シェフ  Gautier Battistella  2024.4.6.

2024.4.6. シェフ

CHEF   2022

 

著者 Gautier Battistella ゴーティエ・バティステッラ 1976年、フランス、トゥールーズ生まれ。パリ政治学院で政治学、ストラスブール大学でジャーナリズムを学ぶ。北京の新華社通信で働いた後、アジア各地をめぐり、その後ミシュランガイドの編集部員として働き、小説家に転身。本書は3作目。デビュー作はケベック=フランス・マリ=クレール=ブレ新人賞受賞

 

訳者 田中裕子 フランス語翻訳家。訳書にコラン・ニエル『悪なき殺人』、アンヌ・ベレスト『ポストカード』、フィリップ・トワナール編『グラン・ミシュラン~ミシュラン調査員のことば~』、オーレリア・ボーポミエ『魔法使いたちの料理帳』、ジャン=バティスト・マレ『トマト缶の黒い真実』など

フランス語翻訳家で、熊本でフランス料理店を経営しています。2005年よりフランス語料理教室CuiCuiを主宰しており、私立中学・高校でフランス語の非常勤講師も務めています

 

OVNI フランス広報誌 月2回刊行

理想よりも幸せな生活

2014-03-22

お店はこの4月でオープンから10周年を迎える

田中裕子(パリ7年)

 1990年、大手企業で働いていた田中さんは、あるとき、「安定した職で、先も見えていた」生活がいやになった。「別のことをできるのでは、という自分への期待」もあった。特にフランスに強く惹かれていたわけではなかったが、フランス文学やフランス映画からフランスに興味を持っていた。仕事を辞めてフランスで語学を勉強しようと思った。12年語学の勉強をして、日本に戻り、語学を活かした仕事をしようと思っていた。

 1991年に渡仏し1年経った頃、「自分のなかで何かが蓄積された実感がありませんでした」。そこで、ソルボンヌの文明講座でディプロムをとることを目標に、滞在を延長した。

 一方、滞在が長くなるうちに、映画評論のコラムを書く仕事をするようになった。映画も好きで、書くことも好きだった。最初はアルバイトの感覚だったが、そのうちにライターの仕事が増えてきた。

 フランスに来て5年経った1996年、ライターの仕事をしようと、学生からプロフェッション・リベラルの滞在資格に切り替えた。その頃は、語学学校のディプロムを取得し、美術史学校に在籍していたが、それもやめた。これでしばらくはパリで暮らすのだと思っていた。

 しかし、1998年に日本に戻ることになった。決断するにあたって、二つの理由があった。一つは、仕事の面。ガイド本の仕事などで日本のライターと仕事をすることが増えてくると、自分の日本語能力が落ちていることに気づいた。当時はいまほどインターネットも発達しておらず、日本とは離れている感覚があった。「日本人として忘れてはいけないものを忘れていたような気がしていました」

 もう一つは同じ時期に出会った日本人の料理人。日本で自分の店を持つために、フランスに修行に来ていた彼は、一年で日本に戻る予定だった。彼と知り合い、交際が始まり、そのうちに、日本に帰っていっしょに店をやってくれないかと彼から誘われた。

 日本語で書く仕事をやり続けるために日本語をきちんと書きたいという気持ちと、彼と一緒にフランス料理店をやることが叶えられるのは日本だった。1年くらい考えたが、日本で会社を辞めたときと同じようにすがすがしく、迷いもなく、日本に戻った。

 その後、田中さんは翻訳学校に通ったり、ライターの仕事をし、彼は修行を続ける生活が数年続いた。そして2004年、彼の地元の熊本で物件がみつかり、熊本に店をオープンした。

 二人で店をやりながらも、田中さんは翻訳やライターの仕事も続けている。フランスを出たときは、いずれは自分の仕事を選ぶか、仕事を捨てて彼について行くかの選択をしなければいけないと思っていた。しかし、今でも二つの仕事を続けられ、それぞれが充実している。「理想よりも良い生活です」

 「フランスは刺激を受ける場所であり続ける」という田中さん。日本に戻ってからは二人ともフランスに行く時間はなかったが、いずれはもう一度フランスに12ヵ月滞在して新しい刺激を受けたいという。(樫)

 

 

発行日           2023.11.30. 初版

発行所           東京創元社

 

 

第1章         

1950年代末、フランス南西部のジェール県のレストラン〈シェ・イヴォンヌ〉を切り盛りするのはポール・ルノワールの祖母イヴォンヌ。1910年同県の生まれ。実家は農場経営で食堂を併営。イヴォンヌは隣村のマルセル・ルノワールと結婚。両親が相次いで亡くなり、農場を引継ぐが、1939年全てが変わる。マルセルは徴兵され捕虜になった後、脱走してレジスタンスに加わり、農場の家畜はすべて没収され、一家は貧困に陥る

イヴォンヌは、自分の食堂を開く

 

第2章         

世界最優秀シェフ賞に選出されたポール・ルノワールのレストラン〈レ・プロメス〉にネットフリックスの密着取材が来る

肉料理担当シェフのディエゴ・モレナ(28)

魚料理担当シェフのジル・サン・クロワ・ド・ヴィ(29)は、16歳で家を飛び出し、ポールに一から仕込まれた

副料理長(スーシェフ)のクリストフ・バロン(37)は元アマチュア・ボクサー

支配人(ディレクトゥール)のヤン・メルシエ(33)は、後に店のマダムとなったナタリア・オルロフに見いだされ能力を引き出された

製菓担当シェフ(パティシェール)のユミ・タケダ(24)は大阪生まれ。8年前ポールが来日して料理の腕を振るった時の通訳

アヌシー(ジュネーヴ南部)の五つ星のホテル・レストラン〈レ・プロメス〉は3年連続で世界最優秀レストランに輝き、5年前から三つ星を維持

ホテルの最上階の5階がポール夫妻と娘クレマンス(寛大の意)の部屋

 

第3章         

ポールは1958年生まれ。〈シェ・イヴォンヌ〉は繁盛、どんどん地元の人々との食習慣とは相反する料理を作り始めた。連日満員。イヴォンヌは息子を厳しく指導

 

第4章         

撮影のため、レストランのスタッフが厨房に揃ったところにナタリアが現れ、ポールが今朝自室で息を引き取ったこと、救急隊が来ていることを告げ、他言無用と言い渡す

ネットフリックスのスタッフには伝えずに、いつも通りの厨房内を撮影させる

が、ニュースはその日の夕刻には外部に拡散

 

第5章         

ポ-ルの母の美貌は、若い頃からピレネーの向こうまで知れ渡っていた。絵画が好きで、ロートレックなどが活躍するモンマルトルに憧れ

9歳の頃、農場で働く僕を同級生たちはからかった。母の異母妹オーレリアが毎夏に来るのを楽しみにしていた

 

