アントン・ブルックナー 魂の山嶺 田代櫂 2021.5.16.
2021.5.16. アントン・ブルックナー 魂の山嶺
Anton
Bruckner
著者 田代櫂(かい) 1947年長崎県生まれ。1963~73年、小原安正に師事してクラシック・ギターを学ぶ。1973~80年ドイツ留学後、本名・田代城治でギタリストとして活動
発行日 2005.11.20. 初版第1刷発行
発行所 春秋社
序 謎のブルックナー
アントン・ブルックナーは、ヴィーン音楽院教授、ヴィーン大学講師、宮廷オルガニストの肩書を持ち、風貌は「ローマ皇帝の横顔と農夫の頭骨」と言われ、頭蓋骨や死体に対する奇妙な執着があって、1891年ベートーヴェンのヴェーリンク墓地が中央墓地に改葬するため掘り起こされた時に頭蓋骨に触れているし、その3年前シューベルトの遺骨が改葬された時も頭蓋骨に触れている
昨日の栄光を夢見、豪華な落日に酔いしれている、蓮っ葉なオペレッタの節と、ダンス・ホールの喧騒溢れる、「没落とエロスの実験場」ヴィーン、それがブルックナーの仕事場
70歳を過ぎても結婚願望を持ち、女性のペンフレンドたちにせっせと手紙を書く、ヴィーン名物の1つで、「この作曲家は議論の余地なく奇人。彼の友人はごく少数か、あるいは皆無かもしれない」「歳は老いても幼子そのまま。感情は素朴であり、思考は曇りなく率直で、心は善良で信仰深く、人となりは飾り気がなく、その願望は清純」
死後には理想化され、「神秘のオルガニスト」「聖フロリアンの求道者」「音楽における神性」と呼ばれ、1924年には《神の楽手》という戯曲が出版され、100回以上再演された
少年期と青年期の大半を過ごした修道院でも、首都ヴィーンに出てからも、かなりの人間的摩擦に耐えてきた。田舎教師を振り出しに、オルガニストとして頭角を現わし、音楽院教授の地位に這い登り、皇帝から勲章をせしめ、最後は王家の夏の離宮の一角に居を構える。その上昇志向は半端ではなく、そのしぶとさはなまなかではない
ブルックナーは音楽市場の離れ猿。相当の音楽通でもその存在を知らない
同時代の音楽家たちはブルックナーの作品に不審の目を向ける
ブラームスはベートーヴェンの衣鉢を継いだといわれる。ブラームスの成功は英雄的情念と小市民的憂愁を結び付けたことにあったが、ブルックナーの交響曲には英雄も小市民もいないし、マーラーのような極彩色の世紀末も、青ざめた世界苦も、自己憐憫のカタルシスもない。むしろ非人間的な音楽であり、「木石の音楽」だ
同時代がブルックナーに浴びせた非難の1つは、彼の交響曲にベートーヴェン的な論理性がないということで、ブルックナーの場合、人跡未踏の山岳をあてどなく漂わされる
詳しく調べれば、構造や形式が欠けているというのは皮相な見方に過ぎないことがわかる。旋律の美食に耽り、形式を解体させていったロマン派音楽の中で、ほとんどブルックナーだけがベートーヴェンと同様、主題からあらゆる可能性を汲み尽くすことのできた作曲家だったが、そこにはベートーヴェン的な激情や、「戦う人間のドラマ」はない
何よりも厄介なのは、これらの混乱や誤解に、ブルックナー自身が手を貸していること。ベートーヴェンの最も正統な子供の1人であり、最も卓越した「絶対音楽家」の1人である彼が、最も心酔したのはヴァーグナーだった。そのため彼がブラームスと対立したのは不幸なこと。彼は誤った戦場に身を置き、誤った敵を相手にしていた
自作を語ることにおいても彼ほど拙劣な者はいない。自ら正当にも「後世にこそ通用するもの」と呼んだ《交響曲第8番》について、彼は何とも愚劣で古臭い戦争音楽風の解説を残している。それによれば終曲ではコサック兵団が疾駆し、ファンファーレが鳴り渡り、墺露両皇帝の会見の模様が描かれているという
ブルックナーの音楽を聴く時、執拗に頭を離れない疑問がある。彼の音楽を誤解しているのは私たちなのか、それとも彼自身なのか。彼の交響曲は、まったく独自の構成原理を持つ孤独な小宇宙なのか、それとも世紀末ヴィーンの誇大妄想が生んだ交響曲の恐竜に過ぎないのか
ブルックナーの作品についてブラームスは、「少なくともそれは今までのところ、作品というより一種のまやかしであり、1,2年のうちには忘れ去られてしまうだろう」と予言したが、作品は消えなかった。それは何故か? 本書では2つの謎に挑む。1つはブルックナーの人間性の謎であり、もう1つは彼の作品の謎
第1章
田舎教師
Ø バロックの屍臭
ブルックナーの生まれ故郷は、リンツから南に数㎞。青年期には3月革命という市民革命が勃発、多民族帝国に無数の亀裂が走った
オーストリアは17世紀前半の30年戦争の後、ペストが大流行、その4年後にはトルコ軍が襲来したが、17世紀後半になって突然全てから解放され、つかの間の平和を享受したが、ブルックナーの生まれ故郷はヴィーンの喧騒とは無関係
高地オーストリア州の物寂しい田園風景と、険しい山並みの眺望。聖フロリアン修道院の絢爛たる大伽藍とその香煙に混じるかすかな屍臭。「死を想え(メメント・モリ)」の執拗な囁き・・・・・。これらがブルックナー芸術の母胎
Ø 教師の子
果樹栽培地帯の教師の子として生まれ、教師は教会のオルガニストであり聖歌隊指導者であり、アントンも父の助手として冠婚葬祭の楽士を務める
9歳で堅信礼を受け、立会人となった従兄で屈指の教員オルガニストのヨハン・ヴァイスに専門的な音楽教育を受けさせるために預けられ、作曲にも手を染める
1837年、父親が過労で倒れ、父の代理で酒場の楽士を務めるが、間もなく父親はなくなり、聖フロリアン修道院学校の聖歌隊児童として家族から離れ、以後助教師時代も含め十数年に亘って校長の家に寄宿
15歳で変声期を迎えヴァイオリン奏者に編入、修道院オルガニスト・カッティンガーの助手となり、2年目からは修道院のクリスマン作の5230本のパイプを持つ大オルガンの演奏も許され、ブルックナーの即興演奏と作曲技法に多大の影響を与えたが、ブルックナーは同時代のシンフォニックなオルガンを好み、後に各地でクリスマン・オルガンを悉く改造させる
Ø 補助教員
16歳で国民学校を卒業、リンツ師範学校の10カ月の教員養成講座に通学。音楽教師デュルンベルガーから本格的な音楽理論を学び、それを高く評価したブルックナーは後にヴィーン音楽院のカリキュラムに取り入れている
41年、ボヘミア国境近くの寒村の小学校の補助教員として赴任。ミサ曲を地元の女性に捧げているが、42年後劇的な再会を果たす
1年半後生まれ故郷に近い学校に転勤、音楽愛好家にも恵まれ、スピネット(小型のチェンバロ)を貸与され、最初の世俗合唱曲《祝典に》を作曲
ドナウ河畔のエンスはオーストリア最古の町で、その地のオルガニスト兼合唱指導者のツェネッティに音楽理論とオルガンを学び、晩年まで感謝を捧げる
南のシュタイアは15世紀の美しい町並みを残す鉱業の町で、40年後にはヨーロッパ初の電気街灯がともる。ブルックナーは市教区教会のクリスマン・オルガンを弾く。シューベルト縁の地でもあり、《鱒》は地元の有力者の依頼で作曲され、夭折しなければまだ40代後半なので出会っていた可能性もある
「シューベルト最後の女友達」と言われた同地の商人の娘カロリーネ・エバーシュタイラーと知り合い、ブルックナーは彼女を通じてシューベルトの世俗音楽に触れたといわれる
ブルックナーは、ベートーヴェンとシューベルトを深く敬愛し、歌曲では《冬の旅》の第1曲《おやすみ》を特に好んだと言われ、いくつもの楽譜を所有
この頃ブルックナーは、聖フロリアンに新設された男声合唱団を聴き、地元で男声四重唱団を結成、以後生涯にわたり合唱活動との関わりを絶やさない
19~20代後半、多くの合唱曲を書く
Ø 助教師
1845年正教員となり、聖フロリアン修道院学校の有給助教師となって10年過ごす
修道院のオルガニスト・カッティンガーは、「オルガンのベートーヴェン」と呼ばれる即興の名手で、ブルックナーは彼から対位法理論やバッハの《前奏曲とフーガ》などを学ぶ
修道院書記局の官吏で同郷のザイラーは、ブルックナーを可愛がり、新品のヴェーゼンドルファー・ピアノを自由に弾かせ、いずれヴィーン音楽院に進学させたいと願っていたが、48年夭折、ピアノはブルックナーに遺贈され、生涯手放さず、すべての作品がその鍵盤から紡ぎ出されていく。オーケストラを伴う最初の大作《レクイエム》はザイラーの死を悼んで作曲され、ツェネッティに学んだ成果であり、初演はザイラーの一周忌に、聖フロリアン大聖堂で、高位聖職者の葬儀にのみ使用される大オルガンで演奏
Ø ビーダーマイアー氏の革命
「ビーダーマイアー」は詩人ルートヴィヒ・アイヒロットが創造した人物だが、ブルックナーの別名といっても過言ではない。メッテルニヒと秘密警察の厳しい監視の中で政治に目を背け、平穏無事な生活に逃避した、小心で、俗物的な、平均的市民の象徴
1848年、フランスの暴動が各国に拡散してヴィーン3月革命勃発。政府は新憲法を発布して農奴を解放、11月にはヴィーンを回復するが、メッテルニヒは亡命、フランツ・ヨーゼフが18歳で即位。ヴァーグナーはドレスデン革命に身を投じ、政治犯としてスイスに逃亡、ヨハン・シュトラウス2世は《革命行進曲》を書いて反乱側を支持したが、局面不利を悟ると《フランツ・ヨーゼフ皇帝行進曲》を書いて体制側に復帰。こうした日和見はオーストリア市民階級全般に見られた
オーストリアが巧みに革命を乗り切ると、諸手を挙げて賞賛し、その後の反動期には愛国主義に転じる。この間のブルックナーの行動は不明、その後の精神生活にも革命の痕跡を見ることはできない
1850年、修道院付属教会の暫定オルガニストに昇格、3年後には正オルガニストに昇進
Ø 迷いと恐れ
ブルックナーの悪名高い証明書コレクションは、既に革命の年に始まる
1848年、カッティンガーからオルガン演奏能力についての証明書を入手
1855年には中央学校の教師資格を獲得
修道院長からも、修道院オルガニストとしての身分保証を入手
1850年、ヴィーンの宮廷楽長イグナツ・アスマイアーの知己を得、宮廷楽団入団を夢見る
54年、アスマイアーやヴィーン音楽院教授の前でオルガン演奏試験を受け、「熟達」との鑑定書を入手。55年にはヴィーンのジーモン・ゼヒターに入門、6年間師事
55年、リンツ大聖堂のオルガニスト死去の後任兼聖堂区教会正オルガニストに就任
第2章
リンツ
Ø 名士
リンツは「塩の道」の中間にあり、8世紀建造のオーストリア最古の教会がある
モーツァルトの交響曲で有名だが、1784年新妻コンスタンツェと共に滞在した伯爵家のコンサートのために4日で書き上げたもの
「リンツのヴァイオリン弾きたち」も粗野な田舎の舞曲を弾きながらドナウを下り、ヴィーンにワルツの種を蒔き、音楽史に重要な役割を果たす
1832年にはボヘミアのプドヴァイスまでヨーロッパ初の鉄道馬車が開通
プドヴァイス特産のビール「プドヴァイザー」はアメリカに輸出されて「バドワイザー」になった
58年、ヴィーンからリンツまで「皇妃エリーザベート鉄道」が開通、2年後にはザルツブルクまで延長。当時の人口35千。造船所が有名。水準の高いオーケストラがあり、オペラを上演する劇場といくつかの合唱団が活動
地方都市の名士となり、3年後には市民権を獲得。司教に目をかけられ、聖堂に彼の墓所を約束され最高の栄誉に浴する
当時合唱運動がビーダーマイアーの音楽文化を象徴するもので、貴族社会が後退し、文化が市民の手に移り始めた時、合唱は最も安価な演奏形態であり、最も強力な自己表現だった。その後オーストリアの国力に陰りが見え始めると一転して愛国主義的色彩を帯びる
ブルックナーは司教の許可を得て年に2度の長い休暇をヴィーンで過ごし、ジーモン・ゼヒターの下で過ごす。ゼヒターは対位法の権威で、ブルックナーの勤勉さに感服
58年には、ゲネラルパスの試験を受け、「前奏と主題展開における熟達」の能力証明を獲得、ヴィーンのピアリスト教会でのオルガンの実技試験でも「輝かしい未来」が予言された
Ø 合唱指揮者
1860年、リンツの男声合唱団「フロージン」の主席指揮者に選出されたが1年で終わる
ゼヒターの下での学習を終えたブルックナーは、ヴィーン楽友協会協会に対し「和声・対位法教授」の称号授与を請願、関係者全員が集まる「大試験」の結果「能力証明書」が発給
Ø 未来音楽
「未来音楽家」と呼ばれたベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーなどが持て囃され、ブルックナーもリストの《ファウスト交響曲》の「主題、巨大な構成、管弦楽法、大胆な和声」を高く評価し、そこから回想や引用の手法を学ぶ。彼等前衛派の交響曲は、ビーダーマイアー氏の箱庭的音楽世界を粉砕、ブルックナーも困惑と恍惚に引き裂かれる
64年、高地オーストリア州とザルツブルク州共催の第1回合唱祭の懸賞募集に応募した《ゲルマン人の行進》はヴィーン男声合唱協会の詩人ジルバーシュタインの詩に曲をつけた男声合唱と吹奏楽のための作品で、他の当選作と共に初めての出版譜となる。この合唱祭では、ヴィーンの有力な批評家エドゥアルト・ハンスリックの知己を得て交流が始まるが、後年ブルックナーは彼を「私の死刑執行人」と呼ぶ
64年作曲の《ミサ曲第1番》をリンツ大聖堂で自らの指揮で初演、月桂冠を捧げられ、同市のレドゥーテンザールでのコンサートや3年後のヴィーン、さらにその3年後のザルツブルクでの初演も好評を博し、交響曲作曲への後押しとなって、66年には第1番が完成
Ø 《交響曲第1番》
激越な終楽章から着手。「シュトルム・ウント・ドラング」の音楽で、自ら「じゃじゃ馬」と呼び、「自分がこれほど大胆で生意気だったことはなく、まさに恋する阿呆のように作曲した」と述懐
第1楽章は行進曲風の主題で始まり、全く性格の異なる3つの主題というブルックナー特有の手法が初めて試みられている。第3主題の背景には、《タンホイザー》の「巡礼の合唱」の伴奏音型が聴かれる
第2楽章には、滔々たるブルックナー・アダージョの萌芽が見える
第3楽章のスケルツォには、すでにブルックナーの刻印がはっきりと押されている
原色の抽象画のように耳新しこの交響曲が、当時のオーケストラや聴衆にたやすく理解されたとは考えられない。初演の準備では楽員が様々な変更を求めたがブルックナーは応じず、楽想の特異さと演奏の困難さにより、リンツ初演は完成から2年後まで持ち越された
68年の初演は、ブルックナー自ら指揮。楽員の数が足りずに軍楽隊やアマチュアまで動員されたため、演奏の完成度は低い。その上ドナウ川の橋崩落という惨事が加わった
《第1番》の前に書かれたとされる《第0番》は、ブルックナーが晩年古い楽譜の中から発見、改訂もされずに放置、表紙に「交響曲第0番、全く通用しない試作」と書きつけ、死後28年経ってからヴィーンで初演され日の目を見た。自筆譜は69年完成されたが、それは《第1番》以降に書き直された改訂版だと考えられていた
これまで推測されてきた作曲順序は以下の通り:
処女交響曲《ヘ短調》(《習作交響曲》)
現存しない《第0番》初稿(当初の《第1番》?) ⇒ 実在かどうか疑問
現在の《第1番》(当初の《第2番》?)
