二代目 中村吉右衛門 小玉祥子 2022.2.10.
2022.2.10. 二代目 聞き書き:中村吉右衛門
著者 小玉祥子(しょうこ) 1960年東京生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員。1985年毎日新聞社入社、96年より学芸部で演劇担当。01年度NHK教育テレビ「日本の伝統芸能・歌舞伎鑑賞入門」の講師
発行日 2009.8.25. 印刷 9.10. 発行
発行所 毎日新聞社
序
「二代目」と言われて思いつくのは、高島屋二代目市川左團次丈。「團、菊、左」の初代左團次の子息。新歌舞伎に本領を発揮。東京の歌舞伎界で「二代目」といえばこの人
何代も続いているのが普通の歌舞伎界において、「二代目」ということは初代が大変な名優であったということで、初代吉右衛門も稀代の名優
高島屋の初代は実の父親で、私は母方の祖父の養子になった違いがある。父親の薫陶を受けたであろう方と、その内容は大変な違いがあると思いました
養母からも、「二代はたたずというからね」と言われショックを受ける
二代目とは難しい立場。とてもそれを乗り越えてきたとは思えないが、記事にしていただいた小玉さんには頭が下がる。忘れていた人生を思い出させてくれ、役者人生に大いなる収穫をもたらし、自分の人生を復習させていただいた
「役者は一生修行」とは初代の言葉
1
初代吉右衛門は、明治から昭和期までの演劇界を代表する名優。「時代物」に登場する英雄・豪傑、「世話物」の庶民役の両方に優れ、ことに6代目菊五郎とは「菊吉」と並び称された
両者の決定的違いは、6代目の父が江戸歌舞伎の名門、菊五郎家の直系である名優、5代目菊五郎なのに対し、初代の父の3代目中村歌六は芸達者として知られてはいたが、関西出身の脇役俳優
初代は一代にして歌舞伎界に自身の地位を築いたが、芸を継承させる跡取りがいない
一人娘正(せい)子が初代の愛情を一身に受ける。芸質もよく、何でもできた
初代の藝に憧れ、師事した俳優に初代松本白鸚(8代目幸四郎)がいた。日本舞踊の大流派藤間流の家元でもあった7代目幸四郎の次男。長男が11代目團十郎で師匠筋の市川宗家に養子に出し、二男が白鸚で跡取り、三男が尾上松緑
正子が相手に選んだのが白鸚、正子は男の子を2人生んで次男を初代の養子とすると約束
戦後すぐ歌舞伎の上演が再開――東京の皮切りは終戦翌月の、東劇での「(二代目)市川猿之助一座」公演。11月には吉右衛門一座による公演と続く
占領軍から《寺子屋》の上演中止命令。「忠義」と「犠牲」がだめなら歌舞伎の演目の過半はお蔵入りとなり、歌舞伎の「危機説」から「廃止説」にまで発展
1947年末ごろ漸くすべての上演制限撤廃
1948年初代中村萬之助を名乗って東京劇場で初舞台
1949年、父方の祖父である7代目幸四郎と、初代の終生のライバル6代目菊五郎逝去
7代目は、自分の不器用さを子供には移したくないとして、当時最も器用だといわれていた6代目と初代に預けた。芸の後輩である初代には白鸚、6代目には松緑を託したところに7代目の度量の大きさが感じられ、預けた以上は演技に関しても一切口を出さず、2人ともそれぞれの師匠の下で大成を遂げた
1951年、初代が文化勲章受章。存命中の俳優としては初の栄誉
1954年、初代逝去。亡くなる1か月前の千秋楽まで熊谷直実の大役を演じ切る
初代は、弓道は奥義に達し、虚子に師事した俳句は句集を残すほどだったが、すべての行動は芝居に関わる人。余計なものを切り捨てて芯だけ残すのが俳句、瞬間的にどこを見るか、何を捉えるかということ。芝居における物の見方を俳句によって訓練しようとしていた。弓道も健康を保ち、姿勢をよくするため
初代の芸に対する厳しい姿勢は当代にも確実に受け継がれている
常に真摯に舞台に取り組んだが、決して猪突猛進ではなく、役になりきっているようでありながら、一方では非常に冷静な目を持っていた。それが名優の条件なのだろう
2
初代は自身が座頭の「中村吉右衛門劇団」を率いて、娘婿で時代物の武将役などが得意の白鸚、初代の相手役として頭角を現した女形の6代目歌右衛門、初代の弟で世話物などに優れた17代目勘三郎の3人が支えた
初代の弟子は全部、実父の所に来たので、高麗屋(幸四郎家)と播磨屋(吉右衛門家)の双肩を担うことになり大変だった
萬之助も、初代存命中は周囲もちやほやするが、亡きあとはただの高麗屋の弟の子役に過ぎず、周りの扱いも変わって、明るかった性格が暗くなる
1955年、初代の1周忌追善公演で《山姥(やまんば)》の怪童丸の演技が認められ翌年の第8回毎日演劇賞の特別賞「演技別賞」を異例の若さで受賞。もう1つの受賞対象が《戻駕》の女形たより。大柄の二代目にとって女形は抵抗感が強かった
踊りは藤間流宗家の2代目勘祖(6代目勘十郎)の指導を受ける。舞踏史に残る名振付家
歌舞伎俳優が、体の活け殺しを覚えるには女形の修業が役立つ。初代の祖父、初代中村歌六は「傾城歌六」と呼ばれた女形。高麗屋の跡継ぎの兄は立役と決まっていたので、二代目はどちらに進んでもいいように女方(ママ)もさせられた
「中村吉右衛門劇団」の3枚看板のうち、歌右衛門と勘三郎は映画に出演するなどして独自の活動を始め、白鸚も、劇作家福田恒存の作・演出による《明智光秀》で新劇史上初の歌舞伎との合同が実現。保守派の論客として知られた福田もまだ40代前半の若さ
最初の映画出演は1956年公開の《続源義経》で、義経(中村錦之助:初代の甥)の異父弟・良成役
文楽と歌舞伎の合同公演も難しかった――文楽では語りは大夫の専権に属し、たとえ外部出演であっても、歌舞伎の竹本のように語りと俳優の台詞を共存させることは原則として許されなかった――1959年、文楽の8代目竹本綱大夫、10代目竹沢弥七と白鸚が組んだ《嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)》の3段目《日向嶋》の自主公演で実現
1960年、兄が主導した幸四郎一門の勉強会「木の芽会」の第1回公演。すべて自分たちだけで手作り、初めて大人の役をこなす
暁星中学時代に初めてできた親友が村井邦彦。モダンジャズにはまり、《ランブリン・マン》は久信作詞・邦彦作曲で、67年マイク真木のデビューシングルのB面
1960年、井上靖作《敦煌》が東京宝塚劇場で上演され、菊田一夫の抜擢で準主役出演
同時に、松竹との口約束での専属に疑問を持った実父以下一門25人が、菊田一夫の東宝新歌舞伎立ち上げに同調して東宝と専属契約
1歳上のフランス人女性への失恋から、役者をやめてフランスに行きたいと言ったら、実父から「何にでもなっちまいな」と背を向けられ、初めてオヤジの期待を感じ、波野家と吉右衛門の名跡を継いでオヤジの荷を軽くしてやらなければと決意
翌1966年、吉右衛門襲名興行
その直前の64年、山本周五郎原作、菊田一夫脚本・演出の《さぶ》に兄弟で出演、のろまの弟役が当たって好評だったが、脇の3枚目ばかりやるようになるのかとイライラを抑えるために精神安定剤とジンを飲んでいたら血を吐き、正子のいとこでNHK勤務の山本一次に助けられる。後にその娘を伴侶とする。大名跡襲名へのストレスもあった
3
1965年、7世松本幸四郎17回忌追善公演を3兄弟で終えたその年、白鸚の兄第11代團十郎が56歳で早逝。松竹・東宝の垣根を超え、新作が続々登場して歌舞伎が賑わいを取り戻した矢先の出来事
襲名直前には、東宝が萬之助に現代劇の主演を企画。スタンダールの『赤と黒』のジュリアン・ソレルを演じる
襲名披露興行は、新・帝国劇場のこけら落としを兼ね、《金閣寺》と《積恋雪開扉》の昼夜2部制
菊田一夫はミュージカルを目指して帝劇を作り、歌舞伎は眼中になかったため、舞台造りや道具類にも不具合が多く、興行も最優先とはいかなかったので歌舞伎界には不満が募る
1970年、帝劇での「初代吉右衛門17回忌追善興行」で、立役のあこがれ役《熊谷陣屋》の熊谷直実を初演――初代が得意とし、初代の芸域に迫るためには欠かせない一歩
「木の芽会」の公演は1969年まで計10回行われ、次第に公演日数も増やし、東宝の主催公演へと昇格
1974年、菊田から「歌舞伎だけやっていればいい」といわれたこともあり、歌舞伎に専念しようと、1人松竹に戻る
直前に婚約発表。正子の従弟の娘で、正子に憧れていたので、正子からの申し出に高校を出たばかりだったが即答したという
4
菊五郎劇団への出演が増える。6代目菊五郎の養子の梅幸と、6代目に師事した2代目松緑が中心で、それぞれの長男の菊之助(現・菊五郎)、初代辰之助(3代目松緑)に11代目團十郎の長男の海老蔵(現・團十郎)の3人が同世代で競っていた
72年の《勧進帳》では、吉右衛門、海老蔵、辰之助の従兄弟同士が上演、7代目幸四郎の3人の息子が65年に同じ役をやって以来7年ぶりに、直系の孫で従兄弟同士の共演として壮観
吉右衛門の魅力の1つに声が挙げられる。腹から出てズシリと心に届く時代物の声と活殺自在な台詞術で心地よく耳に響く世話物の声。だが、若き日は声に悩んだ。裏声が震える欠点があるといわれ、努力して今の声を作り上げた
6代目歌右衛門は、5代目の次男で、若くして吉右衛門劇団の立女方に抜擢され、歌舞伎界をリードする存在になったが、吉右衛門も《勧進帳》の義経を歌右衛門から教わり、その後も成駒屋(歌右衛門家)型で通したという
初代亡き後、新境地を見出そうとする吉右衛門は、多くの先輩に指導を仰ぐ
二枚目役者の14代守田勘弥もその1人――1907年生まれ、長女が水谷八重子、養子が坂東玉三郎
叔父の2代目松緑にも、音羽屋(菊五郎家)系の役を主体に教わる
初代の弟の17代勘三郎の演技にも刺激を受ける。特に声の出し方について考えるところが多かった
1982年、白鸚没、享年71。死に至る病の皮膚がん発見が79年で、翌年には「初代白鸚、9代目幸四郎、7代目染五郎」の3代襲名公演、公演の最中に白鸚が文化勲章受章
江戸時代の風情を残す香川県琴平町の芝居小屋「旧金毘羅大芝居」では、例年4月に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の名を冠した歌舞伎公演開催――1985年発足の端緒を作った1人が吉右衛門。国の重要文化財として保存されていた劇場を地元と一体となって再興、上演する新作を自ら松貫四の筆名で脚色・完成させる。江戸時代の芝居小屋と同規模の劇場に出ることは、単に芝居を演じるという以上にそれなりの意味がある
実母の正子は、吉右衛門にとって実父と同様に芸の師匠のような存在。初代の芸を愛した正子は、息子にも高いレベルを要求。晩年まで舞台を見ては気づいたことをメモ書きにして、吉右衛門夫人に渡していた。白鸚没後は小唄の流派を興し家元として活動したが、元来病弱で肝硬変により1989年逝去、享年65
テレビで当たり役となった長谷川平蔵の《鬼平犯科帳》の放送開始は1989年。20年前の実父の同じ役を引き継ぐ。2001年まで9シリーズ、138本制作。映画化も
1990年、初の海外公演で、米中西部を回るが、大学祭で東洋文化の紹介が目的だったため、舞台芸術としてではなく、極東の1民俗芸能としてしか見てもらえなかったことに不満を抱き、世界の歌舞伎にするためには、もっと日本で認められなければと痛感
その時の思いに後押しされて、2006年始めたのが文化庁主催の「本物の舞台芸術体験事業」への参加――全国の小中学校対象に公演を行ない、造詣を深めさせる
劇作家・松貫四の顔――名前は、初代の母方の祖父萬家吉右衛門の先祖で浄瑠璃作者の名に由来。1985年のこんぴら歌舞伎《再桜遇清水(さいかいさくらみそめのきよみず)》が最初の作品
初代から引き継いだ役への思い入れはことに強い――その1つが《俊寛》
2003年の初代の50回忌追善狂言を演じた後、次の世代に繋げるために、歌舞伎の普及と初代の芸の継承を今後の活動の2本柱にすると決心――1つが文化庁の「体験事業」であり、もう1つが「秀山祭」。初代の芝居に対する姿勢と演出を称え、ゆかりの芸と研鑽と伝承を中心に据えた興行で、初代が俳句に用いた俳名を冠して、祥月の9月に開催
若い頃は深く考えずに生きていたが、体も弱く、目を悪くして入院し、自分は役者に向いていないと自殺も思った
実父がなくなったころから背負う者の大きさに気づき、何もないところから歌舞伎俳優としての自分の位置を確立するための戦いの日々で、その中で初代から実父へと受け継がれた大役を次々と初演しながら、吉右衛門という名の重圧に悩み、苦しんだ
役者を辞めたいと思ったこともあり、50過ぎたら出家と言っていた
60代になって漸く天職と知る
まだ歌舞伎は未完成、もっと完成度の高い素晴らしいものにできるはずと研鑽を重ねる
歌舞伎俳優、人間国宝の中村吉右衛門さん死去、77歳 時代劇も人気
2021年12月1日 17時24分 朝日
歌舞伎界を代表する立ち役のひとりで、「熊谷(くまがい)陣屋」の熊谷直実(なおざね)など重厚な時代物を屈指の当たり役とした歌舞伎俳優で人間国宝の中村吉右衛門(本名波野辰次郎)さんが11月28日、心不全のため死去。77歳だった。葬儀は近親者で営む。
歌舞伎界を牽引した看板役者 70代で初役も 中村吉右衛門さん
菊五郎さんら吉右衛門さん悼む 兄の白鸚さん「安らかでいい顔」
【特集ページ】中村吉右衛門さん。本人が語り降ろしの半生記「人生の贈りもの」連載など
1944年、初代松本白鸚(八代目幸四郎)の次男として東京で生まれ、のちに母方の祖父の初代吉右衛門の養子になった。48年に中村萬之助(まんのすけ)を名乗り4歳で初舞台を踏んだ。66年に東京・帝国劇場で二代目吉右衛門を襲名した。
養父と実父の芸を中心に古典歌舞伎を真摯(しんし)に学び、大きな芸容と陰影に富む人物描写、卓越したせりふ回しに定評があった。「俊寛(しゅんかん)」の俊寛、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)、「勧進帳」の弁慶、「寺子屋」の松王丸、「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」の大蔵卿、「河内(こうち)山(やま)」の河内山宗俊(そうしゅん)、「籠釣瓶(かごつるべ)」の佐野次郎左衛門など、時代物、世話物の幅広い芸域で多くの当たり役を生んだ。先祖にちなんだ松貫四(かんし)の筆名で「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」などの脚本も手掛けた。
2006年から初代を顕彰する興行「秀山祭(しゅうざんさい)」を続けたほか、初代が得意とした作品の復活上演にも力を注いだ。
テレビ時代劇「鬼平犯科帳」シリーズ(フジテレビ系)では過去に実父も演じた鬼平を4代目として主演。89年から28年間、150本続き、人情味あふれる火付盗賊改方の長谷川平蔵が人気となった。
02年から日本芸術院会員。07年毎日芸術賞、朝日舞台芸術賞。11年に人間国宝、17年に文化功労者に選ばれた。兄は二代目松本白鸚さん。四女の夫は尾上菊之助さん。
吉右衛門さんは東京・歌舞伎座「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」に出演後の今年3月28日夜、都内のホテルで食事中に心臓発作で救急搬送され入院し、療養していた。
<評伝>時代築いた当たり役 大看板、次代担う 中村吉右衛門さん死去
2021年12月2日 5時00分 朝日
中村吉右衛門さんの70年余の役者人生は一本の芯に貫かれていた。母方の祖父は明治期から戦後にかけて活躍した初代吉右衛門。幼少時に跡継ぎを切望する初代の養子になった。「高尚な芸品がありつつ、お客様がどよめく。初代は歌舞伎をそんな舞台芸術にした」。この一代の名優の芸と精神を継ぎ、二代目として高い芸境を築き上げた。
大看板の名の重圧に耐え、芸と人気を競う日々を「闘い」と表現した。襲名したのは22歳。同世代には尾上菊五郎さんや市川團十郎さんらスターがひしめく。実父の初代松本白鸚や名女形の六代目中村歌右衛門ら戦後歌舞伎の名優たちに教えを受けた。
若い頃はコンプレックスだったという長身が映える様式美と緩急自在のせりふ回しが観客を魅了した。古典歌舞伎の精髄を墨守し、精妙な心理描写を溶け合わせた。真骨頂は時代物だ。「熊谷陣屋」の熊谷直実は戦乱の世でわが子を犠牲にした悲痛さがしみわたり、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助は主君の仇(あだ)討ちをめざす武士の本懐をじっと肚(はら)におさめた。
「俊寛」で、流刑された島に独り残る俊寛は、実父の「ただ、石になるんだ」という言葉や実母のダメ出しを手がかりに悟りの境地へ。昨年11月の舞台で、都へ戻る船を微動だにせず見送る姿には、苦難の生涯を生ききった人の清澄な香気が宿っていた。
時代劇「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵を演じたのは45歳から。江戸文化と原作を大事に演じ、人気を得たことに感謝した。だが舞台で大役を得ても「鬼平人気のお陰では」と言われたことがあると述懐。周囲の声を実力で打ち消した。
歌舞伎を支える立場になっても素顔は謙虚だった。「無心で舞台に立てるようになり、ようやく歌舞伎役者が天職だと思えるようになりました」。こう語ったのは73歳のときのことだ。
初代を顕彰する「秀山祭」は、さながら「播磨屋学校」だった。おいの松本幸四郎さんや四女の夫の尾上菊之助さんらに大役を伝授した。80歳で「勧進帳」の弁慶をつとめ、孫の尾上丑之助さんと共演するのを目標にしていた。
