父 犀星と軽井沢  室生朝子  2021.7.11.

 

2021.7.11. 父 犀星と軽井沢

 

著者 室生朝子 1923年生まれ。

 

発行日           1987.9.25. 印刷       10.10. 発行

発行所           毎日新聞社     

 

²  愛宕山の麓の家

犀星が初めて軽井沢に行ったのは大正97

同年3回にわたり、「旅のノートから」と題した随筆を報知新聞に寄稿

私は大正128月生まれ。直後に関東大震災にあい、故郷金沢に帰る

震災で母を失った堀辰雄は、金沢の犀星を訪ねた後軽井沢に向かう

私は昭和2年から犀星がなくなる前年の昭和36年まで、毎年夏を軽井沢で過ごす

昭和19年から24年までは軽井沢に疎開。23年にはつるやで正宗白鳥氏の仲人で結婚式

軽井沢は、家族4人にとって故郷と同じ意味を持つ所で、東京の生活の中で知ったこと、教えられたことより、軽井沢で得た、自然を通しての小さい知識のようなものは多かった

 

『碓氷山上之月』(『改造』大正1310月号)

大正13年夏、犀星は芥川龍之介(澄江堂)と共につるやに滞在。『改造』に夏の日々を書く

 

大正15年の夏は、愛宕山の麓の658番の貸別荘を借り、家族ともどもひと夏を過ごす

昭和6年家を建てるまで借り続けた。前の道を上りつめると水源地。少し上った右側が小島政二郎の家。家の前には歌人の松村みね子が住み、1軒下に片言の日本語を話す英国人の少女がいて一緒に遊んだ

軽井沢で知り合った人たちは、夏だけの知人であり、交際は東京ではしないが、英国人だけは別で、麻布の家にお茶に呼ばれ、母と一緒に訪問。犀星は人を訪問するのが好きではなかったので、私もよその家に行くことはなく、この訪問が忘れられない雰囲気だった

 

『英国の少女』(報知新聞 昭和386日『薔薇の羮(かん?)

借りている別荘は外人の別荘の中にあって、ほとんど終日外国人ばかりに接していた

子供たちが一緒に遊んでいるのを見て、人情的には国や血統の相違が調和されるものを感じ、その調和は自分を素直な気持ちにならせる

自分は外国人は極端に嫌いだった。無作法と傲慢に対し自分の東洋風な高雅な気持ちは決して彼等と妥協せず、相容れないことに孤高と精神力を示したかった

この少女はあまりにいたいけな小さい友情を持っていて、自分の女の子供をお茶に招く

夕食が済むと皆で町に散歩に出る。現在は誰がつけたのか「軽井沢銀座」と嫌な呼び方で若者たちに人気のある通りになってしまった。昔は「町」というひと言で、誰にでも通じた

 

30年ぶりで658番の家に行ってみた。松村みね子の家だけは昔のまま。歌人、アイルランド文学者で旧姓片山広子。堀辰雄の『聖家族』のモデル。娘の總(ふさ)子は「宗暎(そうえい)」というペンネームで小説を書いた

總子は聖心卒、彼女と連れられて母と一緒に芝白金の聖心に行ってマザーに会い、小学部入学が決まるが、体が弱いのを心配した犀星の指示で近くの大森の馬込第一小学校に入学

女学校卒業間近に、犀星が「勉強できる境遇にいる間は何でもやった方がいい」と言って国文を勧められ、受験の用意もしないまま、内申書だけで入学できる聖心専門部国文科予科に入学。予科1年、本科3年で教師の資格が得られる

小学校で聖心を思い切ったことに拘りはなかったが、11年後び昭和16年聖心に入り、周囲も喜び、岡麓、宇野信夫、武島羽衣などの講義を受けた

 

²  大塚山の麓の家

昭和6年、旧軽の大塚山の麓、1133番地に地所を借り、犀星は初めて自分の家を建てた

東京の家は翌年に新築したが、それより早く夏2カ月だけの家を建てたのは、それだけ軽井沢の環境を、犀星は好み、愛していた

 

『山粧う その三 コオロギ箱』

毎年軽井沢で別荘だか百姓家だか訳のわからない家を借り200円位払っているのは莫迦らしい。3,4年位払えば僕らのコオロギ箱は建つという

僕の出稼地である軽井沢に三間位のコオロギ箱を建てて子供らを放して置き、僕は仕事を抱えて出稼ぐことを考えた

鶴屋の主人と設計の地図を引いて土地を物色、畑地を取り払って建てる

『その六 スコットランドの田舎』

昭和19年英国聖公会のアレクサンダーショーが同僚と、春寒い軽井沢の村に偶然布教に来、故国スコットランドに似た風景に着目。その夏再来して故郷の風土に似た人懐こい空気を嗅ぎ、新鮮な汚れない紫外線とよしの繁った高原とを愛した

新しく夏が来るごとに眼鏡や釦や靴や洋傘や手提鞄が光り、肩から先を裸にしている腕や長い脚や高い鼻や薔薇色や灰色や最っと赤いのや様々な紅毛の人の顔が殖えて行った

 

『県歌・信濃の国』(1984年刊)によると、ショーは明治21年大塚山に土地を借り、追分から蚕室を移築して別荘とした。これが軽井沢における別荘第1号であることをこの書物で初めて知った。犀星もこの随筆を書いた時には自分の山荘の後ろにショー別荘があったことは知らなかったのであろう。万平ホテルややまやのパン屋の発祥も初めて知った

昭和6年の夏休み、母に連れられて新しい家に行く。自動車で旧道の郵便局(現在の観光会館)を右に曲がった細い道の先に2階建ての小さな家があった

翌年から、犀星が亡くなる前年の昭和36年まで、この家の書斎で、庭の籐椅子で、若き詩人や作家たちが犀星を交えての夏の楽しいひと時を過ごした

7月中旬には犀星が家を空け、私たちは後から汽車で行く。碓氷トンネルは26あり、下りで13番目と14番目の間にすれ違いのための駅「熊ノ平」があった。昭和25年土砂崩れで犠牲者が多数出て、今は廃駅、慰霊碑が建つ

あるとし、母は犀星に葉書を書いて、今年は倹約して3等で行くと書いたら、犀星から1年に1度で子供たちも楽しみにしているので2等で来いと返ってきた

上野から準急で4時間、鈍行で5時間。横川まで蒸気機関車で、横川から電気機関車に取り換え、碓氷峠のアブト式トンネルを抜けて、軽井沢で再び蒸気機関車になる

最後のトンネルを出ると浅間山が見えてくる。駅まで僅かな距離だがその時間が長かった

前の1138番の黒い洋館から子供たちの声がするが、すべて英語。長女ハルは後のライシャワー夫人

 

『パパとママ』(都新聞、昭和10826)

パパとかママという家族は軽井沢には非常に多いばかりでなく、寧ろ本場。パパ・ママが連発され、お父様・お母さまという美しい古典の意味が此処ではもはや数えるくらいしか呼ばれていない。ママやパパという呼ぶ声の中には嫌らしい西洋かぶれのした、鼻持のならぬ気障な父母を感じるが、お父様お母様という声のする家庭は奥床しくあるのだ

近くのあるブルジョアの一家族は、家族の中でも英語で、こういう家族が日本に存在することは、洵(まこと)に不思議極まる話。日本にいて日本語を使わないのは日本語を軽蔑した意味を含む。日本語を使わない子供と遊ぶことを私の子供たちに禁止した

この土地では良家の令嬢は大抵上品でおっとりしていて美しい。充分な栄養や教養の高さがその眼付きをやや高慢にしているが、高慢の美しさはまた強い美しさである。午前11時とか午後5時の散歩時間には日本一の大通りにこの山中の町が早変わりする。西洋人が2000人もいるのだから、散歩時間は賑やか。38か国の人種がいるそうだから世界でも珍しい「町」。私の家は大塚山という昔は墓地だった山の下にあるが、その方面の人が町へ出る近道なので散歩時間には西洋人がたくさん通ってゆく。その靴音を聞いていると、西洋の婦人であることに間違いなく「靴音」を聞きすますようになった。靴音は非常に静かで女らしさがそのさっさっとする音の中にあるのだ

 

犀星が砂場にブランコを作ってくれた。前の家の「マリ」が時々そっと門から入ってきて乗せてくれと言って、30分もすると風のように帰っていった

自転車をせがんで、漸く乗れるようになった。自転車に乗れない犀星は、自分のできないことを子供が行った場合、危険度は想像だけに留まるが、何等かの規則を作らないと気のすまない人で、朝晩の汽車の到着時は自動車が往復するので禁止された

外人の男の子のことを犀星は鮒の子と呼ぶ。自転車に乗って人がこんでいる道でも魚のようにスイスイと人をわけて走り去るからで、いかにも犀星らしい考え方であり思い付き

次の夏から別荘に着くと後ろに店の名前を書いた貸自転車が2台並んでいた。ほとんどの人は東京の住所が書いてあり、毎年買ってほしいとねだったが、とうとうかなえてもらえず、肩身が狭かった

 

『百合の花粉』(読売新聞、昭和9815)

朝の散歩から帰った娘が膝から下を血だらけにして青い顔をしていた。「自転車で怪我したら乗せない」と云ってあったので取り上げると怒鳴った。去年あたりから、歩くのが厭になったと言って自転車ばかり乗り回し、うしろに弟を小荷物のように乗せていた。午後禁を解いて自転車に乗ってもいいと云ってやった

 

²  詩人・作家たちと軽井沢

ü  小杉天外

三笠ホテルの少し手前を右に曲がり、道なりに行った左側の細い黒っぽい家が小杉宅

 

『山中酒仙』(読売新聞、昭和9814)毎年避暑中に2度は晩食に呼ばれるが、寧ろ酒を飲むのが主。今年は三笠ホテルの近くのお家で、軽井沢から相当の道のりがある。先生の酒は2合くらいで私とちょうど良い酒のお対手。明治文壇の老大家は驚くべき健啖家の範を垂れた後、君のこの頃の小説はいいねと云われる

 

この時私は一緒ではなかったが、家のたたずまいははっきりと覚えている。雪の下の自宅に伺ってご馳走になったことも覚えているが、お手伝いが料理を運ぶお盆を目の高さに捧げ持ってきたのを見てびっくり。家に帰って真似をしたら犀星から「なんじゃ、それ」といわれ、母の顔を見てにこりとした

 

ü  立原道造

昭和8年離れを建て増し。母屋が狭かったので、泊り客のためのものとなり、多くの人が涼しい夏の夜を過ごした

犀星はあだ名をつける名人。堀辰雄は辰っちゃんこ、津村信夫はノブスケ、立原道造はドウゾウ

ドウゾウさんが初めて犀星の所に来たのは、帝大の金釦の制服を着ていた時で、彼が来るごとに可愛がってもらった

 

