競泳日本代表の強化の実際――ベッドコーチ松澤一鶴を中心として  武上魁斗  2026.3.6.

 2026.3.6. 競泳日本代表の強化の実際――ベッドコーチ松澤一鶴を中心として

 

 

2025年度

東洋大学修士学位論文  

『第10回オリンピック競技大会(1932)における

競泳日本代表の強化の実際――ベッドコーチ松澤一鶴を中心として――』

健康スポーツ科学研究科 健康スポーツ科学専攻 博士前期課程 武上魁斗

 

 

序章 本研究の課題と方法

1. 研究の意図と着眼点

戦前にも欧米諸国と肩を並べるべく試行錯誤を重ね、黄金期を築いた過去があった

初めて参加したアントワープ大会(1920)では古式泳法で臨み惨敗。帰国後にクロールの有効性を日本に伝え、その後力をつけた日本競泳界はアムス(1928)で初めてメダルを獲得し、ロサンゼルス大会(1932)では男子が6種目中5種目で優勝、さらにベルリン大会(1936)では6種目中3種目で優勝し、世界のトップクラスの強豪国となった

戦前の黄金期のロスとベルリンの2大会でヘッドコーチを務めたのが松澤一鶴(190065)。ロス大会に向け日本水上競技連盟から指導に関わる全権限を与えられ、候補者の選考から合宿の計画、現場での技術指導など強化活動の全般を担う。松澤の手腕は、日本競泳界において「水泳界の革命」をもたらした人物として評価されている。本研究では、昭和初期の日本競泳界の国際的な飛躍を支えた人物として、松澤一鶴に着目

オリンピックでの勝利が国民的関心を集め「スポーツの黄金期」を築いた時代的潮流の中で、1924年に創立された日本水上競技連盟がわずか8年で急速な発展を遂げ、’32年のロス大会において世界を制覇するに至った。'69年水連は40年史において、「ロス大会のようにほとんど全員が記録を更新した例はない。水泳は個人競技だが、チーム全体が向上した。その後も期待されたが、うまくいったためしがない」とロス大会を評価

その発展の背景には、水連がロスでの勝利を明確な目標として掲げ、「オリンピック第一主義」の理念のもとで一貫した強化方針を推進したことが挙げられる

この方針の下、成果に導いたのがヘッドコーチの松澤一鶴であり、ロス大会における男子競泳日本の勝利を論じるにあたっては、松澤一鶴の指導や水連の組織的取り組みを明らかにすることが必要不可欠であり、現代における指導者のコーチングや組織運営に応用可能な知見を提供するものと考える

 

2. 先行研究の検討

先行研究としては、日本泳法の伝承や存続、外国泳法の受容、明治期の学校教育における水泳教授などが中心で、オリンピック強化の実際を取り上げたものはほとんど見られないところから、本研究は、ロス大会における競泳日本の強化を、松澤一鶴の関りを中心に明らかにすることを目的とする

   中村哲夫『近代日本における水泳のスポーツとしての自立への模索とその挫折』――三重高等農林学校水泳部の活動を主眼にした研究

   尾川翔大『母校の校歌になったオリンピアンの代表意識』――ロス大会でメダルを取った牧野(1500m自由形銀)と宮崎(100m自由形金)と浜名湾遊泳協会を取り上げる

   尾川翔大『メダリストにとってのオリンピアード』――清川正二(ロス大会100m背泳金)の金を目指した4年間に着目

   綿貫慶徳『大正後期から昭和初期におけるメディアの水泳報道の史的考察』――日本泳法と近代水泳との優位が逆転し、競泳至上主義が形成される過程を考察

 

3. 本研究の時代区分

松澤一鶴の出生年の1900年から、ロス大会の'32年までを研究対象期間とする。その理由は松澤の選手時代に培われた経験や思想的基盤を明らかにする必要があると考えたため

本研究が競泳に着目する理由は、日本のスポーツ界において、オリンピックを目標とした組織的な強化体制を初めて構築し、試行錯誤を重ねながらオリンピックを見据えた戦略的のモデルプランを確立した種目だから

