指揮者・朝比奈隆  宇野功芳  2022.2.22.

2022.2.22. 指揮者・朝比奈隆

 

著者 宇野功芳(こうほう) 1930年東京生まれ。国立音大声楽科卒。音楽評論家、指揮者

 

発行日           2002.12.20. 初版印刷        12.30. 初版発行

発行所           河出書房新社

 

 

本書は、僕が19682002年に書いた朝比奈に関する文章の集大成

 

1.    総論

l  朝比奈隆              『レコード芸術』'7711

今年4月の新日フィルの定期での《エロイカ》は、聴衆を凄まじい感動の渦に巻き込んだ。レコードでいえば、フルトヴェングラーやワルターに次ぐ出来栄えであり、世界に冠たる演奏

 

l  朝比奈讃 大器晩成の芸術家  音楽生活50年記念、大フィル特別演奏会 ‘83

1933年、25歳で阪急を退社、伊達三郎とともに大阪室内楽協会を設立、プロの活動を始めた。合唱指揮者になったのが36年、オーケストラのデビューが39

遅いスタートで、棒の振り方一つを見ても、不器用なタイプだが、持ち前の誠実さと人間的な温かさ、幅の広さ、誰にも負けない情熱の力によって牛歩の前進を続け、大器晩成を身をもって示した。36年に及ぶ大フィルの常任指揮者としての活動は彼だからこそ可能

'73年頃を境に急速に実力が認められ、人気も伴って、ブーム到来

'78年に日本ブルックナー協会が設立されたのも朝比奈隆の力が寄与しているし、大阪にウィーンのムジークフェラインザールに匹敵するザ・シンフォニーホールが誕生したのも朝比奈あればこそ

人気の秘密は、重厚かつ情熱的な指揮ぶりであり、特にドイツ音楽は、ドイツの指揮者以上にドイツ的

 

l  新たなる理想を求めて 「朝比奈隆の軌跡V                  『シンフォニア』’87.7.

大フィルの新しい練習会場いずみホール完成。良いリハーサル室はオケを育てる

古楽器での演奏には批判的

19世紀後半~20世紀前半にかけて先人たちが創造してきた現代のコンサート・スタイルを継承する数少ない指揮者

ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーにおける近年の充実ぶりは目を見張るものがある。ブルックナーにおいてはこの3月の東響との《第九》が神懸かり的な名演

今回「朝比奈隆の軌跡V」で、ザ・シンフォニーホールとしては7年ぶりのベートーヴェン・シリーズの指揮は大いに期待される

 

l  朝比奈隆 比類なきその世界  『The CD Club'974月号

‘96/’97年、シカゴ響とブルックナーの《5番》《9番》を演奏、満場を総立ちさせ、急にマスコミで持て囃されたが、日本では10年以上も前からブームが起こっていた

朝比奈のベートーヴェンは、20世紀前半の伝統的なスタイルである重厚で手応えのある演奏、恰幅の豊かさ、どっしりとして小賢しくない、人間味のぎっしり詰まった情熱的な迫力を最優先させている

 

l  朝比奈隆追悼 「朝比奈50代で風格 文通で激励 練習見学も」 読売日響季刊誌『オーケストラ』'01

'60年代前半に初めて接して以来、驚きの目で注目。'68年には世界の指揮者ベスト101票を投じたが、地方の二流指揮者で孤軍奮闘、録音を最初に手掛けたのも学研だったというのだから情けない

70年代になるとブルックナーが素晴らしくなり、マタチッチと世界を二分するまでに

ブルックナーの演奏には非常な自信を持っていて、自身のボウイングを通していた

ギュンター・ヴァントも70年代にケルンのオーケストラでブルックナーを研究し尽くし、全曲のパート譜を作ったが、朝比奈とヴァントがブルックナーのスタイルを確立した

 

2.    ベートーヴェン

l  ベートーヴェン《交響曲第五番 ハ短調 作品67 運命》 朝比奈隆x大フィル

《第五》は最も凝縮された、緊密な作品。ときに気づまりを感じさせることもあるが、ベートーヴェンのモットーである苦悩を克服して歓喜へがこれほど鮮やかに音楽化された例は少ない。中期を飾る傑作

朝比奈隆は、ブルックナー、ベートーヴェンを指揮しては世界でも屈指の存在

 

l  朝比奈のベートーヴェン 「大フィル創立50周年記念 第九シンフォニーの夕べ」 '77.12.28.

10月、東京文化会館でのライヴ《エロイカ》は、ステレオによる最高の録音

1か月後のカラヤンxベルリン・フィルの来日公演での演奏がなんと浅薄に響いたことか

 

l  新日本フィル《第九》公演  『音楽の友』'782月号

朝比奈が世界的な表現力の持ち主であることは周知の事実だが、ブルックナーは最高だが、ベートーヴェンにはムラがあり過ぎる。今夜は失望。少しぐらいオーケストラが乱れても構わない。ベートーヴェンの強い体臭や人間味を生かすのは、指揮者の強い体臭と人間味に他ならない。全曲の各部に11つ絶大なクライマックスを創ると同時に、11つの響きに強い意味を与えてゆかなければ、第九は持ちきれない         

 

l  激情を忘れた時代に敲きつける炸裂する炎の指揮棒

朝比奈隆=大フィルによるベートーヴェン交響曲・ミサ曲集 (ビクター) '78

技術のみを追い求め、外面的な刺激だけが大手を振ってまかり通る現代において、朝比奈=大フィルによるベートーヴェンのライヴ録音は、真に精神的な芸術を願うファンにとって旱天の慈雨にも等しい。日本の音楽家が軽んじられるこの国において、今回のベートーヴェン全集は、朝比奈が世界の五指に数えられるべき大指揮者であることの証

ベーム=ウィーン・フィルに匹敵する、あるいはそれ以上の熱狂的ファンを持つコンビ

スケールの大きな感動的演奏と、場内割れんばかりの拍手とアンコールの叫びは、スポーツ観戦の興奮にも似ている

 

l  大フィル第21回東京定期公演

ベートーヴェンの第一と第五、指揮は朝比奈隆

大フィルの響きが著しく純度を増した。特にヴァイオリン群のみずみずしさが光る

朝比奈の表現もオケに呼応するかのように変貌、自己の表現を客観視するゆとりが出てきた。それだけ芸術の幅を増すと同時に一段と風格が高くなり、深度を増した。ことに金管のバランスに新味があり、朝比奈の新しスコアへの洞察を示している

 

l  Program Notes 「大フィル・曲目解説」 ザ・シンフォニーホール開館記念オーケストラ・シリーズ・プログラム '82.10.

日本にも徐々に優秀なホールが生まれつつあるが、新設のザ・シンフォニーホール(座席1702)の響きがどのようなものか楽しみ

ムラヴィンスキーやマタチッチを除くと、現今、朝比奈ほどスケール雄大な音楽を聴かせてくれる指揮者は皆無。ドイツでは「アーベントロートそっくり」といわれたほど、今は過去になりつつある大指揮者時代の最後の名残を身につけている

彼の演奏は最近ますます原典主義に傾いてきた。桁外れの情熱と表現力で支えている

「ベートーヴェンの音楽には、たとえ一番であっても骨の太い本質があり、それには大編成の弦楽合奏が必要」というのが持論

彼の《エロイカ》こそ、ザ・シンフォニーホールの杮落しに相応しいものはない

 

l  朝比奈隆が表現するザ・シンフォニーホールでの《第九》 ライオン・クリスマス・コンサート ベートーヴェン《第九交響曲》の夕べ '82.12.24.

ホールの響きは最高で、ヨーロッパの超一流に匹敵。残響が満席で2

ベートーヴェン作品の演奏について朝比奈は、「作品につている余分なものを洗い落とすこと、身も細る思い」と語る

 

l  朝比奈=ベートーヴェンの真髄ここに!! 朝比奈隆・音楽生活50年記念、大フィル/ベートーヴェンの夕べ '83.6.16.

演奏家は、スコアから読み取ったものの方を大切にすべき

77年の大フィル東京公演の《エロイカ》は最高だった

 

l  ベートーヴェンが少し視えてきた 「朝比奈隆とベートーヴェン」 ベートーヴェン・チクルス プログラム ’85.2.

朝比奈隆が自分の求めている音楽に巡り合ったのがブルックナーで、その最初の成果が72年の大フィル東京公演における《第九》で、ブルックナーに近づけば近づくほど、彼のベートーヴェン解釈も変わっていく

同じ客観主義でも、他の指揮者のベートーヴェンは卓越した棒の技術を駆使した都会的なスマートさを中核にして洗練された外観を持っているが、朝比奈隆の客観主義は似て非なるもの。原典を絶対的に信頼する

 

l  朝比奈隆――1990年に向かって 朝比奈隆の軌跡III・プログラム '89.4.

ベートーヴェンに命を懸ける指揮者が少なくなって、《運命》ですら前座扱いされる中、朝比奈は、ベートーヴェンのシンフォニーこそオーケストラ演奏の土台、基本をなすもので、どのオーケストラも4,5年に1度は必ずチクルスを行わなければならないとする

 

l  朝比奈隆=新日本フィル《ベートーヴェン・チクルス》 サントリーホール '88.12.~‘89.5.