第6章         

最後のグランシェフ、ポール・ルノワールが62歳で死去とのニュースが流れる

10カ月先まで満席のレストランをナタリアが続ける

ポールの前妻ベティ・パンソンは、ジムでニュースを聞き仰天、息子のマティアスがいる

 

第7章         

ポールは10歳の頃、イヴォンヌが崇拝していたウジェニー・ブラジエについて調べてみると、1933(最初の三ツ星レストランが登場した年)の『ル・ギッド』(正式名称は『ギッド・ミシュラン』)で三つ星を獲得した女性料理人だったことが分かる。第2次大戦から復員したポール・ボキューズが最初に修業を積んだのも彼女の店

1968年、『ル・ギッド』の調査員が〈シェ・イヴォンヌ〉に来て、暫くすると一つ星を獲得。祖母はポールをアプランティ(見習い調理師)として採用

 

第8章         

ナタリアの父も自殺。母とともに一家でモスクワから逃亡。コスメブランドのアドバイザーのとき初めてポールに会い、一介の成功した田舎の料理人に過ぎなかったポールに才能を見出し、積極的にアプローチ。アヌシーでの開業を決めたのもナタリア

死の2日後ガストロノミー関連雑誌の記者ジェラール・ルグラがすっぱ抜いたのは、ポールが間もなく『ル・ギッド』の三つ星を失うと囁かれていたとの噂。2016年のブノワ・ヴィオリエも、03年のベルナール・ロワゾ―という2人のシェフの自殺も、ポールと同じ、三つ星を失うことを恐れての猟銃自殺だった

 

第9章         

イヴォンヌは晩年、星を獲得したことを「幸運な呪い」と呼んでいた。称号が日に日に重荷となっていった

祖父母に連れられ初めて村を出てパリに向かい、〈ラ・トゥール・ダルジャン〉で、一つ星獲得のお祝いをする

 

第10章      

ポールの葬儀が、アヌシーの大聖堂で挙行。フランス国家最優秀職人章MOFの証であるトリコロール襟のコックコートを着たシェフたちが顔を揃える

マティアスも乗り込んできて、シェフたちを前に、「引き金を引いたのは父だが、父に猟銃を持たせた奴らの事も忘れない」と復讐を宣言

クリストフには、スカウトしようと近づいてきたジュゼッペ・アルビノーニにパンチをくらわす

 

第11章      

イヴォンヌとその夫はしばらくして相次いで亡くなる。ポールの父親が跡を継ぎ、ポールは調理師免許をもってパリに働きに出ることになる。祖母の引き出しにあった手紙を父がくれた。それは、ウジェニー・ブラジエがポール・ボキューズにポール・ルノワールを紹介する手紙だった

 

第12章      

サヴォア地方では、山上をヴェイラ一族が、山麓をアルビノーニ一族が支配して拮抗

そこへ若き成功者ポール・ルノワールが乗り込んで来たため、陰湿ないじめ合戦が始まる

料理業界の影の権力者がポール・ボキューズで、2012年からはジョエル・ロブションを抑えてアラン・デュカスが取って代わる

 

第13章      

ポール・ボキューズのブリガード(調理スタッフ)に入ったポールは、事故死したコミ(一般調理師)の代わりに抜擢

1975年、ポール・ボキューズは、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与

1977年、ウジェニー・ブラジエ死去

3年後にポール・ルノワールが召集

 

第14章      

ポール・ルノワールは遺言を残していなかったので、財産の1/4はナタリアへ、残りをナタリアとマティアス、クレマンスで分け合うことに

マティアスは、ポールとベティに甘やかされて育ち、好き勝手に暮らしていたが、15歳でアプランティとして奉公に出すといわれ、家出

公証人から、ポールは11百万ユーロの負債超過だといわれる。いろいろな事業に手を出しては負債を重ね、詐欺にまで遭遇

筆頭株主だけは、〈レ・プロメス〉が一流であり続けることを条件に、売却を1年待つと言ってくれた

 

第15章      

ポール・ルノワールは兵役が終わって故郷に戻る。3年間、空母巡洋艦の厨房で働く

実家で父と並んで厨房に立ち、新しい料理を試みる

 

第16章      

『ル・ギッド』の誕生はフランス革命直後貴族に雇われていた料理人が独立して市井に自分の店を構えるようになって、料理の質を維持するために秘密結社を結成。身分を明かさずに密かに店を回って信頼度をチェックしたのが始まり。一旦1869年を最後に廃刊となり、20世紀に入ってから復活

ナタリアはクリストフを連れて、『ル・ギッド』の編集長に面会を求め、支援を要請するが、編集長は拒否

 

第17章      

ポール・ルノワールは、〈マキシム〉に職を得る。アントルメ(料理と料理の間に出す軽いデザート)担当シェフが、海軍時代の料理長ジャック・タルデュー

〈ムーラン・ルージュ〉の厨房を仕切るようになったジャックの紹介で、〈ムーラン・ルージュ〉のチェフ・パティシエになる

 

第18章      

ポールの店に野菜を卸すことがきっかけで料理の世界に入ってから7年、クリストフはポール・ルノワールとコンビを組むまでになり、ポール亡き後の〈レ・プロメス〉の厨房を仕切って、営業を再開。魚料理担当のジルが兼務でスーシェフに昇格

 

第19章      

〈ムーラン・ルージュ〉で知り合ったのが黙示録の騎士と名乗るエンリケ・カバリエロ・フィゲロア。アンダーグラウンドの世界を教えてくれた。〈ムーラン・ルージュ〉ではスイーツがすべてを支配する

ある日、父親から連絡があり、母親が女性と浮気して出ていったといい、父は店を処分して父・母・ポールの3人で分ける

その金でポールは、エンリケの紹介でパリ北郊外のクリシー市にある小さなレストランを、〈ラ・ガルゴット〉という名前を変えないという条件で買う

 

第20章      

〈レ・プロメス〉が営業を再開して3週間がたつ。表向きはかつての盛況を取り戻したが、厨房を含め社内には様々な軋みが滲む

『ル・ギッド』の編集長が店に来るという前日、泥棒が厨房に侵入して、食材に洗剤をまき散らしていった

 

第21章      

ポールの開いた店は、リーズナブルな価格で日替わりの「黒板メニュー」を掲げる気さくな店、たちまち近隣の人たちで大繁盛

『『ニューヨーカー』誌にまで店が紹介される。最後に気付いたのがフードライターたち

飛び込みでホールスタッフの募集に応募してきたのがベティで、ほどなくして結婚し、マティアスが生まれる

 

第22章      

フードライターのジェラール・ルグラは、『ル・ギッド』の編集長が〈レ・プロメス〉に行くという情報を得て、同じ日の予約を取る

その日に限っていつも仕入れる食材の店に目ぼしい材料がないが、ポールの住まいの冷蔵庫に食材があったのを思い出し、それらを使って間に合わせる

 