 

4. 論文の構成

1章では、松澤の選手・指導者としての歩みと、水連主導の初期の強化体制を繙く

2章では、水連が掲げたオリンピック第一主義の方針の中で松澤が果たした役割や、日本代表の強化策を検討する

3章では、ヘッドコーチに就任した松澤の指導の実績を、段階を追って明らかにする

4章では、ロス大会本番の競泳日本代表の戦況と松澤の対応やその成果について考察

 

5. 本研究の方法と史・資料の取り扱いについて

対象年代に記された歴史資料を通して過去を再構成する歴史学的な手法をとる

主な文献史料として、松澤一鶴の記した各種の文献を用いる

メインで取り扱う史料群が水連所蔵の「松澤一鶴コレクション」。特に松澤一鶴直筆の手帳36冊を貴重な1次史料として活用

 

6. 用語の定義と解説

    水泳競技と競泳

水連の扱う水泳競技には、競泳、飛込、水球、アーティスティックスイミング・オープンウォータースイミング・日本泳法

本研究対象機関では、「競泳」「飛込」「水球」の3種目

    近代泳法と古式泳法

近代泳法は自由形など4泳法を指し、古式泳法とは武士の兵法だった日本泳法と同義

    游泳

古来「およぎ」を意味する名詞としては「游泳」が用いられ、13の流派から構成される「日本游泳術」があって、現在日本泳法として継承される

    水上競技

陸上競技に対応する対概念であり、水泳競技と同質の概念

 

第1章        松澤一鶴と大正後期から昭和初期にかけての日本競泳界

第1節        選手としての松澤一鶴と近代泳法への以降(ママ)

第1項        松澤一鶴と神伝流との出会い

    神伝流との出会いと第一高等学校水泳部への入部

木挽町生まれ。父翆爾は中江兆民の影響で新聞記事のダイジェストを作る「新聞切り抜き通信」を創始したが、一鶴9歳の時急死、後を継ぐ。1912年木挽町に組織された臨海少年団に所属し教育目的の奉仕活動である水泳教練や海浜修学に参加。'13年泰明小卒、府立一中に入り神伝流に出会う。貴田孫兵衛、加藤光雄、佃十成により創始された日本泳法の一流派。横体を基礎と強いあおり足を用いる泳法を特徴とする

'18年一中卒、2年は水泳に没頭し、'20年一高入学。一高水泳部は1894年創設。神伝流教場日本游泳協会に属して活動。部内を神伝流に統一、松澤初め、梅澤親光、末弘巌太郎、飯田光太郎、石本巳四雄など、後年の日本水泳界を牽引する人々を輩出

    2つの競泳論の出現と第一高等学校水泳部の見解の推移

各学校に日本泳法指南のために水泳部が設立され、日本泳法各派出身者が指導。プールはまだなく、近隣の河川や海岸が使用された

学習院大(1880~隅田川、1891~片瀬、1913~沼津)、一高(1894~神奈川県大津、1898~千葉県八幡)、東大(1898~戸田)、高等師範(1902~八幡)、慶應大(1902~葉山)

「今後標準にすべき」泳法を定めようと「日本水泳ルネサンス」運動がおこり、日本泳法各流派の再興を図る指導が行われたが、しばらくして欧米由来の「競泳」が頭角を現し挫折

日本最初の競泳は、1898年、横浜で水府流太田派と横浜アマチュア・ローイング・クラブとの対決。以後新聞社が仕掛けるイベントを中心に競泳熱が高まる

大正初期の極東選手権では大勝したが、1920年のアントワープ・オリンピックで惨敗したのを機に「2つの競泳論」が生まれ、水府流らの「水交会」を中心に日本泳法を競技化しようとする立場と、スポーツとしての競泳を自立させる必要性を説く梅澤親光らの立場が並立。前者は実用を重視し、後者は純粋に「速度第一」を目的とする