《第0番》自筆譜(改訂版?)
現在の《第2番》
《第0番》には《第3番》と同様、ベートーヴェンの《第9》からの影響が強いと言われるが、初めて《第九》を聴いたのは67年で、《第1番》完成の翌年であり、《第0番》の第1,2楽章には《第1番》の2年後に完成された《ミサ曲第3番》との明瞭な共通性が多く指摘されている。《第0番》の自筆譜の書きつけも、《交響曲第2番》と明記された上に「2番」の部分だけ斜線で消されその下に「無効」と付記
《第0番》は《第1番》の完成から3年後の69年完成とされ、ブルックナーの意思に沿って《無効交響曲》と改めている。完成の翌月《交響曲変ロ長調》と題された68小節のピアノ・スケッチを書いたが、断章のまま完成されず、たえず進化を遂げていったブルックナーの交響曲中、唯一例外的な後退を示す。ヴィーン移住の最初の年に書かれた、唯一の大規模作品であり、模索と試行錯誤の産物だった
65年、ヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の初演を聴くべくミュンヘンに向かう。両端楽章が完成していた《第1番》を携え、滞在中に第3楽章を書き上げ、同宿のルビンシテインを通じてヴァーグナーの側近で初演の指揮者だった同地の宮廷楽長ハンス・フォン・ビューローの目に触れ、彼の関心を惹いてヴァーグナーとの会見を取り計らったが、ブルックナーは尻込みしてこの機会を逃す
ブルックナーはヴァーグナーの総合芸術のうち文学的側面については全く無関心。そのオーケストレーション、主題処理の技巧、半音階的和声など、専ら音楽的側面に関心は限られ、ヴァーグナーの音響世界から無意識に体得したものがあるとすれば、常軌を逸した巨大さの感覚であり、ヴァーグナーの場合それは無限に拡大する自我の所産だったが、ブルックナーの場合巨大さは「永遠なるもの」への触手として働いた。それがこの2人の違い
ブルックナーがヴァーグナーに接近した背景には、ヴァーグナー派への参入という現実的側面のほかに、ヴァーグナーに認められたことを最大の武器として、まずヴァーグナー派の中に多数の支持者を見出していく
64年にはブタペストでリストのオラトリオ《聖エリーザベートの物語》の初演を聴き、面識を得たが、リストは彼に格別の関心は示さず。翌年にはヴィーンでベルリオーズの《ファウストの劫罰》を作曲家自身の指揮で聴く。3人の「未来音楽家」と相次いで接触したが、現実的な成果は何も得られず
Ø オーストリアの憂鬱
65~66年、いくつかの場当たり的な求愛活動をするが、何れも相手は10代の少女で、不首尾に終わる
66年、ドイツ統一の主導権を巡ってプロイセンとオーストリアの内戦が勃発、オーストリアは敗戦によってドイツから切り離される
リンツの新しい聖堂建立が決まりその定礎式のためにブルックナーに《祝典カンタータ》の作曲が依頼され、66年には《ミサ曲第2番》として完成したが、礼拝堂自体の完成が遅れたため初演は3年後。混成8部合唱と管楽器からなる作品は、パレストリーナの典礼的様式と、進歩的な和声とが見事に融合され初演は大成功
67年、《ミサ曲第1番》がヘルベックの指揮によりヴィーン宮廷礼拝堂で演奏され、恐らくヴィーンで演奏されたブルックナーの最初の作品で、その成功により宮廷楽団から《ミサ曲第3番》の作曲依頼が舞い込む
その頃から深刻な神経衰弱が始まり、67年に3か月湯治場で冷水療法を受ける
《ミサ曲第3番》は68年完成、独唱、混声四部合唱、オーケストラからなり、初演はその4年後。管弦楽法に著しい進展が見られ、曲想の彫の深さ、高貴さ、力強さによって、この時期の複雑な感情を見事に浄化している。結果的に最後のミサ曲となる
Ø リンツ脱出
67年、恩師ゼヒターの他界直後、その後任の宮廷オルガニストに自薦するが却下され、宮廷楽長ヘルベックの画策でゼヒターの後任として音楽院の講座がオファーされたが給与が下がるため逡巡して機会を逃す
フロージンの創立記念コンサートで指揮者復帰を要請されたブルックナーは、ヴァーグナーに祝賀曲を委嘱したが、代わりに初演間近の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》最終場面の「歓喜の合唱」の部分初演を許可され、《マイスタージンガー》の全曲初演に先立ち、リンツでブルックナー指揮により演奏。《マイスタージンガー》は2か月後にハンス・フォン・ビューローの指揮で初演
初演前日、ブルックナーはビューローを通じてミュンヘン宮廷での仕事への推薦をヴァーグナーに懇請。同時にヴィーン大学合唱指導者のヴァインヴルムにも同情を乞う手紙を書くという無節操振りには呆れる。ビューローは妻コジマをヴァーグナーに寝取られた直後の最悪な精神状態で、ブルックナーの手紙を取り次いだかどうかは不明
ヘルベックの尽力で、ヴィーン音楽院が収入を保証したため、ブルックナーはゲネラルパス・対位法・オルガン演奏の教授として着任
第3章
ヴィーン
Ø 城塞都市
ヴィーンは東欧に突き出した楔で、街を市壁が取り囲む要塞の町。過去2回のトルコ軍の侵攻の教訓から、堡塁が作られ、巡視路が巡らされている
トルコの遺産は、コーヒーやキプファルと呼ばれるクロワッサンだけでなく、音楽の世界にも影響。ヴィーン市民を戦慄させたトルコの勇壮な軍楽は、モーツァルトの《トルコ行進曲》に残され、《後宮からの誘惑》などトルコ風のオペラが大流行。ベートーヴェンでさえ、《アテネの廃墟》の劇中音楽に《トルコ行進曲》を書いているし、《第九》の終楽章にもトルコ・マーチの響きが聴き取れる
Ø リンクシュトラーセ
1857年、皇帝は市発展の足枷となっていた城壁を撤去、幅57m、全長6.5㎞の環状道路「リンク」に生まれ変わる
ブルックナーが移住してきた68年は、リンク造成の最盛期で、69年には宮廷劇場、翌年には楽友協会の新館とホールが完成、帝国議会なども含め80年代後半にすべてが完成
1873年、ヨーロッパ諸都市に先んじて売春を公認。大量の労働者の流入で貧困と汚辱が沈殿。文化の主導権も宮廷・貴族からユダヤ人を中心とする新興知識人に移りつつあった
Ø プロフェッサー
ヴィーン音楽院は、現在のヴィーン音楽大学の前身で、正式名称はヴィーン楽友協会付属音楽院、初代校長はサリエリ
教壇でのブルックナーは、ゼヒター理論の権化で、暴君型の教師
ブルックナーに学んだ者は多士済々。後の指揮者フェルディナンド・レーヴェ、ピアニストのヨーゼフ・シャルク、その弟で指揮者のフランツ・シャルクはブルックナーの3使徒と呼ばれ、師の交響曲の紹介に身を捧げる
フーゴ・ヴォルフやマーラーも在学中は直接師事しなかったが、後年ブルックナーに深く私淑。ニキシュも当時の在学生
Ø オルガニスト
オルガニストとしては優れた即興演奏(インプロヴィゼーション)家だったが、伴奏は得意ではなく、臨機応変さに欠け、間奏ではインスピレーションが沸かず、頻繁にペダルを踏み違えた。コンサート用レパートリーは自作以外は極めて少ない
オルガンを即興のための楽器とする考え方はオーストリアの伝統で、ブルックナーもめぼしいオルガン曲はほとんど残していない
Ø 凱旋と屈辱
オルガニスト・ブルックナーの名がヨーロッパ中に知れ渡ったのはフランスの古寺サン・テプヴル大聖堂の改築の時。69年、新設のオルガンの検分を兼ねた落成演奏会にヨーロッパ中の著名なオルガニストが招集されたが、ヴィーンの宮廷礼拝堂からブルックナーが代役として初めてフランスに向かい、高い評価を獲得、パリでも招待演奏に応じ、故郷でも数々の栄誉を獲得、70年には文部省から2度目の芸術家助成金が与えられた
71年ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの落成記念に著名なオルガニストが招集され、オールトリアでの代表選考会ではブルックナーが満場一致で選出。本番では4手鍵盤と1万本以上のパイプを備えた巨大オルガンの競技会で優勝、さらに産業革命の象徴だったクリスタル・パレスの4500本のパイプを備えた巨大なオルガンでも7回のコンサートで演奏、オルガン界の新しい法皇となり、自信と誇りを持ってヴィーンに凱旋
帰国したブルックナーを待ち受けていたのは師範学校でのセクハラ疑惑で、教師としての資質を問われ停職処分になるが、ブルックナーは無実を訴える。ブルックナーの美少女趣味は夙に有名だが、成功に対する妬みが感じられる
Ø 《交響曲第2番》
ヴィーン・フィルが宮廷歌劇場楽長オットー・ニコライによって創設されたのは30年ほど前。オペラの伴奏に加えて、過去の遺産、とりわけベートーヴェンの理想的な演奏を実現したいというのが主旨。自主運営のルールが確立され、常任指揮者は選挙で選出されるが、最初の常任指揮者が宮廷楽長のオットー・デソフで、1860年から15年間在籍
ブルックナーとの最初の出会いは大試験。72年頃《第0番》のスコアを見せたが、デゾフから「主題はどこにあるのか?」と聞かれ、その一言で交響曲は反古となり、生前演奏されることはなかった
71~76年をブルックナーの第2創作期と呼び、《第2番》から《第5番》までの初稿を書き続ける
《第2番》は古典主義的で地味な作品とされるが、その見晴らしの良い構成、比較的コンパクトな作品規模、叙情的な優美さなどで独特の魅力を放つ。この曲で格段の進歩を遂げ、独自の音楽語法を確立
第1楽章冒頭での弦のトレモロは、「ブルックナー開始」と呼ばれるもののささやかな萌芽であり、トランペットの信号動機風の付点音符も、後にブルックナー・リズムと呼ばれるものに発展していく
頻繁に休止符が使われてるところから、ヴィーン・フィルの楽員から《休止交響曲》とからかわれたが、ブルックナーの交響曲は、呈示部、展開部、再現部、結尾部、第1、第2、第3主題などを休止によって明瞭に区分する傾向がある。「何か意味深いことを言う前にはいつも深く息を吸う」といい、いわゆる「ブルックナー休止」は、オルガンの豊かな残響が消えるのを待つオルガニストとしての性癖に由来するとも言われる
「アダージョの作曲家」とも呼ばれるが、第2楽章のアンダンテは彼の緩徐楽章における最初の傑作であり、そこに流れる自然の息吹、風のさやぎや野のかぎろいは、ブルックナーを聴く至福の時である
同時期のミサ曲との関連から、ブルックナーの初期交響曲は《ミサ交響曲》とも呼ばれる
《第2番》には《ミサ曲第3番》からの引用が見られ、第2楽章に《ベネディクトゥス》と《アヴェ・マリア」の動機が、第4楽章には《ベネディクトゥス》と《キリエ・エレソン》の動機が現れる
レントラー風のトリオを挟むスケルツォは、ブルックナーらしく荒削りな肌触り。先行3楽章全部に匹敵するほど長大な終楽章では、先行楽章の幾つかのテーマが呼び出され、回想される。この手法もやがて彼の常套手段となる。曲尾近くで第1楽章の第1主題が明瞭に現れるのも、冒頭主題の回想で全曲を閉じる後年の手法を予感させる
男性的と言われるブルックナー交響曲の中にあって、《第2番》はむしろ女性的な優美さをたたえている。《習作交響曲》から《第2番》に至る彼の初期交響曲には、むろんまだ重厚さや雄大さに欠け、主題の展開も小規模に止まるが、そこには捨てがたい魅力があるのも事実。ブルックナー初期の訥々とした響きには、雄大さと円滑さを加える後期にはない人間味がある
