私の軽井沢物語 霧の中の時を求めて  朝吹登水子  2021.7.14.

 

2021.7.14. 私の軽井沢物語 霧の中の時を求めて

 

著者 朝吹登水子 1917年東京生まれ。女子学習院中退。渡仏。ブッフェモン女学校およびパリ大学ソルボンヌに学ぶ。オート・クチュール・モデリスト資格試験合格。ディオール『私は流行を作る』、サガン『悲しみよこんにちは』モーロア『パリの女』など訳書多数。著書に『おしゃべりフランス語』『パリの男たち』など

 

発行日           1985.7.21. 第1刷発行

発行所           文化出版局

 

私が這い這いをしながら人生を歩み始めたのは軽井沢の小坂別荘である。

父は簡素で良風の軽井沢が大変気に入り、大正9年に別荘を買ったので、私は子供時代と少女時代を兄たちと毎夏ここで過ごすことになる

1986年、軽井沢は避暑地としての開発100年を迎える

 

²  大正期の軽井沢

1917年、両親は小坂順造氏の別荘を借りて、初めて軽井沢で夏を過ごし、生後6か月の私も廊下で這い這いしていた

母の弟・長岡護一の親友・黒田清伯爵から勧められて思い立った

電気が1914年に引かれたばかりで、別荘も玄関だけで、後はガスランプ

すっかり気に入って、1920年アタゴ・レーンにあるハウスナンバー815をカナダ人宣教師から購入。息子4人、娘1人の大家族のため、隣のイギリス人宣教師の別荘も購入

その後上の家が古くなったので、ヴォ―リス氏の設計で新築したのが睡鳩荘

19108月の洪水の直前、高田第14師団長の母方祖父・長岡外史は、軽井沢に工兵隊を送って矢ヶ崎川の石垣を作らせ、その夏は西園寺公望や桂太郎総理が来た

3歳で、英語の家庭教師につく

昔の軽井沢は、今よりももっと多く霧がおりた

その頃、軽井沢にあった西洋人以外の車は3台、近衛家、細川家、三井家だったと軽井沢に長い長谷川(旧姓安宅)登美子はいう。細川護貞氏によれば、東京からディムラーを持って来るのに、峠に人夫2,3人を派遣して道を直したという

軽井沢ではウールが手放せなかった。霧が入ってくると一瞬で湿気が部屋に漲り、磯部せんべいが瞬く間に柔らかくなる

矢ヶ崎川の上流の水源地から出てくる水が飲料水で、水汲みばあさんが桶1810銭で別荘に運んでいた

九州中津藩の質実剛健の気風の中に育った福沢諭吉の姉・中上川婉(なかみがわえん)の娘である祖母・澄の存命中と、死後まもなくイギリス人家庭教師を迎えた後の我が家の雰囲気には大きな相違がある

父は18歳でイギリスに留学したので、服装、態度ともイギリス風、母は和服、4人の兄たちは慶應義塾のバンカラだったが、2年ほどするとバタ臭くなり、子供達の会話は英語

家庭教師は、服装だけでなく、イギリス・プロテスタント風な思考をもたらす

子供の頃は横川駅でアプト式という歯車のついた機関車に付け替えられる。アプト式は1903年開通、1963年廃止。尾崎咢堂は、コンパートメントの半分を借り切って荷物を運んだという。暑い東京から横川に来ると空気がひんやりして呼吸が楽になる

 

²  樅の木の下のパーティ

イギリス人の家庭教師が毎夏別荘の庭で、子供達のためのパーティを開いた

その1か月後に関東大震災、軽井沢でも地面が揺れ、私達は2カ月ほど軽井沢に留まる

直後に世界的なテニス・プレーヤーの原田武一が別荘を訪れ、コートがあるのにしないことはないといって母に勧めたので、テニス選手への道を歩むことになる

10歳頃、町を歩く若者の間で断然目立ったのが徳川喜和子。慶喜の長男の次女で15,6歳、彼女の崇拝者の1人は、軽井沢の村長さんと呼ばれたほど軽井沢のために尽くしたカナダ人宣教師・ダニエル・ノーマンの次男ハーバート。戦後進駐軍とともにカナダ公使として派遣され、私とも交際していたが、アメリカのマッカーシーの赤狩りにあって悩み、エジプト大使に就任してビルから投身自殺。喜和子は周囲の反対を押し切ってアメリカンスクールに転校したことが、戦後学友の支援で仕事ができるきっかけとなり、生活苦から解放されたという。少女時代陸軍騎兵学校で馬術の特訓を受け大障害で優勝するまでになり、バロン西とも交際していたという

 

²  町で

旧道一帯の町の通りの両側には、明治の末から簡素な日本家屋の店屋が並んでいた

英米人、カナダ人、中国人、駐日外国大公使館の外交官たちで国際色豊か

店の商品も西洋人向きの品物で、極東、東南アジアからの宣教師たちは、1年間の必需品を買い、洋服を作らせて任地に帰っていった

軽井沢に夏期出張してくる中国人洋服屋が繁盛

「浅間根腰の三宿」として、軽井沢、沓掛、追分は、参勤交代の頃は加賀100万石を始め、大小の大名が30藩ほど通り、軽井沢宿では総戸数100軒、旅籠屋21軒と栄えた。往復とも軽井沢泊りだった加賀の大名行列は、初期には2000人もいた