第23章      

〈ラ・ガルゴット〉の向かいの空き物件を買い取って2店目〈ラ・プティット・ガルゴット〉をオープン。同時に一つ星を獲得。『ル・ギッド』が初めて載せた大衆店

ベティの強い要請で、16区の閑静な高級住宅地のブルジョア向けオスマン様式アパルトマンを借りて別世界の生活が始まる。一つ星は7年連続となるが、カリスマ性も威厳もない

〈ムーラン・ルージュ〉を辞めたジャックが評判を聞きつけてやってきて、ポールから店の仕入れ情報などを聞き出して、同じ様なチェーン店を始める

放蕩息子を追い出すが、息子も反発して、父息子の間は断絶

 

第24章      

『ル・ギッド』の編集長クールヴィルと、ルグラが〈レ・プロメス〉で顔を合わせる

 

第25章      

ポールは、〈シェ・イヴォンヌ〉の土地建物を買い取り、〈ル・トゥル・ガスコン〉と名を変えて新たにレストランを始めていたジャン・カステーニュからディナーのコラボを持ち掛けられ承知する。〈シェ・イヴォンヌ〉の新しいオーナーに会ってみたかったからで、久しぶりに店に行ってみると前の雰囲気を残したまま営業していた。コラボは大成功

カステーニュの足元を見て、ポールは〈ル・トゥル・ガスコン〉を買い取ろうと申し出たが、カステーニュは拒否、そのうちレストランが火災に見舞われる。焼け落ちた店を見てカステーニュはポールに店を譲り、ポールはパリの店を閉めて故郷に戻ろうとベティに言うが、ベティは聞き入れず、〈ラ・ガルゴット〉の1号店だけをベティとスーシェフに一任して、故郷の父のところに戻り、焼け落ちた店の再建にかかり、〈ポール・ルノワール〉として再開。デュカスの店を皮切りにあちこちで修業していたマティアスがベティのところに戻り、ポールとは完全に縁が切れる

オープンして1年後には一つ星、3年で二つ星、その拠るベティから離婚の申し出があり離婚届に署名。やがて店はフランス名店百選に選出

 

第26章      

〈レ・プロメス〉に平和と繁栄の時が到来。ブロガー女子たちはクリストフの魅力を賛美

ルグラも『守られた約束(プロメス)』と題した記事ので、新しいシェフの評判を讃える

地産地消を推奨するクリストフの考え方は、都会のアクティブな若者たちの共感を呼ぶ

クリストフは、エコロジーや自然環境保護について語り、サステナブルな食生活や環境に配慮した農業を呼びかけ、今を時めくシェフとして引っ張りだこ、男性誌の表紙を飾る

クリストフは、あらゆる食材を店から100㎞以内で飼育され栽培されたものに限ろうとし、自らも栽培に乗り出そうとする

 

第27章      

〈ポール・ルノワール〉はガスコーニュ地方の名所となった。二つ星になってからさらに3年がたち、毎年「フランス優秀レストラン」に選出されていたが、二つ星どまりになっていて、ルグラからも新しい血が必要だといわれる。そのうち息子のマティアスが自分のレストランを開き、人気を集めているという噂が聞こえてくる

ルグラの推薦で若い女性のシェフをスカウトし、第2スーシェフとする。勘がよく、突然湧いたひらめきを皿の上に一生懸命表現しようとする。1年後には対等なパートナーに成長し、第1スーシェフに昇格させる

その直後、第1シェフの座を奪われたフィルマンは、肉料理担当シェフ刺す

 

第28章      

『ル・ギッド』の女性編集長クールヴィルは、パリ経営大学院の優等生、新年度版が3回発行される間に、フランスを代表する名店が7店も王座から転落。〈ポール・ボキューズ〉も例外ではなかった

ポール・ルノワールが死んだ年の『ル・ギッド』の星の授与式では、クールヴィルが「最新版は星なしの空白の1年とすることに決めた」とアナウンスしたが、即時解雇される

 

第29章      

フィルマンの行為は殺意もなく計画的でもなかったことから執行猶予となった。肉担当シェフが第1スーシェフに昇格した女性に厨房の冷蔵庫で暴行を働いたのを知っての復讐だったことが判明するが、女性シェフは告訴をせず、実家のレストランに戻る

肉担当シェフを解雇したが、不当解雇で訴えられ、彼女の証言がないまま敗訴。彼女がすべてを証言したのは20年後

1998年、業界紙が、「厨房での暴力とハラスメント ポール・ルノワール執行猶予に」との記事を掲載、「信じられない長時間労働」「酷い労働条件」「従業員軽視」「身体検査」といった言葉でポールを中傷。翌年の『ル・ギッド』では二つ星が剥奪sれる、理由は厨房での暴力の告発。余りの不合理に屈せず従前どおりの営業を続けようとしたが客足は戻らず、それでも何とか細々と維持しているうちに、2003年、株式市場で最高値の付いたレストランのシェフになったベルナール・ロワゾ―が猟銃自殺、引き金を引かせたのは孤独だった

対イラク戦をボイコットしたフランスに対し怒ったアメリカ人は、ボルドーワインを溝に捨て、フレンチフライをフリーダムフライ(自由のフライ)”と呼び、タイムズスクエアでフランス国旗を燃やし、『ニューヨーク・タイムズ』は特集記事「最新版ヌーヴェル・キュイジーヌ。スペインはいかにしてフランスに取って代わったか」を掲載、料理業界の新生エルドラドとスペインを絶賛。液体窒素がヨーロッパを席巻、遠心分離、瞬間凍結、脱水などが料理のバイブルになだれ込んだ

ポールの店を心配しながら父親は息を引き取る。マティアスが一つ星を獲得

〈ポール・ルノワール〉はアイルランドの不動産企業グループに買収され、ポールの天下は終わる

 

第30章      

クールヴィルのサプライズをルグラが採り上げ、フランス料理業界の激震を分析・解説した記事を寄稿――特権が廃止され、眠っていた王国で何かが動き始めた

戦国時代の料理業界を乗り切るために、ナタリアはマティアスと手を組む

 

第31章      

ポールは、マティアスから一緒に新しい店〈レ・クルール〉をやろうと持ち掛けられる

ポールがマティアスの店に留まったのは、マティアスの恋人で彼の店のディレクトゥールのナタリアのためだった。息子とのコラボは3年続くが、1年目ですでに一つ星を獲得

すぐに2つ目の星を獲得すると、マティアスはナタリアとの婚約を発表するが、ナタリアはマティアスが複数の愛人を囲っているのを知り、別れるきっかけを探していた

ナタリアはポールのもとに行き、マティアスは父子の絆を完全に断つことを決め、父親に復讐し、ルノワールの名を掲げる唯一の料理人になることを決意

ポールとナタリアは結ばれ、2年後に娘クレマンスが生まれる。ナタリアは、ポールを世界一のシェフにするためのレストランを開業しようと資金集めに奔走

料理業界で出張料理を家事と呼び、本人の知名度に応じて市場価値が変動する。ポールはかつて二つ星を獲得したことから、ギャラを高めに設定できるが、あえて安価に抑え、富裕層相手の出張料理人となり、丸2年間世界を駆け巡り自力で店を開こうと努力