ヴィーン宮廷から委嘱された《ミサ曲第3番》は68年完成だが、楽員はブルックナーを「完璧な阿呆」と呼んで悪評高く、リハには2人しか現れず、遂にはヘルベックも手を引き、ブルックナー自身に指揮が任される。72年、狭い宮廷礼拝堂から聖アウグスティン教会に会場を移した初演は予想外の大成功となり、ベートーヴェンの《荘厳ミサ》への追随を示すとし、ヴァーグナーの影響も強く表れていると好評
その直後に《交響曲第2番》を完成し、デソフに見せたところ「ナンセンス」と評されたが、ブルックナーが適切なテンポを指示すると一部の楽員は共感を示す。曲の長さや休止の多さが禍して演奏不能と一旦は退けられたが、翌年のヴィーン万博のアトラクションとして初演。万博には日本政府も参加、ジャポニズムの契機となったが、市壁を撤去して生まれ変わった姿を世界に示す機会となり久しぶりにヴィーンを沸き返らせた
期間中株の大暴落による金融恐慌を、各国の援助で乗り切り、ブルックナーの《第2番》は万博のフィナーレで作曲家自身の手により初演される。裏にはヘルベックの奔走があり、ヴィーン・フィルを雇うためにリヒテンシュタイン侯の援助を必要とし、曲の短縮が強要された。演奏はまずまずの成功を収め、楽員からも拍手が起こり、ブルックナーは感謝の印に曲をヴィーン・フィルに献呈を申し出たが興味を示さず、10年後にリストに捧げられようとしたが、これも実を結ばず、交響曲中唯一献呈先を持たない孤児となった
Ø ヴァーグナー詣で
《交響曲第3番》の構想に着手したのは《第2番》完成前後の72年だが、翌年夏コレラの発生したヴィーンを脱出して保養地マリエンバートに向かい、《第3番》の終楽章のスケッチを終え《第2番》と共に見てもらおうと国境を越えて、バイロイトに劇場と自邸を建設中のヴァーグナーを訪ねる。一旦は玄関払いされながら食い下がると、トランペット・ソロが異例の弱音で始まる《第3番》が認められ、献呈を受けてもらう。以来ヴァーグナー家では「トランペットのブルックナー」と呼ばれる
《第3番》は浄書製本され、ヴァーグナーへの献辞が刻まれ、バイロイトに送られたが、この曲を《ヴァーグナー交響曲》と呼び始めたのはブルックナー自身
ヴァーグナーもブルックナーを高く評価。ブルックナーの冒頭動機の扱い方は、ヴァーグナーのライトモチーフの展開法と共通する。ロマン派が忘れつつあった主題労作の技巧を2人はそれぞれのやり方で追求していた。ヴァーグナーはブルックナーに「私ら2人は第1人者だ。私はドラマ芸術の分野で、あんたは交響曲の分野で」と言ったという
バイロイト訪問後、ブルックナーは「ヴィーン・ヴァーグナー協会」に入会するが、諸刃の剣で、ヴァーグナー陣営に身を置くことで多くの共鳴者を得ると同時に多くの敵も作った
Ø 《交響曲第3番》
《第3番》初稿は73年末完成。総小節数は2056と全交響曲中最長規模
第1楽章と第2楽章末尾には《ヴァルキューレ》からの「眠りの動機」が引用、第2楽章で《タンホイザー》からの「巡礼の合唱」が忽然と湧き上がるさまは感動的ですらあり、ヴァーグナーへの敬愛はブルックナーの真情だった
ベートーヴェン《第九》の影響も無視できず、弦のトレモロの中から現れるトランペットの開始主題によっても明らか。第2楽章も《第九》のアダージョをなぞったような構造だし、第3楽章のスケルツォの激烈さも《第九》の前例なしには考えられない
初稿の両端楽章には「ブルックナー休止」が頻繁に現れるのは、ソナタ形式の構造を明らかにするための仕掛けで、このブロック構造こそブルックナー初期の最大の特徴だが、この断裂的手法は大方の理解を超え、「論理的思考の欠如」という非難を生む
76~77年、88~89年の2度にわたり大きな改訂を加える。主に短縮に向けられ、第2楽章コーダの「眠りの動機」以外は、ヴァーグナー作品からの引用はあらかたカット
今日最もよく演奏される第3稿は412小節も短縮され、初期の断裂性は失われ、円熟と洗練が加わるが、かけがえのない何かが失われた印象も否めない。それは、延び広がる時空、咆哮する原色の世界、その最中に突如出現する無常観・・・・そこには後期ブルックナーの異界が口を開けていた
第4章
抗争
Ø ヴァグネリアン
19世紀後半のヴィーン楽壇を2つに引き裂いた「ヴァーグナー派対ブラームス派」の抗争の発端は、ヴァーグナーとハンスリックの芸術論争で、すべての芸術は最高唯一の芸術であるドラマの中で融合されねばならないとするヴァーグナーに対し、ハンスリックの「自律的音楽美学」では、音の運動形態そのものに自律的な美が存すると主張、音楽はテキストや標題に束縛されてはならないとするもので、ブラームスがその代表
ハンスフリックは、《タンホイザー》によってヴァーグナーの才能に驚嘆し、ヴィーンの音楽新聞に「タンホイザー論」を展開して頭角を現したが、その後古典派への指向を強め、1850年頃からヴァーグナーら新ドイツ楽派に辛辣な態度をとるようになった
一方で、ヴァーグナーは《マイスタージンガー》で敵役「ハンスリッヒ」を登場させ嘲弄して以降、2人は完全に決裂。ハンスリックの母親は裕福なユダヤ商人の娘だったのに対し、ヴァーグナーは激越な反ユダヤ主義者で、1850年には『音楽におけるユダヤ性』を発表、人種問題も絡んでいたが、ヴァーグナー自身ユダヤ系との疑念に終生悩まされていた
68年《マイスタージンガー》がミュンヘンで初演され、同年ブラームスの《ドイツ・レクイエム》がブレーメンで初演、ヴィーンの批評家も真っ二つに割れる
世代間抗争でもあり、新ドイツ楽派はリベラルな若い層に支持され、ブラームス派は保守的な権威の象徴とされた。ブルックナーは「交響曲のヴァーグナー」とされ人気を得た
ヴァーグナーはブラームスの力量は認めたもののその音楽にはほとんど興味を示さない一方で、ブラームスはリストを認めなかったが、ヴァーグナーには正当な関心を払う
熱烈なヴァグネリアンのマーラーは、ブルックナーにも私淑したが、評価はアンビヴァレントなもので、ブルックナー作品の偉大さと「発想の豊かさ」には敬服しつつ、その「散漫さ」には苛立ちを覚え、《第9番》を「ナンセンスの極み」と評す。ブラームスを高く評価し、ブラームスもマーラーの指揮に触れて以来その才能に注目、マーラーがヴィーン宮廷歌劇場監督に就任した背景にはブラームスの推薦があったという
ブルックナーはヴァーグナーを崇拝していたが、その台本には無関心だし、《交響曲第3番》に「眠りの動機」を引用しながら場面を理解しようとさえしなかった
ハンスリックはオルガニストのブルックナーを高く評価したが、作曲家としては冷淡で、ブルックナーはハンスリックの批評に対し迫害妄想的怖れを抱いていた
お互い反目しつつも所詮は同じ町に住む同業者
Ø ハンスリックの離反
ヘルベックに次ぐブルックナーの理解者だったハンスリックが、ブルックナーのヴァーグナー協会入会を境に態度を豹変させ、批判的に
Ø 《交響曲第4番》
《第4番》は、《第3番》初稿完成の直後の74年初に着手、同年中に初稿完成
初期様式を打破するための試行錯誤的作品。4つの版があり、78~80年の改訂版は「ハース版」、その後わずかな修正を加えた「ノヴァーク版」。89年初出版のものはレーヴェによる改竄版。改訂の結果、格段の進歩と円熟が加わり、旋律と対位法はより円滑となる
《第3番》と同様、「原始霧」と呼ばれるトレモロの中から開始主題が姿を現すが、その印象は著しく異なる
最初の長編交響曲で、ホルンによる開始主題は伸びやかで広々している
全曲を貫く2つの核がある。ホルンによる開始主題の5度とその転回音程、そして「ブルックナー・リズム」と呼ばれる2+3連符。これらの動機は全曲を通して、様々な形で登場し、互いに呼応していく。開始主題は終楽章のコーダ直前でも印象的に回帰し、曲尾にも悠然とその姿を現して、この「生の讃歌」の円環を閉じる
Ø あるいは《ロマンティック交響曲》
《第4番》は《森の交響曲》とも《自然交響曲》とも呼ばれるように、この作品が喚起する基本的な情緒は自然への愛着。ブルックナー自身も初稿自筆譜のタイトルに「交響曲変ホ長調 ロマンティック」と記している
自作の標題的な内容について自身で語っているのは《第4番》と《第8番》だけだが、陳腐な自作解説を厳密に受け止める必要はないだろう。曲の成立に不可欠な要素でもないし、ブルックナー交響曲は全くそれに依存しない、自律的な内容を持っている。「もはや手を触れることのできない完璧さと、高度の複雑さを持つ」と評された《第4番》の終楽章が、本人がいう「田舎の祭り」と一体何の関わりがあろう
Ø 無給講師
生活に不安を感じるブルックナーは就職活動を続けるが、得られたのはヴィーン大学の無給講師で、和声・対位法講座を担当
Ø 《交響曲第5番》
《第4番》初稿完成の3か月後、75年初に《第5番》に着手し、77~78年に完成
死後にフランツ・シャルクによる改竄版が出たが、《第8番》の改竄同様最悪の干渉
《第5番》は大伽藍のように厳格なフォルムを持ち、終楽章には壮大な二重フーガを置く。しばしば宗教性や神秘性と結びつけられ、「信仰告白」のニックネームで呼ばれたりしたが、自身は《幻想的交響曲》と呼び「対位法上の傑作」と位置付ける。リストが絶賛
全曲のスケッチはヴィーン大学講師就任直後に終了し、文相シュトレーマイアーに献呈
対位法の大家ブルックナーがその能力を存分に証明しており、《第8番》に次ぎ長大で重要
第1楽章は、荘厳な序奏で始まり、その冒頭主題は、他の楽章の主題とも有機的な関連を持ち、全曲を統一する核となっている
フィナーレは限りなく堅牢で重厚。フルトヴェングラーはこの終楽章を、「世界の音楽作品中最もモニュメンタルなもの」と評した。結尾に向かって収斂していく「フィナーレ交響曲」であり、分厚い音響はオルガン的、緻密な構成と複雑な対位法によって作曲技法上におけるブルックナーの神髄ともいえる作品だが、近寄り難さが禍して、初演は14年後
Ø バイロイト祝祭
76年からヴィーン大学哲学科で教え始める
同年夏、ヴァーグナーの《指環》4部作がバイロイトで初演され、ブルックナーも視聴
そこで知己を得た初演指揮者のハンス・リヒターやベルリンの若き評論家ヴィルヘルム・タッペルトに、ベルリンでの初演を期待して『第4番』のスコアを送ったが反応が芳しくないのを見て改訂に没頭
Ø 《第3番》の挫折
改訂と並行して《第3番》のヴィーンでの初演を目論み、楽友協会オーケストラの指揮者ヘルベックとヴィーン・フィルの指揮者デソフに働きかけたが、デソフは拒否。《第3番》がヴァーグナーに献呈されたことがネックで、デソフは翌年ブラームスの《交響曲第1番》を初演、在任中ブルックナーを取り上げることはなかった
バイロイトの後《第3番》第2稿に着手、翌年完成するが、その間ベートーヴェンの《第三》や《第九》のシンメトリー構造を研究、モーツァルトの《レクイエム》の分析に没頭、《第3番》のヴァーグナーからの引用をあらから除去
ヘルベックが初演の決意を示した直後46歳で病死、最大の庇護者を失って、後は自身で指揮するほかなかったが、指揮者の能力は全くなく、初演は悲惨な結果に終わる
第2創作期は惨めな結果で終わり、新作《第6番》に着手するまでに2年半以上沈黙
第5章
野の人
Ø 2つの肖像
ミュンヘンの宗教画家フリッツ・フォン・ウーデの《最後の晩餐》でキリストと対峙する老使徒のモデルは、60歳前後のブルックナー
別の画家が描いた肖像画は、だらしなく肥満した珍妙な風采で、新聞の描写にも一致
いずれが実物か、聖者か俗物か?
