グロテスクな日本語  福田和也  2025.4.13.

 2025.4.13.  グロテスクな日本語

 

著者 福田和也 1960年東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。『日本の家郷』『教養としての歴史 日本の近代(上・下)』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『昭和天皇』『〈新版〉総理の値打ち』等、著書多数。

 

発行日           1995.10.20. 初版発行

発行所           洋泉社

 

初出誌一覧 『朝日カメラ』『Views』『Voice』『エスクワイア』『海燕』『クレア』『言語』『産経新聞』『GQ』『新潮』『新潮45』『正論』『宝島30』『ちくま』『図書新聞』『波』『鳩よ!』『Φ(ファイ)』『文学界』『マルコポーロ』『三田評論』『読売新聞』『Ronza(発表年月日は不詳)

 

著者は、『日本の地下水脈』で保阪正康が絶賛

 

 

I        この国のスガタ

II     文化の終焉

III   上手な酒の飲み方など私に講釈しないでくれ

IV    グロテスクな日本語

V      猿の耳に鳴っている音

VI    本狩り20番勝負

 

I        この国のスガタ

l  孤立と直面する矜持

この何年かの間に、日本のアジア回帰を唱える議論を目にするようになった

異論はないが、アジアに根付くべきとか、アジアの一員とならねばならぬとする点には引っ掛かる。過去100年以上にわたって、脱亜入欧を基本として、多くを獲得し失った時間の堆積として現在の私たちがあるのであって、脱亜入欧が古びたとか、有効ではなくなりつつあるからといって、すぐにアジアに戻れるものだろうか。それは生きてきた結果についてあまりにも無自覚な願いのように思われる。一方で、心魂から日本を西欧化すべきという議論もあるが、私たちはあくまで日本人であって、西欧人にはなれない

日本は、アジアから離脱しつつ、また西欧にもなれない、孤独な存在になった

私たちがなすべきは、孤独である自分を認め、孤立という条件下でいかに生きるべきかを探ること。落ち着いた誇りが必要であり、静かな安らぎを生む矜持が必要

50年以上前、日本が西欧からの孤立に直画面したとき、横光利一はヨーロッパの地から、西欧文明の華に対抗して誇るべき何物もないことを訴えたが、今日でもその問いは私たちを震撼させる

l  815 もう1つの意味

「終戦記念日」が風化している、と言われて久しい

その現象自体は悪いことではなく、イベントや紋切り型が消滅・風化した後にこそ、戦争の姿と意味が現れてくると考える

簡単に海外渡航できるようになり、世界各地で少なからぬ日本人が成功を収めたが、それは同時に軋轢も生む。日本人も適応の努力は続けているが、彼らは最終的には日本を彼らの市場から、視野から追い払いたいのかもしれない、とすると、批判はやまない

今の日本を眺めていると奇妙な既視感を覚える。第1次大戦後、列強の一角として存在が認められ、その地位を保持しようと悪戦苦闘していた時代に似ている

日本は、世界的市場と資源なしには近代国家として存続し得ない。それは幕末以来不変。冷戦が終わり、世界経済がブロック化し、先進諸国はその市場から日本を排斥しつつある

現在の私たちにとって、戦争に至る「大日本帝国」の試行錯誤、その誇り、賭けに決着する経緯は、自分と無縁な、軍国主義者の暴走とばかりは考えられなくなっているのではないか。戦後50年、毎年不戦の誓いを新たにしてきたが、今深く世界と結びつきながら、救いがたい国際社会との軋轢を経験しつつある。世界の各地を訪れるたびに強くなる風当たりにおいて、私たちは私たちの815日を発見する。その発見はまず、戦禍の悲惨さと、同じ轍を踏むまいとする教訓であるだろう。だが同時にまた、敬意と、悲しみと、宿命の自覚でもあるはずだ

l  「戦争協力」は罪か

私たちの通念では、戦争は悪だが、「戦争はイヤだ」ということとは大きな差がある

善悪の広範な議論も必要だし、善と悪を分かつ倫理的価値は何かという探求も必要

「イヤ」と「悪」の違いについて潔癖であるべきで、日本人はそのことについて鈍感な振りをしてきた。何の偏差もないように振舞い、違和感など感じていないように振舞った。国民的な嫌悪の前で、日本人は思考停止に陥った。戦後の平和が、思考停止の所産に過ぎなかったため、「平和」が揺らいだ時に主体的な判断を下すことができない

戦後日本の言論界の用語に、「戦争協力」という奇妙な言葉がある。戦争の「推進」に関わったものの責任を問う声であり、「戦争は悪」という前提が背景にある

戦争を有史依頼人間が行なってきた愚劣かつ普遍的な事象と見ると、「戦争」に協力したというだけで文化的、知的営為を糾弾するのは、極めて政治的かつ恣意的と言わざるを得ない

戦争画や戦争詩など多数の芸術作品が、「戦争協力」を裁くという立場から不当に評価されたり意識的に忘却されたりしていることに強い憤りを覚える。卑しいのは変節することではなく、変節を糊塗し、意識しないということが卑しい。櫻本の『住井すゑに見る反戦の虚構』を読んで奇妙な感慨を覚えた。戦後の文章にも一貫した「本気」の何物かを感じる。住井が「戦争はありがたい」と書いた恍惚は、今日「水平社」の発足を描く昂奮に変わったが、強固な、農耕の現場での実感、その実感に基づく搾取への反発、都市への嫌悪、労働の賞揚、完全な救済のイメージは、戦前戦後を通じて変わることなく、作品の主調音を形作っている

後年、戦時中の翼賛発言を櫻本富雄に指摘された住井すゑは「ほほほ何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」などと放言した。住井の説明によると、これらの翼賛的な文章は、思想犯としてたびたび検挙された夫の罰金を支払うために不本意ながら書いていたものであるという。それに対し前田均天理大学)は、戦時中の言論弾圧は罰金程度で済むほど甘いものだったのかと疑念を呈している。前田はまた、「いずれにせよ、住井はそれ以前は、他の作家たちの戦争協力の例を挙げる一方で『書けないと突っ張ったのは私一人です』と言っていたが、それが『虚構』であることが櫻本によって明らかにされたわけである」とも評している。櫻本による上掲のインタビューについて、高崎隆治は「佐多稲子をはじめ、林芙美子吉屋信子豊田正子円地文子真杉静枝など」の女性作家にも戦争協力の過去があるのに、なぜ住井だけを槍玉に挙げたのかと詰り、「同質の多数の中から特定の『一人だけ』を標的にするのは」「いじめ以外のなにものでもない」と非難した。これに対して前田は「同質の多数の中から特定の『一人だけ』をかばうのはその意図のあるなしにかかわりなく、神格化以外のなにものでもない」と批判

住井の頑なさの対極にあるのが、戦時下最も活躍した獅子文六で、「へなへな」の代表

獅子は、戦中の自分の行動に「反省」などせず、公職追放を受け、新聞社が異議申し立てをしたのに乗ったが、それは自らの信条を偽り、「責任」逃れをしたもの。追放指定解除の経緯を書き残したのは文士ではただ1人。声高の糾弾も自己弁護もないが、戦前戦後と連続する1つの人生を生きた日本人の、誰も筆に上らせなかった実感がそこに息づいている

生活人であり大人だった獅子文六は、「戦争はイヤだ」が「戦争は悪だ」に直結していない。「戦争が終わるのはうれしいが、負けたのが実にたまらない」と書く。獅子の精神の健康だけでなく、現実的な緻密さを感じる。このような健康と、潔癖を損なってしまったことが、何よりも一番大きな、戦前、戦後を通じた、文学者の科ではないか

l  「くに」というトポス

国防と文化についての基本的な論文であり、今日でも影響力を持っている三島由紀夫の『文化防衛論』は、日米安保パラダイムに立脚し、オリジナルな文化を守ることが、日本人の務めであり、創造的な生き方だと結論付けるが、論理が審美的であるのみならず、国防に関わる議論として倒錯している。というのは、日本の文化がオリジナルであり、美的価値が高いから日本を守らなければならないという論理は、そのまま日本の文化は独自性がないから、国土を守るに値しない、という議論に転倒し得る

実際、ポストモダニズムの論客たちは、現在の文化状況はボーダレスで、価値観が国境を越えて浸透し合っている以上、国といった領域を保持することには何の意味もないと主張する

三島は、「家、国土、国民は守る対象にはならぬ」と主張し、守るべきものとして文化を示すことで、日米安保条約のオルタネーティブを提案

冷戦が終わり、日米安保条約はその性格と内容を再検討せざるを得なくなっているように、戦後の日本を覆ってきた枠が揺らいでいる現在、自分の国を「守る」というのはどういうことか、基本的な問いに立ち戻らざるを得ない。「国」とは一体何であるのか

日本人にとっての「くに」とは、古事記のいう如く「初国小さく作らせ」られた、各人の生活と起居の範囲を出ない、ごく小さく、また親密な「土地と生活と自然」で、その意識は今日まで続く

国防は、世俗的・物質的な価値観のみによって支えることはできない。国防論議は、日本人にとっての「くに」という、文化的トポスに立脚し、「国家」という巨大なシステムと「くに」の関係、あるいは断絶を直視したとき、初めて具体的な「ごっこの世界」を脱した議論になるのでは

l  仏核反対決議とシラク歴史認識の落差

フランスの核実験再開宣言に国際世論の批判が高まる。日本も反対の国会決議をしようとしているが、核兵器が悪だという発想だけが独り歩きして、シラクが実験再開を公約として選挙に勝利したという経緯と背景が考えられていない一方的な動きに疑念を感じる

仏現代史と国民意識に基づく「核」選択の意味とは何なのか。シラクの公約の遵守は、「ユダヤ人虐殺にフランスは責任がある」という氏の発言と対になっている。それはもっともらしい反省を示しつつ国益を追求するというドイツ的戦略ではない。フランス大統領が「ユダヤ人」への「責任」を認めることは、大戦下で、ナチと強調し8万人のユダヤ人を収容所に送ったヴィシー政権との継続性を公式に認めたことを意味する。ヴィシーを裏切り者と断罪し、レジスタンス神話の捏造を始めとする虚偽によってフランスを「戦勝国」と位置付けてきたドゴール主義の乗り越え、清算という意味あいも持つ

仏核実験の再開は、祖国の「敗北」を直視した上での、国防上の選択とみなければならない。その「選択」の是非は別として、歴史の回復と独立の維持の並立という政治姿勢に尊敬の念を禁じ得ない。まともな指導者を持っているかの国への敬意を表したい

l  村山政権に「やさしい」マスコミの共犯性

村山政権にメディアが好意的なのは、何に由来するのか?

