定説の検証 「江戸無血開城」の真実  2021.7.9.

 

2021.7.9. 定説の検証 「江戸無血開城」の真実

          西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟

 

著者 水野靖夫 1943年東京生まれ。66年東大経卒、三和銀行入行。ニューヨーク、ブエノスアイレス駐在を含め国際部門に勤務。03年退社後は漢字・歴史の研究・執筆・講演活動に従事。著書に、『広辞苑の罠』『(Q&A)近現代史の必須知識』『「漢字の力」の鍛えかた』

 

発行日           2021.6.30. 初版第1刷発行

発行所           ブイツーソリューション

 

 

18-07 勝海舟の罠 氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』参照

 

 

はじめに

江戸無血開城は、西郷と勝の江戸での会談で実現したというのが「定説」だが、否定する史料の多さに対して、肯定を証明する史料は存在せず、勝の自慢話が流布して定着したもの

本書の目的は、史料に基づかない「定説」を究明することで、歴史感を論じるものではない

 

序章 江戸無血開城の流れ

慶応41月、新政府は慶喜追討令を発し、慶喜は寛永寺に蟄居したが、新政府軍は追討に向け進軍。この追討軍の攻撃を阻止し、城を明け渡すまでの一連の経過、則ち「駿府談判」「江戸嘆願」「京都朝議」の3会談からが城明け渡しまでが江戸無血開城

「駿府談判」は、進軍途上の駿府に慶喜の命令を受けた鉄舟が来て西郷と談判し、江戸城明け渡しと引き換えに、慶喜追討の撤回と徳川の家名存続に合意したもので、江戸攻撃は回避され、江戸無血開城が実質的に決定。鉄舟の肩書は「精鋭隊(慶喜の警護隊)頭」に過ぎなかったため、西郷は徳川方のしかるべき人物に確認を取るべく江戸に向かう

「江戸嘆願」は、降伏条件緩和のために勝と西郷が会談をしたもので、「駿府談判」の事後処理に過ぎない

「京都朝議」は、西郷が降伏条件決定の決裁を仰ぐために京都に戻って対徳川強硬派を説得したもので、江戸無血開城が正式決定となる

検証の段階として、まず「駿府談判」の真実を追求し、次いで勝が徳川のトップであることの真偽を追究、無血開城の根拠として先学によく挙げられる「パークスの圧力」を論究、その後に本論の「江戸嘆願」とそれに関する先学諸説を検証。その後に「江戸嘆願」の結果たる「京都朝議」を究明し、最後に付加的に大奥、江戸焦土作戦に論及

 

1     鉄舟派遣――慶喜が直接命令

慶喜が恭順の意を示し、様々なルートで朝廷に嘆願するが、ことごとく効果がない中、鉄舟だけが駿府に行って参謀・西郷に直接談判、無血開城まで引き出すことに成功

(1)     鉄舟・勝、互いに初対面と主張

鉄舟の駿府派遣は勝の指示というのは誤り。出発直前鉄舟が勝を訪ねたのが2人の初対面

直前勝は万策尽きて陸軍総裁辞任を申し出「軍事取扱」を拝命しており、鉄舟との会談は受け身で、派遣を指示した史料は存在しない

(2)     鉄舟派遣は「慶喜命令」で、鉄舟は「勝の使者」にあらず

使者の候補は、慶喜の警護をしていた義兄の高橋泥舟だが、警護を代わる者がいなかったため、泥舟の推挙により、慶喜の直接指示で駿府に向かう

(3)     益満同行は鉄舟の申し出

益満は、前年薩摩藩邸焼討事件の重罪人で勝が預かっていたが、鉄舟が同伴するという申し出に対し、若年寄に重罪人の解放につき許可を願い出ている

(4)     勝の手紙、鉄舟持参は真偽不明

2人の日記には、勝は西郷宛の手紙を渡したといい、鉄舟は持っていったと言っていない

西郷が読んだという記録もなければ、手紙によって影響を受けたという記録もない

(5)     先学の大勢「勝の使者説」は、根拠がない思い込み

先学の説は、慶喜の直命説と勝の使者説に二分

 