梅澤が師範だった一高水泳部では、議論の末に遊泳術を捨て、競泳一本化を図る

    競泳選手としての松澤一鶴と極東選手権への出場

1919年、一高は師範制度を廃止。以後は先輩による自由な指導体制を敷き、海上を主教場として初心者には型を重視した指導を行うが、上級者には競泳を奨励する

松澤は入学後クロールを練習し始め、'21年の第5回極東選手権の日本代表入りし、440ヤードで優勝、1マイルでも2位となり、その名を全国に轟かせる

国別対抗ではフィリピンに1点差で敗れたため、梅澤が指導者となって強化合宿が行われ、2年後の極東選手権は圧勝。松澤は同じ2種目で3位に留まったが、主将を務めた松澤の「綿密なる頭脳」は日本の総合優勝に大きく貢献したといわれる

 

第2項        日本競泳界の近代泳法への移行

    競泳における日本泳法の優位性と近代泳法の受容

近代泳法競技が西洋で始まったのは19世紀前半。1837年イギリス水泳協会がロンドンのサーペンティン川で開催した競技会が嚆矢

日本での最初の競技会は1856年講武所水連場で行われた将軍上覧水泳

1898年と99年に横浜で行われた水府流太田派と横浜アマチュア・ローイング・クラブの対抗試合で水府流が連勝すると、一高、高等師範でも競技に対する機運が高まる

1915年、初めて参加した国際大会が第2回極東選手権。鵜飼弥三郎は自由形4種目すべてに優勝。鵜飼は水府流のバタ足小抜手に自己流を混ぜた泳ぎといっていたが、松澤も水府流のバタ足小抜手に「速泳」(早泳ぎ)の文字が充てられていることを発見している

'17年の極東選手権でもほとんどの種目を日本泳法の組み合わせで制覇

    日本競泳界における日本泳法の衰退と近代泳法の台頭

1920年アントワープのオリンピックで日本泳法が惨敗したのを機に、クロール泳法に着目したのが茨木中学の杉本傳で、同年の東京帝大主催第4回全国競泳大会で優勝。入谷唯一郎や高石勝男らがワンストローク・ワンブレッシングという画期的な技術を開発

‘21年の大会では、高石のクロールと松澤のあおり足の対決となり、松澤が制するが、以後クロール全盛となる。日本泳法の栄光を傷つけずに幕を引いた松澤の功績は計り知れない

    東京YMCAでの水泳研究とクロールの普及

'17年、東京神田のYMCAに室内プールができると各学校は合同練習を実施、クロール泳法の普及に大きく貢献。新泳法の指導者は澤田武治。茨城、東京に続いて、田畑政治の浜名湾中心の水連場が泳法の近代化を図り、3系統がそろってクロールの記録向上に邁進

 

第3項        全国学生水上競技連盟の創立への参画

    1回全国各大学対抗競泳大会の開催

保守的な体協水泳部に対抗して、競技会やプール設置を訴える澤田、松澤らを中心として学生連盟を結成。’21年独自に競技会を開催

    2回大会の開催と全国学生水上競技連盟の設立

'22年、競技会の実質的な主催者として学生連盟結成、第2回大会は関西からも参加

    全国学生水上競技連盟の「真の設立」

学生連盟の最初の仕事は、'23年大阪開催の第6回極東選手権でのアウトドア・プールの水温を適温(18度以上)に維持するよう要求したこと。大会は日本の完全勝利に終わり、学連は正式に規約を制定し設立される。会長は末弘、松澤も総務委員として参画

 

第4項        日本水上競技連盟の設立への参画

    学連による全国統括機関設立への動き

学連は、体協の組織改編を検討、競技団体ごとの全国統括団体を連盟として組織するべく、まずは大日本水泳協会設立を検討

    明治神宮競技大会の実施と大日本水上競技連盟の設立

文部省の体育事業と並行して、'24年内務省が青少年の体育向上の目的で第1回明治神宮競技大会を開催。学連は各地に埋もれた選手の発掘のため神宮大会を活用

松澤も役員として競技大会に参画スルガ、選手としての活躍は’24年の大学対抗で幕を閉じ、以後は学連の実行委員として水泳界を組織の一員として支える立場に

松澤は、'13年神伝流と出会い水泳に傾倒、’18年には「速度第一」の一高水泳部に入部、クロールへの転換期にクロールの研究を行う一方、神伝流泳者としても活躍

 