「舞台に上がらないと役者は生きていることにならない」と昨年の劇場再開を喜び、体調不良を押して出演を続けた。生涯追い続けた初代のように、観客と喜怒哀楽をわかちあうことを生の原動力とした人だった。(編集委員・藤谷浩二)
<歌舞伎俳優の尾上菊五郎さん> 長い役者人生を全身全霊で頑張られました。再び、一緒に舞台に立てることを願っていましたので残念でなりません。
<「鬼平犯科帳」で共演した梶芽衣子さん> 28年間、一度も叱られたことがありません。とてもシャイな方ですが本当に何でもご存じで、芝居のことを聞くと何でも教えて下さいました。
色気と陶酔、希代の東京役者 中村吉右衛門さんを悼む 早稲田大教授・児玉竜一
2021年12月3日 5時00分 朝日
中村吉右衛門の舞台には、つねに陶酔と色気があった。
深い内面性を湛(たた)えた重厚な押し出しに加えて、陶酔の源泉は口跡のみごとさにあった。声音そのものが観客を酔わせたのである。その点では、近年の歌舞伎の歴史をさかのぼってみても、実父八代目松本幸四郎の世代を凌駕して、実の祖父であり養父にあたる初代吉右衛門の名調子に比肩するとみなされるだろう。その上、せりふの一字一句に及ぶ深い吟味があった。細部にわたって意味をただし、背景や歴史にいたるまで、納得するまで調べ抜いたので、発せられる言葉は、ことごとく説得力を帯びた。最も伝統的な演技の伝承が、同時に最も現代的な人間像を描き出すという、歌舞伎演技の最高峰に到達したといえるだろう。
2006年以来、歌舞伎座の9月は初代吉右衛門を顕彰する「秀山祭」の指定席となった。初代の芸を顕彰し、初代の芸を受け継ぐという、吉右衛門生涯のテーマを集約したこの興行が、円熟の技芸を披露する場となった。「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の熊谷、「寺子屋」の松王丸と武部源蔵、「逆櫓(さかろ)」の樋口、「妹背山(いもせやま)」の大判事、「盛綱陣屋」の盛綱など、大いなる男たちのドラマは、みな初代の系譜に連なる。その意味では、「幼い頃、波野の家に養子となり、祖父の芸を一生かけて成し遂げました」と讃えた兄松本白鸚の追悼コメントは、さすがに要を得たものといえるだろう。初代ゆかりの演目の復活上演にも意欲的で、とりわけ「岡崎」の政右衛門は、かつて和辻哲郎が「醜悪な戯曲」と罵った作品内容を、人間ドラマの最高峰として評価を大転換させる、決定的な役割を果たした。
だが、吉右衛門には、初代の芸だけに納まらない領分も多くあった。1954(昭和29)年に亡くなった初代を私は直接知らないが、残された記録を読み、映像を見、音盤を聞き、実際に見た方々の話を伺うところでは、吉右衛門は初代よりも線が太く、より輪郭の大きな舞台を達成していた面もあるように思われる。実父譲りの図太さや、ドスの利く底力があり、「井伊大老」の井伊直弼、「元禄忠臣蔵」の大石内蔵助、「将軍江戸を去る」の徳川慶喜などの歴史劇は、初代にはない重要な領域だった。「元禄忠臣蔵」では、国立劇場開場40周年記念の「最後の大評定」で、満場が歔欷(きょき)にあふれた名演が忘れ難い。吉右衛門は、江戸時代以来の演目を現代人にも突き刺さるドラマとして通用させる名人であったが、江戸前というよりは東京役者であったという言い方で、その知的な芸風を讃えたい。
知的で男性的でありつつ、吉右衛門の芸の大きな魅力は、その愛嬌であった。観客との距離のつかみ方のうまさは、歌舞伎そのものを社会の中にどう位置づけるかという、広い視点にも基づくものだったのだろう。その上で、吉右衛門の芸には、どれほど厳しい境遇を演じていても、その演じている自身をもう一人の自分が見つめているような余裕があり、最も得意とする義太夫狂言のような語り物の芸においては、それが卓越した魅力を生み出した。より自然で柔軟な世話物では、その余裕は器の大きさを幻視させることとなり、年輪を経るに従って、いわゆる男の色気につながった。吉右衛門が刻みあげた、清濁を併せ呑む深い器の、衆に抜きんでた歌舞伎のリーダー像が、一般にも普遍的に通じることは、四半世紀以上にわたって演じ続けた「鬼平犯科帳」でも立証されているだろう。
かつて戸板康二は著書『六代目菊五郎』で、「僕は同じ時代に、六代目尾上菊五郎といふ歌舞伎俳優をもち、彼の演技をある程度堪能したことを、生涯の幸福に思つてゐる」と記した。私も、二代目中村吉右衛門について、まったく同じ思いを抱いている。急な悲報に接しながらも、観客としての「生涯の幸福」について反芻しつつ、今は感謝の尽きない思いの中にある。
(寄稿)
(惜別)中村吉右衛門さん 歌舞伎俳優
2022年1月22日 16時30分 朝日
■葛藤越え、進化させた初代の芸
2021年11月28日死去(心不全) 本名・波野辰次郎 77歳
格調高い芸と堂々たる押し出し、陰影ある演技で、歌舞伎界を代表する立ち役として活躍した。数々の当たり役を持ち、時代劇「鬼平犯科帳」はお茶の間でも親しまれた。そんな華やかな役者姿と舞台の外の素顔は異なり、ちょっと気恥ずかしげな表情で、ゆっくり言葉を選びながら語るのが常だった。
「書の世界と同じで、先人をなぞるだけでは名筆になれない。いかに役を自分のものにするか、大変苦労します」
22年前に初めて取材したときの言葉が忘れられない。母方の祖父の名優、初代吉右衛門を継ぐべく幼少時に養子となった。おぼろな記憶に残るのみの初代を追い、芸道を歩み続けた人の感慨がそこにあった。
役者を運命づけられた重圧に悩み、早稲田大仏文科に通っていた1965年、実父の初代松本白鸚(八代目幸四郎)に「フランスに留学し、文学を学びたい」と打ち明けると、「何にでもなっちまえ」と背中を向けられた。幸四郎の高麗屋と初代吉右衛門の播磨屋という二つの家をひとりで背負った実父の双肩を見て、思いとどまった。
同じ年に「吉右衛門になって」と願い続けたお手伝いのばあや、村杉たけさんが病で亡くなり、志は定まる。翌66年、22歳で二代目を襲名した。若き日の激しい内面の葛藤と近しい人々への深い思いが後の名優を生んだのだと、私は思う。
初代の没後途絶えた吉右衛門劇団を再興させる夢は襲名40年の2006年、「秀山祭」に形を変えて実現させた。「跡継ぎのいない自分にできる一番の親孝行です」。毎年9月に初代ゆかりの演目を並べたこの興行は、「心で演じる」という播磨屋の精神に満ちていた。
多くの役を受け継いだ四女の夫、尾上菊之助さん(44)は「初代吉右衛門の芸を守り、全身全霊で芝居に打ち込んだ。先人の血と汗と涙の結晶をさらによいものにして伝え、歌舞伎を進化させました」と敬慕する。
兄は二代目白鸚(九代目幸四郎)さん(79)。2月にミュージカル「ラ・マンチャの男」を演じ納める白鸚さんは劇中歌「見果てぬ夢」に触れて、「レクイエムを歌う者がひとり増えてしまいました。別れはいつでも悲しいものです。たったひとりの弟でしたから」と悼んだ。生涯歌舞伎に命を燃やした「大播磨」の舞台を、そして長年切磋琢磨してきた兄弟の共演を、もう一度見たかった。(編集委員・藤谷浩二)
Wikipedia
二代目 中村吉右衛門(1944年〈昭和19年〉5月22日 - 2021年〈令和3年〉11月28日[1])は、歌舞伎役者。屋号は播磨屋、定紋は揚羽蝶、替紋は村山片喰。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。位階は正四位。旭日重光章受章(没後追贈)[2]。公称身長178
→ 176cm・体重79kg・血液型B型。ふたご座。俳名:秀山。ペンネーム:松貫四[3]。
人物[編集]
1944年(昭和19年)5月22日、東京都千代田区出身。暁星高等学校卒業。早稲田大学第一文学部仏文学科中退[3]。
堂々たる体躯、陰影に富む演技をもって歌舞伎立役の第一人者として活躍。義太夫狂言、時代物、世話物から新歌舞伎、喜劇にいたるまで全てのジャンルで高い評価を得ている。「この人が生まれて来たのは、まことに天の配剤の妙だ」(浜村米蔵)と評され、「芝居のうまさは現代の歌舞伎役者中では一、二を争う実力」(渡辺保)と買われ、「押しも押されもせぬ見事な座頭役者」(福田恒存)と激賞された。[4]
特に、後述するように、『勧進帳』や『義経千本桜』などでの武蔵坊弁慶役が十八番で、1986年のNHK新大型時代劇『武蔵坊弁慶』でも、主人公・弁慶役を演じた。また、テレビでの当たり役、フジテレビの時代劇シリーズ『鬼平犯科帳』で演じた主役・鬼平こと長谷川平蔵役の成功によって、お茶の間でもお馴染みの顔となった[5]。
子供の頃から絵画やスケッチを描くのが好きで、高校生の時に文人画をやろうと画家に弟子入りしたこともあった。[6]後年画集を出版したほか、画廊で個展も開き、美術館では展覧会のイヤホンガイドや講演なども行った。好きな画家はモネやセザンヌ。彼らの絵を見る際には予備知識が必要ないから好きだと話している。ルオーも好きで、NHKの旅番組で本人のアトリエを訪問し感激した。
また、クイズ番組(世界ふしぎ発見、わくわく動物ランド、迷宮美術館ほか)では博学ぶりを発揮した。
東京都、牛込区(現在の新宿区)牛込若宮町の初代吉右衛門宅(母の実家)にて誕生。出生名は「藤間久信」だったが、4歳のころに初代の家(波野家)に養子として入り「波野久信」に、その後昭和41年10月に二代目吉右衛門襲名と同時に「波野辰次郎(初代の本名と同じ名)」へと改名した。
いまや春の恒例行事となっている四国金丸座こんぴら歌舞伎大芝居復活に深い関わりをもつ。吉右衛門は第一回目に出演し、演出・脚本も担当した(プロデューサー的な役割は澤村藤十郎が担当)。その様子はNHK特集『再現!こんぴら大芝居』として1985年7月19日に放送された(2006年2月4日及び2021年8月24日にNHKアーカイブスとして再放送)。
歌舞伎作者としての筆名は、松 貫四(まつ かんし)。これは祖先にあたる人形浄瑠璃作者・松 貫四(初代)の名跡を踏襲したものである。
また、関西学院大学客員教授を務めており、日本芸術院会員にも推薦され、就任している。
2011年(平成23年)、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され(認定の官報告示は同年9月5日付け)、2017年(平成29年)文化功労者となり、没後旭日重光章を授与され、正四位に叙された[7][2]。
2020年(令和2年)、コロナウイルス禍の中で3月から7月まで歌舞伎座の公演が中止となり、無観客で舞台映像を収録しインターネットで配信(須磨浦)。また、日本俳優協会・伝統歌舞伎保存会公式動画企画「歌舞伎ましょう」では、得意の絵を描く姿を動画で披露した。休演中は孫の丑之助のために脚本や書き抜きの手直しや、丑之助兄妹を描いた絵を残して「じじを忘れないようにしてもらおう」としたという。8月に歌舞伎座が再開され、9月に再び舞台に上がった際には「『ああ、生きていてよかった』と思いました。オーバーかもしれませんが、そんな感じがした初めての舞台ですね」と話し、子役が活躍する「近江源氏先陣館」を自分が動けるうちに丑之助とやりたい、それは念願だと語った(NHKラジオ深夜便:2020年12月30日放送・冊子2021年4月1日号より)。
自動車好き。16歳の誕生日に鮫洲で免許を取った。レーサーに憧れてライセンスを取ろうとしたこともある。最初の愛車は中古のダットサン。96年頃はダイムラーのダブルシックス。マニュアル車が好み。
95年頃は休みが取れるとイタリアへ行ってオペラを観ていた。「オペラを観るとほっとするんです」[8]
好きな女優はマリリン・モンロー。高校生の頃、モダンジャズに傾倒した時期がある。映画「死刑台のエレベーター」を母と観てマイルス・デイビスの音楽が好きになった。[9]
好きなアニメは『昆虫物語みなしごハッチ』『トム&ジェリー』。「みなしごハッチとかトムとジェリーとか見てる時は、何も考えずにいられる。ハッチを観ながら、”ああ今日も(母に)会えなかった”とボロボロ泣いたり」とリラックス法を問われ語った(人生レシピより)。
東京ディズニーランドには開園当初より通っており、クマのプーさんが一押しで、ほのぼのしていて好き、と孫と一緒に「プーさんのハニーハント」に並ぶ。またクマのプーさんが好きな理由を聞かれ「見ただけてホッとする。ほんわかする。安らぎを感じますね」とコメントした。また、孫の丑之助を日清食品のチキンラーメンのシンボルキャラクター「ひよこちゃん」の巨大ぬいぐるみを抱いて迎えたこともある。
好きな食べ物を聞かれると50代くらいまでは「特にない。なんでも食べます」とよく答えていたが、70代ではプーさん好きの理由で「自分と同じように蜂蜜が好きだから」と応えたことがある。ホイップの乗ったハワイアンパンケーキを美味しそうに食べるシーンも残っている(にじいろジーンにて)。また、味覚障害を患った際に「うなぎ、蕎麦、てんぷらがいつ食べられるか。好物のうなぎを食べてまずかったら生きる希望がなくなっちゃう」というコメントもしている。
来歴[編集]
母・正子は初代中村吉右衛門の一人娘。兄は二代目松本白鸚。甥は十代目松本幸四郎、姪は松本紀保と松たか子。
初代吉右衛門は一人娘の正子に婿養子を取ろうと考えており、なかなか嫁に行くことを許さなかったが、いよいよ結婚する際、正子は「男子を二人は産んで、そのうちの一人に吉右衛門の名を継がせます」と約束した。その通り二人の男の子が生まれ、約束に基づき、次男の久信は4歳で初代吉右衛門の養子となった。
1945年(昭和20年)3月、初代夫婦と母・兄、乳母の村杉たけらと共に空襲を避け、日光へ疎開。市電の事故に遭うも、乳母のおかげで無事であった。牛込区(現在の新宿区)若宮町の家は空襲で焼け、8月に終戦を迎え、10月に東京の久我山に転居。5歳の兄が近所の子供にいじめられて帰ってくると、庭ぼうきをひきずり、仇を討ちに殴り込みをかけに行くようなやんちゃな子供であった。
1946年(昭和21年)、渋谷区渋谷に転居。乳母は初舞台を踏み、学校に通い始めた兄に、お手伝いは歩き始めた妹に付ききりだったため、庭の木に次々と登り、一人あそびに興じていたが、隣の「キッチン・ボン」の女将さんに「役者になる子が怪我でもしたらどうする」と言いつけられ、木登り禁止にされた。
1948年(昭和23年)、中村萬之助を名乗って4歳で初舞台。この芸名は吉右衛門の祖先・萬屋吉右衛門にちなんだものだった。
「初舞台の口上で、初代が「この子を養子に迎えて跡を継がせる」と述べ、私は戸籍上も藤間久信という名前から祖父の波野姓に変わりました。小学校の名札の苗字も波野となり、「兄貴と苗字が違うんだなあ」と、養子になったことを実感したものです。」(ヘルシーライフインタビューより)
初代吉右衛門は、孫である萬之助を「坊」と呼び、銀座の資生堂、日比谷の東京會舘・プルニエなどの高級レストランや並木藪蕎麦、銀座新富寿しへ連れて行き、目に入れても痛くないほど可愛がったが、こと芝居となるとその性格は一変し、非常に厳しい師匠になり、ヤンチャな萬之助を一喝することもしばしばだった。
翌年萬之助は『山姥』の怪童丸の演技で毎日演劇賞演技特別賞を受賞。天才俳優として注目された。
市川團子(のちの市川猿翁 (2代目))、兄の市川染五郎との十代のトリオで、「十代歌舞伎」とよばれ、人気を博する[10]。
1949年(昭和24年)、実父八世松本幸四郎の襲名披露公演に出演。
1951年(昭和26年)、渋谷区立常盤松小学校入学。その後千代田区麹町へ転居。1952年(昭和27年)、暁星小学校第2学年へ編入。
1954年(昭和29年)、祖父かつ養父・初代吉右衛門が死去。9歳の身で死に水を取り、初めてマスコミのカメラの前で焼香をし、告別式でいろは四十八組の鳶の頭が謡う木遣りを聴きながら「吉右衛門を継がなければ」との思いを意識した。最初の人生の転機であったという。
思春期の頃は、実の母が戸籍上は姉にあたり、実の兄は甥に当たるのでお年玉をあげねばならない、などの複雑さから、自己確立や、吉右衛門の名前の大きさのプレッシャーに悩む日々だった。中学からは先輩俳優と赤坂の「コパカバーナ」「ラテンクォーター」などの高級ナイトクラブへ通い、女性相手のダンスの稽古をしたり、同じころにジャズを聴き始め、音楽好きの友人たちとバンドの真似事を始めた。ギター、ベース、ピアノを揃え、バイエルから稽古し、兄のドラムと後に作曲家となる村井邦彦のピアノに合わせてベースギターで自宅でよくセッションをしたという。タレントで暁星学園の4歳後輩のエド山口は自身の動画[11]で吉右衛門を追悼し、1967年に発売された兄・染五郎のレコード「野バラ咲く道」は「市川染五郎とザ・ラムローズ」というエレキフォークロックバンドの曲であり、そのバンドの中に吉右衛門も参加して兄弟で演奏しているのを、暁星高校の夏期講習の夕食後にTVで観たと語っている。エド山口はコーラスが入った、レコードのヴァージョンが動画としてYOUTUBEで上がっているが、それはザ・ラムローズの演奏の可能性があると話している。
また、若いころは実父と同じく絵描き、大学に入ってからはフランス文学者、外交官などの道も夢見た。
「初代のように、たった一代で人気と名声を築いた場合、その反動で反対勢力も強いんですね。つまりは「つぶそう」とする勢力です。僕もその影響を少なからず受けました。これは襲名する前のことですが、「中村吉右衛門という名前は〝止め名〟にした方がいいのではないか」と記事に書かれたこともありました。初代限りの名前として、今後誰にも継がさない方がいいと。いやあショックでしたね。僕は何のために役者になったのかと。ええ、ちょっぴりグレましたよ。連日、飲み歩いたり(笑)。」