『我が愛する詩人の伝記 立原道造』

私の家を訪れる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃって、家内や娘・息子たちと親しくなっていて、私は団欒の破壊者のように思えた

 

ある日学校から帰ると、ドウゾウさんが一人濡れ縁でポーズを作っていた。いつもと違う空気が漂い、ステキに見えた。女学校2年生の時のこと

帝大を卒業おしたドウゾウさんは、佐藤春夫の紹介で犀星が満州旅行のために背広を作った「渋谷」という洋服屋で、三つ揃えを作ると、犀星も嬉しそうに眺めていた

犀星が随筆のなかでドウゾウさんに留守番をして貰ったと書いたため、馬込の犀星の家で留守番をしたことが伝説の如く定着したが、いつもお手伝いが留守をしていたので、ドウゾウさんは勉強をしたいといって日本橋の自宅から本などを持ってきていただけ

ドウゾウさんが、昭和14年に26歳で早世するまで病院に泊まり込んで看病していた女を連れて軽井沢に来たことがある

亡くなった後も、お盆の迎え火を焚いた後、離れにドウゾウの姿を見たと犀星が言った

9歳年上のドウゾウさんは、大人としての話をしたかったひと

 

ü  堀辰雄

私にとって軽井沢で特に懐かしい作家は堀辰雄と川端康成

辰っちゃんからクリスマスの英語の絵本を貰う。読みながら説明してくれる辰っちゃんを、犀星よりずっと偉いと思った

女学校に入ったばかりの頃、辰っちゃんを通して『風立ちぬ』のヒロインの矢野綾子と良っちゃん姉妹と友達になり、良っちゃんと私たち姉弟は良く自転車で一緒に走り回った

良っちゃんより10歳年上の綾子さんは胸の病気が進み、富士見高原のサナトリウムで亡くなったが、辰っちゃんとの繋がりがわからなかった

矢野さんの隣の家にラグーザ・お玉という画家がいたことを思い出す。この間もお玉さんを調べている人が来られたという。綾子さんは絵を描いていたのでお玉と付き合いがあった

お玉の二階屋の裏側が吉川英治の家。犀星とはそれほど親しくはなく、夏にだけお互い何か届け物を交わしていた。ある夏、まだ日本に入ってきたばかりのグレープフルーツの大箱に密とナイフまでつけて届けに来た。すっぱいものを一切食べなかった犀星が一切れ含むと顔をしかめた。3日ほどしてお菓子を持って吉川家に行き、本人には会えなかったが、同じ作家の家でも大きな違いのある雰囲気だと感じた

昭和3610月、虎の門病院で犀星は肺がんで手術不可能を宣告され、退院の前日、同時期慶応病院に入院中の吉川さんへの見舞いを頼まれ、「ワシは一足先に家に帰る、くれぐれもお大事に。」と言伝されたが、私は吉川さんの病名を知っていたし、手術も成功だったと人づてに聞いてはいたが、この時だけはやりきれない気持ちで病院に行った。吉川さんとはそれが最後だった

昭和13年、辰っちゃんは、追分の「油屋」で知り合った加藤多恵子さんと、犀星夫妻の仲人で結婚。多恵子さんは東京女子大英文科卒で、よく英語の宿題を教えてもらった

目黒の雅叙園での披露宴のとき、女学校の制服姿の私を退屈させないようにと相手をしてくれたのがドウゾウさん。披露宴が終わった直後の辰っちゃんに、川端康成の人気少女小説『乙女の港』の署名入りが欲しいと頼んだら、すぐに川端宛の葉書を書いてくれ、間もなく小包が届いて、友達に回し読みさせたが、いつの間にか手元から消えてしまった

大東亜戦争開戦から1,2年過ぎると、犀星の知人たちも疎開が多くなり、犀星も昭和13年脳溢血で右半身不随となった母を疎開させたがったが、頑強に拒否していたところ、昭和196月辰っちゃんが軽井沢1412番に疎開したのを聞いて、あの体の弱い辰っちゃんが寒い軽井沢に行ったのなら私だって大丈夫と、疎開を承諾。翌月末には軽井沢での生活が始まり、24年まで続く。辰っちゃんが私達一家の生命を救ってくれた

昭和285月、離婚して犀星の元にいた私は、すぐ追分に行けと言われ、胃潰瘍の犀星に代わって翌々日の密葬に立ち会う。塩沢の火葬場での自然のなかでの火葬は表現出来難いほどつらさが深いものと知る

お骨と多恵子さんに付き添って車で東京に帰り、芝増上寺での本葬の日は犀星と一緒に大井の折口信夫を迎えに行ったが、その折口氏も3か月後には帰らぬ人となる

 

ü  文芸懇話会賞を受く

昭和10年夏、犀星の『あにいもうと』と横光利一の『紋章』が第1回の文芸懇話会賞を受賞

学校の先生から授業の後に、「お父さんにおめでとう、とおっしゃってね」と言われ、尊敬する先生からの言伝を聞いて、「お父様はほんとに偉い人だ」と思った

犀星は先代の市川左団次とも挨拶をするようになった。どんな付き合いだったか分からないが、一度だけつるやの裏の左団次の家を母と訪ねたことがあった

碓氷峠の頂上の峠町の神官の庭に殊に大きい屋敷神があり、気に入った犀星が譲ってくれと云ったら、左団次さんも気に入っているというので待ってほしいと言われたが、次の年もまだそのままあったので頼み込んで東京の家に運び込まれ、庭に据えられ、すぐ周囲の雰囲気に溶け込んだ。ガマ蛙が住み着き、犀星は「ダンナサマ」と呼び夏の間留守番をした

 

ü  津村信夫

『我が愛する詩人の伝記 津村信夫』

津村家とは親戚のような濃い付き合いをしていた。映画の峻烈な批評家秀夫ももとは詩人で、最初に会った時は水戸校在学中。彼の紹介でその弟信夫が軽井沢に来たときはまだ白面豊頬の青年で慶応の学帽をかぶった青年。父親の秀松博士は三笠ホテルに毎夏滞在

夏の午後3時、太陽が裏の大塚山にかかるころ、庭に籐椅子を出してほとんどの客はここで犀星と話をしていた。金沢の母の姉から毎年黒部の大きな西瓜が送られてくるころ、なぜか堀辰雄、津村信夫、立原道造などが来合せる。食べ終わると町に散歩に出る

犀星は西瓜を好まないから、半切れしか食べず、誰かが種を馬穴に入れ損なうと注意する

ノブスケはいくつかの困難を乗り越えて結婚、犀星と母が仲人で、目黒に家を構える

アジソン氏病が高じ、小さい1人娘を残して、昭和1936歳で死去。「ノブスケよ、サヨウナラ」と読んだ犀星の弔辞が今でも耳の底に残っている

 

²  詩人・作家たちと軽井沢 そのII

ü  母の発病と「蝶」の少女達

昭和13年、犀星の仕事も順調に進み、私たち姉弟も幼い頃の病弱を忘れたように健康になり、わが家は平和で倖せだったが、突然44歳の母を脳溢血が襲い、以後20年右半身不随の不自由な毎日を過ごす

『蝋人形』(昭和144月号)に、妻が病んで我が家に春は来たらず、酒を喰らいて我を忘れんとする阿呆との詩を、『会館芸術』(昭和147月号)に「燦爛たる金色」の題で、病んだ妻の部屋の戸が半年たっても開かず、我が家にとうとう春は来なかった、這うことも起き上がることも出来ず、少女のように毎日笑っていた、僕はどうすればいいのか分からなったとの詩を書いているのを、犀星の心がどれほど傷つき哀しかったか、当時女学生の私には理解できていなかったが、犀星作品の調査中に雑誌で見つけ、胸を締め付けられる思いだった

昭和14年、初めて母のいない軽井沢の夏を送る。4人の仲良しグループで1週間過ごす

小さな靴を入れた箱が大事にしまわれていた。犀星は、私が訳の分からんことや不都合なことを言った時に靴の箱を開けて説教する時に役立つもんだといったが、靴の前で叱られることなく終わった。自分1人で大人になったのではない、多くの人達に世話になり助けられて成人になったのだ、その人たちの愛情を忘れてはならないということを犀星は子供の靴に託して私に示してくれた。私もまた弟の娘に同じことを教えた

この夏の日々を犀星は小説『蝶』に書いたが、一緒に行ったうちの1人が胸を病んでその年の暮れに亡くなる

 

『蝶』

人の死ということも妙齢の少女の死ほど、襟を正さしめる清らかさを感じしめるものはない。少女は死ぬも生きるも、ともにあでやかで、人として人のすることをしないで死んでゆくということに、いたみつくせない美と、測り知らぬくやしさがあった

 

ü  川端康成

家の前の道は浅間隠しの方に住んでいる人が町に出る近道だったので、垣根の隙間から通る人の脚が見える。ニッカーボッカーに白い靴下の細い足が元気のよい靴音をたてて通る。その足は川端康成氏で、たまに門から入って来られることもある

女学校の友達をよんだ次の夏、川端さんの所には若い女の子が何人も来て賑やかだったので、私も浅間隠しの川端家に彼女たちと遊びに行った

人はぎょろりとした目の川端さんは怖いというが、私には優しかった

犀星が亡くなった昭和37年の夏、私は『晩年の父犀星』を出版することになり、帯の推薦文を川端さんに書いていただくことになり、仕事場にしておられた紀尾井町の福田屋にお願いに行き、原稿は軽井沢で頂戴することになった。約束の8月末に取りに行くと、まだ1枚しか書けていないので明日取りに来てと言われ、帯なのに1枚とはどういうことかと訝っていると、次の日渡されたのは7枚の原稿で序文で、講談社に無理を言って入れてもらった

犀星が亡くなって間もなくの頃、我が家に強盗が入り金を渡したらすぐに立ち去ったが、警察も来て大騒ぎになった。新聞にも大きく報道されたが、収まった頃に川端さんから見舞いの電話があり、芥川賞をとった以上の宣伝になるといわれる

万平ホテルのパーティーに向かう途中で川端さんに偶然会い、思いがけず一緒に行くことになり、料理を取ってあげたりしたが、そのうちちょっと失礼といって人ごみの中に消えたと思ったら、鰐淵晴子の楽しそうに話す姿が見え、それきり川端さんは私の近くには来られなかった。川端さんと踊ろうなどとは思ってはいなかったものの少々空しい思いをしたのも事実だが、今となるとそれも懐かしい思い出

ノーベル賞を受賞され、何かお祝いをと思いながら良い考えが浮かばないうちに出発の日となり、庭の寒椿と侘助で花束を作り羽田へ持っていき、父の愛した庭の花だといって渡したら思いがけず喜んでいただき、飛行機に持って入っていかれた

若い頃から川端さんを「おじさま」と呼んでいたので、犀星が亡くなった後急に「先生」とも呼べず、何かの折につい「おじさま」と言ったら、川端さんは笑顔を崩さないで、「もう大人だからそんな呼び方はやめた方がよい」と語っていた。「先生」と躊躇わずに言えるようになったころ、川端さんは亡くなられてしまった

