博士と狂人  Simon Winchester  2021.3.10.

 

2021.3.10. 博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話

The Professor and the MadmanA Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary 1998

 

著者 Simon Winchester オックスフォード大卒後、新聞記者となり、ワシントン、ニューヨーク、ニューデリーなどの特派員を務め、30年にわたってジャーナリストとして活躍、数々の賞に輝く。現在はニューヨークとロンドンを往来する生活を送りながら、作家・冒険家として活躍中。『太平洋の悪夢』など6作を発表

 

拍車 鈴木主税 1934年東京生まれ。翻訳家。W. マンチェスターの『栄光と夢』で翻訳文化出版賞受賞

 

発行日           1999.4.20. 初版印刷          4.30.初版発行

発行所           早川書房

 

「世界最大・最高の英語辞典」と呼ばれ英文学者のみならず世界中の知識人に愛用されているOEDオックスフォード英語大辞典。その編纂作業の中心人物ジェームズ・マレー博士は、貧しい家庭に生まれながらも独学で数多くの言語を身につけ、ついにはイギリス言語学界の第1人者となった人物。そしてマレー博士には、彼自身、一度も会ったことのない謎の協力者がいた。その男の名はウィリアム・マイナー。元アメリカ陸軍軍医で、何らかの事情のためにクローソンという小さな村から離れられないらしい。1896年晩秋、この村を訪れたマレー博士は、マイナーのあまりにも意外な正体を知るのだが・・・・・。

収録語数414,825語、完成までに70年もの歳月が費やされたOED1版。その作成に生涯を捧げた2人の天才の知られざる苦闘と悲劇に光を当て、全米で大反響を呼んだ壮絶にして奇想天外な物語

 

 

はじめに

1896年晩秋、バークシャーのクローソン村で、ある重要な会議が行われた

対談の1人はジェームズ・マレー博士。当時OEDの編纂主幹

もう一方は、W.C.マイナーという謎の人物。マイナーは他の多くの篤志協力者と共に、この辞典の作成に中心的な役割を果たしていた

会談に先立つ20年、両者は辞典編纂に関する細かい問題について意見を交換していたが、会うのは初めて

マレーは、辞典完成が近づき、編纂に貢献したすべての人に会って感謝の念を伝えていた

クローソン駅はウェリントン校駅と呼ばれ有名男子校の乗降駅

マイナーは、クローソンのブロードムア刑事犯精神病院に20年以上前から入院している最も古い患者

本件に関する公式文書は、1世紀の間非公開。最近許可を得て目を通す。以下は、明らかになった稀有の悲劇、胸に迫る感動の物語

 

1.    深夜のランベス・マーシュ

Murder 英語とゴート語以外のチュートン語には見られないが、大陸西ゲルマン語には存在。フランス語や中世ラテン語の語源ともなっている

ヴィクトリア女王の時代のロンドンで犯罪の絶えない地域として恐れられていたランベス・マーシュはウェストミンスターの対岸にあって、ディケンズのロンドンを現実化したような場所

グラッドストン首相の時代のランベスでは、銃を使った犯行は珍しく、ロンドン全体でも稀。銃は高価で扱いにくく、イギリス的行為ではないと考えられた

1872年のある月夜に銃声が鳴った時は衝撃、近くにいた警官が犯人を押さえ、各紙は共通して「ランベスの悲劇」と呼んだ

ランベスは1951年博覧会の開催地となり、現在はロイヤル・フェスティヴァル・ホールが建つ。近くにはウォータルー駅があるが、他の鉄道のターミナルと違って豪壮なステーション・ホテルを建てようとしないくらい、しかるべき人々が長い時間過ごそうとする場所ではなかった。土地の所有者はカンタベリー大主教とコーンウォール公だったが、両者とも開発しようとせず低湿地のまま放置。法的にもロンドンの管轄外だったために、乱痴気騒ぎの場所として有名になり、猥雑な場所として男たちを寄せ付けていた

ランベスの安アパートに家族8人の貧乏暮らしをしていたビール醸造所の窯焚きの男が早朝勤務の途上射殺される。犯人はその場で拘束され、犯行を認めるが人違いと主張

犯人の名はマイナー、37歳、元陸軍軍医大尉、外科医、1年前からロンドンに1人暮らし、ニューイングランドで最も由緒ある名家の出でかなりの資産家。厄介だったのはアメリカ陸軍の将校だったことで、公使館に連絡

前年秋渡英したが、それまでアメリカの精神病院に入院、病気のために退役、渡英も病気治療の一環。配属された各都市で当時「テンダーロイン地区」(悪徳歓楽街)と呼ばれ始めていた界隈に足繫く通い、性欲旺盛で、性病にも罹患

公判で明らかになったのは、マイヤーが以前からアイリッシュを恐れて警察に助けを求めていたが、地元の警察は精神異常として放置。夜な夜な何者かに襲われると言い張り、その挙句侵入者を追って射殺したという。義理の弟もマイナーの被害妄想を証言、米国総領事が手配した弁護士は、精神異常は明らかだと弁護するだけで、マクノートン準則に従って精神異常を理由に無罪とし、女王陛下の思し召しあるまで保護処分となった

症状の重さを考慮すると生涯にわたる拘留と思われ、ブロードムアに移送

 

2.    牛にラテン語を教えた男

Polymath 多くの、または様々な学識を有する人、様々な研究分野に通じている人

Philology チョーサーにおいてラテン語。話好きな、口数の多い; 学問や文芸を好む

王室に献上されたOED(最初はNew English Dictionary)の第1版全12巻の完成には70年以上費消して、1928年完成、その後数年間に5巻の補遺が出て、さらに半世紀後には第2版完成、補遺も本体に統合され全20巻となる

