ウィーン ユダヤ人が消えた街  野村 眞理  2024.2.3.

 2024.2.3.  ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト

 

著者 野村 眞理(本名中澤眞理) 1953生。西洋史学者。金沢大学名誉教授。専門は、社会思想史歴史学地域研究03日本学士院賞を受賞。日本学術会議会員や日本学術振興会学術システム研究センター主任研究員も務めた。学位は博士(社会学)1994年、一橋大学

山口県生まれ。県立女子高を経て、19763月、埼玉大学理学部数学科卒業。同年4月、一橋大学社会学部に入学し、19793月卒業。19813月、一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。19833月、同博士課程中退。一橋大学では良知力の指導を受けた。

2003年『ウィーンのユダヤ人』で日本学士院賞受賞。金沢大学教員としては46年ぶりであった。同年、金沢市文化賞受賞。2004年、日本学術振興会特別研究員等審査会専門委員2006年、第20日本学術会議連携会員、2008年、第21期日本学術会議会員。2014年、大学評価・学位授与機構大学機関別認証評価委員会専門委員。2016年、日本学術振興会学術システム研究センター人文学専門調査班主任研究員

19834月~ 一橋大学社会学部助手

19894月~ 金沢大学経済学部助教授(経済史学)

19964月~ 金沢大学経済学部教授

20064月~ 同学部長

20084月~ 金沢大学の改組により、人間社会研究域教授、同経済学経営学系長

20144月~ 同人間社会研究域副研究域長

20194月~ 同人間社会研究域経済学経営学系客員研究員(名誉教授)

 

発行日           2023.11.14. 第1刷発行    

発行所           岩波書店

 

カバー袖裏

ナチ・ドイツの犠牲者か、ホロコーストの協力者か

世紀末ウィーンを支えた18万人ものユダヤ人社会は、第2次大戦が終わった時、消えてなくなっていた。アイヒマンを出世街道に押し上げた「ウィーン・モデル」は、いかにしてかくも苛烈なユダヤ人追放を可能にしたのか。オーストリアにおいて、ホロコーストはいかにして起こり、また、いかにして「克服」されたのか。犠牲と加害の狭間を揺れ動いたオーストリアの近現代史を、戦前の反ユダヤ主義から戦後の歴史政策も含めて描ききる

 

「つまずきの石」は、ナチ迫害の犠牲者を想起するためのモニュメントの1つ。約10㎝四方の真鍮のプレートに、氏名や生年、移送先、死亡場所等が刻まれ、彼ら/彼女らが最後に住んだ家の近くに埋め込まれている

表紙写真の石(バウムキルヒナーリング5番地)に刻まれたミュラー 一家は19383月のドイツによるオーストリア合邦後、ヴィーナー・ノイシュタットでの住まいと店を奪われた。石には記されていないが、その後一家はウィーンのレオポルトシュタットに引っ越し、アメリカやパレスティナへの移住の可能性を探ったものの実現せず、ウィーンから、当時のチェコの都市プラスチラヴァに向かたようだ。しかし、チェコも翌年3月ナチ・ドイツに解体される。詳細は不明だが、一家は424月にルブリンへと移送され、最終的に全員がホロコーストの犠牲となった

「つまずきの石」については、犠牲者を死後も踏み続けるようだとの批判がある一方、これを見て、かつてここに住んでいた人々の運命に思いをはせる人は少なくない

 

 

本書が辿るのは、ホロコーストの嵐の中でっウィーンのユダヤ人社会が消えてゆく道程である。両大戦間期オーストリアのユダヤ人はほぼウィーンに集中しており、従って本書は、「オーストリアのホロコースト」を語る歴史書だが、登場人物は、ホロコーストの執行者であるナチ・ドイツと犠牲者であるユダヤ人がすべてだろうか

旧ソ連のドイツ占領地も含めたホロコーストの歴史研究が始まるのは、1989年に始まるソ連体制崩壊後、90年代に入ってからで、ホロコーストと現地の人々との関係の問い直しが進む。さらには第2次大戦以前に存在した苛烈な反ユダヤ主義や、戦争中の現地住民によるホロコースト加担、戦後も根深く残存し続けた反ユダヤ主義など、議論が発展するなか、特に旧東欧諸国では国民国家史の再構築と国民的自尊心の回復が進められたが、彼らの歴史の負の側面を白日の下に晒すような研究は、時として激しい反発を呼び起こした

オーストリアでは、1986年のヴァルトハイム事件で問題が明るみに。大統領選で出馬したヴァルトハイムが元ナチ突撃隊員で、ドイツ国防軍の作戦参謀本部勤務が暴露され、国外のユダヤ人団体からホロコースト関与疑惑をかけられたのに対し、オーストリアの国民感情は外国ユダヤ人による選挙介入と見做し激しく反発し、第6代大統領に選出

この事件を契機に、オーストリアは自国史の検証を迫られることになる

1938年、ドイツによる合邦(アンシュルス)までに、オーストリアには自国独自の反ユダヤ主義の長い歴史があった。合邦後、大ドイツ帝国の一部となったオーストリアの国民は、ドイツの被占領民ではない。親衛隊に入隊したオーストリア人は、ドイツ人と同格のホロコースト執行者だったが、戦後のオーストリアはドイツの侵略によって独立を喪失した最初の犠牲国を名乗る。この立場を揺るがすような自国の反ユダヤ主義の存在やホロコーストへの加担は、国家の都合によって「封印された過去」となった

本書は、ウィーンのユダヤ人社会消滅の道程を、合邦時代に加え、その前史、後史を含め3部に分けて「オーストリアのホロコースト」を描くことを目指すと同時に、「反ユダヤ主義」をキーワードとするオーストリアの近現代史再考の試みでもある

欧米語では「ユダヤ人」と「ユダヤ教徒」は分離しがたい概念。分離が問題になるのは、ナショナリズムが盛り上がった19世紀からのこと

 

第I部      オーストリアの反ユダヤ主義

はじめに

オーストリアの第1共和国時代はほとんど何もうまくいかなかったが、1945年に始まる第2共和国は新しい可能性の始まりの時代と位置付けられる

1955年、永世中立国宣言、国際的理解も得て国連都市になる

1000年前にスイスで発祥したハプスブルク家は、オーストリアを中心に中部ヨーロッパで大帝国へと発展し、その最後に世紀末ウィーン文化を開花させた

2次大戦後のオーストリアの自己認識によれば、38年のドイツによる合邦は、外から自国に加えられた最大の不公正だったが、反ユダヤ主義については、ヴァルトハイム事件以後オーストリアに歴史的に存在した反ユダヤ主義は広く研究者の関心を集めたが、第1共和国期の反ユダヤ主義については今も全体像を明らかにするような研究が行われているとは言い難い。当時の反ユダヤ主義者はナチのそれとの差異化に必死だったが、38年ナチ流の反ユダヤ主義が入って来たとき何の防波堤にもならなかった

1章では、19世紀末に遡り、近代的反ユダヤ主義言説の形成過程とその背景を探る

2章では、19世紀末からの連続性と断絶性を意識しつつ、第1共和国における反ユダヤ主義の諸様相を検証

3章では、反ユダヤ主義が招いたユダヤ人社会の政治的孤立と窮乏化を明らかにする

 

第一章      近代的反ユダヤ主義言説の形成

1.    近代の成功者ユダヤ人

l  ユダヤ人社会の形成

1849年、皇帝が欽定憲法発布、法の下の平等を保障したが、51年のジルベスター勅令によって廃止。1780年代から始まったユダヤ教徒の解放は、1867年の憲法発布で実現

1670年、レオポルド1世によってユダヤ人が追放され、1848年までユダヤ人の居住が禁止されたが、一部有力経済人は除外され、彼らの力で自由主義市場経済への転換が進む

1850年代の経済活動の自由化に伴い、ユダヤ人に対する移動制限も事実上撤廃され、1857年、ウィーンの市壁撤去の勅令で始まった都市改造と建築ブームの時期に、ユダヤ人社会形成が始まる

l  「変えようのないことを忘れる人は幸せ」(《こうもり》の1)

1867年、アウスグライヒ(和協)締結によって成立した同君連合国家、オーストリア=ハンガリー二重君主国は、60年代後半には810%の経済成長率を記録

1873年の万国博開催まで、街は投機熱に沸き立つが、開幕直後からバブル崩壊、コレラの流行と相俟って世界的な構造不況に発展。《こうもり》の初演は74

当初政治的主導権を握ったのはドイツ自由派とその恩恵を受けた上・中流ブルジョア階層だが、バブル崩壊によって資本主義経済の矛盾が露呈、貧富の格差は拡大の一途を辿る

 

2.    大衆政党の登場――社会民主党とキリスト教社会党

貧困や社会の矛盾解決を掲げた大衆政党が登場、さらに個人の利己主義と等置された自由主義への批判や、自由主義の受益者と見做されたユダヤ人批判へと発展、ユダヤ精神と利己主義を等置する近代的反ユダヤ主義言説を生み出す

l  社会民主党

1867年設立の労働者教育協会等を足場として、社会主義労働者運動が進められ、党派対立を乗り越えて1888年ヴィクトール・アドラーの尽力により社会民主労働者党結党

1896年、選挙法改正により一般選挙人が導入され、初めて帝国議会に議席を確保。1907年の 初の男子普通選挙では大躍進。資本主義批判の中に反ユダヤ主義の入る余地はない

l  キリスト教社会党

キリスト教社会運動も同時期に立ち上がる。信仰の自由など、宗教的寛容の態度を拒絶した教皇も、深刻な労働者問題が社会主義労働者運動を活発化させたことに対する危機感から態度を軟化、1891年には自由主義に支えられた現存の資本主義社会を原則的に承認

カール・フォン・フォーゲルザングを思想的出発点として、労働者のための社会改革を掲げ1887年キリスト教社会協会を設立、後のカール・ルエーガーによる立党の母体となる

 

3.    キリスト教社会党の反ユダヤ主義

l  「誰がユダヤ人かは私が決める」

キリスト教社会運動の際立った特徴は、労働問題を資本主義のメカニズムに求めず、資本主義を支える自由主義が物質主義、利己主義へと堕落したことによって発生すると唱えること。その堕落の原因であり、そこから利益を得ているのが、物質主義、利己主義を特徴とする「ユダヤ精神」の持ち主のユダヤ人だとして、非難の矛先をユダヤ人に向ける

荒唐無稽な反ユダヤ言説が違和感なく受け入れられる背景には、金儲けを否定的に捉えるキリスト教の社会倫理思想の存在と、貨幣に関わるのはユダヤ人という近代以前のユダヤ人イメージの残存がある

党のマニフェストでも、ドイツ人の政党であることを宣言

一般益な理解では、「人種」は遺伝によって伝わる生物学的特徴を共有する人間集団の分類を意味し、「民族」は歴史的に形成された文化的共通性に基づく人間集団の分類を意味する。

民族文化や民族気質は、言葉によって學繻子あれ、伝承されるものであり、遺伝によって伝わるものではない。これに対し、ヨーロッパで19世紀後半から盛んになる似非科学的人種主義の特徴は、そうした民族性を人種的に捉えることで、物質主義、利己主義はユダヤ人の民族的かつ人種的特性であり、キリスト教に改宗しても変えようのないものとする