ある夏の夕方遅く、大塚山の家に立ち寄られ、犀星が好きだった毛毬苔を分けて欲しいと言われるので掘ってお渡ししたら、抱えるようにして持って帰られた。いまごろ浅間隠しの川端さんの斜面の庭で増えているのだろうか

 

ü  折口信夫

折口が軽井沢に来られたのは昭和13年の夏。堀辰雄が貸別荘の世話をした。

 

『我が愛する詩人の伝記 釈迢空』

額の痣が目に入り、おしゃれの迢空が顔を剃るたびに悲観し、いかに抹殺すべきかに心をつかっていたことだろうとよそ事ならずそう思った。友人らはインキと呼んでからかったが、迢空は「靄遠渓(あいえんけい)」という号を用いて他人のからかいを封じている

 

昭和27年の夏、愛宕山の麓の貸別荘に滞在。朝風呂を愛した。犀星もその夏愛宕山で会ったのが最後となった

精神の国文科の頃、折口さんの『源氏物語』の講義を慶応大学に聴講に行った。普段とは別人のようで、「低音で素敵だった」と犀星に言ったら、「キミが思っているよりよほど偉い学者なんだ。キミは親しいから、と考えたら大間違いだ」と叱られた

折口の歌碑は、能登一宮駅前の広場に作られ、硫黄島で戦死した養子の歌人藤井春洋の故郷で、春洋と共に眠る墓でもある。現在は能登線が廃止され、気多大社の境内に移設

 

ü  トンネル

夏、軽井沢だけで遊ぶ友達が何人かいた

テニスコートの横のブレッツファーマシーのアイスクリームコーンは美味しかった。自転車に腰を下ろし、片手でハンドルを抑え、右手のコーンを齧るのが「カッコイイ」もの

ツケで買って、9月までその額が増え、犀星から小言をもらった

9月初め、学校を休んで、みんなが帰郷するのを見送る。軽井沢で21両、32両を増結するが、行列をして席を取るのに大混雑。駅で見送った後自転車で26番トンネルの入口まで走り、もう一度手を振って名残を惜しむ

 

ü  満州旅行

昭和12年春、犀星は3週間の満州旅行へ。朝日新聞の連載小説の取材が目的

三つ揃いを新調、1か月前から着る練習

旅行で『大陸の琴』のほか『哈爾濱詩集』、随筆集『駱駝行』などが書かれた

10年前私も慶州で現代作家の焼物を見て釜山か京城行きの列車に乗ったが、犀星も北から釜山に下る逆方向だが同じものを40数年違いで見ている。それだけで感傷的になった

 

ü  正宗白鳥と冬ごし

初めて正宗白鳥の名を知ったのは宗和10年ごろ。犀星と母と一緒に夕方町を散歩していて犀星よりは年上のニッカーズボンの小柄な人に会って挨拶をさせられた

昭和19年夏に軽井沢に疎開したが、前後して正宗さん一家も居を移す

旧ゴルフ場から国道に抜ける道は離山の裾を通る。その左側は小さな谷になり加賀前田家の庭。小さな池に清水が湧いて、お水端と呼ばれ、美しいせせらぎが雲場が池に注ぐ

遊歩道にはクレソンが群生、サラダなど家庭の食卓にない時代、炒めて食べたがそれほど美味しいものではなかった

離山の道の国道に出るまでに「正宗」と書いた白いハウスナンバーの立て札がある

極寒の軽井沢の生活は、毎日が氷と寒さと食物に対しての戦い

正宗さんは犀星のことを「ムロブ君」と呼ぶ

疎開中、庭に室を作って野菜などを格納

炊事用の木炭や風呂を沸かす薪なども、ヤミ屋が暗いうちに垣根の上から投げ込んでいく

昭和19年夏の終わりまでに中立国の外国人たちが、軽井沢に集められ、うちの前の松方家にもスウェーデン人一家が神戸から移り住んできた。大阪弁をしゃべる変な外人だが、猫と5歳の子を介して親しくなる

外国人には外人配給という食糧品に限っての制度があり、比較的豊かで、日本円が必要になると我々に売る人もいて、砂糖やバターなども簡単に手に入るようになった

何年も見たことの無かったウール地の原反をくれたので、4年ぶりに服を新調

軽井沢には警戒警報のサイレンは一度も鳴らなかったが、戦局が芳しくないことが徐々に報じられた頃、憲兵隊があちこちを走り回るようになる

隣のスウェーデン人一家を見張るために離れを貸せと言われ、渋々貸したが、容易くは買えなくなっていた汽車の切符も、見張りに来ていた憲兵に頼めばすぐに調達してくれ、その切符であちこち買い出しに出かけた

小諸の赤い水は、西瓜糖といって訳の分からない物だったが、甘かったから人気があった

磯部の鉱泉の水は、メリケン粉をといて焼くと美味しいパンができるというので人気

 

²  戦後

ü  終戦、中村真一郎

犀星は亡くなるまで一度も真一郎君とは言わず、真二郎と思い込んでいた

千ヶ瀧に彼のおばさまが疎開していて、アンゴラの毛糸があるというので自転車で買いに行き、スエーターを編んだら、その頃既に太っていた私が着たのを見て犀星は、「キミが着るとよけい大きく見える。まるで出来立てのふかしパンのようだ」と笑った

中村真一郎が千ヶ瀧から歩いて追分の堀辰雄を見舞いに行ったとき、英語の本を読みながら中軽井沢の駅に向かっていくと先方から来た牛車に気づかず衝突して転んだという

昭和207月、弟に召集令状が来た。金沢の連隊まで見送る。そのまま軽井沢に戻ったが、富山を出て間もなく空襲警報で列車が止まった。富山市が空襲を受けた

終戦の日、1人で買い出しに出かけ、陛下の放送は聞いていない。家に帰っても犀星と母は放送に関しての感想を言わず、「戦争は終わった、朝己もすぐに帰ってくる」とひと言だけいった。弟は9月末、コオロギのように痩せて帰ってきた

憲兵隊は3,4日もすると姿を消し、暫くするとホテルや大きな別荘は進駐軍によって接収され、第一騎兵隊が軽井沢に進駐して来た

進駐軍物資専門の闇屋の花子が私たちの前に現れ、最初は煙草だけだったが、回が重なるごとに生活必需品がほとんど手に入るようになった

どことなく落ち着いてきて、集められていた外国人は徐々に本国に帰っていったが、帰る際に持ち物を売っていった。安くてよいものがあると聞いて、犀星も興味を持って一緒に出掛けた。家具類や衣類を求める。「君の嫁入り道具もそろそろ買わなくては」と言われ、犀星の顔をまじまじと見てしまった

俳句の生徒の金持の奥さんから、朝子さんのお見合い写真をくださいと言われ、そんなものはないと不機嫌そうに言ったのを聞いて以来、結婚などということは一度も犀星の口から出たことはなかった。私なりに、犀星は私を結婚させてはくれないのかと考えたこともある。自分の娘を貰ってほしいなど、決して犀星が口にするわけはない、それは誇りが許さなかったらしい。まして狭い軽井沢では、相手を探すことも困難

 

ü  南瓜(かぼちゃ)とひまわり

戦争中はどこの家でも庭があれば、何かの種を蒔いて少しでも食糧の補いにしていた

買い出しで親しくなった農家のおばちゃんが、その世話を教えてくれた

犀星の愛している庭を掘り返すことはできないが、子供の頃砂場のあった所を耕す許可を犀星からとって、花豆を蒔くが芽は出たが蔓が出てこない。隣の豆は成長するのと食べるのとの競争位育つ。犀星が、花豆の蔓が生えてこないのに嫌味を言って、自分も真似して南瓜でも蒔くかなという。次の夏、いつの間にか近くの道に南瓜の黄色い花が咲いていた。犀星が密かに蒔いたもののようで、実は結ばなかったが、黄色い花は犀星の机の端の青磁の小壺の中で生きていた

ある夏、福永武彦夫妻が立派なひまわりの花を担いで訪ねて来られ、喜んだ犀星は床の間の李朝の龍模様の染付の大壺に活けた。珍しく骨董には決して花を活けない掟を破った

南瓜からひまわり、そして冬にはフリージアの濃い黄色の大型の花を好むようになり、「黄金の金魚だ」と言っていた

 

ü  テニスコート

旧道にある10面のテニスコートは、夏だけ避暑客で作っている軽井沢会の会員が使っていた。外側と裏側各5面の間に粗末な木の段々になった見物席があった

裏側の5面は近所の人達の手によって掘り起こされ、畑になり、初夏にはじゃがいも畑に

犀星は、王朝小説の中で、女がよその家の垣根に美しく咲いている菊を手折る場面を書いて、花盗人は罪にならない、と言わせているのを思い出して、じゃがいも畑の花を摘んで家に飾ると、犀星が夕食のときちらっと見て、テニスコートからかねと聞く

犀星は自分が運動に興味がなかったので、私たちがテニスをすることに批判的。テニスをするのはろくでもない人間だと言ったり、散歩の途中で私を見つけるとチラリと視線を流し、後で夕食のときに「今日、キミと一緒にテニスをしていたのはどこの誰かね」と聞く

終戦後、ローラーをかけて復旧させたところで接収され、進駐軍相手のときだけテニスが出来た。彼等が去って後、テニスコートは昔の顔を持てるようになり、820日前後には公式のトーナメントも開かれ、諏訪神社の夏祭りと共に夏の風物詩となった

いくつかの恋も生まれ、何年か後に皇太子のロマンスが生まれ、ブームが到来

 

ü  小さな恋とダンス

毎日テニスに通ううちに1人の青年を好きになる。狭い町なのですぐに人の口の端にのり、犀星に知れて「あの男との結婚は、キミ、駄目だよ」とひと言だけいい、そのままになった

ある3人姉妹がバンドを持ち、毎晩集会堂でダンスパーティーが開かれる。私も弟と一緒にこっそり出掛ける。「ダンスなどするものはろくでもない者達だ」と犀星は思い込んでいたから、8時半書斎の電気スタンドの灯りが消えるのを待って出る

コカ・コーラやお酒の味を覚えたのもパーティーで、ウィスキーコークがきっかけだったが、大病以来30年近く飲むのをやめた

犀星は映画が好き。昭和13,14年頃は文部省推薦映画の審査委員になり、試写会にもよく連れて行ってくれた。軽井沢会館でも時々映画を上映、犀星と一緒に行った

 