東響のオケが短期間に全9曲を連続演奏したのは初めて

ベートーヴェンのシンフォニーにおいて、スコアとパート譜のフレージングの違いは非常に多いし、弦のボウイングなど、弾きやすいように直されているケースが多々あるが、朝比奈はパート譜を全部新しく元に戻した

 

l  超然として聳える巨峰 朝比奈隆とベートーヴェン  朝比奈隆の軌跡V・プログラム ‘92.3.

アバドxベルリン・フィルが眉を顰めるような演奏だったにも拘わらず、新聞各紙は絶賛

多くの指揮者が軽薄短小な時代の風潮に染まっている。バレンボイムxシカゴもまるでチンピラの指揮ぶり

 

l  朝比奈隆のベートーヴェン  大フィル第31回東京定期 ‘92.7.15.

朝比奈は、「ベートーヴェンとブルックナーの交響曲が精神芸術としての2大巨峰」という

アシュケナージが、「ブルックナーはアマチュア作曲家で、感動するようなところが一切ない」と語っているのと好対照

 

l  ベートーヴェン演奏の流れと朝比奈隆      ベートーヴェン「第九シンフォニーの夕べ」 ’94.12.29.

音楽学の目覚ましい進歩がベートーヴェンの交響曲演奏上にも反映され、特に古楽器の指揮者たちがユニークな表現を示すようになった

進歩したオーケストラの技術やアンサンブルを裏付けとして、外面的に磨き上げた演奏をするようになった

元々ベートーヴェンの自筆譜が乱雑で、簡略化されて書かれていて、それを専門の写譜師が印刷の原本となる浄書譜に作り上げたが、別の浄書譜が作られたり、印刷されてからもベートーヴェンが何度も手を加えたり、パート譜の方もリハーサル中にいろいろ書き込みをしたり、複雑な様相を呈していたのが、最近急速に解明されてきた

古楽器の指揮者たちは、こうした音楽学の研究成果をいち早く採り入れ、ベートーヴェン指定の法外に速すぎるメトロノーム指定をも正しいと判断して、少しでもそれに近づこうとしている

現在のベートーヴェン演奏は、現代楽器による無個性な演奏と、古楽器による個性的な演奏という2つの大きな流れに分かれ、さらにマーラー編曲版などを使う回顧的、実験的な試みもある

その中にあって朝比奈のベートーヴェンは、どれにも属さず、超然として確固たる信念に溢れたもので、20世紀半ばの初期の原典志向を現在に至るまで墨守している

スコアの細部に拘るよりは、永遠に変わらないベートーヴェンの本質を求め、作曲者が当時の制約のある楽器の性能の中から、どのような響きを欲していたかを実現することに全精力を傾ける

 

l  ベートーヴェンの場合 職人意識の朝比奈、チェリビダッケの離れ業の解釈 『音楽現代』'982月号

ベーム、マタチッチ、ムラヴィンスキー、バーンスタイン、チェリビダッケなどスケールの大きい個性を持った指揮者が次々と去り、朝比奈が最後の孤塁を守る

朝比奈とチェリビダッケの2人に共通するのは、新しい楽譜や新しい演奏スタイルに興味を示さなかったこと、逆に相違点は、チェリビダッケがリハーサルの回数に拘り、それによって強弱や楽器のバランス変化などの表情を完全に自分流に徹底させることと、ソナタ形式の反復の無視が目立つ

朝比奈は、与えられた時間で音楽をきちんと仕上げるのが職人だとし、弱音無視もこの職人性と結びつき、楽器の良い音がしないような弱音で弾いたり吹いたりするべきではないといい、フルトヴェングラーの影響から脱した今、その神秘性とは対極にある

古楽器演奏を「愚の骨頂」とするのはチェリビダッケも同じ

スコアの選択には拘らないが、そこに書かれてある強弱や反復には徹底して拘る

 

3.    ブルックナー

l  大フィル第94回定期演奏会                 『音楽の友』 ‘7111月号

ブルックナーの《第八》こそ彼の最高傑作であり、現今完璧に演奏できるのは朝比奈とマタチッチくらいしかいない

ブルックナーの音楽に底流するのは、自然感情と宗教感情であり、それがすべて

 

l  大フィル第11回東京定期演奏会                     『音楽の友』 ‘729月号

ブルックナーの《第九》は、疑いもなく最高と絶賛する

難解な曲だが、嚙み砕いて説明するのではなく、一切の効果や媚を排し、ひたすらブルックナーの精神の内部へと沈潜していった結果、スタイルは完全無欠な純度を獲得し、響きは透明度を増し、理想に近い演奏となった

 

l  大フィル第12回東京公演                   『音楽の友』 ‘739月号

ブルックナーの《五番》は稀に見る名演。来年いよいよ本場のドイツでブルックナーを初演することが決まった自負の念が生んだもの

 

l  大フィル第13回東京定期公演              『音楽の友』 ‘749月号

今年は最高の《八番》を創造。これだけブルックナーの本質を突いた演奏も少ない

 

l  演出不可能な中から                   『音楽の友』 ‘749月号

朝比奈x大フィルの《八番》は、久しぶりに本物のブルックナーを享受できた

ブルックナーの響きは、何より渋くて、透明でなければならないが、朝比奈はその基本線をしっかりと守りながら、可能な範囲内で金管を最強奏させ、ブルックナーの一面である豪快な音色感を実現させた

 

l  新日フィル第35回定期演奏会              『音楽の友』 ‘763月号

大フィルとのヨーロッパ公演で絶賛を博したブルックナーの《七番》を、この種の音楽をあまり採り上げたことがない新日フィルと共演、満足の出来栄え

 

l  N響第758回定期公演             『音楽の友』 ‘7811月号

マタチッチの《第八》以来の素晴らしいブルックナーがNHKホールに鳴り響いた

朝比奈が久しぶりにN響定期に登場し、《第九》を指揮。強力な弦の良さが十二分に発揮されて、特にアダージョが絶品となった。驚くべき魂の深遠さを備えた音楽美だった

 

l  朝比奈隆の「ブルックナー交響曲全集」について 現代芸術社『音楽には神も悪魔もいる』宇野功芳 ’81.9.

1978年、ジャンジャンがレコード会社に先駆けて交響曲全曲録音完結

ビクターが《0番》を収録し、朝比奈x大フィルのブルックナー全集が完成

ホールは音響の良い神戸文化ホールが主体、録音技師は吉野金次

《第0番ニ短調》(1978.6.5.中の島・ライヴ) ⇒ 室内楽風にこじんまり書かれていて響きも割に薄い。日本初演。既にブルックナーの響きはこれだというものを完全に身につけている

《第1番ハ短調》(1977.1.24.中の島・ライヴ) ⇒ スケルツォの響きが濁り過ぎているのが欠点

《第2番ハ短調》(1976.8.23.神戸・レコード用ライヴ) ⇒ 全集中の白眉。部分的に取り直しをしている

《第3番ニ短調》(1977.10.28.中の島・ライヴ) ⇒ 「エーザー版」による演奏は珍しい

《第4番ホ長調》(1976.7.29.東京文化会館・ライヴ) ⇒ 聴衆がたくさん入ると響きがデッドになり録音の取りにくいホール

《第5番変ロ長調》(1978.1.25.中の島・ライヴ) ⇒ 名演奏

《第6番イ長調》(1977.9.1.東京文化会館・ライヴ) ⇒ ナマは良かった

《第7番ホ長調》(1975.10.12.聖フロリアン教会・ライヴ)

《第8番ハ短調》(1976.8.23.神戸・レコード用ライヴ) ⇒ 見事

《第9番ニ短調》(1976.4.22.神戸・ライヴ) ⇒ スケルツォが抜群の名演

 

4.    マーラー、ブラームス、チャイコフスキー・・・・

l  大フィル第14回東京公演           『音楽の友』’759月号

来月、オーストリアの聖フローリアン教会で朝比奈x大フィルのブルックナー《七番》が演奏されるのは画期的なこと

 

5.    付章

l  私の選んだ現代の名指揮者           『レコード芸術』 '687月号

マタチッチ、ベーム、クレンペラー、カザルス、ムラヴィンスキー、リヒター、バーンスタイン、カラヤン、ストコフスキー、朝比奈

 

l  現代の名指揮者ベスト10            『レコード芸術』 '7311月号

カザルス、ベーム、ムラヴィンスキー、バーンスタイン、マタチッチ、朝比奈、サヴァリッシュ、カラヤン、リヒター、バレンボイム、小澤

 

l  朝比奈隆 究極のCDベスト10

    ブルックナー《三番》(大フィル、’93) ⇒ ブルックナーの深奥にもっとも迫ったのは朝比奈とヴァントだけ。スケールの大きさ、豊かさ、充実感は最高

    ブルックナー《四番》(大フィル、'00) ⇒ 90年代になってやっと純粋、透明なブルックナー様式を守りつつ、音楽の美しさを最大限発揮することに成功。最後の録音

    ブルックナー《七番》(大フィル、’75) ⇒ 初のヨーロッパ公演で聖フローリアン教会でのライヴ録音。第2楽章のあと5時の教会の鐘がなり演奏を中断

    ブルックナー《八番》(大フィル、’01) ⇒ 降り納めの《八番》

    ベートーヴェン《三番》(大フィル、‘77) ⇒ ようやくレコード会社が朝比奈の録音を採り上げ始めたその第2弾、ビクターによる全集企画に含まれていたのがこの録音。まだ60代の朝比奈の覇気に満ちた芸風と曲想が完全一致し、スケール雄大、壮麗な迫力に満ち、これだけの《英雄》を振れる指揮者は現今1人もいない