Ø 静かな道化師
高級店で誂えるが、サーカスの道化師に近い奇異な服装。とりわけ目立つのは馬鹿でかいハンカチ
Ø カティ
ブルックナーの世話をしていたのは妹だったが早逝、その後当時既婚で20代半ばの家政婦カティが26年間面倒を見る。鼻っ柱の強い典型的なヴィーン女性で、しばしばブルックナーと衝突するが、名物家政婦として君臨
Ø 家長的下僕
弟子たちに対するブルックナーの態度は極めて封建的、南ドイツの農村に典型的な独裁的家長のタイプ
一方で上司や同僚に対する卑屈さも度はずれていた。楽友協会の芸術監督だったブラームスを「監督閣下」と呼び、ハンスリックに対しても自分を卑下して使えようとしたが、こうした卑屈さがますます相手を苛立たせることに気付かなかった
Ø 伝記の誕生
ブルックナーの支援者だった高地オーストリアの国会議員の息子アウグスト・ゲレリヒは技術系の学生だったが、ブルックナーの講義を聞くようになり、ブルックナーの信頼を得て、生前から伝記作家に指名され、教育者や指揮者として多忙の傍ら資料収集に奔走、22年に第1卷を出版したが、翌年逝去。その仕事を受け継いだのはマックス・アウアーで、ゲレリヒの共著者として36年までに全4巻を出版。後に「国際ブルックナー教会」も創立
偏見とは無縁で、周辺にはマーラーはじめユダヤ系の人々が少なくなかったが、人種の違いは何の支障にもならず、マーラーとの交友は、ユダヤの知性と農村の純朴さが引きつけ合う「オーストリア特有の現象」と言われ、右派的な人からも「人間的には純朴で愛すべき人物。ユダヤ人とユダヤ系の人々と親しく交わりながら、内面的にはユダヤ性による影響をほとんど被っていない」と評された
Ø 信仰者
フルトヴェングラーは自著『音と言葉』の中でブルックナーを、「ドイツ神秘思想の後継者」と評したが、そのような高僧めいた雰囲気はなく、彼の信仰はごく庶民的で素朴なもの
「ヨーゼフ2世的・ロマン主義的」な信仰といわれるが、ヨーゼフ2世は夢想家肌の啓蒙君主として知られ、農奴解放、出版の自由、信教の自由を推し進めた。カトリックの勢力を削ぐため無用な修道院を解散させたが、その数7~800に上るという
晩年に至るまで聖フロリアンとの深い絆を保つ。彼にとって唯一の故郷であり実家
ブルックナーの生活パターンや思考パターンはカトリックの信仰を基盤とし、自らの創造活動さえ、神から与えられた使命と考えていた
修道院という環境は、生活の場としても創造の場としても欠かせないもので、交響曲にしばしば現れるコラールや牧歌、アダージョの癒しの響きは僧院という環境と切り離せない
Ø 憂き世の楽しみ
ヴィーン人の大食は有名だが、ブルックナーの健啖振りも相当なもの。毎食肉を欠かさず、金曜日ごとの精進日は苦痛
ダンスや水泳、潜水の名人
Ø 知的生活
噂やジョークが飛び交うヴィーンの夜会でブルックナーは格好のネタ
オーストリアに関する2つの特異な事件が、ブルックナーの心に深い痕跡を残し、その精神生活に特別な役割を演じたと思われる。1つはメキシコ皇帝マクシミリアンの処刑、もう1つが北極探検隊。マクシミリアンはヨーゼフ皇帝の弟で虐殺され、北極探検隊は1872年に出発、シベリア沖にフランツ・ヨーゼフ・ラントを発見し2年後帰国
一般に「学識」と呼ばれるものをブルックナーが細やかにしか備えていなかったのは認めざるを得ず、学識豊かな紳士の団欒では常にへりくだった態度を示す
Ø メメント・モリ
生涯独身のブルックナーは、最晩年まで結婚願望を持ち続けた
猟奇的な事件に異様な関心を示した
Ø フライアの子
ドイツ人は森に魅せられた民だと言われてきた
ローマ人によってゲルマン人の文明化とキリスト教化が始まり、野蛮なゲルマンの祭りや習俗がキリスト教に取り込まれ、教会暦や農事暦と融合し、1年のサイクルが作られた
キリスト教とゲルマン性の二重構造はブルックナー作品にも潜んでいる。宗教曲の作曲家として成功した彼が、交響曲に手を染めたのは必然の成り行き。「未来音楽」に触れたことで呼び覚まされた、魂を焦がすような複雑な感情が、宗教曲とは別の器を要求した
ブルックナー交響曲の特徴の1つに、紋切り型のハッピーエンドがある。冒頭主題が輝かしい長調で回帰、そこにはあるのは圧倒的な信仰の勝利であり、偉大なる神への手放しの讃美。だが彼の交響曲は偽装した宗教曲ではない。根っこの先にはドイツ・オーストリアの集合的無意識の奥深く、ゲルマンの古層が覗く。ヴァーグナーのスペクタキュラーなゲルマン神話劇とは異なる、荒涼とした原初の記憶であり、雪と氷河の薄明の地獄に繰り広げられる無人の音響世界であり、夢幻的なカタストローフのヴィジョンである
ブルックナーの交響曲には3つの性格的要素がある。宗教性(キリスト教)、自然の息吹、土俗性(ゲルマン性)で、後期には非キリスト教的なものが影を拡げる
第6章
恢復
Ø 《弦楽五重奏》
《第3番》の挫折から《第6番》の着手までの2年半、ブルックナーは《第4番》を大幅に改訂、《第5番》に手を入れて完成。室内楽の主要作となる《弦楽五重奏》を作曲したほか、声楽曲がいくつもある
1878年初、宮廷楽団の正式メンバーに昇格。宮廷礼拝堂の儀式に参加する聖歌隊、管弦楽団、オルガニストなどの総称で、正式メンバーは教会音楽家の最終目標
ヴィーン音楽院長ヨーゼフ・ヘルメスベルガーの勧めで室内楽の作曲を手掛け、四重奏に第二ヴィオラを追加した弦楽五重奏を79年に完成、第3楽章までが81年に初演、84年に楽譜出版、オーストリア皇妃エリーザベートの末弟で飲み仲間だったバイエルン王家マックス・エマヌエル公に献呈。85年ヘルメスベルガーによって公式初演され、各章ごとに大喝采が巻き起こる。ブルックナー唯一の本格的室内楽であり、時代を代表する傑作
宮廷楽団での地位は確かなものとなり、ヴィーン大学でも80年には有給に
80年、宮中礼拝堂で《ミサ曲第1番》を自らの指揮で演奏し喝采を浴び、ヘルメスベルガーから「真の傑作と呼ぶに相応しい。着想は天才的、テキストの音楽化も素晴らしく、演奏は好楽家に強い印象を与えることに成功」とのお墨付きを得る
自信を取り戻したブルックナーは、《第6番》に着手、爆発的な第3創作期が始まる
Ø モンブランのパノラマ
80年は生活の上でも明るさの見え始めた年で、夏にはスイスのオルガンの体験とモンブランを見るために約1か月間のスイスへの旅行に出る
Ø 《交響曲第6番》
スイス旅行の直後から着手し、1年後完成。その後改訂がない、例外的なブルックナー交響曲で、「親切な家主」エルツェルト夫妻に献呈
《第5番》とは対照的で、あらまし簡明で古典的、ブルックナー色の薄い曲
ブルックナーの後期は、彼独特のブロック様式からロマン派様式へと転換
《第6番》の白眉は、中間の2つの楽章。詠嘆的な第1主題で始まるアダージョは、柔和な光と影とで織りなされ、山上の夕映えのような翳りを帯びる。第3楽章は武骨なスケルツォと違い、第2楽章の気分を引き継いだ幻想的な雰囲気を醸し出す
後期への過渡的な性格を持つとともに、《第4番》に始まる中期交響曲群の掉尾を飾る作品でもあり、後期の険しい山岳に分け入る前の牧歌的な哀歓に彩られた交響曲
83年、宮廷歌劇場監督ヴィルヘルム・ヤーン指揮のヴィーン・フィルによって中間の2楽章だけ初演、各章ごとに喝采を浴びたが、ハンスリックは「野人はやや躾を身につけたが、自然を喪失」と手厳しく批判。ほとんど注目を集めなかったことから改訂もされず、《第9番》とともに生前出版もされなかった。全曲初演は没後マーラーがかなりのカットを加えて実現
Ø 《第4番》初演
81年初、《第4番》第2稿がハンス・リヒター指揮のヴィーン・フィルによって全曲初演
地元紙は独創性に注目し、「現代のシューベルト」と評し、ハンスリックも渋々祝福
同時に演奏されたマイニンゲンの宮廷楽長だったハンス・フォン・ビューローの交響詩《歌手の呪い》が注目されなかったため、ビューローはブルックナーに敵意を抱いたと言われ、毒舌で知られたビューローはブルックナーを「半ば天才、半ば阿呆」と評し、ブルックナー作品を生涯一度も演奏せず、91年《テ・デウム》を聴くまで才能を認めようとしなかった
Ø リンク炎上
81年暮れリンク劇場焼失。74年竣工の喜劇劇場で、オッフェンバックの未完の遺作《ホフマン物語》の初演が大成功で急遽翌日の再演が決まり超満員の中、ガス爆発を起こす
真向かいに住んでいたブルックナーは、演目が変更されたため劇場へは行かず難を逃れたが、事件以降火災を極度に恐れるようになった
第7章
名声
Ø パルジファルの夏
82年、バイロイトでヴァーグナーの新作《パルジファル》が6年ぶりに上演
ブルックナーは弟子と共に視聴、スリ被害で新聞沙汰に
ヴァーグナーはブルックナーに会うたびに、「ともかく演奏することだ」と励ます
バイロイトの夏から本格的に《第7番》を書き始め、83年初にはヴァーグナーの容態を心配しながらアダージョのスケッチを終えるが、3週間後にヴァーグナー死去、享年69。アダージョのコーダに続く部分に、4本のヴァーグナー・テューバによる35小節のコラールを書き加えた。「今は亡き、熱愛する不滅の巨匠の思い出に」と題された哀悼の音楽
83年秋に全曲完成
Ø 《交響曲第7番》
冒頭主題は、あらゆる交響曲の中で最も美しいものの1つ。典型的なブルックナー開始の霧の中から、2オクターヴにわたって上昇し、22小節にわたって伸び広がっていく。この主題によって、無限の空間性を特徴とする後期交響曲群の地平を切り開く
ブルックナーは、後期の作品世界で、自らの内面にますます沈潜しようとしているが、《第7番》はまだ入り口に過ぎず、若々しい叙情性と、後期の峻烈さが同居、この柔軟さこそがこの曲をブルックナー最大の成功作にしている
伸びやかな肯定の精神に支配された第1楽章から一転して、第2楽章アダージョには、ヴァーグナーの死を予感する心のおののきが満ちている。《テ・デウム》からの引用も見られ、この長大な楽章はブルックナーのアダージョが深い癒しの音楽であることを改めて思い知らせる
煩雑な異稿問題は少なく、唯一議論が分かれるのはアダージョ楽章のクライマックスにおける打楽器の一撃。スコアには、ブルックナー自身が書いたと思われる打楽器パートが貼り付けられており、後から付け加えられたことを示唆するが、同時にその紙には鉛筆で「無効」と書き入れられている。鉛筆の筆跡を自身のものとするハース版にはこのパートが含まれておらず、他のものとするノヴァーク版には含まれていて、演奏者によってまちまち
ブルックナーが弟子に、「アダージョに待望の一撃を断固付け加えて私たちを喜ばせたのはニキシュだ」と書いているところから、ブルックナーはニキシュの主張を入れて書き加え、その効果に満足していることになり、一撃破の指揮者にとっては朗報
スケルツォは演奏によってかなり印象が異なる。比較的簡潔な筆致で書かれており、典型的なブルックナー・スケルツォとして演奏することも出来れば、後期特有の「宇宙の鳴動」を鳴り響かせることもできる
ブルックナーの終楽章は独立性が強く、全曲を終結に向かわせるという役割を時として忘れたかのように見えるが、ハンス・リヒターも《第7番》についてはそこが不満
Ø 《テ・デウム》
《第6番》作曲中の81年に、《テ・デウム》の構想に着手し、本腰を入れるのは《第7番》完成後の83年秋で、翌年春完成
注文に拠らず自発的に書いた数少ない作品の1つ。作曲の動機を、自分がまだ迫害者の手にかからないでいることを神に感謝するためと言っている。《テ・デウム」という曲種は、神への感謝の讃歌で、古くから祝日に歌われてきた
5楽章からなり、ミサ曲に比べてはるかに短いが、極度に凝縮され、鮮烈で力強く、確信に満ちている。終局には《第7番》アダージョの主題の一部もはっきりと聴き取れ、ヴァーグナーの死に対する慟哭が秘められている
ヘルメスベルガーから皇帝への献呈を勧められたが、既に神に捧げた曲だとして固辞
初演は、85年の《弦楽五重奏》が楽友協会小ホールで初演された際、ブルックナーの指揮と2台のピアノ伴奏という形で世に出るが、独唱・合唱・オーケストラからなるオリジナル版は翌85年(ママ)ハンス・リヒター指揮ヴィーン・フィルによって行われた
生前30回あまり演奏され、《第7番》と並ぶ最大の成功作
Ø 成功の手触り
84年、《第8番》に着手
ブルックナーの3使徒と呼ばれるヨーゼフとフランツのシャルク兄弟とフェルディナント・レーヴェはピアニストや指揮者としてブルックナー作品を世に出そうと献身的な努力を重ね、そのためにブルックナーに改訂を強要したり、自ら短縮や改竄まで辞さなかった
84年、当時ライプツィヒ市立劇場の楽長ニキシュとヨーゼフ・シャルクのピアノ連弾で《第7番》の初演が実現、以後ニキシュはブルックナー支援者の1人となる。さらにニキシュはオーケストラでの上演も確約。ニキシュはヴィーンでヘルメスベルガーにヴァイオリンを学び、18歳でブルックナー指揮の《第2番》初演に参加。伝説的指揮者、1913年ベルリン・フィルとのベートーヴェン《第5》は世界初の交響曲全曲録音として知られる
84年末、ゲヴァントハウス管弦楽団により初演、85年初にはザクセン王アルベルト隣席のうちに中間2楽章が再演、大成功とまではいかないが呼び水にはなる
直前にはヘルメスベルガーによる《弦楽五重奏》の公式初演も実現、その1か月後には《第3番》がオランダで演奏、同年暮れにはダムロッシュによってニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスでアメリカ初演
86年にはハンブルクでも初演され、それを聴いたブラームスの師エドゥアルト・マルクスゼンは「現代最高の交響曲」と絶賛。相次ぐ成功と栄誉に酔う
Ø バイエルンのうたかた
84年夏ミュンヘンでレオポルド公妃ギゼラに拝謁。ギゼラはオーストリア皇帝の長女で、母親の実家であるバイエルン王家に嫁いでいた。皇妃の末弟マックス・エマヌエル公も同席。ミュンヘン宮廷楽長で《パルジファル》初演の指揮者だったヘルマン・レヴィに《第7番》のスコアを渡し、バイエルン王に対する献呈の根回しをしている
翌年3月ミュンヘンでの《第7番》初演実現、ライプツィヒを凌ぐ大成功となり、以降ミュンヘンはブルックナー演奏の1拠点となって、チェリビダッケまで引き継がれていく
バイエルン王への献呈が実現、86年献呈スコアが届けられるが、王からの返事はなく、《第7番》に限らず、ルートヴィヒ2世がブルックナーの作品に関心を示した形跡はない。届けられた3か月後に王は廃位宣告を受けて幽閉され自死を遂げる
Ø ワルツ王のサロン
《第7番》はドイツ各地でも演奏。オーストリアの初演を指揮したのはカール・ムック、多数のミスを発見し修正の後、グラーツでの演奏は大成功。以降ムックもブルックナーが最も信頼を寄せる指揮者の1人になる。初演に先立ちヴィーン・フィルが初演の意向を示したが、ブルックナーはハンスリックを意識、ドイツでの成功にケチが付くことを嫌ってブルックナーはそれに応じなかった。実現したのは86年になってからで、聴衆は熱狂的だったが、ハンスリックは成功は党派的なものだとし、「ヴァーグナー派にとっては第2のベートーヴェンとなった」というのみ
ブルックナーの名声が上がるにつれ、女性の崇拝者たちも現れ始める
名誉欲も衰えず、イギリスのケンブリッジ大学から名誉博士号を得ようと画策して失敗したり、アメリカの大学の名誉博士号の件では詐欺被害にも遭っている
ヴィーンでの初演を聴いたヨハン・シュトラウスからも、「感動した。わが生涯最大の印象を刻む作品の1つ」と絶賛。サロンに招待されその常連となる