キリスト教社会党はカトリックの政党だが、カトリックは人種の存在を否認しない一方、公式には人種に基づく差別は否認するものの、「ユダヤ精神」を攻撃する人もいて、各人ごとに矛盾に満ちたもの。ウィーン市長ルエーガーは公然たる反ユダヤ主義者だが、政策実現のためにはユダヤ人も受け入れ、批判されると「誰がユダヤ人かは私が決める」と言った

l  多民族国家の反ユダヤ主義

キリスト教社会党はあくまでもハプスブルグ君主国に忠実な政党であり、多民族国家において、ドイツ人は支配民族ではあっても君主の下では各民族は平等

帝国議会でドイツ自由派の優位が崩れていくに従い、人種的反ユダヤ主義への傾斜が始まり、ドイツ自由派は分裂、ドイツ人の民族国家の一員を目指す運動は衰退

 

第二章      両大戦間期オーストリアの反ユダヤ主義

1.    反ユダヤ主義言説の転換

l  ハプスブルク君主国解体

1次大戦後、ハプスブルクの版図には国民国家が誕生、特定の民族名を冠した後継諸国家で問われたのは国家名とは異なる民族が国家内で存在することの正当性であり、「少数民族問題」として「問題化」され、国家と民族の関係の変化が、後継諸国家のユダヤ人のあり方にも、反ユダヤ主義の言説にも転換をもたらす

オーストリアについて言えば、大戦中東部ガリツィア戦線で発生したユダヤ人戦争難民の大量流入が、戦争中からウィーン市民の反ユダヤ感情を煽る

l  オーストリア共和国の誕生

1918年、カール・レンナー率いる社会民主党のリーダーシップによりドイツオーストリア共和国設立。工場労働者のストライキや、ロシア革命の影響を受けた急進左派を抑える

l  ガリツィア・ユダヤ人戦争難民問題

1923年頃まで騒動を起こしたのは、難民流入に反対した反ユダヤ主義者

開戦直後、ガリツィアの全域がロシア軍に占領され、大量の戦争難民が発生、15万がウィーンに流入、ユダヤ人が半数を超えていた。終戦とともにポーランドが復活したが、ポーランド・ナショナリズムに煽られた住民のユダヤ人に対するポグロムが頻発、ポグロムによる難民流入に対し、オーストリアでは過激な反ユダヤ主義者による排斥運動が起こる

l  大ドイツ国民党

露骨な人種的反ユダヤ主義を掲げたのがドイツ民族主義の諸グループが結集した大ドイツ国民党。リベラリズムとマルキシズムにその影響が現れた個人主義という世界観は、わが国民の団結にとって破壊的であり、ユダヤ人はその性格、天分から見て徹頭徹尾個人主義者であり、個人主義という世界観はユダヤ精神においてこそ最も確かな土台を有しているため、個人主義との戦いはユダヤ精神との戦いにならざるを得ないとする

建国にあたって、当初は人種的帰属の定義に踏み込まず、ドイツ語学校での在籍証明などによる言語的帰属の証明を重視して国籍を決めたが、行政裁判所が言語的帰属の証明は人種的帰属の証明としては不十分だとしたため、以後ユダヤ人からの言語的帰属の証明による国籍申請が却下される。もともとウィーンにいてオーストリア国民となったユダヤ人にも影響

l  イグナツ・ザイペル(192130年 キリスト教社会党党首)

建国に際して、キリスト教社会党は少数民族保護の規定を遵守し、過激なユダヤ人排除に同調する党員は少数。ユダヤ民族への帰属は個々のユダヤ人の決定に委ねられるべきだとし、ドイツ民族に帰属すると考えるユダヤ人やキリスト教に改宗したユダヤ人は、(「良いユダヤ人」として)我々の共同体に受け入れられるべきだとした

 

2.    オーストリア・ナチの登場

1922年を頂点としてハイパーインフレが収まると、ユダヤ人問題も下火となったが、過激さにおいて注目を集めるようになったのがナチ

l  ドイツ労働者党からドイツ国民社会主義労働者党へ

オーストリアでナチの源流とされるのは複数存在するが、直接第1次大戦後へと繋がるのは、1903年設立のドイツ労働者党。チェコ人の流入により地位が脅かされると感じたドイツ人労働者によって結成。第1次大戦後は、オーストリアとドイツ、チェコの3グループに分割されるが、これらのドイツ国民社会主義を掲げる運動の特徴は、その全ドイツ主義において国境を超えた運動だったこと。1919年ミュンヘンでドレクスラーがドイツ労働者党を設立し、翌年党名を国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改め、ドイツ、オーストリア、チェコの国民社会主義者を集めた国家間会議をザルツブルクで開催

l  オーストリアにおける「ヒトラー運動」

当初オーストリアでは、大ドイツ国民党と連携して議会制の枠内で議席を得ることを目指したが、ヒトラーに心酔する過激派と路線対立が起こり、1926年過激派は離党してドイツ国民社会主義労働者協会を設立、別名「ヒトラー運動」を名乗る

l  反ユダヤ主義行動の過激化

30年代に入るとナチスの大躍進と平仄を合わせるように主導権を握る。32年のウィーン市議会選挙では得票率17.67%を獲得、ユダヤ人ボイコット運動を過激化させる

学生組合でもユダヤ人排斥が起こり、ユダヤ人教授の講義の妨害が頻発

 

3.    真のドイツ性と反ユダヤ

l  グフェルナーの司教教書

1次大戦後、ドイツオーストリアは単独では生存能力を持ち得ないと見做され、ドイツが合邦し、ドイツ人の民族自決国家が設立されることが想定されたが、連合国によって合邦は禁じられ、ドイツの文字が消されオーストリアとなったものの、英仏伊チェコとの復興協定による国際借款によって乗り切ったのも束の間、世界恐慌によって経済が破綻、政権は祖国戦線を創設するが、不満分子の活動は先鋭化

1933年の教書で、リンツの司教グフェルナーは、「諸民族に優劣はなく、隣人愛の関係で結ばれなければならない。ユダヤ人をその血筋のみによって蔑み、憎み、迫害することは非人間的であり、非キリスト教的」だとし、人種的反ユダヤ主義を否認する一方で、神に背を向けた多数のユダヤ人が近代文化生活のほとんどすべての領域に極めて有害な影響を及ぼしていることは疑いないとして、反ユダヤ主義一般を否認するわけではないとしている

実社会のなかで唯物主義的、自由主義的諸原則が幾重にも入り込み、解体を引き起こしているのは、大部分ユダヤ精神に由来するものであり、堕落したユダヤ精神は、世界フリーメイソンと結びつき、拝金主義的資本主義の主たる担い手、社会主義や共産主義の主たる創始者にして唱道者、ボリシェヴィズムの使者にして先導者であるとして、ユダヤ精神の有害な影響と闘い、それを破壊することは、キリスト教徒11人の権利のみならず、厳格なる良心の義務であると説く。教書の後半では、ナチの人種的全ドイツ主義批判にあてられ、合邦を批判、ナチのように宗教に優越する人種的ドイツ性や民族に従属させられたドイツ教会は容認されてはならないとしている

l  ユダヤ人の苦境

オーストリアはユダヤ人を人種的に排除はしないが、彼らの説く真のドイツ民族主義は、ユダヤ精神に対する精神的倫理的反ユダヤ主義をその一部としており、ナチの反ユダヤ主義とその苛烈さを競い合う奇妙な関係に立つ。ここでも「信仰篤いユダヤ人」と「神に背を向けたユダヤ人」とを区別しており、その線引きは曖昧で、全てのユダヤ人差別に繋がる

1934年新憲法ですべての国民の平等が保障されたが、現実にはユダヤ人はあらゆる職業機会から排除されていく。ユダヤ人同盟は社会行政庁に抗議したが空しかった

 

第三章      ユダヤ人社会の政治的孤立と窮乏化

1.    世紀末ウィーンのユダヤ人

l  3層のアイデンティティ

世紀末ウィーンのユダヤ人のアイデンティティは3層をなす

    国家政治のレベルでは、熱烈なオーストリア=ハンガリー二重君主国の愛国者

    他民族の君主国において、彼らは文化的にはドイツ文化に帰属

    エスニックな帰属において、彼らはドイツ人ではなく、ユダヤ人意識を持つ人々

キリスト教世界の被差別民であったユダヤ人を平等な臣民とした君主国は、ユダヤ人にとって、生命・財産の安全を保障してくれる唯一の祖国

文化について言えば、世紀末ウィーンのユダヤ人とは、1848年の革命後君主国の諸地域から移住してきたユダヤ人とその子孫で、鉄道網の整備により遠くからも移動してきたが、これら移住者の第1世代は、キリスト教世界から孤立したユダヤ人社会の痕跡を引きずり、最後のガリツィアのユダヤ人は、世紀末でもなおイディッシュ語を母語とする者が多数だったものの、彼らの子や孫はウィーンでドイツ語で教育を受け、ドイツ文化を吸収しその信奉者となったのみならず、世界に名を知られるドイツ文化の創造者へと成り上がった

厄介なのは第3のエスニック・アイデンティティで、世紀末でもドイツ語/ドイツ文化への同化にも拘らず、ユダヤ人としてなお強くまとまりを持つ集団だった

法律上の差別が撤廃されてもキリスト教ヨーロッパ社会では数百年にわたって蓄積された偏見や社会的差別は容易に消え去ることはなく、執拗な反ユダヤ主義が存在した

l  ユダヤ人であることとは

ウィーンのユダヤ人の価値判断や行動様式を規定しているのは、敬虔な信者を除けば、ユダヤ教ではない。彼らの大半は、「3日間ユダヤ教徒」と言われる新年(ロシュ・ハシャナ)、贖罪の日(ヨム・キプル)、出エジプトの大祭日(ペサハ)のみユダヤ教徒であり、ユダヤ信仰に凝り固まったガリツィアのユダヤ人と同じユダヤ人として見られることを嫌った

ユダヤ人はドイツオーストリア国民だが、ドイツ人ではなく、ユダヤ人という少数民族を構成すると主張したのがユダヤ民族主義者たち

 

2.    政治的ホームレス

l  ドイツ自由派の没落

ユダヤ人にとって1848年のウィーン3月革命こそが解放の出発点で、彼らはカントやゲーテの精神に代表される世界の「ドイツ」に言語的・文化的に同化したのであって、1867年立憲体制移行後、ウィーンのユダヤ人が一貫して支持したのは反封建・反教権のドイツ自由派。ドイツ自由派は1896年の選挙法改正までは政治的優位を維持したが、普通選挙の実施により大衆政党時代に移行すると議席は急減、キリスト教社会党や保守派陣営に取って代わられ、ユダヤ人は支持する先を見失う

l  ユダヤ民族評議会

ユダヤ人はユダヤ人の政党に投票すべきと主張したのがシオニストで、1906年オーストリアの全ユダヤ人の政党・ユダヤ民族党を設立したが、翌年選挙での当選者は4人のみ

1共和国成立後、オーストリアのユダヤ人はわずか22万人、大半はウィーンでドイツ文化に帰属。旧体制下ではすべての民族の平等を謳い、一定の条件下で諸民族が自民族の言語で初等教育を受ける権利を保障していたが、まとまった居住地域を持たず共通の日常使用言語を持たないユダヤ人はそのような権利の保障の対象となる民族とは認められていなかったところから、シオニストはユダヤ民族評議会を設立して、ユダヤ人を1つの民族として承認することを要求。ウィーンのユダヤ人の多くはこれに驚き反発、民族としての承認は、ユダヤ人の人口比率に対応した大学入学者数制限枠の設定など、ユダヤ人差別に悪用されかねなかった

l  ユダヤ人票の行方

国民議会選挙では、ユダヤ人が10%を占めるウィーン全体で民族党が獲得したのは2%にとどまり、以後も国政選挙でユダヤ民族主義を掲げる候補者が当選することはなかった

キリスト教社会党は、自由主義経済競争の中で没落する小市民層を支持基盤として登場し、反ユダヤ主義は、資本主義の担い手としてのユダヤ人に対する闘争を正当化したのに対し、資本主義によって搾取される労働者のための政党である社会民主党は、階級闘争のための政党であり、いかなる反ユダヤ主義も否認したため、両大戦間期のユダヤ人有権者は社会民主党に投票。眼前の反ユダヤ主義の横行に対して結局は何もしない態度に行きつく

l  ゲマインデ(共同体)の民主化

ウィーンのユダヤ人は、民族と見做されることを拒否し、シオニストの動きにも無関心で、シオニストによるパレスティナでのユダヤ国家設立運動に対しては、自分たちの現状に影響を及ぼさない限りで共感を示すものも少なくなかったが、彼らの理解ではパレスティナ移住はポーランドなど貧困と迫害に苦しむユダヤ人のための救済策の1つという位置付け