    ベートーヴェン《六番》(大フィル、'97) ⇒ どの楽章も重厚な低弦を土台とした厚みのあるハーモニーが立派であり、音楽の情報量が多く、時には宇宙が鳴り響くように聴こえる

    ベートーヴェン《九番》(大フィル、'97) ⇒ 第1楽章の最初の主題の巨大な鳴り方1つを取ってもフルトヴェングラーなど往年の巨匠たちに匹敵する。指揮者の魂が矮小だと《第九》まで矮小になってしまう

    シューマン《交響曲第3(ライン)(新日フィル、’95) ⇒ テンポが遅く、響きが分厚い。ドイツ・ロマン派の真髄

    チャイコフスキー《交響曲第6(悲愴)(大フィル、’90) ⇒ 主観的、感情的。朝比奈も最初はロシア物が多く、ドイツ音楽の土台となっている

    R・シュトラウス《アルプス交響曲》(大フィル、’97) ⇒ 朝比奈が一番愛好する曲。’91年日本の各オケのトップ奏者を集めたオール・ジャパン・シンフォニー・オーケストラの指揮でもこの曲を選び、客席のシカゴ交響楽団のマネージャーが感激して、同オケへの客演を決めたという

番外:朝比奈隆/ブルックナー・ベスト ⇒ ブルックナーの交響曲入門用に制作されたもので、全9曲の中から30カ所の聴きどころを抜粋

ブルックナー《第5番》(大フィル、ライヴ’73) ⇒ 朝比奈が最も得意とした曲だが、録音運が悪く、彼の真髄を捉え切ったCDはない

 

l  朝比奈隆の芸術の真髄を探る 対談 朝比奈隆・宇野功芳 『朝日新聞』’93.7.1.

‘53年、心酔していたフルトヴェングラー指揮のブルックナーを聴いた後、彼から「ブルックナーをやるならオリジナルをやれ」といわれ、初めてブルックナーには自分で書いたもの、自分で書き直したもの、他人が手を入れたものの3通りあることを知った

'75年頃から、「ブルックナーはバロックなんだ」と、迷いがなくなる

 

l  宇野さんのレコードを聴いて        朝比奈隆 宇野功芳第1回合唱指揮リサイタル、プログラム ‘75

宇野指揮のKTU女声合唱団のレコードに感激。一定時制高校の合唱とはとても思えない

自分も指揮者としての出発は大阪の音楽学校の女声合唱を受持ったこと

「音楽をするとは愛と誠実が美しい魂に共鳴すること」と教えてくれたのは宇野

 

l  朝比奈隆の記憶に――あとがきにかえて

声楽家出身の僕が合唱の指揮をするのは応援してくれたが、オケやオペラの指揮をする時は自分のスコアを提供して熱心に指導したもらった。山田一雄が大賛成してくれたのとは正反対

朝比奈の演奏はドイツ風といわれるが、それはバスを豊かに鳴らすハーモニーの重厚さがフランス風、イタリア風とは異なるというだけで、本人はしばしばドイツ流儀を批判

声部が主役なので伴奏パートを弱めようという風にバランスをとってゆくと、音楽のスケールはどんどん小さくなってしまう。フォルテと書いてあればフォルテで演奏する

この朝比奈の方法論は、オルガンスタイルで書かれたブルックナーにはピッタリはまったが、彼はブルックナーでの成功を他の作曲家にも応用しようとした。70年代半ば、「自分はやっと音楽がわかってきたような気がする」と述懐したのもこのことで、ベートーヴェンもブルックナー様式で演奏したため、彼を批判する人は、彼の演奏はアナリーゼ(楽曲分析)も何もないと言って貶した

自らの新しいスタイルを創造した朝比奈の偉大さを思う

全盛期は70年代の半ばで、80年代は力が弱くなったが、90年代に蘇り、シカゴの後の数年は彼が辿り着いた最後の至高の境地だったのではあるまいか

 

 

 

 

朝比奈隆、そびえたつ背中 大阪でクラシック根付かせた開拓者 没後20年、生涯現役の生き方

2022113 1630分 朝日

 オーケストラの公演後、やまぬ拍手に応えて指揮者が舞台に引き戻される光景を見るたびに、この人のことを思い出す。前に詰めかけていた観客の多くが若者だったことも。日本社会から失われつつあった権威や父性、品格といった価値観を、若い世代はあの頃、朝比奈隆(1908~2001)の背中に求めていた。昨年12月29日、没後20年を迎えた。

 この20年の間、「人生100年」の時代の到来はかつてないリアリティーを持った。思わぬ厄災のもと、私たちはテレワークという新たな働き方を見つけ、自身の歩幅で人生を歩むことの大切さに気付かされた。

 昨年末発売のブルーレイ「朝比奈隆 交響的肖像」(キングインターナショナル)では、自身のリハーサルを情熱的に追い続けた映画監督の実相寺昭雄と酌み交わしつつ、自らの人生をたっぷりとした口跡で語りおろしている。遠くから見つめるように、時折ウィットを交え、それこそ緩急豊かな音楽のように言葉を紡ぐ姿が印象的だ。「音楽は人なり」を座右の銘に、「一日でも長生きし、一回でも多く舞台に立つ」ことを目標とした。そんな朝比奈の存在感は「生涯現役」という一点において今なお際立つと、朝比奈研究の第一人者である音楽ジャーナリストの岩野裕一は語る。

 「定年や引退といった社会的なキャリアを意識せず、自らの歩幅で己の人生の枠組みを決め、寄り道を楽しみながら成熟を続ける。そうした生き方に憧れる人は、20年前よりも今の方が、実はずっと多いのでは」

     *

 鉄道技師の息子として生まれ、旧制東京高校を経て京大法学部へ。卒業後は阪急電鉄に就職する。生涯を通じて法律、文学、哲学などを広く深く修めた。専門にとらわれず、あらゆる分野の専門家たちと交わることを、異国の文化であるクラシックを自分たちのものとして根付かせるための一翼とした。

 戦時中は上海から一時帰国を経てハルビンへ。英国などによる共同租界の地だった上海の地では、大東亜省(現外務省)の命でオーケストラを率いた。かの地で出会った楽員の多くがロシア人やイタリア人で、ナチスの迫害を逃れてきたドイツ人も。唯一の共通語は楽譜のみ。いきなり主戦場に投げ込まれた朝比奈は猛烈な勢いでレパートリーを開拓する。美しい英語やドイツ語を話す豊かな国際感覚もこの地で培われていった。

 しかし、朝比奈が最もオリジナルだったのは、生粋の江戸っ子でありながら大阪に根を張る道を選んだことだ。1946年秋に帰国し、翌年、戦前から大阪の放送局で演奏していた楽員たちと関西交響楽団(のちの大阪フィルハーモニー交響楽団)を創設する。次世代の小澤征爾が規格外の才能で閃光のように世界に飛び出し、岩城宏之と山本直純が東京でオーケストラ文化の育成と啓蒙に奔走し始める前に、朝比奈は大阪でクラシック芸術の普遍性について合理的に思考し、種をまく土壌から苗が育つ環境に至るまでの道筋を分析していたのだ。クラシックの文化をおおもとの骨格から根付かせることに、朝比奈ほど意識的な音楽家はいなかった。

     *

 40代での本格デビューから、焦らず悠々とキャリアを重ねてゆく朝比奈を、音楽評論の宇野功芳はブルックナーの巨大な交響曲に重ねた。実際、日本の音楽界にブルックナーを正当に評価させる流れをつくったのが朝比奈だ。大阪フィルハーモニー協会顧問の小野寺昭爾によると、初めてブルックナーを振ったのは43歳の時。年間で最も多く振ったのが96年で、計14回。75年、大阪フィル初の欧州ツアーでも第7番をとりあげた。

 拡大志向の一途をたどり、東西対立の行方に目を凝らしていた当時の西欧社会の人々は、ゆったりと宇宙の軌道を歩むかのような朝比奈のブルックナーに思いがけず、作曲家本来の無私の精神を見いだした。社会全般が効率主義へとひた走る時代への異議申し立てととらえ、快哉を叫んだ演奏家も少なくなかった。米国でシカゴ交響楽団と奏でた朝比奈のブルックナーは、当時同楽団の音楽監督だったダニエル・バレンボイムに称賛された。NHK交響楽団首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィも、朝比奈の録音を熱心に集めた。

