世界最高の辞典を作った名もなき人びと  Sarah Ogilvie  2026.4.19.

2026.4.19.  世界最高の辞典を作った名もなき人びと

The Dictionary People:

 The Unsung Heroes Who Created the Oxford English Dictionary  2023

 

著者 Sarah Ogilvie 言語学者、辞書編纂者。オーストラリア出身。オックスフォード大学言語学・文献学・音声学部教授、同大学キャンピオン・ホール上級研究員。コンピューターサイエンスと数学を学んだ後、オックスフォード大学で言語学の博士号を取得。『オックスフォード英語大辞典』(OED)の編纂に携わったのち、オックスフォード大学で言語、辞書、テクノロジーに関する講義を行っている。辞書編纂者としては、オーストラリアのオックスフォード辞典編集部で編集長も務めた。またテクノロジー分野では、シリコンバレーのAmazonの研究開発部門「Lab126」に勤務し、Kindleの開発に携わった

 

訳者 塩原通緒 翻訳家。立教大学文学部英米文学科卒業

 

発行日           2025.9,20. 初版印刷         9.25. 初版発行

発行所           早川書房

 

 

21-03 博士と狂人』参照

23-05 小さなことばたちの辞書』参照

 

 

序 ディクショナリ・ピープルの発見

2015年、OEDの編纂の仕事から、アメリカでの新しい職に就くためにビザが下りるまでの間出版局の辞典の記録保管所にいた

OED3人の男性から始まる。ウェストミンスター寺院首席司祭のリチャード・シュネヴィクス・トレンチ(180786)が、文学研究者に転進した2人の元弁護士ハーバート・コールリッジ(183061)とフレデリック・ファーニヴァル(18251910)とともに、新しい辞書の編纂を提案、それが言語を記述した最初の辞書となった

1879年、ロンドンの学校で校長をしていたジェイムズ・オーガスタス・ヘンリー・マリー(18371915)が編纂を引き継ぐが、編纂は1858192870年間に無数の一般協力者を巻き込んで進められた巨大なクラウドソーシング・プロジェクトで、人々はそれぞれ手持ちの本を読み、特定の単語がその本でどう使われているかの用例を辞典編纂室に郵送

世界中の協力者が歴史的辞書編纂法の科学的原則を厳密に守り、各単語の最初の用例を見つけて報告した

何人かの協力者の名前は、発行された各分冊での言及から判明しているが、全貌は不詳

「一律1ペニー郵便制度」と蒸気動力の誕生(それによる印刷機の普及、鉄道輸送の開始、海上横断の高速化)が、本を読んで辞書編纂に貢献するというシステムを成功に導く

現在OEDは第3版を準備中。今でも一般の人々からの協力を募っている

記録保管所には、マリーの住所録があり、貢献してくれた人すべての名前と住所、読んだ本の書名、情報を書いたスリップの数、受け取った日付などが刻まれている。その数の多さに驚く。この人たちこそ「ディクショナリ・ピープル」で、約3000人に上る

6冊の住所録から、ディクショナリ・ピープルと彼らが読んだ数万冊の本のデータセットを作成。協力者は、専門家より独学者や素人、特に女性が多く、無報酬にも拘わらず、新しい辞書への熱意があり、自分の言語を記録に残したいという燃えるような願望があった

協力者を追跡してみると、社会の周縁にいる人が多かった。マリーですらオックスフォードのエスタブリッシュメントの一員でないという意味では異端。スコットランド出身の非国教徒で、14歳で学校を辞めていた。英語の専門家ではあったが、周縁に属する

OEDはそういう学術界の端にいる人や、自分がはじかれている知的な世界にどうにか属したいと切望している人を惹きつけるプロジェクトだった

OED編纂事業はある意味で、英語という言語のため、そして白人の知的情熱のためになされた世界支配の試みだったと言える。英語に入ってきた単語を全て収録しようとしたマリーの取り組みは、植民地主義的だと見做せるかもしれないし、アフリカの土着民の言語や有色人種の言語に由来する単語が取り込まれているという批判もあった

写字室の写真には5人しか映っていないが、ボランティアが送った何万枚もの単語スリップが仕切り棚から顔を出して、多くの協力者の存在を想像させる

本書は、学問が専門化の一途を辿っていた時代に学術界のエリートと肩を並べて共同作業にあたったアマチュアたちの物語であり、女性が大学に入るのを許さなかった時代に一大知的事業に寄与を果たした女性たちの物語であり、まさに「イギリス的」なものと誰もが思う辞書に貢献した何百人ものアメリカ人の物語であり、綿密で正確な仕事を精神病院から提供した少なからぬ数の「狂人」の物語であり、ガス灯の下で一緒に本を読んで用例を送った家族の物語。忘れられ、認められていないディクショナリ・ピープルを掘り起こす物語

 

A for ARCHAEOLOGIST(考古学者)

マーガレット・アリス・マリー(18631963)。考古学者として認められたのは1924年、61歳の時。インドにいたマリーは、16歳でジェームズ・マリーの呼びかけを新聞広告で見て、10世紀の宗教本を読み300枚のスリップを作成。さらに1665年の『東インド旅行記』の翻訳版から600枚のスリップを作成。Spicererは香辛料や薬の性質に精通した人を意味する単語だが、彼女が送った引用文にしか用例がない

彼女の将来の師となる考古学者のヲリアム・マシュー・フリンダーズ・ピートリーもマーガレットと同じことをしていた。彼の閲覧傾向は、ジョン・ラスキンの著作など。2人の篤志家の道が交わるのは1894年のこと

男性ばかりの職業エジプト学者の世界で、様々な困難にぶつかりながらも、マーガレットはなんとか自分の道を切り開き、エジプト学の研究のみならず、画期的な魔女研究の著作でも知られる。彼女は7年にわたって5000枚のスリップ送り届けただけでなく、没後の1970年代には彼女の著作の中からいくつも見出し語が引用された

 

B for BEST CONTRIBUTOR(一番の貢献者)

最も多くスリップを送ったのはトマス・オースティン・ジュニア(1835?)10年間で16.5万枚。謎の人物だが、初めのころ写字室に来てマリー博士に付きまとっていた。無報酬に怒りを爆発させ、一時精神病院にも収容

 