2     駿府談判――「江戸無血開城」はここで決定

(1)     鉄舟の功績は『談判筆記』に明記

東征軍を突破して駿府の大総督府に着き西郷と面談した内容は、『談判筆記』に詳述

鉄舟は、慶喜の恭順が真意であることを確認し、胆略あると聞いていた勝安房に相談に行ったうえで駿府に向かう

両者の会談で降伏条件について折り合うが、西郷も鉄舟も権限がないため、飽くまで実質的な決定に留まる

(2)     鉄舟の功績証明史料

『談判筆記』は、1881年維新の勲功調査の際、鉄舟が勝との手柄争いを嫌って賞勲局に自らの功績を報告しなかったのを知った岩倉具視が後世に伝えて国民の亀鑑に資すべしといって、山岡に事績を書かせたもの

書いた直後に、徳川家16代当主家達が、家名存続は鉄舟のお陰として家宝の名刀「武蔵正宗」を下賜、鉄舟はそれを岩倉に贈呈。岩倉はその経緯を、「駿府談判」の要約と併せ『正宗鍛刀記』に残す。武蔵正宗は元々宮本武蔵所有の刀

勝も日記に慶喜より刀を拝領と記すが、鉄舟も同日慶喜より慶喜が自らの助命と家名存続の「一番鎗」は鉄舟と認めて、水戸出立の前に名刀「来国俊」を下賜と、『一番鎗(やり)断簡』にあり、その他『明治天皇紀』や『岩倉公実記』などからも鉄舟の功績を窺うことができる

さらには、大久保一翁と勝海舟から、奉行職に抜擢され、旗本の頂点である大目付へと4階級特進、版籍奉還では静岡藩知事となった徳川家達の権大参事(No.2)として大久保一翁と共に任命、不平士族の鎮撫にも活躍後、1872年西郷から請われて明治天皇の侍従として10年仕える。徳川・新政府双方からその政治的手腕・人格を見込まれて抜擢され実績を上げる

(3)     『談判筆記』の疑問点・論点は鉄舟の功績とは無関係

『談判筆記』は15年も経ってからの記憶で書いたものであり、種々の齟齬が見られるが、重視する必要なない

(4)     先学の諸説は、「駿府談判」無視、鉄舟は「勝の使者説」

「無血開城・勝説」を唱える先学は、鉄舟や『談判筆記』を無視するか、鉄舟を単なるメッセンジャーあるいは媒介者と見做す

 

3     勝海舟の地位・権限――徳川の総責任者にあらず

(1)     慶応41月の職制改革で老中廃止

大政奉還により一大名になった徳川家では、譜代大名が務めていた老中職がなくなり、旗本による若年寄がトップになり、その下に陸海軍・会計・外国の4総裁が設けられ、勝は陸軍総裁になるが、若年寄は自体。総裁以前は軍艦奉行から海軍奉行並。会計総裁が大久保一翁だったが、その後若年寄に昇格

(2)     慶喜謹慎後の参政(若年寄)に勝は含まれず

慶喜蟄居時点の徳川家は、若年寄の大久保一翁実質取り仕切っていたが、徳川宗家の当主は謹慎したとはいえ慶喜であり、重要な決裁は慶喜が行っていた

(3)     勝の「軍事取扱」は、正式の職種ではなく一時的な任務

その後勝は陸軍総裁を罷免。「軍事取扱」に任じられ、陸海軍総裁の上に立つとする説もあるが、武鑑などにも記載される正式な職名ではない

(4)     勝は若年寄の下の陸軍総裁で、西郷との会談直後に白土石介と交代

無血開城決定直後の勅諚伝達式や城明け渡しの式にも勝は参列していない

(5)     勝は徳川の総責任者でも軍のトップでもなく、新政府軍との交渉役

勝の実質的役割は、新政府軍と戦うためではなく、和平交渉のネゴシエーター。主戦派の小栗上野介に代わって陸軍総裁になり、慶喜が恭順を決めた後「軍事取扱」を命じられていることからも、勝が和平派で、徳川の中で最も薩長に顔がきくという理由から西郷に対する降伏条件緩和の嘆願交渉を任されたと見るのが妥当。与えられたのは交渉権だけで代表権ではない

