私の國語教室 福田恆存 2024.2.6.
2024.2.6. 私の國語教室
著者 福田恆存(つねあり)
発行日 2002.3.10. 第1刷
発行所 文藝春秋 (文春文庫)
『24-01 名文と悪文』で、歴史的仮名遣の合理性について詳しいと紹介された
『私の國語教室』(1958~59年『聲』連載、60年度読売文学賞)が原本。新潮文庫、中公文庫に収められたが、何れも品切れとなり、今回文春文庫に復活
序
本書を読んでもらいたい人:
① 作家・評論家・学者、その他の文筆家
② 新聞人、雑誌・単行本の編輯者
③ 国語の教師
④ 右3者を志す若い人たち
「現代かなづかい」や「当用漢字」を制定した国語改良論者たちは、文学者を目の敵にして攻撃し、大衆を味方に「実用主義」の宣伝に努めているが、これは一種の詐術であり保身術
私が戦後の国語改革に反対するのは、「非文学的」だからではなく「非語学的」だからであり、国語学の権威時枝誠記博士も強く警告している
問題は、一般知識階級、特に上記①~③の無関心であり、海音寺潮五郎が言うように国語改良論者は狂信的なので、余程の関心を持って臨まないと阻止するのは難しい
本書の組み立ては、とりあえず国語国字問題に関する一般的知識を得たい読者は、まず第1,2勝と第6章を読んでほしい。第1章は、戦後の表記法改革の本命ともいうべき「現代かなづかい」がいかにでたらめかを、その実際と原理について説いたもの、第2章は、それに対して歴史的かなづかひの原理を示し、その正統性と合理性とを明らかにした。第3章では、歴史的かなづかひの実際がそれほど難しくもなく複雑でもないことを、現代かなづかいとの対照において説明。第6章は、追記と共に読んでください。表記法の改悪という過ちが、いかに不用意に、しかも誤れる言語観、教育観、文化観に基づいて行われたかを論じた
さらに国語そのものに興味をもたれた方は第3,4,5章を読んでいただきたい。第4章は、国語音韻の歴史的変遷を国語学の通説に従って略述した。第5章では、発音が変化したから表記法も変えるべきというのは間違いだということに加えて、発音の変化が本当かどうか、本当だとしても、なお歴史的仮名遣の方がその変化を表出し得ているのではないかと論じる
第1章
「現代かなづかい」の不合理
Wikipedia:前半と後半に分けられる。前半では現代仮名遣いの表音的でない規則として、(1)助詞の「は」「へ」「を」に限っては経過措置として残したこと、(2)[o:]という発音を含む語について、連母音/au/と/ou/に由来する[o:]の場合は「おう」と書き、/oo/に由来する場合は「おお」と書くことにしたこと、(3)「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の使い分けについて、基本的に書き分けず「じ」と「ず」にするが、2語の複合によるという意識を持つ複合語についてはぢとづを用い、(語源的には複合語ではあるが)複合語と思われていないような語では「じ」と「ず」とするという、語源に関する意識というあいまいな基準をとっていることをあげ、これを欠点と断ずる。後半では表記と音韻について述べる。
1. 「現代かなづかい」の実態
1956年、文藝家協会のアンケートで、大半の会員が「旧かなづかい改訂の趣旨に基本的に賛成」と回答しているが、内容の具体的な細部に疑問を抱きながら、同時にその趣旨や原則を基本的に受け入れるということは、一見最もらしい現実論の様でいて、実は全く不可能なこと
内容の細部に現れる同意しがたい矛盾は、何れもその「趣旨」が無理であったり、原則それ自身に内在する矛盾から生じたものに他ならない
現代かなづかいの基本原則は、より所を現代の発音に求め、現代の標準的発音(音韻)をかなで書き表す場合の準則。その根本方針/原則は、表音主義で、同じ発音はいつも同じかなで表し、1つのかなはいつも同じ読み方をする。1音1字、1字1音が原則
第1の例外は、助詞の「は」「へ」「を」。すべての「は行」は「わ、い、う、え、お」と書く。表音主義なら「私は」→「私わ」、「水を」→「水お」だが、その例外を認める。ただし、「わ」「え」でもいいと例外の例外を認めるが、「を」だけは「お」ではならないと例外の例外を認めない
第2の例外は、「お列」の長音の書き方。「あ、い、う、え」4列の長音は、該当音の下に、それと同音の母音の「あ行」文字(あ、い、う、え)をつけて表し、「おかあさん」「しいの木」「つうしん」「ねえさん」とするが、「お列」の長音は「う」の方が数が多いので本則とし、「お」を例外とする。歴史的かなづかひで「ほ」とされていたものを「お」と書いている場合は長音とは考えず、母音が2つ重なったものと見做し、18語しかない(実際にはもっとある)ので覚える
本則の例としては「おとうさん」「おうぎ」、例外は「こおり」「おおきい」「とお(通)る」
「高利」「行李」は本則で「こうり」で、「氷」は例外で「こおり」
第3の例外は、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の使い分け。本則は1音1字の原則に従い「じ」「ず」となるが、例外として①2語の連合によって生じた「はなぢ」「みかづき」場合、②同音の連呼によって生じた「ちぢむ」「つづく」「つれづれ」の場合とする。①では、「いなずま」「たびじ」「ひざまずく」「きずな」などと不整合となるが、それぞれの語を語源を辿って2語の連合と分析し得る語意識を基準として、今日でも意識が生きている場合は厳密に書き分けるという。ただ、語意識は人によってもまた時代とともに移ろいゆくもので、明確な根拠にはなり得ない
「意地」「生地」の場合は、「地震」「地面」のように語頭に来て濁る場合もあって「じ」と書くので、例外①には該当しないとした。「世界中」「家中」なども総て「じ」に統一したため、「曽根崎心中」では「じゆう」と書くが、「心中を察する」では同じ漢字ながら「ちゆう」となる
例外②にしても、「著しい」は元来「じ」なのでそのままに、「5人づつ」は同音の連呼とはしないとして「ずつ」に。「続く」は連呼で「づつ」は連呼でないという根拠は不明。同音連呼自体曖昧
いくつか付則があって、固有名詞「沼津」「舞鶴」は「地名と漢字がどれだけの関係があるか分からない」から、運輸省と話し合いの結果「ぬまづ」「まいづる」としたという
「言う」も、発音通りで「ゆう」にすると、否定形が「いわない」となって語幹が変化してしまうので、「いう」でなければならないとしながら、「(お)めでとう」は動詞「めでる」と助動詞「たい」の合成語で、歴史的仮名遣の「たい」の活用は「〇・たく・たい・たい・たけれ・〇」(ない、ます、無、とき、けば(仮定)、け(命令))で、「おめでたう」は「おめでたく」の音便形だったが、現代かなづかいで「(お)めでとう」と書けば語幹の一部が変わった事になる。「たこうございます」も同様で、語幹の「たか」が「たこ」と変化している
さらに、「エ列長音」はエ列のかなに「え」をつけて書くとされ、「ねえさん」が例示されているが、該当するのは他に応答の際の「ええ」くらいで、「衛生」「生命」など例外に無数の漢語がある
また、「胡瓜」は宛字で語源的には「黄瓜」で、「キ・ウリ」と2語連合として発音するところもあるが、標準的発音に従って「きゅうり」と書けという。「狩人」も「かりゅうど」であって「かりうど」は誤り。語意識からは「き・うり」とすべきなのに、ここでは表音主義の原則に戻る
また、「学校」「敵機」は表音主義により「がっこう」「てっき」だが、「適格」「敵艦」は「てきかく」「てきかん」でなければならぬとされ、統一性を欠く
2. 表音主義と音韻 (現代かなづかいの原則の再検討)
表音文字とは、表意文字と対をなすもので、意味のない音だけを表示する文字が2つ以上綴り合わされて語をなし意味を生じたもの。表音主義とは、1音1字、1字1音を意味するが、ローマ字でも同じ文字を異なって発音することがあるように、かな文字の場合も必ずしも原則通りにはならない。かな文字は音節文字であって、1子音と1母音との組み合わせによる両者未分の音を表しているため、表音主義に徹することができない
金田一春彦ですら、「新かなづかいは決して表音式かなづかいではない」と断言。「仮名づかい」と「発音表記」とを峻別、「仮名づかい」は正字法であり、仮名は音標文字で、音韻符号を連ねた正字法はない。現代かなづかいは現代語音に基づき、現代語を書くためのものとする
現代かなづかいの矛盾は、ほとんどすべて「表記法は音にではなく、語に随うべし」という全く異種の原則(=歴史的かなづかひの原則)を導入したために起こった
第2章
歷史的かなづかひの原理
Wikipedia:「(一)「語に随ふ」といふこと」では歴史的仮名遣と現代仮名遣いとでは表記の原理が異なるとし、歴史的仮名遣の原理を「表記は語にしたがう」ものであると述べる。ついで橋本進吉と江湖山恒明の文章を引きつつ、かなは平安後期以降、音の混同によって(語中で)/fa/なら「は」、/wa/なら「わ」といった音と文字の単純な対応が失われたと述べる。「(二)音便表記の理由」では、表音文字である仮名でも表意性を志向するとのべ、(三)に続ける。「(三)文字と音韻」では「表記は語にしたがう」の意味について敷衍し、国字改良論者を批判する。「(四)「現代仮名遣い」の弱点」では、前半で第1章と同様に現代仮名遣いの欠点をあげ、後半で国字改良論者の批判を行う。
1. 「語に随う」ということ=歴史的かなづかひ
仮名遣は、仮名で国語を書くときの正しい書き方としての社会的の決まりのことであり、文字言語における文字の上のきまり――文字言語としては、その文字の形によって意味が明瞭に了解されればいいので、そのためには同じ語はいつも同じ文字で現れるのが理想的
言語の音の形は、我々の脳にある意味を示しある意味に伴う一続きの音として記憶されているので、文字言語における文字の形が何等かの手掛かりで、その意味に伴う音の形を想い起こさせることができれば、我々はそれを頼りとしてその意味を理解し得るのであって、必ずしも一々の文字が正確にその一続きの音の1つ1つの部分を示さなくてもよい
今の表音的仮名遣い(=現代かなづかい)は、もっぱら国語の音を写すのを原則とするもので、仮名をできるだけ発音に一致させ、同じ音はいつでも同じ仮名で表すのを根本方針とする。仮名を定めるのは語ではなく音にあるとするもので、仮名遣いとは根本的に違ったものであり、「仮名書き」とでも呼ぶべきもの
仮名文字は、1音ごとに正直に発音を表示しようとして発明されたもの。以前はもっぱら漢字によって国語を表記していた時代があり、その漢字を萬葉仮名と呼んだ。漢字を仮名と称した理由は表意文字である漢字の表意性を消去して仮名的に用いているからで、漢字の音を利用してどのように書いてもよかった(「いし(石)」と書くときに「伊之」「異志」などと書く)
仮名の発明によって、「い」は「い」か「イ」に決められ、「i」は「い」と「ゐ」「ひ」の3文字によって表されるが、「いし(石)」「ゐど(井戸)」「こひ(恋)」のように語によって明確に書き分けられる
仮名は、当初純粋に音をあらわす文字としてのみ用いられたが、仮名遣いということが起こってからは、語を表す文字として用いられ、性格が変わった。変わったのは平安時代後期からで、その原因は文字と発音の間に多少のずれが生じたから。漢語の移入に伴って長音、拗音、撥音、促音など過去になかった発音が出て来た(「到底:トーテー」「客車:キャクシャ」)り、昔は発音し分けていた類似語の消滅(語中語尾の「は・ひ・ふ・へ・ほ」が大体「わ・い・う・え・お」と同音になったり、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」なども異なった音であったものがほとんど同一の音になった。その結果、同一音を示す文字が2つ以上になり、同一文字が2つ以上の音を示すようになる。仮名遣いを最初に問題にした藤原定家は、発音とは関係なく、語の形によって仮名の遣い方の基準を決めた(歌論『下官集』の「嫌文字事」)――当時o.e.iの3音を表した8文字(「を・お」「え・へ・ゑ」「ひ・ゐ・い」)を用いる語60余を例示。仮名遣いは常に語によって定まるとされ、仮名文字は従来の「音を表す文字」から「語を表す文字」に性格を変換
2. 音便表記の理由
歴史的かなづかひ論者に対する批判2点に対する説明――①歴史的かなづかひが表記の基準を語に求めるなら、「柿」「垣」「牡蠣」と異なった語を同一文字「かき」で表すのはなぜか、②語に随うと言いながら、語形を崩してまで発音通りに音便を表記するのはなぜか(「ひ」の促音を「(川に)そひて」ではなく「そって」と書く例)
言葉はすべて音声と意味との結合したもので、どちらか1つで成立する言葉はない
仮名にしてもアルファベットにしても、意味のない音声だけの文字を作ったのは、いくつか組み合わせて意味を有する語を書き表し、書き分けようとしたから
文章において、表意よりも表音に力点が置かれるのは、「さらさら」「ポチャン」など擬声語のときのみだが、熟して来ると表意性が重くなる。文章を書くとき、「さらさら」などは熟しているので、多く平仮名を使うが、「ポチャーン」のようにカタカナ表示で差別されている理由は、前者が語として認められているのに対し、後者は語として認められていない点にある。特に後者の場合、あまりに現実の音に密着しているので、なかなか語として認められないだろうし、特に少し前までは格調の正しい文語の観念があって、擬声語はなるべく避けるとされたので、あえて文中に入れようとすれば、「サラサラ」などとカタカナ表記にしていた
一方、明らかに擬声語出身としか思われないにもかかわらず、今は平仮名に昇格し、さらに格式の高い漢字表記がまかり通っている言葉もある――「啜(すす)る」「轟く」「叩く」「雀」「螽斯」「烏」などで、表意文字の漢字表記のお陰でますます擬声語的表音性を脱却
以上のことから分かるように、表音文字を用いても、我々の内部には、語としての表意性への志向が本能的に働いて、単なる声音では同じ表記法を許されず、表音性を脱した時初めて語としての自律性を認められ、正規の表記法を与えられる。この表音性からの脱却と、語としての自律性ということこそ、私たちの語意識の中核をなすもので、それこそが歴史的かなづかひの大原則たる「語に随う」ということに他ならない
表音主義者の標的は、定家の「古典仮名遣いの遵守」観と契沖の「語の識別のための標識」という考え方だろうが、両者は「語に随う」の原則を主とすれば従に過ぎない。定家は単に古典の事例を抜粋しただけであり、契沖は古典の中に規範的なものを求め、語義の差によるものとした。その後、本居宣長の弟子石塚龍麿がその誤りを正し、語義の差ではなく音韻の差であることを明らかにし、橋本進吉がその全貌を解明
契沖(1640年~1701年)は、江戸時代中期の真言宗の僧、国学者、歌人。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川氏、字は空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・善兵衛元全(もとたけ)は250石の尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。第3子である契沖は、幼くして11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。ついで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となり、その間に下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して、大和国の長谷寺にいたり17日間も絶食念誦し、室生寺では37日間、命を捨てようとしたほどの激しい煉行をした[3]。
高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、その後、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となった。
元禄3年(1690年)に当寺で母が亡くなったのを機として、摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)に円珠庵を建立して住持となった。元禄14年(1701年)1月、円珠庵にて62歳で入寂。最後の一日まで、弟子に教授し続けていたという。墓所は円珠庵にある。
詠んだ和歌 和歌の浦に至らぬ迄もきの國や心なくさのやまと言の葉
業績[編集]