C for CANNIBAL(人食い人)

軍医で北極探検家のサー・ジョン・リチャードソン(17871865)。娘とともに、初期のファーニヴァルからの依頼に応えた147名の協力者となる

英国海兵隊の軍医として北米に渡り、カナダ北極圏を横断する北西航路開拓のジョン・フランクリンの悪名高い探検隊に、軍医兼博物学者として参加するが、航路が見つけられないまま多大な犠牲を強いられ、先住民に助けられるが、先住民が仲間の死体を食べさせてくれていたことに気づく。1822年にイギリスに帰還するとカニバリズムの噂が広まって大論争に発展するが、最終的には世界最大の病院だったハンプシャー州の王立ハスラー病院の主任医官になり、精神障碍者への人道的な治療をいち早く実施。ナイチンゲールとも親しい友人関係にあり、清潔さ維持、新鮮な空気など基礎的な看護術の普及に努めた

フランクリンはその後の2度の航海でも航路は発見できず全員遭難。リチャードソンは元の仲間の捜索に友人の外科医と出掛け、人間の遺体の一部は回収したものの、鍋に残る人骨からカニバリズムに頼らざるを得なかったことは明白。その後リチャードソンは1846年ナイト爵に叙せられ、探検隊の艦船も2014年イヌイットによって発見された。リチャードソンのフランクリン捜索の話は1852年に出版され、OEDのために閲読され引用

Beaver(齧歯目の動物)ParkerPrairie Plateauなども彼の本が初出となっている

リチャードソンのOEDへの貢献は、1858年から亡くなる'65年まで続く

 

D for DICTIONARY WORD NERDS(辞典収録語マニア)

アレクザンダー・ジョン・エリス(181490)は音韻論の王立協会会員で、1883OEDの最初の部(AAnt)の校正をマリーから頼まれる。序文には協力者としての名が記載されている。エリスが情熱を傾けた発音と音楽と数学の見地からの助言は貴重

マリーは網羅的な辞書と書いたが、俗語はまだしも、卑猥な語は割愛したため、網羅的の代わりに「現在一般的に使われている英単語の語義と起源と歴史」との表現に変更

若くして財産を相続したエリスは、言語学などに没頭、英語音韻論の世界的権威となり言語音研究という分野の先駆者の地位を確立。専門分野で必要な語彙を数多く発明

電話の発明者ベルの父親が、エリスの発音絡みの著作の参考になるとして、OED編纂に関わる以前のマリーを紹介したのが2人の出会い。エリスはマリーの師となり、ロンドン言語学協会の会員に推挙、同僚のファーニヴァルとともにOED編纂に関わっていた

ディクショナリ・ピープルのデータベースにグラフ理論とネットワーク分析を適用すると、ボランティアの人々を互いにつなぎ合わせたり、自らが影響力のある人物に繋がっていることに関して、エリスほど際立って力のある人はいなかったことがわかる

エリスがいなければ、マリーが編纂主幹になることはなく、エリスの勧めがなければ多くの人はOEDボランティアにはならなかっただろう

ディクショナリ・ピープルの間で最も影響力の強かった団体は初期英語文献協会

 

E for EUROPEANS(ヨーロッパ人)

OEDの先達となったのがグリム兄弟の『独語辞典』。編纂が始まったのは1838年でOEDより前だが、Gの前で兄弟が亡くなったため完成に100年かかり、OEDのあとになった

OEDの編纂者たちが、様々な面でグリム兄弟のやり方を「借用」

ドイツ語以外にも主要言語での辞典の編纂はOEDに先行、外形的な規模のみならず、内容を支える学識の深さにおいても上をいっていた。大陸では19世紀初頭には語彙や言語そのものを研究する「文献学」が大流行。異なる言語を比較した「大陸文献学」に発展

ヨーロッパ在住のディクショナリ・ピープルは56人。数は少ないが教養も学識も高く、閲読者よりも専門家が多い

編纂補佐を任されたボランティアの1人はオランダ人男性のカラント、アルファベット12文字分を担当。最も献身的といわれたが、奥方はOEDのことを「あのひどい辞書」という

最も多く用例を集めた閲読者はウィーン大教授ヘルヴィッヒ、全世界でも5番目の貢献者

ヨーロッパの協力者たちの多くが持っていた学識は、OEDが厳密さと一定水準という大事な要素を維持するのに役立ち、そのお陰でOEDは、12世紀から出版時点までの英語の決定的な記録であるという評判を確立できた。彼ら協力者はマリーにとって、その特性ゆえに、つながりを持っていると周囲にぜひとも知らしめたい、威信の源で、マリーに力を貸したヨーロッパ人の70%がOEDの序文で謝意を示されてる

 

F for FAMILIES(家族)

OEDの仕事に携わったのは、世界各地の多くの家族で、一緒に本を読み一緒にスリップを書き出していた。もちろんディクショナリ・ファミリーの模範はマリー家。マリーは使える人をすべて使い、駄賃を払った

 

G for GLOSSOTYPISTS(グロソタイピスト)

英語は読み書きが難しい言語として悪名高い。それは綴り方に変則が多すぎるから

熱狂的な綴り字改革運動が本格化したのは187080年代。エリスも'40年代から改革運動に没頭。考案した綴り字体系で最もうまくいったのがグロソタイプとパレオタイプの2つで、それらを精力的に広めようとしたのがディクショナリ・ピープルの中核的な人々

マリーがOEDの編纂に着手する前から、エリスとマリ-はグロソタイプで交信していた

英単語の綴りが過去数世紀の間に大きく変化したこと、出どころの様々な単語の寄せ集めが英語という言語を構築していることを知っていたからこその改革運動だった

グロソタイプとパレオタイプもOEDに引用され、さらに改革のいくつかは唐突に変更された綴りが早い段階でOEDに入ったため、一貫性維持の観点から全編纂者がOED全体を通じてその表音式の綴りを使い続けなければならなかった。Ax(axe)rime(rhyme:)

改革された綴り字をこれ以上OEDに含めないとしたマリーは決断したが、そのため改革派を支援していたカーネギーからは資金援助を拒絶されることに

 

H for HOPELESS CONTRIBUTORS(どうしようもない協力者)