旧連立の方針を寸分の違いもなく継承、小沢の衣鉢を継いでいる。違うのは、うわべは「やさしい」ふりで下手に出て、「行政改革」や「武力行使をしない」等という耳当たりの良い、しかし何の意味もない文言を弄し、如何なる拘りもなく当初と180度異なる施策を行う神経

波風を立てない大人の政治ではあるが、衆愚政治、国民の政治意識を見くびった政治であり、メディアもここまで権力に肩入れしているのは、大戦下以来だろう

マスメディアにも、読者は何も分からないというエリート意識が根強くあるのではないか。その認識においてメディアは、「大人の政治」と手を結んでいるように思われる

l  コメと憲法と天皇制

平成5年の冷夏は歴史的な凶作をもたらしたが、テレビは両陛下ご訪欧の映像と並べて流し、両者に何の繋がりも認めていなかったが、それを不思議に思いながらも、当然だとも思った

昭和63年秋、天皇は病床で稲の作柄を深く心配されていたというが、昭和初期の東北の凶作が大恐慌と相俟って国家の進路を誤らせた苦い記憶が蘇ったのではないか

凶作はもはや社会不安をもたらすような事件ではないのかもしれないが、未来の展望がないという点ではさして昔と変わらない。今回の凶作は気象の不順だけのせいではなく、減反政策など多年に渡る農業政策の失敗などの歪みが、旧来の日本人の生活に被せてきた皺寄せとして一挙に露呈したもので、戦後社会の行き詰まりを示すもの。米だけを多重の保護と規制で囲み自国で生産することで安心してきた欺瞞の破綻でもある

その意味で、米の問題は、現在の皇室を巡る言説と深くかかわっている

読売・産経が、両陛下の稲刈りの模様と冷害へのお気遣いを報じる一方、朝日は直後の美智子皇后の誕生日の「事実でない報道に悲しみと戸惑いを覚える」との回答を大きく報じたが、これは現在の皇室を巡る言説の布陣を極めて象徴的に表している

議論の始まりは'93年初の皇太子妃決定当時、皇太子の記者会見がプライバシーに終始したことに対し、皇室が「開かれた皇室」論に惑わされ、「至高の公」を蔑ろにしている反映ではないかとの憶測がでる。皇室がプライバシーをメディアに提供し、直接国民と接触することは、短期的には皇室の人気を高めても、長期的には存立基盤を崩すのではないかと、保守系のメディアが皇室に批判的となり、逆に皇室を批判してきた勢力は「民主的」な皇室を擁護

宮内庁の内部告発レポートとされる「皇室の危機」に発した皇室批判において主役を演じたのは『週刊新潮』『週刊文春』といった保守系出版社の雑誌であり、逆の議論を「美智子妃バッシング」と名付けて、「平生流の開かれた皇室に受けた、衣の下の鎧」の存在を指摘し弁護したのは『週刊朝日』。一番特徴的なのは、これまで「開かれた皇室」のプライバシーを消費してその恩恵を受けた、保守的でもリベラルでもない大衆的なメディアが美智子妃批判を展開していることで、戦後日本に大きな国民的熱狂を引き起こした美智子皇后が批判の対象となったのは、皇后が戦後のシンボルだったからで、平和憲法や高度成長、55年体制といった「統合の象徴」として、皇后が批判の矢面に立たされているのではないか。保守的な一連の批判は、「西側の一員」などといった、昭和期には通用した確固とした価値観なり自己規定が機能しないことへの、不安や苛立ちの表明ではないか。今上陛下が憲法護持を掲げられているのは合理的な選択だが、皇后への批判が戦後的価値の失墜に起因しているとすれば、その神髄たる護憲路線をとる限り、皇室への批判は止まることがないだろう

今や米にしろ、憲法にしろ、皇室を規定する生き生きとした価値は存在しない

日本国憲法が、占領下に作られた紛い物であり、今日の世界には適応できないように、米作りの祭祀もまた、私たちにとって現実ではない。結局、保守に立つ皇室批判も、進歩的な皇室擁護も、その底にあるのは同様の空虚、占領憲法と、食管法下の米という期限切れの空手形であり、いつの日か、再び私たちが、皇室への崇敬を伝統と結びつける、生命の絆を見つけ出すまでは、この虚ろさに耐えなければならない

l  日本共産党は「正しい」

日本共産党は、絶対的に「正しい」。というより、「正し」くあることだけを目的に集まった「正しい」人たちの集団に他ならない。どんな時も「正しい」という考え方・信仰が共産党の基本

「正しさ」を守るためには野坂参三だって除名にした。「正しさ」を保つためには、少しでも邪悪なもの、汚れたものは徹底的に排除。ピューリタニズムやナチスと同様

サブカルや消費文化といったメンドクサイものについて知的に論じる社会学者や民俗学者、それに類する同世代の書き手に、「正しさ」の匂いを感じる。知的な優越感を踏み台にして、人がとても言えないような辛辣なことをいうのは、「正しい」快楽なのだろう。政治的党派としての日本共産党が滅びても、「正しさ」に酔う知的「前衛」の種は尽きない

l  北朝鮮問題では何が脅かされているのか

北朝鮮問題の議論では、不快感が先に立つ。例えば、日本が制裁などで国連決議に忠実であるべきというのはもっともだが、こうした「国際協調」論が最も積極的、急進的に見える日本の現状はひどすぎる。湾岸戦争の時に日本は世界に恥を曝した。危機に瀕しているのは日本の安全であり、国民の財産や生命なのに、国際協調ばかりを唱えて、まるで他人事みたい

北朝鮮がいま先鋭化しているのは、その地政学的位置が必然的にもたらす圧力のためで、噴火口の蓋がなくなれば、日本の安全保障にとって、国際的枠組みなど何の役にも立たない

いつの時代も、絶対に変わらない基本的な姿勢は、自分の国は自分で守るという発想と覚悟

l  日本人

日本は漂泊者たちの家郷。家郷は至る処にあり、故に何処にも無い。故郷を求める我々のエロチシズムは、いとも簡単に魂の原野商法に欺かれ、売りつけられ、二束三文で買い叩かれ、破産を繰り返す。日本人は、あらゆる東洋西洋の新奇なものに心魂を奪われ、大枚を叩いてガラクタを招来し、いかがわしい信心やお粗末なイデオロギーを崇め、そのために命を捨て、殺戮をも繰り返した。贅沢や蕩尽は我々の本性、罪を知らず、倫理も哲学も知らない

行け日本人よ、汝ら、神の子孫、女衒と詐欺師の末裔よ。最果ての泥濘の底に家郷を樹てよ

求めよ日本人よ。宇宙の全てに欲情し、万象の宝を掌中にし、全ての理想と崇高を残骸にせよ

失え日本人よ。失い、失い、空の空たる虚無の中で、その温かい腸から、静かに歌を響かせろ

 

II     文化の終焉

l  白人の「日本人論」をありがたがるな

山本七平は洒落のわかる人で、『ユダヤ人と日本人』をユダヤ人名義で出版したこと自体が、山本の日本人に対する痛烈な批評・観察になっている

日本人は外国人、特に欧米人の目から自分たちがどう見えるかということに対して、やたらに神経過敏。自己に確信がないからで、明治維新以来、日本人の持病になったもの。この病の本質は、日本人が自己像を自分の視線では作れなくなるところにある

一時代前の大物の欧米人をいちばん尊重しているのが日本のマスコミ。1つの雑誌に1カ所は著名欧米人が、日本についてゴタクを並べていないと落ち着かないといった慣行すらある

特にアメリカは、1つのパターンが定着すると、それを変えることはまずない。日本を語る時の論調のパターンも同様で、ステロタイプから一歩も出ない。それ以上に問題なのは、一流の学者とか、知日派の論文がかなりズッコケていることで、間違った思い込みが多い。それをそのまま自己像として受け入れてベストセラーにしてしまう様な確信のない日本の対応が、日本人論の偏見を温存する役割を果たしているから困ったもの

自分は一体どんな存在なのか、という不安を、他人に引き受けてもらうのではなく、自分の言葉で自分を語り、自画像を描く努力によって解消していく、というシンドサを引き受けないと

欧米のお手軽日本論なんて、もういらない

l  現代における日本の「家族」像

家族が大事である、というのはどのようなことだろうか。なぜ私たちは、家庭を作り、家族を構成していかなければならないのか

江藤淳の『成熟と喪失』が、同種の家族論や親子関係に基づく文芸批評に卓越しているのは、戦後日本の家族を、「近代」のダイナミズムに翻弄される母子関係から捉えたことだろう

「教育」という形で「家」に忍び込んできた冷たい無機質の「近代」が、息子と母親との動物的な親しさを切断する。教育により息子が旅立ち、母性は自ずと崩壊する。息子はその「喪失」を確認することによって「成熟」を余儀なくされる、というのが江藤の提示した母子像

保守の江藤とは反対の立場の上野千鶴子も、「70年代以降の家族関係では、父も母も、息子・娘の選択肢の中にない」というが、それは江藤のいう「母性の自己破壊」の当然の帰結

それでもなお家族を求めているとすれば、それは家族が「父」や「母」や「子」の集団ではなく、深く関わり合う他者同士の集まりだからで、他者との拘束と絆が必要だからこそ、今日、私たちは家族を作るのではないか

l  男性論無用論

男の強みがあるとすれば、自分が男だということを意識しないこと。自分を客観的に見ない

フェミニズムを唱える女性は、すすんで発想を縛り、勝手に転んでいる

男性論も同じことで、わざわざ自分を自分で縛ってどうする

l  アナキズムとは 政治よりすぐれて芸術的、文学的運動であった

近代文学史の中で、アナキズムと関係あるやつに良い奴が多い。幸徳秋水、大杉栄、マラルメ

主にフランスにおいて、アナキズムというのは政治よりすぐれて芸術的、文学的運動だったという見方があり、ファシズムもまたすぐれて文学的な運動だという意見もある

l  今なぜ70年代がリヴァイヴァルされるか

《イージー・ライダー》など最近70年代関係の映画や音楽のリヴァイヴァルが目につく

それらは空しいものばかり。その空しさは、80年代のような金ぴかの壮大な虚無のようなものではなく、地味で、安っぽくて、頭の悪い、救いようがない空しさだ。人を笑わせたり、豊かになった幻想も与えない、屈託した不毛さなのだ。確かに今もつまらない時代ではある。せせこましいし、ぱっとしないし、今後の展望も全くない。その点からすれば、あちこち動き回る体力があっただけ70年代の方がましだったか

l  山王倶楽部の議論から ダイナミックな文化の発生を目指す

私はクルマについてだけはフランス流で、自動車をキレイにしたり、大事にしたりするのはプチ・ブルだ、というイデオロギーを持っている。クルマは動けばいいという姿勢なので、桜井淑敏という名前を知らなかった。1987年最初にF1のメーカー・チャンピオンになり、翌年セナを擁して総合チャンピオンになった時の総合監督で、本田宗一郎の夢を叶えた男