(6)     交渉役の勝は、専ら嘆願書の送付だけで直接交渉はせず

勝は新政府軍に対し何度も手紙を書いたと『海舟日記』に記載され全文が残されているが、宛先に明確な名前がなく、内容的にも抽象的な正論で、和平交渉に効果があったものとは思えない

3度にわたり嘆願の使者を命じられたが、何れも中止

315日江戸総攻撃が決まるが、その間攻撃中止の嘆願が様々なルートで展開され、京都で最も徳川家のために尽力したのが越前・福井藩の松平慶永であり、家老の本多修理。大久保一翁との間で奔走するが、そこには勝は一切登場しない

(7)     先学の諸説は、勝を徳川の総責任者、「軍事取扱」で軍のトップと認識

先学はいずれも「軍事取扱」を、陸海軍総裁の上に立つものとし、中には「徳川家の最高幹部」とまで書くが明らかな誤り

 

4     パークスの圧力――英国公文書検証 西郷がパークスを利用

(1)     英国公使パークスは新政府軍の江戸攻撃を中止させたか

イギリス公使パークスが江戸総攻撃を止めるよう説いたことが、西郷に対する圧力となり、江戸無血開城の大きな決め手となったという説があり、「パークスの圧力」と呼ばれる

勝が、英国公使館の通訳だったアーネスト・サトウを通じてパークスに依頼し、西郷に圧力をかけたとする説と、パークス自ら恭順の意を示している慶喜を攻めることは国際世論に反すること、内戦は貿易に支障が出ることから江戸総攻撃に反対し西郷に圧力をかけたとする説がある

(2)     『サトウ回想録』は日記ではなく、誤記が多い

『サトウ回想録』は、78歳で書いた57年前の記録であり、不正確さは否めない

それゆえ読者の様々な誤読・誤解が生じている

(3)     サトウ・勝会談が、西郷・勝会談前という説は『サトウ回想録』の誤読

パークスが介入する余地は全くなかった

(4)     勝の依頼によるパークスの助力はサトウの「創作」

サトウの創作部分が誤解を生んで、あたかもパークスが動いたかのような話になった

パークスの西郷説得も、「京都朝議」の後のことでありえない

(5)     『サトウ回想録』以外の史料も、「パークスの圧力」、特に「勝工作説」を否定

西郷は大久保利通への手紙で、パークスに介入無用を申し入れたと書き送っている

(6)     「パークスの圧力」は、西郷が自軍や朝廷を説得のために利用

西郷はパークスの意見を聞かされて愕然としたが、後に江戸攻撃中止の理由として利用できると考えた

 

5     江戸嘆願――西郷・勝会談の検証 何も決定せず

江戸無血開城が「江戸嘆願」で決定したという定説の論究が本章のテーマ

(1)     勝の西郷説得史料、実は皆無

『海舟日記』には、『幕末日記』と『慶応4戊辰日記』がある。何れも勝の一方的な嘆願ばかりが記述され、西郷は一存では決めかねるので駿府に持ち帰るというのみ

2日間の面談で決まったことは、翌日の江戸攻撃を延期することだけで、具体的な中身はなく、ましてや江戸無血開城が決定したといえる内容ではない

面談に同席した鉄舟の『談判筆記』では、駿府談判の確約をしたので江戸攻撃が中止されたとある

『氷川清話』『海舟語録』には、「維新のことは、己と西郷とでやった」とほらを吹いているだけで、具体的な会談内容について勝が書いた史料はなく、周辺閑話ばかり

1881年の明治政府による勲功調査の際、勝は自らの功績を記した勲功録の控えを残していない。記録魔の勝にしてはおかしい

(2)     313日の会談は、和宮の件より降伏条件内容の確認が重要

13日は、政府側の条件書に対する事前交渉で、その内容に従って徳川側が嘆願書の内容を最終決定し、14日の会談に臨んだとするのが妥当

(3)     314日の発令は、江戸総攻撃「中止」ではなく「延期」の「仮令」

大総督府からの本令は17日付

(4)     「江戸嘆願」は西郷・勝だけではなく、鉄舟はじめ数名が同席

面談の同席者も定かではないが、鉄舟は『談判筆記』に同席したと記している

 

