北帰行  外岡秀俊  2022.2.2.

 

2022.2.2. 北帰行

 

著者 外岡秀俊 1953年札幌市生まれ。道立札幌南高校卒。現在東大法4年生。23歳。本書で昭和51年度文藝賞受賞。現住所・文京区本郷487 伊藤方

 

発行日           1976.12.5. 初版発行          1977.3.30. 10版発行

発行所           河出書房新社

 

初出 『文藝』 昭和5112月号掲載

 

第1章         

啄木に魅せられた20歳を抜け出そうとしている二宮という名の若者が、『一握の砂』の詩集を片手に、夜行列車で盛岡へ向かう

60年前に亡くなった夭折の詩人は、どんな若者よりも平凡で、ありふれた青年であったがゆえに、その生涯に惹きつけられた

明治100年記念式典の行われた年、北海道のU市という炭鉱町の中学を卒業と同時に集団就職で自動車部品工場で働く。5年間暇を見ては図書館で啄木の本を読み漁った

盛岡で下りて、啄木記念館に向かう

啄木の通った当時の盛岡尋常中学は、「盛中ルネサンス」といわれ、啄木はじめ、米内光政、田子一民、板垣征四郎、及川古志郎、野村胡堂、金田一京助など、錚々たる人物を輩出

啄木は渋民村に3度入って出ていった――最初は2歳の寺の子として入り、特権的な家庭の一人息子として、家族の寵愛と村人の阿諛(あゆ)の交じった敬意を受けながら成長し、エリートの道を歩むために村を出る。2度目は病を得た失意の文学少年として入り、禅房の居室で静養しながら優婉華麗な詩作に耽り、第1詩集を刊行するために勇躍上京する。3度目は、生活の窮迫から免れ、同時に父の再住運動を盛り立てるため、月給8円の代用教員として村に入り、ストライキ事件の責を負って免職させられ、北海道に渡るために村を出る

『一握の砂』は、北海道の漂泊を終えて上京した後に作られたもの。551首を収めるが、5章のうち渋民を歌ったのは第2章の『煙』の2だけで、それも54首。ふるさとの歌人と呼ばれる啄木が、わずか54首しかふるさとを歌っていないのは奇妙。しかもその多くが固有名詞に纏わる想い出であり、当時の渋民を知らない者にはイメージを思い描くことは難しい。だが、何かがこの54首に不思議な力を与えて、そこに誰もが自分の故郷を見出すことができるような小宇宙を創りあげている。それまでの漂泊文学が常に都からの転落や歌枕の探勝という雅やかで超俗的な立場からなされたのに対し、流浪する者の目から見た故郷を原点に置いたという意味でも画期的なことだったろう。啄木のふるさとは文人のふるさとではなく、彼の漂泊は人訪わぬ里に庵を結ぶ数寄者の漂泊ではなかった。啄木こそ、現代に至るまで一貫して人々を支配してきた近代のふるさと像を確立した詩人の1人であり、国民詩人の名を冠することができるのもその点においてなのだろう

啄木記念館で見た資料によれば、明治35年と38年の凶作の被害は甚大で、罹災農民の窮状は惨憺を極めたということで、県はこの窮状を打開するために北海道出稼ぎ奨励策をとった。その2年後啄木は渡道、流民の途を辿って北上したのであり、彼自身1人の放浪者以外の何者でもなかったということだ

北海道から東京に戻った啄木は別人のように変わり、ほとんどの作品はその上京後僅か4年のうちに創られている

ふるさとは、故郷から追い出されることの痛みであり、啄木がふるさとの歌人になったのは、生まれながらにして村から拒絶されていたためなのだった

故郷から追われるようにして流れ出た人々は、啄木の歌のドラマが語るように、その甘美な追憶さえ現実によって裏切られ、故郷にも流離の地にも安住することのできない根無し草となって、その痛みをふるさとのイメージで慰めてきたのではかったろうか

啄木のふるさとは啄木の旅に他ならないとわかって、心が明るく弾んだ

 

第2章       

東京から北国の中学に転校してきた少女を愛したことがあった

炭鉱の合理化のための調査で派遣されてきた鉱山技師の娘

いつの間にか彼女が親友と付き合っているのを知ってそれきりになった

授業中に炭鉱の落盤事故の警報が鳴る

志願して組合から離れて保安長になった父が対策を決定するが、生き埋めになった20数人を見殺しにして一旦坑口を封鎖する決定に、裏切り者との罵声が浴びせられ、死を覚悟した志願者を募り救助に向かったために、直後の爆発でさらに11人の死者を増やす

父の事故死で高校進学を諦め、東京に集団就職し、町工場の両で4人の若者と寮生活が始まる。1年半もした頃、啄木に魅せられて歌を詠み始めたのを中の1人が愚弄したため殺し合いになる。自分も指が欠ける怪我を負い、わずかな退職金で解雇される

その時上司から、「お前の歌は人間の命に匹敵するほどのものなのか」といわれ、はっとする

U市に帰ることも出来ず、職を転々としながら飯場で中学の親友に出会う

 

第3章         

親友と2人で函館に帰り、同じ仕事をするが、親友が激務に耐えかねて身体を壊し、都心の親戚に身を寄せることになった時、自分も故郷に戻ることを話すと、昔自分も仄かな愛を感じた札幌にいるらしい恋人への手紙を託される