18歳の頃、幼馴染のフランス人女性と恋に落ちた。その後彼女の帰国が決まり、役者を辞め、後を追ってフランスへ行きたいと思いつめる。思い切って父白鸚に話したが、父は反対もせず「何にでもなっちまいな」と背を向けた。「その時の後ろ姿のさみしかったこと。ああ、おやじは僕に期待してくれていたんだなと思いました。双肩に波野家(播磨屋)と藤間家(高麗屋)を担い、片方を兄、片方を僕に譲るために努力してくれていたんだと初めて気づいた。それまでの僕には何も分かっていませんでした」「その時に波野家と吉右衛門の名跡をちゃんと継いで、おやじの荷を軽くしてやらなければと思った」
1961年(昭和36年)、実父と兄と共に、松竹から東宝に移籍。萬之助時代、山本周五郎原作の『さぶ』でさぶ役を演じ、激賞されたが「はまり役と言われ、脇の三枚目ばかり演じるようになってしまうのかと」悩み、毎晩のように精神安定剤とジンのストレートを一緒に飲み、とうとう夜中に血を吐いて倒れ救急車で運ばれる。発見して介抱したのは後に妻になる知佐の父親だった。さぶ役をはまり役といわれ悩んだのは、吉右衛門を継がなくてはならない人間が現代劇で笑いを取る役ばかり演じるようになっていいのか、という気持ちからだったが、誰にも理解してもらえなかったという。[12]1966年(昭和41年)、22歳で二代目中村吉右衛門を襲名。当時の報知新聞では「兄の染五郎(現白鸚)が長嶋なら、弟の吉右衛門は王に近い」と野球界で人気絶頂だったONに例えて紹介され[13]《自称“縁の下のモヤシ”。兄、染五郎にくらべてハデさはないが、じっくりと芸を深める人柄で、歌舞伎味(肌にカブキの味がしみこんでいるさま)は兄以上だ》[14]と当時の女性自身に報じられた。
東宝では歌舞伎のほか、現代劇、ミュージカル、名女優の相手役なども務めたが、当時、歌舞伎より現代劇の舞台に出演することが多く、与えられる仕事は脇役ばかり。思うような活躍ができず、「初代に申し訳ない。名跡を汚してしまう」と悩む。幼い頃から胃腸が弱く、71年には過労による神経性の胃炎、気管支炎などで舞台「ボーイング・ボーイング」(日生劇場)を降板するなど、半年間の療養を余儀なくされた。[15]その後、1974年(昭和49年)、吉右衛門を継いだ者としてもっと古典を勉強したい、もっと実父や初代に近づきたいという思いが雪達磨のように膨れ上がり、このまま東宝にいては、中村吉右衛門という名前を生かすことができないと、父と兄を残して東宝から松竹へ戻ることを決意したが、その決断は「熊谷が己の子供を我が手にかける決意もかくやと思うほどでした。一度飛び出した会社に、梨園に戻る。それは大変勇気のいることでした。(二代目吉右衛門四方山日記)」。覚悟を持って松竹へ復帰するも、現場では「新参者」として扱われ、同じ年頃の御曹司たちが次々と相応の役に挑戦していく一方で、脇役や年代に合わない老け役をつとめなければならないこともあった。しかし吉右衛門は腐らずに稽古をし、先輩たちの舞台を見て、役者としての修業をひたすら地道に積み重ねていったという[16]。
1969年の11月に兄二代目白鸚が結婚をした際、同じマンションの別階に住んでいたが、兄が「皆で一緒に住もうよ」と提案し家族全員で同居していた時期があったという。二代目白鸚の妻藤間紀子氏は2022年1月27日放映の徹子の部屋に出演。吉右衛門の第一印象を聞かれると、「なんかとても優しいというか、笑顔が凄くチャーミングで。なんかとても気さくな感じでね。よく結婚したてというかちょっとその前ぐらいからよく一緒に食事したりしてまして」と懐かしそうに話した。[17]
歌舞伎では外祖父の初代吉右衛門と祖父の七代目松本幸四郎の両者の当たり役を継承。時代物では『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、『勧進帳』『義経千本櫻』の弁慶や平知盛、『菅原伝授手習鑑』の松王丸や武部源蔵、『平家女護島』「俊寛」の俊寛、『梶原平三誉石切』の梶原平三、『絵本太功記』の武智光秀、『松浦の太鼓』の松浦公、世話物では『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の佐野次郎左衛門、『天衣紛上野初花』(河内山)の河内山宗俊など。そのいずれもが口跡の良さと重厚な演技で存在感があるが特に時代物に本領を発揮する。また、新しい脚本の創作をはじめ1982年(昭和57年)には『勧善懲悪覗機関』(村井長庵)の復活上演を国立劇場小劇場で行っており、埋もれた作品の発掘にも力を入れている。
1975年(昭和50年)東京のホテルオークラにて結婚。妻との間に4女をもうけ、娘たちには「とうたん」と呼ばれた。「お父さん」と教えたかったが、幼い子どもに「とうたんでちゅ」と言っていたら、そのままになったという。「二十歳過ぎの娘に『とうたん』などと呼ばれることは照れくさいことだと思っていましたが、いざそういう事態になってみると、照れくさいどころか、うれしいもの」(播磨屋画がたり)家庭内では箸の持ち方や行儀に厳しく、4姉妹の誰かがいつも怒られ、姉妹全員で頭を下げさせられるなど、怖い父親であったという。俳優としては尊敬し大ファンだという娘たちだが、一方で「世間知らず」で「お坊ちゃま」であるとの評もある。性格は忍耐強く、痛さや具合が悪くてもなかなか言わないので困る、すべての目標が高く、幼稚園の頃、遊びのテニスであっても自分たちを上達させようと本気になるので皆怖がっていた、初代を目標に置き、常に高みを目指していると語られている(二代目 聞き書き 中村吉右衛門より)。
1984年(昭和59年)7月、TBSのトーク番組「すばらしき仲間」を天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋「金丸座」で澤村藤十郎、中村勘九郎と撮影した際に、3人の役者は芝居小屋に惚れ込み「是非この舞台を踏みたい」と宿泊先の琴平グランドホテル社長の近兼孝休に話したところ、ちょうど老舗旅館の相次ぐ廃業などで町の観光業に危機感を覚えていた近兼が「ここで歌舞伎を公演してもらえないか」と申し入れ、3人は快諾。[18]「こんぴら歌舞伎」が復活への道を歩み始めた。
しかし「金丸座」は重要文化財であり、文化庁との折衝、また演劇公演に関するノウハウが全く無い中での集客、さらに当時の琴平町は瀬戸大橋もまだ完成しておらず、東京から高松空港へはプロペラの飛行機だけ、鉄路では新幹線、在来線、宇高連絡船の乗り継ぎでやっと到着できるような場所であったため、近兼らの難問は山積。
しかし関係者の努力と熱意は松竹の全面バックアップ、JTBへの協力要請も得られ、ついに第一回『四国こんぴら歌舞伎大芝居』の開催を現実化させる。[19]
「国の重要文化財で上演するのだから、既成の演目ではいけない。金丸座のために作った作品を上演するべきだ」と金丸座側の要請があり、吉右衛門は初めて松貫四のペンネームを名乗り、以前古書店で買ってあった本で見つけた「遇曽我中村」を脚色。金丸座ならではの機構を活かす趣向も込めつつ、初めての作品「再桜遇清水」を書きあげ、演出も担当。町に500本の役者名や金丸座の名入りの幟をスポンサーを募って立てるよう要請し(結果1,000本もの幟が立った[20])、成功祈願のお練りや船乗り込みなどのイベントにも参加。町そのものにも江戸の雰囲気を演出した。
「再桜遇清水」は1985年6月に大阪中座の本興行で初演し、千秋楽の翌々日に金丸座に過密なスケジュールで乗り込んだ。
スタッフには大道具に金井大道具三代目社長の金井俊一郎、照明に日本照明家協会会長の相馬清恒と大ベテランの重鎮を揃え、吉右衛門の「当時に近い自然光での公演実現」などの要求に応えていたが、一方では1週間前までは駐車場の誘導をするつもりでいた、琴平町の商工会青年部の男性メンバーが急遽セリや回り盆の操作、高窓の窓閉めなど、普通であれば危険なため素人が触れないような舞台機構部分を、全くの素人が人力ボランティアで担当することとなり、青年部メンバーは深夜までの必死の転換自主稽古などをして備えたが、当初、演者側には彼らが機構の操作をしていることは知らされておらず、初日は段取りの悪さや、危険や舞台進行の失敗を案じるプロたちから大声で𠮟責が飛び、担当しているのが青年部のボランティアと知った吉右衛門は青年部へ謝りに行った[21]。
NHK特集「再現!こんぴら大芝居」には金井がセリの担当者を固定メンバーにするよう指示しているシーンがあるが、現在の歌舞伎座でもセリの操作に関しては昔の慣習が残っており、大セリは熟練の操作盤担当者が担当し、小セリは狂言方がきっかけ出しをして大道具方が操作[22]しており、普通の演劇よりも専門性が高いものとなっている。
小屋が江戸時代のままの作りであるため、楽屋が現代の歌舞伎役者には広さや設備が十分ではなく、役者は出番が終わると顔(メイク)だけ落としてから走り、近くの宿のお風呂で手足のおしろいを洗い流したが、おしろいで排水口が詰まるなどのトラブルも発生。また、内容が怪談であったため、鬼火や花道上での裸火の使用があり、重要文化財であることもあって、消防車が何台も小屋の周りに待機した。この様子はNHK特集「再現!こんぴら大芝居」にて紹介され、全国的な反響を呼んだ。
公演は連日満員盛況となり、結果は大成功であった。「こんぴら歌舞伎大芝居」が地元琴平町と香川県に与えた経済効果は計り知れず、大底期にあった旅館の廃業を踏みとどまらせ、サービス業者の減少に歯止めをかける事に成功した。また、一連の取り組みが、全国の町おこしに与えた影響は計り知れないほど大きく、日本中の自治体関係者が視察に相次いで訪れ、その後、全国的に様々な自治体において、秋田県の『康楽座』や熊本県の『八千代座』等、古い芝居小屋が復活した。[23]「こんぴら歌舞伎大芝居」はその後もマスコミ等にも盛んにとりあげられ、1990年(平成2年)『国土庁長官賞』、2000年(平成12年)『第48回菊池寛賞』を受賞。2021年現在も継続的に公演・継承されている。また、金丸座は耐震対策工事と新型コロナウイルス対策に伴い、令和2年10月1日~令和4年3月18日までの予定で臨時休館中である。
2021年12月1日、訃報を受けた琴平町では記帳を受付け、町民の悼む声が相次いだ。片岡英樹町長は「とても真面目で、歌舞伎に対して真摯に取り組む姿にさすが吉右衛門さんだなと感じていた。(こんぴら歌舞伎は)吉右衛門さんがいなかったら実現していない。本当に感謝している」とコメントしている。[24]
1997年6月19日号で発売された週刊文春で阿川佐和子との対談が掲載されたが、文中で「僕はあぶない性格で一度は死ぬことも考えました」と明かし、阿川の「一番強くこの仕事(歌舞伎役者)を辞めたいと思った頃はいつ頃か」という質問に、37,8歳の頃と答え、40歳くらいまではそう思っており、当時かなり思い詰めていたと語った。また、後年出版された著書、夢見鳥(私の履歴書として連載)の中では「ガス管をくわえたことがある」と告白している。
「歌舞伎が子ども」と公言して初代中村吉右衛門生誕120年(2006年)より『秀山祭』[25]を精力的に開催するなどといった活動を続けている。吉右衛門はインタビューで「役者の芸というものは舞台に立っているその時その場にしか存在し得ないもので、いなくなれば消えてしまいます。けれどその功績まで忘れ去られてしまってはあまりも悲しい。お客様の心をこんなにもつかんだ、初代吉右衛門という役者がいたのだということをいつまでもご記憶いただき、一代で築き上げた播磨屋の芸というものを微力ながらもお客様にお見せすることが二代目としての使命です」と、秀山祭への思いを語っている。
末の娘(四女)が五代目尾上菊之助の妻となって[26][27]、2013年11月に第1子となる男児を出産[28]。2019年5月、尾上丑之助
(7代目)として初舞台を踏み[29]、吉右衛門は孫との共演を果たした[29]。
2011年、胆管結石の手術のための入院中に人間国宝認定の報を聞く。2013年には巡業中の7月に内臓に異変を感じ、8月に喉のヘルペスを発症し、完治したものの、後遺症で味覚障害になった。食事が摂れなくなり点滴や冷やししるこ、蜂蜜と牛乳をかけたオートミールなどで栄養補給をすることになった。体重は10キロ減り、一時期は自分の唾が苦くて呑み込めず「こんな苦しい思いをするならこのまま逝かせてくれと思った」と苦しさを語るも、一方で徹子の部屋では「こんなに唾が苦くてはキスもできない」と体験を語り、黒柳を和ませた。その後回復し、好物のうなぎも食べられるようになったという。
2020年10月にある手術を受け「影響が思ったより体に響いてしまい、大声を出すと息が上がり、立ち上がるのに苦労している」と小学館のWEBマガジンのコラム「吉右衛門四方山日記」で明かした。その後、2021年1月17日公演より出演していた『壽(ことぶき)初春大歌舞伎』を体調不良で休演した。
2021年3月4日より『三月大歌舞伎』第三部「楼門五三桐」に出演。千穐楽の前日まで務め上げた。甥の十代目松本幸四郎は「三月の『楼門五三桐』では、最初の頃は終演後に酸素吸入をしながら楽屋に戻るくらいの状態だったのに、だんだん元気になられていき、普通は疲れていくのに、すごい人だと感じていました。千穐楽の前日、終演後に挨拶をしたら、「あと1回」って、笑顔で人差し指を挙げて。体調が悪いなか、ここまで辿り着いたという安心感があったんだと思います。翌朝、代役を告げられた時は悔しかったですね」と振り返っている[30]。
2021年3月28日、体調不良を訴え、病院に救急搬送された[31]。後日伝えられたところによれば、当日は歌舞伎座の公演に出演後の夜に都内のホテルで食事中に倒れ、居合わせた人により自動体外式除細動器による処置が行われ、心肺停止に近い状態でそのまま近くの病院に緊急搬送された[32]。出演を予定していた「三月大歌舞伎」を休演[31][33]、4月30日には「急性の心臓発作」により当面の間療養に専念するとして「五月大歌舞伎」を降板した[34]。
その後、5月6日には松竹が「七月大歌舞伎」(7月4日 - 29日)に出演すると発表した[35]が、6月1日、医師の診察などを協議した結果、7月以降も引き続き、当面の間療養に専念する必要があると発表し休演となった[36][37]。死去後の一部報道によると、3月に倒れて以降は意識が回復せず、見舞いに訪れた家族が呼び掛けたり、歌舞伎の音声を流すなどしたが意識は戻らなかったという[38]。
同年11月28日18時43分、心不全のため東京都内の病院で死去した[39][40]。77歳没。訃報は12月1日夕刻に各メディアで伝えられた。法名は「秀藝院釋貫四大居士(しゅうげいいんしゃくかんしだいこじ)」。義理の息子にあたる五代目尾上菊之助は同月2日に歌舞伎座で報道陣の取材に応じ、涙で岳父を惜別していた[41]。2日午後、松野博一内閣官房長官は記者会見で「ご冥福を心からお祈りする。現代を代表する歌舞伎役者として数多くの作品、さまざまな役柄で舞台に立たれテレビドラマでも『武蔵坊弁慶』を演じられるなど幅広い分野で活躍された。わが国の文化芸術の発展に多大な貢献をされてきた中村吉右衛門さんのご逝去に際し、心から哀悼の意を表したい」と述べた[42]。日本国政府は死没日をもって正四位に叙し、旭日重光章を追贈した[2]。
親族のみの葬儀では「自分の葬式ではこの曲を流して欲しいと思っている」(夢見鳥124p)と話していた、マーラーの交響曲第5番第4楽章(アダージェット)がBGMとして流されたとNHK『ラジオ深夜便』・追悼番組(2021年12月8日放送)にて紹介された。また、吉右衛門の衣装製作を請け負っていた「ぎをん齋藤」の女将のブログによると、棺には7年前に俊寛用にオーダーされ、ぎをん主人の死去で完成を見なかった、衣装にする予定だった布が掛けられ[43]、また、竹本葵太夫は、通夜の胸元には『須磨浦』の台本が添えられていたと演劇界2022年3月号[44]に寄稿した。
2021年12月18日、兄松本白鸚が翌年2月に主演するミュージカル「ラ・マンチャの男」製作発表に出席し、「見果てぬ夢」は今まで菊田一夫氏と父初代白鸚へのレクイエムとして歌ってきたが、レクイエムを歌う者が1人増えてしまったと語り、弟について聞かれると「別れはいつでも悲しいものです。たったひとりの弟でしたから。でも、いつまでも悲しみに浸ってはいけないと思います。それを乗り越えて。『見果てぬ夢』を歌いたいと思います」と話した。[45]また、白鸚の妻、藤間紀子は司会の黒柳徹子から、「去年、11月28日に心不全で中村吉右衛門さん、弟様でいらっしゃって。亡くなった後すぐに病院にいらしたんですって」と振られると、「すぐ会いに行きまして。本当に安らかなお顔をしてらしたので、きっとまだまだ活躍していただきたい年ではあるんですけど、でもやることはきっとやり尽くされたのかなと思いました」と振り返り、白鸚は何と言っていたのかと聞かれると、「やっぱりあの、『悲しいです』って言って。『何しろ一人の弟だから』って言ってましたけれども、安らかな顔を見て、『ある意味ほっとした』って言ってました」と明かした。白鸚が吉右衛門さんの体を心配していたとの話には「そうですね。なかなか舞台もこのところコロナで3部制になると部が違うと会うこともなくなっていたんで、体のことはいつも心配して。『大丈夫なのかな』とは気にしてましたけれどもね。本当に残念でしたけど」と続けた。また、「吉右衛門さんも主人のことを心配しておられるときもあって。ちょっと調子が悪いときに、『ちゃんと調べた方がいいよ』って気にしてくださって」と回顧。「息子(松本幸四郎)がね、ずいぶん芝居を教えていただいたんですけれども、よく『兄貴、兄貴』って言っておられるよって言っていました」とも語った。[46]
