それでも、日本人は「戦争」を選んだ  2021.7.15.  加藤陽子

 

2021.7.15. それでも、日本人は「戦争」を選んだ

普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」と思ったのはなぜか?

高校生に語る――日本近現代史の最前線。

 

著者 加藤陽子 1960年埼玉県生まれ。桜蔭中、東大大学院人文社会系研究科教授。89年東大大学院博士課程修了。山梨大助教授、スタンフォード大フーバー研究所訪問研究員などを経て現職。専攻は日本近現代史(日露戦争~太平洋戦争、就中1930年代の外交と軍事)

 

発行日           2009.7.30. 初版第1刷発行           2009.9.5. 初版第4刷発行

発行所           朝日出版社

 

2007年末、栄光学園中高の歴史研究部で行った「歴史好きのための特別講座」講演録

 

はじめに

日清戦争から太平洋戦争までの日本人の選択を、なぜ高校生と考えようかと思ったのは、

私の専門は、1929年の大恐慌に始まる、1930年代の外交と軍事

30年代の教訓とは、1つは37年の日中戦争まで、当時の国民はあくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革を求めていたということ、もう1つは民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出を国民もまた強く待望していたということ

社会民主主義的な改革要求が既存の政治システムの下では無理だということで、疑似的な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まる。陸軍の改革案には、自作農創設、工場法制定など社会民主主義的な改革項目が盛られていた

政治システムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を得ようとする政治勢力が現れないとも限らない

現代における政治システムの機能不全とは、1つは選挙制度からくる桎梏で、小選挙区制では与党は国民に人気がない時には選挙を行わない。もう1つは、小選挙区制では、投票に熱意を持ち、かつ人口的な集団として多数を占める世代の意見が突出して尊重され得るため、特に人口比が高くなった高齢者の意見を為政者は無視できない

30年代の歴史の教訓から、若年層に特に近現代史を勉強してもらいたいとの意を強くした

序章では、対象を見る際に歴史家はどのように頭を働かせるものなのか、さらには世界的に著名な歴史家たちが「出来事」とは別に立てた「問い」の凄さを味わいながら、歴史がどれだけ面白く見えてくるものなのかを話した

10年ごとに大きな戦争をやってきた日本で、戦争を国民に説得するための正当化の論理には如何なるものがあったのか、それを正確に取り出して、もし自分が当時生きていたらそのような説得の論理に騙されていたか、騙されてしまいそうだとの疑念があった

今回の講義では、戦争というものの根源的な特徴を抽出してみたかった

つまるところ時々の戦争は、国際関係、地域秩序、当該国家や社会に対していかなる影響を及ぼしたのか、また時々の戦争の前と後でいかなる変化が起きたのか、が本書のテーマ

作戦計画の立案者だったなら、満州移民として送り出される立場であったなら、と講義の間だけ戦争を生きてもらった。そうするためには、時々の戦争の根源的な特徴、時々の戦争が地域秩序や国家や社会に与えた影響や変化を簡潔に明解にまとめる必要がある。その成果がこの本

 

 

序章 日本近現代史を考える

近代の戦争をめぐる日本の歴史について考える

Ø  戦争から見る近代、その面白さ

l  9.11テロの意味

新しい「かたち」の戦争とは、敵国の内部に入り込み、普通の市民が利用する飛行機を使いながら、生活や勤労の場を奇襲するやり方

国と国の争いではなく、国内社会の法を犯した邪悪な犯罪者を取り締まるというスタンスで、戦いの相手を戦争の相手、当事者として認めないような感覚に陥る

1938年、近衛内閣が、盧溝橋事件の半年後に蒋介石に対し発出した声明が、「国民政府を対手とせず」

39年にも中支那派遣軍の司令部が、「今次事変は戦争にあらずして報償なり。報償のための軍事行動は国際慣例の認むる所」といい、中国の条約違反による不法行為を止めるための実力行使であるとしたが、拡張解釈

近衛のブレインの中でも、「一種の討匪戦」と呼ばれた

時代も背景も異なる2つの戦争だが、共通する底の部分が見えてくるのが歴史に面白さ

l  歴史は暗記?

歴史は、数学や物理にように習得すべき獲得目標の達成が明確ではないだけでなく、どれだけ達成できたかの確認も難しい

PISA調査では、15歳の生徒を対象に国際学習到達度を読解力、数学的応用力、科学的応用力の3部門で国別比較するが、日本は57か国中2000年に読解力8位、数学1位、科学2位だったのが06年は読解力15位、数学10位、科学6位と、長期低落傾向にある

日本の社会は、他者との比較、外からの批判に弱いので、調査の結果、とにかく論述が書けないような教育ではだめだという気運が生まれていきた

 

Ø  人民の、人民による、人民のための

l  南北戦争の途中で

歴史を考えるとは具体的にどのような頭の働き方をいうのか、歴史的なものの見方というのはどうしたらできるのか

リンカーンが名言に言及した背景は、戦没者を追悼し、新たな国家目標を設定するという狙いがあり、その演説には、国家を二分した内戦で受けた社会の深い亀裂を再統合する役割が課せられていた

l  何が日本国憲法を作ったか

日本国憲法にもその表現は見出すことができる ⇒ 国政は国民の信託によるもので、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者が行使し、その福利は国民が享受する

レーニンは、「政治は大衆のいるところで始まる。数千人ではなく数百万人いるところで本当の政治が始まる」と言っている

巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、即ち広い意味での憲法が必要となるというのが歴史の真理 ⇒ リンカーン、レーニン、太平洋戦争後の日本

国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を広い意味で憲法という

 

Ø  戦争と社会契約

l  国民の力を総動員するために

新しい憲法、社会契約が必要とされる歴史の条件の1つは、「総力戦」を戦うために国家目標を掲げなければならないということ

大量動員される国民が、戦争遂行を命じる国家の正当性に疑念を抱くことがないように、戦争目的が明確にされることが多い

戦争の犠牲の多さや総力戦という戦争の仕方それ自体が、戦争を遂行している国の社会を、内側から変容させざるを得ない

クラウゼヴィッツのいう「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治に他ならない」という考え方が一般的だったからこそ、1928年に第1次大戦で懲りた国々によって締結された不戦条約では、「国家政策の手段としての戦争の放棄」と「国家間の紛争解決の手段としての武力行使の違法化」を骨子とした

その結果、戦争の概念として許されるのは、自衛戦争と、侵略国に対する制裁行為の2つに限定

l  戦争相手国の憲法を変える

戦争は敵対する相手国にどういう作用をもたらすか ⇒ 戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとる(ルソー/長谷部恭男)

戦争を考える上で気付くのは、相手国と自分の国で何が根本的に違うのかということ

l  日本の憲法原理とは何だろう

太平洋戦争で考えると、戦前の日本の憲法原理は「国体=天皇制」で、アメリカは戦勝によって日本の天皇制を変えた

 

Ø  「なぜ20年しか平和は続かなかったのか」

l  変人のカー先生

歴史という学問は、分析をする主体である自分という人間自体が、その対象となる国家や社会の中で呼吸をしつつ生きていかなければならないという面倒な環境で進められる

イギリスのソ連史の専門家で外交官、ケンブリッジのトリニティ・カレッジのE.H.カー教授は、「歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」という

l  大戦争直前に書かれた本

カーの著書『機器の20年』は、「なぜ20年しか平和は続かなかったのか?」という問いから始まる。パリ講和会議にイギリス代表の一員として参加、小国や敗戦国の利益が不当に扱われている実態を目にする

カーが自ら出した答えは、「人々が愚かや邪悪だったために正しい原理を適用しなかったのではなく、原理そのものが間違っていた」というもの

l  まちがっていたのは連盟の方だ!

軍事力の裏付けなしに現状維持国が現状打破国を抑えることなどできず、国際連盟による言葉だけの抑止では通用しなかった

現実にイギリスでは、世界恐慌の煽りで深刻な内政問題を抱えており、海軍増強どころではなったことを考えると、ドイツと真剣に交渉すべきだった

l  特殊の中に一般を見る

カーは「歴史は科学だ」という中で、歴史家が本当に関心を持つのは、特殊・個別のものではなく、特殊的なものの内部にある一般的なもの/普遍に興味を持つのだという

l  過去の歴史が現在に影響を与えた例とは

歴史上のある1つの事件が、他の事件に強く影響を及ぼしたというケースが多々見られる

ロシア革命を起こしたボリシェビキの多くはユダヤ系ロシア人だが、フランス革命がナポレオンの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間戦争状態になったと考えられており、その歴史に学んだボリシェビキはレーニンが死んだとき、軍事的なカリスマのトロツキーではなく、国内に向けた支配能力を重視してスターリンを後継者に選んだ

日本でも維新当時軍事的カリスマだった西郷が反乱軍に担がれたことは明治政府の肝を冷やした。西南戦争の翌年、近衛砲兵隊が給料への不満から起こした竹橋事件の教訓から、山県は自由民権運動が軍隊内に波及しないように政治から軍隊を隔離しておくために統帥権独立という考え方を持ち込んだが、自らも指揮した西南戦争における西郷との戦いの教訓が大きく影響して、軍事面での指導者と政治面での指導者とを分けておいた方が国家のために安全だとの発想だったのだろう

