ブラック・スノウ James M. Scott 2026.3.15.
2026.3.15. ブラック・スノウ 東京大空襲と原爆投下への道
BLACK
SNOW 2022
Curtis
LeMay, the Firebombing of Tokyo, and the Road to the Atomic Bomb
著者 James M. Scott アメリカの軍事史家、ノンフィクション作家。本書(2022)を含めてアジア・太平洋戦争に関する著書が4冊あり、1942年4月のドゥーリトル東京初空襲を描いたTarget Tokyo(2015)は、ピュリッツァー賞最終候補となる。その他の著書にRampage(2018)、The War Below(2013)、The
Attack on the Liberty(2009)、Targeted:
Beirut(共著、2024)。1997-98年にかけて、日本のJETプログラム(外国青年招致事業)で来日し、兵庫県の公立中学校で英語を教える。同時期に訪れた広島と真珠湾の印象が、その後の仕事の原点となった。ハーヴァード大学ニーマン・フェロー(特別研究員)も経験。サウスカロライナ州チャールストンに暮らし、同地の上級軍事大学シタデル陸軍大学の客員研究員を務めている
染田屋茂 翻訳者、編集者。1950 年東京都生まれ。おもな訳書に、ベイカー『SEX 20億年史』(集英社、2025)、ポンフレット『鉄のカーテンをこじあけろ』(朝日新聞出版、2023)、ジンサー『誰よりも、うまく書く』(慶應義塾大学出版会、2021)、ウォーカー『アクティビスト』(日本経済新聞出版、2021)、カスパロフ『DEEP THINKING』(日経BP、2017)、ハンター『極大射程』(扶桑社、2013)などがある
発行日 2025.12.16. 第1刷発行
発行所 みすず書房
日本語版に寄せて
私が日本と第2次大戦の歴史に興味を持ったのは1997年に遡る。その年22歳で大学を卒業、JET(外国青年招致事業)の招きで英語教師として日本に赴任、1年間豊岡市で暮らしたことが私を大きく変える。成人教育の中に第二次大戦経験者が少なからずいて、戦争体験を語ってくれた。また、広島訪問でも原爆資料館などを訪問。ハワイでは真珠湾でアリゾナの残骸の上に立った。これらの経験が私の中に眠っていた戦争への関心に火をつけ、それが現在まで継続、6冊の書籍を生み出す
研究を続ける間に、原爆については多くの資料に目を通したが、原爆に先立つ米軍の焼夷弾爆撃作戦にはほとんど関心が向けられていなかった。その作戦が続いたのはわずか159日だが、64の日本の都市が壊滅。始まりが3月10日の東京大空襲で、16平方マイルを焼け野原にし、10万人以上を殺し、100万人から家を奪った
この空襲は民間人の物語。それを語るためには、日本の一般男女、子どもの体験を集めることが大切。数人の生存者にも会ってインタビュー。特に早乙女勝元氏へのインタビューには感銘。彼は東京大空襲に関する指折りの歴史家
第1部
火花
空軍力の出現ほど、戦争のあり方を大きく変えたものはこれまでになかった(ウィリアム・ミッチェル准将 1926.2.)
第1章
1944.11.24. ヘイウッド・ハンセル・ジュニア准将は、サイパンのアイズリー飛行場で111機のB-29による初の東京爆撃の出発準備を終える。ハンセルは、都市への焼夷弾爆撃を嫌悪し、一般市民の死傷者を最小限に抑えながら、敵の産業施設の破壊を目指す昼間の精密爆撃に徹すべきと主張。一般市民の殺戮は米国の道徳観に反すると書く
目標は、中島飛行機の武蔵製作所。37億ドルかけて開発したB-29
占領したサイパンの島にはまだ日本兵の残党が残っていて抵抗、空港施設の建設にはまだほど遠い状態で、まともな滑走路がないばかりか、新型爆撃機の性能も不完全で空中で暴発したり、パイロットもB-29で100時間を超える者も、編隊飛行の経験を持つ者も皆無
B-29の航続距離はサクラメントからハワイがやっとで、肝心の東京までの往復が可能化も定かでない。さらには日本の目標に関するデータも不足で、11月の晴れた日に偵察飛行をしてやっと情報不足を解消する有様。B-29の生みの親ヘンリー・アーノルド将軍は、念願の航空軍設立が実現を、日本の壊滅に賭けていた
だが、海軍は空母がフィリピンに足止めされたため攻撃を断念、マッカーサー司令部の航空軍司令官も、航続距離の不足から爆撃機だけでの攻撃に不安を感じて攻撃中止を求めるなど、周囲からの圧力が増す。そんな状況の中でハンセルは追い詰められていく
第2章
アーノルドは、着々と空軍力強化に向けて布石を打っていたが、第2次大戦ではヨーロッパでの航空戦で泥沼にはまり、長い消耗戦の結果、戦争全体で死んだ海兵隊の数以上の死者を出し、歩兵が相も変わらず海岸に上陸作戦を敢行し、村や町を奪回しなければならなかった。日本は、アーノルドに今ひとたびの機会を与える存在だった
始まりは1940年、陸軍航空隊が米国の4大航空機メーカーに新型長距離爆撃機の設計を要求した時で、ヨーロッパの全域をドイツが蹂躙するかもしれないという恐れに対抗するための賭け。新型B-17の2000マイルを上回る航続距離を要求。'41年ドイツの英国年に対する大空襲のクライマックスを迎えた時点で、B-29の最初の250機を発注。戦争中に投じた約4000機のほんの一部。'42年9月に最初のテスト飛行に成功するが、翌年2月には炎上。’44年1月までで97機が出庫され、うち飛行可能だったのはわずか16機
順調に飛び出したのは3月で、1日4機の生産が可能になる
第3章