 

3.    ユダヤ人社会の窮乏化

l  深淵よりも深く

独立当時、生存能力を持たないと言われた「残骸国家」オーストリアで、ユダヤ人社会の悲惨さは一層際立つ

l  ユダヤ人であることの不幸

公の支援を受けるにしても、管理人はキリスト教徒であり、施設はキリスト教の精神や慣習に従って運営されるのが普通なので、ユダヤ人は自らの共同体内で解決せざるを得ず、ユダヤ人のための社会福祉がゲマインデの最も重要な事業だった

世界恐慌が貧困に拍車をかける。オーストリアではナチのような反ユダヤ法は制定されなかったが、ユダヤ人の生存条件は奪われていった

 

第II部    ホロコースト

はじめに

19383月、一夜でウィーンの街の風景は一変。前月ヒトラーが「ベルヒテスガーデン協定」への署名を強要、それを拒否するとナチ軍が国境を超えて進駐。オーストリアとドイツの再統一法を起草、合邦が宣言された

 

第一章      エクソダス

1.     合邦の衝撃

l  総統に感謝しよう

経済的危機への無策への不満と救世主ヒトラーへの熱い期待があったとはいえ、合邦賛成が99%以上というのは圧倒的。失業者は急減し、42年だけでもナチ党登録者は68万人超。国民の間で、大ドイツ帝国がどのようにメージされていたのかは不明だが、ナチの反ユダヤ主義に対しては国民の間にほとんど何の戸惑いもなかったらしいのは確認できる

合邦宣言翌日から、ユダヤ人は道路磨きに引っ張り出される。「総統に感謝しよう。ユダヤ人に仕事を作ってくださった」。何よりの屈辱は野次馬と化した多くの同胞の存在

l  アーリア化

ユダヤ人は職場から追放され、法的保護の埒外に置かれた住居は略奪の対象となった

「アーリア化」においてオーストリア独特の方式が「管財人制度」――かつて迫害されたナチたちへの「補償」と見做されたが、実際に起こったのはユダヤ人財産や事業の私的な略奪や乗っ取りで、ドイツで反ユダヤ的弾圧措置で5年かけて実施されたことが、オーストリアのユダヤ人には5日で強制されたと言われ、経営のアーリア化はあっという間に完了

ウィーンに7万戸あったユダヤ人の住居は、年末には2万、うち40%はワンルーム

 

2.     ウィーン・モデルとは何か

l  5年が5日」の勢いで

合邦から大戦開戦前のナチの反ユダヤ政策の重点は、社会のあらゆる領域からの排除と財産の収奪、移住という名の追放の促進に置かれた――親衛隊保安部所属のアイヒマンが考案したホロコースト研究で「ウィーン・モデル」と呼ばれるユダヤ人の移住促進方式により、移住本部によるワンストップ的な処理が効率を上げた

l  ドイツの状況

ユダヤ人の移住/追放は、財産没収とセットで執行されたが、元々裕福なドイツ人による資本流出を防ぐために時限立法として出国税が設けられていたが、それを期限延長し、低所得のユダヤ人にも適用、さらに残余の財産についても両替を義務付け、その際の損失率を上げていったため、39年には損失率は96%に上る

財産収奪により、ユダヤ人は移住しようにも移住費用がなくなり、移民の受け入れ国側も無一文の者は受け入れず、裕福なユダヤ人の場合も、輸入急増で外貨が底をついたドイツでは、両替用の外貨さえ惜しかった事情もあって、移住促進政策との矛盾を露呈

l  ナチの不満

ドイツでは、移住は内務省移民局の管轄でナチは関わらず、非営利組織のユダヤ人援助協会などの組織が裕福なユダヤ人の移住を支援するとともに、資金をプールして貧困ユダヤ人の出国を支援したため、ナチ親衛隊による移住業務の完全掌握が急務だった

l  ウィーンのアイヒマン

合邦直後にウィーンに赴任したアイヒマンは、ゲマインデを改組して移住本部を立ち上げ、自らの管轄下に置き、まず2万人の自主移住計画を立てさせる

l  外貨の調達と運用

まずは外国のユダヤ人団体の金銭的支援の取り付け、その資金と、移住する裕福なユダヤ人から徴求した資金により、ゲマインデが貧困ユダヤ人の移住を支援する仕組みを作る

l  持てる者と持たざる者

ユダヤ人の救貧はユダヤ人の自助によるとされたため、ゲマインデは資金を貧困ユダヤ人の救済にも活用。3811月の「帝国水晶の夜」と呼ばれたポグロムで発生した損害も、ユダヤ人財産税の新設でユダヤ人自身によって償われた

パレスティナには、1000ポンド以上の財産を持参する資本家の移住には人数制限がなかったので、資本家枠で移住するものにはゲマインデが1000ポンドの外貨を渡したが、見返りに公定レートの何倍ものマルクが払われ、救貧に充当された。裕福なものはゲマインデに不当に収奪された不満があり、貧困者からは富裕者優遇とみられた

 

3.     ユダヤ人移住本部

l  移住手続きの迅速性

合邦直後から、ナチの敵対勢力狩りが始まり、続々とダッハウ強制収容所へ移送された

当初は、直ちに国外移住することを条件に解放された者が少なくなかったこともあり、収容所への移送がユダヤ人に対する移住強制の手段の1つだった。それもあって移住希望者が出国許可証を求めて殺到したため、移住手続きの迅速化が急務となり、アイヒマンの実質的な指揮によりユダヤ人移住本部が開設され、出頭後8日で旅券入手が可能となる

l  旅券賦課金

移住本部は、資力あるユダヤ人から、経済省が徴収した出国税などとは別に、旅券賦課金を徴収、後に続く貧困ユダヤ人の移住費用に充当。4110月ユダヤ人の(国外)移住は全面的に禁止されるが、清算後の残金は、最後までウィーンに残ったユダヤ人の多くが移送されたテレージェンシュタット強制収容所の維持費に使用された

l  無力な機関か

ウィーンのゲマインデは、移送・移住が終了する42年まで、公法上の自治的団体の資格を維持し、自ら外国からの援助金や裕福な国外への移住者から徴収した資金をプールして外貨運用できたからこそ、「ウィーン・モデル」が有効に稼働したもので、ドイツではゲマインデの自治的団体の資格を剝奪したために同じ形態はとり得なかった

ゲマインデは、ナチの意に従う以外の選択肢を持たない「無力な機関」ではあったが、強力な移住促進機関でもあった。調達した外貨の総額は420万ドル、それを売って2120万マルクを稼ぎ出し、移住者の半数にあたる5万人超の移住を支援している。移住先の確保についても、シオニストが担当したパレスティナ以外への移住は、ゲマインデが紹介

 

第二章      移住から移送へ

1.     第二次世界大戦開戦から独ソ戦まで

l  「問題はその後に始まるのです」

アーレントは、「悪の凡庸さ」と言っただけでなく、犠牲者ユダヤ人に生じた「道徳的崩壊」をも糾弾したため、ユダヤ人の激しい反発を引き起こした。絶滅収容所への移送の際、ユダヤ人社会の指導者は唯々諾々としてナチの命令に従い、ナチが期待した以上の協力を与え、命令に対して「何もしない」という可能性は残されており、そうすればホロコーストの犠牲者はかくも膨大にはならなかったという。特に416月の独ソ戦開戦を境として、「問題はその後に始まるのです」と言って、ユダヤ人評議会(ナチの指示で各ゲットーに設置されたユダヤ人の自治組織)の役割が根本的に変化したと指摘

ウィーンでは、既存のゲマインデが再編され、その執行部がユダヤ評議会の役割を担った

l  ニスコ

海外移住についてゲマインデに「何もしない」という選択肢があり得ただろうか

19399月の独ソによるポーランド分割完了により、ドイツは占領地に200万のユダヤ人を抱え込み、外貨不用の「新移住先」が設定された

19393月、アイヒマンはプラハに転任、オーストリアも含めたユダヤ人の移送に関与、新たなドイツ東部国境近くの町ニスコへ大量移送開始。ニスコに分割線の彼方への追放に向けた通過キャンプを建設する人数だけを残し、後はソ連に向けて追放

l  総督府への「移住」

ソ連の勢力圏に取り込まれた民族ドイツ人が回収され、彼らのためにドイツ併合地のポーランド人やユダヤ人が追放される

ウィーンのユダヤ人も、住宅難解消の名目でポーランド総督府に送られることになる

 

2.     ユダヤ人社会の消滅

l  東方へ

19416月、独ソ戦開戦後、ドイツの新占領地では、ユダヤ人の大量射殺執行――これをもってナチのユダヤ人絶滅政策の始動と見做す見解もある

レニングラードを包囲し、キエフを陥落させると、独ソ戦の進展に自信を得たヒトラーは、大ドイツ帝国領域の「ユダヤ人浄化」実現に向け、総督府(ポーランド占領地)への移送を了承。年明けを待ってソ連に追放する計画で、4110月をもってユダヤ人の国外移住禁止

ユダヤ人の移送は、総督府内のヘウムノ絶滅収容所の稼働と連動し、さらに移送先にもなった周辺のラトヴィアのリーガやミンスクで現地ユダヤ人の大量殺害も引き起こす

ナチのユダヤ人政策は、独ソ戦の行き詰まりと対米参戦辺りで、追放から占領地内での殺害へと転換していくが、アーレントが問題にした41年の転換がこれである

l  「何もしない」という選択肢?

総督府への「移住」に関する情報が漏れ伝わるにつれ、自発的出頭に応じる者が減り強制連行へと変わり、その協力者にさせられたのが、ユダヤ人の国外移住禁止で移住事務から解放されたゲマインデ職員たち。ウィーンに残ったユダヤ人全体に責任を負うものとしてゲマインデの指導部に、「何もしない」という選択肢はあったのか

l  羊のようにおとなしく?