l 社会的活動[編集]
文化庁『次代を担う子どもの文化芸術体験事業』巡回公演事業ワークショップ「歌舞伎の世界で遊ぼう」「実際に舞台をみてみよう」(2006年〜2012年)全国の小学校を巡り、歌舞伎を身近で楽しく体験してもらうため活動。おはなし、構成・演出・監修を担当。舞台で使う馬に先生や生徒が乗る体験、雨や雪、川の流れを表す黒御簾音楽を聴いて、効果音の音当てクイズ、休憩時間には吉右衛門自らが筆を執り教師に隈取りを施し、さらに「押し隈」の紹介なども。
2021年現在、巡演は行われていないが、歌舞伎座ギャラリーにて上記の歌舞伎体験をできるコーナー[47]がある。
巡回日程
2006年11月6-24日:中国地方 2007年10月9-24日:北海道・東北[48]地方 2008年11月4-19日:東北・関東地方 2009年11月5-25日:近畿・四国地方
2010年11月8-25日:九州地方 2011年11月4-22日:関東・中部[49]地方
2012年11月6 - 22日:中部・近畿地方
「コロー 光と追憶の変奏曲」展(2008年6月14日 - 8月31日、国立西洋美術館・神戸市立博物館) - オーディオガイド
開館記念展〈I〉「ポーラ美術館コレクション展」プレイベント SBSラジオ公開録音第3弾「印象派とエコール・ド・パリの楽しみ」[50](2010年8月21日、静岡市美術館) - パネラー
「ルオーと風景」展オープニング記念トークショー[51]「中村吉右衛門が画をかたる―ルオーに魅せられて」(2011年4月23日、パナソニック汐留ミュージアム) - トーク
グッチ×中村吉右衛門東日本大震災チャリティガラ[52](2011年5月25日、パレスホテル東京)
「初代中村吉右衛門展[53]・初代中村吉右衛門映画祭II[54]」講演(2011年8月2日、早稲田大学大隈記念講堂) - 講演
グッチ×中村吉右衛門チャリティガラ「A
Night to Support Children in Tohoku」[55](2012年5月25日、パレスホテル東京)
「クリーブランド美術館展」「人間国宝展」(東京国立博物館)・「世紀の日本画」展[56](東京都美術館)(2014年2月5日
- 4月1日) - 3展をつなぐ音声ガイドナビゲーター
鎌倉鶴岡八幡宮 段葛竣工奉祝行事 通り初め・奉祝舞「延年の舞」奉納[57](2016年3月30日、鎌倉鶴岡八幡宮舞殿)
「早稲田大学芸術功労者顕彰記念中村吉右衛門展・中村吉右衛門講演会―古典歌舞伎の芸と心[58]」(2016年8月4日、早稲田大学大隈記念講堂) - 講演
ユネスコサポート絵皿 tribute21チャリティー絵皿コレクション 中村吉右衛門絵皿(FELISSIMO)しだれ桜の絵柄。
富士山世界遺産国民会議[59] 著名人による応援メッセージ223フェロー 夢の一字とサイン、寄稿。
l 歌舞伎以外の舞台[編集]
[60]父・兄らとともに東宝劇団に約10年間移籍しており、東宝劇団は歌舞伎をメインにしていたが、当然ながらそれ以外の舞台(ストレートプレイ、ミュージカルなど)の出演機会もあった。当時毎日新聞の演劇記者であった演劇評論家の水落潔氏は「まだ二十歳代だが実に上手かった。『雪国』の島村はこの時の吉右衛門さんを超えた俳優を見たことがない。」と書いている(演劇界2022年2月号)。萬之助時代の1964年『さぶ』(原作:山本周五郎)では、兄演じる二枚目の主役・栄二に対し、朴訥なさぶを演じ好評を博した(同じく兄弟共演で1968年[61]・1975年[62]にも再演)が、当時水落氏が当人に『さぶ』の話をしたところ「あれは栄二の芝居です。吉右衛門がさぶで褒められても名誉にはなりません」と途端に不機嫌になったという。[63]一方で、1970年創刊の「季刊同時代演劇」のインタビュー[64]で好きな役を聞かれ「さぶ」とも答えている。
二代目吉右衛門となる萬之助の襲名披露は帝国劇場の杮落とし公演でもあり、東宝劇団の最初で最後の豪華な襲名披露公演となった。襲名を控えた若きスターの売り出しに、東宝側も力が入った。現代劇での主演は1966年『赤と黒』(原作:スタンダール)、萬之助の初の「赤毛物」への出演。作家大岡昇平が初めての劇作の筆を執り、菊田一夫演出の話題作であった。萬之助はソレル役に備えて髪を赤く染め、パーマをかけて臨んだ。萬之助らは公演前にスタンダールの生家などを巡る一週間のフランス旅行へ行き、現地の下見も行ったという。
当時の毎日新聞には、劇場の客席のほとんどは若い女性で「萬之助が登場しただけで騒ぎ、芝居などそっちのけ。恋がたきのクロアズノア伯(二代目白鸚)とフェンシングのけいこをする場面で、萬之助と染五郎が互いに入れかわり、それぞれの顔がよくわかるようになると、とたんにキャーッ」と、女性ファンの熱狂ぶりに辟易気味な劇評が掲載されるなど、襲名前から人気が高まっていた。[65]この時期はまた、テレビドラマ、映画にも進出。山田五十鈴、司葉子、岡田茉莉子、若尾文子、岩下志麻、太地喜和子、乙羽信子、杉村春子らとの共演や、新派公演へも度々客演し、初代水谷八重子の相手役(婦系図、金色夜叉ほか)を多く勤めた。吉右衛門襲名後の歌舞伎以外の舞台公演は『太宰治の生涯』、『風林火山』、『蜘蛛巣城』など。『巨人の星』が舞台化された際には星一徹を演じている[66]。
展覧会・写真展
中村吉右衛門スケッチ展[67](2005年5月10日-14日、銀座吉井画廊)朝日新聞連載の「吉右衛門が描く長崎旅情」「播磨屋画がたり」原画なども展示。
NHK厚生文化事業団チャリティー企画 芸能人の多才な美術展[68](2005年7月20日-8月5日、河口湖美術館)
早稲田大学演劇博物館企画展 初代中村吉右衛門展[69](2011年7月2日
- 2011年8月7日、早稲田大学演劇博物館・企画展示室I)
中村吉右衛門写真展―SONORAMENTE[70](2014年8月30日-9月15日、グッチ銀座7階)
早稲田大学芸術功労者顕彰記念 中村吉右衛門展[71](2016年6月7日
- 8月7日、早稲田大学坪内博士記念 演劇博物館)
二代目 中村吉右衛門 写真展[72](2018年11月7日
- 12月9日、MIKIMOTO銀座4丁目本店7階ミキモトホール)
l テレビドラマ[編集]
テレビドラマでは『有間皇子』(1966)、『ながい坂』(1969、山本周五郎作品)、『右門捕物帖』(1969、全26回)などにそれぞれ主演。
1970年代以降も歌舞伎および、テレビなどで活躍。1980年からはテレビで、時代劇『斬り捨て御免!』に主演(1982年まで3シリーズ製作)。
1986年にはNHK新大型時代劇『武蔵坊弁慶』(全32回)で主役・弁慶を演じ、前年末の第36回NHK紅白歌合戦に審査員として出演した。
1989年、池波正太郎原作『鬼平犯科帳』4度目のテレビドラマ化にあたっては、かねてより原作者から直々に出演依頼があったものの長い間固辞し続けていたが、実年齢が平蔵と同じになったこともあり満を持しての出演となった。「人気シリーズにけちをつけてしまうのではと迷いに迷って私が(池波)先生に電話すると、「大丈夫。君の思うとおりにやりなさい」という励ましのお言葉をくださいました。ここまでして頂いてお受けしなかったらそんな奴は豆腐に頭をぶっつけて死んだほうがましと思い、決心したのです」[73]同年から2001年まで毎年、9シリーズと数本のスペシャル版を製作、その後2016年12月の最終版放映まで、全150本の長期人気シリーズとなり、吉右衛門にとって鬼平役が文句なしの当たり役となった(実父である初代白鸚も、初代版鬼平犯科帳で長谷川平蔵を演じた[74]。『鬼平』は若い女性をも取り込む一大ブームとなり、吉右衛門は『物語り』で「「吉右衛門といえば鬼平」とお考えの方も多いようです。(略)こういうチャンスを与えて頂いた僕は、ありがたいと思っています」と話した。その後、人気はさらに過熱。「勧進帳」の弁慶役で幕外で最後の引っ込みを始める瞬間に「オニヘーイ」と声がかかったと吉右衛門は語っている(吉右衛門のパレット)。また、『聞き書き 二代目』の著者である小玉氏には「亡くなった時、代表作として鬼平が真っ先に上がるのはちょっと・・・・・・」[75]と話したこともあったという。
なお、池波は平蔵を描くにあたり初代白鸚の風貌をモデルとしたという逸話がある。また、吉右衛門も初代版(第2シリーズ10話「隠居金七百両」、15話「下段の剣」)では平蔵の息子、辰蔵を演じている)。
2003年にはテレビ『忠臣蔵〜決断の時』で、長年のラヴコールに応えてテレビで初めて大石内蔵助を演じ、重厚な演技を見せた。なお、テレビ時代劇の『忠臣蔵』物では、1989年のテレビ東京の12時間超ワイドドラマ『大忠臣蔵』(原作:森村誠一「忠臣蔵」)で徳川綱豊を演じている(大石内蔵助役は実兄の現・二代目白鸚)。
「弁慶」、「鬼平」などのテレビ時代劇での活躍や、歌舞伎での充実した仕事ぶりにより、幅広い分野で活躍する兄・白鸚に劣らぬ存在感を発揮しているが、兄と甥の幸四郎とは違い、襲名後はテレビ時代劇以外の現代劇に出演した事はほとんどなく、父母、兄妹と一家5人で主演した「おーい!わが家」と、背広姿で気鋭の科学評論家・藤瀬史郎役で主演した「いま炎のとき」の2本のみと思われる。
年譜[編集]
1944年5月22日 - 誕生。初代松本白鸚の次男。兄は二代目松本白鸚。外祖父の初代中村吉右衛門の養子となる。
1948年6月 - 東京劇場にて『俎板長兵衛』の長松ほかで中村萬之助を名のり初舞台。
1966年10月 - 帝国劇場にて『金閣寺』の此下東吉ほかで二代目中村吉右衛門を襲名。10月22日、NHK総合にて帝劇の襲名披露公演を劇場中継。
1985年6月 - 国指定重要文化財「旧金毘羅大芝居(通称:金丸座)」にて 「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」を立ち上げ(演出・脚本・出演)町おこしに貢献。
1990年6月 - 海外公演(アメリカ)、計26回公演。「身替座禅」「鳴神」「勧進帳」(ロサンゼルス公演のみ)
1996年2月 - 海外公演(イタリア)、計14回公演。「平家女護島 俊寛」
1996年9月 - 海外公演(アメリカ)、計15回公演。「釣女」「平家女護島 俊寛」
1996年10月 - 海外公演(香港)、計3回公演。「鳴神」
2006年9月 - 歌舞伎座にて初代吉右衛門の俳名を冠した「秀山祭」をはじめる。以後毎年恒例に。
2008年9月 - 関西学院大学文学部客員教授就任。
受賞歴[編集]
1975年 - 名古屋演劇ペンクラブ年間賞
1995年 - 眞山青果賞大賞、第3回読売演劇大賞優秀男優賞
1996年 - 第19回日本アカデミー賞優秀主演男優賞
1999年 - 第9回日本映画批評家大賞ゴールデングローリー賞
2008年 - 第12回坪内逍遥大賞、第28回伝統文化ポーラ賞大賞
2015年 - 第22回読売演劇大賞大賞および最優秀作品賞、第31回浅草芸能大賞、第31回早稲田大学芸術功労者顕彰
l 出演作品[編集]
歌舞伎[編集]
二代目吉右衛門の当たり役として知られるものは以下のとおり。
『勧進帳』の弁慶 (映像:歌舞伎座さよなら公演 第1巻収録(DVD))
『一谷嫩軍記・熊谷陣屋』の熊谷直実 (映像:歌舞伎座さよなら公演 第8巻収録(DVD)・歌舞伎座新開場 柿葺落大歌舞伎 四月 五月 六月(DVD&BD))
『鬼一法眼三略巻・一条大蔵譚』の 一条大蔵長成 (映像:歌舞伎特選DVDコレクション全国版(34)
)
『義経千本桜』渡海屋・大物浦の渡海屋銀平実は新中納言知盛 (映像:歌舞伎座さよなら公演 第5巻収録(DVD))
『妹背山婦女庭訓・吉野川』の大判事清澄
『平家女護島・俊寛』の俊寛僧都 (映像:歌舞伎座新開場 柿葺落大歌舞伎 四月 五月 六月(DVD&BD)・歌舞伎特選DVDコレクション 全国版(5)
)
『絵本太功記』の武智十兵衛光秀
『時今也桔梗旗揚』の武智日向守光秀
『菅原伝授手習鑑』の武部源蔵、舎人松王丸、舎人梅王丸 (映像:歌舞伎座さよなら公演 第7巻収録(DVD)・NHK DVD歌舞伎名作撰 (2013年7月))
『天衣紛上野初花』(河内山)の河内山宗俊 (映像:NHK DVD歌舞伎名作撰 (2004年7月))
『極付幡随院長兵衛』の幡随院長兵衛
『伊賀越道中双六』の唐木政右衛門、呉服屋十兵衛
『将軍江戸を去る』の徳川慶喜
『梶原平三誉石切』(石切梶原)の梶原景時 (映像:NHK DVD歌舞伎名作撰 (2007年4月)・歌舞伎座新開場 柿葺落大歌舞伎 四月 五月 六月)
『松浦の太鼓』の松浦鎮信公 (映像:歌舞伎座さよなら公演 第7巻収録(DVD))
『いろは仮名四十七調 弥作の鎌腹』の百姓弥作
『二条城の清正』の加藤肥後守清正
『博多小女郎浪枕』の毛剃
『ひらかな盛衰記・逆櫓』の樋口次郎
テレビ(ラジオ)ドラマ・ナレーション[編集]
大助捕物帖[79](1958年、日本テレビ) - 飴売り金太 [80]
約束[85](1964年、NHK) - 主演、芸術祭奨励賞受賞作品。2013年、和田勉所有のフィルムがNHKに提供され、NHKアーカイブスに登録[86]。
シオノギテレビ劇場 さぶ(1966年、フジテレビ) - さぶ
おーい!わが家(1967年、フジテレビ)ー 高岡吉男(次男) 松本幸四郎(8代目)一家5人が、初めて揃って主演した大型ファミリードラマ。
文五捕物絵図(1968年5月17日、NHK総合)「天保十一年初夏」 - 平吉
ながい坂[87](1969年、日本テレビ) - 三浦主水正 、第2回テレビ大賞本賞および優秀タレント賞受賞。神奈川県横浜市の放送ライブラリーにて無料視聴可能。
鬼平犯科帳(八代目松本幸四郎版)(1971-1972年、10話・15話 NET) - 辰蔵
いま炎のとき(1972年、TBS)ー 科学評論家・藤瀬史郎 男女の愛をテーマに、仕事に情熱を燃やす男と、何かを待っている女が、ひとつの出会いから恋をまっとうさせるまでを現代人の愛の渇望を背景にしながら描く。(略)吉右衛門が背広姿で初の現代劇にとりくみ、気鋭の科学評論家・藤瀬史郎の役を演じる。ドラマは売れっ子の女流劇画家・賀川妙子(酒井和歌子)と藤瀬との出会いから始まる。全13回
右門捕物帖[88](1969
- 1970年、日本テレビ) - 近藤右門(むっつり右門)、優秀タレント賞受賞
斬り捨て御免!(1980 - 1982年、東京12チャンネル)
- 花房出雲
劇画ドラマ「項羽と劉邦」(1983年1月2日、NHK総合) - 項羽(声優)
武蔵坊弁慶(1986年、NHK) - 武蔵坊弁慶 「中村吉右衛門さんを偲んで」(2021年12月18日 NHK総合)にて紹介
大忠臣蔵(1989年、テレビ東京) - 徳川綱豊 (兄と共演)
鬼平犯科帳(1989
- 2016年、フジテレビ) - 長谷川平蔵
正月ドラマスペシャル 荒木又右衛門 決戦・鍵屋の辻[89](1990年、NHK)-
語り
ラジオドラマ 関容子作 「おもちゃの三味線」(1990年頃、ニッポン放送)- 初代中村吉右衛門
忠臣蔵 風の巻・雲の巻(1991年、フジテレビ) - 服部市郎右衛門
映画(出演・ナレーション)[編集]
続源義経(1956年)
- 良成
野盗風の中を走る(1961年)
- むっつりの弥助
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年)
- 萱野三平 作中死亡する役柄のため、前半「花の巻」までの出演。
心中天網島(1969年、篠田正浩監督 / 近松門左衛門作品) - 紙屋治兵衛
あゝ海軍(1969年)
- 平田一郎
白き氷河の果てに (1978年、門田龍太郎監督)ー ナレーション。1977年に日本人隊員がK2登頂に成功するまでの姿を描くドキュメンタリー。
動く彫刻 ジャン・ティンゲリー(1981年、勅使河原宏プロダクション・ウブウェブフィルム)ー ナレーション 勅使河原宏監督作品(15分/35mm)
歌舞伎役者片岡仁左衛門・登仙の巻(1995年)
鬼平犯科帳 劇場版(1995年、小野田嘉幹監督) - 長谷川平蔵
わが心の歌舞伎座(2011年)
- 歌舞伎座さよなら公演記念ドキュメンタリー作品
シネマ歌舞伎・一谷嫩軍記 熊谷陣屋(2011年)
バラエティ・教養・ドキュメンタリー[編集]
パノラマ劇場[90](第2回)ミュージカル「或る椿姫」、コメディ「新入社員歓迎」(1960年4月17日、NHK総合)- ゲスト 兄、黒柳徹子、大山のぶ代らと共演。
クイズアワー「私の秘密」(1966年7月18日、NHK総合)
- ゲスト(中村萬之助時代)
「わたしの自慢料理」(1976年12月18日、NHK)
「中村吉右衛門の”伴内バーグ”」(1985年2月16日、NHK):妻の知佐と出演。「中村吉右衛門さんを偲んで」(2021年12月18日 NHK総合)で紹介。
ジュニア大全科(1982年9月16日、NHK教育)「本との出会い」(4) -星の王子さま~中村吉右衛門-
「すばらしき仲間」(1984年、TBS)共演:澤村藤十郎、中村勘九郎 当時埋もれていた旧金毘羅大芝居を来訪し紹介。
NHK特集「再現!こんぴら大芝居」(1985年7月19日、NHK)NHKアーカイブス[91][92]。
スター爆笑Q&A(1985年・1988年、読売テレビ)-