明治43年の大逆事件は、今では明治政府によるフレームアップというのが通説だが、啄木は、地の底から練り上げられた思想を肉に受けた者が、体躯もろとも捩じ切られようとする思想を、自分の命を護るために守り抜こうと決意する

死後数十年経過していながら啄木像が未だに定着しないのは、抒情詩人としての彼と無政府主義者、社会主義者としての彼が鋭く対立しているからだといわれる

2つの啄木像は、それぞれ歌と批評を表しており、どちらも歩調を合わせながら1つの焦点で重なり合い、再びそこから拡散している

「はたらけど、はたらけど・・・・」で始まる評論『時代閉塞の現状』で1度だけ2つの像は重なり合い、光は1つの焦点に収束した

啄木が大逆事件に異常なまでの関心を抱いてその真相を究明したのは、彼が1人のジャーナリストであったためというばかりではなく、詩人であったからこそ、国家の犯罪を糾明せずにはいられなかったのではないか。言葉と行為の距離を見詰め続けない表現が、忽ちのうちに腐蝕していくという冷厳な事実を、大逆事件は突き付けていた

彼は歌が気取りでしかないことを宣告され、その肉体による意思表示に対して、言葉によって語ることのできる最後の一線に立ちながら、敢えて歌で応えようとする

そう書いた翌年彼は殪(たお)れる。もう彼に歌はなかった。もし生き延びたとしても、歌うことはできなかっただろう。啄木は病死ではなく、敵に身体を投げつけて死んだ

札幌に戻って親友の恋人を探し当て手紙を渡す。彼女はすっかり大人っぽくなって、次の日啄木の旅を辿って小樽に行くというと一緒について来て、子供ができると打ち明けられ、親友にはもう会わないと伝言を頼まれる

釧路まで啄木の旅を辿り、啄木の抒情と訣別して自分なりの道を歩みなおそうと決心、詩集を焼き捨てたが、啄木の抒情は、歌集を焼き捨てるという象徴的な行為を既に内に含んでいた

 

 

 

アサヒファミリークラブ 「地域を知る1冊」

VOL.2 登場する地域:U市(夕張)、函館市、札幌市、小樽市、釧路市

『北帰行』外岡 秀俊(河出書房新社)

 「U市は札幌から二時間汽車に揺られ、そこから私鉄に乗り継いで三十分ほどの距離にある小さな都市で、世帯のほとんどが何らかの形でU炭鉱に関わっている」。主人公は炭鉱の事故によって父を亡くし、中学を卒業後U市を出て集団就職により上京する。貧困ゆえの都会での生活、職場の人間関係の苦悶、いさかい、幼なじみとの再会、、、そして恋。5年の歳月を経て彼は故郷に戻ることになる。

 これまでを回想し、あらためて自分を見つけるための「北帰行」。石川啄木の作品と自らを重ね合わせその足跡をたどる岩手、青函連絡船、函館と、情景のイメージがふくらむ。

 1976年第13回「文藝賞」を受賞したのは、札幌出身の著者が東京大学在学中のことである。骨太な構成のなかに繊細さが印象的なのは、現実を見据える批判性と、短歌などをとおして自問自答する叙情性によるからだろう。社会のありようを捉えて思考する青年の描写に、後の新聞記者としての片鱗が覗く。

 著者は現在、朝日新聞社を退職しフリーのジャーナリストとして活躍。中原清一郎名で文筆を再開している。

 新装版の表紙イラストは、当時の国鉄車両の硬い椅子が懐かしい。座席にはぽつんと本が一冊。旅は続いている。

成田康子(北海道札幌南高等学校司書)

 

 

Wikipedia

石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886明治19年)220 - 1912(明治45年)413)は、日本歌人詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。

生涯[編集]

出生から盛岡時代・上京[編集]

岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれる[1]。出生当時、父の一禎が僧侶という身分上、戸籍上の婚姻をしなかったため、母の私生児として届けられ、母の姓である工藤一(くどうはじめ)が本名だった[2]。戸籍によると1886年(明治19年)220日の誕生だが、啄木が詩稿ノート『黄草集』に「明治十九年二月二十日生(十八年旧九月二十日)」と記した括弧書きを天保暦の日付とみてこれを太陽暦に換算した1885(明治18年)1027に生まれたとする見解もある[3]

二人の姉(サタとトラ)と妹(ミツ、通称光子)がいた[4]

1887(明治20年)春、1歳の時に、父が渋民村(現在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住する[3][注釈 1]。この移住は、住職が急逝して不在となったのを知った一禎が、交通などの便のよい宝徳寺を希望して檀家や仏門の師である葛原対月(妻・カツの兄)に働きかけ(対月を通して本寺の報恩寺住職にも)、実現したものだった[3]

幼少期の啄木は体が非常に弱く、一禎の残した和歌の稿本に「息の二、三歳のころ病弱にて月一回は必らず(原文ママ)薬用せしめ侍るに」と記されている[2]。一方、一家でただ一人の男児として母は啄木を溺愛し、父も啄木用の家財道具に「石川一所有」と記入するほどで、こうした環境が「自負心の強い性格を作りあげた」と岩城之徳は指摘している[5]

