登山大名 諸田玲子 2025.3.31.
2025.3.31. 登山大名
著者 諸田玲子 1954静岡市生まれ。小説家。父は詩人の諸田政一。上智大学文学部英文科卒業。フリーアナウンサー、化粧品会社勤務を経て、テレビドラマのノベライズや翻訳を手がけた後、作家活動に入る。1996年に『眩惑』で小説家デビュー。『其の一日』(03)で第24回吉川英治文学新人賞。『奸婦にあらず』(07)で第26回新田次郎文学賞受賞。『四十八人目の忠臣』(12)で第1回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)受賞。『今ひとたびの、和泉式部』(18)で第10回親鸞賞受賞
発行日 2024.2.1.~2025.3.31.
発行所 日本経済新聞の朝刊連載小説
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「登山大名」は、諸田玲子による日本経済新聞の朝刊連載小説です。主人公は岡藩3代藩主の中川久清で、「入山」と号して大船山に登山しました。
【あらすじ】
主人公の中川久清は、大船山に人馬鞍に乗って登山し、自身の墓を大船山に築かせるほど山を愛しました。
佐代を偲んで駕籠にゆられ、らんを、亡父を、新九郎や夏姫をおもい、母万姫の秘密をおもって街道を進みました。
生母安威の方と実父豊臣秀頼へのおもいも新たにしました。
新小説連載、諸田玲子「登山大名」2月1日から
2024年1月23日 2:00
主人公は江戸時代初期に豊後国(現在の大分県)岡藩の第3代藩主を務めた中川久清です。くじゅう連山の大船山(たいせんざん)にたびたび登り、「入山公」と呼ばれました。幕府への反骨を胸に、大胆な藩政改革に取り組んだ地方大名の知られざる生涯に迫ります。
諸田氏は1954年静岡県生まれ。会社勤務などを経て96年作家デビュー、2003年「其の一日」で吉川英治文学新人賞。05年5月〜06年7月に本紙夕刊で連載した「奸婦(かんぷ)にあらず」で新田次郎文学賞を受けました。繊細な観察眼で描く骨太な歴史小説で知られます。
挿絵は人物や風景を浮世絵を思わせる美的な画風で表現する安里英晴氏が担当します。題字は諸田雪嶺氏です。
作者の言葉
豊後国岡藩三代、入山公(にゅうざんこう)こと中川久清をご存じですか。くじゅう連山の大船山の山腹に自らの(大名の墓では日本一高所にある)墓を建立、人を馬に見立てた人鞍(ひとくら)に背負われ登山をしたと伝わっています。
久清はなぜ大船山に登ったのでしょう。登山が好きだったからでは、むろん、ありません。
1600年代の半ば、徳川家光の時代。島原の乱の後、岡藩の領内には切支丹が多数、潜伏していました。大坂の冬と夏の陣のあいだに生まれた久清は、生母の出自も定かでなく、くっきりした二重瞼の目に高い鼻という風貌が異彩を放つ殿さまでもありました。
久清は3000丁もの鉄砲を隠匿していたと幕府から咎められた際、水戸光圀に助けられています。鎌倉の大船の近くに早世した娘のため東渓院を建立しました。謎めいたこの殿さまは、一方で、時の権力者、老中酒井忠清の従兄でもあります。幼馴染であり、庇護者であり、時に味方、時に敵となりつつ、二人は絆を深めてゆきます。
江戸から遠く離れた豊後の地で、幕府に逆らってまで久清が成そうとしたこと――それがなにかを本小説で解き明かしてゆきたいと思います。公儀隠密との死闘、岡城や岡城下の秘密、胸をふるわせる恋……皆さまにもはらはらどきどきしながら謎を追いかけていただければと願っています。
連載小説をさらに楽しむ
「登山大名」副読本
2024年3月25日 16:03
(2025年3月1日 2:00更新)
諸田玲子氏による小説「登山大名」(画・安里英晴氏)が日本経済新聞で連載中です。主人公は江戸時代初期に豊後国(現在の大分県)岡藩の三代目藩主を務めた中川久清。くじゅう連山の大船山(たいせんざん)に度々登ったことから「入山公」と呼ばれます。幕府への反骨心を胸に知略を尽くして大胆な藩政改革に取り組んだ地方大名の知られざる生涯に迫ります。公儀隠密との死闘や胸震わせる恋など、物語をより深く楽しむためのあらすじや人物関係図などを紹介します。
あらすじ
時は江戸幕府四代将軍・家綱の治世下。岡藩三代藩主・中川久清は、狩りの山中で二重まぶたの美しい娘と老人を見かける。正体不明の曲者(くせもの)に襲われた娘を久清は助けるが、戦いで足をくじいた上、娘たちは姿をけしてしまう。久清は狐(きつね)の肝を使った秘薬の調合とともに、自分に似た日本人離れした容貌を持つ娘の行方を探すよう家老に命じる。