ゲスト。85年放映では特技披露でギターの弾き語り。兄が作詞・作曲した「野バラ咲く路」を歌う。
連想ゲーム(1986年3月26日、NHK)
- 解答者。NHKアーカイブス公開ライブラリーにて視聴可能。「中村吉右衛門さんを偲んで」(2021年12月18日 NHK総合)で紹介。
わくわく動物ランドスペシャル(1986年4月2日、TBS)
- 神奈川県横浜市の放送ライブラリーにて無料視聴可能。
青春プレーバック(1986年4月19日、NHK)「中村吉右衛門」
-時今也夢開蝶船出-
ひるのプレゼント(1986年10月20日、NHK)「立居振舞人間学」(1)
-立つ-
今夜は最高!(1987年8月8日放映回、日本テレビ) - ゲスト。タモリの人気コントキャラクター「大魔神子」の二代目に立候補。歌と踊りを披露。
テレビエッセー 私のひとつ(1989年1月21日、NHK)「24本の色鉛筆」
日曜特集・新世界紀行 世界最長の大河 ナイル大紀行1-3(1989年2月19日、TBS)
- 語り。DVDあり、神奈川県横浜市の放送ライブラリーにて無料視聴可能。
日立 世界・ふしぎ発見!(TBS) - 初期・中期の準レギュラー。
博学ぶりを発揮し、黒柳徹子らレギュラー陣から「親分」と愛称される。2018年9月1日放映(第1486回)に21年ぶりに出演。
なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル(1989年10月2日、フジテレビ)
- 神奈川県横浜市の放送ライブラリーにて無料視聴可能。
FNS大感謝祭(フジテレビ)- 鬼平チームとして江戸家猫八、尾美としのりと共にクイズに出演。せっかちな猫八が分からないのにボタンを押しまくり、尾美を困らせた。
日本の伝統芸能 -歌舞伎鑑賞入門- 「時代物」(1990年8月11日、NHK教育) - 神奈川県横浜市の放送ライブラリーにて無料視聴可能。
歌舞伎鑑賞入門II「俊寛」 -日本の伝統芸能-(1991年5月11日、NHK教育) - 神奈川県横浜市の放送ライブラリーにて無料視聴可能。
連続討論・日本人のこころ(2)(1993年1月7日、NHK)「型と芸」芸事の中に前衛を見る - パネラー
漢詩紀行(1993年4月9日
- 1996年6月12日、1999年5月31日-2009年1月3日、NHK教育) - 日本語朗読、NHK公開ライブラリーにて視聴可能。
ティータイム芸能館(1995年10月24日、NHK) - 対談「八重子から八重子へ」きき手:水谷八重子、舞台「婦系図」録画放映(1973年、国立劇場)
浪漫紀行・地球の贈り物(1994年
- 1996年、TBS) - 水先案内人
笑っていいとも! テレフォンショッキング(1995年10月17日回、フジテレビ)
- ゲスト 渡辺真知子からの紹介で登場。尾美としのりに引き継いだ。
ETV特集「中村吉右衛門、厳島に立つ」-新作歌舞伎への挑戦-(1998年05月20日、NHK教育)
歌舞伎を救ったアメリカ人 -バワーズ、名優たちとの半世紀-(1999年2月11日、NHK)(共演:九代目松本幸四郎)
さんまのまんま(2000年?、2012年1月7日、フジテレビ)ゲスト 2000年出演の際にも鯖寿司をお土産に持参[93]、その時は娘を1人連れて登場。
スタジオパークからこんにちは(2001年5月17日、NHK)ゲスト「中学生でナイトクラブへ」「ERやビバリーヒルズ青春白書を観ている」「碇知盛と蜘蛛巣城について」
トクダネ!(2001年6月5日、フジテレビ)ゲスト「私の履歴書 中村吉右衛門」ばあやさんの話、兄についての話
歌舞伎舞踊鑑賞入門 -日本の伝統芸能-(2001年09月15日、NHK教育)第3回「立役のおどり」
世界・わが心の旅(2001年11月4日、NHK)「フランス ルオーの瞳に魅せられて」「中村吉右衛門さんを偲んで」(2021年12月18日 NHK総合)で紹介。
ハイビジョンスペシャル「空海の風景」(2002年1月2日、NHK)
- 朗読
テレビ人間発見 (2002年4月6日、テレビ東京)「世に定め人に芸・歌舞伎俳優・中村吉右衛門」
ためしてガッテン(2002年9月4日、NHK)「決定版!疲労リセット大作戦」 - 解答者
開運!なんでも鑑定団(2002年12月24日、テレビ東京)先代所蔵の小林古径、小杉放庵作品を出品。100万円と鑑定。
アートエンターテインメント 迷宮美術館(2004年3月20日、2006年2月6日、2008年4月15日、2010年3月15日、NHK) - ベストキュレーター賞
心に刻む風景(2006年10月4日
- 2021年4月7日放映よりタイトルコールのみ出演、代役は日本テレビアナウンサー辻岡義堂。日本テレビ) - ナレーション
ハイビジョン特集「還暦からの挑戦~中村吉右衛門 歌舞伎の新作を創る」(2006年3月24日、NHK)「中村吉右衛門さんを偲んで」(2021年12月18日 NHK総合)で紹介。
ハイビジョン特集「京都・庭の物語~千年の古都が育んだ空間美~」(2007年1月1日、NHK)
ETV特集「”星の王子様”と私」(2007年2月17日、NHK)
- インタビュー[94]
日曜シアター(2007年12月23日、NHK)招待席・仮名手本忠臣蔵(後編)枠(3) - スタジオコーナーゲスト
ハイビジョン特集「日本 庭の物語」(2008年1月4日、NHK)
日本の伝統芸能 中村吉右衛門の歌舞伎入門(2010年3月31日
- 、NHK教育)全4回
二代目の肖像 中村吉右衛門の世界 芸の極みを求めて[95](2011年1月6日、BS朝日)
ザ☆スター「岩下志麻」(2011年3月28日、NHK)
- ゲスト。映画『心中天網島』制作にまつわる思い出を披露。
ウチくる!?[96](2011年9月11日、フジテレビ)
- VTRゲスト
情熱大陸(2011年9月18日、MBS)「趣味はスケッチとドライブ。67歳の「人間国宝」歌舞伎への情熱とその素顔とは?」[97]
いい旅・夢気分(2012年9月5日、テレビ東京)絶景の瀬戸内 名所めぐり 鳴門~高松~岡山[98](共演:賀来千香子)
BS歴史館(2012年12月13日、2013年2月28日、NHK)
- ゲスト
美味しさの物語 幸福の一皿(2012年4月
- 2013年3月、BS朝日)
- 主宰者(案内人)
誰だって波乱爆笑(2015年8月30日、日本テレビ) - ゲスト。山と積まれたプーさんグッズの前で、くまのプーさん好きを披露[99]。
サワコの朝(2015年9月5日、TBS)記憶の中で今もきらめく曲:「死刑台のエレベーター」のテーマ いま心に響く曲:ナット・キング・コール「アンフォゲッタブル」[100]
ザ・インタビュー~トップランナーの肖像(2015年9月5日、BS朝日)
美の壺(2016年5月27日、NHK)「魅せる、隠す、暖簾(のれん)」 - ゲスト
にじいろジーン(2010年8月14日、2017年8月19日、フジテレビ)
- VTRゲスト 「ぐっさんと行くならこんなトコ!」銀座でハワイアンパンケーキを食べ、ぐっさん(山口智充)に歌舞伎体験講座。
熱中世代 大人のランキング [101](2017年8月27日、BS朝日)
- 第112回 ゲスト
ザ・プロファイラー ~夢と野望の人生~(2018年10月11日、NHK) 「シェイクスピア」
- ゲスト
徹子の部屋(2006年8月25日、2018年8月23日、2019年7月18日〈※初出演、33歳時の映像〉、2021年12月2日(追悼番組)、テレビ朝日) - ゲスト
ザ・ドキュメンタリー 二代目 中村吉右衛門~人間国宝74歳…いのちの歌舞伎~[102](2018年9月15日、BS朝日)
ぴったんこカン・カン(2019年5月3日、TBS)
- VTRゲスト「歌舞伎の名門・尾上菊之助さんご一家がご子息の襲名初舞台を激励する旅」東京會舘で孫にご馳走。ラ・マルセイエーズを披露[103]。
あしたも晴れ!人生レシピ (2019年8月9日、NHKEテレ)「運命を受けて立つ~中村吉右衛門(75)~」2021年12月24日、Eテレにて再放送。
みやこびと極上の遊び ~京都 夏から秋へ~(2020年10月31日、NHK)
- 語り
偉人たちの至高のレシピ ~京都・板前割烹の献立帖~[104](2021年01月1日、NHKデジタル総合1)
- ゲスト
情報ライブ ミヤネ屋「訃報 歌舞伎俳優中村吉右衛門さん死去」(2021年12月2日、読売テレビ)- 追悼特集。兄と共にインタビュー、ギターの弾き語りなどの秘蔵映像。
めざまし8「訃報・中村吉右衛門死去・知られざる”素顔”」(2021年12月2日、フジテレビ)- 追悼特集。小学校の歌舞伎教室の取材映像あり。
Mr.サンデー「中村吉右衛門・歌舞伎に捧げた生涯「宿命」背負いながら・・・」(
2021年12月5日、フジテレビ)-
追悼特集。こんぴら歌舞伎の紹介。
ラジオ深夜便「深夜便アーカイブス「中村吉右衛門さんをしのんで~芸の道を全うしたい」」(2021年12月7日、NHKラジオ第1)2020年12月のインタビューに続き、葬儀で流されたというマーラーの交響曲第5番第4楽章を併せて放送。
中村吉右衛門さんをしのんで(2021年12月18日14:55〜、NHK総合) 歌舞伎の名場面、須磨浦やNHK所蔵の秘蔵映像を交え、故人の人柄や功績を語る。スタジオゲスト:尾上菊之助、渡辺保(演劇評論家)VTRゲスト:中村歌六、麻美れい、十代目松本幸四郎
CM[編集]
日立製作所「キドカラー」(1977年
- 1978年前期?)
「違いがわかる男」3代目 / 1972年:ACCCMフェスティバル第12回テレビフィルムCM部門秀作賞。放送ライブラリー無料視聴可能。
「新・違いを楽しむ人たち」他3本 / 2004年
第一製薬「カロヤンハイ・カロヤンS」(1982年
/ 現・第一三共ヘルスケア) 前半は草原で馬に乗り爽やかに疾走。後半はカロヤンハイを頭に揉み込む。「髪は長い友達」
味の素ゼネラルフーヅ「グランデージ千年コーヒー」(1983年「グランデージ・女・永遠」篇) - 放送ライブラリー無料視聴可能。ACCCMフェスティバル(第23回秀作賞)
サントリー ラジオCM(1991年)「山崎」「作家のキープボトル」篇」 - ACCCMフェスティバル第31回全日本CM大賞、CM殿堂入り第13回(作品№31)
「六甲のおいしい水」(1990年代、2000年-2001年6月まで「水を買う」「水を捜す」篇)
「カレーはハウス」(1993年)
「シーフードのためのカレーです。」「ビーフのためのカレーです。」(1997年 - 1999年)
「100周年企業広告」(2013年)
JRA(日本中央競馬会)「ボクのケイバ・あなたのケイバ」天皇賞(秋)篇(本木雅弘と焼肉を食べつつ「スタミナ」を推す)、菊花賞篇(本木と弓道)、有馬記念篇(1996年、ゲスト出演)
2003年12月22日、2008年12月24日、山陽新聞に写真掲載。
2012年12月24日より岡山ローカルCM開始。吉右衛門丈が国宝「四季花鳥図」(狩野永徳)と出会うシーンが映し出される(山陽新聞2012年12月24日号)。
TBS系はなまるマーケット出演時に和菓子「あんとろり」の紹介(2012年8月14日)。
日本エアシステム(1990年
- 1991年)
三井信託銀行(~2000年?)ノベルティ・中村吉右衛門コレクション(初代も好んで使用したという、播磨屋ゆかりの文様「吉菱」をあしらったグッズ。菓子鉢、マグカップ、冷茶グラス、湯呑み、花器、巾着など)
ラインアート・シャルマン 10周年記念カタログ 寄稿(眼鏡についての話題やデザインのアイデアなど)
シャープ「プラズマクラスター加湿空気清浄機」(発見!プラズマクラスター・中村吉右衛門篇、2010年)
SMBC日興証券(歌舞伎俳優・100TH「その人生に、SMBC日興証券」篇、2018年、2019年)
(株)Papas company(2004年ー2021年6月[105])スチール(ファッション)モデル。文芸春秋、週刊文春などに掲載
舞台[編集]
文学座第71回公演「明智光秀」(1957年、東横ホール)
- 明智光慶、森力丸 役 劇作家・福田恆存が「史劇」の創造に取り組んだ最初の作品。
歌舞伎と文楽の提携による試演会「嬢景清八嶋日記」(1959年、新橋演舞場) - 土屋郡内 役。同年4月28日、NHK総合にて舞台中継。
東宝グランド・ロマンス、第十五回芸術祭主催公演「敦煌」(1960年、東京宝塚劇場) - 尉遅光 役
東宝劇団旗揚げ公演「野薔薇の城砦」(1961年、東京宝塚劇場) - 芹沢平九郎 役
東宝劇団特別公演「有間皇子」(1961年、芸術座/大阪産経会館)
- 有間皇子 役 八代目松本幸四郎依頼による福田恆存の「史劇」第二弾。
東宝現代劇「蒼き狼」(1963年、1964年、読売ホール / 東京宝塚劇場) - カサル 役
東宝・明治座提携、東宝劇団九月特別公演「原田家の人々」「新平家物語 清盛と常磐」「さぶ」(1964年、明治座)
- 堀内茂助 役、光巌 役、さぶ 役
東宝現代劇、第十九回芸術祭主催公演「墨東綺譚」(1964年、芸術座)
- 種田順平 役
東宝劇団6月特別公演「般若寺絵巻」(1965年、東京宝塚劇場) - 木工右馬允知時 役
東宝現代劇名作公演「赤と黒」(1966年、芸術座) - ジュリアン・ソレル 役
東宝現代劇特別公演「太宰治の生涯 同氏作品集より」(1967年、芸術座) - 私 役
東宝みどりの会第一回公演「巨人の星」(1969年、芸術座) - 星一徹 役
六月新派公演「滝の白糸」(1972年、国立劇場大劇場) - 村越欣弥 役
中村吉右衛門・若尾文子帝劇五月特別公演「暗闇の丑松」(1973年、帝国劇場) - 美濃半の煮方丑松 役
第二回十月新派公演「婦系図」(1973年、国立劇場大劇場) - 早瀬主税 役。1974年1月6日:前編、1月13日:後編としてNHK総合にて舞台中継。
新派初春公演、中村吉右衛門特別参加「金色夜叉」(1976年、新橋演舞場) - 間貫一 役。同年4月9日、NHK総合「金曜招待席」にて舞台中継。
新橋演舞場創立60周年記念、六月特別公演「華岡青洲の妻」(1984年、新橋演舞場) - 華岡青洲 役。同年9月9日、NHK総合「芸術劇場」にて舞台中継。
「蜘蛛巣城」(2001年、新橋演舞場)ー 鷲津武時 役。シェイクスピアの戯曲「マクベス」を下敷きにした黒澤明監督作品・映画「蜘蛛巣城」の舞台化。共演した麻美れいが「中村吉右衛門さんをしのんで」に出演し思い出話を披露した。また、狂言師の茂山宗彦も自らの公開オンラインミーティングで稽古の思い出を語った。[106]
朗読劇「ラヴ・レターズ」(2002年、PARCO劇場) - アンディ 役
平清盛生誕九百年記念公演 第29回平家物語の夕べ「祇園精舎」、「入道死去」「慈心房」「祇園女御」(2018年、国立能楽堂) - 朗読、共演:若村麻由美
中村吉右衛門配信特別公演「須磨浦」[107](2020年、国立能楽堂収録、イープラス「Streming+」にてネット配信)
- 熊谷次郎直実 役 ※コロナ休演中のため無観客収録・配信。
l 創作作品[編集]
歌舞伎[編集]
松貫四という筆名で以下の歌舞伎台本を書いている。
『再桜遇清水』(さいかいざくら みそめの きよみず)
内容:寛政5年 (1793) 江戸市村座で初演された初代松貫四作の『遇曾我中村』(さいかい そが なかむら)を仕立て直した清玄桜姫物
『昇龍哀別瀬戸内・藤戸』(のぼるりゅう わかれの せとうち・ふじと)
初演:平成10年 (1998) 5月、宮島厳島神社、再演:平成20年 (2008) 7月、比叡山延暦寺(薪狂言)
『巴御前』(ともえ ごぜん)
内容:舞踊劇
初演:平成11年 (1999) 10月、琴平町金丸座
『日向嶋景清』(ひにむかう しまの かげきよ)
内容:人形浄瑠璃の『嬢景清八嶋日記』(むすめかげきよ やしま にっき)』を下敷きにした景清物
初演:平成17年 (2005) 4月、琴平町金丸座
『閻魔と政頼』(えんまと せいらい)
内容:能狂言の『政頼』を下敷きにした舞踊劇
初演:平成19年 (2007) 6月、東京歌舞伎座、再演:平成20年(2008)4月、名古屋御園座
茶番狂言『播磨屋連中手習鑑』
内容:第29回「吉右衛門を囲む会」にて上演された播磨屋門弟による茶番劇
初演:平成18年(2006)7月31日、東京會舘
『須磨浦』(すまのうら)
内容:「熊谷陣屋」の熊谷直実を新たな角度から見直し、作・演出・主演。能舞台を使い、素面、衣装、道具もほぼ無い状態で演じられた一人舞台。
初演:令和2年(2020)、国立能楽堂収録、イープラス「Streming+」にてネット配信
著書[編集]
『半ズボンをはいた播磨屋』(1993年、淡交社 / 2000年、PHP文庫) ISBN
978-4569574837
『物語り』(1996年、マガジンハウス) ISBN
978-4838707089
『中村吉右衛門の歌舞伎ワールド』(1998年、小学館)。監修 ISBN
978-4093311120
『吉右衛門のパレット』(2000年、新潮社)阿川佐和子との対談集。写真・稲越功一 ISBN
978-4104425013
『播磨屋画がたり』(2004年、毎日新聞社) ISBN
978-4620606071
『夢見鳥』(2019年、日本経済新聞出版社)。私の履歴書 ISBN
978-4532176709
WEBマガジン『本の窓』「二代目中村吉右衛門 四方山日記」稀代の名優が描き綴る 舞台のうちそと(2022年2月号にて第22回と第4~6回の再録を掲載。)