1891(明治24年)、学齢より1歳早く渋民尋常小学校(現・盛岡市立渋民小学校)に入学する[5]。その事情について、啄木の小説『二筋の血』で「主人公が遊び仲間の年上の子供が進学して寂しかったために父にねだって校長に頼むと許可された」とある内容が、啄木自身の事実とみて差し支えないと岩城之徳は記している[5]。前記の通り当時の啄木は母の戸籍だったが、進学するとそれでは都合が悪いという理由で、小学2年生だった1892(明治25年)9月に一禎はカツと正式に夫婦となり、それに伴って啄木も石川姓(戸籍上は養子の扱い)となる[2]。学齢より1歳下にもかかわらず、1895(明治28年)の卒業(当時尋常小学校4年制だった)時には首席の成績だったと伝えられる[6]。尋常小学校を卒業すると、盛岡市の盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学し、市内の母方の伯父の元に寄寓する[6][7]。ここで3年生まで学ぶとともに(ただし2年生への進級前後(早春)に寄宿先を同じ盛岡市内の従姉(母の姉の娘)宅に変えている[8])、3年生時には旧制中学校受験のための学習塾にも通った[9]

1898(明治31年)4月、岩手県盛岡尋常中学校(啄木が4年生時の19016月に岩手県盛岡中学校と改名、現・岩手県立盛岡第一高等学校)に入学する[9]。入学試験の成績は合格128人中10番だった[9]

中学3年生の頃は、周囲の海軍志望熱に同調して、先輩の及川古志郎(後に海軍大臣など)に兄事していた[10]3年生の1900(明治33年)4月に創刊された『明星』は、浪漫主義の詩歌作品で全国に多くの追従者を生み[11]、盛岡中学では先輩の金田一京助が「花明」の筆名で新詩社(『明星』の発行元)の同人となり、『明星』にも短歌が掲載された[12]。そうした状況で、やはり文学好きな及川に感化を受けて関心が芽生え、啄木の短歌志望を知った及川は「歌をやるなら」と金田一を紹介する[10]。啄木は金田一から『明星』の全号を借りて読み、3年生の三学期だった1901(明治34年)3月頃に新詩社社友になったと推測されている[10]。また、のちに妻となる堀合節子とは、1899(明治32年)に知り合い[13]3年生の頃には交際を持っていたとされている[14]。一方、3年生末期の19013月に、教員間の紛争(地元出身者が他地域から赴任した教員を冷遇した)に対する生徒側の不満から起きたストライキ3年生と4年生)に参加した[15]。ストライキの結果、直後の異動で教員の顔ぶれは一変した[16]。啄木はストライキの首謀者ではなかったとされるが、その後異動した教員を惜しむ雰囲気が出たことや、本来の首謀者が卒業や退学で学校を去ったため、啄木がその責任者の一人に擬せられ、後述する退学時に不利に働くことになった[17]

4年生の1901年には校内で文芸活動を活発化させ、翌年にかけて『三日月』『爾伎多麻(にぎたま)』『高調』といった回覧雑誌を主宰・編集した[18]。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの年である(メンバーに先輩の野村長一(後の野村胡堂[注釈 2]や後輩の岡山儀七がいた)[20]123日から翌1902(明治35年)11日にかけて、下級生のメンバー3人とともに「白羊会詠草」として岩手日報7回にわたって短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載される[21]。これが初めて活字となった啄木の短歌だった[20]。さらに岩手毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)にも190112月に短歌10首を発表したほか、19021月には「麦羊子」の筆名で蒲原有明の最初の詩集『草わかば』を評した文芸時評を岩手日報に発表した[20]。こちらも初めて活字になった評論で、そのあとも3月と5 - 6月に「白蘋(はくひん)生」の筆名で文芸時評の連載を寄稿した[20]

この時期の啄木は『明星』に掲載された与謝野晶子の短歌に傾倒し、自作の短歌も晶子を模倣した作風だった[11]

5年生(最終学年)の1902(明治35年)、一学期の期末試験で不正行為(特待生の同級生に、代数の試験で答案を2枚作ってもらい、その1枚を同級生が途中退出する際に入手しようとしたとされる)を働いたとして、答案無効・保証人召喚という処分が下された[22]。啄木は同年3月の4年生学年末試験でも不正を働いたとして4月に譴責処分を受けていた[23]。加えて授業の欠席が増え(5年生一学期の欠席時間は出席の約2倍)、試験無効と合わせて落第は必至という状況だった[23]。岩城之徳は、これらの事情から啄木は学校側から退学もしくは転校の勧告を受けていたのではないかと推測している[24]。かくて啄木は、1027日に中学を退学した[22][25][26]。岩城之徳は退学の理由について、「(堀合)節子との早熟な恋愛により生じた学校生活のゆきづまり」、さらに経済的事情から上級学校への進学の見込みがなく文学の職に就くために学業を放棄したことを、原因として指摘している[27][24]。この退学前、『明星』10月号に同誌では初めて「白蘋」の筆名で短歌が掲載された[10]

中退した啄木は1030日に好摩駅を出発して、上京した[28]