技術力で西欧を負かしたが、文化の力を見せない限り、本当に欧米を納得させることはできないし、尊敬も得られない、と桜井は考え、日本人が世界に提供する文化を作り出すためにRCI(Racing Club International)を設立。さらに山王倶楽部というサロンを始めた。英仏の市民文化がコーヒー・ハウスから発生したことにヒントを得て、雑多な人を集め議論をしようということらしい (2023年逝去)

 

III   上手な酒の飲み方など私に講釈しないでくれ

l  風雅の生活に活字を奉仕させる

言葉によって、ワインを味わうことが、快楽に生命を与え、印象を鮮明にする。ワインを味わう経験によって、言葉も息吹を取り戻し、豊かになる。味蕾(みらい)とは、語彙のこと

食べることや着ることといった、くらしを1つの幸福にかえ、自分の信条や美意識の表現にすること、生活を「芸術」にする、風雅という日本独特の人生の流儀もまた、こうした経験と言葉の、相互の豊饒によって成り立つ。「くらし」によってしか、言葉に生命を与えられない

風雅をスタイルとして確立したのは茶道だが、今や自分のくらす空間で出来なければ、日本からは風雅も言葉もなくなってしまう

生きるためには、庵を構えた良寛に倣って、自分の「場所」を作るしかない

風雅とは、あるいは道楽や酔狂は、狭い空間の中に言葉の楔を差し込み、自分の片隅を切り開くことで、くらしを作りだす企みである

l  イマジン

私にとって自衛隊は、ずっと何かピンとこない組織だったが、感覚が変わったのは湾岸戦争の時で、憲法を盾に取った戦争絶対反対と、平和ボケを冷笑するハードライナーの参戦論の角逐が、ジャーナリズムで展開される中、今の自衛隊が置かれた境遇のまま行けと言われたらどう思うだろうと想像したとき、今まで一度も、自衛隊員に想像力を及ぼしていなかったことに気が付いた。彼らの努力に応えるのは、彼らへの密やかな敬意と彼らの存在に対する、当たり前の人間としての想像力ではないか

l  ショット・グラス一杯分の真実

湾岸戦争ではテレビにかじりついていたのに、その後は5秒と見る気がしない。トピックはあるのに退屈だったのは、「平和」や「国際貢献」に関するマスコミの語り口に、美名から踏み出す自由がない。衛星中継で現場の映像を見せられ、世界中の政治家やリーダーの肉声を聞いたところで、人間の真実が理解できるわけではないことが、漸く見えて来た

結局確かなことは、私たちが、相も変わらず始末に負えない生き物であり、その生きるべき場所は、この日常でしかないということで、世界中で起きていることには、グラス1杯分のウィスキーほどのリアリティもない

l  緋色王の帰還

この不景気から、地に足のついた文化やライフ・スタイルが生まれるかどうかは分からない

緋色の王は多数のカルト教団に信仰される神とのこと

l  サウンド・オブ・ミュージック?

この映画は、墺ファシストの宣伝映画だという説がある

オーストリアが、戦後いち早く独立を回復し、国際社会に復帰した秘密は、「墺はナチの犠牲者」という神話にあり、映画の原作となった主人公トラップ大佐夫人の回想録の賜物

反自民と自局の立場を明言したテレビ朝日の椿はジャーナリストの鏡。その時々で立場を決めなければ、芯の通った番組など作れるわけがない。ジャーナリストは中立など守る必要はなく、自分たちが如何なる立場にいるか、はっきりさせればいい。視聴者もその積りで判断する

立場をはっきりさせれば、当然責任やリスクが生まれる。それが嫌だから、マスコミは、口を拭って中立を宣言している。この点がマスコミの最大の問題。旗幟鮮明にやって、責任を負え。不偏不党は逃げ口上。自民党も、証人喚問など負け犬の遠吠え。民主主義が大衆の好悪で運営される以上、テレビはいま最も政治的なメディアで、テレビ番組は自らの政治的立場を常に明らかにしなければならない

l  マイナス・アワーズ

今年の就職戦線は本当に厳しいようだし、不景気が身に染みて来た

予測では来年もGDPはマイナス。マイナスの時にも、あるいは喪失の中からも、何かを得ることはできるはずで少なくとも得ようとしなければ、これからの日々を生き抜くことはできない

l  上手な酒の飲み方など私に講釈しないでくれ

僕から見るとこの世は、酒浸りの世界としらふの世界に二分され、僕にとっては酒が現実であり、酔うことは生きることから切り離せない。だから、上手な酒の飲み方の講釈は嫌い

凄い酒飲みはたくさんいるし、その凄さは酒浸りの世界からしか見えない。しらふの世界の方々は、人生は醒めた現実しかないと思っているだろうが、人の生き死にする世間は、もっともっと広い

l  30歳以上を信じるな

《パリ5月革命の痕跡を負うNSXの旅》という雑誌の特集を読んで、両者を組み合わせる神経に、ほとほと感服するとともに、正視できないくらい恥ずかしい。人のやったことでこんなに恥ずかしい思いをしたのは、『朝日ジャーナル』の編集者から初対面でいきなり、「君たち若者は、70年安保の裏切り者を告発しなければならない」と言われた時以来

フランスの五月革命は、1968に起きたパリで行われた新左翼主導の一斉蜂起事件。翌月の議会選挙で共産主義革命を嫌った シャルル・ド・ゴール政権への多数派国民による支持が判明して、急速に鎮静

私は世代論が嫌いだが、全共闘世代については、3,4割共通する、顕著な特徴があることを認めざるを得ない。それは、臆面のなさ、他人との緊張感のなさ、自意識の欠如などなど

クリントンが、彼の世代特有の行動様式を見せるかどうかは解らない。全共闘世代が、彼の当選に舞い上がっているが、同じ様な音楽を聴いたりマリファナを吸っていたからといって、気持ちが通じるという発想にはついていけない

彼らは、60年代に「30歳以上を信じるな」と叫んだが、彼らが30歳を過ぎ、メルセデスを乗り回してゴルフに興じながら、自分たちが信頼に値する存在なのかどうか、彼らは一度も問い直したことがない。互いに異質で顔も心も違う人間同士が、「信頼」を持つということの意味について、考えたことなど一度もない。それくらいじゃないと、本田の高級車で5月革命史跡巡りなんてハナレワザは出来ない

l  コレクターのエゴを見る楽しみ

美術館は好きでない。みな「文化財」になってしまうが、茶碗は茶室にあるべきだし、絵も個人の居間に掛けられているのが本当。壊れたり散逸したとしても仕方ない。「生きている」というのはそのうち死ぬということ。小林秀雄が、ゴッホの本物より模写の方がいい、と書いたのも、コピィ文化礼讃ではなく、本物は持って帰れないからつまらないと言いたかっただけ

バーンズ・コレクションを見に行ったのは、この展覧会が個人コレクターのエゴをどのくらい反映しているか興味があったから。自分の目と評価の中に根付いた文脈と視点から見るべきだという強烈なワガママの持主だったが、上野では文化官僚の目が通り、エゴの匂いはしない

東京でも、出光美術館の創業者のコレクションが並ぶ常設展はいい。山種の近代日本画もいい。株の代価を絵でやり取りしていたらしく、近代日本画は、どこかいかがわしい処があるが、そこが「株屋」っていう響きと通じる。日本経済のダイナミズムが株に反映しているように、日本画には近代日本が作った最も崇高は芸術がある。山種の速水御舟の作品は、明治以降の日本人の仕事で最も誇るべきものの1つ。証券マンの行き来と交錯しながら、御舟を見に行くというのは、やはり得難い。東京ならではの体験で、これがまあ文化ということかしら

l  芸術の沈滞を打ち破る 陶芸の魅力とは?

旧知の陶芸家は、他人が下手に見えて仕方ないのか、酷評散々だが、かといって自分の仕事に満足しているわけでもない。彼のように、人格と生活の創造が一体となってエネルギィを発散しているような、天才としか呼びようのない人はいない

陶芸の強さというのは、生活と結びついているところにある。人生に根本的な影響を与えるのが「芸術」だとすれば、食器の力というのは侮りがたい、少なくとも美的経験ということについては、美術館で「名作」を鑑賞するより、自分で選んだ食器で毎日生活することの方が重い

食器に限らず、文化を生活自体に根付かせる努力をしなければ、80年代散々唱えられた「豊かさ」という奴は全部ご破算になってしまう

オペラを呼んだり、展覧会を開いてくれる企業メセナもありがたいが、その分社員の給料に上乗せして、生活に余裕を持たせた方が、文化に貢献することになるのではないか

l  80歳の丘

松田正平(19132004、洋画家)の字「犬馬難魑魅易」(犬馬は画くのが難しいが、鬼はたやすい)を玄関に掲げ、与太やデマカセに頼りがちになる文筆活動のよき諫めとしている

80歳にして初めて画題として山を取り上げたというが、子供の落書きと間違えられたという絵は、現代のどんな日本画や水彩画よりも、松田の洋画の方が日本的な創造性を発揮している。西洋画を学んだ成果が取り入れられているが、自在さの追求や、余韻による喚起、装飾の象徴への転化といった伝統的な日本芸術の精神が氏の画業の核心にある

l  明日泣く

色川武大の短編『明日泣く』は、寛容な夫がいるのに放埓を繰り返す女性の話で、結局は「泣く」羽目になる。好き勝手なことをしていればいつかは泣くことは解っているが、30過ぎて生き方が変えられるわけがない、それなら「泣く」明日に向って胸を張って歩いて行くしかない

l  バブル崩壊後のワイン・ライフ

l  『清貧の思想』はポスト・バブルの聖書か?

