絶するほどの恐怖を生き抜いたユダヤ系の人々が支援を受けられるよう、可能な限り手を尽くした。英仏当局でも同様の政策が速やかに採用されるが、ユダヤ人にとってはベルリンに残るという選択肢はなく、あくまで通過点だった
第18章
孤島の人びと
壁による分断は、’46年の風刺画でもすでに予想されていたように、境界線の内側に暮らす人々は、同時に2つの異なる現実を生きることになる。まずは有刺鉄線が設置
アメリカは、インフレが急激に深刻化するのを防ぎ、あらゆる規模の企業が安定した経済活動を営むことを可能にすべく、ドイツ西部全域で通貨を刷新し、新しく生まれ変わらせる必要があるとして、ドイツマルクを創設し、ベルリンの西側にも導入したが、ソ連は新通貨を断じて認めず、ライヒスマルクに固執。ドイツマルクは着実に西側地域に定着し、ソ連地区にも静かに浸透し始めたため、ソ連はベルリン全体を手中に収めようと米英仏軍隊と当局者をまとめて力づくで追い出そうと企図
この時点でヨーロッパ大陸全体が地政学的な意味で決定的に再編され、そのままの境界線で固定されることになる。そのため西ベルリンへの輸送路は何百キロものソ連軍地域を通らなければならず、すぐにでも断ち切られようとしていた
ベルリンの飢餓封鎖に対し、空輸作戦が考えられたが、ほぼ不可能と考えられた
東西の区分は、単に偶然、自分の家のある側にいたに過ぎなかったことで決められた
‘48年7月以降、ナチスがベルリン南部に残した優雅で美しい遺産の1つ、テンペルホーフ空港を使用した「糧食作戦」が始まる。数秒間隔で様々な飛行機が行き交う光景は壮大なショー。ベルリン封鎖は、米ソ両大国が相互に抱いていた正真正銘の敵意と底なしの不信感の表れであり、背筋が凍るような暴露の瞬間であると同時に、アメリカの信条と行動原則がどれほど道徳的に優れているかを広く世界に知らしめるチャンスとなった
ソ連側からの西ベルリン市民に対する誘惑は、食糧供給に加え、芸術面でも拡大。ベルリンが生んだ最も偉大な劇作家ブレヒトが帰国、ソ連のために働くことを選び新作が上演
‘49年5月、漸くソ連が封鎖を解く。その直後に西側ではドイツ連邦共和国の樹立宣言
米英軍が駐留し基地が置かれる。世界の人びともベルリンの住民を何かしらナチとは違う存在と見做し始めた。東にドイツ民主共和国ができたのは’49年10月
市内の境界線の多くは引き続き目に見えないまま。著しく矛盾した状況下での暮らしは、多くの一般市民にとってますます危険に満ちたものとなった。そして、間もなくして東ドイツの人々がその悲惨な代償を支払うことになる。ベルリン封鎖によって引き起こされた神経症は、今や途切れることなく人々の心を蝕む不安症となりつつあった
第19章
「集まった大勢の人びとは、怒りの声を上げはじめました」
分断都市はどこもちぐはぐな感じ。Sバーンはソ連当局の管理下にあり、道路輸送でも東西間の緊張は高まり、いつ拘束されるか分からない危険に直面。境界線に近い場所にソ連軍による塹壕が築かれ兵士の詰所が出来ていく
東ドイツのウルブリヒトの統治スタイルはますます強硬なものとなり、民間企業が迫害の対象となり、地主は小作人から嫌がらせと攻撃を受けるようになる
急激なインフレと生産性の低下、物資の供給不足から、東ドイツ全域で抗議の波が広がり、政府庁舎の警備を突破するに至って、占領統治の崩壊を恐れたソ連軍は戒厳令を敷く
ソ連側は引き続きドイツ統一を望んでいたため、「ブルジョア」分子の存続さえ譲歩するほどだったが、西側では統一など考えず、今や中東欧のヨーロッパ諸国はソ連の衛星国となっており、共産主義がさらに西側諸国でも人々の心を掴むことはあり得るとして、東西ドイツの分断を維持するだけでなく、イデオロギーの境界線を明らかな形で見せつける方が得策だと思われた
第20章
広がりゆく亀裂
‘56年のハンガリー動乱を機に、ベルリンにはどこか今までとは違う雰囲気が漂い始める
ベルリンはスパイで溢れる、活発な諜報活動の中心地。CIAとMI6が450mのトンネルを掘ったのは’50年代半ばで、特殊な通信傍受装置により共産主義者たちの電話を傍受