 

第32章      

二つ星を取った祝賀会で、マティアスはポールと決別。親子3人仲良く暮らす夢を奪われたベティは、田舎にいる姉のところに移り、庭いじりの楽しさと心の平穏を再発見し落ち着くが、田舎暮らしは心身を軟弱にし、気力も衰えた

〈レ・プロメス〉でナタリアと再会したマティアスは、父親の存命中には叶わなかった、思い出と和解するときが来たことを知る。タルデューには、数百年分もの借金を背負うなどクレイジーだといわれたが、自分の手で〈レ・プロメス〉を救済したい、父の跡を継ぎ、父と同じ夢を追い、来年には三つ星を取り返すことを決意。ナタリアはマダムであり続け、クリストフに店を任せるといったが、クリストフはマティアスが麻薬をやっていることを察知し拒否。他の仲間たちはマティアスに誘われて受け入れ

クレマンスが、クリストフのもとに来て、ポールはナタリアと一緒になったときには子供が作れない身体で、マティアスはナタリアとずっと会い続けていたという。クレマンスはマティアスとナタリアの子供だった

 

第33章      

〈レ・プロメス〉のスタッフは、クリストフ以外はみな創業時から一緒で素晴らしく能力も高いチーム。未経験のクリストフを、その熱意にほだされて試しに雇ったところたちまち頭角を現しスーシェフになる。開業5年で三つ星を獲得、料理史上初の快挙

地産食材を保護し、旬のものを使い、生産者を尊重した。そんな当たり前の事に記者たちは熱狂。ポールの料理人人生で最も輝かしい時期がスタート、超人的なオーラをもたらす

三ツ星獲得から1年、体重は減り、目の下に隈ができる、外見の変化はゴシップ誌の格好のネタになる。結婚10周年を記念して妻と仲直りしようと思った。銀婚式に妻の友人を招いて特別料理のサプライズもしたが、その夜自宅で心臓の不調で倒れる。料理界のオスカーと呼ばれる世界最優秀シェフ賞に選出されるが、表彰式ではろれつが回らなくなる

レジオン・ドヌール勲章を辞退するとナタリアは怒り狂う

部屋から外に出なくなって1年がたち、厨房にもキシミが入って、ルグラは気をつけないと星を失うといったが、星を失うリスクは他にもいくらだってある

62歳の誕生日にナタリアが猟銃をくれた

 

第34章      

マティアスがアヌシーの領地を奪取してから半年後、店名も〈レ・プロメス ポール&マティアス・ルノワール〉に改名、クリストフ、ジル、ユミはいなくなり、ディエゴが新しいメニューを構築

クリストフは、ポールが死の直前に会っていたエンリケを訪ね、ポールがエンリケに託していたクリストフ宛の封筒を受け取る。中味はポールが自宅のキッチンで試作し、結局は日の目を見なかった創作料理の数々のレシピ、スケッチ、個人的なメモが詰まった手帳で、いわばポールの人生の集大成だった

 

第35章      

料理はずっと、荒くれものが紳士淑女のために作るものだった。料理人はアウトローだった。それが、味覚の基準を作り出し、世界最高峰の洗練された料理を生み出す。その矛盾にこそフランス的な何かがあったが、それもすべて終わった。今時の料理人は、小ぎれいで、礼儀正しく、責任感があり、愛想がいい。レストランの食事は、真剣で重大で複雑なものになり、厚生省の監視下に置かれ、真面目さが料理を殺した

 

 

訳者あとがき

35章で構成。奇数章では取材のラッシュ映像によるポールの独白が1人称で、偶数章ではポールの死後の出来事が複数の人たちの視点による3人称で、それぞれ語られる。読み進めるうちに、華やかで煌びやかなオート・ガストロノミー(最高級料里)業界の舞台裏が明らかになり、ポールが抱えていた苦悩、孤独、重圧、後悔、失望が見えてくる

実在の人物や事実がフィクションに織り交ぜられた、赤裸々でリアルな筆致は、著者が『ミシュランガイド』編集部で15年間働いていた経験に由来する

本書は1人の料理人の物語であると同時に、フランス料理界へのオマージュでもある

メディチ家の影響を受けて宮廷で開花したフランス・ガストロノミーは、18世紀末のフランス革命とともに市井に流出し、レストランが誕生。さらに19世紀から20世紀前半にかけて、ブルジョア家庭の雇われ料理人が独立して店を構えるようになり、洗練されて手の込んだ料理を大衆が味わえるようになった。ちょうどその頃(1900)、自動車産業発展のために、タイヤ・メーカーがレストランガイドの配布を開始。『ミシュランガイド』は食のバイブルとしてドライバーたちに重宝された。1926年に「星」が登場し、1931年に「星の3段階評価」がスタート。1933年、女性シェフとして初めて三つ星に輝いたのがメ-ル・ブラジエ。当時、フランス中部のリヨン周辺では女性料理人が多く活躍、「リヨンの母たち(メール・リヨネーズ)」と呼ばれていた。特にブラジエは、ポール・ボキューズやベルナール・・パコー(40年近く、三つ星を維持する〈ランブロワジー〉のオーナー・シェフ)を育てたことで知られる。1970年代、ヌーヴェル・キュイジーヌの時代が到来。中心となったのは、ボキューズのほか、トロワグロ兄弟、アラン・シャペル、ミシェル・ゲラールラ。厨房から飛び出し、メディアに出たり、世界各国を訪れたりして、名前と顔が広く知られるようになった初の世代。フランス・ガストロノミーは、女性が築き、男性が有名にした。80年代になると、ロブションやデュカスといったスターシェフが登場(ポール・ルノワールも同世代)90年代にはビストロとガストロノミーを融合させたビストロノミーが流行し、2000年代には〈エル・ブジ〉のフェラン・アドリアを親善大使とする分子ガストロノミーが世界を席巻し、2010年代には原点回帰・自然派ブームが到来。本書には、こうしたフランス・ガストロノミーの近代史が書かれている。フランス・ガストロノミーの最高峰、ポール・ルノワールが身を置いたオート・ガストロノミー業界とはどういうところか;

l  オート・ガストロノミー業界は円形競技場、料理人たちは剣闘士で、彼らによる「死にゆく者より敬礼を」は、「命をかける気がないなら、ピッツァ職人になれ」という意味

l  小さくて狭い世界に、自我が強くて大きな野望を抱く人たちが大勢いる、慎み深さよりアピール力。誰かが転落すると、その友人は自分の成功を確信する。信頼できる存在は1人もいない

