彰義隊、敗れて末のたいこもち  目時美穂  2024.4.25.

 2024.4.25.  彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯

 

著者 目時美穂 1978年静岡県生まれ。03年明治大学文学部フランス文学専攻修士取得、09年同博士後期課程単位取得満期退学。専攻研究のかたわら明治時代の文化風習、文学等に興味を持つ。在学中、古書情報誌『彷書月刊』へ。2010年の休刊号まで編集に携わる。著書に『油うる日々明治の文人戸川残花の生き方』(芸術新聞社、2015年)、『たたかう講談師二代目松林伯円の幕末・明治』(文学通信、2021年)

 

発行日           2023.11.10. 第1版第1刷発行      

発行所           文学通信

 

 

序 ふたつの魂

明治維新、徳川の家臣の生活は一変、零落する者もいれば新しい時代で意義ある人生を送り得た者もいた。世の権力とは無縁の場で、世間にもまれながらおのれの生をまっとうするという、市井に生きた明治の群像の中の1人、松廼家露八の生涯を語る

松廼家露八、吉原遊郭の幇間、もとは幕臣ともいえる武士。天保4(1833)生まれ。本名土肥庄次郎頼富。土肥家は徳川御三家の1つ、一橋家の家臣、家格も目見(めみえ)以上だが、若いころ放蕩の末廃嫡。36歳で彰義隊に加わるが敗れ、残りの人生を幇間として過ごす

1932年、岡本綺堂が露八をモデルに野井長次郎こと梅の家五八を主人公とした『東京の昔話』をいう芝居台本を書き、同年歌舞妓座初演。主演は左団次。71年再演、岸井良衛演出

吉川英治も『松のや露八』を書き、34年『サンデー』に連載、59年明治座で矢田弥八脚色、前進座により公演、66年には勘三郎が、74年には平岩弓枝脚・演出で森繫劇団により再演

81年には原作を離れたほぼオリジナル脚本で三木のり平・水谷八重子の『露八恋ざんげ』が、90年には植木等が東宝の舞台へ。以後30年経って、その名を知る人はほとんどいない

幇間は明治のころには、たいこもち、たぬき、女性の芸者に対して男芸者とも呼ばれる

「たいこもちあげての末のたいこもち」と詠われ、たいこもちをあげて豪遊した金持ちが、遊興が過ぎて零落し、遊び尽くして唯一身についた芸、たいこもちになったという

旗本の二,三男坊も多かったといわれ、武士から幇間に「成り下がった」者は決して珍しくない

露八は、戦いに敗れ、すべてを失ったのち、いったいなぜ、ふたたび幇間稼業に戻ったのか

吉川英治の露八は、意志薄弱で、自らの意志というよりは、状況や、他人(特に女)に流されている。その気張らないさまが魅力であり、読み手にとっても面白いだろうが、露八と交流のあった伊藤痴遊(自由民権運動者)によれば、露八の真骨頂を理解していないという

真骨頂とは、幇間になっても変わらぬ武人の面影と心意気であって、職業と地の性格は別物

露八の写真に写る表情の険しさは、芸に生きた人生の厳しさだけに刻まれたものではなく、幇間として生きながら、戦死した戦友たちの追悼に生涯心を配り、死後は戦友たちの墓のある円通寺に亡骸を埋めることを望んだ旧幕臣の内面を探ってみたくなる

彼の人生を辿ることができる第1次資料は、190068歳の露八が語ったとする『身の上ばなし』だが、資料発掘・編者とだけあって出典は不詳。次いで「野武士」の筆名の『松廼家露八』(1906)という評伝がある。内容は露八死亡時に『都新聞』に載った無記名での露八の伝記『故松廼家露八の経歴』と酷似

小説仕立てでは、旧幕臣・戸川残花の『露八』、吉川英治、子母沢寛の『蝦夷物語』、山田風太郎の『幻燈辻馬車』、村松梢風の短編などに登場

土肥庄次郎の魂の半分は、生涯変わらず父親譲りの物堅い「日本挿し(りゃんこ=武士)」。その半分の魂は、永遠に死んだ戦友を悼み続け、もう半分では飄逸で自由な芸人の世界に憧れ、いずれもが彼の本質であり、どちらの魂を否定するでもなく、露八は自由に巷を生きた

露八の生きざまには、たとえ敗者となっても、人間は誇りをもって自由に生きることができるのだという、したたかな力がある。それは、敗者の立場に追いやられても、敗北に沈んだ惨めな生涯を送る必要も、ただ敗北を挽回するためだけの、劣等感に汚れた望まない労苦に人生を蕩尽する必要もないことを教えてくれる

 

第1章     水道の水で産湯をつかい

ü  なつかしの小石川小日向

成人まで過ごしたのは、江戸小石川小日向武島町(現在の水道1丁目89番地)の土肥家の屋敷。伝通院に向かって坂を登り始めたところに永井荷風生誕の地の案内板がある

「水道の水で産湯をつかった」ことを江戸っ子は誇りにした

江戸開府後最初に出来た水道が小石川上水、発展して神田上水となり(1629)、更に玉川上水が出来て(1653)補完。1898年淀橋浄水場の竣工により、1901年神田上水の給水が終了

移民の都市だからこそ、土地や集団への帰属意識を高める強いアイデンティティが必要となり、「江戸っ子」という意識と誇りが出来上がる。頭と舌の根の回転が速いことが江戸前の粋とされ、野暮、田舎者、田舎臭いことを敵視し、なにごともスピーディーかつスマートに行うことが江戸で暮らすものが作り上げた「都会的」な生き方であり、誇れるアイデンティティとした

「江戸っ子」とは、榎本武揚(釜次郎)とともに戊辰戦争を戦った江戸の武士のことだが、多くは町人たちと境界を曖昧にしながら暮らし、互いに影響し合ってきたので、町人とも共通する

江戸っ子という気質、誇りが庄次郎の人格を形成し、生涯の選択を大きく支配した

ü  一橋家臣下の家

一橋家は、徳川御三卿(ごさんきょう)1つで、吉宗の四男・徳川宗尹(むねただ)が興した家

土肥家は、幕府からの出向ではなく、一橋家が直接抱え入れた家臣で、父は御近習番頭取

4歳で疱瘡に罹り死にかける。体格に恵まれ武芸に秀でる。19歳で母が亡くなり、後妻との折り合いが悪く、家出した挙げ句、父が殿様から拝領した小刀を質入れし、うっかり流してしまったため、切腹を覚悟。最後の挨拶に行った講談師が異常に気付いて説得、落語でもと勧められるままに前座を務めていたのが父親に発覚して勘当・廃嫡。武者修行の旅に出るが里心がついて家に戻って許しを請う。その直後に安政の大地震。そのまま自邸に落ち着いたが、そうなると吉原が心配になって、まだ焔が燃え立つなかを吉原へ向かって駆けだす

ü  いちばんむずかしい夢の稼業につく

吉原は江戸で唯一幕府公認の遊郭。現在の台東区千束3,4丁目のお歯黒どぶという堀に囲まれた20,767坪に遊女6,7千人がいた。大門(おおもん)から裏門の水道尻(すいどじり)まで歩いて5分ほどの仲之町の両側に引手茶屋が並び、妓楼(大見世)に上がって花魁と床を交わす前に、芸者や幇間を読んで酒食を楽しみ遊ぶところ。一切を仕切っている

手頃に遊びたい客は、格子の中に着飾った遊女たちが「陳列」されて客を引いている張見世を覗いて客引きと交渉して折り合えば登楼。外郭へ行くにつれ見世の格は落ちて、長屋式の遊女屋の切見世、河岸見世という最下級の遊女屋が並ぶ羅生門河岸、西河岸まで、どの階級の男でも楽しめるように揃っていた。眺めて歩くだけの素見(ひやかし)もいた。吉原も地震で壊滅的な被害を受けるが、落書では世間知らずぶり、感覚のずれを笑いものにされた

吉原に駆けつけた庄次郎は、大見世・玉屋山三郎の家に食客として世話になる。山三郎は、妓楼経営の傍ら、蔦谷重三郎が版元の『吉原細見』の版権を取って独占。文化人でもあった