ポスト・バブルの聖書といわれる『清貧の思想』でな、いいものを食べたい、出世したいといった欲望をすてて、「現世での生存は能う限り簡素にして心を風雅の世界に遊ばせること」が「人間の最も高尚な生き方」というが、人間そんな始末がいいものかねと思う

生きている人間は、どんな山の中や孤独に逃げても、欲心から逃げることはできないだろう

だいたいバブルが終わった途端に、悟りすました顔をしたがること自体が、煩悩の深さを表している。何を見ても心の洗われることのない、凄まじい欲望や俗心の極みにこそ、今を生きているという幸福は、息づいている

 

IV    グロテスクな日本語へ

l  グロテスクな日本語へ

私はずっと日本近代文学に、グロテスクな、醜悪な言葉やイマージュがないことを不審に思ってきた。西欧文学にあるような破天荒な世界像に欠け、いくら愚劣で不快であっても、最終的にはコスミック(宇宙の)な秩序に収まってしまう「救い」がある。無残な情景が、美やエロチシズムに昇華されてしまうメカニズムは、谷崎以下の審美的文学においても同様だ

中世の地獄絵図や近代の洋画など、視覚表現では西欧文明と遜色ない作品を残しているのに、同種の試みを同時代の文学に見出すことはできない

強いて日本近代文学にグロテスクなものへの指向を見ようとするならば、大杉栄以下の社会主義的な文章か、江戸川乱歩のような猟奇趣味ということになるだろう

社会主義文学の葉山嘉樹は、プロレタリア文学を創始し、その枠組みと感性を決定づけた作家だが、葉山ですらそうであったように、思想や感情、了解や思考といったものを表現伝達する地平を、近代の日本語は超えていないのではないか

たとえば、藤田嗣治の戦争画のような作が文学には存在しない、藤田は陸軍省から厳しく批判されたように、戦意高揚などには全く役に立たないグロテスクなイマージュを作りだした。と同時にそれは戦争への批判を喚起するものではない。何物にも還元出来ないイマージュである。そのような「日本語」があり得ないのか。そのような表現を生むためにはどうすればよいのかと私は考えている

l  作家が全員死んでも困らぬ 批評家の立場

私は批評文を、自立した作品として書いているつもりなので、同時代の文芸作品の動向には関心がない。小説よりも批評の方が数層倍自由で多様な創造的なジャンルだという信念を持っているので、批評家をして小説の解説者とするような封建遺風を根絶したい

l  文芸時評の敗滅

文芸時評は敵だ、というより、普段読む事はほとんどないので、「文芸時評論」を書けと言われても書きようがない。自分の批評から遠いものが文芸時評

文芸時評とは、その月/季節ごとの文芸の状況を報告しつつ、批評するという体裁をとるが、その時点における「文芸の状況」と、批評の「指標」という2つの要素の組み合わせで決まる

1のパターンは、「文芸の状況」を主として小説に限定し、「指標」を「傑作、問題作」といった作品の「質」において選別するもので、その代表的書き手は江藤淳や平野謙、柄谷行人

2のパターンは、「文芸の状況」ろ文芸誌中心の場所に置き、指標として「社会の現状」を提出し、新しい作品に新しい「社会」の姿や未来像を読み取ることを課題とする。吉本隆明など

3のパターンは、文壇から離れた広い対象を、評者「独自」の感性や教養から論じるもので、当今の文芸の流れから離れた作品を発掘してみせる所にこのパターンの批評性がある。石川淳や丸谷才一、井上ひさしなど。もっとも「文学」に対して小心翼々としている

いずれのパターンも、文芸時評が擁護し維持しているのは「現在の文芸」の優位

定型的なものではなく、時評が存続してきた枠組み自体を問い、時評そのものを停止させるテロリズムこそが必要で、「現在の文芸」に批評を統合し参画させる装置としての時評の敗滅を、先ず批評は定義するべきではないか

l  言葉を守るもの

吉本隆明らは、現在の日本が極度に均質で民主的な調和をもっていると評価したが、今は社会も言語空間も分裂し、バラバラに崩壊しかけている

これまでのメディアの用語規制は、つい先ごろまで日本的制度として誰もが不思議に思わず、社会の調和を保ち全般の利益実現に役立つとされ、問題を言語空間に投射することですべて丸く収まったが、社会の発展が行き詰まり、これまで両立できた利害が鋭く対立し始めた時、メディアにとって雑多な利害を包含することは、必ずしも有利でなくなった

用語規制の問題化は、冷戦の終結から始まった一連の政治的秩序の改変と同じ地平で起こっている。'93年の差別用語使用を巡る筒井康隆断筆事件は「政治」が浮上。今まで透明な空気のように思われていた言語空間が、実は様々な利害や駆け引きにより作られた、グロテスクで政治的な人工物であることに、「大衆」が気付きつつあったことが大きな波紋を呼んだ原因

無味無臭であった時にこそ、「大衆」は言語空間が自分たちの意向の反映だと思うことができたが、今やその空間に亀裂が走り、多かれ少なかれ誰もが自分自身とメディアのずれを、居心地の悪さを感じている。メディアは、錯綜した争いの、衝突の場として意識され、言葉には如何なる意味でも、非武装地帯も中立地帯もないことを私たちは確認することになる

言葉は、「表現の自由」といった理念や良心や理性により維持されて来たのではなく、血腥い、時に悪辣な戦いによって守られ、生きて来た。あらゆる日本人の営為の中で続けられてきたし、私たちは言葉を語るがゆえに無垢ではありえず、その持続を継承するために自分も同じ営為に手を染める。私は汚辱に塗れたこの言葉で、論を立て、息子たちにも伝える。私が自分の言葉を守ると云う時、私が何かを踏みにじっている事を私は認める。だが矢張り私は語る

l  憎悪と汚辱

「表」のフランス文学からは外れたセリーヌ(過激な内容や卑語・俗語を交えた文体で知られ国際反逆罪で訴追)の存在が福田の批評のモチーフになっている。セリーヌの言葉は文学的ではないが、アーティフィシャルなことばで、憎悪からそのまま出てくるような文章ではなく、本当に苦心して作った言葉。フランス文学には「憎悪の言葉」「憎悪の文学」がある

日本では、絵画の世界にはグロテスクな日常生活を見るみたいな、岸田劉生から始まる「醜」の中に自分の表現の可能性を見る流れが連綿とあるが、文学はその辺が貧困。しいて言えば佐多稲子や中野重治、小林多喜二といったプロレタリア文学に唯一の可能性があったが、政治には勝てなかった(『グロテスクな日本語へ』参照)

僕の右翼というのは、「善/悪」ではなく「美/醜」「快/不快」の次元で物を言い、書くこと

l  反復する批評――加藤典洋氏への反論

拙作『日本の家郷』を、加藤は「文芸は人を殺したってかまわないと言っているのは、死後の世界からものを見ている」と評したのには納得がいかないので反論する

人間は、他人を殺し憎むと同時に、気高くもある存在で、日本の文芸は、矛盾した人間の実相を予め裁くことなく受け入れ、祝福してきた、というのが拙論の趣旨

戦後的ヒューマニティに拠る氏にとって、憎悪や殺戮も人間の営みとして認める私は、おぞましき過去の亡霊であり、人間が踏み越えてはならない規範を、文学によって跨いだ悪鬼だと決めつける。こうした加藤氏の反応は、伝統的な日本文芸批判のパターンであり、古来の軋轢の継承・持続がほの見えるが、これもまた日本の文芸の永遠の証し

l  どこかにいる味方への「大本営発表」――丹生谷貴志(文芸評論家)氏の奇妙な批評へ

拙作『柄谷行人と日本の批評』に対し、柄谷擁護派の丹生谷は、「無意味な祖語と悪意だけしか残らない」と批評し、自己批判を迫るが、的外れもいいところで、いもしない敵と戦い、どこかにいる味方に「大本営発表」をしているように見える

l  斜断機「柵」の批判を嗤う――'94年『産経新聞』斜断機の「柵」氏への一言

私は村上春樹が『ダンス・ダンス・ダンス』以前と以後で如何に変質したかを論じただけだが、氏はそれをどう読んだのか、『ねじまき鳥』を「絶賛」したことになっている。私は必ずしも匿名コラムの存在意義を認めないわけではないが、氏の文章が「匿名」である必然性は、署名不能なレベルの低さ以外に見当たらない

l  蓮實重彦氏へ

『朝日新聞』の文芸時評で蓮實氏が拙著『保田與重郎と昭和之御代』を批判した内容が不当と思ったので、即刻反論しようとしたら、朝日は文芸評論への反論は切りがないから載せないのが原則だと回答。反論のリスクを担うのが言論機関の責任ではないか。反論を許さないような場所で批評がなりたつというのか。蓮實氏には報告していないと推測するが、同時に蓮實氏の口吻の中に、「保護」されているという安心感を見出さざるを得ない

保田の「決定的な欠陥」が「ユーモアへの感性の徹底した不在」だという氏の指摘には首をひねらざるを得ない。私は、批評の本質をユーモアよりも哄笑、悪意ではなく憎悪だと考えているから、氏とは共に天を載(ママ)けない。その辺のすれ違いは仕方ないと思うが、氏の批評の「悪意」とはどれほどのものなのか。かつてヌーヴェル・クリティクを紹介していた氏が、制度的な文芸批評をやってみせて、「大江や柄谷とともに、日本文学はまぎれもなく進歩したのだ」などといった「弛緩」した言葉を連ねるといった態の、せいぜい外した入歯の放つ悪臭程度のものではないか。氏はさらに、拙文における保田の転向問題へのこだわりに触れて「大江や柄谷も転向変節をいささかも恐れてはいない」と言い放つ。だが氏のいう恐れのなさは、批評の暴力や政治的憤怒に身を晒しつつ、なお保持されているものなのか。それとも単にメディアの体制や文芸の制度や国家機構に守られているがために、両氏も氏も神経が「弛緩」し、最早激烈な批判に晒されることもあるまいとたかをくくって「粗雑」な仕事をするのに慣れてしまっているから「恐れ」はしないのか

l  再び蓮實重彦氏へ

3か月後、またしても蓮實氏が同じ文芸時評欄で、筆者の「制度的に反論を抑圧した場所で批評が成り立つのか」という問いかけに対し、揶揄的に言及、その悪質さには驚かざるを得ない

あたかも議論の応酬などなかったかのような振りをする「ユーモア」の実践なのか

今回の氏の時評も、そうした「ユーモア」(日本語では「弛緩」という言葉になる)に満ちている。大家の「柔軟」さ「大胆」さを賞揚し、若手の「性急」を嘲うという文壇的身振りに終始し、通常なら大時代な振る舞いにつきまとわざるを得ない恥ずかしさを、自意識などもっていないが如くに乗り越えて見せるのが、氏の「ユーモア」というものなのだろう

日本の小説はオウム事件を先取りしていたなどという氏の「ジャーナリスティック」な与太も「ユーモア」か。さらにかつての氏の、大江の小説に対するあられもないテマティック(主題の)な「嫌み」はどうなのか、そういう過去は、全てそり落として「不毛」にしてしまうことが「ユーモア」なのか

 

V      猿の耳に鳴っている音

l  パンク世代なんて日本にはいない

この頃パンクの歌手が麻薬でたくさん亡くなっている。パンクというのは、明日をもしれないということ。プログレだのフュージョンだので退屈極まりなかった音楽に、今日死ぬかもしれないという乱暴者たちがアイディア一発で次々に現れた。この解放感が僕の芯になっている