119日、新詩社の集まりに参加、10日には与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる(晶子は9日前に長男を出産したばかりだった)[28]。一方先輩の野村長一からの忠告で東京の中学校への編入を試みたが欠員がなく、正則英語学校高等科への入学を目指したものの、学資が不足して断念する[29]。滞在は続き作歌の傍らヘンリック・イプセンの戯曲『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳で収入を得ようとしたが果たせなかった[30]。友人からの伝手で『文芸界』(金港堂)の主筆佐々醒雪への紹介をもらうも、醒雪は面会もせずに断った[29]結核の発病もあり、[要出典]1903(明治36年)2月、父に迎えられて故郷に帰る[31]5月から6月にかけ岩手日報に評論「ワグネルの思想」(リヒャルト・ワーグナーを論じた内容)を連載した[31]7月には『明星』に再び短歌が掲載され、誌面の扱いが「投稿者」から同人の待遇となる[32]11月に『明星』に短歌が掲載された際に、社告で正式に新詩社同人となったことが告知された[32]。誌面での扱いが変わっただけではなく鉄幹や平出修から評価を受けるなど、歌人として期待が寄せられた[32] この頃から、友人宛の書簡に「啄木庵」という号を使用するようになり[33]12月には「啄木」名で『明星』に長詩「愁調」を掲載して注目された[34]

帰郷と盛岡における活動[編集]

1904(明治37年)18日、盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をする[31]。当時、二人の結婚については両者の親(節子の父、啄木の母)から強い反対があったが、6日後の114日に婚約が確定したという長姉(田村サダ)からの手紙を受け取ったと日記に記され、23日には結納が交わされたとみられる[35]

9月から10月にかけて青森小樽を旅行、小樽の義兄宅に宿泊した[36]1031日、詩集出版を目的として再び東京に出る[36]。啄木上京中の1226日に、一禎は宗費を滞納したという理由で宝徳寺住職を曹洞宗宗務局から罷免される[37]

1905(明治38年)15日、新詩社の新年会に参加[38]。故郷では、一禎を住職に復帰させるかどうかで檀家の間で意見が分かれ、それに耐えかねた一禎は3月に家族とともに宝徳寺を出た(4月に盛岡に転居)[37][39]

53日、第一詩集『あこがれ』を小田島書房より出版する[40]。高等小学校時代の同窓生・小田島真平の長兄が勤めていた大学館が実際の版元で、啄木の携えた真平の紹介状を受けた長兄が、銀行勤務の次兄の出資を仰ぎ「小田島書房」の名義で刊行したものである[40]上田敏による序詩と与謝野鉄幹の跋文が寄せられたほか、尾崎行雄(当時東京市長)への献辞が記された[40][注釈 3]

512日、堀合節子との婚姻届を一禎が盛岡市役所に出す[38]。このとき啄木は満19歳だった。519日、啄木は東京を後にする[41]。盛岡では帰郷の知らせを聞いた親族が節子との結婚式の場を用意していたが(5月末頃とされる)、啄木は仙台10日も滞在して期日に戻らず、式は新郎を欠いた形でおこなわれた[41]。この理由について岩城之徳は、啄木は東京で曹洞宗の宗務局を訪問した際に曹洞宗の「宗憲」制定に伴って一禎に赦免される可能性があることを知り、それまでは謹慎すべきと考えたからだとしている[42][注釈 4]。しかしこの欠礼で周囲の友人から絶交も受けた[41]

64日に盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送る[41]20日後に市内帷子小路から加賀野に転居した[43][注釈 5]。一家の扶養も啄木が負うようになる。同月、岩手日報にエッセイ他を「閑天地」と題して連載してわずかな収入を得る[43]95日、啄木が主幹・編集人となり、文芸誌『小天地』を出版する[45]岩野泡鳴正宗白鳥小山内薫等の作品を掲載し、地方文芸誌として文壇の好評を得るが[45]、創刊号のみに終わり、経済的に窮することになる[46]

1906(明治39年)217日、函館駅長の義兄を訪問し、一家の窮状打開を相談するも解決できなかった[47]225日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡小坂にて死去する[48]

34日、妻と母を連れて渋民村に戻る[46][48]。義父の親友でもあった(啄木自身も面識があった)郡視学の周旋により、母校の渋民尋常小学校に代用教員の職を得た[46]411日に拝命し、414日より勤務する[48]。同じ頃、一禎に対する懲戒赦免の通知があり、野辺地にいた一禎も渋民の一家に合流した[48][49]21日には徴兵検査を受け、筋骨薄弱のため丙種合格として兵役が免除される[48]

6月、小説を書き始める。しかし秋にかけて脱稿した『面影』『雲は天才である』は発表に至らず、『明星』12月号に掲載された『葬列』も評価は得られなかった[50]

12月、評論「林中書」を脱稿。1229日、長女京子が、妻の実家で生まれる[51]

啄木が教員生活を送る傍ら、父・一禎の住職再任の話は、新住職が県宗務所の手続き不備を突く形で住職の継目願書を提出、これが宗務局に受理されたことで、村内の檀家は再び一禎と新住職に分かれて争う形となった[49]。この争いは啄木にも波及し、6月には住職再任運動の一環で上京したり[48][注釈 6]、小学校から追放する動きに見舞われたりした[49]。結局、一禎は住職再任を断念して翌1907(明治40年)35日に家族に無断で再び野辺地へと去った[49]。これを契機に啄木は次節に述べる北海道移住に踏み切る[49]

北海道における活動[編集]