東ドイツが。病的といってもいいほど西側を恐れる理由の1つが、アメリカからやってきた若者文化の強力な感染力。ロックンロールの登場は、極めて進歩的な人々の間ですら、人種主義的な意味でも脅威と思われた。反ユダヤ主義以外の人種偏見も根強かった
西側でも新たな脅威が迫っていた。新しいポップカルチャーは何らかの形で「ハルプシュタルケ」(ツッパリ)と呼ばれた労働者階級の不良少年たちの向こう見ずな攻撃性に火をつけ、油を注いでいるように思われた
‘60年までに20万が西側に亡命。特に高度なスキルを持つ専門職や「知的職業の人々」が日増しに社会主義に基づく団結のビジョンを捨て去ったのは東にとっては経済面での打撃となっただけでなく、社会主義など信じるに値しないという暗黙の宣言の影響が大きかった
東西間の亀裂は日が経つにつれますます深まる。東から西への移動が異常な行動とみなされるようになる。’49年の分断以降西への亡命者は300万に上る
西欧諸国の間で新しい共同市場が設立され、経済力の新たな中心としてヨーロッパ大陸の全体を惹きつけ始めたのも、東側陣営に立ち込める危機感と不安感の大きな原因となった
‘61年8月、ベルリンの東西は封鎖され、壁の建設が始まる。13年前のソ連軍による境界封鎖もやがて解除された記憶がまだ人々の心に強く残っており、それに続く事態を真剣に想定する者は少なかったが、43㎞に及ぶコンクリートの壁は徐々に実体化。さらに西ベルリンを囲む残りの境界線には146㎞もの長い壁が建てられた。市中心部のいくつかの区間では遂になった2枚の壁が並行して建てられ、二重になっている区間は「死のゾーン」と呼ばれ不気味な虚無の空間
第21章
ここではないところにある、もう一つの世界
西ベルリン市民は孤島の要塞で、周囲の世界から隔絶した資本主義的な生活を営む特異な存在となったが、壁の無慈悲で厳めしい外観のために、すぐに世界中が神経戦の様相を帯びつつあった東西冷戦の境界線としてのベルリンの壁の重要性を認めるようになった
境界線が集合住宅の真ん中を通るために出入り口や窓などが完全封鎖されたのを機に、住民の間に逃亡という考えが伝染病のように広まる。以降いくつもの逃亡事例が輩出
‘50年代と’60年代のベルリンでは、東西どちらの側においても、性的志向性の問題に関するかつての先進的な態度の名残が感じられ、’68年には東ドイツで同性愛が非犯罪化され、翌年には西でも同様に
冷戦下の東西外交においても空気が変わりつつあった。国交正常化の動きやデタントと呼ばれる米ソの歩み寄りにより、緊張緩和の機運が生まれつつあり、'70年代初頭には壁の両側に住む家族同士が電話で話せるようになった
‘71年ウルブリヒトが辞任を強いられ、ホーネッカーに代わる。生え抜きの党官僚(政治局員)だったが、独自の主権国家としての正統性が国際的に承認されることを強く望み、そのために西からの日帰り訪問も可能になって、’73年には国連加盟を実現
‘70年代のベルリンの壁は、ヨーロッパ全体の地政学的構造の要となっていた
‘85年、ゴルバチョフが登場、硬直して崩れかけ、ますます破綻に向かって突き進みつつある自国の体制の現状に現実的な判断を下すことになり、東ベルリンの政府は時代錯誤の抑圧的な権威主義体制として、全体的な時代の趨勢から取り残され、グラスノスチなどの自由主義的改革と益々衝突するようになる
'80年代後半になっても、自国から逃亡しようとする東ベルリン市民は命を奪われ続けた
最後の犠牲者は’88年の終り頃、気球で越えようとして失敗
‘89年11月9日ベルリンで最後の革命が起きる。東西ベルリンが1つになった
あとがき
壁の一部は記念碑として保存され、厳粛な雰囲気を醸し出す。未解体の壁の区間もある
現在のベルリンはいわばパリンプセスト(書いたものを消して別のものを書けるようにした羊皮紙)のようでもある。’45年と’89年の2度にわたって、あまりにも多くのことが消し去られたこの都市は、残されたもの―煉瓦や石には歴史の断片が刻まれている―を保存しようとする本能のようなものがあるのだろう