日本にはパンク・ムーヴメントなんてほとんどなかった

l  ビートルズはカヴァーが一番

ビートルズのアルバムはひどい、せいぜい《イマジン》止まり。あのまま生きていたら、どんなに酷いことになったろうと《スターティング・オーバー》を聞くたびに心配になる

LP版が出てから20年を記念して青盤と赤盤がCDになったが、当然ながら自分で書いた曲ばかりで、カヴァー曲は1曲も入っていない。自分で曲を書けば独創的なわけではないし、カヴァーは何でもサル真似ではない。カヴァーでも独創性は発揮できるしカヴァーの方が真の独創性を必要とする。世の中にはもう、新しい旋律もコード進行もアイディアもない、という閉塞の中で自分が自分であるという証しを求めること、それがクリエイティヴィティだと、ポスト・モダン・エイジが教えてくれたはずではなかったか

去年あたりから、工夫も、恥もない「オリジナル」曲がヒット・チャートを埋めている。情けない。誰かビートルズの、「独創的な」カヴァーばかりの「ベスト」盤を作ってくれないかな

l  タランティーノの音に対する趣味の深さに脱帽

音楽の趣味がいい監督といえば、スコセーシに決まっていたが、タランティーノの出現にその地位も危うい

l  REMの新譜《モンスター》はこれからの出口のない争いを予感させる

国民皆保険を主眼とした医療保険改革は挫折したようだ。もし実現すれば、アメリカの階級分裂や社会不安の進行を押し止め、場合によっては逆転させる可能性も期待されていた

l  NOKKOのハイトーンが巻き起こす奇跡

CDの最大の利点は、音質や寿命ではなく、連奏チェンジャーだというのは衆目が一致

1984年メジャー・デビューしたREBECCANOKKOのハイトーンが巻き起こす奇跡はかけがえがない

l  自主レーベルという舞台で爆発した鈴木博文のエネルギィ

22年前に出たあがた森魚のアルバム《あゝ無情》は日本ロックの歴史の劈頭を飾る大名盤であり、大滝詠一や鈴木慶一らのサポートを受けて、昭和戦前期の都市風俗を幻視した、日本最初のトータル・アルバム

l  カリスマのCD

大江慎也のカリスマ性が最も強烈だった198485年頃のライブは皆無だが、不気味さが爆発していた。現在は活動休止のまま

l  「道徳の奴隷」に唾吐く黄色い猿

日本人はヒューマニズムが大好き。自由だって、民主主義だって、平和憲法だって大好きという育ちの良さ、教養の高さ、すぐれた見識をお持ちだ。くされジャップどもが能書きをこねだした。一丁前に理屈をこねやがる。男女平等がどうの、環境保護だ、ご立派、よくできました

表に出て公言する奴は、バカとキ印の福田くらいしかいない

ジャップどもも、飼い主のヤンキー様も、「道徳の奴隷」。道徳が好きで好きで仕方ない

神々は死んだ、人間も死んだ、そして黄色い猿が残った。ザマミロ!

l  ブルセラ女子高生と中島みゆきオジサン

中島みゆきの《ファイト》の歌詞が、ブキミで凄過ぎ

l  そしてみんなカタギになった

音楽もCMもみな堅気にすり寄っている。オレは「成り上がり」だって好き勝手なことをやってた奴が、「この道のどこかで倒れても俺の人生さ」なんて今さらよく云うよ。「群れ」なんかに一度も入ったことのない奴が、「さらば」も何もないもんだ(矢沢永吉《アリよさらば》)。自分でこういうこと云うと説得力がないから、作詞家(秋元康)使ってるんだろうけど、何か嫌だね。やっぱり堅気の時代なのかね、今は。みなさん商売がうまいねぇ、本当に感心します

l  ガイキチ(=キチガイ)を駆逐する? 几帳面なポップス

日本のポップスもアカ抜けた、というか、イカレタところがどこにもない人が、修士論文書くみたいにしてポップスを作っている。頭の悪そうなのがいない

l  THE BOOMのキモチワルさの正体は?

流行歌(はやりうた)時評を始めた時から、いつかはTHE BOOMを取り上げなければと思っていた。《中央線》の楽曲としての完成度は高く、矢野顕子の歌唱力も光っていた

l  森高が音楽をやっているというリアリティ

昔はパンクスで、今でも根性はパンク。尊敬する人はキャプテン・センシブル。カラオケは森高千里を歌う。森高に存在感があるのは、歌詞にミュージシャンとしてのリアリティがあるから

森高の歌詞(《気分爽快》)は、メンドクサイことにも前向きに挑んでいく女の子のダイナミズムみたいなものを唄っている。ポップスはこういうものだな、と認めさせるパワーとか、そこで生身の人間が音楽やっているというリアリティがある

l  無神経な去勢系アーチストにはウンザリする

音楽に[最先端]がなくなってからだいぶたつが、ヒエラルキィがあるのは確かで、どこかに価値判断の基準はある

 

VI    本狩り20番勝負

l  「オタク」の情報には普遍性がある――小林信彦「オヨヨ大統領」シリーズ

「オタク」という言葉は比較的新しいが、その存在や人間のタイプというのは案外古い。色川武大や小林信彦など大戦当時10代だった作家にその兆候があらわれている

他人や世間と交換できない、意味も価値もないが、自分1人にとって「コク」のある情報を増殖させて1つの世界を作ることに熱狂する発想と手法は今も変わらないが、流通性や社会的あり方が違う。閉じられた個人情報を社会に向って開放し、それが普遍性を持つように感じられたが、それはマスメディアが繰り広げる報道の嘘くささと、「オタク」情報の充実感という問題と密接な関係があるのだろう

l  偏執としての左翼は興味深い――松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず』

全共闘世代はキライ。「左翼」とか「主義者」全般に対して、メンドクサイなあという感じがある。何かの理想を信じて、完全な社会や世界を作ろう、そのためには自分の人生だけでなく、他人の信条や自由を踏みにじっても構わない、という人たち。全共闘世代に限らないが、彼らはあれだけ騒ぎながら今は大学の教員や大企業に収まっている。赤軍派の方が、やったことはとんでもないが、とにかく責任はとっている

人間にはどうしようもない、破壊的な何かがあって、いつかはそのつけを払わなければならないことが解っていても、突っ込んでいく不合理なものがある。僕にもある

l  「浮世」を凝視した数少ない現代作家、田中康夫――田中康夫『オン・ハピネス』

ここ何年かの日本の社会の移り変わりは面白かった。同時に「無常」も感じた。政治、経済、流行、文化も「去年の雪、今何処」のありさま。日本の文学者は、何でこんな面白い社会や時代を書こうとしないのか。現代の作家で、「浮世」を凝視しているのは田中康夫くらい

哲学的著作と流行ファッションの間に差異がないことを指摘して作家デビューした田中は、『オン・ハピネス』で、確実に私たちを何処かに連れていき、あらゆる差異を解消してしまう変化を描いた。差異や境界の無意味を述べながら、その認識と表裏一体の「無常」観を丁寧に描き、細心に抑制された表面と解消への激しい衝動のあわいに、現在の「浮世」があると語る

l  西欧文化との本物の関わり方を感じさせる――小池寿子『死者のいる中世』

小池の『死者のいる中世』は、「死の舞踏」図を始めとする死を題材とした宗教画を巡って西ヨーロッパを歩くエセーで、ゴシック美術などを扱いながら文学作品になっていて、著者も「美術史」を「共通感覚を介して語る試み」だとしている。アカデミズムというよりは文芸作品であり、こういうジャンルで本物の作品が現れたことに驚く。ここには辻邦生や堀田善衛氏の西欧文化を扱った作品を覆っている事大主義も滑稽さもない。日本でしか書かれ得ない著作

l  いつかは日本に帰るという自明性の哀しみ――村上春樹『やがて哀しき外国語』

村上のエセーの力というのは徹頭徹尾、プライヴェートな視点からプライヴェートな感慨を語るというスタイルに起因している。1行でも明確に村上春樹の世界がある不思議

このアメリカ滞在記『やがて哀しき外国語』にも振りかぶった議論はなく、もちろんアメリカ論や日米関係論でもなく、日本の発見であり、日本に帰るという自明性の「哀し」みを巡って書かれている

l  「事実」に「自分」をつきつけて恰好いい(スタイリッシュ)。でも酒場ではあまり会いたくない――沢木耕太郎『象が空を』

酒場で会って一番困る人は、「丸谷才一や沢木耕太郎の文のような人」。丸谷のは通人で、仕切りたがりで、博識で、声がデカイ。沢木の場合はスタイリッシュ。『テロルの決算』を見よ

今の文芸が失った「恰好よさ」を「沢木耕太郎の文」は持っている。沢木のノンフィクションというのは、「事実」に対して自分を突き付けることで、ロマンティックな個人を確保する仕掛けであり、年齢を重ねていくものではなく、非常に若い時期にフリーズ・ドライされたままの「恰好よさ」であり、フォー・エバー・ヤング(ママ)だ。そんな人と酒場では会うのは不愉快

l  梅棹に比べれば安吾も淳も旧文明の老廃物でしかない――梅棹忠夫他編『白頭山の青春』

戦前の日本を代表する思想家が西田幾多郎とすれば、戦後のそれは丸山眞男でも福田恆存でもなく、梅棹だ。梅棹に比べれば、坂口も石川淳も旧文明の老廃物に過ぎない。100%クールな文体は、どのような精神から出て来たのか。『白頭山の青春』を読むとよく分かる

l  清潔な作家、純粋小説の夢――田口賢司『ラヴリィ』

イカサマ師、女蕩し、アンチ・フェミニストにしてソウル・ジャンキィな田口の、巫山戯(ふざけ)た、奇妙な、美しい作品。ジャンプ・トースターの底の雲母のように澄み切っている

大正時代以来、反自然主義には2つの潮流があり、一方は物語、構成を重視して虚構性を小説の本質に置く谷崎であり、もう一方は文章と仕掛けを主眼にして、雰囲気、気分を表出する佐藤春夫。谷崎の系譜は、三島から村上春樹まで、戦後も続いたが、佐藤は坂口安吾で絶えた