地震の翌年(1856)、庄次郎は荻江正二の名で幇間デビュー。『吉原細見』に載るのは2年後

幇間は、間を幇(たすけ)る役回りで、客が楽しく遊べるように万端整えるのが仕事

震災後の復興を期して「にわか」を出す。芸者と幇間による車付きの舞台で芸能を披露し、見物客から金をとる。すぐに実家に露見して逐電

 

第2章     放蕩息子の遍歴と帰還

ü  西国で自由を満喫する

悪友と2人で東海道を西に向かい、京で幇間をやるが、江戸と上方では芸のやり方が違い、庄次郎には上方の幇間の卑屈が堪えられなかった。その後もふらふらと旅を続けるが、政情不安から長州藩の武装蜂起の情報に、帰参のタイミングを覚る

ü  禁門の変

1864年、庄次郎は京に上り、「新徴組」に長州の陰謀を伝え、隊に加わったと『身の上ばなし』に書くが、「新徴組」は存在せず、禁裏御守衛総督にあった一橋家の当主・徳川慶喜に伝えて加わったのだろう。その後の長州征伐にも加わるが、将軍薨去で戦わずして江戸に戻る

実家に戻った日が父の初七日。今度こそ本当に真実後悔

 

第3章     ものがたき二本挿し

ü  江戸の華、彰義隊

1866年、慶喜が徳川宗家を相続、庄次郎の弟3人も幕府陸軍に正式に編入されたが、庄次郎の名は正式名簿にはない

翌年、慶喜が将軍職に就くが、1年後には大政奉還、王政復古となり、鳥羽伏見の戦いを経て、682月には上野に蟄居。庄次郎は弟たちとともに彰義隊に加わる。主君を守って名誉回復を期す目的で17人が決起したもので、隊の名前は「義を彰(あらわ)す」、頭取は渋沢成一郎(栄一の従兄、栄一はパリ万博随員のため不在)。すぐに内部分裂して渋沢が去り、60名ほどが上野寛永寺に籠る。汚された江戸っ子の誇りを託せる唯一の存在として庶民に人気

庄次郎が通っていた吉原の同じ妓楼に戯作者の仮名餓垣魯文も通っていた

ü  上野戦争

18685月、上野戦争前後の江戸は、水害級の大雨が降り続き、上野界隈の低地は脛まで没して往来も容易ではなかった。時に高村光雲17歳で近くを通りかかり武装した武士を目撃

包囲する幕府軍12千に対し、彰義隊は1千程度。篠突く雨のなかを砲撃戦から始まる。午後には大勢が判明し、彰義隊の敗走が始まる。戦死者は266

敗残兵の多くは会津の幕府軍に合流するか、品川沖の榎本武揚艦隊に加わったが、庄次郎は厳しい残党狩りをくぐり抜けるようにして、飯能にいた渋沢成一郎の振武軍に合流

ü  再戦、飯能戦争

上野敗戦の8日後、飯能に立て籠もった1500名が幕府軍に抵抗するが撃破され、渋沢は秩父から草津に抜け、再び江戸に戻って榎本艦隊に合流し箱館戦争で戦う。庄次郎も同じルートで伊香保に逃げ、江戸に舞い戻る

ü  漂流

庄次郎は兄弟ともども、蛻の殻となった実家を後に榎本艦隊合流に成功、旧式の老朽艦で帆船になっていた咸臨丸に乗船するが、8月の出航後すぐに暴風雨に遭い難破、1週間後下田港に投錨。さらに清水港に移って地元の侠客・次郎長の世話になるが、静岡藩に投降し謹慎

ü  土肥家の子弟

土肥家は兄弟5人とも生き残り、兄がみな幕臣となったため、一橋家の家臣としての土肥家の家督を継いだのは末弟の鋻吉(かんきち、明治に頼継と改名)。五稜郭で敗北後新政府の御親兵となり、海軍に入って20年務めて退役。彰義隊最後の生き残りで38年死去(享年88)

二男八十三郎は辻講釈師、三男金蔵は文部省、四男鉡五郎は箱館戦争に加わった後は不詳

 

第4章     国破れてのちの世

ü  東京

1869年、東京に戻った庄次郎は、山谷掘の船宿に転がり込み、荻江露八の名で吉原の幇間に戻り、有力引手茶屋・山口巴の食客となる

ü  梶田楼遊女、愛人

露八は、中見世の梶田楼に出入り、そこの座敷持ち(自分の生活する部屋のほかに、客を取る部屋を与えられた遊女)の愛人(あいひと)と結ばれる。もともとは武士の娘だが、零落して落語家三遊亭円朝の隠し妻となった後、捨てられ遊女になっていた。円朝と別れた原因は不詳だが、聖人円朝にとって唯一の汚点だったとされる。また、幇間が遊女と結ばれるというのは御法度なので、結ばれたのは愛人の年季が明けた76年以降のことだろう。梶田楼の遊女のトップが鳰鳥(におどり、本名伊藤きん)で、後に浜町に料亭喜楽を開業、1884年築地に移転、現在の新喜楽となる。築地の屋敷は旗本・戸川氏の邸宅で、『露八』を著した戸川残花の旧邸

ü  榊原先生、撃剣会をもよおす

榊原鍵吉は直心影流14代宗家。幕末の剣聖・男谷(おたに)信友の跡を継ぐ。天皇の御前で兜割りをした人物。彰義隊には参加していないが、輪王寺宮を背負って三河島まで落ち延びさせた。門弟には幕臣も多く、零落した彼らを助けるためもあって、1873年府知事の許可のもと撃剣会の興行を催行。露八は榊原門下で、呼び出しの1人として参加

以後、各地で撃剣会が盛行、剣の道を堕落させたとの非難もあったが、興行を真似した有象無象のせいで撃剣会の質が低下したのは事実。榊原自身も、手にした金で危なっかしい起業家となり、新規事業はことごとく失敗し身を持ち崩している

ü  静岡に行く

1872年、マリア・ルス号事件が吉原を揺るがす。ペルー船籍の船で清国人苦力230人が奴隷として連行されそうになった時、英国人からの通報で日本政府が人道的立場から救済し本国に送還した事件で、ペルー側から自国に奴隷がいる日本に介入の権利はないと言い出す。吉原の遊女こそ奴隷だという。日本政府は国家の体面を保つために娼妓解放令を発布、遊女を全て解放する。解放された遊女たちは、自らの「自由意志」で体を売ることになり、妓楼は遊女に座敷を貸すだけという建前にして、一時的に寂れかけた遊郭はもとの賑わいを取り戻す

その頃の露八は、茶屋の援助も、決まった贔屓客もない野幇間(のだいこ)同然で収入が安定せず、賑やかと評判の静岡へ出稼ぎに行く(7577年頃)

静岡の二丁町遊郭は、家康公認の由緒ある色街

ü  自由民権の壮士たち

静岡に移住した旧幕臣たちのなかには、自由民権運動にやりきれない思いをぶつけた者もいたが、政府の取り締まり強化に反抗して武力決起を目論むようになる

東京に戻って職がないままに、お座敷を通じて面識のあった自由党員の活動の世話をしているうちに、自由党員が政府転覆を目論んだ国事犯として根こそぎ検挙され、露八も拘束

 

第5章     明治・東京の名物男

ü  鬼の勧進

放免された露八は山谷堀に戻って待合茶屋を開くが、いよいよ生活に困って、当時花柳に名を知られていた東京絵入新聞社の仮名垣魯文を訪ねると、奉加帳をもって勧進してまわれといわれ、若いころ剣術の稽古を評された山岡鉄舟や、榊原鍵吉、円朝などをまわって無心

1888年、再度吉原に戻って幇間になることを決意、歳を取り過ぎてはいたが贔屓になって引き立ててくれる茶屋もあり、翌年の『新吉原細見』には名前が記載されている

ü  開化の吉原と金瓶大黒楼主松本秀造

日本文化を席巻した欧化趣味が吉原にも入り込み、ガス灯で不夜城と化し、大門の両側には福地桜痴の詩文「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」「秋信先通両行燈影(しゅうしんさきにつうずりょうこうのとうえい)」が鋳造され、吉原を代表するイベント、春の夜桜と7月の玉菊燈籠を謳っている。開花の吉原のシンボルは、大見世・角(かど)海老楼の大時計台で、一葉の『たけくらべ』などいくつもの文学作品にも登場