レーニンの後継者がスターリンになったことで人類の歴史が結果的に厄災を被ってしまったが、西郷の一件と統帥権独立の関係も、人類の歴史が結果的に被ってしまった厄災の1つといえる

 

Ø  歴史の誤用

l  なぜベスト・アンド・ブライテストが誤ったのか

政治的に重要な判断をしなければならない時、人は過去の出来事について誤った評価や教訓を導き出すことが多い

1973年『歴史の教訓』を著したハーバード大政治学のアーネスト・メイ教授は、ベトナム戦争を泥沼に導いたベスト・アンド・ブライテストはなぜ誤ったのかの答えとして、外交政策の形成者は歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じるものの影響をより受けること、政策形成者は通常歴史を誤用すること、歴史の中に類推例を求めるが、自分がまず思いついた事例に囚われて、類推例を広範囲にわたって探し出そうとはしない。逆に言えば、重要な決定を下す際に、結果的に正しい決定を下せる可能性の高い人というのは、広い範囲の過去の出来事が、真実に近い解釈に関連付けられて、より多く頭に入っている人

政策決定者は、歴史を選択して用いることができる

l  無条件降伏方式が選ばれた理由

アメリカは第2次大戦終結方法の選択でも歴史を誤用して、「無条件降伏」を選択

ローズヴェルトは、1918年に妥協して失敗したと考えた。ウィルソンの提示した穏健な内容の14条の講和条件をドイツが受け入れて休戦が成立したが、講和会議ではアメリカの提案が葬られたため、ドイツに長く不満が残ったことから、アメリカは休戦条件を敵国と話し合ってはならない、という教訓を得た。メイ教授は、大戦終結後の冷戦を考慮に入れたうえで、大戦末期のソ連の態度、スターリンの発言などを考慮すれば、ドイツや日本が敗北した後、東欧や東南アジアへソ連が影響力を行使するのは十分予期できたはずで、ソ連の戦後に予想される影響力を牽制するためにもドイツや日本の降伏条件を緩和すべきだったと、アメリカの政策を批判している

l  戦争を止められなくなった理由

アメリカにおける歴史の誤用は、ベトナム戦争への深入りにも表れている。それは「中国喪失」の体験。日本との戦いでともに勝利した国だったにもかかわらず、4年後の共産化への内戦の過程をアメリカはどうすることも出来なかった

戦争末期で内戦がその国を支配しそうになった時、飽くまで介入して自ら望む体制を作り上げなければいけないという教訓

歴史を学び考えてゆくことは、私達がこれからどのように生きて、何を選択してゆくのか、その最も大きな力となる

 

1章       日清戦争 「侵略・非侵略」では見えてこないもの

Ø  列強にとって何が最も大切だったのか

l  日本と中国が競いあう物語

アメリカの歴史学者ウォーレン・キンボールは、日中にとって戦争や戦いはgive and take1つの形態に過ぎないという。日中関係を日中が競いあう物語として見る

l  貿易を支える制度とは?

アロー戦争(185660)前後から、中国への列強の進出が激化

その際の基本となる制度が、民法と商法

l  華夷秩序という安全保障

開国後の日本は、列強の進出に対し、素早い法典編纂により、一国だけが突出しないように態勢を整える

中国は華夷秩序という、列強にとっては大変旨味のある資産をたくさん保有。中国を中心とする交易と礼に基づく東アジアの秩序(朝貢体制)が利用できれば、安全保障上も周辺諸国との交易上も列強にとっては便利

 

Ø  日清戦争まで

l  中国の変化

1880年代の中国を統率していたのは李鴻章で、軍隊の近代化改革を進め、ロシアの援助を受けた西部イリ地方独立の動きに対し武力で制圧、次いで朝鮮に対しても関与を積極化、日清間の武力衝突を回避

l  山県有朋の警戒

84年には安南を狙うフランスとの間に清仏戦争勃発

李鴻章の武力強化を背景にした対列強強硬政策への転換に早くから注目していたのが山県

l  福沢先生の登場

李鴻章と同時代人の福沢の『脱亜論』(1885)は、朝鮮内乱で中国に押され日本の影響力が下がる中、武力路線で中国を討ったのち朝鮮に向かうという決意を示したと取れる

l  シュタイン先生の登場

山県は1888年ヨーロッパ派遣、地方制度調査のためだったが、伊藤に憲法を教えたオーストリアのローレンツ・シュタイン教授に会い、主権線・利益線の考え方に接する

シベリア鉄道完成後のロシアの脅威への対策を質問した山県に対しシュタインは、ロシアによる朝鮮支配こそ脅威といい、朝鮮を中立に置くことが日本の利益線になると説く

 

Ø  民権論者は世界をどう見ていたのか

l  まずは国の独立が大事

1889年、帰国した山県は首相就任。90年第1回帝国議会で軍備拡張予算を審議

当時の議会は、反政府の民党が過半数で、彼らの関心は条約改正による国権の確立

l  それでは国会の意味とは何か

国の兵力は人心の集合にあり、そのために国会があると主張する民権派もあり、反政府といっても国のゆく道を左右する根本のところでは一致していた

l  「無気無力の奴隷根性!

日清戦争が近づいてきた頃の人々の戦争に対する感覚 ⇒ 民権派も日露戦争直前ほどは反対しなかったのは、清に勝って朝鮮に対する影響力を独占できるとの期待が大きかった

l  藩閥政治と対抗するために

藩閥から弾かれた民党メンバーは、朝鮮に新天地を求める ⇒ 朝鮮、台湾が領土となった際には、膨大な数の官僚が新たに誕生しており、民党が戦争に反対しなかった大きな理由

l  戦費をつくったのは我々だ

民党が戦争に反対しなかった別の理由は、議会を主導して政府の尻を叩き政費節減などによって巨額の戦費を調達できたという自負があったから

陸奥宗光外相の強力な主戦論に引っ張られたところも大きい

 

Ø  日清戦争はなぜ起きたのか

l  強い外務大臣

陸奥によれば、開戦のきっかけは東学党の乱。儒教を根幹とする東学を信奉していた農民の反乱の平定のため朝鮮政府は清国に出兵を要請。清国の出兵を知って日本も出兵、農民運動は朝鮮政府が独自で平定した後も両国軍は朝鮮に留まり朝鮮政府に改革を要求

l  中国側の反論は?

日本の出兵は合法だが、朝鮮の改革要求は独立国に対する内政干渉に当たると清国は非難したため、答えに詰まった日本が力づくで勝負に出たのが開戦の理由

l  日清戦争の国際環境

日清間に朝鮮問題でごたごたがあると、ロシアが開戦に乗じて南下してくるのを懸念したイギリスは、関税自主権(ママ)や治外法権を改訂を内容とする日英通商航海条約を締結して、ロシアの干渉を懸念していた日本の背中を押す。日本の勝利によって朝鮮のみならず清国の港も開港され、諸外国は大いに貿易上の利益を享受

l  普選運動が起こる理由

日清戦争後、国内の政治において最も変わったのは普通選挙運動

戦争に勝ちながら三国干渉で譲歩させられたのは政府が弱腰だからで、政府の勝手を許さないというところから国民の選挙権という発想に繋がる。外交について民意を反映させるのは議会しかないということ

 

2章       日露戦争――朝鮮か満州か、それが問題

Ø  日清戦後

l  戦争の「効用」

日露戦争戦勝の結果、列国が日本を大国と認め、公使館が大使館に格上げ

関税自主権の回復も1911年に達成

日清戦争後も朝鮮半島の問題は、ロシアとの間では未解決であり、日露戦争の結果として一番大きいのは1910年の日韓併合

l  何が新しい戦争だったのか

ロシアにとっての日露戦争とは、旅順攻防戦に於て日本の陸海軍が共同で作戦を行った特筆すべき新しい戦争の形だった

l  20億の資財と20万の生霊」

日本社会に与えた日露戦争の意義とは、旅順で13万の第三軍が7割の戦死傷者を出したので、日本は約20万の犠牲者(生霊)と約20億の金を支出して満州を獲得したのだという言い方をするようになるが、満州事変の根っこのところで、日露戦争の記憶を巡る日中間の戦いがあった

l  シュタインの予言が現実に

三国干渉は、朝鮮と清という2つの国家が日本に対して今後どういう態度をとるかという点で大きな意味を持っていた。朝鮮政府内で親露派の閔妃が力を持ち始めたため、日本側はクーデターによって倒したため、朝鮮政府はますますロシアを頼る

ロシアは清国から次々に極東進出のための権益を手に入れ、日本は悪夢を見ることに

 