6     先学の諸説――「江戸無血開城・勝説」の論拠薄弱

史料は定説を裏付けていないにも拘らず、先学たちはどのような論理展開で「無血開城・勝説」を支持するのか

(1)     12人の先学は、「パークスの圧力」信奉、功績は勝(「勝説」)

l  勝研究の第1人者の松浦玲は、まず勝ありきの勝説支持者。「パークスの圧力」は明確に否定。西郷の譲歩は「王政復古は薩長の〈私〉」という勝の持論に納得したからではないかと主張するが、「証明不能」を自ら認めているように、松浦の推論、仮説に過ぎない

l  「江戸嘆願」は全てペンディングに終わったというのが原口清の説だが、江戸無血開城が決まったのは「駿府談判」ではなく、既定方針だったと主張。開城・武装解除・絶対恭順を前提とする天皇政府の権威の貫徹こそ重要な問題だというが、政府側内部でいつ決定され、徳川との間でいつ何処でその合意がなされたのか明言していない

l  井上清は、西郷・勝会談を千載の美挙とするのは俗説だと切って捨てるが、原口同様の既定方針説をとり、強硬派の西郷が妥協したのは革命的民衆への警戒とイギリスの圧力だったとする

l  遠山茂樹:パークス説得説

l  服部之総:江戸無血開城に言及なし

l  圭室諦成:パークス説得説

l  石井孝:パークスの圧力・勝工作説

l  小西四郎:先入観による勝説

l  江藤淳:パークスの圧力・勝工作説

l  勝部真長:鉄舟に触れるが勝信奉者

l  萩原延壽:パークスの分析鋭いが、先入観による勝説

l  佐々木克:勝の気迫

(2)     10人の先学も、「パークス説得説」、根拠不明の「勝説」が未だ大勢

43年生まれ以降の新しい先学の説

l  宮地正人:根拠不明の勝説

l  松尾正人:パークス説得説

l  三谷博:根拠不明の勝説

l  家近良樹:パークス説得説その他

l  保谷徹: パークスの圧力説か?

l  岩下哲典:数少ない鉄舟説主張者。降伏条件は「駿府談判」でほぼ決まっており、勝の役割は巷間いわれるほど重要ではない

l  竹村英二:パークス説得説、鉄舟の営為は評価するが結局勝説

l  安藤優一郎:パークス説得説、歩兵脱走による結果論

l  磯田道史:鉄舟評価しつつ勝説。勝が全権委任され、鉄舟を派遣し、交渉をまとめ上げたのは見事というが、根拠は示されていない。先入観念から脱却していない

l  森田健司:根拠不明の勝説。江戸攻撃を止めたのは勝を筆頭とする旧幕臣や大奥の必死の嘆願であって西郷ではないとするが、肝心の西郷・勝会談の詳細の記載はない

 

7     京都朝議――「駿府談判」の結果承認

(1)     西郷は朝廷の強硬派説得に苦労

西郷が朝議にかけたのは慶喜追討の朝命撤回だが、強硬論に遭って苦戦

(2)     朝廷は、西郷が鉄舟に譲歩した慶喜の処分以外は拒否

慶喜助命は、「駿府談判」で決まったものを朝議が承認しただけで、「江戸嘆願」の成果ではない。城明け渡しも勝は田安家預けと嘆願したが尾張家に変更。尾張家は御三家でありながら早々に新政府軍に寝返っていた。武装解除にしても必要分を残すという嘆願に対し、一旦全面接収となり幕府側の目論見は外れ、西郷・勝会談の成果はほとんどなかった

