至高の指揮者たち 音楽之友社 2022.2.13.
2022.2.13. 至高の指揮者たち 20~21世紀の名指揮者が語る音楽と指揮芸術
著者
発行日 2020.12.1. 発行
発行所 音楽之友社
20世紀の巨匠たち
第1章 時代を築いた名指揮者 19世紀末~第2次大戦 山崎浩太郎
19世紀中ごろまでは「作曲家=演奏家」で、分化して指揮者が生まれたのはハンス・フォンビューローから
ビューロー(1830~94)は、リストにピアニストとしての才能を認められ、1857年にはリストのロ短調の《ピアノ・ソナタ》の初演を任され、その年師の娘コージマと結婚。同時にワーグナーに心酔して師事し、その楽劇の指揮者として頭角を現すが、ワ-グナーとコージマの不倫により離婚。1875年アメリカツアーでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の世界初演を行い、作曲家から献呈されている
1880年、世界最高級の水準を持つマイニンゲン宮廷音楽団の指揮者に任命され、指揮者としての名声を決定づける――ヨーロッパ各地で客演を行い、82年のベルリンでの演奏が評価されて、その年設立のベルリン・フィルの首席指揮者に招かれる
以後、ワーグナー以外のドイツ交響音楽の守護者、再現芸術家として活躍
ビューローに続く世代の優秀な専業指揮者もワーグナーのもとから育った
ハンス・リヒター(1843~1916)はハンガリー生まれ。バイロイトの第1回で《ニーベルングの指環》の世界初演を指揮。ウィーン・フィルとも1875~98年の22シーズンの定期を全て振る
アントン・ザイドル(1850~98)、フェリックス・モットル(1856~1911)、ヘルマン・レヴィ(1839~1900)もワーグナーに心酔し、その薫陶を受けてバイロイトで活躍
作曲家と指揮者を兼務した巨匠では、マーラー(1860~1911)とリヒャルト・シュトラウス(1864~1948)が双璧。マーラーは生前は指揮者としての評価が高く、作曲は専ら夏期休暇の時期に集中
シュトラウスの方が、指揮と作曲両面で華やかな名声に包まれるが、自作のオーケストラ曲は自身で初演を指揮していたが、オペラは他人に初演を任せていた――もっとも信頼していたのはエルンスト・フォン・シューフ(1846~1914)。オペラが複雑化して片手間の指揮では間に合わなくなってきて、専業指揮者の登場に繋がる
作曲家にとって、著作権管理のシステムが整備され、旧作から安定した収入が得られるようになって、あくせく演奏する必要がなくなったことも影響
専業指揮者として人気を誇ったのがアルトゥール・ニキシュ(1855~1922)、フェリックス・ワインガルトナー(1863~1942)、ウィレム・メンゲルベルク(1871~1951)
ニキシュは草分け的存在で、1913年初めてベートーヴェンの《運命》で、交響曲の全曲を録音したのは特筆に値。その配下にピエール・モントゥー(1875~1964)、トーマス・ビーチャム(1879~1961)、アルバート・コーツ(1882~1953)、エイドリアン・ボールト(1889~1983)、ヴァーツラフ・ターリヒ(1883~1961)などがいる
ワインガルトナーはリストの薫陶を受け、マーラーの後任としてウィーンを仕切り、ベートーヴェンの交響曲の権威として高名
メンゲルベルクは若干24歳で第2代の首席指揮者としてコンセルトヘボウを率い、長期にわたり信頼関係を築き互いに成長して国際的名声を得た最初期の例
イギリスでは工業化が進みレコード産業が発展、世界最大の消費地となりプロを呼び込む
チャールズ・ハレ(1819~95)がドイツから移住して、1858年マンチェスターにイギリス初となるハレ管弦楽団を設立
パリでも指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838~1910)のコンセール・コロンヌ(1873年創立)や、シャルル・ラムルー(1834~99)のコンセール・ラムルー(1881年創立)
イギリス出身の指揮者の草分けヘンリー・ウッド(1869~1944)のクイーンズ・ホール管弦楽団は、安い入場料で大衆が気軽に楽しめる「プロムナード・コンサート」で通称「プロムス」と呼ばれる
指揮者や管弦楽団による拘束を嫌った楽員が独立して自主運営のオーケストラを立ち上げた時につけのが都市名のオーケストラ
富豪の家に生まれて独自のオーケストラを持ったのがトーマス・ビーチャム。その後後輩のマルコム・サージェント(1895~1967)の仲介で別の富豪と1932年立ち上げたのがロンドン・フィル
1922年には国営ラジオが放送を開始、BBCも独自の交響楽団を創設、初代指揮者にエイドリアン・ボールトが就任
アメリカでは、19世紀半ばになって漸く芸術音楽の分野が活気づき、都市ごとに市民社会が立ち上がってオーケストラの主体性を前面に出した民営の交響楽団が設立されていく
ニューヨーク(1842年)を皮切りに、ボストン(1881)、シカゴ(1891)、ピッツバーグ(1895)、フィラデルフィア(1900)、シアトル(1903)、ミネソタ(1903)、サンフランシスコ(1911)、デトロイト(1914)、 クリーヴランド(1918)、ロサンザルス(1919)、ワシントン・ナショナル(1931)――いずれも2代目、3代目にヨーロッパから招いたシェフによって急激に発展。その最初の例がレオポルド・ストコフスキー(1882~1977)で、30歳でフィラデルフィアに招かれ、全米随一のトップ・オーケストラに育て上げ四半世紀にわたって黄金時代を築くが、重要なのはレコードや映画など20世紀に大発展した新しいメディアの力を効果的に活用する先見性を持っていたこと
レコードの録音歴は1917年に始まるが、8年後にラジオ放送の技術を応用した電気録音が実用化されると、大編成のオーケストラの響きの再現度が高まり一気に本格化する