一禎の出奔に先立ち、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の同人松岡蕗堂より原稿の依頼があり、19071月に発行された機関誌『紅苜蓿』(べにまごやし)創刊号に詩3編を寄稿する[52]。『紅苜蓿』は地方文芸誌としては異例の評判を得て創刊号200部を完売して続刊したが、同人はいずれも他に生業を持っていたことから編集人材の不足に苦慮していた[52]。一方啄木は一禎の去った渋民での生活に見切りを付けて41日に小学校に辞表を出し、松岡に連絡を取って移住の相談をした[49]。このあと、419日に小学校長排斥のストライキを高等科の児童に指示する事件を起こし、421日に免職の処分を受けた[51]。苜蓿社の側でも、詩人として名声のある啄木が来ることを歓迎した[52]

54日に渋民を出発して5日に函館に到着する[51]。渡道は、小樽在住の次姉トラの夫・山本千三郎が、ミツを引き取ることを申し出たことも一因であった[52][注釈 7]。函館で啄木は松岡の下宿先に寄寓する一方、妻子は盛岡の実家、母は渋民の隣村に住む知人に預ける単身生活だった[53]511から5月末日まで、苜蓿社同人の沢田信太郎の世話により函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる[54][55]6月、苜蓿社同人である吉野白村の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となった[54]77日に妻子を呼び寄せたのを機に下宿を出て新居に移る[54]84日には母も合流して一家が揃った[54]。同じ頃にミツも小樽から函館に来たことから、家計の足しとして代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者となる(日記に818日に編輯局に入ったとある)[56]。新聞には自身が選者の歌壇を設けたり随筆を連載するなど仕事に打ち込み、『紅苜蓿』の編集にも熱中した[56]。苜蓿社メンバーと知遇を深め[57]、中でも宮崎郁雨とは死去前年まで交友を持つこととなる。

しかし、825日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失する[58]。啄木(教員は在職のままだったが、無資格者を整理するという噂が出た)は再び生活の糧を失う苦境に立たされた[58]。この事態に苜蓿社同人だった向井永太郎(札幌に移住していた)が職を探し、友人の北門新報記者・小国露堂を通じて校正係に採用が決まる[58]913日に単身で函館を発って[58]、翌日札幌に到着し、16日から勤務した[59]。この在勤時に啄木は小国から社会主義について説かれ、それまでの「冷笑」的態度から「或意味に於て賛同し得ざるにあらず」と記した[60]。その矢先、小国から新たに創刊される小樽日報記者への誘いを受けて、到着から2週間に満たない927日に小樽に移った[59]。小樽には啄木に先んじて妻子とミツが次姉宅に移っており、啄木も加わって再び一家が揃った[61]。まもなく啄木と妻子は借家に転居している[61]。小樽日報では同僚に野口雨情がいた[62]。当時の主筆が雨情と以前に確執があり、啄木も主筆と対立したことから雨情の起こした主筆排斥運動に荷担する。しかし、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になった[62]。この主筆はそのあとに啄木の運動で解任されている[63]。後任の編集長には、北海道庁に入庁して札幌に移っていた沢田信太郎と再会したのを機に就任を依頼して快諾される[63]

編集長が替わった小樽日報で啄木は仕事に励んだが、営業成績が上がらない小樽日報の将来を疑問視し、小国から札幌に新しい新聞ができそうだとの誘いを受けて札幌に通った[64]。これが社内の事務長との間で紛争を生み、暴力をふるわれたことで1216日に退社する[64]

1908(明治41年)14日、小樽市内の「社会主義演説会」で、西川光二郎らの講演を聞く[65]。一方職探しは難航し(札幌の新聞はできる気配がなかった)、編集長の沢田が北海道議会議員で小樽日報社長兼釧路新聞(現在の釧路新聞社とは無関係、現在の北海道新聞社)社長である白石義郎に斡旋を依頼し、啄木の才能を買っていた白石の計らいで釧路新聞への就職が決まる[65]。家族を小樽に残して119日に釧路に向け出発した[65]121日に到着すると、事実上の編集長(主筆は別にいた)として紙面を任され、筆を振るって読者を増やした[66]。取材のために花柳界に出入りして芸妓の小奴と親交を結び、また初めて飲酒を覚えた[67]

しかし、中央文壇から遠く離れた釧路で記者生活を続けることに焦燥を募らせ、釧路を離れて創作生活に向かうことを決意する[68]45日に釧路を後にして海路函館に行き、函館日日新聞に勤めて上京費用を稼ごうと考えていた[69]。再会した宮崎郁雨は啄木からこの考えを聞くと、その創作意欲に報いようと上京資金を用意し、妻子のための家を函館市内に用意した[69]。啄木は424日、単身横浜行きの船で旅立ち、約1年間の北海道生活に別れを告げた[69]

東京での小説家活動と生活[編集]