(3)     西郷は「パークスの圧力」の利用だけでなく、拡大・誇張利用

朝議での強硬派説得に際し、西郷はパークスの発言に追加して、英仏連合で徳川方につき新政府を伐つといい、慶喜の備前預りについても反対しているとして助命後の処置についてのフリーハンドを得た

西郷にとって強硬派を説得しても何も得るところはないのに拘ったのは、「駿府談判」での慶喜助命の密約があったからで、逆に徳川に甘いとして東征軍の実質トップを大村益次郎らに譲る羽目になる

(4)     先学の半ばは、朝廷は降伏条件緩和の嘆願を受け入れたと主張

朝議は「江戸嘆願」を重要部分において拒否し、従来の方針を貫徹したという学説がある一方で、嘆願は受け入れられ、それは勝の功績とする意見も多いが、根拠が示されていない

 

8     大奥の女性――慶喜を軽視 お家大事

新政府側所縁の女性が2人 ⇒ 和宮(静寛院宮、14代家茂正室)と篤姫(天璋院、13代家定正室)。人質として利用されたのか、2人の嘆願が江戸無血開城に有効だったのか

(1)     和宮・篤姫を人質とした記録などない

勝の対新政府工作には「人質作戦」が頻出するが、西郷・勝会談でも「人質にとるような卑劣な真似はしない」と言ったとされ、2人とも戻ることを拒否

人質としての利用価値があるとすれば、むしろ西郷が強硬派説得に利用したはずだが、その形跡はない

(2)     和宮・篤姫の嘆願内容は、慶喜は見捨てお家大事

2人の嘆願書の内容、勝は全く関わっていない

和宮は、母方の実家宛てに慶喜は斬り捨て家名存続を嘆願

篤姫は薩摩藩に対して嘆願、内容は和宮と全く同様

どちらの嘆願も、「駿府談判」「江戸嘆願」に影響したという史料はない

(3)     先学は、和宮・篤姫の嘆願効果を無視か否定

慶喜の寛大な処分と家名存続が決まったのは「駿府談判」であり、そこに2人の嘆願の入る余地はない

先学も、嘆願そのものを無視するか、あっても効果にまで言及する者はいない

 

9     江戸焦土作戦――火消しに火付けなど依頼せず

勝は、火消しの親分に、東征軍が進撃してきたら市街を焼き払い焦土とするよう依頼したとし、それによって西郷に圧力をかけたというのが定説になっている

(1)     勝が、火消しの親分に火付けを依頼した史料はない

『海舟日記』には、焦土とするとは書かれているが、火消しの親分の話など出てこないし、若年寄に諮ることもなく、陸軍に事前準備させることもなく、突然実行するなど非現実的

『氷川清話』で、無頼の徒の暴走を抑えようとしたことは書かれているが、火付けの話はない

(2)     勝の依頼は子分たちの暴発防止

勝は「江戸嘆願」を焦土とし、市民を舟で避難させるという構想を描いたが、降伏条件交渉に役立ったとは思えない

(3)     先学は、「焦土作戦」そのもの、効果・意義に言及せず

 

おわりに

西郷の破竹の進撃を止めたのは鉄舟の説得

勝は有名なメモ魔であり、多弁・雄弁。しかも自己顕示欲が強いにもかかわらず、西郷の説得については一切記録がないのは、談判がなされなかったから

俗説が定着した原因は、虚説のまま流布して拡散し、定着していった

半藤一利ですら、火消しの話や勝の地位・権限などについて俗説を信じて話を進めている

西郷・勝会談=江戸無血開城のイメージが刷り込まれている

江戸無血開城に関する「定説・通説」を証明する史料はない

l  勝が西郷を説得したという史料はない

l  勝が鉄舟に派遣を命じた(ママ)という史料はない

l  勝が政治・軍のトップに任命されたという史料はない

l  西郷が「パークスの圧力」「大奥女性の嘆願」により江戸総攻撃を中止したという史料はない

l  勝が火消しに火付けを命じたという史料はない

l  「京都朝議」で、勝の要望が受け入れられたという史料はない

l  鉄舟が西郷を説得し江戸無血開城を実現したという史料はある

l  江戸無血開城は、勝が西郷を説得して実現したという史料を示した先学はいない

 