契沖が古典研究に勤しむようになるのは、妙法寺の住持となった延宝7年(1679年)以後である。著書は『厚顔抄』『古今余材抄』『勢語臆断』『源註拾遺』『百人一首改観抄』など数多いが、とりわけ『万葉代匠記』と『和字正濫鈔』は、実証的学問法を確立して国学の発展に寄与するなど、古典研究史上において時代を画するものであった。
徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』は、文献資料に根拠を求めて実証することを尊重した『万葉集』の注釈書である。その結果、語法に規則性があることを見出すなど、現在の日本語学の基礎となる現象を多く指摘した。そうした『万葉集』の正しい解釈を求める内に、契沖は当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』のみならず、『日本書紀』『古事記』『源氏物語』などの古典から採集して分類した。こうして成立したのが『和字正濫鈔』である。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えている。
著作集 『契沖全集』(全16巻、岩波書店)
橋本 進吉(1882年~1945年)は、日本の言語学者・国語学者。
経歴[編集]
1882年、福井県敦賀市に医師の長男として生まれる。京都府第一中学校(現洛北高校)、第三高等学校(現京都大学)を経て、1906年に東京帝国大学文科大学言語学科を卒業(銀時計受領)。卒業論文は「係り結びの起源」。
文部省国語調査委員会補助委員、東京帝国大学文科大学国語学教室助手を経て、1927年、同大学国語国文学第一講座助教授に就任。1934年、東京帝国大学より文学博士の学位を取得。1929年には教授に昇任した。1942年、日本文学報国会国文学部会長。1944年、国語学会会長。
1945年、病没。墓所は郷里の敦賀市の来迎寺にある。
業績[編集]
橋本の学風は徹底的な文献学に基づいている。この「文献主義」とも形容される姿勢は、『校本万葉集』の編纂などに表れており、門下生に有力な研究者がいたこともあって(有坂秀世、岩淵悦太郎、大野晋、亀井孝、服部四郎、林大、松村明ほか)、後世における日本語学の主流となった。
日本語における音韻の歴史的研究をしたほか、上代特殊仮名遣を体系づけた。上代特殊仮名遣は、橋本が独立に発見し、その後石塚龍麿の『仮字遣奥山路』の記述の価値を見いだし、顕彰したとされる。これについては、水谷静夫が論じているほか、21世紀に入っての研究で、本居宣長や石塚龍麿の研究に従っていることが確認されている。
橋本は「文節」を重んじ、文法体系は「橋本文法」と称された。現代日本語文法での四大文法の一つとして重要視され、学校文法への影響も大きく、学界だけではなく教育界にも大きな影響を与えた。
岩波書店(全12巻)で「橋本進吉著作集」が、岩波文庫で「古代国語の音韻に就いて」が刊行。
1942年に天津教の不敬罪裁判で、いわゆる竹内文書について狩野亨吉とともに検察側証人として、上代特殊仮名遣の観点から竹内文書の神代文字を否定した。
歴史的かなづかひの原則は、語の自律性。文字や表記という行為は、表意・表語を目的とし、語の自律性に仕える。そのための手段として一貫性や明確性を必要とする。その一貫性を論じたのが定家で、明確性を主張したのが契沖
冒頭の批判①について、歴史的かなづかひは同音異義語を認める。避けることが望ましいが既に存在している以上不回避であり、仮名遣いの問題ではなく語の選択の問題。また、「いる(入)」と「ゐる(居)」の書き分けは、語義の差を識別しようとして書き分けたのではなく、既に存在したものを踏襲したら、その結果として一貫性と明確性が得られたことを知っただけ
欠点は発音と違うことだが、音は文字にとって第二義的なもので、この程度のずれなら一貫性と明確性に賭けた方がいい。批判の②も、あくまで現実の声音に合わせて表音性を利用した例外と見るべき。あらゆる音便表記はそうして起こったものだが、歴史的かなづかひは決して語に随うという原則を捨ててはいない――「(机に)むかひて」のう音便は「むかうて」であって「むこうて」のように語幹を変えることにはならない
「(川ぞ)ひ」を「い」と発音するのも一種の音便現象だが、今では表記に変更を来す場合のみをそう呼ぶ。「は行」語中語尾音の転化という現象は全く法則的で例外がなく、あえて表記を変えてまで際立てる必要もなく、またもし表記を変えてしまうと、元の形を知る手掛かりを失ってしまう
3. 文字と音韻
歴史的かなづかひは、規範性は厳しいが、現実適応性は豊かで、音韻変化の史的現実に即応して変わってきた
「月」と書こうが「つき」と書こうが、語を表現するものであって、音を表現しようとしているのではない。それは我々が既に「つき」という語を知っていることを前提としている。そういう事前了解のないとき(擬声語など)のみ、その文字は初めて音を表現する。しかも、私たちはその文字による音を聞きとるのではなく、もっぱら既知の語によって読み取ろうとするので、既知の語がないと音を聞いても何を意味しているのか聞き取れない。鳥の話をされて「あかげら」や「めぼそ」と言われても分からず、「けら」が鳥の名だと知って初めて「あかげら」も鳥の名だろうと推察することができるし、鳥の名として「目白」を知っていれば、鳥の「目細」も類推しえただろうし、一度知ってしまってそれに慣れれば、相手の発音が曖昧でもはっきりと聞き取ることができる。方言でもかなり間違いなく理解できるのは、語を頼りに話を聞いているからで、音の単位を1つ1つ聞いているのではなく、語を探しているから、聞き間違いはなくなる
大野晋は『上代仮名遣の研究』で、『日本書紀』における清濁の表記が混乱している事実から、当時は清濁の区分を明確に書き分けていなかったと指摘している。音声表現は耳と口による言語行為だが、文字表現は目と手による言語行為であり、両者には単純な対応関係のみが存在するわけではなく、厳密に書き分けるのは困難だった
4. 「現代かなづかい」の弱点
まずは助詞の「は」「へ」「を」――これらを「わ」「え」「お」としない理由は音韻論の立場からは説明できない。これらの格助詞はその上にある言葉の文法的な役割を粒だてるもので、用いられる頻度も最大であり、機能的にも重大な語。「じ/ぢ」「ず/づ」の区別も時に語に従い時に音に従うと気紛れ。すべて「現代かなづかい」の矛盾は語意識に牽制されたことに起因する
最大の難関は「お列」長音。「行李(こうり)」「労働(ろうどう)」「そうして」と「氷(こおり)」「大きい(おおきい)」「遠い(とおい)」の区別は、前者が前の「こ・ろ・ど・そ」の長音だが、後者は前の音節の母音が2つ重なったものと考えるというが、その違いに対する説明はない。「大きい」の「きい」も母音が2つ重なっているが、「い」1つで兼用しているのとも矛盾するし、同一音韻を同一文字で記すという表音主義の原則にも合わない
「お」と書くのは、歴史的かなづかいで「ほ」と書く場合だけと説明するが、それでは新かなづかいは歴史的かなづかいが分からないと理解できないことになる
すべて表音主義に従うと、語の識別不能どころか、語の破壊が行われる。「お列」長音をすべて「お」にすると、未来や意思を示す助動詞「う」が消滅してしまう。「行こう」「書こう」の「う」は、「行く」「書く」という動詞の未然形に接続して意思を表すにも拘らず、それを「行こお」「書こお」とすると、「お」は単に前の語「行こ」「書こ」の長音を示す記号になってしまう。それでは困るとして、助動詞「う」を残すために、「行こ」「書こ」という活用形に助動詞「う」が接続したものだという文法的説明を強制している。歴史的かなづかいであれば「行かう」「書かう」なので、どこにも長音表示は出て来ず、文字は音を表してはおらず、語のみを表している。「高う」「ありがたう」も同様で、「う」は「く」の音便だが、これも現代かなづかいでは「たこ」は「たか」の語幹が変化したもの」と説明する。ここでも、変化しないから「語幹」であって、例外は「来る」「する」くらいだったにも拘らず、「語幹が変化する」と強弁
「お列」長音に限らず、国語において長音というのは難題。促音、撥音、拗音、拗長音、二重母音、全てそういう難しい問題を含む。表音主義に徹しようとして、拗音と促音を小さく表示するは根拠がなく、音韻通りに用いられるようにと小さく書くのであれば、「あ行」長音ものように、「素人(しろうと)」「行李(こうり)」の場合も「う」はただ前に来る音を長音に発音することを示す記号に用いられているだけなので、小さく表示しなければならず、それをしない理由は表音主義からは出て来ないはず
表音主義の不徹底は、全て語を志向する文字の本性の然らしめるところで、人民大衆の消化能力による親心から出たものでないことも、やがては完全に表音化し得るようなものではないことも、疑う余地はない
かな文字は表音文字。歴史的かなづかいは、表音文字を現実として受け入れ、それとは別次元の表意という観念を建て、それを目指しているが、現代かなづかいは、表意性を認めようとしないため、様々な矛盾を説明できない
そもそも言葉は表記法のためにあるのではないが、現代かなづかいによって示された表記法の改革は、国語そのものの改革に直結している。表記法以外の国語問題、例えば標準語や方言の問題、現代語と伝統・古典の問題、敬語の問題、語彙や語法の誤用の問題、国語教育の問題等々があるが、全てを表記法の変更だけで押し通してしまっている
明治以来の国語問題の歴史は、ほとんど門外漢の手によって推し進められてきた
表記法の問題は、外面的で単純であるがゆえに、自分が当事者として扱うのに容易であるばかりでなく、外部の一般社会人に訴えて、その共感と協力を得ることにおいてもまた容易なため、門外漢でも勝手なことが言える
歴史的かなづかいは漢字の混用を建て前としているのに反して、表音的かなづかいは漢字廃止の表音文字を目指しているので、惨憺たるものとなり、「スモモモモモモモウケタ(李も桃も儲けた)」「ウメワカワカオオオオオカニムケタ(梅若は顔を大岡に向けた)」「カオオオオッテナク(顔を覆って泣く)」「ハハワハイシャエ(母は歯医者へ)」などが出現
第3章
歷史的かなづかひ習得法
Wikipedia:歴史的仮名遣は決して難しくなく、多くの人が軽々と使いこなしていたとし、ついでハ行転呼音に由来する語中語尾のワ・ウ・オ・エ・イ音と、ジ・ズ音の表記(書き分け)をあげ、その後に歴史的仮名遣に習熟し得ぬのは国語教育に原因があるとし、かなを漢字より格下のものとみなす旧風によって仮名づかいがやかましく言われなかったといった言葉をのべる。
l 分類の方法
歴史的かなづかひにおける文字と音声とのずれは、2つの原因から起こる
1つは、元来、語頭と語中語尾とを問わず常に文字通りに発音されていた「は行」文字が、現在では語中語尾においてのみ「wa・i・u・e・o」と発音されているということ、即ち「は行」文字のみが1字2音であるということ
もう1つは、元来、異なった2つの音であった「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」および「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」が、現在ではそれぞれ同一音に発音されていること。2字1音
|
音 |
字 |
1 |
wa |
わ・は |
2 |
u |
う・ふ |
3 |
o |
お・ほ・を |
4 |
e |
え・へ・ゑ |
5 |
i |
い・ひ・ゐ |
6 |
ji |
じ・ぢ |
7 |
zu |
ず・づ |
上記7音が出てきた場合のみ、それぞれ2~3文字の中でどの字を選ぶか注意すればいい
さらに、文字と音声との間にずれを生じる大事な点は、長音と拗長音の場合で、現代かなづかいと異なる場合に注意が必要――「かうがうしい(神)」「たうげ(峠)」などにおける「お列」長音に発音していながら、「か」「た」等の「あ列」文字を用いる場合、および、「…でせう」「…ませう」などのように「お列」拗長音に発音していながら「え列」文字の「せ」などを用いる場合など
先ず本則を述べ、本則に合う語には言及せず。次いで例外の起こる由来と実例を挙げる。次いで例外として列挙した語の語源
1. 「wa」音の表記
本則:〈wa〉音が語頭にあるときは常に「わ」と書き、語中語尾にあるときは「は」と書く
例外:特定の語に限り、語中語尾でも「わ」を用いることがある――
l あわ(泡)、いわし(鰯)、くわゐ(慈姑)、こわいろ(声色)、しわ(皴)、ゆわう(硫黄)、ひわ(鶸)
l あわてる(慌)、うわる(植)、かわく(乾)、ことわる(断)、さわぐ(騒)、すわる(坐)、たわむ(撓)
l しわい(吝)、よわい(弱)、たわいない
「こわいろ」の「わ」は「こゑ」の「ゑ」の転じたもので、「ゑ」は「わ行」なので当然「わ」であって「は」ではありえない。「うわる」「すわる」は共に「うゑる」「すゑる」の自動詞形なので、その他動詞形と一緒に「わ行」と覚える。「わ行」の動詞はこの「植ゑる」と全く同じ形の「うゑる(餓)」を入れて3つの下一段活用動詞と「ゐる(居)」「ひきゐる(率)」もちゐる(用)」の3つの上一段活用動詞と全部で6つしかない。「すゑる(据)」と「すわる(坐)」とが同一語だと知れば語感も深まる
「たわむ」は「ま行」に活用して「わ行」には活用しないが、古くは「とをむ」とも言ったようで、第2音節は「わ行」の「わ」。「たわわに」はこれから出たもの。「さわぐ」は枝葉などの風に動く擬音「さわさわ」の動詞化で、「さやさや」「さやぐ」と同源かも
「ことわる」は「言割る」で、理非を識別し言い立てるという意味で、さらにそのことをあらかじめ言っておく、告げておくの意になり、もっと積極的に謝絶する意を生じたが、いずれにせよ「こと」と「わる」の2語連合であって、厳密には語中ではなく語頭の「わ」。似たような語に「ことわけ(理由)」があり、「わけ」は「訳」だが、遡れば「分(割)く」の連用形なので、「ことわる」「ことわけ」は本は同じ語。他にも、うちわ(内輪)、うらわ(浦和)、くつわ(轡)、くるわ(廓)、いひわけ(言訳)、しわけ(仕分)、のわき(野分)ことわざ(諺)、しわざ(仕業)、このわた(海鼠腸)、はらわた(腸)
備考:食用の「粟」は「あは」、淡白の意には「あはい」
雪の場合は「あわゆき」も「あはゆき」も用いられ、前者は「泡雪」「沫雪」、後者は「淡雪」
「不具」は「かたは(片端)」であって、「かたわ(片輪)」ではない
本則は、逆も真で、語中語尾の「は」文字は、必ず〈wa〉と読む
「しはらい(支払)」「おほはし(大橋)」の如き2語連合の場合は、〈ha〉音に読むことが多いが、「けはい(気色・化粧)」は、たとえ「け(気)」と「はひ(延)」が合わさったものであっても、古くから1語のように熟しきっているので、「さいはひ(幸)」「なりはひ(業)」「よはひ(齢)」「わざはひ(禍)」と同様、〈ke・wa・i〉と発音するのが自然で、事実そう発音していたが、最近〈ke・ha・i〉と発音している。「はは(母)」と同じで、他には見当たらない例外として注意を喚起する
原因は、いずれも一時日常会話であまり用いられなくなったため、文字の方から発音を教えられるようになったからで、一種の綴字(てつじ)発音と見做される。「はは」は「ちち」との対で起こったのだろうが、「けはひ」は「気配」という漢字から起こったもので、旧に復したい
「ゆわう(硫黄)」は宛字「黄」の字音表記「わう」に惑わされがちだが、「湯泡」の訛りだといい、「わ」は、厳密には〈wa〉音ではなく、〈wa〉音のごとく考えられる、あるいは〈wa〉音のつもりでいるものに属す。大抵の人は〈ju・o:〉〈i・o:〉と発音している
2. 「u」音の表記
本則:〈u〉音が語頭にあるときは常に「う」と書き、語中語尾にあるときは「ふ」と書く
例外:語中語尾でも「う」と書く場合がある
1群 かうし(格子)、かうして、かうばしい、とうに(x)、ようこそ(x)
2群 いもうと(妹)(x)、おとうと(弟)(x)、かうぢ(麹)、かりうど(□)、くろうと(玄人) (x)、しうと(舅) (□)、しろうと(素人) (x)、なかうど(仲人)、のうのう(x)
3群 かうがい(笄)、かうべ(首)、かうべ(神戸)、かうがうしい(神)、かうぞ(楮)、たうげ(峠)、こうぢ(小路) (x)、…さう、てうづ(手水)(△)
4群 かうもり(蝙蝠)、さうざうしい、てうな(手斧) (△)、はうき(箒)、まうす(申)、まうでる(詣)、もう(x)
5群 かうむる(蒙)、さうして、とうさん(父) (x)、とうとう(x)、どうぞ(x)、はうむる(葬)、まうける(設)、めうが(茗荷) (△)、やうか(八日)、やうやう(漸)、ゆうべ(昨夜) (x)、ゆわう(硫黄)
いずれも広義の「う」音便に属する用法で、昔は他の音であったものが、前後の音との結合において発音しやすい形をとるために、「う」と代わったもの
