『論語』を読む 加地伸行 2021.4.27.
2021.4.27. 『論語』を読む
著者 加地伸行 1936年大阪生まれ。京大文卒。専攻は中国哲学史。現在、阪大文教授。文学博士
発行日 1984.12.20. 第1刷発行
発行所 講談社 (講談社現代新書)
はじめに
中国を知るために読めばいい本 ⇒ 『論語』『唐詩選』『十八史略』
『十八史略』は、人物を中心にした、中国史の概説書(宋の滅亡まで)
『唐詩選』は、中国文学の代表である唐代の詩のうち、李白、杜甫といった大詩人たちの名詩を含めて配列した、中国文学入門書
『論語』は、中国思想分野の代表
他にも中国思想を表わす重要な書物としては、『老子』『荘子』があるが、それらは『論語』の胸を借りて出てきたもの。『論語』と対極にある考え方をして存在意味を持つ
大半は独白に似た断片的な語録で、背景がはっきりしないため様々な解釈が生まれてきた
解釈に当たっては、「礼、仁、道」など『論語』の言葉の分析に終始しているが、古典研究としては有効だとしても、古典を読む方法としては有効かどうか疑問
自分との関わりで読もうとすると、誰にでも公平に開かれ、いつでも訪(おとな)うことのできるのが古典であり、古典の中には人間やその生きている社会の様々な問題とその解決への道の類型がある。数冊の古典を読めば、人間の考えること、感じること、行うことは、古今東西を通じて、本質的に変わっていないことを知るに至るだろう
その古典の1冊として『論語』がある。中国人が、どのように人間や社会や世界のことを考えていたのか、それを『論語』はありありと示す。「古典を読む」という視点から、人間の問題を説く『論語』を読み解こうというのが本書の目的
第1章
孔子と『論語』とについて
聖人孔子と呼ばれるのは後世のこと、生前はごく普通の願望を持つ人間
BC551年、魯(ろ)国(山東省)の生まれ。農民の野合の子、父は早逝。母方の祈祷師集団が知識人だったので、早くから文学を習い本を読む
十有五にして学に志し、読み書きを武器に地方役人から中央政府の役人へと進む
国家儀礼的な大儀礼を学ぶために周王朝のある王城へ留学、三十にして立つ
隣の強国だった斉(せい)国王が孔子を接見したことが自身となって、四十にして惑わず
学校を開き多くの弟子を養い、行政家を目指す儒教徒集団を作る
50歳前後で魯国君主に抜擢され、国政家としての地位を得る ⇒ 五十にして天命を知る
孔子の推進した農村型節約経済は、時代の流れだった都市型消費経済に勝てず失脚
周辺国で国政家の地位を求めて流浪するが、十数年不遇の末、68歳ごろ帰国、教育に専念し、儒家思想を深め生涯を終える
孔子が思想家である所以は、自分の人生経験を一般化し、人間1人1人に強く訴える普遍的な言葉とした点にある
論語から生まれた名言
「国を有(たも)ち、家を有つ者は、寡(すくな)きを患(うれ)えずして、均(ひと)しからざるを思う。貧しきを患えずして、(生活が)安からざるを患う」は、国政家の座右の銘とすべき
「仁に当たりては、師にも譲らず」は、学問する人間の心構え
「それ恕(思い遣り)か。己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」は人と接する時に守るべきことの基本
形式だけではだめで、必ず内容が伴うことを常に求めてきた。まごころであり、実(まこと)であり、本音、事実に対する冷静な認識、奥深く分け入って人間の心の本音を掴みだしてくること、孔子はそれを行った
『論語』の「論」を中国人は「倫」に近い意味で使う。筋道とか順序の意なので、中国人にとっての『論語』は、「正しい筋道の言葉集」といった感じで読まれてきたようだ
『論語』の実質は孔子という人物の思想
第2章
国家について
1.
道徳・法――政治
孔子の時代は、知性と感性とが主導権を巡ってぶつかり合った特別な時代
政治の面では、道徳と法が対立
周王朝(BC1111~BC250)の時代は、周王という天子のもとにおける封建制だが、奴隷制の上に成り立っていた中世の封建制とは異なり諸侯連合体であり、春秋戦国時代だった
孔子が生きた春秋時代は、「法的社会の原理」の成長期であり、それは戦国になって熟成し、秦・漢帝国成立によって完成
孔子の生涯は不遇とされる。下克上の時代であり、時代の乱れを直そうとして道徳を説いたが受け入れられず、後世になって開花したとされるが、孔子の生きた時代は、共同体の社会から法による社会への移行期
共同体の社会では慣習が優先され、慣習に基礎を置く道徳が社会を支配。道徳的完成者を指導者として戴いていく
異なる慣習を持つ共同体間でのぶつかり合いの中で、法を指導原理とする思想家が現れ、「法家」と呼ばれるが、それに対して共同体の指導原理を守ろうとするのが「儒家」
法による指導原理は、秦帝国による中央集権的皇帝制として完成
孔子の時代は、法が登場し始めたころで、法優先は異端の思想であり、共同体という体制の根幹を揺るがす悪の思想と見做され、孔子はその悪の摘発者
孔子の説く道徳政治とは、「近き者は説(よろこ)び、遠き者は(慕い)来る」のが基本であり、道徳的完成者(聖人)を最高指導者とし、その人の道徳に感化され教化される政治
子曰く、これ(大衆)を道(みちび)くに政(まつりごと)をもってし、これを斉(ととの)うるに刑をもってすれば、民免れんとして恥づるなし。これを道くに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってすれば、恥ありて、かつ格(きた)る
共同体のきまり(慣習)は礼であり、それを集約したものが礼教だが、時に形式的に流れやすくなるのを孔子は戒めた。子曰く、上(かみ)に居て寛(ひろやか)ならず、礼を為(おこな)いて敬(つつし)まず、喪に臨んで哀しまずんば、吾、何をもってこれを観(み)んや
まごころに根差してこその礼による生活であり、空虚な形式主義では意味がない
孔子の説くまごころが「忠」で、「心の中(まんなか)」の意
共同体が、領土の拡大、貿易による他国との交流の発展等から社会の肥大化が起こり、それに伴う変動によって共同体が変質しつつあるという危機感が根底にある
2.