作詞[編集]
「翼をください」「虹と雪のバラード」を作曲し、荒井由実(現・松任谷由実)や、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)などをプロデュースした作曲家・村井邦彦は暁星学園の同級生で、中学時代にできた初めての親友。放課後に萬之助(吉右衛門)宅に集まり、村井がピアノ、萬之助がベース、染五郎がドラムで、よくジャズセッションをしたという。ランブリン・マンの作詞の経緯を吉右衛門は「京都で撮影中の僕に村井から電話が入り、「B面なんだが急がなければならない。何か詞ができないか」。即座に作って電話で伝え、スタジオで録音に立ち会いました」と語っている。波野久信は改名前の本名(二代目 聞き書き 中村吉右衛門より)。冒頭のギターリフにローリングストーンズの「(I can't get no )satisfaction」が引用されているのは、親友の村井が持つ、吉右衛門のイメージやテーマなのかもしれない。”I can't get no satisfaction 'Cause I try and I try and I try
and I try I can't get no, I can't get no”
ザ・マイクス『ランブリン・マン』作詞:波野久信、作曲:村井邦彦
l 脚注[編集]
[脚注の使い方] |
出典[編集]
1. ^ “中村吉右衛門さん死去 77歳 歌舞伎俳優 文化功労者・人間国宝”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2021年12月1日) 2021年12月1日閲覧。“中村吉右衛門さん死去 二代目の重責、芸に昇華”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2021年12月1日) 2021年12月1日閲覧。
2. ^ a b c d 『官報』第650号9・10頁 令和4年1月7日号
3. ^ a b 月刊演劇界発行『最新歌舞伎俳優名鑑』①平成元年/1989年(11月)増刊号のP.150には 身長178cm・体重80kg・血液型B型 と掲載。最終学歴:早稲田大学文学部仏文科。好きな花:バラ。趣味:音楽・絵画。酒量:お付き合い程度《定紋:揚羽の蝶,替紋:かたばみ》/②平成14年/2002年1月臨時特別増刊 のP.211-212には 身長178cm・体重80kg
と掲載。最終学歴:早稲田大学文学部仏文科。好きな花:バラ。趣味:音楽・絵画・スポーツ。酒はお付き合い程度《定紋:揚羽の蝶,替紋:村山かたばみ》/③平成18年/2006年2月特別増刊 のP.193には 身長178cm・体重80kg
と掲載。最終学歴:早稲田大学文学部仏文科。好きな花:バラ。趣味:音楽・絵画・スポーツ。酒はお付き合い程度《定紋:揚羽の蝶,替紋:村山かたばみ》/④平成27年/2015年9月号特別付録 のP.51には 身長176cm・体重79kg
と掲載。最終学歴:早稲田大学文学部仏文科中退。好きな花:バラ。趣味:オペラ・クラシック鑑賞・スケッチ・運転・美術鑑賞。お酒は飲まず。《定紋:揚羽蝶,替紋:村山片喰》
4. ^ 里中哲彦 (2021年12月11日). “「鬼平」役を断った中村吉右衛門さんが、引き受けた理由。その人柄をしのぶ
| 日刊SPA! | ページ
5” (日本語). 日刊SPA!. 2021年12月12日閲覧。
5. ^ “「鬼平」主演で茶の間にも浸透 吉右衛門さん”.
産経ニュース (2021年12月1日). 2021年12月1日閲覧。
6. ^ 『週刊文春』文芸春秋、1997年6月19日号。
7. ^ “◆故中村吉右衛門氏に正四位
| 岐阜新聞Web”
(日本語). ◆故中村吉右衛門氏に正四位
| 岐阜新聞Web. 2021年12月29日閲覧。
8. ^ 『AERA』朝日新聞社、1995年11月27号。
9. ^ 『物語り』マガジンハウス、1996年3月21日。
11. ^ (日本語) 【エド山口#156】追悼!中村吉右衛門さん/野ばら咲く路 2022年1月7日閲覧。
12. ^ “単行本『二代目-聞き書き 中村吉右衛門』のご紹介|歌舞伎美人” (日本語). 歌舞伎美人. 2021年12月12日閲覧。
13. ^ “兄の白鸚が長嶋なら吉右衛門さんは王に近い…中村吉右衛門さん評伝”
(日本語). スポーツ報知 (2021年12月2日). 2021年12月12日閲覧。
14. ^ “中村吉右衛門さん秘蔵写真で追悼「縁の下のモヤシ」だったころ” (日本語). 女性自身. 2022年1月12日閲覧。
15. ^ “兄の白鸚が長嶋なら吉右衛門さんは王に近い…中村吉右衛門さん評伝”
(日本語). スポーツ報知 (2021年12月2日). 2021年12月12日閲覧。
16. ^ “偉大な祖父に追いつきたくて 悩み苦しみ、歩いてきた”. 「ヘルシーライフ」vol.120. 総合健診センター ヘルチェック
(2015年8月). 2021年4月27日閲覧。
17. ^ “藤間紀子さん 昨年11月に他界した義弟・中村吉右衛門さん 第一印象は「笑顔が凄くチャーミング」(スポニチアネックス)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2022年1月28日閲覧。
18. ^ “近兼 孝休(ちかかね たかやす)
| 観光カリスマ一覧 | 人材の育成・活用
| 政策について | 観光庁”. www.mlit.go.jp. 2021年8月30日閲覧。
19. ^ “近兼 孝休(ちかかね たかやす)
| 観光カリスマ一覧 | 人材の育成・活用
| 政策について | 観光庁”. www.mlit.go.jp. 2021年8月30日閲覧。
20. ^ “II
見つけようふるさとのすばらしさ”.
香川県. 20210830閲覧。
21. ^ “こんぴら歌舞伎(琴平町)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社”. www.shikoku-np.co.jp. 2021年8月30日閲覧。
22. ^ “幕内瓦版23号(PDF)”. 日本劇場技術者連盟. 20210830閲覧。
23. ^ “近兼 孝休(ちかかね たかやす)
| 観光カリスマ一覧 | 人材の育成・活用
| 政策について | 観光庁”. www.mlit.go.jp. 2021年8月30日閲覧。
24. ^ “人間国宝・中村吉右衛門さん 歌舞伎“ゆかりの地”琴平から惜しむ声絶えず【香川・琴平町】”. FNNプライムオンライン. 2021年12月18日閲覧。
25. ^ “「歌舞伎への扉」Vol.7
初代の芸を人々の記憶に。 ーー中村吉右衛門が 「秀山祭」に託す思い”. T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト (2019年9月13日). 2021年4月9日閲覧。
26. ^ “尾上菊之助 : 波野瓔子さんと結婚会見 父・菊五郎の“爆弾発言”に大慌て 会見詳報”. 毎日新聞デジタル.
(2013年2月15日) 2013年3月2日閲覧。
27. ^ “尾上菊之助:波野瓔子さんと神田明神で結婚式”. 毎日新聞デジタル. (2013年2月26日) 2021年7月17日閲覧。
28. ^ “歌舞伎俳優、尾上菊之助さんに男児誕生”. 産経ニュース (産経デジタル). (2013年11月28日) 2021年5月6日閲覧。
29. ^ a b “尾上菊之助の長男、初舞台 「令和の丑之助」華々しく 歌舞伎座 27日まで”. 産経ニュース (産経デジタル). (2019年5月14日) 2021年5月6日閲覧。
30. ^ 『演劇界2022年3月号』演劇出版社、2022年2月4日、27頁。
31. ^ a b “中村吉右衛門が救急搬送 28日夜に体調不良を訴え”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2021年3月29日) 2021年4月30日閲覧。
32. ^ 中村吉右衛門さん舞台復帰の夢かなわず 今年3月に心臓発作で救急搬送、懸命な治療も - Sponichi Annex 2021年1月1日
33. ^ “救急搬送の中村吉右衛門、入院して引き続き治療専念”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2021年3月30日) 2021年4月30日閲覧。
34. ^ “中村吉右衛門は「急性の心臓発作」 当面の間療養に専念 来月出演舞台は休演”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2021年4月30日) 2021年4月30日閲覧。
35. ^ “心臓発作で療養中の中村吉右衛門、『七月大歌舞伎』出演へ”. ORICON NEWS (oricon ME). (2021年5月6日) 2021年5月6日閲覧。
36. ^ “中村吉右衛門 7月以降も療養専念、歌舞伎座は休演 3月心臓発作で入院中”. 日刊スポーツ (2021年6月1日). 2021年6月1日閲覧。
37. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2021年6月1日). “中村吉右衛門さん、7月も休演 当面療養に専念” (日本語). 産経ニュース. 2021年6月4日閲覧。
38. ^ 中村吉右衛門さん、闘病中に歌舞伎の音声を流すも一度も意識が戻らず力尽きる - スポーツ報知 2021年12月2日
39. ^ “中村吉右衛門さんご逝去”. 松竹 歌舞伎美人
(2021年12月1日). 2021年12月1日閲覧。
40. ^ “人間国宝 歌舞伎俳優・中村吉右衛門さん死去 77歳「鬼平犯科帳」でも人気”. デイリースポーツ. (2021年12月1日) 2021年12月1日閲覧。
41. ^ 尾上菊之助「もっと教え請いたかった」義理の父・吉右衛門さんしのび涙 - 日刊スポーツ 2021年12月2日
42. ^ 日本放送協会. “中村吉右衛門さんが公演復活に協力 香川 琴平町で死去悼む声”. NHKニュース. 2021年12月18日閲覧。
43. ^ “中村吉右衛門丈の想い出|女将思い出語り|ぎをん齋藤” (日本語). ぎをん齋藤. 2022年1月28日閲覧。
44. ^ 『演劇界2022年3月号』演劇出版社、2022年2月4日、43頁。
45. ^ “天国の弟・中村吉右衛門さんに届け!!松本白鸚「『見果てぬ夢』歌いたい」 主演ミュージカル「ラ・マンチャの男」製作発表” (日本語). サンケイスポーツ. 2022年1月12日閲覧。
46. ^ “藤間紀子さん 昨年11月に他界した義弟・中村吉右衛門さん 第一印象は「笑顔が凄くチャーミング」(スポニチアネックス)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2022年1月28日閲覧。
47. ^ “歌舞伎座ギャラリーが体験型で面白い!4つのポイント” (日本語). [歌舞伎]
All About. 2021年4月13日閲覧。
48. ^ “吉右衛門「本物の舞台芸術体験事業」に参加|歌舞伎美人” (日本語). 歌舞伎美人. 2021年4月11日閲覧。
49. ^ Company, The Asahi Shimbun. “歌舞伎の世界を体験 静岡・田子小に吉右衛門さんが訪問”
(日本語). asahi.com. 2021年4月11日閲覧。
50. ^ “静岡市美術館” (日本語). 静岡市美術館. 2021年4月12日閲覧。
51. ^ “TAB イベント
- 「ルオーと風景-パリ、自然、詩情のヴィジョン-」展”. www.tokyoartbeat.com. 2021年4月12日閲覧。
52. ^ “グッチ×中村吉右衛門による、東日本大震災子供支援のチャリティ ガラ開催へ!” (日本語). VOGUE JAPAN. 2021年4月9日閲覧。
53. ^ “『久々の。』” (日本語). 早稲田大学歌舞伎研究会. 2021年4月11日閲覧。
54. ^ “歌舞伎俳優の二代目中村吉右衛門さんが講演しました” (日本語). 早稲田大学. 2021年4月11日閲覧。
55. ^ “「グッチ」被災地支援チャリティ、6月2日にはネックレス発売も” (日本語). www.afpbb.com. 2021年4月12日閲覧。
56. ^ Company, The Asahi Shimbun. “【紙面から】吉右衛門丈がいざなう「日本美術の祭典」” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2021年4月12日閲覧。
57. ^ “鶴岡八幡宮 段葛30日から通行可能 中村吉右衛門さん奉納舞も | 鎌倉” (日本語). タウンニュース (2016年3月25日). 2021年4月14日閲覧。
58. ^ “物まねでなく、真似ることを心がけてほしい 「中村吉右衛門講演会 古典歌舞伎の芸と心」を開催” (日本語). 早稲田大学. 2021年4月11日閲覧。
59. ^ “富士山世界遺産国民会議”. 20220119閲覧。
60. ^ 『私の失敗 著名35人の体験談』サンケイ新聞社.、Sankeishinbunshuppan、Tōkyō、2008年。ISBN 978-4-8191-1004-4。OCLC 229347491。
61. ^ “NHKクロニクルより:1969年01月02日(木)午後01:00~午後03:30 劇場中継「さぶ」山本周五郎 原作~東京・芸術座で録画~(NHK総合)” (日本語). NHKクロニクル. 2021年4月10日閲覧。
62. ^ “NHKクロニクルより:1976年6月18日、金曜招待席 「さぶ」山本周五郎原作 舞台中継(NHK総合)” (日本語). NHKクロニクル. 2021年4月10日閲覧。
63. ^ 『演劇界2月号』演劇出版社・小学館、2022年1月5日、9頁。
64. ^ 『季刊同時代演劇 1 1970年冬季号』株式会社品文社、1970年2月10日、96頁。
65. ^ 『二代目 聞き書き中村吉右衛門』朝日新聞出版、2016年12月30日、112頁。
66. ^ “ようこそ!マイホームタウン・志垣太郎×有楽町”. 東京新聞 (2016年8月1日). 2016年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月25日閲覧。
67. ^ 『私の失敗(3) 著名35人の体験談』サンケイ新聞社、Sankeishinbunshuppan、Tōkyō、2008年。ISBN 978-4-8191-1004-4。OCLC 229347491。
68. ^ “河口湖美術館にて芸能人が描いた110点を一堂に展示”. www.fujigoko.tv. 2021年12月6日閲覧。
69. ^ “初代中村吉右衛門展”. enpaku 早稲田大学演劇博物館. 2021年4月12日閲覧。
70. ^ HEADLINE, FASHION. “中村吉右衛門の写真展、グッチ銀座で開催
| ART&CULTURE” (日本語). FASHION
HEADLINE. 2021年4月12日閲覧。
71. ^ “中村吉右衛門展”. enpaku 早稲田大学演劇博物館. 2021年4月12日閲覧。
72. ^ “「二代目 中村吉右衛門 写真展」のお知らせ|歌舞伎美人” (日本語). 歌舞伎美人. 2021年4月12日閲覧。
73. ^ 『小説新潮』新潮社、1995年9月号。
74. ^ テレビドラマで三代目の長谷川平蔵を演じた萬屋錦之介も親戚(母の従弟)である
75. ^ 『演劇界2月号』演劇出版社・小学館、2022年1月5日、10頁。
76. ^ “吉右衛門が文化功労者に”. 歌舞伎美人. (2017年10月24日) 2017年10月24日閲覧。
77. ^ 『朝日新聞』1985年3月30日(東京本社発行)朝刊、22頁。
78. ^ “忠臣蔵の人々
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
79. ^ “大助捕物帳
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
80. ^ Nakamura, Kichiemon; 中村吉右衛門 (2019). Yumemidori. Tōkyō. ISBN 978-4-532-17670-9. OCLC 1111570540
81. ^ “神々の愛でし子
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
82. ^ “野菊の墓
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
83. ^ “くちづけ
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
84. ^ “鎖国
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
85. ^ “約束
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
86. ^ NHK. “奇才!和田勉さんの白黒ドラマの数々が!”