田口の『ラヴリィ』は、その空っぽさ、無意味さにおいて、谷崎的、春樹的世界と絶縁している

潔癖なまでに物語や筋立てがなく、純度の高い作品で、ジィドの「純粋小説」の夢を叶えた

l  山河の風景に顕現した日本の神々――藤原新也『日本景 伊勢』

『日本景 伊勢』の画像には、ほとんど人間は現われない。もっぱら人間は文章の中で生きている。伊勢熊野の人々を記しながら、おのずと神仙譚の様相を見せる。伊勢の山河の濃密な画面を見て、思わず息をのまざるを得ないのは、人間を超えた何物かがそこに存在していることを感得させられるから。文章が神話だとすれば、画像はそのまま神々で、神性の臨在を感じて戦慄を覚える

l  60年代調ゴタク満載のカルト的ポップ・ノベル――トム・ロビンズ『カウガール・ブルース』

原作は1976年アメリカで発表され、カルト的人気を博した

l  無法者のささえ――横森理香『ぼぎちん』

投資顧問業といういかがわしい生業しかできない中年男「ぼぎちん」によって、「しょんべんたれ」で「まだまだおぼこ」の「私」が喪失と成熟を体験する小説で、ごく近い過去を描きながら一級のアウトロー小説になっているのは、驚くべきだが、不思議なことに文芸ジャーナリズムはほとんど反応していない

l  不安の無の明るい夜――笠井潔『哲学者の密室』

推理作家の10年ぶりの新作。本格的推理小説と同時に、日本文学において空前の深みと問題提起を試みた哲学小説。というのは、ハイデガーの哲学とそのナチズムへの加担という現代哲学最大の「事件」に正面から取り組んでいるから

l  時代に見通しがない怖さと人間の怖さ――山田太一『見えない暗闇』

山田は、戦後の日本社会を象徴するイメージを描き続けてきた作家・脚本家。『見えない暗闇』では、時代の雰囲気が全く掴めない現在に1つのイメージを与えて、見通しを切り開こうと試みている。時代に見通しがない怖さと、私たち人間という厄介な生き物であるということ自体が含んでいる怖さ。綺麗事を信じている奴がいるのは今の日本だけ。そんなことをしていたら、見えないものがどんどん増えるだけという

l  何が「奇跡」か――青山圭秀『真実のサイババ』

一応手品師の見せる奇跡なんてどうでもいい、と言って、サイババのメッセージこそが大事だと青山は言うが、その教訓というのがツマンナイ

l  これからは精神の時代だなんて誰が言った――J.レッドフィールド『聖なる予言』

これからは物質でなくて精神の時代だなんていうゴタクは何とかならないのか。「文明」なんて元来物質的に決まってる。今までさんざん世界中を収奪してきた欧米や日本の連中が、今さら精神がどうのこうの云ったってヘソが茶をわかす

l  いい気なもんだ――辻井喬『虹の岬』

巣鴨に収容された高級将校が「国破れ、牢屋から見る秋の月」といったような句を、三好達治が「いい気なもんだ」と怒っている。指導者だの経営者だのは、だいたい「いい気なもん」で、『虹の岬』も今時ここまで「いい気なもんだ」という小説も珍しい。旧住友の理事で現天皇の皇太子時代の作歌指導役を務めた川田順が主人公で、著者自身の感慨として読まざるを得ない

戦争中に評判になった歌集を出して栄誉を受けた川田が、戦後編集者に、「僕の歌を読んで戦争に征って死んだ青年がたくさんいる」と語る場面がある。本人の言かどうかは知らないが、この場面をサラッと書いているところに著者が「責任」というものを、どのように考えているかが出ている。少しでも、自らの作品に責任を感じているものならば、口に出せるような言葉ではない。『マディソン郡の橋』もイヤな話だと思ったけれど、この小説に比べればマシ

l  すべてをかき消してしまう意志――『北斗晶自叙伝 血まみれの戴冠』

極めて優れた選手や芸術家は、誰とも言葉や思いを共有できなくなるような境界があって、否応なくそれを踏み越える。比較を絶した偉大さが必然的に生み出したもの。北斗も踏み越えた1人。もともと、普通の人生を歩みたくなかったのだという。憧れてプロレス入りしてタイトルも手にするが、直後に頸椎骨折で生死の境をさまよう。医師に励まされるが、絶望して自殺を企てる強烈な自負。重傷者をリングに上げて事故があった場合興行ができなくなり仲間が路頭に迷うと知りながら強引にリングに復帰。後にMVPの受賞会場でファンから引退を惜しまれると、自分は客のためではなく自分のために戦っているのだと怒る。神取には敬意を表し、最後に「決着はついた。神取の方が強かった」。戦うという一事に、興行もファンも仲間もかき消してしまう意志から、この単純で美しい文章が生まれた

l  陰謀ものの「説得力」――広瀬隆『兜町の妖怪』

『噂の真相』の需要は、根も葉もなくても人の誹謗をしたいという日本人のゲスなところや、嫉妬深さ、ありもしない反権力のそぶりだけでなく、日本人には、世間の全てに裏があるとか、世の中のシナリオを書いている奴がいるっていう思い込みがあるし、そういう話が好き

広瀬の本も、いつもながらの壮大な話で、陰謀の黒幕はジョージ・ソロスと書いているが、最後まで読むとあくまで小説だとわかる

l  道楽の極みの果て――江守奈比古『懐石料理とお茶の話』

江戸時代会席料理を確立し、江戸で最も成功した料亭八百善の8代目主人栗山善四郎がそらで組んで見せた名残の道具立ては、構想だけで1つの世界を作りだしていると驚嘆する

戦前『朝日グラフ』で各地の茶室を撮影し、大戦で焼失した名作の面影を残した功労者が江守

吉兆の湯木貞一は道具の収集と店の繫栄を両立させたのに、8代目善四郎は八百善の屋台骨を揺るがせたが、道楽もここまでくれば、店の1軒や2軒つぶれない方がおかしい。博物館を作って死後までしまい込むより、つぶして市場に散じ、別の愛好家に委ねる方が風流に叶う

l  去る昭和、還る明治――江藤淳『漱石とその時代』

江藤は秋山駿の第2次大戦中に日仏間に交戦関係があったとドゴールの回想録を根拠に主張したことに対し、外交手続きの考証から反論しつつ、秋山が第2次大戦の勝者が作りだした言語空間を生きながら、それを意識しない戦後の日本人の発想を明確に読み取っていた。

19449月に全国作家委員会は勝利宣言し、カミュ、サルトルからマルロー、モーリアックまでが署名。文学者はこぞってドゴールが天才的手腕によって作り上げた「レジスタンス神話」に協力し、敗戦国を勝者に変える手品に手を貸した。ナチを信奉し、反ユダヤ主義に加担した作家たちを生きた言葉で語ることも挽歌を詠う事も許されなかった

江藤は、占領検閲の研究により、いかに「物語」が作られ、浸透させられ、現在まで機能しているかを解明、未だ「戦後」の過ぎない昭和の末において、唯一の、そして根本的な批評であるように思われた。何よりも氏の仕事は生きていた。批評とはまさしく、生きている今に関わる営為と私は識った

もし漱石に、真にインターナショナルな文学としての価値があるのならば、それは漱石が明治の作家であるからだ。そこには勿論、漱石が明治という時代の一側面を作ったということが含まれている。世界史的な時代としての「明治」の発露として、漱石は存在するのであり、明治の文学者としての漱石だけが、国際的であり、普遍的な価値を持ち得る。一般化された「テクスト」には、何の意味もない。我々は時代の中で生き、時代と共に去る。だからこそ我々は普遍的であり、永遠だ。昭和という時代が去り、その物語が今まさに崩れようとしている時、江藤は永遠なる一時代としての明治を呼び戻した。この帰還からこそ平成の響きを鳴らし、文人は時代に輪郭と陰影を与える責務を思い返さなければならないと、江藤は語り、また疑い、口を噤(つぐ)む様である

 

 

あとがき

私は、文体根性がない。1つの文体を守るということができない

12種類くらいの文体があるという。使い分けのレベルを超え、ほとんど病気。スタイルを変えると、漢字のひらきやボキャブラリィまで変わる

いくつもの文章の交錯するところにオレがいる

 

 

 

 

福田和也さん死去 文芸評論家

2024922 500分 朝日新聞

 文芸評論家で保守派の論客としても知られた福田和也(ふくだ・かずや)さんが20日、急性呼吸不全で死去した。63歳だった。葬儀は関係者で営む。喪主は妻圭子さん。

 1960年、東京生まれ。文芸評論家の江藤淳に見いだされ、93年に「日本の家郷」で三島由紀夫賞、2002年には「地ひらく―石原莞爾と昭和の夢」で山本七平賞を受賞した。テレビのコメンテーターとしても活躍。「昭和天皇」や「村上春樹12の長編小説」など多数の著書を残した。慶応大名誉教授。

 

 

(惜別)福田和也さん 文芸評論家・慶応大名誉教授

2025329 1630分  朝日新聞

「(文学賞は)興行なんだから。もうちょっと文学が生き延びるための努力がいる」=2004年撮影

 ■天皇論も世俗批評も、パンクに

 2024年9月20日死去(急性呼吸不全) 63歳

 主流への反発を隠さない。パンクの精神が本領だった。

 政治学者の原武史さんは、互いの昭和天皇論出版(2008年)を機に親交を深めた。皇室や宗教への関心を共有し、山梨県の旧上九一色村も一緒に訪れた。

 「福田さんの根底にあったのは人間への飽くなき興味だと思うが、風景や空間への感受性も豊かで文芸評論や学問の枠を超えた書き手だった」

 1989年刊行の「奇妙な廃墟(はいきょ)」で、第2次大戦期にナチスドイツに協力したフランスの文学者たち(コラボラトゥール文学)を論じ、文芸評論家の江藤淳に見いだされた。「遥(はる)かなる日本ルネサンス」で近代の終わりを説き、「日本」再興を風景論に託した「日本の家郷」とともに文壇・論壇で名をあげた。

 「単純な右や左ではない。何者なのか?」。評論家の宮崎哲弥さんは「新世代の小林秀雄、福田恆存の登場を思わせた」と当時の印象を語る。

 反近代の保守・右翼を自認し、学問でなく批評に軸足を置いた。「グロテスクな日本語」では日仏の歴史認識や酒の飲み方を自在に評し、「作家の値うち」では現代日本の小説に点数をつけて見せた。

 02年に「週刊SPA!」で始まった評論家の坪内祐三さんとの連載対談「暴論・これでいいのだ!」でも知られた。構成担当の石丸元章さんは「教養人の風格を見せながら世俗への関心も高く、学ぶことばかり。自分よりわずか5歳年長でも自然と福田先生と呼ぶように」。銀座の老舗から下町の中華まで「ハードな飲食とともに両先生が互いのスタイルをぶつけ合った」。

 近年は体調を崩し、出版文化は下り坂で「放蕩(ほうとう)」は困難に。宮崎さんは「同世代で唯一、批評の大家たりうる存在だった」と惜しむ。20年に世を去った坪内さんと再会しているだろうか。(大内悟史)

 

 

(歴史のダイヤグラム)坪内祐三と福田和也 原武史

202531 330分 朝日新聞

2024年9月に死去した福田和也さん=2004年

 2020(令和2)年1月28日の東京は、朝から冷たい雨が降っていた。

 福田和也は、上野の東京国立博物館で硯(すずり)箱を見てから上野公園を突っ切り、上野広小路の松坂屋に隣接する映画館で「男はつらいよ お帰り寅さん」を見た。そしてなじみの居酒屋のカウンターで飲んでいたとき、背後に気配を感じて振り向いた。