ニューヨーク、フィラデルフィアと並んでトプ・スリーと言われたのがボストン。1881年の創立からニキシュやカール・ムック(1859~1940)、マックス・フィードラー(1859~1939)などドイツ語圏から首席指揮者を招聘していたが、世界大戦と共に友軍のフランス色が強くなり、1919年ピエール・モントゥーに次いで1924年にはロシア系ユダヤ人のセルゲイ・クーセヴィツキ―(1874~1951)が革命後に亡命していたパリから来て、ラヴェルやバルトークなど同時代の作曲家を支援して後世に名曲を残させる一方、タングルウッド音楽祭を始めて若手を育てるなどオーケストラの発展に尽力
イタリアの音楽活動の中心はオペラで、早くから作曲家と指揮者の分離が起き、両者の信頼関係は厚い――スカラ座の指揮者アンジェロ・マリアーニ(1821~73)、フランコ・ファッチョ(1840~91)、ローマのレオポルド・ムニョーネ(1858~1941)、20世紀前半にはトゥリオ・セラフィン(1878~1968)、ヴィットリオ・グイ(1885~1975)、ヴィクトル・デ・サバタ(1892~1967)らがいる
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867~1957)は別格。1892年のミラノを皮切りに頭角を現し、オペラを娯楽から真の芸術へと高めた。戦間期にはニューヨークに迎えられ、非ドイツ語圏の指揮者として初めてバイロイトにも登場
ベルリンでの歓迎宴で当代一流のすごい顔触れが揃う――ベルリン市立歌劇場のブルーノ・ワルター(1876~1962)、ベルリン国立歌劇場(リンデン・オーパー)のエーリヒ・クライバー(1890~1956)、第2国立歌劇場(クロール・オーパー)のオットー・クレンペラー(1885~1973)、ベルリン・フィルの首席フルトヴェングラー(1886~1954)
ワルターはマーラーの愛弟子
クライバーは、1923年に33歳の若さでリンデン・オーパーの音楽監督に就任
クレンペラーは、兄弟子のオスカー・フリート(1871~1941)を通じてマーラーの知遇を得て、共にその交響曲の使徒でもあった
マーラーを先駆者として敬愛するウィーン楽派には、フリッツ・シュティードリー(1883~1968)、クラウス・プリングスハイム(1883~1972)、ヘルマン・シェルヘン(1891~1966)、ディミトリ・ミトロプーロス(1896~1960)、ヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898~1973)、ウィリアム・スタインバーグ(1899~1978)など
ベルリン・フィルは、音楽活動の中心に歌劇場があるドイツ語圏では特殊な存在。1882年ベンヤミン・ビルゼ(1816~1902)主宰の楽員が待遇への不満から独立して自主運営のオーケストラを結成したもの。音楽代理店ヘルマン・ヴォルフの支援で成長
大恐慌を機に、ナチスの台頭、反ユダヤ主義の蔓延からワルター、クライバー、フリート、クレンペラーたちは亡命
1936年、ニューヨーク・フィルを離れたトスカニーニは後任にフルトヴェングラーを指名したが、ナチスがベルリン国立歌劇場の監督に就任するという誤報を流して妨害、代わりにジョン・バルビローリ(1899~1970)が就任したが、トスカニーニの後で人気は下がる。CBSで成功したトスカニーニに目をつけたのがライヴァルのNBCで、彼のために放送専用のオーケストラを用意して、系列レーベルのRCAビクターから大量のレコードが発売され、戦時中もラジオ演奏を続けた
1942年、ドイツの放送局が開発した磁気テープ録音は、録音芸術を激変させる新技術
l 【インタビュー】レオポルド・ストコフスキー 1965年来日時 志鳥栄八郎&若林駿介
作曲家の意図を理解することは大切だが、それぞれの楽器のことがはっきりと理解できるようになって初めて、本当の指揮をすることができる
聴き手にとって理想的なオーケストラの楽器配置は、ステージの音がよく混ざり合って到着すること。フィラデルフィアに移って、楽器配置を変えた(ヴァイオリンを左にまとめ、右に行くにしたがって低音の楽器を並べる)
l シュレーヤー、フルトヴェングラーを語る 1974年来日時 宇野功芳
シュレーヤーは、1934~49年ベルリン・フィルのヴィオラ奏者
フルトヴェングラーの指揮は主観的というより、催眠的というべきでしょうか。楽員を催眠術にかけてオーケストラの能力をさらに引き出す趣があった
第2章 時代を築いた名指揮者 第2次大戦~20世紀後半 山崎浩太郎
20世紀中期の音楽家は、1つのレーベルと専属契約し、そこで長く活動するのが通例
現代のレコードの真の元祖は、ドイツ系移民のアメリカ人エミール・ベルリナー(1851~1929)が開発した円盤型録音機グラモフォン――SPレコードの原型
ベルリナーは1895年、グラモフォンの製造販売会社ベルリナー・グラモフォンをアメリカに設立――後のビクター・トーキングマシンを経てRCAに
1897年発足のイギリス支社が、HMVを経てEMIに
1898年、EMIが設立したドイツ支社がドイツ・グラモフォンDG
1888年、アメリカにコロンビア・フォのグラフ設立。CBSの大元になる
1929年、イギリスでデッカ社設立。第2次大戦後急成長してEMIのライヴァルとなる
1948年、コロンビアがLPを開発、ハイファイ(高忠実度)の音質で発展を助け、1958年にはステレオLPのフォーマットが統一され、レコード録音の黄金時代を迎える
1930年代のイギリスでは、ビーチャム&ロンドン・フィル、ボールト&BBC響の組み合わせに加えて、フリッツ・ブッシュ(1890~1951)がグラインドボーン音楽祭のアンサンブルを指揮してモーツァルトのダ・ポンテ・オペラ3部作全曲を録音
ブッシュがナチズムを嫌悪して去った後のドレスデンを引き継いだのがカール・ベーム(1894~1981)であり、ウィーンでシャルクの後任となったのがクレメンス・クラウス(1893~1954)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89)を発掘したのは、EMIの俊英プロデューサーのウォルター・レッグ(1906~79)で、非ナチ化裁判で演奏禁止処分の解ける前からウィーン・フィルとの録音を開始。レッグ自身のオーケストラであるフィルハーモニア管弦楽団をカラヤンに指揮させて録音