協力者のゲマインデ職員が嫌われたことは確かだが、彼らと移送されるユダヤ人との間に諍いが発生したかといえば、ウィーンに残るユダヤ人は、高齢や病気などで国外移住できなかった者たちとその世話をする家族が多数を占め、全体としてもはや闘う気力のある集団ではなく、黙々と協力者の指示に従っていた。ウィーンにはゲットーもなく、大量虐殺の光景など想像外で、移送も貨物車ではなく3等客車であり、移送先での虐殺死など予測できた者などいなかっただろう。生き残った協力者の回想でも、ワルシャワでの蜂起は生存の可能性を絶たれた絶望行為であり、ウィーンとは比較の対象にならないとしている

ウィーンのゲマインデは42年末その役目を終えて公法上の自治的団体という地位を喪失、ウィーン在住ユダヤ人長老評議会となり、ニュルンベルク人種法によって「人種的に」ユダヤ人とされたものすべての所属が義務付けられる。43年末時点で6259人が所属、うち5094人は非ユダヤ人と結婚している人種法上のユダヤ人

 

3.     正義と不正義の境界

l  テレージェンシュタットのムルメルシュタイン

アーレントに、「そんな単純なものではない。空前絶後の状況下に置かれていたのだから」と反論したショーレムが、「それでもユダヤ人の手で吊るされるに値する」と審判を下したのが協力者の指導者の1人だったムルメルシュタインで、彼はテレージェンシュタットに送られた後、ユダヤ人長老評議会の最後の長老となって、アウシュヴィッツへの最後の大規模移送の執行に関し、移送者リストを作成したとされる。アーレントが許せなかったユダヤ人の「道徳的崩壊」がこれだが、戦後の法廷では、最後の収容所長によって、彼がリスト作成を拒否したことが確認されている。収容所での生活の規律化に努めたとの証言もあり、最後は証拠不十分で46年末には解放されたが、オーストリアには帰らず、ラビのポストも得られず、1989年に死去したが、死後もラビが死者のための祈りを拒否、ユダヤ人墓地の端に埋葬されるなど、屈辱的な扱いを受け続ける

しかし、ホロコーストにおいて、殺されたユダヤ人だけが正義の人なのか

l  最後の不正義者

2013年公開の映画《最後の不正義者》(監督クロード・ランズマン)で、ムルメルシュタインは滔々と自己弁護を語り、「トロリー問題」で、何もしなければ5人が轢死するが、スイッチを入れ替えれば5人は助かる一方で、切り替えられた先の1人は死ぬというときに、彼は5人を取って1人を捨てたという。その5人も結局は殺害されることになるが、自らの選択に対する躊躇いも、自分が見捨てた1人に対する哀悼も、5人への哀悼も語ることはない。これこそ彼が嫌われる最大の理由。ただ、彼は自らが正義だとは言わず、ガス室で倒れ焼却された人を描いたシュヴァルツ=バルトの小説『最後の正義者』に対し、生き残った自分は「最後の不正義者」だという

ユダヤ人で脱ナチ化裁判にかけられた者も少なくないし、有罪判決を受け、獄中で自殺

したユダヤ人のナチ協力者もいる。当時のユダヤ人評議会の役割に対して歴史的判断を下すには、冷静さを保証してくれるような時間的距離が必要。今も答えは見いだせない

 

第III部     二つの顔を持つ国

はじめに

1945.4.13. ソ連軍によるウィーン解放が完了。ウィーンのユダヤ人にとって戦争はこの日に終了。ユダヤ人長老評議会が把握するユダヤ人は、44年末で5799

戦後ウィーンのユダヤ人数は徐々に増加するが、帰還はウィーン市民によって歓迎されたわけではなく、国民の46%はユダヤ人の帰還に反対

西ドイツにおける「過去の克服」の取り組みやナチによる迫害の犠牲者に対する補償は進むが、オーストリアについてはほとんど知られていない

 

第一章      オーストリアの戦後補償

1.     犠牲者援護法と返還法

l  オーストリアの独立回復宣言

2次大戦終結時、オーストリアは米英仏ソの分割管理下に置かれる

社会民主党と、地下組織「革命的社会主義者」が合同してオーストリア社会党結成

キリスト教社会党の後継としてオーストリア国民党結成

両党に共産党を加えた3党が連立して臨時政府設立に合意、第1共和国の首相だったレンナーを担ぎ出す。独立宣言は、4310月の米英ソ外相によるモスクワ宣言に基づき、ヒトラー侵略の最初の犠牲者であり、ドイツによって強要された合邦は無効だと宣言したが、オーストリアは、同じドイツ人の国であり、100%強要されたものかどうかは疑問

38年の合邦は、ドイツ人の民族自決という観点からは容認せざるを得ないが、ドイツの犠牲者であるオーストリア人と加害者であるドイツのドイツ人とは区別されなければならず、オーストリアの戦後補償はこうしたオーストリア政府の強い意思の下で進められると宣言

l  西ドイツの戦後補償

45年の総選挙で有効投票の49.8%の支持を得た国民党と44.6%の社会党との連立政権が誕生、現代に至るまで政権の基本的な枠組みとなる。レンナーは初代大統領に。戦前のあらゆる対立や、ナチの台頭と合邦を阻止できなかったあらゆる責任を互いに不問に付したまま、両者はオーストリアの再建に乗り出した

連合国によって支配されたオーストリアが、まずしなければならなかったのは自国の脱ナチ化であり、ナチによる迫害の犠牲者に対する補償

西ドイツの補償は、1956年の連邦補償法が出発点、剥奪財産については翌年連邦返還法制定。オーストリアの場合は1947年制定の犠牲者援護法と一連の返還法

l  犠牲者援護法

戦後オーストリアが賠償責任も補償責任も免れるためには、ドイツとオーストリアを引き離し、国際社会に犠牲者オーストリアの立場を認知してもらう必要があったが、犠牲者オーストリアが拠り所とした43年のモスクワ宣言では、「自らの解放に対するオーストリア自身の貢献」が求められ、ナチに対する抵抗ゆえに迫害された者たちの存在が必要だった

47年の犠牲者援護法は、ナチ迫害の犠牲者一般が初めて対象とされたが、あくまで抵抗運動の闘士たちへの補償が最優先で、ユダヤ人というだけで迫害された者たちとでは、その扱いは同等ではなく、後者への援護はオーストリアの善意による一種の「施し」。38年独立を喪失したオーストリアは、国際法上ナチ迫害の犠牲者に対し国家としてはいかなる補償責任も負う立場にはなく、補償を扱う法も「補償」ではなく「援助」という語が使用された

強制収容所からの生還者の多くは受動的犠牲者であり、公的補償の対象資格は得られず、彼らの生活を助けたのはユダヤ機関だった

l  返還法

国家所有となっている剥奪財産の返還はまだしも、個人所有となっている剥奪財産の返還は困難であり、特に住居の返還は明確な規定がなく、ユダヤ人の援助団体が用意した簡易宿泊施設に長期にわたって住むことを余儀なくされた

敗戦は、ナチ迫害の犠牲者にとっては解放だったが、多くのオーストリア国民の感じ方は異なり、かつて合邦をこぞって歓迎しドイツ国防軍の一員であったことを忘れて、ナチ戦争の犠牲者だという意識を強め、かつてナチ党員として小さな利得を享受した者たちまでが、戦後の脱ナチ化法で職場を追われ、剥奪財産の返還を求められると、今度は犠牲者だと名乗り始めた。このような状況下では、オーストリア国民はしばしば加害者でもあったという自覚は生まれようもなく、その後のナチ迫害の犠牲者に対する援護にも、なぜオーストリアが実質的な補償をしなければならないか必然性の認識は曖昧にされたままだった

 

2.     国外の犠牲者と相続人不在の財産

l  対オーストリア・ユダヤ請求会議

38年の合邦後、オーストリアから出国したユダヤ人のほとんどは、戦後戻ってこなかった

出国時財産を残し、異国で援助団体の支援に頼って生き延びたが、犠牲者援護法は国籍条項があって、出国時国籍を失ったものは対象とならない

その上、国外に逃れたユダヤ人に対するオーストリア国民の目は冷淡。国外に逃れた者が事実上追放された者だったことを忘れ、外国でよい暮らしをしていたのではないかと疑う。しかも戦後のオーストリアのユダヤ人人口を見れば、援護法の対象は高が知れているが、国外のナチ迫害の犠牲者はその数倍にも上り、迂闊に援護の約束などできない

国際的ユダヤ人団体は、オーストリアをナチ・ドイツの共犯者と見做し、追放されたユダヤ人の被害への補償を要求すると同時に、相続人不在のユダヤ人財産の返還を要求

戦後ドイツの西側占領地域では、相続人不在のユダヤ人財産の国庫帰属が停止され、死亡した財産所有者に代わって財産を管理する組織が占領区域ごとに立ち上がるが、オーストリア政府の態度は誠実とは言いかねるものだった

l  オーストリアの脱ナチ化

1945年、独立宣言と同時に脱ナチ化法公布。3345年の間にナチに関わった者の届け出を義務付けたが、届け出た元ナチは53.6万人、総人口705万人の7.5%にのぼる。国民法廷という特別の法廷により審査が始まるが、基準の甘さを連合国に指摘され、厳罰化を盛った国民社会主義者法(47)が成立するも、48年には国民議会がナチへの関与度の低い48万人を対象に恩赦を決定、連合国も、残りの処分の厳格化を条件に受け入れ

52年には重度関与者への恩赦も決定し、元ナチたちの年金請求権も復活、住居明け渡し処罰を緩和するための補償なども実施され、脱ナチ化措置は骨抜きに。移住したユダヤ人からの補償要求に対しオーストリアの世論が反発するなか、ユダヤ人票は全く影響力を持たないどころか、元ナチ票はその人数の多さから無視し得なくなった

l  援助基金と集積所

1956年、外国に定住している政治的被迫害者の援助のための基金設立――政府が対オーストリア請求委員会と交渉の結果、犠牲者援護法の適用対象外となる移住者に対する補償を行うことを決定。一時金のみで、3万人が申請し、62年までに支払いを完了

個人の財産上の損害への補償と相続人不在の財産の返還に本腰を入れるのは、55年ソ米英仏とオーストリアとの間の国家主権を回復する「国家条約」で義務付けられてから

ソ連は最後まで、オーストリアがナチ・ドイツの一部として参戦したことから発生する「責任」を負うべきと主張したが、最終段階で取り下げ、オーストリアが主張する犠牲者の立場が国際的承認を得るが、それは戦後オーストリア外交の成果と評価された

ただ、ドイツに対する請求権は放棄させられ、ナチ迫害の犠牲者に対する補償や相続人不在の財産の返還が義務付けられた

1961年、西ドイツが周辺国と順次補償協定を締結するのを見て、「ナチ・ドイツの犠牲者」オーストリアも西ドイツに補償を要求、西ドイツも要求を呑んでクロイツナハ条約を締結、600万マルクを支払ったことにより、オーストリア国内での補償が始まる――「集積所」という剥奪財産の返還請求と回収を行う法人を設立

 

第二章      オーストリアの歴史政策

1.     ヴァルトハイム事件

l  1986年オーストリア大統領選挙

戦後オーストリア政府は、加害国()ドイツ()と犠牲国()オーストリア()とを区別し、オーストリア陣もナチの加害に加担した事実に対し口を閉ざす歴史政策をとってきて、それに利益を見出す国民の間にも浸透。戦後はドイツ民族の1グループと見做す人が半数いたが、80年代後半には独立したオーストリア民族だと考える人が9割以上にも

永世中立国としての国際的なイメージ造りにも成功し、国連の重要な諸機関が本部を置く

国連事務総長(7281)だったクルト・ヴァルトハイムは、オーストリアの国際的顔として活躍、退任の86年第4代大統領選挙に出馬するが、ナチの突撃隊員で、42~終戦までバルカン戦線で国防軍の作戦参謀将校として従軍していたことが暴露され、ギリシャ人のアウシュヴィッツ移送に関与した疑惑が持ち上がって、オーストリアがナチ・ドイツのホロコーストの共犯者ではないのかとされた。オーストリアの国民感情は、内政干渉だとして、ユダヤ人に対する嫌悪と排外主義へと触れていき、疑惑が晴れないまま国民はヴァルトハイムを選択、過半数は取れなかったものの決選投票で勝利