 坪内祐三が立っていた。

 当時、坪内は61歳。福田は59歳。坪内は早稲田の、福田は慶応の大学院で文学を研究し、ともに評論や随筆で名を成した。たとえ書くものが違っても、根本のところで響き合うものがあった。

 坪内は蕎麦(そば)焼酎をすすり、カキフライにタルタルソースをつけて食べた。福田は高知の酒造メーカー、酔鯨(すいげい)酒造の升酒を飲み干した。二人は02(平成14)年から16年間、ある週刊誌で「文壇アウトローズの世相放談 これでいいのだ!」と題する対談を続けてきた。その思い出話にしばし花が咲いた。

 ふと坪内が「これから渋谷に行かないか」と言った。三軒茶屋に住む坪内は、渋谷の街を知り尽くしていた。

 時間はもう夜の9時を回っていた。二人は上野広小路駅から東京メトロ銀座線の渋谷ゆきの電車に乗った。車内は割合空いていて、並んで座ることができた。

 上野広小路から渋谷までは26分前後かかる。この間ずっと、坪内は福田にボブ・ディランの話をし続けた。口調はしだいに熱くなり、結論に達したところで渋谷に着いた。だがその駅は福田の記憶を裏切っていた。降車専用と乗車専用に分かれていたホームは一つに統合され、この年の3月末に閉業する東急百貨店東横店の3階にあったホームに入るよりも手前で電車が停(と)まったからだ。

 坪内は迷うことなく駅を抜け出し、雨の渋谷を歩いてゆく。玉川通り沿いのコンビニに入り、福田がコーヒーのお代わりをもらいに行った隙に坪内は消えていた。

 以上の記述は、福田が「レクイエム」と題して書いた文章に依拠している。坪内は1月13日に亡くなっていたから、もちろん事実ではない。しかしまるで生きているかのごとくありありと友人の面影をよみがえらせる福田の筆力に胸を打たれる。

 私は坪内とも福田とも付き合いがあった。立ち食い蕎麦や天皇をめぐって対談もしたし、勤めていた大学の公開セミナーにも来てもらった。

 福田は最後に「誰でも自分を待っている今日という日を受け入れなくちゃならないんだ」と坪内に言わせている。この言葉を自ら実践するかのように、福田もまた昨年の9月20日に帰らぬ人となった。こんどは私が彼らに出会う番だろうか。(政治学者)

 

 

 

東洋経済 Online

【追悼】「生粋の無頼派」福田和也は何者だったか「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」になり…

高澤 秀次 : 文芸評論家

2024/09/25 15:05

2024920日に急逝した福田和也氏とは何者だったのか? 文芸評論家の高澤秀次氏による追悼文です(福田氏写真:提供元 共同)

華々しくも、太く短い人生だった

福田和也が、63歳の若さで逝った。

年を取りにくく、しかも容赦なく老いとの戦いを強いられるのが現代人の宿命だ。それは近代日本にとって未曾有の、戦争のない約80年という歳月の報いなのかもしれない。

彼は才能溢れる文学者として、この宿命を自らの業(ごう)として孤独に引き受け、誰に追い抜かれることもなく、迅速に彼岸まで駈け抜けていった。

8歳年下の福田に、死の跫音(あしおと)が近づいていることを、私はかなり以前から察知していた。この間、激やせ廃人説から、復活待望論まで、様々な風評も耳に入ってきていた。

これはいけないと思ったのは3年前、『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)の書評(『週刊読書人』)を担当した時だった。

その本の帯文の最後に、「われ痛む 故にわれ在り」という不吉な一行があり、それが「あとがき」さえ書けなくなった彼の、ラスト・メッセージかと疑ったからである。

3巻の予告のあった同コレクションは結局、この一冊が出たきりで続刊は途絶えている。

思えば華々しくも、太く短い人生だった。

 

最初に出会ったのは、新宿の文壇バー「風花」で、彼は『日本の家郷』(新潮社)で三島由紀夫賞を受賞した直後だった。

挨拶は交わしたが未読だったので、早速一読して感服したことを店主の滝澤紀久子さんに伝えると、向こうから「会いたい」という伝言があって付き合いが始まった。

この本は全168ページと小ぶりながら、古典論から現代小説、果ては批評の原理にまで及ぶ本格派に相応しい一冊で、私は柄谷行人以来の大物の出現を疑わなかった。

ただそれ以前に、福田は『奇妙な廃墟』(国書刊行会)という恐るべき処女作を世に問うている。ナチズムにコミットした、フランスのコラボトゥール(対独協力作家)についての研究書である。

「文壇の寵児」「保守論壇の若きエース」に急成長

彼はこの本を方々に送り、首尾よく柄谷行人や江藤淳の眼に止まった。後に彼は、「ちくま学芸文庫」版の「あとがき」でこう述べている。

「本書は、私の最初の文芸評論である、と同時に最後の研究論文でもある」と。そして、「アカデミズムのキャリアを執筆の途中で断念というより放棄してしまった」ことも、書き添えている。

さらに自らの退路を断つかのように、22歳から29歳までの7年間を、本書の執筆のために院生として、また家業を手伝いながら費やしたと記してもいる。

その後の福田和也は、知られるように瞬く間に文壇の寵児にして、保守論壇の若きエースに急成長する。

江藤淳の引きで慶應義塾大学に赴任したのは、アカデミズムでのキャリアではなく、あくまで評論家としての実績を踏まえてのことだ。

何年か先、私も福田に呼ばれてSFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)で、「現代思想」の講座を非常勤講師として担当することになった

 

個人的に、最も親しく顔を合わせていたのは、中沢新一の招聘に失敗して東京大学教授を辞任した西部邁が、1994年に創刊した雑誌『発言者』(その後継誌が『表現者』)の編集委員にともに加わっていた時期である。

しかし彼は、忙しすぎて一向に身を入れて原稿を書こうとせず、その手抜きぶりを諫めつつ、私は彼の悪びれぬプロ意識に感じ入った。

私たちはその頃、西部邁に引き連れられ、修善寺の温泉宿や台湾旅行まで一緒にした。

しかし蜜月は、そう長くは続かなかった。

物議を醸した『作家の値うち』

私より先に福田と西部邁の関係が怪しくなった。

事の起こりは、2000年に彼が出した『作家の値うち』(飛鳥新社)という本で、ここで生き馬の目を抜く勢いの福田は、ロバート・パーカーのワインの評価法をヒントに、日本の純文学、エンターテインメントの現代作家を50人ずつ選び、その代表作を100点満点で採点したのだ。

私は密かに、無知な読者を前に、正札を付けた文学作品を売りつけるあざとさに眼を背けただけであった。

しかし西部邁は黙っておられず、その暴挙を陰に陽に批判し始めた。

元の鞘に収まったかに見えたその時に持ち上がった企画が、『文學界』誌上での『論語』をめぐる両者の連続対談である。

詳しい経緯は失念したが、ここでまた一悶着あって、二人は訣別、そのまま単行本化も沙汰止みになった。木村岳雄監修による『論語清談』(草思社)が漸く日の目を見たのは、西部死後の一昨年、2022年のことである

個人的に、最も親しく顔を合わせていたのは、中沢新一の招聘に失敗して東京大学教授を辞任した西部邁が、1994年に創刊した雑誌『発言者』(その後継誌が『表現者』)の編集委員にともに加わっていた時期である。

しかし彼は、忙しすぎて一向に身を入れて原稿を書こうとせず、その手抜きぶりを諫めつつ、私は彼の悪びれぬプロ意識に感じ入った。

私たちはその頃、西部邁に引き連れられ、修善寺の温泉宿や台湾旅行まで一緒にした。

しかし蜜月は、そう長くは続かなかった。

物議を醸した『作家の値うち』

私より先に福田と西部邁の関係が怪しくなった。

事の起こりは、2000年に彼が出した『作家の値うち』(飛鳥新社)という本で、ここで生き馬の目を抜く勢いの福田は、ロバート・パーカーのワインの評価法をヒントに、日本の純文学、エンターテインメントの現代作家を50人ずつ選び、その代表作を100点満点で採点したのだ。

私は密かに、無知な読者を前に、正札を付けた文学作品を売りつけるあざとさに眼を背けただけであった。

しかし西部邁は黙っておられず、その暴挙を陰に陽に批判し始めた。

元の鞘に収まったかに見えたその時に持ち上がった企画が、『文學界』誌上での『論語』をめぐる両者の連続対談である。

詳しい経緯は失念したが、ここでまた一悶着あって、二人は訣別、そのまま単行本化も沙汰止みになった。木村岳雄監修による『論語清談』(草思社)が漸く日の目を見たのは、西部死後の一昨年、2022年のことである

 

私のほうはといえば、これまた他愛ない理由で西部邁と訣別することになった。その経緯は、『評伝 西部邁』(毎日新聞出版)に書いたのでここでは触れない。

文壇、論壇からの福田和也の事実上の退場が、それから何年先のことだったかは、いまや朧気である。

少なくとも私は、疎遠になったとはいえ彼の『昭和天皇』(全7部、文藝春秋)を、一読者として遠望はしていた。

体調を崩した後の彼は、私の仕事など見向きもしなかっただろう。互いの著書の交換も、賀状のやり取りも途絶えて久しい。

実に生真面目で真摯な「無頼派」だった

訃報に接し、俄に甦ってきた若き日の福田の言説に、例えば次のようなものがある。

ピエール・ユージェーヌ・ドリュ・ラ・ロシェルは、生涯を通じて放蕩者だった。かれは第一次世界大戦の兵役とドイツ占領時代の「NRF」誌編集長をのぞいて一度も生業につかず、その一生を、女性のベッドを渡り歩きあるいは女性を自分のベッドに誘うことで過ごした。
(『奇妙な廃墟』第4章より)


 私はドイツの降伏を前に自殺したこの作家を、ルイ・マル監督の映画『鬼火』の原作者(邦訳は『ゆらめく炎』)として知っていた。

ちなみにこの章のサブタイトルは、「放蕩としてのファシズム」である。私は福田の「放蕩」の軌跡を、具体的に何も知らないが、彼が実に生真面目で真摯な「無頼派」であったことは知っている。

無頼といっても、もはや、太宰や安吾の時代のそれを、私たちは再演すべくもない。

だが無頼の真意が、いたずらに高踏的な知性への反逆に根ざしているとするなら、福田和也こそは、西欧的な「文明の思考」の向こうを張る、「野生の思考」(レヴィ=ストロース)にたけた生粋の「無頼派」であったことを、私はつゆ疑わない。

 

一足先に61歳で逝った、福田の『en-taxi』誌の同人仲間・坪内祐三は、その意味で時代錯誤的に旧態依然たる酔っ払いであった。彼が生き急いだのか、死に急いだのか、私にはわからない。