第2節        指導者への転身

第1項        松澤一鶴の泳法論

松澤の原稿『競泳の指導』は、’32年日本水上競技連盟出版の『水泳指導要領』で活字化

    クロール

自由形が最速。その泳法上の特徴を5つに分類―①腕と足の運動相互関係、②手の掻き方、③足の使い方、④呼吸法、⑤姿勢とローリング

6ビート。適切な角度で入水し水を掻き始める動作をキャッチと呼んで重視

    背泳ぎ

    平泳ぎ

 

第2項        松澤一鶴の競泳指導論

    練習論

技術習得だけにとどまらず、精神面や科学的思考、個人に合わせた指導の必要性にまで広く言及。練習をスポーツの本質と位置づけ、レースも練習もより良い泳ぎを目指す過程だと捉える。レースの成果は練習の質によって決まるといい、科学的・計画的な練習と結果の反省の必要性とを説く

    レース論

競泳におけるレースとは、「平常の力を平常通りに表すだけの話」と捉える

レースに必要なメンタルとして松澤が強調したのが「闘志(ファイチング・スピリット)

   

 

第3項        女子全米選手権大会監督への就任

    予選会の結果と松澤の監督就任

‘29年、和田豊子を中心に全日本女子水上連盟設立。同年全米女子選手権への招待が届く

松澤が監督に就任、200m平泳ぎの前畑秀子ら4人の選手が参加

    全米選手権の日本選手の戦況

前畑が100mへ平泳ぎで優勝した以外は、いずれもベストを更新しながら惨敗

    女子全米選手間大会の収穫

記録を分析すると同時に、泳法の研究、ラスト10mの力配分など、彼我の差を学ぶ

 

第3節        日本競泳界のオリンピックへの進出

松澤は、アントワープ、パリ、アムステルダムの3大会を指導

第1項        7回オリンピック競技大会('20、アントワープ)

    オリンピック派遣選手選考会と日本代表の決定

日本競泳界にとって初めての参加。'20年に選考会で3名を選出、1名は病気で辞退

    アントワープへ向けた日本代表チームの渡航

途中立ち寄ったアメリカの大学の充実した施設に圧倒される

    7回オリンピック競技大会の戦況と反省

日本泳法(のし泳ぎ)では対抗できないという意見が多数出るほど惨敗。帰国後クロ-ルの優位性を報告、クロールが自由形の主流の泳法へと受け入れられる

 

第2項        8回オリンピック競技大会(パリ)

    オリンピックへ向けた方針と選手選考

‘23年の極東選手権で完全優勝を果たした後、関東大震災で当初の計画は破綻したが、スポーツ界発展のためオリンピックへの出場は規模を縮小して続行することとなり、高石勝男ら6人の選手を送る。コーチには茨木中教諭の杉本傳が就任

    杉本傳による選手指導の実際

船内40日の合同練習では、ブランクの穴埋めとターンなどの水泳技術の熟練が中心

    8回オリンピック競技大会の戦況と反省

成績は不芳だったが、世界は日本競泳陣の長足の進歩に注目。国際競技連盟への加盟も果たし、国際舞台での躍進に向けた大きな一歩となる

 

第3項        9回オリンピック競技大会(アムステルダム)

    アムステルダム大会へ向けた日本競泳界の世界志向

対外試合を強化策に取り入れ、’26年の日米対抗では高石が200m自由形で世界新を樹立

    選手選考からオリンピック本番までの動向

派遣選手選考委員に松澤の名がみえる。10名の選手を選出

    試合結果と反省

鶴田の200m平泳ぎの金を始め3つのメダルを獲得。泳法の差とともに、コーチなどの支援体制の増強などが課題に

 