カラヤンが各地で活躍するようになって、フィルハーモニア管弦楽団の後任となったのが不遇をかこっていたオットー・クレンペラーで、70歳を過ぎてから黄金時代を築く
EMIのフランスでの第2次大戦後の活動を支えたのが、パリ音楽院管弦楽団のアンドレ・クリュイタンス(1905~67)
戦後EMIのライヴァルに成長したのがデッカで、1929年設立後、大戦中に潜水艦探知のためのソナー用に開発されたハイファイ録音技術を開発して高音質を武器に音楽家との契約を増やす――エルネスト・アンセルメ(1883~1969)率いるスイス・ロマンド管弦楽団のレコーディングを開始したことが転機となり、カール・ミュンヒンガー(1915~90)と敗戦直後に設立したシュトゥットガルト室内管弦楽団が看板となる
バロックなどをレパートリーとする室内オーケストラは、ドイツではピアニストのエドヴィン・フィッシャー(1886~1960)の室内管弦楽団が戦前にもあったが、支持が広まったのは戦後になってから
さらに片面20~30分の連続再生が可能なLPが登場し、ウィーン・フィルとの専属契約を獲得したことから、戦後最高のワーグナー指揮者と讃えられたハンス・クナッパーツブッシュ(1888から1965)、リヒャルト・シュトラウスの愛弟子クレメンス・クラウス(1893~1954)、ベーム、ヨーゼフ・クリップス(1902~74)、スイスに亡命していたカール・シューリヒト(1880~1967)、ウィリー・ボスコフスキー(1909~91)などと組み合わせてステレオ録音に注力。同社のドイツ支社がテルデックで、このレーベルを代表するのがヨーゼフ・カイベルト(1908~68)だが、バイエルンで指揮中に急逝。57年前のモットルの急逝事件の再現
1956年、デッカはRCAと提携して傘下のアーティストの交流を図ったことがカラヤン獲得のきっかけにもなったが、ワーグナーの楽劇だけはプロデューサーのカルショウがゲオルク・ショルティ(1912~97)と決めていたので除外された
他にこの時期ウィーン・フィルと録音した指揮者には、ハンス・シュミット=イッセルシュテット(1900~73)、イシュトヴァン・ケルテス(1929~73)、ロリン・マゼール(1930~2014)などがいる
1960年代になるとDGが世界に雄飛。初期に活躍したのはオイゲン・ヨッフム(1902~87)、フェレンツ・フリッチャイ(1914~63)。ドイツでは戦後各地域の放送局が交響楽団を設立し大きな存在感を発揮したが、その録音を担ったのがDG。東欧のレコード会社とも協力、東独のフランツ・コンヴィチュニー(1901~62)、ソ連のエフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~88)を生む
DGの世界レーベル化の第1歩は、1959年のカラヤン&ベルリン・フィルの録音開始
ラファエル・クーベリック(1914~96)&バイエルン放響もDGの看板
アメリカのレーベルはRCAで、看板はトスカニーニ&NBC
「楽譜に忠実」というトスカニーニのスローガンがアメリカで強調されたのも、伝統よりも合理性と力強さを求める国民性に合っていたからだろう。アメリカのオーケストラは30年代以降、ヴィブラートを強めにかけ、弦楽器の弦をより強靭で安定性の高いスチール弦にして、輝きと大音量と重量感を求める傾向が強まった。これは戦後にヨーロッパに伝播
その中でトスカニーニの真の魅力であったはずの生命力の強さが、硬質で余裕のない、性急な演奏に取り違えられることが増えていったのは不幸なこと
80を過ぎた1948年あたりから、トスカニーニの音楽は加齢の影響で、硬直したものになっていく。皮肉なことに、その頃から磁気テープ録音とLPが登場して音質が向上、そのため、老いた晩年の演奏で判断されることが増えてしまったのだ
トスカニーニは1954年引退。自らの後継者として期待を寄せたのがグイード・カンテッリ(1920~56)。ミラノ・スカラ座の音楽監督就任も決まっていたが航空機事故で早逝
ステレオ時代のRCAで活躍したのはシャルル・ミュンシュ(1891~1968)、ハンガリー出身のフリッツ・ライナー(1888~1963)
クーセヴィツキーの後任としてボストン響の首席となったミュンシュは豪快華麗な音楽で人気を博し、低迷気味のシカゴ響の音楽監督になったライナーは厳しい指導で建て直した
1962年ボストン響を継いだのがウィーン生まれのエーリヒ・ラインスドルフ(1912~93)、シカゴ響を継いだのがジャン・マルティノン(1910~76)だが、何れも前任が偉大過ぎて盛り上がりを欠いた結果に
1940年代の米コロンビアの柱となり得るオーケストラは、ニューヨーク・フィルだけ
1943年、ニューヨーク・フィルの首席に就任したのがアルトゥール・ロジンスキ(1892~1958)で、33年から10年間クリーヴランド管を厳しい指導で水準を高めた実績を基にした就任だったが、理事会と衝突して4年で辞任、その後2年はブルーノ・ワルターが振る
コロンビアがユージン・オーマンディ(1899~1985)のフィラデルフィア管をRCAから引き抜き、クリーヴランドに次いでレーベル急伸の原動力となる
クリーヴランドを全米ビッグ5の一角に押し上げたのは、ロジンスキーを継いだハンガリー出身のジョージ・セル(1897~1970)だが、1970年の日本からの帰国直後に急逝
1951年、ニューヨーク・フィルを継いだのはミトロプーロスだが柔和な性格が災い。黄金時代を築いたのはその後のレナード・バーンスタイン(1918~90)。ボストン生まれで、クーセヴィツキ―の愛弟子。1943年、ロジンスキのもとでニューヨーク・フィルの副指揮者の時、急病のワルターに代わって定期の指揮を引き受け、一夜にしてスターとなった。作曲の才もあり、交響曲のほかブロードウェイ・ミュージカルも書き、50年代にはテレビ番組でクラシックの魅力を語るホスト役としても活躍