だがそれにしても、かくも年をとりにくい時代に、老いと戦わねばならないということは、何と矛盾に満ちて辛いことか。

45歳で命を絶った三島由紀夫(来年、生誕100年になる!)も、46歳で癌に斃れた中上健次も、どこかで早すぎた老いに追い抜かれた感を拭えない。

晩年の谷崎潤一郎について、今こそ話してみたかった

では、谷崎潤一郎はどうだったか。

一見、老いを巧みに引き受け、演じたかに見える晩年の谷崎は、福田の眼にどう映っていただろうか。今そのことを彼と話してみたい気がする。

私の答えはこうだ。谷崎はただ彼の中の一人の少年を、無傷なまま「変態老人」に変態(メタモルフォーゼ)させただけではないかと。

確かにこの離れ業によって、谷崎は日本近代文学に特有の病、「思春期の狂人」(中村光夫『谷崎潤一郎論』)という罠を、例外的に免れたかもしれない。

ただそれでは、真に老いとの戦いに勝利したことにはならないのだ。

むしろ、勝利なき戦いに向けて言葉を再組織することこそ、老いへの真っ当な構えではないのか。

 

福田の旧宅の近くで飲んでいたその昔、酔いに紛れて不意に彼を呼び出すと、バンドをやっていたことのある彼は、福田パンク和也みたいないでたちで現れ、私は「このパンク右翼が」とからかったのを覚えている。30代半ばの彼は、十分に若かった。

もちろんそれ以前に私は、右翼席にVIP待遇で座らせられた彼のことを、他人事ながらハラハラしながら見守っていたのだった。

パンクな無頼派でもあった彼は、カラオケで小林旭の『ダイナマイトが百五十屯』を下手くそに歌い、「風花」では川村湊(文芸評論家)を殴り倒し、四谷三丁目の文壇バー「英」では、飾ってあった山口瞳の色紙を引きずり降ろして出入り禁止になった。

師・江藤淳を語る言葉から浮かび上がるものは?

もっとも、師・江藤淳を語る彼の言葉からは、そうした自己偽装の跡は探り出せず、もっと「切実な何か」がそこから浮かび上がってくる。

江藤氏における「成熟」について、例えば私は「大人」といった事を語りたい訳ではない。江藤氏は、その文業の始めから「大人」であった。氏が二十代の始めに著した『夏目漱石』には、既に今日の古希還暦の年配にも見当たらないような「大人」の相貌が見て取れる。確かにその「大人」さは不思議なものだ。いかにしてこの青年は、このような視線と声音を身につけているのだろう。
(「江藤淳氏の「成熟」」、『福田和也コレクション1』より)


 
彼はあるいはここで、江藤淳に託して果たせなかった自身の「夢」を語っていたのかもしれない。

なぜなら江藤淳の「大人」が、4歳で母を亡くし、60代半ばで、先立たれた妻を追うように自死した彼の痛々しい「夢」であったことを、福田和也が知らなかったはずはないからである。

つまり彼はここで、小林秀雄いらいの批評という名のフィクション=「夢」に危機的に接近していたと言えよう。もとよりそれは、死を引き寄せる「夢」以外ではなかったのだ。

福田よ、煙となり雲になって消えた福田和也よ、72の年男になった私はいま、文学的な野垂れ死にを覚悟して、昔読んだ本を読み直し、一冊ずつ捨てているところだ。

次の一冊は、お前さんの『甘美な人生』にしてやろうか。

だがそれにしても、この夏はどこまでも惨く、堪えたな。

じゃあ、次はお墓で会おう、あばよ。

 

 

高澤 秀次(たかざわ しゅうじ)Shuji Takazawa

文芸評論家

1952年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒、評論家。民俗、芸能史から文学、思想史まで幅広いジャンルに意欲的に取り組み、特に作家や思想家の評伝を書かせては鋭い切れ味を発揮する

 

 

Wikipedia

福田 和也(ふくだ かずや、1960昭和35年)109 - 2024920)は、日本文芸評論家慶應義塾大学名誉教授。株式会社BSフジ番組審議会委員を務めた。

経歴

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東京都北区田端出身。高校生の時に神奈川県葉山町へ転居した[1] お茶の水女子大学附属小学校お茶の水女子大学附属中学校慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学文学部文学科仏文学専攻で古屋健三に師事し[2] 、フランス文学研究の主流への激しい反発から「誰もテーマに選ぼうとしなかった」ファシズム作家を研究対象とし、第二次世界大戦期にナチス・ドイツへ積極的に協力(コラボラシオン)したフランスの文学者(コラボラトゥール作家)を研究テーマに選択する。
初出版は198912月に『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』で、国書刊行会の編集者・佐々木秀一に要請され執筆した。著述は難航し、大学院在学中の19834月から19853月まで2年、大学を出て家業の福田麺機製作所を手伝いながら3年、執筆に専念して2年、と計7年間を費やした。本作で江藤淳に見出される。

1990年代

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1990年、当時の編集長白川浩司の強いサポートにより月刊『諸君!』に「遥かなる日本ルネサンス」を連載開始、多大な反響を起こし論壇に登場した。近代日本の文芸評論を軸に文筆活動を開始した。『新潮19914月号に「虚妄としての日本モダニズムの地平と虚無の批評原理」を発表。19935月、『日本の家郷』(新潮社、19932月)で第6三島由紀夫賞を受賞。なお同時受賞は車谷長吉『鹽壺の匙』(新潮社、199210月)だった。1996年、『甘美な人生』(新潮社、19955月)で第24平林たい子文学賞評論部門を受賞する。なお小説部門の受賞は村上龍『村上龍映画小説集』(講談社、19956月)だった。19979月の第29回から新潮新人賞の選考委員を務める。199912月から、新たに創設された角川春樹小説賞の選考委員を務めるも200012月の第2回選考で辞任する。

2000年代

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20005月の第13回選考から三島由紀夫賞の選考委員を務める。20027月から週刊誌『SPA!』で坪内祐三と連載対談を開始する。200211月、『地ひらく』で第11山本七平賞を受賞する。2006年、『悪女の美食術』(講談社、20064月)で第22講談社エッセイ賞を受賞する。野崎歓『赤ちゃん教育』(青土社、20057月)が同時受賞。以降『文藝春秋』『正論』『週刊新潮』『週刊文春』『産経新聞』『週刊現代』『新潮45』などで執筆している。ラジオニッポン放送の様々な番組にコメンテーターとして出演し、 テレビはBSフジの『メッセージ.jp』の聞き手を除いて出演していなかったが、20064月から毎月第三金曜日に「とくダネ!」でレギュラー出演している。19969月から慶應義塾大学環境情報学部勤務となったが、学会活動はしていないと公言し、江藤淳の奨めでかつては比較文学会に所属していたが、この時期あたりにはどの学会にも所属していないとされる。慶應で非常勤講師を始めた際に江藤から、批評に専念するのではなかったのかと叱責されたが、その後江藤が慶大助教授の職を斡旋してくれたと語っている[3]。福田ゼミ出身者には、一青窈佐藤和歌子酒井信大澤信亮鈴木涼美などがいる。2001年の秋学期には慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスでの福田和也研究会に菊地成孔[4]を招いた。

2003年に柳美里坪内祐三リリー・フランキーと共同編集で文芸誌『en-taxi』を創刊し、のちに柳が抜ける。坪内とは『SPA!』で、対談を長年続け深い関係だった。『en-taxi』ではしばしば立川談志へのインタビューを行っており、落語への造詣も深い。立川談春の文才を見抜き『en-taxi』誌上で『談春のセイシュン』(のちに単行本『赤めだか』、講談社エッセイ賞受賞)の連載もスタートさせた[5]20075月、第20回選考で三島由紀夫賞選考委員を辞任した。

2010年代

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20109月、第9回選考から新潮ドキュメント賞の選考委員を務める。2011年、妻を置いて恋人とアパートに家出する[6]。なお、福田と親しくしていた西部邁(評論家)は「色欲、暴食など色々と「人間関係の安定化」にとって有害との理由で禁じられて然るべきプロペンシティ(性向)が人間にはある」[7]と述べている。20168月、第15回選考で新潮ドキュメント賞選考委員を辞する。20169月、新潮新人賞選考委員も辞任する。20184月、長年『SPA!』に連載した坪内祐三との対談が最終回となる。2022年、慶大教授を定年前に退職、名誉教授となる。なお2010年代後半から大病を患っており、本格的な著述活動を控えていた。

2024920日午後947分、急性呼吸不全のため千葉県浦安市の病院で死去。63歳没[8]

保守論客として

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デビュー後しばらくは「ファシストパンク右翼」を自称し、『日本クーデター計画』を出版するなど世の良識を逆撫でする発言を繰り返した。ファシズムの思想史的意義を強調する一方で「失敗したファシズムが丁度良い」[9] などとも発言する。

左翼思想の変種とも揶揄されるポストモダニズムを、マルティン・ハイデガーを介してファシズムに繋げたが、一時期「友人」を名乗っていた「護憲派」の大塚英志からは「実は左翼」などと評された。

2000年に出版した『作家の値うち』で、純文学大衆文学の現役作家を五十人ずつ、全百人の主要作品を百点満点で採点し、多くの有名作家作品を「読んでいると恥ずかしい」レベルなどと評し、浅田彰安原顕からは厳しく批判された。師匠の江藤が評価しなかった古井由吉村上春樹を評価し、江藤が絶賛した中上健次の『千年の愉楽』を「インチキポルノ」と評するなど[10]、江藤とは文学の評価にかなりのズレがある。柳美里『ゴールドラッシュ』、島田雅彦「無限カノン三部作」を厳しく批評し、二人の反撥を招いたが、対談で手打ちをしている。

家族

妻圭子は2人目の妻で元出版関係者。最初の妻は慶應大文学部の同級生で2人の子

学歴

1967 田端さくら幼稚園卒園

1973 お茶の水女子大学附属小学校卒業

1976 お茶の水女子大学附属中学校卒業

1979 慶應義塾高等学校卒業

1983 慶應義塾大学文学部文学科仏文学専攻卒業

1985 同大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了

職歴等

1985年から91 - 父(福田雅太郎)の会社・株式会社福田麺機製作所社員。営業を担当

慶應義塾大学非常勤講師

東洋女子短期大学非常勤講師

1996 - 慶應義塾大学環境情報学部助教授

2003 - 慶應義塾大学環境情報学部教授

2022 - 退職、慶應義塾大学名誉教授

受賞歴

1993年、『日本の家郷』で第6三島由紀夫賞

1996年、『甘美な人生』で第24平林たい子文学賞

2002年、『地ひらく――石原莞爾と昭和の夢』で第11山本七平賞

2006年、『悪女の美食術』で第22講談社エッセイ賞

 

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