 

Wikipedia

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、山岡鐵舟)は、日本武士幕臣)、官僚政治家思想家の達人。

鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎、てつたろう)。は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

l  概説[編集]

江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流北辰一刀流の剣術、樫原流槍術[注釈 1]を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。

幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を最終決定した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。

明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事伊万里県権令侍従宮内大丞、宮内少輔を歴任した。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長62寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。

l  生涯[編集]

誕生[編集]

天保7年(1836610日、江戸本所蔵奉行・木呂子村[注釈 2]知行主である小野朝右衛門高福[注釈 3]の四男[注釈 4]第五子[2]として生まれる。母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝)。

9歳より久須美閑適斎[注釈 5]より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化2年(1845)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。

幕臣時代[編集]

嘉永5年(1852)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山[注釈 6]に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。安政3年(1856)、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年(1857)、清河八郎15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久2年(1862)、江戸幕府により浪士組が結成され、親友の中條金之助とともに取締役となる。文久3年(1863)、将軍徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。

この頃、中西派一刀流浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず、弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。父の勧めもあって、17歳の頃から禅の修行も始め、長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から印可を与えられた。

l  江戸無血開城の立役者[編集]

慶応4年(1868)、新たに設立された精鋭隊[注釈 7]歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜の使者として39官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会して談判する。

211日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。慶喜は恭順の意を征討大総督府へ伝えるため、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが出来ない、と述べ義弟である鉄舟を推薦する。鉄舟は慶喜から直々に使者としての命を受け、駿府へ行く前に勝海舟に面会する。海舟と鉄舟は初対面であり、海舟は鉄舟が自分の命を狙っていると言われていたが、面会して鉄舟の人物を認めた。打つ手がなかった海舟はこのような状況を伝征討大総督府参謀の西郷隆盛宛の書を授ける。海舟の使者と説明されることが多いが、正しくは広義も含め慶喜の使者である[3]

この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[注釈 8]

39日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、

一、江戸城を明け渡す。

一、城中の兵を向島に移す。

一、兵器をすべて差し出す。

一、軍艦をすべて引き渡す。

一、将軍慶喜は備前藩にあずける。

というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって江戸無血開城への道が開かれることとなった。江戸無血開城の中身は鉄舟と西郷の交渉でほとんど決まっている。

313日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。徳川慶喜は謹慎先の水戸へ向かう前夜、山岡鉄舟は慶喜の御前に召し出され、慶喜は「(慶喜の救済、徳川家の家名存続、江戸無血開城)官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。」と、慶喜自ら「来国俊」の短刀を鉄舟に与えた[5]

l  明治維新後[編集]

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。また、幕臣の救済事業である牧之原台地開墾の責任者である中條金之助にの生産を助言する。明治4年(1871)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。

明治14年(1881)に新政府が維新の功績調査をした時、勝が提出した勲功録に、全て勝がやったように書かれており、それを読んだ鉄舟は嘘だと思いながらも勝の面子を潰すので、何も提出しなかった。無血開城の実情を知っていた局員がおかしいと感じて三条実美に鉄舟のことを伝えた。三条は腑に落ちないので、岩倉具視に伝えた。岩倉は鉄舟を呼び出し、「手柄は勝に譲るにしても、事実として後世に残さなければならない」と説得し、鉄舟に事実を書かせ提出させた[6]

徳川家達は、明治15年(1882)に徳川家存続は山岡鉄舟のお陰として、徳川家家宝である「武藤正宗」の名刀を鉄舟に与えた。勝海舟は名刀を与えられていない。岩倉具視は、当時の一流の漢学者に、名刀の由来と鉄舟の功績を「正宗鍛刀記」にしたためたさせた[7]。この年に西郷との約束どおり致仕。明治16年(1883)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。