Ø  日英同盟と清の変化

l  ロシアの対満州政策と中国の変化

政府が関与してからの義和団の乱は北清事変と呼ばれ、清国は列国に宣戦布告を出したため、ロシアがそれに乗じて北満州の権益守備のため黒竜江沿岸地域を占拠

義和団から自国の権益を守るために列国が北京に出兵、1902年までには段階的に撤収するとしていたが、ロシアはいつまでも満州から撤兵しないのを見てイギリスは日本と同盟を結んでロシアを牽制。日本はどちらかというと厭戦論が多数

l  開戦への慎重論

1903年、小野塚喜平次など7博士が満州問題に関する意見書を内閣や元老に提出、積極論で慎重な内閣の尻を叩く

桂首相、山県、伊藤の元老は、外交交渉に期待をかけ、開戦には慎重

l  ロシア史料からなにがわかったか

昨今公開されたロシアの史料からは、経済的に困窮し、地方反乱に手を焼いていた政府に対し、極東総督だったベゾブラーゾフが韓半島制圧を強硬に主張

この史料からは、厭戦論が支配していた日本より、ロシアの方が積極的だったことが判る

 

Ø  戦わなければならなかった理由

l  日露交渉の争点

日本がロシアから言質を取りたかったのは、韓国における日本の優越権の承認で、その代わりロシアの満州での権益、中東鉄道とその南支線の特殊利益を認める ⇒ 満韓交換論

ロシアは、日本が満州について論じる資格がないと否定したうえで、朝鮮海峡の自由航行権と、北緯39度以北の韓国の中立化を主張

l  韓国問題では戦えない

ロシアが強硬に韓国関係で主張してきた裏には、日本がそれほど韓国問題を重視していることに気づかなかった節がある

国際世論である英米にとって死活的だったのは満州で、大豆という世界的な輸出品を産する中国東北部をロシアが占拠したままにすることには反対で、日本が満州開放を大義とすることを後押ししていたところから、日露関係では日本は韓国問題を語ってこなかった

 

Ø  日露戦争がもたらしたもの

l  日本とアメリカの共同歩調

日清・日露とも帝国主義時代の代理戦争。ロシアに財政的援助を与える独仏に対し、日本を援助したのが英米。日清・米清の通商条約を同時に改訂して、満州地域の門戸を開放

l  戦場における中国の協力

日清戦争後、ロシアに接近した清は、ロシアの野望を警戒し、日本の満州の門戸開放に同調し始め、日露戦開戦後は中立を装いつつ日本に義捐金を送ったりしている

l  戦争はなにを変えたのか

ポーツマス条約によって日本は韓国に対する軍事上経済上の卓絶なる利益を確保すると同時に、満州の門戸を開放

日本国内においては、不平等条約の改正が1911年実現の確約を取り、国内的には巨額の戦費負担への不満を反映して初めての政党内閣が誕生 ⇒ 戦費調達のための7割増税が恒久税化され、選挙法で定める納税者が一気に倍増、有権者の層が変わり、政治家の顔ぶれも変わる。特に地主以外に商工業者・実業家が重視され、被選挙権も納税資格なしに拡大

 

3章       1次世界大戦――日本が抱いた主観的な挫折

Ø  植民地を持てた時代、持てなくなった時代

l  世界が総力戦に直面して

1次大戦で世界が変わる。ロシアのロマノフ、ドイツのホーエンツォレルン、オーストリアのハプスブルクの3王朝消滅が最大の変化。新しい社会契約が実現

戦争の影響の2つ目は、植民地に対する批判的な考え方が生まれたこと ⇒ 旧ドイツ領植民地を連合国側が処分するにあたっては、国連からの委任統治の形をとる

日本での最大の変化は、米騒動の状況を見て山県が原敬内閣の誕生を決意したこと(191821)

l  日本が一貫して追求したもの

日本がこの大戦から得たものは、極東におけるドイツ権益。一貫して植民地を追求

過剰人口のはけ口や失業問題の解決策としても植民地を用いる

l  日米のウォー・スケア

1906年のサンフランシスコ地震のあと、アメリカ国内では低賃金労働で虐げられていた中国人や日本人が暴動を起こして襲うのではないかという「ウォー・スケア」という現象が起こり、07年の日本人移民排斥法にも繋がる。

関東大震災の時の中国人や韓国人に関する流言蜚語と同じ現象

l  西太平洋の島々

日米関係がぎくしゃくする中、西太平洋の島々を持つのがドイツであることの重要性に日本が気付き、勝手にイギリスが西半球の海で安心して戦えるようにという口実でドイツ領の島々を占領する

l  山東半島の戦略的な意味

青島に続いてドイツが敷設した山東半島を東西に延びる膠済(こうさい)線という鉄道を占領。当時中国は、辛亥革命により清に代わって中華民国が誕生した直後の混乱状態にあり、日本は陸と海の両側から中国中心部に迫る重要拠点として、戦後も膠済線の領有を主張

 

Ø  なぜ国家改造論が生じるのか

l  変わらなければ国が亡びる

1次大戦が日本に与えた影響は、第2次大戦と同じくらい大きい

直接の損害は少なかったが、戦争の結果たくさんの国家改造論が登場、危機感が煽られた

l  将来の戦争

その理由と背景は、ヨーロッパでの惨状を我が事のように見たこと

戦争を終えたヨーロッパの国々が国内の痛手を早く回復しようとして、資源豊かな中国に殺到するだろう。中国の資源と経済を巡る戦いが1920年代以降の戦いだと予測

1907年の国防計画での仮想敵国の第一はロシア、18年の改訂ではロシア・アメリカ・中国、23年の改訂ではアメリカ。改訂の間隔の短さ、仮想敵国の変容を見ても第1次大戦後の日本の緊張感が如何にすごかったかがわかる

l  危機感の3つの要因

1次大戦によって日本が大きく変わっていく背景には、主観的な3つの危機感があった

1つ目は、大戦参戦に当たって、英米間の応酬があり、その事実が帝国議会で暴露された際、激しい政府批判が巻き起こる

2つ目は、終戦時の講和会議で日本が直面した米中からの対日批判に日本が深く衝撃を受けたこと

3つ目は、日本統治下の朝鮮で、三・一独立運動が講和会議の最中に勃発した脅威

 

Ø  開戦にいたる過程での英米とのやり取り

l  加藤高明とエドワード・グレイ

加藤高明外相は何でも英国のいうことを聞く英国病もあって、「日英同盟の予期せる全般の利益を防護する」との名目で参戦の裁断を得るが、英外相のグレイは日本の軍事行動の範囲をドイツの租借地の膠州湾に限定する

l  イギリスが怖れたこと

英海相チャーチルは日本の全面参戦を期待したが、イギリスにとって対中国貿易からの利益は重要で、日本の対中進出によってその権益が侵されることを懸念。中国の輸入相手を見ると、開戦時圧倒的にイギリスが大きなシェアを占めていたのが、大戦中から日本のシェアが高まり、終戦辺りからアメリカがシェアを拡大、満州事変の頃には3国が拮抗するまでになる

l  アメリカの覚書

日本の参戦に当たってアメリカは、日本が中国で領土拡張などしないことや内政に干渉する際には事前相談すること条件を付けてくる

この条件が野党に漏れて、国会で加藤外相は、日本の自主独立権への干渉だと突き上げられ、国会に対し黙っていたのは怪しからんということになり、さらには軟弱外交だと追及

 

Ø  パリ講和会議で批判された日本

l  松岡洋右の手紙

講和会議に報道係主任として出席した松岡は、会議後袁世凱に突き付けた対中21か条の要求の不条理さを吐露。政府に対し批判的な気持ちを抱きながら自らの職に任じていた

l  近衛文麿の憤慨

パリから戻った近衛も、会議の成り行きを力の支配だと慨嘆。アメリカでの人種差別を念頭にして国連憲章に人種平等を入れようとした日本の主張は却下され、一方でロシア革命の理想に対抗するためにアメリカが主張した民族自決のモンロー主義が通った

l  三・一独立運動

民族自決の想定していなかった朝鮮が、19年の高宗の崩御を機に独立を目指して動き出す

朝鮮軍司令官・宇都宮太郎(徳馬の父)は、独立運動は日本が無理に併合を進めた結果だとしてむしろ好意的だったが、弾圧は厳しいものがあり、それがアメリカでも問題視

 

Ø  参加者の横顔と日本が負った傷

l  空前の外交戦

ウィルソンの14か条を起草した著名なジャーナリスト、ウォルター・リップマンが、若き日に会議に参加

済南の領事だった吉田茂も、岳父だった次席全権大使の牧野に頼んで同行

l  若き日のケインズ

参加者中最も重要な人物がイギリス代表団のケインズ。会議の途中で辞職し、舞台裏を暴露。英仏が戦時中アメリカに対して負った莫大な借財をドイツの復興による賠償金によって賄おうとし、賠償総額を少しでも減らそうとしたが、アメリカが債務縮減を認めず、結果的にドイツに対する賠償が苛酷なまま残ってしまった

l  霊媒師・ロイド=ジョージ

連合国内の戦利品獲得競争を巧妙に裁いたのがロイド=ジョージ

l  批判の口実に利用される

講和会議で日本は要求通り山東の権益を確保するが、主観的には失敗とされる

アメリカ議会は、欧州の帝国主義国間の抗争に利用されるのを恐れ、ウィルソンの国際連盟構想を強く批判、さらにはウィルソンが締結しようとしているヴェルサイユ条約は日本に不当な植民地支配を認めるものだと批判