しかし、領内には「若い娘の生き肝を殿様が求めている」との誤ったうわさが広がり、大騒ぎとなってしまう。露見すれば幕府のとがめを受けるのは間違いなく、久清は従弟(いとこ)で幕府老中の酒井忠清らに書状を送り、難を逃れる。さらに探していた娘の名が「らん」と判明する。
時を遡って、慶長二十年(1615年)。久清は京都・伏見で誕生した。幼名は津久丸。彫りの深い顔に高い鼻、大きな瞳を持つ津久丸は、父・久盛の正室で二代将軍秀忠の従妹(いとこ)である万姫が生母ではないと気づいていた。ある日、医師の池田伊豆一雲(いちうん)から、生母は安威(あい)の方という侍女だったと聞き出す。寛永五年(1628年)、岡藩へ初の御国入りをした津久丸は跡継ぎとして認められ、生母が生きていることを知る。そして、一雲の娘の佐代と離れがたい仲となっていた。
時は戻り、らんに逢うため大船山に登った久清は切支丹の一行に出逢う。幕府の手先らしき侍による迫害から逃れてきた彼らを久清は助け、らんの祖父「やのじい」から岡藩が切支丹の避難場所となっていることを明かされる。さらに、切支丹を束ねるパードレであるやのじいの前で、らんと久清は結婚の誓いを結ぶ。
若き日。14歳からの3年を岡藩で過ごした久清は父と江戸へ戻り、酒井忠清に加え、岡山藩主の池田光政とも盟友になり、幕府老中の松平伊豆守信綱が中川家に目を光らせていることを知る。一方、江戸に伴った佐代との恋は燃え上がり、佐代は男児を出産。しかし、佐代の父、一雲は中川家を探る公儀隠密に捕らえられ、死罪となる。
生母も自害し、佐代母子とも離別させられた久清は島原の乱の鎮圧に駆り出される。三代将軍の家光が崩御し、四代家綱の将軍宣下への準備が進むなか、由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱が発覚。公儀は諸藩への警戒を強め、心労の絶えなかった父・久盛が逝去。久清は三代藩主に就く。一方、岡城で暮らすらんは子を身ごもり、家老の藤兵衛は久清にらんを江戸に伴うよう助言する。
藤兵衛はかつての島原の乱で、久清の母、万姫(光顕院)の嘆願で岡藩が切支丹をひそかに救出していたと打ち明ける。光顕院がマニラに追放となった高山右近の孫をかくまい、島原の乱に参戦したところを救出した経緯を聞き出した久清は、それに感服。妊娠したらんを光顕院に託すと、光顕院は水戸光圀の力を借りて、らんを鎌倉の尼寺へ預けることに成功する。
らんは女児を出産するが、岡藩では切支丹の領民が摘発され、長崎の役人によって27人が処刑される事態に。怒った久清は幕府に対する敵対心から、陽明学者の熊沢蕃山(ばんざん)を迎え大船山に戦砦(いくさとりで)を構える準備に乗り出すが、中川家を目の敵にする知恵伊豆は病で息を引き取る。
久清の母、光顕院は岡藩の切支丹をかくまう寺を伊豆に建立することを提案。らんはその計画に喜ぶが、らんが産んだ初の男児は亡くなってしまい、その悲しみのせいか、怪しげな言動を見せるようになる。久清は江戸の外れにある屋敷にらんを移すが、切支丹をかくまっているとの噂が流れ、公儀の追及が迫る。久清は五人組の伝熊を護衛に、らんを鎌倉へ逃がそうとするが、追手に生け捕りにされそうになり、伝熊の手でらんは生涯を閉じる。
らんを追っていた牢人たちの目的は、らんの祖父でパードレである八兵衛を捕らえて公儀に訴え、岡藩を窮地に陥れることだった。大船山の砦で牢人たちを迎え撃った久清は、敵方に忍び込んでいた宇目の活躍もあって勝利を収め、砦を取り壊すよう命じる。そして思いがけないことに、若き日に別れた恋人の佐代の行方が明らかとなる。
実は佐代は尼となり、らんの出産を介添えしていた。さらに佐代が産んだ久清の息子も無事育ち、僧となっていたことが判明。父であることを打ち明けないままではあったが、久清は息子と対面を果たして安堵する。そして、自身の出生にまつわる思わぬ秘密を旧臣の一人から打ち明けられて……。
主な登場人物
中川久清
「入山公」とも呼ばれる岡藩中興の祖。幕府に恭順の意を示しつつ、大量の鉄砲製造や狩りにみせかけた軍事演習を行うなど軍備増強をひそかに進める。
らん
山中で曲者に襲われたところを久清が助けたが、姿を消したため、行方を捜すよう命じた娘。透き通った肌に筋の通った鼻、褐色の髪を持つ謎の美女。