「かう(く)して」「とう(く)に」「よう(く)こそ」など少数の例外を除き、その本の形がすぐに見分けられないものばかり。それに反して、活用語のようにはっきりしている「う」音便がある。それはすべて「美しう」「向うて」で代表しうるもので、形容詞では「く」活用「しく」活用ともに語尾の「(し)く」にあたるもの、および動詞では「は行」4段活用の連用形語尾「ひ」にあたるものの2種類。前者の例では「赤う」「高う」「めでたう」(以上「く」活用形容詞)、「悲しう」「苦しう」「やさしう」(以上「しく」活用形容詞)、後者の例では「乞うて」「問うて」「習うて」「漂うて」「狂うて」(以上「は行」4段活用動詞)。それぞれ「く」「ひ」の代用で、整然としている
1群は、語源がはっきりしているので、語意識さえ働かせれば簡単に覚えられる――「かうし」は漢字音「格(カク)」の訛り。「かうして」は「かくして」の訛り。「かうばしい」は「香ばしい」ではなく「嗅(か)ぐはしい」。「とうに」は「とくに(とっくに)」の訛り。「やうこそ」は2語の合成語で「よくこそ」と「く」活用形容詞の語尾が「う」になっただけ
2群は、「ひ」「び」が、「う」になった例――「かうぢ」は「かび立ち」の意。「のうのう」は「のびのび」が訛ったものが擬声語的なもの。その他は「――ひと(人)」を意味する
3群は、「み」「ま」「む」に「う」を当てたもの――「かうがい」は「かみ(髪)かき」。「かうべ(首)」は「かみ(上)べ(辺)」。「かうべ(神戸)」は「かみ(神)べ(部)」。「かうがうしい」は「かみ(神)かみしい」。「かうぞ」は「かみ(紙)そ(麻)」。「てうづ」は「てみづ」。「こうぢ」は「こみち」。「たうげ」は山を越える時峠の辺りで神に「たむけ(手向)」したから。「…さう」は「強さう」「面白さう」で、「(あり)さま」の「ま」が訛ったもの
4群は、元来「は」文字だったのが、1群のごとく語中語尾で〈wa〉音に代わり、さらに「う」音に代わったものが主。それ以外は、もともと「わ・を・ゐ」文字で〈wa・wo・wi〉音だったものが「う」に代わったもの。「かうもり」は「かはもり(川守)」。「はうき」は「ははき」で、「掃く」という動詞の連用形に関連。「もう」は「もはや(早)」から来た。「さうざうし」は「騒」の音かとも思われるが、「さわざわしい」だろう。「まうす」は「まをす」の転。「てうな」は「てをの(手斧)」の転。「まうです」は「まゐ(参)いでる」が訛ったもの
5群は、「う」は発音の便宜から出たものだが、4群との違いは、他の文字や音の代用ではなく、一種の長音化で、音を延ばして言いやすくするためのもの。「さうして」は「さ・して」の「さ」を延ばしたもので、「さ」は「さ・(あ)れば」と同様「そのように」の意。「か」→「かく」→「かう」からの類推で、「さく」という用法はないにもかかわらず、「さ」から「さう」になったのだろう。「とうとう」は「とどのつまり」の「とど」が、「やうやう」は「やや(稍)」が延びたもの。「どうぞ」は「どうか」「どうして」「どうも」「どうやら」と同族で、「いづれ」の意の「ど」が延びたもの
「やうか」は「八(や)」、「ゆわう」は「輪」の延。「ゆうべ」は昨夜の意で、夕方なら「ゆふべ」、昨夜の「ゆうべ」は「夜べ」の「よ」が[ゆ]に転じてそれが延びた。「めうが」も漢字は宛字で、古くは「めか」だったものが延びたものだが、「芽」か「女」かは不明。「か」は「香」でしょうか。「とうさん」は「ととさん」の訛りだが、下の「と」の代用の音便とは言えず、上の「と」の延で、「かかさん」が[かあさん]となるのと同様のもの。「まうける(設)」は文語で「まうく」で、「まく」の延音というより「ま(間)・うく(受)」らしい。「まうける(儲)の文語「まうく」もそれから派生した言葉。「かうむる」は「かがふる」の転で、「かぶる」に発語の「か」が重なり、「かかぶる」「かがふる」「かうぶる」「かうむる」となったもので、「かぶる(被)」と同じ語。「はうむる」も元来「はふる」から出た語で、いろいろな意味を派生していて、「ほふる(屠)」や「あふれる(溢)」の文語「あふる」、前述の「かぶる」などの古い形でもあり、歴史的かなづかひではその文字そのままに「はぶる(放)」「はふる」として残る。勢いよく思い切って物を放ちやるさまを言ったものらしく、「葬る」も死者のむくろを未練なく打ち捨てるところから出たようだ。その「はぶる」が延音になって「はんぶる」「はんむる」になり、「はうむる」となったと思われる
備考:蛇足だが、なほ推量・意思の助動詞「う」「よう」において「う」が語尾に出てくるほか、語中語尾の〈u〉音はすべて「ふ」と書く。逆に語中語尾の「ふ」もじはすべて〈u〉音に読んでいいが、「ほふる」「あふる」だけは語中の「ふ」にも拘らず音韻変化を起こさずに昔のまま〈hu〉音で残る珍しい例
似た語で次の例外には要注意――あふぐ(扇)、あふぐ(仰)、あふる(煽)、あふひ(葵)、たふれる(倒)、はふる(放)の6語。「ふ」は、〈hu〉音でも〈u〉音でもなく〈o〉音。途中〈wu〉音の時期が長く、さらに〈wo〉音となり〈w〉が脱落して〈o〉音として固定。「あふぐ(扇)」は「うは(上)あふ(合)」の約、「あふぐ(仰)」は「うは(上)むく(向)」の約ともいうが、同じ語かも。「あふる(煽)」はその自動詞で、風に揺らぐ意、それが再転して他動詞に使われ、風を送って揺るがす意、煽動する意になったか。「あふひ(葵)」は日を仰ぐ花の意。「あふぐ(扇)」の連用形「あふぎ」が名詞に使われて「扇子」の意になるが、この場合は「あふぐ」のように「ふ」が〈o〉音ではなく〈o:〉音になるので、現代かなづかいでは「扇子」の時は「おうぎ」と書き、動詞の時は「あおぐ」と書くので、両者の関係が怪しくなる。もちろん歴史的かなづかひでは両者ともに「あふ」と固定
「はふる(放)」だけ例外で、〈o〉音ではなく〈o:〉音になる。同類には、語中では「あふさかやま(逢坂山)」「たふとい(尊)」、語尾では「かげろふ(陽炎)」「きのふ(昨日)」「ふくろふ(梟)」「うぃさうらふ(居候)」くらい。似た現象では「けふ(今日)」があり、2文字で1音節〈kjo〉と発音。「ゑふ(酔)」も時に〈jo〉と発音するが、それ自体は〈jo・u〉で、この語みならず「は行」4段活用動詞の終止形語尾は語幹と離して単独に〈u〉音と発音するものと見做していい。「けふ」の意味は、「け」が「こ(此)」の転、「ふ」が「ひ(日)」の転で、古くは「こひ」だったらしい。「きのふ(昨日)」の「ふ」も「ひ」の転で、「けふ」と同じもの。「き」は「きす」「きそ」だが、これは「き(来)し日」「き(来)し夜」の訛りで、既にそれだけで「昨日」の意であり、直訳すれば「昨日の日」になる
〈u〉音の表記についての注意――「はふる」「けふ」などの場合、「ふ」の上の「は」や「け」を一緒に覚えること。「あふさかやま」「たふとい」「ゐさうらふ」も同様。さらに、拗長音にはならないが「ゑふ」「いふ(言)」の2語では上の文字の音が変わり〈jo・u〉〈ju・u〉となる。「う」音便の場合は大部分の語にこの現象が起きる。1~5群の43語中(x) 印が13、(△)印が3、(□)印が2、印のないのが25。(x)印は問題ないもので、すべて「ふ」の上の文字が「お列」。「ゆうべ」の「ゆ」のみ「う列」だが、その下に「う」が来る場合、いずれもその長音化になるのは現代かなづかいと同じ。問題はそのほかで、無印の25語「あ列」の下、(△)印は「え列」の下、(□)印は「い列」の下に「う」が来るときで、原則は前2者では〈o:〉に、最後は〈u:〉音になる
語頭の「う」以外は、「う」文字に〈u〉音はない――「ふ」は「は行」4段活用動詞の終止形語尾で〈u〉音になるが、「う」の場合には〈u〉音はない。「ゆうべ」だけは〈u:〉になるが〈u〉音ではない
「あ列」の下につく場合としては、4段活用の動詞・助動詞の未然形で、「書かう」はその例。「え列」の下は「…で(ま)せう」の時だけ。「い列」では「しく活用」形容詞の「く」が音便を起こした時で、「美しう」などの時だけであり、(□)を加えて、それ以外で「う」が下に来ることはまずない。ただ、「きうり(胡瓜)」のように「黄瓜」の2語連合にも拘らず、音便現象のごとく〈kju・ri〉と発音している珍しい例外。結果として、無印25語と4段活用の動詞・助動詞に注意すればよく、前者は語義の識別を手掛かりにすればいいだけ
備考として1,2追加
「は行」4段活用動詞の連用形が「う」音便を起こす場合として、「乞うて」「問うて」「習うて」「漂うて」「狂うて」をあげたが、「乞うて」「問うて」以外、標準語の口語ではすべて促音便が普通
もう1つ、歴史的かなづかひの文章でよく見る誤りは、「向ふ(に)」「向ふ(側)」「向ふ(た)」などで、全て連用形「向ひ」の「ひ」が音便で「う」となったものなので、「う」でなければならない
なお、「くろうし(黒牛)」のような2語連合のとき語中に来る「う」は当然〈u〉音に発音する。「かはうそ(川獺・古くは「かはをそ」)」「ものうい(物憂)」も同様の例。「どぢょう(泥鰌)」は「どろ・つ・うを」、即ち「泥の魚」の意だというが、それなら語尾の「を」の脱落と解すべき
3. o音の表記
本則:〈o〉音が語頭にある時は主として「お」と書き、語中語尾にある時は主として「ほ」と書く
例外:特定の語に限り、語頭・語尾語中の〈o〉音に「を」を用いることがある
l 語頭の「を」
1群 を(尾)、を(緒)、をか(岡)、をぎ(荻)、をけ(桶)、をけら(植物名)、をこそづきん、をさ(長)、をさ(筬)、をしどり(鴛鴦)、をす(雄)、をちど(越度)、をとり(囮)、をどり(踊)、をととし、をととひ、をとこ(男)、をんな(女)、をとめ(少女)、をつと(夫)、をぢ(叔父)、をば(叔母)、をひ(甥)、をの(斧)、をり(折)、をり(檻)、をろち(大蛇)
2群 をかしい(可笑)、をこがましい、をさない(幼)、ををしい(雄)、をさをさ(多分・おほかた)
3群 をかす(犯)、をがむ(拝)、をさめる(納)、をさめる(治)、をしむ(惜)、をしへる(教)、をののく(戦)、をはる(終)、をる(居)、をる(折)
l 語中語尾の「を」
1群 あを(青)、いさを(勲)、うを(魚)、かはをそ(川獺)、かをり(香)、さを(棹)、とを(十)、ばせを(芭蕉)、ひをどし(緋縅)、みさを(操)、みをつくし(澪標)、めをと(夫婦)、たをやか
2群 しをれる(萎)、まをす(申)
接頭語の「を(小)」――をがわ(小川)、をぐらい(小暗)、をやみ(小止)など。元来「弱小のもの」「若いもの」「愛らしいもの」を表す。「をとこ」は「を(男)」の子ではなく「をつ・こ」の転で、動詞「をつ」は「若がへる」の意なので、古くは男女を問わず若い者を意味した。「をつと」の方は「を(男)」の「ひと(人)」である「を・ひと」→「をうと」→「をつと」
「を」が「小」を表すのは語頭1群の「をんな」「をぢ」「をば」などにも明らか
「をんな」は「をみな」の転じたもので、「を・おみな」の訛ったもの。「おみな/おうな」は老女
「をとめ」は「をつ・こ」の対の「をつ・め」から転じたもの
「をこがまし」の「をこ」は「笑ふべきこと」だが、それが転じて「をかし」に。さらに「興を覚えること」「愛づべきこと」に適用され、「をしむ」も「愛づ」「いとほしむ」の意で両者には関連がある。「をしむ」は形容詞「をし(い)」から出たものなので、「をしへる」も関連ありという説もある
「をさない」は「をさ(長)をさしくない」から出たものだし、「納める」「治める」や、万事をまるく「をさめる」のもすべて「をさ(長)」の動詞化だろう
「をかぼ(陸穂)」は「をか(岡)」から類推できるが、「をかぼれ」「をかめ」の「をか」は「傍」の意で、これも山の脈が切れて離れたところにある小山を岡ということから出たもの。「をこそづきん」は別名「をくそづきん」「からむしづきん」、麻の茎で作られる。麻は古くは「を」といい、「をくそ」は「をくづ(苧屑)」で麻糸の屑。「苧」は「からむし」の意で麻の一種
「をちど」は度を越すの意なので「おちど(落度)」ではなく「越度」で、「越」の音は古くから「ヱツ・ヱチ・ヲチ」となっているので「をちど」が正しい
備考――「お」は語頭だけとしたが、唯一の例外が「はおり(羽織)」(動詞形:はおる)で、朝鮮語から入って来た
語中語尾の「を」は、「ばせを」「めをと」「とを」「まをす」において、その上に「せ」「め」「と」「ま」の音と結合して「o:」音を生じる。「ばせを」「めをと」では拗長音で「ʃo:」「myo:」になる
語中語尾の「ほ」は、「お列文字の下に来るとき以外はまず「o」音と考えてよく、「お列」文字以外では、それと合して「o:」音になるが、「おほう(蔽う)」が「o:・u」「o・o・u」「o・o:」のどれか判定するのは難しい(第5章参照)
4. e音の表記
本則: 「e」音が語頭にある時は主として「え」と書き、語中語尾にある時は主として「へ」と書く
例外(甲): 特定の語に限り、語頭および語尾語中の「e」音に「ゑ」を用いることがある
語頭の「ゑ」――ゑ(絵)、ゑ(餌)、ゑかう(会向)、ゑしゃく(会釈)、ゑしき(会式)、ゑちご(越後)、ゑんじゅ(槐)、ゑがらっぽい、ゑぐる(抉)、ゑふ(酔)、ゑむ(笑)、ゑる(彫)
語中語尾の「ゑ」――こゑ(声)、すゑ(末)、ちゑ(智慧)、つくゑ(机)、つゑ(杖)、ともゑ(巴)、ゆゑ(故)、うゑる(植)、うゑる(餓)、すゑる(据)
「ゑ」でなければならない特別な理由はないが、昔から「we」音に発音していたというだけのこと。「絵」や「会」「越」「慧」の呉音「we」から来たもの。類似に「ゑはう(恵方)」があり、「えと(兄弟)」の「え」の方角の意なので「えはう」が正しいが、漢字の「恵」をあてたのでその呉音「we」を書くようになった。「ともゑ(巴)」は「とも(鞆)」に書く紋様、絵の意で、「とも」とは弓を射る左手のひぢに付ける皮で、弦が返ってそこに当たるのを防いだもの、その紋様に使われたのが漢字の「巴」の象形的古体で渦巻のようなものだったので、字形をとって「巴」をあてただけ
「うゑる(植)」「うゑる(餓)」「すゑる(据)」は、「わ行」に下一段活用する唯3つの動詞で、文語では「うう」「すう」だが、口語で「su・e・ru」となる「すえる(饐、腐って酸っぱくなる)」の方は文語では「すゆ」で「や行」活用なので当然「ゑ」ではなく「え」。「つくゑ(机)」は「突き据ゑ」の意なので「ゑ」、「つゑ(杖)」も「突き据ゑ」なので「ゑ」、「すゑもの(陶物)」は結合語だが「据ゑ物」だから「ゑ」。「ゆゑん」は「ゆゑに」が訛ったもので「所以」は宛字。「ゑがらっぽい」は「いがらっぽい」ともいうが、元は「ゑぐ(植物の名)」から出たので前者の方が正しい。意味は喉が渇き刺激されていらいらすること。同様に、ゑぐる(抉)、ゑふ(酔)、ゑむ(笑)、ゑる(彫)も語感の生々しい語なので、語感から類推できる。「ゑふ」は「ふ」と結合して「yo・u」となることは前記2.参照
例外(乙): 特定の語に限り語中語尾の「e」音に「え」を用いることがある――あまえる(甘)、いえる(癒)、おびえる(怯)、おぼえる(覚)、きえる(消)、きこえる(聞)、こえる(肥)、こえる(越)、こごえる(凍)、さえる(冴)、さかえる(栄)、すえる(饐)、そびえる(聳)、たえる(絶)、つひえる(潰)、なえる(萎)、にえる(煮)、はえる(生)、はえる(映)、ひえる(冷)、ふえる(殖)、ほえる(吠)、みえる(見)、もえる(燃)、もえる(萌)、もだえる(悶)
「絶」は「たえる」で、「堪」の場合は「たへる」が紛らわしいだけ。識別法の第1は、これらすべて「や行」下一段活用の動詞で、文語の終止形はすべて「ゆ」で終わる。「ta・ta・e・ru」(湛・称)は、文語の終止形が「ta・ta・u」で、動詞の語尾に「u」は来ないので「たたふ」となり、口語は「たたへる」となる
その他少数の例外――いえ(否)、さざえ(栄螺)、ぬえ(鵺)、ねえさん(姉)、ひえ(稗)、ふえ(笛)
備考――要約すれば、いずれも「や行」に属するものか、「柄」「枝」「得」などとの結合語か、後世の延音のためか、いずれにせよ「あ行」の「え」は語中語尾にない。それは、日本語の特質によるもので、「e」音のみならず、「a・i・u・e・o」の「あ行」の音、文字が語中語尾に来ることは国語音韻の本質からあり得ない。語中語尾に「あ」が来るのは「かあさん(母)」「ばあさん(婆)」などの用法以外にはない。それも「かかさん」「ばばさん」の音便(=延音)。「お」は「はおり(羽織)」のみ。「う」も独立した助動詞の「う」以外はすべて広義の音便に類するもの。文語では「うう(植)」など3語あるが、前述の通り「わ行」の「う」。次項の「い」も同様で、「おいる(老)」「くいる(悔)」「むくいる(報)」の3語だけ語中に「い」が来るが、「や行」の「い」で、他はすべて音便