経済
共同体の変質を大きく決定付けた要因が経済
古代経済における物資の中心は穀物だが、保存がきかないため、節約型経済と消費型経済に分かれる。節約型の典型は農業であり、消費型のそれは商業
孔子の時代は、まずは農業発展のための人口増加が重視され、それを賄うための食糧増産、そのための土地の確保であり、土地拡大のための商業の発達 ⇒ 共同体を基本とする農業社会から、商業が活発化する法的社会へと変遷
農業国魯に生まれた孔子は、農業を特に重視し、節約経済を主張 ⇒ 子曰く、「千乗の国(諸侯)を道(みちび)くには、事(こと、政務)を(行うとき)敬しみて(民に)信(頼されること)あり、(無駄な費)用を節(約)して人を愛し、(労役に)民を使うには時(農閑期)をもってせよ」(学而)
節約を重視 ⇒ 「約をもってこれを失う(失敗する)者は鮮(すくな)し」(里仁)
政治論でも節約を説く ⇒ 「政は財を節するにあり」。国家が節約すれば重税の必要はなく、民が豊かになる
魯の隣国斉は、海岸線が長く塩がとれた為、貿易立国で消費型経済を推し進める。法家思想の先駆者だった管仲によって法に基づく商業経済中心の国家として繁栄していたため、孔子が仕官の道を探るも失敗
3.
軍備
「爼豆(そとう、祭祀)のことは、則ちこれを聞けり。軍旅のことは未だこれを学ばざるなり」といったが、同時に「文事ある者は、必ず武備あり」、「我、戦えば則ち克(か)つ」とも言い、国政を狙う孔子が軍備問題に無関心なはずはない
「食を足らし、兵を足らし、民これをして信ぜしむ」と言い、続けて「古よりみな死あり(戦争や飢餓で死ぬ)。民信なくば立たず」と言って、兵も食も省くことはできるが、政府に対する信頼がなければ世の中がうまくいかないと諭す
「子の慎むところは、斉(斎戒=祭祀)・戦(戎いくさ=軍事)・疾(しつ=病気))なり」として、国政の大事を3つ列挙するが、「春秋に義戦なし」と言って、正義のための戦争を否定
第3章
家族について
1. 家族観
古代社会においては、国家に対峙するのは家族だが、その規模は意外に少人数で、父子を中心とする家族が8割であり、この父母に対する孝が家族を支える重要な徳目となる
父母の愛に恵まれずに育った孔子は、後年孝という両親に対するありかたを強く主張することになるが、それは孔子にとって、かつて充たされなかった家庭生活に対する思いが強く込められてもいただけに、時として観念的で作り物めいている観が無きにしも非ず
孝の行為の極致として絶対服従を説くが、法的社会では認められず現実性がない
孔子自身の家庭は、離婚説が強く、家庭生活について述べているものは意外と少ない
孔子の息子・伯魚が孔子から学ぶ様子を聞いた弟子が、「詩を聞き、礼を聞き、また君子のその子を遠ざくるを聞けり」と言っている。詩と礼は儒家の学ぶべき基本
「才も不才も、またおのおのその子という」(どちらも同じように自分の子)と言っているところから、伯魚はそれほどの人物ではなかったようで、優秀な弟子を溺愛したのと好対照
「女子と小人とは養い難しとなす。これを近づくれば則ち不遜なり。遠ざくれば則ち怨む」
娘婿は弟子の公冶長(こうやちょう)で、鳥の言葉を理解したと言われ、シャーマン一族だった母親の影響を感じさせる
2. 日本人の孝・中国人の孝
柳田国男は、「明治初期生まれの学者は、忠義はともかく、孝行ということだけは疑わなかったので、素朴だが強いところがあったのに対し、それ以後生まれの学者は西洋についての知識や教養は深まったが、儒教を知的に理解するだけで心そのものとしてはいないのでひ弱な感じがする」と言う
日本で理解されている孝とは、生きて在る親に対して子が愛情を尽くすという意味だが、中国人はそれに加えて、死せる親に対して尽くすこと(=招魂儀礼/シャーマニズム)も孝とした
「不孝に三あり。後(あと)なきを大となす」 ⇒ 三とは、生きて在る親に対する孝、死せる親に対する孝、招魂儀礼を長く続けるための家系の維持であり、後継こそ最大の義務
孝とは、「生(前)にはこれに事(つか)うるに礼をもってし、死(後)にはこれを葬るに礼をもってし、これを祀るに礼をもってす」と説く
3. 老人問題
共同体社会の道徳の内で、親と子の関係に基づく孝は最重要
士(立派な男)とは、「四方に使いして、君命を辱めず。宗族、孝を称し、郷党弟を称す」
弟(悌)とは年長者によく仕えること。郷党とは行政単位で500家を党、25党を郷という。宗族も生活圏内の一族程度の意で、その一族から孝行だと言われることが重要と説く
さらに、「言(=言葉)、必ず信(=誠)、行(=行動)、必ず果(=結果)」との条件が付く
単に親を経済的に養うということでは、孝として不十分。「敬せずんば、何をもって別(わか)たんや」と言って、動物との違いは尊敬の念だと説く
常に内容の充実を重んじ、華やかさより実(み)のあることを求める ⇒ 「巧言令色鮮し仁」「剛毅木訥仁に近し」
礼も孝に同じ ⇒ 「礼をなすに敬せず、喪に臨みて哀しまず。吾何をもってこれを観んや」
孝の行為に、精神性があることを求めた ⇒ 人間として遇して欲しいと願い、老人が求めるものはまごころという人間の心のありかたであり、これこそが老人問題解決の糸口
第4章
人間について
1.
才能
孔子の時代は、才能があれば、ある程度階層を越えられた
孔子も貧窮の中に育ち、飽くなき向上心によって国政へとのし上がった
「(家に)入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しめ」、さらに「行いて余力あらば、則ちもって文を学べ」 ⇒ 孝、悌、謹、信、愛、仁
「これを知るを、これを知るとなし、知らざるを知らずとなす。これ知るなり」
「多くを聞きてその善なるものを択びてこれに従い、多く見てこれを識(し)る。これ知の次なり」として、知性の世界の広がりを説く
当時の知識体系は、文字が読め、共同体社会の慣習である礼に通じること
文字が読めるだけで、行政組織の最末端である邑の地役人になることができた
「学ぶや、禄、その中に在り」として、知性的世界に入ることが、同時に世間へ出ることに繋がり、さらには知識だけを売り物にした専門職にとどまらず、組織の運営にまで進む
周囲から認められるまでは、自分の存在価値を示しながら、じっと耐えて待たなければならない ⇒ 「人、(自分の価値を)知らずして慍(いきどお)らず。また君子ならずや」「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う」など他に5度も類した言葉を述べる
孔子は、人間の持つ本音を抉り出して見せた上で、その時、苦痛に耐える人間のありかたを自戒の言葉で示し、真理へと昇華している
2.