第2章        日本水上競技連盟のロサンゼルス大会へ向けた強化戦略と松澤一鶴の関わり

第1節        日本水上競技連盟の「オリンピック第一主義」と松澤一鶴

第1項        日本競泳界の運営組織の一本化

活躍した選手の大半は学連所属で日本水上連盟所属ではなかったため、水上連盟主事に就任した田畑政治が学連を説得して一本化。松澤は関東水泳協会推薦の代議員になるとともに、5人の理事の1人に選出

明治神宮大会では、遊泳連盟による日本泳法の採点競技と、日本水連の競泳競技が並立していたが、これも日本水上競技連盟に統一される

 

第2項        日本水泳界の中枢的拠点となった神宮外苑水泳場の建設

‘28年、次期オリンピックに向けた対策の第1歩として末弘会長が神宮プールの建設を提唱。松澤も設計委員として参画。資金調達として募金を始めるが、大不況下にあって集まらず、体協会長の岸清一らの請願で神宮奉賛会事業として認可。工事業者は大林が落札

'30年完成。第9回極東選手権が杮落とし。その後原田積善会の寄付もあってスタンドが建設される。最後の不足金は奉賛会会長が若い松澤の労苦を評価して拠出に応じたもの

 

第3項        指導者の早期決定と日本代表選手の選考計画

    指導者の早期決定

田畑主事の発案で、2年前には選考計画や方針を明確化することとなり、最重点は「コーチの選定」。まずコーチを決めて、その指導の下にチームを強化する体制とした

オリンピック前年の日米対抗のコーチとなり、その後オリンピックのヘッドコーチに就任

    ロサンゼルス大会日本代表予選会の方針

'31年の全日本と神宮大会を予選会とし、選考された候補選手は連盟の合同合宿で強化

顕著な指導実績のなかった松澤のコーチ就任の裏には、田畑の大きな影響があった

 

第4項        日米対抗の実施経緯と開催準備

世界最強チームとの対抗戦開催により、オリンピックに向けた刺激と教訓を得るのが目的

 

第2節        日米対抗の実際

第1項        日本代表選考会と松澤一鶴の監督就任

水連は、’31年春から強化練習会を行い、松澤一鶴の指導が始まる

 

第2項        日米対抗の実際

    戦績について

両国13名、1種目3名。日本が圧勝

    日米対抗の反省と松澤一鶴の評価

オリンピック種目6つのうち4つは米国が勝っている。松澤は、「勝った種目は徹底的に勝っているが、他は負け。この特異性は来年のオリンピックに対する作戦上の重要な意味がある」との見解を示す。アシスタントコーチも主将の高石も、松澤の人格こそがチームを1つにまとめ好成績に結びつけたと高く評価

 

第3節        多角面からのサポート体制

第1項        フィジカルトレーナー 柳田亨の役割

東京YMCAの体育主事柳田亨は、候補選手の合宿で、デンマーク体操を中心とした補助運動の指導を担当。ロス大会では競泳代表のフィジカルトレーナーとして帯同

松澤は、パリ大会での教訓から、デンマーク体操や、縄飛びなどの補助運動を積極的に取り入れ、長期の船中生活での選手のコンディション維持を図る。現在でも競泳選手は練習前に陸上トレーニングを実施してから水中練習を始めるケースが多くみられ、その基盤を作ったのは柳田と松澤

 

第2項        オリンピック調査委員 白山源三郎の役割

    白山の渡米経緯とオリンピック調査委員としての使命

水連の機関誌の編集主任白山は横浜関東学院教授で、’31年同学院からアメリカ留学を命じられロスに滞在した際、水連からオリンピック調査委員を委嘱され、現地施設や気象状況、長旅による選手への影響などを調査して、選手の派遣時期決定に寄与

    オリンピック選手村についての報告と課題

選手村はボールドウィンヒルズ(ルート10の南、カルバーシティの東)。簡素で快適性欠如

    水泳場について

神宮に比べて貧相

 