露八は再勤にあたって、荻江の名を返上し、新たに屋号「松廼家」を名乗るが、屋号をくれたのは松廼家節の家元で維新の英雄たちの豪遊の場だった大見世・金瓶大黒楼主松本金兵衛(秀造)で、その後吉原の積立金使い込み事件の嫌疑もあったりしてこの時すでに廃業

ü  自分だけのいちばんの芸

1899年の勝海舟と岩本善治の談話では、海舟が露八のことを「まだ下手」と、評価は低い

彰義隊崩れ、御家人崩れの幇間が数多いるなか、露八の持ち芸は仁王様や妊娠娘(はらみむすめ)、布袋の川越しなどだが、幇間の評価は唄や踊りではなく、人情の機微に通じる

1897年、戸川残花は雑誌『旧幕府』を創刊。「賊」とされ苦汁を舐めてきた旧幕臣たちの名誉挽回のため、旧幕府時代の証言や資料を集めた雑誌で、露八も残花のインタビューで幇間になった理由を聞かれ、「恥ずべき業だが、まずい物を食って生きてるのは嫌だ」と答えている

ü  楽しき芸人生活

鶯亭金升(おうていきんしょう)の『明治のおもかげ』(2000)にも、「明治の吉原には好い幇間がいた」として露八にも言及

幇間を座敷に呼んで遊ぶことができたのは、財力に恵まれた者たちだけに限られるが、その芸の面白さを万人が体験することのできる機会が吉原には年に1度あった。にわかである

ü  吉原のにわか過ぎたる夜寒かな 子規(1898)

吉原には3大節(せつ)がある。春、4月の夜桜見物。夏、7月の玉菊燈籠。秋、8月のにわか

表題の子規の句には、にわかが終わればそろそろ今年も冬になるという季節感が現れている

にわかは、前後半各15日間。見どころは女芸者による獅子木遣()りで、163人いた芸者のうち72人が手古舞姿で練り歩く。踊りの振り付けは毎年花柳壽輔に新作を依頼する

男芸者は一座を組織して滑稽茶番をやる。1906年には風俗壊乱の可能性ありとして不許可

ü  女房と娘と女房のせがれ

1896年妻死去、翌年娘が松廼家小菊として1本立ち。「正札付掛値なき代物なり」との評判。芸は売っても身は売らない、誇り高き仲之町芸者

一方で、円朝の息子・朝太郎は酒がもとで何をやらせてもうまくいかず、父に見捨てられる

ü  いとしの妻狸

幇間の別称を「たぬき」という。露八は自らを「狸和尚」というくらいの狸好きで、置物や画幅などを蒐集していたが、仲間が露八に、亡くなった妻の代わりに生きた狸を後妻にと贈る

男やもめの露八には艶聞が絶えなかった

ü  去り際はにぎやかに

1898年、箱館戦争関係者の会・碧血(へっけつ)会に露八も参加。地元の有力者・柳川熊吉が、戦死者を埋葬し、函館山中腹に慰霊碑を建立。義に殉じた武人の血は死後3年を経て碧玉に変ずるという中国の故事から命名された会。榎本の前で露八は呂律が回らなくなり、中風と診断され、以後病み勝ちとなり、休みと復帰を繰り返した後、1902年廃業を決意。狸尽くしの廃業披露の宴を張る。実質的には廃業披露だったが、名目上は快気祝い

 

第6章     おれはさむらい

ü  芝居になった彰義隊

露八は死後、当人の希望によって、彰義隊士を含む戊辰戦争の戦死者の墓がある三ノ輪の円通寺に埋葬。実生活に関して言えば、露八の人生を通覧して見て、戊辰以来の行動のすべてがずっと戦死者の方を向いていたとは思えないが、過去彰義隊であったことがアイデンティティの大なる部分を占めており、彼の人生の苦難のときの支えとなっていたことは確か

彰義隊戦死者の墓は、亡骸が荼毘に付された上野の山王台と、遺骨が埋められた三ノ輪の円通寺の2ヶ所。1889年の憲法発布の恩赦で戊辰の死者たちの名誉が回復され、翌年上野公園で内国勧業博覧会開催

東京人の中に、江戸を懐旧する心情が生まれ、90年には新富座で『皐月晴上野朝風』と題した彰義隊を描いた芝居が5代目菊五郎、初代左団次、4代目福助らの主演で上演され、大成功を収める。同年、榎本文相も出席して上野の彰義隊の墓前で供養祭

1899年、上野公園の山王台のてっぺんに西郷隆盛像が建立。25千人が募金に応じ、2万数千円が集まる。制作責任者となったのが高村光雲。公園に背を向けて立つ像の尻の鼻先に当たる場所には彰義隊士の墓があり、露八にとって戦友の墓にケツを向けて、その征服者たる西郷の像が聳え立つなど許しがたいこと。竣工後、「薩摩芋食(くら)い肥(ふと)ったさいご屁ははなの前ではどうぞ御免を」と言い捨てて立ち去ったという。あからさまな憎悪と侮蔑だ

西郷と上野の縁は、薩摩藩兵を率いて激戦地であった黒門口を抜いて彰義隊を下したことしか考えられず、それが西郷の生涯の中で大きな栄光と見做されたということで、江戸城開城に加えて、彰義隊を壊滅させたことが象徴的な意味において江戸を征服するということと同義であったことの証左でもある

ü  わすれじの

露八は幇間をしながらも、かつての戦友に連なる人々との繋がりを保ち、また、戊辰戦争の生き残りとしての役割を果たそうとした。戊辰戦争の旧幕軍戦死者を弔う大法会での露八のホストとしての働きは弟の鋻吉に受け継がれたが、1938年の死後は日中戦争もあり途絶えた

彰義隊の墓に眠る人たちの直接の子孫はもういないが、円通寺では現在でも毎年5月に檀家の施餓鬼供養と合わせて彰義隊の慰霊祭が行われるのは、かつての彰義隊の追悼会の影響

露八が本当に楽しみにしていたのは、彰義隊親睦会で、親しい物だけ1020人が集まるこじんまりした会で、1897年から定期的に開催

中気を病んだ露八が相変わらず座敷に出ているのを見かねた榎本が、隠居所や金のことは面倒見るからと引退を勧めたが、露八は断っている。榎本は露八の一番の得意先の1

上野戦争時、砲撃轟くなか慶應義塾で授業を続けたという気骨を示した福澤だが、心情として戦死した旧幕臣たちに同情を禁じ得ないではいられず、その気持ちが義憤ともいえる感情となって、新政府内で栄達を果たし、爵位まで得た勝と榎本に向けられた。『瘠(やせ)我慢の説』(1901年『時事新報』)は多分に心情的な評論だが、福澤は榎本に対し、「首領が降参したのでは、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にしてその落胆失望は言うまでもなく、まして既に戦死したる者においてをや。死者もし霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん」といい、出家落飾は時代遅れだが、せめて、身を慎んで目立たず、質素に暮らすのが本意ではないかと皮肉っている。翌月福澤が死去したため、榎本の返事が書かれることはなかった

ü  たぬきづか

露八の名が刻まれた碑は円通寺ではなく、浅草寺の鎮護堂境内にあって、幇間碑/狸塚という

建立は1963年、幇間仲間が演芸会を開いて資金を集め、「全国幇間睦会」が立てた

撰文では、秀吉寵臣・曾呂利新左衛門を祖とする幇間の由来を記し、明治以来の物故者を供養、撰文の下には「またの名のたぬきづか春ふかきかな」という久保田万太郎の句も刻まれ、碑の背面には、25の花柳界の場所ごとに分類され、露八の名は最上段・吉原の2番目にある