飛び立った111機のうち23機は引き返し、残りの88機が277.5tの爆弾を搭載して東京に向かう。ギリギリの航続距離で、成功裏に爆撃を終え帰還。効果的な対空砲火も迎撃もなし。全米の新聞がこの空襲を大々的に報道し、全米が戦勝に沸く
失ったのは2機。1機は破損した日本軍戦闘機と衝突、もう1機は燃料切れで帰還途中海上に不時着。攻撃の成果は、目標区域内で爆発した爆弾は48発のみ、建物の1%と機械の2.4%を破壊しただけに終わり、満足とは程遠かった
ハンセルのライバルだったオドネル准将は、爆撃機から機銃を外し、編隊飛行を放棄すれば飛行距離が伸び、エンジンへの負担を軽減できると主張、さらに日本軍戦闘機の脅威を抑えるために夜間空爆と都市への焼夷弾攻撃を提唱。レーダーの性能がまだ十分でないので夜間飛行による軍需工場破壊は困難としたハンセルに対し、焼夷弾攻撃により一般市民の士気を攻撃目標にすべきと主張。アーノルドもハンセルも、インドと中国から日本の南部地域を目標にB-29による爆撃任務を担う予定のルメイも、皆オドネルの提案に反対
2回目の爆撃は3日後。81機が飛び立ったが、濃い雲に遮られて2次目標に転進しなければならず、任務は失敗に終わる。3回目も悪天候に遮られ、日本の気象が予期しない難問となった。さらに時速230マイルのジェット気流がたちはだかる
爆撃に関する基本的信条の可否を試す重要な機会ともなる
ハンセルは、ウェストポイントではなく、ジョージア工科大学を選択。航空工学への関心から陸軍航空隊に入隊、戦闘機の操縦士として飛行家のキャリアをスタートさせた
4発の強力な爆撃機B-17は戦闘機より高く、速く飛べるだけでなく、頑丈な装甲と機銃を備え、戦闘機の息の根を止める。戦闘機で軍需拠点を個別に破壊するより、爆撃機で無差別に攻撃したほうが効果的だという主張が強くなるが、ハンセルはあくまで女子供を無差別攻撃することの非を説く
航空軍の役割について、単独でドイツの工業力を破壊して、敵を敗北に導くべきなのか、地上軍の侵攻を可能にするために敵を弱体化させるというより限定的なアプローチをとるべきなのか、航空戦力が歩兵に完全に従属すべきなのか、根本的な問題を議論した結果は、第2次大戦における航空軍の攻撃的な役割を描き出す。それは、5,6マイルの高高度から昼間精密爆撃を中心としていた。都市を焼き尽くすのではなく、選択的な攻撃を行うもの
ローズヴェルトも’39.9.に、「交戦中であっても、無防備の人口集中地域にいる一般市民への無慈悲な空爆は、すべての文明人男女に嫌悪を催させ、人類の良心に大きな衝撃を与えた」と発言に、罪もない人々を殺すことを避けるよう諸国に訴えた言葉と共鳴する
敵国を叩き潰すのではなく、頸動脈を切るだけでよい。チームはドイツで154の攻撃目標を特定、これを破壊すれば理論上はドイツを麻痺させられる
英国はこの計画と同様、白昼の精密攻撃を用いたが、ドイツ軍戦闘機の攻撃の激しさに、その戦術を放棄せざるを得ず、夜間に都市に焼夷弾を投下する手段に移行
ハンセルのチームは、英国は失敗したが、米国は高精度の爆撃照準器と新型B-17により成功すると確信したが、ドイツ軍の攻撃は予想を上回り、米軍にも被害が続出
ハンセルは、立案者であって、捕食者ではなかった
チャーチルが、夜間攻撃への切り替えを強力に要請してきたが、米国は精密攻撃に固執。ドイツの攻撃は激しさを増すばかり。B-17の航続距離が短くドイツ最深部への攻撃がままならないまま、ハンセルは任を解かれ、ワシントンに戻って対日航空戦の立案を手伝う
‘44年4月、ハンセルは第20航空群の設立とアーノルド将軍の陸海軍から独立した司令官就任を統合参謀本部に承認させ、ハンセルは太平洋で戦闘任務にあたる航空軍将官としては最上位の第21爆撃軍司令官に就任
その頃までに米軍航空部隊は増設燃料タンクを装備した寧猛な戦闘機P-51マスタングの登場で爆撃機を護衛してベルリンに行くだけの燃料が与えられ、爆撃機の増産もあって一度の空爆に1000機を送れるようになり、ヨーロッパの勢力バランスが逆転していた
ハンセルは、自分の名誉が回復したと思わずにはいられなかった
長引く戦争に米国内人は厭戦気分が広がり、一般市民の殺害を非難していたローズヴェルトさえ態度を一転させ、焼夷弾攻撃に米軍を参加させようとしたチャーチルの計画を承認
第4章
サイパン陥落の頃には日本はあらゆる労働力を集め、学童疎開は家族をばらばらにした
12月6日の4回目の爆撃で86機が飛び立ったが武蔵製作所を爆撃したのは56機だけ。照準点の周囲1000フィート以内に落ちた爆弾は1%のみ
この後ハンセルは、名古屋の三菱重工のエンジン工場である名古屋発動機を71機で爆撃、工場の20%に損害を与え、最も成功した爆撃になった
日本軍は硫黄島から反撃し、B-29を12機破損
戦局の不芳にハンセルの緊張は高まり、作戦が順調に遂行しないためもあってオドネルとの諍いも極限に達する
第5章
ハンセルは、軍事目標への精密攻撃という考え方をいまだに唱えている数少ない指導者の1人で、世界の大部分は、とうに道徳上の迂回路ともいうべき路線へ進路を変え、勝利に必要な手段としての一般市民殺害と都市の破壊を受け入れていた
この決定的瞬間へつながる道の起点は30年前、第1次大戦中にドイツがロンドン市民を恐怖に陥れるために初めてツェッペリン飛行船を飛ばした時で、飛行船と複葉機による古風な空襲は現在とは比較にならないもの。今次の大戦では日本が先陣を切り、2年にわたって野蛮な作戦を展開、重慶を系統だった爆撃で痛めつけられた世界最初の首都にした
ドイツが日本に倣い、’40年ブリッツ(電撃戦)作戦により英国の都市に焼夷弾攻撃を行う
57夜続いた後、地方都市も目標となり、最悪だったのが英国最大の軍需品製造拠点になっていたコヴェントリー。10時間の爆撃で町の2/3が損壊