1987年、アメリカの司法省と国務省は、ヴァルトハイムを戦争犯罪容疑者と認定し、入国監視リストに登録し入国を拒否。オーストリア政府は国際歴史家委員会を立ち上げて調査、直接手を下した犯罪人ではないが、不法を認識し得る立場にあり、共同責任は免れないと結論。アメリカの対応は変わらず、旧連合国を中心に多くの国から入国を拒否されたため、外国への公式訪問はほとんどしなかったが、90年の平成天皇即位の礼には夫妻で来日

l  過去に目を閉ざす者は

若い外国人の歴史研究者から「オーストリアには他の西欧諸国のどこよりも強く反ユダヤ主義が残存している」と指摘され、オーストリアの外相は怒りに任せた反論を試みるが不発

前年西独大統領ヴァイツゼッカーが、ドイツ人全員が過去に対する責任を負っており「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる」と述べて国際的評価を得たのとは対照的に、ヴァイツゼッカーは当初従軍を否定、証拠を突き付けられると国防軍兵士としての義務を果たしただけと繰り返し、両者の落差の大きさを露呈したが、その弁解は彼個人の問題ではなく、当時のオーストリア人の共感を集めた

 

2.     歴史政策の転換

l  謝罪なき補償

迫害の補償といっても経済的困窮者への生活保護程度の意味しかなく、脱ナチ化といってもなかったことには出来ない以上、犠牲者に対して償い切れないものを補うのは、補償に込められた精神ということになるが、戦後オーストリアにおいて貧弱だったのはその精神

ドイツでは、反ユダヤ主義の克服がドイツの民主化の程度を測る1つの尺度と見做され、国際社会の監視の目が注がれたが、オーストリアはその陰に隠れて、過去を検証し克服するための啓蒙的活動は稀薄どころか、犠牲者による補償要求は、国民の間に自分たちは犠牲者であるという転倒した感情さえ発生させ、外からの加害加担への批判に対しても、過去の克服に関して自己を前向きに語り得る言葉を持たなかった

ヴァルトハイム事件で対外的イメージを傷つけられた政府が88年発表したのも犠牲者オーストリアの立場であり、国家条約でも不法行為への補償義務はないと認めらたとしたうえで、道徳的義務として補償を十分行っていてその受給者の大半はユダヤ人であることを強調したが、犠牲者に対する謝罪の言葉は一切ない

l  193811月ポグロム50周年

1988年、ポグロムと合邦の50周年を迎え、オーストリアにおいて本格的な過去の克服の取り組みが始まる――歴史教育において、合邦に対する当時のオーストリア国民の両義的な態度や、ユダヤ人に対する迫害の詳細が記述されるようになる――91年の首相の国会演説で、「犠牲者だけではなく、執行者でもあった」として、悪しき行いについては謝罪しなければならないとし、初めて政府が公式の場でナチ迫害の犠牲者に対するオーストリアの責任を認め謝罪したが、やはり遅すぎた感は否めない

1990年代のアメリカで、ナチ時代に人権侵害や強制労働に関与したドイツの企業に対してクラス・アクションの波が起こり、ナチによってあくどく収奪された財産の大きさに対して改めて国際的関心を高めたが、オーストリアでも98年歴史家委員会が設置、収奪や強制労働の実態と、戦後補償の実績の調査が行われ、ナチのあくどさに啞然とさせられた

ナチによる剥奪財産の返還は、現在も終了していない。クリムトの《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I及びII》はナチによってブロッホ=バウアー家から没収され、長らく旧ベルヴェデーレ宮殿内のオーストリア・ギャラリーに展示されていたが、オーストリア政府との長い法廷闘争の末、2006年アメリカ在住の相続人に返還された

Wikipedia

『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(Portrait of Adele Bloch-Bauer I は、グスタフ・クリムトによる絵画で、1907年に完成された。 報道によれば、20066月、当時としては史上最高値の156億円(13500万ドル)で、エスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、同年7月からニューヨークノイエ・ガレリエ英語版)に展示されている。

クリムトはこの絵の完成に3年をかけた。大きさはおよそ138 × 138 cm 、キャンバスの上に油彩と金彩を施し、ユーゲント・シュティール様式の複雑で凝った装飾がなされている。

この絵はウィーンの銀行家で実業家のフェルディナント・ブロッホ=バウアードイツ語版)の妻、アデーレをモデルに描いており、彼の注文により同地で描かれた。フェルディナントは製糖業で富を得た裕福な実業家であり、多くの芸術家のパトロンとなっていた。クリムトもその一人であり、1912には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II』を描いている。

アデーレは、クリムトの絵をオーストリア・ギャラリーに寄贈するよう遺言し、1925髄膜炎により死去した。1938ナチスによるアンシュルスで、寡夫となったフェルディナントはスイスに亡命することとなったが、本作は彼の資産と共にナチスに没収されてしまった。 第二次世界大戦後1945に作品はフェルディナントの元に返還された。

フェルディナントは遺言で資産の相続人として甥や姪を指名した。その中に本作の相続を指名されたマリア・アルトマンがいた。アルトマンはアメリカに在住していたものの、クリムトの絵はオーストリアに残されたままになっており、絵が同国内にあるのは妻アデーレの遺言によるものだ、というのがオーストリア政府の見解であった。このことでアメリカとオーストリアの間で長らく法廷闘争が繰り広げられた。結果、2006にオーストリア法廷による仲裁裁判は、アルトマンにクリムトの絵5点(そのうちの1つが『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』)の所有権を認めた。アメリカに送られたのち本作はロサンゼルスで展示されていたが、ロナルド・ローダーによって買収され、ノイエ・ガレリエに収集された。ノイエ・ガレリエは、かつてナチスがユダヤ人から収奪した美術品を長い時間をかけて取り戻し、所蔵していた。ローダーは自身が駐オーストリア米国大使だったころからこの問題に取り組んでおり、「ユダヤ人損害賠償世界機構(World Jewish Restitution Organization)」の一員であり、クリントン政権時代にはナチスの略奪事件の査問委員会にも属していた。 ローダーは本作の獲得について「これは我々にとってのモナ・リザである」とコメントしている。

20066月、ノイエ・ガレリエは、クリムトの略奪された肖像画の5枚目である本作に対し、13500万ドルを代価として支払ったと報告している。『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II』は、同年11月にクリスティーズで約8800万ドルで落札されている。

 

 

 

 

岩波書店 ホームページ

冷戦後の史料公開や研究の深化により、ホロコーストの「傍観者」=現地社会の加害の面が明らかになった。世紀末ウィーンに18万人いたユダヤ人の苛烈な追放を可能にしたものは何か。多民族帝国から近代国民国家への激震の中、被害と加害のはざまを揺れ動いたオーストリアのホロコーストを、戦後の歴史政策も含めて描き直す

 

 

 

(書評)『ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト』 野村真理〈著〉

2024113 朝日

『ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト』

 急速な迫害、18万人が6千人に

 ドイツでは5年で実施されたことが、オーストリアでは5日間で強制された、という表現が印象的だ。第2次大戦時のオーストリアで、ユダヤ人迫害がここまで急速に進んだことは、あまり知られていない。

 1938年に同国がドイツに合邦されると、ユダヤ人は就業できない状態に追い込まれ、国外への移住を余儀なくされた。約18万人だったユダヤ人人口は、合邦から1年半で、11万人以上も減じた。その後の移送・殺害を経て、44年末には約5800人であったという。まさに、ウィーンから「ユダヤ人が消えた」のだ。

 前著『ウィーンのユダヤ人』以後、東欧各地のホロコーストについて研究を続けてきた著者は、本書を19世紀から説き起こす。これにより、ナチ・ドイツだけではなく、オーストリア自身のホロコーストへの関わりが見えてくる。

 合邦のはるか以前から、オーストリアには反ユダヤ主義の言説があり、ユダヤ人襲撃が断続的に起きていた。世界恐慌後には、失業したユダヤ人が職に就けないようにされ、生存条件が奪われていった。ナチの反ユダヤ主義に親和的な土壌ができていたのだ。

 もっとも、合邦後にユダヤ人の排除が急速に進んだのは、アドルフ・アイヒマンの推進したウィーン・モデルと呼ばれるシステムによる。移住本部を設置して煩雑な手続きを簡素化させる一方、移住費用をユダヤ人自身に調達させた。

 オーストリアはドイツに合邦された犠牲者であり、迫害の加害者でもあった。終戦後、オーストリアはナチによる迫害に国家が責任を負う義務はないとして、60年代までユダヤ人からの補償要求に十分に応じなかった。公式の謝罪は90年代に入ってからだ。

 一つの社会から特定の民族が消し去られる事態が、何によってもたらされたのか。ホロコーストの歴史を知ることは、ジェノサイドが進行する現在にあって、重要性を増している。

 評・藤野裕子(早稲田大学教授・日本近現代史)

     *

 『ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト』 野村真理〈著〉 岩波書店 3190

     *

 のむら・まり 金沢大名誉教授(社会思想史・ヨーロッパ近現代史)。著書に『ホロコースト後のユダヤ人』など。

 

 

Wikipedia

ストルパーシュタイン、別名「つまずきの石」は、歩道に埋め込まれた10センチメートル3.9インチ)角のコンクリート立方体のブロックの表面にナチスによる迫害者・犠牲者の氏名・生年月日などを刻んだ正方形真鍮板を貼り付けたモニュメントの一種である。

概要[編集]

ストルパーシュタインを設置するプロジェクトは1992ドイツの芸術家グンター・デムニヒ英語版)によって始められたもので、第二次世界大戦においてナチスによって死に追いやられた人々や迫害から逃れた人々がかつて自分たちが生きていた場所であった証として刻まれることを目的としている。20235月の時点で、2,000以上の地域に100,000個が敷設されており、ヨーロッパを中心に世界で最も広い範囲に分散された記念碑となっている。

対象となる人物はホロコーストで迫害を受けたユダヤ人の他に、ロマ(かつてジプシーと呼ばれた)、同性愛者、身体・精神障害者エホバの証人黒人共産党員、社会民主党員、キリスト教徒の反ファシスト派(プロテスタントカトリック教徒の両方)、フリーメーソンスペイン内戦国際旅団兵士、軍の脱走兵良心的兵役拒否者、脱出支援者、捕虜、常習犯、略奪者、その他の反逆者、軍事的不服従で起訴された者、または連合国と同様にナチス軍を弱体化させた兵士も含まれる。

大抵の場合、ストルパーシュタインは一人につき一個が充てられるが、複数のストルパーシュタインが別個に設置されることもある。アンネ・フランクたちのものはオランダアムステルダム隠れ家の前に1個ずつ設置されており、もう1箇所が移住前のドイツのアーヘンにある。

起源[編集]

ストルパーシュタインプロジェクトの名はいくつかの例えを連想させる。ナチス・ドイツといった反ユダヤ主義の人間は、この石にうっかり躓くと、忌々しそうに「ここにユダヤ人が埋められているんだ」と言う。その一方で、ドイツ語"Stolperstein"には"potential problem"(潜在的な意味)という喩えもある。ドイツ語と英語"to stumble across something"(何かにつまずく[ 1])という用語は、"to find out (by chance)"((偶然に)見つける)という意味にも通じる。以上に挙げられるように、この用語は挑発的に過去の反ユダヤ主義的な発言を呼び起こすが、同時に深刻な問題についての考えを引き起こすことを意図している。ストルパーシュタインは墓石や壁面のレリーフなどのように立ち位置で目立つ場所に配置されていないが、ふと足元を見て初めてそこに彼らの存在が認識されるというものである。デムニヒによれば、簡単に素通りできる記念碑とは対照的に、ストルパーシュタインは路面に刻まれた彼らの日常生活へのはるかに深い記憶を覗き込むことを意図したものだと言う。