1956年、売春防止法。赤線廃止により、58年遊郭吉原の灯がひっそりと永遠に消えた

幇間の文化は遊郭や色里とともにあり、それなくしては存続できないが、幸い幇間は健在。東京の花柳界は浅草のみ

ü  あたたかな墓

廃業の後、露八は阿吽(あうん)堂仁翁を名乗るが、体調が優れず、活動の記録はなく、1年後の1903年逝去、享年71。葬列の様式に拘り、質素の内に雅味ある式だと新聞にも載る

辞世は、七十一歳(なそひとせ)見あきぬ月に名残哉/夜や寒き打納めたる腹つゞみ、の2

1983年、黒門が荒川区指定文化財の第1号として保存される

露八の墓は、本人の希望通り円通寺に設けられ、榎本武揚の揮毫で「土肥庄次郎之碑」とだけあり、本人の事跡も建碑のいわれや尽力者の名前もない。遺骨は、娘が土肥家の墓に移す

 

おわりに

本書執筆のきっかけは、吉川英治の『松のや露八』が、期待したものと違ったから。想像し期待していたイメージの人物ではなかったため、小説家の想像力を除外した真実の彼がどのような人であったのか知りたくなった

 

 

 

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目時美穂『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』(文学通信)

202311月上旬の刊行予定です。

武士から男芸者に転身――。いかなる架空の物語より、ずっと波乱万丈に富んだ松廼家露八(まつのやろはち)の生涯を追う。

その数奇な人生のせいか、露八は小説に仕立てたくなる欲望を搔き立てるらしい。

岡本綺堂は『東京の昔話』という芝居台本を作り歌舞伎になった。戸川残花は「露八」という小説を書いた。子母沢寛の「蝦夷物語」にも、山田風太郎の『幻燈辻馬車』にも登場する。村松梢風も、江崎惇も、遠藤幸威も小説にした。吉川英治は小説『松のや露八』を書き、それは前進座により上演された。平岩弓枝が脚本・演出を担当し森繁劇団により舞台にもなった。1990年には露八役を植木等が演じた。近年では、阿井渉介による『慶喜暗殺太鼓持ち刺客・松廼家露八』(徳間書店、2022年)が出た。

そこで描かれた露八は、本当の姿だったのだろうか。

伊藤痴遊は吉川英治の小説を読み「幇間としての露八のみを知つて居て、露八の真骨頂は、解し得なかつたらしく、従て、露八の本態は、捉へ得なかつたのを、甚だ遺憾に思ふ」とした。

幇間として生きながら、戦死した戦友たちの追悼に生涯心をくばり、死後は戦友たちの墓のある円通寺に亡骸をうずめることを望んだ、旧幕臣の内面を探る旅。初めての松廼家露八・本格評伝誕生!

【露八の生きざまには、たとえ敗者となっても、人間は誇りをもって自由に生きることができるのだという、したたかな力がある。それは、敗者の立場に追いやられても、敗北に沈んだみじめな生涯を送る必要も、ただ敗北を挽回するためだけの、劣等感に汚れた望まない労苦に人生を蕩尽する必要もないことを教えてくれるのだ。】「序 ふたつの魂」より

 

【連載】江戸が東京に変わるとき――松廼家露八(まつのやろはち)の場合(目時美穂)

江戸から明治の転換期を生きた、松廼家露八(まつのやろはち)こと土肥庄次郎。

彰義隊として戦い、そののち幇間に転身した彼はなにを思い、生きたのか。

このたびその人生を辿った本格評伝『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』(目時美穂著)が刊行されました。

本書の刊行を記念して、刊行にちなんだエッセイを週1回のペースで配信いたします。

いかなる架空の物語より、ずっと波乱万丈に富んだ露八の生涯を、ぜひたどってみてください。

目次

00 露八の気持ちは霧のなか2023.11.21公開)

01    江戸いまだ敗れず2023.11.28公開)

02    『相馬の金さん』と江戸っ子2023.12.5公開)

03    岡本綺堂の戯曲『東京の昔話』が描いたもの(12023.12.11公開)

04    岡本綺堂の戯曲『東京の昔話』が描いたもの(22023.12.19公開)

書いた人 目時美穂(めとき・みほ)

 

00 露八の気持ちは霧のなか

 松廼家露八(まつのやろはち)は明治の吉原で名高い幇間であった。ところで、幇間芸といえば、ひっぱられたり、しかられたり、屏風やふすまのむこうの架空の人物と攻防を演ずる一人芝居(屏風芸)などはご存じかもしれないが、そうした芸は幇間の役割のほんの一部でしかない。幇間芸の真骨頂は、遊廓に来た客を、御茶屋で花魁の到着を待つあいだ、いかにすこぶる楽しく遊ばせるかにある。酒にもつき合えば、日常会話も、噺家のまねごともお手のもの、即興の芸も披露する。そうして客は極上の気分で登楼してゆく。もちろん、色事を挟まない、慶事にも葬儀の露払いにも、人がつどって酒を呑むいかなる席にも呼ばれる。場の空気をよみ、客が望むであろう最良の周旋をするのが幇間である。

 かつて幇間は宴席になくてはならない芸人だった。需要があったのだから供給のほうも当然豊富であったにちがいなく、そのなかでかなりの人気を博していたのだからもちろん、酒席を盛りあげる芸も、客のとりもちもよかったにちがいない。どんな持ち芸があって、客に喜ばれたかは記録にある。だが、どんな味わいをもった芸人であったかは、積みあげたエピソードから推測するほかにないのである。

 松廼家露八の前身は武士である。本名の土肥庄次郎(どひしょうじろう)を、芸名の松廼家露八としても、(職業スイッチは入るだろうが)人間の本質のなにが変わるというのでもない。露八の父、土肥半蔵(どひはんぞう)はもの堅い武士だった。露八が自分の教養や素養についてどれだけ軽く語ったとしても、こどものころから父にたたき込まれた「武士」なるものを、みずからの内から消し去ることはできなかっただろう。

 客に漢語幇間(かんごほうかん)とよばれ、馬で吉原入りしたときの姿は立派であり、日ごろの運動に槍をしごく姿、のこされた数葉の写真の表情の厳しさから、武士の風格を保った人だっただろうと思う。どれだけ幇間として洒脱にくだけても、ちらりと垣間見える、肉体に、魂に染みついた武人の面影、芯にたたき込まれた武士の節度。それが幇間露八の持ち味であり、魅力のひとつであったのではないだろうか。だからこそ、ほかにも旧彰義隊士の幇間がいたにもかかわらず、「彰義隊あがり」は露八の専売となったのだろう。

 松廼家露八こと土肥庄次郎は、江戸が終焉をむかえようとするころ、御三卿の一家、15代将軍徳川慶喜を輩出した一橋家の家臣の家の長男として生まれた。幼いころから体格にめぐまれ、武芸の稽古にも熱心で、とくに槍術、馬術、砲術には熱心に取り組んだ。本人はあまり関心がなかったというが、漢学を中心に学問もきちんと身につけていた。しかし、長じて、酒と女の味をおぼえて、悪友とつるんで問題行動を起こすようになり廃嫡される。やがて吉原に身を置くようになり、ついに武士を捨てて幇間になる。ところが、当時の身分制では賤しいとされていた幇間をしていることが父親にばれて斬られそうになり、逐電して西国で気ままな生活を満喫する。

 しかし、時代はのんきな放蕩生活をつづけている場合ではなかった。禁門の変、長州征伐、そして鳥羽伏見の戦いの敗北。主君徳川慶喜の生命さえも危うくなった。 そのころ、江戸で、旧一橋家の家臣が中心になって彰義隊が結成された。上野で謹慎している慶喜の名誉と命を守るために作られた組織だが、次第に薩長、新政府軍への報復を目するようになっていった。