愛と憎しみと
弟子たちが伝える孔子の人柄は、「温(おだやか)・良(率直)・恭(相手を敬う)・倹(無駄をしない)・譲(謙虚)」といい、「これ(先生)を仰げば、いよいよ高く、これを鑽(き)れば、いよいよ堅し。これを瞻(み)て前に在るも、忽焉(こつえん)として後に在り」
儒家たちの諸知識が孔子によって統一的にまとめられ世に出た儒教が、後の漢代になって経学という体系に再編成され、国家公認の学問となってからは、開祖の孔子は聖人という完成された人格として扱われることになった
完全な人間などありはしないとし、当然誤りがあるが、それを直すか直さないかというところで別れる ⇒ 「過たば、則ち改むるに憚ることなかれ」「過ちて改めず。これを過ちと謂う」
孔子も若い頃は愛憎の感情が激しく、「人の悪を発(あば)く」性格を改めよと指摘されていただけに、強烈な個性を克服しようとして苦労したようだ
憎しみの原点は怨みであり、人間が怨みを抱くことを認め、「怨みを匿(かく)してその人を友とするのを恥ず」と言ったが、後には「躬(み)みずから厚くして、薄く人を責むらば、則ち怨みに遠ざかる」「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ。邦に在りても怨みなく、家に在りても怨みなかれ」
人を容貌で評価して誤ったことがある ⇒ 醜(ぶ)男やこびとを一見して見下した
孔子は、克己心において人並みならぬ優れた才を発揮 ⇒ 「己に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為す(克己復礼)」
中国人は、愛の最高形態を、親に対するものとしていた
3.
死・霊魂――宗教
死とは、闇への恐怖であると同時に、精神は不滅であると思い、霊魂の存在を信じる
中国人は、徹底的に現実的・現世的人間。5感を満足させる現世利益を優先する一方、死について儒教は原初的発想である「魂の再生」を説き続けるとともに、さらに進んで、「生の世界」と「死の世界」を儒教的習俗として一般化された招魂儀礼によって結び付けた
「孝を鬼神に致す」 ⇒ 招魂や鎮魂は、実は自分の死に対する恐怖や不安を解消する手段
儒教ほど葬礼を詳しく説くものはない。3世紀にインドから入ってきた仏教は、因果応報・輪廻転生を説くのみで、この世を仮の世と説く仏教は、この世を最高のものと考える中国人の心をとらえることはなく、再生を信じて遺体を土葬する儒教の方が、遺体を火葬にする仏教よりも、遥かに強く中国人の心をとらえていた
第5章
精神について
1.
ことば――論理と詩と
「文学」とは、古典学のことで、当時における最高最大の知識体系のこと
「言語」とは、弁論術のこと
孔子は、知識のための知識を求めず、あくまでも実際生活のための知識を第一とした
「仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼(おそ)れず」 ⇒ 仁=徳、知=言語であり、「徳ある者は、必ず言あり。言あるもの、必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者、必ずしも仁あらず」
孔子も50を越えてから、次第に自己を殺すことの努力が実り、無意識のうちに他人と自分の関係を調和させることに至りつく境地に近づき、「60にして耳順(みみしたが)う。70にして、心の欲するところに従いて、矩(のり)を踰(こ)えず」
「それ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達せしむ」「己れを脩(おさ)めてもって人を敬し、己れを脩めてもって人に安んず」「克己復礼為仁――己れに克ちて礼に復(かえ)るを仁となす」
「文学」から出発し、「政事」「言語」の世界までは行けても、その先の「徳行=仁」に至る道は遠い
「文学」も「徳行」も沈黙の世界 ⇒ 「君子は、言に訥にして行ないに敏ならんことを欲す」
「古者(いにしえ)、言をこれ出(いだ)さざるは、躬(み=自分の行ない)逮(およ)ばざるを恥ずればなり」と言い、言葉においても、礼の場合にはその実質を、孝の場合には真実からの気持ちをと言い続けているのと同様、形式と内容とが一致することを求める
言は必ず「信(まこと)」であれと言い、「言うときは、忠(まごころ)ならんことを思う」
「言忠信、行ないが篤敬」であるならば政治はうまくゆくという
「ともに言うべきに、これと言わざれば、人を失う。ともに言うべからざるに、これと言えば、言を失う。知者は、人を失わず、また言を失わず」
若者の側の「躁(そう=出過ぎ)」「隠(いん=黙り過ぎ)」「瞽(こ=身勝手すぎ)」を戒める
孔子が絶えず意識したのは、「言葉を慎め=言葉に信(内実)があること」で、口先だけの言葉を「巧言」と蔑んだ
言葉には2種類、1つは「名」で言語体系のこと、もう1つは「言」で人が実際に使うもの。言語学的には、前者が言語体系(ラング)であり、後者は言語行為(バロール) ⇒ 「名、正しからざれば、言、順ならず」「言、順ならざれば、事、成らず。事、成らざれば、礼楽、興らず。礼楽、興らざれば、刑罰、中(あた)らず。刑罰、中らざれば、民、手足を措(お)くところなし」
名を正すことが基本であり、「名」に「実」が伴っているかどうかが問題 ⇒ 名実論
名詞だけで、様々な意味を伝えるというのが中国の言語の本質 ⇒ 「達辞/達意」といって、漢字の持つ豊かなイメージ性が自覚され、概念語を並べて作る中国の詩の特徴となる
2.
歴史
歴史文書として残ったのが『書(尚書)』 ⇒ 後の『書経』で、古代の帝王や賢人たちの詔勅文や臣下への命令書などの公式記録
歴史を尊重するということは、「歴史を学ぶ」というよりも「歴史に思う」という姿勢であり、過去の人間の行為に見られる善悪、正不正、美醜といったものを現代の参考にしようという姿勢であり、孔子もその姿勢を貫く。「述べて作らず」として、「聖人の優れた言葉を祖述し、勝手なことを言わない」と言い、「信じて古を好む」といって歴史に傾倒し、歴史の知恵を生かそうとした ⇒ 「学んで思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし」といって、単なる物知りでも、思索だけの独断になってもいけないと戒める
中国独自の歴史哲学として春秋学がある ⇒ BC722~BC494年の魯国の歴史を学ぶ。孔子が生きた時代で、自分の哲学的立場から加筆削除(筆削)したいわゆる「春秋の筆法」を研究する学問
3.
