叫び 畠山丑雄 2026.3.14.
2026.3.14. 叫び
著者 畠山丑雄 1992年大阪生まれ。京都大学文学部卒。2015年「地の底の記憶」で文藝賞を受賞し、2025年『改元』が三島由紀夫賞候補となった。著書に『地の底の記憶』(河出書房新社)と『改元』(石原書房)がある。本作で第174回(2026春)芥川賞受賞
発行日 『新潮』12月号
発行所 新潮社
芥川賞 受賞の言葉
小説には昔から「取り違え」を書いてきた。『嵐が丘』に、”He’s more myself than I am.”とある。『叫び』の主人公もそのような取り違えを犯す人間である、その愚かさと弱さを大いに笑っていただければ、嬉しい
国家とは、右手で国民をしばきあげ、左手で国民を抱擁する
国家とはそもそも福祉のためにある。福祉は労働からの解放区を作り民間から聖を輩出するためにある。聖は労働のない場からしか輩出されず、かつて在野においてはその場づくりを寺を始めとする宗教が行っていたのを、今は福祉が代行
この国には大黒柱として官製の聖が、すなわち天皇が存在しているが、民主化という名の俗化により衰退の一途を辿っていて、近頃では継承さえ危ぶまれている
早野は37歳。アプリで出会った人と同棲するために茨木に越して来たが、相手は現れなかったため、酒に溺れた
もともとは茨木川と安威川が並行して流れていた。川端康成が茨木中にいた時、大正天皇の即位式典の記念事業で茨木川から水を引いて、日本で初めてのプールを作った。茨木中は全国屈指の水泳の強豪校となり、指導者の杉本傳は1924年のパリ五輪の水泳の代表監督になり、教え子の高石勝男はアムステルダムでメダルを取る。ライバルだったワイズミュラーも茨木中のプールを訪れている
早野は、銅鐸を叩く男に出会い、1つもらって一緒に寝て、男の下で銅鐸作りを習う
男は、銅鐸を作りながら聖を目指す
早野は、市役所の隣の「おにクル」の市民交流コーディネーターに採用される
茨木川沿いに昔は東洋一の罌粟畑が広がり、中国に輸出されていた
銅鐸の講習会で知り合った女性とデートを続ける
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早野ひかるは「先生」に打ちのめされ、銅鐸と土地の来歴を学び始める。ここではかつて罌粟栽培と阿片製造が盛んで、満州に渡って「陛下への花束」を編み、紀元2600年記念万博を楽しみにしていた青年がいた。いつしか昭和と令和はつながり、封印されていた声が溢れ出す。大阪と大陸で響き合う夢とロマン、恋愛政治小説
聞いて欲しい人が一人おるんです。「政と聖」(まつりごと)を描く芥川賞候補作。
AI
畠山丑雄の『叫び』は、現代の大阪で銅鐸作りに取り憑かれた青年・早野ひかるが、不思議な「先生」との出会いを経て、かつてのケシ栽培と1940年の幻の万博にまつわる過去の記憶とリンクしていく、政治と恋を描く衝撃作です。令和と戦時中の昭和が交錯する中で、封印された声が溢れ出す物語。
【あらすじのポイント】
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現代の主人公: 大阪・茨木で自堕落に生きていた早野ひかるは、ある「先生」の指導により、埋もれた郷土史を学び、銅鐸(どうたく)制作にのめり込んでいく。
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過去の記憶: 舞台となる地域が、戦時中にケシ栽培や阿片製造が行われ、満州へ渡って「陛下への花束」を編むことを夢見た青年がいた場所であることを知る。
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時空の交錯: 現代の2025年大阪・関西万博と、幻となった1940年紀元2600年記念万博の記憶が、主人公を通してシンクロしていく。