 このとき、庄次郎は四人の弟をひきつれ、彰義隊にくわわり、上野にたてこもった。

 これが土肥庄次郎、松廼家露八の前半生である。

 これだけみると、それまでみるからに「軟派」な人生を歩んできた庄次郎の突然の変わりように少々違和感があるのではないだろうか。

 吉川英治の『松のや露八』では、京にいた露八は、鳥羽伏見の戦いの後、長州藩に与している弟(長弟・八十三郎は、吉川英治の小説では長州方についたが、現実の八十三郎は兄とともに幕府側で戦った)にひとめ会おうと陣中に忍び込み、兵に間諜と思われて攻撃されて負傷し、気を失っているあいだに弟に救われ、籠に乗せられる。弟が気を失った自分に土肥家の紋のあるみずからの着物を着せ、金と印籠まで持たせてくれていることに気がつき、「会いたかった」と涙するのであったが、その後、突如として怒りがわきあがる。「彼は、這い摺っても、江戸へゆくぞと思った。江戸へゆけば人間という人間はみんな味方であり親類のようなものだし――と思った」。そして、その次がすぐに上野の戦いの場面になる。戦いにおもむくほどの怒りはなぜ、いつわいたのか、痛む体を籠にゆられながら生じた怒りだけで彰義隊に加わるものだろうか、と考えてしまう。がそんなことは、吉川英治にとっての主題ではないからか、庄次郎の感情はいつもぼんやり、もやがかかってみえる。

 拙著では、本人や親しい人の証言があることを別として、主人公の心情をあまり書いていない。行動から推測することしかできない他人の心を、本当であるかのように書いてしまっては、創作と評伝の一線を越えてしまう。くわえて、本当に考えたかどうかわかりはしないことを、創作ではなく評伝としてまことしやかに書くことは、当人に対し非礼であると考えるからだ。

 だが想像してみることは自由だ。以下、江戸から明治の転換期、松廼家露八こと土肥庄次郎がなにを思い、どう考えて戦い、また、幇間になったのか、若干のメディア史と、岡本綺堂の戯曲にことよせて推測してみたいと思う。

 

01 江戸いまだ敗れず  

 彰義隊に身を投じるということ。それは本当に確実な敗北と死を見据えた自殺行為だったのだろうか。上野にたてこもった当事者たちにとって、勝つ見込みのない戦いに身を投じることで、みずからの命でもって江戸の武士の誇りを示し、江戸文明に殉じるという、滅びの美に徹したありかたであったのだろうか。またそれを見守っていた当時の江戸民衆にとって、本当に、彰義隊は死に花を咲かせるために集まった集団であったのだろうか。

 松廼家露八こと土肥庄次郎も家督を継いだ長弟からまだ10代の末弟まで、本人を入れて5人の男の兄弟全員と、土肥家に仕えていた侍まで、文字通り一族郎党引き連れて、必敗を覚悟で上野へ行ったのだろうか。土肥家の男たち全員の命を捧げることで徳川政権や、江戸文明に報いようとしたのだろうか。

 徳川政権と心中するために死に場所を戦場に選んだ人もいただろう。だが、露八・土肥庄次郎には、滅びの美にみいられた、ある意味耽美な生き方がそぐわない。だから、敗けると決まった戦場にあえておもむくとは思えないのだ。勝つ気ならば、あくまでも抵抗を貫きたいのなら、上野でなくとも合流できる戦場はまだいくらでもあった時期だ。

 彰義隊イコール死を覚悟した集団のイメージは、彰義隊が一日の戦闘で、戦闘部隊としては全滅ともいえる被害をだして壊滅してしまったから、つまり結果ありきのイメージではないか。

 こんなことを考えたのは、上野戦争があった慶応4年の江戸で、さかんに佐幕派の新聞が発行され、戦況を案ずる江戸庶民に多いに読まれていたという事実があるからだ。

 しかるに、江戸で佐幕派の新聞が闊歩したのは、新政府と幕府勢が拮抗していたというよりも、後者の勢力の方が依然として強かったことを示唆している。いや、幕府権力が風前の灯でありながらもかろうじて存続している一方、新政府の権力が浸透していない時期、つまり確固たる権力の不在期、空白期という特殊な時期であったからこそ、この種の新聞が誕生したともいえよう。ともかく佐幕派新聞の活動は負け犬の遠吠えではなかった。(山本武利「新政府を批判した旧幕臣」『歴史読本』19851月号)

 たとえば、開成所頭取であった幕臣柳河春三が江戸で創刊した「中外新聞」は慶応4224日から同年68日に新政府に発行を禁じられるまで、佐幕派の立場から戊辰戦争の戦局を報道しつづけた。この新聞は、最盛期1500部の発行部数を数え、号外まで出された。おなじく慶応4年、閏43日に福地源一郎(桜痴)や、条野伝平(採菊)らによって「江湖新聞」が創刊されている。人々は、固唾を吞んで戦局を見守っていたのである。

「別段中外新聞 戊辰五月十六日」では、前日、515日払暁に勃発した上野戦争について報じる。おなじく「江湖新聞」でも上野戦争について別号を刊行したとある(518日付、第20号)。この「中外新聞」の内容は早稲田大学古典籍データベースで全文読むことができる。

 実際、旧幕府軍は、総大将である徳川慶喜が先んじて敗北を演じ、率先して武装解除を行ったため、色濃い敗北色がただよっているが、兵力でいえば、まったく新政府軍に劣るものではなかった。そして、新政府軍は、江戸城を明け渡されたからといって、江戸を支配していたわけではないのだ。むしろ、新政府軍の兵士らにとっては無傷な軍隊を保持しているにもかかわらず、首府をあえて武力の空白地にして、降伏した奇妙な占領地に駐留しているようなものだった。さらに住民感情も最悪だった。毎日のようにテロがあった。現場としては、けして勝利に酔うどころの状況ではなかっただろう。

 江戸庶民は、彰義隊となった江戸武士たちが、西からきた「蛮族」を打ち破ってくれることを期待して、ハラハラ、いちめん、わくわくしながら開戦の日を待っていたにちがいないのだ。

 もし彰義隊が勝利すれば、戦況はどのように転ぶかわからなかった。江戸の各所、周辺には、いざ戦闘となれば彰義隊と呼応あるいは合流して戦おうと幕臣や佐幕派諸藩の兵士たちが武装を整えて集結していた。勝利しなくとも戦闘を長引かせれば、勝機がある戦いだった。

 これまで、彰義隊は、たった一日で敗れた弱兵、烏合の衆という印象で語られてきたが、この印象は結果論にすぎない。期待していたのにあっけなく敗れてしまったという民衆の失望もあるだろうが、もっといってしまえばこのイメージは、戊辰戦争終結後、旧幕府軍がもろかったと思わせ、一刻もはやく支配体制を盤石のものにしたい新政府の心理操作の賜物であろう。

 むしろ、一日で破らねば新政府軍の勝利が揺らぐ、という危機感のもと、天才大村益次郎が一日で破ることができる作戦を練りに練った。といえるのではないだろうか。

 上野の山王台、ちょうど彰義隊の墓に背を向けたかたちで、西郷隆盛像が建っている。この西郷像は、恩赦により許されたとはいえ国に叛逆をした男ということで、皇居のまえに建てることを却下され、「縁の深い」上野公園に建てられることになったのだ。では、どう縁が深いのか、といえば、べつに縁などないのだ。唯一の縁といえば、慶応4年の5月、薩摩藩兵を率いて、激戦地であった上野の黒門を破り、新政府軍勝利のきっかけを作ったというだけだ。日常着に兎狩り姿でやわらげられているとはいえ、彰義隊にとっては墓のまえに立った征服者であることに変わりはない。銅像といえば、靖國神社にある大村益次郎の銅像も、江戸城富士見櫓から上野の戦況をうかがっている姿を現したものだという。

 江戸を征服するということにおいて、彰義隊を壊滅させたということがいかに大きな意味があったのか、「敵将」たちの銅像が明かしているようなものだ。

 上野戦争は江戸地方の局所戦、小競り合いのように考えられているが、当時、当事者にとっては、戊辰戦争の戦局を決めた重要な戦いであったということだ。参加した者たち、もちろん露八も、最初から負けるつもりなどなかっただろう。勝利に寄与するため、勝つために参戦したのだ。

 

02 『相馬の金さん』と江戸っ子

 前回、松廼家露八こと土肥庄次郎は勝利に寄与するために彰義隊に加わったのではないかといった。だが、決戦と目していた上野で敗れてのちも、彼の戊辰戦争は終わらない。敗北ののちさらに、飯能の振武軍とともに戦い、ふたたび敗れて、江戸に舞いもどり品川の榎本艦隊に合流して、行けるところまで行こうとする。まさに不撓不屈。その間、弟たちはひとり、またひとりと櫛歯が欠けるように脱落していき、最後まで行動をともにできたのは長弟の八十三郎だけだった。