かつてドイツではナチスによってユダヤ人の墓地が破壊されると、それらの墓石は歩道の敷石として再利用されていた。そうして造られた石畳の上を人々は歩いて行ったため、それが死者の記憶を踏みにじる行為だとされてきた。ストルパーシュタインはそうした背景もあって漠然と地面に埋め込まれたものであり、たやすく踏みつけられるべく挑発する存在でもある。元々このようなアートプロジェクトは記憶を生かし続けることを意図しているが、不道徳な行為が再び起こりやすいことを示唆していることもあり、潜在的な冒涜に対して無防備であることへの批判や懸念を生み出した(後述)。ミュンヘンのようないくつかのドイツの都市はまだストルパーシュタインに消極的であり、記念となる代わりの方法を採り入れることもあった。

「かつてはここに住んでいた...[編集]

ストルパーシュタインを設置する場所の調査は、通常、地元の学校の生徒たちとその教師、対象者の親戚、または地元の歴史団体によって行われる。ナチスによって迫害を受けた人物の名前と住所の検索には、エルサレムにあるヤド・ヴァシェムのデータベースと、1939当時のドイツ国勢調査英語版)のオンラインデータベースが使われている。

事前調査が終了すると、デムニヒはストルパーシュタイン製造に着手する。真鍮製のプレートには、その人の名前と生年月日、国外追放もしくは亡命先、死亡日とそれぞれの場所が刻印される。ドイツ語の"HIER WOHNTE"(かつてはここに住んでいた...[ 2]という言葉はほとんどのプレートに書かれており、迫害を受けた者は名も知らぬ場所にいたのではなく、「ここにいた」ことを強調している。次に、ストルパーシュタインは「通りすがりの人をつまずかせ」、碑文に注意を惹くことを目的として、自分が最後にいたとされる任意の住居ないし職場の前で、路面と同じ高さに埋め込まれる。

ストルパーシュタインの費用は、個人の寄付、地元の公的資金調達、現代の証人、学校の授業における募金、またはコミュニティの資金によって賄われている。プロジェクトの開始から2012まで、ストルパーシュタイン1個に95ユーロを要し、それ以降は120ユーロを費やした[ 3]。ストルパーシュタインは手作りのため、月に440個までが限度である。そのため、調査期間を含めて新しいストルパーシュタインの完成まで数カ月かかることもある。

2005以降は、彫刻家のミヒャエル・フリードリヒス=フリートレンダードイツ語版)はグンター・デムニヒと協力して、20の異なる言語で約63,000のストルパーシュタインを設置した。記者によると、フリードリヒス=フリードレンダーは刻印のプロセスを変更しておらず、すべての刻印は引き続き手作業で行われていると語っている。これは、プロセスが匿名化されることを防ぐためのものであるという。

ストルパーシュタインの始まり[編集]

1990、ドイツによるユダヤ人追放50年を記念し、デムニヒはケルンにおける1000人のシンティとロマの追放について芸術的な視点から深く研究してきた。 このグループの追放は、ナチス・ドイツがユダヤ人の大量追放の準備のために事前に行った実験である。デムニヒはまず、自作の"Trace writing device"(回転式舗装印字器・図)を都心部から、被追放者が絶滅収容所まで列車に乗り込んだ駅まで牽引することで、「国外追放への道」をたどった。

19921216ハインリヒ・ヒムラーアウシュビッツ法令ドイツ語版)に署名し、シンティ及びロマ絶滅収容所への強制送還を命じてから50年が経過した。この命令は、ドイツからのユダヤ人の大量強制送還の始まりを示していた。この日を記念して、グンター・デムニヒは、ケルン市庁舎英語版)の前に最初のストルパーシュタインを設置した。その真ちゅう製のプレートには、アウシュビッツ法令の序文が刻まれていた[ 4]。デムニヒの行動はまた、当時のユーゴスラビアから逃亡したロマの人々にドイツでの居住権を与えることについての議論に貢献することを意図していた。

やがて、ナチスによるすべての迫害者を含めるべく記念プロジェクトを拡大するという考えが生じた。また、彼らが望む最後の場所で常にそこにいたという考えを生み出した。ストルパーシュタインは、彼らが国外追放されてから長い年月を経た後でも、彼らを元いた場所に象徴的に連れ戻すためのものである。グンター・デムニヒは1993に彼のプロジェクトの詳細を雑誌に発表し、プロジェクト"Größenwahn – KunstprojektefürEuropa"(「メガロマニア(誇大妄想):ヨーロッパのアートプロジェクト」)への貢献で彼の芸術的コンセプトを概説した。1994、彼はケルンの聖アントニテル教会英語版)で、教区司祭のカートピック(Kurt Pick)に励まされて、殺害されたシンティとロマのために250のストルパーシュタインを展示した。ケルン市内中心部の目立つ場所にあるこの教会は、すでに重要な記念施設として機能しており、2016からは釘十字英語版)コミュニティの一部となっている。199514、政府の許可なしでこれらのストルパーシュタインはケルン市内のさまざまな場所に運ばれ、歩道に敷設された(ドイツで政府公認となるのは2000になってからである)。

これとは別に、55のストルパーシュタインは"Artists Research Auschwitz"(芸術家によるアウシュビッツの調査)プロジェクト中に、1996ベルリンフリードリヒスハイン=クロイツベルク区に設置された。1997719オーストリアで初めてのストルパーシュタインがザンクト・ゲオルゲン英語版)に設置された。エホバの証人の信者であるヨハン・ノビス英語版)とその弟マティアスドイツ語版)を記念するものだった。これは、アートイニシアティブKNIE英語版)とオーストリアの追悼奉仕の創設者であるアンドレアス・マイスリンガーによって提案されたものである。フリードリヒ・アメルハウザー(Friedrich Amerhauser)は、彼の街にストルパーシュタインを設置する許可を与えた最初の市長だった。4年後、デムニヒはケルンにさらに600のストルパーシュタインを設置する許可を得た。

ストルパーシュタインの広がり[編集]

グンター・デムニヒは200710月までに、280以上の都市に13,000以上のストルパーシュタインを設置した。彼らの活動はドイツやオーストリアの他、イタリアオランダ及びハンガリーにも広がった。200691にはいくつかのストルパーシュタインがポーランドに設置される予定だったが、許可が取り消され、プロジェクトは中断された。

2009724、ドイツのハンブルクローターバウム英語版)地区で20,000個目のストルパーシュタインが設置された 。グンター・デムニヒ、ハンブルク政府とその地域のユダヤ人コミュニティの代表者、そして犠牲者の子孫が出席した。20105月までには、22,000を超えるストルパーシュタインが、以前はナチスの支配下にあったか、ナチス・ドイツによって占領されていたヨーロッパ8か国の530の都市と町に設置された。

20107月までに、ストルパーシュタインが設置された数は569の都市と小さな町で25,000を超えた。20116月までには、デムニヒは30,000のストルパーシュタインを設置した。

2013、グンター・デムニヒは自身のウェブサイトで次のように述べている。

ストルパーシュタインは700以上の地域ですでに32,000個が埋め込まれています。ドイツだけでなく、ヨーロッパ中の多くの都市や村がこのプロジェクトに関心を示しています。石はドイツだけでなくオーストリア、ハンガリー、オランダ、ベルギーチェコ共和国、ポーランド(ヴロツワフ7個、スウビツェ1個)、ウクライナペレヤスラウ)、イタリア(ローマ)とノルウェーオスロ)に設置されています。 stolpersteine.com

2013514 TEDxKoelnでの講演中に、グンター・デムニヒは「201373にオランダのオルダンボオランダ語版)とドリーボルフオランダ語版)に40,000個目のストルパーシュタインを設置する予定です。これは、ドイツの占領軍によってユダヤ人とロマを匿った疑いで処刑されたオランダの共産主義者を追悼する10人のためのストルパーシュタインの1個です」と語った。

2015111、イタリアのトリノ50,000個目のストルパーシュタイン(Eleonora Levi(1884-1944)[2])が設置された。

2016末までには、グンター・デムニヒとその仲間たちによって、ヨーロッパ中の1,200以上の都市や町に60,000個のストルパーシュタインが設置された。

20181023、ドイツのフランクフルト70,000個目のストルパーシュタインが設置された。石の主は19441218ハーダマル安楽死処分されたWilly Zimmerer(1901-1944) であった。

20191229、ドイツのバイエルン州メミンゲン75,000個目のストルパーシュタインが設置された。石の主はMartha RosenbaumBenno Rosenbaum1941ウルグアイへ亡命)であった。

2020からは新型コロナウイルス流行により、ストルパーシュタインの設置活動は限定的に行われている。

2023526ニュルンベルクにて100,000個目のストルパーシュタインが設置された。石の主はヨハン・ヴィルトという消防士で、ナチスを非難する手紙を書いたために1941517シュテーデルハイム刑務所英語版)で処刑された。

ストルパーシュタインが設置されている国・地域[編集]

ストルパーシュタインは、迫害者が望んだ最後の家の前に常に設置されている。可能性のある場所の最も重要な情報源は、1939517の時点でのドイツの国勢調査に基づいた、いわゆるJudenkartei(ユダヤ人登録簿)である。当時住んでいた家が第二次世界大戦中またはその後の都市の再編中に実際の家屋が消失した場合、それらがあった場所にストルパーシュタインが設置された。

以下にストルパーシュタインが設置された国と設置された年を記す。

ドイツ - 1992

オーストリア - 1997

オランダハンガリー - 2007

ポーランドチェコ - 2008

ベルギーウクライナ - 2009

イタリアノルウェー - 2010

スロバキアスロベニア - 2012

フランスクロアチアルクセンブルクロシアオリョール州のみ)、スイス - 2013

ルーマニア - 2014

ギリシャスペイン- 2015

リトアニア - 2016

ラトビアフィンランドモルドバ- 2018

デンマークスウェーデン - 2019

セルビア - 2021818日にズレニャニンに設置された

イギリス - 2022530日にロンドンに設置された。

アイルランド - 202261日に首都ダブリンに設置された。

リヒテンシュタイン - 2022831日に首都ファドゥーツに設置された。

ストルパーシュタインは、ヨーロッパ以外では2017年にアルゼンチンにも設置されている。

オーストリア[編集]

グラーツに設置された点字のストルパーシュタイン[ 5]

オーストリアはドイツ以外にデムニヒを招待した最初の国であり、ストルパーシュタインの設置に関する最初の公式許可が下りた国でもある。設置の分布としては、いくつかの大都市(ウィーンにも「記憶の石」が多く設置されているが後述するようにストルパーシュタインとは別物のため統計の対象外)に多く見られ、アルプス地域の石の設置密度は平均を下回っている。オランダのアムステルダム、ヒルフェルスム、ロッテルダムに匹敵する400個以上のザルツブルク市(452個)を筆頭に、グラーツ220個及びストルパーシュウェーレン1本、100個以上のウィーナー・ノイシュタット、ハラインの40個と続く。これらの都市では、(20206月時点で)迫害者を体系的に記録するよう努めている。ストルパーシュタインは、ケルンテン州オーバーエスターライヒ州フォアアールベルク州チロル州に数個、ブルゲンラント州には設置されていない。

グラーツでは、ヨーロッパで初めて点字のストルパーシュタインが設置された。石の主はイレーネ・ランズバーグ(1898-1944)で、16歳で病気にかかり、視力と聴力を失った彼女は、点字を通じて文学作品を発表した。2015511に彼女を悼み、ドイツ語と点字のストルパーシュタインが設置された。