5. 「i」音の表記
本則: 「i」音が語頭にある時は主として「い」と書き、語中語尾にある時は主として「ひ」と書く
例外(甲): 特定の語に限り、語頭および語中語尾の「i」音に「ゐ」を用いることがある
語頭の「ゐ」――ゐ(藺)、ゐ(猪)、ゐたけだか(居丈高)、ゐど(井戸)、ゐなか(田舎)、ゐもり(井守)、ゐばる(威張)、ゐる(居)
語中語尾の「ゐ」――あぢさゐ(紫陽花)、あゐ(藍)、いちゐ(水松)、かもゐ(鴨居)、くらゐ(位)、くれなゐ(紅)、くわゐ(慈姑)、しきゐ(敷居)、しばゐ(芝居)、せゐ(所為)、つゐ(対)、まどゐ(円居)、もとゐ(基)、ひきゐる(率)、まゐる(参)、もちゐる(用)
「ゐたけだか(居丈高)」は本をただせば「ゐ(居)」に、「ゐど(井戸)」も「ゐ(井)」に、「ゐなか(田舎)」も「たゐなか(田舎中)」から出たもので「ゐ」に帰する。そうなると語頭の「ゐ」というのは名詞では、「藺」「猪」「井」「居」の一音節語が主だということになる
「居」は「ゐる」の連用形で、一音節語というのは適当でない。動詞としてはその「ゐる」と「ゐばる(威)」の2語だが、「ゐばる」は宛字の「威」の字音から「ゐ」を用いるようになったので、「い(息)ばる」との説もあり、「い(息)ぶき」「いきほい(息競)」に照らすとその方がもっともらしい
「くらゐ(位)」「しばゐ(芝居)」「まどゐ(円居)」「もとゐ(基)」はすべて「ゐ」との結合語
「かもゐ(鴨居)」「しきゐ(敷居)」は「居」をあてるが、語源ははっきりしない
「せゐ(所為)」「つゐ(対)」は漢字音から来たものだが、ここまで熟せば「ゐ」を用いた方がいい
「あゐ(藍)」は「あを(青)」の転、同じ「わ行」だから
「あぢさゐ(紫陽花)」は漢字の方は漢語をあてたものに過ぎず、「あぢ」は群衆の意、「さゐ」は「さあうぃ」、その「さ」は「真」の意、「まっさを(真青)」「みさを(操)」の「さ」と同じ
「くれなゐ」は呉の国の「あゐ」の意
「いちゐ(水松・一位)」は第1位の木の意でその音から来たものだが、これも熟しきった語
「まゐる(参)」は「まゐ(参)いる(入)」の約だが、この「まゐ」は接頭語のようにいろいろな動詞につけて用いる語で、神、目上のところに出掛ける意
「ひきゐる(率)」「はもちゐる(用)」はそれぞれ「引きてゐる」「持ちてゐる」だが、この「ゐる」は「居」の意ではなく、「ひきゐる」の古い形のそれと同義の語で「率」をあてていた。「もちゐる(用)」は「もちひる」とも書かれ併用されるが前者が正しい
「わ行」上一段活用動詞は、古語の「ゐう(率)」を除けば、「ゐる(居)」「ひきゐる(率)」「もちゐる(用)」の3語のみ
例外(乙): 特定の語に限り語中語尾の「i」音に「い」を用いることがある
1群 おいる(老)、くいる(悔)、むくいる(報)
2群 おいて(於)、おほいに(大)、かい(櫂)、かいぞへ(介添)、かうがい(笄)、かいなで(表面を撫でただけ)、かいまき(搔巻)、かいまみる(垣間)、さいなむ(叱責)、さいはい(采配)、さいはひ(幸)、ぜんまい(薇)、たいまつ(松明)、たわいない、つい、ついたち(一日)、ついたて(衝立)、ついで(序・次)、ついて(就)、ついばむ(啄)、ふいご(鞴)、やいば(刃)
3群 あいにく(生憎)、かはいい
4群 いいえ、ぢいさん(爺)、にいさん(兄)、はい、ひいき(贔屓)、むいか(六日)、あるいは(或)
1群の動詞3語は「や行」上一段活用で、この3語しかなく、識別法は前項の「や行」下一段活用動詞「あまえる」以下と同様に、文語終止形の語尾「ゆ」を確認すること
2群の「い」はすべて「き」の音便形なので、宛字に惑わされずに「き」に直せばすぐ意は解かる。「かい」「がい」は「掻き」で、「つい」は「月」「突き」「次」「付」。「つい・・・・(する)」も「突き」の音便で、単独の副詞ではなく、必ず他の動詞の頭につけて用いられ、「突きとばす」‥と同様の接頭語的用法と見做す方が妥当。それゆえ、そのあとに「に」という助詞が来るわけがなく、「遂に頂上をきはめた」のときは「つひに」であり、「つい」は名詞「終」で、「死」「終焉」を意味する古語
「まい」「たい」「ふい」「やい」はそれぞれ「巻き」「焚き」「吹き」「焼き」で、「たわいない」は語中の「わ」の項で既述。一説に「と(利)わき(分)なし」の転とある
「さいはひ(幸)」は「さち(幸)」の古い形「さき」から出た動詞「さきはふ」の連用形で、「さいはい(采配)」は「さいはらひ」から出たもので、「さきはらふ(裂払ふ)」の連用形。「さきはらふ」とは、萱(かや)を裂いてはらひぐし(祓串)として浄め祓うこと。その音便形「さいはらひ」は今日関西では「はたき」を指す。であれば「さいはひ」とすべきだが、「采配」の漢字をあてたため「い」となった
3群の「い」は「や行」の「や」や「ゆ」が訛ったもの。「あいにく」は「あやにく」の訛りなので「あひにく」は誤り。「かはいい」は「かはゆい」の訛り
4群はすべて延音。「ひいき(贔屓)」は「ひき(引)」が延びたもの。「e」音の項の「ねえさん」や「u」音の項の「とうさん」に類するもの。「あるいは」の「い」は延音ではなく、極く古く名詞につけて、それが主語であることを示したもので、『萬葉集』にも見られる。「あるひは」は誤用
備考――「はいる(這入る)」「はらいせ(腹癒)」「ひいでる(秀)」等は結合語。「はいる」は「はひいる」で「はひる」とも書く。「ひいでる」は「ほ(穂)いでる」の転
「おいしい」は、「えし」「よし」と同義の「いし」に接頭辞「お」がついたものなので結合語。「いしくも(美)」(健気にも)など今も僅かに残る。語尾の「い」は口語形容詞の語尾で、「i」音は常に「い」と書く。動詞連用形の音便では、「書きて」「仰ぎて」の「き」や「ぎ」が「i」音になる。関西では「指して」「渡して」の「し」が「i」音になるが、標準語ではないため認められていない
「ください」「ございます」も「り」の音便。「ござゐます」は、「御座居ます」等と宛字したてめで誤用。同様の間違いに「ゐらっしゃる」があるが、本は「入らせられる」なので「い」と書く
6. 「zi」音の表記
「ぢ」を用いる語――あぢ(味)、あぢ(鰺)、あぢけ(き)ない、あぢさゐ、いくぢない()、いぢける、いぢらしい、いぢめる(x)、いぢる(x)、うぢ(氏)、おぢる(怖)、かうぢ(麹)、かぢ(舵)、かぢ(梶)、かぢ(鍛冶)、くぢら(鯨)、けぢめ(別)、こぢる(x)、しめぢ(茸)、すぢ(筋)、ぢか(直)、ぢく(軸)、ぢぢ(爺)、ぢみ(地味)、ぢみち(地道)、…ぢや、どぢよう、とぢる(閉)、とぢる(綴)、なめくぢ、なんぢ(汝)、ねぢる(捻)、はぢる(恥)、ひぢ(肘)、ふぢ(藤)、もぢる(捩)、もみぢ(紅葉)、やそぢ(八十路)、やぢうま(x)、よぢる(攀)、わらぢ(草鞋)、をぢ(叔父)
備考――右以外は「じ」。(x)印は「じ」と併用
「…ぢゃ」は「それぢゃ行くよ」の「…ぢゃ」で、「…では」の訛り
7. 「zu」音の表記
「づ」を用いる語――あづける(預)、あづき(小豆)、あづさ(梓)、あづま(東)、いかづち(雷)、いたづら(戯)、いづみ(泉)、いづも(出雲)、いづれ(何)、いなづま(稲妻)、うづ(渦)、うづく(疼)、うづくまる、うづめる(埋)、うづら(鶉)、うはづる、おとづれる、おのづから、かかづらふ、かけづる、かたづ(固唾)、かづける、かはづ(蛙)、きづく(築)、きづま(気妻)、くづ(屑)、くづれる(崩)、けづる(削)、さづける(授)、さへづる(囀)、しづか(静)、たづき(方便)、たづさはる、なづむ(渋滞)、なづな(薺)、なまづ(鯰)、はづれる(外)、はづかしい、まづ(先)、まづい(拙)、まづしい、みづ(水)、みづから、めづらしい、もづく(水雲)、ゆづる(譲)、よろづ(萬)、わづか(僅)、わづらふ(病)
備考――語源の明らかなものや2語連合の場合が多く覚えやすい。「つづみ」「つづれ」等の同音連呼の場合や、それに類する「づつ」「つくづく」などの場合も省略。上記以外は「ず」
8. 「zi」「zu」音の表記の補遺
(1) 動詞のうち「甘んじる」「疎んじる」「重んじる」「軽んじる」先んじる」「そらんじる」等は文語で〈「く」活用形容詞語尾「く」+「さ行」変格活用動詞「す」〉あるいは〈名詞+「に」+「さ行」変格活用動詞「す」〉が撥音便を生じて「…んず」となったもの。これが口語で「甘んずる」「先んずる」となり、同時に上一段活用をもなし、「甘んじる」「先んじる」となったので、当然「ざ行」であり、「じ」を書く。漢語1語から来た本来の「さ行」変格活用動詞においても同様で、「感ず」「禁ず」「信ず」等が口語で「感ずる」「禁ずる」「信ずる」の「さ行」変格活用と「感じる」「禁じる」「信じる」の上一段活用との2様の語法が生じたが、これらも「ざ行」に活用する語なので「じ」
正真正銘の和語で、「ざ行」に活用する動詞は、「まず(混)」「はず(弾)」の2語のみ。「まず」は口語になると他動詞で「まぜる」、自動詞で「まじる」になり、「はず」の口語の他動詞は「はじく」、自動詞は「はぜる」となるので、自他動詞を比較すれば「じ」でなければならないのは自明
「怖ぢる」「閉ぢる」「恥づる」等は文語でそれぞれ「怖づ」「閉づ」「恥づ」と「だ行」上二段活用動詞。「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」がどう音になってしまった今日では、「じ」「ず」でもいいが、同じ「だ行」下二段活用する「出づ」「奏づ」「撫づ」「愛づ」となると、口語では「出る」「奏でる」「撫でる」「愛でる」となり「だ行」の「で」が出てくるのでまずい。その差をいい加減にしておくと「撫でる」が「撫ぜる」になったり、現代かなづかいのように「めずらしい」と書いて「愛でる」との連関を失ったりする。要するに口語の動詞で「zi」音を含むものは四段活用の「はじく」と上一段活用の「まじる」、「甘んじる」等の撥音便のついたもの、「禁じる」等の音便ではないが漢語から来た、字音に「n」を含む上一段活用動詞だけが「ざ行」の「じる」で、あとは「だ行」の「ぢる」
(2) 擬声語およびそれに近いものを挙げる
「じ」――じくじく、じっと(x)、じとじと、じめじめ、じゃじゃうま(x)、じりじり、じろじろ、じわじわ、たじたじ(x)、まじまじ
「ぢ」――げぢげぢ、もぢもぢ
「ず」――ずいと(x)、ずかずか(x)、ずしずし、ずしんと(x)、ずたずた(x)、ずっと、ずばずば、ずぶずぶ、ずぼら、ずらりと、ずるずる、ずんぐり、ずんずん
「づ」――ぐづぐづ、づうづうしい、づ(ぶとい)、づきづき、づぶ(の素人)
(x)はどちらとも断じかねる。語源が不明、他の語との連関なきものは「じ」「ず」のほうがいい
(3) そのほか助動詞の「じ」「まじ」「ず」があり、文語で「負けじ魂」「すまじきものは宮仕え」「やらずの雨」などあるが、これらが「じ」「ず」であることは言うまでもない
9. 要約
全体を整理すると、例外の語が約330あるが、機械的暗記を必要とするのは「を」「ゑ」「ゐ」を含む約100語、および「ぢ」「づ」を含む約90語で、それも芋蔓式連想作用によって自然に覚えられる
本来語中語尾に現れるはずのない、「あ行」文字を語中語尾に用いる語、即ち「い」音便の34語、「う」音便の43語、それに「や行」「わ行」に活用する動詞約30語、計約100語においては、語法と語源を知っていれば覚えられるし、語中語尾に「わ」文字を用いる17語も同様
国語教育は、専ら語義と語法の教育に徹すべきで、言葉に対する関心や語意識を深めることが必要。漢字の偏重が、かなづかい習得を妨げていた。漢字が「本字/真名」で、かなは「仮名」とされ、かなづかいはあくまで漢字習得までの過渡的便法でしかなかった
国語教育の改革派の議論には多くの矛盾がある。その1つが、かなづかいの隠れ蓑にするために使用する漢字のうちには、「当用漢字表」以外のもの、あるいはその「音訓表」以外のものがたくさんある。「音訓表」によれば、「生」という文字には「セイ」「ショウ」の2つの音と、「いきる」「うむ」「き「なま」の訓がある。これは、「は行」文字に唯二つの読み書きを要求するのとどちらが難しいか、答えるまでもない。さらには、「生える」「生い立ち」「芝生」等、音訓表以外の読みを強要する。「宛名」「赴く」「溺れる」「亭主」「溜飲」「蝶つがい」「耽る」「貫通」「書棚」「植木鉢」「雀」「硯」「塚」等の当用漢字表にない漢字や、「際立つ」「弟子」「取極め」「掃除」「手水鉢」「嫁ぐ」「善し悪し」「浜辺」「後始末」「温い」「遅い」「怖れ」「面あて」「乳房」等の音訓表にない漢字を用いている
「思へば」の「へ」を「東京へ」の「へ」と同音に読ませることを強いまいとまで神経を使っている人が、、同じく義務教育では教えられなかったこれらの漢字の読みを強いているのは奇怪
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音 |
字 |
本則 |
例外 |
用例 |
1 |
wa |
わ・は |
語頭は「わ」 語中語尾は「は」 |
語中語尾でも「わ」 |
あわ(泡)、あわてる(慌)、ことわる(断)、さわぐ(騒) |
2 |
u |
う・ふ |
語頭は「う」 語中語尾は「ふ」 |
広義の「う」音便 ①
語源から類推 |
かうし(格子)、かうして、かうばしい |
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② 「ひ」「び」→「う」 |
いもうと(妹)、かうぢ(麹) |
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③ 「み」「ま」「む」→「う」 |
かうがい(笄)、かうべ(首)、たうげ(峠) |
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④ 語源→「wa」音→「う」 |
てうな(手斧)、はうき(箒)、まうす(申) |
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⑤ 一種の長音化 |
かうむる(蒙)、さうして、とうさん(父) |
3 |
o |
お・ほ・を |
語頭は「お」 語中語尾は「ほ」 |
語頭語中語尾に「を」 |
を(尾)、をさ(長)、をかしい(可笑)、をかす(犯)、あを(青)、うを(魚) |
4 |
e |
え・へ・ゑ |
語頭は「え」 語中語尾は「へ」 |
語頭語中語尾に「ゑ」 |
ゑ(絵)、ゑ(餌)、ゑしゃく(会釈)、こゑ(声)、ちゑ(智慧)、つくゑ(机) |
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語中語尾の「e」→「え」 |
あまえる(甘)、おぼえる(覚)、きえる(消) |
5 |
i |
い・ひ・ゐ |
語頭は「い」 語中語尾は「ひ」 |
語頭語中語尾に「ゐ」 |
ゐ(猪)、ゐど(井戸)、しきゐ(敷居)、しばゐ(芝居) |
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語中語尾の「i」→「い」 |
おいる(老)、くいる(悔) |
6 |
ji |
じ・ぢ |
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あぢ(味)、ぢみ(地味)、もみぢ(紅葉) |
7 |
zu |
ず・づ |
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いたづら(戯)、きづく(築)、かたづ(固唾) |
l
文字と音声とのずれの原因
① 「は行」文字のみが1字2音
② 「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」および「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は2字1音
l
現代かなづかいにない用法は、赤字の5文字のみ
l
例外の語が約330あるが、機械的暗記を必要とするのは「を」「ゑ」「ゐ」を含む約100語、および「ぢ」「づ」を含む約90語
第4章
國語音韻の變化
Wikipedia:平安時代から現代までの音韻について略述する。
l 分類の方法
国語音韻の面からも、歴史的かなづかひのほうが特質に適っていることを傍証する
① 音韻を語義や語法から切り離して、純粋に音韻だけを把握し取上げることができるか
② 現代の音韻(現代語音)を、全く過去から切断して、純粋に現代のそれとしてのみ把握し取上げることができるか
初めて文字が使用され始めたときから今日までの1300年間に、日本語の音韻はほとんど変わっていなかったのではないか――国語の音節数は90程度で、その構造ははっきりしていて形式も簡単。少なくとも母音の特性は不変