ü  再び犀星は仕事へ

戦後まもなく数多い雑誌が創刊

それまで書きたくても書けなかった作家たちが、息を吹き返したように仕事を始めた

正宗さんと犀星は、戦後も軽井沢に留まり、原稿依頼の客が訪れる

『群像』の編集長が来た時、正宗家でたくさんのじゃがいもをもらったので重いと言ったら、犀星が私を呼んで、うちはキャベツを2個新聞紙に包んで渡せという。買い溜めの大事な野菜を分けたということで、内心よい心持になっていた。何年かの後、編集長に会った時、帰りの汽車の中で網棚に乗せた荷物から雫が垂れてきて大変だったと言われた

戦後昭和20年から22年までの犀星作品は以下の通り。

昭和20年、小説3篇、随筆2

昭和21年、詩47篇、小説27篇、随筆7篇、童話1

昭和22年、詩30篇、小説20篇、長編連載1

単行本10(詩集、短篇集、随筆集、童話)

昭和2111月、佐久市に疎開していらした佐藤春夫と正宗、犀星とで『群像』昭和222月号の『作家の世界』と題する鼎談がつるやで行われた

昭和259月号の『文學界』に佐藤春夫との対談『詩人の回想』がある

 

718日の日記』

『文學界』の対談で、佐藤春夫と3年ぶりで会った。1つの理屈をこねざれば物がいえない佐藤であったが、うまく話がすすんだ。寧ろ愉快だった。つるやの料理では千曲の鮎がうまかった。夕方山本実彦も来たり雑談、明日山本邸で昼食を共にする約束をした

 

²  東京へ

ü  結婚

馬込の家は焼け残った。文学を勉強していた伊藤人誉が守ってくれていた

東京は風紀が悪い、犯罪が増えて物騒というのが犀星の細い神経には耐えられなかったのであろう。昭和23年冬になって東京に帰り、母とお手伝いさんだけが軽井沢に残る

昭和23年秋に急に結婚することになった。『赤とんぼ記』に書いたし、犀星も『杏っ子』に詳しく書いている。母も出席できるようにつるやで、正宗さんに仲人をお願いし、母の姉が金沢から料理を運んで、内輪の式は無事に終わる。親しい人たちの昼食会のような雰囲気で、自分の披露宴のような気がしなかったことを覚えているが、今思うと、娘の結婚式に笑顔をもって励ましたり、祝福をしまたは涙ぐんだりすることは、明治生まれの作家が言葉や態度に現すのは、最も苦痛に近いことであったのだろう

「ひと夏に1度だけ敬意を表しにいく」と犀星はいい、正宗家を訪問する習慣が晩年の10年ほど続いた。私が自転車で送る

雲場が池の奥にはプールがあり、ほとんどは外国人。犀星は「なぜ山に来ているのにわざわざ子供を泳がすのだろうかね」と不思議そうに言った。犀星は子供の頃故郷金沢の犀川で泳いだと作品で知ったが、犀星の泳ぐ姿も想像できないが、泳げるという話は、家庭のなかでは全くなかった。自分に不得意なものは子供達にも必要はない、と犀星は考えていたのだろう。そのプールもいつかなくなってしまった

正宗さんは伝説の多い方。リュックを上下さかさまに背負っていたり、タクシーに乗ってから財布を忘れたことに気づき、「正宗白鳥だが、後で届ける」と言ったら「お客さん酒屋かね」と言われたとか

 

『昭和2072日付、軽井沢の犀星より東京の伊藤人誉宛、書留書簡』

正宗先生が罹災されたので火災保険を取ってほしい。証書は本郷の辻村氏にあるそうで、実印は焼失したので何でもいいから認印を使って、お金3000円を軽井沢正宗氏に直送乞う。子供達上京の上処理すべきだが、切符入手困難、よろしく頼む

 

犀星がこんな煩わしいことを自身で行えるわけはない。普通なら断るが正宗さんでは引き受けざるを得なかったのだろう。伊藤はその日のうちに運よく現金を貰い、切符が手配できたようで3日後に軽井沢に来たので、正宗家に案内すると、砂糖を大きな瓶ごと出され、スープのスプーンでどうぞ沢山入れて下さいという。無頓着さ無邪気なことがいかにも正宗夫人らしい

戦後新円に切り替わった時、犀星にも南軽井沢に土地を買わないかという話があったが、犀星は断る。「土地を売って儲かるというが、我々がお金を得る手段は、原稿用紙の枡目を埋めていくことだけだ」と言った。正宗さんは自宅の隣に相当広い土地を買われ、樅の苗木を植えたが、今や立派な樅の木林となっている。正宗さんは奇人のように言われているが、ある見方によると、その時、その時の時局を見極める常識を、犀星より多く持っていられた。世事に疎く、世間の思惑などは眼中にない方であるように思われていても、旧円で土地を買われたのは、ごく当たり前の人の考えることであった

昭和36年夏、犀星は咳に悩まされ高熱が出る日が続き、軽井沢で医者にかかるが、咳は退治できないまま帰京、虎の門病院に入院し皮肉にも母の1周忌に肺癌で手術は不可能、1年半の生命との宣告。コバルト照射をして11月退院。告知はせず。翌年、小康状態のまま読売文学賞の選考委員会に出席。客があるごとに「リュウマチがひどくてコバルトをかけているので黒い顔になった」という犀星に、他の委員の正宗、大佛、佐藤春夫など、犀星が物事に対して理解しない部分がるのと同じように、やはりあるところは変わった感覚を持っている方ばかりだと、犀星との生活の中で思っていた私は、委員会の席上で犀星がいつも通り言った時の他の委員の返事が気になった私は、弟と手分けして事前に事情を説明に伺う。洗足の正宗さん宅に伺う。私の結婚生活は4年で終わり実家に戻っていたが、その報告のときはただ頷いただけで何も言われなかったのに、素直な気持ちで犀星の病状を話すと、「ムロブ君は娘をもって幸せだね」とひと言だけ言われた。息子1人の正宗さんには、女の子の愛情や何気ない会話は普段の生活の中にはないもので、正宗さんの表情の中に、犀星に対する心配よりは、自分の淋しさのようなものが僅かだけ私に感じ取られた

委員会は無事終わり、3月再入院し26日に死去。正宗さんに弔辞をいただく

その年の秋近く、正宗さん入院。弔辞のとき病魔に侵され始め、10月膵臓癌で死去

葬儀の後ご自宅を訪ねると、夫人から何を考えていらしたのか、1枚でも大切であるはずの土門拳撮影の大きな肖像画を1枚下さる。しまいこむことができないまま犀星の隣に飾り、毎朝お茶を供えたが、犀星の祥月命日のときだけは押し入れにいれ、3周忌まで続く

 

ü  疎開からの引きあげ

昭和249月、疎開生活打ち切り。誰もいないところで犀星が私に、「戦争中と寒い冬越しをよくとみ子が無事に過ごしてくれた」と、母への思いやりの毎日の緊張が溶けた(ママ)ような安堵と、それまで私が見たこともないよう弱さがちらりと表れていた

私は毎日買い出しに明け暮れ、結婚も遅かった。自分の青春は何だったのか、と不満もあったが、犀星の言葉を聞いて、どれほど母を気遣っていたのかを、初めて知った

 

ü  文章を綴りはじめる

昭和28年、離婚して犀星の元に帰り、その後の約10年間、晩年の犀星の傍らにいて、よき日々、充実した日々を過ごした

犀星の軽井沢行きは毎年71日に決まっている。小さい体の春蝉の声を存分に聞くためで、帰京は930

昭和23年、犀星は芸術院会員になる。年金と1年に2カ月使える国鉄の2等のパスが出る。旅をしない犀星は軽井沢に行くときだけそのパスを使う

昭和3111月から翌8月まで271回『杏っ子』を東京新聞夕刊に連載。単行本化したとき検印紙を貼るが、割印をするのが私と弟の内職で、千部押して千円の小遣い

映画化され、山村聰が平四郎(犀星)で香川京子が杏っ子(朝子)だったが、やせて美人の香川さんと大きな私とではあまりにイメージが違うので会う人ごとに妙な顔をしていた

その後青天の霹靂だったのが、朝日新聞から『婦人朝日』に、杏っ子から見た平四郎の裏側を書いてほしいとの依頼。犀星は、「キミに原稿を頼むとは、気まぐれな雑誌もあるものだ。せっかくだから書いた方がよいよ」といった

犀星は時々離れの私の部屋を覗き進んでいるかと言うが、依頼の14枚が12枚しか書けなかった。犀星は、「原稿料が出るのだから、約束通り2枚書き足したまえ」といったが、そのまま締め切りが来た。犀星は珍しく私を呼んで、「キミの原稿は一切読まない。わしが手を入れれば編集者にはすぐ分かるし、どれほどよい原稿を書いても犀星の手が入っていると決められてしまう。冷淡のようだが、読まないからそのつもりで。もう一度推敲したまえ」と突き放した態度でいった。教えてくれると思っていた私は、甘い考えを恥じた

書き続けていくうちに、犀星との日々の生活の中で、どれほど大切なことを教えられていたか、わかって来た。犀星は、「キミに教えることはない。わしとの一緒の生活そのものが、文学であり詩であるのだ」といった。それに気づいたのは犀星と別れてから15年目位から

一つの忘れ得ぬ事。家の南側に家が建つことになり、庭の借景が壊れることを心配した犀星が、目隠しに椿を塀に沿って植えた。庭を大切にし、作ることにも情熱を持っていた犀星は、椿1本を庭に入れるにしても花をよく吟味した。新築は平屋でほっとした。椿も土に馴染み数多くの花を着ける。庭掃除のとき、犀星が「今日は落椿を捨てないで、杏の木の根方に積んでほしい」というので、汚れているものと美しさの残っているものをわけて落花の山を作ると、犀星は何も言わず夕方まで落花の山を見ていた。翌日「今日は椿を全部捨ててくれ」という。生命が終わって落ちた花でも、まだ美しさの残っているうちは、その美しさを認めてやりたい、見てやりたい、このような優しさを持っていた人であった。このような事柄が犀星のいう「文学であり詩である」ということなのであった

犀星の軽井沢での楽しみの1つは、虫を集めて鳴き声を聞くこと。竹の虫籠を経机にいくつも並べ、もらった虫や捕まえた虫を籠に入れ、毎夜ちがう籠を枕元にお伽に置く

晩年の夏、女流作家たちが集まって犀星を囲み会食をする夕べがあった。3夏ほど続く。円地文子、湯浅芳子、網野菊など。犀星は子供だといって私を連れて行ってはくれなかった。会に出るのはそれほど好きではない人が、上布の単衣物に着替えて颯爽と出掛けていく。「女のひと」の好きな犀星は、楽しみであったらしい

軽井沢の夏の生活では、作家たちは誰でもが仕事をしてはいるものの、お互い約束なしに訪ねるのが習慣。円地文子が訪ねてきて、「朝子さんが書くようになったのだから、電話があれば注文が増える」と言われた