オーバーエスターライヒ州の州都リンツは、イスラエル大使タリャ・ラドール・フレッシャー英語版)が2018年のインタビューで発表したように、ストルパーシュタインの設置を許さないドイツ語圏で有数の都市である[51] 20191122日、リンツの陪審員は、アーティストのアンドレアス・ストラウスドイツ語版)が名前、日付、呼び鈴を備え付けた、高さ1.5m、幅35cmのモニュメントをストルパーシュタインの代わりに20ヶ所設置すると発表した

ウィーンにはストルパーシュタインは全く設置されておらず、代わりに「記憶の石」と「未来への記憶」と名付けられた石が設置されている。

オランダ[編集]

デムニヒは2007年以降、ストルパーシュタインの配置のために度々オランダに招待されている。オランダで最初にストルパーシュタインが設置されたボルネ英語版)には2016年現在、82個のストルパーシュタインが設置されている。20161月までに、アムステルダムハーグロッテルダムを含む110のオランダの都市と町で、合計2,750を超えるストルパーシュタインが設置された。同年3月にもオランダを訪れ、各都市にストルパーシュタインを設置した[53]

チェコ共和国[編集]

チェコ共和国では、2008108日にプラハ[7]において、チェコユダヤ人学生連合(Czech Union of Jewish Students)によってストルパーシュタインを設置する作業が始められた[54] ストルパーシュタインは今日ほとんどの地域で見ることができる。国内で多数設置されている都市には、プラハ(265)オロモウツ(200以上)ブルノ(151)といった大都市を始め、小さな都市にも設置されている。著名な例としては、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所13歳で亡くなった『ハンナのかばん』で知られているハンナ・ブレイディのもので、2020年にハンナの生まれ故郷であるノヴェー・ムニェスト・ナ・モラヴィェ英語版)に設置された[55]。父カレル(Karel Brady)のストルパーシュタインもトジェボニ英語版)に設置されている。

イタリア[編集]

イタリアでのストルパーシュタインを設置する作業は2010128日にローマで始まった。現在、ローマには329個のストルパーシュタイン(イタリア語でも"pietred'inciampo"(つまずきの石)と呼ばれている)が設置されている。 2012年も、リグーリア州トレンティーノ=アルト・アディジェ自治州/南ティロル自治州ロンバルディア州で作業が続けられた。 ヴェネト州トスカーナ州2014年に、エミリア=ロマーニャ州2015年に、プッリャ州アブルッツォ州フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州2016年に、マルケ州には2017年に設置された。イタリアでは、他の国と比較して著しい違いが見られる。多くのストルパーシュタインは、ユダヤ人や政治的抵抗組織だけでなく、イタリア軍の兵士にも捧げられている。武装解除された後、ドイツに移送され、そこで強制労働者として働かなければならなくなった。彼らは特別な地位を与えられたため、194398日以降、イタリアが枢軸国の連立を去った後、ジュネーブ条約の下で捕虜として保護されることはなかった。

フランス[編集]

フランスでもストルパーシュタインを設置しようという動きはあったが、始めは拒絶された。特に、2011年には沿岸の町ラ・ボル=エスクブラック英語版)において、女子学生が8人の子供を含む32人のユダヤ人を率いて行った1年間のキャンペーンの後、市長がストルパーシュタインを設置することを拒否したことにより、世俗主義"laïcité"と意見の自由"libertéd'opinion"のフランスの憲法原則を侵害する可能性があったため、彼女たちはフランスの憲法裁判所である国務院に相談する必要があると主張した。実際、ストルパーシュタインには、記念される犠牲者の宗教への言及は含まれておらず、また、戦争犯罪の個々の犠牲者を記念することを拒否することを正当化するために、フランスまたはヨーロッパの法学において「意見の自由」が引用されたこともなかった。ラ・ボール市長は一貫して彼女の推論について詳しく返答することを拒否しており、ラ・ボール市議会がこれらの異議について国務院に宣言を求めたという証拠も出さなかった[58]

最初のストルパーシュタインは、2013930日にフランスのヴァンデ県フォンテーヌフランス語版)、フォントネー=ル=コントストラスブールに設置された。フランスでは75,000人のユダヤ人が送還されたにもかかわらず、ストルパーシュタインが設置されている都市は非常に少なく、国全体を見ても300個ほどにすぎない(最多でもルーアン66個)。

その他の国[編集]

ストルパーシュタインはスペインスウェーデンスイスにも設置されているが、驚くべきことにこれらの国は第二次大戦中のドイツの占領国ではなかった。スイスでは、ドイツとの国境で違法な文書を密輸している所を見つかった人々のほとんどがストルパーシュタインに刻まれている。スペインでは、フランシスコ・フランコの勝利後にフランスに逃亡した共和派の多くが、フランスに侵攻した後、ナチスに捕まり、ヴィシー・フランスに引き渡されたか、マウトハウゼン強制収容所に移送されたりした。約7,000人のスペイン人がそこで捕虜になり、強制労働にさらされ、うち半数以上が殺害された。生存者はフランコ政権によって非国家化され、無国籍になり、犠牲者としてのいかなる形の認識も拒否され、いかなる補償も奪われた。スウェーデンでは、2019年以来、ドイツのスパイに捕らえられて収容所に連れて行かれた後に脱出したユダヤ人難民のための少数のストルパーシュタインが設置された。

フィンランドヘルシンキには、194211月にゲシュタポに連行されたオーストリアのユダヤ人難民を称えるストルパーシュタインが7個設置されている。彼らはアウシュビッツへ送還され、8人のうち1人だけが生き残った[ 6][60]

アメリカなどストルパーシュタインが設置されていない国でも、ストルパーシュタインの分散記念碑がメディアの注目を集めている[61]

ストルパーシュウェーレン「ここから...[編集]

特殊なケースとして、デムニヒはいわゆる「ストルパーシュウェーレン」(独:Stolperschwellen、日本語訳:つまずきの敷居( - しきい))という横1メートル縦10センチメートルも設置している。これは、1つの場所に多数の対象者がいる場合に記念として設置されるものである。文章は通常、"VON HIER AUS ..."「ここから...」で始まる。ドイツのシュトラールズントStralsund main stationに設置されているストルパーシュウェーレンには、193912月にこの駅から1,160人の精神障害者が強制送還され、強制安楽死プログラムT4作戦の対象にされたか、ビエルカ・ピアシニツァ英語版)で殺害された。

この他にも、ナッツヴァイラー強制収容所に投獄されたドイツのガイスリンゲンドイツ語版)出身の女性強制労働者やルクセンブルクエトルブリュック英語版)のホロコーストの犠牲者(ここから連行されたショアによる犠牲者を追悼[62])などのストルパーシュウェーレンも設置された。ギリシャのテッサロニキに設置されたストルパーシュウェーレン(図)は、アロイス・ブルンナーアドルフ・アイヒマンが市内の50,000人のユダヤ人のうち、96.5%をポーランドの収容所で絶滅させたことに対するものであった。

議論[編集]

反発[編集]

ドイツのフィリンゲンシュヴェニンゲン市英語版)は、2004年にストルパーシュタインを許可するという考えについて熱く議論されたが、反対の立場を取った[64]。市内の駅には既に記念碑が建てられており、次の碑の建立計画も立てられているためである[65]

他の多くのドイツの都市とは異なり、2004年のミュンヘン市議会は、ミュンヘンのユダヤ人コミュニティ(特にドイツのユダヤ人中央評議会英語版)の会長でもあり、ナチス迫害の被験者であったシャーロッテ・ノブロック英語版))によって提起された異議に続いて、公共の場でのストルパーシュタインの設置を拒否した。彼女は、殺害されたユダヤ人の名前が歩道に挿入され、人々が誤って彼らを踏みつけるかもしれないという考えに反対した。しかし、中央評議会のサロモン・コーン(Salomon Korn)副会長は、この考えを同時に温かく歓迎した。当時ミュンヘン市長だったクリスチャン・ウデ英語版)は、「モニュメントの濫造」に対して警告を発した。また、グンター・デムニヒは「彼は、人々が最後に住んでいた家で、移送が始まったまさにその場所に記念碑を作るつもりだ」と述べ、議論に参加した[66]。一旦は拒否されたストルパーシュタインについては2015年に再考され、個々の家の壁のプラークやミュンヘンから強制送還された人々の名前を表示する中央記念碑など、代わりの方法が取られた[67][68]。ミュンヘンにおいては公共の場でのストルパーシュタインが設置できないため、私有地に限られており、2020年の時点で約100個が設置されている[66]

他の都市では、プロジェクトの許可を得る前に、長く、時には感情的な議論が行われたこともあった。ドイツのクレーフェルトでは、ユダヤ人コミュニティの副議長であるMichael Giladは、デムニヒの記念碑は、ナチスがユダヤ人の墓石を歩道の踏み石としてどう使われていたかを思い出させたと述べた[13]。これは住宅の所有者と対象者の親族の両方の同意があった場合、ストルパーシュタインを設置することができるという妥協に達した[69]プルハイム英語版)は、同市からナチスによって強制送還され、殺害された12歳のIlse Mosesのためのストルパーシュタインの設置を拒否した。市議会の過半数であるドイツキリスト教民主同盟(CDU)自由民主党(FDP)はプロジェクトに反対し、これを阻止した[70]。ベルギーでは、2009年にアントワープ市向けに23個のストルパーシュタインが製造されたが、プロジェクトに対する地元の反発のために、それらは設置することができなかった。石はブリュッセルに保管されており、定期的に展示されている[71]

ポーランドの国家記銘院(IPN)は、記念碑の形、特に通行人が定期的に踏みにじる通常の歩道上の場所は敬意を払っていないことを指摘し、プロジェクトへの留保を表明した。IPNからのもう一つの批判は、ホロコーストの加害者のほとんどがポーランド人ではなくドイツ人であることを明確にする文脈の欠如など、ストルパーシュタイン提供された不十分なレベルの詳細にを懸念している。 IPNの関係者は、ストルパーシュタインの代わりに、IPNが支持する意思があるという、より敬意を払い、有益で伝統的な記念の形で、近くの建物の壁に大きな記念碑の形をとることを繰り返し提案している[72][73][74][75]

支持[編集]

ドイツの都市の大多数は、ストルパーシュタインの設置を歓迎している。ホロコースト以前のユダヤ人の生活の長い伝統英語版)を持っていたフランクフルトでは、20155月に1000番目のストルパースタインが設置され、新聞では進捗状況と市民へのさらなるアピールを公表している[76]。フランクフルトでは、被害者の子孫がストルパーシュタインの支援をすることはできない。これらは、彼らが記念碑を尊重することを保証し、家の現在の住民によって支払われる必要があるためである[77]

歩行者の反応[編集]

新聞の報道や個人的な体験から、現在ストルパーシュタインに注目が集まっている。彼らの考えは犠牲者に向けられている[27][78][79][80]ケンブリッジの歴史家ジョセフ・ピアソン(Joseph Pearson)は、「碑文は人を想起させるには不十分であるため、興味をそそるのはストルパーシュタインに書かれているものではありません。それは空虚、虚無、情報の欠如、忘れられた者のつぶやきです。記念碑は彼らの力を記念し、統計の陳腐さから彼らを持ち上げます。」[81]と述べた。

広がる記念の伝統[編集]