 80年代にはワーグナーの「ニーベルングの指環」全曲を日本人のみで上演するという前人未到の挑戦も。新日本フィルハーモニー交響楽団84年から87年まで、1作ずつ。この時、すでに70代後半だった。当初は「関西の田舎ザムライ」と揶揄していた楽員たちも、音楽の隅々にまで心を向け、指揮の最中に感動して目頭を押さえる純粋さにいつしか心を奪われていた。

 20011024日。名古屋で大阪フィル公演を率い、その2カ月後に亡くなった。国境にも思想にも分かたれぬ、音楽を基盤にした新時代の「家族」を志し、悠々と朗らかに我が道を行くうちに、気がつけば巨匠と呼ばれる存在になっていた。(編集委員・吉田純子)

 

 

京大オケ再来の響き 活動休止越え2年ぶり定演 ライブ配信で

永井啓子20211220 930分 朝日

 100年以上の歴史をもつ京都大学交響楽団(京大オケ)が2123日、約2年ぶりに定期演奏会を開く。大学の感染防止策のため、一般客は会場に入れず、ライブ配信となる。コロナ禍で1年半活動できなかった団員らは、再び演奏できる喜びをかみしめる。

 11月中旬、京大吉田南キャンパスの学生集会所で団員約100人が集まり、全体練習をしていた。

 「次のフレーズにどうつなげるか、やってみて」

 学生指揮者の大学院生、佐藤裕樹さん(26)が何度も演奏を止めて各パートに細かい指示を出す。演奏会本番は国内外で活躍する井上道義さんを客演指揮者に迎えるが、通常の練習では佐藤さんがタクトをとる。団員らは指示を聞き、集中した様子で演奏に取り組んでいた。

 京大オケは1916年創設。世界的指揮者・朝比奈隆氏らが輩出。戦時中に演奏への風当たりが強まるなか、年2回の定期演奏会を続けたことでも知られる。演奏会の中止は33年にただ一度。その直前、京都帝大教授が自説をめぐって文部省(当時)から休職処分を受けた「滝川事件」が起き、学内が緊迫していたためで、代わりにラジオで放送したという。

 だが、コロナ禍のなか、昨年4月から今年9月まで活動できなくなった。昨年612月に予定した第207回と第208回の定期演奏会は中止に。今年6月の第209回は延期となってしまった。

 10月になって大学が課外活動の制限を緩和したため、ようやく全体練習を再開。定期演奏会の開催も決まった。ただ、今回は第209回ではなく、第210回。延期された回と今回は演奏曲目が違い、それぞれ準備を進めているためだ。中止も数えたのは、コロナ禍で開けなかった歴史を伝えるためだという。

 2年生と1年生は、オンラインで先輩に11で教わる機会はあっても、全体練習や演奏会は初めて。ホルンの2年生、古川琴子さん(20)は「やっと練習が始まり、うれしい。しっかり教えてもらってありがたい」。バイオリンの2年生、春名花音(かのん)さん(20)も「今までの分を埋めるように、楽しみもしんどさもぎゅっと来た感じ」と話していた。

 総務の3年生、今城有香子さん(21)は「下級生にオケの運営を引き継ぐために、何としてもやりたかった」と話す。

 ただ、大学が感染防止マニュアルで「団体の正式な構成員であっても、他大学の学生等は参加できない」と規定しており、団員約210人の3割近くを占める同志社大、立命館大、京都女子大などの学生団員は練習に参加できず、演奏会も出られない。

 コロナ禍前は、納得がいくまで練習する団員らの姿が見られたが、今は練習会場は午後8時半に閉まる。練習開始を早めたが、授業が終わらず、間に合わない団員も出てきた。

 それでも佐藤さんは言う。「プライドを強く持って演奏に臨む。その伝統は必ず守っていきたい」(永井啓子)

     

 京都大学交響楽団(京大オケ)の第210回定期演奏会は、21日に京都コンサートホール(京都市左京区)で、23日にザ・シンフォニーホール(大阪市北区)で、いずれも午後7時開演。団員の家族や京大オケOBOGなど一部の人しか会場に入れない。ライブ配信チケットは、両公演とも1500円。京大オケの公式ウェブサイト(http://www.kyodaioke.com/ =QRコード=で購入できる。

 

 

子供たちに奏で継がれる「大阪俗謡」 丸谷明夫さんと故朝比奈隆を結んだ名曲

20211220 500分 朝日

 29日に没後20年を迎える朝比奈隆(1908~2001)7日に76歳で亡くなった丸谷明夫さんは、ともに関西文化へのこだわりを礎に、ローカリズムの中に芸術の本質を探った同志だった。2人の指揮者の縁を結んだのは「大阪俗謡による幻想曲」。吹奏楽界の主要レパートリーとして子供たちに奏で継がれている名曲だ。

 活気に満ちた売り声に、はじけるような祭り囃子。ちゃんちきや太鼓の音がエネルギッシュに響き渡る「俗謡」は、今も吹奏楽に携わる多くの子供たちの憧れだ。

 「俗謡」を書いたのは大阪・船場生まれの作曲家、大栗裕(1918~82)。自身の民族性を創作の礎としたことから「浪速のバルトーク」の愛称も。55年、ベルリン・フィルへのデビューを翌年に控えた朝比奈隆に、「日本流の曲を現地で披露したい」と頼まれた。朝比奈が創設した関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)の首席ホルン奏者で、10歳年上の朝比奈とは誕生日が同じという縁もあり、うまが合った。

 オーケストラで演奏する傍ら、伊福部昭や早坂文雄に傾倒し、コツコツと独学で曲を書いていた大栗の姿を朝比奈は見逃さなかった。大栗の抜擢について、丸谷さんはかつてこう語っていた。

 「大栗さんの才能もすごかったけど、作曲家としてはまだ全く無名だった一ホルン奏者にそんな大舞台を与えた朝比奈さんの審美眼も、同じくらいすごかった」

 欧州で喝采を浴びたこのオリジナルの管弦楽版「俗謡」を、大栗は74年、吹奏楽向けに編曲する。そして80年、丸谷さんの希望で、丸谷さんと大栗が協力して子供たちの吹奏楽活動向けに短縮・改訂した版が現在、全国の中高生に愛奏されている「俗謡」である。

 この版を全日本吹奏楽コンクールで丸谷さん率いる大阪府立淀川工業高(現淀川工科高)が初演した時の録音を、当時高校生だった音楽評論家片山杜秀さん(58)は興奮しながら聴いていた。

 「大阪の土俗性がむき出しで、それが子供たちの青春の爆発的なエネルギーと絡み合い、奇跡の化学反応が生まれていた。俗謡、丸谷、淀工は、日本のクラシック界において、特定の土地のローカリズムが形として根付き、伝承されるという唯一の例をつくりあげた、希代の三位一体だった」

 「俗謡」は「大阪が誇る古典」(丸谷さん)であり、戦後復興への道を歩み出したばかりの日本が「これが私たちの文化だ」と胸を張って世界に示した、かけがえのない矜持(きょうじ)の曲でもあったのだ。

 「俗謡」を奏で継ぐ生徒たちは、芸術に夢を託して戦後の時代を生き抜いた先人たちの精神に知らず知らずのうちに連なっている。差別も優劣もない、時空を超えた音楽の世界にともに生きる幸福を体感させる。これこそが丸谷さんにとっての吹奏楽教育だった。(編集委員・吉田純子)

 

 

記録に息づく私の朝比奈隆

戦後を代表する指揮者の演奏記録収集 知られざる足跡も 大堀清和

2022112 2:00  日本経済新聞

指揮者の朝比奈隆(19082001年)は戦後の大阪の音楽界を基礎から作り上げた立役者だ。彼のダイナミックで高揚感のある指揮に魅せられた私は、朝比奈が出演した演奏会の全記録を30年かけて集めてきた。

朝比奈との出合いは高校生の時、中古CD店で手に入れたワーグナーだ。本格的にほれ込んだのはその数年後、ラジオ番組で朝比奈が自身の来歴を語るのを聴いた時だ。

大卒で阪急電鉄に就職するも音楽の道を捨てきれず、また大学に入り直した顚末を笑い話にしていた。「もどかしくても、回り道で得たものは最後には自分のもうけになる」。当時浪人2年目でお先真っ暗の私に、その言葉は光明に思えた。

神奈川の大学に進学後、直接会うことのできない遠い世界の人のことを少しでも知りたい一心で、演奏会通いの傍らCDのディスコグラフィー作りを始めた。卒業後、家業を継いで2年目の年に朝比奈は死去。ついに、と思うと同時に、ふと「もう新録音が出ない。ディスコグラフィーが完成してしまう」との思いがよぎった。記録上の朝比奈との戯れを終えるのはさみしい。そこで、本格的に全演奏記録の収集に乗り出した。

