出版と権力 魚住昭 2021.5.21.
2021.5.21. 出版と権力 講談社と野間家の110年
著者 魚住昭 1951年熊本県生まれ。一橋大法卒後、共同通信入社。司法記者として主に東京地検特捜部の取材に当たる。在職中、大本営参謀・瀬島龍三を描いた『沈黙のファイル』を著す。96年退職後、フリージャーナリストとして活躍。04年『野中広務 差別と権力」により講談社ノンフィクション賞。講談社本田靖春ノンフィクション賞選考委員
発行日 2021.2.15. 第1刷発行
発行所 講談社
序章 本郷界隈に交錯する夢
講談社が1959年編纂した社史のもとになった約150巻の秘蔵資料が出てきた
数奇な運命を辿った野間家の人々の赤裸々な姿と、そこから見えてくる日本における「マスメディアの時代」の幕開けと展開を知りたくて始めた
第1巻には、野間省一社長の指示のもと社史編纂の実務担当だった笛木悌治の集めた資料が、「賢明にして忠実なる後人によって十分活用されることを祈ってやまない」との一文がある
一高で「獰猛(ねいもう:どうもうの誤読)」の渾名で呼ばれた岩波茂雄(22)は、1903年ボート仲間で同級生の藤村操の「巌頭之感」に驚愕、同じく同級生の安部能成と共に悩み苦しみ親しくなるが、2人とも学期末試験に落ち、岩波は2年連続落第で除籍、南米行きを試みるが許可が下りず、東京帝大哲学科の選科生(学士の資格は得られない)となる
安部は06年帝大文科に入り夏目金之助門下の四天王と言われ、藤村の死後9年、その妹恭子と結婚
岩波は神田に岩波書店を立ち上げ、その看板を書いてもらうために安部に頼んで夏目を紹介してもらう。漱石は快諾したのみならず、『こゝろ』や哲学叢書の出版などで支援、岩波の礎を築いていく。後年、大衆的な「講談社文化」に対抗した「岩波文化」の誕生
夏目も教え子藤村の自殺で深刻なトラウマを負った1人。直前の授業で藤村を叱りつけたのを気にしたのか、2か月後にロンドン時代に発症した神経症を再発、妻子とも別居するが、高浜虚子の勧めで神経症を紛らわすために書き始めた小説が『猫』と『坊っちゃん』
1904年頃、雑誌『中央公論』は1500部程度に過ぎず、本社も西片町の麻田駒之助社長の私邸。元々禁酒と道徳を標語とする西本願寺系の修養雑誌で、総合雑誌に育て上げたのは「不世出の名編集者」と謳われた滝田哲太郎(樗陰ちょいん)
岩波の1年下で東京帝大法科大学に籍を置く滝田は、アルバイトで中央公論で学費を稼ぎ学生と編集者の2足の草鞋で悩むが、04年正式入社。05年『ホトゝギス』で始まった夏目の『猫』を読んで夏目に『中央公論』への執筆を依頼。夏目も教え子の押しと粘りに負け作品を発表、『中央公論』が世の注目を集めるようになる
07年、夏目は立身出世の最高到達点である教授職を惜しげもなく断って朝日に入社
07年秋、正力松太郎が東京帝大独法科入学。岩波とは別の意味で野間清治の強力なライバルとなり、讀賣vs講談社の長期抗争を繰り広げる
07年秋、沖縄県の視学(地方教育行政官)だった野間清治が東京帝大法科大学の首席書記として着任。群馬の尋常師範学校卒、臨時教員養成所を経て沖縄で教職に就いたが、遊び好きで借金まみれの放蕩生活を送る
20世紀の新聞・出版界の主役となる4人が本郷界隈に揃う。自ら何者たるかも知らず、お互い顔も名前も知らず
帝大に奉職した野間を衝き動かしているのは身の程知らずの野心。野心があったからこそ、岩波書店や中央公論、読売新聞とは異なる、新たな大衆文化を切り開くことになる
第1章
問題児、世にはばかる
1.
父と子
1936年自叙伝『私の半生』上梓。初稿は秘蔵資料の1~3巻に口述として保管されているが、赤裸々過ぎて出版できず
1944年編纂の『野間清治伝』は、若い頃から親交のあった歴史学者中村孝也が講談社の依頼で執筆。美談仕立ての嫌いあり、元になった関係者の談話速記録も秘蔵資料に含まれる
生まれは桐生の町はずれ。父は上総飯野藩(千葉県富津市)の藩士の3男、母は千葉道場四天王の1人で同藩武術指南の娘。父は指南の内弟子だったので師の娘と一緒になった
維新後2人は東京に出るが武家の商法で失敗、剣術の興行団に加わって関東諸国を歩く途中、桐生の新宿(しんしゅく)村で教師として雇われた時に清治と妹・保(やす)誕生
やがて古道具屋を営み、書画骨董の売買でしばしば問題を起こすが、絹織物取引で恵まれた町に救われる
清治は尋常小学校から高等小学校に進み、ガキ大将。両親の教育熱心は、学問による立身出世の可能性を啓示した『学問のすゝめ』にあった
1890年帝国議会開会に伴い各地で盛んになった演説会に清治も興味を持ち、学校の討論会では演説を褒められて気を良くし、演説熱はその後も続いて、20年後の講談社(当時は大日本雄弁会)の第1号雑誌『雄弁』に結実。さらに、担任の八犬伝を聞いてその魅力の虜となり、講談への興味が後の講談社の第2号雑誌『講談倶楽部』へと繋がる
2.
博文館の時代
1887年、日本の雑誌ジャーナリズムの勃興期を迎える ⇒ 『国民之友』『日本大家論集』が大ヒット。教育の普及と印刷技術、安価な洋紙の供給などが背景に
この頃、雑誌の全国販売網(取次体制)が作られ、近代日本の出版流通システムの礎が出来上がるが、それを成し遂げたのは長岡の商人大橋佐平。本郷に博文館を起業、『日本大家論集』を創刊、当時の新聞・学術雑誌に掲載された諸大家の論説や記事をダイジェストで無断掲載したものを格安で販売したところ、たちまち1万部を完売、相次いで同類の雑誌を刊行、何れも大ヒット。福沢の知己を得て著書を出版。販売と流通こそが出版の死命を制するというリアリスティックな認識が成功の基。全国の有力書店と特約店契約を結び、雑誌を中心とした全国販売流通網を作り上げ、創業5年で日本最大級の出版社に成長
さらに息子の義父が始めた傍系会社東京堂が「元取次」となって日本出版界の動向を左右
当時、書籍を母屋とすれば雑誌は庇みたいなものだったが、1冊ごとに宣伝して売る書籍に比べ雑誌は一旦読者が付くと安定的に売れるため、博文館の登場で比重が逆転
近世出版物からの延長線上にある書籍と、近代マス・メディアである雑誌の成り立ちが違うので、両者の流通形態もかなり異なっており、雑誌が元取次以下明解な流通ルートがあったのに対し、書籍は都市の中規模卸が地方の書店と個別に取引していた
博文館は、日清戦争開戦直後『日清戦争実記』を創刊、初の写真銅板使用もあって飛ぶように売れ話題騒然、第1篇が23版30余万部、13篇まで300余万部が売れた
1895年には高山樗牛編集の総合誌『太陽』や、国木田独歩ら一流作家が寄稿する『文芸倶楽部』を創刊して「雑誌王国」の地位を確立
さらに洋紙販売、印刷にも乗り出し、僅か10余年で大橋コンツェルンを完成
3.
師範学校のヒーロー
1896年、清治は前橋の県立師範学校に入学。修業年限4年の本科で、学費が無料で中学に行けない貧しい家庭の子弟が多い、全寮制
年次が上がるにつて徐々に成績は下がり、卒業時の成績は学力乙で人物が丙
授業にも出ず、ズボラで怠け者、唱歌・オルガンはまるきし駄目だったが、どこか人に好かれるところがあり、剣道の対外試合ではヒーロー、目下の者の言うことをよく聞いた
この頃既に、文字に「書かれた言葉」と、音声で「語られる言葉」の質的な違いに気付いている。「語られる言葉」は、「書かれた言葉」のように複雑多量のデータを伝えられない代わりに、音の高低や強弱、話し手の表情や身振りによって相手の理性ではなく感情を揺さぶることができる。「語られる言葉」には人々の魂を鷲掴みにする威力がある。問題はその威力をどう利用するか。清治が「語られる言葉」をベースにした雑誌の創刊に行きつくまでにはさらに10年を要す
第2章
『雄弁』創刊前夜
1.