オート・ガストロノミー業界は非常に厳しい世界。料理人たちは頂点に上り詰めるために、そしてその地位を維持するために、絶えず熾烈な争いを強いられる。家庭を顧みず、誰も信じず、周りを蹴落とし、すべてを犠牲にし、時には自らの命さえ捧げる

フランス料理界を知る人は、きっとポール・ルノワールの姿にベルナール・ロワゾ―を重ねただろう。実力・評判ともに最盛期にいた三ツ星シェフが、自宅で猟銃自殺を遂げた。次の『ミシュランガイド』で二つ星に降格されるという噂を苦にしたため、と囁かれた。本書でも、フードライターが「『ル・ギッド』のせいだ」と述べているが、どうやら真相はそれほど単純ではない。「この世の中の大きな問題は、知的な人間が疑念ばかり感じているのに対し、愚かな人間は確信に満ちている点にある。ロワゾーは知的で、疑念に苛まれ、孤独だった。彼に引き金を引かせたのは、『ル・ギッド』でもなければ、デリカシーのない記者が書いた記事でもない。孤独だった」

暴力的で、権威主義的で、ブラック労働で、嫉妬と裏切りに満ち、セックスとドラッグが蔓延する世界

本書の筋書きはフィクションだが、レストランや料理人にまつわるエピソードは、全て著者自身で見聞きした事実。ポール・ルノワールは複数の料理人から着想を得た架空の人物だが、息子のマティアスには明確なモデルがいる。ベルナール・パコーの息子、マチュー・パコー。父親に対する挑戦的な態度、過激な発言、ビジネスセンスの高さ、名声への拘りなどが、現地の書評で「瓜二つ」と評されている

現在、フランス料理長の80%以上を男性が占める。男女平等が進んだフランス社会でも、料理業界はいまだ男性優位。軍隊編成を参考にして構築されたブリガード制のトップにはやはり男性の方が向いているのだろうか? しかし近年、アンヌ=ソフィ・ピックを筆頭に、エレーヌ・ダローズ、ステファニー・ル・ケレック、コリーヌ・フォルキエなど、女性シェフの活躍がめざましい

 

 

 

 

 

 

 

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三つ星シェフ、ポール・ルノワールが猟銃自殺を遂げた。世界最優秀シェフに選出されたばかりだった彼がなぜ? ネットフリックスの番組製作のために取材を受けていたさなかに……

伝説的な料理人だった祖母のいた時代から三つ星シェフに上りつめた現在までの彼の人生と、華やかなフランス料理界の裏側。

料理人たちの野心、苦悩、嫉妬、愛、孤独、闘い、そしてガイドブックの星の重圧……。ポール・ボキューズもアラン・デュカスも登場する、元『ミシュランガイド』編集部員にしか書けない傑作美食小説!

カゼス文学賞、海辺の文学賞受賞作。

 

*カゼス文学賞は、ヘミングウェイ、アンドレ・ジッド、アラン・ドロン、ロミー・シュナイダー、ポンピドゥー大統領などが通ったサン=ジェルマン==プレのブラッスリー・リップが創設した文学賞。海辺の文学賞はサーブル・ドロンヌ市と「フィガロ・マガジン」が主催の文学賞。

 

 

 

(書評)『シェフ』 ゴーティエ・バティステッラ〈著〉

有料記事書評

202432 500分 朝日

『シェフ』

 仏料理界の歴史辿れるリアルさ

 フランス料理を扱う作品は、辻静雄の半生を描いた『美味礼讃』など傑作が少なくない。技と贅を極める料理文化が、人々の欲望を掻き立て、情熱の炎を煽り、心を惑わせるからだろう。

 本書は元「ミシュランガイド」編集部員の著者による、事実とフィクションを織り交ぜた小説である。主人公のポールは三つ星レストランのシェフ。ある日突然、猟銃自殺を遂げる。奇数章ではポールが自らの生涯を語り、偶数章では彼の死後の出来事が描かれ、章が進むにつれ事の真相がわかる仕掛けだ。そのモデルは20年程前、店への評価の重圧で猟銃自殺したと噂される有名シェフであろう。

 本書の一番のうま味は、仏料理界の歴史を辿(たど)る描写だ。20世紀前半には女性の料理人が活躍したという。仏南西部の村で育ったポールの祖母は、料理に野心を抱きレストランを開業。シェフとして必死に料理するうちに店は一つ星を獲得。彼女が晩年、孫のポールを連れて初めてパリを訪れ、名店トゥールダルジャンで人生で最も嬉しそうに食事をする場面からは、料理人にとってもパリの名店での食事は特別な体験であることが伝わってくる。

 作中には日本人も登場する。実際に「ミシュランガイドフランス2023」にはパリの三つ星レストランが9軒掲載されているが、うち数軒の料理長は日本人だと聞く。だから、主人公の店のシェフパティシエールが大阪出身のユミという設定はリアルだ。しかしユミが、日本女性を性的対象として見る「芸者ガール」のステレオタイプで描かれているのは残念だ。そのお色気シーンはくどいと感じた。

 とはいえ、「黒トリュフ入りVGEスープ」等の有名料理からグラタン、栗とカシスのデザートまで、魅惑的な料理が続々と出てきてお腹が空いてしまう。巨匠ポール・ボキューズが冗談をいったり、アラン・デュカスが食事をしに来たりする場面も。食いしん坊ならきっと満足するはずだ。

 評・藤田結子(東京大学准教授・社会学)

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 『シェフ』 ゴーティエ・バティステッラ〈著〉 田中裕子訳 東京創元社 2750円 電子版あり

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 Gautier Battistella 76年生まれ。新華社通信、ミシュランガイドの編集部員を経て小説家に転身。

 

 

 

「図書新聞」No.3625 20240203日に掲載。

シェフ

ゴーティエ・バティステッラ 著、田中裕子 訳

東京創元社

格付けの代償――フランス最高級料理業界で頂点を極めた三つ星シェフの突然の死。いったい何があったのか?