音韻変化の歴史:
第1期
奈良朝まで――変化の増加と複雑化の時代(当初の音韻数88)
第2期
平安期から室町時代まで(800年)――減少と単純化の時代(音韻数135)
第3期
江戸時代以降(350年)――更なる減少と整備(音韻数102)
l 第1期の音韻
1. 「は行」音
当初88音韻を五十音図に即して作った音節表
わ |
ら |
や |
ま |
は |
な |
た |
さ |
か |
あ |
ゐ |
り |
〇 |
み |
ひ |
に |
ち |
し |
き |
い |
〇 |
る |
ゆ |
む |
ふ |
ぬ |
つ |
す |
く |
う |
ゑ |
れ |
え |
め |
へ |
ね |
て |
せ |
け |
え |
を |
ろ |
よ |
も |
ほ |
の |
と |
そ |
こ |
お |
|
|
|
|
ば |
|
だ |
ざ |
が |
|
|
|
|
|
び |
|
ぢ |
じ |
ぎ |
|
|
|
|
|
ぶ |
|
づ |
ず |
ぐ |
|
|
|
|
|
べ |
|
で |
ぜ |
げ |
|
|
|
|
|
ぼ |
|
ど |
ぞ |
ご |
|
|
|
|
み |
ひ |
|
|
|
き |
|
|
|
|
め |
へ |
|
|
|
け |
|
|
ろ |
よ |
(も) |
|
の |
と |
そ |
こ |
|
|
|
|
|
び |
|
|
|
ぎ |
|
|
|
|
|
べ |
|
|
|
げ |
|
|
|
|
|
|
|
ど |
ぞ |
ご |
|
当時、「は行」子音は「f」か「p」で、萬葉仮名として用いられた漢字の当時の音は「p・f」で始まる音ばかリであり、「h」で始まる音はない。第2期にはすべて「f」に転化
当時、「は行」は語中語尾にあっても語頭と同様に「fa・fi・fu・fe・fo」と発音されたと推定
2. 「や行」「わ行」音
「い」と「う」が〇印になっているが、音韻に違いがある。現代では「あ行」に同化されたが、第1期には〇印以外は独自の音韻を有していた。「や行」の「え」だけは「あ行」と同一文字だが、萬葉仮名では異なる字を当てていた
3. 「さ行」「た行」音
「ち」「つ」は音声記号としても「ti」「tu」で、「ティ」「トゥ」に近いおと。「さ行」には「ʃ」が全行に現れて「ʃa・ʃi・ʃu・ʃe・ʃo」となり、拗音に近いものがった
4. 濁音
現代の音韻と全く同じなのは「ば行」だけ
「が行」は、語中語尾では鼻音ngに当たる発音になるが、当時は語中語尾も含め鼻音はない
当時は、「が行」に限らず、濁音は常に語中語尾の連濁のときに現れるだけで、助詞・助動詞を除いては語頭は必ず清音だった
「だ行」の子音はすべて「d」、「ざ行」は「z」と推測され、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は区別された
5. 上代特殊仮名遣
「や行」の「え」と同様、第3,4表の20音も、第1,2表の対応音と異なった音韻を有していた
うち濁音7を除く清音13文字に2様の音があることが、該当する萬葉仮名の違いから判明
「e」→「え(榎)」「えぞ(蝦夷)」「え(得)」には、「衣」「依」「愛」「哀」「英」「榎」「荏」などが使われる
「je」→「え(枝)」「え(兄)」「きえ(消)」「たえ(絶)」「こえ(越)」には、「延」「要」「曳」「江」「吉」「枝」
清音13についても、現代の音韻における「a・i・u・e・o」の外に奈良朝には「i・e・o」に近い3つの母音があったことが判明。ただし、「い列」「え列」「お列」の一部だけに見られた現象で、濁音7字も含め「上代特殊仮名遣」と呼ばれるが、それぞれの具体的な差異は判然としない
6. 撥音・促音・拗音
当時はあったとしても稀。現代では撥音「n」の表記は「ん」だが、「ん」に相当する萬葉仮名はないので、音韻もなかった。今日「n」の音韻を含む語はすべて漢語か、和語なら訛りに類するものばかり。漢語を除いて訛りをもとに戻すと、「死んだ」→「死にたり」、「飛んで」→「飛びて」となって「n」は消える。「本も」「本が」では、「本」の第2音節がそれぞれ「m」「ŋ」となり、「n」とは異なった音価を持つ
促音も同様、和語なら訛りか、漢語かのいずれか。「勝って」は「勝ちて」であり、「寄っかかる」は「寄りかかる」、「引っぱる」は「引きはる」で、促音表記はすべて子音「t」を含む「つ」を用いるが、実際は撥音の場合と同様それぞれ異なった音価を有していた。促音表記は「つ」だが、その次の語の子音「t・k・p」に引っ張られて3語3様に発音され、1字3音になる。この現象は第1期にはなく、いずれも1音節「tsu」であって、子音1つの「k」「p」「t」なる音韻はない
拗音(きゃ、にゅ、しょ、くゎ)になると、あったかどうかは臆測の域を越えないので無視
l 第2期の音韻
1. 2母音の消滅
「上代特殊仮名遣」は奈良朝末期から消滅の傾向を見せ、第2期平安朝のごく初期には消滅
第1期の8母音が、現代と同じ5母音になるが、「や行」の「え」は残る。国語音韻の特質として、母音と母音とが連なることを嫌い、語中語尾に母音音節は来ないという傾向があることから類推して、「え」は2種並存し、「あ行」の「え」は専ら語頭に、「や行」の「え」は専ら語中語尾に用いられたのではないか。語中語尾なら前が母音でも、「母音+je」で母音が重ならない
全135音韻一覧
ぱ |
ば |
だ |
ざ |
が |
ら |
ま |
は |
な |
た |
さ |
か |
あ |
|||
ぴ |
び |
ぢ |
じ |
ぎ |
り |
み |
ひ |
に |
ち |
し |
き |
い |
|||
ぷ |
ぶ |
づ |
ず |
ぐ |
る |
む |
ふ |
ぬ |
つ |
す |
く |
う |
|||
ぺ |
べ |
で |
ぜ |
げ |
れ |
め |
へ |
ね |
て |
せ |
け |
え |
|||
ぽ |
ぼ |
ど |
ぞ |
ご |
ろ |
も |
ほ |
の |
と |
そ |
こ |
お |
半濁音(5) |
||
ぱう |
ばう |
だう |
ざう |
がう |
らう |
まう |
はう |
なう |
たう |
さう |
かう |
あう |
長音(13) |
||
ぴゃ |
びや |
ぢや |
じや |
ぎや |
りゃ |
みゃ |
ひゃ |
にゃ |
ちゃ |
しゃ |
きゃ |
や |
|
||
〇 |
びゅ |
ぢゅ |
じゅ |
ぎゅ |
りゅ |
〇 |
〇 |
にゅ |
ちゅ |
しゅ |
きゅ |
ゆ |
拗音(33) |
||
ぴょ |
びょ |
ぢょ |
じょ |
ぎょ |
りょ |
みょ |
ひょ |
にょ |
ちょ |
しょ |
きょ |
よ |
|
||
びやう |
ぴやう |
ぢやう |
じやう |
ぎやう |
りやう |
みやう |
ひやう |
にやう |
ちやう |
しやう |
きやう |
やう |
拗長音(13) |
||
ぐわ |
くわ |
わ |
拗音(2) |
||||||||||||
ぐわう |
くわう |
わう |
拗長音(3) |
||||||||||||
ん |
つ |
促音・撥音(2) |
|||||||||||||
|
第1期から残った音韻(64) |
「や行」を中段の拗音の部に掲載
「あ行」の「え」は母音「e」ではなく「je」であり、「お」も母音の「o」ではなく「wo」
「や行」の「い」は、既に第1期において「あ行」に同化して消滅。「わ行」の「ゐ」も子音「w」が脱落して「あ行」に同化
「あ行」の「え」と「や行」の「え」とは語頭と語中語尾とに共存していたが、母音連続を避け得る後者の方が優勢となり、やがて語頭においてもそれに同化
第2期の末頃になると、「わ行」の「ゑ」にも「ゐ」と同様に子音「w」の脱落現象が起こったが、その頃は既に「e」が「je」に同化してしまって「e」の音がなかったため、また母音連続を避ける傾向もあずかって、「ゑ」は「や行」の「え」に同化
「あ行」の「お」と「わ行」の「を」とは、「え」と同様語頭と語中語尾とに共存していたばかりでなく、「お」は決して語中語尾に現れないが、「を」が語頭に来る語は古くからあったため、「あ行」の方が「わ行」に同化
第2期の「あ行」は、「あ・い・う・え・を」で、しかも「え」は「や行」の「え」なので、「e」「o」という音韻は存在せず、正確には3母音。さらに注意すべきなのは、「e」「o」がないのは音節としての話であって、「か行」以下すべてにわたって「a・i・u・e・o」が5つの基本母音として生きている
2. 語中語尾の「は行」音
第1期では「は行」音はどこにあっても「fa・fi・fu・fe・fo」だったが、奈良朝末期から崩れ始め、語中語尾において「わ行」音との混同が始まり、平安末期には一般化したが、「わ行」とは「わ・ゐ・うぇ・を」であって、「ふ」だけは第1期で「wu」がなくなっていたため「u」になった
「わ行」が第1項のような変化を遂げたことに伴い、「は」は「wa」のままだが、「ひ」は「wi」から「i」になり、「ふ」は「u」のままだが、[へ]は「we」から再転して「je」となり、「ほ」は「wo」のまま
漢語の移入により「は行」半濁音が一般化。第1期に見られた子音「f」が古くは「p」というのとは異なる現象。語中語尾のみで語頭には立たない。「一般」「説法」、「珍品」「完封」のようにはねる音のあとも半濁音となり、本来の和語まで影響を受け、「もはら」「ひきはる」などを強めて「もっぱら」「ひっぱる」といい、「知らぬふり」が「知らんぷり」というような傾向が生じた
3. 漢字音の同化
第1期の音韻88から「上代特殊仮名遣」20を除くと68、さらに母音音節の「え」「お」と「ゐ」「ゑ」音が消滅して残りは66。それがそのまま第2期に残るが、第2期の音韻は135で、差の71はすべて漢語の移入によって起こった現象。漢語の音韻そのままではなく、日本的変形が行われた
漢語は表意文字からなり、1語1語に意味があるが、その各語がまた全て1音節で成り立っているので、1語1文字1音節。一方、日本の仮名文字は表音文字からなり、1語1文字とは限らないが1文字は必ず1音節で成り立つ。国語の音節は単純で、母音1つの「あ行」と、その他はすべてその母音の前に1つの子音が、あるいは「や行」「わ行」では1つの半母音が加わることで成り立ち、常に母音終わりの開音節だが、漢語は遥かに複雑で、開音節のときもあれば、子音で終わる閉音節もあり、二重母音が大部分のため、表記の工夫と同時に漢語の発音がどう変形されるかが問題に
(1) 撥音と促音――当時の漢語音節の終わりに来る子音は、「m」「n」「ŋ」の鼻音と、「p」「t」「k」の入声音の6つに限定。そのうち国語化して撥音となったのは「m」「n」の2つで、三・感・敢・談・寝・侵・心・点・監・厳などは「m」で終わり、山・産・願・震・眞・駿・寸・先・天・問などは「n」で終わる。今日ではいずれも「n」と発音し、「ん」と表記しているが、平安初期においては、「m」には「ム(ミ)」を、「n」には「ニ」を当て区別した。ただ、発音のほうは、「mu」や「ni」ではなく、あくまで正しい漢音に随い「m」「n」と子音終わりを守っていたものの、子音終わりが不慣れな日本人にとって「m」と「n」の差は言い分けも聞き分けも出来なくなり、同一音「n」に収斂
片仮名の「ン」は「ニ」の古体「尓」から変化したもので、平仮名の「ん」は「む」を表す萬葉仮名として用いられた「無」「毛」の草書体から出たもの。「m」と「n」が同一音「ン」に収斂する前、「ム(ミ)・ニ」と母音を付して発音していた事実の名残としては、「せみ(蝉)」「ふみ(文)」「ぜに(銭)」「えにし(縁)」がある。日本語風に母音終わりにしたため外来語とは思えないほど変形
鼻音「ŋ」は、国語化して長音になったもので、二重母音と一緒に述べる
国語化して促音となったのは、「p」「t」「k」の入声音で終わる漢語発音の国語音韻化によるもので、それぞれに「フ」「ツ・チ」「ク・キ」を当て、「狭・急・拾・甲」などは「ケフ・キフ・シフ・カフ」と書き、「決・鉄・達・突」は「ケツ・テツ・タツ・トツ」と書き、「節・日」は「セツ・ジツ/セチ・ニチ」と書き、「白・得」は「ハク・トク」とか書き、「碩・敵」は「セキ・テキ」と書いた。当初は原音に随い母音抜きの1音節に発音していたが、そのうち綴字発音を起こし「フ」「ツ・チ」「ク・キ」と2音節に発音するようになって初めて国語音韻化した。ただ、それは1字単独や語尾に来る場合(収拾、採決、無敵)だけで、語中では、拾銭、決定、敵艦のように、無声子音の前では原音の入声音に近い形をとるのが普通で、それが促音であり、この期に発生したわが国特有の音韻となった
ただ、「フ」で終わるものは、語中語尾の「は行」が変化したため、この「フ」も「u」と発音されるに至り、さらに前の母音と合して長音を発するようになる。「合」は「ガフ→ガウ→ゴウ」と変化し、長音となれば熟語を作って語中無声子音の前に来ても発音しやすいので、促音化しないものが出てくる。「拾銭」の促音「拾」は珍しいほうで、「急転・合計・雑作」等、無声子音の前でも促音化せず長音に発音している。「雑」のように元来は「p」で終わり、「ザフ」と表記したのに、いつの間にか「ザツ」という慣用音ができ、単独でも語尾でもそう発音されるものもある
要は、漢語の入声音すべてが促音になったのではなく、語尾を「フ(ウ)」「ツ・チ」「ク・キ」として2音節に発音するようになり、語中に来て促音に発音しても表記は変わらず、「学校」は「ガクカウ」と書いた。漢字音の影響で和語にも促音便が生じたが、その場合は常に「つ」を用いた
(2) 長音と拗音
長音について述べる。当時の漢語の語尾に現れる二重母音を簡易化すると
(i) 「au」「eu」「ou」 ⇒ 表記は「アウ」「エウ」「オウ」で、前に子音「k」がつけば、「カウ」「ケウ」「コウ」と書かれ、2音節に発音されたため、二重母音は母音2つで1音節の原則に合わず、明らかに国語音韻化の現象
(ii) 「ai」「ei」 ⇒ 表記も2音節発音も(i)同様で、国語音韻化の現象
(iii) 「ia」「iu」「io」「ua」「ui」「uo」 ⇒ 前4つは原音が既に拗音で、国語音韻にそのまま取り入れられ、2音節化は回避。「ua」「ui」「ue」「uo」は「か行」にのみ取り入れられ、「ua」としては「クワ(火・果)」「グワ(臥・画)」「クワイ(快・囘)」「グワイ(外)」「クワウ(光・廣)」「クワク(郭・書)」「クワツ(活・滑)」「グワツ(月)」「クワン(完・観)」「グワン(願・丸)」の音韻を生じたが、現在では「や行」の拗音と違って方言に残る程度
(i)(ii)の語尾「ウ」「イ」の処理に関し更なる変化が起きる――「あ行」音が語中語尾に来ないというのが国語音韻の著しい特質で、第1期には母音と母音の直接連続を嫌う上代日本人の生理的傾向もあって完全に保たれていたが、その珍しい例外が「い」と「う」で、本来の和語にも音便以外に、「おいる(老)」「くいる(悔)」「むくいる(報)」「かうむる(蒙)」「はうむる(葬)」「まうく(設)」などがあり、漢語二重母音もひとまず存在したものの、そのうち変形していった
その変化は(i)だけで、2音節ではなくなり、単母音「o」の長音か拗長音へ転化――「アウ」の「交・草・島・悩」、「オウ」の「候・剖・楼」等は長音の例、「エウ」の「叫・笑・朝」等は拗長音の例
鼻音の「ŋ」には、直前の母音により、「ウ」か「イ」が当てられた――「a」「o」「u」のときは「ウ」、「e」のときは「イ」だが、前者では「桜・康・方・盲・羊」が「アウ」となり「僧・東・能・聾」が「オウ」となって、いつの間にか1音節の長音と化し、開音と合音に発音し分けるようになった
以上、漢字音と表記との相互影響について述べてきた前記現象がそのまま第2期の音韻変化として本来の国語/和語の上にも起こっていて、しかもそれが漢字音の影響だと言われている
4. 音便の発生
漢字音の国語音韻に及ぼした影響は、音便現象に尽きる
音便は、①撥音便、②促音便、③「う」音便、④「い」音便
音便とは、発音の便/都合であり、1語と見做される語の一部が、発音しやすいように変化した、その現象を言い、語中語尾だけに起こる。①音韻として正統のものであること、②変化前の本来の形を明らかに示し得るもの、本来の形が何等かの形で同時存在しているもの、に限る――「かうがうしい」は、「かみがみしい」の「う」音便形だが、「かみ(神)」はそのまま生きているから「音便」といい、「かう」に変わっていれば普通「音便」とは言わない
(1) 撥音便――語中語尾の「び」「み」「に」「り」「る」が撥音に転じたもの
「よびて(呼)→よむで」「あきびと(商人)→あきむど」「かみさし(髪挿)→かむざし」「なみだ(涙)→なんだ」「いかに(如何)→いかん」「あるめり→あんめり」「さかりなり→さか。なり」