1957年、ミュージカル《ウェスト・サイド・ストーリー》の初演直後にニューヨーク・フィルの首席に就任、テレビを通じて存在を誇示、コロンビアと20年の専属契約、大量の録音が生まれたが、特にマーラーの交響曲全集は、漸く作曲家として広く評価されつつあったマーラーの知名度と人気を決定的にする役割を果たす
l 【対談】クナッパーツブッシュの悲報 1965.12. 大町陽一郎x野村光一
バイロイトでは神様のように崇められている
ワーグナーの作品を演奏するために生まれてきたような人
ワーグナーの孫たちの新演出が嫌いで、舞台と無関係に、「俺は俺の音楽だけをやる」と言っていた
l 【インタビュー】カール・ベーム 1974.8. ザルツブルクにて80歳の誕生日を迎えて
モーツァルトは短命だった代わりに、”永遠性”を手に入れました。彼の精神は音楽、手紙などから、今なお私たちに語りかけてくるからです。私にとってモーツァルトは、全世紀を通して一番偉大な音楽の天才なのです
1963年、ベルリン・ドイツ・オペラと共に初来日。日生劇場の杮落し。《フィデリオ》
日本にはヨーロッパやその他の国にはないEhrfurcht(畏敬)という言葉がある。これはドイツご独特の言葉で、英語にも翻訳しようがないもので、先人が学んだこと、成し遂げたことを承認し、これらを学ぼうとする意志を持っていることを意味する。日本ではこれがあるから、古い伝統や年長者を敬う気持ちが、我々ヨーロッパ人より強い。ドイツでは残念ながら失われてしまっている。私たちが数百年かかって発展させてきたものを、信じられないくらい速く、数十年のうちに追いついてしまった。音楽的にも非常な才能がある
l 【インタビュー】オイゲン・ヨッフム 1982 藤田由之
20世紀ドイツの”いぶし銀”の巨匠。ブルックナー解釈の権威であり、キール・ハンブルク・マンハイム・デュースブルクなどの歌劇場のカペルマイスターを務めながら、バイエルン放送響、バンベルク響などのオーケストラのシェフとしても鳴らした。日本にもしばしば来演、そのブルックナー解釈は今なお新しい
フルトヴェングラーを個人的に知るようになったのはアカデミーで勉強していた最初の年のことで、彼から非常に多くのものを学び取った
《田園交響曲》は、ベートーヴェンが楽譜に記した指示や記号といった点から見ても非常に興味深い作品――現実にちょうど良いと思われる強さや速さと多くの場合一致していないのは多くの音楽家が同意しているが、それはベートーヴェンが第2番を作曲していたころから耳が聞こえず、常に自分の内なる声だけを聴き続けてきた人にはすでに現実の音とのコンタクトが失われてしまっていたためで、どのくらいの音量を出すためには強弱記号をいくつ書けばよいのかということも分からなくなっていた
ブルックナーの演奏では、複雑な版の問題がある――当時の楽譜編纂者のシャルクが、ブラームス/ワーグナー論争の真っただ中にあって「ブルックナーの作品もまた、ワーグナー的な音色や楽器編成でなくてはならない」と書き換えてしまったため、初版となったシャルク版にはところどころ全くブルックナー的でないところが見受けられるため、今日ではこれを使って演奏する人はいない。1932年、ロベルト・ハースが中心となってシャルクの恣意的な改変を取り除きオリジナルに忠実な版を作るための校訂を行ないハース版として演奏されたが、さらにブルックナーの決定版ともいうべきノヴァーク版に至る。ノヴァーク版では、オルガンの前に座るブルックナーの姿が見え、オルガン的響きが伝わってくる
ブルックナーを演奏するにはテクニックの上ではそれほど難しくはありませんし、宗教的に何かが要求されるわけでもありません。大切なのは、彼の音楽の様式なのです
l 【インタビュー】ヘルベルト・フォン・カラヤン
「帝王」の名をほしいままに、戦後の音楽界を牛耳ったカラヤン。ベルリン、ウィーンの楽壇の中心にあり続け、ザルツブルク音楽祭や自ら創設した復活祭音楽祭(ザルツブルク)では指揮のみならず、演出も手掛けるなど八面六臂の活躍を見せた。絶頂期の1970年代に『音楽の友』誌に掲載されたインタビュー(西独『シュピーゲル』誌特約)
私は自分自身に常に厳しかった。少なくとも20年間の修行時代を送り今でもなお修行の連続。しかしこの世では誰とも自分の人生を交換したいとは思わない
子供の時に25mから落ちて脊椎を損傷したのが原因で、3年前に大手術を受け対麻痺にならずに済んだ
現在後継者として長期にわたってベルリンで指揮させたいと思っているのは、ズービン・メータ、小澤、クラウス・テンシュテットの3人
仕事や努力の結果得られた音楽には金がかかっている。「質の高いもの」にはまさしく金がかかっているので、それは支払われねばならない。私の音楽を聴きに来る人々は、そのことを理解していて、真の意味でのファミリーだ。今日人々が日々の生活で失っているものをシンフォニックな音楽の中に見出すので、自分の精神の貧困の中でもがいてみても何をも生み出さないが、内面的に高揚するものと関わり合えば真に得るものがある
l 【インタビュー】ヨゼフ・カイベルト 1965.12.28. 高輪プリンスにて 大塚明
音楽一家に生まれ、10年間カールスルーエで下積みから音楽監督まで経験
第2次大戦中プラハのドイツ・フィルの指揮者で終戦まで過ごしたが、戦禍から奇跡的に免れいい思い出が多い
ベートーヴェンは心に把みかかってくる音楽で、信仰の対象に近いもの
l 【インタビュー】セルジュ・チェリビダッケ 『ハイ・フィデリティ』誌特約
日本贔屓で録音嫌い。ミュンヘン・フィルやシュトゥットガルト放送響を率いて何度となく来日、その「禅問答」の答えのような語り口の奥にある音楽哲学は、どこまでも深い
録音された音楽の一体どこに真実があるというのだ
音響効果というのは、テンポの決定においても、生きた機能を果たしている。ホールの残響によってテンポが決まるが、録音されたものは、録音が行われた音響効果を持つ場では聴かれない