フランス東部アヌシー湖畔に建つホテルの二階にあるレストラン〈レ・プロメス〉は、三年連続で世界最優秀に選ばれた三つ星レストランだ。シェフを務めるのは、ポール・ルノワール、六十二歳。ネットフリックスの撮影隊が三か月前から入り、その日もポールを密着取材することになっていた。
 しかし、ポールは撮影現場に現れない。ポールは自宅で猟銃自殺していた。
 死後に残されたのは100時間の撮影済みフィルム。
 頂点を極めた三つ星シェフにいったい何があったのだろうか。
 ゴーティエ・バティステッラの『シェフ』には、フランスの最高級料理業界(オート・ガストロノミー)における成功と挫折が描き出される。構成も凝っていて、ポールの幼少期から死の直前までが一人称で語られる奇数章と、ポールの死後、残されたブリガード(調理スタッフ)たちの焦燥や、格付けガイド『ル・ギッド』(ミシュランガイド)の大胆な改革などを三人称で描いた偶数章からなる。
 奇数章では、ポールの祖母イヴォンヌが相続した農場でレストランを開くところから始まる。レストランの評判は次第に広がり、村外からも客が来るようになる。ある日、ふらりと店に立ち寄ったのは、ウジェニー・ブラジエ(ミシュランの三つ星を初めて獲得した実在の女性シェフ)だった。それがきっかけで、十一歳のポールは、ポール・ボギューズで働くようになる。その後、〈マキシム〉や〈ムーラン・ルージュ〉といった有名店でキャリアを積み、やがて〈ラ・ガルゴット〉という自分のレストランをもつ。そして、最初の妻となったベティと出会い、息子マティアスが生まれた。
 いっぽう、実家のレストランは父親が経営していたが、うまくいかず廃業し、人の手に渡っていた。その後、ポールは土地とレストランを買い戻すと、祖母イヴォンヌのレストランがあった場所で〈ポール・ルノワール〉をオープンさせた。
 〈ポール・ルノワール〉は二つ星を獲得し、順調だったかのように見えたが、女性シェフへの暴行事件をきっかけに、劣悪な労働環境を暴露する記事が掲載され、星をはく奪されてしまう。
 閉業を余儀なくされ、意気消沈するポールだったが、息子マティアスからの誘いでふたたびレストランをオープンする。その後、息子の恋人だったナタリアと結婚し、ナタリアの勧めでアヌシー湖畔に〈レ・プロメス〉をオープンさせる。
 シェフとしての人生は順調というわけではない。兵役で調理場を離れることもあれば、二つ星をはく奪され、世間からバッシングを受けることもあった。それでも不死鳥のようによみがえり、ふたたび成功する。ポールには何が何でも三つ星を獲得したいという強い意志があった。
 〈レ・プロメス〉が三つ星を獲得すると、人生でもっとも輝かしい時期がスタートしたように思えた。だが、ポールは失敗することを恐れ、料理の評価に神経質になり、眠れぬ日々を送るようになる。ポールの意向を聞かずに仕事を入れるナタリアとは険悪になり、ついに心身ともに不調をきたし部屋に閉じこもってしまう。六十二歳の誕生日、気分転換にとナタリアから猟銃を贈られた……

ポール・ボギューズやムーラン・ルージュなど、実在の人物やレストランが数多く登場し、ポールも実在する人物ではないかと思わせるようなリアリティが本作の素晴らしさだ。また、趣向を凝らした数々のフランス料理が紹介され、一度は食べてみたいと思うごちそうが並ぶ。一つ星シェフとなったイヴォンヌがポールを連れてはじめてパリに行き、〈ラ・トゥール・ジャルダン〉でフルコースを食す場面は特に印象的だ。
 ポールの死後を描いた偶数章では、副料理人クリストフなどのブリガードやポールの家族に焦点があたる。それぞれ思惑は異なるが、店を残したいという気持ちはみな同じだ。
 クリストフはエグゼクティブシェフとなり、個性的なメンバーの統率に苦労しながらも、地元の食材だけを提供する地球にやさしいレストランへの転換を考える。また、ナタリアはレストランを継続させるためにプライドを捨て、『ル・ギッド』に星をはく奪しないよう訴える。ポールと犬猿の仲だった息子マティアスも、〈レ・プロメス〉を救済したいと考えていた。
 『ル・ギッド』でも新しい動きがあった。これまでにポールを含めて三人のシェフが猟銃自殺を図っていた。星を維持するために、シェフはあらゆる犠牲を払う。多額の借金をし、すべてのエネルギーを料理に注ぎ込む。また、フランス料理の画一化を問題視する声もあった。格付けを見直す段階にきていた。
 格付けは消費者にとってわかりやすい指標であり、またレストラン側にとっても銀行からの信用を得やすく、地域経済に貢献できるという利点もある。しかし、払う代償は大きい。著者はミシュランガイドの編集部員として働いていたこともあり、その内情に詳しかっただろう。バティステッラはフランス美食業界のリアルを見事に描き切った。
 『シェフ』はバティステッラが作家に転身した後の三作目であり、カゼス文学賞、海辺の文学賞を受賞した。
(英語講師/ライター/オンライン英会話A&A ENGLISH経営)

 http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php

 

 

 

Wikipedia

「世界一シェフ」ブノワ・ヴィオリエ、ミシュラン発表前日に自殺

2016/02/01 ワインレポート

 世界一のシェフに選ばれたスイスの3つ星を経営するシェフ、ブノワ・ヴィオリエ氏が31日、自宅で猟銃自殺しているのが見つかった。

 現地報道によると、44歳のヴィオリエ氏は、スイス・クリシエの「レストラン・ド・ロテル・ド・ヴィル」を経営していた。フランス政府が世界のトップ1000レストランを選ぶLa Liste」(ラ・リスト)で、201512月、世界一のレストランに選ばれた。2013年のゴー・ミヨ誌のシェフ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。21日にパリで発表される新ミシュランガイドのパーティに出席する予定だった。

 ヴィオリエ氏はフランス西部のワイン生産者の家に生まれ、1991年にパリに移り、ジョエル・ロブション氏の下で修業した。ピエール・ガニェール、マルク・ヴェイラ、ポール・ボキューズ氏らトップシェフが、SNSなどで才能を惜しむメッセージを発信している。2003年にも、フランス・ブルゴーニュの3つ星シェフ、ベルナール・ロワゾー氏が自殺する事件があった。この時は、ゴー・ミヨの評価が下がり、ミシュランの星を失うのではないかと心配したと、フランスで報道された。

 

 

ベルナール・ロワゾー(Bernard Loiseau1951113 - 2003224)は、フランス料理人実業家

バターを使ったこってりとした料理からの脱却を目指し、ヌーヴェル・キュイジーヌの影響もうけながら、素材の味を引き出すことに重点を置いた。バターやクリームオイルなどを排除し、などの焼き汁を水でデグラセしてソースを作った彼の料理は、自らキュイジーヌ・ア・ロー(水の料理)と呼ばれた。

ほぼゼロから独力のみで、凋落していたラ・コート・ドール英語版)を立て直し、レストラン・ガイドの『ゴ・エ・ミヨ』誌で20点満点の19.5点の評価を得て、『赤ミシュラン』においては三ツ星を獲得するまでに至った。

しかし、2003年に突然自宅で自殺を図った。彼の死後直後に発行されたミシュランガイドでは3つ星を維持していた。

料理[編集]