明治18年(1885)には、一刀流小野宗家9代の小野業雄からも道統と瓶割刀朱引太刀の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。

明治20年(1887524、功績により子爵に叙される[8]

明治21年(1888719915分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。家督及び爵位は長男直記が相続した[9]。葬儀は22日に行われ、豪雨であった。前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。明治天皇は、高殿から目送された。全生庵での会葬者は5千人にも上った。

この日、門人村上俊五郎は、殉死の恐れがあるというので四谷警察署に保護された。また門人栗津清秀も殉死しようとしたが、全生庵の裏山で発見されて止められた。門人鈴木雄蔵は、葬儀に出たまま家に帰らず、3年間も墓前に留まった。915日、門人三神文也が墓前で割腹殉死。同18日、鉄舟の爺や内田三郎兵衛が墓前で死んでいた。「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない。」と思わせるほどの、鉄舟の死だった。享年53戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。没後に勲二等旭日重光章を追贈された[10]

l  剣・禅・書[編集]

自身の道場「春風館」[注釈 9]や、宮内省の道場「済寧館」、剣槍柔術永続社で剣術を教えた。弟子に香川善治郎柳多元治郎小南易知籠手田安定北垣国道高野佐三郎らがいる。松崎浪四郎も後に鉄舟門下に入っている。日本史上最後の仇討をした人物として知られる臼井六郎も目的を明かさずに門下で修業を積んでいる。精神修養を重んじる鉄舟の剣道観は近代剣道の理念に影響を与え、現在も鉄舟に私淑する剣道家は多い。平成15年(2003年)、鉄舟は全日本剣道連盟剣道殿堂に顕彰された。

長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から印可を与えられた。洪川門下でのちに法嗣となる釈宗演のセイロン(スリランカ)渡航を援助し交流。宗演は修行中訪れた菩提樹からの一葉を帰国の際に持ち帰り、胃患療養中の気散じにと鉄舟に贈った。禅の弟子に三遊亭圓朝らがいる。また今北洪川高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設した。両忘会はその後一時、活動停止状態となっていたが、釈宗演門下の釈宗活[注釈 10]の宗教両忘禅協会、釈宗活門下の立田英山[注釈 11]人間禅教団へと受け継がれた。

人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見される。一説には生涯に100万枚書したとも言われている[注釈 12]

l  逸話[編集]

その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。

致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った[12]

実家の知行地であった埼玉県小川町割烹旅館「二葉」には、鉄舟が好んだ料理「忠七めし」が伝わっている。米飯に海苔薬味ネギワサビユズなどを散らして、カツオ出汁をかける。二葉主人の八木忠七が、山岡から「料理に禅味を盛れ」と注文され、山岡が得意とした剣をワサビ、禅を海苔、書をユズで表現したという。二葉の看板は鉄舟の揮毫による[13]

明治2年(1869年)、明治天皇の京都行幸の際、明治天皇から手土産の相談を受けた。そして山本海苔店二代目山本德治郎に相談したことで、味付け海苔が創案された。山本海苔店の商品のいくつかは鉄舟の揮毫である。

木村屋あんパンを好み、毎日のように食べていたともいわれる。また木村屋の看板も鉄舟の揮毫によるものである。

l  評伝[編集]

圓山牧田[注釈 13]『全生庵記録抜萃』 1918 金田清左衛門

圓山牧田『鐵舟居士乃真面目』 1918 全生庵

小倉鉄樹[注釈 14]『おれの師匠 山岡鉄舟先生正伝』[注釈 15]春風館、1937

復刻版 島津書房、2001 ISBN 4882180847ちくま学芸文庫(解説岩下哲典)、2021 ISBN 978-4480510570

大森曹玄『山岡鉄舟』 初出 1968 春秋社、新装版 1983年、新版 2008 ISBN 978-4393147108

大森曹玄『剣と禅』p.159、「十章、独妙剣- 一から無に掘り下げた鉄舟」

小島英煕『山岡鉄舟』日本経済新聞出版社 2002 ISBN 978-4532164348

圓山牧田・平井正修[注釈 16]『最後のサムライ 山岡鐵舟』教育評論社 2007 ISBN 978-4-905706-21-2

『鐵舟居士乃真面目』の現代語訳をベースに増補したもの

水野靖夫『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実 : パークスの圧力はなかった。勝海舟、山岡鉄舟の史実再検証』(山岡鉄舟研究会、2017年)