第3項        チームドクター 深山杲の役割

深山は、水府流・神伝流の泳ぎ手、神戸一中から六高を出て京都帝大医学部、卒業後は真下内科に入局、循環器疾患の研究に従事。水泳の医学的側面に関心を持ち、疲労の効率的回復という課題に取り組む。ビタミンB製剤や酸素吸入の運動に及ぼす効果を発見

ロス大会では、競泳代表にスポーツ医学を取り入れ。オリザニンやブドウ糖飲料を摂取

日米対抗では、アメリカが酸素吸入等に対し、アマチュアは禁止すべきと抗議したが、日本側は禁止規定もないし、あくまで補助手段として投入したに過ぎないと反論

 

第4項        オリンピック後援会による日本選手団への金銭的支援

政府の補助金交付が決まるが、大恐慌の影響で大幅に減額。一般寄付も満洲事変勃発により不振で、参加自体も懸念される状況。'40年の

 

第3章        松澤一鶴によるロサンゼルス大会に向けた選手強化の実際

第1節        オリンピック候補者合宿の実際

第1項        1次オリンピック候補者合宿の実際

       オリンピック候補者の決定と第1次合宿の参加者

1次予選会で選手を選抜、松澤がコーチに就任。’31年末から2週間余の合宿

       1次合宿のスケジュールと練習内容

水泳練習以外にも、船中でのデンマーク体操や、チームワーク、長期遠征に対応し得る体調管理、生活習慣から英会話、テーブルマナーまできめ細かい練習メニューとなる

松澤の水泳の技術指導は、個々の選手の泳法上の特性を把握し、欠点を改善して今後の指導に資するための基盤を形成することに意義を見出すもの

       松澤一鶴が選手に伝えた注意事項

技術上の注意点として、欠点の直し方を説く。欠点を正確に認識することの重要性、段階的に1つづつ修正することの有効性、補助運動に加え改善には忍耐と努力が不可欠とする

 

第2項        2次オリンピック候補者合宿の実際

    2次合宿のスケジュール

3月から20日間。午前中は水中練習、午後は柳田のデンマーク体操、夜は座学やレクリエーションが主体。休日のピクニックなどでチームワークを養成。末弘は、これほど規則的な生活と科学的練習を行ったことは日本スポーツ界では初めての試みと自信を表明

    松澤の指導内容

合宿の方針として、①技術矯正、②力の養成、③船中のコンディション維持のための体操の練習、④精神力の養成、⑤精神的統制を図る、をあげ、競技力向上を重視

水中練習メニューは、ウォームアップ、キック、クールダウンの3要素で構成。重視したのがクールダウンのMittel。種目ごと、選手ごとに3要素を配分した練習メニューを作成、全速力の67割で泳ぐのを標準として細かい技術の習得・完成を目指す

記録会では日本記録が続出し、新聞は大きく報道したが、松澤はまだ不十分と批判的

松澤は選手に対し今後の練習方針として、「paceを作ること」を指示、具体的な方法として、①lap timeによる方法、②pitchによる方法、を提示

 

第3項        国内最終予選会における松澤一鶴の成果と日本代表の決定

6月に第2次予選と最終予選会実施。世界記録を含む好記録続出

男子競泳22名、女子6名が決まる。主将に高石勝男。男子全員が合宿参加者。100m自由形を除き、全種目で日本記録を上回る

 

第2節        国内最終合宿と龍田丸船内における練習

 

第1項        コンディション維持を目的とした国内最終合宿と龍田丸船内生活

    国内最終合宿における松澤の指導

出発直前1週間の合宿。Long中心の泳ぎで、疲労と緊張を解くことを重視

    オリンピック男子競泳日本代表選手団の出国と船内生活

6月渡米。天皇のご下賜金でブレザーを新調。船はハワイ経由で18日間の航海

 

第2項        松澤による船内練習

練習内容は、①水ならし、②足の練習、③手の練習、の3要素から構成。限られた時間と設備を有効に使い、まずまずの成果。体重の変動を1つの指標として用い練習量を調整

船中の練習不足をデンマーク体操で補った結果、到着後のコンディション回復は、前回の2週間に比し、今回は5日間で回復がなされた

 