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「政と聖」の物語: 天皇制、戦争、国家の欲望といった重いテーマを、銅鐸という不思議なモチーフと恋模様を交えて描く、「恋愛政治小説」。
昭和と令和を繋ぐ、過去からの「叫び」を描いた作品です
芥川賞評
平野啓一郎――最初に推した。”生きる縁”モノというジャンルは多々あろうが、銅鐸の選択とその怪しげな師との関係に独自性がある。諧謔に富んだ文体で、日常の低俗な底から郷土史にアクセスし、戦中の満洲にまで物語を押し広げ、更に2つの万博を架橋するその力量には笑いながら唸った。物語の天皇への接続の仕方は意見が割れたが、「聖(ひじり)」と言い、その霊性論と言い、最初から笑うべきナンセンスとして提示されており、にも拘わらず、それに呑み込まれる男の滑稽さが巧みに表現されている。結果、ナンセンスのみならず、あらゆる物がパロディ化され、作者がほとんど文体模写的に影響を隠さない古井由吉的なものでさえ、笑うべきもののように見えてしまう。これは、真面目にその問題群を引き受けようとする者にとっては、困惑させられる事態だが、しかし、こうした虚無的なバカらしさに鍛えられることのない真面目は脆弱なものとなろう。よく理解しきれていない点もあるが、それも含めて魅力とすることに、私は賭ける
島田雅彦――関西には偽史の分厚い蓄積があり、それが説教節や講談という口承文芸となって現れたり、伝奇小説に翻案されたり、トンデモ史観として噂されたりしてきた。『叫び』はそうした関西の磁場から立ち上がる。銅鐸への執着、歴史への拘泥、好きな女性を聖(ひじり)と見做すような萌えが三つ巴になってうねるスラップスティックとして評価されたが、笑いのツボは読み手によって異なり、西日本出身者には受け、東日本出身者にはイマイチという傾向が選考委員にも見られたのは面白かった
山田詠美――銅鐸をこんなに素頓狂な形で登場させるとは! 荒唐無稽の域を飛び越えて、ほとんどチャーミングである。思わず噴き出してしまう大仰な言い回しや、テキ屋の口上か! と呆れるハッタリのかまし具合。下世話。でも、言葉によって時をつなげて土地を掘り起こしたのは紛れもない小説の仕事だと思った。ただし、最後のエピローグは全く不要。しかし、これを書きたいために、そこまでのスラップスティックがあったのか、とも感じたが、その部分、まったく感心出来ず興醒めした
小川洋子――早野は、土地に埋もれた記憶と、どこまでも流れ去ってゆく時間が交差する一点に、思いがけず足を取られる。銅鐸に閉じ込められた、死者たちの声が漏れ出すのを耳にし、やがて自らの死もその響きに連なるのだと気付く。彼を銅鐸に出会わせた、先生の存在が本作の根底を支えている。鼻持ちならない、説教好きな先生には、独特の愛嬌がある。きっと先生自身、どこまでが本気でどこからが冗談なのか、自覚していないのだろう。早野同様、読み手もまた、難しいことは考えず、ただ空気の振動に身を任せているうち、いつの間にか夢洲から満洲へ、地上から地下へと、自在に行き来している。銅鐸は単なる遺物ではない。抱いて一緒にベッドで温まる相手、女性からの反撃で血まみれにされる同士、そして無数の叫びの隠れ場所である。銅鐸と肉体の境目が溶ける時、時空にぽつんと浮かぶ、小さな自分を慈しむことができる、なんと包容力のある作品だろう
松浦寿輝――窘(たしな)められても嫌がられてもいっこうに懲りずに奇行を重ね、そうしながらも批評的な自意識やユーモアを欠いているわけでもない主人公は極めて魅力的だ。銅鐸、坑道、万博、天皇と、ちぐはぐな取り合わせであっちこっちするこの物語のグルーヴ感に、思わず乗せられざるを得ないが、しかしこんなにとりとめがなくて良いものなのかとふと白ける瞬間がなくもない。