「む→ん」の変化は、語尾に「m」「n」の来る漢字音が最初は「ム」「ニ」と書き分けられ、発音にも差があったのに、やがて発音・表記とも「ん」になったことと同様の変化。平仮名の「ん」が「無」から出たものであることとも一致。(x)はあえて表記せずに済ましている例
(2) 促音便――語中の「ち」「り」「ひ」が促音に転じたもの。語尾には起こらない
「たちて(発)→た。て」「たもちて(保)→たも。て」「よりて(因)→よ。て」「ほりす(欲)→ほ。す」「ねがひて(願)→ねが。て」「をひと(夫)→を。と」
。印のように促音表記の文字も記号も長い間無しですませていた
促音表記が「つ」に安定したのは室町末期
促音が起こるのは次の音節の頭子音が「p」「t」「k」か「s」「ʃ」のときだけで、子音と同音になる
「ち」「り」「ひ」以外にも、後には「たふとし(尊)→たっとし」の「ふ」や、「き」「た」「つ」も促音化
(3) 「い」音便――語中語尾の「き」「ぎ」「し」が「i」音になったもの
「ちひさき(小)→ちひさい」「さきだち(先立)→さいだち」「つぎて(序)→ついで」「おとしつ(落)→おといつ」「おぼしめして(思召)→おぼしめいて」
(4) 「う」音便――語中語尾の「く」「ぐ」「ひ」「び」「み」「む」が「u」音になったもの
「かくし(格子)→かうし」「くちくをしく(口惜)→くちをしう」「かぐはし(香)→かうばし」「わらぐつ(藁沓)→わらうづ」「おとひと(弟)→おとうと」「よばひて(呼)→よばうて」「あきびと(商人)→あきうど」「よびて(呼)→ようで」「かみへ(首)→かうべ」「かみぎは(髪際)→かうぎは」「りうたむ(竜胆)→りうたう→りんだう」「りむご(林檎)→りうごう」「ゆかむ(行)→ゆかう」
促音便と重なるものが多い。関西では「う」音便、関東では「促音便」という例ある(「買って」)
撥音便と重なるケースも散見
音韻変化の本質に即して考えると、音韻現象はすべて2つの傾向に大別できる
1つは母音脱落の傾向――撥音便、促音便。「なみだ(涙)→na・m・da」(母音「i」が脱落)
もう1つは子音脱落の傾向――「い」「う」音便。「かくし(格子)→ka・u・si」(子音「k」が脱落)
5. 「さ行」「た行」音の変化
「さ行」は、室町末期には「sa・ʃi・su・ʃe・so」に変わり、その濁音も「za・ji・zu・je・zo」に変化
「た行」は、「ti」「tu」が「tʃi」「tsu」になり、濁音も「di」「du」が「dji」「dzu」に変わる
l 第3期の音韻
1. 「じ」「ず」と「ぢ」「づ」の混同
江戸時代に入ると両者の混同が一般的になる
2. 開合の差(第2期の3項参照)
「o」「jo」の区別がなくなり、「あう「あふ」も、「おう」「おふ」「おほ」も、同じ「お列」長音と化し、表記の混同が起こる。漢字音の場合も同断。江戸時代に入るとすぐのこと
3. 「は行」子音の変化
「は行」子音はながく脣音「f」だったが、江戸時代に入ると、次第に脣(くちびる)の合わせ方が弱まり、遂には全く動かさなくなって、喉音「h」になる
4. 「え列」長音の発生
漢字音の二重母音「ei」や「eŋ」を国語音韻化した「エイ」は、語尾に「ウ」を当てた「アウ・エウ・オウ」と異なり、長音化せずに「エ」と「イ」の2音節に発音しており、江戸時代後半になって「e:」となり、「敬・帝・命」などはすべて「ke:・te:・me:」になる
5. 「わ行」拗音の消滅
漢字音「クワ・グワ」は、江戸末期には「カ・ガ」と同一となり、その長音「クワウ・グワウ」も開音ではなくなり、合音「コウ・ゴウ」と同一音に帰す
6. 「が行」鼻音の発生
「が行」の子音は「g」だったが、現在では語中語尾では「ŋ」になっている
7. 二母音の復活
第2期に消滅した2母音「え」「お」が、「je」「wo」から分離して「e」「o」になり、5母音となる
8. 「さ行」音の変化
「せ」「ぜ」が関西以西では「ʃe」「je」だったのが、「se」「ze」に変化
ぱ |
ば |
だ |
ざ |
が |
ら |
ま |
は |
な |
た |
さ |
か |
あ |
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ぴ |
び |
〇 |
じ |
ぎ |
り |
み |
ひ |
に |
ち |
し |
き |
い |
|
ぷ |
ぶ |
〇 |
ず |
ぐ |
る |
む |
ふ |
ぬ |
つ |
す |
く |
う |
|
ぺ |
べ |
で |
ぜ |
げ |
れ |
め |
へ |
ね |
て |
せ |
け |
え |
|
ぽ |
ぼ |
ど |
ぞ |
ご |
ろ |
も |
ほ |
の |
と |
そ |
こ |
お |
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ぴゃ |
びや |
〇 |
じや |
ぎや |
りゃ |
みゃ |
ひゃ |
にゃ |
ちゃ |
しゃ |
きゃ |
や |
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ぴゅ |
びゅ |
〇 |
じゅ |
ぎゅ |
りゅ |
みゅ |
ひゅ |
にゅ |
ちゅ |
しゅ |
きゅ |
ゆ |
|
ぴょ |
びょ |
〇 |
じょ |
ぎょ |
りょ |
みょ |
ひょ |
にょ |
ちょ |
しょ |
きょ |
よ |
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ん |
つ |
わ |
|||||||||||
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新たに追加された音韻 |
音韻総数102(第2期比 -33)
欠音だった「fju」が「hju」として登場、拗音の「pju」「mju」を加えて3つ増え、「kwa」「gwa」「di」「du」「dja」「dju」「djo」の7、および「アウ」「ヤウ」「ワウ」の29、合せて36が減る
他にカタカナで「ヴ」「ティ」「デュ」「ファ」などがあるが固定していないので省く
第5章
國語音韻の特質
Wikipedia:歴史的仮名遣で(「かは」の「は」のように)語中でハ行の字で書かれる音節について、その古く[ɸ]をもっていた部分は、現代語でも[h]の有声化した[ɦ]がごく弱く発音されているため、ワ、またア行の字よりもハ行の字を用いるほうが適切である、など現代音に関連づけて歴史的仮名遣を正当性を述べる。
あらゆる学問は事実そのものではなく、事実に対する見方/解釈でしかなく、事実があって解釈があるという関係だが、解釈が先行すると、解釈に合わない事実が無視される
日本の社会科学には、解釈即事実という低級な「リアリズム」が支配し、観念論に陥りやすい
国語学、特に音韻論ではその現象が極めて顕著。音韻論の対象が人間の音声であり、音声は発せられた瞬間に消滅してしまうため事実が残らず、事実としては捉え難いのがその理由
1. 音節構造について
第1期の音節構造は、①母音1個のみからなるもの、②子音1個あるいは半母音1個と母音1個からなるもの、の2種類のみで、常に母音終わりの開音節のみで子音終わりの閉音節はない。子音は独立し得る強さを持たない依存的・寄生的なもの
国語の母音は5個だが、英語には短母音7、長母音7の計14個、ほかに二重母音9がある
子音の数も清音は9個だが、英語では半母音も含め22個であり、国語の方がそれぞれの独立性が希薄で、英語に比べ母子韻が未分状態にあり、音韻としても不安定で曖昧。従って文字は単に音節を表記する音節文字として理解されたが、本来仮名文字は表音に適さない
現代かなづかいは、元来が不安定な音韻に西洋流の音韻概念を与える一方、元来不安定な音韻表記のために造られた不安定な文字に、西洋流の安定した音価を仮想し強要したため、文字は却って音韻に不忠実になり、音声学的にも必ずしも実際の音声を写さないものとなった
国語音韻は、現象面においてのみ変化してきただけのことで、本質と体系は変わっていない
変化した現象は以下の7つ
(1) 上代特殊かなづかいの消滅
(2) 「は行」「さ行」「た行」子音の変化
(3) 濁音の発生、それに伴う「か行」「は行」における半濁音の分化、および「さ行」「た行」における2音の同化
(4) 「は行」音の語中語尾における変化
(5) 「や行」「わ行」音の転化
(6) 二重母音、長音の発生
(7) 拗音、促音、撥音の発生
(1)(2)は、臆測に過ぎず、学問的根拠はなく、かなづかいに無関係
(3)以下は、音韻変化とはいっても、連音上の便宜音で、連音のときだけ類字音に転化に過ぎず、広義の音便現象。かなづかいに関係するのは(4)(5)と、(3)の「じ・ず」「ぢ・づ」の同化と(6)の長音の一部だけ
2. 「は行」音の変化
現代かなづかいでは、「は行」が語頭では「ha・hi・hu・he・ho」に対し、語中語尾では「wa・i・u・e・o」になるとする。「思わず・思い・思う・思えば・思おう」となり音を写していないので誤まり
国語音韻の特質は、語中語尾に「あ行」母音音節が現れないこと、即ち語頭以外では「あ行」が発音できないということにあり、これは連音法則中最大の要件。この法則は、音節内部における母子韻結合の原理に基づくもので、1語内における各音節の不安定な子音と母音の組み合わせを安定させるための方策として考えられたのが母子音交互の原則
国語の「は行」子音の「h」は、母音に近い半母音で、語頭にあっても母音との差が稀薄
「おもふ(思)」「くふ(食)」も、「う」と明瞭な母音を発音してはいない。「私はさう思ふ」と言うときと「さうは思ふものの」と言うときとでは「思ふ」の「ふ」の音に違いがあり、その差を蔽い、兼ねるためには、明瞭な「う」を当てるより、曖昧な「ふ」の方が適当
「は行」文字を用いて「あ行」音を表すことは自然に思えても、「あ行」文字を用いて「は行」音を表すのは不自然――「あやふい(危)」と書いて「あやうい」に近い発音を求めても無理ではないが、「あやうむ」と書いて「あやぶむ」の発音を求めても無理。それなら「あやふい」「あやぶむ」と共に「ふ」を用いたほうが、「あやうい」「あやぶむ」と2様に書き分けるよくはないか。同様に「あぢはふ(味)」「にぎはふ(賑)」「こだはる(拘)」「かかはり(関)」「ひまはり(向日葵)」等
3. 「や行」「わ行」音の転化
「や行」「わ行」「あ行」「は行」の関係――「a」「u」は問題なし。「i」には「i・j・y」3種の綴りがあり、「e」「o」はそれぞれ頭に「y」「u」が添えられ、母音音節としては扱われていないのは、「a」「u」が専ら語頭音として現れるのに対し、「i」「e」「o」は語中語尾音として受け入れられたため
定家仮名遣――定家は古典のかなづかいに従うことを大本としているが、「お」と「を」の書き分けだけは当時のアクセントの差に基づいたらしく、歴史的かなづかひと反対になった例が頻出。「お」を「を」と書き誤ったもの「をく(置)」「をくる(送)」、「ほ」を「を」としたもの「なを(猶)」「とをし(遠)」、「を」を「お」としたもの「おさなし(幼)」「おしむ(惜)」など
4. 音便の音価
現代かなづかいは、語中語尾の「は行」を実際の発音に近づけようとして「わ行」の文字を当てたが、「わ行」の濫用そのもので、本来「わ行」のあるべきところにも「は行」文字が出現
「え」について言えば、「e」「je」「we」の類字音3種があり、それぞれ「柄」「延・要」「恵・衛」の漢字が当てられ、語中語尾にくると前の音節の尾母音と重なることになり、発音を楽にするために「j」「w」を入れたほうが自然――「こゑ(声)」は「ko・we」に、「うゑ(餓)」は「u・we」に
「い」「う」についても同様のことが言えるが、「i」「u」と「ji」「wu」との書き分けはなく不安定
音便の発音について共通しているのは、音節を確たるものに安定させようとせず、効果を狙ってますます多様化・不安定化させていること。直前の音節に強勢を置くことによって、その陰に音便の文字を呑み込んでしまい、同時に後続の音節をも際立てるようにしている――「かつた(勝)」は「ka・p・pa」であり、「かつか(閣下)」は「ka・k・ka」のように、次の音節の頭子音に支配される。語尾でも「誰か」「見ろ」では「か」「ろ」に強勢が加われば、その度合いによって「つ」にも「い」にも、長音に近い「う」にもなり、促音で終わることもできるが、どの音声記号を当てるべきか正答はない
5. 音便の表記
音便の表記が行われるようになったのは、明らかに漢字音表記の余波だが、それはあくまで表記の表記に対する影響に過ぎない
表記と音韻の関係では、第1期は漢字が表意文字として使われ、一部表音文字として使われているが、規則性は見いだせず音便表記があったかどうかは断定できない。第2期にかな文字で書かれた散文物語が出てきて音便の表記が始まる
かな文学の発達と、同時に漢字音ならぬ漢語の国語化により、そのかな書きを必要とする機会が多くなり、その結果として、母音音節中「い」「う」の2文字が語中語尾に用いられ始めたということ、これが和語においても音便ならぬ音便表記に示唆を与えたのではないか
現代かなづかいでは、「あ列」「い列」「う列」の長音の場合は、該当文字の下にそれぞれ「あ」「い」「う」を添えて書けばいいが、「お列」「え列」の長音だけは「お」「え」ではなく「う」「い」にすると言いながら、「とおい(遠)」「こおり(氷)」「ねえさん(姉)」は放置
歴史的かなづかひにおける語尾の「い」「う」はあくまで「い」「う」であって、前の音節の長音を表すものでなないが、現代かなづかいはそれを長音符号の代わりに用いている
和語には長音はなく、漢語が入ってきてその表記のために混乱が生じている
第6章
國語問題の背景
Wikipedia:現代仮名遣いの当局者は、最終的には漢字廃止およびローマ字化を企図していたと述べる。ついで焦点を漢字の廃止に移し、中世に漢語が多用されたのは方言差の克服が原因であろうとのべ、また和語による造語が冗漫であるのに対して漢語が簡潔であり、(漢字の廃止によって生じるであろう)漢語の減少は利をもたらさないと説く。そして現代仮名遣い支持者の、実用上の文章は現代仮名遣い、古典には歴史的仮名遣を用いればよいという主張は大衆と専門家の間で文化の断絶をもたらすとして非難する。また英語のつづりをあげ、つづりをおぼえる負担が英語にも存在し、それは漢字をおぼえる負担と同様であるとするなど、国字改良論者に対する批判を個別的にあげる。
1. 混乱の責任
昭和25年の『国語白書』は、日本人の言語生活が混乱の極みにあり、それを解決するために国語を易しくするというが、そもそもの認識からしておかしい
昭和34年、内閣訓令告示「送りがなのつけ方」を発表。送り仮名の混乱を正すとしたが、戦後文部省が国語国字改革運動を始める前までは混乱はなかった。「終る」「明るい」と書いていた
公 |
公用文 |
国語審議会建議 |
聞える |
基く |
当る |
現われる |
少い/少ない |
教 |
文部省小中教科書 |
教科書局調査課案 |
聞こえる |
基づく |
当たる |
現われる |
少ない |
表 |
文部省刊行物表記 |
調査普及局国語科案 |
聞える |
基く |
当る |
現れる |
少ない |
3者3様、もともと文部省の国語いじりに絶え間はなく、ことに送りがなは明治末期以来何度も変えられてきた
2. 混乱の効果
煩雑な送りがなにすることによって混乱を助長し、漢字廃止に持っていこうとする意図が透けて見え、「現代かなづかい」や「送りがなのつけ方」「当用漢字」もすべては政策に過ぎず、真の目的は国字の徹底的な表音文字化であり、かな文字かローマ字にしてしまおうとすること
国語審議会の前身である国語調査委員会(明治35年設置)の第1条に、「文字は音韻文字を採用することとし、仮名ローマ字等の得失を調査する」とある。調査をしてから「漢字かな交じり文」か「表音文字」かを決めるべきなのに、最初からボタンをかけ違えていた。その後委員会の名前は変わっても、目的は一貫して維持されてきた。表音文字化の暴挙を阻止していたのは専門の国学者等の委員だったが、戦後は委員が素人ばかりとなり阻止する力が働かなくなった
3. 官民呼応作戦
戦後の審議会の会長土岐善麿がローマ字論者であり、調査整理の任に留まるべき国家の公の機関が先頭を切って改革運動を牽引
昭和36年度からは小中学校の国語教科書の中にローマ字を取り入れ、かたや漢字を制限しておきながら、平仮名ばかりでは読みにくいと、当用漢字表にあるものまでカタカナ書きに変えている
4. 表音化の理由
漢字をローマ字化する/文字を発音に近づけて易しくするという考えはどこからくるのか?