英国はその報復としてマンハイム爆撃を敢行。住宅地である市の中心部への攻撃だった
'42年には、後に部下から”爆撃機ハリス”と呼ばれたアーサー・ハリス卿率いる英空軍省は、「敵の一般市民、特に産業労働者の士気を挫くこと」を主要目標に据えた。'43年7月のハンブルク爆撃はその最大の成果となる。ハンセルは慄然とし、ルメイは町の消失に価値を見出していた。両者の対立する見解は、戦争が長引くにつれ、米国のリーダー間で戦わされた爆撃戦略の未来に関する論争へと発展
その一方で、ロンドン空爆で見せつけた焼夷弾攻撃の潜在能力に目を向け、開発が遅れていた米国は秘かに新型の焼夷弾の設計と開発を準備、ナパーム弾として実現
‘44年5月には米海軍が焼夷弾攻撃特別分科会を設置、大震災で脆かった東京や横浜の例も参考に、詳細な攻撃の机上プランを作成
アーノルドも徐々に考え方を現実を見るようになっていたし、ローズヴェルトも’41年10月原爆を承認、’42年4月の東京空襲を命じている
‘44年12月、ワシントンはハンセルに、名古屋に本格的な焼夷弾攻撃を行うよう命じる。攻撃の目的は2つ、1つは工業生産能力を低下させるためにできる限り待ちの広い範囲を破壊すること、2つ目は焼夷弾の照準を合わせやすいように集束した新型爆弾M69の効果を判定すること。ハンセルには、あくまで試験的作戦だとして納得させる
第6章
アーノルドの参謀長だったノースタッド准将はノルマンディ上陸作戦で名を挙げる
ハンセルは1か月の爆撃を総括して、完璧の基準からは程遠く、実験的段階だと真実を記した記者声明を発表したが、アーノルドは激怒。ハンセルを解任しルメイを後任とする
1月、ルメイがガムに移動した司令部に着任。ハンセルはルメイに、焼夷弾攻撃を計画しているのか、それとも昼間精密攻撃という方針を継続するのかと尋ね、ルメイは、焼夷弾で軍事目標を破壊できるのなら反対しないが、ハンセルが練り上げた原則は守るつもりだと応じる。ハンセルは彼がそうすることを希望し、「戦争が終われば、人はそれをどうやって勝ち取ったかで判断される」ということをルメイに思い出させた
第2部
火炎
第7章
ルメイはハンセルとは対照的な人物。恵まれない環境で育ち、社交的な優美さや洗練とは無縁。最悪の綽名は”鉄のケツiron ass”。仕事を求めて放浪する一家に育ち、曲芸飛行を見て憧れ、オハイオ州立大で土木工学を専攻、卒業後は列車車体製造会社に就職するが、予備役士官訓練課程ROTCを終えても飛行士になるのは順位が低く、州兵の野戦砲兵少尉に任官し、陸軍航空隊飛行学校への願書を出す。飛行隊候補生として入隊が認められたが、合格率は25%。なんとか合格して’29年飛行学校を卒業して陸軍航空隊の少尉に任官
大学の学位も取って、ハワイに転属。戦闘機操縦士の訓練を受けたが、戦闘機だけでは戦争に勝てないことに気づき、爆撃機の戦略上の重要性に着目。爆撃群に配属される
B-17を使った陸海軍合同演習で、航法士としての腕前を見せ、目標の戦艦に模擬爆弾を命中させ、戦艦が時代遅れであることを証明して海軍首脳部を激怒させる。爆撃軍司令官の厚い信任を勝ち取り、実績を積み上げていく。北大西洋横断空路の開拓に助力し、米軍機が英国から飛び立ってドイツの都市を粉砕する日がそれほど遠くないことを予感させる
実践主義者のルメイは、知性よりも勤勉さを重んじ、やる気さえあれば成し遂げられるという。’42年新設部隊の第305爆撃群の指揮官となり、対日独戦に使える実践的な航空軍兵士の育成を命じられる。大佐になって育成した部隊を率いて’42年ロンドンへ向かい、ドイツ戦に参戦。ドイツの対空砲火神話を理論的に打破し、成果を上げる
‘44年9月、連合軍のフランス上陸の成功後にルメイはインドを拠点とする第20爆撃軍の指揮官に抜擢、いよいよB-29に搭乗することに。四川省の省都の成都に飛行場を建設し、日本を南部から攻撃することになるが、インドから成都への兵站はヒマラヤ上空を何度も行き来しなければならず、またB-29の航続距離では九州が限界で、東京空爆は圏外
第8章
‘45年1月、ルメイはグアムに着任。ハンセルの最後の任務となった明石の川崎重工業への爆撃は主な建物すべてに爆弾が命中、大成功に終わったのは皮肉だった
ルメイはジェット気流を避けるために高度を25000フィートまで下げるよう命じ、薄い空気の中の活動が不得意な戦闘機の攻撃を防ぐ盾を少し外したが、航法士にとっては地上が近づいた分空気が濃くなっただけでなく故郷の温もりが感じられる
ルメイも、初期の爆撃は変わりやすい悪天候との闘いだった。爆撃機を少しでも長く空に留めておくよう、整備の充実が図られ、天候の悪さから目視による爆撃に代わってレーダー爆撃の性能改善に集中。ハンセルとオドネルのいがみ合いで指揮系統が混乱していたのをルメイのもとに統一、空中訓練の強化により搭乗員のレベルの引き上げを図る
機械系統の故障や緩んだボルトなど機体の不備はあらゆるところに潜んでいたが、それ以外にも、英国とベルリンを往復すると1500マイルだが、太平洋では東京までの片道に過ぎず、さらに撃墜された際にもヨーロッパでは被占領国の友好的な地元民の助けを受けることが期待できるが、太平洋ではそれもない
第9章
2月になると日本人の暮らしはさらに悪化し、新聞は躍起になって市民の鼓舞に走る
国は特攻攻撃に頼り、新聞も「命を捨てて勝利の基盤を築く」という航空兵の言葉を載せて学生に呼びかける。この虚勢こそ、戦争が新たに致命的な段階に入った現実を糊塗するものだった。日本の指導者は間違いなく現実を理解していた。それはマリアナ諸島陥落後に永野修身海軍元帥が天皇に上奏した言葉で裏付けられる。「我が国はもはや地獄の只中におります」
大都市では、住宅の密集度に対応するため防火帯を設けるべく、多くの住宅が解体