ベルリンという都市には、時に意外なものも含め、他にも過去との連続性が見出される。18世紀に建てられた、かつては王宮だった壮麗なベルリン宮殿の再建と復興が、批判を受けながらも進められ、それがソ連軍によって没収されたホーエンツォレルン家の美術品や財産の返還に繋がる
結局のところ、ベルリンは決して真の意味でヒトラーの都市ではなかったし、スターリンの都市でもなかった。独裁者たちがどれほど熱心に自らの歴史観をこの町の人びとや通りに刻み込もうとしても、ベルリンはその核心部分では頑なに変わることはなかった
訳者あとがき
「ベルリンを理解せずして20世紀を理解することは出来ない」と著者はいうが、1つの都市を「理解する」とはどのような営みだろうか、どうすればそれが可能だろうか。著者は多彩な切り口から力強い叙述を通じて、そのための多くのヒントを示してくれる
ドイツの敗戦に伴う徹底的な破壊と凄まじい暴力に晒された人々の経験が本書の叙述の中心
第I部「崩壊」では、’45年に至るまでのベルリンが辿った歴史的過程、とりわけヴァイマル期以来の多様な文化的背景が考察される
第II部「ネクトポリス」では、ベルリンの攻防戦における途方もない暴力と、政府や軍の指導者のみならず、様々な立場にあった一般市民の生と死がクローズアップされる
第III部「占領」では、敗戦後のソ連及び西側連合国による支配と、冷戦の対立構造の中で翻弄されるベルリン市民の生活の様子が時系列的に描かれる
本書の最も重要な特長は、戦争末期の破壊と暴力を叙述の中心としつつも、その経験を前後の時代に結びつけ、ベルリンの20世紀史のなかに位置づけようと試みている点。そのための方法として、それぞれの時代のベルリンを生き抜いた人々の経験を、世代、ジェンダー、居住地域、職業、社会階層を横断し往還する形で、幾層にも重ね合わせている点
こうした観点から描き出されたベルリンの連続性と独自性が、「固定的な時代区分のプリズム」を貫く通奏低音として強く意識されている
著者の言うベルリンの「真の精神」なるものが果たして存在するのかどうかは分からないし、少なくともそれを実証することは困難だろうが、それでも長期的な視点から市民の多様な経験と感覚を重ね合わせ、その総体として都市の特徴を考察することはできるかもしれない。本書はこのような意味で都市の経験史といえるだろう
白水社 ホームページ
ヴァイマル時代から第二次大戦と敗戦、占領と冷戦まで、ベルリン市民の生活の息づかいが聞こえるように綴る、傑作ノンフィクション!
内容説明
ベルリンを理解せずして20世紀を理解することはできない
ヴァイマル時代から第二次世界大戦と敗戦、占領と冷戦、壁の崩壊まで、ベルリン市民の生活の息づかいが聞こえるように綴る、傑作ノンフィクション!
「1945年のベルリン陥落は、まさに歴史のなかに立つ灯台のような瞬間の一つである。その灯りは回転し、過去と未来を鋭く照らし出す」。本書はドイツ敗戦に伴う徹底的な破壊と凄まじい暴力にさらされた人びとの経験が叙述の中心である。しかし「機知に富むベルリン市民は、決して戦争の悪夢によってのみ規定される存在ではない。いま改めて彼らの生活と歴史を探求するならば、彼らの物語がベルリンの卓越した文化的背景を包含していることを認めなければならないだろう」。それぞれの時代のベルリンを生き抜いた人びとの経験を、世代、ジェンダー、居住地域、職業、社会階層を横断し往還しながら、臨場感溢れる筆致で描き出す。
著者はヨーロッパ現代史をテーマとする優れた歴史ノンフィクションを多数刊行している英国の評論家。『ドレスデン爆撃1945:空襲の廃墟から都市の再生まで』(白水社)など、第二次世界大戦を日常史から描く著作が高く評価されている。口絵写真24頁収録。
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