OEDが定義する語は優に50万を越える(ママ)。用例を徹底的に集め、それを引いて英語のあらゆる語彙の意味がどのように使用されているかを示した。引用例によって精確に示すことができるのは、ある語がいつどのように使われ、意味のニュアンスや綴り方や発音の微妙な変化がどのように起きたかということで、それぞれの言葉がいつどのようにその言語に忍び込んだかを明かにした

膨大な時間が必要で、常に改訂を繰り返し、辞典本体に匹敵するほど膨大な情報を加えていかなければならない

OEDの地位には尊大な自信が伴っている。それが顕著なのは、50万語の定義を、いかにもヴィクトリア女王時代らしく、品格のあるものにしなければならないと頑なに信じている点で、例えば、bloodyという言葉の以下の現代の定義さえ、たいていの人から見れば臆病なほど自尊心に捉われていると映る。「” bloody”は高尚な耳を持つ人々にとって不快に響く言葉で、冒瀆的な意味が感じられる、という見解には根拠がない・・・・」

OEDを特別視するのは、そのような高尚な耳を持つ人々だと思われる。彼らはこの辞典を洗練された英語らしい英語の最後の砦として崇拝し、近代の最も偉大な帝国が遺した最後の貴重な遺産と考えている

近代の学者たちが不満を述べるのは、性差別や人種差別がみられる点や、時代遅れの気難しい尊大な姿勢が現れている点

主役Protagonistの由来は、ギリシャ語の「第一」と「俳優」を意味する2語からなり、「劇における最も重要な登場人物」を意味する。その用例として6つ挙げられ、この語が書き言葉に取り入れられたのは1671年としている。第1版の後、各地でより古い用例が多く発見されているが、OEDの編纂者は意に介さない

Protagonistにも、単数形でしか使えないとの主張も出てきたが、OEDは複数形でも使えることを用例で示し、今では3通りの主な意味と19の用例で、複数形が定着している

ジェームズ・マレーは、1837年スコットランド生まれ、貧しい家庭で育ち、熱烈な知識欲を抱き、14歳で学校を終えると独学で学び続け、17歳で教師、20歳では校長に

結婚して子どもを設けるが夭折、病弱の夫人を支えるために不本意ながら学問を中断して銀行に勤め、亡くなると再婚した後、30歳で大英博物館に志願するも却下。比較言語学と特定の言語の研究を進めつつ教職に戻り、言語協会に入って名声を拡大

1878年、マレーはオックスフォード大のクライスト・チャーチ・カレッジで、大学出版局の理事と面談、学問の金字塔を打ち立て、世界中の偉大な図書館に欠くことのできない書物を作ることになると告げられ、やがて興味と信仰が奇妙なほど一致する男と出会う

 

3.    戦争という狂気

Lunatic 元は、ある種の精神異常、月の満ち欠けに伴って周期的に起こると考えられた精神異常を病んでいるという意味。現代の用法ではinsaneと同義

セイロン、かつてはアラビアの海の商人にSerendibと呼ばれ、空想物語からserendipityの語源にもなった

マイナーは1834年セイロン生まれ。両親は組合教会の信徒で、盟約者と呼ばれるグループに属し、17世紀のスコットランドの伝統的な生き方を頑なに守り、宣教師としてセイロンに赴き、マイナーが誕生。父親はアメリカ入植後7代目の当主、印刷業で成功した後宣教師に。13歳で1人ボストンに帰り勉学に勤しみ、エール大学医学部で比較解剖学を専攻。卒業後軍医として入退を志願。1864年南北戦争のただ中のヴァージニアに赴く。南北両軍の力が拮抗している時期の頂上決戦だけに凄惨な激戦となり、高性能の新兵器に徹底的に痛めつけられた傷病兵を原始的なお粗末な医学で治療するのは全く異質な世界であり、繊細なマイナーにとっては精神的に過酷過ぎた

原生林での白兵戦に火薬による火災が加わる

更に、北軍に徴用されたアイルランド人兵士の寧猛な闘いぶりは、当初は祖国を憎むべきイギリス人から永久に解放するための手段として参戦したが、奴隷解放宣言によって自分たちが最下層になると知った時から、厭戦に転じ戦列から脱走し始めたため、本来は銃殺のところ、残忍な苦痛と屈辱を組み合わせた刑罰が与えられた。最も残忍だったのは焼き印を押されることで、「D」の刻印な永久に残った

マイナーの上官が、戦争の過酷さを教える最善の方法として、刻印の焼き付けを命じる

マイナーは、医者の義務と責任を誓うヒポクラテスの誓詞の下で一瞬躊躇いながらもアイルランド人の脱走兵に焼き鏝を当てたために、一生恨みを買うと確信する

1915年年老いてワシントンDCでジャーナリストのインタビューに応じ初めて新たな事の真相を明かす

南北戦争後、マイナーのように臨時で戦争の医療要員として契約した者の大半は軍隊から姿を消したが、マイナーは正式に軍隊に入り、仕事ぶりが認められて66年大尉に昇進

その頃から妄想症の初期症状が出始め、軍のリボルバーを違法に携行するようになる

同時に、マンハッタンで毎夜女と関係し、常軌を逸した行動を不審がった軍上層部はフロリダの僻地に降格異動させるが、被害妄想が始まり68年には「モノマニー」という精神疾患が明らかになって、ワシントンDCの軍人用の幽閉施設に入る

1871年、症状は改善されないまま、「職務遂行中に生じた原因によって完全に能力を奪われた」として退役、生涯合衆国の保護を受ける身になった。その秋単身ロンドンに向かう

 