マルクスの娘エレノアは、ファーニヴァルに雇われ大英博物館の閲覧室で働いていた

OEDのために144語をを拾い、マリーにその労賃を請求したが拒否され、その後は不詳

エレノアはその後作家としても翻訳家としても活躍。『ボヴァリー夫人』の英訳は有名。急進的な政治活動に関与、ユダヤ系労働者を擁護し、「社会主義フェミニズムの先駆者」として知られるようになったが、期待したほど影響を与えないことに気づかされ、最後は自死

21世紀に追加された見出し語ruffle(くしゃくしゃにするの意)は、彼女が英訳した『ボヴァリー夫人』からの用例が添えられている

エレノアはマリーの住所録には載っていない。もし載っていれば、「どうしようもない/駄目」とわきに書かれていただろう。頼んでも単語を送ってこない人や問題を起こす人や仕事を途中で放り出す人には、マリーはこうしたコメントを添えていた

本とスリップを送ったのに、何の反応もない人には、「ペテン師―本を盗んだ」と書き入れ

編纂補佐の中にもひどい人はいたが、編纂過程にも欠陥はあった。閲読者は「珍しい」と思った単語を選ぶように言われたが、基準は特になく閲読者の判断に任されたため、日常的な単語の用例が不足したり、同じ単語が同じような時代の文献から選ばれることが頻発

 

I for INVENTORS(発明家)

OEDの計画が承認された1858年のロンドンは、適切な下水設備がなく、鼻をつまむような臭い街だった。下水設備を発明したのもOEDの協力者だった。下水設備の開発に伴って関連の新しい語彙が多く生まれた。Sewage, sanitarayはその例

1870年代は、世界中の街路から排泄物が無事に除去され、新しいスポーツの人気が高まる。それがローンテニスで、その関連の単語がOEDに掲載

 

J for JUNKIE(ジャンキー: 薬物常習者)

ジャンキーという言葉は1923年までは存在せず、この章の主人公でOEDボランティアだったユースタス・ブライトは30年も前に亡くなっているが、マリーの元教え子で、薬物の中毒者になり、29歳で死去した人物を形容するのに最もふさわしい単語

1880年、まだ学生のブライトが師の求めに応じてOEDのための用例文を集めた。医者になって将来を嘱望されたが、早くから薬物を試す癖がついていた

マリーは絶対禁酒主義者でもあっただけに教え子の麻薬過剰摂取に衝撃を受けた

 

K for KLEPTOMANIAC(窃盗常習者)

ファーニヴァルから紹介された編纂助手のハーテージが、他の辞書の編纂と両股をかけたうえ、マリーの与えた本を盗んで、他の辞書のために使っていたことが発覚。才能を惜しんで罪は問わずに解雇。マリーは1901年にKLEPTOMANIA(盗癖)の見出し語を作成

 

L for LUNATICS(狂人)

マリーの上位4人の貢献者はいずれも精神病院と関係があった。1人は管理者として、残る3人は入院患者で、当時精神を病んでいた人はLUNATICと呼ばれた。この言葉は1871年の国勢調査の属性欄に、盲人、白痴と並べて追加され、元々は侮蔑的含意はなかった

1903OEDにも追加されたが、ディクショナリ・ピープルの場合、本人の狂気が彼らを異常なまでに辞典の仕事に駆り立てたのか、それとも、辞典の仕事が彼らを狂気に駆り立てたのか。マリーの忠実な編纂補佐にして閲読者のジョン・ドーマーも190735歳で精神病院に入院。若くしてOEDプロジェクトを知り、最初の1年で2000枚以上のスリップを送ってきた。マリーは早くから彼の才能を認め、編纂補佐に採用。各単語の微妙に異なる複数の意味を、膨大な量のスリップに書かれた用例から引き出す作業は、とてつもない集中を要するもので、長年従事していたドーマーは集中を妨害する物音に、命を狙われたと妄想を抱き銃で対応しようとして警察に逮捕され精神病院へ送致され、働き過ぎによる精神の異常と診断される。4か月の収容で正常に復したドーマーをマリーは再雇用するつもりでいたが、入院中にドーマーが持ち帰っていた編纂資料をすべてマリーが引き上げていたことを初めて知ったドーマーは、二度とOEDの仕事をすることはなかった

一番の貢献者だったトマス・オースティン(B参照)も一時期を施設で過ごし、過労と妄想と偏執病的な症状に悩まされた

2番目の貢献者はファーニヴァルの父のいとこの長男で、ウィリアム・ダグラス。読書傾向を調べると、その時々で特定のテーマに異常なまでに執着していた。ファーニヴァルの父親も精神病院を所有、ファーニヴァルが相続していた。ファーニヴァルはダグラスの醜聞のみならず、自らも糟糠の妻を追い出して若い娘と再婚、周囲の非難を浴びたが、結婚の翌年若い妻は自らの過失による失火が原因で死去。マリーもファーニヴァルには余程手を焼いたのか、1910年の彼の死の直後に出来た分冊の序文にも言及すらしていない

3番目に貢献したのはブラシュフィールド博士。精神科医で他の3人とは鍵のかかった扉の反対側にいた人。患者に対する人道的で思慮深いアプローチは時代を先取りしていた

マリーとは長年にわたり固い友情を築き、用例の蒐集に貢献

 

M for MURDERERS(殺人者)

4番目の貢献者がウィリアム・チェスター・マイナー。『博士と狂人』の主人公。23年にわたり6万枚以上のスリップを送り続けたが、主に16,7世紀の旅行記と医学書が中心

10代で妄想型統合失調症に苦しみ、医者になって従軍しトラウマを抱く。'72年殺人事件で逮捕、精神異常で無罪となったが、刑事犯精神病院に収監。福利に寛容な施設で、マイナーのOEDへの関与が始まる。軍人年金で本を買い漁り、書斎を与えられ閲読に耽る

マリーは、マイナーの多大な貢献に、施設の住所が精神病院と知りながら、そこの医師だと思い込んで交信を続けていた。8年後に初めて施設を訪問し会食。1902年、マイナーの狂気が爆発してOEDへの貢献は終わるが、その後も蔵書の多くを写字室に寄贈したり、年金などのお金も惜しみなくOEDの業務に分け与えたという