水野靖夫『勝海舟の罠氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』(毎日ワンズ、2018年)ISBN 978-4901622981

岩下哲典『江戸無血開城本当の功労者は誰か? 』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」、2018年)ISBN 978-4642058704

水野靖夫『定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟』(ブイツーソリューション 2021年) ISBN: 978-4434284953

Anatoliy AnshinThe Truth of the Ancient Ways: A Critical Biography of the Swordsman Yamaoka Tesshu 2012 Kodenkan Institute ISBN 978-0984012909

l  注釈[編集]

1.    ^ 自得院流(忍心流)槍術の勘違いと思われる。泉秀樹『幕末維新なるほど人物事典: 100人のエピソードで激動の時代がよくわかる』(PHP文庫 2003 ISBN 978-4-569-66020-263 に見られるが、この書籍は全体に典拠を示さない読み物なので信頼性は低い。

2.    ^ きろこむら、現埼玉県比企郡小川町木呂子。

3.    ^ 小野高福(たかよし 1821 - 1852年)通称朝右衛門(ちょうえもん)は、飛騨郡代(21 1845 - 1852[1])、禄六百石の旗本だった。

4.    ^ Web 検索すると五男説が散見されるが、勝部真長『山岡鉄舟の武士道』 p.20 角川ソフィア文庫 1999年(初出は1971年『武士道文武両道の思想』角川選書、未確認) に五男とあるのが誤転載の源流と思われる。

5.    ^ 久須美閑適斎は、順三郎祐義といい旗本の次男で、生涯本所大川端の生家に居住し仕官しなかったという。

6.    ^ 山岡静山 やまおかせいざん 1829 1855年、名は正視 まさみ、字は子厳、通称は紀一郎。幕臣、高橋泥舟の兄。槍術家として著名。

7.    ^ 「精鋭隊」は徳川慶喜大阪城から逃げ帰った後、その身辺警護のために勝海舟らが旗本の子弟から手練れの剣士70余人を抜擢・組織した護衛隊である。

8.    ^ 後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という[4]

9.    ^ 宮内省辞職後、鉄舟の住居(旧四谷区仲町三丁目三一番地、現在の新宿区若葉一丁目・学習院初等科付近)の裏手の道場に「春風館」と命名し開いた。

10. ^ 釈宗活(しゃくそうかつ、1871 1954年)は臨済宗の僧侶。俗姓は入沢。別号に輟翁、両忘庵。

11. ^ 立田英山(たつたえいざん、1893 - 1979年)、耕雲庵を号す。1949年、宗教法人「両忘禅協会」を改組し宗教法人「人間禅教団」設立、初代総裁に就任。

12. ^ 鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた[11]。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に101380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。なお千葉立造(ちばりつぞう、1844 - 1926年)は、鉄舟の侍医。立造は通称で名は顕親、愛石(あいせき)と号した。自伝として、千葉立造が口述し三男千葉真一が編纂・出版した『愛石小傳』 1917 がある。

13. ^ 圓山牧田 まるやまぼくでん 全生庵三世住職。

14. ^ 本名 渡辺伊三郎 1865 - 1944年、新潟県の生まれ。

15. ^ 鉄舟晩年の高弟である小倉鉄樹の口述を石津寛・牛山栄治が筆記・編纂したもの。この書籍の評価は、Anshin Anatoliy 『牛山英治が編纂した山岡鉄舟の伝記について』(千葉大学日本文化論叢 200771 no.8 page.1-11) が参考になる。

16. ^ 平井正修 ひらいしょうしゅう 1967年生まれ。2002年から臨済宗国泰寺派全生庵第七世住職。

 

 

 

 

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