その年のうちにアメリカ各地、オランダでも初演され、同年初の《テ・デウム》、その1年前の《弦楽五重奏》の初演と合わせ、ブルックナーの名声は揺るぎないものとなる
第8章
改訂の迷宮
Ø リストとブルックナー
リストは《第7番》を聴いて以来、ブルックナーに対する評価を改めたといわれるが、両者の関係は最後まで実りのないもの
リストの見るところ、ブルックナーは交響曲という「潜在的熱病」に犯されていた
リストは、ブルックナーのオルガン演奏を一度聴いたことがあるが、不満だった
一方、ブルックナーは自分の経歴でヴァーグナーとリストに認められたことをアピールしていたが、リストの作品に対しては懐疑的で、唯一評価したのが《ファウスト交響曲》で、「ホモホニーの大家であって対位法はさほどでもない」とし、管弦楽法に関してもリストよりベルリオーズを高く買っていた
貴族でヨーロッパ中から持て囃された超絶的ピアニスト、聖職者でもあったリストと、田舎じみた物腰のブルックナーとでは本能的な反発があったのだろう
《第2番》を献呈しようとして無視されたことも災いしたが、バイロイトでリストが急逝した際にはブルックナーは衝撃を受け、一日中興奮状態だったという
Ø 皇帝との昼
86年、ブルックナーの窮状を訴える声が《テ・デウム》初演の指揮者ヘルマン・レヴィからバイエルン王家のメンバーに伝わり、オーストリア皇帝から最下位の「フランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章」が授与され、補助金が下賜されるが、序列を無視した叙勲に宮廷楽長ヘルメスベルガーや宮廷楽団を管轄する宮内長官ホーエンローエが憤慨、以降宮廷楽団はブルックナーの作品を演奏せず。ブルックナーはホーエンローエに対する感謝の印として《第4番》を献呈。皇帝にも拝謁して謝辞を述べたが、伝記作家のゲレリヒからの問い合わせに対し、貴族サロンを仕切っていたホーエンローエ夫人からは罵倒に近いコメントがかえってきた。夫人はブルックナー嫌いのリストの養女同然で育ち、ブルックナーの農民的なしぶとさや押しの強さが、「洗練された人々」の反感を買っていたことは想像できる
Ø レヴィの困惑
84年央、《第8番》着手、87年夏第1稿完成。レヴィに初演を持ちかけるが、《第7番》と同じスタイルで理解不能・演奏不能と言われ、ブルックナーは打ちのめされ、改訂に3年を費やす。周囲から過去の作品の見直しも勧められ、1~3番の大幅改造に取り組む
Ø 恋するオルガニスト
89年、自信喪失や過労から神経症再発
やみくもな結婚願望は還暦を過ぎてからも続くが、拘ったのは家系を守るという責任感にも拘らず、独身に終わり、ブルックナー家の男系は絶えた
Ø ブラームスとブルックナー
85年完成のブラームス《交響曲第4番》はドイツでの初演は大成功だったが、ヴィーンではあまり反響を呼ばなかった。ブルックナーの《第7番》の成功が影響していると言われ、彼等の亀裂を深めた
北ドイツ人でプロテスタントのブラームスと、南ドイツ人でカトリックのブルックナーでは、性格も作品の質も全く異なる
ベートーヴェンの故郷が北ドイツのボンであることをヴィーンっ子は忘れがちだが、ブラームスがハンブルク生まれであることは忘れなかった。ブラームスは北ドイツ人らしく寡黙で偏屈で辛辣だが、率直で誠実な人柄によって、ヴィーンに多くの友人や支援者を持ち、彼の子守歌はモーツァルトやシューベルトと共にヴィーンっ子の愛唱歌
ブラームスのブルックナーに対する態度はかなり慇懃無礼、作品に対する評価も形式と論理が欠けているとして否定、人間性についても坊主にスポイルされ頭がおかしいと公言し、それを聞いたブルックナーが深く傷ついた
ブルックナーも作曲家としてのブラームスを遠回りに否定
87年頃のヴィーン楽壇では、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーを「3大B」と呼ぶことが流行したが、ブルックナーはそれを嫌い、「ベートーヴェンと並び称される資格はなく、ブラームスと比べられるのは愉快ではない」と言った
南北ドイツでは性格の違いのほかに宗教的対立もあり、政治的にも対立
双方の支持者たちの間で和解の道を探る試みが幾度となく持たれたが、好転することはなかった
Ø 弟子たちの功罪
「3使徒」は、ブルックナー交響曲の普及に努めたが、ヴァーグナー風の流麗さや通俗性、ドラマチックな展開を求めてブルックナーに短縮や改訂を強要、自らも改竄を加え、複雑な版の問題を引き起こす
86年、アメリカ滞在中のザイドルから《第4番》演奏の意向が来て、ブルックナーは終楽章のフィナーレに少し手を入れた。同年ニキシュから来た時にはヘルマン・レヴィによる改訂のほか出版の際は3使徒により夥しい改訂がなされた。ブルックナーの指示は無視され、改訂されたレーヴェ版が88年初演され、翌年出版され、以降半世紀の間唯一この改訂版でのみ演奏されることになる
《第3番》はブルックナー自身の手で改訂が進められ、89年完成した第3稿はマーラーが強く反対したように、《ヴァーグナー交響曲》の名に相応しかった初稿と大きくかけ離れたものとなり、ヴァーグナーからの引用はあらかた削られ、全体で1/5ほどが短縮が、90年末のリヒター指揮のヴィーン・フィルの演奏は大成功となる。さらに、皇帝が費用を負担して90年出版、後にレオポルド・ノヴァークによって洗い直され《ノヴァーク版第3稿》として知られる
《第2番》《第1番》についてもブルックナー自身によって改訂が加えられたが、何れも初稿の方が圧倒的に支持されている
《第5番》《第8番》《第9番》も3使徒によって大きな改訂が加えられたが、今日ではほとんど顧みられない。これら弟子たちの改作がブルックナー受容に、不自然な屈折を強い続けたことは事実
晩年のブルックナーは、自分亡き後の改竄を警戒し、遺言で自筆譜の保管を宮廷図書館に託す
第9章
死の時計
Ø 音楽院退職
89年マイヤリンクの悲劇を追うように、母エリーザベートも9年後レマン湖で暗殺死、さらに16年後にはサライェヴォの悲劇へと続く
90年、病気を理由に音楽院を休職
90年、皇帝夫妻の末娘とトスカナ公との婚礼では、末娘の希望によりバートイシュルの離宮で式の際のオルガン演奏を披露、《第1番》フィナーレの《皇帝讃歌》とヘンデルの《ハレルヤ》を主題とした即興演奏は好評を博し、親族のテーブルに席を与えられ、報償金(ママ)が下賜された
高地オーストリア州議会は終身年金支給を決定、各地に後援会が出来て彼の家計を支援
91年、音楽院を退職、年金を支給され、楽友協会名誉会員
同年、作曲中の《第8番》を皇帝に献呈、2年後の出版には皇帝の私財から印刷費が支出
Ø 名誉博士
91年にはヴィーン大学哲学科教授会で名誉博士号授与が承認され、皇帝の裁可が下る
感謝の印として《第1番》ヴィーン稿が初演され、ヴィーン大学に献呈された
Ø 宮廷オルガニスト退任
91年、ベルリンの《テ・デウム》初演に立ち会う。ジークフリート・オックス指揮、アカデミー合唱団による演奏は大成功を収め、ハンス・フォン・ビューローでさえブルックナーに対する認識を改め、再演の要望を洩らしたが、一度もブルックナー作品を指揮することなく3年後カイロで客死
92年、ハンブルクで《テ・デウム》を初演したマーラーは、「1つの作品の大勝利とおぼしきことを体験した」と感動して感謝の手紙を書く
同年初、ヴィーン合唱協会指揮者ホイベルガーの依頼で、《詩篇第150篇》の作曲に着手、同年中に完成し初演、出版される。円熟した書法による晩年の傑作
同年10月、年金を得て宮廷オルガニストを退任。残るはヴィーン大学だけ
Ø マンハイムの美男指揮者
《第8番》の第2稿が90年3月に完成。初演の協力をレヴィに仰いだが、代わりに愛弟子だったマンハイムの青年楽長フェーリクス・ヴァインガルトナーを紹介されたが、突然ベルリン宮廷歌劇場と宮廷オーケストラの楽長に抜擢され降板、その償いにベルリンでブルックナー作品を演奏すると約束したが、実現したのは4年後で、ブルックナーの生前取り上げたのはその1曲のみ。ヴァインガルトナーはリストに作曲を学び、モーツァルトのオリジナル演奏の先駆者として知られ、後にヴィーンの宮廷オペラの監督になるが、マーラーが苦労して定着させたノーカットの習慣を元に戻して短縮版で上演、それを「芸術上の義務」とまで呼んだため、優れた歌手たちはヴィーンを去り、彼も3シーズンで解雇
Ø 野人のシンフォニー
最晩年の《第8番》と《第9番》は死に憑かれた交響曲
《第8番》の標題的内容については早くから自身で、冒頭楽章を「死の告知」、結尾部を「死の時計」と呼び、「臨終を迎えるときも時計は正確に時を刻む」と説明しているが、ブルックナーのプログラムは往々にして1つのレトリックに過ぎないことが多い
Ø 《交響曲第8番》
《第7番》と同工異曲。《第9番》が未完に終わったため、《第8番》が最大の交響曲となり、主峰として雄大なプロポーションを誇る
「ブルックナー開始」で始まるが、ピアニッシモの主題はこれまでになく重苦しい
第2楽章にスケルツォを配し、緩徐楽章と逆転させ、冒頭楽章の重量感とバランスをとっている。常になく全4楽章の有機的関連に心を砕いている
終楽章は、ブルックナーの書いた最長のもので、総決算といえる
92年、皇帝の援助を得て出版されたのはヨーゼフ・シャルクがかなり手を入れた改訂版。初演は同年末リヒター指揮のヴィーン・フィルにより実現、3つの桂冠が捧げられた
ハンスリックの批評は、「無味乾燥な対位法の知識と限度を知らない興奮の併存で、フィナーレは非人間的な絶え間のない轟音」と相変わらず辛辣だったが、ブラームスは明らかにその力量に感銘を受けていたし、《第7番》を酷評していたブラームスの伝記作家のカルベックも、《第8番》は過去の作品を凌駕していると脱帽
第10章
告別
Ø 晩年の日々
晩年体調を崩しても若い娘に求婚を続ける
医者からは、葉巻とビールを禁じられ、食事制限を課されたのが何より辛かった
Ø 遺言書
93年は病に明け病に暮れた1年。浮腫と胸水貯留を伴う重度の心臓病
10月《ヘルゴラント》初演で喝采を浴びる。ジルバーシュタインの詩による大管弦楽付きの世俗合唱曲という異例の作品で、最後の完成作
11月激しい呼吸困難が再発、遺言書を作成。第1項が遺骸についての指示で、聖フロリアンの大オルガンの下に防腐処理をして安置するよう望む
相続は2人の弟妹に等分されるよう指示、手稿の保管を王立宮廷図書館に遺贈(対象は8つの交響曲、3つの大ミサ曲、《弦楽五重奏》、《テ・デウム》、《詩篇第150篇》、合唱曲《ヘルゴラント》)
95年訪ねてきたカール・ムックに《第9番》手稿の保管を依頼。彼が最も信頼した指揮者で、厳格でテンポを揺らさず、スコアの権威を尊重する職人的ともいえる資質を持ち、生涯ブルックナー作品に愛着を抱き、33年のゲヴァントハウスにおける引退コンサートでも《第7番》を振っている
Ø 婚約
94年、ベルリンでの演奏に立ち会う
《第7番》はカール・ムックの指揮によりベルリン・オペラ座で演奏され、大喝采
《テ・デウム》は3年前と同様ジークフリート・オックス指揮で再演され、大成功に
3年前の初演で出会った宿泊先のホテルのメイドと再会し突然婚約したが、手切れ金を払って解消
Ø 最終講義
94年リンツ市の名誉市民に
同年11月ヴィーン大学での最終講義、《第9番》に触れ、完成できない時は《テ・デウム》を終楽章に代えると述べている。翌年から年金支給。文部大臣からも恩給承認
12月に臨終の秘蹟を受けるが、奇跡的に回復。クリスマスにはオルガンを弾いたが最後の和音でペダルを踏み外し、最後の演奏となった
Ø フィナーレとの闘い
交響曲の作曲に際し、ブルックナーが規範と仰いだのはベートーヴェンの《第九》
《第九》の冒頭から発想されたといわれる「ブルックナー開始」や、先行楽章の主題を回想する手法などにその影響が窺われる。《第九》の調性であるニ短調を「厳粛かつ神秘的な調」と呼び、自作の《第0番》《第3番》《第9番》に三度使う
《第9番》の被献呈者は神。主への讃歌で終わらせ、感謝してもしきれぬ想いを表したいと、87年夏ごろから着手するが、レヴィに《第8番》を拒絶されたことでその第2稿や旧作の改訂に没頭、94年末第3稿まで完成を見るが、その後構想が開始された終楽章は未完に終わる。残されたスケッチなどから補筆の試みがなされ、録音もされている
死から8年後の1903年、レーヴェによって出版されたが、見る影もない改竄版でその年初演。自筆譜による初演は1932年ジークムント・フォン・ハウゼッガー指揮ミュンヘン・フィルによって行われた
Ø 《交響曲第9番》
第1楽章は第1主題だけでも8つの動機からなり呈示部は226小節という長大なもの
第2楽章は前作同様スケルツォで、大胆な和声と叩きつけるようなリズムに彩られている
第3楽章アダージョの構造は、ロンド形式とも、ソナタ形式の3部構成とも解釈することができる。この楽章全体を覆う死の陰は見紛うべくもない
Ø ベルヴェデーレ
病後のブルックナーを支えていたのは、かつて音楽院で学んだアントン・マイスナー
不動産を所有する資産家となり、91年頃説教のオルガン演奏を依頼して以来、師弟は親交を深め、ブルックナー最晩年の私設秘書的な存在
95年、新しい住まいの嘆願が皇帝に届き、離宮ベルヴェデーレの管理人用住居を無償で無期限貸与され、カティとその娘が付き添い、終の棲家となる
生活習慣は簡素そのものだったという
Ø 帰還
96年初にはヴィーン・フィルの定期にも出かける
ハンス・リヒターにより、《ティル・オイレンシュピーゲル》のヴィーン初演と、自作の《第4番》を聴く。リヒターがブラームスの演奏に積極的であることをブルックナーは快く思わなかったが、リヒターが彼にとって最大の功労者の1人だったことは間違いない。リヒターはスコアに干渉することなく、ヴィーンでもろもろの困難を乗り越えて、ブルックナーの交響曲を成功へと導いた。1900年イギリスに迎えられるが、19世紀中にブルックナー交響曲を最多演奏した指揮者は彼である
10月の葬儀はヴィーン市を挙げての盛大なもの、その後霊柩車両で聖フロリアンへ
クララ・シューマンも5月には死去しており、ブラームスも葬儀の教会までは来たが中には入らず、この時すでに肝臓癌による黄疸が出て、半年後には死去
(文化の扉)はまる、ブルックナー 洗練とは無縁、でも真理に触れる響き
2021年3月29日 5時00分 朝日
19世紀後半に活躍した作曲家のアントン・ブルックナー。「いきなり月から降ってきた石」に例えられるほど、音楽史の伝統から外れたユニークな交響曲を残し、現代でも熱狂的なファンが多い。他の作曲家では味わえない魅力とは何か。
長大な演奏時間、反復の多さ、ごつごつとした構成――。音楽評論家の許光俊(きょみつとし)さん(56)は「ブルックナーの音楽は、『最短距離で効率よく目的に到達する』という現代的な思想や態度の対極にある」と話す。彼が残した10曲の交響曲は、お世辞にも親しみやすいとは言えないが、一度その魅力に気づくと、驚くべき広がりと深みのある作品世界のとりこになってしまう。私自身もその1人だ。
指揮者で音楽学者の金子建志(けんじ)さん(73)によれば、当時の著名な作曲家たちは文学に通じ、文章を分かりやすくする論理や方法論を作曲にも採り入れた。しかし、ブルックナーは聖書以外、ほとんど本を読まなかった。作品もベートーベンの交響曲のような起承転結はなく、音楽はファンファーレや総休止で分断される。「難解な哲学書を舞台でそのまま朗読しているようなもの」と金子さんは話す。ストーリー性が欠落した音楽、と言ってもいい。