犀星の電話嫌いは有名で、昭和30年代に文士の家で電話がないのはうちだけだろう

間違い電話は不愉快だし、どうせ君たちにばかりかかるのだろう、というのがその理由だったが、再入院の直前、電話を取り付けよという。その理由が、「わしも多少は有名というものがある。小遣いもある。電話をつけないとケチといわれる」だった

受話器を柱につけることしか知らず、つけた後もかかるかどうかためしにかけて来いといい、自宅の電話番号も覚えず、一度もダイヤルを廻さず、受けもしないで終わった

昭和26年夏、志賀直哉氏はつるやにお嬢さん達もつれて滞在され、親友の梅原龍三郎氏が矢ヶ崎山の別荘住まいだった。この夏の毎日を犀星は克明に日記に書いている。ほぼ毎日志賀さんと会っていたらしい

 

82日 木曜 はれ 涼爽

志賀直哉来訪。67年会わずにいたが、穏やかそうな老大家の相があった。昨日列車で長与善郎に会い喋り過ぎて声が嗄れたという。声の嗄れるまで話し合う友人がいないので、羨ましかった

89日 木曜 はれ 大暑81

志賀直哉来訪。正直で話好きな志賀氏は大抵のことは隠さずいう。若い作家がこの人を敬愛するのも、この老大家を好かないでは好くような作家がいないからだ

827日 月曜 はれ

昨日志賀氏、庭をはいている最中に来て、座敷箒を使っているのかと訊く。志賀は使っていないことが判った。庭のことはいわない人だが、初めて正面の縁側に腰を下ろした

830日 木曜 少雨

昨日つるやの応接で長与と3人で話していると、志賀は突然、長与の部屋に行こうといい、テニスの試合が今日もあるという話が出ると、突然テニスを見に行こうといって立ち上がる。気儘な性格がちょっと僕に似ていた。「東京の庭もこちらのように作ってあるのか」と聞くので、東京は石のがらくたが多い」といっておく。何も気がつかないようで気のついている人だ。此間文芸春秋に送った詩『老友美』で、梅原氏と2人を「二人のやさしい獅子らは微笑ふ、老いを知らない仲の良さ。おれはおれの夭折した友達がくやしかった」とうたう

913日 木曜

志賀と志賀夫人が見えた。ロシア人の店で肉饅頭を買って来たからといい、お昼の代わりに食べられた。誰彼かまわず、きみ、君と呼ぶくせがあり、変な気がしていた。対手を見下しているのではなく、自然にすらすらとそういうのだ。神経質な志賀の言葉として無神経なように思われる

 

『暗夜行路』の初版本を、犀星宛の署名をして志賀さんから贈られた。「キミにあげる」といったので、大切にしていたが、亡くなった後、造本が崩れたのに気づき、製本し直してもらったら、署名の頁がなくなっていた。非常識で迷惑かと思いながら講談社の人経由で頼んだら1カ月ほどして届いた。志賀さんの優しいお気持ちに感謝

 

ü  矢ヶ崎川畔の犀星文学碑

『杏っ子』で読売文学賞を受賞してのち、晩年の華開いた数多い作品を次々と書く

昭和34年、母は軽井沢から帰京する犀星を待っていたように寝込み、日に日に衰弱して、10月帰らぬ人となる。64歳。母を支えていたものは、ただただ犀星の思いやり深い、誠の健康管理と広い愛情だけだった

毎年、東京で留守番をしている母への、軽井沢からの犀星の土産はその夏貯めた100円玉。その年は4万円もあった。母は大そう喜び、「来年もまたどうぞ」とお礼をいった

亡くなった次の年も、桐の小箱にぎっしりつまった100円玉を持って帰り母の写真の前に飾ってあった

昭和34年は犀星にとって、妻を亡くした悲しみの年だったが、11月には『我が愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞、『かげろうの日記遺文』で野間文芸賞受賞。野間文芸賞の授賞式で賞金100万円の使い方を公表。軽井沢に室生犀星文学碑を建立、室生とみ子の遺稿・発句集の出版、新人詩人のための室生犀星詩人賞設定

人前で話すことの嫌いな犀星は、講演はすべて断っていたが、戦前に1度だけ明治大学で講義したことがあり、10分ほどで頭が真っ白になり立ち往生、脳貧血になりそうになり早々に帰ってきた。今回は授賞式の挨拶を断るわけにもいかないと、憂鬱を濃くしていた

墨で色紙に書いた原稿を見ながらゆっくりと話をしたが、あまりに唐突な内容で私は驚き戸惑う。式の後のパーティで記者達から質問攻めにあったが、今初めて知ったことばかり

 

『私の文学碑』(週刊朝日、昭和3691日号)

郷里や知友から碑を建てたいといわれるが、他人に迷惑をかける寄付行為で建てたくない。建てるなら自分の金と思いつきで、ハカを建てるように土中には原稿とか軽い内臓品に加え、私のホネや妻の遺髪もろともに埋めたい

恰度、矢ヶ崎川の15mの長い洲のような空地が見つかり、浅間の焼石で赫石を選び、10mの石垣を築きその中央に幅9尺、奥行6尺の洞窟をうがって、中で休息できるような仕掛けを作る。訪ねる人が自分の庭にいるような気でいても、宜しかった

(文学碑に刻んだのは、『切なき思ひぞ知る』と題して、『不同調』昭和32月号に書いた詩で、詩集『鶴』に収録)氷を愛する詩の意味は、我々の生きているせちがらい人生にも、結局、それらの紛糾を愛して生きねばならないことを歌ったもので、それ以上の深い象徴を内容としたものではない

洞窟の奥には朝鮮の俑人(ようじん)1基立つだけ。何のためか分からないが東京の庭から送らせたもので、私が死去した折にもう1基運ぶ。朝鮮では貴人の陵墓の左右前に立つ供養の石俑で、道しるべや装俑にも建てられる。俑人がぽつんと立つのは変に見えるが、ありふれた岩石まがいで碑の周囲を築き上げるのは芸がないと思ったから

 

昭和35年には、『とみ子発句集』を刊行、親しい方に送る

1回詩人賞は、昭和35年瀧口雅子の『鋼鉄の足』。賞金5万円と犀星自筆の賞状

昭和366月、犀星が突然文学碑の碑文を軽井沢に運べという。いつの間に碑文を書き、字刻を同郷の知人・吉田三郎氏にお願いしたのか知らなかった

犀星が軽井沢に行くまでに文学碑は完成。京城で買って来た石の俑人1対の一体を軽井沢に送っていた。除幕式はなく、俑人の下に母の分骨を納めた

一緒に散歩すると、スネークウッドのステッキをつき、ボルサリーノの薄茶のソフトをかぶり、背筋をぴんと伸ばして歩く。「君も背中を伸ばして歩きたまえ。そんな歩き方だと、老けて見えるよ」と速足で行く

昭和37年の夏、犀星の分骨を壺に入れて納骨をし、俑人の残りの一体も軽井沢に送る

犀星が亡くなって15年過ぎ、その間弟も食道癌で亡くなる

私の死んだ後のことを考え、金沢の野田山墓地に遺骨を戻す。金沢の雨宝院でお経をあげ分骨を一緒にして埋葬

 

 

あとがき

昭和60年夏、長野のカルチャーセンターの講師として、各週10回長野まで通った時、信濃毎日新聞文化部と知り合い「来し方の記」のスペースを貰い、「犀星とともに 私の軽井沢」と題して26

回の連載、全部で140枚ほどを書く。毎日新聞から出版の話が来て160枚追加してまとめ上げた

軽井沢は時代の動きとともに大きく変貌し、若者の多い賑やかな山の町になってしまった

私の好きな軽井沢は旧道の町から消えた。近年は「ホテル藤屋」に泊まり、塩沢湖、軽井沢高原文庫、植物園などを訪ねて、夏の幾日かを過ごす。何も知らぬ浅間山の姿を見てほっとする。今や浅間山だけが昔の良き時代の軽井沢の雰囲気を思い出させてくれる。犀星が亡くなってから暫くの間は、軽井沢を通るごとに涙が出た。列車が止まるだけで、犀星を失った悲しさが身に応えていた

浅間山の毎日変わる山肌の色や、松虫草、吾亦紅の優しい美しさは、いつまでも私の心の中で生きている

 

 

Wikipedia

室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道〈てるみち〉、1889明治22年〉81 - 1962昭和37年〉326)は、日本詩人小説家。別号に「魚眠洞」、「魚生」、「殘花」、「照文」。石川県金沢市生まれ。別筆名に「秋本健之」。

姓の平仮名表記は、「むろう」が一般的であるが、犀星自身が「むろう」「むろお」の双方の署名を用いていたため、現在も表記が統一されていない。室生犀星記念館は「「むろお」を正式とするが、「むろお」への変更を強制するものではない」としている。[1][注釈 2]

経歴[編集]

1889明治22年)、金沢市裏千日町に生まれる[2]加賀藩足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とその女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれた[注釈 3]。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた[要出典]。『犀星発句集』(1943年)に収められた

「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」

との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このダブルバインドを引きずっていたことを提示している[要出典]

1895(明治28年)9月金沢市立野町尋常小学校入学。 1896(明治29年)2月室生真乗の養嗣子となる。 1898(明治31年)3月実父小畠吉種死去。このあと実母ハルは行方不明となる。 1899(明治32年)3月野町尋常小学校を卒業。 1900(明治33年)4月金沢高等小学校に入学。1902(明治35年)長町高等小学校3年で中退し[3][注釈 4]、義母の命令により[4]、義兄真道の勤務する金沢地方裁判所に給仕として就職[注釈 5] 1903(明治36年)頃より裁判所の上司に河越風骨[注釈 6]、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受け[注釈 7]、文学書に親しみ始める。俳句会への出席および新聞への投句を始め[注釈 8]1904(明治37年)108日付け『北國新聞』に初掲載。第四高等学校教授藤井乙男(紫影)が俳句欄の選者であった[注釈 9]。この時のは照文(てりふみ)[5] 。その後短歌などにも手を染める。 1905(明治38年)勤務先で回覧雑誌をつくる。

1906(明治39年)『文章世界』3月創刊号に小品の文章が初入選する。使用した号は、室生殘花。また、北國新聞その他に俳句が掲載され始める。なお、犀星を名乗ったのはこの年からである。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。 1907(明治40年)『新聲』7月号に児玉花外の選により詩「さくら石斑魚に添へて」が掲載される。この頃から詩作も始める。 1908(明治41年)5月同郷の友人である表棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと「北辰詩社」結成。初の小説「宗左衛門」が『新聲』8月号に掲載される。第八高等学校に転出した藤井乙男の後任大谷繞石と識る[2] 1909(明治42年)1金石登記所に転任。2月尼寺に下宿する。北原白秋から強い影響を受け、「かもめ」「海浜独唱」を作詩。4月表棹影病没。この頃徴兵検査を受けるが、丙種合格。9月裁判所退職。10月福井県三国町の『みくに新聞』に就職するが、社長と衝突[注釈 10]12月に退社し、金沢に戻る。