カラヤンがブラック・リストに載せた3人が、チェリビダッケ、バーンスタイン、カルロス・クライバー
チェリビダッケの要求するリハーサルの時間数は、オーケストラのマネジャーをして顔色なからしむるほどで、1回のコンサートにつき十数回のリハーサルが当たり前で、優秀なオーケストラほど多くの可能性があるので多くのリハーサルが必要
音楽を理解し、音符と音楽を見分けることのできる新しい指揮者は一人もいない。みな音符を追い求めるだけで、音符は実体を伝達するための媒介物に過ぎず、実体は音符の中にあるわけではなく、媒介物を通じて具体化される
クナッパーツブッシュのゆったりしたテンポは、徹頭徹尾非音楽的で、垂直的圧力と水平的流れとの関係に全く鈍感
l 【インタビュー】エーリヒ・ラインスドルフ 1965年来日時 村田武雄
ボストン響の黄金時代を築いたミュンシュの後任として常任となり、レパートリー、オーケストラ、楽員との接し方など、前時代とはかなり変化
日米交響楽団の交流親善の準備工作のため来日。ボストン響と日フィルとの楽員の相互交換により、技術並びに精神の交流を図る
ワルターとトスカニーニに認められて指揮者として才能を発揮、両者からの影響を強く受けたが、トスカニーニからは、明晰でありながら、劇的性格を失わないという2つの矛盾を孕んだ音楽、ワルターからはその宗教性、精神性の深さを学んだ
ミュンシュはボストン響を甘やかし過ぎたと厳しい評価
l 【インタビュー】マリア・カルロ・ジュリーニ
イタリアの名匠は、レパートリーを絞り、特にベートーヴェンの交響曲を絶対重視していながら、15年も《運命》を指揮しなかった。このインタビューを通じて、同作品に対するジュリーニ独自の視点や深い解釈を知ることができるばかりか、その人間性、幅広い音楽観まで窺うことができる
1981年10月、ジュリーニとロサンゼルス・フィルは15年ぶりに《運命》を演奏
第1楽章の荒々しい冒頭部のすぐ後ろに細かな速い音符が続くところに、自分の理解の及ばない矛盾があるように思えて演奏をやめていたが、原点に戻って手稿譜を研究したところ、いかに深く考え苦闘していたかがわかった。すべてが線で消され、書き直されている。勉強し尽くしたと思って演奏を再開
演奏に慣れっこのオーケストラに対し指揮者が要求したのは、「私は変えたいんだ。違うことをやれというのじゃない・・・・スコアに書いてある通りに演奏して欲しい」の一言
l 【インタビュー】オトマール・スウィトナー 1965.8. バイロイトにて
ザルツブルクのモーツァルテウムでクレメンス・クラウス(ミュンヘン国立歌劇場総監督)に師事。クラウスがリヒャルト・シュトラウスの影響を引継いでいたのでその息吹を継承
ワーグナーの作品は、時代によって非常に違った解釈をすることができると思う。しかし、彼が書き残したものは変わりようがない
l 【インタビュー】ヴォルフガング・サヴァリッシュ
サヴァリッシュの指揮でバイエルン国立歌劇場では1989年11月に《指環》全曲上演。過去何度も上演しているが、89年の公演は、NHKがハイヴィジョン収録した
ワーグナーは私たちの前に《指環》という鏡を立てた。登場人物のあらゆる行動の中に、我々は自分自身を認めざるを得ず、《指環》は、我々が共に考え、内省することを強要する
ワーグナーの13の舞台作品の中で《指環》は別格。「ライトモティーフの技法」が究極の法則にまで高められ、どのモティーフにも有名な名前が付けられている
l 【インタビュー】ベルナルド・ハイティンク 1974.5.8.来日 高橋昭
コンセルトヘボウ管弦楽団、ロンドン・フィルはそれぞれ違った個性を持っているが、私自身の個性に基づいて指揮するわけなので、様式や音質などの点で共通のものも出てくる
l 【エッセイ】カルロス・クライバー 野村三郎
世に知られる「クライバーグラム」は、クライバー直筆の演奏上の指示などの書かれた、プローベで彼自身が直接オーケストラ団員に渡していたメモで、単なる演奏上の指示に留まらず、クライバーが団員と心を通わせる1つの媒介であり、クライバーの奇跡の演奏の秘密が隠されている――有名人のサインを「アオトグラム」というのをもじって呼ばれた
その中の一例。「ここは正しくはアインザッツではなく、第1ヴァイオリンが強くなるのを待って、そして入るのです」(《ばらの騎士》の第3幕、ヴィオラに対する指示)
l 【インタビュー】ロリン・マゼール 1978年 クリーヴランド管と来日 藤田由之
オリヴィエ・メシアンの70歳のお祝いを兼ねた来日公演
フランス国立管と兼務しているのは、自分の耳に対する挑戦
オペラとコンサートの指揮は別の仕事。技術的にも、音楽を作り出す上でも違ったもの
指揮者にとって最も大切な要素は、ミュージシャンシップ。よい音楽家であること。指揮者になる条件は、よい耳、極めて優れた記憶力、幅広い音楽の知識、楽譜を書けること、そして、何かの楽器をよく演奏できること
第3章 時代を築いた名指揮者 20世紀後半(1960年代)~現代 山田治生
カラヤン&ベルリン・フィル、アンセルメ&スイス・ロマンド管、バルビローリ&ハレ管、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル、オーマンディ&フィラデルフィア、セル&クリーヴランドなど、巨匠が1つのオーケストラとともに自らの芸術を作り上げる時代
ハイティンク&コンセルトヘボウ管、、スウィトナー&ベルリン国立歌劇場はこの頃始まる
日本では、朝比奈隆&大フィル
古楽では、アーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスが1950年から活動
カラヤンがウィーン国立歌劇場と兼務していたのは、ポスト兼務の先駆
小澤は1960年夏にラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任、65年にはトロント響の音楽監督に就任、日本人指揮者として初の欧米オーケストラの音楽監督就任