和宮が降嫁された際も軽井沢の本陣で休まれたが、1885年横川~軽井沢間に鉄道馬車が開通すると、軽井沢宿はすっかり寂れた

子供達の一番の愉しみは、ブレッツ・ファーマシーでアイスクリームを食べること

文化学院創立者の西村伊作氏のお嬢さん達は、有島武郎の息子たち(長男が森雅之)とニュー・グランドに踊りに行っていた。万平ホテルに行く途中の河原のそばに小さな小屋がいくつもある別荘群が西村一家の住まい。36女の9人兄弟。キリスト教を基にした思想を持って、芸術的な才能とリベラルな精神の持ち主。娘達のため、また日本人の生活向上を考慮に入れた学校を作ろうと、与謝野夫妻と星野温泉に行って計画を練った

昔の思い出に大雪と雷がある。雷が鳴るとよく町で雨宿りをする、よく停電になる。水はけは良かったが、大雨で地面が抉られ、すぐに凸凹になる

 

²  テニス・プレーヤーたち

私が7歳の時、テニスの手ほどきをしたのは原田武一さん。全米3位、世界10位の花形

父は日本テニス協会の初代会長。デ杯への参加を働きかけ、黄禍論の中で苦戦したが、庭球協会が出来ればと言われて設立、1921年熊谷・清水のペアで参加が実現

母は、34歳でテニスを始めながら、1926年全関東で単複優勝、全日本ダブルスもとる

安宅登美子さんも19歳から全日本ダブルス4連覇。パブリックコートが閉鎖する日曜日は我が家に来てテニスをされていた

パブリックのクラブ・ハウスは御木本隆三(御木本幸吉の令息でラスキン研究家)の寄付

1940年、KSRA(軽井沢避暑団Summer Resort Association)のハンドブックはすべて英語だったが、3年後には案内書も名簿もすべて日本語

役員には近衛文麿公爵のほか、父は理事、羽仁説子は児童部長、委員には石田あや現文化学院院長(西村氏長女)、相馬雪香(咢堂氏3)、図書部長山本達郎、病院部長本間利雄、鍛錬部長朝吹三吉(登水子兄)、庭球部委員羽仁五郎、音楽部長山本直忠(直純氏父)、庭球部クラブ・ハウス委員長長谷川登美子、西村ヨネ(伊作氏3)、朝吹登水子

15歳で肋膜を患い、約6年間はテニスをしなかった

193639年、フランス留学の時スキーを覚える。ナチスのポーランド侵攻の直前帰国

素敵な青年と恋愛結婚してヨーロッパへ行ったとともったら1年くらいで帰国して離婚、またさっさとパリに行った私は、パリで不倫の恋でもしたに違いない不良少女か、とんでもないわがまま娘と人の目に映っていたに違いない。一生に一度しかない人生をもっと違った方法で生きたいと思い、フランスは私の人間形成の土壌となったが、帰国した日本は日一日と戦争に向かいそれどころの状態ではなかった

フランスが忘れがたく、フランスと別れたさ寂しさをテニスで紛らわせようと、佐藤表太郎についてレッスンを受け、競技会に出場。前日本は10位、ダブルスは朝長慶子さんと組んで3位。全関東では鵜原謙造さんと組んで優勝、翌年からミックスは中止

 

²  心の青あざ

16歳で、世紀病のように蔓延していた肋膜に罹患、絶対安静を命じられ、新築した高輪の部屋で3か月過ごす。全快して軽井沢に行って、有島の敏ちゃん(2)に会えるのを楽しみにしていたが、医者から高地は不可と宣告され、鎌倉に行かされる

兄の友達が連れてきた財閥の息子と恋仲になり、ゴルフ好きの彼に誘われてゴルフを覚える。後に彼と結婚して、自分の生活に不満を持ち始め、真の自由を求めた時、私の人生は一転した。パリの学生寮に入って初めて真剣に勉強する気になった

 

²  疎開 厳寒の軽井沢へ

1944年夏、建築家志望の青年と再婚。肺炎に罹患した時赤紙がきて診断書があったので免れたが、入隊するはずだった部隊はアッツ島で玉砕

11月鎌倉に疎開したが、本土上陸の危険を感じておなかの子供を身ごもりながら翌年2月両親が疎開していた軽井沢に移動。漸く切符を入手したが、出発の日になって艦載機が東京に向かうとの報が入る。途中止まり止まりしながらも新橋まで行き、地下鉄で上野に着くと、降りしきる雪の中で爆撃にやられた町が浮かぶ。何とか長野行きが出発することになって大宮まで行くが空襲警報。駅長室で夜を明かし、翌日も空襲警報に止められながらやっと軽井沢に着く。寒さと空腹と絶望感に苦しめられる