沖縄赴任
司馬遼太郎は、1905~45年を日本近代の「魔の季節」と呼ぶ。起点は日比谷公園での日露戦争講和条約反対国民大会での大衆の熱気が軍部に蓄積されて、以後の国家的妄動のエネルギーになった。一般大衆の政府批判が顕在化した事件で、大衆社会の先触れであり、野間清治が飛躍する舞台の幕開け
暴動に発展した原因の1つは新聞各紙の激しい論調。報道のみならず、各地の反対集会はほとんどすべてが新聞社や記者グループを軸に形成された ⇒ 演説と新聞が人心を煽り立てるポピュリズムの効能にジャーナリスト自身が驚愕
1900年、野間清治は師範学校を卒業して母校の訓導になった後、新設中学の教師不足を補うために作られた東京帝大文科大学の臨時教員養成所に入る。この時出会ったのが文科大学の事務方トップの書記長・松永武雄で、清治の演説に惚れて可愛がった
卒業の赴任地に俸給のいい所との希望が聞き入れられ、日露開戦直後に沖縄へ赴任
直ぐに人気の教師となり、料亭や遊郭でも評判となる
2.
服部左衛との結婚
1906年県庁勤務となり、県属(県庁の役人)から県視学(教育行政官)に異例の抜擢
「明治の琉球王」と呼ばれた県知事は、主要ポストを薩摩中心の本土出身者で固め、急速な本土化政策を進め、民族運動を弾圧したが、清治は独特の人たらしで人脈を広げ、知事側近に取り入ったのが成功。失職した群馬の友人らを呼んで教職につけたりした
07年、奉職先の県立中学校長の世話で、校長の元教え子で徳島の裕福な商家の長女と結婚
披露宴の最中に東京の松永から電報で文科大学の首席書記に空席が出来たとの知らせで、一旦は沖縄への義理から断るが、東京からの説得で野心に火が付き翻意
事務処理は迅速、誰にでも話しかけ、総長の浜尾新と学長の穂積八束の信任は厚く、浜尾に「大事な交渉や使いはなるべく野間にやらせたい」とまで言わせた
明治末期は学歴エリート受難の時代。卒業生が5倍に増え、就職難が深刻化。高等教育卒業者の就職難が社会主義や無政府主義の「危険思想」の蔓延の種になるとの懸念が広がり、社会問題化。官吏の昇進も遅延し、俸給据え置きで経済的地位も低下
清治も現状に不満で辞めたいと漏らし、遅刻早退を頻発
3.
帝大書記と緑会弁論部
「英雄豪傑は些細なことに頓着しない」という父の金銭観や侍気質の影響を大きく受けるが、やがて立身出世の方法は、金を貯めて事業を起こすしかないと思い始め、沖縄の物産販売に乗り出すが失敗。大学の古文書を写す内職で借金を減らしていく
09年秋、緑会弁論部誕生。緑は、学内ボートレースの旗の色に由来し、法科の色で、文科が赤、工科は白。緑会は1918年には部長の吉野作造の指導の下「新人会」が作られ、全国の学生運動のセンターに発展、多くの社会民主主義・共産主義の指導者を輩出
暴動やストライキが頻発、社会主義者による騒乱事件などが相次ぐ中、明治30年代末から第2次弁論ブームが起き、東京帝大法科の鶴見祐輔らが学生論客として注目
法科の中で弁論部設立の動きが出るが、穂積学長は拒絶、伊藤博文の懐刀でもあった民法学の梅謙次郎の後押しで発足に漕ぎ着ける。発会後の晩餐会で清治が立ち上がり、縁の下の役割を演じたのは自分だとアピール、鶴見も呆気にとられたという
第3章
大逆事件から『講談倶楽部』へ
1.
12人の死
1911年大逆事件で12人が処刑。翌日特赦により残りの12人は無期懲役に
朝日新聞の校正係だった26歳の啄木は、秋水夫妻の獄中書簡や裁判記録を読んで事件の真相を知り、体制擁護からドラスティックに転向
事件の真相は封印され、当局の徹底的な取締りが、草創期の講談社にも重大な影響を
2.
あぶく銭と「冬の時代」
発会式の速記原稿を見た清治は、捨て置くのはもったいないと、雑誌『雄弁』の発行を思い立つ
その頃清治は米相場に興味を持って手を出すが、09年の暴落で大損、借金苦に陥る
挽回を期して講談社発祥の地となる団子坂下の借家に転居、不相応に広い家だったが、すぐに『雄弁』の編集所となり、多くの学生が出入りする弁論界の情報センターになった
書記の片手間で『雄弁』を出すことに学内の了解を取り付け
政治・時事問題に触れる雑誌の発行には1000円の供託金が必要で、清治は飛び込みで教科書の出版社大日本図書に発行の話を持ち掛けたところ、全面的に引き受けてくれることになり、清治には編集料が1000部ごとに30円の歩合で入ることに
団子坂の家に「大日本雄弁会」の看板を掲げ、何人かの学生の助力を得て編集作業を開始
1910年第1号創刊。定価20戦。巻頭は梅謙次郎の演説『薄志弱行論』で、初版6000部は即日完売。すぐに1万部を超える大ヒットとなる
団子坂の家は雄弁熱に憑かれた学生たちの梁山泊となるが、同時に刑事の監視が始まる
大逆事件の煽りで、創刊後4,5カ月で販売は半減するが、その原因は山縣有朋の意見書『社会破壊主義論』にある。穂積が起草し明治天皇に奉呈され、大逆事件の処理方針を規定
3.
思想善導という活路
山形の意見書は、社会主義対策として、社会政策による感化誘導と、穏健な思想・国民道徳の涵養を挙げ、社会政策の一環として打ち出されたのが貧病者救済の施療院(済生会病院)の設立であり、穏健思想涵養のための社会教育(通俗教育)で、民衆教育のツールとしてそれまで教育程度の低い民衆の娯楽でしかなかった講談に光が当たる
清治はさっそく民衆教育のための新し雑誌を構想、大日本図書に断りに行くと、自力での新雑誌発行は無理と言われ、収支トントンにまで落ちていた『雄弁』をまず自力でやってみてはと譲り受ける
11年末、新雑誌『講談倶楽部』は、大日本雄弁会とは別の会社・講談社を作って発行
第4章
団子坂の奇跡
1.
窮すれば通ず
『雄弁』の発行のための内務省への供託金1000円と印刷所の開拓に難渋したのを助けたのは義弟の野間善次郎。郷里の桐生で織物工場を経営、足利銀行から借金して支援
秀英舎(後の大日本印刷)が前金での支払いを条件に印刷を引き受け
『講談倶楽部』は初版1万部を刷ったが、委託販売で1800部しか売れず、2号以下も同様で、懐が火の車に。相場や高利貸しにも手を出しますます窮す
明治天皇崩御の頃から売り上げが伸びはじめ、13年には大学書記を辞職
競合雑誌の出現で恐慌を来したが、逆に互いが競い合って売り上げを伸ばす好循環となり、彼の出版哲学の根本を成す考え方が芽生える ⇒ 衆なるものを愚とするが、自分は衆賢。体裁も質も量もちょっと吟味すれば必ず読者には分かる。衆は神の如く畏れて懼れなければならない
大正初期は浪花節全盛期、講談や落語が落ち目になり、浪花節を持て囃す『講談倶楽部』と衝突。講談落語の速記を一手に引き受けていた今村次郎から浪花節排斥を迫られた清治は、理不尽な要求を一蹴、新人などに呼び掛けて「新講談」を企図、中里介山、長谷川伸などが呼応して、13年には装いを一変した『講談倶楽部』が発刊され、大評判となる
発行部数は急増、黎明期の大衆文学にとってエポックメーキングの出来事
2.
東京堂・講談社枢軸の形成
1914年、最大の元取次東京堂の経営者・大野孫平と出会う
博文館は独自の全国販売網を持っていたので、東京堂はむしろ他社の本を売り捌く方に注力、その結果必然的に博文館のライバルである講談社と結びつく
大野は、博文館創業者の妻の妹の子で、従兄の省吾から経営を受け継ぐ。ど素人から経営の合理化に取り組み、業界改革に動き出す。東京雑誌組合を作って乱売競争を止め、雑誌の定価販売を実現。さらに実業之日本社を皮切りに「売り切り制」から「返品自由制」に切り替えると、同社の雑誌販売が急増、博文館を凌駕。雑誌販売店が増加し好循環に
『講談倶楽部』の売り上げ回復に伴い、東京堂から単行本のみについて歩合値引きの要請があり、応じる代わりに高利貸しからの借金の肩代わりを頼む。お互いの強い信頼関係を築くが、清治にとって幸運だったのは大野が徹底した雑誌中心主義者だったこと
大野は、清治の雑誌の歩合を引き上げることも画策するほど、清治に肩入れ
借金の肩代わりも年々増額し、講談社の事業拡大期に不可欠な運転資金の供給源となった
3.
人材雲のごとし
講談社が以上の発展を遂げた背景には2つ。1つは資材の大量需要者の偉力で用紙、印刷製本料から広告料まで安価に仕入れたこと、もう1つは卸値を高率にして売り捌いたこと
大野は、講談社の経営方針にも関与、清治の大風呂敷を牽制
14年『少年倶楽部』創刊、16年『面白倶楽部』創刊、”宣伝狂”の清治は、宣伝によって売り上げを伸ばせば宣伝費が物の原価を引き下げるとの論理から、宣伝を巧みに使う
社業拡大に伴い、大勢の異才が集まってくる
論壇では、滝田が13年ヨーロッパから帰国した吉野作造と親交を結び、彼の民本主義を毎号のように掲載、『中央公論』は発行部数が12万部を超える
岩波は、周囲の先達を押し切って17年末『漱石全集』全12巻の予約刊行を始め、発展の礎を築く
第5章
少年たちの王国
1.