ヌーヴェル・キュイジーヌの影響も受け、料理からバターやクリーム、オイルなど排除し、肉などの焼き汁や野菜のピューレなどを水でデグラセしてソースを作った。自らの料理を一時期「キュイジーヌ・ア・ロー」(水の料理)と称した。キュイジーヌ・ア・ローは賛否両論であった。後年は、バターやクリームの排除の行き過ぎを改め、使用を許容するようになった。

得意料理は、「蛙のもも肉のニンニクのピュレとパセリソース添え」など。蛙料理は、ラ・コート・ドールのあったブルゴーニュ地方の代表的な食材でもある。また野菜にこだわり、野菜のみを使ったフルコースやじゃがいも尽くしのコースも提供した。

来歴[編集]

料理人入門[編集]

1951ミシュランの本社のあるピュイ=ド=ドーム県クレルモン=フェランに生まれる。3人兄弟の第一子であった。少年時代は、サッカークラブのキャプテンを任されるなどしたが、カトリック系学校にあって勉強に興味が持てずにいた。16歳の時の進級試験で20点中7点で落第した。

学校をドロップアウトしたあと、両親の勧めもあって料理人を目指すようになった。最初は親戚の経営する菓子店で働いた。しかし本格的なフランス料理を身に付けるべく、ロアンヌにあった高級レストランのトロワグロに見習いに入った。

1971にトロワグロを辞め、一年の兵役についた。任地は、ファルスブールにあった駐屯地で食事担当となった。

独立[編集]

除隊後、事業家でレストランを複数所有していたクロード・ヴェルジェ(Claude Verger)と知り合った。ヴェルジェは、ロワゾーにパリの店を任せた。ロワゾーはヴェルジェに反発することもあったが、彼の店は人気を博すようになった。1974、『ゴー・ミヨ』から20点満点中15点を獲得、将来有望とコメントされた。

ヴェルジェは、1975にブルゴーニュ地方の街ソーリューにあったレストランのラ・コート・ドール(La Côte d'Or)を買収した。ラ・コート・ドールは、1950年代にフランス料理の巨匠であったアレクサンドル・デュメーヌがオーナーシェフを務めていたレストランで、ミシュランから三ツ星を獲得していた。しかし彼の引退後は凋落し、二ツ星となっていた。さらに、ヴェルジェの買収でシェフが辞任し、ミシュランの星はすべて剥奪されてしまった。

ヴェルジェは、ロワゾーにラ・コート・ドールを与え、ロワゾーはこの店を再び三ツ星のレストランにすることを目指した。1977版で一ツ星を獲得。1980に引退を決意したヴェルジェから店を借金して買い取り、ラ・コート・ドールのオーナーシェフとなった。1981に二ツ星を獲得し、1985の『ゴー・ミヨ』はラ・コート・ドールに対して20点満点中19.5点を与えた。

結婚と開店[編集]

最初の結婚には失敗したが、大学で栄養学を学んだ経験をもつドミニクと結婚、私生活面でも安定した。しかし三ツ星の獲得はなかなか進まなかった。1990にロワゾーは勝負にでた。約300万ドルをかけてレストランを拡張・改修し、同年の12に新装開店した。19913に刊行されたミシュラン(『ギド・ルージュ』)で念願の三ツ星を獲得する。この年の三ツ星に選ばれたレストランは、フランス国内で19軒であった[1]。三ツ星を得た効果は絶大だった。4月の売上げは前年4月と比べて約2倍となった。ラ・コート・ドールで働きたいという志願者が世界中より一年で数百人もくるようになった。

来日[編集]

19926、ロワゾーはJTBの出資を受けて神戸の神戸ベイシェラトンホテル内に「ラ・コート・ドール」の初めての支店を開店した。ロワゾー自身も何度か来日して厨房で腕を振るったが、阪神大震災後、営業不振により閉店した。その後、この店は「トップ・オブ・シェラトン」と名前を変え、店内インテリアはほぼラ・コート・ドール当時のまま、料理にもロワゾー風を多少残しつつ、フレンチレストランとして2007年まで営業していた。200710月に全面改装され「神戸グリル」と改称されたことにより、ラ・コート・ドール当時の面影はほとんど失われた。

全盛期[編集]

1995レジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章。店は、ミッテラン大統領(当時)や俳優ロバート・デ・ニーロなど有名人の数多く訪れる店となった。

ロワゾーの名を冠したブティックを展開し、本を出版し、レトルト製品を開発するなど、実業の世界にも踏み出した。199812月、グループ・ベルナール・ロワゾーはパリ証券取引所第2部に上場。シェフとして初めての快挙と報じられた。

ゴ・エ・ミヨからの酷評[編集]

しかし、ゴ・エ・ミヨ2003年版でラ・コート・ドールの評価を20点満点中19点から17点に落とした。フィガロ紙は、ミシュランの三ツ星に値しないレストランとしてラ・コート・ドールを含めていた。

猟銃自殺[編集]

2003224日、ロワゾーはソーリューの自宅自室で猟銃により自身の頭を打ち抜いて自殺。死後、3月に刊行された2003年版『赤ミシュラン』では、ラ・コート・ドールは三ツ星を維持していた。夫人のドミニク・ロワゾーにより、ラ・コート・ドールはル・ルレ・ベルナール・ロワゾーと改名し、営業が続けられており、2006版においても三ツ星を維持している。

脚注[編集]

^ 同年版のギド・ルージュで紹介されたレストランは1万軒以上

 

 

2020/1/12 01:00 産経

三井 美奈

【国際情勢ファイル】自殺者も出るミシュラン格付け 元三つ星シェフの提訴に司法判断は

赤表紙のレストラン番付ガイド本「ミシュラン」は、今や世界中に広がる。

日本のシェフたちの星をめぐる闘いは昨年、民放ドラマ「グランメゾン東京」の題材になった。本国フランスでは、星を落とす恐怖で自殺者が出るほどプレッシャーは強烈。最近は三つ星を奪われたシェフが抗議してミシュランを訴え、料理界の話題をさらった。

アルプスの名店「ラ・メゾン・デボワ」を経営するマルク・ベイラ氏(69)は、黒い帽子とサングラス姿で厨房を指揮する名物シェフ。自家農園直送の素材を使い、玉手箱のように華やかに仕上げた料理が自慢だ。2018年、待望の三つ星を獲得。ミシュランは「悪魔のように卓越した創造性」と絶賛した。

それからわずか1年後、二つ星に格下げされた。ベイラ氏は「料理の質は全く落ちていない。審査ミスだ」と怒り心頭で昨年秋、ミシュランを提訴。調査員の資格や審査報告書の開示を要求したうえ、「格下げでうつ状態になった」として1ユーロ(約120円)という象徴的金額の慰謝料を請求した。「調査員は、サボワ地方名産のチーズ『レブロション』を認識できず、大量生産のチェダーチーズと勘違いしたのだろう」と、テレビや新聞で不満をぶちまけた。