マイナーのほかにも、有罪にはなっていないが2人の殺人者がいた。リチャードソン(C参照)と、もう1人が動体写真撮影の創始者エドワード・マイブリッジ(18301904)。カリフォルニア在住のイギリス人。事故で頭部に重傷を負ってから奇矯な振る舞いが始まり

競走馬のギャロップの仕組み解明のための写真撮影をリーランド・スタンフォード(のちの大学創始者)から依頼され、高速シャッター装置を開発、英雄となるが、若い妻の不倫が発覚し逆上したマイブリッジは相手を射殺。スタンフォードの支援や昔の重傷もあって無罪

その後マイブリッジは、動物の運動についての圧巻の参考書を出版。OEDの序文でも彼への謝意が述べられているが、代表的な見出し語はgallop, rack(速足と駆足の中間), zoogyroscope(動く動物を投影する装置)など

 

N for NEW ZEALANDERS(ニュージーランド人)

ウィリアム・ハーバート=ジョーンズは、イギリス人で王立地理学会員。ロンドン在住だがニュージーランドの言語を操り、幻灯機を使ったニュージーランド紹介のスライドショーが人気を呼んで、彼の講演には多くの聴衆が詰めかけたが、本国の新聞に載ってほとんど嘘であることが発覚。現地の高官に取り入り移住希望者向けの講演を依頼されたためで、現地を見たこともないが、マリーの住所録にはニュージーランドとメモ付きで掲載

本物のニュージーランドとマオリの言葉を送ってきたのは、現地の金鉱地に住む宣教師のクックで、元マリーの教え子

さらに、メルボルンに住むイギリス人エドワード・エリス・モリスが、ニュージーランドの言葉の本当の情報源だと判明。教育者として現地にわたり、マリーの要請に応じてOEDに協力。自分で本を読むだけでは飽き足らず、友人や同僚に声をかけて引用文を集める

モリスは、OEDに送った資料をすべて使って自らオーストラレーシアの辞典を作成、1898年出版。マリーはOEDにも多くを引用、本文ではモリスの辞典に言及しているが、序文や講演では一度も謝意を示していない

 

O for OUTSIDERS(アウトサイダー)

ジェーン・オースティンは、outsiderという単語を、1800年姉宛の手紙で、初めて文字にした人で、マリーも彼女の言葉をそのまま引用

ディクショナリ・ピープルの中には、アウトサイダーの幅広さと重要性を体現したようなボランティアが2人いた。1人目がジョゼフ・ライト。15歳から読み書きを始め、オックスフォード大教授に上り詰めた。もう1人はアメリカ人のフィッツエドワード・ホール。前者はアウトサイダーからインサイダーになったのに対し、後者は真逆

ライトはマリーの親友の1人、序文に謝辞がある。ライト自身も方言辞典を編纂中

ホールは、失踪した弟を追ってインドに行き、サンスクリット語の研究が評価されてオックスフォード大から民事法博士の名誉学位を受け、イギリスに移住。OEDのプロジェクトにも引き込まれたが、言語協会の会合で激しい口論に敗れ、人種差別的な非難もあって一旦はプロジェクトを離れるが、マリーが編纂主幹となってからはまた全力で関わる

OED3巻の完成記念式典では、ホールの貢献に対し最大限の賛辞が贈られたが、世を捨てたホールは一切人前に出ず

 

P for PORNOGRAPHER(ポルノ収集家)

ポルノ、性器、緊縛、奇形に関するスリップを送ってきたのがヘンリー・スペンサー・アシュビーというポルノとエロティカの世界最大のコレクションの所有者。大半が「ハパックス・レゴメノン」で、引用文も、ヴィクトリア王朝時代の人ならだれでも下品とか堕落と思われるような使われ方をしているものばかり選択され、勤勉な編纂者にして立派な家庭人であるマリーには悩みの種だったが、品格を保ちつつ自ら立てた科学的方針である、「英語の文献で使われている単語はすべてOEDの所定の位置に収めなければならず、その最初の使用を例証するためにすべての単語の初出の用例を見つけなければならない」を遵守

アシュビーには、ヴィクトリア女王時代の多くの人がOEDのような立派な本には似つかわしくなく相応しくもないと思うような単語や言葉遣いの価値が見えていた。彼の貢献がなかったら、そしてこれらの単語を受け入れるマリーの強い意志がなかったら、OEDは英語の綺麗な部分しか収録していない半端な文献となり、大幅に面白みを失っていただろう

アシュビーは貿易業で叩き上げの成功者、趣味は本の収集。表には出ないエロティカを集めるようになり、仲間を集めてコレクションを堪能。猥褻文学の図書目録を匿名で出版

死後、蔵書のすべてを大英博物館に寄贈すると遺言したが、博物館は『ドン・キホーテ』の384種類の版を含むセルバンテスの膨大なコレクションは欲しかったがポルノグラフィには恐れをなす。結局全部受け入れポルノの一部を焼却、残りを「非公開箱」にしまい込む

OEDのものを見る目は大英図書館よりも遥かにリベラルだったことがわかる

「ハパックス・レゴメノン(Hapax legomenon)」は、ギリシア語で「一度だけ言われた(記された)もの」を意味する言葉です。主に言語学や文献学の分野で使われ、特定の文献、ある著者の全作品、あるいは特定の言語の全テキストの中で、ただ一度しか出現しない単語や表現のことを指します。 

·         意味「孤語(ここ)」とも訳され、その文献内でのみ使われる稀少な言葉。

·         用途文献学において、その単語の正確な意味を推測するのが困難であるため、研究対象として重要視されることが多い。

·         関連用語: 2回だけ現れる言葉は「ディス・レゴメノン (dis legomenon)」、3回は「トリス・レゴメノン (tris legomenon)」と呼ぶ。 

例えば、文学作品(例:『白鯨』)の中の単語の出現頻度を分析した際、全体の約44%が一度しか使われていない「ハパックス・レゴメノン」であったという例などがあります

 

Q for QUEERS(クィア)

熱心な協力者だったのがエイミーとエディスの姉妹と母の妹キャサリン。母の死後は叔母とエディスが生涯ともにカップルとして過ごす。ヴィクトリア王朝時代の同性婚だったが、性的倒錯という言葉が同名の本(1897年刊)を通じて英語圏に広まる