川上未映子――地の文がほとんど銅鐸の先生の受け売りと読んだ史料の情報で構成され、主人公の行動や発想に主体性が与えられず、滑稽にも描かれるさまは、この作品のテーマである土地と歴史と個人の失われたロマン、さらには虐げられた人々の叫びそのものへのアイロニー/パロディとして機能するのかもしれない。作品内の要点である、聖、福祉、国家など複数の価値観が検証されておらず、恣意的な構成も気になった
吉田修一――圧巻の受賞作は、とても無口な小説である。いやいや関西弁で喋り倒しているじゃないかと思われるかもしれないが、饒舌にも2種類あって、相手を楽しませようとするもの、自分が楽しいだけのもの、もちろん今作は前者であり、ゆえに饒舌の底の知的な寡黙が響いてくる。天皇の贖罪を問うという大テーマに関しては、あまりに無防備と言わざるを得ないが、とはいえ銅鐸とキャバ嬢が違和感なく並ぶ諧謔や「銅鐸」「米やん」「蛍」「虫やん」のようなコテコテのコントがそんな稚拙な理屈や認識を成熟した思考のように変えていく手際はエレガントでさえあり、全てに不誠実であることの誠実さとでも言いたくなるような芯の強さが本作にはある
奥泉光――関万博が開催される大阪、その地に地層のごとくに蓄積された物語を呼び起こしながら、少しづつ不思議な人物らの交錯を描いた小説で、語られるエピソードや台詞のやり取りは、関西弁のリズムを活かして魅力的。ただ、小説中の思弁、ことに「聖」を巡る言説あるいは表題にもなった「叫び」の示すところは理解しづらく、最後の天皇の登場を含め、小説的企みは、議論を重ねた後もなお十分に捉えきれなかった
川上弘美――「早野」のからっぽ具合の面白さが、私にはうまく見えてこなかった。この小説の熱を持った文章からはじき出されてしまったのは、けれどおそらく作者の責任ではなく、私自身とこの小説の相性、のせいなのだと思う。むろん、相性のいい相手ばかりの世の中なぞ、私は嫌いですので、多くの委員がこの小説を推したことを心から寿(ことほ)ぐ
芥川賞受賞記念特別企画
往復書簡「先生とわたし」
新芥川賞作家・畠山丑雄さんの受賞作『叫び』には、主人公の男を失意のどん底からすくいあげ、厳しく強烈に導く「先生」が登場します。畠山さんにも「先生」と慕う方がいます。ナボコフの『ロリータ』の名訳で知られるアメリカ文学者の若島正さんです。師弟の書簡を今月号と来月号の二回、お届けします。
畠山丑雄様
畠山くん、芥川賞受賞おめでとう。
かつて大学に勤めていたとき、わたしの目から見ると、畠山くんは「授業にはほとんど出てこないが、飲み会ではいつも顔を見る」学生でした。最近の大学事情はどうなっているのか知りませんが、過去の京大にはよくいたタイプで、こう書いているわたしも、学生だった頃は「若島はめったに授業で顔を見ない」と恩師に言われていたので、あまり人のことは言えません。それはともかく、そういう認識がガラッと変わったのは、『改元』の表題作を読んだときです。なんや、畠山くん、小説書けるやないか、というのが正直な感想でした。それまで、畠山くんが書いたものでわたしが読んだのは、あの卒業論文とはとても呼べないフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』論で、うちの英米文では卒業論文を英語で書くのが決まりですが、扱った作家の名前ですらスペリングが間違っている論文というのはおそらく空前絶後でしょう。その記憶があっただけに、まるで別人の手になるような「改元」を読んでびっくりしたのです。
とりわけ感心したのは、語り手の「私」に対して、そのパートナーである「瑛子」が、電話がかかってきて家を出てからの行動を話す場面です。作品全体は一人称の語りではあるものの、そこで視点が「私」から「瑛子」へと微妙に移行します。「瑛子」が「私」に話した内容という枠があるので、極端な変化という印象は受けませんが、それでも、そこで語られる「瑛子」の意識は決して「私」の意識に還元されるものではありません。