428日より東京・千駄ヶ谷の新詩社にしばらく滞在する。52日、与謝野鉄幹に連れられ鷗外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。54日、中学校の先輩である金田一京助の援助で、金田一と同じ本郷区菊坂町の赤心館に居住することになる [70]。宮崎郁雨には「三ヶ月ないし半年の間」に家族を上京させると約束したこともあり、小説を執筆して売り込みをかけた[71]。啄木は「夏目"虞美人草]"なら一ヶ月で書ける」という自信を抱き[70]、金田一や鴎外、さらには自分から小説の雑誌掲載を依頼したがいずれも成功しなかった[72]。生活の危機に直面した啄木に対し、金田一が自分の服を質入れして12円を渡したことで当座はしのいだものの先行きが見えないことに変わりはなかった[72]627日の日記に、死去した国木田独歩や自殺した川上眉山は死ぬことのできない自分よりも幸福だと記した[73]。この間、623日から25日にかけ「東海の小島」「たはむれに母を背負ひて」など、後に広く知れ渡る歌を含む186首を作り[74]、それらから抜粋した114首を翌月の『明星』に発表した[75]96日、これも金田一の支援で下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す[75]11月から『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載した(全60回)[75]11月に『明星』は終刊するも[75]、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。

1909(明治42年)1月、『スバル』が創刊され、発行名義人となった[76]。啄木は、2月に同じ岩手県出身である東京朝日新聞編集長の佐藤北江に手紙、さらに直接の面会で就職を依頼して採用され、31日に東京朝日新聞の校正係となる[77]

43日よりローマ字で日記を記すようにな[76]る。7日より新しいノートで「ローマ字日記」を(途中からは断続的に)616日まで著す[注釈 8][注釈 9]

616日、函館から妻子と母が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る[注釈 10]10月、妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かうが、金田一の尽力で暫く後に戻る。12月になり父も同居するようになる。

1910(明治43年)3月下旬、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き出版事務全般を受け持つ。

大逆事件と社会主義の影響[編集]

19105月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆する。63日には明治天皇の暗殺を計画したとされる幸徳秋水管野スガ社会主義者無政府主義者が多数検挙された幸徳事件(大逆事件)が発生する。同日、幸徳秋水拘引の記事解禁となるも、刑法73条に関わる記事はなかった。しかし新聞社勤務の啄木は連日の新聞記事を集める作業を進めており、これを「大逆罪」の件と認識していたと思われる。

71日に社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。啄木は大逆事件に関して6月に評論「所謂今度の事」、8月下旬には「時代閉塞の現状」を執筆しているが『朝日新聞』には掲載されていない。915日、『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。8月の朝鮮併合後の作として「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、歌集には収録しなかった。

104日、長男真一が誕生したが、27日には病死している。12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より出版。このとき啄木は満24歳であった。また同年に刊行された土岐善麿(土岐哀果)のローマ字による第一歌集『NAKIWARAI』の批評を執筆したことが縁となって親交を深める。善麿とは啄木が病死するまでわずか1年ほどの交友であったが、啄木の才能を高く評価していた善麿は啄木の死後も遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。

大逆事件は1911(明治44年)1月の判決により、幸徳・管野らは死刑となった。同月、啄木は友人の弁護士で大逆事件を担当していた平出修と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用し、筆写する。平出修は新詩社に加入し『明星』へ詩や短歌を発表していた歌人でもあり、啄木は平出から大逆事件の経緯などを聞いた。啄木は入手した幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める。

110日、アメリカ合衆国で秘密出版され、日本国内に送付されたピョートル・クロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(日本国内では大杉栄訳により刊行[81])を、歌人谷静湖より寄贈され愛読する。113日、土岐善麿と会い、雑誌『樹木と果実』の出版計画を相談したが、結局実現はしなかった。

啄木の幸徳事件への興味は尋常ではなく、膨大な公判記録を部分ではあるが読み込み、裁判全体は政府によるでっち上げだったと確信する。5月には幸徳の弁護士宛の意見書を写したものに「A Letter from Prison」と題し前文を書く。615日から17日にかけて長編詩を執筆、「はてしなき議論の後」と題す。

病気療養と死[編集]

728日、妻節子も肺尖カタルと診断される。87日、病気回復のために環境が少し良い小石川区久堅町(現:文京区小石川5丁目-11-7)へ移る。93日、父が家出をする。

9月に郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを読み、これを妻の不貞と採った啄木は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交することを告げた[注釈 11]1911916日付の啄木の妹・光子宛の葉書では、この事件を「不愉快な事件」と記している。

12月、腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続く。

1912(明治45年)37日、母カツ死去。49日、土岐善麿は第二歌集出版の話を啄木に伝える。413日午前930分頃、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られている。26歳没。戒名は啄木居士[82]

死後[編集]

415日、浅草等光寺で葬儀が営まれ、漱石も参列する。土岐が生まれた寺で、彼が葬儀の世話をした。614日、節子が次女を出産。房州(千葉県)で生まれたため房江と名付ける。620日、第二歌集『悲しき玩具』出版、土岐善麿が題名を付ける。94日、節子は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰る。また土岐善麿は同年に第二歌集『黄昏に』を刊行、前書きに「この一小著の一冊をとつて、友、石川啄木の卓上におく。」と記した。

1913(大正2年)、一周忌を機に、函館の大森浜を望む立待岬に宮崎郁雨らの手で墓碑が立てられ遺骨も移される。同年55日、節子も肺結核で死去。遺児は祖父(節子の父)が引き取った。東雲堂書店から『啄木遺稿』『啄木歌集』が出版される。函館への遺骨移送と墓碑建立は「啄木の遺志」として岡田健蔵が主体となって実行したものだったが、これについては批判も存在する(岡田の記事を参照)。