 

4章       満州事変と日中戦争――日本切腹、中国介錯論

Ø  当時の人々の意識

l  謀略で始まった作戦と偶発的な事件と

満州事変は、29年から関東軍参謀の石原莞爾らによってしっかりと事前に準備された計画

張学良軍19万に対し1万しかいない関東軍が自ら守る鉄道を爆破して中国側の仕業として張学良の軍事的根拠地などを占領したもの

37年の日中戦争は、偶発的な事件である盧溝橋事件をきっかけに戦争に発展してしまったもの。とはいえ前年から駐屯軍を違法に増強していた日本軍と、隣接して兵営を持つ中国軍の間は一触即発だった

l  満州事変と東大生の感覚

満州事変の直前、東京帝大生を対象に実施したアンケート調査では、満蒙への武力行使に対し、52%がすぐに行使すべきとし、36%が外交手段を尽くした後に武力行使すべきとして、計88%までが戦争を肯定。開戦直後の憲兵によるアンケートでも9割が軍を支持

l  戦争ではなく「革命」

日中戦争についても、日本人の多くが「戦争」と思っていなかった

大蔵省のエリート官僚も、英米の資本主義とソ連の共産主義に対して日本やその支配地域である東亜が起こした革命とする。戦争を破壊とは捉えず、より積極的な意味を見出す

 

Ø  満州事変はなぜ起こされたのか

l  満蒙は我が国の生命線

戦争というのは、相手国の主権に関わるような大きな問題、あるいは相手国の社会を成り立たせている基本原理に対して、挑戦や攻撃がなされるときに起こる

生存が脅かされるとか、過去の歴史を否定するようなことをされると戦争に直結する

帝大生の意識調査に加え、衆議院議員に転出した松岡洋右は30年国会で協調外交を批判し、「満蒙は我が国の生命線であり生存権」と主張

日露戦争後、日露は東北3省の満州と内外蒙古をロシアとの間で分割、南満州と東部内蒙古を日本が勢力範囲に置くことを日清条約で中国にも認めさせていたが、ロシア帝国の崩壊や中華民国の成立により、勢力範囲の意味について議論が噴出

l  条約のグレーゾーン

日中で議論の対象となったのは、中東鉄道南支線=南満州鉄道沿線に鉄道守備隊を置く権利と、中国による満鉄の併行線敷設禁止条項

日本が主張する満蒙特殊権益は、外国勢力からも承認されていないものだが、戦争に勝って締結した条約に書かれたはずの権益を死守しようという発想が日本側に強かったことは明白

l  陸軍と外務省と商社

辛亥革命とともに、外蒙古(現モンゴル)がロシアの支援で中国からの独立を画策

日本は、東部内蒙古に特殊権益の実態を作るために鉱山の採掘権を獲得

l  国家関連が大部分

日本側が実績作りのために満蒙に対して行った投資は、借款投資と直接投資合計で、満鉄とその関連及び日本政府の投資が85%に達し、国を挙げての前のめり状態

 

Ø  事件を計画した主体

l  石原莞爾の最終戦論

ドイツに留学して、ドイツ敗戦の原因を研究した石原は、長期消耗戦略に負けないため、経済封鎖を生き延びる態勢での戦争継続の重要性に目覚め、帰国後は木曜会で中堅幕僚を鼓舞して対中国謀略事件の基礎固めをしていく

石原によれば、日米を両翼とした航空機決戦こそが世界最終戦争であるとし、対ソ戦は中国の資源を利用すれば何年でも持久戦争ができると主張

l  ずれている意図

満蒙の特殊権益を守るという当初の主張から、次第に対ソ、対米戦にも持久できるような資源獲得基地としての満蒙を獲得する方向に目的がずれ始める

このずれを一気に突破して国民の不満に火をつける役割を果たしたのが世界恐慌

l  独断専行と閣議の追認

満州事変勃発で、政党内閣だった若槻首相は、関東軍による陰謀の疑念から、陸相に事件の不拡大方針の徹底を要求したが、周到に用意した陰謀は、最も精鋭だった朝鮮軍の独断越境に発展、一方若槻内閣は断固たる対応をとれないまま閣内不一致で総辞職。さらには右翼団体や秘密結社によるテロ事件頻発で政情が不安定になり、内閣による軍部統制が利かなくなる

l  蒋介石の選択

中国では、国民党主席の蒋介石は紅軍殲滅に注力、広東派とも対立していたので、とても満州事変の解決まで手が回らず、「公理に訴える」として国際連盟に仲裁を求める

張学良が実質支配していた満州を国家主権の下に収める狙いもあった

l  リットン調査団と報告書の内容

世界恐慌の影響で賠償金の支払いが遅れ、英仏とドイツの対立が深刻化するなか、東アジアの秩序は日本に依拠して確保し、中国に対しては他人に頼るなというのがイギリスなどの基本スタンスだったが、報告書は日本の中国における経済上の利益を認める一方で、日本の軍事行動は合法的な自衛の措置とは認められないとし、独立宣言した満州国も民族自決の結果とは認めず、中国の主権下にあるとした

l  吉野作造の嘆き

東京帝大法学部で政治や中国革命史を講じていた吉野作造は、日露戦争を正当化する論考も書いていたが、リットン調査団の報告を、ヨーロッパ的な正義の常識として妥当と見做し、日本が「土地や資源の国際的均分」を主張するのは理屈としては正しいが、その過不足の調整は「強力なる国際組織の統制」によって行われるべきとして日本のやり方に批判的

この時点で政党が戦争反対の声を上げられなかった理由は、田中義一内閣による共産党中心の治安維持法違反の大量検挙があった

 

Ø  連盟脱退まで

l  帝国議会での強硬論の裏側

議会の強硬派とみられていた政友会では、軍部の力を恐れて表だけは強硬論を唱えたが、連盟が満州国を承認しないとしても日本が連盟規約に違反したことにはならないので、連盟の「勧告に応じない」だけで脱退の必要はないというのが政友会の立場

連盟脱退の時の外相は内田康哉で、「国を焦土にしても」満州国を認めさせるとの強硬論を主張したが、その真意は、日本が強く出れば中国内の対日宥和派が日本との直接交渉に乗り出してくるだろうとの読みがあったといい、現に蒋介石は日本との決定的な対立の前に共産党を打倒しておくべきとして、日中宥和を進めようと動き出したため、内田は連盟の方は大丈夫だと天皇に奏上していた

l  松岡洋右全権の嘆き

天皇は内田の上奏を不安視したが、牧野内大臣や松岡も内田の強硬姿勢には批判的

イギリスは、米ソなど連盟非加盟国の意見も聞こうと宥和策を提案したが、内田は断固反対。当時米ソは自国のことで手一杯で日本などかまっている余裕はなかったが、日本側は完全に読み誤っていた

l  すべての連盟国の敵!!

1933年、満州国の一部に駐屯していた張学良軍を追い払うべく帝国陸軍は天皇の裁可を得て動き出すが、連盟が満州国の承認問題を未解決中に軍を動かすことは連盟規約によってすべての加盟国を敵に回すことになることに気づいた斎藤実(まこと)首相は天皇の裁可取り消しを奏上するが、元老の西園寺も侍従武官長の奈良武次も、天皇の権威の失墜と共に陸軍の暴走を恐れ、裁可の撤回を却下し、陸軍の満州での軍事行動が始まる

裁可の撤回に失敗した斎藤内閣はやむなく、連盟の対日勧告案が総会で採択された場合には自ら連盟を脱退するという方策を選択し、2日後には陸軍が行動開始、その2日後松岡が連盟総会の議場から退場

 

Ø  戦争の時代へ

l  陸軍のスローガンに魅せられた国民

満州事変から日中戦争までの6年間に日本で起こっていたことは、軍隊が物理的な力でもって政治に介入することは立憲制の世の中ではあってはならないことだが、政治がなかなか実現できないような、しかも人々の要求に適っているかに見えた政策を実現しようとした悩ましい事態になっていた

大恐慌の影響は農村に最も過酷に現れたが、農民に冷淡な政党に対し、陸軍は兵士の供給源として農村を重視、農山漁村の疲弊の救済こそ最重要な政策と主張

l  ドイツ敗北の理由から

陸軍はドイツ敗戦の理由を、武力戦では勝っていながら、経済封鎖による栄養失調や思想戦での戦意喪失などで国民が内部的に自壊したと分析し、今後の戦争の勝敗を決するのは「国民の組織」だと結論付け、国民を組織するためには政党任せではなく、陸軍自ら次の戦争に向けて国民を組織しなければならないといって動き出す