第3節        開催地ロサンゼルスにおける練習

第1項        オリンピック選手村での生活と練習場の選定

    オリンピック選手村について

選手村の設置は、この大会が初めて。国際理解と友情を育み文化交流の場として構想

水泳選手団が規律的行動を率先して実施し、他競技の選手に模範的役割を果たす

充実した施設に加え、白山の周到な準備もあって、選手は快適な生活を送る

    プールの選定について

オリンピック・プールの使用に加え、補助施設として周辺のプールを利用

 

第2項        ロサンゼルスにおける松澤による練習内容

       出場選手決定まで

コンディションの回復は顕著で、早い段階から本格的な練習に入ると、好記録を連発

練習スケジュールは順調に進み、種目ごとの出場選手が決まる

       選手決定後

選手ごとにペースタイムを設定した練習を重視。力の配分を研究

 

第3項        休息の管理と中村三二のマッサージ効果による疲労回復

松澤は、休養の管理を重視、初めて帯同したマッサージを導入

 

第4章        ロサンゼルス大会(1932)の成果

第1節        男子競泳日本代表選手の戦績

第1項        男子競泳日本代表選手の戦績

大会は8月。6種目に各3名の計15名+リレー1チームが出場

1人を除く全員が決勝進出、金5、銀4、銅2

    100m自由形

もっとも難関とされたが、3人とも決勝進出を果たし、宮崎がオリンピック新で優勝。2位河石もオリンピック新で、松澤は技術や体力以前に魂の差だと感じると振り返り、大試合においては平時から精神面を鍛錬し、最後まで諦めない粘強さを養うことの重要性を強調

    400m自由形

3人とも決勝に進んだが、本命の大横田が直前に下痢を発症、3位が精一杯だったものの、3人ともオリンピック記録を更新

    800mリレー

大横田の交代で、400mの横田を起用、世界記録で圧勝

    100m背泳ぎ

持ちタイムでは劣勢だったが、3位までを独占

    200m平泳ぎ

3名とも決勝進出を果たし、鶴田が接戦を制し連覇。2位も小池で、オリンピック新

    1500m

2名が決勝進出。北村が優勝、牧野が僅差で2位、いずれもオリンピック新

 

第2項        ロサンゼルス大会の総評

    松澤の総評

初日の100m自由形の異常な快勝が、その後のチーム全体を大いに鼓舞したと回顧

勝つことを第一にした作戦を立てた。予選、準決勝、決勝とレースごとの戦略の合理的分担を図る。チーム全体の「統制」の存在も勝利の要因と指摘。選手自ら進んで生活全般を自発的に統制、自己の行動原理として体現していたのが大きい

小さいながらも自己目標を達成したことをひそかに喜ぶが、水上競技全体としては決して満足いく結果ではなかったと総括

    松澤に対する日本水上競技連盟の評価

末弘推連会長は、ロス大会の勝因について、①技術の優劣、②組織の力、統制の力、③熱誠なる挙国イッチテキ後援の力、を挙げ、特に②に関して松澤の功績を高く評価

松澤による厳格かつ温情的な統制と周到な指導の下で、選手が一体となって鍛錬を重ねた結果こそが圧倒的勝利の要因だと指摘

日本選手団の総監督だった田畑政治も、競泳チームの勝利が、明確な役割分担と一体的な組織運営の結果とし、松澤を中心にスタッフが献身的に働き、勝利の基盤を作ったと評価

    松澤に対する外国選手と日本選手の評価

選手の回顧録では、松澤以下スタッフへの感謝の念、特に松澤の指導力への信頼を示す記述が散見。松澤の指導方針に対する絶対的な信頼の下で競技生活を送ったことが窺える

外国選手も、日本の組織的な指導体制を成功要因として高く評価。競泳に新紀元を画したばかりでなく、トレイニング・システムに革命を起こす先駆とまで言われた

 