楽団の演奏会やラジオ・テレビの録音演奏、公開練習など、人前で演奏したすべてを対象に、いつ、どこで、どの楽団やソリストと、何の曲を演奏したか、一つ一つ記録した。まずは30ページほどの小冊子を作成し、試しに朝比奈が創設した大阪フィルハーモニー交響楽団に送った。ところが当時の事務局長は「あなたのデータには相当の抜けがある」と手厳しい一言。そして、分厚い封書を1年がかりで何通も送ってくれた。中身は楽団の長年の事業報告書。演奏記録が事細かに記載された、貴重な資料だ。

指揮する朝比奈隆=大阪フィルハーモニー交響楽団提供

事務局長も資料を整理したいと思いながら、量の膨大さに手をつけかねていたらしい。送る手間は相当だったはずだが「あなたみたいな人とこういう仕事をやるのは楽しい」と言ってくれた。そこから先はしらみつぶしに、古いプログラムをネットオークションで買い求め、演奏年鑑を複写で取り寄せ11行朝比奈の名を探した。

記録から見えるのは、若き日の朝比奈の精力的な活動だ。生涯4000回超の演奏のうち、約1400回が50年代のもの。戦時下の大陸から帰国し、大阪に音楽文化を根付かせようと奮闘していた時期で、プールサイドや企業の工場、競輪場や野球場での巡業が連日続く。プログラムに誰もが知る名曲をずらりと並べ、その中から当日観客の要望した曲を何曲でも演奏するという曲芸もやっている。

同時期、オペラの指揮回数の多さも際立つ。公演会場もなく歌手も乏しいなか、自ら創設した歌劇団で台本を翻訳し、時には演出もこなして毎年公演を催した。現在は朝比奈にオペラ指揮者のイメージはほぼないから、意外な感じだ。

これは推測だが、朝比奈がオペラ公演に力を入れたのは、若き日に見た上海に影響を受けたためではないか。当時の上海には、欧州から亡命した音楽家が数多く滞在し、劇場ではオペラやバレエが盛んだった。戦後すぐに関西の財界人の支援で大阪に楽団や歌劇団を作ったのも、劇場運営を街の資本家が支援した上海のありようを思わせる。

業務後の夜半に資料を探し、朝比奈の足跡に思いを巡らすのは、私にとって自分を取り戻す大切な時間だ。今も演奏記録は更新中。いつかは本の形にしたい。

(おおほり・せいわ=経営者)

 

 

よみがえる朝比奈隆、没後20年で公演相次ぐ

文化の風

関西タイムライン

20211119 5:00  日本経済新聞

大フィルは音の一体感を重視し、椅子に腰掛けず立ったまま演奏した

戦後、大阪の音楽界を基礎から作り上げた指揮者の朝比奈隆。没後20年の節目を記念する公演が相次いでいる。往時の名演を懐かしむ傍ら、オペラの普及のための活動など、これまで注目の集まりづらかった仕事に改めて光を当てようという動きも出ている。

大フィルを創設

大阪・梅田の常翔ホールで3日、「マエストロ朝比奈隆永遠なれ! ~没後20年メモリアル~」と題されたイベントが催された。コンサート、シンポジウム、展示の3本立てで、朝比奈と縁深い歌曲が披露された後、続けて朝比奈の創設した大阪フィルハーモニー交響楽団が演奏した。

大フィルが最後に演奏した曲目は、チャイコフスキーの弦楽セレナード。最も強い印象を与えたのは、弦楽器がせり上げるような上昇音を奏でて場の雰囲気を最高潮に持っていくところだ。弓と弦のこすれ合う摩擦音が客席にまではっきりと聞こえる演奏は、奏者の演奏への熱の込めようをありありと伝えた。

均衡のとれた美しい音よりも、聴く人を問答無用に圧するエネルギッシュな音を大切にするのが大フィルらしさだ。そのおおらかでぜいたくな音楽には、楽団創設以来50年以上も指揮者を務めた朝比奈の指導が今でも強く影響している。

あさひな・たかし 1908年東京生まれ。京都帝国大学在学中にエマヌエル・メッテルに指揮を学ぶ。戦時中は上海や満州で指揮し、帰国後47年に関西交響楽団(現大フィル)を、49年に関西オペラグループ(現関西歌劇団)を設立した。200110月の演奏会を最後に、1293歳で死去。=979月撮影、大フィル提供

朝比奈は戦後まもなく大フィルと関西歌劇団を創設し、大阪の音楽界を基礎から築いた立役者だ。「上品な白髪にいつもピンと伸びた背筋。その姿が袖から現れると、舞台も客席もピーンと緊張するようなオーラの持ち主だった」と音楽評論家の小味渕彦之は語る。「指揮台に立つだけでオケが朝比奈の音になる、人格が鳴ってる、といわれた。そんな指揮者は他にいない」

「練習中の口癖は『もっと! もっと!』。そのたびオケの音量がどんどん上がり、最後はものすごい音になってホールの壁がビリビリ震えた」と大フィルの福山修事務局長は当時を振り返る。「指揮の仕方は不器用で武骨。必ずしも分かりやすい棒ではなかったが、本人の人生が押し出された情熱的な指揮だった」。その日の演奏の響きや勢いに合わせて即興で盛り上げていく音作りには、熱狂的なファンがついた。

オペラにも奮闘

関西の音楽史には欠かすことのできない音楽家だが、その記憶は風化しつつある。イベントを企画した実行委員会の一人で、音楽プロデューサーの吉川智明は「若い演奏家には朝比奈の演奏を知らない人も出始めている」と語る。企画の背景には「大阪の音楽の原点に朝比奈隆がいたということを、今伝えなければ」という思惑がある。

朝比奈の知られざる側面に改めて光を当てようという動きも出ている。現在はブルックナーやベートーベンなどの交響曲指揮者というイメージが強い朝比奈だが、80年代以前は関西にオペラ文化を根付かせようと奮闘していた。毎年オペラの指揮を執り、上質な日本語訳がないオペラについては自ら歌詞を翻訳、時には演出も手掛けたほどだ。

3日のシンポジウムでは、5060年代に朝比奈が指揮をした公演のうち、1割以上をオペラが占めると指摘。朝比奈とオペラの関わりに関する書籍を刊行した登壇者の押尾愛子は「朝比奈訳の歌詞は、まず音の抑揚に合っていて歌いやすい。芝居心たっぷりのノーブルなセリフ回しも魅力だ」と語った。

今後、朝比奈とオペラに関する公演が続く。関西歌劇団は1220日に朝比奈訳のオペラ歌曲を取り上げるガラ・コンサートをメイシアター(大阪府吹田市)で催す。堺シティオペラも来年2月、関西歌劇団が55年に上演した創作オペラの第1弾作品「赤い陣羽織」などを上演する。

朝比奈の訳詞は今後インターネット上に順次公開され、誰でも気軽に見られるようになる。これまで全貌が見えづらかった分野だけに、公演や訳詞公開は関心を集めるきっかけになりそうだ。巨匠の没後21年目にして新たな横顔発見となるか、楽しみだ。

(山本紗世)

 

 

Wikipedia

朝比奈 隆(あさひな たかし、1908明治41年)79 - 2001平成13年)1229)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本指揮者

左利き指揮棒は右だが、包丁は左(木之下晃の写真集より))。朝比奈の出生には謎があり、中丸美繪著『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』が詳しい。

著名な家族に、長男の朝比奈千足(指揮者、クラリネット奏者)。

人物・来歴[編集]

誕生から満州時代[編集]

東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区市谷砂土原町の小島家に生まれ、生後まもなく鉄道院技師朝比奈林之助[1] 養子となり朝比奈姓となる。

虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津町立国府津尋常小学校(現:国府津小)を経て小田原町立第三尋常小学校(現:新玉小)に学ぶ。小学校3年の3学期から東京に呼び戻され、麻布尋常小学校(現:港区立麻布小学校)に転入学。まもなく中学受験に有利ということで東京府青山師範学校附属小学校(現:学芸大附属世田谷小)に転じた。
旧制中学校受験では、東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大附属中・高)や府立・市立の有名校にことごとく不合格となり裏口入学のような形で私立高千穂中学校に進む[2]1922大正11年)3旧制東京高等学校(現:東京大学)尋常科2年の編入試験を受けて同校に転入学した[3]

1923(大正12年)に養父を亡くし、1925年(大正14年)には養母も病歿したため、朝比奈姓のまま生家の小島家に戻る。この養父母の死によって、朝比奈は実父が渡辺嘉一[4]と知る。また、実母に関しても朝比奈の長男朝比奈千足は、朝比奈隆伝の著者・中丸美繪に「父が、嘉一と小島里との間の子供であること、父が里の三男であることに関しては確証がありません」と証言している[5]。同年9関東大震災で焼け出されて朝比奈家で同居していた父方の親戚の岡部左久司(当時、早稲田高等学院在学中。のち内務省技官)の影響でヴァイオリンの魅力に惹かれ、朝比奈家の祖母からヴァイオリンの焼け残りの中古品を買い与えられたことがきっかけで音楽に興味を示すようになった。当初は東京高等学校尋常科の音楽教師田中敬一にヴァイオリンを習っていたが、やがて田中の紹介で橋本国彦に師事するに至る。ヴァイオリンの練習の傍ら、サッカー登山スキー乗馬、陸上競技などのスポーツにも熱中していた。当時の同級生かつヴァイオリン仲間に篠島秀雄がいる。