1970年代、アバドがスカラ座の、ムーティがフィルハーモニア管の、プレヴィンがロンドン響の、マズアがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の、サバリッシュがバイエルン州立歌劇場とスイス・ロマンド管の、ブーレーズがニューヨーク・フィルとBBC響の、レヴァインがメトロポリタン歌劇場のシェフとなり世代交代が告げられる
ベームは、特定のオーケストラの音楽監督を務めることはなかったが、ウィーン・フィルとの結びつきが深い
1980年ラトルが25歳の若さでバーミンガム市響の首席に就任し、その後18年に及ぶコンビとなり、デュトワもモントリオール響を20年以上にわたり鍛え上げる
小澤はボストン響の長期安定政権を築き、80年に斎藤秀雄メモリアル・コンサートを指揮
ブリュッヘン、ノリントン、ガーディナーら古楽の旗手たちがピリオド楽器によるオーケストラを組織し、演奏活動を盛んに行う
1989年カラヤン、翌年バーンスタインが亡くなり、カラヤンの後任にはアバドが就任
バレンボイムはベルリン州立歌劇場とシカゴ響を兼務、マゼールはバイエルン放送響でベルリン・フィルに対抗
シノーポリは、フィルハーモニア管とドレスデン・シュターツカペレを兼任したが、2001年演奏中に急逝
デュトワは、2001年からフランス国立管を兼務、96年からはN響の常任も兼務
1988年にはゲルギエフがマリインスキー劇場の芸術監督に就任し、破竹の進撃を続ける
2002年、小澤がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任。同年、ラトルがベルリン・フィルがアバドの後任に就き、人気指揮者の奪い合い(兼務)が始まる
マリス・ヤンソンスはロイヤル・コンセルトヘボウ管とバイエルン放送響を、エッシェンバッハはパリ管とフィラデルフィア管を、マズアはフランス国立管とロンドン・フィルをチョン・ミョンフンはローマ聖チェチーリア音楽院管とフランス国立放送フィルを、ヴェルザー=メストはクリーヴランド管とチューリヒ歌劇場を兼務
日本のオーケストラに世界的な指揮者が定着するようになったのもこの頃――2004年からアシュケナージ(N響)、都響はベルティーニからインバル、読響にはアルブレヒトからスクロヴァチェフスキ
2018年ベルリン・フィルはラトルが退任しペトレンコが就任
新しい世代の指揮者の台頭――ネゼ=セガン(フィラデルフィア管とメトロポリタン歌劇場)、ネルソンス(ボストン響とゲヴァントハウス管)、ドゥダメル(ロサンゼルス・フィル)、ソヒエフ(トゥールーズ・キャピトル管とボリショイ歌劇場)
l 【インタビュー】ギュンター・ヴァント 2000.9.6. ミュンヘンにて 来住千保美
指揮者の解釈を聴いては駄目。音楽そのものを聴いて下さい
ブルックナーは7番で初めて大成功した後、何かが変わって、とても控え目になった
7番でシンバルを使おうとは思わず、譜面には書き込んだが「無効!」と自身が書きつけているのに、指揮者はみなシンバルを使う。7番でシンバルを使わなかったので、8番で2度だけ使うが、指揮者の皆さんは7番で、8番との違いをあまり認識せずにシンバルを使う
8番では、ハープも入れ大きな発展を遂げ、ティンパニを最低音で静かに連打させてオルガンの効果を出す。フルトヴェングラーは、シンバルの前にティンパニを連打させているが、勝手に変えては絶対にいけない。謙虚は指揮者にとって一つの目的で、これがなくては高みには上れない。彼を尊敬はするが、こんな音楽の作り方は憎悪する
l 【インタビュー】ヘルベルト・ブロムシュテット 2017年秋、来日を前にライプツィヒにて 岩下眞好
創立275周年のオーケストラ。世界最古の市民のためのオーケストラ
典型的なドイツのオーケストラで、音色がかなり暗め、ずっしりとした豊かな響き、コントラバスも5弦で、低音の基盤に響きを作るため、さらに低いC音の弦を備えた楽器を用いる。古典的なレパートリーに腰を据えて取り組み、フレーズの作り方に留意
私たちはいつも均質的で純度の高い音を追及(ママ)しています。重なり合っても濁らないような。どんなに強烈な音を出しても、雑な響きにならない。柔らかく、温かく、攻撃的でなく、ゲヴァントハウス管は、そうしたオーケストラです
l 【インタビュー】ニコラウス・アーノンクール 2010年来日時 渡邊順生(チェンバロ・ピアノ奏者、日本古楽器界の第一人者)
古楽器の演奏は1953年から
時を超える音楽、芸術は、私たちの人生にどういう影響を与えるのか、私はそこに興味を持っている
l 【インタビュー】クラウディオ・アバド 1993.8. ドイツ『FOCUS』誌
両親がトスカニーニと交流があって、家での内輪のコンサートで彼の指揮・演奏を聴いた
バーンスタインも家を訪ねてきて
最も尊敬するのはフルトヴェングラー。カラヤンも引き立ててくれたが、晩年ぎくしゃく
カラヤンは独特の個性の持ち主で、彼の後継者など存在しない。当時、ベルリン・フィルは、カラヤンの後継者を探していたわけではなく、新しい指揮者を探していた――新しい刺激、現代音楽とフランス音楽のレパートリーを広げ、その解釈における多様性を求めていた
l 【インタビュー】フランス・ブリュッヘン
20世紀古楽界を牽引、リコーダー奏者、指揮者としても活躍
資料をもとに、バッハやベートーヴェンの”言葉”を学ぶ。モンテヴェルディ→ヴィヴァルディ→バッハ→バッハの息子→ハイドン→ベートーヴェン→→→ワーグナーまで来て逆流
レパートリーはベルリオーズまで。彼以降の作品は、現代のオーケストラが演奏するべきで、ベルリオーズの時代に近代オーケストラが確立したといえる
19世紀には楽器は常に改造されてしまっている――大きな音を楽器に要求するようになったのが原因
l 【インタビュー】シャルル・デュトワ 三光洋
アンセルメは私に貴重な助言を与えてくれたが、指揮の授業を受けたことはない
カラヤンとは、1955年学生オーケストラの第2ヴァイオリンとして彼の指揮のクラスに参加したのが初めて