同性愛者という意味でのqueerという単語は、口語としては187080年代に使われ、初めてOEDに載ったのは1982年。当時の語釈では、男性同性愛者を意味する俗語で詩人のオーデンが1932年に使ったのが最初、形容詞では1922年から使われていたという後に初出は1894年に遡り、最新のOEDの見出し語では1980年代後半から新たに中性的な意味や肯定的な意味を帯びて使われるようになったとの注釈がつけられた

OED編纂者はレズビアンという用例が1732年にあったことを突き止めたが、掲載は1976年。Homosexualという単語が英語に入ってきたのは1890年代。『性的倒錯』に出てきたのが最初だが、発刊から2年後に猥褻を理由に発禁となっていたため、マリーはその年出版したHの部に含めなかった。同じ理由からinversionの「性倒錯」の意味を除外したが、この2つの単語は1933年出版のOEDの補遺に加えた

キャサリンとエディスのカップルは文学を愛し、自らも詩と戯曲を共作、遂には1人の男性名マイケル・フィールドで、古典時代の神話と中世の物語に着想を得た多くの作品を発表。その間もOEDに単語を送り続ける。憧れていたブラウニングの『劇的牧歌』からも多くのスリップを送っていたが、マリーは「ブラウニングはいつも言葉の本来の意味を無視した使い方をする。彼のお陰でOEDはずいぶん余計な苦労をさせられた」といって、詩人の言葉の使い方への疑念を表明。キャサリンは、ジョン・ラスキンとも一時友人関係にあり、その著作からも多くのスリップを作成

キャサリンは、自らの秘密をブラウニングにだけは打ち明ける。秘密が漏れて騒ぎが広がったが、キャサリンとエディスは命が尽きる直前までフィールドの名で書き続けた。男性ばかりだった19世紀後半の耽美主義の世界で女性作家として活動するには必要だった

フィールドの著作や後に公開された2人の日記は広く読まれ、結果としてこのクィアの詩人はOED200回以上も引用され、2人の愛犬ウィン・チャウでさえ、2人が愛犬の死によってローマカトリックに改宗したことから、見出し語re-embody(霊魂に再び肉体を与えること、別の肉体に生まれ変わらせること)の項目にその存在を留めている

 

R for RAIN COLLECTORS(雨量計測者)

ミセス・メアリー・プリングルは雨と言葉を集めていた。一般的な中流家庭の主婦で、毎日降雨量を測定し、宗教書を読みながらOEDのための引用文と単語を集め、それぞれの記録を英国降雨機構とOEDに送付。権威があって壮大な感じのするものの一端に加わる自覚と満足感に浸っていた。ただ、雨に関する単語は全く送っていないのは意外

Rainは英語で最も古い単語の1つだが、rainfallも含め、その量の測定に関する諸々の単語が生まれたのは19世紀になってから。大気圧に関する単語も次々に誕生。サイクロンもその1つだし、天気に関連する恐怖症も登場。Astraphobiaは稲妻恐怖症

 

S for SUFFRAGISTS(婦人参政権論者)

OEDが企画から完成までの道のりは、女性参政権の獲得を巡る闘いと時期を同じくする

1928年全12巻の出版を記念したOED祝賀晩餐会の1か月後に平等選挙権法可決

OED1915年、suffragist/suffragetteを収録。マリーの住所録にも先駆的なフェミニストが多く記載されている。際立っていたのがキャサリン・コート―ルド・オスラー(18541924)で、14歳から運動に携わり、バーミンガム女性参政権協会の事務局長

婦人参政権運動に関連した数多くの新しい語句の創出と進化を辿れば、おのずから参政権を巡る闘いの様相が見えてくる。The woman question(女性問題)が掲載されたのは1833年。キャサリンが12歳の時、下院議員だった叔父夫婦がジョン・スチュアート・ミルと協力して婦人参政権に関する集団嘆願に署名を集め議会に送ったのが運動の始まり

オスラーは、suffragetteと呼ばれた暴力派とは袂を分かち、「女らしさfemininity」を失っていない

もっとも有名な反婦人参政権論者はヴィクトリア女王。女王が言う「力のない性the feeble sex」や「弱いほうの性the weaker sex」、「性を奪うunsex」はシェイクスピアの時代からあった言葉だが、俄かに婦人参政権論者をこき下ろすのに使われるようになっていた

 

T for TRAMPS, THE SUNDAY(日曜遊歩会)

住所録には有名な名前が意外に少ない。ヴァージニア・ウルフ姉妹は載っていないが、その父親レズリー・スティーヴンはディクショナリ・ピープルの1人で、特に熟練した閲読者としてマリーを助けたほか、自らも『英国人名辞典』(18851900出版)を編纂

高級住宅街を転々と移り住み、個人的な交流で繋がる「日曜遊歩会」という知識人の集まりを主宰し、メンバーを集めてOEDへの貢献を推奨。当時人気を集めた不可知論Agnosticの支持者でもある。マリーは「物質現象を超えたもの、もしくはその背後にあるものの存在は一切知られておらず、知り得るものでもないという考えを持つ人」と定義。この言葉はダーウィンの番犬といわれたトマス・ヘンリー・ハックスリーの造語だが、マリーはこの見出し語にずいぶん悩まされ、最終的に完成した「不可知論者」の項目で、言葉の由来について照会した手紙の回答をそのまま引用するという非常に珍しいことをしている

 

U for USA(アメリカ合衆国)

アメリカ英語は最初からOEDの一部だった。OEDには意図的に、世界中で話されている多種多様な英語からも何千という言葉が取り入れられている

大西洋を越える郵便料金が高額だったため、アメリカ人の閲読者は「在アメリカ事務局長」にスリップを送っていたので、マリーの住所録にあるアメリカの住所は196人のみ

OEDの企画が決まった翌年には本国より早く、『ニューヨーク・タイムズ』が一般読者に対し、ウェブスターも含めた既存の辞典の欠陥を批判して、新たな辞書の編纂に支援を呼びかけている。呼びかけをやったのがロンドンの言語学協会の数少ないアメリカ人会員の1人でバーモント出身のコロンビア大講師のジョージ・マーシュ。その協力者がペンシルベニア州ラファイエット大の英語と比較言語学教授のフランシス・マーチ