旧制東京高等学校高等科文科乙類では同級に日向方斎清水幾太郎宮城音弥内田藤雄平井富三郎出淵国保がいた。制高校時代には友人と弦楽四重奏団を結成したり、1927220の新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会を聴いたりもした。

1928昭和3年)、京大音楽部の指導者であるロシア人指揮者エマヌエル・メッテルを目当てとして京都帝国大学法学部に入学。法学部在学中には同大学のオーケストラ京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当。やがて指揮をメッテルに師事、その他、レオニード・クロイツァーアレクサンドル・モギレフスキーの影響を受けた。

1931に京都帝国大学法学部を卒業。鉄道省勤務の実兄の推薦により、月給60円で2年間阪神急行電鉄(現阪急電鉄)に勤務。電車の運転や車掌百貨店業務、盗電の摘発[6] などを行う傍ら、チェリストの伊達三郎の誘いで大阪弦楽四重奏団のヴァイオリン奏者として大阪中央放送局 (JOBK) に出演。1933(昭和8年)、会社員生活に飽き足らず「もう一度学問をやり直したい」という理由で退社し、改めて京都帝国大学文学部哲学科に学士入学し、1年留年して1937(昭和12年)に卒業。卒論は中世音楽史を扱った内容だった。この間、1936(昭和11年)212に初めてオーケストラ(後の大阪フィルハーモニー管弦楽団)を指揮。また、1934(昭和9年)より月給30円で大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に非常勤講師として勤務し、一般教養課程でドイツ語英語・音楽史・心理学を教えていたが、卒業後の1937(昭和12年)より教授となった。

1940(昭和15年)131新交響楽団の演奏会でチャイコフスキー交響曲第5他を指揮し、プロデビューを果たす。1941(昭和16年)、田辺製薬創始者田辺五兵衛会長の実弟、武四郎の長女で東京音楽学校ピアノ科卒の町子と結婚し、神戸市灘区篠原町に居を定める。同年、日米開戦。1942(昭和17年)からは月給200円で大阪放送管弦楽団の首席指揮者となり、戦意高揚のため『荒鷲に捧げる歌』『海の英雄』などを演奏。1943(昭和18年)11月末、中川牧三[7] の推薦で大陸に渡り、同年128の「大東亜戦争二周年記念演奏会」を皮切りに上海交響楽団1943)で指揮。上海滞在中、1944(昭和19年)1月、タラワ、マキン両島で玉砕した兵士を弔う歌の作曲を海軍省から命じられ、一晩で書き上げる。1944年(昭和19年)、日本に戻ってからは再び大阪中央放送局に戻り、時おり慰問や軍歌放送の仕事をしていたが、同年5月、要請を受けて大木正夫満州国に行き、満州映画社長の甘粕正彦と会い、約1ヶ月間新京音楽団(新京交響楽団)とハルビン交響楽団を視察。同年秋に再び要請され、妻と伊達三郎を伴って渡満し、大木の交響曲『蒙古』を指揮。同年12にも渡満。1945(昭和20年)には関東軍の嘱託を命ぜられ、満州全土を演奏旅行。大阪と神戸が空襲で被災した上、満州での活動が波に乗ったこともあり、関東軍報道部長の誘いで1945年(昭和20年)5には妻と長男を呼び寄せて本格的に満州に移住、ハルビン特務機関の指揮下に入りハルビンのヤマトホテルに居住したが、8に終戦を迎えた。ソ連占領軍進駐後、弟子の林元植朝鮮語版)(後述)や朝比奈ファンの歯科医、小畑蕃などによって日本人狩りの暴徒から匿われつつ、1年以上ハルビンに蟄居。この間、国民政府からの依頼で中国人のオーケストラを編成し、アンサンブルの指導を行っている(194510-19464月)。1946(昭和21年)8から2ヶ月かけて神戸の自宅に引き揚げた。

大阪フィル設立[編集]

引き揚げ後は、大阪音楽学校および大阪音楽高等学校に勤務しつつ、1947(昭和22年)4月、大阪放送管弦楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団を結成する。結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。1950年代からはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団北ドイツ放送交響楽団などヨーロッパの主要なオーケストラに招かれるようになった。1960(昭和35年)に関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改称(定期演奏会の回数は、改称時に数え直している)。同楽団の常任指揮者を経て音楽総監督となり、ヨーロッパ公演を3回、北米公演を1回行い、亡くなるまでその地位にあった。1つのオーケストラのトップ指揮者を54年間務めたことになる。

ブルックナーの巨匠[編集]

1973(昭和48年)、大阪フィルが東京公演を行った。この公演で取り上げた曲目の中には、ブルックナー交響曲第5も含まれていた。1954(昭和29年)以来しばしばブルックナーを取り上げていた朝比奈であったが、それまでは納得のできる演奏ができなかった。しかし、この東京公演で取り上げた第5番は、朝比奈も上出来と思うほど出来栄えが素晴らしく、聴衆も大喝采を浴びせた。

その聴衆の中に、渋谷で前衛的なライヴハウス「渋谷ジァン・ジァン」を経営している高嶋進がいた。彼は寺山修司などの前衛演劇に傾倒する一方で、大のブルックナーファンであった。この公演に感動した高嶋は、朝比奈&大阪フィルを起用してブルックナーの交響曲全集を作ろうと思い立ち、1978(昭和53年)にディスク・ジァン・ジァンから全集LPを発売した。この全集は大評判となり、朝比奈は一躍「巨匠」「日本のブルックナー解釈の第一人者」として注目を集めるようになった。

ブルックナーの交響曲で問題になる楽譜の「版」であるが、朝比奈は基本的にハース版を使用している。1975(昭和50年)の大阪フィルの欧州公演中、1012リンツの聖フローリアン教会で交響曲第7を指揮した際、会場にノヴァーク版の校訂者レオポルト・ノヴァークが来ており、終演後朝比奈を訪れた。ノヴァークは演奏を称賛し、ノヴァーク版で演奏しなかったことを詫びた朝比奈に、名演の前に版は大した問題ではない旨答えたという[8]

1980年代から晩年[編集]

ブルックナー全集の件以降、在京の主要オーケストラからの客演依頼が殺到するようになり、また、レコーディング活動も増加するようになった。1980年代以降朝比奈が出演する演奏会の人気は凄まじく、チケットは即売り切れになることもあった。ブルックナーの交響曲の演奏のほかに、もう一つの主要レパートリーであったベートーヴェンの交響曲の連続演奏会や全集の制作も盛んに行った(ベートーヴェンの交響曲連続演奏会は、1951から2000の間に9回行っている)。この頃より、朝比奈はしきりに「時間がない」を口癖にするようになり、録音も多くなった。

1995(平成7年)に阪神・淡路大震災に遭遇した(朝比奈は1923関東大震災にも遭遇している)。また、同年6月には終戦以来50年ぶりにハルビンを訪問し、満州時代に朝比奈の下で演奏していた元楽員と再会した。1996(平成8年)にはシカゴ交響楽団に客演。これはピエール・モントゥーの記録を抜く同オーケストラの最高齢の客演であった。

朝比奈は90代以降、「ストコフスキーの最高齢記録を抜く」と公言し、一見では特に大きな身体の故障もなかったため、記録達成は容易と見られていたが[9]2001年(平成13年)1024の名古屋公演におけるチャイコフスキーピアノ協奏曲第1(ピアノ:小山実稚恵)、交響曲第5が最後の舞台となり、演奏会後、体の不調を訴えて入院。そのまま復帰することなく1229日に死去した。93歳没。「立つことが私の仕事」「立って指揮が出来なくなったら引退」として、練習中でも椅子の類を使わず、最後まで立ったまま指揮をした。生涯現役であった。

長く日本指揮者協会会長も務めた。

没後[編集]

没後、大阪フィルハーモニー交響楽団創立名誉指揮者となった。訃報は2001年(平成13年)1231付各紙の1面を大きく飾った。朝比奈の棺に納められたものは、指揮棒と2001年(平成13年)11月の大阪フィル定期演奏会で指揮する予定であったブルックナー交響曲第3の楽譜であった。燕尾服荼毘に付された。当のブルックナーの交響曲第3番は2002(平成14年)7月に東京と大阪で若杉弘が指揮、朝比奈の追悼とした。

2002年(平成14年)27ザ・シンフォニーホールで行われた「お別れの会」では朝比奈千足の指揮で、遺志に従ってベートーヴェンの交響曲第72楽章が演奏され、無宗教で行われた[10]。また参列者は朝比奈千足の発声により拍手で故人を見送った。

2007(平成19年)1211から16まで、リーガロイヤルホテルにて「永遠のマエストロ 朝比奈隆展」が開催された。これは大阪フィル創立60周年記念行事として行われた。