教育
古代の知識人は同時に教師であった ⇒ 孔子は、単に知識の伝達に終わらず、知識の習得を通じて「人間を作る」のを大目的とした
「憤(爆発)せざれば啓せず。悱(ひ=いらだち)せずんば発せず」 ⇒ 「憤・悱」とも内実が溢れて表に出ようとしている状態であり、学びたい、知りたいという内からの欲求。相手に「憤・悱(=やる気)」があって初めてこちらも「啓・発(=教える)」する
孔子は自画像を以下のように描く。「その人となりや、憤りを発して食を忘れ、楽しみをもって憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らず」
孔子は、誰でも努力すれば向上できるなどとは言わず、むしろ能力差をはっきり認め、「中人(中程度の人)以上には、もって上(かみ=高級な問題)を語(つ)ぐべし。中人以下には、もって上を語ぐべからず」と言い、自分の過去も「下学して上達す」といって、貧窮から努力して勉学し、高度の知識人になったという
中国では古来士大夫(たいふ=高級官僚)の教養として、「礼・楽・射(弓術のみならずその作法を重視)・御(ぎょ=馬が引く戦車の運転)・書(文字学)・数」の六芸を挙げる
礼楽を知らない外敵集団を、東夷・北狄(ほくてき)・南蛮・西戎(せいじゅう)と呼んで侮蔑
孔子が施した学習内容は「詩書礼楽」 ⇒ 『詩(詩経)』『書(書経)』を基本に孔子が系統化
「詩三百(篇)、一言もってこれを蔽(おお)う。曰く、思い邪(よこしま)なし」
礼には2種類。共同体社会内の慣習儀礼系統(小儀礼)と、大共同体内、あるいは共同体間の式典系統(大儀礼)で、小儀礼を扱う小人儒と大儀礼を扱う君子儒という儒教における二重構造を考え、儒の在り方を再構築し、君子と小人を区別して、君子儒という新しい人間を作り出そうとした
「君子は周(全体の調和や統合)して比(派閥を作る)せず。小人は比して周せず」
「君子は徳(に従う)を懐(おも)い、小人は土(安住)を懐う。君子は刑(約束に従う)を懐い、小人は恵(恩恵に浴すること)を懐う」
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」
「君子は(こころが)坦(たいら)かにして蕩々たり。小人は長く戚々(せきせき=憂い悲しむ)たり」
「君子は(協力して)人の美を(完)成し、人の悪を成さず。小人はこれに反す」
「君子の徳は風なり。小人の徳は草なり。草これに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す」
「君子は和して同ぜず。小人は同して和せず(付和雷同)」
「君子は泰して驕らず。小人は驕りて泰ならず」
「君子は(国家式典儀礼などに)上達し、小人は(祈祷儀礼などに)下達す」
「君子はこれ(責任)を己れに求め、小人はこれを人に求む」
「君子は、固(もと)より窮す(が乱れない)。小人は、窮すれば、則ち濫(乱)る」
孔子のいう詩書礼楽の相互の関係は、「詩に興し、礼に立ち、楽に成る」の順
「後生(若い者)畏るべし」と言う一方で、「四十、五十にして聞(きこ)ゆるなきは、畏るるに足らず」ともいう
第6章
生活について
1.
金銭・地位
『論語』を道徳主義的に読む日本人に対し、中国人は、実利的、現実的に捉え、生活の知恵ぐらいの気持ちで読む傾向がある
「四体、勤めず、五穀、分たず」(口先ばかりで自分で働こうとしないので、五穀の見分けも出来ない)は、現在では「五穀不分」として現実への無知を戒める言葉として使われる
「仁者は山を楽しみ、知者は水を楽しむ(知者楽水、仁者楽山)」も、人は人自分は自分といった諺で使われる
金銭や地位についても明言、「富と貴(地位)とは、これ人の欲するところなり」とし、続けて「その道(正しい方法)をもってせざれば、たとえこれを得とも、(そこに)処(お)らざるなり。貧と賤とは、これ人の悪(にく)むところなり。その道をもってせざれば、これを得とも去らざるなり」。同様に、「疏食(そし=粗末な食物)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみまたその中に有り。不義にして富かつ貴きは、我においては浮雲(つまらないもの)のごとし」
成人後の孔子は貧窮ではなかったが、最も愛した弟子・顔淵の質素な生活を褒めている。「賢なるかな回(顔淵の別名)や、一箪の食(し)、一瓢の飲、陋巷に在り。人はその憂いに堪えず。回や、その楽しみを改めず、賢なるかな回や」
2.
家政
孔子の当時、国政と並んで重要な社会行動は家政 ⇒ 上層階級の邸宅を取り仕切る事
儒家のいう「脩身、斉家、治国、平天下」の「家」も、相当大規模であり、血縁的共同体(=家族)ともいえるものから、地縁的共同体(=郷党)まで広く包含する概念
孔子もまずは家政=家族・郷党で高く評価されることを第一とし、父母につくす孝と、最上者につくす悌をことのほか重視
衣食住についても一家言あり、作法にはうるさかった
衣服の場合、バランスの取れた配色の服装を心掛ける
食物についても、「肉の(腐)敗したるは食わず。色の悪しきは食わず。臭いの悪しきは食わず」と言い、市販の干し肉も不潔だとして嫌だという
物質的にはかなり余裕のある生活をしていたようだが、安住することに対しては批判的で、「士(おとこ)道に志して、悪衣・悪食を恥ずる者は、いまだともに議(はか)るに足らざるなり」「士にして居を懐う(安住)は、もって士と為すに足らず」「貧にして怨むことなきは難し。富て驕ることなきは易(やさ)し」というが、そう言えるのも余裕を得たからこそだろう
3.
労働
孔子は、「吾、少(わか)きとき賤し。ゆえに鄙事(ひじ)に多能なり」というように、農業を生業とし労働の経験者だったが、地役人から中央政府の役人に昇格して脱農民の道を歩む
孔子の目指した士大夫の労働とは、力ではなく心を労(つか)う。多数の人々の幸福や一国の運命を担う使命を帯びるもので、人格を練る訓練が必要であり、これが儒家の教育内容に繋がっていく ⇒ 隋・唐時代の科挙となっていく
第7章
自然について
孔子は自然を愛した人だが、自然を物質的なものとして接している
「譬えれば、もし山を為(つく)るとき、いまだ一簣(もっこ)を成さずして止むは、吾が止むなり。譬えれば、もし地を平かにするとき、一簣を覆すといえども進む。吾がゆくなり」
川の流れを見て、「逝く者はかくのごときか。昼夜を舎(お)かず」と言ったのも事実を述べただけのもの
天に対してだけは、超自然的な力を見て、天の持つ意思に対して敬意を払っていた ⇒ 「君子に三畏(い)あり。天命を畏る。大人を畏る。聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず。大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る」
孔子は嘘偽りを排して人間の本音をはっきりと述べた思想家。自然に対して思い入れをする人間の在り方を素直に認め、それを一般化している
『論語』では人間生活の譬えに自然や植物が使われる ⇒ 「歳、寒くして、しかる後に、松・柏の彫(しぼ)むに後(おく)るを知る」といって、松・柏などの常緑樹が寒い冬も葉が落ちないでいることを言うが、同時に、しっかりした人間は困難に出逢っても気持ちが変わらないことに譬えている
『論語』には、中国思想史の大きな2つの流れの源を見ることができる ⇒ 世界の事物を記述する名物学と、その事物と言葉との関係を考える名実論
Wikipedia
孔子(こうし、くじ)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖[2]。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子は尊称である。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。釈迦、キリスト、ソクラテスと並び四聖人(四聖)に数えられる[3]。その死後約四百年かけて孔子の教えをまとめ、弟子達が編纂したのが『論語』である[4]。
有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子の死後約四百年かけて編纂した弟子たちの言語録は『論語』にまとめられた。
約3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[5]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている(そのため、四科十哲とも呼ばれる)。すなわち、徳行(論語古義によると徳行は、言語・政事・文学の三者を兼ねる)に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である(その中でも子路と孔子のやり取りが論語のなかでは1番多い)。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。
20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開[6]。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。
目次
時代背景[編集]
周公旦と礼学[編集]
孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする諸侯国で、周公旦は周王室の有力者で殷を滅ぼした武王の弟とされる。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、克殷直後の周を安定させたと伝えられている。周公旦は、征服地の山東半島の曲阜に封じられて諸侯のひとり魯公となるが、魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは関中の鎬京と華北平原への出口を扼する洛陽を拠点とする周本国で朝政に当たっていた。
周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。論語の伝えるところによれば孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。
魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、周王朝の古い礼制がよく保存されていた[7]。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。
魯国の状況[編集]
春秋時代に入ってからの魯国は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父・叔牙・季友は第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々魯の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。
孔子の生まれた当時は襄公(紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季孫宿(季武子)の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [8]。
生涯[編集]
出自[編集]