関東大震災
地震と共に赤門付近から出火、建物総面積の1/3、約12千坪を焼き尽くし、特に図書館全焼、全75万冊の書籍の焼失は痛手
滝田は自邸にいて母の訃報が届いた直後に遭遇
岩波書店は傾いた程度で、岩波も自転車で小石川の自邸に戻ったところ
正力は警視庁官房主事(特高所管)で、東京の社会主義者や朝鮮人の取り締まり、動向監視の任にあった。地震発生時警視庁の自室におり、庁舎に火が移ったので、日比谷公園に隣接した一中の校舎に移り、仮庁舎とした。流言蜚語に悩まされ、中でも朝鮮人来襲の虚報を信じ、各署に対し警戒態勢を取るよう指示。軍も警戒態勢を取ったが、夜になって虚報であることが判明
清治の一家は”音羽御殿”にいた。6500坪の敷地と500坪の建物を21年に買い取って社業を見ていた。洋館が半分崩壊したが、全員無事
2.
出版界の革命
震災で出版界も新聞界も壊滅的打撃を受ける
1か月前に完成したばかりの新社屋を焼失した読売の打撃は大きく、経営に行き詰まって翌年2月身売りとなり、やがて正力の手に渡る
講談社は、返品倉庫が潰れただけで建物本体は無事、怪我人もなく幸運
東京雑誌協会は、10月号の雑誌は10月1日から発行とし、それまで震災の記事を載せた雑誌は出さないとの申し合わせを行う
講談社は、翌年から国民雑誌『キング』の創刊を準備していたが、創刊を1年延ばして震災ルポの制作に振り向け、横山大観の表紙で『大正大震災大火災』を発刊。口絵写真80頁、本文300頁、50万部という社運を賭けた空前のプロジェクトは、関東戒厳司令官福田雅太郎大将が災害写真の便宜を図り、東京日日新聞の著名記者が記事を提供したことから超スピード編集で実現
博文館印刷所が引き受け、大野孫平の東京堂に働きかけ書籍ではなく雑誌の販売ルートに乗せ、講談社の社員が注文を取って歩く。鉄道省の総務課長だった鶴見祐輔に談判して雑誌並みの荷造りで発送。近代日本の出版販売史上画期的な出来事となる
3年後の26年には、講談社は鶴見の岳父・後藤新平のパンフレット風単行本『政治の倫理化』を同様ルートで全国の雑誌販売店に送り付け100万部近いベストセラーとなった
10月1日の販売は大評判となり初版20万部はすぐ売り切れ、計40万部に達し、取次に集まった金で業界全体が潤い、野間は業界の救世主とされ、業界の指導的立場を占める
吉野作造は、震災で中国人・朝鮮人学生支援が難しくなったため、帝大教授を辞め朝日新聞に入社するが、間もなく舌禍事件で退職を余儀なくされる
滝田も、喘息から腎臓を患い、25年末逝去。享年44
吉野の朝日退社と滝田の死は、大正デモクラシーの終焉を象徴する出来事
3.
君たちはこう生きよ
大正デモクラシーの後、時代の空気を敏感に反映した思想はマルクス主義と、清治の唱える「修養主義」
「修養主義」は、庶民の心情の奥深くに浸透していき、昭和前期の日本社会に強い影響力を発揮する。修養とは修身養心で、克己や勤勉などによる人格の完成を道徳の中核とする精神主義的人間形成であり、明治30年代に台頭し、40年代に大きな潮流となるが、修養本のベストセラーは、明治・大正が新渡戸稲造で、昭和が野間
清治は『少年倶楽部』で、「中学に行かなくても偉くなれる。目標は出世・金儲け。達成手段は修養の積み重ね」と語りかける。大正末期から昭和にかけ一世を風靡した「講談社文化」の強みも弱みもこの言葉に凝縮される
21年音羽に居を移して以降、心臓や腎臓が悪化し絶対安静を言い渡されていたこともあって、団子坂の社屋には出ず、音羽で少年社員たちの教育を実践
息子・恒の千駄木小卒業に際し中学に行かせなかったのも、清治が講談社を営利事業と教育を融合させた「修養主義雑誌王国」に仕立て上げようという野望を持っていたからで、未来の王国を支えるのは日々修養を重ねてきた少年部員たちであり、彼等の「人格的な統合象徴」となるのが恒だった
1924年末、『キング』創刊。初刷り50万部という未曽有の大部数。9編の小説が主、人気作家の長編小説が売り。新聞でも原稿を公募。小学卒業したばかりの13歳から70歳以上の老人まで、あらゆる年齢・階層・職業の人々の読みたがる雑誌を作る
全国の新聞に広告をうち、読者に宣伝郵便を直送するなど、当時最多『主婦之友』の25万部を遥かに凌ぐ62万部を発行、58万部を売り切る。27年新年号は120万部に達し、創刊2年で雑誌史上初の100万部を突破
25年末には笛木が未経験の編集長に抜擢され、『幼年倶楽部』創刊31年新年号は、児童雑誌としては空前の95万部にたっする
第6章
雑誌王の蹉跌
1.
円本ブームと講談社
大正・昭和にかけ、『中央公論』と並び称された総合雑誌の雄『改造』は、19年創刊。執筆陣には与謝野晶子、土井晩翠、幸田露伴、正宗白鳥など錚々たる顔が揃ったが売れない。次々に谷崎や田山花袋も載せるが不振。4号を「労働問題・社会主義」号にしたところ売り切れとなり、以降『中央公論』のさらに左の潮流を代表する総合雑誌となる
震災で経営状態が悪化したところで、円本の構想が浮かび、東京堂の支援を得て実現
25年末、『現代日本文学全集』(第1回配本は「尾崎紅葉集」)創刊、60~80万部完売
26年初には新潮社が『世界文学全集』を円本で出版、大当たりをとり、次々に各社が同様の全集ものを出して円本ブームを巻き起こす。乗り遅れたのは岩波と講談社
岩波は、代わりに学生時代に親しんだドイツやイギリスの文庫に倣って「岩波文庫」を創刊、熱烈な歓迎を受ける
講談社は、円本ブームが下火となりかけた28年、御大典記念と銘打って、『講談全集』「修養全集」を各巻1円で刊行するが、ボリュームの大きい本を送料小売店負担で勝手に送り付けてきたため小売店の反発を買い、夥しい返品の山に埋もれる
大正期の講談社の確立されたコンセプトは、「面白くてためになる」だったが、『キング』辺りから変化、「世のため人のため」が頻出、そこに「お国のため」が加わって「雑誌報国」に向かい、巨大化とともに国家との距離を失い、国家と一体化していく危うさが潜む
1928年、清治は子供の頃から憧れていた徳富蘇峰の手紙をもらって驚喜。御大典記念で刊行した『大日本史』全17巻への祝詞が述べられており、「野間の事業を目して”私設文部省”と評したのは的確だった」とあり、かつて自ら、「知育」偏重の文部省になり代わり「徳育」を担う講談社を褒めたことを振り返っている
以後、「雑誌報国」と「私設文部省」が講談社の企業アイデンティティとなる
こうした講談社の在り方に、自己宣伝の臆面のなさと大衆欺瞞を嗅ぎ取ったのが、反骨のジャーナリスト・宮武外骨で、「利欲一片の下卑蔵が国家に報復する誠意とは、説教強盗が犬を飼え、戸締りに注意といった深切よりも、ズッと上手の誠意であり、思想悪導者が思想善導の宣伝をしたのよりも、一層キキ目があろう」と皮肉っている
2.