2008(平成20年)79、生誕100年の日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルは記念演奏会を行った。指揮は朝比奈の後任の音楽監督大植英次で、モーツァルトピアノ協奏曲第23(ピアノ:伊藤恵)、ブルックナー交響曲第9が演奏された。演奏終了後、聴衆は最晩年の朝比奈の多くの演奏会同様にスタンディング・オベーションを行った。

受賞歴[編集]

1969 - 紫綬褒章受章

1976 - 日本芸術院賞受賞[11]

1979 - 朝日賞受賞

1983 - 神戸市名誉市民顕彰

1987 - 勲三等旭日中綬章受章

1989 - 文化功労者選定[12]

1994 - 文化勲章受章

没後従三位に叙せられる

他には、NHK放送文化賞、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章、毎日芸術賞、モービル音楽賞、ザ・シンフォニーホールクリスタル賞、オーストリア共和国一等科学芸術名誉十字章、銀杯一組(菊紋・第四号)など。

朝比奈はベートーヴェンを演奏する時はドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章の略綬を、ブルックナーを演奏する時はオーストリア共和国一等科学芸術名誉十字章の略綬をつけて指揮台に上がっていた。

また、文化功労者顕彰に関しては次のような逸話がある。後述のオール日本人キャストによる『ニーベルングの指環』全曲のCDを聴いた中島源太郎文部大臣(当時)が、「日本人もようやくこのレベル(「指環」を全曲演奏できる)まで到達することが出来た」と涙し、顕彰が内定したと言われている[要出典]。もっとも、当の中島は顕彰前に亡くなった。

l  「弟子」[編集]

朝比奈自身、1970(昭和45年)に発表した文章の中で「私は、いわゆる世間で言う弟子とか門下生とかいうものを、少なくとも今の職業である指揮者としては持ったことがない」と述べている[13] が、朝比奈の影響下にある指揮者として林元植朝鮮語版)(韓国人指揮者、1919 - 2002826)がおり、朝比奈自身も1973(昭和48年)の『私の履歴書』の中では林を「私の弟子で、私が退いたあとしばらく指揮棒を振っていた韓国人の林元植君」と呼んでいる[14]。彼は朝比奈のハルピン時代、朝比奈の人柄に感服し影響を受け、朝比奈が満州を脱出する際いろいろ便宜を図った。朝比奈の「お別れの会」にも参加、献奏したが、ほどなく後を追う様に死去した。朝比奈ともどもサッカーの大ファンであり、2002年(平成14年)のワールドカップ日韓大会にちなんだ、2人が出演する演奏会も企画されていたが、朝比奈の死で幻となった[15]

他に外山雄三が「私は朝比奈先生の弟子だと思っている」と発言したことがあり、これに対し朝比奈は「先輩の顔を立ててくれたものと考えている」と新聞紙上に書いている[16]。また朝比奈の晩年にあたる1997(平成9年)から1999(平成11年)まで下野竜也が大阪フィルの指揮研究員になり、朝比奈の指揮ぶりに接している。また、大阪市音楽団名誉指揮者の木村吉宏も、朝比奈の指導を受けている。

50年以上にわたって朝比奈の薫陶を受けた大阪フィルは、現在でも独特の「大フィルサウンド」を身上としている。

l  演奏活動(レパートリー)[編集]

若い頃は非常にレパートリーが広く、ロシア音楽に堪能な指揮者という評価もあった。

次第に、限られたレパートリーを繰り返し演奏するようになった。特にベートーヴェンブラームスブルックナーおよびチャイコフスキーの交響曲は、繰り返し演奏してきた。

ベートーヴェンの交響曲第9251[17]、ブルックナーの交響曲は197回指揮した。ベートーヴェンの全交響曲を短期間に演奏するチクルス(連続演奏会)も、9回行った。

ベートーヴェン交響曲全集を7回、ブルックナー交響曲全集を3回、ブラームス交響曲全集を4回録音している。特にベートーヴェンは本場ドイツ・オーストリアの指揮者たちと比べても突出した数字である。

マーラーの交響曲は2以降の作品を、シューマンの交響曲は3以降の作品を指揮した。マーラーの交響曲第1番『巨人』については「単なる歌曲のアレンジ」と[要出典]、シューマンの12に対しては「箸にも棒にもかからない」と、低い評価を下しており[要出典]、特に1980年代以降は演奏しようともしなかった。一方で、記念的な演奏会では、リヒャルト・シュトラウスアルプス交響曲をしばしば演奏した。

オペラ公演も数多くこなし、歌詞の翻訳も朝比奈自ら行った。またワーグナーの『ニーベルングの指環』をオール日本人キャストで4年がかりで演奏した(新日本フィルハーモニー交響楽団1984 - 1987年。『神々の黄昏』は日本初演)[18]

日本の作曲家の作品として、大阪フィルのホルン奏者であった大栗裕の作品の多くを初演した。服部良一の『おおさかカンタータ』、松下真一の交響幻想曲『淀川』などの、祝典的な作品の演奏も行った。

朝比奈が日本初演した作品としては、レスピーギの『ローマの祭』、シェーンベルク管弦楽のための変奏曲フォーレレクイエム、ブルックナーの交響曲第0と『ヘルゴラント』、大栗裕の『管弦楽のための神話』などがある。

l  演奏活動(演奏団体)[編集]

自らが創設・育成した関西交響楽団 - 大阪フィルが断然多いが、それ以外にも国内のほとんどのプロ・オーケストラ、ヨーロッパの多くのオーケストラを指揮している。

関東では、新日本フィルNHK交響楽団東京交響楽団東京都交響楽団を、晩年に至るまで指揮し続けた。読売日本交響楽団日本フィルハーモニー交響楽団東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団東京フィルハーモニー交響楽団新星日本交響楽団についても客演歴がある。

関西並びに中国地方では、大阪フィル以外には京都市交響楽団や倉敷音楽祭祝祭管弦楽団を多く指揮した。倉敷ではベートーヴェンの全交響曲を演奏したが、それと共にモーツァルトの交響曲も取り上げた。関西フィルハーモニー管弦楽団は、経営的には大阪フィルと非友好的な関係にあるにもかかわらず、一度だけ客演した。

海外では、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団北ドイツ放送交響楽団等にも客演している。1987年(昭和62年)には、北ドイツ放送交響楽団の来日公演の一部の公演も指揮した。

アマチュア・オーケストラの客演歴はあまり多くない。1976(昭和51年)には名古屋大学交響楽団を指揮して、ブルックナーの交響曲第8を演奏した(このときにはワーグナーチューバが入手できず、ユーフォニアムを用いたという話が有名である)。1981(昭和56年)にはジュネス・ミュージカル・シンフォニー・オーケストラも指揮し、ベートーヴェンの9を演奏した。朝比奈自身が学生時代に在籍していた京都大学交響楽団については、戦前には常任指揮者の地位にもあったが、1982(昭和57年)には客演の立場で、ブラームスの交響曲第2などを指揮した。これらが、朝比奈が演奏会でアマチュア・オーケストラを指揮した最後の機会であり、それ以降は(一部の非公式な場・TV放送企画等を除き)アマチュア・オーケストラとの接点を持っていない。

オーケストラ以外では、吹奏楽団である大阪府音楽団、大阪市音楽団(現楽団名Osaka Shion Wind Orchestra)を指揮し、演奏会やレコーディングを行っている。また、かつての全日本吹奏楽コンクール連続最優秀校・西宮市立今津中学校吹奏楽部で熱心な客演指導も行った。

1989年(平成元年)、朝比奈を師と仰ぐ鈴木竹男が率いる阪急百貨店吹奏楽団の第1回定期演奏会において客演指揮を務めた。

1995(平成7年)には、大阪フィルメンバーを中心とした室内楽を指揮し、ブランデンブルク協奏曲5番、『音楽の捧げもの』を演奏した(ただし後者の演目で、実際に朝比奈が指揮をしたのは「6声のリチェルカーレ」の部分のみである)。

l  録音[編集]

朝比奈自身の意向もあり、生前より、スタジオ編集ではなくライヴ録音として残された録音が多い。大阪フィルやNHK交響楽団、倉敷音楽祭祝祭管弦楽団などとのライヴ録音がポニーキャニオンオクタヴィア・レコードフォンテック、東武レコーディングスなどからリリースされている。ベートーヴェンブラームスブルックナーの交響曲については、全集録音が複数種類残されており、特にベートーヴェンの交響曲については、同曲異演のCDが多く残されている。没後はマーラーリヒャルト・シュトラウスヒンデミットなどの作品を指揮した音源が発掘され、CD発売されている。他に北ドイツ放送交響楽団とベートーヴェンの他フランクレスピーギラヴェルなどを演奏したCDも発売された。2010年(平成22年)6月には、東武レコーディングスよりモーツァルの後期交響曲のCDがリリースされている(倉敷音楽祭のライヴ)。