「たいていの人の気持ちはすでに勝利を信じていない」という市民の思いが多くの人々の目の前で具体化したのが1月27日のルメイによる銀座への爆撃。悪天候で中島飛行機まで行けなかったB-29の編隊が銀座周辺に500ポンド爆弾と焼夷弾を投下。朝日新聞社の窓を吹き飛ばし、泰明国民学校を破壊、有楽町駅を崩落させた
ルメイの精密攻撃はなかなか期待通りの成果をあげられずにいる。一方で海軍によるピンポイント攻撃が予想以上の効果をあげると、航空軍を陸海軍いずれかに移管するとの圧力が高まる。ルメイも自らの立場が危機に瀕していることを悟り、攻撃方針の転換を決意。すでに神戸で焼夷弾爆撃のテストをして一定の効果があったことを確認しており、本部からも焼夷弾攻撃の示唆があり、新たな命令書の目標リストは、航空機工場が最優先
として位置づけられていたが、第2目標攻撃や陽動攻撃はすべて、都市部への焼夷弾爆撃で構成せよと指示された
2月25日に東京を対象に焼夷弾攻撃実験を敢行。229機が飛び立ち、172機が隅田川上流3.5マイルの目標地点に到達して爆弾を投下。24件の火災を引き起こし、3万近い住宅、焦点を破壊、神戸攻撃の10倍の被害をもたらす。ルメイは爆撃効果判定写真を検討、東京が大規模な焼夷弾攻撃に対して脆弱であることが決定的と評価
ヨーロッパでは、2月13日ドレスデンへの攻撃で対独航空戦が最高潮に達する
さすがにこの無慈悲な破壊は、不快な代償がつきものであることを世間に広めるきっかけとなり、英国内でも抗議の声が高まり、米国内でも波紋を広げた
東京への試験爆撃の3日前、スティムソン陸軍長官は、「一般市民に無差別攻撃を加えることは我々の方針ではない。現在もなお、我々の取り組みは敵の軍事目標への攻撃に限定されている」と報道陣に言明
第10章
ルメイは引き続き低高度からの焼夷弾攻撃というアイディアを検討。対空砲火の位置を確認するとともに、低高度での飛行訓練を行う。その間にもピンポイント爆撃を敢行するが、悪天候に遮られて目標達成には程遠く、9つの優先目標の1つも達成できず
ルメイの練り上げた計画は破格。5000~8000フィートからの焼夷弾攻撃。目標は航空機産業を放棄し、代わりに東京下町の住宅密集地。武器庫にある300機以上全てを投じ、夜間に、編隊飛行ではなく現地での合流に変え、あえて殺人を厭わないもので、長年の米国の爆撃方針に反するものだったが、ルメイの計画に反対する者はだれもいなかった
1マイルの高度での爆撃機の侵入に対し、対空砲火の専門家は爆撃機を70%失う恐れがあると警告されたが、ルメイは日本が低高度用の砲を持っていないと確信、さらに夜間戦闘機部隊が少ないことも知っていて、計算されたリスクと判断。アーノルドの参謀から、戦争を早急に終わらせ勝利をもたらすものなら何でも支持するとの話を聞いて、トップの了解を得たものと判断、ルメイ自身の責任で実行を決断
第11章
ルメイが各爆撃指揮官に指示したのは、5000フィートで東京上空に入り、味方同士の誤射回避のために機銃を放棄し、身軽になった分だけ爆弾を追加するというもの
9日の日没時に300以上の爆撃機がサイパン、グアム、テニアンから一斉に飛び立つ
軍需工場は今度の任務の主目的ではなく、東京の家内工業、精密爆撃では採算の取れない目標だった
7日に各爆撃航空司令部に書面で示達され、翌日にはワシントンの航空軍参謀部に作戦内容が報告される。当日のブリーフィングでは搭乗員は、指示内容に自殺行為だと愕然とし、司令部が狂ったと疑う。月内に120時間爆撃機を飛行させるので必要な補給品の提供を依頼すると、海軍士官はできるはずがないといって失笑
9日夕刻5:36、サイパンから1号機が離陸。325機が東京を目指す
第3部
劫火
第12章
この冬東京では気温が氷点下を上回らない日が45日以上も続く過酷な気候
東京では敗戦の兆候が日ごとに表面化。敗北が不可避であるという考えは子供にまで浸透
その週に様子が一変し、空襲は止み、小学校の卒業式が行われ、疎開していた子供や家族が町に帰ってきた
7時間15分の飛行は搭乗員にとって一番辛い部分。任務を遂行できるかとの不安、型破りの作戦に関する不安、高高度の保護もなく、防御型の編隊の安全策も取られていない、銃器も撤去、日本軍の戦闘機や対空砲火への不安、誰も他の機がどこにいるのか知らず
父島と母島を通過する際には探照灯が動き、高射砲が轟いた。砲撃は貧弱だったが精確
悪天候時に爆撃機の機首や翼端から青い稲妻のような大気中の電気が放射されるセントエルモ現象が操縦士を不安にさせ、一時的に目が見えなくなるほど強力で不気味
第1照準点は浅草区、第2が本所区、第3が深川区、最後が日本橋区
高射砲の迎撃が始まる中、最初の爆弾は午前1時7分に投下(マリアナ時間)
午後10時半、ラジオでは哨戒艇が南方から本土に接近する敵機を発見したと住民に警告したが、東部軍管区は房総半島上で発見された米軍機は反転して引き返したと発表
翌日の陸軍記念日の行事を米軍が攻撃の口実として使うかもしれないという噂が広まっていたので、発表を聞いた市民は、冷やかしだけで済みそうだと安心
警視庁の専属カメラマンの石川光陽は、昼間の攻撃に限定した米軍が3月5日には夜間にかわったので、不可解な慣習の変化に不安を感じていた
強風化で爆撃が始まり、空襲警報が鳴り響いたのは爆弾炸裂の7分後で、その遅れが多くの住民から避難のための時間を奪った
集束弾が地上数千フィートでバラバラになり、ナパーム弾が散布され、ゼリー状のガソリンと炎とを一緒に撒き散らす
第13章
攻撃機の司令官が、「これほどすぐに火が付き、これほど遠くまで火が広がるのを的確に説明するのは難しい」を
呆気にとられるほどの成果を上げる