新聞経営の泥沼
1930年、報知新聞社長に就任。1872年創刊の伝統紙だが、震災後経営難に陥り、清治にお鉢が回ってきた。健康上の理由から断るが、雑誌では得られぬ名誉欲や功名心もあり、代々社長から大臣が多数出ていることもあって、社長の大隈信常(重信の嗣子、侯爵)の懇請を断り切れずに引き受けたもの
報知の社長として、『キング』以来の講談社「道徳」路線を継承。「美しく明るく強き新聞」作りを進める
就任直後、報知主催の日独親善欧亜連絡飛行で軽飛行機によるシベリアの横断飛行成功で世界新記録を樹立、感涙にむせぶが、翌年の北太平洋横断飛行では挫折、直後にリンドバーグが成功し日本へも飛来
失敗を挽回するべく社内の反対を押し切って3ルートでの太平洋横断飛行を強行、いずれも失敗して死者を出す結果に
新聞の売れ行きも伸びず、世界恐慌の余波もあって、労働争議や小作争議が頻発
清治自身も側近の名義で株取引にのめり込み、市場では「キング筋」とまで言われた
読売新聞は1874年創業、明治20年代には逍遥、紅葉、露伴の3大文豪を擁する文学新聞として人気を呼んだが、震災で経営が行き詰まり、正力が引き受けた後、清治の新聞作りとは真逆で、東京の下町の大衆が求めた血の滴るようなセンセーショナルなニュースや、好奇心をそそるゴシップなどを取り上げた紙面作りを進める
震災直後、難波大助による摂政の宮襲撃未遂事件の責任を取って懲戒免職になった正力が、元内相・後藤新平の資金援助を得て読売を買収。経費節減と社内の綱紀粛正で立て直し、当時始まったラジオの番組内容の紹介と、以後の因縁の対決を実現させてその模様を詳報したのが大反響を呼び、27年にはヌード写真も載せて度肝を抜くなど、徹底した大衆迎合路線を取ったのが成功、購読が急増
急増を背景に正力は広告費の値上げを企図するが、講談社の逆鱗に触れて両社は断絶、復活は8年後で、清治没後のこと。結局値上げを認めさせた正力の勝利に終わる
講談社の3つの秘密 ⇒ 給料、原価、発行部数で、社内でも洩らしたらクビ
給料の秘密と頻繁なる昇給の絶妙の組み合わせが、清治の社員掌握術だったが、報知入り後、資金繰りに余裕がなくなって昇給がストップ
好調だった『キング』の売れ行きが途中ばったりと止まったが、創刊の立役者の編集長・広瀬照太郎が新潮社の大衆雑誌『日の出』に引き抜かれたものの、『日の出』も所詮二番煎じでいつの間にか消滅
3.
恒と寅雄
1931年、音羽から関口台町の7400坪に転居、音羽には講談社の本社を建てる
清治は報知の不在社長として自宅で采配を振るい、現場には恒が社長業見習いで出社
32年、清治の甥で保の四男・森寅雄が入社。9歳から音羽に引き取られ、恒の弟のように育てられた。寅雄も、戊辰の役で壮烈な戦死を遂げた清治の母の弟・森寅雄に因んで清治が名付けたもので、母が亡くなる枕元で寅雄を森家の後継にすると約束し改姓させた
寅雄は剣道の達人、32年の第1回全日本中学剣道大会で巣鴨中の大将として出場、優勝して全国に名を知られる。恒との間で、皇太子誕生奉祝展覧武道大会予選で事実上の決勝戦を闘い、恒が勝って日本一となるが、清治が寅雄に勝を譲れと圧力をかけたとの噂が広まり、野間家の確執が絡まって自体がこじれていく
勝負の裏には、実力的には上だと見られていた寅雄だが、幼いころから恒の「弾丸除け」「身代わり」として育てられた寅雄にとって恒は自分より大切な存在であり、無意識のうちに寅雄にスキが出来ていたのだろう。寅雄は新たな道を求めて40年の東京右京五輪を目指しフェンシングの修行のため37年米国へ渡り、USCに留学、太平洋沿岸選手権で優勝
36年恒に、報知と縁があり野間家とも面識のあった賀陽宮の姉の娘・町尻登喜子との縁談が成立するも恒が胃潰瘍で開腹手術。直後に挙式するがすぐに倒れ、寅雄が呼び戻される
4.
清治の死
戦争に対する清治の考え方は、僅かの間に大きく変化
37年、新設の内閣情報部の参与に、朝日主筆の緒方竹虎、実業之日本の益田義一らとともに選ばれ、清治のゴーサインで講談社の各雑誌は戦時モードに突入
報知は、カナダ産の輸入紙の急騰で経営悪化
38年には恒が末期の直腸癌で手術、左衛が赤痢に罹患、直後に清治が急性狭心症で死去。22日後に恒も逝く
第7章
紙の戦争
1.
書かれざる部分
1941年初め、陸軍で出版の統制に当たる将校に呼び出され、外部識者14人を顧問として受け入れ。何れも国民総動員運動で活躍した陸軍御用達の徒で、出版社としての独立性は失われ、陸軍の思惑に沿った編集をせざるを得なくなり、終戦直前の5月まで存続、莫大な顧問料を支払う
日中戦争がはじまった当時は、「米英と戦争しても勝てない」といって戦争を美化することを嗜めていた清治が、内閣情報部参与就任を契機に、冷静な情勢認識が皇国ナショナリズムと大陸膨張への熱狂に覆われてしまう。大衆の気分に寄り添うことで巨大な雑誌王国を作り上げた清治と講談社が必然的に辿った運命と言わざるを得ない
2.
不協和音
第3代目社長に就任したのは左衛。小学校の教師だったが人並外れた記憶力の持ち主
四六時中清治と共にあり、手綱を締め、後始末に走る。徳富蘇峰は「夫婦合名会社」と評す
社長就任後最初にしたのが報知からの撤退。株式と債権を全て棒引きにして後任に譲る
講談社の株式会社化を実行。資本金1500万円、15万株中148千株余りを左衛が所有
妹婿の高木義賢をNo.2に据え(210株)、清治の師範学校の同級生・長谷川卓郎(100株)と最古参社員の淵田忠良(100株)で両脇を支える。監査役には保の3女の夫・岩崎英祐(100株)。恒の嫁・登喜子にも200株を与え、野間家の嫁として遇するという意思表明
総支配人として業界に睨みをきかせ、報知でも差配していた赤石喜平とは、処遇を巡って左衛と衝突し退社。他にも名編集長と言われた幹部も含め、株の配分を受けられなかったのが響いて、一枚岩の結束を誇った講談社に不協和音が目立ちだす
39年、野間桐生家の三男で講談社にいた清三が、社員に怪文書を流し勝手に長谷川を担ぐ
草創期に資金面で多大の貢献をした桐生野間家に一切の株の配分がなかったことへの叛旗だったが、左衛は社内の寅雄待望論を一蹴。定期入営者の帰省を会社が拒否したため一斉退社したが、それを契機として少年部がストライキ。清三と岩崎にも退社を強要
38年頃から用紙の統制開始、次々に節約の指示。40年には割当制限が強化され、4割減となったが、発行部数は増加、戦争への関心の深さが出版界に活況をもたらす。一方で当局は雑誌界の整理統合に乗り出し、廃刊合併が続出。業界を挙げて配本の適正合理化を図ったため返品が激減、発行部数を増やさなくても実質売上部数が増加する理想の結果に
思想統制が厳格化、自由思想にまで拡大、治安維持法違反の検挙が続く
3.
毒饅頭
ジャーナリズムも急速に変貌、自ら新時代便乗のポーズをとる人が急速に増加
講談社と陸軍の関係が深まったのは満州事変の頃から。『少年倶楽部』の人気連載に目を付けた陸軍省の徴募課が講談社幹部を招待。満州事変で初めて大衆宣伝の重要さを認識したので講談社の力を借りたいとの趣旨で、定期懇談の申し出があり、毎月の会合が続いてパイプが太くなる。39年には陸軍省の委嘱で『陣中倶楽部』を編集
40年、内閣情報部に新聞雑誌用紙統制委員会設置以降、陸軍の意向が出版界に響く
第8章
戦時利得と戦争責任と
1.
高木省一の講談社入り
薄給の鉄道員の息子・高木省一は、家庭教師をしていた静岡の物流企業「鈴与」の支援で静高・帝大の道を進み、鈴与と親しかった鉄道官僚・十河信二の引きで満鉄入社、大連に赴任直前に省一の兄が講談社の高木義賢の娘と結婚
省一の父の葬儀の後、清治の七七忌法要に挨拶に行ったのが左衛との初めての出会いだったが、講談社に入社した兄を通じて登喜子との結婚の申し出があり
省一は、十河の熱く説く「王道楽土・五族協和」に共鳴して満鉄入り後、哈爾濱に転任となり対ソ最前線で活躍するうち、徐々に理想から遠ざかる現実を見据え、野間家入りを決断したものと思われ、41年5月華燭の典。7月に社員総会で取締役に就任
42年、皇国文化協会設立。陸軍が講談社と手を握って、言論統制や指導を間接に行うための機関。戦時中に苦労した作家を糾合して生殺与奪の権を握る
43年には国家総動員法に基づき出版事業令が公布、強力な統制機関として日本出版会誕生。出版業者を大整理、3400を200社に統合、用紙の重点配布と思想統制を徹底
44年には雑誌の統廃合が最終局面を迎え、『現代』は『中央公論』と共に総合雑誌に残るが、総合6誌のうち、『改造』は時局誌、『日本評論』は経済誌、『文藝春秋』は文芸誌の部門に追いやられ、その後横浜事件の煽りで中央公論社と改造社は自発的廃業へ
そんな中でも、陸海軍とのパイプを持つ講談社からは新雑誌が刊行される ⇒ 募兵を目的とした『海軍』と陸軍系の『若桜』、陸軍雑誌の『征旗』
2.