高等教育機関での英語研究は19世紀に広まったもの、学問として認められるのには長い時間がかかった。彼ら専門家がOEDのために閲読者として協力し、種々の助言も与えた

 

V for  VICARS(AND VEGETARIANS)(牧師、および菜食主義者)

1881年、ヨークシャーの礼拝堂で牧師トマス・バーデットが息絶えていた。6年の在職の最後の2年はOEDへのボランティア活動に費やされた。牧師は菜食主義者でもあり、菜食主義は19世紀の現象で、vegetarianという言葉は1842年が初出

聖職者もOEDの並外れて献身的な協力者で、OEDボランティア全体にとっての頼れる背骨になっていた。専門家としての知識を提供してくれた人もいたが、多くは黙々と貢献を果たす

 

W for WOMEN(女性)

マリーの住所録には234名の女性が載っていて、OEDに貢献した女性の総数は487名に

多くの知的な未婚女性にとって、この仕事は自己充足の機会となった

女性のディクショナリ・ピープルの何人かは大学教育を受けた最初の世代

献身的な協力をした上にマリーを個人的に支援もしていたのがブラウン姉妹。いずれも未婚で家庭教師から教育を受け、ワイン商として成功した父の老後の世話をする傍ら、1880年からOEDへの協力を始める。協力することが姉妹にとっての精神的支えとなっていて、マリーもその功績を認め、編纂補佐としてB,C,D,I,P5文字を担当させている

1907年に急逝したときはマリーに、彼の年俸を上回る1000ポンドの遺産まで残している。マリーも彼女の貢献に対し、様々な序文で言及。公式に謝意が示された

1928年のOED全巻出版記念晩餐会は、150人分の席がしつらえられ、黒の蝶ネクタイの男性がずらりと座り、シャトーマルゴーをすすっている。出席したディクショナリ・ピープルは片手で数えられ、代わりに座っていたのは大手紙の記者。オックスフォード大学出版局からすれば、これは販促機会のイベント。女性はホールの分離規則のために男性と同席することは許されず、バルコニーから遠く眺めるだけ。晩餐会の文化的な性差別は、急進的で開放的なOEDの製作過程とは合致しないもの。晩餐会は女性を侮辱していただけでなく、ディクショナリ・ピープル全般に対しても無礼だった。とてつもなく献身的な篤志協力者たちが何十年にもわたって多大な貢献をしてくれなかったら、OEDという巨大なプロジェクトは到底ゴールに辿り着けていなかっただろう

 

X for XENOMANIACS(AND ESPERANTISTS)(外国かぶれ、およびエスペラント使用者)

1879年、3つのことが起き、それらが何らかの意味でディクショナリ・ピープルに関係

1つは、外国の産物を異様なほど好む人の意で、xenomaniacという言葉ができた

2つ目は、ヨハン・マルティン・シュライヤーというドイツ人司祭が世界統一のための国際言語ヴォラビュクVolapükを考案するという夢を見た

3つ目は、マリーがOEDの編纂を開始

音声学の先駆者アレクザンダー・ジョン・エリス(D参照)などはxenomaniacだったかもしれない。新しい言語、新しい文化に対して飽くなき興味を示したエリスのマリーへの手紙は(誤った)言語論でいっぱいだったが、ほかにもOEDプロジェクトは言語愛好家と多言語話者を引き付け、新しい単語や音、構造をもった全く新しい人工言語も考案され、ディクショナリ・ピープルの間でも熱烈な支持者を集めた。彼らはやがて世界共通語を作ろうとする理想主義者に変わる。この時期、VolapükEsperanto(1887)など150以上もの新しい言語が作られた

Volapük10年足らずで全世界で100万人の話者を集めたが、内紛から崩壊し、1880年代後半にはほとんどエスペラントに転向。エスペラントの考案者はポーランドの眼科医ザメンホフ。人類の統一を希望して創案したが、ヒトラーやスターリンからは迫害

現在も繁栄を続け、話者は200万人、うち数千人は母語としている

OEDEの文字を編纂したのは1891年で、エスペラントは収録するには新し過ぎたが、OEDの協力者の多くがこの新しい言語の支持者となる

フィラデルフィアの言語学者で貨幣研究家のヘンリー・フィリップス・ジュニアは、外国好きの理想主義者の1人で、個人蔵書のうちから貨幣研究に関する本と北米先住民に関する本を読んで多くのスリップを送り、マリーが最も頼りにするアメリカ人協力者の1人だった。ヴォラビュクもエスペラントも米国での普及に協力し、仲間からは「アメリカ初のエスペランティスト」と褒めたたえられた。OEDのために自身の著作を閲読した数少ない協力者で、いくつもの単語がOEDに残されている

 

Y for YONGE, CHARLOTTE, AND OTHER NOVELISTS(シャーロツト・ヤング、およびその他の小説家)

シャーロット・ヤングは、ヴィクトリア女王時代において最も成功した小説家の1人。あらゆる分野に次々と作品を生み出す多作で知られたが、キリスト教徒からの教訓的なメッセージは今日では時代遅れな印象。ファーニヴァルの下でNの項目の編纂補佐を務め、閲読もしていた。OEDでは彼女の著書と随筆が1300回以上引用されているように、彼女の作品はほとんどがディクショナリ・ピープルの女性によって読まれた。マリーも彼女に手伝ってもらうよう誘ったが自らの仕事と家庭の事情から断わられている。マリーが特に頼りにしていた元イングランド銀行総裁(18531901)のギブズは、シャーロットの親類

ギブズはマリーにとっては優秀な編纂補佐であり校正者だったが、女性小説家全般に対する偏見があり、女性小説家は「時間をかけてものを考えようとしない、考えている女性でも意味のわかる明確な英文を書ける技量を持っていない。ヤングを見たまえ、人気はあるが」と決めつける。OEDの目的と信条をすっかり忘れている

OEDに貢献した小説家のうちで、恐らくその時代に最もよく知られていたのはシャーロット・ヤングだが、貢献とはいえないまでも、もっと知られていたであろう小説家もOEDに辛うじて関わり合っている。マリーは、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ルイス・キャロル、ジョージ・エリオットに問い合わせを出しており、トマス・ハーディからはいくつかの単語を収録してほしいとの依頼が来た