爆撃機から見た様子は、「東と北は見渡す限り炎の海で沸き立つ大釜のように唸りをあげて都市を覆い尽くそうとする大量の火の塊があった」
ただ1人同乗を認められた記者は、「激しく燃えるのを見ただけでなく、その臭いを嗅いだ」と後に書く。爆撃機内の搭乗員全員が嗅いだのは、死にゆく都市のあらゆるものを焼き尽くした不快な悪臭であり、死の臭いだった。黒煙は2万フィートに達し、爆撃機は煙と炎熱の嵐の中を突っ切る以外に選択肢はなく、そこには燃える街から上昇してくる熱気流に瓦礫が舞っていた
第14章
サイパンで待機中の記者たちは、最初の爆弾投下完了報告で空襲の開始を確認できるまで、記事の送信は禁じられた
最初の爆弾投下完了報告が到着、2:55amにワシントンに転送、作戦の成功を予感させた
爆心地では、住民が火の海の中を逃げ惑う地獄の光景が展開
第15章
都内への緊急医療支援提供を担った陸軍の救護班に出動命令が下ったのは午前3時40分
皇居西側の軍医学校の防空陣地から東の城東区方面を見ると空が深紅に染まっていた
隅田川を渡ってようやく悲惨な出来事の規模を実感。本所国民学校に救護班を置く命令を受け取る。煙と埃で起きた急性の結膜炎患者や火傷と一酸化炭素中毒が多い
土曜の朝を迎えると厳冬が戻り、灰が粉雪のように風に舞う
第16章
最初の爆撃機が帰投、煙の臭いの染みついた軍服を着た疲労困憊の搭乗員を吐き出す
戦果判定のための撮影に、最初の偵察機が夜明け前に出発したが、写真などなくても任務が圧倒的な成功を収めたことは、ルメイにもわかっていた
279機が東京を爆撃、総計1665トンの焼夷弾を投下。失われたのは14機のみ
267,171の住宅、店舗を含む15.8平方マイル(40.9㎢)が焼失。9.5万人が死亡、4.9万人が負傷。100万人が家を失う。わずか数時間の成果
続いて2日後には名古屋に焼夷弾攻撃を実行。初めてと市中心部の住宅地を目標に加える
無駄な焼夷弾投下を防ぐために編隊に時間差を設け、後続部隊にはまだ火災の発生していない地域を目標とさせる。310機が出撃、285機が1790トンの焼夷弾を投下。損失は1機のみ。さらに2日後は大阪に274機が1733トンが投下され都市を焼き尽くす
米国の新聞に、「戦略を地域爆撃にシフト」と断定する記事が出たため、政府上層部は無差別爆撃に疑問を持つ論調を抑えるため、「あくまで家内工業を排除するための破壊で不可欠なもの」であり、戦略的精密爆撃であるとの現在の主張を貫く
爆撃機をフル稼働状態にするために、整備士など地上要員が夜通し作業を続ける
さらに3日後には神戸へ、2日後には再び名古屋と、10日間で5都市を殲滅
心臓発作から回復したアーノルドもルメイを称賛、7月までには1000機のB-29をルメイの指揮下に入り、想像を絶する爆撃を可能にする戦力になると伝え、米国の人道的な戦い方の価値を説いていたことはもはや気にかけてはいない
わずか142分間の空襲で、首都の35区のうち29区が被害を受け、猛火は深川、本所、浅草、城東、日本橋の5区を一掃。首都の40%を焼く。身元判定は不可能で、東京全体で家族に引き取られた死体はわずか64体
東京都長官(府と市が合体、親任官)の西尾寿造は、引き続き士気を鼓舞するよう都民に呼びかけ、天皇は、大震災の時と同額を寄付し、当時の馬に代わって御料車で視察に出て、「東京は灰燼に帰した」と言ったが、講和を有利に運ぶための勝利の一撃が必要だと信じ込んで、臣民の苦しみへの配慮は抜け落ちたままだった
第17章
3月26日の硫黄島攻略の後、作戦立案者たちが目に付けたのは沖縄
“アイスバーグ作戦"と呼ばれた4月1日の上陸作戦は、45万の兵力と1200隻以上の艦船を動員する、太平洋戦争最大の陸海軍共同作戦
ルメイの部隊も動員され、九州の飛行場の破壊に97回出撃。海上輸送に頼る日本の状況に対し、日本周辺の水路に機雷を投下したのが効果的だった
4月3日、ルメイに新しい目標指示が来る。中島飛行機武蔵製作所と名古屋の三菱発動機がトップだったが、そのあとには東京、川崎、名古屋、大阪の10都市の市街地が続いた
ルメイは、十分な兵站に加えて、35回の任務で帰国を許される搭乗員の補充・訓練も要求したが、兵員の増強は本部が拒否。ルメイは、すでに東京ほかで搭乗員の勤務が月60時間の上限を遥かに超える86時間に達していることを発見して、大きな賭けに出る。現状のままで短期間に日本を屈服させられれば、それ以上の大きな兵力を増員しなくて済むという考えに至る
13日、最初の爆撃目標は都市の北西に固まる東京造兵廠複合体、2日後は川崎
5月11日に沖縄上陸作戦の支援任務から解放されると、名古屋への大規模攻撃を実行
25日未明には520機が、翌日には464機が東京を猛撃
6月12日、アーノルドは3年ぶりに太平洋に戻ってきた。1か月前にはドイツが降伏。61の都市を瓦礫にして、50万以上の一般市民を殺し、80万人を負傷させた。ローズヴェルトが4月12日に亡くなるとトルーマンが大統領となる。アーノルドは以前衝突したことがあり空軍の独立実現を危惧
5月25日、統合参謀本部は日本侵攻計画”ダンフォール”作戦を承認、11月1日の九州攻撃を皮切りに実行に移すことが決まる。その4か月後には東京近郊の海岸に上陸する予定
海軍は陸軍航空軍ですら海岸線までで終わりだと主張してきており、今回のアーノルドの独立空軍創設の企みにも真っ向から反対したが、現場のニミッツ提督は全面的にアーノルドの計画を受け入れ。ワシントンでの大統領と統合参謀本部との会議にルメイを送り込む