敗戦からの狂瀾怒濤
終戦を数日前に知った省一は幹部を招集して善後策を協議
当時の社員130~200名に俸給3か月分を前渡し、生活物資を支給
応召者数は142名、戦没者は64名
終戦の5日後、省一から、「皇威発揚、民族の発展を期して、社の伝統の日本精神に娯楽・慰安等を盛って、明るい朗らかな雑誌を出そう」と社員を鼓舞
9月早々にGHQは言論統制関連の法令を全廃、翌月には業者の自治形式による日本出版協会が発足。民主化を先取りするように社内改革に踏み切ったのは新聞界
講談社社内でも、鬱積した高木体制への不満が顕在化、戦犯追及の嵐の前触れ
GHQの労働組合結成要求の影響もあって、社風刷新の動きが高まるとともに、中堅幹部が省一を担いで高木体制をひっくり返すクーデターが始まる
体調不良から身を引くことを考えていた高木は辞任を承諾、全役員が辞任し、省一が社長に就任。社員会も正式に発足
45年末から、講談社の戦時中の活動についてGHQによる本格的な調べが始まる。窓口は民間情報教育局
共産党系の左翼系出版社が息を吹き返し、業界粛清を主張して大手出版社を攻撃。日本出版協会の臨時総会で大手7社の除名が決まるが、出席会員数が定足数に達せず無効、辛うじて追放を免れる
省一は社長辞任を決意、社長不在のまま営業を続け、戦争熱を煽ったと批判の強かった『現代』とチャンバラ物の時代小説を扱う『講談倶楽部』の廃刊を決める
文藝春秋や主婦之友なども存亡の危機に陥るが、GHQは多くの読者を持つ雑誌を廃刊するつもりはなく先ずは主婦之友が「戦争中の責任」を自発的に認めたとして存続を承認。それが後ろ盾となって「戦犯」7社が息を吹き返す。省一も共同歩調を働きかけ
3.
あれは国策協力だった
自分たちが抵抗しても「歴史の大勢」に変わりようはなかったという言い分には一理あるが、たとえ「微調整」でも、出来ることをするのが出版人の義務ではなかったか。義務を果たせなかったら、せめてその事実を率直に読者の前に明らかにする必要があったのではないか
主婦之友社が戦争責任を明確にして役員が総退陣、娘婿が社長になったのを機に、大手の解散や業務停止などの措置はなくなり、用紙割当も再開
講談社では、46年10月純文芸雑誌『群像』を創刊、生まれ変わろうとする画期的な試みで、講談社の儲け主義や戦時中の軍との癒着を批判する文学者も多かったが、戦時中の言論弾圧から解放されあらゆる出版物が歓迎される中、販売は好調。翌年には田村泰次郎の『肉体の門』が載って一躍『群像』の名を高める
創刊を契機に、慶大国文で折口信夫に師事した大久保房男が文芸雑誌の仕事をしようと入社、『群像』編集部に配属され、アンチ講談社の評論家小田切秀雄を口説き落としたのをはじめ、その後名編集長として講談者を代表する存在となり、『週刊現代』の初代編集長
第9章
総合出版社への道
1.
省一体制へ
省一は、傍系会社の社長となり、後のキングレコードなどを経営
48年初、講談社では左衛他6人が追放該当者、省一は仮指定
満鉄の先輩・同僚がよく訪ねて来ては、彼らに宿を提供しただけでなく、仕事も斡旋
野間家では、左衛が戦時中から将来の物資不足を見越して、食糧から燃料・衣料にいたるまで備蓄をしていたので、戦後も物資にあまり苦労していなかった
元常務の息子を通じて日米学生会議のメンバーも省一の元に出入りするようになり、宮沢喜一や財閥解体で解散させられた三菱商事の苫米地俊博(後の副社長)らも頻繁に野間家に出入り、失業対策事業まで起こすのを支援
社長不在中の講談社の業績は低迷、戦前・戦中の1/10、それでも終戦直後は買い切り制で一定の利益は確保できたが、48年秋から元の委託制に切り替わると収支のバランスが悪化
吉川英治の『宮本武蔵』は戦前朝日に連載され大ヒットとなり、講談社が36年から全6巻で逐次刊行、39年からは全8巻の普及廉価版を発売し、いずれも圧倒的な売れ行きを示したが、48年になって突然吉川の弟の出版社で出すと通告され、吉川から「自分が負けたら筆を負って文壇から去る」とまで言われ、左衛の指示もあって手を引く
49年、省一のパージ仮指定解除となったが、講談社社内の雰囲気は当時の左翼的な風潮もあって、省一の復帰に対し従業員組合が反対を決議。その裏には、省一が関与していたキングレコードの経営不振による資金流出と、満鉄人脈の経営介入への危惧があった
49年株主総会で省一の社長復帰が決定。辛うじて組合も賛成多数となるが、省一復帰への不信は根深く、会社と組合の間に覚書を交換し何とか反対派を鎮める
2.
再生の模索
省一は全社員の前で講談社の現況を総括し、今後の方向性を決定付ける目標を説く
単なる営利を目的とせず、日本文化の向上発展に貢献することを最高の使命とし、最も多数の民衆を基盤にしながら国家とは一線を画し、先代の肉にまで食い込み講談社とは切り離すことのできないものとなっていた伝統的な忠君愛国思想からの離脱を表明
恐慌状態に陥りつつあった出版業界にあって、社業立て直しのためには「人」を大切にし、「人と人の和」であり、「衆智を集める」ため、「広く会議を起こし」たいと社員に語りかける
49年ドッジ・ラインと呼ばれる超緊縮政策によって、金詰りによる倒産や合理化による失業者が増大、出版界も経済民主化のため取次大手の日本出版配給の活動が停止させられ、多くの出版社が倒産に追い込まれた
行き当たりばったりの書籍出版を改め、出版年次計画を策定、売上の計画も立て、科学的な計算、数字に基づくデータによって事業を進める近代的な企業としての出版が始まる
省一の新しい講談社作りが軌道に乗るのは復帰5年後の54年頃から。既存の雑誌の立て直しから入ったが、それぞれに既成概念が邪魔となって再建は進まない。障碍は高コスト体質で、経費の3割カット、最大5割の人員削減が必要
主力の住友が先行きを楽観視したのは、清治が遺した関東一帯27カ所、計68万坪にもなる膨大な不動産のお陰
省一による社員の意識改革が社員に緊張感を与え、業績が急角度で回復。新企画の『講談全集』『落語全集』や『婦人倶楽部ゆかた』、小学生向けの児童誌が成功し、人員削減することなしに苦境を乗り切る
55年、左衛が狭心症で急逝、享年73
3.
アジアの出版人として
55年、未婚女性向け新雑誌『若い女性』創刊。未開拓の層への、ファッション中心の総合誌として、さらに新進女優・北原三枝の写真表紙が斬新で注目を浴び、飛ぶように売れた
赤字の『群像』の編集長に大久保を昇格。大岡昇平の連載『武蔵野夫人』が単行本化され、雑誌の赤字の穴埋めとなり、「第三の新人」の旗手とされた安岡章太郎が『悪い仲間』で初登場し、『群像』掲載作で初の芥川賞を受賞。共産党員の作家・中野重治の自らの大学時代の心の軌跡を描いた『むらぎも』も多忙の中野を大久保が居催促で無理やり書かせたもので、同年の毎日出版文化賞を受賞し、中野の代表作の1つとなる
他にも54年の連載では芸術院賞の井伏鱒二『漂民宇三郎』、新潮社文学賞の梅崎春生『砂時計』、芥川賞の庄野潤三『プールサイド小景』があり、文芸誌として確固たる地位を築く省一は、41年制定で46年中断し、2年前復活の野間文芸賞の権威を高めることを要求。62年野間児童文芸賞を新設して児童文学を外し、66年吉川英治文学賞が制定されると大衆文学を外し、野間文芸賞は純文学の文壇最高の権威を持つ賞となり、高額賞金と相まって、文壇人には最も受賞したい賞となる
省一も、「第三の新人」と呼ばれる作家たちをもてなし、これまでの講談社の執筆者とは違った作家による新しい出版物を出していこうとした。彼らからも「(海坊主の)海さん」と呼ばれて親しまれた
60年、省一は日本書籍出版協会の会長に就任。493社の代表となる
55年からは、『アート・ブックス』シリーズの新書版美術書を皮切りに美術書の出版を始める。世界的評価が高まり63年にはルーヴルでの撮影が許可される
辞典出版も本格化、科学啓蒙書の新書版『ブルーバックス』を刊行、科学図書にも進出、さらに学者との本格的な接触が始まって学術分野にも進出、総合出版社への地歩を築く
創立50周年の59年には、講談社初の週刊誌『少年マガジン』『週刊現代』を創刊
出版分野の幅を広げていったのは、日本社会の変容に講談社を適応させるためで、学制公布から90年の1962年の文部省の白書では、生産年齢人口に占める不就学者は無きに等しくなり、中・高等教育卒が急膨張しており、高学歴化に適応した出版活動が必須
省一が範としたのは、『世界大百科事典』で知られる平凡社の下中(しもなか)弥三郎。86年立杭(篠山市)の生まれ、裕福な家庭に生まれながら父の急逝で塗炭の苦しみを味わい、独学で師範学校を卒業後、用語辞典の発刊を思いついて起業、無学の庶民が新聞・雑誌にアクセスできるようにして、日本を代表する事典出版社を作り上げる。公職追放から復帰すると、世界連邦運動を推進、一貫してアジア主義を主導、日中国交回復にも尽力。57年からは日本書籍出版協会の初代会長になり、3年後には後事を33歳下の省一に託す
大企業よりも中小出版社の意向を重視する省一の書協運営に業界の人々は瞠目、講談社に批判的だった左翼の理事たちが積極的に協力
下中の逝去と共に、出版文化国際交流会の会長も兼務し、国際交流を積極的に進める中、世界各地を巡って見分した「図書飢餓」の絶滅を生涯のテーマと思い定める