志賀高原では3食出るというので1か月逗留。6月には女児を出産

 

²  平和再び

814日は夫が横須賀の海軍に入隊する日。翌日陛下の放送があると知らされ、横須賀行きは中止。川崎男爵の家で放送を聞く

伊東巳代治の孫・治正は戦時中毎日新聞の記者。40年にイギリス風ハーフティンバーの別荘・翠南荘を鹿島の森のお水端近くに新築、43年には近衛公、細川公、鳩山一郎、来栖元駐米大使、三井合名の福井菊三郎らが集まって和平の密談をしたが、戦後はサロンとなってダンスパーティがよく開かれていた。戦時中の言論統制の中、言論の自由を高らかに謳った雑誌『自由』を創刊、僅か15カ月で廃刊に追い込まれたが、381月号には天皇機関説事件以来初めて美濃部達吉が執筆、サルトルの創作の本邦初訳まで載せてあった

46年、渋沢多歌子さんの誘いで、浮浪児救済のための「タカラ・クラブ」のバザーを万平ホテルで開催。慈善事業は奨学金支給に発展し、現在でも活動を続ける

軽井沢の常連では戦死者も多かったが、兄2人は無事に帰還。長兄は86日広島出張の予定だったが、突然変更になって何を免れた。三ちゃんは丙種合格で召集免除。四郎は11月帰宅、軽井沢の父の元へ行く

 

 

あとがき

副題の「霧の中の時を求めて」は、大好きなプルーストの『失われた時を求めて』からとったもの、公爵夫人をはじめ社交界の人々が登場し消えてゆく

終戦5年目に、自活するための職を身につけようと再度フランスに行き、15年ほどは主としてヨーロッパで夏を送る

 

 

Wikipedia

朝吹 登水子(あさぶき とみこ、1917大正6年〉227 - 2005平成17年〉92)は、日本仏文学者随筆家。『悲しみよこんにちは』を始め、フランソワーズ・サガンの翻訳を多く手掛けた。また、ボーヴォワールの翻訳やサルトルとの交遊、自伝的小説『愛のむこう側』、パリや実家の朝吹一族に関する随筆などでも知られる。

概要[編集]

実業家朝吹常吉の長女として東京府(現・東京都)に生まれる。父方の祖父は朝吹英二で、母方の祖父は長岡外史朝吹英一は長兄、朝吹三吉は山兄に当たる。

女子学習院中退後、1936年、渡仏。ブッフェモン女学校、パリ大学に学び、1939年帰朝する。

戦後の1950に再度渡仏、1955フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳ベストセラーになり、以後、サガンの訳を多く手がけた。

195811回カンヌ国際映画祭審査員。2000、フランス政府レジオンドヌール勲章シュヴァリエ叙勲[1]

200592、逝去。88歳没。葬儀の喪主は孫の牛場潤一が務めた。

生前、長く居住していた朝吹山荘は、後にスタジオジブリ映画『思い出のマーニー』の劇中でマーニーの居住する屋敷の原型となった。

親族[編集]

朝吹常吉実業家三越社長、帝国生命保険社長)

内祖父朝吹英二(実業家、王子製紙取締役会長、三井合名会社理事長

外祖父長岡外史陸軍中将

長兄朝吹英一(木琴研究家、日本木琴協会創立者)

三兄朝吹三吉(仏文学者)

兄嫁: 京(三吉の妻。シャンソン歌手石井好子は京の妹で、石井が1950年代に渡仏して以来登水子とは姉妹同様の仲となり、娘の由紀子と共に深い親交があった)

朝吹真理子(三吉の孫娘、小説家芥川龍之介賞受賞者)

四兄朝吹四郎(建築家)

: アルベール・アルゴー(2度目の夫、調香師、香水で知られるコティ社研究所長、同社取締役を務めた)

朝吹由紀子(翻訳家、最初の夫との間の娘)

娘婿牛場暁夫(仏文学者、慶應義塾大学名誉教授、由紀子の夫)

孫息子牛場潤一慶應義塾大学理工学部生命情報学科准教授、由紀子と暁夫の息子)

著作[編集]

翻訳[編集]

クリスチャン・ディオール『私は流行をつくる』(新潮社1953年)

フランソワーズ・サガン

『悲しみよこんにちは』 新潮文庫1955年)

アンドレ・モーロア『パリの女』(紀伊国屋書店1959年)

ジャン=ルイ・バロー『私は演劇人である』(新潮社、1959年)

エリザベット・トレヴォル『女秘書の日記』(新潮社、1959年)

シモーヌ・ド・ボーヴォワール

『娘時代――ある女の回想』(紀伊国屋書店、1961年)

著書[編集]

『パリの男たち』(講談社1965年)

『ボーヴォワールとサガン』(読売新聞社1967年)

(朝吹由紀子)『おしゃべりフランス語』(実業之日本社、1970年)

『愛のむこう側』(新潮社、1977年、のち新潮文庫)

『私の巴里・パリジェンヌ』(文化出版局1977年)

 

 

 

 

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