マリーはエリオットが小説の中で、dustyではなくadustを使った理由を質問、エリオットは「類推的に自分の言葉を作ってみた」といい、「引用時にはエリオットの名を使って欲しい」とあり、署名にはM.G.ルーイス(結婚後の姓)と書かれていた

ハーディが書いてきたのは3つの「よく知られた英単語」で、1つはeweleaze。「羊に草を食ませる高台の牧草地で、草刈り用に残されることがない点で、meadowと異なる」と定義。牧草地を意味するlease/leaze1902年収録。具体例はハーディの詩から引用

マリーの没後、新進小説家でまだ小説家で有名になる前のトールキンが編纂助手としてチャールズ・オニオンズの下に就き、共にWの文字に取り組み固い友情を育む

 

Z for ZEALOTS(熱狂者)

1921zealotが見出し語になった時には、OEDの一番の「熱狂者」はすでに亡くなっていた。ジェイムズ・マリーの体力が落ちてきたのは1915年の夏。最後の数か月の間も前立腺がんの治療を受けながら、OEDの成功を最優先にしてTの文字と格闘。筆跡の残る最後の見出し語はtwilightといわれるが、該当するスリップは見当たらない

36年前、ファーニヴァルから2トン分のスリップを引き継ぎ、以後完璧さと厳密さを追求するマリーの姿勢に妥協はなく、固い決意と献身ですべてを乗り越えてきた

自分の仕事や能力には自信を持ていたが、結局のところマリーはオックスフォードの学者の世界からは排除され続け、どのカレッジのフェローにもなれなかった。1874年エディンバラ大学から名誉博士号を授与され、オックスフォード市の市民活動にも参加。1908年にナイトに叙せられたが、大学でのアウトサイダーとしての辛さは消えなかった

晩年に近づくにつれ漸く数々の栄誉が舞い込んできて、オックスフォード大学もマリーの亡くなる前年に、ついにマリーに名誉博士号を贈呈

1915年、マリーは胸膜炎で死去。1936年夫人も死去。1930年家はアメリカ人歴史学者マッケルロイに買い取られ、写字室は取り壊された

8年前にオックスフォード大出版局の地下室で始まった私の旅は、本書完成予定の1か月前に母の看病のために母国に戻ってきたことで終わるが、本書を母国で締めくくるのは、今でもスリップを送り続けるオーストラリアの人の中でも全時代を通じて最高に熱狂的だった貢献者の物語に出会えたから

その名はクリス・コリア―。1人者の自然主義者で、毎夜素っ裸で町を散歩してはゴミ箱から地元のクーリエ・メール紙を拾い漁り、その中から単語や引用例など、35年にわたり10万枚以上のスリップを、201079歳のときに心臓麻痺で急逝する2日前まで送り続けた。現在この新聞はOED390番目に引用が多い出展であり、引用件数でウルフもエリオットも英国国教会祈祷書も上回る。私は彼がオーストラリアの勲章を受けられるよう働きかけ始めたが途中で彼が亡くなる、あとは彼を献身的なディクショナリ・ピープルの系譜に連ねることで彼の功績が記憶され評価されることを願うばかり

本書は、コリア―のような献身を少しでも正当に評価したいという思いで書き進めてきた

OEDのために熱心に、熱烈に尽くしてくれた人々がいつまでも記憶されることを願っている。人生を追跡で見なかった他の何百という人々のことも忘れたくない

これは英語を記録するという大義のために、まるっきり普通でないことをした普通の人々の物語で、本書によって彼らの人生と、彼らがOEDに向けてくれた努力を正当に評価できたなら幸い。あとは私たち次第だ。マリーの望みを私たちが引き継ぐ番。「我々の言語を愛する人ならば、その言語への無私の献身と奉仕の志から本辞典のために労をとってくださった人たちの名前をむざむざ消えさせることはないものと、固く信じる」

 

 

解説 みんな、OEDのイカした(一部イカれた)メンバーを紹介するよ!

         文筆家・ゲーム作家 東京科学大学教授 山本貴光

オックスフォード英語大辞典は、収録語彙数が最大規模を誇るのに加えて、それぞれの語が使われてきた歴史を教えてくれるのが特徴。なかでも肝心なのは、用例は辞書編纂者が作ったものではなく、かつて誰かが書いた文章からの拾い集め

OEDの閲読者として本を読み、スリップを作って編纂室に送った貢献者たちの仕事ぶりや悲喜交々が生き生きと描かれ、それぞれが人生の1コマを捉えたドラマのようで目が離せない。何より印象的なのは女性たちの活躍で、従来の辞書編纂者の歴史を塗り替えた

さらにもう1点見どころをあげるなら、この本全体を通じて見えてくる英語という言語の姿。マリーのすべて集めるという理想はオックスフォードでは必ずしも歓迎されるばかりではなかった。英国の正当な言語という語彙だけに限りたいという圧力とのせめぎ合いも本書のあちこちに書き留められている。外国語からの「借用語」をどこまでOEDに入れるかは、ひとえに英語をどのような言語とみるか、見たいかによる。この点興味深いのは、編集主幹のマリー自身が、イングランド人ならぬスコットランド人で、保守ならぬリベラルの非国教徒であり、オックスフォードからするとよそ者だったこと。多様な言語に出自を持つ言葉を収録した結果として、英語が混成的な言葉であることを明確にした

本書の著者もOEDや英語の内と外とを往還する人だからこそ、これだけ多様なディクショナリ・ピープルに関心を向けて彼らの人生に目を凝らしたのかもしれない。OEDへんさんにおいては、アラビア語系など、ヨーロッパ以外の地域の言語に由来する単語を担当しており、英語の内外を往還していた人でもある

 

 

 

早川書房 ホームページ

世界最高の辞典を作った名もなき人びと

天文学者に殺人犯――異色の協力者たちが紡いだ、世界最高の辞典の舞台裏

20世紀にイギリスが威信をかけて編み上げた、世界最高峰の辞典「オックスフォード英語大辞典」。しかし実際に語彙を集めたのはひと握りのエリートではなく、無名の市民たちだった。辞書編纂者の著者が未公開の記録を掘り起こし、その知られざる歴史を明かす。

 

 