紀元前552年(一説には前551年)に、魯国昌平郷辺境の鄹邑(陬邑、すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で鄹邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)または孔紇(こうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[9]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[10]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[11]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[12]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[13]。
『史記』によれば、孔子の祖先は宋の人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の厲公の兄である弗父何の十代後の子孫であり、孔子の曾祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。
孔子は3歳の時に父の叔梁紇を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも勉強に励んで礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖の周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。
弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[14]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[15]。
孔子の生活は、明るく楽しいものではなかった。姉もたくさんいて、足の不自由な兄もいる。父は、孔子が3歳の時に亡くなった。、母は17歳の時に亡くなってから、それまでの生活な、母の仕事によって成り立っていたのだろう [16]。
父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、特に母は心配だった。そこで、祈禱師でもある母は「尼丘に禱り、孔子を得たり」近くの尼丘山にいのって、孔子をさずかることができた。魯国の襄公22年9月28日とされている。ただし、生年には諸説があり、『春秋公羊伝』は「襄公21年10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月5日の後に生まる」とする。また『史記集解索隠正義礼記』は、周の正月は11月なので、『史記』の22年は実際は21年になる、という。その他、限りなく諸説が展開し、南宋の王応麟は、もはや考えるすべもないと嘆息している。新しいところでは、張培瑜が「孔子生卒的中暦和公暦日期」において、従来の諸説を概観した結果、魯の襄公22年10月27日庚子、現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当だろう、と述べている。誕生にまつわる話で孔子が生まれる夜、天から二頭の蒼龍が母の部屋の上に降りてきて、母は夢の中に孔子を産んだ。また、2人の神女が空中から香露を擎げて降りてきて、母に沐浴させた。天帝も、鈞天の楽を奏しながら部屋の上に降りてきた。空中に「天が聖なる子を産むので、地で音楽の枠を奏するのである」という声が聞こえた。五人の老人が庭に立った。これは、五つの星の精である。五つの星は、五行説にいう木、火、土、金、水の五行の精。それぞれ、木精、火精、土精、金精、水精をさす。さて孔子が生まれる前に、麒麟が村に現れて玉書を吐き出した。そこには「水精の子が、哀えている周王朝を継いで、素王ー王位に就かず、王者の徳を備えている人になるだろう」とあった。水精は五行の循環によって歴史が展開するという考えに基づく。周王朝は火の徳に当たるので、それを継ぐのは水の徳ということになる。孔子の母は、繡紱を麒麟の角にかけてやった。麒麟は、孔子の家に二泊してから去っていった。原形は、東晋の王嘉著の『王子年拾遺記』巻3に見られる。王嘉は、隠遁生活を続けて穴居生活をし、俗世と交わらず、五穀を食べず門弟数百人を擁したという。よか未来を予言し、のち長安に出て終南山に住んだ。別に、これは南朝梁の蕭紀の著で、名を王嘉に託したものという[17]。
青年期[編集]
紀元前542年6月、魯の襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である稠が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。
紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。
紀元前537年に魯の軍事を独占していた季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。
紀元前534年、孔子19歳のときに宋の幵官(けんかん)氏と結婚する[18]。翌年、子の孔鯉(字は伯魚)が誕生。
紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず倉庫を管理する委吏に、次に牧場を管理する乗田となった[19]。紀元前518年には、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っている[20]。またこの年、孔子は周の都である洛陽へと遊学している。
紀元前517年、孔子が36歳のとき、第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季孫氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[21]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如(季平子)を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。この途上で「苛政は虎よりも猛なり」の故事が起こった[22]。この間、魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰がこれを阻んだ。また、孔子は斉の首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。
孔子は魯へと戻った[23]。魯に戻ってからの孔子は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励んだ。顔回や仲弓、子貢などの主要な弟子の多くはこの時期に入門している。
紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[24]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。
紀元前502年に陽虎は叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして籠城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。
(孔子についても、ほとんど分かっていない。母の仕事の影響をうけて、文字を知り、礼法を知り、そして知識によって生きていこうと決心して、まず村の役人になることができた。しかしその礼法は、あくまで祈禱師としてのそれであり、社会全般、まして国家としてのそれではない。おそらく、天下に通ずる礼、伝統的に守り続けられてきた礼法を学ぶ為に、必死になって各地を訪れ、知識人に会っては、自分なりに整理し、体系付けていった。この努力が、孔子の基礎を作った。[17])
大司寇時代[編集]
紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[25]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これはかの有名な宰相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[26]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[27]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[28]。
紀元前498年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を誅殺する[29]。
紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季孫氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[30]。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って下剋上を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した[31]。
亡命から晩年まで[編集]
翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間、諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのは衛であり、ここに5年ほど滞在した。ついで紀元前493年、いったん晋に向かったが衛に戻り、曹へ向かおうとして宋で妨害されたために鄭へと逃れ、ついで陳に赴き、いったん蔡に向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。紀元前489年、孔子は楚に向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた。
(孔子の外遊中の紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後、斉に攻められ敗北した。前485年には呉と共に斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。)
紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の孔鯉が50歳で死んでいる。
紀元前483年、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を勧めるが、実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。『論語』の憲問編にて「大夫の末席に連なる以上、(聞き入れて貰えないのは分かっていても)言わざるを得なかった」と嘆いたと記すのはこの時のことである。
孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。この年、一番弟子だった顔回が死去している。次いで紀元前480年には衛に仕えていた子路も殺された。