華北地域を影響下に収めたものの、蒋介石を経済的に支えていたのは華中の浙江財閥で、華北と満州地域を日本に奪われた華中の経済力は落ち込み、それに伴って日本の対中貿易も30年代を通じて10%近く落ち込む。日本自身の政策の影響で対中貿易が減退したにも拘らず、日本は中国政府の日本製品ボイコットが原因だとして中国に政策変更を迫る

l  暗澹たる覚悟

偶発的戦闘から始まった日中戦争が拡大した理由は、

蒋介石政権の外交を担ったのは太平洋開戦時駐米大使だった胡適。35年「日本切腹、中国介錯論」を唱え、2大強国の米ソを日中関係に巻き込むために中国は多大な犠牲を覚悟の上で日本と真正面から戦いに挑み、日本の戦線が伸び切る頃には列強が介入して日本の全民族は切腹に追い込まれるので中国が介錯するのだと説いた

l  汪兆銘の選択

胡適の主張に対抗したのは汪兆銘。共産化を恐れ、日本との妥協の道を探る。国民政府のNo.2でありながら日本の謀略に乗って蒋介石を裏切り、38年ハノイに脱出後日本の傀儡政権を南京に作る

胡適にしても汪兆銘にしても、ここまで覚悟している人たちが中国にいたので、絶対に戦争は中途半端な形では終わらなかった

 

5章       太平洋戦争――戦死者の死に場所を教えられなかった国

Ø  太平洋戦争へのいろいろな見方

l  「歴史は作られた」

開戦の第1報を聞いて、日本の知識人の反応で代表的なのは南原繁の、「人間の常識や学識を超えて戦争が起こされた」というもの

日本当局は、彼我の差を敢えて隠さず、物的な国力の差を克服するのが大和魂だとして、精神力を強調するために国力の差を強調さえしていた

国力差を理解しながらも開戦を積極的に支持したのも知識人

支那事変の重苦しさが、対英米戦には感じられないとして民間人も開戦を歓迎した

l  天皇の疑念

戦争の終結方法を最も懸念していたのは天皇。日中開戦時、軍部は3か月で終わらせると天皇に豪語したが4年経っても終わらないまま新たな戦争に突入することに不安を覚える

軍部は、何が何でも戦うというのではないが、大坂冬の陣のあと騙された豊臣氏のようになっては日本の将来のためにならないとして、いたずらに時を過ごすより、7,8割の勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭けるべきと主張

東条首相が提言した「戦争終末促進に関する腹案」は、独ソ戦を日本が仲介して和平を実現すれば、ドイツはイギリスを屈服させ、アメリカも戦争継続を断念するはずだというもの

l  数値のマジック

参謀本部の見通しでは、開戦当初こそ通商破壊と航空戦で相当の被害が出るが、事態は次第に回復して、戦いつつ自己の力を培養することが可能としているが、現実を踏まえない全くの希望的観測に基づいており、アメリカが総動員態勢に入った途端、前提が総崩れに

 

Ø  戦争拡大の理由

l  激しかった上海戦

37年、日中戦争は上海で戦闘が本格化、ドイツの武器供与を得た中国側の予想外の抵抗に遭う。ソ連も中ソ不可侵条約による武器援助を行い、英米も借款供与などで支援

l  南進の主観的理由

列国の中国支援に対し、日本は援蔣ルート閉鎖のため、仏領インドシナに飛行場建設を目論み、4041年の2回にわたり進駐。ドイツに蹂躙されたフランスは日本の進出を黙認

l  中国の要求

日本は諜報戦にも参加、36年までには国民政府の外交電報の解読に成功していたが、そこで傍受した電報の内容は、英米からいかに援助を引き出すかという交渉で、アメリカに対しては航空機の援助がなければ共産化してしまうと脅し、イギリスに対してはシンガポール防衛のための航空兵力提供を要求

l  チャーチルのぼやき

2次大戦の開戦当時、日本の内閣は不介入方針を決定するが、ドイツの快進撃で東南アジアの連合国側の植民地が手つかずでごろごろしているのを見て、対中持久戦の経済的基盤を、南方の資源獲得によって構築しようということになる

なかなか参戦してこない米国に対しチャーチルはアメリカ製の武器を買い続ける支払い能力がないとぼやくが、414月日米交渉開始の段階では、アメリカが武器貸与法によって英中への支援を明確に打ち出しており、陸軍は中国との和平をアメリカに頼った

l  72日の御前会議決定の舞台裏

417月の御前会議では南部仏印進駐を決定

前年三国同盟締結、4月にソ連との中立条約締結で4国同盟に近いものが出来たと思っていたら、6月に独ソ戦が開始され、その気に乗じてソ連の後ろを衝けという北進論が出てきたため、それを潰すために南部仏印進駐の声が上がり、陸海軍とも抵抗なく裁可

フランス領だったところであり、アメリカが問題にすることはないとタカを括っていたら、アメリカが独ソ戦でのソ連を力づけるために日本の動きを牽制してきた

 

Ø  なぜ、緒戦の戦勝に賭けようとしたのか

l  特別会計

78割勝利の可能性ある緒戦に賭けるという考え方は、日中戦争が始まった37年から英米相手の戦闘のため資金や物資も含めて周到に準備してきたもの

開戦とともに特別会計が組まれ、「臨時軍事費」が計上されると、戦争終了まで決算報告は行われないため、日中戦争を戦いながら、太平洋戦争向けの準備が可能

l  奇襲による先制攻撃

陸軍は英領マレー半島のコタバル上陸を、直後に海軍は真珠湾奇襲を行う

日露戦時の旅順港での体験から思いついたもので、港に停泊した敵艦船を叩けば、再建に2年はかかり、その間に東南アジアの制空権を確保すれば面での防衛が可能と考えていた

l  真珠湾はなぜ無防備なままだったのか

真珠湾を指揮した淵田美津雄は、戦後キリスト教の宣教師となり米国内を布教して回った

アメリカ側は日本の奇襲を予測しながら、真珠湾が無防備だったのは、日本の技術を侮っていたから。航空機から高度100mで魚雷を投下すると海底60mに沈み、その時の衝撃でスクリューが回って攻撃目標に向かって進むので、水深が12mと浅い真珠湾では魚雷攻撃はあり得ないと思われていたが、日本軍は浅い海底に魚雷を落とす訓練を行っていた

l  速戦即決以外に道はあったのか

米英ソ中以外で総力戦を戦える国はない

同じように持久戦を避けたかったドイツは、武器輸出を見合いに希少資源確保を求めて中国に接近した後、ソ連による世界の共産化の動きに対抗するために日本に接近するが、そこには共産主義をどうするかというイデオロギーと地政学があった。持久戦を戦えない日独が、ソ連を挟撃しようと考えたところに、アジアの戦争である日中戦争が第2次大戦の一部になっていった背景がある

l  日本は戦争をやる資格のない国

国家の安全とは何かというところまで深く考えたのが海軍軍人の水野廣徳で、29年に『無産階級と国防問題』を著し、島国で領土的な安全が確保されている以上日本の国家としての不安材料は経済的な不安だけで、通商関係の維持が国家としての生命。物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品も生活必需品ではない生糸である点など、日本は致命的な弱点を負っているので、武力戦では勝てても持久戦、経済戦には絶対勝てない、ということは日本は戦争する資格がないと主張、すぐに弾圧にあう

 

Ø  戦争の諸相

l  必死の戦い

米ソ中が連合国に加わることで圧倒的に有利となる

岩手県の統計では、戦死者の9割が最後の1年半に集中しているが、戦争は446月のマリアナ沖海戦で絶対的な決着がついていた

勝敗の分かれ目は426月のミッドウェー海戦だが、その時はまだ陸軍が東南アジアに展開していて日本軍の不敗神話は健在

l  それでも日本人は必勝を信じていたのか

戦場から手紙が来なくなったことで身内が亡くなったことは分かっても、その情報が他の地域に伝わらず、日本が全体で敗戦に向かっていることが国民には伝わりにくかった

株価だけは民需関連が上昇して、戦時から平時に世の中が変化するのではないかという見通しを立てた人がいた

l  戦死者の死に場所を教えられない国

太平洋戦争が受け身の形で語られる理由の1つは、日本という国は、戦争末期の1年半の間に死んだ兵士の家族に、どこでいつ死んだのか教えることができなかった国だった

日本古来の慰霊の考え方というのは、若い男性が未婚のまま子孫を残すこともなく郷土から離れて異郷で人知れず非業の死を遂げると、こうした魂はたたる、と考えられていたので、戦争などで外国で戦死した青年の魂は、死んだ場所死んだ時を明らかにして葬ってあげなければならない

折口信夫には最愛の弟子・藤井春洋がいたが、45年春硫黄島で戦死。無念の思いに怒りを込めて歌う

l  満州の記憶

受け身で語られる第2の理由は、満州に絡む国民的記憶がある。当時満州にいた200万の老若男女が同時に体験した歴史的な事件というのは、民族として重い体験。引き揚げも含め、過酷な体験などの惨禍を産んだ根本には、日本政府の政策があった

長野県の中でも特に南信には開拓移民を多く出した村が多かったが、それを進めたのは国や県の特別助成による半強制的分村移民政策であり、結果として悲惨な結果を招く

l  捕虜の扱い

日本人が戦争というものに直面した際の特殊性がデータとして正確に示されたのが捕虜の扱い方。ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率が1.2%に対し、日本軍の捕虜では37.5%と突出しているのは、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格