紀伊国屋書店 ホームページ

内容説明

19世紀、大英帝国は国家の威信をかけ、「英語のあらゆる言葉を網羅する」という壮大な目標のもと、辞書編纂プロジェクト「オックスフォード英語大辞典」(OED)を開始した。現代のクラウドソーシングを先取りするかのように、世界中の市民にボランティア協力を呼びかけ、膨大な用例を収集していった。中心となったのは編集主幹ジェイムズ・マリーであったが、実際には約3000人もの多様な協力者が存在した。顔ぶれは考古学者からポルノ収集家、婦人参政権論者、同性カップルまでおよび、それぞれの興味や関心がOEDに刻み込まれている。著者サラ・オーグルヴィは、OED編集者としての経験を持ち、偶然マリーの残した協力者の住所録を発見する。そこから膨大な調査を重ね、無名の協力者たちの実像を掘り起こした。個性豊かなその姿を通じて、当時学問の場から排除されがちだった女性の活躍や、世界各地の言葉を取り込む混成言語としての英語の姿が浮かび上がる―。オックスフォードの白人男性といったひと握りのエリートではなく、辞書づくりに情熱を注いだ一般の人びと(Dictionary People)の知られざる実態や貢献を描き出した、言葉を愛するすべての人に贈るノンフィクション。

 

 

 

(書評)『世界最高の辞典を作った名もなき人びと』 サラ・オーグルヴィ〈著〉

2025118日 朝日新聞

 用例を送り続けた女性らの存在

 僕が英米文学を大学院で学ぶようになって、最初にたたき込まれたのが、古典文学の単語一つ一つの意味を、本書の主役であるオックスフォード英語大辞典(OED)で徹底的に調べることだった。質量ともに圧倒的な辞典を毎日目の当たりにするわけだから、ある疑問が湧いてくるのは避けられない。一体、誰がこの辞典を作ったのか?

 その問いに見事に答えてくれる本書は、OEDという巨大プロジェクトが、1879年から1915年まで編纂主幹を務めたジェイムズ・マリーの献身だけでなく、無数の一般読者の協力によって支えられていたことを魅力たっぷりに教えてくれる。その読者たちは、各自が本を精読して単語の用例を小さな紙片に記入し、それを辞典の編纂室に郵送していたのだ。

 歴代最多の16万個もの用例を送ったビール醸造業者の息子、カナダ北極圏の過酷な探検を生き延びた遠征隊員、報酬があるものと勘違いして請求したカール・マルクスの娘、果ては殺人を犯した者など、辞典の協力者の顔ぶれは多彩極まりない。辞典の形式を模してアルファベット順に語られる各項目は、そうした協力者の人となりや当時の生活について知ろうとする著者の、地道で徹底した調査とユーモアある知的好奇心の上に成り立っている。

 そして何よりも、本書全体を通じて繰り返し浮かび上がるのは、「名もなき」存在であるほかなかった女性たちの姿である。編纂主幹の補佐を長期間務めた妻や娘たち、学術とは無縁の生活のなかで雨量計測とOEDのための精読に協力していた女性や、婦人参政権獲得運動を担った女性協力者など、辞典に多大な貢献をした無名の女性たちの努力は、個人のささやかな夢が時代の制約から逃れられないことを教えてくれる。21世紀に入り、授業の予習のためにOEDをめくっていた僕の時間は、そうした女性たちの人生とも交差していたのだ。

 評・藤井光(東京大学准教授・現代文芸論)

     *

 『世界最高の辞典を作った名もなき人びと』 サラ・オーグルヴィ〈著〉 塩原通緒(みちお)訳 早川書房 4950

     *

 Sarah Ogilvie オーストラリア出身の言語学者。OEDの編纂者を経て、英オックスフォード大教授として言語、辞書、テクノロジーの講義を担当。米アマゾンの研究開発部門ではKindleの開発にも携わった。

 

 

 

世界最高の辞典を作った名もなき人びと サラ・オーグルヴィ著

3000人の編纂協力者とことば

2025111  日本経済新聞

『オックスフォード英語辞典』(OED)という大辞典のことは、皆さんご存じでしょう。英国の辞書編纂(へんさん)者ジェームズ・マレー博士を中心に多数の協力で編纂が進み、20世紀の初め、博士の死後に初版が刊行されました。

OEDの編纂の大変さは、サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人』(鈴木主税訳・早川書房)で知られています。膨大な語句のメモ(スリップ)を送ってくる、精神を病んだウィリアム・チェスター・マイナーの存在がクローズアップされました。

それで、OEDの協力者と言うと、なんだかマイナーと「その他大勢」というイメージがあります。少なくとも、私の頭ではいつの間にかそうなっていました。

でも、実際は決してそうでなかったことが、オーグルヴィのこの労作によって分かります。本書によると、OEDの協力者は約3000人。スリップを送った数では、マイナーは4位です。ほかにも何万枚というスリップを送った協力者が多数いたのです。

協力者の顔ぶれもバラエティーに富んでいます。北極探検家、発明家、ポルノ収集家、女性参政権論者、エスペランティスト、著名な作家など。著者は、自ら発見したマレー(本書では「マリー」)の住所録を起点に、彼らの人生を描き出していきます。

私の素朴な感覚では、英国内外の有名・無名の何千もの人々が辞書編纂に協力したのは信じがたいことです。1冊の本から何百ということばの例が採集できますが、とても神経を使う作業です。あなたはやりたいでしょうか?

当時の人々にとって、大辞典を作る事業は想像以上に輝かしいものだったのでしょう。一般人が辞書に協力する様子は、今のウィキペディアを見ると、少しは想像できます。でも、100年以上前の彼らは、さらに深い意義を感じていたかもしれません。

著者自身、OEDの元編纂者であり、資料を基にした探求はきわめて実証的です。当時の協力者の実像を解明することに、ここまで熱心に取り組めた理由は何でしょう。著者の心の中では、古いことばの資料と、それを作成した協力者が、分かちがたいほど融合していたに違いないと、本書を読みながら何度も感嘆しました。

《評》国語辞典編纂者 飯間 浩明

原題=THE DICTIONARY PEOPLE(塩原通緒訳、早川書房・4950円)

著者は言語学者、辞書編纂者。英オックスフォード大教授。

 

 


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