紀元前479年に孔子は74歳で没し、曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。
孔子死後の魯[編集]
孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏の武力討伐を試みるも三桓氏に屈し、衛や鄒を転々とした後に越へ国外追放され、前467年にその地で没した。
孔鯉の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代(27代~29代)にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。
のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。
思想[編集]
『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある[32]。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
湯島聖堂にある孔子像
孔子像
封号[編集]
孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。
孔子の封号一覧[33] |
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時 代 |
贈った為政者 |
封 号 |
年月(西暦) |
尼父 |
哀公16年4月(紀元前479年) |
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褒成宣尼公 |
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文聖尼父 |
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鄒国公 |
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先師尼父 |
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先聖 |
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宣父 |
貞観11年(637年) |
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太師 |
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隆道公 |
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文宣王 |
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元聖文宣王 |
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至聖文宣王 |
大中祥符5年12月(1012年) |
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大成至聖文宣王 |
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至聖先師孔子 |
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大成至聖文宣先師孔子 |
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至聖先師 |
順治14年(1657年) |
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大成至聖先師 |
人物[編集]
身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。
飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉を細く切った物)などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は3日以上は持ち越さず、3日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[34]。[1]
弟子とその学統[編集]
同時代の思想家との応酬のほか、その学統は顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓・宰我・子貢・冉有・季路・子游・子夏ら孔門十哲、更に七十子らに引き継がれた。
子孫[編集]
孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(11世孫)、孔融(20世孫)などがいる。孔子の子孫と称する者は数多く、直系でなければ現在400万人を超すという。
孔子に敬意を表するため、孔子その人に様々な封号が贈られたのは前述の通りであるが、その子孫にも厚い待遇が為された。まず前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は1055年、第46代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する。
孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑800戸を与えられ、「褒成侯」孔均も2000戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる。
孔子の死後すぐに、孔子の住居は魯の哀公によって廟に作り替えられた。この廟(孔廟)は歴代王朝によって維持・拡張され、巨大な建築群となった。現代においては、北京の紫禁城に次ぎ、泰安市の岱廟とともに中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。また、泗水のほとりに葬られた孔子の墓である孔林も、歴代の孔子の子孫が埋葬され続けるとともに規模も拡大され、広大な墓所となった。この孔林に埋葬されている孔子の子孫の数は10万人以上ともされている[35]。そして宋朝期からは、孔廟と孔林を維持管理するために孔家は曲阜に邸宅をもうけ、1055年に衍聖公に封じられると維持管理の役所も兼ねるようになった。この邸宅は衍聖公府(孔府)と呼ばれ、これも後世になるにつれて拡張され立派なものになっていった。この3つの建築群はあわせて、三孔と呼ばれる。現在でも、山東省曲阜市には孔廟、孔林、そして孔府(旧称・衍聖公府)が現存している。 これらの三孔の建築群は、1994年にユネスコによって世界遺産に指定された[36]。 第46代孔宗願から、第77代孔徳成に至るまで直系の子孫は孔府に住んでいた。なお、孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、1949年に台湾へ移住している。中華人民共和国の外交官孔泉は、孔子の76代目の子孫といわれる。
系譜[編集]
詳細は「孔子世家嫡流系図」を参照
孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで83代の系譜を収めたこの家系図は2005年にギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されている。なおこの孔子世家譜は2009年現在までに5回の大改訂が行われている。第1回は明時代(1621年 - 1627年)、第2回と第3回は清時代(1662年 - 1723年)、(1736年 - 1795年)、第4回は中華民国時代(1930年 - 1937年)、第5回は中華人民共和国時代(1998年 - 2009年)である。第5回目の大改訂については、2008年12月31日に資料収集が終了[38]。2009年9月24日に完成した[39]。今回の孔子世家譜には初めて中国国外及び女性の子孫も収録され[40]、200万人以上の収録がなされた[39]。
論語
目次
1. 『論語』とは
2. 『論語』を読むには
3. 『論語』全20篇とは
4. 『論語』の中の名言集
5. 『論語』で語られる徳目
1.
『論語』とは
『論語』とは孔子(B.C.552~B.C.479 春秋時代末期の思想家・教育者・政治家)とその弟子の会話を記した書物で、全20篇、全部で1万3千字あまりの本です。量的には決して大著ではありません。むしろ孔子名言集ハンドブック。あまりに昔の本で(孔子は2500年前の人)かつ背景のよくわからない短い文章なので注釈なしには読めませんが、その注釈も人によって(一口に「人」といっても三国時代の人だったり、宋代の人だったり気が遠くなるような昔の人ですが)孔子の言葉の解釈が多少異なります。
そこで「もしかしたらこうなんじゃないのかなあ…」と素人が想像の羽を広げるのもあり、という本です。立派な聖言を金科玉条として読むより、自分の人生や現代社会の中に置いてあれこれ突っ込みを入れながら読んだ方が面白い本だと思います。
気軽に気楽に読むことができます。ただしその言葉は奥が深く、真剣に耳を傾けるならば人の生き方を変えずにはおかない力があります。さらにそれを実践するなら…人間なら誰もが持っている我欲とぶつかりますから、厳しい人生になっていくことでしょう。
『論語』…カビの生えた修身の本、封建社会を支えたイデオロギーの経本…こう一言で切り捨てることのできない古典です。長く東アジア諸民族の思考と行動を規定したという意味では、西の『聖書』・東の『論語』と言えるかもしれません。
孔子については「孔子」のページで詳しく紹介しています。
2.
『論語』を読むには
『論語』は二千年以上前の本ですからそのままでは読めません。特に当時の会話の記録で、前後関係がはっきりわからないものも多いので注釈がなければお手上げです。しかも昔は書写して伝わったのでいろいろな系統の書写本があり、どの系統のものをどんな注釈で読むかで内容が異なってきます。
その中でたとえば『十三経注疎本』(じゅうさんぎょう ちゅうそぼん)は、清朝の1815年に出版されたもので、『論語』本文・魏の何晏(か・あん)による注・その注に対する宋代の邢昺(けい・へい)によって作られた注という構成になっています。つまり「本文・注釈・注釈の注釈」です。
『論語』はこのように注釈する人の解釈によって読むもので、その注釈者の判断によって解釈も変わっていきます。
以前ある大学から頼まれて、『論語』の一文が引用されている中国語の文章の翻訳をしたことがあります。『論語』を引用した部分については『論語』の日本語訳の本を使って訳したのですが、その訳文のチェックをした方から『論語』部分の訳がまちがっていると指摘されてしまいました。そこで私が使った『論語』の本の訳を伝えたところ「その先生(『論語』の翻訳・注釈をした方)はそういう解釈をしていましたか…」ととても驚かれていました。
このように注釈者によって解釈は大きく変わるのです。絶対的な解釈がない、解釈は人によるというところも『論語』のような古典の面白いところではあります。
3.