2節 男子競泳の優勝が日本の外交問題と日本スポーツ界に与えた影響

第1項        男子競泳が日本社会に与えた影響

日本のロス大会参加は、国家的意図を伴うもの。日本の外交政策と関連付けられて意図的に利用された。満洲事変などで国際的な批判を招き、国際的に孤立化の道を歩み始めた日本がロス大会参加を単なる競技目的を超えて外交的・国際的意図を内包した国家的プロジェクトとして位置づけられていた

日本選手の活躍が、アメリカにおける反日感情の緩和に寄与し、国際社会における日本のイメージ改善に一定の効果をもたらす

 

第2項        「オリンピック第一主義」がベルリン大会に向けた日本スポーツ界に与えた影響

男子競泳の圧倒的な勝利により、水連が掲げた「オリンピック第一主義」の妥当性が実証され、他の競技にも伝搬。水連もベルリン大会に向け早期の組織結成に動く

田畑は、男子競泳以外の水泳競技の強化も踏まえ、「水泳の全国普及運動」を提唱

'32年の水連代議員会で、松澤は名誉主事に任命され、水泳普及運動の先頭に立つ

ロス大会の強化方針がその後の競泳界の組織的体制の基盤を形成し、田畑・松澤のコンビを中心に、次期大会に向けた準備が進められる

 

終章 結論と今後の課題

1. まとめと結語

(1)     まとめ

本研究は、第10回オリンピック競技大会における競泳日本代表のきょう化の実際について、ヘッドコーチとして選手強化に従事した松澤一鶴の関りを中心に明らかにするもの

    松澤一鶴は、'13年神伝流に出会い水泳に傾倒。「速度第一」を掲げる一高水泳部に入部

    アントワープ大会に日本泳法で参加した日本競泳界は惨敗した結果、クロール主体の近代泳法へと転換。松澤一鶴は、両方の泳者として活躍

    指導者としての松澤は、「型」を重視する日本泳法の経験から、近代泳法をの研究を通じて日本独自の泳法理論を構築

    オリンピックでは泳法技術のみならず組織運営の重要性についても多くを学ぶ

    日本の競泳界は、アントワープ、パリ、アムスの3大会を通じて、技術・組織の両面から発展を遂げていった

    水連が競泳界の基盤強化に動き、松澤は「オリンピック第一主義」の推進役を担う

    '31年の日米対抗では、松澤の組織的で統制の取れた指導方針が日本の勝利に貢献

    ロス大会は世界トップクラスの戦績をあげるが、松澤の指導力はもとより、スタッフの貢献が有効に作用するが、その背後には多くの国民の期待と関心が存在

    松澤主導で行われた候補者合宿が競泳界の強化に大きく寄与したことは明らか

    感覚に依存しない論理的な手法によってコンディションの維持を図る

    松澤は、代表選手に対して直接指導を行い、競技力向上に大きな影響を与えた

    圧倒的勝利の背景には、松澤による綿密な練習計画と科学的な指導が存在

    強化方針は、海外からも先駆的な取り組みとして高く評価。世界的な競泳理論の発展にも寄与

    ロス大会は日本の外交政策とも密接に結びついていた。特に日米関係の改善に寄与

    水連の「オリンピック第一主義」は他の競技団体の模範となり、スポーツ界に浸透

 

(2)     結語

10回大会で競泳日本代表が大きな飛躍を遂げた背景には、指導者としての松澤一鶴の多大な影響があった。松澤は、オリンピック選手強化のすべてに携わり、計画的かつ科学的なトレーニングの必要性を説き、医学的なアプローチも取り入れ、躍進につなげる

 

2. 今後の課題

松澤は、その後のベルリン大会でもヘッドコーチとしてさらなる強化戦略を構築していくが、本研究ではそこまでには至らず

ロス大会を起点に生じた水連のオリンピックを中核に据えた強化事業が、それ以降どのように継承・発展していったのかという歴史的連続性についても、解明すべき課題として位置付けたい

これらの点を総合的に検討し、松澤一鶴が日本水泳界に果たした役割を長期的な視座に立って明らかにすることが、今後の重要な研究課題である

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