吹奏楽にも造詣があり、吹奏楽曲の録音もいくつか残されている。親交の深かった大栗裕の作品の他、ウィリアム・フランシス・マクベスハロルド・ワルターズなどの録音も残っている。没後、大阪市音楽団を指揮したライブ音源が発掘され、CD発売された。

最初の録音は1940(昭和15年)に京都大学交響楽団を指揮して録音した、母校の京都大学学歌(テイチク)であり、この事実は朝比奈が没する直前に判明した(それまで最初の録音とされてきたものは、1943に日本交響楽団を指揮して録音した、深井史郎作曲『ジャワの唄声』であった。恐らく各地の放送局で放送するために製作されたものであろうという説もある)。京都大学学歌については、現在京都大学のサイト[1] の中で鑑賞できる。深井史郎『ジャワの唄声』については、「ローム ミュージック ファンデーション 日本SP名盤復刻選集」の中でCD収録された。

l  逸話など[編集]

朝比奈の指揮者デビューは遅かったが、師であるメッテルからは「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立て」と言われた。

サッカー好きで、高等学校時代から大学初期は日本でも少しは名の知れたサッカー選手であった、としている。東京高等学校時代の1926大正15年)と1928(昭和3年)の全国高等学校ア式蹴球大会フルバックとして出場している。篠島秀雄はチームメイト。しかし骨折とその後遺症でクラブ活動は断念した。また大学時代はサッカー中に負傷して楽器が弾けなくなり、メッテルに手ひどく怒られたことがある。

河上肇に学んだろう」という理由で、徴兵検査はいきなり丙種合格とされた。学部が違うので学んでいないという返事をしたが、検査官に一喝されている[19]

若い頃はがさつさから「がさ」というニックネームだった。大阪フィルの団員には「オッサン」あるいは「親方」と呼ばれた。

利き手の他、酒好きという点でも左利きであり、阪神・淡路大震災の際、自宅に駆けつけた音楽評論家の知人を前に泰然として酒を勧めたという。飲んで絆を強めるのは海外で指揮するときにも使った。ただし朝比奈も最初は下戸で阪急時代の上司である正岡忠三郎に飲めるようにしてもらった。

食通で料理好きであり、しばしば自ら厨房に立った。

大の好き。タクシーに乗っている時に野良猫を手なずけるために停車させて車外に出ることがあった。

自宅近辺の阪急タクシーの運転手たちとは懇意の仲で、晩年に至ってもお年玉を渡していた。

演奏中に指揮棒を落としてしまうことが多かった。そのため楽譜台には指揮棒が多めに置かれていた。さらに大阪フィルの演奏会ではヴィオラ最前列がしばしば落ちた指揮棒を拾っていた。

最後の言葉は「引退するには早すぎる」であった(毎日放送で放映された朝比奈千足へのインタビューより[20])。

朝比奈の使っていた楽譜には、テンポなど演奏上の覚え以外に演奏日や場所などの記録が日本語・英語・ドイツ語が混在して書き込まれているが、ベートーヴェン交響曲第9の楽譜には演奏日の空欄が2行ある。世を去った当日である2001年(平成13年)1229とその翌日の30に毎年恒例となっていた大阪フィルの「第9シンフォニーの夕べ」を自らが指揮する予定であらかじめ欄を作っていたためである。これらの書き込みは全て朝比奈の手書きである。

朝比奈は1964年から死去前年の2000年まで、大阪フィルとの12月の演奏会で毎年必ずベートーヴェン「第9」を演奏、日本人の「暮れの第9」イメージ定着に一役買った指揮者の一人でもある。特に1985年からは1229日・30日に朝比奈/大阪フィルによる「第9」演奏会の日程が固定化(演奏会場も毎年フェスティバルホール)され、大阪の暮れの恒例演奏会として親しまれた(先述通り2001年も同日に「第9」演奏会が企画されていた)。朝比奈の死後も同日の大阪フィルによる「第9」演奏会は開催が続いている。

また毎年「第9」で仕事納めの後、新春仕事初めとなる大阪フィルとの演奏会(こちらも会場はフェスティバルホール)では1975年の新春から2001年まで毎年必ずドヴォルザーク新世界より』を演奏、こちらも恒例として親しまれていた。1982年から1998年新春は『新世界より』に女性ピアニストを招いてのピアノ協奏曲を組み合わせており、独奏に中村紘子1985 - 1994年)、後に朝比奈最後の共演ピアニストともなる小山実稚恵1995 - 1997年/3回とも曲目は小山の十八番・チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1)らが招かれた。

小惑星の「5023 朝比奈」は朝比奈隆にちなんで名付けられた。

l  著書[編集]

『楽は堂に満ちて:私の履歴書日本経済新聞社1978年/中公文庫、1995

『朝比奈隆 音楽談義』(小石忠男との共著)芸術現代社、1978

『朝比奈隆 わが回想』(聞き手矢野暢)、中央公論社中公新書〉、1985年/徳間文庫2002

『朝比奈隆 ベートーヴェンの交響曲を語る』音楽之友社1990年/中公文庫2020年(東条碩夫編)

『この響きの中に:私の音楽・酒・人生』実業之日本社2000

『指揮者の仕事:朝比奈隆の交響楽談』実業之日本社、2002年、ほか[21]

テレビドラマ出演[編集]

日立テレビシティ『昭和ラプソディ』(1985年、TBS 特別出演

脚注[編集]

注釈・出典[編集]

1.    ^ 経歴については 『大日本実業家名鑑. 上巻』(国立国会図書館デジタル化資料)

2.    ^ 『私の履歴書:文化人』第13巻(日本経済新聞社、1984年)p.17

3.    ^ 朝比奈隆の一生~誕生から高校まで~ 京都大学交響楽団

4.    ^ 隆の生まれた頃林之助は北越鉄道で支配人をしており渡邊は取締役会長 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』 東洋電機製造設立時には取締役と社長の関係であった 『日本全国諸会社役員録. 27回』

5.    ^ 『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』p.46

6.    ^ 日本では1942に戦時体制による電力会社統制が実施されるまで電力会社が公営企業も含め各地に乱立していた。また阪急のように電車を運行する私鉄が、副業で自社用発電所・高圧送電線の余力を利用して沿線住民に電力供給するビジネスをする事例も多々あった。

7.    ^ 1902明治35年)生まれ。京都府出身の声楽家、陸軍中尉。当時、陸軍報道部専任の将校として新聞検閲官を兼ね、文化担当の権限を一手に掌握していた。近衛秀麿オットー・クレンペラーヒンデミットに指揮を学び、2004(平成16年)に101歳で指揮台に立ち、「現役の世界最高齢指揮者」として話題を集めた。2008(平成20年)318105歳で死去。

8.    ^ 同演奏のライヴCD(ビクター発売)ライナーノートによる。執筆は宇野功芳

9.    ^ 朝比奈はストコフスキーが亡くなった年齢・95歳を意識していたが、ストコフスキーが公開の演奏会に出演したのは93歳までであり、以降の活動はレコーディングに専念している。大阪フィルハーモニー交響楽団は、20141122日・24日の「第483回定期演奏会」においてその時948ヶ月のヘルムート・ヴィンシャーマンの指揮でバッハマタイ受難曲を演奏している。

10. ^ 他にもゆかりの指揮者の指揮で献奏があった。

11. ^ 『朝日新聞』197646日(東京本社発行)朝刊、p.22

12. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 5版』、株式会社三省堂、2009年 28頁。

13. ^ 『楽は堂に満ちて』所収「師と弟子」pp.161-162

14. ^ 『楽は堂に満ちて』p.97

15. ^ 林は報道で「朝比奈隆に師事」と表現されることもあるが、岩野裕一著『王道楽土の交響楽』での林自身の談話として、朝比奈の「通訳や身の回りの世話」を担当していたというのが本当のところである。もっとも、続いて「押し掛けるような形で弟子になったのです」とも言っている。

16. ^ 『楽は堂に満ちて』所収「師と弟子」pp.162

17. ^ 報道や各種評論では251回とされることが多いが、大阪フィルハーモニー協会が2010(平成22年)に発行した『大阪フィルハーモニー交響楽団 ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付」演奏記録(1948年〜2009年)』では、大阪フィル・その他楽団合わせて247回と書かれている(大阪フィル分についてはこの他に第4楽章のみが6回ある)。演奏の中には12回公演、同一プログラムを2日間行った、等がある。

18. ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター

19. ^ 朝比奈が京都帝国大学法学部に入学した1928年(昭和3年)4月に、河上は同経済学部を辞職している。河上が京都を離れたのは1930年(昭和5年)であり、1929(昭和4年)に第三高等学校(現:京都大学大学院人間・環境学研究科、総合人間学部)に入学した日野原重明が京都大学の河上の授業にもぐり込んで聞いたと述懐した記録もある(「京大広報」710, 2015.4)。

20. ^ 実際はこれに対して朝比奈千足の応答などが若干あるので、厳密さで注意は要る(時期も2001年(平成13年)12月上旬頃とした記事もある)。

21. ^ Webcatをもとにした親本の情報による。

 

 

 

 


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