1915(大正4年)には、『我等の一団と彼』が東雲堂書店から出版。1919(大正8年)、友人たちの尽力により、3巻から成る全集が新潮社より出版される。全集はその後も改造社1928-29 5巻。1978年ノーベル書房から復刻)、河出書房1949-53 25巻)、岩波書店1953-54 16巻)、筑摩書房1967-68 8巻、および1978-80 8巻)から出版されている。1930(昭和5年)、京子が妊娠中に急性肺炎を起こし、二児を遺して24歳で、その2週間後に房江も肺結核により19歳で死去した。

著作[編集]

『あこがれ』 詩集、1905(明治38)年5

『小天地』 文芸誌、1905(明治38)年9月、創刊号のみで廃刊

『黄草集』 詩稿ノート(詩36篇)、1905(明治38)年3月~11

『閑天地』 随筆、岩手日報に21回連載 1905(明治38)年67日~718

『葬列』 小説、「明星」明治3912月号掲載 1906(明治39)年12

『一握の砂』 歌集、東雲堂書店、1910(明治43)年121

『悲しき玩具』 歌集、東雲堂書店、1912(明治45)年620

『呼子と口笛』 詩集(詩8篇)、『啄木遺稿』に収録 1913(大正2)年5

代表歌[編集]

歌集巻頭の歌。 青森県の大間町大間崎にある石川啄木歌碑に彫られており、この歌の原風景は大間崎で、東海の小島は、沖の灯台の島「弁天島」であると説明されている。

砂山の砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

越谷達之助の作曲で、歌曲「初恋」として歌われている

顕彰施設[編集]

石川啄木記念館(岩手県盛岡市)

もりおか啄木・賢治青春館(岩手県盛岡市)

啄木新婚の家(岩手県盛岡市)

港文館(北海道釧路市)

土方・啄木浪漫館(北海道函館市)

石川啄木小公園(北海道函館市)

人物[編集]

家族・交友関係[編集]

母カツは四人の子供の中で唯一の男児だった啄木を溺愛していた。息子が丈夫になることを願い、自らは肉を食べることを絶ったという。

カツと妻の節子は非常に仲が悪く、一家が病に見舞われるまでは家の中は冷戦状態だった。

啄木は亡くなる前、節子に日記を燃やすように命じたが、節子は「愛着から燃やす事ができませんでした」と日記を金田一に託した。日記は浅草に通い娼妓と遊んだ件がローマ字(日本語)で書かれているが、才女として知られていた節子ならローマ字の文を読むことは可能だったと考えられている[84]

新詩社で収入を得るために行っていた短歌の添削指導で依頼人の菅原芳子に懸想し、熱烈な恋文を送っている。その一方で、平山良子という依頼人に送られた写真に一目惚れしこちらにも恋文を送るも、実は「平山良太郎」という名の男性だったという痛い目にも遭っている[85]。平山は所属する文芸結社、「みひかり会」で啄木と文通する女性がいたことから「女性と偽った方が、啄木は快く添削に応じてくれる」との思いからの行為で、知人の祇園で人気の芸者の写真を自分のものだとして送っていた。平山は事実が発覚した際に謝罪したが、後に啄木がみひかり会の顧問になった際、平山に対しての手紙の宛名に、それまで「平山良子様」としていたのを「平山良子殿」と、以後ずっと男性に対する敬称をつけて嫌みを表したという[85]

借金[編集]

啄木はいわゆる「たかり魔」で、常軌を逸した遊興による浪費で困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助樺太に出張中にも啄木から金の無心を受けた。

上述のように啄木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録に残しているが、合計すると全63人から総額137250銭の借金をしたことになる。この金額の内、返済された金額がどれくらいあるかは定かではない(2000年頃の物価換算では1400万円ほど[86])。この借金の記録は、宮崎郁雨(合計額として最多の150円の貸し主)によって発表されたが、発表の後には啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というものが加わるようになった[86]

性格[編集]

啄木は友人宛の手紙で蒲原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を陰で罵倒したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど、傲慢不遜な一面があった。

学術研究[編集]

教育学・臨床心理学からの研究[編集]

教育学者臨床心理学者の福田周は学術論文で、石川啄木の死生観やその文学的表現を論じている[87]。福田の推測では、啄木は希死念慮不眠症抑うつなどを患っていた[88]

著作物[編集]

1910(明治43年)、25歳の啄木は新聞記者を務めていたが、家族が上京してくるまで生活の中心は「夜の街」をふらつくことだった[89]。その様子は例えば、以下の日記に残されている[89]

生育歴[編集]

石川啄木の本名は石川一(いしかわはじめ)といい[87]、住職の長男である彼は両親から可愛がられ、渋民村でも「お寺の一さん」として小貴族のように扱われた[95]。福田によれば、こうした環境が石川啄木の「我儘で自尊心の強い性格の基礎を形作ったといわれている」[95]尋常中学校での啄木は、勉強よりも恋愛文学活動を優先したことで成績が下がり続けた[96]。後の啄木自身の形容によれば、当時の彼は

「本校始まって以来の無類の欠席者」

だった[96]17歳、最終学年5年生の時には落第寸前であり、特待生にカンニングを依頼するも発覚し、卒業まで残り数ヶ月という時期に自主退学した[96]