1910(明治43年)1月京都旅行。藤井紫影の紹介で上田敏を訪問する。福井を経て金沢に戻り、2月金沢の『石川新聞』に入社するが、2ケ月ほどで退社。5月裁判所時代の上司であった赤倉錦風を頼り上京し、下谷根岸の赤倉家に止宿する。さらに、北原白秋、児玉花外を訪問。赤倉の薦めで、東京地方裁判所の地下室での裁判関係の筆耕に通う[6]7月本郷根津片町で下宿開始。このあと谷中三崎町、千駄木林町などを移り住む。

1911(明治44年)7月生活上の困苦と夏の暑さのため帰郷。10月再び上京し、駒込千駄木町に下宿。その後は、幾度も帰郷・上京をくりかえす。 1912(明治45年)1月北原白秋を訪問する[6]7月帰郷。北原白秋や『スバル』の発行編集人江南文三あて詩を送付。「青き魚を釣る人」ほかが『スバル』10月号に掲載される[注釈 11][7]1912年(大正元年)12月、尾山篤二郎が金沢で創刊した雑誌『樹蔭』に参加する。

1913大正2年)2月、半年ぶりに上京し[6]根津権現裏に下宿。藤澤淸造、安野助太郎、廣川松五郎らと交流し、佐藤春夫山村暮鳥を知る。一方で、北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿し、1月の創刊号から第5号廃刊まで毎号掲載される。ほかに『詩歌』、『創作』、『秀才文壇』、『女子文壇』にも詩を発表する。なお、同年春に『朱欒』掲載の抒情詩に感激した未知の萩原朔太郎から手紙を受け取り、終生の親交をもつ。夏から秋にかけて郷里に滞在[6]11月上京[6]12月『女子文壇』の編集を引き受けるも1ケ月でやめる。

1914(大正3年)2月前橋に萩原朔太郎を訪ね、利根河畔の旅館一明館に38日まで滞在する[6]。このとき聖書を読む。前橋より上京[6]4月尾山篤二郎と「北辰詩社」を復活させ、詩と短歌を有料で添削指導する。この頃、恩地孝四郎と識る。また高村光太郎を訪問する[6]5月頃、尾山と共著詩歌集『靑き甕』を企画する[6]6月萩原と山村暮鳥とともに「人魚詩社」を結成する。8月帰郷[6]9月創造社刊行の『創造』に掲載した「急行列車」が原因となり該当誌が発売禁止となる[ 12]。同月雑誌『地上巡禮』が創刊され、発行元の巡禮詩社の社友となる。同月雑誌『異端』が創刊され、同人となる。11月自宅である金沢市千日町に「詩の會」を設立し、有料で詩の添削を始める。この頃、『詩歌』、『創作』、『風景』、『アララギ』、『異端』、『地上巡禮』などに詩を発表する。

1915(大正4年)1月金沢で『遍路』が創刊され、詩の選者となる。3月山村、萩原と『卓上噴水』を創刊して、編集を担当するが、第3号で廃刊となる。4多田不二と識る。58日萩原を金沢に迎え、17日まで滞在。多田、小畠貞一らと歓待する[6]5月上京し、本郷千駄木町に下宿する。萩原の紹介で、竹村俊郎を知る。また、北原らと交遊する[6]。この頃、『詩歌』、『地上巡禮』、『遍路』、『處女國』、『ARS』、『秀才文壇』、『創造』、『卓上噴水』などに詩および感想文を発表する。10月、前橋に、萩原を訪問する。

1916(大正5年)には、トルストイドストエフスキーの作品を読む。4月山村の編集により雑誌『LE PRISME』創刊。室生が発行名義人となる。6月萩原とともに「感情詩社」を設立し、同人誌『感情』を創刊。再び共同主宰し、室生も編集運営に当たる[7][注釈 13]7月田端の沢田方へ「感情詩社」とともに移転し、『感情』第2号、第3号を「抒情小曲集」として特集、金石時代以来の詩60篇を掲載。9月「抒情小曲集」に感激した谷崎潤一郎が来訪。また、佐藤惣之助百田宗治ら多数の詩人と知り合う。11月『文章世界』の「詩壇九人集」に参加する[注釈 14]

1917(大正6年)1月メエゾン鴻の巣での各グループ詩人懇談会に出席[6]2月萩原の詩集『月に吠える』が出版されるが、発売禁止問題が起り、室生が警視庁に出頭する[注釈 15]。雑誌『感情』で「室生犀星特集號」を特集。3月南葛飾の北原白秋を訪問[6]5月群馬県梨木鉱泉へ行く。帰路、萩原と伊香保温泉に谷崎潤一郎を訪問[6]7月下旬熱病罹患し数日間病臥[6]8月養父重病のため帰郷。看護してのち帰京。この頃、近所に越してきた北原白秋と頻繁に往来[6]923日養父真乗死去。家督を継ぎ寺院および家財を整理する。このあいだに、文通交際中であった浅川とみ子(実名とめ)と婚約[注釈 16]10月初旬帰京[6]11月「詩話會」が設立され、会員となる[6]

1918(大正7年)11日第一詩集『愛の詩集』を感情詩社より自費出版[注釈 17][注釈 18]日夏耿之介詩集の「転身の頌の會」に出席し、芥川龍之介福士幸次郎と識る。月末帰郷。213日生家小畠家にて浅川とみ子と結婚式を挙げ、まず新妻を置いて上京、月末とみ子も上京し、田端の沢田方に新居を持つ。散文、評論の執筆を積極的に始める。4月『新らしい詩とその作り方』を刊行。9月『抒情小曲集』を感情詩社から自費出版[注釈 19]。亡父一周忌法要に帰郷。10月詩話會委員となる[6]

1919(大正8年)には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた[注釈 20]。この年、2月「詩話會」発行の年刊詩集『日本詩集』編集委員に就任。5月『第二愛の詩集』を刊行[注釈 21]610日に『愛の詩集』出版記念会が本郷燕樂軒で開催されて、北原、芥川、加能作次郎32名が出席した。10月田端571番地に転居。11月、雑誌『感情』が32号で終刊となる。

1920(大正9年)『中央公論』、『新潮』、『雄辯』、『文章世界』、『改造』、『文章倶楽部』、『太陽』、『解放』などに30篇以上の小説を執筆。1月小説集『性に眼覺める頃』刊行[注釈 22]。これは最初の小説集となった。2月『感情同人詩集』を編集発行。4月、『中央公論』に「結婚者の手記」を発表し、3月に単行本として刊行。同月、初の新聞小説である「海の僧院」を39回『報知新聞』に連載。また、『雄辯』に発表した「蒼白き巣窟」が部分削除処分となる。4月「美しき氷河」、6月「古き毒草園」を『中央公論』に発表。5月約半月の間帰郷。この頃から魚眠洞、魚生と号する。8月詩集『寂しき都會』刊行。9月「香爐を盗む」を『中央公論』に発表。11月短篇集『蒼白き巣窟』刊行[注釈 23]

1921(大正10年)40篇以上の小説を執筆。このうち7回は『中央公論』への掲載。1月号「おれん」、3月号「萬華鏡」、4月号「影絵のごとく」、6月号「芋掘藤五郎」、都市と田園号「植物物語」、四百号記念号(秋季大附録号)「孔雀と痴人」、12月号「お小姓兒太郞ほか二篇」。2月短篇集『古き毒草園』刊行。3月短篇集『香爐を盗む』刊行。3月から4月にかけて「蝙蝠」33回を『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』に連載。5月長男豹太郎誕生。6月短篇集『鯉』、短篇集『美しき氷河』刊行[注釈 24]。同月、伊香保温泉に遊び、帰途前橋に萩原を訪問。7月「金色の蠅」を『報知新聞』に連載。8月上旬萩原と赤倉温泉に遊ぶ[6]。同月「詩話會」委員となる。9月短篇集『蝙蝠』刊行。

1922(大正11年)小説も詩も多作。2月詩集『星より來れる者』刊行。3月『室生犀星詩選』刊行。同月千家元麿らと詩誌『嵐』を創刊。6月詩集『田舎の花』刊行。同月24日長男死去。同月中篇小説『走馬燈』刊行。7月夫人と湯ヶ島温泉に萩原を訪ね、同道して北原白秋を訪問[6]11月短篇集『幼年時代』刊行。12月亡児追悼の作品集『忘春詩集』刊行。

1923(大正12年)1月短篇集『萬花鏡』刊行。4月詩集『青き魚を釣る人 抒情小曲』刊行。7月アルス社より『抒情小曲集』を再び刊行[注釈 25]827日長女朝子誕生。91関東大震災罹災。101日一家で金沢に転居し、池田町を経て上本多町川御亭に住む。12月川岸町に転居。この年、中野重治堀辰雄を知る[6]

1924(大正13年)大阪の文化社が3月『肉の記録』を、大阪の萬有社が4月『肉を求むる者』をそれぞれ無断出版したことを知り、6月訴訟のため上京。この月萬有社より『彼等に』が刊行される。同月号『新潮』に「山河老ゆる」を発表。なお、このあいだ5月に芥川を金沢に迎える[6]7月、堀辰雄を金沢に迎える[6]9月詩文集『高麗の花』刊行。

1925(大正14年)1月金沢より上京し、田端613番地に仮寓する。2月田端608番地に移り、家族を迎える。3月童話集『翡翠』刊行。4月田端523番地に転居。5月初旬、詩話會同人と湯ヶ島方面に遊ぶ[6]6月初の随筆集『魚眠洞随筆』刊行。この年、堀、中野、窪川鶴次郎西沢隆二、宮木喜久雄、太田辰雄らの若い詩人や栗田三蔵らが来訪。近所に移ってきた萩原と頻繁に往来[6]

1926(大正15年)4月下旬、詩話會同人と伊豆方面に遊ぶ。中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らによる同人雑誌『驢馬』の創刊を後援する。6月小曲集『野いばら』刊行。9月次男朝巳誕生。10月詩話會解散に当り、声明書に署名。この年、秋本健之の筆名で『日本詩人』などに詩を発表[6]德田秋聲を知る。

1927昭和2年)1月、この月より『驢馬』同人との「パイプの會」、德田秋聲を囲む「二日會」に出席し始める。5月萩原その他の人々と『昭和詩選』の編集に当たる。6月詩集『故郷圖繪集』、随筆集『庭を造る人』刊行[注釈 26]12月「詩人協會」設立の発起人となる。この年芭蕉に関する散文を『文藝春秋』、『サンデー毎日』などに発表。この年俳句、短歌の発表多し。