『改元』の出版記念イベントで畠山くんが円城塔さんとトークショーをやったとき、円城さんがまず質問したのもそこでした。「テクニックにしか興味がないので」と円城さんは言っていましたが、それに対して、畠山くんは「そっちのほうが書きやすいので、自然にそうなりました」と答えていて、それを聞いたわたしは、ああ、畠山くんは小説家やなあ、と思いました。その個所の視点の変化は、一見すると破調のようにも見えますが、三人称と一人称が曖昧になり、「龍」が「私」の中を通って「瑛子」の中に流れ込むという物語全体の構図にぴったり収まっています。計算尽くではなく、身体が自然に反応している感じ。小説家やなあ、と思ったのはそういうことです。
ここでちょっと余談を(わたしが授業中によく雑談をはさんでいたのは、畠山くんも知ってるでしょう)。四十年ほど前、授業でヘミングウェイの短篇「インディアン・キャンプ」を読んだときのことです。ご存知のとおり、ニックが少年時代に人間の誕生と死を同時に目撃してしまうという物語で、強烈な印象を残す名品ですが、いつものように英文レポートを書かせたら、ある学生がこんなことを書いていました。彼がまだ子供の頃、馬のお産を目撃したことがあったとか。子供のくせに助平な奴やなあとまわりにいた大人たちにからかわれながら、「ぼくは西瓜を持って立っていました」とその学生は書いていて、本筋にはまったく関係のないその文章に打たれて、わたしは思わずそのレポートにAをつけてしまいました。記憶の中にある、西瓜を持って立っていたというイメージが、その学生にとって妙なリアリティを持っていたはずで、それが読んでいるわたしを不意打ちにしたわけです。
こんな思い出話をしたのは、他でもありません、「改元」に大きな瓜が出てくるからです。小説の冒頭で沓脱に置かれるずっしりとした瓜は、終盤近くではシンク下で「熟しきってひとりでに裂け、覗いた青い果肉から汁が陰気に滴り伝って」います。きっと畠山くんは、さまざまなアイデアを内に抱えているでしょう。それがひとりでに裂けたとき、どんな作品がそこから顔を覗かせるのか、今後も楽しみにしたいと思っています。
若島正
若島正様
おっしゃるとおり、学生時代、私の成績は恐るべき低空飛行を続けており、今振り返ってもよく卒業できたものだと思います。先日実家を整理している際に大学の成績表が出てきたのですが、卒論含めほとんどの単位が「可」でした。数少ない「優」は屋久島でヤクザルのフィールドワークをした霊長類研究所のゼミと、アジア・アフリカ地域研究研究科の文化人類学のゼミだったので、やはり文学研究の方に進もうとしたのがそもそもの間違いだったのだと、認識を新たにした次第です。
卒業論文を提出する際も、「これで卒業させてもらえるだろうか」という不安がありました。中身がカスだったからです。あまりにカスだったので、「もう一度、卒論だけに一年かけてやりなおした方がいいのではないか」とも思いましたが、当時私は七回生で、留年回数が限度に達しており、その年に卒業できなければ放校になる定めでした。どうしようかと悩んでいるとき、たまたま『青春少年マガジン』を読んでいると、小林まことが「ダメなときは無理に糊塗しようとせず、誰が見てもダメだとわかるものを潔く出した」というようなことを書いていて、大いに励まされる思いがしました。
そうして私は卒業論文を提出し、先生方の爽やかな諦念と毅然とした寛容により、卒業を許されたのでした。試問の際の、先生方の生暖かいまなざしと、教室に満ちた、乾いた笑いを今でもよく覚えております。あのとき、もし先生方に、きびしいことばで詰められていたら、どうなっていたか。きっと泣いていたでしょう。
『改元』をそんな風に読んでいただき、ひじょうに嬉しく思います。私もあの対談で円城さんと先生がその話をしていて、「そんな話だったかしら……?」と思い、家に帰って読みなおしたところ、まさにそんな話になっていたので大変おどろき、膝を打ったものでした。