日本軍の体質は、国民の生活にも通底。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国

工場の熟練労働者には徴兵猶予があったが、農業にはないため、農業生産が戦争末期急落

一方のドイツは、降伏の2カ月前までのエネルギー消費量は10年前を上回り、国民に配給する食糧だけは確保され、国民が不満を持たないように配慮された

l  あの戦争をどう見るか

2005年時点の意識調査で、米中との戦争を侵略戦争だと思う人は34.2%、アメリカとの戦争は違うと思う人が33.9

大戦当時の日本の政治・軍事の指導者の戦争責任を巡って、戦後十分に議論されてきたと思うかとの問いに対しては、まだ不十分という回答が5割を超えている

天皇を含めて当時の指導者の責任を問いたいと思う姿勢と、自分が生きていたら助成金欲しさに分村移民を募る側に回っていたのではないかと想像してみる姿勢、この2つの姿勢をともに持ち続けること、これが一番大切なこと

 

あとがき

私たちは日々の時間を生きながら、自分の身の回りで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下している。また現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行い、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っている

そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと思う。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはず

 

 

 

素粒子

2020102 1630

 菅内閣の本性が現れた。政府を批判した学者らの日本学術会議会員への任命拒否だ。

    

 なぜこの6人を? 説明はない。決定の理由や検討の経緯は文書に残してあるのか。

 選挙で選ばれた議員がすべてを決める。批判者は人事で脅して黙らせればいい――

 異論にも耳を傾ける度量も寛容もない。権力の過信と傲慢(ごうまん)が、憲法の保障する「学問の自由」を揺さぶっている。

 

 

安保・沖縄政権にもの言う学者除外?日本学術会議人事

宮崎亮嘉幡久敬、三島あずさ 菊地直己、石倉徹也

2020102 500分 朝日

 「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で、長年守られてきた人事の独立が破られた。会議が新会員として推薦した105人のうち6人が、菅義偉首相によって任命されなかった。政府から理由の説明は一切なく、会員らからは「学問の自由を保障する憲法に反する行為」と批判が相次いだ。

 「6人の方が新会員に任命されなかった。初めてのことで、大変驚いた。菅首相あてに文書で説明を求めたが、回答はなかった」

 オンラインを含め、会員ら230人が出席して開かれた1日の日本学術会議の総会。会長を退任した山極寿一・京都大前総長は、あいさつの冒頭でこう切り出した。

 同会議は8月末、政府に105人を推薦していた。しかし、6人が任命されないことを山極氏が知らされたのは928日の夜。総会後の取材に、「私たちは理由を付して新会員を推薦したのに、理由をつけずに任命しないという事実がまかり通ってしまったことは大変遺憾。学術にとって非常に重大な問題だ」と話した。

 新会長に選ばれたノーベル賞受賞者の梶田隆章・東京大宇宙線研究所長も、「極めて重要な問題で、しっかり対処していく必要がある」と述べ、6人を任命しなかった理由について菅首相に説明を求めることを検討する、とした。

 6人のうち、小沢隆一・東京慈恵会医科大教授、岡田正則・早稲田大教授、松宮孝明・立命館大教授は1日、梶田会長に、任命拒否の撤回に向け、会議の総力をあげてあたることを求める要請書を手渡した。

 松宮氏には929日夕、会議の事務局から突然、「名簿から落ちている」と電話があり、「政府に問い合わせたが、理由は言えないということだった」という趣旨の説明をされた。

 要請書で3氏は、首相から理由の説明がなく、「私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、憲法23条が保障する学問の自由の重大な侵害」「(任命が首相の意のままになれば)会議の地位、職務上の独立性、権限は、すべて否定されてしまい、学問の自由はこの点においても深刻に侵される」などとしている。

 小沢氏は取材に「私は2015年、安保法制をめぐる国会での中央公聴会で『憲法違反だ』と述べた。仮に、学問上の意見を国会で述べたことが任命拒否につながっているのだとすれば、学問の自由の侵害だ」と話した。

日本学術会議除外された6人は 「学問への介入」と批判

日本学術会議は「学者の国会」 科学政策を政府に提言

 任命されなかったほかの学者は、政府に対してどのような発言をしてきたのか。

 岡田氏は、米軍普天間飛行場の移設問題で、沖縄県に対抗する防衛省がとった法的手続きについて、「行政法の常識からみて異常」と批判していた。宇野重規・東京大教授は1312月、ほかの研究者らとともに特定秘密保護法案に反対の立場を表明。加藤陽子・東京大教授と松宮氏は、「共謀罪」法案などに反対の立場を取っていた。

 加藤氏は「新組織が発足する直前に抜き打ち的に連絡してくるというのは、多くの分科会を抱え、国際会議も主催すべき学術会議会員の、国民から負託された任務の円滑な遂行を妨害することにほかならない」と批判。「学問の自由という観点のみならず、学術会議の担うべき任務について首相官邸が軽んじた点も問題視している」とコメントした。

 副会長を退任した三成美保・奈良女子大副学長は「一部を受け入れて、一部を拒否するのは、恣意(しい)的と言わざるをえない。学術会議だけでなくて、アカデミア全体が萎縮する」。日本学術会議の会員で、関西地方の大学教授は取材に「学問と政治的立場は別に考えるべきもの。仮に政府の介入があるとすれば、さまざまな有識者会議の信頼性にも疑問符がつくことになる」と話した。(宮崎亮嘉幡久敬、三島あずさ)

「戦争目的の研究はしない」姿勢 自民党内に根強い不満

 1日の加藤勝信官房長官の記者会見では、「任命拒否」に対する質問が相次いだ。憲法が保障する「学問の自由」への政治介入ではないかとの問いには、加藤氏は「直ちに学問の自由の侵害にはつながらない」と説明。人選の理由について「これまでもコメントしていない」などと述べるにとどめる一方、法律で定められた手続きに従った対応だと強調した。

 学術会議は、国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。任期は6年間。3年ごとに半数が交代する。50年と67年には、軍事研究のあり方について「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を発表。安倍政権下の2017年には、自民党国防部会の強い主張を背景に予算が増大した防衛装備庁の研究助成制度をめぐり、過去2回の声明を継承するとの声明を改めて出した。

 こうした学術会議の姿勢には、自民党内で不満が根強かった。最近は、政府主導で軍事技術の推進につなげるため、政府の「総合科学技術・イノベーション会議」に権限を集中させるべきだとの意見も出ていた。甘利明税調会長は今年6月の民放番組で「世界はデュアルユース(軍民両用)で、最先端の技術はいつでも軍事転用できる」と指摘。学術会議に触れたうえで「日本だけがアカデミアがこれはやっちゃいけない、これはいいというのは非常に問題だ」と語っていた。

 立憲民主党安住淳国会対策委員長1日、記者団に「思想的なことなどを理由にメンバーを外したとなれば看過できない」と批判。特定の政府提出法案への賛否が人選の判断材料になっている可能性も示唆したうえで「徹底的に国会で追及する」と語った。(菊地直己、石倉徹也

「萎縮効果考えているとしか思えない」

 〈日本学術会議元会長の広渡清吾・東大名誉教授(法社会学)の話〉 日本学術会議法では、会員は学術会議の「推薦に基づいて」総理大臣が任命するとあり、これまでは推薦したとおりに任命されてきた。今回は法の趣旨を曲げており、違法の疑いが大きく、かつ不当だ。問題は人文社会系の学者に限定して任命を拒否したこと。現代社会を批判的に分析しないとなりたたない学問が狙い撃ちされている。威嚇すれば怖がるだろうという、萎縮効果を考えているとしか思えない。

日本学術会議法の会員選考に関する条文(抜粋)

72項 会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。

17条 日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又(また)は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。

日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令(抜粋)

任命を要する30日前までに書類を提出することにより行うものとする。

 

 

 

(インタビュー)任命拒否する政権 歴史学者・加藤陽子さん

2021715日 朝日

 日本学術会議の会員に推薦されながら、菅義偉首相によって任命を拒否された問題が報道されてから9カ月余り。歴史学者の加藤陽子さんがインタビューに応じた。1930年代を中心にした戦前の日本近代史の研究で知られる加藤さんは、拒否した理由を説明せず、批判されても見直しに応じない現政権を、どう見ているのか。

 ――菅首相が6人の任命を拒否したと報道されたのは昨年10月でした。自身の任命が拒否されたことをどのように知ったのですか。

 「9月29日の午後5時ごろに学術会議の事務局から電話があり、任命されなかったと伝えられました。『寝耳に水』という言葉が実感として浮かびました。私のほかにも任命されなかった推薦者が誰かいる、とも言われています」

 ――詳細に覚えているのですね。日時は確かなのですか。

 「確実です。私はこの件が始まって以降、記録として残すために日記をつけていますので」

 「日記には学術会議のことだけでなく、その日の新規感染者数などコロナ禍の情報も書いています。社会の雰囲気や同時代的な偶然性も含めて記録するためです」

 ――拒否された6人の中で見ると、加藤さんはこの問題について人前であまり語っていない印象があります。会見には出ましたか。

 「出ていません。ひと様の前に顔を出して語ることには積極的ではありませんでした。研究者としての就職を控えた人たちを大学で多く指導しているので、彼らの未来に何か負の影響が及んではいけないと懸念したのが要因です」