1928(昭和3年)1月『愛の詩集』第三版刊行。詩人協會創立総会に出席し、評議員となる。3月日本文芸家協會寄託による第2回文藝賞(「渡辺賞」)受賞。4月末養母赤井ハツ死去し、金沢に戻る。5月評論集『芭蕉襍記』刊行[注釈 27]6月田端の家を引き払い軽井沢で避暑。さらに9月軽井沢より金沢に移る。池田町に仮寓し、山田屋小路に移る。同月、詩集『鶴』刊行[注釈 28]11月上京し、大森谷中に移る。この年文芸時評、映画時評の発表多し。

1929(昭和4年)2月随筆集『天馬の脚』刊行[注釈 29]4月初の句集『魚眠洞發句集』を刊行[注釈 30]5月帰郷。7月改造文庫で『新選室生犀星集』刊行。9月春陽堂から『芥川龍之介・室生犀星篇』(明治大正文学全集第45巻)刊行。11月第一書房から萩原朔太郎編による『室生犀星詩集』刊行。12月旧『驢馬』同人懇親会。同月、改造文庫『室生犀星詩集』刊行。なお、この年改造8月号「浮気な文明」、文藝春秋910月号「私の白い牙」などで近代的手法による表現を試みた。

1930(昭和5年)5生田春月自殺。追悼のための合同詩文集『海図』に寄稿。同月短篇集『生ひ立ちの記』刊行。6月詩集『鳥雀集』刊行。9月随筆集『庭と木』刊行。10月改造社から『久保田万太郎・長与善郎・室生犀星集』(現代日本文学全集第44篇)刊行。この年の前後に山崎泰雄、津村信夫、衣巻省三、乾直恵、伊藤新吉、立原道造らを知る[注釈 31]

1931(昭和6年)6月から8月にかけて『都新聞』に芥川をモデルとした「靑い猿」を連載[注釈 32]7月軽井沢に別荘建築。1932(昭和7年)3月長篇『靑い猿』刊行。4月大森区馬込町東に新築転居。明治大学に講師として招かれるも、講義1回で中止となった。9月随筆集『犀星随筆』刊行。また詩集『鐵集』を刊行し、これを自ら「最後の詩集」と称した。1933(昭和8年)2月詩集『十九春詩集』刊行。8月「ハト」を『中央公論』に、「哀猿記」を『改造』に発表。11月随筆集『茱萸の酒』刊行[2]12月京都放送局で講演放送する[6]

かつて1920年からしばらく小説の第1次の多作期があり、さらに1930年代に入り第2次の多作期となり、1934(昭和9年)には、「あにいもうと」を中心にいわゆる「市井鬼もの」を書き始めた。

1934年(昭和9年)1月「文藝懇話會」設立、会員となる。4月「鶴千代」(のちに「山犬」と改題)を『新潮』に発表。5月「洞庭記」を『中央公論』に発表、『鉛筆詩集』を含む随筆集『文藝林泉』刊行[注釈 33]7月「醫王山」を『改造』に、「あにいもうと」を『文藝春秋』に発表。『文藝8月号に「詩よ君とお別れする」を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。9月「神かをんなか」を『文藝』に「チンドン世界」を『中央公論』に発表。同月、別版『抒情小曲集』刊行。11月「神々のへど」(のちに「續あにいもうと」と改題)を『文藝春秋』に発表。

1935(昭和10年)1月短篇集『神々のへど』刊行[注釈 34]。自伝小説「弄獅子」を『早稲田文學』に1月号より6回、「女の圖」を『改造』その他に5回にわたり分載、その他「悪い魂」を『文藝』1月号に、「会社の圖」を『新潮』2月号に、「笄蛭圖」を『文藝春秋』4月号に発表。2月随筆『慈眼山随筆』、短篇集『哀猿記』刊行[2]3月創設された 旧・芥川選考委員となる[注釈 35]6月評論「復讐の文學」を『改造』に発表し、反響を呼ぶ。同月短篇集『女ノ圖』刊行。同月『犀星發句集』刊行[注釈 36]7月「あにいもうと」で第1回文藝懇話會賞を受賞。823日より「聖處女」を『朝日新聞』に1225日完結で78回連載。9月『随筆文學 犀星随筆集』刊行。12月長篇『復讐』(「人間街」を改題)刊行。

1936(昭和11年)1月「文藝懇話會」の機関誌『文藝懇話會』発刊。編集同人に参加。2月長篇『聖處女』[注釈 37]、詩集『十返花』刊行[注釈 38]。「龍宮の掏児」を『文藝春秋』3月号に発表。4月随筆集『薔薇の羹』刊行[注釈 39]6月純粹小説『弄獅子』刊行。6月随筆集『印刷庭苑』刊行。8月「あにいもうと」が木村荘十二監督、ピー・シー・エル映画製作所製作、東宝配給で映画化され封切。9月非凡閣より『室生犀星全集』刊行開始[注釈 40]10月「詩歌懇話會」設立。会員となる。

1937(昭和12年)「女の一生」を紫式部學會出版の「趣味と教養、研究と教養」の雑誌『むらさき』2月号より19回連載する。4月中旬から5月初旬にかけて朝日新聞の依嘱により、満州旅行。大連奉天哈爾濱、朝鮮を経て帰国し、京都に滞在してから帰京。5月『室生犀星篇』(現代長篇小説全集第4巻)刊行。7月より、立原道造が室生邸の軽井沢避暑中の留守を預かり[8]、ここから勤務先に通い始める[9][10]9月随筆集『駱駝行』刊行。1010日より長篇「大陸の琴」を61回にわたり『東京朝日新聞』に連載。

1938(昭和13年)1月新潮文庫より『あにいもうと』刊行。2月『大陸の琴』刊行。「波折」を『中央公論』2月号に発表。5月「詩人懇話會」設立され、会員となる。同月『室生犀星文學讀本・春夏の巻』刊行。7月春陽堂文庫で『犀星短篇集』刊行。9月長篇『女の一生』刊行。同月、自伝小説『作家の手記』刊行[注釈 41]11月『室生犀星文學讀本・秋冬の巻』刊行。同月新潮文庫から『室生犀星詩選集』刊行。同月、とみ子夫人が脳溢血に倒れる。以後、半ば身体の自由を失う。

1939(昭和14年)3月短篇集『波折』刊行。また、解散されていた「詩歌懇話會」の基金を引き継いで「詩人賞委員會」が設立され、同月その委員に就任。4月より第1回「詩人賞」授賞をめぐり雑誌『改造』誌上で北原白秋と論争になる。同月作品文庫で随筆集『あやめ文章』刊行。9月から翌年にかけて、讀賣俳壇の選者担当。10月短篇集『つくしこひしの歌』刊行。10月初旬萩原とともに講演のため水戸へ赴く[6]10月から12月にかけて、「よきひと」14回を『週刊朝日』に連載。

1940(昭和15年)3月長篇『よきひと』刊行。5月短篇集『乳房哀記』刊行。6月短篇集『美しからざれば哀しからんに』刊行。9月随筆集『此君』刊行。12月短篇集『戰死』刊行。『婦人之友』11月号に初の王朝小説「荻吹く歌」を発表。

1941(昭和16年)『婦人之友』1月号に「遠つ江」を発表。3月短篇集『信濃の歌』刊行。4月『戰死』により第3菊池寛賞受賞。同月長篇『戰へる女』刊行。『新女苑』5月号から「泥雀の歌」を10回連載。7月短篇集『蝶・故山』刊行。8月随筆集『花霙』刊行[注釈 42]9月短篇集『王朝』刊行[注釈 43]12月短篇集『甚吉記』刊行[注釈 44]。同月「哈爾浜詩選」を含む自選作品集『定本室生犀星詩集』刊行。12月胃痛を覚える[2]

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に盛名を得た1941が最後の帰郷となり、以後は代わりに犀川の写真を貼って故郷を偲んでいたという。

1942(昭和17年)「えにしあらば」を『中央公論』3月号に発表。4月、胃潰瘍のため本所横網同愛病院20日あまり入院。4月童話集『鮎吉・船吉・春吉』刊行[注釈 45]511日、萩原朔太郎死去。同月自伝小説『泥雀の歌』刊行[注釈 46]6月より『萩原朔太郎全集』編集。6月短篇集『筑紫日記』刊行。同月短篇集『蟲寺抄』刊行[注釈 47]7月短篇集『乙女抄』刊行[ 48]。夏の間、萩原朔太郎、佐藤惣之助の2人の亡友を追悼する長篇「我友」を執筆。12月短篇集『瞼のひと』刊行[注釈 49]。同月随筆集『殘雪』刊行[注釈 50]

1943(昭和18年)1月短篇集『木洩日』刊行。童話集『三吉物語』、『山の動物』刊行[注釈 51]3月短篇集『萩の帖』刊行[注釈 52]。同月『佐藤惣之助全集』全2巻を編集。4月および7月に『芥川龍之介の人と作』上巻、下巻を刊行。6月随筆集『日本の庭』刊行[注釈 53]7月詩集『美以久佐』[注釈 54]、長篇『我友』(のちに『名木』と改題)刊行[注釈 55]8月詩集『いにしへ』刊行。同月『犀星発句集』刊行[注釈 56]9月少年向け詩集『動物詩集』刊行。12月詩集『日本美論』(のちに『夕映梅花』と改題)刊行。同月短篇集『神國』刊行。

1944(昭和19年)3月から4月にかけて『中部日日新聞』に「山吹」38回を連載。3月小説集『餘花』刊行[注釈 57]。一家で軽井沢に疎開し、1949年(昭和24年)まで住む。

1945(昭和20年)7月次男朝巳が金沢第九師団に入隊。8月終戦。9月次男除隊帰宅。10月長篇『山吹』刊行。

戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。

1946(昭和21年)1月『人間』創刊号に詩を発表。同月随筆集『信濃山中』刊行。2月『山ざと集』刊行。8月『童話三吉ものがたり 附動物詩集』刊行[注釈 58]。この年、さらに『潮流』、『別冊文藝春秋』、『東京新聞』、『光』、『婦人公論』、『高原』、『蝋人形』、『子供の広場』などに詩を発表。また『文藝春秋』、『新小説』、『新女苑』、『群像』、『新生』などに小説を発表。

1947(昭和22年)1月短篇集『玉章』刊行。『新女苑』1月号より「みえ」を12回連載。2月詩集『旅びと』刊行。3月短篇集『山鳥集』刊行。10月短篇集『世界』刊行。同月詩集『逢ひぬれば』刊行。『群像』10月号に「祭服」を発表。

1948(昭和23年)3月童話集『オランダとけいとが』刊行。4月長篇『みえ』刊行。同月短篇集『童女菩薩』刊行。5月アテネ文庫より自伝小説『童笛を吹けども』刊行。64日「唇もさびしく」(のちに「宿なしまり子」と改題)を『北海道新聞』、『西日本新聞』に70回連載。10月短篇集『氷った女』刊行。11日本藝術院会員となる。同月童話集『五つの城』刊行。同月長女朝子結婚。