「インディアン・キャンプ」はなんとなくニックの成長譚の一つ、という記憶はあったのですが、どんな話かよく覚えていなかったので、読みなおしてみました。うーん、おもしろい。いかにもヘミングウェイらしい、過不足のない文章もすばらしいですが、個人的には直近で『叫び』というタイトルで小説を書いたこともあり、この作品においても「叫び」が気になりました。少年ニックが、今からインディアン女性の帝王切開手術をする父に向かって、「このひとに何かあげて、叫ばないですむようにしてあげられないの?」(高見浩訳)と訊く。父は、麻酔の持ち合わせがないのだ、と答えた後に、“But her screams are not important. I don’t hear them because they are not important.” と続ける。いざ手術が始まり、父が麻酔なしのままジャックナイフでインディアンの女性の腹を裂き始めても、インディアンの女性の叫び声は全く描かれない。ニックたちがキャンプについたばかりの時には彼女の叫びは “the noise” と表現されていたが、ここではその “noise” すらが不可聴化されている。無論麻酔なしの帝王切開で、インディアン女性が叫ばぬはずはない、というか、常識的に考えれば今までで一番激しい叫びになるはずである。ではなぜその叫びが小説の記述から漏れているかというと、この小説が基本的にニック視点で動いているからである。つまりニックは父の教え(her screams are not important)を受け入れ、インディアンの女性の叫びよりも、彼女に腕を嚙まれたジョージ叔父の “Damn squaw bitch!” に耳を遣っている。それまでも一度もクオーテーションマークによって前景化されなかった彼女の叫びは、ここでは地の文からも落とされている。ヘミングウェイらしい、過不足のないすばらしい文章であり、これをニックの成長譚と取るなら、そのような「叫び」が風景となり、聞こえなくなることこそ、一つの成長なのかもしれませんね。
私も一回生の頃、サッカー部の砂川くんと追いコンの漫才のために猛練習をしていると、彼の突っ込みの手が思い切り耳にあたって鼓膜が破れ、耳が遠くなったことがありました(漫才は成功しました)。その砂川くんが先日受賞をお祝いしてくれたのですが、彼は今タンザニアでエアコンを売っているそうです。お互い人生何があるかわからないものだと思います。ちなみにタンザニアはスイカが安くておいしいので、砂川くんは毎日のように食べているとのことでした。
畠山丑雄
(わかしま・ただし 京都大学名誉教授)
(はたけやま・うしお 作家)
読売新聞オンライン
空虚抱え 時空を行き来
評・大森静佳(歌人)
◇はたけやま・うしお=1992年生まれ。作家。2015年に『地の底の記憶』で文芸賞を受け、デビュー。
第一七四回芥川賞に決まったこの小説が鬼気迫る目つきで問う「叫び」とは何か。舞台は二〇二五年、主人公は大阪の茨木市に住む三十七歳の早野。失恋の痛手から自暴自棄な日々を送る早野は「先生」と出会い、その思想に感化され、 銅鐸づくりを習いはじめる。並行して郷土史を学ぶうちに、かつて茨木から満州に渡り「陛下への花束」として罌粟(けし)の栽培に心血を注いだ川又青年を知る。なぜ自分はここで生きているのか。心に空虚を抱える早野はしだいに、自身の空洞に川又の無念の叫びをこだまさせる。私たちは過去の戦争や暴力の記憶が堆積する上で、無数の「叫び」の上で暮らしているのだ。
そして迎えたクライマックス、女の子と夢洲の大阪万博にデートに来たはずの早野は、一九四〇年、戦局のため幻に終わった紀元二六〇〇年記念万博の会場に迷いこみ、川又青年と対面する。昭和と令和の時空を行き来しながら対話する両青年は、偶然万博の視察に訪れたある人物に思いを伝えるために駆けだしていく。