多くの場合、新しいストルパーシュタインの設置は地元の新聞や市の公式ウェブサイトで発表され、記念の式典が行われる。これには市民、学童、プレートで記念される人物の親戚が招待されている。[82]。市民はしばしば、「彼らは私たちの隣人だった」という考えに動機付けられており、犠牲者の名前を覚えておきたい、または象徴的に、移送された人が彼らのいる場所に戻ることを受け止めたいと述べている[83]。ユダヤ人がプレートに記憶されている場合、彼らの子孫は石の設置に臨席し、望むならばカッディーシュに祈るように招待されている[84]

ストルパーシュタインは、あらゆる種類の気象条件、ほこりや汚れ・接触にさらされる場所に設置される。プレートの真ちゅう素材は表面的な腐食摩耗の影響を受けやすいため、そのまま放置すると、時間の経過とともにくすんだりすり減ったりしてしまうことがある。最悪の場合、表面のプレートがはがれてしまう事もある[85]。デムニヒは、プレートを定期的に清掃などの手入れをすることを勧めている。多くの地域のイニシアチブは、ストルパーシュタインが花やろうそくで飾られているときの掃除と記憶の行為のスケジュールを設定している。多くの場合、これらの活動には記念日が選ばれている。

127 - 国際ホロコースト記念日[86][87]

119 - ドイツで起こった"Kristallnacht"水晶の夜)事件の記念日[88]

20165月、「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」は、201655日、イスラエルが正式に発表したのと同じ日に、家の前にあるストルパーシュタインを掃除するようにすべての市民に呼びかけ、ヨム・ハショアを祝った。

類似のプロジェクト[編集]

ストルパーシュタインは後にいくつかの類似のプロジェクトを生み出した。

想いの石[編集]

2009320日、ベルリンのシャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区11個の「想いの石」(:Denksteine)が敷設された。これはナチスの時代に反乱に加わった福音教会と救済団体のために、牧師のBüro Grüberが提案した文言がストルパーシュタインに採り入れられなかった代わりに設けられた独自のデザインで、ヨーロッパ全体を対象としたストルパーシュタインとはやや異なるものだった[89]

記憶の石[編集]

「記憶の石」(:Steine der Erinnerung)は、オーストリアのウィーンに市や国家社会主義の犠牲者のためのオーストリア共和国国家基金英語版)、民間の寄付により、5つの異なる協会によって2005年からストルパーシュタインに代わって設置された。デムニヒ自身は、「記憶の石ドイツ語版)」と呼ばれるこれらを盗作だとみなしている。ヘブライ大学の美術史家ガリット・ノガ・バナイ(Galit Noga-Banai)は、デムニヒのプロジェクトの統一的側面を損なう「偽の記念碑」と「偽造」についてさえ話した[90]

未来への記憶[編集]

同じくウィーンのマリアヒルフ地区では、ナチスによって殺害された約740名の犠牲者を悼んで、2008年に「未来への記憶」(:Spuren der Erinnerung)と呼ばれる石が設置されている[91]

その他[編集]

ナチスによるホロコースト以外では、大粛清などのソ連の共産主義の犠牲者を記憶する『最後の住所ロシア語版)』などのプロジェクトがロシア及び東欧諸国でも開始された。

記録映画[編集]

2008年、ドゥールト・フランケドイツ語版)により、記録映画『ストルパーシュタインドイツ語版)』が制作された[92]

脚注[編集]

1.     ^ デムニヒの意図としては「つまずきの石」で本当に人をつまずかせるつもりはなく、物理的というよりはむしろ心の中でつまずかせるといった解釈である[11]

2.     ^ 碑文のメッセージの中には"HIER WOHNTE"で始まるものの他に、"HIER LEBTE"(ここで生まれた)、"HIER WIRKTE"(ここで働いていた)、"HIER LEHRTE"(ここで教えた)、"HIER LERNTE"(ここで学んだ)、"HIER ERSCHOSSEN"(ここで撃たれた)、滅失した建物や取り壊される予定の建物の場合は"HIER STAND"(ここに建っていた)などと書かれる。ドイツ以外のストルパーシュタインには、それぞれの言語で刻まれる場合がある。

3.     ^ 20201月以降はドイツ以外の国に関しては10%割り増しされた[20]

4.     ^ この文章は、元の第三帝国の言語英語版)によって記されている:"Auf Befehl des Reichsführers SS vom 16.12.42 – Tgb. Nr. I 2652/42 Ad./RF/V. – sind Zigeunermischlinge, Rom-Zigeuner und nicht deutschblütige Angehörige zigeunerischer Sippen balkanischer Herkunft nach bestimmten Richtlinien auszuwählen und in einer Aktion von wenigen Wochen in ein Konzentrationslager einzuweisen. Dieser Personenkreis wird im nachstehenden kurz als 'zigeunerische Personen' bezeichnet. Die Einweisung erfolgt ohne Rücksicht auf den Mischlingsgrad familienweise in das Konzentrationslager (Zigeunerlager) Auschwitz. – "(日本語訳:19421216からの親衛隊全国指導者の命令により – Tgb. Nr. I 2652/42 Ad./RF/V. – ジプシー雑種、ロマジプシー、バルカン起源のジプシー氏族のドイツ人以外の血を持った人々は、特定のガイドラインに従って選別され、数週間以内に強制収容所に送られる(以下単に「ジプシー人」と称す)。アウシュビッツ強制収容所(ジプシー収容所)への収容は、混血の程度に関係なく、家族単位で行う。)

5.     ^ HIER WOHNTE / IRENE RANSBURG / JG. 1898 / VERHAFTET 21.9.1944 / DEPORTIERT 1944 / THERESIENSTADT / ERMORDET 23.10.1944 / AUSCHWITZ-BIRKENAU(訳:かつてここに住んでいた/イレーネ・ランズバーグ/1898年生まれ/1944921日逮捕/1944年テレージエンシュタットへ送還/19441023日アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所にて殺害)

6.     ^ ストルパーシュタインはヘルシンキに7人分が設置され、他の1名の石はスウェーデンのストックホルムにある[59]

 

 

 

ID非公開さん

2023/10/3 8:15 Yahoo

小学生の頃(20年近く前)の歴史の授業で、ユダヤ人が道路を磨かされている写真を見ました。 ユダヤ人達が並んでしゃがみ込んで道路を磨き、それを命令するナチスの兵士が一人立っており、周囲を大勢の野次馬が囲んでいます。 この写真をもう一度見たくてかなり検索したのですが出てきません。 詳細をご存じの方はいませんか?

tak********

tak********さん

2023/10/3 11:14

ユダヤ人という「生物学的な」人種は存在しません。ユダヤ人説は、大英帝国のプロパガンダではないかと思われます。アラブ地方でユダヤ教が生まれ、ユダヤ教徒が居たというだけで、それは生物学的な裏付けのある、見た目上にも特徴付けられるという意味での「人種」を指すわけではありません。インドや中国や日本に古くから仏教徒がいますが、仏教人などとは言わないのと同じことです。イスラエルは米英などが中東の石油戦略を目的にシオニズム運動を興し、支援し、無理矢理建国させた傀儡国家です。サウド家を担ぎ上げて建国したサウジアラビアも似たようなものです。 ナチス・ドイツはアメリカの資本家に支援されており、「ヒトラーが虐殺したのはユダヤ人」というプロパガンダが、世界中に誤ったイメージを広めるきっかけになったというだけのことです(下部資料)。 ヒトラーが迫害したのがユダヤ人、杉原千畝が助けたのはユダヤ人、こういったものは全て、ユダヤ人説を信じ込ませるためのプロパガンダです。アンネ・フランクもシンドラーのリストの物語も、全部、創作です。〇〇がユダヤ人だった、ユダヤ人が〇〇した、こういった言説は全て、生物学的根拠がない創作人種を広めるための情報工作です。中世の欧州の一部にもユダヤ教コミュニティがありましたが、これは「生物学的な」人種のコミュニティではありません。アイデンティティにおける共通点はユダヤ教にしかありません。欧米のシオニズムを支援した資本家が流し続けているプロパガンダが、誤った認識を植え続けているというだけのことです。 この用語が使われるようになったのは、聖書の「出エジプト記」にある、イスラム教徒によって追放されたユダヤの民という記述が元になっており、米英の資本家がユダヤの民のための建国運動であるシオニズム運動というかたちで政治的に利用しただけのことです。石油目当ての地政学的戦略から、中東にイスラエルという国を建国するために、神話である聖書の一節を引用し、先住者を追い出し、勝手に建国を認めさせてしまったのです。 ここで何度も回答してきましたが、聖書は神話であり、創作です。これは近年の炭素年代測定だとか発掘調査などから判明している科学的な事実です。出エジプトを率いたモーセが杖で海を真っ二つに割ったと書かれていますが、そんなことできるわけがありません。フィクションです。資本家が対中東の政治戦略から、神話である聖書を基に歴史と人種を創作してしまったわけです。アシュケナジだとかスファラディだとか、一見すると学術的な根拠がありそうな雰囲気がする民族用語を創り出し、捏造論文まで持ち出すこともありますが、聖書は神話であるという観点を考慮すれば、神話に記された用語に生物学的根拠を探し求めるのはナンセンスであるとわかるはずです。もはや、でっちあげ、妄想の域です。 仮に聖書の記述が本当だとしても(あり得ませんが)、2000年も前に離散し、世界各地に散らばって行き、同化した家系をどうやって特定したのでしょうか?日本のような海に囲まれて比較的侵略に曝されにくかった国でも、一般人の家系を500年以上にわたって信頼できる資料を基に遡れることなど殆どないでしょう。離散した先々で同化し、あるいは同化せずに特定集団内でアイデンティティを保ち続けてきたのであれば、ユダヤ教の慣習や見た目などの共通点について信頼できる評価に値する考古学的な資料が世界各地で見つかるはずですが、そんなものは何一つ発見されていません。ユダヤ教徒に関連した最も古い著書はフラウィウス・ヨセフスのユダヤ戦記くらいしかありませんが、これとて、神話であることが判明している聖書をもとに記述されたものです。 69世紀にカスピ海南部に存在したハザール王国は、イスラム教とキリスト教の板挟みに合ったせいで支配層がユダヤ教に改宗したというだけのことで、これは単なる宗教問題です。ハザール王国の支配層がユダヤ教に改宗したことは、ユダヤ人が生物学的に特徴付けられる人種であることを示す証拠にはなりません。歴史資料からも、ハザール王国の支配層はテュルク系民族(トルコ系)であったことが推測されています。 世界中のユダヤ人団体なるものも、似非団体です。政治的なプロパガンダに過ぎず、悪質な歴史や民族の創作です。田中英道(仮名)や宇野正美(仮名)、馬渕睦夫(仮名)なんかが吹聴するユダヤ論に生物学的根拠はありません。アシュケナジやスファラディなどという民族のDNAが特定された、などと似非論文まで持ち出していますが、聖書はもともと神話である、という観点から再考すれば、何が嘘か、何が事実か簡単に判別できます。これは、イスラエルのテルアビブ大学のシュロモ・サンド教授のインタビュー動画や著書を読むと理解できると思います(下部資料)。 違う国の国旗を掲げて他国に敵対姿勢を見せたり侵略行為を行うことを偽旗作戦と言いますが、神話をもとに人種を創作し、都合でユダヤ人ということにして間接工作に利用できるという利点があるのではないかと推測します。

 

Q:ナチスはどうやってユダヤ人をユダヤ人として認定したのですか? A:ヒトラーがそう認定したから、ではないでしょうか。もちろん、生物学的な根拠や信頼できる証拠は、なにひとつないことを付け加えておかねばなりません。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13269233938

シュロモ・サンド『ユダヤ民族がどのように創作されたか』

https://www.youtube.com/watch?v=a3w2nHShoNk

 

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