『論語』全20篇とは
論語は全部で20篇に分かれそれぞれに名前がついていますが、その名前は冒頭の章句から言葉が拾われて篇名にされただけで特に意味はありません。ですから順序立って読む必要もなく、どこから読んでもいいのです。上述したように「孔子名言ハンドブック」あるいは「孔子名言アンソロジー」(アンソロジー…選りすぐりの美しい言葉を集めたもの)なのですから。
『論語』は聖徳太子の時代に日本に伝えられたと言いますから、『論語』の中の言葉の一部はまるで日本のことわざのようになっています。「これ、孔子の言葉だったの!」というものがたくさんあります。では『論語』20篇のうち日本人もよく知っている文章を、20篇のトップ「学而」(がくじ)から順に紹介していきましょう。
4.
『論語』の中の名言集
「朋遠方より来たるあり。また楽しからずや」(学而)
現代語訳:(友人が遠方よりやってきた。なんと楽しいことだろう)
中国から代表団などが来た時歓迎宴会でよく引用される言葉です。日中双方が知っている言葉なので、同じ文化を共有していることで互いに親しみが増す瞬間です。
意味は文字通り「遠方にいる友人が訪れてくれた。なんとうれしく楽しいことだろうか」という意味です。孔子のシンプルな心が伝わってきます。
「巧言令色鮮し仁」(学而)
現代語訳:(言葉が巧みで外見を装うタイプの人間には、他者を愛する気持ちは少ないものだ)
今も昔も人間は変わらないのですね。孔子が言わんとするところはストレートにわかります。言葉が巧みで人あたりよく上手に世間を泳いでいくタイプには確かに誠実さは感じられません。
「十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従えども、矩(のり)をこえず」(為政)
現代語訳:(15歳の時には学問で身を立てようと志を立て、30歳の時には自分の立場というものができた。40歳の時には自分の生き方に迷うことがなくなり、50歳の時には天から与えられたおのれの使命を知った。60歳の時には人の意見に耳を傾けることができるようになり、70歳の時には自分のしたいようにしても、周囲との調和が保てるようになった)
孔子が自分の人生を振り返って述べた感慨です。やがて志学・而立(じりつ)・不惑・知命・耳順・従心はそれぞれ15歳・30歳・40歳・50歳・60歳・70歳という年齢を表すとともに、人生の節目における指針になっていきました。孔子はこうした精神の変化を心の深いところでとらえていますが、凡夫はそうはいきません。最近の中国のテレビドラマの中に「彼ったら而立の年齢だっていうのにまだ自分の家も買えていないんだから!」というセリフがありました。「而立」イコール「家を持つ」となっていて、確かにそれもそうですが孔子が言おうとしていることとは少しずれています。孔子ならば家を持っていなくても「而立」は可能だと言ったでしょう。
日本ではこれら年齢を表す言葉のうち「不惑」だけが残りました。なぜ不惑だけだったのか。40歳は逆に惑う年だからでしょうか。「不惑の年を迎えてしまった…」とか「不惑だと言うのに…」とか、逆に「惑い」を強調する言い方で使われることが多い気がします。
全体に現代人には耳の痛い言葉が並んでいますが、特に「暴走老人」とか「すぐ暴力沙汰を起こす」とか時々ニュースで物議をかもす熟年層には厳しい言葉です。長寿社会になって全体に若返ったのか幼稚化したのか。孔子の時代に比べて寿命が数十年伸びましたので、年齢×0.8くらいにした方が実態に合うのかもしれません。そうすると志学は19歳、而立は38歳、不惑は50歳、知命は63歳、耳順は75歳、従心は88歳…耳順以降は認知症になっていなければ孔子の境地に達する人もいるかもしれませんね。
故(ふる)きを温めて新しきを知る。(為政)
現代語訳:(昔の人の書物をよく読み習熟して、そこから今に応用できるものを知る)
これも有名な言葉です。孔子は歴史に学ぶ、特に客観的・実証的に学ぶことを勧めていたと言われます。現代でも充分に通用する忠告です。
義を見てせざるは勇無きなり。(為政)
現代語訳:(義だとわかっていてそれをしないのは卑怯である)
よく人助けの場面で使われる言葉です。「義」とは「理にかなったこと」。
孔子のおっしゃる通りですが難しいです。パワハラとかいじめとか、なかなか無くならないのもこの勇気が出ないからでしょう。
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。(里仁)
現代語訳:(道なるものを会得できたならいつ死んでも本望だ)
「道」は中国の古典にくりかえし出てくる言葉です。「真理」とか「人として生きる道」とか「人が生きる意味」とかいろいろな解釈が可能です。
徳、孤ならず。必ず隣あり。(里仁)
現代語訳:(徳ある人が孤立することはない。必ず理解者が現れる)
徳ある人だからこそ周囲から浮いてしまう。誰も近づかない。そうであってもいつか必ず理解者が現れるということです。
これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。(雍也)
現代語訳:(理解しているということは好きだということにはかなわない。好きだということは楽しむこと、満足していることにはかなわない)
この言葉は一般に上のように訳され、仕事や勉強などの場面で使われ「なるほど」と思わせられます。確かに「知識がある」状態より「好きだ」「楽しんでいる」という状態の方が、何によらず伸びていく経験は誰しもあるでしょうから。
ただ異なる解釈もあります。それは「道を理解している者はそれを実践している者には及ばない。道を実践している者は道の境地に達している者には及ばない」という解釈です。
ただ上記の言葉を素直に味わうならやはり最初の解釈を取りたいと思います。
孔子の言葉はこんなふうに自在な解釈が許されるということの一例です。
子(し)は怪力乱神を語らず。(述而)
現代語訳:(孔子は怪しげな超常現象・オカルト的なことは話さそうとしなかった)
ここはよく「話さなかった」と訳されますが、「不」という文字で否定されていますので、正確には「~なかった」ではなく、「~しようとしなかった」になるでしょう。つまり「話す」ことを意識的に拒絶していることが感じられます。
この言葉は、孔子の思想について語られる時よく引用される有名な言葉です。
儒教は思想であって宗教ではないと言われ、その祖とされる孔子の言葉に宗教性はほとんど感じませんが、『論語』には「天」という言葉が時々出てきます。天は人格神ではありませんが、義や理と結びつく「存在」で、孔子はこの存在を確信していたと思われます。たとえば「述而篇」に「天、徳をわれに生ぜり」(私には天から授かった使命がある)という言葉が出てきます。孔子が殺されそうになった場面での言葉ですが、「天命を持つ私が殺されるはずがない」と動じる様子がなかったといいます。
任重くして道遠し。(泰伯)
現代語訳:(使命は重く道は遠い)
これは孔子の弟子・曾子が言った言葉です。「志のある者は心が広くて強くなければならない。なぜなら使命は重く、道は遠いからだ。『仁』を実現させる、なんと任務の重いことか。それは死ぬまで続く。なんと遠い道のりであることか」という文章の中にあります。