省一が議長となったアジア出版専門家会議は、ユネスコが図書と読書の普及のため全世界的規模の行動計画を起こす契機ともなり、74年には第1回ユネスコ国際図書賞を受賞
あらゆる国が双方向の文化交流を行うべきで、出版文化の交流が各国の人々の相互理解と人間的共感を培い育てていく萌芽となることを確信すると明言
1979年、野間アフリカ出版賞、野間アジア・アフリカ奨学金留学生制度創設
71年、脳血栓で倒れ左半身不随になり、第一線を退く
往年の雑誌王国の勢いを取り戻すのは、戦後の高度成長が本格化した昭和40年代
「出版物は、その時代、その民族の文化の水準を示すバロメータ」で、「人類の共有財産」だという省一の信念が凝縮されたのが『昭和萬葉集』全20巻。76年3大紙に短歌大募集の広告を載せて主に無名の歌48万首を集め、さらに現代短歌の同人らを通じて手にした1千万首を、テーマ別に分類して、重層的な社会の様相を彫り上げていき、79年初に発売
反響は上々で、各紙・各界から好評を得、80年菊池寛賞受賞
終章 ふたたび歴史の海へ
7代目で現社長の省伸(よしのぶ)は省一の孫。69年生まれ、慶應大から三菱銀行入行、調査部で産業界の動向を分析、4年のロンドン駐在を経て99年講談社入り。11年母・佐和子の急逝で社長就任
満鉄と戦争に対する反省は、戦後の講談社の隠れたキーワード。この2つが出版を通じて世界平和の実現を目指し、「図書飢餓」一掃を生涯のテーマにした背景にある
日本国内の紙の出版市場は96年をピークに縮小、省伸の打ち出した戦略が国際化とデジタル化で、驚異的な実績を残している
現在直面しているのが物流の危機。取次システムのため全ての皺寄せが取次と物流に向かうという構造の改革が求められる
アマゾンは日販から書籍雑誌の供給を受けるが、欠品を懸念して、出版社との直取引の交渉を始める。出版社の取り分を高く設定するという誘惑にかられ、応じる出版社が急増。アマゾンの利便性・損益至上主義が、出版文化の多様さを損ないかねない
2017年、ケント・ギルバートが『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』を講談社から刊行。典型的なヘイト本で、2005年に始まったヘイト本のブーム復活に火をつけただけでなく、ベストセラーになったという現実の前に、好企画として社内で顕彰されたという
省一の精神から遠く離れていることだけは確か
秘蔵資料の目的は、過去の栄光と過ちの記録を細大洩らさず残すことで、未来の講談社の歩みを確かなものにすることにあり。社にとって良いことも悪いことも、事実は事実として残し、出版社の歴史的・社会的な責任を果たすこと。この精神が息づいていたからこそ、講談社は戦後の荒波を乗り切り、日本を代表する総合出版社であり続けることができた
(書評)『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』 魚住昭〈著〉
2021.3.20. 朝日
「名を掴(つか)まんか。金を掴まんか。庶幾(こいねがわ)くは両者共に掴まん」。後に講談社を創業する野間清治(せいじ)が、友人宅二階に住みこみ、自室のふすまに墨筆で書いた言葉だ。
常に大衆を意識する清治の野心が、創業110年を迎えた出版社の始まりであり、そして、現在でもある。「とにかく抜き出た偉いものになってみたい」という立身出世への欲が、豊かな出版活動を生んだ。
講談社に眠っていた約150冊の秘蔵資料を読み解きながら、戦前・戦中・戦後と、言葉を求められ、伝え、奪われ、取り戻した講談社と野間家の変遷を追う。
1910年に創刊した雑誌「雄弁」の発刊の辞で「雄弁衰えて正義衰う。雄弁は世の光りである」と述べた清治は、同時に「宣伝狂」でもあり、「金さえできたら宣伝しようぞ」と考えてもいた。「少年倶楽部」で語った「必ずしも中等学校に入らなくとも、偉くなることはできるものである」との宣言が青少年に受け、「雑誌王」として大成していく。
清治を失った後、歴史のうねりに乗っかり続けた講談社。戦後、四代目の省一(しょういち)は、大衆という基盤を意識したまま、「忠君愛国思想からの離脱」を表明した。日本の大衆から、まなざしを世界へ広げ、「世界平和」「各国の人々の相互理解」という言葉を好んで用いた。
講談社の歴史、ではなく、なぜ「出版と権力」なのか。とりわけ戦時下では国家は大衆に結束を迫る。言論を届ける営利企業は、その度に揺さぶられる。いや、戦時下に限らない。いつの時代も権力は、大衆がなびく先を見定めようとする。
ひとつの世紀を超える膨大な歴史を追いかけた後で、著者は2017年に出版されたベストセラーを前に「なんで講談社が?」と嘆く。タイトルに「中国人」「韓国人」とある書籍のオビには「日本人と彼らは全くの別物です!」とあった。670ページもの大著の締めくくりにある苦言は、出版文化をこの先へと持ち運ぶための、重い言葉だ。
評・武田砂鉄(ライター)1982年生まれ。著書に『日本の気配』『紋切型社会』など。2019年4月より書評委員。
*
『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』 魚住昭〈著〉 講談社 3850円
*
うおずみ・あきら 51年生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクション作家。著書に『野中広務 差別と権力』など。
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鹿島茂 フランス文学者。元明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。
1949年、横浜市生まれ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学。元明治大学国際日本学部教授。
『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。新刊に『日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三』(中央公論新社)、『フランス史』(講談社)などがある。
『渋沢栄一 上下』(文藝春秋)、『渋沢栄一「青淵論叢」 道徳経済合一説』(講談社)、『文春ムック 渋沢栄一 道徳的であることが最も経済的である』(文藝春秋)、『渋沢栄一: 天命を楽しんで事を成す』(平凡社)、など渋沢栄一に関連する著作も多数。
魚住昭『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』(講談社)
2021/04/15
出版史の謎を解いた大傑作
NHK大河ドラマ『青天を衝け』が放映開始したおかげで、私が書いた伝記『渋沢栄一』も重版になったが、伝記というのは概して一つの大きな矛盾を抱えている。遺族から資料の提供を仰げば、不都合な真実を書くわけにはいかなくなるが、しかし、遺族の制約を免れようとすれば公開資料に拠るほかはない。この矛盾は容易には解決されないが、しかし、例外もある。魚住昭『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』(講談社 3,500円+税)はこの特権的なケースである。
著者が講談社と野間家について書こうと思い立ったとき、社史『講談社の歩んだ50年』(1959年刊)には元になった速記録があることが知られていたが、保管場所は不明のままだった。だが、編集者からついに「発見!」というメールが著者のもとに届く。「目の前に積まれた段ボール箱を見たとき胸が高鳴った。そのなかには濃紺やあずき色のハードカバーにがっちり保護された、ぶ厚い合本が約150巻あった」。
この膨大な原資料は社史編纂の実務担当だった笛木悌治が300回以上の座談会と200人に及ぶ関係者聞き取りをまとめた速記録の合本で、笛木は当時の社長の野間省一の承諾の上、解明を未来の探求者に委ねたのであった。
ふたりには、良いことも悪いことも事実は事実として残すことで、日本を代表する総合出版社としての歴史的・社会的な責任を果たさなければならないという意識があったと思う。
この精神は現在の七代目社長や編集担当役員にも受け継がれ、著者が秘蔵資料にアクセスして、不都合な真実が見つかったとしても真実を優先するという合意がなされた。
では、この貴重なドキュメントからいったいどのような事実が解明されたのか? 単に野間家と講談社に関する謎が解けたというに止まらない。日本出版流通史におけるパラダイム・チェンジの謎もまた解明されたのだ。
中学教員から身を起こして雑誌王となった大日本雄弁会講談社の創業者・野間清治は1923年の関東大震災の直後、乾坤一擲の大バクチに出る。グラフ本『大正大震災大火災』を20万部刷るために当時最大の取次だった東京堂の専務・大野孫平と交渉を開始したのだ。この過程で日本出版流通システムのパラダイム・チェンジが起ったのである。
しかし、大転換のプロセスを理解するには、野間が『雄弁』と『講談楽部』で成功しながら高利の借金に苦しんでいた1914年に溯らなければならない。野間は東京堂の大野孫平から提案された単行本の歩合(卸値)引き下げを呑むかわりに、高利の借金5千円の借り換えを東京堂に要請し、大野がこれに応じたという背景がある。野間が『大正大震災大火災』で大バクチに出たときに役立ったのが大野とのこの太いパイプだったのだ。