(日本語). NHK番組発掘プロジェクト通信. 2021年4月7日閲覧。
87. ^ “ながい坂
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
88. ^ “右門捕物帖
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年4月7日閲覧。
89. ^ “荒木又右衛門 決戦・鍵屋の辻(荒木又エ門…誤り) - ドラマ詳細データ
- ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2021年11月27日閲覧。
90. ^ “パノラマ劇場(第2回)
- ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇” (日本語). テレビドラマデータベース. 2022年1月4日閲覧。
91. ^ “よみがえる江戸時代の芸能”.
NHK (2007年2月4日). 2021年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月3日閲覧。
92. ^ “再現!こんぴら大芝居”. NHK. 2021年8月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月5日閲覧。
93. ^ “さんまのまんま”. 2022年1月26日閲覧。
94. ^ “ETV特集 2月17日(土)”. www.nhk.or.jp. 2021年6月5日閲覧。
95. ^ “BS朝日
- Daiwa House Presents 二代目の肖像 中村吉右衛門の世界 芸の極みを求めて”. archives.bs-asahi.co.jp. 2021年4月11日閲覧。
96. ^ “価格.com - 「ウチくる!?」2011年9月11日(日)放送内容 | テレビ紹介情報”. kakaku.com. 2021年4月7日閲覧。
97. ^ “MBS「情熱大陸」情報サイト(旧)”. www.mbs.jp. 2021年4月13日閲覧。
98. ^ “絶景の瀬戸内 名所めぐり 鳴門~高松~岡山|2012年9月5日の放送一覧|にっぽん!いい旅|テレビ東京” (日本語). にっぽん!いい旅. 2021年4月7日閲覧。
99. ^ “歌舞伎俳優・二代目中村吉右衛門インタビュー” (日本語). THE FASHION POST. 2021年4月12日閲覧。
100. ^ “サワコの朝 2015/09/05(土)07:30
の放送内容 ページ1”
(日本語). TVでた蔵. 2021年6月5日閲覧。
101. ^ “熱中ゲスト:歌舞伎俳優 中村 吉右衛門” (日本語). www.bs-asahi.co.jp. 2021年4月11日閲覧。
102. ^ “二代目 中村吉右衛門~人間国宝74歳…いのちの歌舞伎~” (日本語). www.bs-asahi.co.jp. 2021年4月11日閲覧。
103. ^ “価格.com - 「ぴったんこカン・カン ~【ゲスト:尾上菊之助・寺嶋和史 (他)】~」2019年5月3日(金)放送内容
| テレビ紹介情報”. kakaku.com. 2021年4月13日閲覧。
104. ^ NHK. “偉人たちの至高のレシピ ~京都・板前割烹(ぽう)の献立帖(ちょう)~ -NHKオンデマンド” (日本語). NHKオンデマンド. 2021年4月10日閲覧。
105. ^ “文藝春秋に広告を掲載いたしました。
| Papas”. papas.jpn.com. 2021年6月15日閲覧。
106. ^ “https://twitter.com/happyismoppy/status/1472564339928625154” (日本語). Twitter. 2021年12月29日閲覧。
107. ^ “【動画公開】中村吉右衛門配信特別公演『須磨浦』配信のお知らせ|歌舞伎美人” (日本語). 歌舞伎美人. 2021年4月13日閲覧。
108. ^ 林るみ (2021年12月1日). “「80歳で弁慶をやってあの世に」歌舞伎俳優・中村吉右衛門さん 77歳で亡くなる前に明かした”. AERA dot. (アエラドット). 2022年2月8日閲覧。
109. ^ “中村吉右衛門が仰天告白 〈ガス管をくわえたことも…〉” (日本語). デイリー新潮. 2022年2月8日閲覧。
110. ^ 日本放送協会. “歌舞伎俳優で人間国宝の中村吉右衛門さん死去 77歳”. NHKニュース. 2022年2月8日閲覧。
111. ^ “中村吉右衛門さん死去 77歳 歌舞伎俳優 文化功労者・人間国宝” (日本語). 毎日新聞. 2022年2月8日閲覧。
112. ^ “心で感じ、心で演じた人 中村吉右衛門さん死去”
(日本語). 日本経済新聞 (2021年12月1日). 2022年2月8日閲覧。
113. ^ “一代の名優の芸と精神継いだ中村吉右衛門さん 素顔は至って謙虚:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2022年2月8日閲覧。
114. ^ “死去・中村吉右衛門さん「芸事の鬼、素顔は仏」の二面性…対照的な「役への厳しさ」と「家族への柔和さ」”
(日本語). スポーツ報知 (2021年12月2日). 2022年2月8日閲覧。
115. ^ “人間国宝・中村吉右衛門さんは元祖「スイーツ男子」だった! 77歳で永眠
– 東京スポーツ新聞社” (日本語). 東スポWeb. 2022年2月8日閲覧。
116. ^ “芸術功労者 中村吉右衛門氏 ご逝去” (日本語). 早稲田大学. 2022年2月8日閲覧。
117. ^ “中村吉右衛門さん 大事な「ばあや」の存在 芸に精進するきっかけに
- 舞台雑話 - 芸能コラム :
日刊スポーツ” (日本語). nikkansports.com. 2022年2月8日閲覧。
118. ^ “歌舞伎を「我々の真の古典」に…中村吉右衛門さんを悼む 渡辺保 : エンタメ・文化 :
ニュース” (日本語). 読売新聞オンライン (2021年12月4日). 2022年2月8日閲覧。
119. ^ “中村吉右衛門さん逝く あの愛すべき人柄はどこで形成されたのか” (日本語). デイリー新潮. 2022年2月8日閲覧。
120. ^ “【秘話】中村吉右衛門さんの娘婿・尾上菊之助が叶えたかった「養子縁組」「復帰公演」(週刊女性PRIME)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2022年2月8日閲覧。
121. ^ 里中哲彦 (2021年12月11日). “「鬼平」役を断った中村吉右衛門さんが、引き受けた理由。その人柄をしのぶ
| 日刊SPA! | ページ
2” (日本語). 日刊SPA!. 2022年2月8日閲覧。
122. ^ “【追悼】歌舞伎の未来見詰め続けた「鬼平」 人間国宝・中村吉右衛門さん:時事ドットコム” (日本語). 時事ドットコム. 2022年2月8日閲覧。
123. ^ 由井りょう子 (2021年12月8日). “さらば鬼平…中村吉右衛門の「男の色気」と「叶わなかった夢」〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット). 2022年2月8日閲覧。
124. ^ “中村吉右衛門さん秘蔵写真で追悼「縁の下のモヤシ」だったころ | 女性自身” (日本語). WEB女性自身. 2022年2月8日閲覧。
125. ^ “中村吉右衛門さんの悩み多き道程 「ガス管をくわえたことも」と苦悩を告白【2021年墓碑銘】” (日本語). デイリー新潮. 2022年2月8日閲覧。
朝日 「人生の贈りもの」 2017.7.10.
(語る 人生の贈りもの)中村吉右衛門:1 やっと「なりきれる」ように
5月に73歳になりました。実父の初代松本白鸚(はくおう)が71歳で亡くなったので、父の年齢を越しました。子が親より先に死ぬのは親不孝と言われていますので、孝行はしたかな。
昨年5月、孫の寺嶋和史(かずふみ)(尾上菊之助の長男)が歌舞伎座の「団菊祭五月大歌舞伎」の「勢獅子音羽花籠(きおいじしおとわのはなかご)」で初お目見えしました。「無事に済めばいいが」と思いながら私も舞台をつとめました。
3歳の和史には「じいたん」と呼ばれています。家に来ると一緒にテレビを見たり、おもちゃで遊んだり。娘には「私たちの時は怖かった」「こんなに怒らないお父さんを見るとは」と言われます。目の中に入れても痛くないほど、かわいいですね。
《中村萬之助(まんのすけ)の名で自身が初舞台を踏んだのは1948年、4歳の時。祖父の初代中村吉右衛門は「大播磨」と呼ばれて人気を博した名優で、役になりきり、「熊谷(くまがい)陣屋」で源氏の武将熊谷直実(なおざね)などを演じた時は本当に泣いた》
役者の口伝では、本当に涙を流すのは素人、化粧が落ちるじゃないかと言われます。そういう意味で初代は「永遠の素人」ですが、変なプロになるよりは、心を込めた素人の方がいいんじゃないかな。
初代は本当に「無」になれて、役になりきっちゃう。ところが、ぼくは緊張やいろいろな意識があり、せりふ回しがちょっと違ったなとか、ハッと思ってしまうんです。
昨年で二代目襲名から50年。このごろやっと、1カ月25日間の公演の中に何日か役になりきれる時があって、ああよかったと思います。役と一体になるのは難しいですが、やれなくてはいけないと思う今日この頃です。二代目になったのですから。(聞き手 山根由起子)
なかむら・きちえもん 1944年、東京生まれ。初代松本白鸚の次男。祖父の初代中村吉右衛門の養子となり、66年に二代目吉右衛門を襲名した。人間国宝。立ち役の第一人者。主演したテレビ時代劇「鬼平犯科帳」は28年間続いた。
2 4歳の初舞台、泣き続けて代役
初代吉右衛門の一人娘が、ぼくの実母の正子(せいこ)です。初代は母を跡取りの男の子と思って育てていたようで、実母が初代松本白鸚(当時・五代目市川染五郎)と結婚すると言うと怒っちゃいましてね。すると母は「嫁に行ったら男の子を2人産んで、1人をうちの養子に出して吉右衛門を継がせる」と言って嫁入りしたのです。母は「女の一念岩をも通す」で、男の子を2人産んだ。1942年に兄(九代目松本幸四郎)、44年5月にぼくが生まれました。
《4歳での初舞台は、東京・築地の東京劇場。「御存俎板長兵衛(ごぞんじまないたのちょうべえ)」の倅(せがれ)長松と、「ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)」の「槌松実(つちまつじつ)は駒若丸」をつとめた》
初代のお弟子さんが化粧をしてくれましたが、駒若丸ではぼくが泣いて化粧がうまくできない。舞台に出てもやっぱり泣いちゃう。初代に「やめちまえ」と言われました。
普段は「坊よ、坊よ」とかわいがってくれる祖父が、役ではケガをして血を流している恐ろしい顔だったので、怖かったんじゃないかな。結局、弟子の子どもさんが代役に立ってくれました。初舞台では前代未聞でしょう。
長松の方は顔を真っ白に塗り、肝のすわったところを見せ、「だれだと思う、えー、つがもねぇ」とタンカを切る。お客様が拍手してくれるし、気持ちのいい役なので、喜んでやっていましたね。
口上の時は初代の隣に座ってお辞儀をしました。初代が「養子にして二代目を継がせます」などと長く述べているので退屈でした。あぐらをかかせてもらっていましたが、ふと下を向くと赤いふんどしが目に入った。垂れている部分を引きずり出し、アイロンをかけるように手でしわをのばしていたら、客からじわじわと笑いが起きました。
我々兄弟の世話をしてくれていたばあやのたけが、初代に言われて客席の後ろの方から様子を見ていた。初代にはごまかしてくれたようですが、たけは死ぬまで「あんなに冷や汗をかいたことはなかった」と言っていました。
(聞き手 山根由起子)
3 「盛綱陣屋」、初代に劇場揺れる
《厳しかった初代。「重(しげ)の井子別(いこわか)れ」の三吉の稽古で怒鳴られた》
8歳ぐらいでしたかね。初代がやってみろと言うので目の前で三吉をやりましたが、途中で初代に「お前なんか役者やめちまえ」と怒鳴られました。子役ながら、時代物と世話物とを演じ分ける、大変難しい役です。でも私はうまくできなくて……。結局、「こんなに下手じゃ跡継ぎとしてみっともない」とお蔵入りに。この役をつとめたのは初代が亡くなった翌年の1955年、10歳の時です。
《53年、歌舞伎座で「盛綱陣屋(もりつなじんや)」を上演、天皇も観覧した。佐々木盛綱を演じた初代と、9歳で共演した。北条時政に従う盛綱は、敵方の弟高綱(たかつな)の討ち死にを知らされ、時政の前で首を調べる。偽首と見破るが、本物と信じさせるために切腹した小四郎(高綱の子)の忠心にうたれ、本物だと言って主君を欺く》
実父(初代松本白鸚)も和田兵衛の役で出ていました。私は小四郎をつとめました。偽首を見て「お父さんだと言って死ね」という策略を父高綱から授けられ、忠実にとらわれの身となる役です。
盛綱は知恵者で義にも厚い。初代は時代物の強い役ばかりやっていたので、ふだんより優しい感じがして、白いきれいな顔で衣裳(いしょう)も美しく、親しみがわいたのでしょう。よく覚えています。
盛綱は、首実検で一目見て偽首と気がつく。しかし、せがれが父だと言って切腹したのはどういうことなのか、と考えます。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」など、ほかの話では首実検の場面はなるべく早く済ませますが、「盛綱陣屋」の盛綱の首実検だけはたっぷりやれという口伝があります。
おなかを切った小四郎は長い間ずーっと、下を向いて耐えています。初代のせりふの間、お客様の拍手やどよめきで、劇場が揺れる感じを体験しました。空気が初代にぎゅーっと引き寄せられ、お客様と気持ちが一体になる。歌舞伎芝居はこういうふうにやらなくてはと子ども心にも感じました。
(聞き手 山根由起子)
4 10歳で喪主、継承の闘い始まる
《初代中村吉右衛門は1954年9月5日、68歳で亡くなった。東京・築地本願寺の葬儀には約1万人が参列。当時の朝日新聞には「吉右衛門の死はカブキにとって大打撃」「時代狂言はもとより、世話ものに無類の味があった」と哀悼の言葉が並んだ》
入院していた初代は、もう長くはないだろうとわかって退院し、家に戻っていました。亡くなる時は「あっ」という声を出したそうです。
ぼくはまだ10歳。死ということもよくわからない年齢でしたが、「あんた、跡継ぎなんだからしっかりしなくちゃだめよ」と、養母からも実母からも泣きながら言われた。葬儀では喪主として先頭に立ってお辞儀をしましたが、葬送の木やりの声が印象深かったですね。
初代が亡くなると、周りの態度も変わりました。「坊ちゃん、坊ちゃん、若旦那」とおだてられていたのに、「おう、来たね、馬鹿旦那」と言われるようになり、そんな中で、初代の芸を継承するぼくの闘いが始まりました。
いまも上演されている歌舞伎の名作を、初代のように高めていきたい。お客様がどよめくような芸。でも難しくてわからないんじゃ歌舞伎じゃない。初代は、お客様が理解し、感動し、同じ気持ちになるやり方を高めたいと思っていたのでしょう。ぼくも受け継がなくてはと思います。
《実父(初代松本白鸚)からも初代吉右衛門の芸を教わり、歌舞伎を学んだ》
実父はあまり教えない人でした。役の教えを請うと、「舞台を見ていたか」「はい、拝見していました」「じゃあ、もういいだろう」。
自分が将来やりたいと思う役は舞台をよく見てはいましたが、それでもわからないところを聞くと、ここはこうしてチョンでおしまいっていう感じ。「芸は見て盗め」ということでした。手取り足取り教わると単なるコピーになってしまいますが、「芸を盗む」というのはいいところを取り、残りは自分が出せる。個性が出てくるわけですよ。(聞き手 山根由起子)
5 学芸会でも嫌々女の子の役
《時代物にも世話物にもたけた立ち役の第一人者、吉右衛門。だが、小さい頃は女形が多く、好きではなかった》
小学6年生の学芸会で「タイタニック」のお芝居をすることになり、先生から「女形やっているんだから、お前がやれ」と女の子の役をやるよう言われました。
嫌で嫌でね。おふくろは妹のスカートを仕立て直して用意してくれましたが、本番では自分も相手役もセリフをよく覚えていなくて、2人でだまーっていました。見物の子たちがわあわあ騒ぎ出して散々でしたね。
歌舞伎でも13歳のころ、「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ) 法界坊」で「野分姫(のわけひめ)」の役をやりました。揚げ幕から花道を通り、杖をついて舞台へ登場しますが、内股でそろそろ、しゃなりしゃなりと行くところを、男の歩き方で出てしまった。
忘れられないのは11歳で「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」の禿(かむろ)たよりをつとめた時のこと。かごの中から「あい、あーい」と返事をして登場します。何日かは良い声が出ていたのですが、途中から「あいあい」と太い声になっちゃったんです。声変わりで。お客様に「うわー」と大笑いされました。
《落ち着いた柔和な声、劇場内に響く名調子。吉右衛門は自在なセリフ術で知られるが、努力の下支えがあった》
声変わりの期間が長く、声が出にくくなった。声帯を痛めたのか、声の出し方がよくないのか……と悩みました。声の良さとセリフ回しのうまさが初代吉右衛門の特長。セリフ回しは譜面に書けるような音階の豊かさがあり、音楽的でした。良い声を出せなくちゃ跡継ぎとして致命的なのです。
ところが二十歳過ぎても良い声が出ない。実母に勧められて、清元節の清元志寿(しず)太夫お師匠さんに習うようになりました。お師匠さんは「変な声だからといってごまかそうとすると、のどを壊します。変な声が出た時はそのままやりなさい」と教えて下さった。おかげさまで少し、声が出るようになったんです。