文字に関して言えば、問題の文字がその言葉に適しているか否かが第1義の問題で、習得の難易は第2義に考えるべきもの
国語国字改革論者の論拠:いずれも俗説・俗論に過ぎない
① 日本の近代化の遅れは、漢字が難しく、知的特権階級を除いて、一般大衆が読み書きに習熟し得なかったため → 以下6.に反論
② 漢字は封建時代に支配階級が自分の権威を誇示し、大衆を政治から遠ざけるために利用されてきた → 以下5.に反論
③ 言葉も文字も、人間の意思を伝達理解するための道具であるがゆえに、専ら伝達と理解ということを目安に改良されなければならない → 以下7,8.に反論
④ まず考えるべきは能率。事務のオートメーション的処理によらねば「国際的な競争」に勝てない。それには表音文字の採用が必要 → 以下7.に反論
⑤ それは古典の破壊を意味しない。専門家や知識階級は文化の「頂点」に位するもの。その「底辺」には一般大衆がいる。目的はこの「底辺」を拡大することによって、「頂点」を安定させること。古典の言葉および文字はそのまま「頂点」に置いて保存し、新聞や日常用語は「底辺」を這わせて簡易化するのが理想 → 以下6.に反論
5. 漢字の存在理由
漢語漢字が多く用いられた理由の第1は、恐らく方言の克服にあった。地方ごとの言語で喋る武士の共通言語が漢語だったこと、第2に、漢語の造語力、ことに名詞、抽象名詞を形作る能力にある。和語の「うつくしさ」に対し「美」の方が、「おこなひ」より「行為」の方が抽象度・普遍性があり、また漢字は同一語から名詞、形容詞、副詞、動詞など自由に造れる能力がある
さらに第3に、漢語漢字はその語勢の強さと簡潔のゆえに好まれ、第4に、読む側からも、漢字は早く目に訴える形態を有し、適度にかな文字に混ぜて用いるときは変化を生じ、文章全体を読みやすくする
読めればいい感じを3000ほど教える。字体は規則性をもって考え直すべき
6. 誤まれる文化観
明治以後の日本の近代化ほど、善かれ悪しかれ、迅速かつ見事な成果を挙げた例は、世界史のどこにも見当たらない。その近代化のために重大な役割を演じたのが漢語漢字で、弊害もあったが、益の方が遥かに大きい
標準語としての利用や造語力に加え、欧米の思想、文物の消化力という点でも貢献
国語改革論者の最も度し難い弱点は上記⑤に端的に現れている文化観にある。「現代かなづかい」の採用は、古典と一般国民の間を堰(せ)くに至るとの指摘に対し、彼らが決まって言うのは、専門家と一般大衆は違うので、古典をやりたい人は改めて勉強すればいいという
彼らの根底には、抜くべからざる文字崇拝の念が潜み、読み書きできぬ者は下らぬという近代主義的、主知主義的、教養主義的な考えに囚われていて、知識のある方が文化的、読み書きのできる方が文化的という、知識階級にありがちな特権意識に囚われ、それを肯定している
現代かなづかいと歴史的かなづかひの差は難易にあるのではない。言語観、文字観、の相違であり、原理の相違だ。一番大切なことは、専門家も一般大衆も同じ言語組織、同じ文字組織の中で生きているということであり、同一言語感覚、同一文字感覚を持っているということ
7. 誤まれる教育観
発音できることと意味が分かることとは、まったく別次元に属する事柄
文字が表音的と表意的とにかかわらず、主要語彙は3000、派生語を含めて7000というのが、比較言語学上、大体相場の決まった数
英語の表記法の難しさは、歴史的かなづかひの「不合理性」の比ではない――子音が25~27音、それを表す文字が18、その他にc・q・xが無駄に重複、母音は19音、それを5文字で表す。母音は短母音だけで34音、二重母音が20音それをわずか5文字の組み合わせで賄うさらには、英語の発音と表記の関係が大体規則的と認められるのは全体の87%と言い、不規則の綴り字の規則の外れ方が日本語の表記の比ではないというのに、日本人はひたすら英語を覚えようとしている
英国では、言葉や文字が教育のためにあるのではなく、教育が言葉や文字のためにある。子どもをその気にならせることが教育だと言い、学習の機械的強制の必要性を説く、その教育観をこそ日本も学ぶべき。④など全くの愚論、文字に合わせて機械は開発されるもの
言語は客体であって、同時に主体である――言語や文字を正しく用いようという主体的意志が欠けているための混乱なのを理解せずに、国語国字に責めを帰し、言語文字そのものの側に合理性、一貫性を要求するような改革は間違い
言葉は文化のための道具ではなく、文化そのものであり、私たちの主体そのもの
8.
文字言語と音声言語
国語国字改革論者の根本的な間違いは、言葉を文化の道具と考え、文化そのものとは考えないところにある。③の根底にあるのは、文字は表音的でなければならないという考え
20世紀初頭、英国でも表音化運動が盛んだったが、文字言語と音声言語は全く次元を異にしたそれぞれの世界と組織とを有することを明らかにしている。耳は時間に従って1音1音を順に聞き取るし、喋るときもそうしているが、目は一度に多くの文字letterを見て、音読の場合にはいくつかの文字の集団としての語wordを見ておいて、改めて1音1音を順に発するという操作を取る。新聞の広告欄で「友人friend」が「悪魔fiend」になっていたが誰も気づかなかったという。それは文字を1つづつ読まず集団を一度に見ているからで、書物の誤植がその実数ほど気づかれないのも、またその書物の著者や理解者ほどそれに気づかないのもそのためであり、さらには文章さえ、1語1語を理解しながら読み進むのではなく、常に前後に気を配りながら見ていく。話す毎に消え去り、次の語がまだ聞こえてこない音声言語とは違う
英仏語に多い、同じ発音でありながら綴りや意味を異にする語をそのまま放置しておくのは、ローマ字が表音文字でありながら表意性を志向するからだという。同音異義語以外にも、文頭や固有名詞、あるいはドイツ語では名詞の大文字、引用符、句読点、アポストロフィ等も同様
そういう言葉を表音式にしたのでは、目に訴える力を失って読みにくいどころか、語源的連関を失い、語意識を喪失する。英語は文字言語、即ち表記形式の産物という面が多いから、表記法を変えることは、国語そのものを変えることだという。英語は非民主主義的な言語
9. 誤まれる言語観
文字言語は音声言語と全く役割と次元を異にしているのにもかかわらず、表音主義者は文字言語は音声言語の写生ないしは模写だと考える。単に、音声言語の方が先にあって、文字はそれを表記するために生じたからだというだけの根拠しかない
ヨーロッパの言語学が文献主義的だったことの反動として、史的文法を否定し、言語の同時代性、現代性を重視したドイツの青年文法学派の影響を最大限受けた日本の国語国字改革論者は、その現象面だけを取り上げ、それを都合のよい日本流の唯物的性格に変形して信奉。最大の利用点は、言語模写説と規範否定であり、言葉が事物の記号であり、一方的に事物が言葉を規制するとしか考えず、言葉が事物を規制するということに思い及ばない
音声が文字を規制し、文字は音声を写すだけでなく、一度出来上がった文字は音声を規制することがあるし、少なくとも音声から離れて別個に行動するものであり、それを許さねば文化も文明もあり得ない。発生的に考えても、文字は音声とは無関係に、かつ音声を伴わずに、まづ絵文字として出現。また、文字は音声の模写ではなく、それ自身に規範性を持っているばかりか、流動しやすい音声に対して規範の作用を持つ。言語や文法について、歴史を通じて不変の規範を求め、出来るだけそれに近いものを作り上げようとすること、それによって現代を、現代語を鍛えようとすること、それが国語問題の最も重要な点
明治以来の言文一致はその動機において正しかったが、結果的には大変な誤りで、その結果私たちの文学は詩を失った。音声言語の文語による鍛錬と格上げを考えずに、一方的に文字言語の口語による破壊と格下げだけしか考えなかったといって、坪内逍遥も間違いを認める
現代の言葉の崩れ方は止め度ない感じで、それが文字言語にまで反映
各時代が表音式に表記していけば、国語の歴史性が失われる。事実、国語表記は鎌倉期以後とかくそういう傾向を辿りがち。言語、文字、文法が音声に対して規範としての力を発揮し得るほどの自覚と能力を持たずに時代を経て来たからで、江戸期の国学者や明治の歴史的かなづかひの成立によってようやくその可能性を持ち始めたのに、その出鼻を挫くように国字改革が行われた。語や文法が国語表記を規制する必要がある
10. 不可能な表音文字化
ローマ字論者もかな文字論者も気軽に「分ち書き」を主張するが、日本語は膠着語なるがゆえに分ち書きは不可能。表音主義と言っても、語の分離が出来なければ、書くことはできない
国語の「分かち書き」とは、語と語の間や文節と文節の間を1字分空けて書くこと
また、同音異義語の処理の成案もない。同音異義語を漢語のせいにするが、和語の方がむしろ多く、だからこそ懸詞(かけことば)や洒落が流行った
さらには、日本語は母音が5つに子音が14しかなく、5つの母音がほとんど1つおきに子音と交代で現れるという単純形態なので、ローマ字かしたら益々目に訴える力がなくなり、語形の特徴を持ち得ず、視覚型の日本人には我慢できない
文字言語は音を思い出させるものではなく、専ら目に訴えて読ませるためのものである以上、ローマ字化、かな文字化に利点はない
かなづかいには無関心で、信用できるのは鷗外、露伴くらいのもの。かなづかいが軽視され、漢字を重視、和語にも無意味に漢字を当てて用いたため、本来の国語に対する私たちの語意識が鈍くなってしまい、かなづかいを変えられることなど平気になってしまったのではないか
「なれる」「ならはし」「ならふ」など恐らく同一語源だろうが、「馴れる」「慣らはし」「習ふ」と書き分け、「見え」を「虚栄」と書き分けてきたため、語意識を養うことができなかった
問題は、漢語、漢字の国語における役割が正しく理解されていないことにある。訓とは読みである前に意味なのであって、「適任」の「適」は「かなふ」の意味だと知らないで「適任」という言葉は操れないし、それを知りさえすれば、その意味がそのまま訓としておのづと「かなふ」に読めるという仕掛けになっている。「はやる」「すぐれる」の意味を知らせずに「逸する」「逸材」を教えたり、「よる」の意味を隠して「拠点」を覚えさせたりするのはありえない
送りがなを一定にしようという暴挙も、国語における漢字の役割を分かっていないから出てくることで、「逸する」の場合は「逸」は「イツ」だが、「逸る」「逸れる」の「逸」は「ハヤ」「スグ」と読むのではなく、1字で「ハヤル」「スグレル」であり、そう読める便宜のために適当に送りがなをつけるというのが送りがな発生時の解釈であり、用法であって、その段階ではどうつけようと読めさえすればいい。当然、次の段階では、語としての固定化に向かい、語法としての意義と論理が問題になり、例えば動詞は活用語尾のみを最小限に送るということでないと筋が通らない。それを崩していたづらに多く送り始めると、結局解りさえすればどう送ってもよいというところへ逆戻りしてしまうか、漢字など要らないという結論に達するかのどちらか
以上のことからも、正しく書こうという言語主体の態度が国語問題の重点であって、客体としての言語の難易は二の次
国語を易しくしようという運動は、必ず学校教育を口実にするが、本末転倒で、教育のために言語があるのではなく、言語のために教育がある。また、教育は学校教育だけで完成しないし、生涯続けて自己教育してゆくべきものであり、事実私たちはおのづとそうしてきた
追記
『聲』の連載終了後、国語調査委員らを招いて国語国字改革の経緯や目標を問いただす座談会を催した際に判明したのは、委員が表音主義が訳なくできると、素人同然の単純な考えを抱いていたことで、実際にそれをやってみると矛盾だらけで弁解に窮し、「正書法という考え方」を持ってくれば何とか説明できると思いついたと土岐善麿審議会会長が発言、戦後の改革の杜撰さを吐露した失言だったが、失言であることにも気づいていなかった
第1章の2「表音主義と音韻」の後半、及び第6章の3の最後で、相矛盾することを書いた。前者では、現代かなづかいの矛盾を突き、もっと表音的にしろという声は、表音主義の限界を知っている当事者には有難迷惑なのだと書き、後者では、表向き困った顔をしながら、実は密かに喜びつつ時機到来を待っているのだと書いた。前者では金田一を念頭に置いたが、後者は土岐のような無知なローマ字論者を念頭に置いたが、土岐の失言で、表音化徹底を要求する連中には決して言うはずのない言葉だということが分かった
付録:福田恆存全集覚書4
『私の国語教室』刊行に際し、二中時代の恩師時枝誠記博士が推薦の辞を寄せてくれた
曰く、「本来、国民の文化運動として解決されなければならない国語問題を、官庁の一片の通告で左右しようとしたのが戦後の国語政策。理論的実験もせずに強行されたのは残念であり暴挙」。師は、昭和21年の国語審議会で制定に反対した少数派の1人で、これを最後に退く。同調したのは東大から北京師範大学の藤村作名誉教授暗い。時枝教授の後継者築島裕は『歴史的仮名遣い―その成立と特徴』(中公新書)を現代かなづかいで発刊、冒頭に師を懐かしみ、先生は歴史的かなづかひしか用いず、自分もその例に倣っているといいながら、現代かなづかいを用いて歴史的仮名遣について一体何が書きたかったのだろう
時枝博士は翌年、『国語審議会答申の「現代かなづかい」について』を発表し、表音主義の表記上の不合理を指摘したあと、「表音主義は表記の不断の創作とならざるを得ない。古典仮名遣の困難を救おうとして、さらに表記の不安定という別個の問題を引き起こすことになる」と述べ、さらに「表音的文字として使用せられた仮名は、時代とともに、表音文字以上の価値を持つものとして意識されてくる。それは観念の象徴として、例えば、助詞の「を」「は」「へ」の如きはその最も著しいものであって、ここに於て文字発達史の通念である表意文字より表音文字への歴史的過程とは全く相反する現象が認められる」
本来、表音文字たるかなも、成長すれば「音」とは違った「意味」を持つようになる――本書第6章の8.にすべては凝縮されている
第6章末尾につけた「追記」で、「土岐氏自身の失言」と呼んだのは以下のような発言:
当用漢字や現代かなづかい制定の基本的な考え方は、正書法の決定にある。もともと正書法という基本的な考え方ははっきりとは出ていなかった。語意識というものが加われば説明がつくだろうということを考え、正書法ということを言い出した。正書法として決まれば、まちまちであるより便利で、一応そうやって説明をつけようとした。分かち書きが行われていないときに徹底的な表音化をやったんでは、新聞なんかもついてゆかれないということになるから、不徹底なものでも暫定的に一応認める。認める理由はそれが正書法ということにすれば、それで説明がつく
全て説明の付かぬことを敢えて説明をつけようとする後智慧から生まれたのが正書法
だが、かなづかいの問題が正書法の問題だということは戦前からいわれていたことで、もともと契沖のかなづかいというものが正式なものとしてあったのに、表記の正しさの基準そのものを戦後に変えてしまったところに問題がある
鷗外も『仮名遣意見』の中で、「正則、正しいということを認めておいた上で、口語の広く用いられてくるようなものをぼつぼつ引き上げて仮名遣に入れていけばいい
昭和27年、当時の官房長官名で各省庁に送られた『公用文作成の要領』の中に「接頭語・接尾語」の書き方は、「お」はかなで書くが「ご」は漢字でもかなでもよいとあり、これが現在まで通用しているが、なんにでも「御」をつけてくるのは、尊敬・丁寧の接頭語「お・ご・おん」はすべて「御」であるというご意識が残っているから
山田孝雄博士と、上田萬年門下の橋本進吉博士は、大正・昭和期に渡る国語学界の双璧だが、山田は苦学して神宮皇学館大学学長にまでなった人。大正13年、文部省が満場一致で「現代かなづかい」「当用漢字」を可決した際、その非を論難。それを受けて芥川龍之介、美濃部達吉、藤村作などの反対論が発表され、結局文部省案はお蔵入りとなる
明治41年にも文部省が改定案を通そうとした際、鷗外や伊澤修二も委員に選ばれ、『仮名遣意見』を草し反対論を述べているのを山田博士は知っていて、鷗外は死の直前まで国語問題の正路を失わんことを憂慮していたという
幾多の先学の血の滲むような苦心努力によって守られてきた正統表記が、戦後倉皇の間、人々の関心が衣食のことにかかづらい、他を顧みる余裕のない隙に乗じて慌ただしく覆されてしまったのは誠に取り返しのつかぬ痛恨事。しかも一方では相も変わらず伝統だの文化だのというお題目を並べ立てる。その拠って立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が伝統、何が文化であろう。戦に敗れるというのはこういうことだったのか
解説 2002年新春 市川浩(1931生、申申閣社長、正仮名遣・正漢字対応の正統国語ソフト「契沖」開発者)
1946年、憲法が公布され、「現代かなづかい」と「當用漢字」の内閣告示として制定、国と民族の根幹に重大な改変が加えられ、日本はそれまでとは全く異なる国家、種族へと変容
バブル崩壊とともに繁栄が消え去った今、あの変容のなかには連合軍の企図した「日本弱体化」も組み込まれていたのではなかったか、その原点の再吟味と弁別が、民族再生のために要請されている
漢字の廃止を視野に入れ、使用の制限を厳しくし、仮名遣いも表音化を進めた。いずれも戦前文部省が何度も試みたが、識者の反対で廃案になっていた。それが戦後、いとも簡単に実現したのは謎で、改訂の当然の帰結として、国民の大多数は歴史的仮名遣や正漢字(正仮名・正字)を目にすることもなく、自国の伝統固有文化から隔絶せられて、これを後代に伝える術を失いつつある
この趨勢を深く憂えて立ち上がったのが福田。先ず『国語改良論に再考を促す』(1955年『知性』)で戦後の国語改革の矛盾を指摘、反論した金田一京助を説き伏せる。次いで『私の國語教室』(58~59年『聲』)を発表、小汀利得らと『國語問題協議会』を立ち上げ、正統國語復活への組織的な闘いを開始。「現代かなづかい」の致命的な不合理性を焙り出すとともに、国語改革派がこうした矛盾をすり替えて、「内容に於て若干の問題はあるが趣旨は良かった」と国民に思わせていると断じた
60年には新たに第5章「國語音韻の特質」を付け加え、表音主義者のいう「音韻論」は、西洋人がヨーロッパ語について考案したものを、前提の吟味もせずに、音韻構造の全く異なる日本語に当てはめただけの粗雑な謬論だと批判