徳川家康の言葉に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」というのがありますが、『論語』の中のこの言葉が元になっているそうです。
民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず。(泰伯)
現代語訳:(為政者を信じついていこうと民に思わせることが肝要だ。政策を理解させる必要はない)
この文の解釈として「民に対して政策に従わせることはできるが、政策を理解させることはできない」というのもあります。
解釈には人によってこのように開きがあるのです。
日本ではこの言葉は江戸時代の「愚民政策」の一つとして受け取られてきました。「民はお上に黙って従っていればよいのだ。お上のやることをいちいち民に教える必要はない」と。元の文を読むと愚民政策とは言い切れないことがわかります。
後世畏(おそ)るべし。(子罕しかん)
現代語訳:(若い者を侮ってはならない)
この有名な言葉も孔子の言葉でした。
これにも「若いとは将来に希望があるということだ」という解釈があります。
いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。(先進)
現代語訳:(生の意味もつかめていないのに、死の意味などどうしてわかろうか)
弟子に「いったい死とは何でしょうか?」と聞かれた時の孔子の答えです。
この部分から「孔子は死に興味がなかった」とする説が古来一般的ですが、これに対しても異論があり、「親の生の意義もわからないのに、どうして親の死の意義がわかろうか」という意味であって、死そのものに無関心だったわけではないとする解釈もあります。
過ぎたるは及ばざるがごとし。(先進)
現代語訳:(過と不足は同じことだ。どちらもちょうど良いというころあいを得ていない)
この有名な言葉も孔子の言葉です。
この言葉は一般に「やりすぎは駄目だ」という意味で誤用されることが多いのですが、やりすぎもやり足りないのもどちらもバランスを失っている、ちょうど良いころあいを失っているという意味では同じだ、ということです。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(子路)
現代語訳:(徳のある立派な人物は人との調和を求めるがやみくもに付和雷同することはない。品性の劣る人間は付和雷同するが人との調和は求めない)
「和」は「調和」を意味し、プラスイメージの言葉です。
ところで日本語の小人(しょうじん)は一般人・凡人程度の意味ですが、中国語の小人はかなりキツイ言葉です。日本語では「つまらない人物」とか場合によっては「ゲス」に相当するでしょう。中国語で「君子」と「小人」は対立的概念です。ですから日本に観光に来た中国人がバス停などで「大人〇〇円、小人〇〇円」などと書いてあるのを見ると大笑いします。中国語の「大人」には「君子」に近い意味もありますので、「立派な人の方が小人よりお金をたくさん払わなければならないのか」と笑い話のタネになったりします。
過(あやま)ちて改めず、これを過ちという。(衛霊公)
現代語訳:(過ちを犯したのに改めない。これを本当の過ちというのだ)
これも今もよく使う言葉ですね。
女子(じょし)と小人(しょうじん)とは養い難し。(陽貨)
現代語訳:(女性と品性の劣る奴は始末におえない)
この言葉のあとに「優しくするとつけあがるし、相手にしないと恨む」とあります。
今有名人がこんなことを言ったら、おおやけの場で謝罪を求められるかもしれませんね。
別の解釈では「始末におえない」という辟易したような言葉ではなく、「付き合い方が難しい」となっています。「近づきすぎるとわがままになるし、遠ざけると不平を言う」、だからその中間の適度な距離を探す必要があるとしています。
5.
『論語』で語られる徳目
『論語』には孔子哲学のキーワードとでも言うべき徳目が一つの漢字で表されています。たとえば「仁」、この漢字一つで孔子の求めた人格的境地がすべて語られるのです。
以下では『論語』に出てくるいくつかの徳目を簡単に説明していきましょう。
忠
忠:「忠君愛国」という表現の中で使われる「忠」はしばしば「君・君主」に対する滅私奉公的な意味を持ちますが、『論語』の中の「忠」は主に友人など一般的な人間関係の中で用いられ、「誠意を尽くす」という意味です。まれに臣下の君主に対する関係で「忠」が用いられることもありますが、その場合は前提があります。その前提とは君主が臣下に対して「礼」を用いている時に限られるというもので、君主がもし臣下に対して礼を欠くなら、臣下も君主に忠である必要はないとされています。
孝
孝:孝とは親孝行のことです。親孝行はどうあるべきか。親に対しては礼を重んじ、敬愛の気持ちを持ち、笑顔を絶やさず、心配をかけてはなりません。特に心の底からの愛情と尊敬が本当の孝だと孔子は言います。
仁
仁:仁とは人のこと(「仁」と「人」は音が同じ)、人がいてこそ生まれた倫理意識で、基本的な意味は人を愛すること、人を思いやり、人を尊重することです。仁こそが孔子の思想の核となるもので、人間として最高の行為を表しています。
義
義:「義とは宜(ぎ)である」と孔子は言います。宜とはちょうどよいということ、天の理にかなっているということです。
礼
礼:礼とは、尊卑と長幼の序を表すものとして古くから制度化され道徳の規範になったものですが、孔子の言う礼はこうした伝統的な礼と比べ仁の要素をかなり内包するものです。仁こそが礼の基本だと孔子は言います。
智
智:智は『論語』の中では「知」の字で表されていますが、その意味は聡明さや智慧、智謀のことです。
信
信:信とは誠実で人を騙さないことです。信は人個人の道徳的規範であるだけでなく、社会や政治の倫理としても重要なものとされました。
恕
恕(じょ):恕とは他者に対しておのれに対するごとく対処すること、要するに思いやりのことです。弟子から「生涯守るべき座右の銘を一言で表すなら何ですか」と聞かれ、「それ恕か」と孔子は答えています。さらに「おのれの欲せざるところ、人に施すなかれ」(自分がしてほしくないことは人にするな)と恕の意味を解説しています。
譲
譲:譲とは譲ることですが、何でもかんでも譲るのではなく、功名や権利は人に譲り、職責や義務では人に譲ることなく自分がまっさきに行うべきとしています。
恭
恭:恭とは、容貌が端正でまじめ、人に対するふるまいとしては謙虚で従順なことです。恭という徳目は人が仁者であるかどうかを測る基準の一つです。
敬
敬:敬は恭と同様、端正で慎み深くすること、さらに尊敬や真面目などの意味も含んでいます。
悌
悌(てい):年長者を敬うことです。「家の中では孝、外に出たら悌」(家では親に孝行をし、外では年長者を敬いなさい)と孔子は言っています。
6.
『論語』が元となってできた故事成語
『不惑』
(不惑は40歳を意味しますが、ほかにも様々な年齢に関する言葉を紹介しています。)
『過ぎたるは、なお及ばざるが如し』
(『論語』の中で孔子が弟子の2人を評し、「度が過ぎているのは物足りないのと同じだ」と説きました。)
『和して同ぜず』
(『論語』の中で孔子は「君子は強調はするが流されない」と説いています。)
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