 なにが庄次郎にそこまでさせたのか。そこで、岡本綺堂の彰義隊にかかわる戯曲『相馬の金さん』(昭和2年作)をとりあげたい。この相馬の金さんの心情が、戦場に向かった露八の気持ちを代弁しているように感じるからだ。

 相馬金次郎は家禄百俵の御家人である。まじめにしていればそれなりに暮らせる禄高だが、始終遊蕩にふけっているため金がない。悪友の石澤寅之助とつるんで、質屋に出向き、刀箱にあらかじめ蛇を隠しておき、家宝の刀を質草にするが、家督者以外が目にすると蛇に変じてしまうので、品をあらためずに金を貸してほしいと言い張る。質屋はそれはできないと強引に箱をあけるが、箱からでてきたのは蛇である。金次郎は、家宝を蛇にしたと質屋をゆすり、ゆすり取った10両を協力者の石澤と山分けにして飲み代にするような人間である。けっきょく、この行状が上司の耳に達し、隠居させられてしまった。

 それが、慶応44月のある日、馴染みの店で酒を呑んでいて、「官軍」の兵士と口論になり、鉄扇で額を割られた。そのとき、勃如として彰義隊に加わることを決意し、弟を連れて上野に入ってしまう。弟に告げたその理由は、「おれがこれから上野へ駈け込まうといふのは、主人の為でもねえ、忠義のためでもねえ、この金さんの腹の蟲が納まらねえからだ。田舎侍が錦切れを嵩にきて、大手をふつてお江戸のまん中へ乗込んで来やあがつて、わが物顔にのさばり返つてゐる。それぢやあ江戸つ子が納まらねえ、第一にこの金さんが納まらねえ」(『綺堂戯曲集』第13巻)からなのである。

 こうして彰義隊に参加した金次郎だが、戦闘中足に二発の銃弾を受け、弟に助けられながら敗走、根岸の御形の松まできたところで、彼を案じて戦場に駆けつけた恋人の常磐津の師匠文字若と悪友の石澤寅之助に会う。しかし、恋人と友人の顔を見ても生き延びようという考えはわかず、これ以上の逃亡は不可能とすっぱりあきらめ、石澤に介錯をたのんで腹を切って死んでしまう。

 三田村鳶魚「相馬の金さん」(『三田村鳶魚全集』15巻)によると、相馬の金さんの本名は戸村福松といって、御広敷添番をつとめる御家人であっという。御広敷添番といえば、元治元年から父の跡を継いで御広敷添番となった中山共古の同僚である。

 『江戸文化』(第3巻第4号)の「御広敷勤」には共古が同勤した人名と屋敷の場所(元治2年・慶応元年の「御役人武鑑」掲載とある)が記されているが、そのなかに「青山長者丸 戸村重太郎」という名がみえる。御広敷添番で戸村姓、さらに住まいは青山長者丸ということだから、彼が金さんのモデルにまちがいあるまい。金さんは素行に不埒なところがあって隠居させられてしまったというが、共古によると、御広敷添番は、慶応二年に大規模なリストラがおこなわれているから、素行・品行云々ではなくてそのリストラの影響をうけたのかもしれない。

 実録によると、金さんは上野では死なず、庄次郎とおなじく榎本艦隊に合流。庄次郎は咸臨丸に、金さんは美香保丸に乗った。出港してすぐ暴風雨にあって、咸臨丸は漂流してやがて清水に、美香保丸は千葉の銚子沖に座礁した。金さんは、陸に泳ぎわたる際に死亡したと鳶魚はいうが、いまも銚子にある上陸の際死亡した九人の名が刻まれた碑に戸村の名はない。陸にわたった美香保丸の生き残りは、ここで隊を解散し、それぞれ別個に行動しているから、その後の戸村の運命はわからない。もしかしたら、座礁以前に、海に転落して命を落としたのかもしれないし、銚子から江戸へもどる途中の無数の小競り合いのなかで戦死したのかもしれない。あるいは、戊辰戦争では死なずに、その後の世を生きたのかもしれない。

 それにしても、綺堂の戯曲の金さんの行動原理があまりに単純で、いまいち感情移入できない。おそるべき短絡さだ。

 この相馬の金さんこと戸村福松もそうだが、江戸で生まれ育った庶民も武士も、理解に苦しむほど「江戸っ子」であることに絶大な誇りを抱いている。

 子母沢寛の短編小説「玉瘤」に、彰義隊士花俣鉄太郎が新政府軍の残敵掃討にかかって、新政府軍の兵士に囲まれ、ずたずたに斬られて死ぬ場面がある。この時、花俣は敵に向かって「このいなかっぺえが」と罵って息絶える。「いなかもの」というのが、まさに絶命するその瞬間に、自分を殺す敵に投げつける最高の侮蔑の文句であったということだ。たしかに、当時は学問、文化、流行の発信地として江戸は進んでいたのだろう。とはいえ、江戸っ子というものに対するものすごい優等意識だ。これを読んだはじめは、こういうパーソナリティーの人物もいたのかと思ったが、ほかの事例をみてみても、どうやら江戸の侍(庶民も対して変わらないが)というものは、おおむね全般そういうものであったらしい。

 戊辰戦争を戦った江戸の武士のなかには、忠義とか、武士の意地よりも、田舎者にばかにされた。でかい顔をされた。ただそのことに腹を立てて戦った人もいたかもしれない。いや、意外に多かったかもしれない。

 岡本綺堂はいう。

金さんなる人物はいはゆる忠義のために死んだのではない。江戸つ子の一人として自家の意気と面目との為に死んだのであると云ふことは、出来るだけ詳しく説明して置いた。金さんは其当時の口癖になつてゐる「徳川家三百年来の御恩」などの為に死んだのではない。彼は自分のために死んだのである。(岡本綺堂『綺堂劇談』青蛙房、昭和31年)

 とはいえ、あまり江戸っ子を笠に着られると、鼻につく。綺堂の養嗣子、岡本経一によると、江戸を追想する作品を多く書きながらも綺堂自身は、やたらと江戸っ子ぶるいわゆる「反吐(へど)っこ」(岡本経一「岡本綺堂に就いて」岸井良衛編『江戸に就ての話』 光の友社、昭和30年)ではなかったというが、この相馬の金さんも、露八こと土肥庄次郎もまぎれもない「反吐っこ」である。

 天よりも高い江戸っ子の誇りを、「田舎者」に傷つけられた。彼らが、ひとつには江戸っ子の面目のために命をかけたことは間違いない。

 

03 江戸から明治の転換期『東京の昔話』(1

 岡本綺堂には松廼家露八を主人公とした戯曲がある。

 『東京の昔話』と題されたその戯曲は、昭和791日に執筆に着手して15日擱筆。10月、歌舞伎座で舞台にかけられた。主演は、数々の綺堂作品の主役をつとめた二代目市川左団次。舞台美術は小村雪岱がうけもった。

 客の入りはどうだったのか、芝居の評価は高かったのかわからないが、昭和465月に再演されている。岡本綺堂はすでに物故していたので、弟子の岸井良衛が演出を担当し、舞台は、雪岱がのこした資料をもとに再現された。主演は十四代目守田勘弥である。

 この作品は、昭和7年、三十五区となった大東京市成立を祝うために書かれた。『昭和七年 吉例十月の大歌舞伎』に紹介されたあらすじには、「大東京実現に因みて明治初年の世相を語る」と紹介されている。昭和7101日、これまでの十五区に、周辺の五郡八十二町村を改編して新たに二十区をもうけ、編入し、東京市は三十五区となった。この新大東京誕生の慶事に際し、そもそも東京がはじまったころ、半世紀前の東京の「昔話」をとりあげることにした、というわけだ。