では、物語に代わる魅力とは何か。音楽評論家の故・宇野功芳(こうほう)さんはブルックナーの音楽を「逍遥」にたとえた。大自然の中をさまよい歩き、その美しさと偉大さを実感するとともに、やがて滅びる自らの孤独と寂寥を思う。それらすべてを包み込む「大宇宙の秩序と神の摂理」こそが作品の本質だという。
17歳で最初に就いた仕事は、田舎の小学校の補助教員だった。オーストリアのリンツ大聖堂のオルガニストを経て、43歳でウィーン国立音楽院教授となったが、人付き合いの下手さ、場の空気の読めなさは終生変わらなかった。自分の曲を初演してくれる高名な指揮者に「一杯やって」と、チップを渡すように銀貨を握らせたこともある。
小説『不機嫌な姫とブルックナー団』を著した高原英理(えいり)さん(61)は「人間的な優雅さや洗練とは無縁だったが、彼ほどの朴念仁でないと、空の彼方を思わせる崇高な音楽はつくれなかったのでは」と話す。
*
一方、教師として優れ、優秀な弟子たちに囲まれた。ブルックナーは弟子の助言で作品を改訂し、弟子たちも自ら手を加えた。その結果、同じ曲でもさまざまな版が存在し、演奏者や聴衆を混乱させた時期もあった。金子さんは「ブルックナーの音楽は、たとえ弟子が厚化粧を施しても訴えかけるものがある。違いを楽しんでは」と話す。
初心者はどこから聴けばよいか。交響曲第4番や第7番は美しい旋律が多く、第8番は宇野さんが「あらゆる音楽作品の中でもベスト」と絶賛した。近年は実演に接する機会も多い。
許さんは「非常に多くの演奏がCDで発売されており、音楽配信やユーチューブでも聴けるが、やはりある程度の音質で楽しんで欲しい。オーケストラは低音に重量感のあるドイツやオーストリアの楽団が薦められる。指揮者は一概に誰が良いとは言えないが、作品の独自性が伝わりやすいのは、故セルジュ・チェリビダッケの演奏では」と話す。(太田啓之)
■心に「降りてくる」 指揮者・坂入健司郎さん
ブルックナーを好きになったのは、小学5年のころです、受験勉強の時に流し聞きしていたら、いつの間にか曲の魅力にはまり、勉強どころじゃなくなりました。
日本ではブルックナー鑑賞について「苦行のようによじ登って高みに行く」という感覚がありますが、僕はそれを変えたい。ブルックナーの音楽は決して難しいものではなく、彼の音楽の持つ多彩で神聖な響きが、聴き手の心に自然と「降りてくる」ものだと思います。心身の状態を万全にして臨めば、聴く側も演奏する側と共に信じられないくらいの一体感を味わえます。
テレワークのBGMとして最適ですし、実演では深い響きを存分に楽しめる。すばらしい美術館で丁寧に絵画を鑑賞していたら、あっという間に時間が経ってしまった、というような感覚になるでしょう。
Wikipedia
ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家、オルガニスト。交響曲と宗教音楽の大家として知られる。
l 生涯[編集]
1824年9月4日、学校長兼オルガン奏者を父としてオーストリアのリンツにほど近い村アンスフェルデン(ドイツ語版、英語版)で生まれた。この年はベートーヴェンが交響曲第9番を、シューベルトが弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』を書いた年である。しかし同じオーストリア帝国とはいえ、アンスフェルデンのブルックナー少年の生活は首都ウィーンの華やかな音楽史とは無関係なものであった。幼少期から音楽的才能を示したブルックナーは、10歳になる頃には父に代わって教会でオルガンを弾くほどになった。11歳になる1835年の春に、ブルックナーの名付け親で同じくリンツ近郊の村であるヘルシングのオルガニストだったヨハン・バプティスト・ヴァイス(Johann Baptist Weiß)のもとに預けられ、ここで本格的な音楽教育を受け、通奏低音法に基づくオルガン奏法や音楽理論を学ぶ。またこの時期にハイドンの『天地創造』『四季』、モーツァルトのミサ曲などを聴く機会を持つ。12歳で父を亡くしたブルックナーは、その日に母に連れられて自宅から8キロほど離れたザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊に入った。オーストリアの豊かな自然と、荘厳華麗なバロック様式の教会でのオルガンや合唱の響きは、音楽家としてのブルックナーの心の故郷になり、トネルルの愛称で親しまれた。
1840年、16歳のブルックナーはリンツで教員養成所に通った。小学校の補助教員免許を取得すると、翌1841年10月、ヴィントハークというボヘミアとの国境近くの小さな村の補助教員となる。ここでは授業のほかに、教会でのオルガニストや、畑仕事を手伝うかたわら、農民たちの踊りにヴァイオリンで伴奏するなどしていた。またこの時期バッハの『フーガの技法』を研究した。ブルックナーの交響曲のスケルツォに色濃く現れる農民の踊りの気分は、このころの体験によるものといわれる。しかし洗練された修道院育ちのブルックナーにとっては、田舎のあまりに退屈な生活と、教職とは名ばかりの雑用や畑仕事に嫌気が差し、肥やし撒きという屈辱的な仕事を拒否した事件がきっかけで、上司アルネトの判断でクローンシュトゥルフという新たな任地へ転勤することとなった。故郷アンスフェルデンやザンクトフローリアン、州都リンツからもそう遠くなく、また徒歩で通える近くの街エンスで作曲家でオルガニストのレオポルト・フォン・ツェネッティ (1805–1892)に習うことができた。ここではまた最初の合唱曲の多くが作曲された。そして校長登用試験に合格したブルックナーは、1946年(21歳)少年時代を過ごしたザンクトフローリアン修道院の教師となって帰ってきた。1851年、27歳で修道院のオルガニストの地位を踏襲した。
1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストが空席となり、登用試験が行われた。ブルックナーは試験の観客としてそれを聴きに行ったが、フーガ即興課題で他の受験者たちの冴えない演奏に痺れを切らした審査員の一人デュルンベルガーは、客席にいたかつての弟子ブルックナーを見つけて演奏するように焚きつけた。ブルックナーは素晴らしい演奏を披露して、受験者と審査員たちを圧倒させた。こうして思いがけずリンツ大聖堂オルガニストという大職の座を勝ち取り、オルガニストとして成功していったブルックナーは、ミサに必要である即興演奏の技術に長け、オーストリア国内やドイツ文化圏でその名声を築き、十分な収入を得ていった。一般に大聖堂のような要職のオルガニストたるものは、既存曲の演奏だけでなく即興演奏、しかもその場で与えられるテーマ(試験ではその場で旋律が与えられるが、日常ではミサの中で司祭や会衆の歌う聖歌の旋律の断片)をもとにフーガをその場で即興的に「作曲」しなければならない。ブルックナーは当時すでに優れたオルガニストであった、ということは優れたフーガ作曲家でもあったということである。例えば後年の『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)の第4楽章では長大なフーガが展開し、ブルックナーがフーガの達人であることを窺い知れる。
しかしその傍ら、改めて作曲を学びたいと思い立ち、同1855年(31歳)から1861年(37歳)までの6年間、待降節と四旬節でオルガニストの出番がない時期を利用してウィーンに出かけ、かつてシューベルトが最晩年に師事したジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を習った。この期間ゼヒターは、ブルックナーに一切の自由作曲を禁じていたという。ゼヒターからブルックナーへの手紙には、「これまで私の教えた中であなたほど熱心な生徒を持ったことはない」と評されている。ゼヒターから修了の免状を受けた後、同年1861年から1863年(39歳)まで自分より10歳も若いオットー・キッツラーに楽式(三部形式やソナタ形式などに沿った作曲の練習)や管弦楽法を学んだ。オルガニストから作曲家に転換したブルックナーの作曲の修行過程は、極めて晩学で特異なものであった。
それまでブルックナーはバッハを規範とするフーガや教会音楽の形式には長じていたが、ソナタ形式をはじめ、ワルツ、マズルカ、マーチそしてスケルツォといった、世俗的だが田舎の農民の祭りでの伴奏とは明らかに異なる同時代の都会の演奏会用音楽、そしてそこで規範となるベートーヴェンの音楽様式を、キッツラーのもとで初めて学んでいった。さらに1863年ごろからキッツラーの影響でリヒャルト・ワーグナーに傾倒し、研究するようになる。ベートーヴェンの交響曲はリンツの友人モーリッツ・エドラー・フォン・マイフェルトとその妻ベッティーによるピアノ連弾によって彼らの家のサロンコンサートでたびたび演奏され、ブルックナーは頻繁にそれらを聴く機会に恵まれた。さらに1867年3月22日、ウィーンでヨハン・ヘルベックの指揮で聴いたベートーヴェンの『交響曲第9番』にも強い影響を受けた。この時期のブルックナーの習作は、「キッツラーの練習帳」にまとめられており、その最後は『交響曲ヘ短調(第00番)』(1863年)のスケッチで終わっている。このヘ短調交響曲は習作として世に出すことはなく、死後発表された。またこの頃、『ミサ曲第1番ニ短調』(1864年)、『ミサ曲第2番ホ短調』(1866年)、『ミサ曲第3番ヘ短調』(1867-1868年)が作曲された。ベートーヴェンの交響曲の研究は、学習時代のみならず後年になるまで続けられ、1876年にはすでに第5番まで(番号なしの2曲を含めて7曲の)自身の交響曲を書いていたにもかかわらず、ベートーヴェンの交響曲第3番、第9番、第4番を分析していることが日記手帳に記されている。
1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン国立音楽院の教授に就任し、リンツ大聖堂の職を2年兼任したのちに辞してウィーンに移住した。オルガニストとしての仕事は、ウィーン・ホーフブルク宮殿礼拝堂の宮廷オルガニストおよびウィーン北部郊外のクロスターノイブルク修道院で継続した。またフランスのナンシーおよびパリ・ノートルダム大聖堂にもオルガンの演奏旅行をし、そのフーガ即興演奏はサン=サーンス、フランク、グノーらに絶賛された。さらにはロンドンでオルガンの演奏コンクールに参加し、第1位を得た。この時、ケンブリッジ大学の博士号がもらえるという話を持ちかけられ、金銭詐欺にあった。またイギリスを発つ帰りの船に乗り遅れたが、その船は沈没してしまい、ブルックナーは間一髪で災難を逃れることとなった。
このようにオルガニストとしての確固たる地位を得たブルックナーは、それ以降大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。初期の作品には『交響曲第1番ハ短調』(1866年)『交響曲ニ短調(第0番)』(1869年)『交響曲第2番ハ短調』(1872年)がある。
ブルックナーはベートーヴェンの『交響曲第5番ハ短調(運命)』と『交響曲第9番ニ短調(合唱付)』に深く傾倒していたため、自身の交響曲第1番でハ短調を選んだ後はニ短調の交響曲を書くつもりでいたが、交響曲ニ短調は自身の出来栄えに自信が持てず、発表することがなかった。表紙に「無効」「0」と書き込んだため、通称「第0番」と呼ばれている。これも死後発表された。
結局ニ短調交響曲を世に出さなかったことと、交響曲第1番も当分は初演の見込みが立たなかったので、当初は変ロ長調の新たな交響曲(と題されてはいるが、わずか数ページのピアノスケッチ)を書き始めたがすぐに放棄され、交響曲第2番は再びハ短調を選択した。ウィーンの聴衆へのデビューとなる交響曲は何としてもハ短調でなければならないという強いこだわりがあったためである。この曲に限らずブルックナーの交響曲は全般的にそうであるが、ウィーンの聴衆の前に初めて姿を現したブルックナーの交響曲であるこれは、ゲネラルパウゼ(総休止)があまりに多用されるため「総休止交響曲」と揶揄された。最初ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に献呈を申し出るも断られ、後に下記のワーグナーへの第3番の献呈よりも後にリストに献呈を申し出たものの、リストはウィーンのホテルにその楽譜を置き忘れた上、後から言い訳のような固辞の手紙をブルックナーに送ってきた。ブルックナーは落胆し、交響曲第2番は最終的に誰にも献呈していない。
ブルックナーは1873年8月31日にリヒャルト・ワーグナーとバイロイトで会見する機会を得た(実際には初めてではなく、それ以前に『タンホイザー』のミュンヘン公演で一度会見している)。多忙なワーグナーは最初ブルックナーの話もそこそこに追い返したが、ブルックナーが置いていった交響曲(完成した第2番と、新作の第3番の草稿)の楽譜を一瞥したワーグナーはすぐにその真価を悟り、慌てて街中に出て探した末にバイロイト祝祭劇場工事現場に佇んでいたブルックナーを見つけて呼び戻し、自宅で夕食に招いてもてなした。この際に『交響曲第3番ニ短調』を献呈し、ワーグナーの好意を得る。しかしこの行動は反ワーグナー派の批評家エドゥアルト・ハンスリックから敵対視され、批判を浴びせられ続けることになった。この時期『交響曲第4番変ホ長調』(1874年)、『交響曲第5番変ロ長調』(1876年)を作曲する。
1875年からウィーン大学で音楽理論の講義を始めたが、最初のうちは無給の名ばかり職だった。1876年に第1回バイロイト音楽祭に出席し、ニーベルングの指環の初演を聴く。このときに今までの自らの作品を大幅に改訂することを決意し、いわゆる「第1次改訂の波」が起こり、交響曲第1番から第5番が大幅に改訂された。1877年の交響曲第3番の初演はその長い演奏時間に大半の聴衆が途中で退出してしまい不評に終わったが、一方で最後まで聴いていたわずかな聴衆の中には青年時代のマーラーもいた。またマーラーはウィーン大学のブルックナーの講義にも訪れている。次作の『交響曲第4番変ホ長調』(1874年初稿完成、1875年リンツ初演、1878年改訂・ウィーン初演)は好評をもって迎えられ、交響曲作曲家としてのブルックナーの名声を確立する作品となった。
1880年頃になるとウィーンでのブルックナーの地位も安定してくる。無給だったウィーン大学の講義に十分な俸給が支払われるようになったのをはじめ(この有給化を大学当局に働きかけたのは、意外にも敵対していた批評家エドゥアルト・ハンスリックであった)、多くの教授職、さまざまな協会の名誉会員の仕事により年間2000グルデン(当時の平均的な4人家族の収入が700グルデン)の収入を得るようになる。この頃の代表作には『弦楽五重奏曲ヘ長調』(1879年)『交響曲第6番イ長調』(1881年)『テ・デウム』(1881年)『交響曲第7番ホ長調』(1883年)がある。なかでも『テ・デウム』と『交響曲第7番』は成功し、一気にブルックナーの名を知らしめることになった。