6月18日、大統領はスティムソン陸軍長官、マクロイ陸軍次官、フォレスタル海軍長官、マーシャル将軍(陸軍参謀総長)、リーヒ提督(海軍参謀総長)、キング提督(海軍作戦部長、太平洋艦隊司令長官)と会談。アーノルド(陸軍航空軍最高司令官)の代理としてイーカー中将が出席。マーシャルは空軍力だけではドイツを降伏させることはできなかったことから、日本でも本土侵攻しかなく、九州占領が不可欠と主張。イーカーもマーシャルとの衝突は回避。翌月実験に成功する原子爆弾のことは何も触れられていない。大統領は九州侵攻を承認。ルメイは到着が遅れ、翌日ペンタゴンで侵攻なしでも戦争を終わらせることができると説いたが、誰も耳を貸さず。ペンタゴンで記者会見をしてアメリカ国民を説得しようとした
第18章
日本では東京帝大の教員による報告書が、「大規模な戦略爆撃が日本の経済基盤を完全に壊滅させた」と結論付けた。都市部から地方への避難が激増し、軋轢を生む
6月23日、沖縄戦の実質的な終戦日に天皇は最高戦争指導者会議に、外交的な手段を用いて戦争を終結する方法を見つけるよう命じる
ルメイには称賛の手紙が溢れる、前任のハンセルでさえ夜間の低高度での日本侵入の決断は勇気ある正しい決断だったと認める。道徳性への疑問はほとんどなくなった
真珠湾での裏切りを筆頭に、戦時中の日本軍の悪行の数々は知れ渡っており、絶滅を支持する人も米国民の13%に達した
航空軍は表向き、焼夷弾攻撃の目標は工業地帯だと広言していたが、その実、目標選定の第一の理由は都市の”燃えやすさ”であり、日本の一般市民を広範に攻撃することで、彼らの士気をできるだけ低下させ、衝撃効果を得ることだった
ルメイの標的は第2級の都市に移行、最終的には58の都市が破壊された
ルメイが初めて新兵器のことを知ったのは3月。新しい部隊の活動スペースを要求され、ティベッツ大佐の部隊が派遣され訓練を始める。作戦の実行はルメイに一任され、ルメイは1機単独で送るのが最善だと推奨
その間もルメイの部隊は、毎晩のように日本の地方都市の爆撃を続ける。敵の反撃はほとんどなく、攻撃側の犠牲もほとんどなし
ヨーロッパ戦のベテランだったスパーツ将軍が新しい米国陸軍戦略航空軍の指揮を執るためにグアムに到着。アーノルドは予想に反して第20航空群の司令官に、ルメイより階級が1つ上のトワイニング中将を指名。スパーツはルメイを参謀長に選ぶ
「世界の歴史の中で最も恐ろしい爆弾」と表現したトルーマンは、軍事目標に限った使用を承認したと書いているが、新型爆弾の投下命令書には軍事目標とも民間目標とも書かれておらず、ただ広島、小倉、新潟、長崎の4つの都市だけが書かれていた
第19章
8月6日、テニアン島からティベッツ大佐は、母の名をつけた”エノラ・ゲイ”で飛び立つ
爆弾を満載したB-29の2000機分に匹敵する爆弾を積み、硫黄島で科学機器を搭載して追随するB-29の2機と合流。目標は広島、小倉と長崎が予備。前もって気象観測機3機が3つの都市の気象状況を観測し、ティベッツに報告、目標が広島に決まる
7:09am空襲監視員が気象観測機を発見、空襲警報が発令されたが、爆撃機はそのまま去り、警報は7:31解除。8:06 2機の爆撃機を発見、3分後3機に訂正。8:14探照灯台が爆音聴取を報告。8:15:17過ぎ、爆弾”リトルボーイ”投下。43秒後に爆発
ルメイも航空写真を見て度肝を抜かれていた
16時間後に発表されたトルーマンの声明は、日本には歴史上類を見ないほど激しい破壊の雨が降ると警告し、「太陽エネルギーの源である力が極東に戦争をもたらした者たちに対して解き放たれた。確実に日本の戦闘能力を壊滅させる」と宣言
9日早朝にはB-29”ボックスカー”がテニアン島を離陸、11:02am長崎に”ファットマン”投下。日本はついに敗北
エピローグ
9月1日、ルメイは厚木に到着。翌日の降伏文書調印を見届けるための訪日
ルメイが焼夷弾爆撃を続けたのは159日。2000万以上が住む66都市の178平方マイル以上を焼き払う。全焼夷弾の半分以上が5都市に集中。第2級都市では富山が最大の被害を受け、99.5%を平らな大地にした。9か月に及ぶ米航空軍の作戦では14.7万トンの爆弾が投下され、ドイツに投下されたものの1/10以下だが、ルメイはその7割を都市部に集中させ、2/3は焼夷弾で効果をあげた
ルメイは、空襲の犠牲者のことを深刻に受け止めることはなく、「現実的である必要があった」と語り、一般市民の死は勝利を得るためには払わなければならない代価だとした。後年になっても自責の念を公にすることはなく、米国が日本本土に侵攻して多くの死者が出るリスクを冒さなくて済んだことに感謝する他の司令官の称賛を浴びた
米内光政も、「原爆とソ連参戦はある意味では天佑」と言い、アーノルドも「日本の立場からすれば、原爆はむしろ脱出口だった」と語る
ルメイは昇進を続け、冷戦中には戦略空軍司令官を10年務め、さらに’61年ケネディによって米空軍参謀総長に任命されたが、ベトナム戦争中にマクナマラ国防長官と衝突
‘64年、佐藤首相は航空自衛隊創設の功労に対し、ルメイに勲一等旭日大綬章を授与
‘65年自伝発表。その最終ページで、ルメイはベトナム戦争を終わらせる方法を助言。「戦争終結には、彼らに率直に告げることだ。攻撃を控えて侵略を止めろ、さもなければ爆撃で石器時代に引き戻す、と」。この発言は日本い対して「暗黒時代」に戻すと脅した発言からそれほどかけ離れていない。書評家はその引用に飛びつき、ルメイを野蛮人として印象付ける。’68年の大統領選に立候補した人種隔離主義者のウォーレスは副大統領候補にルメイを指名。ルメイはベトナム政策に異議を唱えるために周囲の反対を押し切って受諾
せっかく築いた戦時中の名声は影が薄くなり、’90年に死ぬまで彼を悩ませる悪評が確立