 場面は慶応4515日、上野戦争終結直後の、山谷堀今戸橋際の船宿梅屋。店先にいるあるじ善兵衛、帳場にすわる女将おせん、女中や船頭の耳には新政府軍による残兵掃討の銃声が聞こえている。

 山谷堀(現在は暗渠)は隅田川から三ノ輪方面へ通じる水路であり、吉原へかよう遊客が、浅草界隈から吉原の大門近くまで、贔屓の船宿から猪牙舟を仕立てて乗っていった。今戸橋は、隅田川から山谷堀にはいった最初の橋である。

 その船宿梅屋に、その日、ふたりの逃亡者が駆け込んでくる。ひとり目は、錦切れの留吉。もともとすりをなりわいとしていた留吉は、「官軍」の専横に腹をたて、新政府軍の兵士をみると、「官軍」のあかしとして肩に付けた錦切れを剥ぎ取っていたが、ついに気づかれて追われ、梅屋に逃げ込んだ。

 そして、その日、梅屋に逃げ込んできたもうひとりは、彰義隊の落ち武者。梅屋からは「湯嶋の殿さま」と敬われる常連のひとり、旗本の野井長次郎。土肥庄次郎(露八の本名)だ。

 この時の江戸庶民の感情は筋金入りの徳川贔屓である。梅屋出入りの幇間金八は、彰義隊の残兵を追う「官軍」の質問にこたえるふりをして煙に巻いてからかっている。心のうちでは、「どんな彰義隊だか知らねえが、隅田川の方角もわからねえ田舎者につかまってたまるものか」とののしっている。だいたい梅屋が、おなじみであった野井はともかく、錦切れの留吉までかくまったのは、「官軍」の錦切れを剥ぐという彼の行いを快としたからである。留吉は『戊辰物語』にも登場する実在の人物であるが、当時、留吉だけでなく、錦切れを剥いで抵抗の意志をあらわすものは、江戸中にいて、江戸っ子たちに喝采をもって受け入れられていた。明治初年に売られた「名誉新談」という錦絵にも彰義隊士の岡十兵衛という人が錦切れとりをしたことが書かれている。

 野井は、敵の追及を逃れるため、梅屋で町人姿に衣服をあらため、幇間の金八と錦切れの留吉と連れ立って遊客をよそおって吉原に潜伏した。そして、潜伏中、梅の家五八を名乗り、なしくずしに幇間になったようにみせながらも、本心では、ふたたび戦場に向かう機会をうかがっていた。

 しかし、友人の杉浦甚三郎を訪問した折、「江湖新聞」をみて、会津が落城まぢかであることを知る。生きる目的を失った野井は絶望して、上野の東照宮の前で腹を切って死のうとする。しかし、錦切れの留吉に、すんでのところで止められた。留吉は野井が杉浦甚三郎から、脇差しを購入した様子を見て、あやういものを感じひそかにあとをつけていたのである。

 このことがあってのち、気持ちがふっきれた野井は、頭を丸めて、本心から幇間になることを決意した。一方、錦切れの留吉は、巡邏の兵士に捕らえられる。連れ去られるところで終わるが、おそらく斬殺されたのだろう。

 『岡本綺堂戯曲選集 8巻』の解説には、「露八のことは有名でありながら、その伝記はつまびらかでない。この劇に露八の名を用いず、五八としたのは、すべてが作者の空想よって成立っているからであろう」とあるが、上野を出て、千住方面に向かったが街道を固められていて突破できず、山谷堀の船宿(実際の露八の場合は船宿近江屋)に逃走の手助けをしてもらったあたり、偶然かも知れないが、不思議と事実に即している。

 岡本綺堂は、明治5年生まれで、吉原芸者をしていた女性を妻にした通人である(結婚は明治30年)。明治35年に幇間を引退するまで吉原ではたらいていた露八に実際に接していてもおかしくないし、その死後であっても、吉原には露八についての伝説が残っており、妻のお栄から話を聞くだけでも、その伝説を採取することができただろう。リアリティーという観点からしても、登場人物に実名をもちいて障りに思わないくらいの詳細な情報は得ることができたにちがいない。

 それに、そもそも、歴史に取材した戯曲を得意とした綺堂が、生涯の設定をかりた人物の実名をつかうことをはばかるとは思えない。明治40年上演の『維新前後』では奇兵隊の高杉晋作を高槻新作と変名を使って表現してはいるが、権力側の人間を描くのにいらざる介入を厭うて変名を使った可能性もある。が、昭和7年、すでに死去して30年以上をへた、いち幇間に名前を変える政治的配慮が必要とも思えない。それならばなぜ、主人公の名前を仮名にしたのか。

 ひとつ考えられることとしては、綺堂が表現したかったのは、露八ひとりの人生ではなかったということだ。岸井良衛は「芝居に出て来る野井長次郎は、露八という似たモデルはあるにしても、武士から町人に転向してゆく主人公は、とりもなおさず岡本先生のお父さんの血なのである」(「江戸ッ子の作家綺堂先生」『第四十一回=五月歌舞伎公演 国立劇場』昭和465月)といっている。

 綺堂の父、岡本敬之助は元御家人で、彰義隊に参加したのち、さらに故郷二本松(敬之助は二本松藩出身で幕臣の岡本家に養子に入った人)で新政府軍との戦闘に加わり、負傷し戦線を離脱した経験をもつ。綺堂が描きたかったのは、父であり、数多くいた幕臣たちの運命の典型であり、江戸・明治の転換期を生きた人間のひとつの典型なのだ。

 綺堂は、その典型たるひとりの男の運命を追うことによって、江戸が終わり、まさに東京がはじまった瞬間の町の、人々の、時代の空気を舞台に凝縮させたのだ。

 

04 江戸から明治の転換期『東京の昔話』(2

 それでは、江戸が東京に変わった、その時の空気というのはどのようなものであったのか。

 第2幕の終わり、明治改元の知らせを持ってきた船宿のあるじ善兵衛に対し、前身を捨て、心から幇間となることを決意した、五八こと野井長次郎であったが、

「先月は江戸が東京となって、今月は慶応が明治となる。年号の変るのはめずらしくねえが、何もかも江戸と縁切れになるかと思うと、やっぱり寂しいな」

 とぼやく。旧幕臣として戊辰戦争を戦った綺堂の父・岡本敬之助、そして、露八・土肥庄次郎も、この五八とおなじく明治の世を手放しで喜び迎えることなどできなかっただろう。しかし、彼をとりまく善兵衛や女将のおせん、女中のおかめ、幇間金八らは、五八のノスタルジーにまったく共感を示さず、東京奠都の噂をして、善兵衛は、

「(前略)そうなったら大変だぜ。今までは将軍のお膝元であった此の江戸が、今度は禁裏のお膝元の東京になるのだ。有難てえことじゃあねえか」

 と景気回復と商売繁盛の幸先のよい未来をみこして喜ぶ。彼らにとって、新時代に飛びつかず、過去の時代に拘泥する者は女々しいのだ。

 五八は、「(考える。)むむ。やはり今まではおれが間違っていたのだな」とつぶやく。何を間違っていたのか、善兵衛に「なにが間違っていましたね。」と問われてもはぐらかして応えない。

 「年号が慶応から明治と変わり、その祝賀が盛大に行われることになり、東京の市民たちはようやくもとの快活さを取りもどした」(「東京の昔話 あらすじ」『第四十一回=五月歌舞伎公演 国立劇場』昭和465月)とある。だが、彼らの快活さはけして「もとの」とおりのものではない。彼らに快活さを与えているのは江戸のころとおなじではなく、新時代幕開けの祝祭の空気だ。

 慶応4年の5月のころは、あれほど「官軍」を毛嫌いし、将軍さまの江戸を愛惜し、江戸の終焉に愁然としていた庶民が、わずか数ヶ月後(明治改元は旧暦98日)の明治元年にはもう明治の聖代に期待している。将軍さまなど忘れ去って、天長さまの忠実な臣民となっているのである。しかも、まったく悪気もなく、無反省に。

 「官軍に対する江戸庶民の感情などに、若き日の綺堂の薩長藩閥政府への気持ちがあらわされていますが、しかし、それよりも、作者の庶民意識がそのまま描かれた作品だといった方が適切かも知れません」)(「東京の昔話 解説」同上)という。