久盛
久清の父。岡藩二代藩主。正室の万姫との間に娘・仙姫を持つ。切支丹取り締まりなど幕府の動きに神経をとがらせ、強い国づくりを久清に託す。
酒井忠清
徳川家康の異父弟・松平定勝の孫。四代将軍・家綱の下で老中、大老を務め権勢を振るった。屋敷が江戸城大手門の下馬札前にあったことから「下馬将軍」と呼ばれた。
万姫
久清の父・久盛の正室。二代将軍秀忠の従妹で松平定勝の娘。側室の安威の方が生んだ久清を「我が子」として認め、久盛を支えるよう促す。
古田藤兵衛
久清の幼少期からそばに仕える臣下。最も頼りとしている家老。
戸伏蔵人
家老の一人で久清の手足となる直属の家臣・五人組を選んだ。
大筒内蔵助
毛利家の元牢人で岡藩に招かれた火術の達人。五人組の束ね役。
剣豪伝熊
剣術家で医術の心得もある五人組の一人。細面で痩せ型の武士。
鉄砲虎
通称は虎之助。五人組のなかでも久清の一番のお気に入り。
矢坊主孫左
五人組の一人で僧侶から還俗した弓矢の名手。陽気な性格。
大力宇目
四十人力の力持ちともされる護衛役。五人組のなかでも大男。
中川久清 ゆかりの場所
岡城
牛が伏せたような外観から「臥牛城」の異名を持つ。北に稲葉川、南に大野川(白滝川)が流れる険しい台地に築かれた、城下町を眼下にする堅牢な造り。十四世紀に志賀氏が築城したとされ、その後も大友氏が支配していた。文禄三年(1594年)に中川氏が播州三木から国替えで入城して普請を加えていったが、明治維新後に取り壊された。岡城跡のある竹田に住んだ経験を持つ滝廉太郎作曲の「荒城の月」のメロディーに影響を与えたとされる。国の指定史跡。
大船山
くじゅう連山の「東の雄」とされ、標高は1786㍍。山頂は岡藩領内では最高地点となる。久清が人鞍(ひとくら)と呼ばれる道具を使い、屈強な男に背負われて度々登ったとされる。ミヤマキリシマの群生地があり、国の天然記念物に指定されている。
中川久清墓所(入山公廟)
大船山の山腹の標高約1400㍍に位置する。久清自身が天和元年(1681年)に亡くなる前年に墓所として定めた。大名の墓で日本一高い場所にあり、「岡藩主中川家墓所」として国史跡の指定を受けている。
碧雲寺
岡藩二代藩主・久盛が、父で初代藩主である秀成(ひでしげ)の菩提を弔うため建立した。寺号は秀成が朝鮮出兵中に打ち壊した寺から持ち帰った扁額(へんがく)から付けられた。扁額は庫裡の正面に掲げられている。
鳥屋山(とやさん)
久清が謎の美女らんを曲者から救った山。現在の豊後大野市朝地町に位置し、かつては鳥屋城が築かれていた。
構成
木原まゆみ
グラフィックス
茂木麻美
中川 久清(なかがわ ひさきよ)は、江戸時代前期の大名。豊後国岡藩の第3代藩主。官位は従五位下・山城守。日本人離れした顔が描かれた肖像画が残されている[1]。
略歴
第2代藩主・中川久盛の長男として京都伏見にて誕生した。母は久松松平定勝の娘となっているが、実際は安威忠右衛門の女[2]。幼名は津久丸。その後、伏見で村井(上笠)五兵衛、吉田四郎左衛門を養育係として育てられる[2]。
承応2年(1653年)、父の死去により跡を継いだ。藩政を確立するため、家老制度や奉行制度を制定し、さらに検地やキリシタン摘発を目指しての絵踏みを行なった。また、岡山藩から熊沢蕃山を招聘して植林政策や郷村制度の強化を行なった。このようにして藩政を確立すると、寛文6年(1666年)5月29日に老齢を理由に長男久恒に家督を譲って隠居した。しかし隠居してもなお、実権を掌握し続けたと言われている。
久住連山の一つ大船山を愛し、足が不自由だったため「人馬鞍」と呼ばれる鞍を屈強の男性に担がせて何度も登山した。
天和元年(1681年)11月初旬、江戸から帰国途中に発病し、11月20日に岡にて死去した。享年67。法号は宝厳院。墓所は、自身が愛した大船山中腹1,300メートルを超える台地上にあり、入山公墓と呼ばれる。
藩政の確立と教育の普及に努めた名君であり、岡藩中興の英主と言われている。
系譜
父:中川久盛(1594年 - 1653年)
母:安威忠右衛門の娘
正室:石川忠総の娘
長男:中川久恒(1641年 - 1695年)
生母不明の子女
次男:中川久豊
三男:中川清正
四男:中川久和
五男:中川久旨
六男:中川久矩
七男:中川久周
女子:田辺某室
Wikipedia
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