では『大正大震災大火災』20万部の刊行がなにゆえにそれほどの巨大な方向転換となったのか? それはこの頃まで書籍と雑誌の流通経路は完全に別系統で、雑誌小売店と書籍小売店の割合が10対3だったことと関係している。
つまり書籍販売網より、雑誌販売網のほうがはるかに広く、きめ細かかった。講談社の狙いは『大正大震災大火災』という書籍を雑誌取次の流通ルートに乗せ、大量販売することである。
結果から言うと、野間と講談社はこの賭けに勝ったのだが、それは書店への注文取りも、送付手配も、雑誌並み簡易荷造りへの鉄道省への働きかけもすべて講談社側が引き受けたこともあるが、それ以上に、雑誌取次最大手東京堂の大野の決断に因るところが大きい。
「古い慣例」を破ることを最終的に認めたのは、(中略)東京堂専務で〝取次界のドン〟だった大野孫平である。清治と大野の信頼関係がなかったら、『大正大震災大火災』を雑誌ルートに乗せて売るという野心的な試みは実現しなかったろう。
こうして実現された雑誌小売店のルートに書籍を乗せるという日本型出版流通システムは昭和の初めに山本実彦の改造社が企てた定価1円の『現代日本文学全集』すなわち円本の誕生にも貢献する。この時にも東京堂の大野は山本が申し出た掛金の1万円を融資したのである。山本はこの資金をもとに電通を介して大宣伝を打ち、「特権階級の芸術を全民衆に解放」するという「出版界大革命」に成功した。
ことほどさように、出版史におけるパラダイム・チェンジの流通革命が講談社秘匿資料の大野孫平談話の分析によって明かされたことの意味はまことに大きいが、では私が冒頭で示唆した遺族の不都合な真実への踏み込みはどうかといえば、それは主に2つのポイントに絞られる。1つは野間清治のあとを追うように亡くなった講談社2代目・野間恒とその従弟で「のちに『昭和の武蔵』の異名で剣道界のレジェンドとなり、講談社の歴史の隠れたキーパーソンともなる森寅雄」との相克。もう1つは講談社が「戦犯出版社」という汚名をかぶせられる原因となった報道出版統制の親玉・鈴木庫三陸軍中佐との関係である。このうち前者については本書を読んでいただくとして、後者には一言触れておかざるを得ない。というのも、本書では鈴木中佐が配下の「大東研究所」の所員たちの失職危機に際してこれを講談社編集部に顧問としてねじ込もうとしたのに対し、講談社の幹部がこの暴挙を「金だけ出して口は出させない」という妥協策でなんとか切り抜け、ついには海軍を介入させることで鈴木パージに成功した経緯などの特大秘話が語られているからである。
日本出版史の大きな謎をいくつも解明した大傑作と言っていい。
Wikipedia
株式会社講談社は、東京都文京区に本社を置く日本の大手総合出版社である。
創業者の野間清治により1909年(明治42年)11月に「大日本雄辯會」(だいにっぽんゆうべんかい)として設立される。当初は弁論雑誌である『雄辯』を出版していた。「講談社」の名称はその名の通り「講談」に由来するもので、『講談倶楽部』を創刊した1911年(明治44年)から大日本雄辯會と併せて使用した。評論家の徳富蘇峰は、戦前の少年や青年たちに大きな影響を与えた講談社を「私設文部省」と評した。
1938年(昭和13年)10月に野間恒が2代目社長に就任すると共に株式会社に改組、同年11月に野間左衛が3代目社長に就任した。1945年(昭和20年)に野間省一が4代目社長に就任し、1958年(昭和33年)に「株式会社講談社」と改称。その後1981年(昭和56年)に野間惟道が5代目社長、1987年(昭和62年)に野間佐和子が6代目社長、2011年(平成23年)に野間省伸が7代目社長に就任し、現在に至る。
「面白くて為になる」をモットーに、戦前から大衆雑誌『キング』・『少年倶楽部』などの様々な雑誌や書籍を出版した。『吉川英治全集』・『日本語大辞典』などを出版する傍ら、多数の文学賞を主宰する。
集英社・小学館(両社とも一ツ橋グループに所属)と並ぶ日本国内の出版業界大手であり、一時は年間売上高が2000億円を超えていたこともあった。しかし、近年はいわゆる「出版不況」により売上が減少、2002年(平成14年)には戦後初の赤字決算となった。また最盛期には小学館に約500億円の差を付けていたものの、2006年(平成18年)は売上高が1456億円まで落ち込み、1470億円を売り上げた小学館に抜かれた。2007年(平成19年)にはその小学館を上回ったが、2009年(平成21年)以降は集英社に抜かれた。2016年(平成28年)以降は再び両社の売り上げを上回っている。
2002年(平成14年)と2006年(平成18年)のFIFAワールドカップの際にはそれぞれFIFAオフィシャルブックとして、2002
FIFAワールドカップ『公式ガイドブック』・『公式プログラム』・『公式写真集』(総集編)、2006
FIFAワールドカップ『公式ガイドブック』・『公式総集編』を刊行している。
1982年以来、グラビア・ミスコンテストであるミスマガジンを何度かの中止を挟みながら開催してきたが、2012年からは新たにグラビアに限定しない女性アイドルオーディションであるミスiDを開催している。
ディズニーキャラクターを使用した書籍の出版権を持っており、東京ディズニーリゾートのオフィシャルスポンサーとして東京ディズニーランドにトゥーンタウンを、東京ディズニーシーにレジェンド・オブ・ミシカ(2014年9月7日ショー終演に伴い提供を終了)、タートル・トーク(2014年9月4日から)を提供している。
沿革[編集]
1909年(明治42年) - 初代社長野間清治により本郷区駒込坂下町(現・文京区千駄木)にて大日本雄辯會を創立。
1910年(明治43年) - 大日本図書発行元として『雄弁』を創刊。
1911年(明治44年) - 講談社を起こし『講談倶楽部』を創刊。
1925年(大正14年) - 社名を大日本雄辯會講談社と改称。
1931年(昭和6年) - レコード部(現・キングレコード創業)を設置。
1933年(昭和8年) - 本社を小石川区音羽町(現・文京区音羽)に移転。
1938年(昭和13年) - 野間恒、2代目社長に就任(11月没)。野間左衛、3代目社長に就任。組織を株式会社とする。
1945年(昭和20年) - 日本報道社を定款変更し、光文社を設立。野間省一、4代目社長に就任。
1946年(昭和21年) - 豊国印刷を設立。
1952年(昭和27年) - 第一紙業を設立。
1954年(昭和29年) - 第一通信社を設立。
1958年(昭和33年) - 商号を株式会社講談社に変更。
1961年(昭和36年) - 音羽サービスセンター(現・講談社ビジネスパートナーズ)を設立。野間省一社長、出版文化国際交流会会長に就任。
1963年(昭和38年) - 講談社インターナショナル設立。
1964年(昭和39年) - 音羽建物を設立。
1970年(昭和45年) - 講談社サイエンティフィクを設立。
1972年(昭和47年) - ペック設立(現・講談社エディトリアル)を設立。野間省一社長、国際出版連合副会長に就任。
1975年(昭和50年) - 日刊現代を設立。
1977年(昭和52年) - 三推社(現・講談社ビーシー)を設立。
1987年(昭和62年) - 野間惟道死去に伴い、野間佐和子が6代目社長に就任。
2005年(平成17年) - 講談社(北京)文化有限公司を設立。
2008年(平成20年) - 講談社USA、講談社USAパブリッシングを設立。
2009年(平成21年) - 創業100周年。なお、100周年記念日の12月17日は、創業者・野間清治の誕生日に由来する[5]。
2010年(平成22年) - 星海社を設立。
2011年(平成23年) - 野間佐和子の死去に伴い、野間省伸が第7代社長に就任する。台湾講談社媒体有限公司を設立。
2015年(平成27年) - 講談社学芸クリエイトを設立。ハースト婦人画報社と業務提携、同社発行雑誌の発売元になる。
2016年(平成28年)11月 - 一迅社を完全子会社化。群像創刊70周年。本社、米国進出50周年。
2017年(平成29年)10月 - ポリゴン・ピクチュアズとの合弁会社講談社VRラボを設立。
2018年(平成30年)3月 - pixivとの協業でマンガアプリ「Palcy」を立ち上げ。
2019年(平成31年)3月 - 週刊少年マガジン、週刊現代創刊60周年。
2021年(令和3年)4月 - 海外へのコンテンツ発信時に「講談社の作品」である事を周知してもらう事などを主な趣旨として、講談社としては初となるコーポーレートロゴを制作・使用開始。ロゴを作成したのはNetflixやナショナルジオグラフィックなどのロゴ作成を手掛けた米国企業「グレーテル社」。
l 文学賞[編集]
以上は野間三賞と呼ばれる。
吉川英治文化賞
l 放送業界との関係[編集]
講談社が発行する『週刊現代』や『フライデー』によってNHKや各民放局、その他マスコミ(マスメディア)などをバッシングするケースがよくあるが、同社が発行する雑誌・刊行物に掲載される小説や漫画などの作品自体との関係に関して言えば関係は悪くない。結局のところ、講談社は規模が大きく、部門間(小説や漫画作品のコンテンツ発掘・著作権管理部門や、『週刊現代』、『フライデー』等の報道部門など)の横のつながりが希薄などが原因で論調が統一されにくいのが理由だと考えられる。