4.    大地の娘たちを集める

Seaquipedalian (形容詞)多くの音節の、(名詞)身長が1フィート半の人間

1857年、ロンドン図書館にあった言語協会では、英語の普及によってプロテスタントが世界に広まれば、英国国教会が優位に立った形でローマ・カトリックと再統合できるのではないかという野望から、辞書の編纂を提案

それまでは、現在の形式の辞書はなく、用語や使用法の正誤・適否をチェックする方法が存在していなかった。「何かを調べる」という言い回しが英語で使われたのは1692年が初めてで、シェ―クスピアの語彙が明らかに奇異なのもそうした背景からで、当時存在した『シソーラス』を頻繁に利用したようだが、その誤りがそのまま戯曲に出てくる

1225年にはラテン語を集めた辞書が存在、1538年には羅英辞典がロンドンで出版され、dictionaryという英語を使った最初の書物となる

芝居で使われた難解な言葉を明らかにするために「辞典がいる」との台詞に想を得て、1604年初めての『単語集』が出る。収録語数はおよそ2500。目的は貴婦人や淑女など、難解語に不慣れな人々の便宜を図ることで、これを契機に英語辞典が凄まじい勢いで出版される

英仏伊では、自分たちの言語の遺産を守るうえで先んじていた。それぞれの言語をよい状態に保つための機関を制定していた

そこに登場したのがサミュエル・ジョンソン。教師から三文文士になっていたが、文壇の巨匠たちの不満に応えて、英単語を「固定」しようとする。英語の質の悪化を防ぐために、英語の制限を定め、語彙の目録を作って体系化し、「英語とは何かを厳密に決める」

スペルや発音に至るまで、当時の科学が様々な基準を定めていたのと同じことをする

例を挙げて語義を説明し、多様で微妙な意味の相違を、文字グループの単純な配列によって具体的に示したのがジョンソンの業績。150年間の英語の文献を参照、すべての単語のあらゆる用法を網羅

1750年に収集を終え、43500の見出し語に118千語の用例を選択

1755年、オックスフォード大から文学修士を取得して、出版に漕ぎ着ける。以後4版を重ね、100年間にわたって規範であり続け、英語の宝庫として最高の地位を占める

賛否両論、非難と賛辞が交錯したが、偉業であることは間違いないが、あくまで辞典の中の言葉に定義された実体こそが記念碑だったとして、彼は謙虚に序文で以下のように語る。「言葉が大地の娘であり、ものが天の息子であることを忘れるほど、辞典編纂の道に迷ってはいない」。彼の生涯はその娘たちを集めることに捧げられたが、娘をつくることを命じたのは天だったのだ

 

5.    大辞典の計画

Elephant 4-6(14世紀から16世紀の意)olyfaunte、究極的な語源については、実際には何もわかっていない。インドが起源だとする説もあるが、ギリシャ語がホメロスとヘシオドスの作品にみられる

1100年以前 原皮動物に属する巨大な四つ足動物

1875年、新しい辞典の編纂が提案され、それまでジョンソン以後の100年間の数々の偉業が霞むほど、あらゆる言葉、あらゆるニュアンス、意味や綴りや発音のあらゆる微妙な相違、語源のあらゆる変化を明らかにし、あらゆる英語文献から可能な限りの用例を引くことを目指し、70年かかって大辞典の完成に到達。そのスタートが1857年の提案

提案したのはウェストミンスター聖堂参事会長のリチャード・シェネヴィクス・トレンチで、のちにダブリン大主教も務め、1886年死亡した時は公式に「聖人」と称された

あくまで「言語の目録」であって、正しい用法を教えるための手引書ではない。編纂者は歴史家であって批評家ではない。言語の採録に当たって編纂者の恣意が入ってはならず、標準言語の中で一定期間使われているすべての言葉の記録であるべき

初めて使用された時を示し、意味の変遷を示す文を載せ、世間の風潮に従って言葉の意味・使用法が変化することを記録に残すものでなくてはならない

新しい辞典の編纂が実際に開始されたのは22年後。その前に既存の辞書に載っていない単語の全てを収録した補遺の作成が進められたものの、あまりの量の膨大さに熱意が冷め、言語協会は58年初に全く新しい辞典をつくることを正式に決定。篤志文献閲読者を募集、1250年からティンダル訳の新約聖書が出た1526年まで、それからミルトンが死んだ1674年まで、そしてそれ以降の3期のいずれかを選ばせた。その3期にはそれぞれの時代に英語の発展における異なる傾向がみられると考えられていた

発足時の仮題は『歴史的原理に基づく新英語辞典』、第1巻の出版を2年後と見積もったが、当初10万枚と見積もられた篤志家からの単語カードは600万を超え、初代編纂主幹コールリッジが早逝したこともあって作業は次第に行き詰まり、ファーニヴァルが後を継いだが、1869年ロンドンのパブリック・スクールの教師だったマレーが言語協会に入った当時は計画未達の懸念が報じられていた

1878年、マレーは言語協会の代表、編纂主幹として、オックスフォード出版局の理事会で構想を説明、高度な学問のレベルを誇り財力も豊かな出版局からの種々の注文を乗り越えて、79年出版に正式合意

合意を受けてマレーは、新たに英米及び英領植民地における文献閲読者の協力を求め、巡り巡ってブロードムア刑事犯精神病院にも運ばれ、独房の別室が書籍で埋まるほど書物が第二の人生になっていたマイナーが眼にして応募の手紙を書く。普通の住所が記されているだけで、外部の誰かがasylum(収容施設)という言葉を知っていたとしても、当時の唯一の定義は無害の説明で、「そこに逃げ込んだ者が捕らえられないところ」となっていて、ジョンソンによれば「聖域、避難所」に過ぎず、誰かが詳しく調べない限り、ヴィクトリア朝という過酷な時代のイギリスでもっと深い不吉な意味が集まりつつあったことは分からなかった