ハンセルは引退後に有益な回顧録を数冊書き、解任による傷は完全に癒えなかったが、南部紳士らしく、決してルメイを非難せず、ルメイの指示は戦争全体を通じて最も重要な決断の1つであり、あれは合意ではなく個人的な決断で、彼1人がその功績を得てしかるべきと、空軍の歴史家に書き送る
`67年、深川の地下鉄新線工事現場で損壊した防空壕から遺体発見。そのニュースを見た早乙女勝元は、12歳で被災した記憶を呼び覚まし、生存者を個別訪問した結果を『東京大空襲』(‘71)にまとめ、大空襲に関する日本の代表的歴史家として知られるようになる。彼のリーダーシップにより'02年東京大空襲・戦災資料センターが開館
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太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B-29が東京上空に飛来、焼夷弾による猛火の嵐が市民を襲い、約10万人が死亡、約100万人が焼け出される大惨事となった。
日本とも縁の深いアメリカの軍事史家が、各種の記録と日米をまたぐ調査をもとに、この大空襲と余波――「黒い雪」(戦時中に東京に滞在したフランス人記者R・ギランの言葉)――を五感に訴える筆致で再現する。米陸軍航空軍の発展史、指揮官カーティス・ルメイの肖像、東京を起点とする日本全国への無差別爆撃が広島・長崎への原爆投下につながる流れまでも詳述する。アメリカ軍の元操縦士や爆撃手、早乙女勝元氏をはじめとする大空襲の生存者にも直接インタビューした稀有な歴史ノンフィクション。
〈早乙女氏や他の生存者が、痛ましく、ほとんどが悲劇的な個人の物語を進んで私と共有してくれたことには、いくら感謝してもしきれるものではない。彼らの体験が、夜間空襲が銃後を戦場に変え、民間人と戦闘員の違いがなくなった戦争の最後の数カ月間を特徴づける総力戦の恐怖を、現代の読者が理解する助けになればと思う〉(「日本語版に寄せて」)
大空襲の惨禍を日米の膨大な証言から描く
J・M・スコット『ブラック・スノウ』染田屋茂訳 担当編集者からひとこと
2025年12月23日
本書は、James
M. Scott, Black Snow: : Curtis LeMay, the Firebombing of Tokyo, and the
Road to the Atomic Bomb (WW Norton, 2022) の全訳です。著者のジェームズ・M・スコット氏は、アメリカの軍事史家・ノンフィクション作家で、本書をふくめてアジア・太平洋戦争に関する著書が4冊あり、1942年4月のドゥーリトル東京初空襲を描いたTarget Tokyo(2015)は、ピュリッツァー賞の最終候補にも選ばれています。旺盛な取材・執筆活動の一方で、日本を含む世界各地の戦跡をめぐるツアーのガイドとしても活躍しています。
英語版は2022年9月に刊行されました。全体は3部構成になっており、第1部「火花」では、軍事目標への昼間精密爆撃にこだわり、最終的に更迭される米指揮官のヘイウッド・ハンセル篇、第2部「火炎」では、ハンセルに代わって指揮を執り、夜間無差別爆撃へと舵を切ったカーティス・ルメイ篇、第3部「劫火」では、1945(昭和20)年3月10日未明の東京下町空襲の凄惨な実態とその余波が、つぶさに描かれます。
刊行後すぐに、第二次世界大戦末期の米軍による対日空襲の実相を、日米双方のさまざまな視点から描いた、これまでにない戦争史の秀作としてアメリカの各紙誌で高く評価されており、同業の戦記作家たちからも称賛の声が多く寄せられています。たとえば、リチャード・フランク氏は、次のような賛辞を寄せています。
「本書は、史上最も破壊的な空襲となった1945年3月9日から10日にかけての東京大空襲の凄惨な現実を、見事な筆致で生き生きと描き出している。スコット氏は、巨大な火災旋風に巻き込まれた日本人たちの痛烈な体験を含め、この大惨事の世界的、技術的、そして道義的な背景を、あらゆる立場や国籍の人々の鮮明な肖像を巧みに用いながら概観している。この魅力的な記録は、現代にも強い関連性を持つ歴史的瞬間を照らし出している」――リチャード・B・フランク(『頭蓋骨の塔――アジア太平洋戦史 1937年7月-1942年5月』[未訳]著者)
「大学卒業後に来日し、本州で教師をしていたことがある」――昨年、本書の著者インタビューをポッドキャストでたまたま聴いていた際、スコットさんがこう語るのがふと耳に入りました。若いころに兵庫県の公立中学校に英語教師として赴任し、その際に、地元の人びとから戦争末期の強烈な空襲体験を聞いて、米軍による対日空襲の事実にはじめて触れたこと、同じ時期に広島とハワイの真珠湾を訪れ、太平洋戦争の終わりと始まりの地を踏んだことが、軍事史家としての原点になったとの話に、興味を惹かれました。その後に原書を読んで、緻密な調査とバランスのとれた筆致に感銘を受け、ぜひ日本語版を刊行したいと考えたのが、この邦訳版のきっかけです。スコットさんの若き日のエピソードは、本書冒頭の「日本語版に寄せて」でもご紹介いただきました。
本書の最大の特色は、日米をまたぐ入念な調査と取材にもとづく立体的な記述です。日本では、東京大空襲の体験者の方々にじかにインタビューしており、なかでも「東京大空襲・戦災資料センター」の初代館長でもある早乙女勝元氏(2022年逝去)に詳しく話を聴いていることが、本書の重みとリアリティーをいっそう高めているように感じます。早乙女氏を含む空襲体験者の方々から聞き取った生々しい証言をはじめ、『暗黒日記』の清沢冽の記述、米航空軍の公式記録、ルメイが妻とやり取りした手紙に至るまで、日米の諸相に及ぶ詳細な調査・取材と重層的な筆致は、ハーシーやトーランド、ダワーなど、アメリカ人ジャーナリストや研究者の先達による名著をも想起させます。