6 亡きばあやの言葉、襲名後押し
歌舞伎を続けていられるのは、住み込みで育ててくれたばあやのたけのおかげです。
ばあやは生まれた時から家にいて、面倒を見てくれました。56歳で亡くなりましたが、髪が真っ白で、70歳ぐらいに見えましたね。
朝早く起きて食事の支度や学校への送り、掃除をして、ぼくたち兄弟のお稽古ごとにもついてきてくれた。夜はぼくらを寝かしつけて、帰宅する実父(初代松本白鸚〈はくおう〉)の食事の支度。その後、裁縫をやっていた。睡眠時間は3時間ぐらいだったのではないでしょうか。滅私奉公の代表みたいな人でしたが、いつもぼくを叱咤(しった)激励してくれた。
当時、歌舞伎俳優には背の高い人があまりいなかったのですが、ぼくは小学生の頃からひょろひょろと背が高かった。体形的に向かないのではないかと悩み、「歌舞伎俳優にはなれない。やめる」と言うと、ばあやは「大きい人は下手なら下手が目立つけれど、うまければうまさが人より目立つでしょう。上手になりなさい」と励ましてくれました。
《小学校から高校まで、私立の暁星学園に通う。大学は早稲田に進学した》
ばあやは学校の父母面談まで行ってくれました。高校の面談の時、校長先生から「本当に大学に行くのか」と言われたとかで、「あたしはこんなに悔しいことはなかった」と言われた。ぼくにも火がつき、必死に勉強しました。高校3年の夏ごろです。「絶対、ばあやのためにも」と思って早稲田大学第一文学部を受験、合格しました。
3年ぐらいはちゃんと通っていましたが、途中でばあやが亡くなるんですよ。襲名のこともそれまであまり考えていませんでしたが、看病の間に「吉右衛門をちゃんと継いで下さいね」と言われて、ばあやが亡くなって初めて継ごうという気になりましたね。
襲名は40、50代になってからするものだと思っていたので、実感がわきませんでした。でも、ばあやの思いに背中を押されたんです。
7 兄弟で東宝と契約、現代劇も
《実父の松本白鸚(当時八代目幸四郎)は、伝統の枠を超えた様々な新しい試みに挑戦した。1957年、「新劇史上初の歌舞伎との合同」といわれた文学座の公演「明智光秀」に出演。歌舞伎を想定した作品で、白鸚が光秀役。杉村春子も出演した》
兄(当時六代目市川染五郎)が森蘭丸、ぼくは光秀の長男光慶(みつよし)と、森力丸の2役で出ました。楽屋では実父のお弟子さんがおかもちにお茶や水、あめなどを準備して待機しています。「お茶」と言われると、ハッと出す。新劇の人がまねて「幸四郎ごっこ」をしていました。ジャンケンで勝った人が幸四郎になり、「お茶」と言うとお弟子さん役が「ハイ」。新劇の人には面白く見えたのでしょう。
夏場の稽古では女優さん方の夏服に、男の中で育ってきたぼくはびっくりしました。ときめきましたが、相手にはされませんでしたね。兄貴はもてましたけど。
《松竹が独占状態だった歌舞伎界で61年、染五郎と中村萬之助(まんのすけ)(吉右衛門)の兄弟が東宝と専属契約を結んだ。実父幸四郎と一門も東宝入り。新聞には「揺れ動くカブキ界」の見出しが躍り、幸四郎は「契約というシステムに魅力を感じている」「新しい舞台に生きよう」と語った》
東宝入りは、60年に上演された舞台「敦煌」(井上靖作、菊田一夫脚本・演出)への出演がきっかけで菊田先生に引っ張られました。東宝では現代劇にも出演しました。
兄貴は主役でしたが、ぼくはほぼ脇役。当時はインタビューを受けても兄の後では違うことを答えられず、「無愛想だ」と言われていました。
66年に再開場した東宝直営の帝国劇場は、花道が曲がっていて坂になっているなど、歌舞伎には向かない造りでした。東宝には10年ほどいて松竹に戻りましたが、兄貴も戻ってきたので、演じる役が重なるようになったんですよ。どうしようかと思い、二代目尾上松緑のおじさんに、初代と違う型を習い、役を広げようと考えていました。
8 実父の背に芸の重み、襲名へ
《二代目中村吉右衛門の襲名披露は1966年、22歳の時。建て替えて新しくなった帝国劇場開場披露歌舞伎公演で、「祇園祭礼信仰記 金閣寺」の此下東吉(このしたとうきち)などをつとめた。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がモデルで、知略でピンチを救うヒーローだ》
暁星では小学校からフランス語を習い、大学でも仏文学を勉強しました。作家のカミュを研究しにフランスへ行きたいという思いもあって、悩んで実父(初代松本白鸚〈はくおう〉)に相談したら、「何にでもなっちゃいな」とくるっと後ろを向かれました。
背中を見て、播磨屋と高麗屋の芸を双肩に担い、播磨屋をぼくに、高麗屋を兄(現・松本幸四郎)に渡そうとしている大変さを思いました。怒らなかったので、かえって悪いことを言ったと思った。フランス行きも断念しました。
「金閣寺」は実父に教わりました。東吉は二枚目で、すっきりとした役ですが、僕には向いていないんじゃないかと思っていました。
良い役者にならなくてはいけない、吉右衛門劇団を作らなければ、人気もなくてはならない――。襲名後はプレッシャーとの闘いでしたね。
《70年の初代吉右衛門の十七回忌追善帝劇特別公演では、「熊谷陣屋」を上演。初代の当たり役、熊谷直実(くまがいなおざね)をつとめた。追善口上の前には、50年に記録映画として撮影された初代の「熊谷陣屋」の一場面が上映された》
口上は中村屋のおじさん(十七代目中村勘三郎)と、僕と実父の3人。ぼくは初代の映画を見て「初代の芸はただただすごいなあ」と思った。撮影時、初代は60代。実父は「全盛期はあんなもんじゃなかったんだぞ」といい、映画で直実の妻、相模をつとめた六代目中村歌右衛門のおじさまも、「物語の人物が私の見ている前に出てきたよ」とおっしゃっていました。
そんな熊谷をやりたいのですが、なかなかできるものではありません。ですが、この年になって、役の感覚や感情がわかるようになってきたなと思います。
9 女形のおじさまに教えられた
六代目中村歌右衛門のおじさま(女形の名優)は、相手役に抜擢(ばってき)した初代吉右衛門に恩を感じていて、ぼくに初代のやり方をよく教えて下さいました。普通、女形は立ち役のことに口を出しませんし、教えてもくれませんから、異例のことなんですね。
《1979年、東京・新橋演舞場の「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」で歌右衛門に抜擢された。傾城(けいせい)(格式の高い遊女)八ツ橋に心を奪われて通う、あばた面の絹商人、佐野次郎左衛門の役。間夫(まぶ)への義理立てから八ツ橋に満座で愛想尽かしをされる。しばらくして再訪、名刀籠釣瓶で八ツ橋を斬る》
初代が次郎左衛門をつとめた時は、ぼくが筆の竹の部分に茶色の油墨をつけて、顔にペタペタとあばたの跡を押しました。初代はそんなにあばたはつけませんでしたが、歌右衛門のおじさまにはあばたを強調するように教わった。
満座の中で恥をかかされた恨みと、名刀の魔力に魅入られたという二重の構造で、八ツ橋を斬ることになります。色々なドラマで演じられている男女の仲をいかにもっと昇華させ、舞台でより深くお客様に感じて頂けるか。こんな状況でなくて良かったとか、おれは幸せだとか、様々な感慨を持って頂けるような舞台にしていきたい。
《歌舞伎の継承への努力は、舞台の上だけのことではない。2006年からは、舞台芸術を体験する文化庁の事業で小学校を訪れる》
高いと思われている歌舞伎の敷居をまたいでもらうには、どうしたらいいか。小学校には、役者が前脚と後ろ脚に入る、歌舞伎で使う馬を持って行きました。
子どもたちを乗せて走らせると、「本物みたい」「面白かった」と大喜び。芝居で使うガマガエルの着ぐるみの背中から飛び出して会場に登場したり、太鼓をたたいて表現する風や波の音を聞き分けるクイズをしたりしました。
歌舞伎は、侍から町人まで全ての人が楽しめるように考えられたもの。とっつきにくくはないと知ってほしいですね。
10 鬼平の魅力、演じ求めた28年
人気が出て皆さんに見て頂いて、150本も続いたのはとてもありがたいことです。
《そう話すのは、昨年末に終了した池波正太郎原作の時代劇「鬼平犯科帳」(フジテレビ系)シリーズ。盗賊に「鬼平」と恐れられる火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)長官の長谷川平蔵が、密偵たちと事件を解決する物語だ。1969年に実父の八代目松本幸四郎(初代松本白鸚〈はくおう〉)でドラマ化。四代目鬼平の吉右衛門版は89年から始まり、異例の長寿となった》
実父版では途中から、おやじが演じる平蔵の息子、辰蔵の役で出演しました。その時の鬼平が息子の根性を正すため、竹刀で息子の背中をたたくシーンがありました。手加減するかと思ったら、本当に背中をたたかれて痛かった。
主演の話を頂いたのは40歳の時。歌舞伎の舞台で忙しく、お断りしました。おやじが演じたのは60歳ごろです。
鬼平は遊びの中で人との付き合いを深めた。おやじも、とてもすてきな遊びをしましたし、生真面目な人でもありました。震災や戦災をくぐって死の覚悟もできている。鬼平にぴったりなんですよ。池波先生も「鬼平のモデルはお父さんの幸四郎さん」と言っていました。
《45歳の時に改めて出演の話があり、承諾した》
調べると、平蔵も火付盗賊改方になったのが45歳ごろのことだったらしいですね。長く続いたのはうれしいですが、どんどん毎週放映されるので、冷や汗もののこともありました。舞台で25日間、稽古を含めて30日間じっくりやるのとは違う。「これがテレビなんだな」と思いました。
当たり役ができることは光栄ですが、歌舞伎で主役をつとめた時には「鬼平人気」とも言われました。言う人には言わせておこうと思って、気にしませんでしたが。
平蔵は情と剛の強さを兼ねた人間的な魅力ある人物。28年にわたり演じてきてそこを出すのが一苦労でしたね。池波先生とはもっとご一緒して、歌舞伎の作品も書いて頂きたかったなと思います。
11 米公演、浪幕ハプニング大うけ
海外公演にも行きました。特に思い出深いのは1996年、米国での「俊寛」です。
《孤島の鬼界ケ島に流罪になった俊寛僧都の話だ。都へ帰れる赦免船が来たが、流人2人と海女を乗せ、俊寛は島に残る覚悟を決めた。煩悩にとらわれる「凡夫心」を断ち切ろうにも断ち切れず、岩場に登り叫び、船を見送る》
米国公演では、日本ではやらない演出をしました。島に残される孤独感と上げ潮の感じを出すため、花道も浪幕(なみまく)で覆いますが、仮設の花道は短くて、寄せてくる波の効果が見せにくい。そこで、客席と舞台の間にあるオーケストラピットを活用しました。
弟子たちに浪幕をかぶらせて待機させ、波が打ち寄せてくる場面でわーっと舞台に上がり、岩場まではっていって浪幕を揺らす。浪が寄せてくる感じが出ましたが、ある劇場では空調からはき出される空気がピットに入り込んで、浪幕が高い岩場までうわーっとあがってしまった。一面が波になり、沈みそうな岩場に俊寛が座っている。大失敗だ、と思ったら、波にのまれそうな感じに受け取ってもらえて、とてもウケました。
島流しはナポレオンや「巌窟王」でも有名です。「凡夫心」は、洋の東西を問わず変わらない心境。パリのオペラ座で「俊寛」をやれたら素敵(すてき)ですね。
《終戦後、一部の歌舞伎の演目は「封建的」などの理由で連合国軍総司令部(GHQ)に上演禁止とされた。米公演では、当時、歌舞伎の再開に尽力した米国人のフォービアン・バワーズ氏が協力してくれた》
日本語が達者で、歌舞伎をよくご存じの方。何より歌舞伎にとっては大恩人です。米国公演では「俊寛」と「釣女(つりおんな)」でイヤホンガイドの解説をしてくれました。無駄な部分は省き、ここはわかってほしいという一言を役者が芝居していない時にタイミング良く、公演ごとに生放送で解説して下さいました。おかげで米国のお客様の反響はとても良かったですね。
12 「秀山祭」10回目、芸を後世に
《初代吉右衛門の功績を顕彰し、芸を継承することを目的にして、2006年から初代が亡くなった9月に東京・歌舞伎座で「秀山祭(しゅうざんさい)」を続けている。秀山は初代の俳名で、ゆかりの演目を上演している》
ぼくに男の子がいて、三代目がいれば考えなかったかもしれないけれど、幸か不幸かおりませんので、ぼくで終わってしまうのが申し訳ないなと、常に思っていました。
江戸時代から名優が切磋琢磨(せっさたくま)してきた歌舞伎を、舞台芸術としてより良いものにしたのが初代吉右衛門。忘れられてしまうのは寂しい。お陰様で「秀山祭」は今年で10回目を迎えることになりました。9月に「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」と「ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)」を上演します。初代の名前を冠した興行は永久に続いてほしいです。
《14年、国立劇場で敵討ち物の名作「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」の「岡崎」の場を44年ぶりに復活させた。吉右衛門がつとめた主人公の剣豪唐木政右衛門(からきまさえもん)は初代の当たり役。「読売演劇大賞」大賞・最優秀作品賞を受賞、今春再演された》
「岡崎」では、上演を見て実況風に書かれた「見たまま」という資料や写真が参考になりました。初代が使った「書き抜き」(台本から自分のセリフだけを抜き出したもの)には、赤で手を入れた跡が残っていました。
こういうふうにセリフを直すとか、カットするとか、動きもちょっと書いてあったりしたので参考にしましたね。その通りにやれているかはわかりませんが、それに基づいて最初の役作りをしました。
新しい歌舞伎を作り上げるのもいいですが、しばらく上演されてこなかった古典の作品の中にも、面白い作品もあります。それを見直して工夫することが、取り組むべき方法の一つだと思っています。
作品自体がつまらなくて絶えてしまうのは仕方がないですが、人間がよく描けているにもかかわらず、いろいろな条件で出来ないのは残念なことですから。
13 娘と菊之助君、夢にも思わず
《1975年、遠縁で慶応大学に通っていた知佐さんと結婚。4人の娘に恵まれた》
女房は浅草で育った下町っ子で、小さい頃から家に遊びに来ていました。NHKでディレクターをしていた女房のお父さんと実母との間に「うちの娘はどうか」という話ができて、おふくろが知佐に電話して「お嫁に来ない?」と聞いたのが最初です。プロポーズはその後でした。
子育て期は、役者として闘いの最中でした。余裕がなかったので娘たちには「ごめんなさい」と言いたい。朝出ると夜遅くまで帰れない。楽屋で女房と話をするぐらいでしたが、支えてもらいました。
休みにぼくの運転で神奈川県の箱根や静岡県の修善寺に行きました。娘たちは富士山や海が見えてきても喜ばず、車に酔ったとふてくされていました。たまの休みを有効活用しようと思っても、思うようにはなりませんでしたね。
娘たちには、一般の世界で生きてもらいたいと、しつけは厳しくしたつもりです。
《2013年、四女瓔子(ようこ)さんが尾上菊之助と結婚。菊之助の父菊五郎も人間国宝で、播磨屋と音羽屋の結びつきが話題になった》
瓔子の菊之助君との結婚は想像もしていなかった。旧吉右衛門劇団と、菊五郎劇団では学ぶ場も違う。かつて市村座で競い合った両家が親戚になるとは、夢にも思わなかった。菊五郎君も「びっくりした」と言っていたので、同じ思いだったのですね。役者の妻が苦労することは目に見えていたので、手放しで喜ぶわけにはいきませんでした。
お嫁さんにもらいたいと菊之助君が家に来た時は驚いて、「こんなんでもいいの?」と言った。後で瓔子に「失礼だ」と叱られました。
菊之助君には15年の国立劇場「義経千本桜」の新中納言知盛(とももり)(平知盛)や、この7月の「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」の大蔵卿も指導しました。どちらも立ち役の大役。女形で活躍している菊之助君ですが、どっちつかずになることなく、どちらも頑張ってほしいです。
14 形より心、いつか「無」の境地に
スケッチが好きで、地方の巡業先や外国にはスケッチブックを持って行き、舞台の合間に外の景色を描いていました。思い出が焼き付きます。
小学生のころからジャズにも親しんでいました。以前は絵を描いたり、音楽を聴いたり、ギターを弾いたり、いろいろ趣味がありましたが、今は本を読むぐらいですかね。
《歌舞伎への意欲はますます盛んだ。2011年に歌舞伎立ち役で人間国宝に認定。70歳を超えても15年には「競(だてくらべ)伊勢物語」の紀有常(きのありつね)を初役でつとめるなど挑戦が続く》
80、90歳まで歌舞伎ができたらいいなあと思います。「人間国宝」と、宝みたいな言い方ですが、先人から教わってきたことを次の代に伝え、育てなさいということですね。
播磨屋の芸は、一門の皆さんがぼくの気持ちをどうくんでくれるかにかかっています。形や段取り、舞台の出や引っ込みは教えられるんですが、初代吉右衛門のやった精神的なもの、役の心根をお客様に伝えることは教えられてできるものではないんです。
それが播磨屋の吉右衛門の芸。形より心でやるんだよと言っておりますが、どう受け取ってもらえるでしょうか。
歌舞伎は衣裳(いしょう)の早変わりや立ち回り、宙乗りなども興味をひきますが、舞台芸術としての素晴らしさを高めていくのが初代のやり方です。
ぼくも芸品を持って人間味あふれる役作りをしたい。歌舞伎を単なる見せ物にはしたくない。深い、高みのある、お客様を満足させるものにしたい。まだ余地があります。あと何年できるかわかりませんが、そこを目指してやっていきたいですね。
最近、やっと歌舞伎役者が天職だと思うようになってきました。言葉を変えて言えば、それしかできない。いろいろなことを考えずに舞台をつとめ、天職と思って進めば、「無」の境地になれるかなあと希望は持っています。
コメント
コメントを投稿