 

6.    2独房棟の学者

Bedlam ロンドンノベスレヘム・セント・メアリー精神病院。1247年小修道院として設立、母教会の主教などが訪英した時に歓待する役割を担っていた。1330年「病院」と呼ばれる

1872年、マイナーはブロードムア入所。ベスレヘム・セント・メアリー病院(精神病院の語源)が満杯だったために、9年前に建てられたばかりの同様の施設に収容

犯罪者の精神異常を認定する法律は1800年成立。現在は患者であり、特別病院と呼ばれるが、当時の収容者は精神異常者であると同時に犯罪者であり、収容施設で監禁された

自殺の恐れもなく暴力的でもなかったことに加え、退役軍人で、生まれがよく、高度な教育を受け、収入もあったために「独身貴族病棟」と呼ばれる2室の独房が与えられた

本国から蔵書を送ってもらうと同時に、米国年金を利用して新旧の書籍を発注、書棚を自費で備え付け格納した。読書と絵を描くことが日常となる

最初の10年で病状は悪化、被害妄想が進んだが、78年頃から自分の行為を悔やみ償いを決意、被害者の未亡人に手紙を書くと未亡人は前例のないことに殺人犯に面会を申し出、以後定期的に面会することになり、殺人犯に関心と同情を寄せたのみならず更にはマイナーからの頼みでロンドンの古本屋から本を買ってくることに同意

未亡人の配達は気まぐれから2,3か月で終わったが、その間1880年代初めに本の中にマレーの篤志家募集の「訴え」を見つけ応募してマレーに受け入れられる

 

7.    単語リストに着手する

Catchword 書籍の各ページの右上の欄外に記した次ページの最初の語(現在は滅多に使わない); 注意を引くように記された語

マレーからの細かい指示の書かれた手紙は、マイナーに、自分がそれまでよりも許され、理解され、社会の一員になりたいと望んでいながら遠ざけられていた状況から、再び社会に受け入れられたように思われ、学問という陽の当たる高台に引き戻されたと感じ、同時に自尊心を取り戻し始める。自信を回復し、心の安らぎさえも取り戻したかのよう

マイナーは仕事の内容に秘めた大きな価値を正しく認識し、マレーの方針に心服

便箋を半分にした用紙を使用、左上に対象となる言葉「見出し語catchword」を書き、用例文の書かれた年、著者名、図書名、ページ、最後に用例の全文を記入

あらゆる語が見出し語になり、出来るだけたくさんの用例が求められた

以後20年にわたって、マイナーは自分の蔵書を妄想の中の侵入者から守り、自分の本と、そこに書いてあること、その中の言葉の世界に没頭し、頭脳を酷使すること以外ブロードムアですることはなくなった

マイナーは、マレーの指示を適切に理解し、どうすればよりよく貢献できるかを考え、自らのやり方に従って、自らの蔵書から単語と用例を抽出する作業を開始、単語リストと索引を作成し、最初から索引を想定してメモのスペースを決め、その隙間を埋めていった。それによって編纂者から必要な見出し語を尋ねられたらすぐに用例文を送ることができるようになっていた。編纂室の作業の進捗に合わせるように、マイナーの手元の索引も増やしていく。編纂室では、膨大な単語カードを調べるよりも、掲載する語を決め、マイナーに手紙で要求すれば適切な結果が得られるようになって作業が急速に捗った

この方法で取り組んだ最初の語はartで、1885年夏出版予定の第2分冊に入れる言葉だった

 

8.    さまざまな言葉をめぐって

Poor 物質的所有物をほとんど、あるいはまったく持っていないこと; 通常イギリスの多くの地域では知人だった故人を指す; =故、亡

初めてマイナーからのカードがマレーに送られてきたのは1885年春

マレーは最初の数年間、膨大な作業と遅々とした進捗状況に、何度もやめようと思った。出版局もカネは出さずに口だけ出す。84年初出版局に強要され、収入目的で第1文冊を出版、AからAntまでの既知のあらゆる英単語が収録されていた

楽観的になったマレーは、最終分冊を11年後に出版すると自信を仄めかしたが、実際にはあと44年を要した

最初の語は、廃語の名詞aa、水の流れを意味する言葉で、4世紀前に小川の名前として用いられていた

マレーは教師を辞めて家族ともどもオックスフォードに移住、裏庭に写字室という作業用の掘立小屋を建てて作業を進める

言葉を定義するには、精密かつ特殊な技術が必要。定義には規則があり、単語(名詞)はまずそれが属するものの種類(哺乳動物、四つ足動物など)によって定義し、次にその種類の他のメンバーと区別する(ウシ属、雌など)。定義の中には、定義される語よりも難解な語や知られていない語は含まれないようにする。定義ではそれが何かを言い、何でないかは言ってはならない。1つの語に意味の幅がある場合はそれを明らかにする(cowの意味の幅は広いがcower(縮こまる)は本質的に1つの意味しかない)。定義の中の全ての語が、その辞典のどこかに載っていなければならず、辞典の中で見つけられない言葉に読者が出くわすようなことがあってはならない。さらに、簡潔さと正確さの両立という必要を満たすこと

書体はクラレンドンかオールドスタイルの活字書体

出版社は毎年2分冊600ページの辞典を完成させ出版するよう要求、マレーも毎日33語の完成を目指すが、困難を極め、マレーも仕事の困難さを訴えていた

マレーがartという語に困り果てブロードムアに初めて正式な要請の手紙を送ったのは1884年の春ごろ。既に16の微妙に異なる意味が明らかにされているが、さらなる用例を求めて発進したところ、18通の手紙が戻ってきたが、マイナから来た返事には27もの用例が同封されて、知識と調査に役立つ深い泉を有する人物として強く印象付けられた