指揮という仕事に通じるようになるには20年から25年の時間がかかる
l 【インタビュー】リッカルド・ムーティ――ヴェルディの音楽を語る 井内美香
ヴェルディは、若い時にシューベルト、モーツァルト、ハイドンを、さらにベートーヴェンとナポリ派の作曲家、パイジェッロやチマローザなどを勉強しているので、ロマン派のスピリットを持った古典派の音楽家といえる。にも拘らず、ヴェリズモ(イタリアの現実主義)の作曲家として一緒くたにされる
現代は、表面的なスター主義がはびこり、聴衆の前に立つ際の品格に欠ける
オペラの指揮には演劇的センスと知識が必要。かつてのトスカニーニやデ・サーバタ、フルトヴェングラーなどの指揮者には文化があり、劇場や声のことを知り尽くしていたので、「全体のまとめ役」として、すべての指令は指揮台から飛んできたが、今は演出家がすべての人の上にくる主人であり、指揮者には権限がない
今のヴェルディの公演では、下品で悪しき伝統が受け継がれ、歌手が俗悪な歌唱に陥っている――ある種の観客には受けても、文化の産物として捉えられていない
オペラは作曲家のものであり、演奏者は作曲家の忠実なしもべでなければならない
問題は言葉のアーティキュレーション(明瞭な発音の仕方)。ヴェルディ以前のベルカント時代の音の美しさ、歌手の名人的技巧に加えて、それと同程度に重視されるべきもの
ヴェルディはとても先進的、20世紀的で、新しい表現を直感し新しい声の使い方を考えていた――《マクベス》も主人公夫妻に美声を配するのが一般的になっているが、夫婦の悪意や残忍さを表現するために美声など望んでいなかった
ヴェルディのほかに言葉と音楽の関係を密接に捉えた作曲家がモーツァルト
ワーグナーがヴェルディに影響を与えたと言われるが、お互いよく知っていたのは間違いないが、ヴェルディの世界はイタリア文化に根差したものであり続け、イタリア人にとってメロディは根幹をなすものとも言っている。ヴェルディの世界はパレストリーナ(教会音楽の父)に源流があり、メロディのセンスはイタリア人に属すると言い、ドイツ・オペラとは完全に違うと主張し、イタリア音楽から自分のルーツを探せと後輩に伝えている
l 【対談】 ヤンソンスxキュッヒル 2015.12. 来日時
ヤンソンスは、音楽一家の生まれで、10代にレニングラードで音楽教育を受ける
1968年、カラヤンのマスタークラスを受講。その後ウィーンに学び、カラヤンからザルツブルクにアシスタントで呼ばれ、彼の勧めでコンクールに出場して2位となり、レニングラード・フィルでムラヴィンスキーの助手となった
1989年社会主義が崩壊、オスロ・フィルの首席に就任、10年間で様々な経験を積む
複数のオーケストラを指揮していたので、オペラはほとんどやっていない
l 【インタビュー】ヴァレリー・ゲルギエフ 2000年 諸石幸生
オセチア人でコーカサス出身。音楽一家に育ち、19歳でレニングラードへ
私たちは先輩音楽家の表現活動を通じて、過去の作曲家と結ばれている
l 【インタビュー】サイモン・ラトル 2005.11. ベルリンにて 山田真一
2002年ベルリン・フィルの首席兼監督に就任して以来、幾多の名演を聴かせ、教育プログラムや新しレパートリー、デジタルコンサートホールなどの新機軸を打ち出し、成功を収めてきた
新しいものへの挑戦にオーケストラが好意的だったのは驚き
カラヤンは、ベルリン・フィルの一時代を築いた偉大な指揮者だが、オーケストラの能力を高めるとともに、恐怖によってオーケストラを支配していた。私は楽団員とのコミュニケーションと相互理解によって、良い協同作業を行いたい
l 【対談】 ティーレマンxキュッヒル
ティーレマンは、バッハのオルガン音楽に魅せられてオルガニスト志望だったが、20歳ころから指揮を始め、ベルリン・ドイツ・オペラノコレペティトゥーアをした後カラヤンのアシスタントになりザルツブルクにも随行
オペラはいつも古い楽譜で指揮をする
l 【インタビュー】ヤルヴィ家の秘密 濱田滋郎
いま世界の第一線で活躍する「指揮者一家」といえば、エストニア出身のヤルヴィ一家
幅広いレパートリーと、その膨大な数の録音の質の高さで伝説となりつつある、父ネーメ
楽譜と真摯に向き合いながら、誰にも真似できないような新しい解釈で聴衆を唸らせる、兄パーヴォ
世界各地の指揮台に上がる傍ら、クラシックの型にはまり切らないユニークな活動で、音楽の新たな可能性を模索する、弟クリスティアン
エストニアは、人種的にはフィンランドに近いが、歴史的なドイツ、スウェーデン、ロシアからの支配を受け、いろいろな影響を受けて、その中で自分たちの固有の言語と文化をしっかり守り通してきた
ネーメは、エストニア・オペラで30年間音楽監督をし、エストニア交響楽団の指揮者も務めた後、エーテボリ交響楽団の首席になって水準を高めたと定評
ネーメが大切にしてきたのは、自分独自の音楽を作り出すことで、音楽の中に生き生きとした生命力を漲らせることに腐心
指揮者はテクニックがあってもヴィジョンがなければだめ。両方を兼ね備え、楽員とも聴衆ともコミュニケートできる存在でありたい
パーヴォは、最新の校訂版を採りいれて、どのような演奏が可能なのか検証していくという作業が我々の仕事だといい、今回のブレーメンのドイツ・カンマーフィルとの来日でも新しい楽譜の解釈に挑戦したい
クリスティアンは、ニューヨークで亡命生活を送りながらピアノを習い、「アブソリュート・アンサンブル」を結成し、小さな室内アンサンブルながら、現代音楽からバロック、ヒップホップまで何でもOKという、ニューヨークの中ではかなり尖った活動を展開。指揮はロサンゼルスでサロネンの助手を務め、04年からウィーン・トーンキュンストラ―の首席となる。故郷エストニアの音楽、アメリカの音楽、欧州の古典・・・・新しものと古いものを共存させていきたいと語る
第4章 時代を築いた名指揮者 日本の楽壇を支えた指揮者 奥田佳道