1949(昭和24年)9月軽井沢での疎開生活を終えて帰京し、再度大森馬込に住む。6月自伝小説『室生犀星』刊行。8月随筆集『泥孔雀』刊行。また「消えたひとみ」を『群像』8月号に発表。

1950(昭和25年)「奥医王」を『風雪』4月号に、「俗調『膝』悲曲」を『文學界』5月号に、「刀身」を『群像』7月号に発表。

1951(昭和26年)「餓人伝」を『文學界』3月号に発表。8月『萩原朔太郎全集』刊行に際し、編集企画を担当する。「誰が屋根の下」を『改造』9月号に発表。9月新潮文庫『室生犀星詩集』刊行。

1952(昭和27年)2月、水谷八重子らにより『あにいもうと』が大阪歌舞伎座で上演される。「黒髪の宿」を『中央公論』5月号に、「野に臥す者」を『小説公園』12月号に発表。

1953(昭和28年)1月長女、夫と別居し室生家に戻る。「お天気博士」を『群像』1月号に、「貝殻川」を『文學界』4月号に、「生涯の垣根」を『新潮』8月号に発表。

1954(昭和29年)1月川島胃腸病院に1ケ月以上入院。退院後、自宅にて静養。「鞄(ボストン・バッグ)」を『新潮』1月号に発表。入院生活に取材した「黄と灰色の問答」を『群像』4月号に発表。5月に『性に眼覚める頃』が『麥笛』と改題されて豊田四郎監督東宝配給にて映画化される。「蝶紋白」を『文藝』6月号に発表。同月、角川書店『昭和文学全集 佐藤春夫・室生犀星集』刊行。「妙齢失はず」を『婦人朝日』8月号より17回連載。12月夫と別居中であった長女、協議離婚のうえ室生家に復籍。

1955(昭和30年)随筆「女ひと」を『新潮』1月号より6回連載。2月短篇集『黒髪の書』刊行。「ワシリイの死と二十人の少女達」を『文藝』7月号に発表。8月筑摩書房から『現代日本文学全集第27 菊池寛・室生犀星集』刊行。10月随筆集『女ひと』刊行。「めたん子傳」を『文學界』10月号に発表。「横着の苦痛」を『文藝』10月号に発表。

1956(昭和31年)1月短篇集『少女野面』刊行。「舌を噛み切った女」を『新潮』1月号に発表。2月短篇集『舌を噛み切った女』刊行。3月長篇『妙齢失はず』刊行。同月随筆集『續女ひと』刊行。「三人の女」を『週刊新潮』51日号より15回連載。5月、『舌を噛み切った女』が菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。9月長篇『三人の女』刊行。10月随筆集『誰が屋根の下』刊行。「陶古の女人」を『群像』10月号に発表。「鴉」を『婦人朝日』11月号に発表。1119日から「杏っ子」271回を『東京新聞』に連載[注釈 59]12月短篇集『陶古の女人』刊行。

1957(昭和32年)「夕映えの男」を『婦人公論』1月号に発表。「つゆくさ」を『文藝春秋』6月号に発表。6月短篇集『夕映えの男』刊行。7月詩集『哈爾浜詩集』刊行。「遠めがねの春」を『新潮』8月号に発表。10月長篇『杏っ子』を刊行。「名もなき女」を『小説新潮』11月号に発表[2]

娘朝子をモデルとした1957年(昭和32年)10月刊行の半自叙伝的な長編『杏っ子』その他の業績により、1958(昭和33年)1月に昭和32年度第9読売文学賞を受賞。「わが愛する詩人の伝記」を『婦人公論』1月号より12回連載。2月随筆集『刈藻』刊行。3月短篇集『つゆくさ』刊行。「黄色い船」を『中央公論』5月号に発表。5月『杏っ子』が成瀬巳喜男監督、東宝配給で映画化。「二十歳の燦爛」を『別冊小説新潮』7月号に発表。「かげろうの日記遺文」を『婦人之友』7月号より13回連載。9月『山吹』が菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。「歯の生涯」を『それいゆ』10月号に発表。11月から新潮社『室生犀星作品集』を全12巻で刊行開始[注釈 60]12月『我が愛する詩人の伝記』(なお、佐藤惣之助の遺族の抗議により該当項目削除)刊行[2]

1959(昭和34年)「蜜のあはれ」を『新潮』1月号より4回連載。「生きるための橋」を『群像』1月号に発表。3月次男朝巳結婚。同月定本自筆本句集『遠野集』刊行。「借金の神秘」を『小説新潮』4月号に発表。5月短篇集『生きるための橋』刊行。同月随筆集『硝子の女』刊行。同月『平安遷都』(河出書房現代人の日本史第4巻)刊行。同月古稀にあたって日本文芸家協会より祝辞、記念品を贈られ、名誉会員となる。その詩業に対して現代詩人会より感謝状と記念品とを贈られる。「衢のながれ」を『中央公論』6月号に発表。「なやめる森」を『新潮』8月号に発表。8月詩集『昨日いらっしって下さい』刊行。「火の魚」を『群像』10月号に発表。10月長篇『蜜のあはれ』刊行。1018日妻とみ子死去。前年195712月刊行の評論『わが愛する詩人の伝記』で11月に第13毎日出版文化賞を受賞。同年11月に刊行された、古典を基にした長篇『かげろふの日記遺文』により、同年12月、第12野間文芸賞を受賞した。なお、同賞祝賀会の席上で、この賞金を基にした室生犀星詩人賞の創設、「犀星文学碑」の建立[注釈 61]、『室生とみ子遺稿句集』の刊行の企画が発表され[注釈 62]、このうち詩人賞は翌1960(昭和35年)年12月に第1回授賞が滝口雅子『青い馬』、『鋼鉄の足』に対して行われた[2]

1960(昭和35年)「黄金の針」を『婦人公論』1月号より12回連載。「告ぐるうた」を『群像』1月号より6回連載。3月短篇集『火の魚』刊行。同月、『かげろうの日記遺文』菊五郎劇団により歌舞伎座で上演される。「字をぬすむ男」を『小説新潮』4月号に発表。5月、旧「驢馬」同人を中心に「驢馬の会」が生れて第1回の集いあり[注釈 63]7月長篇『告ぐるうた』刊行。「怒れる三本の鉤(のちに「三本の鉤」と改題)を『新潮』9月号に発表。9月随筆集『生きたきものを』刊行。「我が草の記」を『群像』10月号に発表。10月『新潮社日本文学全集第24 室生犀星集』刊行。「帆の世界」を『小説新潮』12月号に発表。12月短篇集『二面の人』刊行。

1961(昭和36年)1月「タールの沼」を『新潮』1月号に、4月『黄金の針』刊行。「簪マチ子」を『別冊文藝春秋』6月号に発表。「渚」を『群像』7月号に発表。「はるあはれ」を『新潮』7月号に発表。7月短篇集『草・簪・沼』刊行。夏、軽井沢にあって身体不調。9月肺炎で臥床する。「末野女」を『小説新潮』9月号に発表。10月港区虎の門病院に検査入院。11月退院。同月、「私の履歴書」を『日本経済新聞』に掲載。同月『講談社日本現代文学全集第61 室生犀星集』刊行。12月第2回「室生犀星詩人賞」を富岡多恵子辻井喬に贈る[2]

1962(昭和37年)、「明治の思ひ」を『小説新潮』1月号に発表。「われはうたへどやぶれかぶれ」を『新潮』2月号に発表。2月小説『はるあはれ』刊行。225日に書かれ『婦人之友』4月号に掲載された「老いたるえびのうた」が絶筆となる。31日虎の門病院入院[注釈 64]19日より意識不明。肺癌のため虎の門病院で死去。従四位に叙せられ勲三等瑞宝章を贈られる。28日密葬、29日青山葬儀場にて無宗教による葬儀[11]。葬儀委員長中野重治[12][2]

1962(昭和37年)5月金沢市中川除町に文学碑建立。1018日、金沢郊外の野田山墓地に埋葬された[6]。「犀星忌」は326。生前刊行された単行本は、260冊に及ぶ[13]犀川大橋から桜橋までの両岸の道路は「犀星のみち」と呼ばれる。

全集・著作集[編集]

室生犀星全集 (全13巻別巻1 非凡閣 1936-1937年)

室生犀星作品集 (全12 新潮社 1958-1960年)

室生犀星全集 (全12巻・別巻2 新潮社 1964-68年)

室生犀星童話全集 (全3 創林社 1978年)

詩歌では、「全詩集」が筑摩書房(限定版と普及版で全1巻、1962年)と、冬樹社(全3巻、1978年)で出版された。

室生犀星全王朝物語(上下巻、作品社1982年)

室生犀星句集 魚眼洞全句(北国出版社、1977年)

いずれも娘・室生朝子編、いくつかの「詩集」を編み「晩年の父犀星」をはじめ多数の関連著作を出版している。

l  作品[編集]

詩集[編集]

『愛の詩集 第一詩集』感情詩社、1918 のち角川文庫

『抒情小曲集 2詩集』感情詩社、1918

『第二愛の詩集 第四詩集』文武堂書店、1919

『寂しき都会』聚英閣、1920

『星より来れる者』大鐙閣、1922

『田舎の花』新潮社、1922

鉛筆詩集(単行本なし)

『美以久佐(みいくさ)』千歳書房、1943

『詩集 いにしへ』一條書房、1943

『動物詩集』日本繪雑誌社、1943

『日本美論』昭森社、1943 - 戦後に『夕映梅花』と改題され再刊

小説[編集]

『或る少女の死まで』1919

『結婚者の手記 あるひは「宇宙の一部」』新潮社、1920

性に眼覚める頃』新潮社、1920 のち角川文庫、新潮文庫

『蒼白き巣窟』新潮社、1920

『鯉』春陽堂、1921

映画・ドラマ化)

『女ノ図』竹村書房、1935

『哀猿記』民族社、1935

『弄獅子』有光社(純粋小説全集 8巻)、1936

『聖処女』新潮社 1936 のち角川文庫

『女の一生』むらさき出版部、1938

小説[14]

『告ぐるうた』講談社、1960

『二面の人』雪華社、1960

『草・簪・沼 小説集』新潮社、1961

『古事記物語』小学館(少年少女世界名作文学全集)、1962

評論・随筆[編集]

『新らしい詩とその作り方』文武堂書店、1918

『魚眠洞随筆』新樹社、1925

『庭を造る人』改造社、1927

『天馬の脚』改造社、1929

新版文庫[編集]

『犀星王朝小品集』岩波文庫、1984

『かげろうの日記遺文』講談社文芸文庫、1992年、改版2012

『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』講談社文芸文庫、1993

校歌作詞[編集]

金石町小学校

菊川町小学校

金沢大学附属高校

金沢大学

l  交友[編集]

萩原朔太郎

相川俊孝

芥川龍之介

中野重治

堀辰雄

伊藤信吉

森茉莉

萩原葉子

桂井未翁

尾山篤二郎

岡谷天芥

 

 

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