以後マレーとマイナーの関係が継続し30年間続くことになるが、会うまでにはまだ7年の歳月を要し、その間マイナーは毎週100枚を優に超えるカードを送り続ける

マレーは、マイナーのことを「単に文学好きで暇に恵まれた開業医」くらいにしか思っていなかったが、ある時マイナーが仕事をしたがっているのが現在作業が進行中の語についてであることに気付き、明らかに自分もチームの一員として写字員と協力して仕事をしていると感じられることを望んでいるように感じる

仕事に応募したとき一時的に改善したと見えたマイナーの症状はさらに悪化

最初の完本である第1A-Bが完成したのは1888年。その序文の中に敬意を表す1行があり、簡潔に、そして節度を持って「クローソンのマイナー博士」と記された

時が経つにつれ、マレーはマイナーが近くにいながら作業の現場を訪ねてこようともしないことを不審に思ってマイナーの正体について深く考え込むようになったある日、1889年にハーヴァード大の図書館長の学者がマレーの写字室に現れ、「不幸なマイナー博士に良くしてあげていることをアメリカ人が喜んでいる」と言ったことから謎が解けることに

 

9.    知性の出会い

Dénouement フランス語。解決; 特に劇や小説などの筋における複雑な状態を最終的に解決すること; 大団円; 転じて、複雑な問題や困難や謎の最終的な解決または決着

1897年大辞典祝賀晩餐会にマイナーも招待されたが欠席。それは近代の文献史にまつわる物語の中でマイナーの生涯を取り巻く最も不可解な謎となっている

漸く編纂作業が軌道に乗り始め、1896年には、いらだたしほど沢山あるCの項(とりわけG,K,Sと入れ替わることがしばしばあるために編纂者は曖昧さや複雑さに悩まされた)すべてを収録した第3巻を女王に献上する栄誉を得て、オックスフォードは祝賀ムードで盛り上がり、編纂を続けることを決意し、飛び切りの晩餐会を用意してマレーを称えた

篤志家についても称賛されたが、特に2人のアメリカ人に言及。2人は多くの共通点があり、共に当日は欠席。ともに軍人でインドで過ごしたことがあり精神異常。1人はニューヨーク州出身のホール博士。放浪していた弟を上がすためにカルカッタに向かい、乗った船が難破、現地でサンスクリット語に出会ってその後ロンドンのキングス・カレッジで教えるまでになるが、急激に人生が崩壊、学者仲間との非道い喧嘩をして以降世捨て人の生活を送る。それでもマレーには毎日手紙を書き辞典編纂作業を支え忠実な協力者だった

マレーは、ホールに次いでマイナーを称賛したが欠席で、文献史の栄誉ある節目における唯一の汚点と感じた人もいた

マレーはマイナーの欠席の謎解きもあって自分から出向こうとし、文通開始後17年経って漸く面談が実現したというのは、1915年に発表されたアメリカ人ジャーナリストの作り話。アメリカ軍人がロンドンで殺人を犯して逮捕されたという話はアメリカ中でも評判だったが、英語辞典のために仕事をしたというのはその時初めて明らかにされた

マレーは、マイナーの住所から精神病院であることは知っていて、病院の医師くらいに思っていたが、ハーヴァード大図書館長の訪問で恐ろしい話を聞くことに

1891年には2人の面談が実現していた。最初の出会いによって長く揺るぎない友情が始まり、共有する言葉への熱烈な愛情に基づき以後20年近くの間定期的に会うことになる

マイナーの症状はさらに進行し、最後はアメリカの家族の下で過ごさせようと解放の嘆願も出されたが、厳格な病院長によって無視され、ますます意気消沈した中で事件が起こる

 

10. このうえなく残酷な切り傷

Masturbate 語源不明; 男根+turba乱すこと、からつくられた; 自慰をすること

1902年、自らのペニスを切断。一旦棄教したマイナーがキリスト教徒として確固たる信仰を持つマレーの影響で再び神を信じ始めたが、神の厳格な倫理で自分を裁き始め、自らを堕落した人間として、特に異常に強い性欲を嫌悪、断ち切るためにペニスの切断を決意

一命はとりとめたが、衰弱は増し、辞書の仕事も全くしなくなり、さらに1910年には事故の恐れがあるとして収容所での特権がすべて取り上げられ、医務室に移らされた

1908年、マレー博士はナイト爵を授けられ、夫妻でその扱いを非難、マイナーの実弟ともども米国送還を働きかけ、内務大臣のチャーチルの許諾を得て1910年ワシントンDCのセント・エリザベス連邦病院(後に国立精神病院と改称)に移す。チャーチルは、母親がアメリカ人だったこともあるのか、生来アメリカ人に同情的なことがやがて有名になる

38年ぶりにマイナーは、それまでに完成した6巻のOEDを持って病院を出、波止場で弟の保護下に移され無事にワシントンに到着し病院に入る

 

11. そして不朽の名作だけが残った

Diagnosis 動作名詞。識別する、見分ける; (医学で)病状の確認; 症状と経過を入念に調べて病気を識別すること

大辞典の関係者の中で最初に他界したのは第2代編纂主幹のファーニヴァル。マイナーが移送された直後のことで大腸癌だった

マレーも、記念碑的なスケールになるTの項に5(190813)の歳月をかけて終えた時、楽観的に4年後の自らの80歳の誕生日に完成すると見通しを表明したが、4年後の完成も80まで生きることもなかった。15年春に前立腺を病みX線照射で衰弱、Turndownまでいったところで夏には肋膜炎を併発して逝去