 ――では、なぜこの段階でインタビューに応じたのでしょう。

 「政府とのやりとりが先月末で一区切りを迎えたことが一因です。私たち6人は、任命が拒否された理由や経緯がわかる文書を開示するよう政府に請求していました。たとえ真っ黒に黒塗りされていようと何かしらの情報は開示されるものと思っていたのですが、実際の政府の回答は『文書が存在するかどうかも答えない』という非常に不誠実なものでした」

 ――6月に出された不開示決定ですね。どう感じましたか。

 「納得できませんでした。回答した政府機関のうち内閣官房は、該当する文書は存在しないと通知してきました。内閣府の回答はさらにひどく、文書が存在するかどうかを明らかにしない『存否応答拒否』でした。文書が隠滅された可能性もあると思います」

 「インタビューに応じたもう一つのきっかけは、報道機関などによる調査が進んで、学術会議の自律性が前政権の時代から何年もかけて掘り崩されてきた過程が明らかにされたことです。関係者に迷惑をかけずに私が発言できる状況が整ってきたと判断しました」

          

 ――任命拒否が判明した直後の昨年10月、加藤さんは、菅首相の決定には法的に問題があるとするメッセージを公表していますね。

 「日本学術会議法は、会議の推薦に基づいて首相が会員を任命すると定めています。この首相の任命権については1983年に中曽根内閣が答弁しており、首相が持つのはあくまで形式的な任命権であって会議の推薦が尊重される、との法解釈が確定していました」

 「しかし今回の菅首相による拒否は、会議の推薦を首相が拒絶できるという新しい法解釈に立っています。つまり政府の解釈が変更されているのです。解釈変更が必要になった場合には政府は国会で『どういう情勢変化があったから変更が必要になったのか』を説明する義務があるはずです。けれど菅首相は説明していません」

 ――同じメッセージの中で、決定の背景を説明できる決裁文書はあるのか、とも問いましたね。文書にこだわった理由は何ですか。

 「私は日本近代史を研究する者として、行政側が作成した文書を長らく見てきました。だから、何か初めてのことをするときには文書記録を作成する傾向が官僚にはある、と知っていたのです」

 「ただ近年、官僚が官邸からの要求に押され、適切に文書を作成できない事態が生まれていると感じていました。安倍晋三政権の時代からです。集団的自衛権に関する憲法解釈を閣議決定で変えたり、検察庁幹部の定年延長に関する法解釈を政府見解を出すだけで変えたり……。法ができないと定めていることを、法を変えずに実行しようとする人々が、どういう行動様式をとるのか。それを確認したい気持ちが今回ありました」

 ――任命拒否について菅首相は十分な説明をしていない、と批判してきましたね。何をすれば「十分な説明」になるのですか。

 「日本が立憲的な法治国家である以上、行政府の行為は、国民や立法府からの批判的検討を受ける必要があります。その行政活動には法的な権限があるのか、その権限を行使することに正統性があるのか。自らが任命拒否した行為について国会でそれらを正面から答弁することが、説明です」

 「首相が『人事の問題なのでお答えを控える』と言うとき、彼は『なぜ外されたのか分かるよね?』と目配せをしているのだと思います。自民党を批判したからだろうとか、政府批判にかかわったからだろうとか。国民がそう忖度(そんたく)することを期待しているから、説明しないのでしょう。忖度を駆動させない対策が必要です」

          

 ――政権や指導者が国民や議会に十分な説明をしないことは、社会に何をもたらすのでしょう。

 「日本の歴史を振り返れば、政権や指導者が国民に十分な説明をしなくなりやすいのは、対外関係が緊張し安全保障問題が深刻化したときでした。しかし歴史は、そうした傾向が国民に不利益をもたらしたことも教えます」

 「戦前の日本は、満州事変(1931年)を機に国際連盟を脱退し、常任理事国であるという巨大なメリットをみすみす手放してしまいました。もし脱退の必要性を政権が国民に説明していたら、それは国益に資するのかという幅広い検討機会が生み出され、脱退しない展開もありえたはずです」

 ――ご自身を菅首相が外した理由は何だと推測していますか。

 「歴史記録を長年眺めてきた者の直感ですが、2014年ごろから安保法制に反対したり『立憲デモクラシーの会』に参加したりしたことを含めて、政府批判の訴えをしたからでしょう。新聞や雑誌にコラムを書いたり勉強会で講師をしたりといった大衆的な影響力を警戒されたのだと推測します」

 「任命拒否問題の本質は、政府が法を改正せずに、必要な説明をしないまま解釈変更を行った点にあり、それは集団的自衛権の問題や検察庁幹部の定年延長問題とも地続きであること。私が国民の前でそれを説明することができる人間であったことが、不都合だったのではないでしょうか」

          

 ――菅政権が任命拒否した人数は、なぜ6人だったのでしょう。謎だとされている部分です。

 「象徴的な数字として使われたのではないかと私は見ます。前回17年に105人の新会員が任命された際、当時の学術会議会長は政府側から要求されて『事前調整』に応じています。推薦者の名簿に本来の人数より6人多い111人の名前を書き、見せたのです」

 「しかし今回は山極寿一会長(当時)が事前調整に応じず、初めから105人ぴったりの推薦名簿を出しました。それに対する政権の反応が、私たち6人を外す決定です。『次回は2017年のように6人多く書いて来いよ』というシグナルなのでしょう」

 ――任命拒否された6人のうち加藤さんを除く5人は、学術会議会長から連携会員や特任連携会員に任命されるという形で実質的に会議の活動に参加していますね。加藤さんは断ったのですか。

 「はい。昨年11月に学術会議の幹部と話した席で『特任連携会員として会議に参加する道もありますが、どうですか』と聞かれ、希望しませんと伝えました」

 ――なぜですか。

 「『実』を取るより『名』を取りたいと思ったからです」

 「特任連携会員になって学術会議の活動を支援することには確実なメリットがあります。実を取る道と言えるでしょう。ただ、政府が問題のある行為をした事実、批判されても決定を覆そうとしない態度をとっている事実を歴史に刻むことも大事だと私は考えました。実質的に欠員が生じたままにしておくこと、私が外されたという痕跡を名簿の上に残しておくことが、名を取る道です」

 ――歴史に事実を刻み得たとしても、それによって政治がすぐに良くなるとは思えません。

 「すぐには変わらないかもしれません。しかし事実として、出入国管理法の改正にしても東京都議選の結果にしても五輪の進め方にしても今、社会は政府や与党の望む通りには動いていません」

 「6人が外されたこと。6という数字には特別な意味が込められていたかもしれないこと。みんなでそれを覚えておくことが、もう一度6人を削ろうとする動きへの牽制(けんせい)球になるでしょう。そこに希望を見いだしたいと思います」(聞き手 編集委員・塩倉裕)

     *

 かとうようこ 1960年生まれ。東京大学教授。小林秀雄賞を受賞した「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」など戦前期に関する著書で知られる。

 

 

 

 

Wikipedia

加藤 陽子(かとう ようこ、1960 昭和35年〉10 - )は、日本の歴史学者東京大学教授。専攻は日本近現代史[1]博士(文学)[2]。本名は野島 陽子[2]埼玉県さいたま市の出身[2]

2010年に著書『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で小林秀雄賞受賞[3]

目次

1来歴

2略年譜

3業績・評価

3.1研究

3.2山川出版社『詳説日本史』

3.3『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

4著書

4.1単著

4.2共著

4.3共編著

4.4訳書

5脚注

5.1注釈

5.2出典

6外部リンク

来歴[編集]

幼い頃は、当時の古代エジプトブームに影響され、考古学者になりたいと考えていた[4]。女子校の桜蔭中学校・高等学校で学び、部活動では社会科部に所属して、文化祭では「世界恐慌と一九三〇年代のアメリカ」をテーマにして発表を行ったという[4]。図書館の蔵書数が最も多いことから東大の受験を決め、本を読むことが大好きであったことと自立した人間になりたいという思いから、研究者あるいは作家になることを目指していた[5]

大学に入学後は、第二外国語としてロシア語を選択して読んだロシア文学や、伊藤隆による教養課程向けの「戦争と知識人」をテーマとした講義に影響を受けている[4]。二年生の頃に日本近代史を専攻することを決意し、文学部の国史学研究室において、「右寄り」とも評された伊藤隆が指導教授となった[4]伊藤隆の指導のもとで、はじめて学問的な面白さに目覚め、大学院時代の研究が『模索する一九三〇年代』の後半の日米開戦前の外交部分にあたる、と語っている[6]

19893月に東大の博士課程を単位取得満期退学し、同年4月から山梨大学教育学部の専任講師となった[2]。この頃、駒場で最初に会った男性である野島博之と結婚した[6]1992年から1993年には文部省在外研究員として米スタンフォード大学やライシャワー日本研究所に滞在する[2]1993年には初の著書となる『模索する一九三〇年代』を山川出版社から出版し[4]1994年には助教授として東大に移っている[2]