ローマ字化や漢字廃止論が高まるなか、一貫して「まともに国語や言葉、文化や歴史に付き合う態度」の重要性を説き続けた結果、66年には文相が「国語の表記は、漢字仮名交じり文を前提とする」と言明、その上で「当用漢字」「現代かなづかい」の見直しが行われ、81年「当用漢字表」告示、その前書きには、「漢字使用の目安を示す」とし、「過去の著作や文書における漢字使用を否定するものではない」との文言が入り、漢字の制限的色彩が排除され、漢字廃止の方向に歯止めがかかっただけでなく、略字に対する康煕字典体が、括弧内ではあるが正式に掲出された。さらに86年「現代仮名遣」の前書きでは、「この仮名遣いは、主として現代文のうち口語体のものに適用する」とし、「歴史的仮名遣は、明治以降社会一般の基準として行われていたものであり、我国の歴史・文化に深い関わりを持つものとして尊重さるべきことは言うまでもない」と明記された
福田の闘いは、難攻不落と思われた国語審議会の表音化政策を挫折せしめ、国語改革批判の機運を高めたが、識者の多くは口で国語改革を批判しても、自ら正仮名・正字を実践することは少なく、実践しなければ意味がないとした福田の意図は伝わらないまま逝去
ワープロの出現で日本語はタイプに適応できないと言われたが、1978年には情報交換用漢字符号系として約6300の漢字がJISに規格化され、東芝が漢字仮名交じり文へ変換する「仮名漢字変換システム」を開発、日本語ワープロとして急速に普及。後に国語にとって、漢文訓読や仮名の発明にも比肩される大きな文化史的意義のある飛躍となる
学術的な論文にもワープロが使われるようになって、漢字の不足が顕在化し、字体についても康煕字典体が印刷標準字体となり、逆転現象の矛盾を残したまま審議会は廃止
ワープロでの正仮名・正字への対応は当初全く検討の対象でもなかったが、93年にパソコン用に歴史的仮名遣の入力を通常と同様の打鍵で行うソフト「契沖」を開発、さらに新たに開発されたフォントを使い「文字鏡契沖」とし、パソコン上で正仮名・正字の入出力を実現
そもそも正仮名・正字は語の歴史を背負い、日本語の基本原理を表現しており、その故にこそ、その歴史と原理の下で言語生活を営む日本人にとって扱いやすいもの。語幹不変の原則や動詞語尾の1行活用など五十音図との整合性も理解しやすく、漢字も部首と部材との組み合わせに整合性のある正字体が、これを破壊した新字体よりコンピュータとの相性が良いのは当然。過去の文献も、先人の学問的校訂を経て、正仮名・正字に統一・記憶されており、書法が統一されていれば、民族の遺産が電子情報として保存・利用されるのに何の障碍もない。構造的長所を喪失した現代仮名遣では、将来の情報解析の足枷となる
福田と浦高同期の金田一春彦も福田の死の1年後の95年に追悼文で福田の慧眼を認め、ワープロがあれば当用漢字の制限はしなくてもよかったし、字体でも仮名遣いでも昔のままでよかったと的確に指摘し、率直に敗北を認めている
それからさらに6年経つが、新かな・新字は、内閣告示の適用外とされた文語文にまで浸食を広げ、憲法原文すらも来るべき改正と同時に新かな・新字に書き替えられる可能性が懸念される。著者が本書の読者として規定した「①作家などの文筆家、②新聞人や編輯者、③国語の教師」のほとんどは著者の期待を裏切ったが、最後に掲げられた「右三者を志す若い人たち」がその思想を地下水脈として伝え続けていた
Wikipedia
『私の國語敎室』は、福田恆存の著書。現代仮名遣いと、それを推し進めた国字改良論者とを批判しつつ、歴史的仮名遣を解説・推奨する入門書。
l 概略[編集]
1958年から雑誌『聲』創刊号から第5号迄に掲載された文章を1冊にまとめたもので、6章および増補編(追加論考)からなる。福田恆存が仮名遣に対する自らの見解を記したものとして著名であり、現代仮名遣いを非とし歴史的仮名遣を是とする人にとって「虎の巻」としての地位を有する。
なお、門下生の土屋道雄による
『國語問題論爭史』(玉川大学出版部、2005年)で、国語国字問題や本書に関する詳しい経緯が述べられている。
l 国語問題早解り[編集]
国語問題はいくつかにわかれ、その一つに表記に関する問題があると、話の枕をのべ、漢字廃止論の批判にもっていく。かな専用論では分かち書きせず語を全てつなげて書くとまぎらわしいこと、(主に漢語に)同音語が多いことをあげ、読む能率の点で劣ると断ずる。
l 陪審員に訴ふ[編集]
NHKの番組「あなたは陪審員」を枕にして、漢字制限は無意味であるとのべる。そして漢字制限を行わない場合に多数の漢字が用いられうるという批判に対し、(1)実用性を考えると用いられる漢字が一定数にとどまる、(2)音符を同じくするn個の形声字はおぼえる労力は単にn点ではないとして、字数制限の必要性を否定する。ついで、当用漢字のうち音読みのみあげられた漢字については、訓読みを教えることで音読みされる漢語の意味がわかやすくなるのだから訓読みも加えねばならないと述べる。そして漢字制限を企図する国字改良論者を、大衆のため(に漢字を減らす)といって国語を破壊する偽善者と評する。
l 言葉と文字[編集]
やや雑駁に国語改革が有害なものであると批判する。
l 日本語は病んでゐないか[編集]
「摸」のかわりに「模」を用いることなど、「同音の漢字による書き換え」的な表記は、国語を破壊するための誘導であると述べる。ついで、誤用とされる言いまわしを(定着もしていないうちに)始めから正用として認めようと唱える態度はけしからんと述べる。そして、主観的にら抜き言葉の響きが美しくないとし、ついで誤用を使うほうがそうでないほうより大きな顔をする風潮はよろしくないと述べる。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年 - 1994年)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。日本芸術院会員。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。
概要[編集]
保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。
また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
文藝春秋社「文藝春秋」、「諸君」、自由社「自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られる。産経新聞社の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。
「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。
経歴[編集]
出自と教育[編集]
1912年(大正元年)8月25日、東京市本郷区駒込東片町にて、埼玉県大宮出身の東京電燈社員の父・幸四郎、伊豆出身の石工の子孫である母・まさの長男として中間階級の家庭に生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する。自然豊かな下町・神田で育ち、一家はしばしば劇場に通った。
1919年、東京市立錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)に学区外入学。大正デモクラシー教育の先進校であった同校では自学自習、自由研究、自由画などが導入されており、福田はリベラルな先進的教育を受けるが、小学生ながらも「新教育理論」に陶酔する教師に対して違和感を抱いていた。また、1922年の関東大震災により下町の気風は消え、福田は「故郷喪失者」となった。
私には今の東京は勿論の事、戰前の東京も故鄕ではない。私の故鄕は關東大震災前の東京である。つまり、私は故鄕喪失者といふことになる。— 「ふるさとと旅」『旅』(1978年)
1925年4月、第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)入学。高橋義孝と同級。同校でもリベラルな先進的教育を受けるが、校風の「自主の精神」には息苦しさを覚えた。当時の二中校長高藤太一郎により、優秀な教師が集められ、教師陣には英語の落合欽吾、岡倉由三郎、上田義雄、国語の横山藤吾、時枝誠記、西尾実、福永勝盛、東洋史の志田不動麿がいた。1929年、四修で旧制浦和高等学校の受験に挑戦するが、落第した。
1930年、旧制浦和高等学校文科甲類入学。当時の旧制学校は昭和恐慌もあり同盟休校が盛んに行われた「シュトゥルム・ウント・ドランク」(疾風怒濤)の時代だったが、福田自身は左翼的な学生運動には関わらなかった。小説から戯曲に関心を移し、高校時代に劇作家を志す。高校三年時に執筆した「我国新劇運動の過去と未来」では、小山内薫没後まもない演劇界の左翼・マルクス主義傾向を批判している。また同時期に、アドルフ・アッピア(舞台演出家)の"L'Oeuvre
D'art Vivant"の第一章を英訳版から重訳している。1932年(昭和7年)開設の築地座に応募作品「或る人の街」を送り、佳作に選ばれた。
1933年、東京帝国大学文学部英吉利文学科(英文科)入学。高校末期から大学初期にかけ執筆は劇作から批評に重きを置いた。これは小林秀雄の影響によるものだが、福田自身は小林の影響がこれ以上及ぶことを恐れ、『文藝評論』など僅かな作品にしか触れていない。
戦前・戦中[編集]
1936年3月、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒業。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」、英題"Moral
Problems in D. H. Lawrence")。同年、徴兵検査を受け、丙種合格兵役免除。東大卒業後は旧制中学教師、出版社、団体職員などで勤務した
1937年1月、同期の友人高橋義孝に誘われ第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、論壇デビュー作として「横光利一と『作家の秘密』」を発表した。同年4月、不況下で就職先がなく、東京帝国大学大学院入学。1938年5月から静岡県立掛川中学校(現・静岡県立掛川西高等学校)で教鞭を執るが、校長との不和により翌年7月に退職した。
1940年には中学時代の恩師である西尾実の紹介により、雑誌『形成』編集者となる。このころ、神奈川県立湘南中学校(現・神奈川県立湘南高等学校)、浅野高等工学校(現・浅野工学専門学校)、日本大学医学部予科で教鞭を執る。1941年、西尾の紹介で日本語教育振興会に参加し、雑誌『日本語』編集に関わった。翌1942年には日本語教育振興会の命令により満州、モンゴル、中国を視察する。1944年、日本語教育振興会退職。同年、太平洋協会研究員。
1944年(昭和20年)1月、西尾の媒酌により西本敦江(西本直民長女)と結婚。空襲が激しさを増す中で恆存以外の家族は静岡県に疎開する。同年6月、東京女子大学講師。
戦後[編集]
1946年10月、月刊誌『展望』にて「民衆の心」を発表。同年3月、神奈川県中郡大磯町に移住し、一家を疎開先の静岡県から呼び寄せる。1947年に『批評』同人となる。また、中村光夫、吉田健一と共に鉢の木会を結成する。1950年に多摩美術大学教授。同年には岸田國士による「雲の会」創設に参加。1951年、チャタレイ裁判に被告人側の特別弁護人として出廷し、小山書店社長小山久二郎の無罪を主張した。
1969年、京都産業大学教授。京都には在住せず、月に一度の集中講義を行った。1983年、京都産業大学退職。1981年より日本芸術院(第2部)会員。
晩年[編集]
1987年から1988年にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した。享年82。戒名は実相院恆存日信居士。12月9日に青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎、久米明等が弔辞を述べた。墓所は神奈川県中郡大磯町妙大寺福田家之墓。
主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただし自選により、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社、1954年)をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未収録で知られざる論考著作も多い。2007年11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授で、演出家・翻訳家・財団法人「現代演劇協会」理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した。
活動[編集]
文芸評論[編集]
『行動文学』の同人として、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表し文芸評論を開始。文芸評論者としては嘉村礒多、芥川龍之介らに関する論考が、戦前や戦後間もない時期の主な作品である。また1947年に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治と文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年より日英交流のための団体「あるびよん・くらぶ」に参加。
昭和20年代後半より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。1950年、多摩美術大学で教授を務めた。
政治[編集]
福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛の中での保守派の論争家としての活動であった。1954年に『中央公論』12月号に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、当時全盛であった進歩派の平和論を真っ向から判した。
福田は、「平和論の進め方についての疑問」以降、論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと述懐している。『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなる。
例えば都留重人は以下のように取り上げている。
ベトナム問題が論壇をにぎわしているのは、これで四ヶ月目だが、今月になって目立つことは、アメリカの政策を支持する論文の登場である。中でも、一番むきになってこの役をはたそうとしているのは、福田恒存の「アメリカを孤立させるな」(文芸春秋)であろう。福田はいろいろなことを、いわば文学者的特権で、証明なしに言っている(後略)— 『朝日新聞』論壇時評 1965年6月22日
しかし1967年以降からは、肯定的・否定的に関わらず言及されなくなり、竹内洋は「『保守反動』評論家というレッテルが定着したのだろう」と述べている。このように福田は論壇では否定、そして無視されていくようになる。坪内祐三は、福田が『問ひ質したき事ども』(1981年)を刊行したころは保守論壇からも完全に孤立していた、と評している。
1977年から1979年には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』(世相を斬るシリーズにおいては第3代目)の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。
右派の漫画家・小林よしのりは、『修身論』後半の一章を使い、福田の「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」(「消費ブームを論ず」1961年 原文原題は本字体歴史的仮名遣い)を引用し、自身のスタッフに「福田恆存のこの言葉を噛みしめよ」と述べている。
国語国字問題[編集]
戦後の国語国字改革を批判し、1955年から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で(「国語改良論に再考をうながす」「知性」1955年10月号など)「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語敎室』(新潮社、初版1960年、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊等の一部は、現代かなづかいを用いている。
翻訳[編集]
翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ『老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年に初刊)、ワイルド『サロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。
堀内克明は、著書『誤訳パトロール』(1989年、大修館書店)で『恋する女たち』(新潮文庫)の福田のテキストから、「a
long, slow look」を「遠いどんよりしたまなざし」としている語その他を「初歩を誤った」誤訳であると指摘している(堀内によれば、この表現は正しくは「ゆっくり、じっと」という、距離ではなく時間としてのlongとslowであるとする)。小川高義は、『老人と海』(光文社古典新訳文庫、2014年)訳者解説で、老人の「aloud」を福田が「叫ぶ、ののしる」など感情的に翻訳している点を批判、老人の性格描写および近現代の用法からその語は単に「口にした」程度のものである、と考察している。
演劇人として[編集]
劇作家、演出家でも活躍した。福田恆存(1912年生)は、1930年代の十代より評論、劇作を開始、『我国新劇運動の過去と現在』を発表するなど、新劇運動にも参画した。支持を表明する築地座(1932年結成)の戯曲公募にも応じ、処女作『或る街の人』が佳作に選ばれた事で、友田恭助らの面識を得る。文壇へのデビュー後には、岸田國士が主宰する雲の会(1950年結成)に参加し、文学座でのシェイクスピア悲劇『ハムレット』(1955年初演)の翻訳、演出を行った。1963年からは、財団法人・現代演劇協会の理事長を務め、協会附属の劇団雲、劇団欅、更には劇団昴を主宰する。
やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。
1981年に『演劇入門』を刊行。没後の2020年に『演劇入門 増補版』(2020年8月、中央公論新社)が中公文庫で再刊された。
家族・親族[編集]
父: 幸四郎
母: まさ
長弟: 二郎
長妹: 悠由枝
次妹: 妙子(俳優加藤和夫夫人)
末妹: 伸子(洋画家勝呂忠夫人)
長男: 適
次男: 逸
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