なお、講談社は各放送局と手を組んでの人気作品の映像化にかなり積極的でもある(ライバルの小学館、集英社も同様)。
NHK[編集]
主な刊行物
教育テレビの乳幼児向け番組(雑誌)
* 『おかあさんといっしょ』(『NHKのおかあさんといっしょ』)
* 『いないいないばあっ!』(『はじめてのテレビえほん いないいないばあっ!』)
総合テレビの情報教養番組
* 『ちょっとキザですが』(磯村尚徳)
その他(当時のNHKのアナウンサー・キャスターによるエッセイ本など。番組収録中の写真等を含む)
* 『気くばりのすすめ』(鈴木健二)
* 『スタジオ102のドラマ』(高梨英一)
* 『NHKを10倍楽しむ法』(宮崎緑)
日本テレビ[編集]
箱根駅伝中継のガイドブックが発行されている。
TBSテレビ[編集]
講談社は、TBSテレビの親会社である東京放送ホールディングスの1.98%の株式を保有する大株主である(2012年3月末現在、株主順位第9位)。
2000年から、講談社が発行する『週刊少年マガジン』『週刊ヤングマガジン』の両編集部と共同で『ミスマガジン』を2012年度まで開催していた[10]。
2005年には、講談社系列のレコード会社キングレコードにも出資、業務提携をしている。
2006年4月からは、講談社とTBSは「ドラマ原作大賞」を共同で創設し、新たなドラマと作家の発掘を行っている[11]。
テレビ朝日[編集]
講談社は朝日新聞社、東映、九州朝日放送などに次いで、テレビ朝日ホールディングスの1.36%の株式を保有する株主である。なお、野間佐和子前社長は1988年6月から2010年6月までテレビ朝日の社外監査役を務めていた。
フジテレビ[編集]
文学作品賞の江戸川乱歩賞について、両社は共に後援企業として名を連ねている[12]。
ライブドアとフジテレビとのニッポン放送株買収合戦に当たっては、講談社はフジテレビを支持し、株式公開買い付け(TOB)でニッポン放送株をフジテレビに売却した。
講談社が発行する各種雑誌(『週刊少年マガジン』や『モーニング』など)で連載されているコミックが、フジテレビでテレビドラマ化されるケースが多い。
文化放送[編集]
関連会社の光文社と共に出資している。また同社3代目社長の友田信は講談社の出身であった。
テレビ東京[編集]
講談社の漫画作品がテレビアニメ化される際に、系列会社のキングレコード(スターチャイルド)がサントラなどで制作に関わることが多い。
l 疑義が持たれた報道、不祥事等[編集]
記事掲載によって問題化した事件[編集]
写真週刊誌『フライデー』襲撃事件(ビートたけしによる『フライデー』編集部襲撃)
講談社フライデー事件(幸福の科学との対立・争議)
VoCE紙面上による執事喫茶Swallowtail盗撮、KAT-TUNコンサート盗撮事件(2006年)
奈良医師宅放火殺人事件に関する捜査情報源らしき情報を元にした書籍の刊行の事件(2007年)
『週刊少年マガジン』の増刊号『週刊少年マガジン増刊 マガジンドラゴン1月11日増刊号』に掲載された、豪村中作の漫画『メガバカ』に、『DEATH NOTE』などからの盗作が多数見付かり、講談社が謝罪していたことが判明した[13]。
韓国出身のカリスマダイエット主婦、チョン・ダヨンの著書・「モムチャンダイエット」について、著者のチョン・ダヨンが、契約無しで日本語訳本を出版されたとして、発行元の同社を相手取り、東京地方裁判所に訴訟を起こす[14]。
週刊ヤングマガジン2013年1月12日発売号に、当時AKB48のメンバーの河西智美が上半身裸の姿で少年に胸を隠させるショットがあり、講談社は当該号について問題のシーンをカットした上で発売を同月21日に延期することになった[15]。
このほか、週刊現代による(疑義が持たれた)報道も数多くある。
詳細は「週刊現代」を参照
記事掲載を伴わない事件、不祥事等[編集]
講談社社員による大学生の身分であると詐称したアンケート調査事件(2007年11月29日)
講談社社員が、「市場研究を行っている大学生(慶應義塾大学総合政策学部)」と身分を詐称し、インターネットのブログ運営者らに対し、漫画についてのアンケート調査を実施していたことが判明した。発覚後、講談社より被害者(アンケートの送付先)と慶應義塾大学に対して謝罪が行われたが、アンケート送付先に送られたメールの中に「(今回のアンケートについて)ご許可がいただければ、弊社の今後の販売・宣伝施策に活かさせていただきますが、」との記述があった。これにより、「ここで『はい』なんて言うか」と、余計に怒りを買う事となった[16]。
週刊少年マガジンの副編集長ら編集部員数人が大麻所持で逮捕される事件も起きている。
野間 清治(のま せいじ、1878年12月17日 - 1938年10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。
1878年 - 群馬県山田郡新宿村(現在の桐生市)の新宿小学校(現在の桐生市立南小学校)教員住宅で生まれる
1895年 - 木崎尋常小学校(現在の太田市立木崎小学校)の代用教員となる
1896年 - 群馬県尋常師範学校(現在の群馬大学教育学部)入学
1902年 - 東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)第一臨時教員養成所国語漢文科入学
1905年 - 沖縄県立中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)教諭となる
1906年 - 沖縄県視学(地方教育行政官)となる
1907年 - 東京帝国大学法科大学の首席書記に就任
1910年 - 弁論雑誌「雄辯(雄弁)」を創刊
1938年 - 10月16日午後1時30分、急性狭心症で死去。法名:威徳院殿文誉義道清秀居士
人物[編集]
父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母ふゆは森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。
息子の野間恒には尋常小学校卒業後は進学させず、帝王学ともいえる独自の教育を施した。恒は1934年(昭和9年)開催の剣道天覧試合で優勝し、「昭和の大剣士」と謳われた。ただし、恒を勝たせるため、東京予選決勝の対戦相手である甥の森寅雄に養育した恩をたてに詰め寄り、わざと負けさせたと当時から噂があった。現在でも、森寅雄の伝記ではそのように描かれている。
ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。
公共心旺盛で、社会貢献に積極的であった。奉仕的理想を抱くことが大切であるとして数々の社会貢献活動を行った。その遺志は現在の講談社にも受け継がれ、講談社野間記念館では、横山大観や鏑木清方の日本画や過去に講談社の雑誌で用いた漫画の原画などを収蔵している。
野間 省一(1911年4月9日 - 1984年8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。旧姓:高木。戦後の講談社を牽引した。
第6代社長・野間佐和子は省一の1人娘、第5代社長・野間惟道は陸軍大臣阿南惟幾の五男で佐和子の夫。この2人の長男で、第7代社長(現職)の野間省伸は省一の孫にあたる。
1911年 静岡県静岡市に、高木磯吉の三男として生まれる。兄・三吉はのちの講談社取締役。静岡県立静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)卒業、旧制静岡高等学校(現静岡大学)へ。東京帝国大学(現東京大学)法学部在学中に高等文官試験の司法・行政の2科に合格。1934年 卒業後、南満州鉄道株式会社に入社。入社後1年半でハルビン鉄道局文書係長に抜擢される。
1941年5月26日 野間清治・左衛夫妻の長男・恒(講談社第2代社長)の未亡人である登喜子と結婚、野間家に入る。7月19日常務取締役就任。
1945年11月17日 第3代社長・野間左衛辞任、第4代社長に就任するが、戦争責任問題で翌年1月26日辞任。尾張真之介が代表取締役に就く。
1949年6月7日 社長に復帰。
1954年 経営危機が深刻化。事態打開のため「社長白書」を発表し、体質改善、作業合理化、経費削減などを社員に訴える。
1961年 キングレコード会長。
1976年 モスクワ大学より名誉博士号贈呈。
1979年 創業70周年事業として「野間アフリカ出版賞」「野間識字賞」「アジア・アフリカへの留学生奨学金制度」を創設。
1981年 野間惟道が第5代社長に就任し、名誉会長に。
1984年 死去。墓所は護国寺の野間家墓地。
主な受勲、受章[編集]
ユネスコの第1回国際図書賞(1974年)
ローマ教皇庁大聖グレゴリオ勲章騎士団章(1981年)
オランダ政府オレンジナソー勲章コマンダー章(1981年)
ブラジル賞勲局総合学術協会グランクルス大綬章(1981年)
ユネスコ銀メダル(1984年)
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