1999年以降は山川出版社の教科書『詳説日本史』の執筆に携わり、このときに教科書執筆の困難を感じたことがきっかけとなり、栄光学園の中高生向け講義をまとめた『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を出版し、同作は2010年に小林秀雄賞を受賞している[4]2017年には『戦争まで』で紀伊國屋じんぶん大賞を受賞している[2]

このほか、小泉政権以降、政府の公文書管理に関わり、内閣府公文書管理委員会委員や「国立公文書館の機能・施設の在り方等に関する調査検討会議」の委員を歴任した[7]。上皇明仁も、天皇在位中は、歴史談義のために、保阪正康半藤一利とともに加藤をしばしば招いていた[8]2004年以降は、読売新聞において書評面の担当者の一人を努めている[2]

2013年成立の特定秘密保護法には反対し[2]、また、2014年には立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の一人となった[9]

2020年には、日本学術会議の新会員候補に推薦されたが、他の5名の候補とともに、首相の菅義偉によって任命を拒否された[2][10]

略年譜[編集]

1979 桜蔭高等学校卒業

1983 東京大学文学部卒業(第二類 国史学専修)

1989 東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位取得満期退学、山梨大学教育学部専任講師

1991 山梨大学教育学部助教授

1994 東京大学文学部助教授

1995 東京大学大学院人文社会系研究科助教授

1997 「徴兵制と近代日本」で東大博士(文学)

2007 東京大学大学院人文社会系研究科准教授

2009 同教授

2020 史学会理事[11]

業績・評価[編集]

研究[編集]

近代日本の軍事史および外交史を主要な専門分野としている[2]秦郁彦は「『模索する一九三〇年代日米関係と陸軍中堅層』、『徴兵制と近代日本』、『戦争の日本近現代史』などはいずれも力のこもった手堅い学術的著作で、「硬直したイデオロギーとは無縁」と言ってよい」と評している[12]

90年代においては、軍部の研究をタブー視する伝統的な学界の風潮と、「新しい歴史教科書をつくる会」の動きの両極のなかにあって、加藤の戦争研究には困難な面があったという[4]。「右でも左でもなく居直りでも自虐でもない、国民の集合知を支え得るような歴史像を作り上げること」が目標であると語っている[5]

東大での指導教授だった伊藤隆は、加藤の研究を高く評価しつつも、加藤が後に「新左翼」へと回帰したと述べている[13]。また、斉加尚代によると、伊藤は「彼女はぼくが指導した、とても優秀な学生だった。だけど、あれは本性を隠してたな」と語ったという[14]

韓国においては、「安倍晋三の歴史認識と集団自衛論に反対する進歩的研究者」として知られているとされる。他方で、韓国史学会会長のキム・ドゥクジュンは、家永三郎と比較した上で、加藤の研究について、植民地の問題を十分に論じておらず、日本の侵略を正当化していると批判している[15]

山川出版社『詳説日本史』[編集]

前述のとおり、加藤は1999年頃から山川出版社の教科書『詳説日本史』の執筆に関わっているが、この教科書は加藤自身にとっては満足のいく出来ではなかった[4]。このときの経験をもとに、歴史研究の「凄み」を高校生に示したいという内容の「私が書きたい『理想の教科書』」という論考を2002年の『中央公論』に発表している[4]。この論考を読んだ編集者の声掛けをきっかけに、のちに『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が執筆されることとなった[4]

この教科書『詳説日本史』については、昭和期の執筆者が伊藤隆から弟子の加藤陽子に交替したことで、大きな書き換えが行われたともいわれる[16][17]南京事件に関する記述を、伊藤隆が「日本軍は非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺害し」[注釈 1]と一行ですませていたのを、(見本本において) 加藤は分量を三倍近くふくらませ、「日本軍は南京市内で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民 (婦女子をふくむ) および捕虜を殺害した (南京事件)。犠牲者数については、数万人~四〇万人に及ぶ説がある」と書き直した[16][注釈 2][注釈 3]。これについて、上杉千年は「理科の教科書に〈月に兎がいるという説がある〉と書くに似ている」と非難し[20]、秦郁彦も加藤について「左翼歴史家のあかしともいうべき自虐的記述は、正誤にかかわらず死守する姿勢が読み取れる。つける薬はないというのが私の率直な見立てである」と非難している[21]

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』[編集]

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、栄光学園中学校・高等学校の歴史研究部の生徒たちに行った講義をまとめた書籍である[22]。きっかけは、上記の高校教科書の執筆経験を踏まえ、中央公論に発表した文章「私が書きたい『理想の教科書』」の内容を、編集者の鈴木久仁子がぜひ実行するようにと説得したことにあった[4]

日清戦争から太平洋戦争までの日本の戦争を取り扱っており[22]、「侵略・被侵略」という構図ではなく、他国からの観点や国際情勢、社会への影響といった大きな視点から戦争を論じる点に特徴がある[23]。また、日本切腹中国介錯論を述べた胡適や、太平洋戦争の前から戦争は不可能だと主張した軍人・水野広徳といった、一般にはあまり知られない人物も紹介している[22]

沼野充義は、中高生向けだからといって叙述のレベルを下げることなく、最新の研究成果も用いつつ、読みやすく、かつ「歴史の流れを本当に決めるものは何か見抜こうとする姿勢」がある書籍となっていると評価している[23]。同書は、20099月時点で78万部と売れ行き好調となっており[22]、政治家の片山虎之助も本書を読み「歴史を「新鮮なもの」にしてくれる書物」だと述べている[24]。また、同書は第9小林秀雄賞を受賞している[4]

本書の続編として『戦争まで』があり、同様の中高生向け講義をまとめたもので、太平洋戦争に至るまでの国際交渉を扱っている[25]紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した[2]。歴史学者の成田龍一は、指導者間の複雑な国際交渉を巧みに叙述している点を高く評価している[25]。他方で、成田は、加藤の著作が指導者レベルの問題のみに焦点を当てていることで、「国民」の問題を等閑視しており、結果として戦争教育と平和教育の分断を招く恐れがあると主張している[25]

著書[編集]

単著[編集]

『模索する1930年代――日米関係と陸軍中堅層』山川出版社1993年、新装版2012

『徴兵制と近代日本――1868-1945吉川弘文館1996

『戦争の日本近現代史――東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで』講談社現代新書2002

『戦争の論理――日露戦争から太平洋戦争まで』勁草書房2005

『戦争を読む』勁草書房、2007

『シリーズ日本近現代史(5 満州事変から日中戦争へ』岩波新書2007

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社2009年。新潮文庫2016 解説橋本治 - (第9小林秀雄賞受賞)。

NHK さかのぼり日本史(2)――昭和 とめられなかった戦争』NHK出版2011

『とめられなかった戦争』 文春文庫2017

『天皇の歴史 08巻 昭和天皇と戦争の世紀』講談社2011年。講談社学術文庫2018

『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版社、2016年(第7紀伊國屋じんぶん大賞受賞)

『天皇と軍隊の近代史』 勁草書房〈けいそうブックス〉、201910月。ISBN 978-4326248506

共著[編集]

半藤一利保阪正康戸高一成・福田和也・中西輝政)『あの戦争になぜ負けたのか』 文春新書2006

佐高信)『戦争と日本人――テロリズムの子どもたちへ』 角川oneテーマ212011

佐藤優・福田和也)『歴史からの伝言――“いまをつくった日本近代史の思想と行動』 扶桑社新書2012

(半藤一利)『昭和史裁判』 文藝春秋2011年,文春文庫2014 ISBN 978-4-16-790038-0

内海愛子大沼保昭田中宏)『戦後責任――アジアのまなざしに応えて』 岩波書店2014

雨宮昭一鹿毛利枝子天川晃猪木武徳五百旗頭真)『戦後とは何か() 政治学と歴史学の対話』 丸善出版2014

共編著[編集]

黒田日出男加藤友康保谷徹 『日本史文献事典』(弘文堂, 2003年)

『詳説日本史B』(山川出版社, 2002- 文科省検定教科書

(歴史学研究会) 『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』 績文堂出版、20192月。ISBN 978-4881161340

訳書[編集]

川島・高光佳絵・千葉功・古市大輔)ルイーズ・ヤング著『総動員帝国――満洲と戦時帝国主義の文化』(岩波書店, 2001年)

脚注[編集]

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注釈[編集]

^ より正確には「このとき、日本軍は非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺害し、敗戦後、東京裁判で大きな問題となった (南京事件)[18]

^ より正確には「占領から一ヵ月余りの間()、日本軍は南京市内()で略奪・暴行をくり返したうえ、多数の中国人一般住民 (婦女子をふくむ) および捕虜を殺害した (南京事件)犠牲者数については、数万人~四〇万人に及ぶ説がある()なお、外務省には、占領直後から南京の惨状が伝えられていた()。」[18]

^ 正誤訂正によって、「南京陥落の前後」 「市内外」 全面削除 「南京の状況は、外務省ルートを通じて、はやくから陸軍中央部にも伝わっていた」と変わった[19]

 

 

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