軍楽隊で活躍した1860年代生まれの楽長や、1911年名古屋で結成された松坂屋少年音楽隊(東フィルの前身)の隊長もいるが、一般的には山田耕筰(1886~1965)が日本人指揮者第1号。ベルリン王立アカデミー高等音楽院に留学、1914年帰国後、留学の支援者岩崎小弥太の支援を受けつつ指揮者としての活動を開始。自作の交響曲や管弦楽曲を携えてカーネギー・ホールやベルリン・フィルの指揮台にも立つ
日本楽劇協会や近衛秀麿(1898~1973)らと日本交響楽協会を設立、1920年には《新世界より》を、25年には《シェエラザード》を日本初演
1926年、近衛は山田と袂を分かち、新交響楽団(後の日響)を結成、現在のN響で、翌年から予約演奏会を開催。ベルリン・フィルなど欧州での活躍は目覚ましいものがある
斎藤秀雄(1902~74)は、桐朋学園で指導。《シャコンヌ》をオーケストラに編曲した1人として知られる。50年代には東響の指揮者に就任、その後も多くのオーケストラを指揮
上田仁(1904~66)は、’25~42年日響の首席ファゴット奏者の後、46年創設の東宝交響楽団(現東響)の常任に就任、近衛・斎藤らとともに同団の発展に尽くす。現代音楽の紹介、日本初演への情熱はすさまじく、《四季》ほか多くの曲を手掛けた。66年永久名誉指揮者
貴志康一(1909~37)は、ベルリン仕込みで、作曲と指揮で活躍。フルトヴェングラーの薫陶を受け、34年のベルリン・フィル・デビューは喝采に包まれた
尾高尚忠(1911~51)は、ウィーン仕込み。ヨーゼフ・マルクスとフェリックス・ワインガルトナーに学び、’39年にはウィーン・フィルを指揮。’42~51年日響の常任
朝比奈隆(1908~2001)は、モギレフスキーにヴァイオリンを、指揮をメッテルに学び、上海・ハルピンから帰国後、’47年関西交響楽団を結成(‘60年大フィルに改組)。欧米の70近くのオーケストラに客演。96年シカゴ響の定期でのブルックナーの5番は偉業の1つ
同時期に活躍したのが、渡邊暁雄(1919~90)、森正(1921~87)、オペラ・コーラス畑には福永陽一郎(1926~90)
渡邊は、ヴァイオリニストから指揮に転じ、’56年の日フィル創設に関与。母がフィンランド人だったこともあり、シベリウスをライフワークとした。黎明期の日フィルには奥田道明(1927~2009)がいる
フルーティスト出身の森は、N響の正指揮者、イタリア・オペラの日本側音楽監督など
藝大で教えた金子登(1911~87)、札幌響を創設したヴァイオリニスト出身の荒谷正雄(1914~96)もいる
‘30年代生まれは世界を舞台とした最初の世代――外山雄三のウィーン留学、岩城と外山が指揮したN響の世界一周演奏旅行、小澤のブザンソン優勝(‘59)とニューヨーク・フィル副指揮者就任(’61)、若杉のドイツとの縁
‘40年代生まれには、小林研一郎、秋山和慶、井上道義、尾高忠明
'50年代生まれには、久石譲、鈴木雅明、大植英次、広上淳一、大友直人
'60年代生まれでは、大野和士、佐渡裕、飯森範親、下野竜也
‘70年代生まれでは、山田和樹
l 【インタビュー】渡邊暁雄 高柳守雄
近衛に勧められてピアノからヴァイオリンに転向、東京放送管弦楽団で弾く
終戦直後に斎藤秀雄、巌本真理、松浦君代とクワルテットを組み、46年山田の奔走で東京都フィルが創設されると指揮者に転身。56年近衛のアイディアに乗って日フィル創設に音楽監督・常任指揮者で参画。日本人の作品を積極的に取り上げ、黛、矢代、三善、間宮、武満らの代表作が世に出ていく
母校で指揮法を教え、岩城、大町、山本直純、コバ研、三石などを育てる
l 【インタビュー】朝比奈隆 響敏也
カラヤンと同じ1908年生まれで、カラヤンがガラス製の小さな動物を収集していたが、朝比奈も戦後欧州楽壇の常連指揮者として名門楽団を片っ端から渡り歩いた際、名器グラスを買い集めていた。1995年の阪神大震災ですべて割れた
海外で指揮するたびに、使った指揮棒をデータと共に保管して日本に持ち帰り、ガラス花器に活ける
指揮者がどれほどの愛情で作品と向き合っているのか、どれほどの誠意でオーケストラと向き合っているのか、優秀なオケなら、初対面の指揮者の場合でも、最初の5分間で読み取るという。指揮者も指揮台に立って3分以内で、すべての楽員と目を合わすよう心掛ける
l 【インタビュー】大野和士 2002年 モネ劇場監督就任直後 吉田真澄
「2002年、ヘッセン州立歌場モネ劇場へ」(ママ) ⇒ 「2002年、モネ劇場(ブリュッセルにあるベルギー王立歌劇場)音楽監督就任」のことだが、意味不明の表題
現在、新国立劇場オペラ部門芸術監督を務める
'92年から「オペラ・コンチェルタンテ」を始める――21世紀を間近に控え、20世紀の音楽を見直し、今世紀の重要な音楽があまりにも知られていないという懸念から始まったプロジェクトで、ナチに芽を摘まれたユダヤ系音楽や、ブゾーニのオペラ、ペレストロイカで解禁されたショスタコーヴィチの作品、ヴァチカンに睨まれたプロコフィエフの《炎の天使》やヤナーチェク、ブリテンのオペラも漸く最近になって上演されるようになったが、その動きを加速させようというもの。その動きがモネ劇場に認められた結果が監督就任
これからの時代は、オペラを音楽の中に戻すことが必要――あまりにも演出家主体のオペラを華咲かせてしまったことへの反省からで、音楽が空間を支配するようにならないといけない
l 【インタビュー】小澤征爾 2001年 ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの指揮が決まった直後 野村三郎 (編集ミス:目次が大野と入れ違い)
ウィーン・フィル(VPO)のメンバーは、シュトラウスのワルツを深刻に演奏する。苦渋に満ちた彼の人生が反映されている作品だと認識しているから
いま、サイトウ・キネン・オーケストラをウィーン・フィル、ベルリン・フィルのレヴェルまでもっていかないと、そういうものは永久に日本にはできない
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