注目の判決は、昨年のおおみそかに出た。パリ郊外、ナンテール裁判所は「審査員の評価は、表現の自由に基づく」としたうえで、「原告は、評価の独立性を損なうに足る正当な理由を示していない」と断じた。名物シェフの完敗だ。

ミシュランは弁護人を通じて「消費者のために評価する権利が認められた。ベイラ氏は中傷をやめよ」とコメント。ベイラ氏に、3万ユーロ(約360万円)の損害賠償を求めた。

訴訟が注目されたのは、裁判の過程で、ミシュラン伝統の秘密審査に風穴があくのではないかと期待されたからだ。星番付をめぐるシェフの苦悩は、いまや社会問題化している。

ミシュランガイドは元々、タイヤ会社のミシュランが客に無料で配ったホテル、飲食店案内だった。現在の格付けは1930年代に始まり、いまや一つ星を取れば「客が30%増える」と言われるほど。一方、星を獲得した途端、シェフは星喪失の恐怖から逃れられなくなる。2003年、三つ星剥奪の噂を報じられたシェフが拳銃自殺。16年にはスイスの三つ星シェフが猟銃自殺した。

三つ星店は味だけでなく、サービス人員や装飾、高級素材をふんだんに使う「品格」を求められる。プレッシャーから「見失うものが多い」と星を辞退するシェフも相次ぐ。「世界一多くの星を持つシェフ」といわれた大御所、故ジョエル・ロブション氏も1996年にいったん返上した。当時、「金塊のように高価な手長エビを仕入れ、白綿のような身だけをすくう日々。常に完璧を求めるあまり、消耗した」と述べたという。

公表される審査基準は、(1)素材の質(2)調理技術の高さ(3)独創性(4)価値に見合う価格(5)料理全体の一貫性-の5つ。三つ星は「それを味わうために旅行する価値がある卓越した料理」に与えられる。三つ星店には3度、秘密調査員が訪れるといわれるが、真相は謎のまま。かつて、元調査員が「実は毎年、訪問調査をしているわけではない」と書いた暴露本を出版し、ミシュランと訴訟合戦になったこともある。

三つ星が、だれにとっても「最高の店」とはかぎらない。

三つ星発表とともに、外国から予約が殺到。フランスの一流店なのに、店内で聞こえるのは英語ばかりということも珍しくない。ある有名店を訪れたとき、中国人の若いグループがひと皿ごとに写真を撮り、「デザートは不要」と言ってさっさと帰ったのを目撃した。

パリの有名店なら、コースで14万円はザラ。ワインを頼めば、2人であっという間に10万円だ。折からの和食ブームで、「焼きナスの付け合わせ」「和風だしのジュレ」「イチゴのワサビ添え」など「独創的」な料理が出てくると、日本人客は「大枚はたいて高級フレンチを食べにきたのに」と少々がっかりするかもしれない。

89年には60万部を売り上げた仏版ミシュランガイドも、最近は56万部。インターネットの飲食店評価に押されたうえ、「世界のベストレストラン50」などライバルも続々出現した。

それでも、ミシュラン神話は衰えない。名店を探すとなると、正体不明のネット調査より、伝統が支える格付けに信頼感で軍配が上がる。

新年に星付き店をのぞいてみた。白いクロスの食卓に案内されるときの高揚感。宝石のように美しいアミューズ、黒トリュフを惜しげもなくふりかけたブレス産鶏-夢見心地の空間は、まさにフランス料理の殿堂ならでは。昨年来交通ストが続くパリで、仕入れからサービス係の通勤まで苦労しているはずだが、そんな裏側はみじんも感じさせない。

ミシュランと闘うベイラ氏の店は昨年、7%客足が増えたとか。これも星の伝説がなせる業だろう。今年の仏版番付は127日に発表される。(パリ支局 三井美奈)

 


(現場へ!)フランス語と私:1 「わからない」がスタート

202448日 朝日

 パリで洋菓子を極めたくて、言葉がわからないままフランスに飛び込んだ。それから20年あまり。杉山あゆみさんは今、パリで一つ星のレストランを経営し、コース料理のデザート作りも担っています。フランス人の言葉に耳を傾け、社会に根を下ろすようになりました。

 お店では、コース料理を取り仕切るシェフと、「こういうものが作りたい」とフランス語で相談しながらデザートを作っています。

 菓子店のデザートとレストランのデザートはまったく違います。お店では持ち帰りやすくするため、ゼラチンで固めたり、カップに入れたりしないといけない。レストランではすぐに食べますから、食感や温度など、いろいろ遊べて可能性が広がります。

 幼稚園の頃から、パン屋さんかケーキ屋さんになりたいと思っていました。製菓専門学校に通い、洋菓子店で2年弱働いてから、2003年にパリに渡りました。

     *

 語学学校に入り、3カ月くらいしてパリの菓子店を回りました。「お店で働かせてください」というフレーズを覚えて。言葉を返してくれるんですけど、フランス語だからわからない。日本人の菓子職人のつてで有名店で働くことになったのですが、「この材料を何グラム、下から取ってこい」といった指示がわからない。

 そのお店では「すり足」を注意されたんです。「地面を擦る音がうるさい」と言われ、やる気がないようにも見えたそうです。この時、「私はもう日本にいないんだ」とよくわかりました。私は来ている側なのだから、そこで働くには受け入れられないと、と思ったんです。

 フランス各地のレストランでも(デザートを担当して)働いた後、16年にパリで自分のレストランを開きました。

 私はフランス人が話す内容を聴くことで言葉を覚えてきました。家ではラジオをつけっぱなしにし、外では人に道を尋ねて、「ああ、こういう言い方をするんだ」と学びました。自分でも試してみて、伝われば「あ、これでいいんだ」と。

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 お店を持つようになってからは、お客さんとのやりとりも増え、言葉の表現が広がりました。経営者として給料の交渉もしますので、語学力は伸びました。

 やはりフランス人の中に飛び込んで会話をすることは大事だと思います。「言葉がわからない」で終わらせず、わからなかったら「こういうことですか」と確認して会話を続けることです。日本人はよく、わからなくても「Oui」(はい)と言ってしまいがちですが、あとで「あの時Ouiと言ったじゃないか」と言われます。「わからない」とはっきり伝えれば、言い換えてくれますので、それもまた学びになります。(聞き手・疋田多揚)

     

 82年生まれ。静岡県出身。16年にパリでレストラン「ACCENTS table bourse」を開き、19年にミシュランの一つ星を獲得した。

     

 言語には、一つ一つに違った味わいがあります。その響きには、社会の音色も刻まれています。この夏、五輪を開くフランスはどんな響きの国なのか。飛び込んだ人たちを紹介します。

 

 


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