 それでは、綺堂の「作者の庶民意識」というのは、軽佻であてにならないものだということかといえば、おそらくそれだけではない。そうした冷静さを欠いた感情ではこの作品は生まれない。

 第3幕は、銀座の大通りでもよおされた東京奠都の祝いの光景が描かれる。山車が通り過ぎる沿道には地方人の男女から西洋人までが見物に立っている。地方人や外国人をわざわざ登場させたのは、開け行く東京のイメージを現すためだろう。

 最後は、にわか(吉原で芸者たちによっておこなわれた踊りや芝居の見世物のもよおし。男芸者(幇間)は小芝居をした)の総ざらい(リハーサル)にこと寄せた、五八の仁王対江戸の影を背負った風神、雷神の掛け合いでしめくくられる。「東京など江戸が名を変えただけ」という風神・雷神に、五八の仁王は、

五十年六十年の先が見えねえのも無理はねえが、まあ欺されたと思って、長い眼で見ていろ。この東京がきっと二層倍も三層倍も大きくなる。今こそ東京のまん中に草の生えている所もあるが、それはほんの一時のことで、十年経つと東京の姿もよっぽど変わる。二十年経つと又変わる。それが五十年、六十年経つうちには、東京の姿も形もまったく変ってしまうのだ。その時に胆をつぶすな、びっくりするな。

 という。この台詞が、ただこの物語の舞台から50年、60年先にある昭和7年の大東京成立をことほぐために書かれたのだとしても、ここからは同時に、五八の過去を哀惜するだけではなく変化していく世を受け入れ、その変化のなかでしたたかに生き抜いていくのだという決意と強さが感じられる。

 戦いに敗れて、東京と名を変えた故郷にもどった露八・庄次郎もまた、支配者だけでなく人の心も風景も変わってしまった、そしてなお、ものすごい勢いで変わりつつある世を生き抜く決意をしたにちがいない。

 過去に拘泥するでも捨て去るでもなく、ただ変わっていく世を受け入れ、そこで生き抜く道を模索する。それが、敗者からの再生の第一歩であるかもしれない。
(了)

 

 

 

(書評)『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八の生涯』 目時美穂〈著〉

2024127日 朝日

 硬軟自在に生きた男の自由な魂

 「事実は小説より奇なり」は手垢がついて久しい言葉だ。ただ本書がひもとく明治の幇間・松廼家露八の生涯を前にすると、そう呟(つぶや)かずにはいられない。

 天保4(1833~4)年生まれの彼の本名は土肥庄次郎頼富(よりとみ)。徳川御三卿の一つ、一橋家家臣の嫡男に生まれるが、遊蕩(ゆうとう)が元で廃嫡され、吉原の幇間となる。

 たいこもちとも呼ばれる幇間は、遊郭の座敷などで場持ちをする芸人。客と周囲の人々すべての関係を取り持たねばならぬため、数ある芸人稼業の中でももっとも難しい仕事という。

 ただ自ら幇間となった割に、露八はそんな勤めにただ邁進したわけではない。ゆえあって上方に赴いた彼は、幕末の動乱に接しては突如、幇間の仕事を投げ捨てて幕府方の間諜となり、蛤御門の変にも参加する。江戸に戻ると上野寛永寺を本営とする彰義隊に加わり、上野陥落後は榎本武揚率いる旧幕府艦隊に乗り込んで蝦夷地を目指そうとする。もっとも露八が乗った咸臨丸は本隊とはぐれて漂流し、現在の静岡県清水に流れ着く。露八たちはここで明治政府軍の捕虜となるが、そんな一行を一時期匿ったのがあの博徒・清水の次郎長というから面白い。

 新政府から解放された露八は、再び吉原の幇間に戻る。ただ本書の筆者は、そんな彼の後半生に常に落ちる幕末の影を指摘する。

 露八は今までも、多くの創作物に登場する。中でも著名な作は吉川英治の『松のや露八』だろう。そこにおいて露八は万事気が弱く、女に振り回されがちな親しみやすい人物に設定されている。だが本書は数々の逸話から、魂の半分は幇間として自由に、残る半分は武士として亡き戦友たちに思いを馳せ続けた男の姿を浮き彫りにする。その丹念な調査は露八の複雑さをよみがえらせると同時に、人間という存在の複雑さ面白さ、そしてあらゆる喜怒哀楽をのみ込む時間の流れの容赦のなさをも教えてくれる。

 評・澤田瞳子(小説家)

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 『彰義隊、敗れて末のたいこもち 明治の名物幇間、松廼家露八(まつのやろはち)の生涯』 目時美穂〈著〉 文学通信 2750円 電子版あり

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 めとき・みほ 78年生まれ。古書情報誌編集に2010年の休刊まで携わる。著書『油うる日々』『たたかう講談師』。

 

 

 

Wikipedia

土肥 庄次郎(どひ しょうじろう、天保41218341月)[1] - 明治36年(19031123)は、江戸時代末期の武士。明治期には幇間松廼屋露八(マツノヤ ロハチ)として活躍した。

経歴[編集]

生家の土肥家は一橋家の被官で、庄次郎の父土肥半蔵(一説に平蔵)は近習番頭取であった。一橋慶喜が将軍となるのを機に幕臣となった。

庄次郎は嫡男であったが、13の頃から花魁遊びを覚えて放蕩三昧を尽くした。跡取りは弟・八十三郎に譲って家出し、吉原遊廓で幇間となった後、父と祖父に連れ戻され、廃嫡の上で江戸を追放される。一方で放蕩の合間に武道に精を出し、剣術、馬術、槍術、大砲、水泳など多岐にわたって熱心に習い、成績は良かったものの、いずれも免許皆伝前に手を放していた。周囲は飽き性の故だと惜しがっていたが、本人は後に、「将軍に対する忠義の心を忘れないために、武芸の奥義からは意図的に距離を置いていた」と明かしている。その後は長崎や堺などで幇間を続けていたが、元治元年(1864)に慶喜が禁裏御守衛総督になった際に帰参し、第一次長州征伐にも従軍した。

戊辰戦争期において、彰義隊の幹部となっていた弟の八十三郎の説得を受け、江戸開城の前後に彰義隊に入隊する。隊内にあっては応接掛として防諜活動に専念した。上野戦争で隊が壊滅して後は旅芸人に変装して榎本武揚の幕府艦隊に合流して咸臨丸に乗船するが、暴風雨のため寄港した清水港で官軍の襲撃を受けて蝦夷行きを断念した。

以後は静岡や吉原で幇間として永らく活動した。榊原鍵吉撃剣興行に参加したこともある。1903年に廃業を宣言。同年1123日、彰義隊士が眠る円通寺東京都荒川区南千住)に埋葬されることを遺言に残し、死去。

参考文献[編集]

加来耕三『真説 上野彰義隊』中央公論社中公文庫〉、19981218日。

 

 

幇間(ほうかん)は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者舞妓を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業である。幇間は別名「太鼓持ち()(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆()(たゆうしゅう)」とも呼ばれた。

解説[編集]

歴史は古く太閤豊臣秀吉御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、秀吉を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在したかどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。

また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。

専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦17511764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。

現在では東京に数名と岐阜に1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。

正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5 - 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。

芸者と同じように、芸者置屋に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。

一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。

なお、上方では江戸でいう幇間は芸者と呼ばれ、対して女性は芸妓・芸子と呼んでいたが、明治以降は芸者も女性を指すようになった。

幇間を題材とした作品[編集]

幇間 - 谷崎潤一郎の短編小説。

松のや露八 - 吉川英治の中編小説。幕臣出身の実在の幇間・松廼屋露八を取り上げている。

幇間探偵しゃろく - 幇間が主役の漫画。

父の花、咲く春〜岐阜・長良川幇間物語〜 - 2013年、NHK BSプレミアムで放送されたテレビドラマ。

落語の題材としては、「愛宕山」、「鰻の幇間」、「富久」、「幇間腹」、「王子の幇間」など幇間の悲哀や図々しさをテーマにした古典の名品が多数ある。

 

 

 

 

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