1884年からは『交響曲第8番ハ短調』の作曲に集中する。1887年に一旦完成し、芸術上の父と尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴィに見せるが、彼からは否定的な返事が来た。弟子たちもこの作品を理解できず、落胆したブルックナーは再び自らの作品を改訂する。いわゆる「第2次改訂の波」である。これにより交響曲第1、2、3、4、8番が改訂された。結局、1892年の第8番の初演は成功した。1891年にはウィーン大学から名誉博士号が授与され、その式典で学長は「ウィーン大学学長である私は、今日かつてのヴィントハークの小学校教論の前に頭を垂れる」と演説した。ブルックナーは返礼として、交響曲第1番をウィーン大学に献呈した。
晩年のブルックナーは多くの尊敬を得ていたが、死の病に冒されていた。長年の宮廷オルガニストであったブルックナーが、ヘス通り2番地の4階建て(日本式に言うと5階)最上階の家の階段の昇降が困難になっていることを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(交響曲第8番の献呈も受けている)が聞きつけ、ベルヴェデーレ宮殿の敷地内の上部宮殿脇にある平屋建て(入り口は平屋に見えるが、実際はそれより低い位置から建つ3階建ての建物の最上階である)の宮殿職員用の住居を皇帝より賜与され、死の日までそこに住んだ。この時期には『交響曲第9番ニ短調』(第3楽章まで、第4楽章は未完成)や『ヘルゴラント』(1893年)、『詩篇第150番』(1892年)が作曲されている。
ブルックナーは1896年10月11日の朝まで交響曲第9番第4楽章の作曲の筆を握っていたが、その日の午後に72歳で死去した。その日が日曜日であり宮殿内の職員住居で多くの人が集まりやすかったこと、ブルックナーが独身で身寄りがなく回収業者が出入りしたことから、草稿の多くはこの時に散逸した。一部はアメリカに渡り、のちにワシントンD.C.や、コロンビア大学図書館の収蔵物から発見されたりした。
3日後の10月14日にカールス教会で行われたブルックナーの葬儀では、交響曲第7番第2楽章が弟子のフェルディナント・レーヴェによりホルン四重奏に編曲されて演奏された。
遺言に基づき、ザンクト・フローリアン修道院の聖堂にあるオルガンの真下のクリプト(地下墓所)にブルックナーの棺が安置されている。
l 人物[編集]
生涯を通じて非常に敬虔なローマ・カトリック教徒であった。ブルックナーの日記手帳には、毎日アヴェ・マリアなどの祈りを何回唱えたと記述されている。
恋愛には純朴であり、若くて綺麗な娘を見かけるたびに夢中になった。晩年に至るまで多くの女性に求婚したが、そのすべてが破局に終わったため生涯独身を余儀なくされた。一方で、長年住み込みの女中カーティ・カッヘルマイアーと寝食を共にした。彼女はブルックナーが晩年に宮殿内に引越した後もその死の日まで彼に仕え、遺産の一部を受け取ってもいる。
ユダヤ系で若くして富豪であったフリードリヒ・エックシュタイン(1861-1939)は、ブルックナーの弟子兼秘書として仕え、和声や対位法などの作曲理論を学ぶ傍ら、『テ・デウム』の出版や交響曲の筆写譜の作成の費用を負担した。その見返りは金銭でなく追加のレッスンや自筆譜の贈呈という形で受け、年少ながら実質的なパトロンとしてブルックナーを支援した。ブルックナーはエックシュタインに、ユダヤ系に多い旧約聖書由来の名前であるザミエルというあだ名をつけて寵愛した。
ブルックナーは大酒飲みとしても知られ、毎晩ビールを10杯は軽く平らげていたという。鶏のシュニッツェル(チキンカツ)が好物で、武川寛海の著書『音楽史とっておきの話』では、ビールを飲みながら肉を手で摘み「隣の人の服は安全ではなかった」と(なんらかの元記事の引用風に)記述されている。一方でこの酒好きが晩年の病気の遠因にもなったとも見られる。
l ブラームスとの関係[編集]
ブラームスとは当初敵対していた。当時のウィーン楽壇はブラームス派とワーグナー派に分かれており、ワーグナーに交響曲第3番を献呈したブルックナーはワーグナー派と見做されていた。若い作曲学生にとってブルックナーのウィーン大学の講義に出席することは、ワーグナー派であり反ブラームス派であることの主張でもあった。ブラームスはブルックナーについて、「彼は知らず知らずのうちに人を瞞すという病気にかかっている。それは、交響曲という病だ。あのピュートーン(ギリシア神話に登場する巨大な蛇の怪物)のような交響曲は、すっかりぶちまけるのに何年もかかるような法螺から生まれたのだ」と非難していた。一方でブルックナーはブラームスのことを「彼は、自分の仕事を非常によく心得ているが、思想の思想たるをもっていない。彼は冷血なプロテスタント気質の人間である」と評していたという。あるいはもっと単純に、ハンスリックによればブラームスはブルックナーを「交響的大蛇 symphonische Riesenschlangen」と呼び、ヴォルフによればブルックナーはブラームスを「モグラ塚 Maulwurfshügel」と呼んでいた。ブルックナーはまた次のようにも言っている。「ブラームスのすべての交響曲よりも、ヨハン・シュトラウスの1曲のワルツの方が好きだ」「彼はブラームスである。全く尊敬する。私はブルックナーであり、自分のものが好きだ」。ブルックナーがブラームスの動向を気にしていたのは事実で、例えば1893年4月22日のフランツ・クサーヴァ・バイヤーに宛てた手紙では、4月6日にシュタイヤー・ツァイトゥング紙でVとだけ署名された批評文でブラームスのドイツ・レクイエムが「キリエ、クレドでの天才的なオルゲルプンクトと、特にグローリアでのヴィオラとコントラバスの天才的な対位法による職人芸……」(ドイツ・レクイエムはカトリックの典礼文ではないので、ここでのキリエなどの表題は便宜的なもの)と評されていることについて、「あのブラームスのレクイエムのオルゲルプンクトの批評を書いたのは誰だ?私はオルゲルプンクト使いではないので、何も評価しない。対位法は天才ではないし、目的を達成する手段に過ぎない」と批判している。
一方でウィーンの音楽界が何でもかんでもブラームス派とワーグナー/ブルックナー派の真っ二つに分かれていたわけではなく、ブラームスの親友として知られるヨハン・シュトラウス(ブラームスとヨハン・シュトラウスはウィーン中央墓地に並んで埋葬されている)はブルックナーを称賛しており、「私は昨日ブルックナーの交響曲を聴いた(具体的な番号は触れていない)。偉大で、ベートーヴェンのようだ!」と評している。
1889年10月25日、共通の友人たちの仲介で、ウィーン楽友協会(1870年に現在地に移動)が元あった場所の脇の食堂「赤いハリネズミ(レストラン・ローター・イーゲル Restaurant Rother Igel または宿の名としてツム・ローテン・イーゲル Zum Roten Igel)」でブルックナーとブラームスが会食することとなった。ブラームスの行きつけの食堂として知られるが、音楽家や批評家の集まる店として知られ、ブルックナーやマーラーも頻繁に訪れていた。ブルックナーの手帳には「10月25日、ブラームスと赤いハリネズミで外食」と書き込んである。当日、ブルックナーが先に来て、後から来たブラームスは黙って長いテーブルの反対側に座るなりメニューを見たまま黙り込み、気まずい雰囲気となった。メニューを決めたブラームスが「団子添え燻製豚、これが私の好物だ Gselchts und Knödel! Das ist ja mein
Leibgericht.」と言うと、すかさずブルックナーが「ほらね先生、団子添え燻製豚、これがわしらの合意点ですて Sehen’s, Herr Doktor, Knödel und
Gselchts! Das ist der Punkt, wo wir zwei uns verstehen. 」と応じ、一同は爆笑して一気に座が和んだ。しかしその後も二人の仲が好転することはなかった。
ブラームスはブルックナーの生前最後に初演された大作である交響曲第8番に対しては称賛している。ブラームスが知人に「ブルックナーの交響曲第8番の楽譜を早く送ってほしい」と依頼したこともある。この頃になるとブラームスは自分の引き受けられない仕事をブルックナーに振るように根回しし、そうしてブルックナーが作曲したのが『詩篇第150番』(1892年)である。
ブルックナーの葬儀の際、ブラームスは自宅の目の前であったカールス教会の入り口に佇み、葬儀の様子を遠巻きに見ていた(プロテスタント教徒であったブラームスはカトリック教会に入るのを遠慮していたが、他のカトリック教徒の知人の葬儀に出席しなかったわけではない)。会衆の一人が中に入るように促すと、「次は私の棺を担ぐがいい」と言い捨てて雑踏に消えた(カールス教会の目の前は公園広場になっている)。しかしまた戻ってきて、当時8歳だったベルンハルト・パウムガルトナーによると「好奇心の強い会衆から隠れるようにして」柱の陰で泣いていたのが目撃されている。ブラームスもそれから半年後の翌1897年4月3日に死去した。
l 協会、博物館、記念碑など[編集]
国際ブルックナー協会がウィーン国立音楽大学内に設置されており、ブルックナーの作品出版の校訂に携わっている。
ゆかりの深いザンクト・フローリアン修道院はブルックナーの墓所でもあり、聖堂の大オルガンの真下の地下墓所(クリプト)にその棺が安置されている。ブルックナーの愛用したピアノなどを展示した部屋もある。中庭にはブルックナーの像がある。「ザンクトフローリアンのブルックナーの日々 St. Florianer Brucknertage」と題する音楽祭を開催し、地元のリンツ・ブルックナー管弦楽団などにより、ブルックナーの交響曲やミサ曲などの作品が演奏されている。また、ブルックナーの作品を演奏するに際してこの聖堂を会場とすることがあり、録音も多数存在する。ヴァレリー・ゲルギエフとミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が制作した交響曲全集では、全曲が聖堂で演奏されている。
生誕地アンスフェルデンにあるブルックナーの生家は、博物館および「ブルックナーセンター」になっている。建物に面した広場にはブルックナーの像がある。アンスフェルデンからザンクトフローリアンまでの7.8km、徒歩1時間半ほどの田園風景の道には「ブルックナーの交響的散歩道 Anton Bruckner Symphoniewanderweg」と題する案内板が整備されている。
ウィーンのベルヴェデーレ宮殿の上部宮殿の脇にある平屋は、ブルックナーが『交響曲第9番』を作曲し、死去した家であり、現在は壁に記念碑が掲示されている。(内部は公開されていない)
ブルックナーがオルガニストを務めたウィーン郊外のクロスターノイブルク修道院の聖堂のオルガンの柱に、ブルックナーの記念碑がある。
ウィーン市立公園(ドイツ語版)に、ブルックナーの銅像がある。
l その他[編集]
1950年に発行された1000オーストリア・シリング紙幣と1962年に発行された25オーストリア・シリング硬貨に肖像が使用されていた。
l 作品[編集]
詳細は「ブルックナーの楽曲一覧」を参照
ブルックナーの作品はWAB
(Werkverzeichnis Anton Bruckner) 番号によって参照されることがある。また、作品カタログがレナート・グラスベルガーによって編集されている。
主要作品[編集]
交響曲と合唱曲が特に力を注いだ分野であり、その他の分野でも『弦楽五重奏曲』が傑作として知られる。さらにそれ以外のジャンルの曲もいくつかある。
交響曲[編集]
交響曲ヘ短調(通称第00番)『習作』
交響曲ニ短調(通称第0番)『無効 annuliert』
交響曲第3番ニ短調(『ワーグナー』)
交響曲ヘ短調は一番最初に書かれたものだが、ブルックナーは通し番号を与えなかった。第0番より前に書かれたものであるため、それを示すために第00番という通称で呼ばれることもある。交響曲第0番は後年に破棄するにしのびないと感じた彼が故意に「第0番」としたもので、実際は第1番の作曲後に手がけられている。交響曲第9番は未完成作品であり、通常は第3楽章までが演奏される。
以上の他に、1869年に着手したものの完成されなかった交響曲変ロ長調の存在が確認されている。スケッチの断片(演奏時間約2分)のみ残されており、こちらのサイト[1]で楽譜と音源が紹介されている。IMSLPで自筆譜が閲覧できる。
ハ短調とニ短調が対になっていることが多いのが特徴である(第1番と第0番『無効』、第2番と第3番、第8番と第9番)。これは経歴の項で上述の通り、ベートーヴェンの2つの短調の交響曲、交響曲第5番ハ短調(運命)と交響曲第9番ニ短調(合唱付)に影響を受けたものである。
交響曲はブルックナー本人による改訂が繰り返されており、新作を書いた後で以前の作品に手を入れることが度々あった。極端な例では第8番の後に第1番を改訂している。
「#版問題について」も参照
合唱曲[編集]
ブルックナーは敬虔なカトリック信徒であり、多くの宗教曲を残している。この中には『ミサ曲第1番(英語版)』『ミサ曲第2番』『ミサ曲第3番(英語版)』、『ミサ・ソレムニス』、『レクイエム』、『テ・デウム』などの管弦楽を伴う大規模なものも含まれ、とりわけ『テ・デウム』は古今の宗教音楽作品の中でも、傑作の1つとされている。また、いくつかの詩篇にも作曲を施している。
モテットには『アヴェ・マリア』『これこそ大祭司なり』『この場所は神が作り給いぬ』『エサイの枝は芽を出し』『王の御旗は翻る』などが残されており、ドイツのプロやアマチュア合唱団などでは頻繁に歌われ、ポザウネンコアへの編曲まで教会でも盛んに演奏されている。
またブルックナーは若い頃から、男声カルテットを組織するほどの男声合唱好きであり、晩年までに40曲ほどの男声重唱および合唱曲を残した。男声合唱と金管楽器のための『ゲルマン人の行進』は最初の出版作品であり、また最後の完成作品となった『ヘルゴラント』も男声合唱とオーケストラのための作品である。なおヘルゴラントはブルックナーには珍しく、宗教と関連しない世俗のための作品である。
室内楽[編集]
室内楽の分野では、『弦楽五重奏曲ヘ長調』が傑作として知られる。1906年には、習作としての『弦楽四重奏曲ハ短調』が発見された。小品として弦楽五重奏のための『間奏曲』、弦楽四重奏のための『ロンド』もある。
このほか、トロンボーン・アンサンブルのために『エクアール』と題する短い作品が残されており、この楽器のレパートリーとして重宝されている。
管弦楽曲・吹奏楽曲[編集]
交響曲以外の管弦楽曲として、『序曲ト短調』『3つの管弦楽小品』『行進曲ニ短調』があり、吹奏楽曲として、『行進曲変ホ長調』がある。このほか、『アポロ行進曲』がブルックナーの作品として扱われたこともあった(現在では、他人の作品が取り違えられたものと断定されている)。
その他[編集]
以上のほか、オルガン独奏曲、ピアノ独奏曲、若干の歌曲が残されている。歌劇などの舞台用作品、協奏曲を一切書かなかったことがこの作曲家の質の一つを反映している。
『キッツラーの練習帳』は、1866年から1869年までオットー・キッツラーに師事していた際の作曲課題が一つの冊子に綴じられたものである。長らく個人蔵で閲覧が限られていたが、2013年にようやくオーストリア国立図書館の所蔵となり、2015年にファクシミリがブルックナー協会から出版された。またデジタル画像がウィーン国立図書館のウェブサイト及びIMSLPで公開されている。
そのほか、『短い通奏低音規則集』(Kürze Generalbass Regeln)と題された、和声の初歩的な課題である通奏低音の規則を解説した自筆のノートがあり、ファクシミリがIMSLPで公開されている。