今年の10月上旬、欧米人対象の日本戦跡ツアーのガイドとして来日されたスコットさんに、東京大空襲・戦災資料センターではじめてお会いしました。初の邦訳となる、この日本語版の刊行を、とても喜んでくれていました。今回のツアーでは、沖縄、広島、長崎、東京と回り、特攻隊の出撃基地だった鹿児島の知覧も訪れたとのこと。ちなみに、同センターは、2022年のウクライナ侵攻以降、英語圏からの来館者が増えているのだそうです。この邦訳版の編集にあたっても、吉田裕館長をはじめ、東京大空襲・戦災資料センターの方々にさまざまなご援助・ご協力をいただきました。本書を読まれたら、民立民営の同館をはじめ、関連する資料館や史跡にも、ぜひ足を運んでいただけたらと思います。
まもなく戦後80年が終わりますが、本書で描かれている出来事は、遠い過去の、終わった事象ではありません。東京大空襲をはじめとする民間の空襲被害者に対しては、最高裁が示した「戦争被害受忍論(受忍論)」を理由に、日本政府からの補償はいまだなされていません。超党派の国会議員による「空襲被害者救済法」提出の動きもありますが、戦後80年の節目に成立を目指した先の国会でも、法案成立は見送られました。一方、世田谷区では、空襲被害者に対する見舞金を支給する条例が、この12月に成立しています。現在なお進行中の諸課題の起点として、東京大空襲の実態を知る意義は小さくないのではないでしょうか。
「日本語版に寄せて」の末尾で、スコットさんは次のように述べています。「終戦から80年がたち、世界の緊張が高まるいま、私たちが過去を記憶し、平和を保つためにできる限り力をつくすことがこれまで以上に重要になっているのは間違いない」。本書を機に、現代にも重い問いを投げかける未曾有の空襲とその影響について、改めて考えていただけたら幸いです。
ブラック・スノウ ジェームズ・M・スコット著
米日の双方から見た惨禍
2026年1月24日 日本経済新聞
太平洋戦争の成り行きを決定づけた1945年3月10日の東京大空襲。マリアナ諸島を発った300機以上の米軍の爆撃機B29が低空で焼夷弾を投下し、死者10万人以上、焼失家屋は27万戸に及んだ。本書は、この一大作戦の全体像を米、日双方の視座から描く。
ともすれば、圧倒的工業力で一方的に戦況を有利に進めたと思われがちな米側だが、急ごしらえのB29は故障続き、乗員の練度も低い。しかも、当初の指揮官は倫理的観点から昼間に軍事施設を高高度から狙う作戦にこだわり、戦果が上がらない。
次いで、指揮官となったルメイの下、夜間、低高度で無差別に焼夷弾を落とす大空襲の作戦が練られていく。日本の軍備は下町の家内工業に支えられているという信念からだ。加えて、結果が出せなければ、日本本土への大規模な侵攻で50万の米兵の命が失われるという危機感も支えた。
空襲前、ルメイは言ったという。「もし負けたら、我々は戦争犯罪人として裁かれる」
悲惨の二文字をはるかに超える被害の実相は数十ページにわたり、一読、言葉を失う。
人間の理性が下した判断や科学の力が、地上に地獄を解き放ってしまう戦争という巨大な惨禍。記憶を伝承していかねばならない。染田屋茂訳。(みすず書房・4620円)
「ブラック・スノウ」書評 大量殺戮で戦争終結を図る構図
評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2026年03月14日
ブラック・スノウ――東京大空襲と原爆投下への道著者:ジェームズ・M・スコット
爆撃機部隊の司令官カーティス・ルメイの作戦計画が、「数千の航空軍兵士」に説明されたのは、1945年3月9日のことである。サイパン、テニアン、グアムの各島で、部下の指揮官らが「今夜は、東京以外に目標はない。すべての爆弾が東京の内側に投下される」と言い、攻撃高度もかなり低くなると告げた。搭乗員たちは、自殺攻撃に等しいと愕然としたという。
その夜、三つの島の基地から爆撃機325機が飛び立ち、「焼夷地区一号」と名付けた東京低地の「可燃性の高い地区」を目指し、夜の闇に次々と溶け込んでいった。
本書は、3月10日の、いわゆる東京大空襲を、アメリカ軍の戦略部門、日本の庶民の戦争体験という二つの側面で描写している。軍事を軸とするノンフィクション作家の筆は、焼夷弾による非戦闘員の大量殺戮で戦争終結を図る構図を、類書にない形で浮かび上がらせる。徹底した取材と深い人間洞察によって、初めてその構図を根本から理解できるように思える。
特に残酷さを感じるのは、都市を爆弾で焼き尽くし、銃後の市民を多数死なせ、敗戦への道を加速させようとの戦略である。第1次大戦にはなかった戦時思想で、これらはドイツのロンドン攻撃、イギリスのハンブルクやドレスデン攻撃にも見られるのだが、本書はさりげなく、「今度の大戦では日本が先陣を切り、二年にわたって野蛮な作戦を展開」と描いている。日本は268回の重慶爆撃を行ったという。
著者は、都市爆撃が軍事的に有効性を持つことを論証しつつ、戦争の悲惨さを具体的に視覚化するので、本書自体がメッセージを持つ。被災者の過酷な体験を、ルメイという軍人の戦略観と個人史に絡ませる記述は、日本人の戦争観に訴える点が多い。
本書は、東京の被害の実相を人類史に刻んだ。1665トンの焼夷弾を投下され、わずか数時間で約10万人の死者が出た。重い数字である。
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James M. Scott アメリカの軍事史家、ノンフィクション作家。本書では、故早乙女勝元氏のインタビューも行った。
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