マイナーは、日毎悪化していく症状に耐え、人を殴るようになったが力がなく、無害と見做され、1918年漸くつけられた病名が「妄想型早発性痴呆」で、「モノマニー」や「パラノイア」に代わる現代精神医学で受け入れられるものとなる。精神異常者を「道徳的に治療」するという成果の怪しい方針から解放された

肉体的な原因ではなく、心因性の病気と呼ばれ、伝統的な治療法である隔離が適用された

マイナーの蔵書は、ブロードムアからマレーの写字室に送られ、サー・ジェームズが死んだとき彼の所有物になっていたすべての本をレディー・マレーに提供、いずれボドリー図書館に贈られることを望んでいたが、その通り今日も「マイナー博士よりレディー・マレーを通して」寄贈とされたと記されて図書館に収まっている

老衰と痴呆が進み、甥からの申請で軍が解放を許可、地元コネチカットの老人精神病院に移され、1920年風邪からの気管支炎併発で他界、享年859カ月。一族の埋葬地に眠る

OEDはさらに8年を要し、1927年大晦日に完成が宣言された

Zyxt(動詞to seeの単数直接法現在時制で暗語)を最後に完成。全12巻、414,825の見出し語、1,827,306の用例、凸版で作られたためすべて手組の活字の全長は178マイル、句読点やスペースを除き227,779,589もの文字と数字が印刷

1つだけ欠落した単語がbondmaid(無給で働かされる女)で、ジョンソンの辞典には収録、マレーが紛失して見つかった時には該当の分冊が出版されていたために、分冊と本巻の編纂に費やされた44年間に進化したり新たに出現したりした語とともに補遺に収録され1933年に出版.さらに4冊の補遺が197286年に出版

1989年、コンピュータを利用し、完全に統合された第2版を出版、補遺を合冊して全20巻。70年代には縮刷版も出版、拡大鏡付き。その後CD-ROM登場、更にオンラインでの利用が始まる。第3版も莫大な予算で着手

 

あとがき

Memorial 人やものの思い出を保存すること; 人やものや出来事の記憶が保存されているもの

この物語のアメリカ陸軍軍人は、世界で最も偉大な辞書の編纂に関与し、人の記憶に残るべき賞賛に値する比類なき貢献をしたが、それは不幸で傷ましい貢献でもあった

マイナーの被害者は、ロンドンの中でも最も荒れ果てた過酷で貧しい地域に住み、殺害されたことでかえって事態は悲惨にも悪化。殺害に伴い未亡人と遺児を助けるために基金が設立され、アメリカ人は勿論のこと多くの人が協力

被害者は、慈善友愛組合フォレスター会の会員で、フォレスター会が中心になって盛大な葬儀が挙行される

未亡人は、マイナーの謝罪を受け入れ、しばらくブロードムアを訪問さえしていたが、本当に立ち直ったのではなく、間もなく飲酒に耽り、肝臓の機能不全で死去

息子たちも自殺などで死んでいく

最も悲劇的な人物は被害者本人で、記憶に値するものは何も残っていない。だからこそ、ここに控えめに記述。本書が被害者への小さな証として書かれたのもそのため。被害者の不幸な死がなければ、これらの出来事は決して起こらず、この物語も語ることができなかった

 

著者の覚書

ll(十分に英語化していないことを示す) Coda (音楽で)楽章の重要な部分が終わった後に導入される大体独立した特徴を持つ楽節、曲の完了を一層明確かつ満足なものにするために導入する

私が辞典そのものに初めて関心を持ったのは、1980年代の初めにオックスフォードに住んでいた時で、OEDの印刷に使われた金属プレートの凸版の印刷版を見た

デジタル化によって不要となったもの。今でも手元に置いてある

 

謝辞

Acknowledgment 認めること; 白状すること; 贈り物や便宜を受けたと認めること

 

訳者あとがき

本書は1998年アメリカで出版され、ベストセラー(『ニューヨーク・タイムズ』で24)

OED編纂の歴史を新たな視点から描いたもの

一見して共通点のない2人の主人公の人生がどのようにして重なり合っていくのか。それはとりもなおさずOED編纂の歴史を語ることにもなる

マレーの人生とOEDの編纂史については、マレーの孫娘エリザベス・マレーが『言葉への情熱』に詳しく語っているが、本書の著者はマイナーという1人の篤志文献閲読者に着目、その数奇な人生を綿密な取材で辿ることにより、OEDの編纂史にも、マレーの人物像にも新たな視点を提供する作品を描き上げた

3版の刊行は2010年の予定。原書出版直後にフランスの映画監督リュック・ベッソンが映画化の権利を取得し、メル・ギブソン主演の予定で話が進められている

 

 

 

 

 

(天声人語)辞書を編む

20201023 500分 朝日

 予備知識なく映画を見て、意外な展開に引き込まれることがある。最近では公開中の「博士と狂人」がまさにそれ。辞書界の最高峰オックスフォード英語大辞典(OED)誕生の陰に、編纂者と殺人犯の友情があったと知った「英語辞書の研究者以外にはあまり知られていない話かもしれません」と広島大教授の井上永幸(ながゆき)さん(60)。19世紀、南北戦争で心を病んだ米軍医が、英国内で射殺事件を起こす。収監先の病院で、画期的な辞書作りが始まったと知って深く共鳴。一心に単語の用例を集め、編纂室に送り届けたOEDは言葉の誕生から成長、消滅までを追う壮大な試み。古典や名著からの用例探しは困難の連続で、1928年の第1版(全10巻)刊行まで70年を要した。編纂を率いた博士は完成を見ずに亡くなる「人体にたとえれば語意は心臓、用例は血液。用法が豊かなほど、辞書に血が通います」。そう語る井上さんは学生時代、アルバイトで14万円を貯め、念願のOEDを手に入れた。自身が編纂した英和辞典でも6年半を要したという思い出すのは、三浦しをんさんの小説『舟を編む』の場面。「あの世があるならあの世で用例採集するつもりです」。辞書編纂の途上で亡くなった言語学者がそんな手紙を残したこちら日々のニュースに追われて右往左往するばかりで、一事に何十年も腰をすえて取り組む醍醐味を知らない。生きて完成を見届けられぬ仕事でも、人は全身全霊を注ぐことができるものと学んだ。