l 音楽の特徴・傾向[編集]
管弦楽編成[編集]
交響曲におけるオーケストラの編成は、ヘ短調から第7番までは一般的な2管編成を基本として書かれている。ただし第3番以降はトランペットが3本になり、第5番以降(第4番第2稿含む)にはチューバが加わり、第7番にはさらに4本のワーグナー・チューバが加わる。第8番は交響曲の中で唯一ハープを用い、第1稿では第3楽章まで2管編成、第4楽章のみ3管編成、ホルン4、ワーグナー・チューバ4だったが、第2稿への改訂の際に全楽章が3管編成、ホルン8(このうち4本はワーグナー・チューバ持ち替え)となった。未完の9番においても、(ハープは用いていないが)3管編成を踏襲している。
書法[編集]
特に交響曲において、最も重要なのは形式である。ブルックナーはソナタ形式における第2主題(副主題)のことを、19世紀前半以前に使われていた用語で「歌謡主題」と呼んだ。第1主題(主要主題)がきびきびとした動きであるのに対し、第2主題は明確なメロディを持った穏やかな性格であることがほとんどである。そして全ての交響曲に、第3主題ともいうべき「2つ目の副主題」も設定されている。時には、例えば交響曲第7番の第4楽章では、これらが再現部では逆の順序(3, 2, 1)で現れるなど(つまり後の時代のベーラ・バルトークが提唱したアーチ形式にも通じる)、標準的とは異なりながらも綿密に計算された構造を持っている。また小節数も綿密に計算され、例えば交響曲第5番の第4楽章などでは、自筆譜の下の余白には小節数を筆算した数字のメモも残っており、基本数30を核としてその非整数倍の伸縮を伴いながら各節が進んでいく。
スケルツォは交響曲第4番(第2稿以降)の「狩のスケルツォ」(変ロ長調で2拍子)を除いて、すべて短調で3拍子である。またすべてセオリー通りにトリオを挟んで楽章冒頭にダ・カーポして終わる(コーダがつく場合もある)。交響曲第2番の初稿および第8番、第9番では第2楽章がスケルツォとなっている。
その他の細かい点では、以下のような書法が特徴として指摘されている。
ブルックナー開始
第1楽章が弦楽器のトレモロで始まる手法であり、交響曲第2、4、7、8、9番に見られる。ベートーヴェンの『交響曲第9番』に影響を受けている。
ブルックナー休止
楽想が変化するときに、管弦楽全体を休止(ゲネラル・パウゼ)させる手法。
ブルックナー・ユニゾン
オーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる。
ブルックナー・リズム
(2+3) によるリズム[サンプルmidiファイル]。第4、6番で特徴的である。(3+2) [サンプルmidiファイル]になることもある。初期の稿では5連符として書かれていたものが、改訂稿ではブルックナー・リズムに替えられている例も見られ、金子建志はこれを演奏を容易にするための改変だったのではないかとしている。
ブルックナー・ゼクエンツ
ひとつの音型を繰り返しながら、音楽を盛り上げていく手法。いたるところに見られる。
コーダと終止
コーダの前は管弦楽が休止、主要部から独立し、新たに主要動機などを徹底的に展開して頂点まで盛り上げる。
和声
ブルックナーの和声法で、響きが濁るので従来多くの作曲家が避けた技法。例えば根音Gとした場合、根音Gに対して、属9の和音以上に現れる9の音のA♭が半音違いで鳴ること、属11の和音においてBとCが半音違いで鳴ることや、13の和音においてDとE♭が半音違いで鳴ること。もう一つは対位法の場面で現れ、対旋律や模倣が半音違いで鳴ること。従って和声学上の対斜とは意味が異なるが、バルトークのブルーノート風の半音のぶつかりも「対斜」とされているので、ここでは「ブルックナー対斜」と読んでも差し支えない。
またワーグナーのトリスタン和音がそのまま使われていることがある。和音の音色を明確にするため同一楽器に当てている例が多い。和音の機能をはっきりさせるために同楽器の密集配置がほとんどで、これが後期ロマン派の香りを引き立たせる大きな要因である。
l 音楽史の中の位置づけ[編集]
一般的には後期ロマン派に位置づけられる。作曲技法的にはベートーヴェン、シューベルトの影響を、管弦楽法、和声法ではワーグナーの影響を受けていると言われる。そしてグスタフ・マーラー、フランツ・シュミットなどに影響を与えたほか、ハンス・ロットの才能をいち早く見出した。
一方、後期ロマン派の中での特異性も指摘されている。一つは、オペラや文学との接点の少なさであり、これは作品にオペラが残されていないことや、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』に対する無理解にもとづく感想(「何故ブリュンヒルデが焼き殺されたのか?」と述べたと伝えられている。実際の内容は、身を守るために周囲を炎で覆わせるのであり、焼き殺される訳ではない)からも推察されるものである。もう一つは、作曲書法の随所でオルガン奏者の発想を感じさせることである。
ブルックナーの音楽はオーストリア的であり、大ドイツ主義の範疇でのドイツ的なローカル性を持っている。ブルックナー指揮者のカール・ベームも、著書でブルックナーの交響曲に必要な「オルガン的発想」と「オーストリア情緒」を指摘している。そのため、20世紀前半まではドイツ語圏でしか評価されなかった。
同時代の作曲家の中では、ドイツ語圏以外の諸国でも早くから受け入れられたヨハネス・ブラームスと対立する存在としばしば捉えられる。
交響曲の歴史の中では、長大な演奏時間を要する作品を作り続けた点でマーラーとしばしば比較される。
l 版問題について[編集]
詳細は「ブルックナーの版問題」を参照
ブルックナーの作品、特に交響曲においては、同じ作品に複数の異なる版・稿が存在する。これを「版問題」と総称することがある。
背景[編集]
一つめの背景は、ブルックナー自身による改訂である。ブルックナーは作品を完成させてからも、さまざまな理由で手を加えることが多かった。ここには、小規模な加筆もあれば、大規模な変更もある。
二つ目の背景は、弟子の関与である。ブルックナーの作品は出版されるに際し、弟子たちの手が加わることも多かった。その規模は楽曲によって異なり、細かな校訂レベルのものから、大きなものまである。のちに校訂・出版される「原典版」において、弟子たちの関与部分が明らかにされ、除かれてきた。
三つ目の背景は、ウィーン音楽大学内に設置された国際ブルックナー協会による原典版校訂作業を、当初ハースが行っていたが、戦後ノヴァークに変わったことである。ノヴァークはハースの校訂態度を一部批判し、校訂をすべてやり直した。このため、「ハース版」「ノヴァーク版」2種類の原典版が存在することになった。
初版群[編集]
はじめて出版された譜面を「初版」と総称している。総じて弟子(シャルク兄弟やフェルディナント・レーヴェなど)の校訂または改訂が加わっており、「改訂版」とも称される。特にブルックナーの没後に出版された交響曲第5番・第9番が大きく改訂されている。近年では、これまでの除去に対する見直しや、再評価の動きもある。
第1次全集版(ハース版など)[編集]
初版に含まれる弟子たちの関与を除くために、国際ブルックナー協会は、ロベルト・ハースなどにより、譜面を校訂、「原典版」として出版し続け、一定の成果をあげた。これらを「第1次全集版」または「ハース版」と称している。
しかし第2次世界大戦後、ハースはナチス・ドイツとの協力関係から、国際ブルックナー協会を追放された。この時点で、校訂されていない曲も多数残った。特に交響曲第3番はハース版が未出版のまま終わっている。後にハースの意志を継いだ弟子たちの手によってエーザー版が出版された。ノヴァーク版が出版されるまで、交響曲第3番ではこのエーザー版を使用することが一般的だった。
第2次全集版(ノヴァーク版など)[編集]
第二次世界大戦後、国際ブルックナー協会はレオポルト・ノヴァークに校訂をさせた。ブルックナーの創作形態をすべて出版することを目指したとされる。ハースが既に校訂した曲もすべて校訂をやりなおし、あらためて出版した。これらを「第2次全集版」または「ノヴァーク版」と称している。交響曲第3番、第4番、第8番については早くから、改訂前後の譜面が別々に校訂・出版されており(第3番は3種)、その部分においてはハース版の問題点は解消されている。これらは区別のために「第1稿」「第2稿」あるいは「〜年稿」などと呼ばれる。
ノヴァークに少し遅れてハンス・フーベルト・シェーンツェラー(Hans-Hubert Schönzeler)が第5番と第9番の校訂版をオイレンブルク社から出したが、全集にはなっていない。
ノーヴァクの作業は1990年以降は次の世代にあたるウィリアム・キャラガン、ベンヤミン=グンナー・コールス(英語版、ドイツ語版)、ベンヤミン・コーストヴェット(Benjamin Korstvedt)などに引き継がれ、現在に至るまで、校訂譜や異稿が出版されている。
国際ブルックナー協会による楽譜はウィーンのMusikwissenschaftlichen Verlagから出版されている。
l ブルックナーの交響曲の演奏史、および著名な演奏者[編集]
古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーやハンス・クナッパーツブッシュなどが録音を残しており、これらは今なお広く聴かれている。とりわけ原典版出版後も改訂版を使用し続けたクナッパーツブッシュの録音は、第一級の指揮者・オーケストラによる改訂版の演奏記録としても貴重なものである。
ロベルト・ハースによる旧全集の原典版が出版された後、このうちの第4番と第5番が1936年にカール・ベームによって世界初録音された。
ブルックナーの交響曲の最初の全集録音は、1953年、フォルクマール・アンドレーエ指揮、ウィーン交響楽団によるものだった。ステレオ録音による全集は国際ブルックナー協会の会長も務めたオイゲン・ヨッフムが最初である(演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団及びバイエルン放送交響楽団)。ヨッフムはのちにシュターツカペレ・ドレスデンとも別の全集録音を行っている。ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティ、ベルナルト・ハイティンクなどの指揮者も全集を完成させている。ただし、ヨッフムを始めとして第00番、第0番を録音していない指揮者も多く、11曲全てを録音した指揮者は少ない。セルジュ・チェリビダッケやヘルベルト・ケーゲルなどのように第3番以降の交響曲しか録音しなかった指揮者もいる。
近年の指揮者の中では、ゲオルク・ティントナー(フランツ・シャルクを通じてブルックナーの孫弟子だった)、カール・ベーム、フランツ・コンヴィチュニー、オイゲン・ヨッフム、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ギュンター・ヴァント、セルジュ・チェリビダッケ、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ、ベルナルド・ハイティンク、ヘルベルト・ブロムシュテット、エリアフ・インバル、ニコラウス・アーノンクール、カルロ・マリア・ジュリーニ、ダニエル・バレンボイム、クリスティアン・ティーレマン、フランツ・ウェルザー=メスト、朝比奈隆などが多く演奏・録音を行っている。
ブルックナーはウィーンのオーケストラの響きを前提に作曲しており、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団などの演奏こそが最もオリジナルとも言われている[誰によって?]。ただし、ゲオルク・ティントナーが登場するまではウィーン出身指揮者によるブルックナー録音は稀少で(ヨーゼフ・クリップス、エーリヒ・ラインスドルフがわずかなライブ録音を残している)、むしろそれまではオイゲン・ヨッフム、クルト・アイヒホルン、ヴォルフガング・サヴァリッシュらミュンヘン出身者が目立っていた。また、ウィーン・フィルは2018年に至るまで単独指揮者によるブルックナー交響曲全集を録音していない(1970年代にデッカ社が指揮者6人がかりのものをまとめた)。
全集録音を行った指揮者の中には、版・稿の問題にこだわった指揮者もいる。たとえばエリアフ・インバルは、ノヴァーク版の第1稿にもとづく第3、第4、第8交響曲を世界初録音している。ゲオルク・ティントナーは、第1番の未出版の1866年稿をいちはやく紹介したほか、第2番・第3番・第8番の第1稿を録音した。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(旧ソビエト連邦)はかつて、すべての稿の網羅を目指した全集を録音しており、これは同じ番号の交響曲の複数の稿を、一人の指揮者・一つのオーケストラで聴き比べることの出来る初の試みだった。この中で、グスタフ・マーラーが編曲した交響曲第4番も録音され、特に注目を集めた。しかしソビエト連邦崩壊などの事情により、当時出版されていた稿のうち第8番の第1稿が録音されないまま、この試みは中断した。
日本においてはクラウス・プリングスハイムの指揮により東京音楽学校にて1936年2月15日に交響曲第9番の日本初演が行われたが、当時はまだ広く演奏され親しまれていたわけではない。金子建志によると、1959年にカラヤン=ウィーン・フィルの来日公演でブルックナーの交響曲第8番が演奏された際、「『ブルックナーだけでは客の入りが心配』という日本側の要望でモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークも演奏することになった」という逸話もあったという。その後、日本人指揮者では朝比奈隆が1970年代にブルックナー交響曲全集を録音した他、その後もブルックナーを数多く指揮した。
ブルックナーの交響曲をオルガン独奏に編曲する試みもいくつかなされている。エルンスト=エーリヒ・シュテンダー(交響曲第3番・第7番)、トーマス・シュメーグナー(第4番)、クラウス・ウーヴェ・ルートヴィヒ(第7番)、リオネル・ロッグ(第8番)などの録音がある。
l 教え子[編集]
ヨーゼフ・フォクナー、ヨーゼフ・ペンバウア1世、ヨーゼフ・バイヤー、チプリアン・ポルンベスク、ラウラ・ラポルディ、フーゴ・ラインホルト、ヨーゼフ・グルーバー、エーバーハルト・シュヴィッケラート、フェリックス・モットル、マティルデ・クラーリク、ヨーゼフ・シャルク、ヤン・ドロズドフスキ、ハインリヒ・ベルテ、ハンス・ロット、カミロ・ホルン、ルドルフ・ディットリヒ、リヒャルト・ローベルト、フリードリヒ・クローゼ、フランツ・シャルク、ベンノ・シェーンベルガー、エマヌエル・モール、エミール・ジャック=ダルクローズ、ハインリヒ・ラインハルト、フェルディナント・レーヴェ、
パオロ・ガッリコ、ハインリヒ・シェンカー、フランティシェク・ドルドラ、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー、アルフレッド・カイザー、ジョセフ・ストランスキー、カール・ラーフィテ、ウォルター・ヘンリー・ロスウェル、フランツ・シュミット、フリッツ・クライスラー、アーネスト・シェリング
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