天皇制という「官製の聖(ひじり)」が衰退の道を辿るならば、民間から「聖」を出さなければいけない。そう語る「先生」の思想は珍妙だ。自我を捨てて歴史と溶けあう主人公も不気味である。その危うさを、随所にちりばめられたシュールな可笑しみがアイロニカルに宙吊りにする。「先生」の助言で銅鐸と同衾したり、女の子に迫って銅鐸で反撃され流血したり、「先生」がふるさと納税のウニのせいで入院したり。朗々たる骨太の文体とその滑稽さのギャップに笑ってしまう。戦後日本が忘れ去ったものに肉薄する一方で、極彩色のユーモアが魅力的な小説だ。
そうして辿りつくラストは、過去をすっかり清算したかのような明るさで賑わう万博会場から、戦後日本がともに歩んできた象徴天皇制の揺らめきを突く。主人公が陥る狂気は、歴史という鏡のむこう側では正気のことだ。読めば愉悦にも似た困惑を味わえる野心作である。(1870円)
読書委員プロフィル
大森 静佳( おおもり・しずか )
1989年生まれ。歌人。これまで角川短歌賞、現代歌人協会賞、塚本邦雄賞などを受賞。歌集に『てのひらを燃やす』『ヘクタール』など。
2026.02.14
「叫び」書評 神話性と諧謔が入り混じる語り
評者: 藤井光 / 朝⽇新聞掲載:2026年02月14日
叫び著者:畠山丑雄出版社:新潮社ジャンル:文学・評論
発売⽇: 2026/01/14
その土地は、僕にとってはまさに地元だった。電車で、バスで、自転車で、徒歩で動き回った履歴を線で地図に描くなら、大阪府茨木市の安威川(あいがわ)沿いは真っ黒に塗りつぶされるだろう。そこが、『叫び』の主な舞台となる。
2025年の万博開催を迎える茨木市。早野ひかるという、この地に転居してきた地方公務員の男性を焦点として、小説は構成されている。同棲するはずの女性が現れなかったことで自暴自棄な生活になり、ほどなくして貯金も使い果たして夜の安威川沿いをさまよい歩くようになった早野は、近くから聞こえる鐘の音に誘われ、畑にある穴に入る。そこにいたのは、銅鐸を金槌で鳴らす年配男性だった。
その「先生」の博学ぶりに魅了され、早野は茨木という土地の歴史に導かれる。市内の遺跡で銅鐸がかつて作られていたこと、そして、戦前の川沿いに一面に広がっていた罌粟(けし)畑から作られた阿片が、満州で売られていたこと。現代の地表をさまようだけだった主人公は、異界とすら思えるような、土地の歴史の層に導かれていく。
歴史にのめり込み、我を忘れてトラブルすら起こすようになる早野にも、やがて新たな出会いがあり、恋愛の物語が進み始める。同時に、「先生」の言葉と自分の言葉が融合し、戦中に茨木から満州に渡った青年が早野の前に現れるなど、自己と他者、過去と現在の境界線は次第にあやふやになっていく。早野の行動と周囲とのギャップが生み出すユーモアに乗り、今世紀と前世紀の万博が妖しく交錯する終盤に向けて、物語は一気に突き進む。
ある土地には、過去の人々が無数の地層をなしており、同時に、そのほとんどを知らず地表で生活を続けていく人々がいる。神話性と諧謔の入り混じった語りによって、『叫び』は両者のバランスの危うさを、現実の皮膜をめくるようにして見せてくれる。
◇
はたけやま・うしお 1992年、大阪生まれ。京都大文学部卒。『地の底の記憶』で文芸賞を受けデビュー。本作で芥川賞。
藤井光(ふじいひかる)東京大学准教授(現代文芸論)、翻訳家
1980年生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。同志社大学を経て、2021年から東京大学人文社会系研究科准教授。著書に『ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』、訳書にアンソニー・ドーア『すべての見えない光』(第3回日本翻訳大賞)、オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』、リフアト・アルアライール編『物語ることの反撃 パレスチナ・ガザ作品集』、リン・マー『ブリス・モンタージュ』など。2025年4月より朝日新聞書評委員。
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