 

 

博士と狂人

劇場公開日 20201016

解説

初版の発行まで70年を費やし、世界最高峰と称される「オックスフォード英語大辞典」の誕生秘話を、メル・ギブソンとショーン・ペンの初共演で映画化。原作は、全米でベストセラーとなったノンフィクション「博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話」。貧しい家庭に生まれ、学士号を持たない異端の学者マレー。エリートでありながら、精神を病んだアメリカ人の元軍医で殺人犯のマイナー。2人の天才は、辞典作りという壮大なロマンを共有し、固い絆で結ばれていく。しかし、犯罪者が大英帝国の威信をかけた辞典作りに協力していることが明るみとなり、時の内務大臣ウィンストン・チャーチルや王室をも巻き込んだ事態へと発展してしまう。マレー博士役をギブソン、マイナー役をペンがそれぞれ演じるほか、ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」のナタリー・ドーマー、「おみおくりの作法」のエディ・マーサンらが脇を固める。

2019年製作/124分/G/イギリス・アイルランド・フランス・アイスランド合作
原題:The Professor and the Madman
配給:ポニーキャニオン

監督 PB・シェムラン

 

あらすじ

貧しい家に生まれ学士号を持たない学者マレーと、エリートながら精神を病んだアメリカ人の元軍医マイナー。辞典づくりという壮大なロマンを共有し、異端の天才たちふたりは固い絆で結ばれていく。だが、大英帝国の威信をかけた一大事業に犯罪者が協力していることが明るみになるとプロジェクトは暗礁に乗り上げ、ついには、時の内務大臣ウィンストン・チャーチルや王室をも巻き込んでいくことになるのだが――

 

 

Wikipedia

『博士と狂人』(原題:The Professor and the Madman)は、2019制作のアメリカ合衆国ドラマ映画

世界最大の英語辞典オックスフォード英語辞典」誕生に隠された真実の物語を描く。全米で大反響を呼んだサイモン・ウィンチェスター原作のノンフィクション「博士と狂人世界最高の辞書 OEDの誕生秘話」の映画化。メル・ギブソンショーン・ペンが初共演[3][4]

 

 

Wikipedia

オックスフォード英語辞典 (Oxford English Dictionary) は、オックスフォード大学出版局が刊行する記述的英語辞典である[2]。略称はOED。オックスフォード英語大辞典とも呼ばれる。世界中の多様な英語の用法を記述するだけでなく、英語の歴史的発展をも辿っており、学者や学術研究者に対して包括的な情報源を提供している[3][4]

l  概要[編集]

2015年現在の最新版である第2 (1989年刊行) は本体20 (累計21,730) と補遺3 (累計1,022) から構成され、主要な見出し語数は291,500、定義または図説のある小見出し語やその他の項目を含めると615,100。そのうち発音を記載した項目は139,900、語源を記載した項目は219,800、用例の引用を記載した項目は2,436,600である[5]ボランティア方式により、多くの用法、意味などの収集に成功した。

この辞典は古今東西の英語の文献に現れたすべての語彙について、語形とその変化・語源・文献初出年代・文献上の用例の列挙・厳密な語義区分とその変化に関する最も包括的な記述を行うことをその特長とする。ギネス・ワールド・レコーズによれば、約600,000語を収録するオックスフォード英語辞典は世界で最も包括的な単一の言語による辞書刊行物である[6]

Open Directory Projectは、World Wide Web上のウェブディレクトリの分野で、この方法を踏襲している。

l  編纂・発行史[編集]

1857言語学協会によって編纂が開始される[7](pp103–4,112)

1884、未製本の分冊版が発行され始める。それ以降も A New English Dictionary on Historical Principles; Founded Mainly on the Materials Collected by The Philological Society (NED) の名の下に編纂事業は継続された[8](p169)

1895The Oxford English Dictionary (OED) の表題が最初に使用された合冊版が非公式に発行される[9]

1928、全10巻に製本された完全版が再発行される。

193312冊の分冊と1冊の補遺版として増刷された際、辞典の表題がすべてThe Oxford English Dictionary (OED) に置き換えられる[9]。以後も第2版刊行まで補遺を重ねた[9]

1988、最初の電子版が製作され、利用可能となる。

1989、全20巻から成る第2版が刊行される。

2000オンライン版が利用可能となる。20144月時点で、一か月に200万件を超えるアクセス数があった。

同年、第3版の編纂が開始される。2014年現在までに全工程のおよそ3分の1が完了している。第3版はおそらく電子媒体でのみ発行されるとみられている。オックスフォード大学出版局の最高経営責任者であるナイジェル・ポートウッドは、書籍印刷版について「たぶん出版されないだろう」と述べている[10][11]

l  歴史的性格[編集]