幼少期の啄木は何不自由なく養育されてきたが、それは「脆い背景によって作られたものでもある」と福田は言う[96]。そもそも石川家は、表面的には村人から尊敬され慕われていたが、啄木の父の強引な言行によって反発を買っていた[96]。啄木自身も、寺の住職の息子という肩書だけで支えられた「脆い自尊心」を持っており、肩書にこだわる啄木の自己意識はその後の生き方にも大きく影響していると考えられる[96]。啄木は純粋に文学へ没頭することができず、周りからの名声や絶対的評価を求める心性を持っており、福田はそれに関して

「名声に傷がつくような事態に対しては、現実からの回避を繰り返す」

と評している[97]。例えば啄木は、落第を回避するために不正行為(カンニング)をし、その後は《学校が悪いから自主退学する》という理屈で自己正当化している[98]。退学後は上京しているが、これも理想主義的で非現実的な行動であり、「必然的に人生の挫折を経験することとなる」と福田は言う[98]

啄木は上京後、翻訳業で生活しようとしたが稼ぎにならず、ついには人生の挫折を身体疾患という形で受け入れるしかなくなった[99]。ただしこれは、《体調不良によって「職業アイデンティティ」確立の問題を一時的に回避できた》とも言える[99]。啄木は田舎へ帰郷して昔の《お寺のお坊ちゃん》に戻ったが、父のごり押しがまた繰り返されることになった[99]。父は住職だったにもかかわらず強引な借金が原因で懲戒解雇され、石川家の生活基盤が失われた[99]。このことが、啄木の人生へ決定的に影響したと福田は見ている[99]

20歳の啄木は19055月に詩集『あこがれ』を刊行した[98]。経済的な《生活機能》が無いに等しい彼は、この詩集の原稿料を夢想的に期待しながら再上京したが、実際は石川家の借金は増え続けた[99]。堀合節子との結婚が決まった時も、なぜか啄木は結婚式に出ずに放浪し、《母が危篤だ》と嘘をついて友人から借金した[99]。福田は

「こうしたその場しのぎのは父がしてきた行動とそっくりである」

と評している[99]。啄木が結婚式に出たがらなかった理由は、自身が金欠および無職者であることを負い目に感じていた「自尊心の高さ」であると考えられる[99]

1906年(明治39年)、啄木は母と妻と共に渋民村へ帰郷した[99]。その理由は、父を住職に復帰させる運動をするためだったと言われている[99]。啄木は嫌々ながら石川家を経済的に支えるため渋民村尋常高等小学校の代用教員になったが、父の住職再任が叶えば退職するつもりだった[100]。しかし、啄木は村の一員になろうとしないまま強引な運動を行って村との対立が強まっており、父はそれに耐えられなかった[101]1907年(明治40年)に父への懲戒赦免は出たが、村の権力争いや生活困窮の中で父は突然家出した[101]。父のこの「遁走」を受けても、啄木は自分の思い通りに41日に辞表を提出した上でストライキを扇動し、校長を転任させた[101]。しかし啄木は結局、辞職するのではなく免職処分を受けることになった[101]。これ以降、石川家は一家離散した[101]

当時の啄木は日記で、村人たちへの蔑視・敵意を述べている[102]

「明治3939日  世の中で頭脳の貧しい人だけが、幸福に暮らしている。
彼らは真の楽しみというものを知るまいが・・・彼らは立っている、同じところに立っている。真に平気なものだ。

その代り、朝生暮死のけらと同じく、彼らの生活にはがない。

・・・ああ、もし自分が一瞬たりとも彼らの平安をうらやましいと思うことがあるなら、それは自分にとって最大の侮辱である」。[101]

「明治39719日  予は6月のはじめ10日を異様なる精神興奮の状態に過ごした。社会習慣規則とに対する一切の不平は危うく爆発しようとした。

・・・故郷の自然は常に我が親友である、しかし故郷の人間は常に予の敵である。・・・この村の小学校に学んだ頃、神童と人にもてはやされたころから、すでに予は同窓の友の父兄たる彼らから或る嫉視をうけていた。この嫉視は、その後十幾年、常に予を監視している。・・・

しかし予は極めて平気であった。がないたり、が吠えたからといって、驚くような自分ではない」。[103]

福田が言うには、成人した啄木の振る舞いは中学生時代から変わっていない[103]。つまり啄木の主な発言と行動は、周囲を扇動して、自分より立場が上の者を敵として攻撃して、自分は責任を放棄する「他罰的」な責任回避であると考えられる[103]。実は1906年、啄木は代用教員として『林中書』という教育論をも書いており、教育の目的とは

天才の育成

天才的支配者に服従する民衆の育成

である、と記していた[103]。また同書において、啄木は当時の教育を批判し天才(自分)の中学中退を弁明しつつ、

「予は願わくは日本一の代用教員となって死にたい」

と記し、自分と同じように中学を中退して代用教員になることを後輩へ呼びかけてもいた[103]。しかし結果は先述の通りで、啄木は代用教員を強引に辞めている[103]。福田は

「この葛藤回避の在り方が啄木の今後の人生に繰り返される。啄木は極めてずるい人間であり、弱い人間であるともいえる」

とまとめている[103]

自己愛性パーソナリティ障害」および「回避性パーソナリティ障害」も参照

商標化[編集]

「石川啄木」は1963(昭和38年)に、広島県の酒造会社・賀茂鶴酒造によって商標権登録されている(登録第605542号、指定商品:酒類)[104]

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.