歴史的な辞書としてOEDは、単に単語の現在の用法を示すのではなく、むしろそれらの歴史的発展を示すことにより、単語を説明している[12]。それゆえに、すでに使われなくなった単語の意味も含めて、単語の意味の使われ始めた順に定義を示している。各定義は多くの短い用例や引用とともに示されている。個別にみると、最初の引用は、編集者らが知っている中で、その単語に関する最初に記録された例を示している。現在の用法にはない単語や意味の実例においては、最後の引用が、最後に知られ記録された用法であることを示している。これにより、読者は現在使われている特定の単語のおおよその時代的感覚を知ることができる。そして、追加的な引用により、辞書編集者が提供できるどんな説明よりも、その単語が文脈の中でどのように使われているかについての情報を読者が確かめることを助けている。

OEDの項目の形式は、他の多くの辞書編集事業に影響を与えた。グリム兄弟の『Deutsches Wörterbuch英語版)』の初期の巻のようなOEDに対する先駆者は、当初限られた数の情報源からしか引用を提供していなかった。OEDの編集者らが、広範な作家や出版物などの選集からのかなり短い引用のより大きなグループを好んで選んだことは、『Deutsches Wörterbuch』の後の巻や他の辞書編集法に影響を与えた[13]

l  項目数と相対的大きさ[編集]

出版者らによれば、OED2版の解説本文を含めた5900万に及ぶ単語を一人の人間がすべてキー入力するのには120年、さらに校正するのに60年かかるという。また、電子データ化して保存しようとすると540メガバイトの容量が必要になる[14]20051130日時点で、オックスフォード英語辞典には、約301,100の主項目が収録されている。これらを補う形で、さらに157,000の太字で示された複合語や派生語[15]169,000の斜字体で示された句や複合語[16] 全部で616,500の語形、137,000発音249,300語源577,000の相互参照(クロスリファレンス)、および2,412,400の語法・引用が記されている。OEDの最新かつ完全な印刷版である第2版(1989年発行)は、全20巻で印刷され、21,730ページに291,500の項目から構成されている。OED2版で最も記述部の長い項目は、動詞としてのsetで、430の意味を記述するのに60,000語を要している。OED3版に向けて、各項目はMから順に改訂され始めたことで、最も多くの紙面を要する項目(単語)は変遷しており、2000年にはmakeに、2007年にはputに、そして2011年にはrunになった[17][18][19]

その印象的なサイズにもかかわらず、OEDは世界最大の辞典でも世界で最も早くに網羅的に作られた言語の辞典でもない。OEDと似たような目的をもつオランダの『Woordenboek der Nederlandsche Taal英語版)』が世界最大で、完成するのにOED2倍以上の時間がかかっている。このほかの初期の大型辞典は、グリム兄弟の『Deutsches Wörterbuch』で、1838に編纂が始まり、1961に完成した。近代のヨーロッパ言語に捧げられた最初の大辞典である『Vocabolario della Cruscaイタリア語版)』の初版は、1612に発行された。『Dictionnaire de l'Académie française』の初版は1694にまで遡る。スペイン語の公式辞典『Diccionario de la lengua española』(レアル・アカデミア・エスパニョーラにより企画・編集・出版された)の初版は、1780に出版されている。中国語の康熙字典1716に刊行されている[20]

l  他のオックスフォード英語辞書との関係[編集]

OEDの実用性と歴史的辞書としての名声は、その全てがOED自体と直接の関係にある訳ではないにせよ、多くの成果となる事業や他の「オックスフォード」と冠する辞書の数々を生み出した。

元々は1902に始まり、1933年に完成した[21]The Shorter Oxford English Dictionaryは、OEDの完成品の簡約版であり、歴史的視点を保っているが、シェイクスピアミルトンスペンサー欽定訳聖書により用いられた単語を除いては、1700年以前に廃れた単語は全く含まれていない[22]。完全な新版はOED2版から作られ、1993に出版された[23]ほか、さらなる改訂版がこれを追うように20022007に刊行された。

The Concise Oxford Dictionaryは、これとは異なる作品で、その目的は現代英語のみをカバーすることにあり、歴史的視点は取り入れていない。そのほとんどがOED1版を基に編まれた初版は、フランシス・ジョージ・ファウラー英語版)とヘンリー・ワトソン・ファウラー英語版)により編集され、主な作品が完成する前の1911に出版された[24]。いくつかの改訂版は、20世紀を通して発行され、英語の語法の変化に応じて、更新され続けている。

1998新オックスフォード英英辞典 (NODE) が出版された。NODEは現代英語をカバーする目的なのだが、OEDに基づかない編集作業が行われた。その代りに、コーパス言語学の助けを借りた全く新しい英語辞典として生み出された[25]NODEが出版されると、これに似た全く新しいConcise Oxford Dictionaryが追従し、今度はOEDよりもむしろNODEの簡略版に基づいた辞典となった。NODEは(Oxford Dictionary of English; ODEという新しい表題の下)、New Oxford American Dictionaryを含めて、現在は学問的な歴史的辞書の基礎としてのみ供されるOEDとともに、オックスフォードの現代英語辞書の生産ラインにとって主要な源泉であり続けている。

l  綴り[編集]

詳細は「オクスフォード式綴り」を参照

OEDは、見出し語を(labor, centerなどの)異なる綴りとともに、英国式綴りで表記している(例: labour, centre)。接尾辞については、イギリス英語では、より一般的に-iseと綴られるが、オックスフォード大学出版局の方針では、-izeと綴るよう、指示されている。例えば、realizerealiseglobalizationglobalisationなどである。その理論的根拠は、語源学的にこの英語の接尾辞は主にギリシャ語の接尾辞である-ιζειν, (-izein)、またはラテン語の-izāreから派生している点にある[26]-zeも時折アメリカニズムとして扱われるが、-zeの接尾辞がその単語の本来属していなかったところへ紛れ込んだ限りで、イギリス英語ではanalyse、そしてアメリカ英語ではanalyzeと、それぞれ綴られる[27][28]

 

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